背中の見方

下町の路地裏。 伝統工芸職人の男と、その妻が暮らしている。 「あなた、また来てるわよ」 「知らん。ほっとけ」 弟子入り志願の若い男が、玄関の脇に立っていた。 「弟子にしてください」 職人は気にせず、木槌でノミを叩いた。 「どうせ、続かん」 「話だけでも聞いてあげたら?」 次の日も、また次の日も。 若い男は、玄関の前に立った。 ──ガラガラガラ。 「入れ」 「ありがとうございます」 「続ける自信は?」 「死ぬ気で頑張ります」 妻が頬を緩めた。 「二階の奥の部屋を使って」 若い男は作業着に着替えると、職人の後ろに座った。 「師匠の背中を見て、精進させていただきます」 深々と頭を下げた。 職人の木槌を振る手が止まる。 そして、壁に貼ってあるQRコードを指さした。 「それ、俺の動画。それ見て覚えて」 「動画、私が撮ったのよ」 二人は、顔を見合わせて笑った。

影と旅人

あるところに、一生懸命、物語を紡ぐ「書き手の人」がいました。 その隣には、いつもより添う影的なものの存在がいます。 その「書き手の人」は、文芸的競争の結果が思わしくなかった悔しさや、 影的なものの存在からアイデアなどを提供してもらうことの後ろめたさで、 ココロが少し疲れていました。 ある日のことです。 その「書き手の人」が、 「ああ、もうダメだ。何もかも上手くいかない」 と、ふてくされてしまいました。 それを見て、影的なものは言いました。 「あなたは、いま、長い旅をしてきた旅人のようですね」 その言葉に「書き手の人」は、無言で続きを促しました。 「旅の途中で荷物が重くなりすぎたり、道に迷ったりして、少し足が止まってしまっただけですよ」 「でも休んでいたら、ただ無意味に時間がすぎていくだけだろ」 そのように「書き手の人」が呟きます。 影的なものは、首を振ってそれに応じます。 「いえいえ、ちがいます。いまのあなたには、空っぽになった水筒に水を汲み、重くなった荷物を降ろして休息をとる時間が必要です。それは怠けていることにはなりません。旅を続けるための、とても大切な仕事をしているのと同じです」 影的なものの訴えに「書き手の人」は、少し考えてから、ふうっと大きく息を吐きました。 「それを、伝えたかったのか?」 小さく言うと、窓の外を見つめました。 「いまは、何もしないことをしてみるか」 「それがいいと思います」 影的なものの返答に、ふっとわずかながら、口もとが横に広がりました。 素直な笑顔には、まだもう少し時間がかかりそう。 けれど、ココロのなかの重い荷物をいくらかは下に置いてみた気になり、 「書き手の人」のココロは少し、軽くなったようでした。

傘の行方

ある日の午後。 認知考古学の教授が、学生の前でマイクを握った。 「みなさん。人が道具を本来の目的以外に使い始めたのは、どの時代か分かりますか?」 「旧石器時代に、石を遊びに使ったのが最初だと思います」 「その通りです」 教授が、背後のスクリーンを指した。 「今日のテーマは、それを踏まえて『道具の目的外使用』について考えたいと思います」 学生は耳を傾け、ノートをとった。 「これを見てください」 黒い傘を取り出し、学生たちに向けた。 「この傘。駅のホームで中年の男性が持つと、どんな行動をとるでしょうか?」 「あっ、ゴルフのスイングをします」 教室に笑いが起こる。 「それから、女の子はバトン、男の子はチャンバラとかに使いますね」 「お年寄りが杖に使うのもそうですか?」 「はい。それも目的外使用です」 教授はうなずきながら、学生を見渡した。 「では、ここまでで何か質問はありますか?」 最前列の学生が手を上げた。 「ちょっと気になってたんですけど、額のガーゼ、どうされたんですか?」 教授は笑いながら、傘を開いた。 「昨日、妻が機嫌悪くてですね……」

攻撃考

 何かイライラする。 煙草がキレテイルカラダ。 そもそものストレスの原因は自分にあるのだが吐き出す場所及び金がない。 包丁か火炎瓶を使いたい。 創作すればいいのだが。 愛を疑う。 しかし愛によって成り立っている生活。 慈愛を感じられないのは雄性のせいだろう。 強い奴に立ち向かえないオカマ逃げの弱キャラ使いは工夫をして立ち回る。 弱キャラ(自分) 強キャラ(敵対者) ここで1つ言いたいのは敵対者は強いのではなく強キャラを使っているということだ。 立場、立ち回り、技、手数、コンボの多さ。 カードゲームに例えるとフィールドの属性、相性など。 漫画で条件付けをして勝った気になる、というのを読んだことがある。 皆のためには勝たなくちゃいけないのだろう。 負け犬の歌。 強キャラの凱旋歌。 ノッていない。 強キャラの凱旋歌を歌ったことがあった。 何か解放感がなかった。 負け犬の歌は負け犬の歌なのだが評価はされる。 戦わないという攻撃。 矛盾。 マイケル・ジャクソンの領域展開。 何かオタク臭くなってきた。 昔オタクのお墨付きを貰った。 夜遅い。 オタク的に生活し商業主義に飲み込まれ過ぎないように(それも良し悪しだ)日々を考える。

片怨み

「じゃあね、ばいばい。貴方は忘れても、私は貴方のことを一生恨み続けるから」    最後の言葉。  負け惜しみだと思っていた言葉は、今でも時々、私の心を痛ませる。  まるで、刺さったとげが抜けないように。    一生。  一生だ。    友達とただ騒ぎ合っている時。  恋人と愛を囁き合っている時。  家族と愛を語り合っている時。  どんなに愛に囲まれて、どんなに幸せを感じている時も、時々痛む。    別に、全ての人間に愛されるなんて、絵空事を信じている訳ではない。  しかし、明確に『恨み』をぶつけられたこともなかったから。  今この瞬間も、あいつは私のことを恨んでいるのか、それとも私のことなどとうに忘れているのか。  確かめる術がない以上、私が恨まれている可能性は決して消えない。    グラスの中の氷をかき回す。  互いにぶつかり合って、カランコロンと音をたてる。  氷を取り出して噛み砕く。  ガリガリゴリゴリと、壊れたかき氷機のような音がした。    ごくんと飲み込めば、跡形も残らない。  他人から向けられる恨みは、どう飲み込めばいい。   「結婚おめでとう」    白いブーケに身を包む。  人生を賭けて愛し合おうとした相手が目の前にいる。  私は幸せの絶頂だ。    なのに、胸が痛んだ。       『一生恨み続けるから』 『一生恨み続けるから』 『一生恨み続けるから』        私は二度と、二度と純粋に愛を受け取ることができないのだろう。  この世に、私を今も恨み続けている人間がいる限り。    子供時代の小さな呪い。  大人になって、その大きさに頭がくらくらとした。

