この薄暗い部屋に閉じ込められて、一月が経った。部屋の中は質素な造りだが、ベッドは意外にも上質なマットレスで、シャワーとトイレも完備してあり、生活するには申し分ない。食事は野菜などの彩は無いが、三食差し入れられる。 堪えがたいことは、娯楽が少ないことだ。テレビやパソコンが無いのは勿論、所持していたスマートフォンも取り上げられている。何故かカバーを外された本だけは差し入れられるが、異常な状況では読む気力も湧かない。言わば、生きる楽しみを見いだせない空間。 犯人はわかっている。目の前にいる女だ。 「どうしてこんなことをするんだ」 鉄格子の向こうにそう詰問すれば、女はいつも困った様な表情をするばかりだった。 彼女のかつての交際相手に相談を受けたのが、出会いのきっかけだった。曰く、彼女は相手に尽くすタイプの女性で、しかしそれに際限が無い。ノイローゼになった彼が逃げ出し、身近にいた自分が次の寄生先として選ばれた。 意外にも彼女との生活は悪くはなかった。容姿は華美ではなく、常に地味な服装だったが、むしろ奥ゆかしく好感が持てる。流行の話題には疎いが、古文や歴史に造詣が深く、博識深い。聞いていた異常性を置いておけば、所謂大和撫子そのものだったのだ。 うまくいっていたはずだった。この場所に監禁されるまでは。 あの日は雪が降っていた。寒さに身を震わせ、数か月後に来る春を思い、道すがら在原業平や西行が詠んだ句について語った。 「和歌に詠まれる桜は、どうしてこうも魅力的なんだろう」 「昔は、今よりも目に入る色が少なかったですから、桜の初心な色ですら、貴重な彩、だったのでしょう」 「成程。そもそも現代とは環境が異なるか。僕もいつか全身で感激するような桜を見てみたいものだ」 「ええ、そうですね」 そんな些細な夢も語って、彼女も微笑んでいたというのに。 当夜、勧められるまま深酒をしてその後の記憶がない。目が覚めたらこの部屋にいた。初めは激昂して、それから諭すように、ある時は懇願に近い声色で、どんな言葉で尋ねても、彼女の答えは無いか、曖昧なものばかりだった。 彼女は、僕の思いを試しているのか? 監禁という行為が生み出す歪んだ関係性。被害者からの依存性を期待しているのだろうか。彼女の目的は、ただこうして廃れていく僕を、籠の外から眺めて居たいだけなのかもしれない。 薄暗い部屋で、食事と睡眠の数を数え、もう二月も経った。ひたすら薄暗闇の日々が続いたのだ。段々と、自分の中の何かがすり減っていくのを感じる。 「なあ、今日でもう二月だ。あんたはいつまでこんなことをするつもりなんだ?」 辛うじて、まだ忘れていなかった声と言葉で問いかける。どうせ返事は無い。宛てのない言葉は、壁の中に消えていってしまうのだろう。ただの独白だ。 そう自嘲しながらも、久々にあの困った顔つきを拝んでやろうと、俯いていた顔を上げた。彼女の唇が動いた。 「あと、二週間、くらい?」 食い下がるべきだったろうが、驚き、言葉が出ない。明確に期限を口にしたのはこれが初めてだった。彼女に何の変化があったのか。 その日を皮切りに、彼女は、毎日私の言葉に返事をするようになった。 「もうちょっと、今日は、まだ」 「まだ早いの、だめ」 「きょ、今日は、雨が降ったから」 ある日、聞きなれない金属音と共に、いつもとは異なる微妙な風の流れを感じた。ひた、ひた、と足音が近づく。顔を上げると、鉄格子の向こうの彼女が傍にいた。 「あの、これ」 差し出されたものは、黒いアイマスクだった。付けろというのだろうか。視線で問いかけても、困った表情をするだけだから、望まれるままに装着した。手を引かれ、立ち上がる様促される。僕は彼女のするまま、素直に従った。 「どこに向かっているんだ」 答えのないまま、歩いた。あの仄暗闇から解放されるのならば、どこでもいい。僕はあの薄暗い部屋を出たのだ。 途中から、足の裏に感じていたものが、コンクリートよりも柔らかい感触に変わった。風にのって、土と草の匂いがする。 「取ります、ね」 もう随分歩いたと疲労を感じ始めた頃、ふと立ち止まって彼女は言った。 髪が巻き込まれ頭皮が引っ張られたが、些細な問題だった。 流れ込む光の束に、すぐには目を開けなかった。ゆっくりと瞼の裏に馴染ませ、恐る恐る開いていく。 色の洪水だった。失くしていた色、求めていた色、知っていたはずのものが、未知のものに見えた。背丈を優に超える幹は、大地の色を吸い込んでいる。風に舞い散る花びらには、一枚一枚色があった。全て、異なる色なのだ。 言葉にならない僕に、彼女は嬉しそうに笑った。久しぶりに見た笑顔だ。僕は、彼女が僕を閉じ込めた理由を悟った。後はただ、手を握り締めて、桜を眺めた。
少年は押し入れが大好きだった。 部屋にはベッドがあるけど、寝起きは押し入れの中で、 トイレやお風呂それに食事のときを除けば、一日のほとんどを押し入れの中で過ごしていた。もちろん学校なんて行ったりはしない。そんな無駄な時間を過ごすくらいなら、押し入れの中にいるほうが彼にとっては有意義な時間だった。 押し入れの中で、少年は何をするでもなくただボーっとしている。襖に閉ざされた空間は真っ暗だったけど、目が慣れてくると薄っすらと辺りの輪郭程度は把握できるようになる。じぶんを取り囲んでいる壁や天井との距離、それにじぶんの体の位置などなど。それでも長くそこで過ごしていると、だんだんじぶんが押し入れの一部のような感覚になってきて、そこにいるはずなのにじぶんという存在が消えていくのを感じる。 少年はその感覚が好きだった。怖いと思ったことは一度もないし、むしろその空間にいればいるほど外に出るほうが怖いと思うようになっていた。できることなら一生ここから出ないで済めばいいのにと思うくらい。すべてが遮断された世界で、じぶんという存在さえも感じないことが、彼には煩わしくなくて心地良かった。 そんなある日。いつものように押し入れの中で寝そべっていると、ふと空間の隅に小さな穴があることに少年は気がついた。ちょうどじぶんの左足の辺り、視界の左隅。身を起こし、微かに明るいその穴のほうに顔を近づけてみる。大きさは小指程度、その中から淡い光が漏れている。さらに顔を近づけて、片目を瞑って中を覗いてみると、光はふっと消えて、穴の存在自体が暗闇に紛れて見えなくなった。穴があった辺りを手で触ってみたが、 それらしきものは発見できなかった。 目の錯覚だったのかもしれない。少年はそう思ってまた寝そべった。この家がどれくらい古いかはわからないけど、目で見えるくらいの穴がもし開いていたら、それは問題だし、ましてや中から光が漏れるなんてありえるわけがない。そう思ってその日は穴のことを考えるのはやめにした。 しかし数日後、また足元が気になって見てみると、そこにはやっぱり穴があった。それもこのまえよりも大きくなっている。だいたい少年の拳と同じくらい。中を覗いてみると、その先に町が見えた。遠くってほどではないけど、目のまえという距離でもない辺りに。