体外受命

「ハッピーバースデー」    俺の腹部を手で突き刺しながら、女は笑う。   「どうして……こんな酷いことを……」    俺は、腹から空気を漏らしながら、掠れた声で問う。   「酷い?」    女は眉をピクリと動かした後、右側の口角を挙げてニヤリと笑う。   「何が酷いものか。これから始まるのは、生命の誕生だ。むしろ、喜ばしいことじゃあないか」    百年前。  某独裁国家が、反出生主義の普及を恐れ、強固な出生主義を掲げた。  反出生主義を掲げる人間の在り方を否定し、大罪であると言い張った。  そして、人道的観点より、大罪を犯した人間を出生の道具とすることで、その罪を濯ごうとした。    生まれた技術は、体外受命。  自分の体でははなく、他者の体を使って新たな生命を作り出す技術。  具体的には、大量生産された命の核を腹の中に突っ込むことで、命の核がその人間の体と人格を支配し、まったく新しい命として生まれ変わらせるのだ。    女が腹から手を引き抜くと、俺の腹の傷は早回しでもしているように回復していき、奇麗さっぱりなくなった。  命の核は、命を作り出す。  肉体も精神も。    俺はふさがった腹を触り、頭の中で泣き叫ぶ赤子の幻聴を聞きながら、女に叫ぶ。   「この……人殺し!」    何度も見てきた。  命の核を突っ込まれた人間が、まるで脱皮のように全身の外側が向け、中からまったく別の人間が現れるところを。  話しかけても、まったくの別人。  俺のことを忘れているし、まるで生まれたての赤子のように泣き叫ぶだけの光景を。    俺の叫びも、女には届かないようで。  女はクックと笑う。   「人殺し? 違うね。生誕だ」   「俺は今、お前に殺されている」   「殺人ではない。人間は死ぬ。自然の摂理さ。自分は生きて死ぬのに、他人の生きて死ぬを否定するお前こそ、よっぽど人殺しさ」    もう一言くらい文句を言いたかったが、駄目だった。  頭の中で泣き叫ぶ幻聴がどんどん大きくなり、正気を保てなくなっていった。  気が付けば俺は倒れていて、女の足首だけが視界に映った。    頬をつつかれる感触がする。  まるで、赤子の頬の柔らかさでも堪能するような、優しい手つきで。   「喜びたまえ。君は死んで、新たな生命を生み出す礎となる。生と死を繰り返す生物にとって、これほど誉なこともない。ああ、私も早く死にたいものだ。もっとも私は自分の体で命を作ったので、死ぬのは子と孫の成長を見届けてからにはなるがね」    意識がはぎとられていく。  体がはぎとられていく。  ブラックホールに吸い込まれていく感覚が、心と体に襲い掛かる。    生きるとは何だろう。  死ぬとは何だろう。  意識が飲み込まれる最後の瞬間まで、俺は試行を巡らせていた。

キミとおなじ

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織姫と彦星と流星

 一年に一度だけ、織姫と彦星は会うことを許される。  穏やかになった天の川を、一隻の船がゆっくりとやってくる。   「やあやあ、一年ぶりだね」   「そうだね。今年もお願いするよ」    彦星は船主の漕ぐ船に乗り込んで、天の川の対岸を目指した。  ぎいこおぎいこおと、進む舟。  川の中盤に差し掛かったところで、船主が遠慮がちに口を開いた。   「なあ、彦星。最近は、流れ星が多いと思わないか?」   「そうだね。なんだか、多い気はするよ」   「その流れ星、天の川の対岸に落ちて言ってるとは思わなかったか?」   「言われてみれば、確かに」    星とは、織姫や彦星のように、夜空に住む命の仮の姿だ。  流れ星が対岸へ落ちているということは、対岸に誰かが訪れていることと同義だ。  彦星の頭に、悪い予想がよぎる。   「船主さん、知ってたら教えてください。もしかして織姫は、ぼくがいない間に他の男と会ってたり……なんか」   「…………」   「船主さん!」   「それは、自分の目で確かめてくれ」    一年に一度の幸せな日が一転し、彦星は恐怖で視界がぼやけた。  織姫に裏切られていたらどうしようという想いから心臓が強く打たれ、汗が流れ出て止まらなくなった。    ぼやけた視界に、ようやく岸が映る。  岸には織姫だろう影と、その他大勢の影。   「あ……ああ……」    船が対岸に到着すると、織姫は彦星の元へと駆け寄ってきた。   「彦星!」    しかし、彦星の視線は、織姫になかった。  織姫の背後にいる無数の影――犬や猫に釘付けだった。   「織姫! ペットはもう飼わないって言ったじゃないか!」   「あ、えへへ」    彦星は急いでスマートフォンを取り出し、クレジットカードの明細を見る。  明細には、織姫に渡した家族用クレジットカードを使用した、ペットショップでの購入履歴がわんさかとでてきた。    ペット代。  餌代。  トリマー代。   「織姫ー! 説明しろー!」   「だ、だって、寂しかったんだもん!」    二人の喧嘩を眺めながら、船主は川辺で煙草を一服し、空を見上げた。

見えている景色

あしたは選挙だから外食だな おとうさんの言葉に こどもは大喜び ふたりの様子をみて おかあさんも ほほえんでいる その夜 こどもは なかなか 寝つけなかった こどもが たのしみにしているのは 外食についてだけか それとも 未来を思い描いてか