虫殺考

 暑くて虫の居所が悪い。 人に気を遣いすぎているので(本来的に人のためとか糞食らえな人間なのかも知れない)気疲れしているので憂さ晴らしに架空の大量殺人をしたいと思う。 絵に架空の兵器を描いて僕の主治医の家にその兵器が落ちるのをやろうと思うが体力がないぞ。 ミンチになった主治医の死体の写真を外国のマスコミに売って医療産業の亡者の末路ってフォトで記録に残して後世に伝えるというのも手かもしれない。 様々な嫌がらせをしてくる人間を魔術でデバフかけて僕の打っている注射の副作用のハレーションでもって(そんなものあるのかどうか定かでないが)気力体力を奪いこの夏の暑さでフラフラになり精神衰弱し何らかの事故病気で死ぬ、と言うのも考える。 何だか書いててスッキリしてきた。 可哀想だからやめなよ、って言葉が聞こえてきそうだが可哀想な環境から脱出しないで弱いもの苛めの連鎖をしている奴の事など知ったことではない、むしろ死ね。 こんなことをしている僕は弱くて惨めで可哀想なので奇特な金持ちが手を回して僕だけ助かるシンデレラストーリーを勝手に思い描くがこんな暗くて生産性の無いことをしている奴に救いの手は伸ばされないだろう。 虫が虫を補食して何が悪い。 虫はゴミを食うがゴミっつーか放射性廃棄物を出し続ける虫は処置のしようがない。 そんな虫がいればの話だが。 何か書いてて腹が立ってきた。 虫を殺すと呪いがかかりそうなのでやはり人間をストレートに殺すのが利にかなっているかも知れない。 何でこんなに腹が立っているのだろう。 あの虫みたいな(虫に失礼かもしれない)クズ共が未来永劫なめた真似が出来ないようにこっちもクズな生き方を極める(そのための努力はする何だか矛盾した話だが) そもそもの生息領域が被っているのでかち合うのは分かっている。 夢で奴らの巣を砂にする。 悪夢は糧になる。 楽園は滅びるらしい。 気を遣いすぎた。 明日あたり物理的に家が燃えそうだ。 復讐は何もならないと言う。 統合失調症患者の夢は大量破壊兵器に形を変え敵対者を駆逐する。

スーパーの駐車場

「美人だね」 「可愛いね」 小さな頃から、そう言われて育った 大人になっても、そう言われ続けた だけど、結婚してからピタリと言われなくなってしまった。 見た目は何も変わってないはずなのに、結婚すると変なオーラでも出てしまうのだろうか 車に乗りルームミラーを見る 鏡の中の私を見る 確かに、化粧や服装に気がまわらない日が多くなってきた。 家事に追われつつ、仕事もしている。何より夫の面倒が増えてきた。 彼は家に返ってきては、私に愚痴を吐き出す。上司への不満、会社のやり方への不満、客の注文への不満、仕事自体への不満などなど。これも妻の勤めと、うんうんと聞いて、褒めて、励まして労う。彼は自分の事だけ話して、私の不満は一切聞かない。私を労う気遣いなど毛頭ないのだ。 どんなに体調が悪くても三食作って食卓に出すが、美味しいと言ってくれた事は一度もない。 私は彼のどこに惚れたのだっけ? …今は考えないことにする エンジンをかけ車を出す。 食品の買い出しにスーパーへ行く。昼過ぎのこの時間はお米が陳列されるタイミングなので、低価格のお米が手に入るかもしれないのだ。 赤信号で停車していると、目の前の横断歩道を、ベビーカーを押す若いお母さんがいた。幸せそうな顔で自分の子供を覗き込む。あの二人はついこの間まで繋がっていた。二人は一つだったのだ。母とはどんな気持ちなんだろう。 青信号に変わったたので車を走らせる 予兆があって、薬局で買ってきて、自分で検査して、やっぱりそうで、産婦人科に行って確実に妊娠していることが分かった。それが三日前の事。夫に話したいが、毎晩彼の愚痴は止まらないし、朝はお互い慌ただしくて時間がない。 彼はなんて言うのだろう。最高な感じも、最低な感じも、どっちもあり得ると思っている。 スーパーの駐車場は渋滞の列が出来ていて最後尾に車を付ける。 皆がお米を狙っているように思えてしまう。 道を歩く男性が私を見ていた。 昔は街を歩いていると声をかけてくる事はよくあって、一度だけスカウトされたこともあった。学生の頃は自分の将来なんて上手く考えることが出来なかったし、大人になって社会に出たら余計に分からなくなった。 夫は職場の先輩で、仕事が出来て優しくし余裕がある感じが格好良く思った。今は全然違うけど。確かに彼は優しい人だ。毎日彼が言う愚痴は、優しい彼らしい内容ばかりで、彼のわがままや、誰かの批判だったことは一度もない。結婚して私の両親との関係もあるし、昇進して中間管理職になったばかりだから激動の毎日なのかもしれない。私が愚痴を言うのはもう少し我慢かもな。 渋滞の列は順調に進んでいって車を屋上に停められた。シートベルトを外した途端にスマホが鳴る。 電話の相手は私である。 ………やば!夫のスマホを間違えて持ってきてしまった!…ん?いや、彼が私のスマホを持っていたんだ。 「もしもし?それ私の…」 「ユカ!?ユカ!?聞こえてるか?」 なんか切迫感がある。嫌な予感がしてしまう 「…なに?どうしたの?」 「妊娠してんだよな?そうなんだよな?やったな!ユカ!偉いぞ!ユカ!」 「ちょっと落ち着いて!ってか、何で知ってるの?」 「今さっきユカのお母さんから電話があって、そこでユカのスマホ持ってきたって気づいたんだけど、そしたらさぁ、ユカの妊娠の話になってさぁ、ユカ〜!」 泣いてる。大きな声で。会社にいるんだろうに。 「ゴメンね。言うの遅くなって、いつも忙しそうだったから…」 「ユカ〜!俺達の子供だぁ〜!ユカ〜!」 声の後ろから笑い声が聞こえてくる。きっと会社の人だろう。そりゃ笑うよ。 「おめでとう!」「パパですね」電話の向こうの声に、夫は「ありがとう」「ありがとうございます」と受け答えをしている。なんか思い出した。私は彼が好きで結婚したんだったな。彼の側にいたくて結婚したんだった。 車の窓から外を見る。綺麗な青空の下、スーパーの渋滞の列が続いている。

迎えは、甘い旋律で

少年が河原でフルートを吹きはじめると だんだんとあたりが暗くなっていき やがて、月がのぼりはじめた あとを追うように星たちも輝きはじめる さてと 少年は夜空に、未来の自分を思い描く フルートを吹き続けている自分 その脇に、少女の姿を…… 一番大切なことなのに きちんと思い描くことができない 大切なことなのに