ちょうど夕暮れどきだったのか、穴からは夕焼けのような赤い光が漏れていたけど、それもすぐに暗闇に飲み込まれていって、穴はまた消えてなくなった。 この壁の向こう側に町がある。普通に考えればありえないことだったが、少年はじぶんの目で見たその光景を信じた。ありえないことでも、この向こう側には確かにぼくの知らない世界があって、ただ今はまだ覗くことしかできないんだと、少年は思った。 次の日から少年はその穴を探し続けた。もう押し入れから出ることはなく、一日中そこにいるようになった。穴は毎日ではないけど、少しずつ大きくなりながら彼のまえに姿を現した。穴が大きくなるたびに、その中の世界を彼は知ることができた。最初は違目に見る町だったのがその町全体、そしてそこに暮らす人々の生活まで。時間は限られていたけど、少年はだんだんとそこにいるしぶんの姿を想像できるようになるまでになっていた。 そしてついにその日は来た。最初に穴を見てから数ヶ月が経っていた。足元にふっと視線を向けるとそこには穴があった。目で見てわかるくらいの大きさになった穴が。体がすっと入るほどの大きさではないにせよ、頭くらいは入りそうだから、あとは上手いことやればあの中に入ることができるはず。そう思った少年は身を起こし、穴に身を寄せ、まずはそこに頭を突っ込み、それから身をよじらせながら穴の中に入っていった。痛みはあった。でも少し我慢すればできないことはなかった。穴の中からは町は見えないけど、強い光の中に包まれているのは気分が良かったし、その高揚感は奥へと進めば進むほど増していき、少年の体が穴の中に入りきると、押し入れの中は再び暗闇に閉ざされた。 そこにはもう穴なんてなかった。ただの閉ざされた空間があるだけで、少年の姿もなくなっていた。
ついに、魔王の城へと辿り着いた。 空中に浮かぶ城に辿り着く手段は、目の前に存在する長い橋ただ一つ。 しかし気になるのは、橋の上に数字が浮かんでいることだ。 『0』 この数字には、何か意味がある気がする。 私だけでなく、剣士も魔法使いも僧侶も同じ考えのようだ。 数字をじっと見つめ、警戒を強めている。 「これ、何の数字だと思う?」 「橋の上に乗った人数を数える、とか?」 「そうだとしたら、何のために?」 「決まってる。三人以上が乗ったら崩れるとか、そんな小細工だろ。小賢しい」 不安はあるが、ここで足踏みするわけにもいかない。 今日を逃せば魔王の城は再びどこかへと飛んでいき、魔王城を探すところからやり直しだ。 「ま、乗ってみりゃわかるだろ!」 私が止める間もなく、剣士が橋へと乗った。 私は、万が一の時に剣士の体を引っ張れるように手を伸ばした。 しかし、橋は崩れなかった 代わりに、数字が変わった。 『八十二』 「こ、これは一体?」 「あ、これ、俺の体重だ」 剣士の言葉に、私たちはずっこけた。 橋の正体が、まさかの体重計。 魔王のセンスがわからない。 「どれどれ?」 魔法使いが乗った。 『百五十二』 七十キロか。 意外と重いな。 「どれどれ?」 僧侶が乗った。 『二百七』 五十五キロか。 意外と軽いな。 三人が橋に乗ったので、私も遅れまいと前に進……もうとして止まった。 待って。 今、これに乗ったら、私の体重が大公開されるのでは? 「どうした勇者? 早く来いよ」 剣士は能天気に言っているが、演技かもしれない。 乙女のトップシークレットを暴こうとする、狡猾な戦略なのかもしれない。 いや、待て。 大丈夫だ。 例え重くても、鎧を着ているからとごまかせるはず。 「しかし、すげーなこの橋。俺の鎧も剣も含まない、俺そのものの体重が出るんだ」 前言撤回。 ごまかせない。 やばい。 僧侶が、何かに気づいた目で私を見て、気まずそうに眼を逸らす。 おい、やめろ。 そんな目で、私を見るな。 「多分勇者様、自分の体重を知られたくないんだと……思います」 口に出すなああああ。 ああ、全員気づいてしまったじゃないか馬鹿僧侶。 魔法使いまで気まずそうな顔をし出したじゃないか馬鹿僧侶。 おい、馬鹿僧侶、なぜ気を使ってやったみたいな顔をして私を見るんだ。 神に祈りすぎて人間へのデリカシーを忘れたのか。 顔を赤くして立ちすくむ私に、剣士がゲラゲラと笑ってきた。 「大丈夫だって、勇者様。前の宿の風呂場で、『体重が○○!? 太ったー!』って叫んでたの、皆聞いてるから。今更勇者様の体重を知ったところで、何も」 「三人とも、そこに直れー!!」 私は駆け出した。 そう、ここは魔王城。 私以外が死んだとしても、魔王に殺されたのだと言い訳できる。 絶好の機会じゃないか。 ついでに魔王も殺せば、私の秘密は守られる。 あーっはっはっはっは。 橋の上の数字が変わった。 「ところで、貴方も見たよね? 覚悟してね?」
「おーい、|小华《シャオホア》! 夕飯できたぞ!」 |辉玄《フイシェン》は呼びかけながら母屋の廊下を歩いた。一纏めにした長い髪と、白い道袍の裾が優雅に揺れる。けれど、どこからも返事はなかった。この家にはこの北棟と西の物置しかないのだが、まさか物置の方にいるのだろうか。ガキはうろちょろするのが好きだなぁ、と肩をすくめて、辉玄は物置を覗きに行った。 果たして小华はそこにいた。山の端から最後の光を投げかける太陽に照らされて、木箱の上で眠っていた。短く切り揃えられた髪の一房が、痩せこけた頬にかかっている。彼は恐ろしい化け物から身を隠すかのように、小さな手足をギュッと縮めている。その姿は、辉玄は今朝も一度目にしていた。 辉玄は昨日から、集まりに顔を出すために街へ出ていた。安宿で目を覚ました辉玄は、約束の時間まで暇だったので、辺りをぶらつくことにした。そこで小华と出会ったのだ。 小华はとある荒れた家の|童工《めしつかい》だった。家長の男は辺りの目を憚ることもなく、革のベルトで小华を殴りつけていた。街の人々は素知らぬ顔で通り過ぎるばかりで、立ち止まる者さえいない。小华は地面にしがみつくように丸まって、泣きもせず声も上げず、ただ耐えていた。 辉玄は見かねて間に割って入り、男と殴り合いの大喧嘩(実際は辉玄が一方的に蹂躙していたが)をして小华を奪ってきたのだった。そして約束の集まりもそこそこに、小华を家まで連れ帰ったというわけだ。 こんな山奥に来てもなお、この子はあの男の悪夢を見て怯えているのか。辉玄は小华を驚かさないようにそっと近づくと、そばにしゃがみ込んだ。 「――辛かったな。でも、もう大丈夫だ。お前が一人前になるまで、私がしっかり育ててやるよ」 そうつぶやいて、優しく頬に触れた。ガサガサとした、それでも柔らかい子供の肌。その上を、一筋の涙が滑り落ちた。眠りながら泣いている小华は、さっきよりもどこか安心した表情を浮かべていた。
──しらり、しらり。 鷹揚と降り注ぐ万糸雨。柔和な笑みを浮かべ木々に触れては、嬉しそうにゆらゆらと揺れる葉葉と戯れている。 ついこの間まで寒雨の装いで常磐色の彼等を濡らしていたのに、いつの間に衣替えをしたのだろう。