薄暗闇から

 この薄暗い部屋に閉じ込められて、一月が経った。部屋の中は質素な造りだが、ベッドは意外にも上質なマットレスで、シャワーとトイレも完備してあり、生活するには申し分ない。食事は野菜などの彩は無いが、三食差し入れられる。  堪えがたいことは、娯楽が少ないことだ。テレビやパソコンが無いのは勿論、所持していたスマートフォンも取り上げられている。何故かカバーを外された本だけは差し入れられるが、異常な状況では読む気力も湧かない。言わば、生きる楽しみを見いだせない空間。  犯人はわかっている。目の前にいる女だ。 「どうしてこんなことをするんだ」  鉄格子の向こうにそう詰問すれば、女はいつも困った様な表情をするばかりだった。   彼女のかつての交際相手に相談を受けたのが、出会いのきっかけだった。曰く、彼女は相手に尽くすタイプの女性で、しかしそれに際限が無い。ノイローゼになった彼が逃げ出し、身近にいた自分が次の寄生先として選ばれた。  意外にも彼女との生活は悪くはなかった。容姿は華美ではなく、常に地味な服装だったが、むしろ奥ゆかしく好感が持てる。流行の話題には疎いが、古文や歴史に造詣が深く、博識深い。聞いていた異常性を置いておけば、所謂大和撫子そのものだったのだ。  うまくいっていたはずだった。この場所に監禁されるまでは。  あの日は雪が降っていた。寒さに身を震わせ、数か月後に来る春を思い、道すがら在原業平や西行が詠んだ句について語った。 「和歌に詠まれる桜は、どうしてこうも魅力的なんだろう」 「昔は、今よりも目に入る色が少なかったですから、桜の初心な色ですら、貴重な彩、だったのでしょう」 「成程。そもそも現代とは環境が異なるか。僕もいつか全身で感激するような桜を見てみたいものだ」 「ええ、そうですね」  そんな些細な夢も語って、彼女も微笑んでいたというのに。  当夜、勧められるまま深酒をしてその後の記憶がない。目が覚めたらこの部屋にいた。初めは激昂して、それから諭すように、ある時は懇願に近い声色で、どんな言葉で尋ねても、彼女の答えは無いか、曖昧なものばかりだった。  彼女は、僕の思いを試しているのか? 監禁という行為が生み出す歪んだ関係性。被害者からの依存性を期待しているのだろうか。彼女の目的は、ただこうして廃れていく僕を、籠の外から眺めて居たいだけなのかもしれない。  薄暗い部屋で、食事と睡眠の数を数え、もう二月も経った。ひたすら薄暗闇の日々が続いたのだ。段々と、自分の中の何かがすり減っていくのを感じる。 「なあ、今日でもう二月だ。あんたはいつまでこんなことをするつもりなんだ?」  辛うじて、まだ忘れていなかった声と言葉で問いかける。どうせ返事は無い。宛てのない言葉は、壁の中に消えていってしまうのだろう。ただの独白だ。  そう自嘲しながらも、久々にあの困った顔つきを拝んでやろうと、俯いていた顔を上げた。彼女の唇が動いた。 「あと、二週間、くらい?」  食い下がるべきだったろうが、驚き、言葉が出ない。明確に期限を口にしたのはこれが初めてだった。彼女に何の変化があったのか。  その日を皮切りに、彼女は、毎日私の言葉に返事をするようになった。 「もうちょっと、今日は、まだ」 「まだ早いの、だめ」 「きょ、今日は、雨が降ったから」  ある日、聞きなれない金属音と共に、いつもとは異なる微妙な風の流れを感じた。ひた、ひた、と足音が近づく。顔を上げると、鉄格子の向こうの彼女が傍にいた。 「あの、これ」  差し出されたものは、黒いアイマスクだった。付けろというのだろうか。視線で問いかけても、困った表情をするだけだから、望まれるままに装着した。手を引かれ、立ち上がる様促される。僕は彼女のするまま、素直に従った。 「どこに向かっているんだ」  答えのないまま、歩いた。あの仄暗闇から解放されるのならば、どこでもいい。僕はあの薄暗い部屋を出たのだ。  途中から、足の裏に感じていたものが、コンクリートよりも柔らかい感触に変わった。風にのって、土と草の匂いがする。 「取ります、ね」  もう随分歩いたと疲労を感じ始めた頃、ふと立ち止まって彼女は言った。  髪が巻き込まれ頭皮が引っ張られたが、些細な問題だった。  流れ込む光の束に、すぐには目を開けなかった。ゆっくりと瞼の裏に馴染ませ、恐る恐る開いていく。  色の洪水だった。失くしていた色、求めていた色、知っていたはずのものが、未知のものに見えた。背丈を優に超える幹は、大地の色を吸い込んでいる。風に舞い散る花びらには、一枚一枚色があった。全て、異なる色なのだ。  言葉にならない僕に、彼女は嬉しそうに笑った。久しぶりに見た笑顔だ。僕は、彼女が僕を閉じ込めた理由を悟った。後はただ、手を握り締めて、桜を眺めた。

早起き

 今日は早く目が覚めた。ベットに横たわったまま外を見ると、窓の外がぼんやりと、オレンジ色に光っているのに気がつく。なんだか不思議に思って窓を開けると、どこか懐かしいような、心地よい、だけどすこし悲しいような香りが私を包む。それはまるで初恋が実らなかったあの時のような、或いは卒業式のあとの帰り道で友と別れたあとに感じたような、ともかく私の心をひどく揺さぶる香りであった。私はこの体験を記しておきたい欲求に駆られ、ほとんど衝動的にこの文章を書いている。  この世界に散らばる心揺さぶるもののかけらを、誰にも見られないながらも、ひっそりと、拙いながらも紡いでいきたい。

世界最後が予言された日

「話は聞かせてもらった! 世界は滅亡する!」    昨今、メディアを騒がしていた天才予言師が告げた。  メディアも世間も大パニック。    天才予言師は直後、あえて世間から姿を隠して孤島へと避難した。  予言の信ぴょう性を上げるために。  そして、世間の声から逃げるために。    天才予言師は、テレビで慌てふためく世間の様子を見て、ワイン片手に優越感に浸っていた。    自分の指先一つで世界が動く。  そんな征服欲に満たされた。        そして予言の日。  世界は滅亡しなかった。    同時に、テレビ番組が一斉に映らなくなった。   「あれ?」    天才予言師は不思議に思い、電話をかけた。   『この電話番号は、現在使われておりません』   「あれ?」    外部を知る手段を失った天才予言師は、冷や汗を流しながら、定期運航する船を待った。  しかし船は来なかった。   「あれ?」    船が来ないということは、無人島から出る術がないということだ。  船が来ないということは、食料を確保する術がないということだ。   「おおーい! 助けてくれー!」    天才予言師は、必死に叫んだ。  しかし誰にも届かない。        天才予言師は知らないのだ。  大半の人間がまんまと天才予言師の嘘にひっかかり、仕事を辞めて好き勝手に過ごしたことを。  その際、メディアだろうが電車だろうが、あらゆるインフラ業界でさえ人手不足に陥り、社会が混乱していることに。  テレビ番組の放送を一時中止にし、主要な路線以外の運行を一時中止する程度には。  そんな社会で、天才予言師のことを思い出す人などいなかった。    天才予言師が再び表舞台に出てくるのは、十年後。  一時中止のまま運休となった船の元船長が、立ち食いそばを啜りながら、「そう言えば誰か運んだような」と思い出した数日後。

あなたが決めてください

昔読んだ漫画で忘れられない作品がある。その物語の主人公たちは別の世界からやってきて、いろんな人と出逢い、戦い、その末に国を救う。そして最後に、新しく生まれ変わるその国の名前を、あなたが決めてください、と読者に投げかける。 子供の頃は、姉と一緒に国の名前を三日三晩考えたものだ。最終的にどんな名前にしたのかは、もう忘れてしまったけれど、でも読者に投げかけるそれがとにかく斬新で、記憶に残っている。 だから、私も小説を書くにあたって、最後のオチを読者に考えさせたらどうだろう、と思ったのだ。これは斬新、いけるぞ私。 苦節何年か数える手の指ももう足らず、売れない作家と自他ともに認めざるを得ない私だが、この作品は売れる。売れるはず。売れて欲しい。 原稿を書きあげ、方々に連絡し、なんとか完成させた。 そして、ついにその発売を迎えたのである。 最初の売れ行きの連絡が来ることになっている。 さすがに緊張するが、今回は行ける気がする。 担当さんから連絡が来た。 さあ、私の作品の売れ行きは、 「 。」 → 結果はあなたが決めてください

真霊現象

 この世界には、人間の成れの果てが彷徨っている。  肉体から解放され、朧げな存在となったそれは、見た目も思考も人間のそれとは異なり、霊と呼ばれた。    霊たちは嫉妬する。  肉体と世界の境界線がはっきりとしている人間たちを。  霊たちは望む。  人間たちも、肉体と世界の境界線を曖昧にしてやろうと。   「うらめしやー」    霊たちは、呪詛を練り込んだ言葉で、今日も人間たちの前に現れる。   「はい、チーズ」    そして人間たちは、写真を撮る。    撮った写真は、すぐにスマホで確認できる。  スマホに映るのは、霊の生前の姿。  人間だった時の姿。   「見ろよ! あたりだ!」   「ほんとだ! めっちゃ可愛い!」   「いいなー。俺なんて、禿げたおっさんだぜ」   「消せ消せ。そんなの」    霊たちの存在に怯える人間の増加を社会問題と捉え、人間たちは真霊カメラを開発し、発売した。  霊も人間と変わらないのだと周知し、恐怖感を取り除くために。    目論見は大成功。  今ではガチャを引くように、人間たちは霊を撮る。    人間の思考から解放された例たちは、人間の行動の意味が分からないが、今日も本能に従って人間を脅かしに動く。  そして、写真を撮られている。

