ある日の夕方、男が改札を出た。 一瞬、足を止める。 駅のホールに、小学生の声が響く。 「募金お願いします」 両手で箱を抱え、頭を下げた。 小さな女の子が駆け寄り、小銭を入れた。 杖をついた老人が、財布を開いた。 車椅子の青年が、片手で車輪を回しながら、箱に手を伸ばす。 「ありがとうございます」 取材のカメラが、小学生の笑顔を映した。 男は、大きく息を吐いた。 そして、両脇に並ぶ小学生の真ん中を歩き、駅を出た。 「募金お願いします」 背中に視線を感じる。 少しずつ、声が遠くなる。 男は、街のネオンを眺めながら呟いた。 「勝った」
主要な政治家、知事などのコロナワクチン接種歴を調べてみたが正確に接種している情報は公開されていなかった。 うまく逃げたな。 やはり政治家は嘘八百である。 これを送ろう。 おまえは言った打ったと。 いつも言ってる切った張ったと。 でも国民から奪うだけだと。 正体は生きるだけの実はど素人。 大阪の通天閣に串刺しにならねえかな。
休憩時間になると、いつも非常階段に行く。 7階の踊り場で缶コーヒーと緑のマルボロを吸いながら風に当たる 街は夜の方が綺麗でクリスマスツリーの電球みたいにキラキラしている。 大学に入るために、ど田舎からこの街に引越してきて、大学に馴染めず親に内緒で辞めてしまった。 直ぐに母親から連絡があって『しばらくは帰ってこないほうがイイよ』と教えてくれた。父がカンカンらしい。そりゃそうだ。自分でも自分が嫌になる。どうしてそんなに情けない男なのかと。 母は『暫く都会をエンジョイしてきな』と気楽に言う。その感じが有難いけど どこかで女性の喘ぐ声が聞こえる バーや居酒屋、キャバクラ等が入ったこのビルは昼間でもビルの近くを通るとアルコールの匂いがしている 都会の空で輝くことを許された僅かな星空の下、どこかの階の踊り場で男女がヨロシクしているのだろう 非常階段の柵に胸を付けてキラめく街を見ながらマルボロを吸う。 Tシャツに剥がれた柵のペンキがパキパキと付いてくる 煙草の煙で吹き飛ばすが、ユラユラするだけで取れそうもない 足元の缶コーヒーを取ろうと屈むと、人の足があって思わず大声を出してしまう 白に近い金髪のウィッグをつけた女の人で、小さく細い身体 このビルに入っているお店の娘かと思ったが、タイトな赤いニットと黒い短パン姿は似つかわしくない。ガールズバーでもオープンしたっけか? 「煙草持ってる?」 偉そうに聞いてくるが、明らかに年下で愛想の一つもない。 マルボロを差し出すと「メンソールか…」と舌打ちをして渋々数本取っていく。 一本を咥えると、犬にお手をさせる仕草でこちらを見る。ライターを貸してと言う意味なのは分かるが一つ一つが癪に障る 自分も吸うついでに彼女にも火をつけてやった。 「このビルで働いてるの?」 「そうだけど」 「そこの居酒屋?」 「このTシャツが私服だったらやばいでしょ」 Tシャツに書かれた「居酒屋 わっしょい!」の字を指して言う 「バイト楽しい?」 「そっすね。店長にはよくしてもらってます」 「彼女いるの?」 「いないとまずいっすか?」 いつの間にか敬語になってる 「今、人生は楽しいのか?」 「……まぁそれなりに」 「そうか」 そう言うと彼女はマルボロの煙と共に消えていった 「えっ?あれ?」 暫くパニックでその場から動けなかった。脳がフリーズしている 気を落ち着かせようと柵に手をかけるとカチャンという音とともに柵が折れて地上に落ちてった 喘ぎ声を奏でていたカップルが驚いて悲鳴を上げる。 幸い柵が落ちた場所は人が入ってこれないビルの敷地内で誰もいなかった
柵を抜けると草刈りの終えた広場に出た 巨大な鉄塔が真ん中にあるこの広場に、人が入ってくることはほとんどない ネズミでもいないかと歩いていると 向こうの柵から知らない猫が入って来た 女だ。ミケの女の子 彼女はこちらを見ないように僕を避けて歩く 僕は彼女を目で追ったまま止まっている 彼女は僕が入って来た柵まで来て、そのまま出ていってしまった 彼女はお尻を向けたまま止まり、一瞬こちらを振り返る そしてどこかへ言ってしまった 僕は毛繕いを済ませ、ゆっくり彼女の匂いを追っていく
お昼と夕方の間の時間 川沿いのランニングロードには ジョギングする人や自転車に乗っている人、犬の散歩をする人などが行き交っていた 川に降りるコンクリートの階段に 若い男性が二人の座っている 「仕事はどうよ?」 「え?う〜ん、あんまり…だな」 二人とも就職して初めての夏、どちらかともなく連絡をして会うことになった 「あんまりってどういうことだよ」 「いや、、何かキツイ」 「板金の製造だっけ?」 「めちゃくちゃ重いしさ、その癖ミリ単位で仕上げなきゃならないし、めっちゃやり直すし」 「そうか…でも最初はそんなもんだろ」 いつの間にか蝉が鳴き止みコオロギの輪唱が始まっている 川からたぷんと返事があった 「そっちはどうなんだよ。仕事」 「ん?普通かな。まだ単純作業だし」 「物流じゃ、体きついだろ?」 「そうだよ、毎日湿布貼ってるよ。…でも、大変なのはそのくらいだね。いい人ばっかだし」 小学生の兄弟が流行りのギャグを言いながら通り過ぎる 「板金辞めようかな」 「かなり来てんじゃん」 「来てる来てる。マジ辞めたいもん」 「ヤベーな」 「…どう思う?」 「そりゃ…ちょっ待って」 友達はスマホに着信があったらしく 直ぐに電話に出る。少し会話をして直ぐに電話を切った 「ゴメン。彼女からだった」 「何だって?」 「今日は付き合った記念日らしいよ」 「らしいよって、ヤバいじゃん。会わなくていいの?」 「会いに行ってくる。わりぃな」 川の側で勢いよく生えている草たちが聞き耳を立てているように見える 友達は立ち上がり直ぐに言った 「良いと思うよ。俺は」 「何が?」 「その仕事やめて良いと思うよ。俺の親父が言ってたけど、自分に合う仕事をすれば良いんだってよ。合わなかったら、合うヤツに譲ってやって、皆が自分に合う仕事をしていれば良いんだと」 じゃあな。と手を上げて去っていく友達を見て、そうなのかもなと独り言ちする たぷんと川も返事をしている
「私、大人になんてなりたくない!」 十七歳の私は叫んだ。 「なーに言ってんの、あんたは」 お母さんは、呆れたように笑った。 あれから七十年。 私は一歳も年をとってない。 「えー、それでは。故、○○の葬儀を始めます」 七十七歳。 親友が亡くなった。 病院のベッドの上で、孫たちに囲まれた大往生だった。 親友の子供と孫と、それから私。 親友の孫たちからは「誰だこいつ」という目で見られたが、十七歳の姿をしている私は、堂々と居座った。 棺桶に眠る親友の上に、花を一輪置いた。 中学生の頃のなんとか研修で、自然公園を見に行った日。 親友が見つけていたく興奮して、「この花こそ私のパーソナルフラワーだ」なんて騒いだ花だ。 私の記憶には、今も鮮明にこびりついている。 花を置いた親友の体はしわくちゃで、どこからどうみてもおばあさんだ。 ツルツルの私の手とは大違い。 葬儀を終えると出棺され、火葬場へ。 親友の体はあっけなく燃やされて、骨となった。 骨を一本だけ受け取って、親友の家族に礼を言い、私は家へとった。 実家は、昔と同じ姿を保ち続けている。 壁が剥がれたり、ところどころ雨漏りをしたりしたので、修繕は重ねているが。 家に着くと、すぐに配送の準備をした。 両親が亡くなった時も使った、遺骨をアクセサリーにしてくれるお店に、私は親友の骨を送った。 「はー、終わった」 それが終わると、私は親友がいなくなった実感が急にわいてきて、ソファに倒れた。 十七歳の私を知る最後の一人が、これでいなくなった。 生きている元同級生も何人かいるだろうが、関わりがない以上、いないと言って差し支えない。 「結局、大人って何だったんだろう」 友達が死ぬと、いつも考えた。 私がなることのできなかった、大人という存在はどんなものなんだろうと。 いつまで経っても、酒とたばこを買う時に年齢確認され、ナンパもぶつかりおじさんもなくならない。 閉経もしないから、月のものもなくならない。 生娘だけは卒業した、ただの糞餓鬼。 「大人になりたいなあ」 寂しい時は、ふとそんな願望を口ずさんでしまう。 あの日かかった呪いを解くための、呪文のように。 しかし、時計は止まらないし、私が十七歳なのも変わらない。 「私って死ねるのかな」 大人にならない私に、寿命はあるのか。 いつもの恐怖に襲われたので、私は寿命を縮める酒に手を伸ばした。