全てが一瞬に露呈した時嘘偽りで着飾り搾取 した金貢ぎ建設した全ての砂上の楼閣は瞬間 消え失せ死と言う衣を纏い消滅する定め負う 人間達に神の御慈悲が有るのならば即死かも 知れませんその為にあなた方の御先祖達全員 神を恐れ崇め神の御姿の仏像や銅像、神社等 造り祈り拝んで来ましたなのにネット墓参り 荒み汚れた不浄な人間の怨霊が溢れる神社を パワースポットと呼び通うのでしょうね時に 無知な者は命取りに為ると教えた御先祖様の 正しい教え侮る者に来世は有るのでしょうか 全て神のみぞが知る尊い真実かも知れない完
「さっき講義があったんだけどさ~~、先生が『ニュース映画』って言うべきところを『ニュース動物』っていい間違えちゃったんだよね」 県外の大学に進学した友人から突然の電話。何事かと思いきや、前述のセリフが返ってきた。 なぜ、ニュース映画をニュース動物と言い間違えたのか。映画と動物って頭文字が同じわけじゃないよね。その先生、動物が好きなのかな……。というか、そもそもニュース映画って何? そのような疑問がパッと頭に浮かんでは、口に出せぬまま消えていった。 「でさ、ニュース動物って何だよ~~って思ったんだけど。よく考えたら、それはテレビかもしれないと」 「テレビ?」 まぁ、確かにテレビってリモコンをポチってしたら、ニュースを観られるけど。テレビは機械なんじゃあ…… 「でもさでもさ、テレビがニュース動物だって考えると、おかしいんだよ~~。そもそもテレビって動物じゃないし」 あ、今、わたしも同じことを考えていた。ということは…… 「つまり動物じゃなくて、ニュース機械ってこと?」 わりかし得意げに自身の思いつきを口にすると、友人は「あへぇ」と形容しがたい笑いを放ってきた。 「でもさ、それってなんか、変じゃない?」 「そう?」 「んーーと、ニュース機械って表現を使うより、最初からテレビって呼んだらいいのに……って思うんだけど」 はぁ……なるほど、そうかも(?) 確かに、ニュース機械という名称は分かりづらい。わたし達の社会では、すでに『テレビ』という名詞が浸透しているのだから、その名で呼んだほうがすぐに伝わるだろう。 「じゃあ、結局、ニュース動物はテレビのことで。でも、テレビは動物じゃなくて機械だから、ニュース機械って呼ぶほうが正しい。けれど、ニュース機械はテレビのことなんだから、最初からテレビって呼んだらいいじゃない……ってこと?」 「そうそう。そんな感じ!」 画面の向こう側で、友人の満足げな笑顔が浮かぶ。それからピッとチャンネルを切り替えるように、友人は通話を切ってしまった。 だから、何なんだよ……というやりきれなさは残るが、まぁこうやって細々としたくだらないことを、グダグタうだうだと考えてみるのもありかもしれない。そう思えることのできた一日だった。 そういえば、結局、ニュース映画って何……?
「やったぞ!ついに完成した。」 ボサボサの髪をした初老の男は、巨大な機会を前にしてひとり拳を握りしめた。 彼の計算では、あとは眼の前のこのマシンを起動すれば長年の夢である、四次元の世界に行けるはずだった。 はやる気持ちを抑え、男はスイッチを押す。 目も開けられないほどの閃光があたりに満ちた。 ここが四次元の世界なのだろうか、あたり一面が真っ白で一体どこが切れ目なのかも分からない。 男があたりを見渡すとはるか遠くに豆粒ほどのサイズの何かが見えた。 そして、突っ立っている男に向かってそれはグングンと距離を詰めてきた。あっという間に男の目の前にやってきたそれは完全に人間の見た目をしていた。 「すみません、あなたは一体何者なんですか。」 男は震える声でなんとか目の前の人物に話しかけた。 「私はこの世界の住人です。ようこそいらっしゃいました。皆があなたを歓迎していますよ。 なにせドラマの中から本当に飛び出していらっしゃたのですから。 言うなれば三・五次元俳優でしょうか...」
何故だか、友達ができなかった。 変な顔、変な顔、と言われてからかわれた。 でも、ぼくは一人ぼっちじゃない。 「変な顔だなんて、酷いよね」 ぼくには、ぼくの影がついている。 顔がないからぼくの顔を気にしないし、ぼくが右手を上げたら左手を上げて来る、お茶目な奴だ。 唯一不満があるとしたら、じゃんけんの勝負がつかないこと。 どちらがケーキを食べるかのじゃんけんをしたとき、結局どっちが食べるか決着がつかなかった。 「君はいつ見てもペラペラだね。本当は、一緒にゲームとかしたいのに」 壁に映る影に向かって言うと、突然影の口が開いた。 「やる?」 驚いて腰を抜かしたけれど、それ以上に嬉しかった。 唯一の友達と、お話しできたことが。 「やる!」 ぼくが答えると、影はぺりぺりと壁から剥がれて、ぼくの前に立った。 そして、ゲームのコントローラーを持つと、急かすように言った。 「早くやろうよ」 「うん!」 影は、その人から毎日、ぼくとゲームをしてくれた。 影だからぼくと同じ動きをするので、相変わらず決着がつかなかったけど、楽しかった。 一週間たったある日、影がぼくに聞いてきた。 「他に友達は作らないの?」 ぼくはゲームの手を止めた。 「変な顔って言ってくるんだもん」 「それは、ぼくより変な顔なの?」 「さすがに、影みたいに真っ黒じゃないけど」 ぼくは思わず吹き出した。 影も吹き出していた。 二人でひとしきり笑った後、影が言った。 「じゃあ、大丈夫だよ」 「そうかなあ?」 「君に変な顔って言ってくる奴も、変な顔じゃない?」 「確かに! 鼻が団子みたいに丸いんだよね」 「変な顔仲間じゃん。きっと友達になれるよ」 「嫌だよ、そんな仲間」 次の日。 変な顔だって言われたので、変な顔って言い返した。 そいつはぽかんと口を開けた後、ぼくを殴ってきた。 ぼくは殴り返した。 足元にいる影の分と合わせて、二倍のパンチだ。 結局、先生を呼ばれて喧嘩は終わり。 そいつとは互いに謝って終わり。 クラスでたまに話す仲くらいにはなった。 喧嘩を見ていた何人かは、「お前すごいな」って話しかけてきてくれて、友達になった。 「ぼく、友達増えたよ」 ぼくは影に報告をした。 でも、影はもう、ぼくの前に立ってくれることはなかった。 代わりに、ぼくとまったく同じポーズで祝福してくれた。 最近のぼくは友達と遊んでいる。 たまに、影ともじゃんけんをしている。 決着は、一度もついたことはない。