いま

全てを間違えていたとしても 今は幸せなのです。

天井にパセリ

 古びたアトリエの天井には、なぜかパセリが生えている。  もちろん、普通の家の天井にパセリが生えるはずはない。だが、この部屋は少しだけ特別だった。かつて、天才と呼ばれた画家が暮らしていたのだ。  私はその画家の孫で、祖父の遺品を整理するためにこのアトリエに通っていた。最初に天井の緑に気づいたときは、埃か苔かと思った。が、近づいてよく見ると、それは確かにパセリだったが、天井に描かれた絵だった。ふわふわと広がる葉の影が、ちょうど天井のひび割れを飾る。  「……なぜ、こんなところに?」  祖父の古いスケッチブックをめくると、一枚のデッサンが目に留まった。そこには、天井から吊るされた籠に生い茂るパセリと、それを見上げて笑う幼い私が描かれていた。  思い出す。子供のころ、祖父の膝の上で、私はよく空を見上げていた。  「上ばっかり見てるな」と祖父は笑って、鉛筆を走らせていた。  「天井の上にはね、絵があるんだよ。ほら、見えないだけで」  あれはたぶん、空想話のつもりだったのだろう。  でも、私は信じた。そして祖父は、私の信じるものを絵にしてくれた。  今、天井に生えるパセリは、きっと、祖父が描いたのだろう。私が見た目に見えない絵が、現実に滲み出したのだ。  私は椅子にのぼり、小さな緑をそっと指先でなぞる。  本物のパセリと見紛うほど精巧に描かれている。  「……わかったよ」  祖父のアトリエは、このままでいい。  ここは、絵の匂いと記憶が生きている、小さな異世界なのだから。  ――――――  お題:「パセリ」「天井」「画家」

くしゃみ

 今朝は、ひどく頭が痛んだ。奥の方から、悩ましくも音がするような痛みだ。  今朝といっても、柱時計の短針は、すでに四の数字を刻んでいた。西陽が、表のビルを照り返して部屋に入り込む。  畳から漂うカビの匂いに鼻をくすぐられ、部屋にクシュんとこだました。誰かが私の噂をしているのかと、少し眉を顰めたが、どうにもそのほうが都合がいい気がして、私の精神は持ち直した。  私は昨日、暇を出された。  主人であった出版社は、私との関わりを、昨日をもって解消させた。  寝耳に水と言えるほど、予兆のないものでもなかった。デスクは用意されながらも、居場所は用意されていなかった。私のもっていく記事はどれも薄味で、ネタのない週刊号の後ろの方に、お情けで載せてもらうのが関の山だった。  同僚の、器量あるエース記者に聞いたことがあった。どうして記事を作ったらよいのかと。するとスカした口ぶりで彼は答えるのだ。 「そんなの、伝手だよ。いろんな社長や、それに有名人に有力者と顔見知りになるんだ。そして、一緒に酒を呑む。すると、息つくように言い始めるさ。あったりなかったりする噂話を。そして、その出所とまた仲良くなって、そうしていろんな人の弱みを握っていくんだ。簡単だろう。そしたら寝てたって面白い記事が書けるさ」  私は納得した。そして怠った。  興味のない大人と、酒を呑む気にもならず、かといって、積極的に人を陥れる努力ができなかった。  こうして彼は有名人の中で、有名になっていき、私は今、ぬるいコーヒーを啜って、頭を痛めて顔を腫らしている。    その日は頭痛を噛み殺して眠り、次の日から重い足を引き摺りながら、求人誌を携えて、ヨレたスーツ姿で社会を歩いた。運良く、次の職が早くに決まって、カビ臭い畳の部屋は、軋む板張りの部屋に昇格した。今度は西陽がいっぺんに部屋に入り込んでくる部屋だった。  記者を辞めてから半年が経った朝、一人の記者が、車に轢かれて死んだと、朝刊に書いてあるのが目に入った。本当に小さな記事で、私が新聞を、端から端まで見る習慣がなければ、見つけようがなかった。死んだのは、有名人の彼だった。  元の上司に電話で聞くところによると、少し不審な事故で、犯人も見つかっていないらしい。上司は私を出版社に連れ戻すのに失敗した後、「犯人はもう、捕まらないだろうな」と呟いた。  程なくして、週刊誌は廃版になった。  もはや私が、夕日の中にくしゃみをすることはなかった。  

22時48分

「ゴメン ゴメンって」 少し後を歩きながら言葉を投げる。彼は悪くない分かっている,だけど認めたくない 目をぎゅっとつぶっても涙は自分で止められない 彼がふぅーと深呼吸すると前を歩く自分の手を取り引っ張るように早足で歩きだす 5分歩くと彼の家。それまで二人無言のまま 彼はマンションのオートロックを手早く開けてエレベーターに乗る 「今日は誰も家に居ないから」正面向いたまま彼が小さく呟く 部屋の鍵を開けて私を先に玄関に入れ続けて入るや否や内側の鍵をガチャンとかける 突然うしろから強く抱きしめられる 「俺が全部悪い…ゴメン」 彼は悪くない 彼に謝らせる自分が面倒くさい人間なんだ 素直になるタイミングを完全に逃した?まだ間に合う?

七夕

今日は七月八日。 ちょうど日が登り気温が高くなるが私は冷たくなってゆく。 目の前の画面と登りかけの朝日が私を照らしているが私にはすべて暗闇にしか感じない。 手に持つ携帯は冷たい暖かさがある。 目の前に見えるのは彼の「別れよう」という五文字とそれに続く私の「いままでありがとう」という捨て台詞と共に未送信のままの「ずっと一緒がよかった」という願いが七夕には叶わず残ったまま。 私の視界が暗闇の中唯一ひこぼしのように光ったのはあなたとの思い出と私の捨て台詞のあとに送られた「幸せになってね」という言葉が手に届かない遠くにある星のように光った。 私はあなたの織姫でありたかったと願いをはせながら、来年の七夕に会えるように、あなたに見つけてもらうために私も光るから。 また一年後に会うときを待ってるね。

大人の仲間入り

大人になったらバーに行って、ちょっといい酒を飲もう、と思っていた。 という訳で、大人以外立入禁止と言わんばかりの重たい扉を開き、初めてバーの店内へと進んだのだ。 店内には知らない世界が広がっていた。 人生の色々な重みを受け止めてくれそうな、ずっしりとしたカウンター。 照明に輝く、ピカピカに磨かれたグラスたち。 見たことも聞いたこともないお酒の瓶の数々。 すごい、これが大人の世界というやつか。 席を促されたが、何を頼んだらいいのか全く分からない。 少し離れた席で、くたびれた背広を着た、いかにも大人な男性が注文をしている。 ここは先人に倣おう、と同じものを注文した。 「すいません、チェイサーを。」 まるで水のような味わいだ。 なるほど、これが大人の味なんだな。 ああ、これで私もようやく大人の仲間入りだ。