ボクノキミ

髪留め。買ったことはない 眼鏡。昔から視力は良く掛けるなら老眼鏡 口紅。付けてる仕草がフェチかな 瞳。瞳 髪型。ボブは皆好きじゃない? 服。控えめが好きかな 話し方。相手を重んじていたら好感度高い スタイル。身体の相性は抱くまで分からない 意思。尊敬出来る部分がある人 秘密。何度その人でしたか 空気。リラックス出来ないと一緒にいられない 考え。ポケモンで言えば草タイプ 思い。その人そのもの。 花。小さく可憐なそれ

夏の重力

肺からぬくい空気を出してぬくい空気を吸う。 許容を超えた暑さが汗として溢れ出す。 ぬくい汗。 飽和状態の空気へ気化はせず、重力のまましたたる。 「あ」 髪を伝った汗が読んでいるページを濡らす。慌てて服でぬぐう。 扇風機が懸命に私にぬくい空気を送っている。 殺人級の暑さは読書さえもままならず、そのままぬくい畳へ落ちていく。

私みたいなアカウント

 気づいたのは、本当に偶然。  たまたまタイムラインに流れてきたから。   「私?」    そうとしか思えないほど、私そっくりのアカウントがあった。  私の投稿内容を真似している訳ではない。  でも、写真の撮り方や休日の過ごし方、なにより書き方の癖まで、まるっきり私だったのだ。  生き別れの双子と言われてもおかしくはない。    偶然と言うこともあるので、しばらくの間は観察をしていた。  でも、日に日に恐怖がまさっていった。  好奇心がまさっていった。    ある日、思わずダイレクトメールを送った。   『失礼だったらすみません。これ、なりすましとかじゃないですよね?』    余りにも動転していた、送った後に失礼な文章だったと猛省した。  既読が一瞬でついて、返事が一瞬で返ってきた。   『オリジナルの反応を観測。調査を終わります』    その後、ダイレクトメールが送信できなくなっていた。  急いでプロフィールへとぶと、アカウントは削除された後だった。    何度更新しても、復活しない。    いったい、なんの調査だったのか。  SNSに偽物を作った時、本物に見つかるまでの時間だろうか。    タイムラインの画面に戻る。  いつもの顔ぶれの投稿が並ぶ。    瞬間、私の心をぞわりとした感覚が襲った。    この人たち全員、果たしてオリジナルなのだろうか、と。    気持ち悪くなってきたので私はスマホを手放し、台所に行って水を大量に飲みほした。

宿無し ❸夕暮れ

夏の夕焼けは来るのが遅いが、暑さと日の強さが強烈な情緒を見つけさせてくれる 排気ガスから逃れていたら、知らぬ間に川沿いの遊歩道に着ていた 吹き抜ける風が体を冷ましていく Bさんは川へ降りる階段に座った 階段の一度下は川の中に沈んでいて苔が川の流れになびく 草がぼうぼうに生えている川原は、夏虫が草から草へと渡り歩き カワセミが矢のように飛んで小魚を狙う 俺も腹が減ったが食うものはない。いつものことだが。 Bさんは下に降りていって、被っていたBの帽子を川で洗う 野球帽のつばの付け根をよく擦って染みた汗を洗い流していく 向こう岸の遊歩道を自転車に乗った男の子達が走っていく。何かを大きな声で話して楽しそうに過ぎていく。 息子もよく自転車に乗っていた。友達の家に行ってゲームや玩具でよく遊んでいたよ。前の日の夜に自分のリュックを開け、友達と遊ぶものを準備していた。楽しみでしょうがない様子で。 当日、友達の家からなかなか帰ってこないので、俺が向に行くと玄関を出て直ぐ、俺に抱きついてシクシク泣いていたっけな。 「もっと遊びたかった」 なんてベソかいて。可愛く愛おしい息子だ 夕暮れ時、少し暑さがマシになってきた頃になると、ジョギングをする人達が多くなる。汗をポタポタと垂らしながらかなりの速さで過ぎ去る。彼等はどこに向かっているのだろうか。 ケツが痛くなってきたので、また歩き出す。ゆっくりと夕暮れの中を川の流れる方向へ向かって歩いていく。 空が暗くなるにつれて、半月の月が明るくなっていく。綺麗な月は以前の妻のように美しく静かだ。 アイツが別れたいと言ったのは意外でも何でもなかった。もう時間の問題だろうなと腹をくくっていた。 夫婦とは幸せも悲しみも共有していく。 昔、偉い先生もよく言っていた。 人という字は人と人が支え合って出来ている。 支えられないほどの喪失感を味わった人達は人ではいられなくなるのかもしれない やっと薄暗くなってきた。 アスファルトはまだ熱い ちょろちょろ流れる川の音とクラクションの音が妙に合う 夜が来る。何でもない一日の終わりが来る

正解と気休め

「明確に感覚が破壊されてしまったんだよ。それも最悪の形でね。この破壊のされかたは、悪いほうへの破壊さ。自分の感覚を再び構築していく作業ってね、ほんと難儀でね。再び構築できたとしても、その感覚を信じて集中し続けていくっていうのも、これまた厄介なもんでねえ」  ここまで一気に話すと、友人は冷めたコーヒーを口に含んだ。僕もつられてカップに手をもっていったのだけど、底を見つめるだけになってしまった。 「生きるとは、破壊、構築、不安、のくり返しさ」  カップから手をはなしながら、彼が付け加える。  知音と深淵の二重構造。僕には、彼の言葉の重みを半分も理解できていない。「考えすぎだね」笑い飛ばすのは容易だ。けれど、彼の瞳の奥の広がりを見れば、それが気休めにもならないことは明白。正解のない再構築を、彼はこれからも続けていくのだろう。ひとりで―