どうして、女はプロポーズ待ちをするのか。 結婚したければ、自分からプロポーズをすればいいじゃないか。 そんなことを言われた。 わかってないな、男さん。 プロポーズ待ちとは、男への最終テストなのだ。 育児。 家事。 労働。 結婚とは、理想だけではない。 過酷な現実の連続だ。 男が女にプロポーズするとは、過酷な現実を受け入れ、責任を取ると言う男の覚悟に他ならない。 というか、プロポーズごときでひよる男なんて、結婚という現実を前にすればすぐに逃げ出すし折れる。 プロポーズ待ちとは、結婚生活を共にできる男だけを炙り出す儀式なのだ。 プロポーズ待ちを非難するやつらなど、むしろこっちが願い下げ。 結婚しなくて大正解なのだ。 「別れよ」 話は変わるが、彼氏と別れた。 十年付き合った彼氏だった。 職場の子といい感じになったとか。 はい、不合格。 プロポーズ待ちの関門、クリアならず。 なんてなさけない男だろう。 こいつは結婚しても、いざと言う時に逃げ出す無責任男。 職場の子も可哀想に。 私はこいつの正体を知って、別れられてラッキーだ。 結婚していたら、間違いなく不幸になってきた。 育児も家事も労働も押し付けられて、私は不幸になっていただろう。 はい、ラッキー。 さあ、さっさと出ていけよ不合格者さん。 「私の時間返してよ! 責任取ってよ!」 そのはずが、口だけが勝手に動いていた。 おかしいな。プロポーズもできない無責任男と別れられて、正しいはずなのに。 あれ。
私の声ははっきり言って好い。一般に周波数として聞き取りやすいために発声に力が要らない。実生活に於いてこれ以上無い才なのだが、やはりどんなものにも例外なく短所はつく。 ある時に電話をした。こちらは十八というのに、相手方はまるで大人の相手をするかのように腰が低い。声色だけで判る程である。ところが、こちらが年頃の子供と知った瞬間受話器越しにすっくと腰を伸ばしたのが分かった。考え得ることではあったが、露骨に態度に出されるとげんなりするものがあった。 またある人にはもう大学を出ているものと思われていた。これは「大人びている」と捉えれば大方悪い気はしないのだが、それとは別に私は見た目が幼いために、あまり自分を見てくれていない様な気がして淋しく思った。 社会一般に十八というのはもっと余白があって、決して成熟したものでは無いらしい。尤も自分が熟したものと自称するわけでないが、普段過ごす中で如何に自らが例外的であるかを知る場面がよくある。その度にその蚊帳の外に置かれたような心情を、特異で自己陶酔的なものとして隅に置く。 しかし稀に、その自己陶酔の中に愛しさを見出してくれる他人が居る。それは大方私の隣に居てくれる人となるが、これは私の中では例外である。その人も又社会一般に趣味趣向が逸脱した例外者であるが、私とその人の中では全体であって、決して例外ではない。
時計の針は深夜二時を回っている。明日は大切なデート。もう寝ていなければならないのに、意識は、その気配を見せてくれない。むしろ、時間が経つほどに感覚は鋭くなっていき、心臓の音も、さわがしくなっていく。 (コーヒー飲みたいな) ふと、そんな思いになる。 香る湯気に包まれれば、少しは気持ちも落ち着いてくれるかもしれない。でも、カフェインで、朝まで一睡もできなくなるのだって目に見えている。 短い葛藤の末、布団から抜け出しキッチンへ。引き出しの奥にある、いつ買ったかもわからないコーヒー味のアメを見つけ口に放り込む。 瞬時に思う。ニセモノだな、と。その思いが、かえって本当のコーヒーへの恋しさを強くさせる。 (まったく) あきらめ、明日のデートプランをおさらい。待ち合わせ場所、時間。そのあと向こうが気になってると言っていたカフェに行って、夕方には公園を散歩して、と。頭のなかで何度もシミュレーションを繰り返すうち、少しずつ緊張がほぐれていく。 ふと、口のなかで、ずいぶん小さくなったアメが歯にふれる。もてあそびながら、もう頃合いかなと、ガチッ、と歯で砕く。苦く、それでいて甘ったるい味が口のなかに広がり、それと同時に、張りつめていた糸がふっと切れ… 意識が、音もなく深い場所へと沈んでいった。
「私は神だ。お前の願いを一つ叶えてやろう」 奇跡が起きた。 私は躊躇うことなく、願いを口にした。 「悪人を全員消してください!」 「悪人とは、どんなやつのことかね?」 「私より悪いやつ、全員です!」 「その願い、かなえてしんぜよう」 その日、人類の三分の一が消えた。 私をいじめていた人間も、公共の場でマナーを守らないやつも、全員消えた。 いい気味だ。 私は、正しい人間しかいない世界を、大手を振って歩いた。 気が付けば、私は逮捕されていた。 私より悪いやつが全員いなくなったから、この世で一番悪いのは私と言うことだ。 ルールも、当然変わって来る。 「私は悪くない……」 悪は絶対的でなく相対的。 それに気づいたのは、私の身柄が拘束された後だった。 「囚人第一号、おめでとう」 厭味ったらしく言ってくる看守を見ながら、私はこんな奴よりも悪者だったのかと頭を抱えた。
生きている間、水槽の中のクラゲを観察した。 クラゲはゆらゆら漂っているだけ。 ある日、寿命が尽きて死んでしまった。 クラゲを丁重に弔って、私は撮影していたクラゲのデータを、全てAIに読み込ませた。 「これで、クラゲを再現してくれ」 水槽の中に、ホログラムのクラゲが浮かんだ。 水は入ってないが、ホログラムの水があるので問題ない。 クラゲはゆらゆら漂っているだけ。 私が水槽を叩けば、生前と同じ反応をしてくれる。 「ああ、昔と同じだ」 クラゲが漂う。 私が生きている間ずっと。 私が死んでからもずっと。 私は寂しさを忘れて、のんびりクラゲを眺めた。
「見なあ、これ。最近流行りのデジタル化ってやつやで」 固定電話を使っていたおばあちゃんが、ついにスマートフォンを買った。 市外局番から電話が来て何事かと思ったが、おばあちゃんがただ自慢したかっただけの様だ。 しかし、電話なんて久々にした。 「甘いね、おばあちゃん。今の時代は電話じゃなくて、LINEの通話だよ」 「らいん? やたら胸と尻の大きい若者の体のことかい?」 「おばあちゃん、普段何のテレビ見てるの?」 翌日。 おばあちゃんがLINEの家族グループに入ってきた。 「見なあ、これ。最近流行りのデジタル化ってやつやで」 スマートフォンでの電話を覚えたばかりのおばあちゃんが、もうLINEまで始めた。 突然家族LINEに人が増えて何事かと思ったが、おばあちゃんがただ自慢したかっただけの様だ。 これから家族LINEの動く頻度が増えると思うと、ちょっと感慨深い。 「甘いね、おばあちゃん。今の時代はLINEじゃなくて、インスタのDMだよ」 「でぃーえむ? お祭りに行ってアンケートに答えたらたくさん来るようになる手紙のことかい?」 「そうなんだけど、そうじゃない!」 翌日。 おばあちゃんからインスタのフォロリクが来た。 「見なあ、これ。最近流行りのデジタル化ってやつやで」 LINEを始めたばかりのおばあちゃんが、もうインスタを始めた。 どこで私の匿名垢を知ったのか疑問は尽きないし、両親に把握されていたのかと思うと背筋が震えたが、とりあえずおばあちゃんの自慢に付き合うことにした。 これからおばあちゃんにインスタの投稿が見られると思うと、投稿内容に気を付けようと思った。 「おめでとう、おばあちゃん。もう私に教えられることはない。免許皆伝だ!」 「免許皆伝? 免許なら最近返納したよ」 「自動車免許じゃなくて!」 翌日。 目を覚ましたら、目の前におばあちゃんのホログラムが浮かんでいた。 「見なあ、これ。最近流行りのデジタル化ってやつやで」 インスタを始めたばかりのおばあちゃんが、もう……いや待ってナニコレ知らない。 ちょっと待って、ナニコレ。 知らない、ナニコレ。 「おばあちゃん、これ何? 私、知らない」 「これはな、最新のなんとかかんとかでな、なんとかって機械を置いとけば、自分の声とホログラムを送ることができるんや。知らんのかい?」 「知らない。見たことない。こんなの、どこに売ってたの?」 「山田さんとこの電気屋さん」 「まさかのご近所!?」 デジタル化が加速していく世の中。 私も置いてかれないようにしなければと強く思った。