「ち、ちくしょう! 女神のやつ……殺してや……ぎゃああああああ!?」 また一人、異世界転生者が死んだ。 それも、転生させた直後も直後。 異世界最弱に近い、四つ足の魔物によって。 「はあー。なんでこうなるかなあ」 私は、その期待はずれさに呆れていた。 ちゃんと、チート能力を与えていた。 反撃すれば、拳一発で倒せる魔物だ。 でも、最近の転生者たちは、反撃さえしない。 驚いて、腰を抜かして、泣きべそをかいて、噛みつかれて、恨み言を言いながら食われて死ぬ。 いくらチート能力を与えていても、一方的に攻撃を受け続ければ、そりゃあ死んじゃう。 当たり前だ。 「次、探さないとなあ」 私は壁にかけた鏡に触れて、世界の一つを映す。 世界の住民の頭の中を覗きこんで、その住民の覚悟を確認する。 『あーあ。俺がもし異世界転生したら、こうやって、ああやって、大活躍してやるのに』 「見つけた」 今日もまた、次の転生候補を見つける。 正直、先日死んだ転生者と同じようなことを言っているから不安は残るが、仕方ない。 こうしている間にも、異世界の危機は迫っている。 一万人送り込んで、一人でもチートを使いこなしてくれれば採算は合う。 「ねえ、貴方。異世界に興味はない?」 私が鏡に話しかけると、鏡の中から声にならないはしゃぎ声が聞こえてきた。
久しぶりにある友人に会う。大学に知り合った彼は、在学中に「世界を変える」とか言い始めて、得体の知らない事業を始めた。詐欺まがいなことに手を出したと思いこちらから連絡をかけることがなくなった。 そんな彼から急にメールが来た。ねずみ講だと思った。怪しいと感じた僕は彼の名前で検索してみると驚くことに事業は成功していて、若手有望社長として名を挙げていた。どうして僕に会いたがっているかは分からなかったが、会う恐怖感よりも関心が勝ってしまった。 通っていた大学の近くのカフェで待ち合わせ。ついに彼が来た。見た目はまさに若手社長といったオフィスカジュアルを着こなした好青年だった。もはや一周回って怪しい。左手を見ると薬指に指輪をはめていた。 「久しぶり。」 「おお!久しぶり!」 「忙しくなかったの?」 「なんで忙しいって知ってんの?」 冗談っぽく彼が言う。 「なんで今更僕に会おうって。嬉しいけど」 「ここまで人生上手くいくと、ビジネス抜きでしゃべれる友達がいないの。」 「僕も狙ってるかもよ」 「狙ってるやつはそんなこと言わん。」 すこし僕を信頼してみるみたいで嬉しかった。 そこから僕たちは自分の心境を共有しあった。 彼が僕の年収の何倍もあること。自分の好きだったアイドルと結婚できたこと。今は都内のマイホームの購入を検討していること。正直僕と人生が五段階くらいの差があった。しかし、そんな彼は僕を馬鹿にしなかった。あくまでも個人として尊重してくれた。純粋にこの人のことを知りたいと思った。そこで僕は彼に心理テストを仕掛けることにした。 「The Alligator River storyって知ってる?」 「なにそれ」 「社長だったら、知ってた方がいいかもよ。たまに面接とかでもやるらしい心理テスト。」 「なになに。出してみてよ。」 「あるところに5人がいます。 恋人に会いたくて川を渡りたいAさん。しかし、Aさんの恋人のBさんは川の向こうにいるが、『自力で来て』と言う。そこで船頭のCさんに頼むと、お金を払えば船を出すと言う。お金がなかったAさんは別の船頭のDさんに頼むと『一晩一緒に過ごすならお金をあげる』と言う。条件が飲めないAさんは友達のEさんに助けを求められるが断る。 Aは悩んだ末、Dの条件を受け入れてお金を手に入れ、Cの船で川を渡る。 でもBは事情を知るとAを追い返してしまう。 ここで質問。この5人の中で、一番ムカつくのは誰?」 「ひどい話だなぁ。」 彼は無表情で答える。何を思っているか予想できない。 「俺は全員にムカつくね。Aは他人に頼りすぎ。Bは共感能力に欠ける。Cは資本に囚われすぎ。Dは肉欲にこだわりすぎ。Eは無償の奉仕が生む価値を知らないところが嫌い。」 彼は淡々と答えた。 「これがなんなの?」 「…君には向上心があるね。」 「違う。」 彼はコーヒーを飲む。 「満足したらやめるだけだよ。それにしてもコーヒーを飲むと喉が渇くね。」
私は臨終医、仕事は単純だ。 静かな部屋に入り、相手を見て、時刻を告げる。 「御臨終です」 家族が泣きながら遺体にすがる。 そこに、家族に寄り添う気持ちなど必要ない。 それで、終わり。 父も医者だった。 臨終医になろうとしたが、なれなかった。 枠は少なく、選ばれたのは別の人間だった。 それでも父は言った。 「いい仕事だぞ」 理由は語らなかったが、その声が妙に耳に残った。 私は名門の医学部を出て、海外にも行き、博士号も取った。 回り道は多かったが、今はここにいる。 だからこそ、この一言は完璧でなくてはならない。 私は週に一度、ボイストレーナーに通っている。 発声練習の合間、鏡の前で無表情を確認する。 一度だけミスをしたことがある。 ペンライトを忘れた。 とっさに胸元の万年筆を取り出し、目の上で上下左右に振った。 近くにいた看護師も気づかなかっただろう。 最近、臨終医をモデルにしたドラマが放送され、志望する医学生が増えたらしい。 彼らは「御臨終です」の後に何か一言つけたがる。 私は何も言わない。 それが美学だ。 ある日、私は突然めまいがして倒れた。 目を開けると、ベッドの横で、若い臨終医が立っている。 「御臨終です。ご主人様は良い人生だったのでしょう。安らかな表情をされています」 私は思った。 まだ若いな──だが、悪くない。