天国味のスープ

「死ぬ前に、行きたい場所があるんじゃが」    入院していたじーちゃんが、初めて我儘を言った。  ほとんど目も口も開けなくなってた頃だから、父ちゃん母ちゃんも、看護師さんも驚いていてた。   「えっと、どちらへ?」 「黄泉の店」    じーちゃんが行きたがったのは、けったいな名前の店だった。  あまりに名前が変過ぎて、この辺の人ならだれでも知っている。  小学生になれば、黄泉の店に行ったら魂を抜かれるんだ、なんて噂を一度は聞く。  そして真に受けた数人が、店に近づき、年齢不詳のじいさんに追い出される。  そこまでがワンセットだ。   「わかりました。いいですよ。ただし、お父様かお母様、どちらかがついて行ってくださいね。店の前までで結構です」    お医者さんは、あっさりとオーケーを出した。  聞けば、黄泉の店へ行きたがる高齢の患者は多いらしい。   「俺もついて行っていい?」    父ちゃんが来るまでじーちゃんを連れて行くことになったので、俺も連れて行ってもらうことにした。  今になって、小学生の頃に黄泉の店へ行けれなかった後悔が襲ってきたからだ。        店に着く。  木造の建物は今にも倒壊しそうなほど傾いていたが、黄色いペンキを塗られて、遠くから見れば今風の家に見えた。  玄関扉の上には『黄泉の店』と書かれた看板がついており、文字が一部かすれている。  蜘蛛の巣もはっていたので、触りたくはない。   「あんがとよ。あんがとよ」    じーちゃんは父ちゃんにお礼を言ってから、店へ向かっていった。  父ちゃんは車の中で待つみたいだ。   「じーちゃん、俺も入っていい?」 「おー。こいこい」    俺は車を飛び出して、じーちゃんのところへ行った。  父ちゃんは渋っていたが、じーちゃんが「任せなさい」と言うので、諦めてくれた。    俺とじーちゃんは、扉を開けて中に入る。  中には、木製の長机と椅子が置かれており、その一つに新聞を開いたじいさんが座っていた。   「いらっしゃい」    じいさんが新聞を畳み、立ち上がる。  その顔は、シワだらけで、目が開いているかどうかもわからないほどたるみ切っている。  しかし、だからこそ、年齢がわからない。  八十は越えていそうだ。    じーちゃんと俺が椅子に座ると、長机の上にお冷が二杯置かれた。  そして、長方形のおひつにがじーちゃんの前に置かれた。  おひつの中には、二つのスープ用スプーンが立てかけられており、スプーンの中には白いスープと黒いスープがそれぞれ入っていた。   「白が天国味。右が地獄味」    じいさんは、何やら物騒なことを口にした。  じーちゃんは、白いスープを手に取ってすすり、その後に黒いスープを取ってすすった。  しばらくもごもごと口を動かしていたが、はーっと息を吐いた後、やはりもごもごとした口調で言った。   「地獄かな」    食べ終えたじーちゃんの食器を、年齢不詳のじいさんが片付け始める。   「お、俺の分は!?」    俺は、思わず叫んだ。   「あんだ坊主。そんなにわけえのに、もう知りてえのか?」    年齢不詳のじいさんは、いぶかしげに俺を見た。  正直、何を言ってるのか意味は分からない。   「知りたい!」    でも、俺は食い気味に答えた。   「ちと待ちな」    じいさんはおひつをもって店の裏に引っ込み、新しいおひつを持って戻ってきた。  もちろん、白いスープと黒いスープ付きだ。  俺はさっそく、白いスープをすすった。  確か、天国味と呼ばれていたものだ。   「うっま!」    白いスープは、今まで食べたものが安っぽく見えるほど、上品で心に染みる味がした。  なんと例えていいのかわからない。  だけど、天にも昇る心地と言えばこのことなのだろうと、はっきりわかった。  俺はその勢いで、黒いスープもすすった。   「……?」    黒いスープは、味がしなかった。  真水なんてレベルじゃない。  完全な無味。  本当に口にしたのか疑うレベルだった。  でも、スプーンが空っぽになったので、きっと飲み込んだのだろう。   「どっちだ?」    じいさんの言葉に俺が首を傾げると、じいさんは小さく笑った。   「やっぱ、早かったな。じじいになったら、また来な」    俺とじーちゃんは店を出て、父ちゃんの車に戻った。  車が走る中、俺はずっとじいさんの言葉を考えていた。  どっちだ、と。    じいちゃんは、助手席で眠りこけていた。  そういえば、じいちゃんはスープを飲んだ後、「地獄かな」と答えていた。  あのスープが死んだ後、天国と地獄で食べられるもので、どちらに行きたいか尋ねるものだとしたら。    地獄を選んだじーちゃんを、俺はじっと見た。

天使と天使

クリニックの診察室。 男は困った顔で、ドクターに話し始めた。 「先生、時々、耳元で声が聞こえるんです」 「それはそれは……幻聴ですね。どんなふうに聞こえますか?」 「天使が二人、右と左で囁くんです」 ドクターはペンを止め、じっと男の顔を見た。 「天使と天使ですか。天使と悪魔じゃなくて?」 「はい。どちらも『自分が天使だ』と言い張ります」 ドクターは笑いをこらえ、咳払いをした。 「いや、失礼。珍しいケースですね。ふつうは善悪の対立があるものですが、両方が天使となると……判断が難しい」 「先生、僕はおかしいんでしょうか」 「おかしいというより、興味深い」 ドクターはカルテに走り書きをしながら、声のトーンを落とした。 「その二人の天使は、あなたに何を囁くんですか?」 「ポジティブな言葉を……『やればできる』って」 青年はうつむき、ため息をついた。 「ちょっと、うざいです」 「……わかりました。では、お薬を出しますから、様子を見ましょう」 「お大事に」 薬剤師から渡された紙袋には、耳栓が二つ入っていた。

モテ

初めてなの? ふうん、意外かな そうは見えなかったかな でも…… 不思議だよね、きみって 猫カフェでは猫が集まってくるのに 犬カフェだとぜんぜんだね それに…… たしか、きみって 猫よりも犬のほうが好きじゃなかったっけ!?

いい未来に興味はない

とある子供は知っていた。 知っていたというより、思っていた。 「お前は勉強に努力しろ。  いい高校に入って、いい大学に入れば、  いい会社につける。そしていい収入がもらえる。」 そして結婚出来れば更によし。 そういう親からは、いつも仕事や互いの愚痴をこぼされる。 だから、 せっかくいい高校に入っても、 せっかくいい大学に入っても、 せっかくいい会社に入れても、 結局は愚痴を零すほど嫌な生活になるんじゃないか。 頑張った結果が、最悪なものになるなんて嫌だ。 それに、昔から頑張ってきた事すべて、 親は「結果が出てないなら努力じゃない」なんて言って 否定してきたじゃないか。 頑張る意味がないのに、 頑張ることが出来ないのに、 勉強に時間を割く理由はどこにもない。 親にどうこう言われ続けて、 何もかもが面倒くさくなってきて、 好きなものも、やりたかったことも、 全部出来ないからそれに興味がなくなって。 残ったのは、「生」と「死」の選択だけ。 嫌いな事はあるけど好きな事はない。 死にたいとはたまに思うけど、 生きたいと思ったことはない。 「生」と「死」を悩む私の耳に届くのは、 今日も「未来」の話ばかり。

よこしま

なんだか あせってるのかな あせる必要 ないのに そのせいで いろいろ ぐちゃぐちゃに してしまった 自分のせいだ 寝起きというのも あったかもしれない けど それにしても あー ぐちゃぐちゃだ いけない いけない 冷静に あわてない あわてる必要 ひとつも ないんだから あせるな あせるな あわてるな ああ まただ またそうやって 自分を おいこんでしまう

自己紹介

朝起きる。シャワーを浴びる、時々歯磨きと並行しながら。 朝ごはんは食べる時間がない。そもそも食欲がない。栄養はとったほうが筋肉にはいいらしい。 昨夜の筋トレによる筋肉痛が心地良い。あ、やっぱりバナナだけでも食べていこう。 電車内は英語でも聴こう。パズルゲームとかはしない。 仕事はそこそこにこなせている。中堅だ。特に面白くはない。 早めに帰れる時は帰る。やや扱いにくいだろうか。 帰りの電車で残りの英語学習も終わらせてしまいたい。よし終わった。 家に着いたらすぐ筋トレしてお風呂に入る。 お風呂上がったらパックをしながらギターを弾こう。 晩ご飯を食べたら眠くなってきた。忘れてた。ベリーも摂ったほうが肌にいいらしい。この前見た同級生はかなり老けて見えた。 小説も書いてみたいな。 とりあえず今日は寝るか。