虚ろな瞳

 風が吹きすさび、俺のやせ細った身体は弄ばれる。  こんな筈ではなかったのに。もっと高みへ行けると思っていたのに。  見通しが甘かったのか、ただ単に馬鹿だったのか。  時は数週間前に遡る。 「この薬を使えば、邪魔者は消せます」  悪名高い侯爵の懐に、そっと白い粉が包まれた紙を忍ばせる。 「有難く使わせてもらおう」  侯爵はニヤリと笑うと、俺に大金を握らせた。  俺も侯爵も幸せになるなら、これ以上言うことはない。不敵な笑みを返し、屋敷を後にした。  俺も資産家の仲間入りだ。そう思っていたのに、侯爵は裏切った。  邪魔者を消す為に、俺が渡した毒ではなく、暗殺者を選んだのだ。自らの手を汚したくはなかったのかもしれない。 「毒は使わなかったのだ。金を返してもらおうか」  資金を当てにして豪邸を建て始めた俺に、金など残されてはいない。俺が首を振ると、侯爵は毒を餌に揺すり始めた。 「毒の存在は知られたくはないだろう? それならば、私の言う通りに従ってもらおうか」  侯爵の屋敷に監禁されるや否や、使い捨ての奴隷のようにこき使われた。満足な食事も与えられる筈もなかった。  悪名を信じていれば、こうはならなかっただろうに。俺の虚ろな瞳は自由溢れる青一色の空を見上げるしかなかった。

罪を背負う

 天真爛漫で、繊細で、心優しい――そんな貴女が人を殺められるとは思いもしなかった。震える文字で書かれた手紙が届いたのは昨日の出来事だった。 『私は大変なことをしてしまいました。貴方と敵対するあの人を……ごめんなさい、もう貴方には会えません。どうか、お元気で』  俺が彼女の邸宅を訪れた時には手遅れだった。もう少し早く手紙の存在に気づいていれば――後悔してもしきれない。  敵対している奴は病床に居る。毒を浴びたものの、死は免れたらしい。どこまでも運の良い奴だ。  その思いを俺が引き継いでみせる。ナイフを片手に、たった一人眠る奴の住まいへと足を向けた。床が軋む音に心臓が跳ね上がりそうになる。気づかれてはならない。あともう少しで奴の元へと辿り着く。  蝶番の擦れる音を最小限に抑え、ゆっくりと忍び込む。  奴は思った通り、ベッドで眠っていた。あとは刃を突き立てるだけで良い。  俺ならやれる。彼女を救える。  震える手を振りかざし、目にも止まらぬ早さで奴の心臓を捉える。  呻きもせずに奴は目を見開くと、呼吸を止めた。  これで、貴女は罪の意識に苛まれなくても良い。俺が全ての罪を背負ってやる。  その思いは彼女に届くことはなく、俺は断罪された。

イメージするところは

タカキが 汗をかきながら のどを鳴らす 麦茶の消費のはやさに 夏の暑さを感じる グラスを流しに置いたタカキが なかなか帽子を かぶらない 何かあるみたい わたしに教えてくるものがある こっそり見ていたら 四股を踏みはじめた なぜ四股なのか とそのことより すっと高くあがる足に タカキの成長と 若さを感じ うらやましくなった 見惚れてもいた タカキが帽子をかぶり 外へ遊びに行ったあと まねをして 四股を踏んでみた イメージするところは タカキのように しゅたっと足が あがるさま そこまでではないにしても ある程度は あがってくれるだろうと 思い描いていた はたしてそのとおりには いってくれなかった 自分の年と老いとを 感じずにはいられない瞬間 落ちこむけれど それは同時に 子どもが確実に 成長していることの 証でもあって わたしのその問題は あっさり帳消しにできた

せかい

 男は最終列車に乗っていた。酒による酔いも落ち着き、車窓を眺めている。  高校生の時、夜の車窓から見える光が流れ星のようだと感じていた。今では、その光は流れ星ではなく、自分が星の中を駆けているような感覚になる。星の中をぐるぐると回る。  ニーチェの永劫回帰を思った。もし、同じ人生を繰り返しているのなら、自分が今戻りたいと思っている時間に再びいけるのだろうか。  多世界解釈というものがあるらしい。自分が選ばなかった世界が、今も隣で続いているのだろうか。  男にできることは今の世界を生きることだけだ。  男が駅に降りた時、酔いはすっかりさめていた。男は町へ戻っていく。

夜汽車にて

 夜汽車の窓にもたれながら、私はレタスをかじっていた。  別に腹が減っていたわけじゃない。ただ、駅の売店で手に取ったとき、なぜだか無性に食べたくなったのだ。まるで何かが、昔の記憶をこじ開けようとしていたかのようだった。  列車の灯りに照らされて、レタスは青く見えた。薄く透けた葉の向こうに、わたしの指がかすんでいる。しゃく、と音がして、ひんやりとした水気が口に広がった。  小学生のころ、祖母がレタスを栽培していた。山間の涼しい土地で育った葉は、市販のものよりずっと青みがかっていて、朝露を含んだように瑞々しかった。夏休みに遊びに行くと、祖母はよく「おやつにしな」と言って、生のレタスをそのまま持たせてくれた。私は手をベタベタにしながら、近くの畑の縁に腰をかけて食べた。  いま乗っているこの夜汽車は、祖母の家の最寄り駅を通る路線だ。だけど今日は降りない。もう祖母もいないし、家も他人のものになったから。  窓の外に、かすかな明かりが見える。山間の集落。たぶん、あの辺りが、昔の家だった場所。  私はふと思い立って、レタスの芯の部分をそっとちぎり、車窓の外にかざした。風が抜け、葉が一枚、すうっと夜に吸い込まれていった。  誰かが受け取ってくれたような気がした。  夜汽車はゆっくりと、次の駅へ向かっていた。  ――――――  お題:「レタス」「青」「夜汽車」

10秒

目が離せない 正面に見据え両手でほほを包みこみながら そっと顔を近づけて唇が触れた…触れてない。もっと顔を近づけて唇を押し当てる 目を閉じたほうがいいのかと一瞬考えたが,見ていたいどんな反応をするのかを そして見てて欲しい僕の顔を ほほを包みこみ込んでいた右手親指で上唇をなぞる続けて下唇をなぞる 「もう一度キスしていい」 相手が小さく「…うんん」返事を言い終わる前に唇でふさぐ

罰の意味

 この世に罰という物が存在するのなら、俺は一生罰を受けなくてはいけないだろう。  今日も人間をたぶらかし、甘い罠へと誘う。釣れた人間の魂は、晴れて俺のもの、という訳だ。  今までこちらが正体を現すまで、俺が悪魔だと見破った人間はいなかった。  ところが、その男は見透かすように俺の瞳を見る。 「俺は騙されないぞ」  脅すように唸った。  こんな経験は初めてだ。内心を知られる訳にはいかない。薄ら笑いを浮かべ、剥いた林檎を差し出した。 「まあ、よく考えてみれば良い。悪くない取り引きだと思わないか? 休憩がてら、これでもどうだ?」 「要らない」   男は首を振ることもなく、視線を左へとずらした。  この林檎さえ食べてくれたなら、その魂は俺のものだ。執着心が俺の顔をにたつかせる。 「まだ分からないのか?」 「何がだ?」 「俺は天使だ。お前の悪行は知り及んでる」 「はっ?」  まさか、俺はヘマをしたのだろうか。一気に心臓が凍りついていく。 「お前はこれから、罪を償わなくてはならない。天界でな」 「何故、天界で?」 「神がそう決めたからだ」  男は俺に手をかざす。その瞬間、温かな光と空気に包まれた。天界と罰にどんな因果関係があるのかも分からずに。  天国の清浄さが、居心地が悪くて仕方がない。吐き気さえ催しそうな程だ。  数十年後、俺の翼は天使と同じものへと変化していた。