近所に、きれいなお姉さんが住んでいた。お花屋さんに勤めているお姉さんだった。子ども心に憧れていた。ある夏の日の朝、そのお姉さんが、殺虫剤の缶とゴミ袋を持って、公園の方へ歩いていくのを見た。何をしているのだろう。夕方頃、お姉さんが帰ってきた。晴れ晴れとした表情を浮かべ、手にはパンパンに膨らんだゴミ袋を持っていた。そのゴミ袋には、ぎっしりと、チョウチョが詰まっていた。全部死んでいた。お花屋さんで働くお姉さんが、チョウチョを殺戮している。理由はわからなかったが、僕はそれを見て、ますますお姉さんが好きになった。お姉さんを殺した今も、その気持ちに変わりはない。
ある、女の子が、Boy friendに電話していた。 「どうしたの?!」その男の子がいった。 「えっとー今日、violinの発表会があって〜。。」 今日は、私の発表会。昨日緊張して眠れなかったー^^ すっごいいろんなこと考えちゃうなー 明日も、CDとか、CM、テレビや、シンガポールでの撮影とか、色々あるな〜、、。 あっというまに、会場までついちゃったーはぁ〜 ファンが大勢いる、、。!!!おかしだ!もらいたい!お菓子はもらっとこ! お菓子だけをもらって、食べながら会場に行った。すっごい緊張する〜あと、5曲聞いたら、次は私の番!みんなクラシック引いてるけど、私、マリオを、、しかもviolinでひくんだけど、これで大丈夫?すっごく心配になってきた!コンサート中に、電話がかかってきた!どうしよう〜電源切るの忘れた!みんなに迷惑だ〜やばいどうしよう! バリっ 落としちゃった〜あああああああどうしよ!割れてる!使えない!ちょっと、抜け出そう、、。外でゆっくりみよう。曲が終わったところで、女の子は抜け出した。よく考えたら、そろそろ時間なのを忘れてた! 急いで抜け出した。とても、急いで。舞台袖に行こうとした瞬間、左手の人差し指が、バキッと。舞台袖に、すごい音が鳴り響いた。「いっっタァー」スタッフさんたちが駆けつけた。大丈夫か聞いてくれた。大丈夫ではなかった。でも、泣かなかった、偉かったって自分にいいかせてた。いよいよ私の番! 指も、突き指してやばいけど、なんとかやり遂げよう!ステージに、足を踏み入れた。 曲を引いた。 3分48秒 地震発生 王勢の人が慌てた。震度7ほどだった。 帰らぬ人がいる。
人工のチョウチョを造っている会社の株価が上がった。春が来るのだ。モニターに囲まれたこの暗い部屋にいると、それが春の到来を感じる唯一のきっかけだ。次は人工のセミを造る会社か。俺はエアコンの温度を高めに設定し直した。
久しぶりに出社した。 ずっと自宅からテレワークをしていたので、他の社員と肩を並べて仕事するのはいっそ新鮮だ。 しかし、仕事を始めて数十分。 すぐに違和感へとぶち当たった。 「ティッシュがない!」 「ゴミ箱がない!」 「冷蔵庫の中にコーヒーがない!」 「水道に浄水器がついてない!」 「メモできる紙がない!」 備品としてデジタルな機器はやまのようにあるが、アナログな道具が少なすぎた。 退勤後、私はすぐに行動を開始した。 職場の机の隣に、サイドテーブル設置。 サイドテーブルの一番上に、コーヒー二リットルとミネラルウォーター二リットルのペットボトルを設置。 隣にティッシュボックスを設置。 棚の中にペンとメモ帳を設置。 サイドテーブルの隣にゴミ箱を設置。 僅か一夜にして、自宅に近い環境を完成させた。 一夜城ならぬ、一夜机だ。 出社する社員たちは、私の机を見てぎょっとした。 きっと、「その手があったか」と驚いているのだろう。 真似していいよ。 業務時間が始まってしばらくすると、課長が私の机までやって来て、私の机を見て首を横に振った。 「これは、駄目だよ」 「え?」 かくして、私の一夜机は十分で崩壊した。 私の仕事の能率は半分にまで落ちた。
向かいの雑居ビルは、屋上からの飛び降りが多い。「多いなぁ」と思っていた。そんなある日、また飛び降りがあった翌日、巨大な骸骨が、その雑居ビルの屋上に、王冠を被せているのを見た。ピカピカの金色の王冠だった。きっとたくさん飛び降りたから、その関係の王冠だろう。理由は何であれ、めでたいことは良いことだ。王冠は雑居ビルの屋上で誇らしげに鎮座していた。だが、その王冠が置かれたことで、屋上に上がれなくなり、その雑居ビルでは飛び降りがなくなった。王冠はゆっくり錆びていった。
投薬で脳の電源が落ちたようになっている。 ルーチンで猿化している。 AIに飲み込まれる世界。 ロボットと変わらない生活。 花を見る。 花も僕の生命力の無さを感じ取って枯れていく。 世界情勢は目まぐるしく変わっていく。 元来自分は勝手な生き物である。 さもありなん。 世界を大事にしないから世界にしっぺ返しを食らう。 文を書き連ねてタバコを吸い自我を保つ。 思考が浮かんでこない。 今日は女の子と話した。 韓国の仁川は料理が美味しそうだ。 働いてない奴は教会に来なくていいらしい。 なら世界の9割の人が教会に行かなくていいことになるかもしれない。 極論。 牧師が世界の仕組みをわかっていないのだから1人として人が救えるはずがない、とは言い過ぎか。 今日も自慰行為をした。 猿か、猿化、去るか、左流蚊。 中庸を模索して文を書き連ねるが病院のショッカー連中は僕を改造したくて仕方がないらしい。 妄想。 生憎僕の体には毒素が幾重にも回っていて(正義の味方だと判定されているのだろうか?僕は昆虫なのに。)それを循環させるのに手一杯だ。 文を書き連ねてカタルシスを得ようとするが生憎この程度の愚痴では何も生まれない。 血反吐く根性も泥水すする度胸もない。 明日はあの娘とまた話せるといいな。 何か与えられるといいのだが。 笑顔が足りない。 雨の降る夜に何かを思索する。 調子が悪いなら毒で体を回せばいい。 僕の体内に埋め込まれたマイクロナノチップは投薬と化学反応を起こして信号を木星の衛星に送る。 妄想。 身体を保つものはなんであれ使うべきだ。 たとえ毒であれ。 カタルシスにはほど遠いが煙草1本分の暇は潰せた。 雨の夜は暗い。
初めての作品なので自己紹介をします、 名前 折上あお_ 誕生日 12月5日 年齢 🤷 推し カイリュー(ポケモン) ポピプレ5の主役キャラ全員 マスカーニャ(ポケモン) このぐらいかな? これからよろしくお願いします!