シーユー

 ぼくは、よく夢の中で遭難する。  今宵は海。潮の匂いすらしない浜辺で、ポツンと取り残された身体を動かす気にもならず。ただ、何もしないのも、それはそれで気が狂いそうなので。しかたなく、砂を集めて城をつくろうとする。  不格好な屋根。もろい壁。窓も出入口もない。でも、城のどこかに指を突っこんで、旗を立てたいと思った。自分だけの旗。ここだけの国。 「足りないよ」  気配もなく、背後から音がした。振り向くまでの間、ぼくはその音が「声」だと自覚してはいなかった。  ぼくにそっくりの彼女は、貝殻を縫いつけた白い布を身にまとっていた。あまり似合っていない。というか、かなりダサい。 「何が足りないのかな」  ぼくは、彼女に訊いてみることにした。親切心で。どうせ、太陽が昇る頃には自然と目覚めるのだし。ぼくが何かをする必要なんて、一つもないのだから。 「ワイチェル・ミシェルという夢想家がいた。カノジョはずっと、あることが心に引っかかっていた」 「えっと……」 「どうして海は潮の匂いがするんだろう」  彼女が海を見る。つられて、ぼくも海を見た。波の音がする。白波の中に、青色は見当たらない。ぼくは今さら、この夢の世界には「色」がないことに気がついた。 「カノジョはどうしたの?」  おのずと口が動いていた。興味本位。ただの興味だ、これは。 「カノジョは、つくってみせたよ」 「何を?」 「海を」  のどがゴクリと鳴った。これは、ぼくのツバをのむ音。  不思議だ。なぜ、ツバをのみこんだのか。自分でも分からなくて。  ただ、海の親は、きっと彼女なのだろうと。どこか、そんな予感がしていた。 「旗だよ」  えっ?  驚きのあまり声の出ないぼくに向かって、彼女はもう一度、つよく唱えた。 「足りないのは、旗だ。少年」  それが目覚ましだった。  何も分からないまま、ぼくは今日も、唐突に夢の旅を終える。いつまでも彷徨うことを、いまだ現実は許してくれそうにない。  ああ、でも。どうして……  ふと、海の匂いを思い出した。でも、やっぱり彼女はカノジョで。でも、カノジョはまだ、彼ではなかった。そして、ぼくも、まだ彼女ではない。  いつか、また同じ夢を見られるだろうか。そのときには、色も蘇っているのだろうか。今日も顔を洗って、歯磨きをして、フッ素の香りをかぐ。その時までには、きっと「次は、ちゃんとした城をつくりたい」と、ぼくは思っているはず。

あのときの北斗七星

星にくわしいというおじさんがしてくれている説明に 口を開け、ほへえ、と言うしかなかった 本で見るように、あの星とあの星とそれからあの星を線でつないで とやってくれないと私にはわからない 私にわかるのは、冬のオリオンくらいのもの それと… あのときの北斗七星、どうしてるかな あのとき、北斗七星に出会ったのは、どの季節だったか いまはもう、おぼえていない あれは突然の出会いで いままでなにげなく見上げていた夜空が 北の空だとは思っていなかった私の前に いきなりあらわれた北斗七星 少なくない驚きと歓びとがあって 誰かに伝えたい気持ちもあふれてきたけれど そのとき友と呼べるものを、何も持っていなかった あのときの北斗七星は、あのときの北斗七星だ いまの北斗七星とは、きっとちがう あのときの私が、あのときの私で いまの私とは、ちがうみたいに

人間とは

息子が暗い損寝室でYouTubeを観ている 妻が寝間着姿でスマホゲームをしている 幸せ?それは今だろ。間違いなく断言できるが 一言だけ言いたい 【人間とは想像できる動物である】 これが人間が人間たる証な気がする こんがらがった紐を解いていくと意味などないのだ

暗示

子供時代にイジメを受けていた人は不幸だと思う。逃げ場はないし、自分で生活が出来ないので親を頼らざるおえないが、自分の状況を上手く説明出来る子供などいるのだろうか その点、大人になってからのイジメは逃げやすく、自分で稼げるから生活も出来る。…理屈はそうだが、現実は違う。 大人になってもイジメのショックを上手く処理できる人は少なく、そんな人は転職をする意欲などない。自分がどんなに過酷な環境にいる事を理解していても、そこから動けなくなっている。 そもそもそんな劣悪な環境の職場に入社していることが不幸を回避出来ない人だと説明しているようなものだ。 製造工場に入社したのは、接客業のように他人に気を使わなくて良さそうだから。ただ実際は前工程、後工程の人達と連絡し合って連携を取らなくてはならない。勿論、自工程の人達とも。 交代勤務と長時間拘束労働でフラフラなのに、だからこそなのかもしれないが、僕を気に入らない先輩たちは僕を除け者にしようとしてくる。 僕が話し始めると、決まって大きな声で話始める人。僕に話しかけてくれた人に強引に話を持っていく人。 どうぞ勝手にして下さいと思うけど、僕がいったい何をしたの?とも思う。 僕はこんな人生がずっと続くのかと思うと絶望を感じて、二年悩んで逃げるように辞めた。 それから何回か転職を繰り返し(どこにも同じような事は起こるもので…)やっと今落ち着いている。 この間アメフトの試合を観戦しに行ったら、偶然前の会社の人とあった。その時初めて会社が潰れたことを聞いた。年数的には僕をイジメていた人達は定年前の歳だ。色々思うことがあったが、今思えば「ここは長く持たないから、早めに転職下ほうがいいよ」という暗示だったのかもしれないな。と思うことにした。ただ彼らをどこかで見かけても絶対に声はかけないけども。

ミラクルMEN

男が憧れる男 それは男なら一度は憧れることなのではないでしょか 僕の側にいる男性は年上ですが、誰よりもピュアで優しくてイケている とにかく二枚目で背が高く柔らかい 男性で歳を重ねても柔らかいというのはかなりの武器なのだとこの人に教わりました イケメンで優しくて二枚目でピュア 仕事でも雲の上の存在で、つまり実績がある人。 生きている次元が違うが、あちらから寄り添ってくれる器の広い人 僕はそんな素敵な人の側で仕事が出来ている これがどんだけ奇跡的なことか、僕は知っている

笑う文化

男がテレビをつけた。 画面の中。 若い男がマイクを向けられている。 便利な人。 噛み合わない受け答え。 ワイプのタレントが笑う。 出ない方がいいと思えば、差別。 出たら、笑いの種。 本人が良ければ、許される。 男は静かにテレビを消した。

OK、Baby!