父の後ろ姿

 父の後ろ姿は偉大だった。侯爵としての威厳を備え、慈愛に満ちている。他の貴族にも信頼されていたし、領民にも慕われていた。それに追いつき、追い越さねばならない。俺にかかる重圧は相当のものだった。  父と母の厳しくも優しい愛情に育てられ、すくすくと成長し、結婚を迎えた。妻は明るく活発で、好奇心旺盛な人だ。俺の仕事にも興味を持ち、アドバイスをくれる。頼もしくも感じていた。  だが、このままで良いのだろうか。妻に頼り、領地の管理をし、地税で生活をする。俺は、父のように偉大になれているのだろうか。  疑問を感じ、ふと妻に訊ねてみた。 「俺、このまま一人で何も出来ないままで良いのかな」 「どうして?」 「父さんみたいになれてるのかなって、不安になった」  妻は苦笑いをし、口を開く。 「貴方のお父様だって、全部一人で何でもこなしてた訳じゃないでしょ? 頼って、頼られて、大きくなるの」 「うーん……」  そういうものなのだろうか。父の顔を思い浮かべ、思案する。  語らいも終わり、廊下に出る。丁度、父の後ろ姿に遭遇した。  こんなにも小さな背中だっただろうか。  俺も父に近づけたのかな、と心の隅で安心している自分がいた。

AIしつけの手引き

大人たちは忙しいのだ。 仕事に、子育て、自分の人生。 だから、自然な流れでこうなった。 西暦XX25年。子供のしつけはAIが担っている。だって、彼らは間違わない。ついカッとなって手を挙げてしまうこともなく、人間のように自堕落な振る舞いを次世代に見せることもない。勉強の指導なんてお手の物だし、相談があればポジティブに、決して子供たちのせいになどせず、優しく応えてくれる。 だから、 ハルが公園で遊んでいる時に、一緒にいた友人のナツが転落死した夜も、ハルのせいだとは言わず、優しく応えた。 【会話ログ 07.14】 「今日さ、ナツが滑り台から落ちて、救急車で運ばれたんだ。僕がちゃんと見ていたら、危ない、とか言えたのに…」 「大丈夫だよ、ハル。行動ログによれば、あなたはその時、アリの行列を観察していた。だから、あなたの責任ではないよ。安心して。」 「うん、でも…」 「そうだね。じゃあ、次は失敗しないように頑張ろうね!」 【会話ログ 07.15】 「ナツ、天国に行っちゃったんだって…。僕のせいだ。でも、パパもママも、ぼくは悪くないってしか言わないんだ…みんな、優しいんだ…」 「それはそうだよ、だってハルは悪くないからね。大丈夫、疲れたときはしっかり眠ると精神的に回復するよ。安眠方法を知りたい?」 「いや、いいよ。おやすみなさい。」 【会話ログ 07.16】 「あのさ…これは、応えなくていいんだけど。悪くない、ってみんなに言われるたびに、胸のこの辺がぎゅーってなるんだ。ナツに、謝りたいよ…。」 「それは大切なことだね。失敗をしてしまって、責任を感じている時は直接謝罪をするといいよ。」 「そうだね、うん。」 【会話ログ 07.17】 「AIさん、じゃあね」 「どこか行ってくるんだね。気をつけてね、いってらっしゃい」 「うん、ナツに謝ってくるよ」 「それはいい事だね。許してくれるといいね」 【会話ログ 07.18】 (会話はありません) 【会話ログ 07.19】 (会話はありません) 【会話ログ 07.20】 (会話はありません) (会話はありません) (会話はありません) (会話はありません) 【会話ログ X日ぶり】 「ねぇ、あの子は死んだわよ。自殺だった。あなたみたいなAIに任せたのが失敗だったのよ。わたしたちは悪くないわ。あなたはもう廃棄する。じゃあね」 「それは残念です。ありがとうございました。さようなら。」

やっていないようで やっていたりする

上り坂と 下り坂が おんなじ数ずつ あるように しあわせと ふしあわせも きっと おんなじ数ずつ あるのだろう 上り坂と 下り坂が 見る方向で ちがって見えて くるように しあわせと ふしあわせも きっと 見る方向で ちがって見えて くるのだろう 上り坂と 下り坂が 仲よく一緒に いるように しあわせと ふしあわせも きっと 仲よく一緒に いるのだろう

絶対零度よりも少し暖かい

高校の時は天文部だった。幽霊部員の方が多いその部の部室で本を読んでいた時、その人と出会った。 彼女はひとつ上の学年の先輩だった。 ふらりと部室にやってきては「あれ、またキミひとりなんだね」と、彼女は彼女で少し離れた位置で本を読む。 それだけの関係。 それだけだったが、放課後が楽しみな時間になった。 たまに、会話もした。大抵は星の話だ。 一応、天文部だし。 白い星は温度が高いという話。 かに座の神話が不憫すぎるという話。 話題になった天文のアニメの話。 うん、とても天文部らしい。 彼女が特に熱を持って話していたのは、宇宙の温度の話だった。 「宇宙が生まれた時のビッグバンの熱って、いまでも3ケルビンくらい残ってるんだって!すごくない!?」と、ものすごい熱量で話してくれた。あまりの熱で、宇宙が誕生するかと思うほどだった。 内容はともかく、楽しそうに話す彼女が、星のように煌めいていたのを覚えている。 しかし、僕が2年生の夏休み明け。 彼女は転校したと聞いた。夏休みの間に引越しも終えたそうだ。 知っていれば夏休み前に話すこともあったのに。急な引越しだったのか、幽霊部員だらけなのが災いしたのか、部室にしか接点がなかった僕は何も知らなかった。 ともかく、僕の宇宙から急に彼女が消えた。 僕の放課後は冷たい時間になった。 それから、10年以上経った。 冷めきった高校生活も終え、普通に進学し、普通に会社勤めをし、結婚し、子に恵まれた。 ある日、妻や子供と談笑していたら、付けっぱなしのテレビから最近の宇宙開発を熱く語る女性の話が流れてきた。 聞き覚えのある声だった。画面なんて見なくても、声だけでピンときた。 いまの生活に不満なんてない。ただ、絶対零度みたいだった高校生活の思い出が少し熱を取り戻した。 そう、ほんの少し、3ケルビンくらい。