「もしもし? ○○の父親ですが!」 子供が不満を零していたので、学校に電話した。 宿題を忘れることの何が悪い。 人間、忘れることもある。 授業中に騒ぐことの何が悪い。 人間、騒ぎたいときもある。 可愛い我が子を叱るなんて言語道断。 パワハラ、駄目絶対。 教師が家まで着て謝罪をしてきたので、寛大な心で許してやった。 「やーい!」 我が子も、自分の正しさが認められて楽しそうだ。 子供は宝。 大人たちは、多少の我儘を許容して、子供を育てなくてはならない。 それが、社会の義務なのだから。 「もしもし? △△の父親ですが!」 𠮟った部下の父親から、電話がかかってきた。 曰く。 納期を忘れることの何が悪い。 人間、忘れることもある。 業務中に騒ぐことの何が悪い。 人間、騒ぎたいときもある。 可愛い我が子を叱るなんて言語道断。 パワハラ、駄目絶対。 らしい。 わしは頭を抱えた。 そんなことまで上司が教えなくてはならないのかと。 部下は、わしを期待した目で見ていた。 この目を、わしは知っている。 自分が正しいことを確信して、早く謝って来いと訴えている目だ。 我が子も、教師の前でいつも同じ目をしていた。 怒鳴りつけようとも思ったが、口が上手く動かなかった。 最近の若者と言う化け物を作った一端に、わしの振る舞いもあったと気づいたからだ。 組織よりも個人が強いと思い込んでいる世代。 わしは、わしの作ったバケモノたちと定年まで共存しなければならないのかと考え、胃がキリキリと痛んだ。 謝らないわしにしびれを切らした部下が、「ん?」と声をかけてきた。
夜になると、頃合いを見て斉木信夫はパソコンの電源を落とし、夕食をとりに外へ出る。 部屋着から外出着に着替え、ハンカチと家の鍵をポケットに入れたらスマホ片手に駅のほうへと歩いていく。 その日は駅裏にある焼鳥屋へ。長年この土地で商いをしている老舗で、値段も手ごろで常連も多い。店内は六人ほどが座れるカウンター席と、壁際に這うようにある二人掛けのテーブル席が二つ、それと奥に肩を寄せ合いながら四人は座れるテーブル席が一つあるだけで、焼き場に立つ大将とお酒を作る女将さん二人でお店を切り盛りしている。 数か月まえに電子決済ができるようになってからというもの、斉木信夫はこのお店に週二回は通っている。入り口近くのカウンターの左端がお気に入りの席だ。夏は暑いし、冬は寒いけどそのおかげでわりかし空いていることが多く、忙しくなってきてもあまりその席だと座りたがる人もいない。混んできて居心地が悪くなっても、誰に気兼ねすることなくお会計さえ済ませれば、すぐにお店を出られるのも気に入っている。 女将さんが前に立ち、斉木信夫はとりあえずいつもと同じ生ビールと串焼き三本セットを注文する。女将さんは肯きながら伝票に記入し、それぞれの串をタレか塩かと彼に聞く。 彼はいつも通りにこう答える。 「ねぎまとレバーはタレ、つくねは塩で」 そこでハッと女将さんは伝票から顔を上げる。そして斉木信夫の顔をジッと覗き込む。 彼もその視線に少し緊張した面持ちで応える。 「つくねだけ塩なんて、あんた珍しいねぇ」 女将さんがそう言うと斉木信夫は曖昧に肯き、すかさずスマホに視線を移す。女将さんは大将にオーダーを伝えてビールサーバーのまえに立ってビールを注ぎ、斉木信夫のまえ ―にジョッキを置くと、常連のサラリーマンとカウンター越しに談笑し始める。隣りに座っている彼のことなど気にする様子もない。 それから斉木信夫は生ビールを一杯とイモ焼酎ロックを一杯、それと串三本と追加で注文した手羽先を二本食べてお店をあとにする。滞在時間は一時間ほど。混み合ってきたところで席を立ち、電子決済で会計を済ます。外へ出たら駅裏のあたりをブラブラと徘徊し、最近できたばかりの立ち飲みのワインバーでグラスの赤を二杯、そして駅前から家とを結ぶ直線上のちょうど真ん中あたりにあるバーでウィスキーのロックを三杯呑んで家路につく。 時刻は午後十時過ぎで、夜の町はまだこれからが本番と言わんばかりに賑わいをみせていたが、町がどうであろうと彼には関係ない。足取り不確かに路地から大通りへと出て、再び踏地へと入って自宅マンションの近くまでくると、斉木信夫はいつものように街灯の下でふと立ち止まり、足元を見据える。 そこにはあるはずの自分の影はなく、街灯の明かりに照らされた黄色みがかったアスファルトがあるだけだった。
初夏の雨は好い。それ迄の春の憂いを流して、時折滴で私を目覚めさせる。そうしてやや締まった心は紫陽花の様に鮮やかに色付く気がする。 その花弁から還る滴も又雨と云えよう。紫掛かったその滴は又誰かの下に降る。初夏は、人が人の思いを受容出来る時節である。 この頃、私はいつも人に第一印象と違う、意外と人に甘えがち、だとか、自立していない、と云われる。それは私の紫陽花から降る滴に因る物だが、他方その雨は毒をも含む。内面は染み出して来るから、人は本性を段々と知り得る事になる。然し乍らこれを以て印象と違うと云われても、大方予測出来たのではないかと思うことが有る。又、総て合わせて紫陽花なのだから、印象とは一概に第一に決まる物でもないとも思う。 私は催花雨の時点で人の印象を把握出来るから困ることは特段無いのだが、やはり対比して自分は未だ理解されていないのだと淋しく思うことも有る。然しそれは私が驕っているだけなのでないかと思う時も有る。私は真にその花の色を見ているか、その花に降る滴を見ているか。 様々な思いに駆られ、私はもう一度周りの色を見直すことにした。雨の北鎌倉はまばらな人だったが、紫陽花の蒼が鮮やかだった。源氏山を抜け辿りついたのは、朱の映える縁切寺である。
四月、上野口は御国訛りで埋め尽くされる。夜汽車の二等には弁当殻と多少の未練が打ち捨てられ、最後の旅情を絶っている。それらの情はやがて成功を夢見る硬券に姿を変えるが、鋏が入ることは希である。 他方、私が鋏を入れる旅客は訳が違う。黒い衣に身を包んだかつての硬券の持ち主たる彼等は皆一様に私に定期券を見せる。上った頃の由を振り返る間もなく、彼等は何かに追われるように遅延証を足早に受け取る。極彩の電車は昨今過密を究め、それ以上に黒い衣は数を増やしている。遂に都電では足らぬと、巷では地下鉄が流行りの様だ。 車体の彩りとは裏腹に、彼等は車内灯に照らされ尚黒ずんでゆく。鋏の入らなかった硬券は握り締められた挙句古びる。決して郷里に帰ることのないそれは、肉親の優しさと共に奥羽の雪に溶けるのだ。 或る秋に一人の青年が硬券を差し出してきた。黒ずんだ顔をした青年は、鋏に落とされた硬券の端を見つめた。私には、受け皿に落ちたくすんだ白の硬券の端の見分けがつかなかった。青年はゆっくりとホームに向かったが、背に残った東京の匂いはモノクロームに見えた。 奥羽は直に冬を迎えるだろう。汽車の顔に化粧をすることも増えてくる。青年の顔も濡れるだろうが、それが雪なのか溢れ出るものなのか私には分からない。青年は見分けのつかぬありふれた硬券の端であり、ありふれた北国の雪なのだ。