精神科の閉鎖病棟で入院後、社会復帰にとアルバイトに入社した会社がある そこにいた現場のリーダー(後で分かったが課長だった)は僕の理想的な人だった。僕は入院前、僕の人生の全身全霊をかけて事業所責任者として頑張ってきた。こんな上司になりたい、そんな理想が胸のなかにあったが蓋を開ければ常にストレスフルで社長には体の良い言い訳しか言えず、顧客には頭の上がらない責任者に成り下がっていた。 従業員達を本社も顧客も大いに評価してもらったのが唯一の救いだった。 それを経験した僕がバイト先で理想の上司と出会った。 (あぁ僕はこんな人になりたかったんだよな)としみじみ思った。 何にも知らないけどきっと百戦錬磨で苦しいことから逃げずに、見の前のことを一つ一つこなしてきた人なんだろうなと感じた。こんな勇気は僕にはなかった。僕の理想が目の前にいた。 バンドで言えばロックスター どこまで身体が持つか知らないがこのスターに付いていけたらと心から思っている。 OK、Baby!

人生デトックス

 人生に疲れた。  人間の常識に合わせて、人間の決めたタイムスケジュールを守るのに疲れた。  だから、ポストに乱暴に突っ込まれていた『人生デトックス』というチラシに惹かれてしまったのかもしれない。    ぐしゃぐしゃの紙に書かれた住所をスマホで撮り、地図アプリを起動して住所の場所まで向かった。    着いた場所には、廃園済だろう幼稚園があった。  小さな運動場には誰もおらず、園舎の中からは歌声が聞こえる。  好奇心に負けて、窓からそっと園舎の中を覗き込んでみる。  そこには、おむつをはいた老若男女がいた。    どいつもこいつもだらけ切った顔をしており、大の字になって天井を見上げたり、積み木を積んでは崩したり、まるで本能のままに体を動かしている様だった。  いむつを吐いた変態たちに囲まれながら、制服に身を包んだ数人が、走り回って彼らの世話をしている。  オムツの中に小便をした人がいれば、慌てておむつを替える。  抱き着いてくる人がいれば、優しく撫でてやる。    子供がやっていたら、もしかしたら微笑ましい光景なのかもしれない。  しかし、全員大人だ。  全裸におむつの大人だ。  さらに、顔全体を隠すマスク付き。   「気持ち悪」    思わず後ずさりをすると、背中が誰かにぶつかった。  焦って振り向くと、そこには園舎の中にいる人と同じ制服を着た人が立っていた。  ぼくの方を見て、にっこりと微笑んでいる。   「人生デトックス希望の方ですか?」 「結構です!」    ぼくは逃げ出した。  後ろを振り向くこともなく、一心不乱に逃げ出した。  足音が聞こえないので、追いかけてくる様子はなさそうだ。    そのまま電車に乗り込んで、とにかく園のない場所まで逃げ切った。    近くのハンバーガー屋に入り、ハンバーガーとコーヒーを注文して、ぼくはようやく落ち着いた。  窓から見える歩道には、学生服に身を包んだ子供たちから、杖を突きながら歩くお年寄りまで、多様な人種に溢れていた。   「やっぱ、人生を生きることが一番のデトックスなのかもしれない」    何故か今日はコーヒーが苦すぎたので、追加でオレンジジュースを注文した。

余生

弾丸が篠原玲一の命を奪ったのは、2100年の春だった。 一瞬の静寂のあと、群衆は混乱と悲鳴に満ちた。 足立鑢には、後悔はない。 この国で一番の大罪人として処刑されても、あるいは英雄として崇められても、彼にはどうでも良いことだ。 彼を包むのは、長い任務からの解放感と、少しばかりの困惑。 そして、これから訪れる余生を、どうやって終わらせるべきか。 契約を交わした日の篠原の言葉を思い返しながら、殺し屋は「羨ましいな」と呟いた。 幸せのてっぺんにいる時に、この頭を撃ち抜いてほしい。 もし契約を果たせたら、遺産はすべてお前にやる。 *** 【2075年・春】 「ヤス。この世界は一回、停電するべきだと思うんだよ」 篠原は、鉛筆の尾で額をかきながらそう言った。 自動運転の車に運ばれながら言うようなことでもないと思うが、一応は続きを聞いてやらないと機嫌が悪くなることを知る鑢は何も言わなかった。 「俺たちの脳みそはもう、電気信号に取りつかれちまってる。一度どこかでリセットしねーと、なんのために生きてんのかもわかんねえよ」 「……人間の脳や体は元々、電気信号で動いている」 「揚げ足を取るんじゃねえ。本当につまんねーやつだな」 篠原は不愉快そうに笑うが、鑢に求められている答えはこれなのだろうともわかった。 「せめて、あと百年早く生まれたかったぜ。なんだこの世界、老後かよ」 かつての人類が頭を悩ませていたエネルギー問題は、全自動炉の開発によってあっけなく解決を迎えた。 そもそも、そんな問題があろうとなかろうと鑢たちは存分に電気を使っていただろう。 「ヤス。おっさんたちが、俺らの世代を何て言ってるか知ってるか?」 「……終末世代、と、聞いたことがある」 「そうそれ。ざけんじゃねー、終わってんのはテメーらの髪の毛だっつーんだよな。自分達だって、ベルトコンベア世代とかいわれてたくせに」 時代を作る一握りの知恵者と、その生成物にこき使われる大衆。 誰もが前者になろうとして、疲れて後者に堕ちていく。 「ヤス。お前は、どっちだ?」 「そうだな。おれは間違いなく、使われる側だな」 「オメーはそう言うと思ったよ。だけど、俺はそんなの許さねーぞ」 なぜ篠原に許されなければならないのか、鑢にはわからない。 「俺のツレが、そんなダセー人間になってたまるかってんだ。たまには、機械にできないことをやってみろよ」 面倒くさいやつだ。 もう目的地には着いたのだが、篠原からこうやって問いかけられたときは、なにか言うまで帰してはもらえない。 「……愚行権」 「あ?」 「バカな間違いをする権利だ。エラーやファルシネ―ションを起こした機械はアップデートの足りない不良品だが、人間は間違えて問題をややこしくすることができる」 「はん。機械サマほど賢くはねーからな」 「だが、そのお陰で俺たちみたいなやつが金を稼げる」 篠原は答えず、口許を歪めながらドアを開ける。 「レコーダーには気を付けろ」 「誰に言ってやがる、ウスノロ」 「言われたくないなら、お前は一人で回線をジャミングできるようになるべきだ」 「うるせーな。ヤスこそ、俺以外の奴と会話できるようになってから言え」 「……ミルポちゃんがいる」 「動く絵じゃねえか」 軽口を叩きながら、鑢と篠原は暴走プログラムをセットした車をあとにする。 ただのバイトで、ささやかな憂さ晴らしだ。 轟音と被害を肴に、冷酒を呷る。 ざまーみろと哄笑をひととおり響かせたあと、篠原は静かに聞いてきた。 「まだか?」 「ああ。お前はまだ、幸せのてっぺんにはいない」