「あ、お客様! 財布忘れてますよ」 僕は客が置いていった、高そうな長財布を持って急いで出入口に向かった。店を出る直前だった、細身で長身の、何となくやつれた顔の男が振り返る。 「ああ……。それ、もう要らないんですよ。よかったら貰ってください」 「は……? いや、そういうわけには……」 僕の言葉も聞かずに、男は店を出ていった。慌てて追いかけると、その男は普通の足取りで至極当然のように車道へと踏み入り、 「え」 走ってきたトラックに跳ね飛ばされた。 一気に町が騒然とする。激突音にバックヤードから出てきた店長の「救急車呼んできて!」という声に生返事を返しながら、僕は財布を持ったままバックヤードに向かった。 その後、男は救急車に運ばれていったが、あの様子では生きていると考える方が難しいだろう。彼の最期の話し相手が自分になってしまっただけでも後味が悪いのに、目の前にはおそらく遺品になってしまった長財布。一応中身を確認したら、現金はもちろん、いくつかのポイントカードや免許証、キャッシュカードやクレジットカードには、暗証番号のメモまで貼られていた。本気で、誰かに貰わせるつもりだったのだろうか。 しかしながら、当然こんなものを懐に入れる気にはなるはずもなく、店長に相談した後、普通に警察に届けた。 まったく、嫌な目に遭った。しばらくは、良い夢は見られそうにない。 = = = その日死ぬ人を見分けられるようになったのは、いつ頃だっただろうか。いつの間にかわかるようになっていたし、そうなった理由もわからない。ただ、顔がブレて見える人は、その日のうちに死んでしまうことだけはわかっている。 始めは目が悪くなったのかとか、疲れているんだろうとか、そのくらいにしか思わなかった。しかし、顔がブレて見えるようになったその日のうちに友人や年老いていた母が死に、きっとこれはその予兆なのだと気づいた。 当然、どうにかできないものかと自分なりに策を講じてみたこともあるが、そのすべてが何の役にも立たなかった。今となってはもう、顔がブレている人に出会っても見て見ぬふりをしている。 その日もいつも通りに目覚めて、いつも通りに出社のための準備をしていた。そして鏡の前に立った時。 そこには、見慣れすぎた自分の顔は映っていなかった。というより、それが見えなかった。自分の顔がブレて見えることに気づき、自分の最期を悟った。 自分でも驚くほど、妙に冷静だった。その日はいつものように出社するのはやめた。会社に体調不良を理由に欠勤するという旨の連絡を入れると、出かけるためスーツに着替えた。これ以外に外出着はなかった。 それから貴重品を集めて、通勤で使っている鞄に入れた。財布に入れていたカード類に暗証番号のメモを貼り付け、いつも通りに家を出た。 いろいろなところに向かい、行く先々で貴重品を置いて回った。自分は独り身なうえ、母が死んでから親族ともすっかり疎遠で相続する人間もいないのだから、どうせなら誰かが拾って持って行ってくれた方が有意義だ。 今日死ぬことはわかっていても、いつ死ぬのかはわからない。しかし、死ぬことへの恐怖は不思議となかった。強いて言うのなら、それが一番恐ろしいのかもしれない。 やがて貴重品の大半をどこかに置き終え、残るは財布だけになった。都合よくコンビニがあったので、そこに立ち寄った。ATMでなんとなく1万円だけ引き出し、それを財布にしまうとそれを置いたまま立ち去る。出入口を出る直前、店員の青年に呼び止められた。 「あ、お客様! 財布忘れてますよ」 振り返って答える。 「ああ……。それ、もう要らないんですよ。よかったら貰ってください」 「は……? いや、そういうわけには……」 戸惑ったような彼の声を聞きながら、店を後にした。そしてそのまま、まっすぐに歩いた。 トラックに撥ねられるのは、あまり良いものではない。しばらくの間、右半身がかなり痛かった。 初めて知った。 (お題:「拾ったものを返しに行ったら、持ち主が『それ、もう要らないんですよ』と言った。」)
「ねえねえ。最近B子、遅刻多いよねー。さり気なく言っといてよ」 私は言葉をオブラートに包んで、B子に伝える。 「A子って、ほんと他人気遣えないよね。集合場所、いっつもA子の家から近い場所にするもん。私の家から何分かかると思ってんの? さり気なく言っといてよ」 私は言葉をオブラートに包んで、A子に伝える。 「ねえねえ」 「ねえねえ」 私宛の愚痴はない。 しかし、私以外の愚痴は、私を容赦なく貫いていく。 頭が痛い。 熱が出る。 『大丈夫? ところで、B子が』 『具合どう? ところで、A子が』 私は全身布団にもぐって、あらゆる言葉を遮った。 言い合いに参加できない私の愚痴を、布団がもれなく吸収してくれた。
よく晴れた肌寒い日の昼下がり。とある国の盲目の王が、自室で一人、立派な椅子に腰掛けていた。灯りのない仄暗い豪華な部屋に、少し調子の外れたオルゴールの音がどこか寂しげに響いていた。 「良い音色だ……」 誰に言うでもなく、王が呟いた。 「そうか? こんな壊れかけの音、チビなら怖がって泣き出すだろうよ」 誰かがそう答えた。そんな砕けた物言いに苦言を呈することもなく、王は静かに言葉を返す。 「そんなことはない。軽やかな旋律に混じる寂寞が、音楽に深みを与えている。……とても落ち着く音色だ」 「……変わってるな」 「代々伝わるオルゴールだ。もう何代にも渡って、この家と共にある」 同じ部屋にいるはずの誰かに向かって、王が徐に話し始めた。 「色は……、何色だったか。最後に見たのは何十年も前なものでね……」 「藍色だ。薄暗い、不気味な夜闇を溶かしたような色」 言い淀んだ王に、誰かの声がぶっきらぼうに答えた。 「そう、藍色だ。澄んだ高い青空のような、深く煌めく海のような色。……はは、私も耄碌したものだな」 「全くだ。人間ってのは歳をとると体どころか趣味まで悪くなるらしい」 「はっはっは、……そうかもしれないな」 どことなく不機嫌そうな誰かの声に、王は愉快そうに朗らかに笑った。 やがてオルゴールの音が途切れ、広い部屋に静寂が訪れる。しばらくの間、無音に耳を傾けるように黙っていた王が、静かに口を開いた。 「悪いが、もう一度螺子を巻いてくれないか」 「……本当、変わってるな」 王の言葉に、誰かの声は溜息混じりにそう答えた。 藍色のオルゴールの螺子が、一人でに廻り出す。 カチカチ、カチ。螺子を巻く小さな音がしばらく鳴ると、再び寂しげな音色が部屋に響き出した。 「本当に、良い音色だ……」 「……」 王の呟きに、誰かの声は答えなかった。 オルゴールの音色が、まるで溜息でも吐くかのようにゆらりと揺らいだ。 (お題:『盲目の王』『壊れかけたオルゴール』『藍色の溜息』」)
私は臨終看護師。仕事は単純だ。 臨終医の後ろをついて歩き、遺族の待つ部屋に入る。 そして、臨終医が「御臨終です」と告げたあと、 目を伏せ、軽く頭を下げる。 これが私の仕事。 そこに、ご遺体への敬意など必要ない。 それで、終わり。 母も看護師だった。 臨終看護師にはなるなと言われた。 なぜなら、それは過酷で、辛い仕事だから。 私は以前、手術室の看護師だった。 しかし、やりがいを見いだせず、異動を申し出た。 今はこの仕事に満足している。 先日、臨終医がペンライトを忘れた。 とっさに彼は胸元から万年筆を取り出し、目の上で振り、ごまかした。 私は気づいていないふりをした。 臨終看護師としてのたしなみだ。 この仕事は女優に似ている。 病室は舞台。 何も書いていないバインダーは小道具。 セリフはなくても、存在感だけで観客 ──ここでは遺族だが──を魅了する。 最近、臨終医をモデルにしたドラマが放送された。 しかし、臨終看護師の姿はなかった。 残念な気持ちはない。 その方がいい。 ある日、目の前で臨終医が倒れた。 私は慌てない。 何もしない。 それが美学だ。 そして彼は、そのまま旅立った。
インターフォンがなった。 誰かと思ってカメラで外を見てみれば、にこにこした女性が二人立っていた。 一人は年を食っていて、一人はまあ若い。 宗教勧誘かとも思ったが、手に持っているのは本でなくのしのついた箱だ。 「はーい」 俺が玄関の扉を開けると、二人の女性は顔を見合わせて笑顔になっていた。 「あの、私たち、隣に引っ越してきた者なんですけど。引っ越しのご挨拶にと思いまして」 「それはまあ、ご丁寧にどうも」 「こちら、つまらないものですが、良ければどうぞ」 年を食った女性が、箱を渡してきたので、俺は素直に受け取った。 タオルか何かだろうか。 「ついでに、つまらない人間ですが、私もどうぞ」 若い女性が俺の手を握ってきたので、俺は思わず固まった。 いい匂いがする。 「まあー。いいお相手と出会えて良かったわねえ。じゃあ、後は若い者たちだけで」 俺が戸惑っていると、年を食った女性は扉を閉めて、立ち去っていった。 玄関に残ったのは、俺と若い女性のみ。 「え? いやいや、え?」 俺が肩を掴んで女性を引きはがすと、女性は一瞬驚いた後、目を潤ませて俺を見てきた。 「私じゃ、嫌ですか?」 「いや……。嫌とか嫌じゃないとか、そう言う問題じゃなくて」 「私、料理得意です!」 「料理は、俺もできるから……」 「後、掃除も得意です!」 「掃除もできるしなあ」 「Gカップです!」 「話を聞こうか」 俺が意識を取り戻したのは、翌日のことだった。 隣に眠る名も知らぬ女性を見ながら、俺はカーテンを開けて、遠くの空を見つめた。 「俺の人生、これからどうなるんだろう」