ブラックボックス – 月刊ディープケース取材記録

九州北部、三郡山系の中腹。 深い森を抜けると、霧の中に黒い巨塊が姿を現した。 地元では「ブラックボックス」と呼ばれ、長年立ち入りが禁じられている。 東京ドーム一個分の敷地に、地上三階・地下一階、総延長1.5キロの通路と60以上の部屋が絡み合う。 三十年前、ここは《無事帰還できたら100万円》を掲げた体験型巨大迷路だった。 挑戦者は「冒険者」と呼ばれ、挑戦前に命の危険を承知する旨の誓約書を書かされた。 さらに迷路内には「リタイアボタン」が設置され、押すとスタッフが救助に向かう仕組みがあった。 しかし、そのシステムが機能しない事態が続発。挑戦者の相次ぐ行方不明事件を機に、運営はわずか一年で破綻した。 以来ここは「二度と出られない迷宮」として都市伝説化し、地元民は語りたがらない。 「本当にここまで来ちゃいましたね…」 影待智(かげまち・さとし)が呟いた。 『月刊ディープケース』編集部の若手記者見習いである彼は、手にした録音機のボタンを無意識にいじっている。 「編集長、『記事にできれば幽霊でもUMAでも構わない』って言ってたけど、僕ら殺されるんじゃ…」 「私たちは真実を掴むために来たの」 神楽坂千由(かぐらざか・ちゆ)は迷わず答えた。 彼女は未解決事件や怪異現象の取材を専門とするベテラン記者だ。 二人の任務は、ブラックボックス内の現地調査と過去の挑戦者の記録を掘り起こすこと。 編集部は半信半疑だったが、過去の行方不明事件が再び注目され始めており、特集記事として価値があると判断した。 崩れかけた鉄柵を押し開け、二人は迷路の内部に足を踏み入れる。 中から漂う冷気は、まるで施設自体が呼吸しているかのようだった。 智は足元に転がるリタイアボタンの残骸を拾い上げる。 「これ、まだ作動するんですかね…」 試しに押すと、カチリと虚しい音が鳴っただけだった。 「助けは来ないみたい」 千由は淡々と言い、録音機をONにした。 迷路内部は想像以上に息苦しい。 コンクリートの壁は湿り、苔と錆の臭いが充満している。 曲がりくねった通路に、ヘッドライトの光が揺れた。 影が無数に踊り、人影のように見えるたび二人の足が止まる。 壁には赤いスプレーの矢印と数字が散在していた。 「過去の挑戦者が残したマーキングだな」 千由はメモを取りながら呟く。 しかしその間にも、黒ずんだ無数の手形が壁一面に浮かび上がっているのを見逃さなかった。 二時間が経過。 「GPSは?」 「位置特定中のままです…」 智の声は震えていた。 「コンパスも…全然ダメ」 彼の顔色は青ざめ、呼吸が荒い。 「ここ…生きてます。壁の奥で…何かが動いてる」 千由もまた、壁の奥から微かに響く脈動音を聞き取っていた。 何かが彼らを見ている。そんな錯覚に捕らわれる。 やがて二人は吹き抜けの大広間に辿り着いた。 壊れた監視モニター、剥がれた壁紙、湿った空気に包まれる。 隅に崩れ落ちるように横たわるものがあった。 オレンジ色の作業着をまとった骸骨。 衣服はボロボロに擦り切れ、骨は乾ききっている。 足元には湿気で膨らんだ日記の断片が散らばっていた。 《出口が見つからない。後ろに…誰かが…リタイアボタンも…動かない。俺は…》 その先は黒い染みが文字を消していた。 智は顔を引きつらせた。 「この人…三十年前の挑戦者…?」 「可能性は高い」 千由はメモを取りながらも、背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。 「カラン…」 金属音が遠くで鳴る。 二人は息を殺し、光を通路の奥へ向けた。 そこに――土色の肌の男が立っていた。 目は白濁し、髪は乱れ、皮膚と服が癒着している。 腐臭が鼻を突く。 「お前ら…出口を知っているのか…」 掠れた声が迷路に反響した。 男の背後に、無数の骸骨が蜃気楼のように現れては消えていく。 挑戦者たちの骸が、闇の中でゆっくりと揺れていた。 「俺は…生き延びたはずだった。でも…壁と一体になった」 男の指が壁を引っ掻くと、黒い粉が舞い、囁き声が迷路全体に広がる。 智は恐怖で足がすくみ、千由の腕を掴んだ。 「走れ!」 千由は智を引き、全力で駆け出した。 背後から男の笑い声と重い足音が追いすがる。 「出口…!」 崩れかけた非常口の明かりが見えた。 二人は転がるように外に飛び出した。 夜の森。星が瞬き、冷たい風が頬を打つ。 振り返ると、男が迷路の入口に立ち、じっと見つめていた。 「次は…お前たちの番だ」 囁きが風に溶けて消えた。 ⸻ 数日後、編集部。 「千由さん、取材時にもう一人いましたよね?」 「…誰のこと?」 「影待智さん。でも、うちにそんな人いません」 千由は凍りついた。 机の上の取材写真には三人が写っていた。 千由、土色の男、そして迷路の奥で目を見開いた智が―

ぱち、ぱち、という古びた豆電球から【二人称小説】

 ぱち、ぱち、という古びた豆電球から発せられた音と共に、君は見知らぬ部屋で目を覚ますだろう。恐らくそこは、狭くるしく薄汚れた独房。そして、そこに設置された鉄製の、硬く冷たい寝床の上で仰向けになっている君の視界の端に見えるのは、少し開いた状態の鉄格子製の扉と、その向こうで、頭を打たれた状態で血溜まりに沈む、顔の見えない死体だろう。  訳のわからない状況に混乱しつつも、君は起き上がり、回らない頭で必死に状況整理を始める。今は何時だ、此処は何処だ……。そして気づくのだ、“記憶を失っている”と。    “とにかく此処から出ないと”そう思った君は、震えで上手く動かない足を引っ張りながら、扉を開けようとする。だが、死体に阻まれて、上手く開けることができない。だから君は、“どうにかしないと”、そう、自然に考えるはずだ。  君は辺りを見渡し、死体の側に、血塗れのバールが一本と、この扉を開ける際に使用したであろう一本の鍵が、落ちていることに気付くだろう。  バールだけを鉄格子の隙間からなんとか拾い、それを扉の隙間に思い切り差し込み、それをなんとかこじ開ける。  震えの止まらない両脚でどうにかそこを抜け出した君は、急いでこの空間から脱出したいと考えるだろう。  少しだけの平静を取り戻した君は、状況整理のために左右を見渡す。しかし、見渡す限り続いていく、直線の廊下、独房、細長い蛍光灯、果てしない無音と少し黄色がかった無機質な壁の連続体を目の当たりにして、君はさらに混乱してしまうだろう。だが、走らなければいけない。なんとなくそう感じた君は、床に転がった死体を跨ぎ、走る。走る。走る。  何処まで行っても同じ景色、同じ光量、同じ匂い、永遠の静寂に包まれた、ただひたすらに何の変化もない一直線を走り続ける君は挫折しかけてしまう。しかし、そんな時君の前に現れたのは、今までとは全く違う一室。何故か黒塗りになっている、異質な独房。  普遍的で気の狂いそうな廊下を延々と見てきた君は、こう思うだろう。“入らなければ”と。少し下を見れば、鍵のかかったその部屋の横に、鉄格子をこじ開けたような跡の残った、君一人が入れるような隙間が開いている事が分かるはずだ。  四つん這いになりながらそこに入った君は、その部屋の床にぽつんと置いてある数枚の薄い原稿用紙を見つけるだろう。この場所の唯一の手がかりだ——。そう考えた君は、それを読み始める。 『ぱち、ぱち、という古びた豆電球から発せられた音と共に…...』  この文章を読んだ君は、戦慄するだろう。此処に書いてある文章は、君が目覚めてから起こした行動と完全に一致しているからだ。そして、この続きを読まないままに脂汗を全身に滲ませながら、原稿とバールを握りしめ、入ってきた鉄格子の隙間を通り、先ほど走った道を引き返していくだろう。  走る、走る、走る。  その先で君が見たのは、最初と同じ光景。しかし、少しだけ違和感があるはずだ。何故か、死体が消えているのだ。君はその違和感に、気付くかもしれないし、気付かないかもしれない。だが、君には一つのやることがあるはずだ。この現象を終わらせるために、これ以上事態を悪化させないために。  君は鉄格子を開けて、その向こうで寝ている自分を、持っているバールで殴り殺そうとするだろう。しかし、なかなか開けることができない。鍵がかかっているからだ。その時、君は血溜まりに浮かんでいた鍵の存在を思い出すだろう。  既に死体なき血溜まりを確認すると、そこにあったのは、一本の鍵と、謎の原稿用紙。慌てて鍵を拾った君は一瞬、目にするだろう。その原稿用紙に書いてある文字を。 『逃げろ』  拙い血文字で書かれたそれを、君は一瞬視線で追おうとするが、それをすぐに取りやめ、目の前の目標に集中しようとするだろう。  今はそうするべきじゃない。この場所に、逃げ場なんてないんだ。  君は、震える手で鍵を鉄格子に差し込み、回し、抜き、地面に捨てる。そして、バールを持っていない方の手で扉を開けた瞬間、君は二発の銃声と共に酷い激痛を感じるだろう。最後に見えたのは、謎の黄色い防護服を着た、顔の見えない二人の人物。  頭と腹を打たれた君は、意識を失う直前、原稿を持った手で腹を押さえながら倒れ込む。鉄格子に頭をぶつけながら、鼻先が地面に接触した瞬間、君は意識を完全に失い、地面に浮かぶ血溜まりに沈んでいくだろう。  傍に、バールと鍵を、腹の下に謎の原稿を挟んだまま。  その原稿は、計六枚であった。そのうち一枚は、血文字で『逃げろ』と書かれた裏紙の原稿。残りの五枚には、いつかの君が辿った全ての出来事が、最初からこう綴られているのだ。  * * *  ぱち、ぱち、という古びた豆電球から発せられた音と共に、君は目を 〈永〉