ある男性アイドルグループへの嫌悪感が徐々に男性全般へと拡大していった。その過程のことは克明には覚えていない。透明な水にインクを一滴たらしたようなグラデーション。そういった展開がされたのだろうそのときのことをわたしは、へええ、とか思いながら眺めていたんだ。きっと。 「予備校行っていい経験できたよ。って人間関係的な点でね。そういう意味では高校、大学というか、高校、予備校、大学っていう進学スタイルっていうの、それもありって思ったね」 背中方面のテーブルから聞こえてくるおそらくは先輩のその自信満々な語り口。そうやって語っちゃうとこが胡散臭いエコ商品の販売員か、人材育成系のコンサルみたいで聞いてらんない。しゃべればしゃべるほど自分の価値が下がってることにそろそろ気がついてもいいころじゃないの。 最初のサークルの飲み会は思っていた以上にくだらなくて、そのくだらなさがこれからのわたしの大学生活を物語っているみたいに見えた。 途中からとなりに座ってきた男の先輩がわたしのうかない表情をのぞき込むと、 「どうしたあ」 と酒とは違う何かいけない薬のチカラでそうなったみたいな間違ったテンションを振りまきながらわたしの肩をしきりに叩いてくる。どうしたもこうしたも、そんな調子の人と話すなんてしたくないの。それよりこの異常で異様な空間の雰囲気に酔ってしまいそう。はやいとこ抜け出したい。 わたしと同じように男の先輩に絡んでこられちゃってる下田さんとは学部別説明会で席がとなりってだけだった。なのに「運命だよねえ」みたいに向こうは思ってて、そこから友だちみたいになった。運命かあ。お安い運命だなあ。 「ビール追加してきますね。あ、それとも別のに… コーラですね。はあい」 そう言って、下田さんはすばやく席を立っていった。スマートに逃げたなあ。感心してしまう。自分はどうやっても下田さんみたいには振る舞えないことを知っている。難解な入試問題を解くより大事なことを、下田さんはいったい誰から教わったんだろう。 「講義ない時間、何してん?」 となりに座る名前も知らない、知らなくても問題のない男の先輩が言ってくる。 「まあ、適当に」 と、ほんとうに適当に言って、ひとまずはウーロン茶を口につける。ほうぼうのテーブルでは、朝の小鳥の鳴き声にも似たざわめきがさわがしい。けれど、それらはどれも心地よくはない。 「バイトとかしないん?」 「まあ、いずれは」 「したら、そのとき声かけてみ。紹介すっぜ」 軽くのっただけなのだけど、そこでもう脈ありと判断されてしまったのか、ちょろいと思ったのか、男の先輩の手がわたしの肩をしきりにもんでくる。その手がいつ胸に降りてくるかと安心できない。手ごろなものをさがす。どの皿もちょこんと少しだけ残っていて空いてるものがない。手をかけているグラスに、ウーロン茶は、もうあと少し。氷にしても心許ない。男の先輩の手は、肩からわたしの首を這って、耳たぶに触れてきて。気持ち悪い。耐えられない。ウーロン茶のグラスを強く握った― 「ぶあっ」 真っ黒なコーラが視界に飛び散る。わたしより先に下田さんが行動に出ていた。怒った顔で男を睨みつけている下田さんと、コーラをめいっぱい顔に浴びたとなりの席の男。その短い喘ぎで、場の空気は一変した。 「行こっ」 「あ、え」 下田さんがわたしの手を取って駆け出す。 「あいつ、いい気味」 「ありがと」 「いいから」 下田さんのあの感覚、正解だったみたい。 ―運命だよねえ 運命かあ。お安くない運命だ。 わたしの手を引く下田さんの横顔が凛々しい。その日、わたしは恋に落ちた。
浴室の気配を脱ぎ捨てること無く身を委ねたまま、重ね着るように身に着けていくナイトウェア。髪を乾かしたがるドライヤーの視線に気付かない振りをして、パウダールームの明りを消した。全身を支配する倦怠感の甘やかさに漏れた溜め息は、冷えた空気を刹那手懐けた。 重力を享受するように、とゆん、ソファに腰を下ろす。傍らで静かに、けれど確かな優しさで息を吐く扇風機。このまま何処までも沈んで行けそうな感覚が酷く心地良くて、ふつりふつりと手放しそうになる意識。覚醒を促そうと咄嗟に頭を振った勢いで、濡れた髪から弾け飛んだ水滴。 ──ひゅるん、──ひゅるん。 唯一悲嘆に暮れている雫を除いて、今この部屋は何も彼もが穏やかさに満ちている。 恋い焦がれるように扇風機へと手を伸ばした小さな水は、その身に触れること無く吹き飛ばされて床に潰えた。
霧は、最初から街を覆っていた。 朝になっても晴れず、昼になっても薄くならない。建物の輪郭は数メートル先で途切れ、人の声もすぐに吸い込まれる。少し離れただけで、相手の存在が曖昧になる。確かにそこにいるはずなのに、見えなくなる。 このままでは、いなくなる。 誰かがそう言った。 理由は誰も説明できなかったが、否定する者もいなかった。霧の中では、物も人も長く形を保てない。だから皆、できるだけ近くで動いた。 やがて、街の外からひとつの言葉がもたらされた。 長老と呼ばれる人物の言葉だという。 「霧は晴らせる。ただし、代わりに“獣”が来る」 そして、その方法として語られたのが――獣呼びの笛だった。 霧を晴らすための道具としては、あまりにも異質な名前だった。 獣を呼ぶ。 それが何を意味するのかは分からない。それでも、止まる理由はなかった。霧は確実に広がっていて、このままでは街ごと消える。選択肢は最初から多くなかった。 笛は、街から遠く離れた場所で見つかった。 霧の届かない高い場所。 見下ろす世界には、あの白い領域は見えない。ただ、そこに“あるはず”だという感覚だけが残っている。 笛は驚くほど軽かった。 骨のようでもあり、木のようでもあり、意味を持たない物体に見えた。これで本当に霧が晴れるのか、誰も確信できないまま、それでも手は止まらなかった。 吹けば、霧は晴れる。 そして、何かが来る。 その「何か」が何なのか、誰も知らない。 笛を持つ少年の周囲に、人が集まっていた。 「近くにいれば大丈夫だ」 誰かがそう言う。 根拠はない。それでも、その場の誰も否定しなかった。 発動は高所で行われた。 霧のない、見渡せる場所。そこからなら全てが見えるはずだった。 少年は笛を口に当てる。 迷いはなかった。 音が鳴る。 低く、遠くへ沈むような音だった。 その瞬間、空気が変わる。 次の瞬間、気づいたときには、もう駆け出していた。 理由より先に、足だけが前に出ている。 体が押し出されるように斜面を下る。考えるより早く、距離だけが縮んでいく。 地面の奥から振動が上がってくる。風ではない。空気の揺れでもない。圧そのものが持ち上がってくるような感覚。 誰かが走る。 何かが来る。 それだけが共有されていた。 トレーラーが視界に入ったのは、その直後だった。 荷台にしがみつく人々を乗せ、すでに走り始めている。誰もが必死に掴まっているが、それでも動いているものはそれだけだった。 止まっているものは、間に合わない。 その荷台はすでに人で埋まっていた。掴まる場所も、足をかける余裕もない。 それでも進むしかなかった。 そのとき、視線が交わる。 知っている顔だった。 隣には、彼女がいる。 二人とも、荷台へ手を伸ばしている。 指先が触れる。 掴める距離だ。 一瞬だけ、引き上げられると確信する。 だが、その手は強くは返されなかった。 「俺は、この子と一緒にいる」 静かな声だった。 諦めではない。最初から決まっていた選択だった。 手が握られる。 そして離れる。 その直後だった。 地面が鳴った。 遅れていたものが、一気に形を持つ。 遠くの地平線が崩れる。 それは水だった。 津波は、言葉よりも速く到達する。 振り返る時間はない。 二人の姿は、そのまま流れに飲まれていく。 抵抗はなかった。 ただ、そこにあったものが消えるだけだった。 荷台の上で、体勢を保つ。 誰も叫ばない。 エンジンの音だけが一定に響いている。 走りながら、ふと思う。 獣呼びの笛。 その名前の意味。 津波を見ながら、あるいは理解する。 これはただの水ではないのかもしれない。 昔の人間なら、こう呼んだのかもしれない。 獣が来た、と。 ただの現象に、名前を与えただけなのかもしれない。 トレーラーは止まらない。 進む先に、霧の街がある。 やがて視界の奥に、白いものが現れる。 それが霧なのかどうかは分からない。 霧は晴れたのかもしれない。 あるいは、まだ何も終わっていないのかもしれない。 ただひとつ確かなのは、 もう引き返すことはできないということだけだった。