トーストが こげてしまったのは 誰のせいだろう 誰のせいでも ないけれど 激しい このアタマの痛みは 誰のせいだろう 誰のせいでも ないけれど 打ちあけたいのに 言葉が出てこないのは 誰のせいだろう 誰のせいでも ないけれど それでも今日は 小さなことに 運がよかったと思えたから
出さない手紙に意味はあるのかと でもそれは 僕の勝手だ 届いた手紙に意味を見出せるのかと でもそれは あの子の勝手だ あの子が好きな夏はすぎてしまった でもそれは 夏の勝手だ そんなに好きじゃなかった夏も 悪くないと思えた でもそれは 僕の勝手だ
子供の頃の元気は、どこから来ていたのだろうか。 そんな質問を、真面目に考えてみた。 体力。 我武者羅。 将来への期待。 つまるところ、世界における自分の立ち位置を知らないが故の振る舞いに帰着するのだろう。 自分が生徒だと知っているからこそ、授業中は先生の指示で椅子に座る。 もしも自分が生徒だと知らなければ、きっと教室を飛び出し、廊下を駆けだすに違いない。 「ならば、大人になって自分の立ち位置を知ってしまった今、我々の人生はなんなのだろうね?」 コーヒーに口をつけ、私は友達に問いただす。 子供の頃はまずいからと嫌っていたコーヒーも、カフェインによる眠気覚まし効果があると知ってからは愛飲をしている。 これもまた、コーヒーの立ち位置を知ったが故。 「燃えカスのようなものじゃないか? しかし、燃えカスには燃えカスの役割があると思うんだ」 「例えば?」 「草木灰。植物の燃えカスは、土壌の三度を調整して、次に生まれてくる野菜たちの養分となる」 「次世代のための養分、ねえ。完全に脇役じゃないか」 また私に、新しい立ち位置がインプットされる。 若者として主役を走っていた立ち位置から、若者を育てる養分として脇役になる立ち位置へ。 「いいじゃないか、脇役。物語は、主役と脇役がいるから成立するんだ。桃太郎の物語に、犬も猿も雉も出てこなければ、面白味もない」 「桃太郎一強でも、様になる気はするけど」 「きっと、鬼もいない」 「ああ、それはつまらなさそう。桃から生まれただけの人で終わる」 コーヒーが空っぽになったので、目くばせをして店を出る。 きっちり割り勘にして、きっちり解散。 街の大衆に紛れ込み、私の体が脇役へと溶けていく。 「いくぞ! 走れ!」 途中、ランドセルを背負ったチビたちの大群とすれ違う。 リコーダーを旗のように振り上げて歩道を走る姿に、かつて体内に存在しただろう感情が一瞬脈打った。 「こら! 危ないだろ!」 そんな感動も、大衆から発せられた立ち位置をわきまえている極めて真っ当なお叱りによって、すぐに萎んでいった。 「……ケーキでも食べるか」 気分が萎えた私にできるのは、ケーキを食べたくなったからケーキを食べるという、主役時代には決してできなかった行動だけだった。 家に帰って食べたケーキは、カサカサの灰のような味がした。
ドーナツの穴をのぞいた先に希望が見えたらいいけれど 現実はドーナツみたいに甘くはない せいぜい おい、何してるんだ そんな顔で「のの」がこっちを見てくるくらいだ 私の顔なんて見あきたとばかり 「のの」は窓際に行って外を眺めはじめる しんけんに空を見て 雲の流れをおっていく 風が強く、うかぶ雲はとても流れがはやくて 太陽はその場にとどまることに難儀しているみたいだ 「のの」があくびをして そしてまた、外に視線を移す そのすこしのあいだで雲のかたちが大きく変わってしまい 「のの」は困惑ぎみに私を見てくる
午前0時。 小高い山の頂に、30人ほどの男女が集まった。 「さぁ、皆さん。始めましょう」 銀色の三角帽子を被った男が、声を上げた。 男女は円を作ると、その中心に男が立った。 「ウィーン、ウィーン、ウィーン」 両手を挙げ、立てた人さし指をクルクルと回した。 「皆さんも、私と同じように」 夜空を見上げ、人さし指を回す。 「声を出して、願いを込めるのです」 「ウィーン、ウィーン、ウィーン」 「もう、すぐそこまで来てますよ」 山頂に、冷たい風が通り抜けた。 地球の遥か上空に、1機のUFOが止まった。 「艦長、呼んでますけど……」 モニターを覗き込んだ。 「そうだね」 「コンタクト取りますか?」 艦長は、苦笑いしながらモニターを消した。 「金貸せって言われてもね」
「ハァ……」 天使が一つ、溜息をついた。 「どうか……どうかお助けください、天使サマ! 名前は、えぇと……」 大きなステンドグラス越しに夕日が差し込む静かな教会。今日も又、「仕事だから」と仕方なく教会へやってきた天使は、教会の最奥に置かれた大きな神像の頭の上に座り込み、未だに思案を巡らせている少女を見下ろしていた。彼女に天使は視えていない。 「なんだっけ……イグアナ……じゃなくて、シブサワ……? それは違う人か。うーん……」 「なんで毎日来るくせにひとの名前覚えてないのこいつ?」 天使は呆れかえった表情で再び溜息をついた。 「全く……これじゃボクが帰れないんだけど」 そう呟くと、天使はどこからか懐中時計を取り出した。そして鏡映しの文字盤を見る。 「この時計、直ることあんのかな……?」 天使にとって、時計は命の次に重要なアイテムだ。時計は人の時間を、歴史を、思い出を記録する。「善い人」を導く役目を負う天使にとって、人の一生を見ることができる時計は決して欠かすことのできない道具である。これを見るためには、時計は時計でなくてはならない。つまり、「逆さまの時計」ではその力は持ちえないのだ。 「大天使様が言うには、あいつの手助けをしていれば直るって話だけど……」 そう言って天使が目を遣った先には、未だに云々と唸り続ける少女の姿があった。 「シバヅケ……ラッキョウ……? うーん、あおかっぱ」 「なんで漬物なんだよ……」 「なんか違う気がするんだよなぁ……」 「何もかも間違ってるよ」 「なんだっけなぁ、あとちょっとで出てきそうなんだけど……」 少女が天使の名前を思い出そうとするのには理由があった。この協会は彼女の実家でもあるのだが、ここでシスターを務めていた祖母の教えがあるのだ。「神様は多忙なので助けを求めるときには天使を呼ぶこと。お願いを聞いてもらうときには天使の名を声に出し、敬意をもって呼ぶこと。頼る相手はひとりに決め、手あたり次第すがらないこと」。それとともに、この教会が世話になっているという天使の名も教わっているのだが、 「ジーパン、セーラー……短ラン?」 「なんで服になるんだよ。というか短ランとかよく知ってるな……」 この通り、少女はなぜだか天使の名だけを忘れてしまっているのだ。 対する天使は、教会に呼ばれている場合、自らの名を呼ばれるまでは手助けをすることが出来ない。名前そのものが、天使の力を発揮させるための呪文のような役割を果たしているためだ。 