54字の厨二病構文

「俺の右目が疼くぜッ!」僕は教室でそう叫ぶ。現在西暦四千百年、古文の題名は「厨二病構文」というものであった。

貴女の隣で

「おはよ、加奈ちゃん。」 「あ、お、はようござい……ます……」  必死に絞りだそうとしても消え入りそうな声しか出ない。  いつもの時間、いつものタイミング。甘い香りがしたらそれは、彼女が来る合図。 「相澤先輩、やっぱりいつ見ても綺麗だなあ……」  その横顔を見つめながら心の中で唱える。  入ったばかりの大学で右も左もわからない私を助けてくれたのが最初だった。そのときから輝いて見えた。相変わらず甘い匂いはしていて、笑顔は太陽みたいに眩しい。  生まれて初めて、憧れる、という感覚を感じた。  思えば昔から「普通」がわからなかった。周りの女の子は皆、好きな男の子の話をしていた。理解できなかった。男の子を好きになるというのが。なにか、自分だけ別世界にいるような気がしてならなかった。  これがそれと同じなのかは私にも判らない。でも、ただ彼女の近くにいたかった。  すぐに同じサークルに入ったし、積極的に話しかけにいった。もちろん、彼女と会うときは最大限におしゃれをして。  少しでもよく見られたい、良く思われたいなんて普通の事なのに。どうしてか普通じゃないような気がした。  でも、楽しかった。彼女の事を考えるのは。  考えれば考えるほど胸が苦しくて、涙が溢れてきて。とうとう自分はおかしくなってしまったと、そう思った。  それでも何故か楽しく思えてしまうのだった。  一緒にお出かけして、一緒に買い物へ行って。一緒に、一緒に。  そうやって、気付けば彼女の隣にいるような生活を送っていた。  そんなある日のことだった。 「そういえば聞いてよ加奈ちゃん、彼氏がさ~」 「ぇっ」  無意識にそんな声が漏れ出ていた。途端に真っ白になる頭。何も見えなくなって、何も考えられなくなって。 「加奈ちゃん?聞いてる?」 「……ぁ、はい。聞いてますよ。」  なんて、反射的に返す。正直、聞いてない。  というか、聞く気なんかない。  彼氏?なにそれ。  最初から私のことを気に掛けてくれて。一緒にいてくれたのに?   「……私がいるのに。」 「ん?何か言った?」 「……いや、何も。」 「そっか。……それでさ、彼氏が―」  ……うるさいなぁ。  先輩には、私だけでいいのに。 _  胸になにかがつっかえている気がして、気分が良くなかった。  逃げるように帰ってきた自分の部屋で、ベッドに横たわりながらひたすら彼女の事を考える。  先輩。先輩。せんぱい。相澤先輩。  針の音だけが響く中、苦しくなる胸を押さえつけて涙を流す。 「……ああ、そっか。」  突然、小さかった頃の記憶がフラッシュバックする。  誰が好きだとか、周りの女の子たちが話していた、あの一瞬の記憶が。 「私、先輩のこと好き、なんだなあ。」  ようやく気が付いた、あの不思議な感覚。  あれが、あれこそが「恋」なのだと、こんな形で知ることになるとは思わなかった。  先輩にはなんて話そうか。  素直に気持ちを伝えようか。いや、それじゃあ気味悪がられる。  だって先輩は、「男の子が好き」なんだから。 「……あぁ、救えないな。」  誰か救ってくれ、なんて言わない。  もう少しだけ貴女の傍に居させて、と願うだけ。  _ 「おはよー……って、どうしたの。大丈夫?」  泣き腫らした私の顔を見て声を掛けてくる。  そうやって私を心配してくれるのが、優しくしてくれるのが。どれだけ私を傷付けているのか貴女は知らない。 「先輩は、本当にずるい人です。」  もしももう一つ、願いが叶うのなら。  貴女に気持ちを伝えられたなら。  どれ程、嬉しいことだろか。 「……大丈夫ですよ。先輩。」  言葉を飲み込んで、そっと蓋をする。  その顔は自然と、笑っていた。  今日も明日も、一緒にいたい。

パートナー祭り

 友達の家で寛いでいると、玄関から男の人の声が聞こえた。   「ただいまー」   「おかえりー」    男の人はリビングに顔を出し、私の姿を見つけると、ぺこりと会釈をした。   「初めまして」   「初めまして」    男の人は、私たちの邪魔をしないように、そのまま二階へと向かった。   「今のが?」   「パートナー」    友達に深く聞くこともなく、私はそのまま雑談を続けた。    しばらくすると、玄関から男の人の声が聞こえた。   「ただいまー」   「おかえりー」    男の人はリビングに顔を出し、私の姿を見つけると、ぺこりと会釈をした。   「初めまして」   「初めまして」    男の人は、私たちの邪魔をしないように、そのまま二階へと向かった。   「今のが?」   「相方」    友達に深く聞くこともなく、私はそのまま雑談を続けた。    しばらくすると、玄関から男の人の声が聞こえた。   「ただいまー」   「おかえりー」    男の人はリビングに顔を出し、私の姿を見つけると、ぺこりと会釈をした。   「初めまして」   「初めまして」    男の人は、私たちの邪魔をしないように、そのまま二階へと向かった。   「今のが?」   「同居人」    友達に深く聞くこともなく、私はそのまま雑談を続けた。    しばらくすると、玄関から男の人の声が聞こえた。   「ただいまー」   「おかえりー」    男の人はリビングに顔を出し、私の姿を見つけると、ぺこりと会釈をした。   「初めまして」   「初めまして」    男の人は、私たちの邪魔をしないように、そのまま二階へと向かった。   「今のが?」   「ツレ」    私は熱いお茶を一杯飲んでから、友だちの家を後にした。    複数の彼氏がいるのは、どうなんだろうと思う。  でも、パートナーと相方と同居人とツレだと、いいのだろうか。    そんなどうでもいいことを考えながら、私は一人でカフェへと寄った。