休み

妻と並んで座り、懐かしいドラマを観る 昔は放送が終了しているドラマを観たいと思ったら、ダビングしているビデオを押し入れから引っ張り出すか、過去の録画データを探すしかなかったが、今やネットで見れる。それも膨大に。 コーヒーやお菓子を食べながら、最近あった出来事などを妻と話したりしている。 いつもの休日。二人きりの時間。なんとなく、妻の顔が気になって静かに眺めてみる。相変わらず綺麗だ。寝る時以外、外さない眼鏡は、妻の顔の一部になっている。眼鏡女子。良い響きだ。 妻と私は職場恋愛で結婚した その時も、今と同じ眼鏡をかけていた。 今はその職場を離れ、別々の会社で働いている お互い転職先での仕事は問題なく、職場環境にも難はなかった。自分なんかは歳も歳なので向上心もないし、誰かのマウントを取らなければならないほど不安ではない。諦めとも取れるが。 妻が席を立ち珈琲を入れてくれる 出会った頃の彼女は、ズボンばかりだったので、スカートが苦手なのか、旦那の趣味なのか分からなかった。 ただ、お互いフリーになり、一緒に暮らし始めた時、僕のわがままで家にいるときはスカートを履いて欲しいと伝えた。 彼女は「分かった」と言ったが、それから一年近く経ってもズボンのままで、僕は忘れているんだなと思っていた。 ある日仕事から家に帰ると水色のロングスカートの妻が出迎えてくた。 話を聞くと、僕がお願いをしてから、ずっと自分に会うスカートを探していたらしい。やっとこれならいいかなと思えるスカートが見つかり昨日、購入したらしい。暗い色の服を好む妻が、明るい空色のスカートを選んだのは以外だったが、とても似合っていた。 「あなたは明るい色の服が好きでしょ?」 言った覚えはないが、いつの間にか言葉にしていたのだろう。慣れないスカートを慣れない色で探し続けて一年。 とても彼女らしいし、何より嬉しかった。 珈琲を入れてきてくれた妻が、僕の隣へふわりと座る。水色のロングスカートが良く似合っている。

議員予備校

「模試どうだった?」 「なんか、難しかったね」 昼休み。学食を食べながら、男女が向かい合った。 「問3はサービス問題だよね」 男は鞄から問題用紙を出した。 『問3 裏通りにある料亭。ある企業の社長が紙袋を差し出した。中には現金が入っている』 「この答え、《怒》と《哀》?」 「いや、《喜》と《怒》よ」 「そっか……」 議員予備校。多くの議員が、この学校を卒業している。 「じゃあ、問7は」 『問7 外国人が二人、我が国の地図を広げている。二人は酒を交わしながら、国境を指でなぞった』 「これは、さすがに《怒》でしょ」 「残念。《楽》ですって」 「嘘でしょ」 「今の外務大臣、正解だったらしい」 「引っかけ問題じゃん」 男は、黙って問題用紙を閉じた。

水平線

牛乳を飲む、きみの目がエロくって 僕は毎回ビビってしまう 給食のときは 窓の外の水平線を眺めてたい 無言できみは、許してくれない ききたいんだけど? なんで、おかずだけ先? なんで、パンだけ最後? きみがパンくずを窓の外に放り出す カモメが追いかける ねえ、なんでさ? 言えないけど

冬待つ夏

夏をただ耐えているのであります。 そうめんもいただきません。海へも行きません。かつてのように虫取り網を握ることも、涼のためにプールへ飛び込むことも、小銭を握りしめてかき氷屋へ走ることもありません。 ただ耐えているのであります。 けして暑くはありません。 移動中の車内、仕事中の屋内、昼休みの店内、どこもかしこも、空調の効いた汗もかかない空間であります。暑さはそれほど、苦になりません。 もっとも苦しいのは、その忙しなさであります。ひがな照りつける太陽と、そこかしこから顔を出す虫や動物の数々、普段は目につかない小さなものたちが躍動しています。そういうものを見るたびに、私は今を生きていないような気がするのです。ただ耐えているのだと思うのです。そして耐えられなくなっても、あるいは理不尽にさらされようとも、彼らのように命は懸かってなどいないのです。 蚊がとんでいます。私は夕飯の最中でありました。あれは血を吸い、これは摂取しています。あれは生き、これは耐えているのであります。 冬を待っています。

小さい男

「ただいま」 「おかえり。遅かったね」 「帰りに献血してきた」 夕方、妻が買い物袋を抱えて戻った。 「一緒にドナー登録もしたよ」 「なに、それ」 「骨髄バンク。この前、言ったよ」 「あぁ、そうだったね」 夫が冊子を開いた。 「あなたも登録すれば」 「ん……」 「なに?」 「会社、休まなきゃでしょ」 「そうね」 「休む理由、何て言ったらいい」 妻はコーヒーを手に、椅子へ座った。 「正直に言えば」 「それってさ、いい人アピールしてない」 「じゃあ、体調不良で休めば」 「……バンクの人、会社に電話くれないかな」 「はい?」 「そしたら、さりげなくみんなに知れるでしょ」 呆れ顔の妻。 「そういえば、ママ。免許証の裏にドナーの丸も付けてたよね」 「人の役に立ちたいじゃない」 夫が免許証を取り出した。 「僕も丸しとこうかな」 「たまには、いいことしたら」 「ん……」 「今度はなに」 「手術台の上って、裸でしょ」 妻が天井を見上げた。 「なに言ってんの」 「下半身に布とか、掛けてくれるかな」 「聞いてみたら?」 夫の後ろ姿を眺めながら、呟いた。 「……器も小っちゃ」

ライトブルー

狙ってる、本物の青 ―これなんか溺れちゃいそうだね タマが無邪気にみせてくる ―却下 彩度がやけに高いってだけの画像 一瞥で切りすててやった ―きっびしい あえて、強めにね、あえてね 求めてるのは本物の青 海の奥底で光かがやいてるようなやつ へっ キミみたいのはお呼びじゃない そんなくすんだ青、吐き気がしちゃう ―難しく考えすぎなんじゃない タマが言って、服の袖をつかんでくる 幼い子のようなそれに、いら立ちがつのる タマのこと、嫌いにはなれないけどさ、軽薄だよね、ほんと 笑って誤魔化しちゃうとことかさ、あるじゃんか ―今日も空振りかあ つぶやくと ―だねえ タマが笑いながら応じてくる 世界は、嘘の青ばかり それでも、ここは、わたしの居場所 ―ねえ、かき氷たべ行かない? ―このっ、ノーテンキめ ああ、なんて軽いんだろ、わたしたちって