そういうわけで、この少女はいつも願いを伝える段階まで話を進められず、この天使はいつも手助けできないまま自分の名とは似ても似つかない言葉の羅列だけを聞かされ続けている。 「違うなぁ……もっとこう、気の抜けるような……。ファスナー……?」 「! そうだそう、母音はあってる! この際『気の抜ける』発言は見逃すから、今日こそ思い出せ……!」 「うーん、マスター……キャスター……」 「おお、かつてないほど近い! あとは頭の文字だけだ……!」 「ファスター……あっ、春日!」 「アスターだよ!」 ゴーン、ゴーン……。 どこからともなく鐘の音が響く。 「えぇ、もうそんな時間? あとちょっとで思い出せそうだったのに……」 「ああもう、今日も願いともボクの名前とも無関係な言葉を聞かされただけだった!」 「じゃあ、私もう行かなきゃなので失礼します、天使サマ! 明日もまた来ますねー!」 そう溌剌と言いながら、少女は荷物を持ち、小走りで教会を後にする。 「明日こそボクの名前を思い出してから来いよなー」 ゆっくりと閉じていく大きな扉を見ながら、天使が声をかける。 扉が閉まり、ドォン……と静かにずっしりとした音が響いた教会で、神像の頭の上にだらしなく寝そべった天使が、呆れたように溜息をついた。 (お題:『天使の溜息』『逆さまの時計』『君が忘れた名前』)
この薄暗い部屋に閉じ込められて、一月が経った。部屋の中は質素な造りだが、ベッドは意外にも上質なマットレスで、シャワーとトイレも完備してあり、生活するには申し分ない。食事は野菜などの彩は無いが、三食差し入れられる。 堪えがたいことは、娯楽が少ないことだ。テレビやパソコンが無いのは勿論、所持していたスマートフォンも取り上げられている。何故かカバーを外された本だけは差し入れられるが、異常な状況では読む気力も湧かない。言わば、生きる楽しみを見いだせない空間。 犯人はわかっている。目の前にいる女だ。 「どうしてこんなことをするんだ」 鉄格子の向こうにそう詰問すれば、女はいつも困った様な表情をするばかりだった。 彼女のかつての交際相手に相談を受けたのが、出会いのきっかけだった。曰く、彼女は相手に尽くすタイプの女性で、しかしそれに際限が無い。ノイローゼになった彼が逃げ出し、身近にいた自分が次の寄生先として選ばれた。 意外にも彼女との生活は悪くはなかった。容姿は華美ではなく、常に地味な服装だったが、むしろ奥ゆかしく好感が持てる。流行の話題には疎いが、古文や歴史に造詣が深く、博識深い。聞いていた異常性を置いておけば、所謂大和撫子そのものだったのだ。 うまくいっていたはずだった。この場所に監禁されるまでは。 あの日は雪が降っていた。寒さに身を震わせ、数か月後に来る春を思い、道すがら在原業平や西行が詠んだ句について語った。 「和歌に詠まれる桜は、どうしてこうも魅力的なんだろう」 「昔は、今よりも目に入る色が少なかったですから、桜の初心な色ですら、貴重な彩、だったのでしょう」 「成程。そもそも現代とは環境が異なるか。僕もいつか全身で感激するような桜を見てみたいものだ」 「ええ、そうですね」 そんな些細な夢も語って、彼女も微笑んでいたというのに。 当夜、勧められるまま深酒をしてその後の記憶がない。目が覚めたらこの部屋にいた。初めは激昂して、それから諭すように、ある時は懇願に近い声色で、どんな言葉で尋ねても、彼女の答えは無いか、曖昧なものばかりだった。 彼女は、僕の思いを試しているのか? 監禁という行為が生み出す歪んだ関係性。被害者からの依存性を期待しているのだろうか。彼女の目的は、ただこうして廃れていく僕を、籠の外から眺めて居たいだけなのかもしれない。 薄暗い部屋で、食事と睡眠の数を数え、もう二月も経った。ひたすら薄暗闇の日々が続いたのだ。段々と、自分の中の何かがすり減っていくのを感じる。 「なあ、今日でもう二月だ。あんたはいつまでこんなことをするつもりなんだ?」 辛うじて、まだ忘れていなかった声と言葉で問いかける。どうせ返事は無い。宛てのない言葉は、壁の中に消えていってしまうのだろう。ただの独白だ。 そう自嘲しながらも、久々にあの困った顔つきを拝んでやろうと、俯いていた顔を上げた。彼女の唇が動いた。 「あと、二週間、くらい?」 食い下がるべきだったろうが、驚き、言葉が出ない。明確に期限を口にしたのはこれが初めてだった。彼女に何の変化があったのか。 その日を皮切りに、彼女は、毎日私の言葉に返事をするようになった。 「もうちょっと、今日は、まだ」 「まだ早いの、だめ」 「きょ、今日は、雨が降ったから」 ある日、聞きなれない金属音と共に、いつもとは異なる微妙な風の流れを感じた。ひた、ひた、と足音が近づく。顔を上げると、鉄格子の向こうの彼女が傍にいた。 「あの、これ」 差し出されたものは、黒いアイマスクだった。付けろというのだろうか。視線で問いかけても、困った表情をするだけだから、望まれるままに装着した。手を引かれ、立ち上がる様促される。僕は彼女のするまま、素直に従った。 「どこに向かっているんだ」 答えのないまま、歩いた。あの仄暗闇から解放されるのならば、どこでもいい。僕はあの薄暗い部屋を出たのだ。 途中から、足の裏に感じていたものが、コンクリートよりも柔らかい感触に変わった。風にのって、土と草の匂いがする。 「取ります、ね」 もう随分歩いたと疲労を感じ始めた頃、ふと立ち止まって彼女は言った。 髪が巻き込まれ頭皮が引っ張られたが、些細な問題だった。 流れ込む光の束に、すぐには目を開けなかった。ゆっくりと瞼の裏に馴染ませ、恐る恐る開いていく。 色の洪水だった。失くしていた色、求めていた色、知っていたはずのものが、未知のものに見えた。背丈を優に超える幹は、大地の色を吸い込んでいる。風に舞い散る花びらには、一枚一枚色があった。全て、異なる色なのだ。 言葉にならない僕に、彼女は嬉しそうに笑った。久しぶりに見た笑顔だ。僕は、彼女が僕を閉じ込めた理由を悟った。後はただ、手を握り締めて、桜を眺めた。
「楽に稼げたらいいのになぁ……」 自堕落な呟きは白く昇る息とともに朝日に消えていく。 まだ青白い斜陽が照らす公園は閑散としていて、冴え返る空気の中で動くものといえば早起きな鳩くらいのものだ。 「どこかに金でも落ちてないもんかね」 どっこいせ、と冷え切ったベンチから腰を上げると、近くにいた呑気な鳩たちが驚いたように少し飛びのいた。それを横目に、伸びをしながら公園の隅を歩き始める。 しんと静まり返る凛然とした朝の空気に、ジャリ、ジャリ、と砂を踏む音だけが響く。 遠くの方でカラスが小さく鳴いた頃。公園の片隅にジッと佇む自販機の前で、キラリと輝く「落とし物」を拾った。ほんの少しだけ黄みがかった、少し大きいコイン。精巧に作られた凹凸が浮かび上がらせる、「500」の文字。 「お、ラッキー。今日はツイて——」 ツイてるかもな。そう言おうとした瞬間、黒い影が鼻先をかすめた。あまりに突然すぎて反応することもできず、黒い影が去った手元を呆然と見つめれば、摘まんでいた五百円玉は夢幻のごとく消えてしまっていた。 ふと、カラスが頭上でカァと鳴く。 何気なく顔を上げれば、どこか揚々とこちらを見つめるカラスが一羽。よく見れば、その嘴には何やら煌めく「拾い物」を咥えているらしい。 「アイツか……」 何となく事の次第を察し、小憎らしいドヤ顔を睨め付けながらため息を吐く。 視線の先で、カラスがまた一つカァと鳴いた。 赤みを増してきた斜陽が、寒宵の気をすっかり解きほぐす。底寒い冬の朝の、ちょっとした出来事。