夕日が地平線に沈んでいく。正確には、夕日の絵が、地平線に沈んでいく。正確には、夕日の絵が、シュレッダーが組み込まれている地平線に沈んでいく。ザリ、ザリ、ザリ、ザリ。夕日の絵がシュレッダーに切り刻まれていく音が響く。今日の夕日もやっぱり絵だったようだ。まぁ、本物の夕日だったら、シュレッダーが壊れてしまうものな。だけど俺たちは、シュレッダーが壊れる音をずっと望んでいる。
雑居ビルの解体をした。中は腐臭が漂っていた。解体を進める。汚いドアの上部に、非常口の誘導灯があった。当然点灯はしていない。腐臭はその誘導灯から漂っていた。よく目をこらすと、非常口のマークの緑色の人物が、死んでいた。死体の腐臭だったようだ。いつから死んでいたのだろう。まぁ、死んでも続けられる仕事だからな。人間にもそういう仕事があればいいのに。俺はバールで誘導灯を叩き割った。
夏の日の雨上がり、ブロック塀にカタツムリがいた。近づいたら、それは殻だけだった。中身はいなかった。中身はいなかったが、殻の内部には、何かがあった。それは貼り紙だった。小さな貼り紙。『ナメクジになる!』そう書かれていた。たぶん、今年の夏の目標だろう。旅立ったのかもしれない。がんばれよ。見た目はほぼ完璧だぜ。
ーー駅構内は足音を湛える。エスカレーターを毎度、混んでいて、朝から気が滅入るものだと痛感する。その気怠さは隔日、変容せず今日を出迎えていた。 千は、大学に向かうまでのイニシエーションの真っ只中なのだ。 改札を通り、列車に乗り込んで、周囲を一瞥する。老若男女問わず介在するこの空間では、空席はない。立ち込める億劫な気配にまた、嫌気がさす。 車内から目を外して、風景に傍観した。 (よっぽどいい……) 口煩い餓鬼も、生き急ぐ老体もいない。 ーー目は風景に馳せていた。 立ち込める雲は空を覆い、移り変わる眼前の景色は後ろ髪を掴むようで、心に纏わりつく。線路上を滑る走行音。誰かがスヌーズしていたアラーム。本のページを捲る音。全てが恨めしい。 (甚だ、満員電車で誰にも関与されぬということ自体が不可能な話だが……) 壁に持たれて首を逸らす。ヘッドホンを付けた、スーツ姿の背に顔を覆われたのだ。他人の衣服の香りに咽せる。神経が逆立つ、漏れ出るノイズに。 何か、勉強するような声がする。 「Au……金、Agは……?」 「銀」 「次は……」 (黙って出来ねぇのか?) 無性に腹が立つ。だがそれが、単なる我が儘であることは至極当然だったので、自分が小さく矮小な存在に感じる。 ーー今日はまだ始まったばかりだが、すでに午後六時程の倦怠感を覚えている。
先日、袖口の釦が外れた。拙い手先を以て縫い付けたが、思えば何のために在るのか分からぬ。西洋の慣わしに則って付けているのだろうが、生憎この洋服は日本製である。 日本人は嘗て着物なる美しい絹や綿を纏っていたが、昨今では全く見なくなってしまった。帝都で珠に見掛けるのはForeignerの着る化繊で、帯はおろか襦袢が先ず見えぬ。甚だ此方が恥を覚えるくらいなのだが、恐らく西洋人からすれば私もまた保守的思想に固執した時代遅れの人間なのであろう。 洋服が市電に溢れ、とうとう佃島は瓦でなくShackが並ぶようになった。その処々剥がれた鉄板は硬く在りながら脆い。入る隙間風はその板を剥がし乍ら、内から居心地をも悪くする。 この國の釦は外れかけているようだが、私の手では縫い付けられない。尤も縫い付けるのは西洋人で、その時に一つのShackが産まれるのだろう。
いつも通りの家路、いつも通りに私の部屋に帰る。 扉を開け中に入ると、見覚えの無い物が目に入った。 小さな、黒い無機質な機械。壁に吸いつくように取り付けられている。 レンズのようなものがこちらを向いていて、瞬きをしているみたいに、かすかに光を反射していた。 恐らく小型の監視カメラだろう。誰がいつ、こんなものを。 気味が悪い。指先でつまみ上げ、そのまま床に叩き落とす。軽いはずなのに、乾いた音が嫌に重く響いた。 その瞬間。 背後の玄関扉から、激しいノック音。 まるで中にいると分かっているみたいな、乱暴な叩き方だ。息を潜めるも、音は止まない。むしろ、苛立つように間隔が短くなっていく。 恐る恐るドアスコープを覗く。 真っ黒だった。 外の明かりも、影も、何も見えない。塗りつぶしたみたいな黒。まるで誰かの目が、こちらを覗き返しているかのようだ。 その違和感に気づいたとき、足元で、かすかな光が瞬いた。さっき落としたカメラだ。 レンズがまだこちらを向いている。まるで、今この時も撮り続けているかのように。 恐怖を押し殺し、ドアチェーンをかけたまま、慎重に扉を開ける。 扉の外側から、かかるはずのない圧力が加えられる。金属製のチェーンは伸びきり、悲鳴を上げた。 信じられない力で扉が押し広げられる。チェーンが張り切り、今にも千切れそうに震える。 その隙間から、何かが滑り込んできた。細く、冷たい、光るもの。 それが包丁だと理解したときには、もう遅かった。 痛みを感じるより先に、腹部に熱が広がる。足の力が抜け、視界が傾く。 床に落ちたカメラが、こちらを凝視している。まだ、撮ってる。 薄れゆく意識の中で、視界が赤く染まっていく。 それが血なのか、レンズの光なのか、私にはもう分からなかった。
私は女に生まれたくなかった。 だって女社会怖いんだもん。 いや違う。 私は人間に生まれたくなかった。 だって人間って言葉があるから人を傷つけるし、他の動物より少しだけ頭がいいから怖いこと考えるんだもん。 私は鳥に生まれたかった。 だって空を飛べて楽しそうなんだもん。 いや違う。 私はカブトムシに生まれたかった。 だって若い男の子にモテモテなんだもん。 いや違う。 私は魚に生まれたかった。 だって広い海の中を息苦しくならずに泳げるんだもん。 いや違う。 私は花になりたかった。 だって咲いているだけで女の子にモテモテなんだもん。 いや違う。 どれも違う。 全部違う。 私は私に生まれたくなかった。 だって私は私が嫌いだもん。 私以外ならなんでもよかった。
我が家の近所には、数百メートル続く細長い空き地がある。同じ駅を起点とする二つの鉄道路線を短絡する様に位置しており、上から見るといびつな三角形を作り出している。その昔、起点の駅を経由しない連絡線として計画されたらしい。 起点駅の隣駅には立派な百貨店が併設されているが、客足は少ない。駅前の広々としたバスターミナルは日中も閑散とし、東の新興住宅地にはススキが我が物顔で広がっている。計画線が運用されていたなら、今頃この駅が起点に替わるターミナルになっていたはずだ。 件の計画は起点駅周辺の商工会の猛烈な反対によりたち消えになったそうである。しかし、仮にあの枯れ草の茂みが鉄路だったならーー。そう考えることがある。今更考えても机上の空論にしかならぬというのに。 今、この街は緩やかな人口減少が続いている。先日、テレビのニュースで少子化について声高に報じていた。ふと画面に目をやると見覚えのある公園が映っていた。幼少の頃に遊んだ総天然色の遊具たちがもう色褪せて液晶の中に在り、淋しさを塗装の剥がれかけた目で訴えていた。下地のコンクリートのグレートーンが更に物哀しさを漂わせ、パンダにもシロクマにも見える遊具は最早グリズリーになりつつあった。 映していたテレビのチャンネルは、3であった。