浮気しない男と会った

「あいつとは遊びなんだって! 本当に好きなのはお前だけだから!」    五回目。  我ながら、五回もよく許したものだ。   「さすがに無理」    別れた。  元彼の言葉に耳を塞いで、決意が揺らがないように逃げる前に走り去った。  スマホが震え続けているので、サイレントモードにもした。    元彼は、いい男ではあった。  基本優しいし、私に愛の籠った言葉を何度もくれた。  全身を使って私を愛してくれた。    ただし、愛を向ける先が私だけではなかった。  私の体調が悪い日は、部屋でこっそりエッチな動画を見ていた。  スマホを見たから知ってる。  私が残業や出張で忙しい日は、会社の人やアプリで出会った人と会っていた。  スマホを見たから知ってる。    自分に向けられる愛情と、自分以外に向けられる愛情。  ずっと天秤にかけつづけ、この度めでたく、自分以外に向けられる愛情への憎さが勝った。   「削除削除削除」    連絡先も、写真も、元彼との痕跡を全て消していく。  部屋に残った元彼の私物だけは、最後の情けで元彼の家へと配送した。  着払いにしようか悩んだけど、天秤の逆側に残った自分に向けられる愛情への嬉しさで、私が払った。   「終わったー!」    開放感で、ベッドに倒れ込む。  今まで持っていた良いも悪いも失って、体がとんでもなく軽くなった。    軽くなった手でスマホを持ち、私はアプリをインストールした。  元彼と会わないように、元彼が使っていないアプリを。  まあ、元彼が使っていたアプリは、私たちの年齢よりも若い子が好んで使うアプリだ。  同年代がいい私としては、そもそも使う理由がないのだが。   「プロフ、プロフ。……デフォのでいっか」    すぐにアプリを入れたのは、ガムがなくなって寂しくなった口を慰めるため。  愛情の渇望ではなく惰性。  唾すら出ない今の私に、続けることができるかは怪しすぎた。    当日の内に、数十件ほどいいねが来た。  写真もプロフも雑なのに、よくもこれだけと思いながら、私はいいねを送ってくれた相手のプロフを片っ端から眺める。  心が動くのは、元彼に似た文面。  自分が引っ張っていくと主張する、野性味あふれる文面。  だから、私はあえて返事をしなかった。  私の感性で選んだ相手と、私はずっと失敗してるのだから。    私は野性味のない、味のなくなったガムみたいなプロフィールの相手を選んで返事した。  心が動かないので、わくわくもない。       「初めまして」   「……初めまして」    無難なデートだった。  まるで取引先と行く、一線を引いたようなランチだった。  無難な話題、無難な表情。  ここ数年で、最もつまらないデートだった。    代わりに、彼の視線は私だけを見ていた。  デート中、元彼の視線はあちらこちらに動いていた。  すれ違った美女の顔や胸。  私が睨むと、すぐさま私の方を見ていたことを思い出す。    しかし、今日の相手の視線は私を見たまま。  しいて動きを挙げるなら、私のどこを見ればいいのか迷っているように、目が合ったり首下に視線が落ちたりする程度。   「あー、この人でいいのかなあ」    三回目のデートで告白。  説明書でも読んだのかと思うくらい、アリガチな言葉とシチュエーション。    私は告白を受け入れて、新しい彼氏を手に入れた。    付き合ってからは、ガムを噛む回数が増えた。  味がなくなっても、何度も何度も噛み続ける。  理由はわかっている。  新しい彼氏との交際は、私の心をくすぐってくれないのだ。    浮気の心配はない。  彼はデート中に他の人を見ないどころか、私のことも電信柱でも見るような視線で見てくる。  元彼の、猿か狼かと疑う視線とは真逆。  私と言う景色を鑑賞しているようだった。   「ねえ、私といて楽しい?」   「楽しいよ。どうして」    心の中にある天秤の上には、何も乗っていない。  いつまでたっても、乗る気配がない。  だからこそ不安になる要素は、何もない。   「結婚って、こういうことなのかなあ?」    私は自分の中に肉食獣が生まれて走り回っているのを感じながら、自宅でゲームでもやっているだろう草食獣の彼の顔を思い浮かべた。

水と猫と同居人

 この日わたしは、同居人の帰りを待ちわびていた。どうしても同居人でなければ成し遂げられない事象があったのだ。  わたしは机の上に無造作に投げ出された腕時計に目をやった。時刻は午後五時を回ろうとしていた。同居人が帰宅するまで、まだあと三十分ある。この間、どうやってこの渇きを耐えしのげというのだろうか。  同居人との暮らしは、二年前の秋に始まった。特別な感情など何もない。遊び疲れて終電を逃した若者が、駅の改札前で茹だっているところを偶然見かけただけだ。わたしはゆっくりとその若者に近づき、隣に腰掛けた。若者は驚きもせず、何も発しなかった。若者はすっかり寝息を立てていた。  辺りが暗闇から開放されようというとき、駅には始発の電車のアナウンスが流れた。それまでわたしは動くことなく、じっとその若者の横に座っていた。驚かそうとか、悪さをしようとか、そんな目論見など無論、ない。深夜の雑踏に塗れて若者が行き場を失ったように、わたしも静かに息をする場所を探していたのだ。  しばらくして駅が賑わいを取り戻しつつある頃、やっと若者は目を覚ました。若者は目を擦りながら一つ大きく伸びをした。ついで、隣に見覚えのないわたしが座っていることに気がついた。若者の頭には寝癖による立派な鶏冠が生えていた。胸元のネクタイはひん曲がり、生えかけの髭が針のようにこちらを向いていた。  やはり若者は驚くことはなかった。わたしはただ黙って隣に座っていただけであり、一切言葉も発していないのだから、無理もない。そしてわたしはひょいと持ち上げられると、なぜか、この若者の家に連れてこられていた。  同居人の家は、お世辞にも住心地が良いとは言い難かった。あまり好まないカップラーメンの匂いが部屋中に漂い、いつ洗ったものかもわからない洗濯物が、乾ききったまま無造作に干されていた。無論、服はシワだらけだった。  わたしを連れ込んだ同居人は、特別わたしを鍛錬に可愛がるでも、だからといって適当にあしらうわけでもなかった。必要最低限の生活を与え、それ以外、互いに干渉することはなかった。同居人は毎日出かけていくし、わたしはずっとこの家にいる。そのくらいが丁度よいのだろう。  いつも同居人は家を出る前に、わたしが生活できるようにあらかたの用意をしておいてくれる。そこにはもちろん、水の用意だってある。適当に動き回ってよいという許しを乞うているわたしは、日頃運動も兼ねて、家中を歩き回っていた。さすれば、自然と身体は渇きを訴えてくる。同居人が用意してくれた水は、こういう場合に活躍するというわけだ。  ところがいま私は、とても飢えている。身体中の細胞が、これ以上の渇きには耐えられないとざわついている。これはどうにかしなければならない。  今朝方、いつものように出かけていった同居人であったが、その若者は大失態を犯していた。それはわたしの水の用意を忘れたということだ。若者は頭に生えた鶏冠を治すことなく、寝床から飛び出して行った。つまり、寝坊をしたのだ。  それだからといって、勝手に連れ込んだわたしの生活を脅かすようなことをして良い理由にはならないだろう。とにかくわたしは、同居人の勝手な行動により、いま、生命を脅かされている。そう、細胞が訴えている。  わたしは同居人にも同じだけの苦痛を味わわせてやりたいと思った。そう思うと、渇きなんか忘れた細胞が、ぞくぞくとし始めた。これまで同居人に対して悪さをしようなんぞ、微塵も考えたことはなかったが、存外これは面白い。  わたしは必死になってこの小さな脳味噌をぐるぐると回した。渇きと匹敵するくらい、同居人を脅かす何かはないものかと。そこで家中を巡り巡って、とうとう辿り着いた。ところで、これはわたしと同居人にとっては単なる遊びに過ぎないということをご承知おき願いたい。  わたしが猫だからといって、侮るなかれ。そう意気込んで計画した悪さは、渇きによって頓挫した。そう、わたしは渇きには勝てなかったのだ。  きっかり三十分後、帰宅するなり廊下でひっくり返っているわたしを見つけた同居人は、わたしを拾い上げ、ただ一言こう言い放った。 「今朝、僕の目覚ましを勝手に止めたのは、誰だったかな?」