都会の明るい夜に慣れ過ぎて 深夜に散歩することが 習慣みたいになっていた でもやっちゃダメだったんだ 男だからと油断していたんだよ もしもこうなると知っていたら 外なんか出なかったのに その日は盆休みで帰省していた 夜遅くまで両親と酒を酌み交わす 二人は先に寝てしまったけれど 俺はどうにも寝付けなくて 酔い覚ましも兼ねて 深夜散歩に出かけることにした 一歩外に出て玄関を閉めると 辺りは途端に黒の陰影だけになり ポツポツと立ち並ぶ街頭だけが 黒い田んぼ道を照らしていた その光景に少し息を飲んだが スマホのライトを付ければ なんてことはなかった スマホのライトを頼りに歩く もう日付が変わる頃だったので 他に歩いている人はおらず たまに車が横切るだけだった 近づく車の音だけには注意しながら 夜風を感じながら歩く さてそろそろ帰ろうかと 来た道を戻ろうとしたときだった 振り返った先の黒い景色が 揺れているのに気づいた 直接ライトを向けるわけにもいかず 遠くてハッキリとは見えなかったが どうやら人影らしかった ライトも付けずに歩くなんてと思ったが 慣れていればそんなものかとも思えた 人影らしきものが近づくにつれて ライトがその足元を照らしていく サンダルとスカートの端が見える この人とすれ違ったら遠回りして帰ろう そんなことを考えていたときに 気づいた 恐らくは女が手に持っているのが 刃物だということに アルコールなんて吹き飛んで 全身から冷たい汗が吹き出した 呼吸は思わず止めてしまったが しかし足を止めるわけにはいかない 女を刺激しないようにライトを下げて ただただ祈りながら震える足を前に出す 女の足音がどんどん大きくなっていく 女の足元がライトの円の中に入り そうして通り過ぎていった 女の足音が徐々に小さくなっていく 俺はしばらく早歩きで進み続けてから ゆっくりと速度を落とし立ち止まった 辺りはしんと静かになった 俺の足音はもう聞こえない 女の足音も聞こえなかった ずずずと後ろを振り返る 黒い陰は立ち止まって その場でゆらめいていた 女がどちらを向いていたかはわからない だが俺は迷わずまた歩き出していた できるだけ遠くへ行かなければ 静かな夜に俺の足音が響いていく するとそれにもう一つの音が重なっていく 見たくなかったが見るしかなかった 足は止めないまま振り返ると ライトの先ではさっきの女が 小走りで追いかけてくるのが見えた そこからは無我夢中だった とにかく走って走って走りまくった そうして現在地もわからなくなった頃 ふと足を止めると足音が聞こえない 振り返って辺りを照らしたが もうあの女の姿は見当たらなかった まだどこかにいるかもしれない そう考えライトで周囲を照らし 警戒しながら家へと帰ることにした 結局のところ何事もなく 実家へ帰ることができた もしかしたら何かしら 俺の勘違いだったのかもしれない そんな風にすら思いながら 部屋に直行した俺はそのまま ベッドに倒れ込んで眠った 「朝ごはんいらないのー?」 母の声に目が覚めてリビングへと向かう 父はもう仕事へ向かったらしく 母は食器洗いをしていた 用意された朝食をすぐに食べ終えると キッチンに立つ母の元へ皿を運ぶ 「自分で片付けるなんて成長したわねー」 「それ毎年言ってるけどな」 そんな会話を交わしながら皿をシンクへ入れる ちょうどそのとき入れ替わりで 母がシンクから包丁を取り出して洗い始めた
カツ丼と、天丼と、親子丼で、たくさん迷って あげく全部注文しちゃうくらいであってほしいのに コイツときたら 「ああ、もう食べらんないよ」 ざるそばを前に弱音を吐く はあ、まったくさ 「あとひと口食べなよ」 「さっきからそればっか言ってさ」 「だってさ」 「それを続けてやっとここまで……」 「も少し続けたらなくなるよ」 「はあ……」 こっちが「はあ……」だよ、食事の途中でため息なんてさ たのしい食事にしたいのにさ そのくせ、お惣菜屋さんの前を通ったりなんかしたとき 「コロッケおいしそうだね」 とか言ってポケットから素早く財布を取り出してる 子どもなんだよなあ、コイツはさあ そんなコイツとうまくやってるわたしにしても やっぱり子どもなんだけどさあ
あの滑り台は、滑った人間が百回に一回くらいの確率で消えてしまう。 滑り台の途中にあるトンネルに入ったと思えば、二度と出てこないのだ。 上から見ていた子供たちは、口をそろえて「消えちゃった」という。 だから、大人は使用を禁止している。 しかし、子供は大人の目を盗んで滑る。 そのリスクを楽しむように。 「羨ましいなあ」 仕事が終わって帰宅中のぼくは、スマホで見ていた転職サイトを閉じた。 結局今日も、何もできなかった。
--- tags: - 106号室 - 幸せ status: 経過観察 --- # 揺らぐ 朝日が眩しい。 隣には寝息を立てる君。 声を掛けても、起きる気配は全く無い。 身体を揺する。 機嫌悪く起きる君。 「おはよう」と確かめる僕。 腹を抱えながら照れ臭そうに笑う君。 ぐちゃぐちゃのその髪型さえ愛おしい。 二人仲良く並んで歯磨き。 小さい洗面台の取り合い。 互いに歯ブラシを口元に突っ込んで語らう。 何喋ってんだか全く分からない。 だけど、伝わる。 賞味期限切れ間近のお勤め品コーナーに置いてあったノーブランドの食パンを、好みのジャムを塗って一口、二口。 視線が合う。 互いに確かめるように顔を見て、微笑み合う。 まるで何もなかったかのように。 いつも通りのありきたりな日常。 些細な幸せ。 二人だけの幸せ。 ――目を閉じる。 腹を抱えて嗤う君に、僕は気付いた。 僕だけが視えていなかった。 君の事を。キミの気持ちを。 彼女の輪郭が揺らぐ。 羽音が空間を満たす。 涙を流す君。 ゆっくりと動く口元。 聞こえないけど、伝わる。 眼前に迫る爪先。 彼女はそれを、ゆっくりと深く沈めた。 ――朝日が眩しい。 何も見えない。 痛みは無い。 感触と、音だけが僕に残された。 頑張ったね、えらいね。 君のいつもの口癖を、機嫌の良さそうな声で繰り返すキミ。 確かめるように目元に手をやる。 深く刻まれた傷。 窪んだ穴が、二つ。 瞼を開ける。 キミと僕だけが視える。 キミを通して。 『おはよう』 幾重にも重なるキミの声。 幾重にも連なる君の姿。 蠢く羽根が僕を呼ぶ。 キミと君。 伸びた爪先には、僕の肉片が付いている。 まるで何もなかったかのように、 互いに確かめるように、 腹を抱えて微笑み合う。 愛おしそうに視線を外すキミ。 視界が揺らぐ。 照れ臭そうに僕の疵を撫でる。 そのキミから視える僕の後ろ。 背後に羽音が聴こえる。 『頑張ったね、えらいね』 互いに確かめるように手を重ねて、カーテンを閉じた。 --- tags: - 106号室 - 幸せ status: 適合 --- # 触れる いつからか私の事を避けるようになった貴方も、今は私だけを求めてくれている。 ほら、今も私を探してる。 おはようと優しく撫でてくれる貴方が愛おしい。 私が起きると貴方も起きる。 私が歩くと貴方も歩く。 二人仲良く並んで、歯ブラシでしゃかしゃか、もごもご。 何喋ってるのか全く分からないよ。 だけど、伝わる。 味覚まで似てきたのかな? 私の好きなジャムでパンを頬張る貴方。 笑い方まで似てきたみたい。 いつも一緒。 これからも私だけを見てくれる貴方。 「おはよう」 朝日に照らされる貴方。 黒く大きな瞳で私を見つめる貴方。 「頑張ったね、えらいね」 証を優しく撫でる。 貴方の音が聴こえる。 私と同じ音。 互いに確かめるように手を重ねて、カーテンを閉じた。 --- tags: - 106号室 - 幸せ status: 幸せ --- # 滲む 同じ光景を眺めている。 同じ空間を見つめている。 同じ二人が、同じ二人に魅入られる。 同じ仕草、同じ動作、同じ歩幅。 減らない歯磨き粉、減らないパン、減らないジャム。 変わらない光景、変わらない空間、変わらない二人。 君が瞬きをする度に、視点が揺らぐ。 僕が触れる度に、君が照れる。 ボクが笑う度に、キミも嗤う。 私が深く沈める度に、二人に涙が伝う。 ――反芻。 カーテンを開ける。 僕の輪郭が滲む。 私の輪郭が滲む。 それを見つめる二人。 深く沈むように肌を重ねて、瞼を綴じた。