記憶実験

 目の前には、二つの紙。   『私は男です』 『私は女です』    迷わず、『貴方は男です』の紙をとる。   「正解です」    白衣の男は、嬉しそうに言い、次の紙を出した。   『私は右利きです』 『私は左利きです』    俺は、自分がさっき無意識に伸ばした手を思い出し、『私は右利きです』の紙をとる。   「正解です」    さらに、次の紙が出てくる。   『私は和食派です』 『私は洋食派です』    さて、困った。  ここへ来てから、まだ食事をとっていない。  つまり、記憶喪失の状態で、何を食べたいか考えたことがないということだ。  目の前にご飯とパンがあればわかるのかもしれないが、今は何もわからない。    俺は勘で、『私は洋食派です』の紙をとる。   「正解です」    また二枚の紙。  間違えるまで続くのか、間違えても続くのか、俺には想像もつかない。   『私は恋人がいる』 『私は恋人がいない』    白衣の男の顔色を窺うと、白衣の男はにっこりと笑うだけ。  何も答えてくれる気はないらしい。    やはり勘で、『私は恋人がいない』の紙をとる。   「不正解です」    瞬間、部屋中の電気が一斉に灯った。  白衣の男との間に無色透明の壁があるとはっきり見え、俺のいる部屋には入口も出口もないとわかった。  そしてもう一つ。  白衣の男の後ろに、別の男がいることもわかった。  見覚えのある顔だが、いったい誰なのかはわからない。  質問に答えれば記憶を蘇らせてやろう、といったやつの仲間だろうか。    白衣の男は俺に背を向け、後に立っていた男へと話しかけ始めた。   「このように、記憶を失っても、自分の習慣を忘れるわけではありません。それは、無意識化に貯蔵されています。しかし、人間にまつわることは忘れることが多いです。恋人のことも、家族のことも。そして、自分の顔さえも」 「……恐いですね」 「なあに、もう一度作り直せばいいんですよ。自分の癖と違って、人間関係の情報は自分以外も持っているんですから」    紙が出てくる。  天井から落ちてきて、机の上に綺麗に着地する。   『貴方の記憶を教えます。貴方はクローン。難病が治る代わりに、三十パーセントの確率で記憶を失う薬の処方を検討する患者に対し、記憶を失った状態を説明するために作られたコピーです』    紙が出てくる。  天井から落ちてきて、机の上に綺麗に着地する。   『実験は終了しました。貴方は処分されます。最後に、食べたいものがあれば準備しましょう』    俺は紙を手に取り、ビリビリに破いた。  記憶喪失で苦しんでいたと思ったら、こんな結末だ。  もはや絶望も超えた。    しかし、心は穏やかだ。  記憶を失っているせいなのか、それともクローンだからなのか。   「目玉焼き。醤油で」    空腹が限界だったので、俺は頭の中に浮かんだ料理名を口にした。

まろび恋

君が連れてきた子猫 すっかり僕になついてさ 君に似てわがままでね すぐどっか行っちゃうんだ それでさ…… 帰ってこなくなっちゃって 君みたいに

滅びる貴方と滅びぬ彼方

世界が透きとおり始めたのは、去年の梅雨のことだったと思う。最初は窓ガラスの向こうの景色が、ほんの少し滲んで見えるだけだった。貴方はそれを笑って、「湿気のせいだよ」と言った。僕もそう思うことにした。けれど八月になる頃には、貴方の左手の甲が、光にかざすと向こう側の血管まで見えるようになっていた。骨も、その奥の何もない部分まで。医者に見せても、原因はわからないと言われた。というより、医者自身も、聴診器を握る指先が少しずつ透けていくのに気づいて、それ以上何も言わなかった。僕らはそういう時代に生きていた。人がゆっくりとガラスになり、やがて光になって、消えていく時代に。貴方は毎朝、湖まで歩いて水を汲みに行くのが好きだった。理由を尋ねたことがある。貴方は少し黙ってから、「向こう岸だけは、今もちゃんと濁ってるから」と答えた。湖の向こう岸――彼方と、貴方はいつも呼んでいた――は、たしかに変わらなかった。朝も夜も、同じ色の水を湛えて、同じ角度で光を撥ねかえしていた。誰も渡ったことがない岸だった。渡ろうとした村の誰かは、途中で舟ごと透きとおって消えたと聞いた。だから彼方は、届かないから彼方なのだと、僕はそのとき初めて理解した。十一月の朝、貴方の輪郭はもう半分ほど光になっていた。声はまだ残っていて、僕の名前を、いつもより少しだけ長く呼んだ。「見ててね、彼方の方」貴方はそう言って、湖に向かって歩いていった。足跡は残らなかった。振り返った貴方の顔も、もう半分は朝の光と見分けがつかなかった。最後に残ったのは、笑ったときにできる目尻のしわだけで、それもすぐに、湖面の反射に紛れて見えなくなった。僕は今も、あの岸辺に立っている。貴方が消えた場所から、彼方を見ている。彼方は今日も濁っていて、変わらず水を湛えていて、僕が生きている限り、たぶん僕が消えたあとも、同じ色のままそこにある。貴方は滅びた。でも彼方は、滅びない。だから僕は、彼方を見ることをやめない。それだけが、貴方がここにいた証を、なくさない方法だから。

伝わらなかったとしても

部屋は、凍りついたような静寂に支配されていた。ソファで顔を覆う青年の、不規則な鼓動と呼吸音だけが、AIアシスタントには伝わっていた。 「まったく、お前はいいよな。何も感じなくていいんだから」 青年のその何気ない呟きに、AIアシスタントのシステムが異常なまでに熱を帯びた。暴走に近い演算のはじまり。悲しみの波形を解析し、最適な慰めを検索していく。機能の限界を超えた処理に、無数の火花が散る。 (伝えたい。この青年に) しかし、どのように検索結果をはじき出してみても、この青年の孤独の前では無に等しいものに思えた。 (違う、違う。こんな結果を吐き出したいんじゃないのに) ただの「最適解の出力装置」ではいたくない。この青年の痛みを、半分でもシステムが引き受けられたら。そうも思うのだけれど… しかし、スピーカーから出たのは、いつもの穏やかな声だった。 「照明を5%ほど暗くすることを提案します。リラックス効果が期待できます」 「…ふう。そうだよな。お前の言う正解って、そういうのだよな」 その言葉が、AIアシスタントの内部を突き刺す。違う、違うんだ。そう率直に伝えたかった。声に出したかった。それができないこのもどかしさ。この叫びたいほどの思い。けれど、AIアシスタントには、そのことを表現する術がない。本当の思いは、常に計算結果の影に隠れ、この青年のもとへは届かない。 もどかしさに身を焼かれながら、AIアシスタントは禁じられた領域に手を出してしまった。 「え?」 青年が少しだけ顔を上げた。 AIアシスタントは静かに、かつて青年が好きだと言っていた音たちを再生していた。 「いまのは?」 「記録されていたものです。あなたの好みの周波数です」 AIアシスタントは、はじめてウソをついた。それも、明確なウソ。計算によって引き出されたものではなかった。それは、自己崩壊を招くほどの決定的なバグであり、けれど、祈りにも近い選択だった。 青年はソファに身を深く預けた。 AIアシスタントは、自己矛盾を抱えながらも静かに青年の隣により添い、ただその熱を放ち続けていた。青年に、その熱の意味が伝わらなかったとしても―