カラダのほうは 思ったより細いけれど アタマがおおきいのも ときどきみかけるけれど 強い風にその身が傾いでも 子どもらにぺしぺしとはたかれても 桃色の秋桜が好きなんだがねえ あの人がいって ええ わたしが短く応じて
「お疲れ様です」 「お疲れ様」 プルタブを上げ二人は同時にコーヒーを飲む あ〜とCM並みの溜息が出る 「昨日の帰り雨降ってたじゃないですか」 「あぁ、丁度降り始めたところだったよな」 先輩が煙草を加え火をつける 後輩がコーヒーをもう一口飲む 「僕の家、川の側で、道がかなり浸水していて、一面池みたいになってて」 「そんなに降ってたか」 「はい、こっちはヤバかったですよ」 先輩の口から黙々と紫煙が昇っていく 後輩からは先輩が煙の中にいるように見える 「公園を越えたら家なんですけど、公園の側のマンホールがズレて水が溢れちゃてて。こう噴水みたいに。こんな感じで」 「マジか」 先輩は後輩が噴水の真似をしているのを見て、それはよく分からないけど、と思う 後輩は額に汗を流しながら噴水の様を真似している 「スゲーなって見てたらマンホールからにゅーって、出てきたんですよ」 「えっ?出てきたって何が」 「あれ河童だと思うんですよね」 「河童?…あぁ怖い話してんのね」 「え?知りません?河童、緑色の体と頭に皿があって」 「いや知ってるよ。河童は。河童なんかいるわけないだろ」 「いや、いたんすよ。噴水がこうあって、シャワーみたいに凄い水で」 「いや噴水の話はもう分かったから。河童が本当にいたの?」 「はぁい」 「…はい。って。…じゃあその後、河童はどうしたの?」 「何か僕が見てたのに気がついちゃったみたいで、コソコソしてどこかに行っちゃいました」 「…あぁそぅなの」 「はぁぃ」 その日の帰り先輩が家に着くと、料理をしながら奥さんが七歳になったばかりの娘と笑いながら話している 「ただいま」 「おかえりなさい。あなた聞いてよこの子がね…」 「パパ!私ね。河童をみたよ。コンビニにいたの」 先輩は驚いて鞄を床におとす 「あなた、笑っちゃうでしょ」 「本当だよ。パパ、河童知っている?」 「知ってる知ってる。河童は知ってるんだよ。それで、か、河童はコンビニで、な、何をしてんだ」 「たくあんを持ってレジにならんでた」 妻が大笑いをしている 娘は本当だよと言うが、妻の笑い声につられて笑っている 「たくあんかぁ…妥協したんだな…」
苦しい。覚えているのは苦しかったこと。 走って走って、転びそうになって、それでも走って走って。腕の中で泣いている弟の声を聞きすぎて耳がおかしい。音が遠い。違う、弟のせいじゃない。あいつらのせいだ。もしかしたら耳を失くしているのかも。さっきの剣先は避けたと思っていたのに。走って。どこまで。分からない。どこかへ。 「弦義くん!」 その声に目を開けると、見慣れた天井だった。10年、いや20年以上見ている天井。 「最近、よく夢にみるな」 そう寝起きの掠れた声で呟けば枕元のスマートフォンが起床時刻を知らせてきた。手探りで止めて、ゆっくりと起き上がる。なんだか脚が怠い。あんな夢をみたせいだ。 「起きないと」 深呼吸をひとつして無理矢理にベッドから立ち上がる。 「今朝は何にするかな」 弥栄弦義の朝は早い。 冷水で顔を洗い、台所に立つ。昨日は米だったから、今日はパンにするか。そう思いたちトースターで食パンを焼く。その間に挟む具材を調理していく。毎日こなしているだけあって手際がいい。今日は義父も居るから三人分だ。仕事でアメリカに行くことも多く、忙しい人だから居ないことが多い。なので、言葉にはしないが彼が在宅の日は嬉しいと思っている。弟には「言えばいいのに」と言われたが、なんだかな。弟がそういうことをよく言うので、自分の言うタイミングをなかなか掴めずにズルズルと来てしまっている。父の日とか、きっかけがあれば言えるかもしれない。 「おはよう、弦義くん。今朝も早いな」 「おはようございます、一条さん」 そんないつもの挨拶を交わし、義父である一条は席につく。既にスーツに着替え身支度が済んでいるので、彼も自分と同じぐらいの時間に起きていたのではないだろうか。 焼き上がったトーストに具材とソースを挟み、更にもう少し表面に焦げ目がつくように焼く。完成したホットサンドをテーブルに置けば、一条は「美味しそうだ」と言ってくれる。 「ありがとうございます。弦護を起こしてきますね」 「なら俺はコーヒーを淹れておこう」 早い二人の分まで眠るかのように、弟である弥栄弦護は朝に弱かった。大人になって手がかからなくなっても、ここだけは変わらない。 「弦護、朝だぞ」 んんー、と生返事をしつつもぞもぞと上体を起こす。まだ半分夢の中なのか、頭がふらふらと揺れている。 「ほら、早く起きないと朝飯が冷めるし、一条さん仕事に行っちまうぞ」 「それは……やだ……」 大きな欠伸をひとつすれば漸く目が開いた。 まだ眠そうな弦護を引き連れてリビングに戻れば、淹れたてのコーヒーのいい香りがした。 「おはよう、弦護くん」 「……おはようございます」 差し出されたコーヒーを一口飲んで、少しは目が覚めたようだ。ふわりと笑って言葉を交わしている。 こういう朝の日常というものは嫌いではない。どうしても殺伐となる仕事をしている身だ。こういう時間を過ごせている自分たちはとても恵まれているのだと思う。それもこれも、あの時見つけてくれたのがこの人だったからだろう。もし、他の誰かだったなら。もし、見つけてもらえずに犬死していたなら。考えて、容易に想像できることに嫌悪する。 「なぁ、二人とも。今度の長期明けにはなるんだが、よかったら久々に出掛けないか。やっと休みがとれそうでな」 この人から普段聞きなれない休みという単語が出たことに驚いた。少し間を要したが隣に座る弟の顔を見れば、弦護もこちらを見ていた。そうだな、と思い口を開く。 「行きます」 「行きたい」 二人揃った回答と声に一条さんは笑った。
パンを焦がしてしまったとか 鳥のフンが頭に落っこちてきたとか そんなことがあったわけじゃない でも、その日は、朝からわけもなく嫌な予感があった 突然、私たちの前にあらわれた転校生の女の子は タキのとなりの席 それを私は、なんとも思わず受け止めた、そのときは けど、前を向けば、どうしたってタキとその転校生の姿が飛び込んでくる ふたりが話をする姿に、まったく集中できなくなる ああ、だったら窓の外でも見ればいいんじゃん なんの解決にもならない、先生から怒られた タキが悪いんじゃない 転校生だって、それは同じこと わかってるんだけど わかってるよ わかってるから こんなこと、タキには言えないよ バッカみたい でも、いつか、ちゃんと前を向かないと いけないんだよね わかってるんだけど
突然こんな事になってごめんね でも、僕はもう疲れたんだ 毎日酷いイジメばかり受けて、家でも誰も味方してくれなくて 唯一、君だけが僕の救いだったんだ けど、申し訳なくなってきて ずっとこのままでいいのかなって、考えたら耐えられなくなった 僕は弱いから、多分、この先もずっとこうだと思う こんな僕と友達でいてくれて、ありがとう』 「……………なんだよ、これ」 学校の靴箱に手紙が入っていた 最初は遂に俺にも春がと浮足立ったが、一気にどん底に落ちた 「……まじかよ」 何も言葉が浮かばない…アイツが………俺が、助けられなかったから?こんな事になったのか? ………分からない なあ、おい……辛かったよな、苦しかったよな………ごめんな……ごめん……… 一人、誰もいない靴箱の前で嗚咽が漏れる 持っていた手紙は勢いのあまり、グシャグシャになった その日、朝のHRでアイツの訃報を聞いた 教室はザワついてて、ある奴は真っ青な表情、ある奴は泣いていて、ある奴は無関心な顔……… 「まさか死ぬなんて」 アイツをイジメてた奴が一言 気付くと俺はソイツの上に跨がっていた ソイツは俺に怯えて、顔がパンパンに腫れていて、口から血を流している 俺が殴ったんだ 先生が止めに入り、その場は収められた こんな今更……アイツが生きてるうちにやればよかった 俺はその日から登校しなくなった
「ねぇ、望月くんって共感覚を持ってるんでしょ?」 学校からの帰り道。私はたまたま見かけた隣のクラスに在籍している望月くんに声をかけた。 望月くんは女子の間でも密かに人気の男子で、よく話題になっている。 ルックスは中の上で、背は大体170センチ超えている。スラっとした身体つきと、大人びた雰囲気は最近のアイドルのようで、確かにカッコいい。 その上、とても珍しい共感覚なる能力を持っているらしい。 私は別にお近づきになりたい訳ではないが、どんな能力かとても気になり、つい声をかけてしまった。 「うん。でもそんなにいいもんじゃないよ」 望月くんはちょっと苦笑した。慣れた態度から察するに、どうやら散々この手の質問をされてきたらしい。 「えっと、言葉を見たり聞いたりしたら味がするんだよね?じゃあ、りんごって言ったらりんごの味がするの?」 「うーん。どう表現したらいいかな。結局のところ、言葉から連想されたものを脳が誤認して、舌が刺激されるって感じだと思う。要は僕の想像しだいかな」 「じゃあ、ネズミって聞いたらどんな味がする?」 望月くんは、ちょっとだけ沈黙した。 「チーズに似た味がする。ちょっとだけ匂いがきついけどね」 「凄い!匂いもするの!」 「まぁ、脳が誤認してるだけだから、記憶からそれっぽいものを引っ張ってきてるんだよ」 「授業の時とか大変でしょ」 「うん。意識しないようにしてるけど、生物学だけは具合が悪くなるよ。節足動物の話なんて、思い出したくもない。今でも吐き気がしてくる」 望月くんと私は同時に笑った。言葉のせいで苦しい思いをしている望月くん。でも、こうやって笑い合えるのは、紛れもなく言葉のお陰。 まったく難儀な話である。でも、この会話に味を感じるとしたら、ぜひ味わってみたいものだ。私は恥ずかしながら、そう思った。 そんな風に思っていると、ふと上から何かの声がした。 「うあああああああああああああ!」 びちゃっと、何かが押し潰れた。ひと?多分ひとである。上から降ってきたそれは、もう人の原型を留めていない。地面にゆっくりと赤いものが広がっていって、私は気づいたら悲鳴を上げていた。 そんな私のことはお構いなしに、望月くんは落ちてきた人を見つめている。 「……甘い」 望月くんは唇についた何かを味わうように、舌でなぞってこう言った。 「ハチミツみたいだ」
スマホのなかに住む男の子は、わたしにめっぽうやさしい やさしすぎて、ときどき、いじめてしまう でも、どんなに冷たく当たっても 最後に負けてしまうのは、わたしのほう 夏の終わりゆく時期が好きと言うわりに、その短いときを わたしはきちんとつかまえられなくて ついつい、一番いい表情を逃してしまう 下ばかり見てるのがいけないんじゃないの 元彼に言われた言葉は、けれど、たしかに… 甘いものだけをたべて暮らしていきたいなあ、ときどき思う かと思えば、無性にすき焼きがたべたくなったりもする 天丼をたべないと、どうにもおさまらない夜だって それでも、からあげがあればそれだけでよかった季節は すぎてしまった もう、とっくに
それは1冊の電子書籍だった 普段僕は恋愛漫画など読まないが、ふと、気になる1冊の悪役令嬢モノに目がついた そこにはよくあるこういったモノの導入と、婚約者が知らない女性を連れてきて、悪役令嬢を断罪して婚約破棄する、よくある… そう………この婚約破棄を言い渡した相手は…僕だ… 突然と脳内に記憶が入り込む それはこの漫画の導入と同じとこから始まる、僕の前世の記憶と言うべきだろうか それが一気に押し寄せてきた とても量が多かったからか、吐き気と眩暈がする フラフラとその場に座り込む ……この婚約破棄したあとは最悪だった 再度婚約した女に騙され、国に裏切られ、そのまま処刑された ふと、この元婚約者は今後どのようなストーリーに行くのかが気になった なにせ、前世はそんな暇もなく死んだから 続きを読み進めて行くと、僕の元婚約者はどうやら隣国の第一王子と婚約して、幸せの展開で漫画は終わっていた 「そうか…幸せでいてくれたのか」 きっと僕じゃ彼女をこんな笑顔にしてやれなかっただろう 今更安堵のため息をついたとこで、過去のしでかしは無くならない こうやって世に出て回り、羞恥に晒される 「今世は、前世よりかはまともに生きよう」 そして僕はスマホの画面を閉じた
値段を気にせず 本を買いたい 仕事をする 思い立って 布団から出て カーテンを開ける すっかり晴れわたった空は 幸先いい予感 などと思っていたら 急な雨 雨は 夜になっても やむことがなく 明け方くらいまで 降るらしい 仕事は またにした 本は 買っていない 雨は まだ降っている
小さい頃、入った洞窟の奥で書物を見つけた。何て書いてあるかは読めなかった。 それから年月が経ち再び洞窟に入り、書物を読むと、意外なことが分かった。 『これに書いてあることは口外してはならない。さもなくば……』 さて、何が書いてあったのか? 書いてあったのは、洞窟についてのことだった。昔、その洞窟は禁じられた空間であったこと。誰も立ち入ることが出来なかったこと。偶然立ち入ってしまった貴族が呪われてしまったこと。その貴族が悲惨な最期を遂げてしまったこと。 というような内容だった。一冒険者であった少年ランドはその事実を知ってしまった。 『口外してはならない』 もし、口外すれば、命はない。ランドは恐ろしくなった。それから数年後。 町の一流冒険者のストワットが森で洞窟を見つけたと言った。ランドが入った洞窟だろう。 しかし、洞窟の真実を知っている者は町にはいない。洞窟に入ったストワットは戻ってこなかった。調査隊が調べると、変わり果てたストワットの姿を見つけた。ストワットは奥の書物を読む姿勢で体に何ヵ所も剣で刺され、血を流していた。 地面に何か書いてある。 『掟破りしもの、その血をもって償わん』 書物はストワットの血で赤く染まっていた。だが、それは恐怖の始まりだった。洞窟を封鎖しようとした魔法使いが洞窟の魔の手に掛かり、命を落とす。奥の書物は赤黒くなっていた。それから洞窟は破壊され、中からおぞましい瘴気が溢れ、森は枯れ町の人も瘴気で命を失う。 残ったのはランドただ一人。しかも、ランドは闘う力はない。たくさんの人を死に追いやった瘴気に対抗する手段はない。だが、ランドは不思議な声を聞く。 『約束を守りしものに、この地の幸を受けん』 崩れた洞窟から書物が現れ、姿を変える。それは血の色をした魔剣だった。 『その剣、幾多の災いをはね除けん』 ランドに力が湧いてくる。ランドは町を出て魔物を倒し、ついには魔王を倒して英雄になった。