俺が学生時代、アメリカに住んでたときの話なんだけどさ。俺が住んでたところは、それぞれに個室があって、キッチンとか風呂は共用。 シェアハウスって言えばイメージしやすいと思う。すっげぇ古い家を何度もリノベーションして使ってて、煙突と暖炉のある立派な家だった。歴史を感じられる、いい家だったよ――ただひとつを除いて。 俺は、この家のランドリールームが嫌いだった。 玄関から入って右の扉を開けると、地下に続く暗い階段がある。そこを降りると、例のランドリールームだ。コンクリート打ちっぱなしで、年中ひんやりしてて、どこか湿っぽい。裸電球がひとつ、部屋の真ん中にぶら下がっているだけだから、端のほうはいつも薄暗くてよく見えない。昔の住人が使っていたのかもわからない工具が、床にいくつも転がっていた。 洗濯機と乾燥機が一台ずつあって、誰かが使ってたら少し待たなきゃいけない。三十分以上かかるなら一度部屋に戻るけど、十分くらいなら他のやつに取られたくないし、そのまま地下で待つことが多かった。 その日もそうだった。真夏なのに、ランドリールームは相変わらず肌寒い。俺はイヤホンから流れるヘビメタの音量を上げて、ぼんやりと洗濯機の回転を眺めていた。 ドラム式の洗濯機がゴウンゴウンとうなりを上げ、右上に表示された赤い残り時間が、五分ごとに減っていく。 そのとき、視界の端で何かが動いた気がした。 反射的にそっちを振り向く。 床には何もない。 ゆっくりと視線を上へ上げていくと……脚があった。 白い脚が二本、何もない空間で、ゆらゆらと揺れている。 膝から下だけの、裸足の脚。 暗闇の中で、自ら発光しているみたいに白く、静かに揺れていた。 俺は声も出せずに、階段へ駆け上がった。 そして、家にいたやつら全員を引き連れて地下に戻った。けど、そこにはいつも通りの、ひんやりとしたランドリールームがあるだけだった。洗濯が終わったことを示す赤い「0」が点灯している洗濯機と、俺の洗濯物が入ったカゴがぽつんと置かれているだけ。 ハウスメイトたちには「ビビリ」だなんだとバカにされたけど、俺はこの目で、確かに見たんだ。 その日からアメリカを去るまで、俺は地下に行く前に階段の上から洗濯機の音を確認してから降りるようになった。ゴウンゴウンと聞こえれば、地下に降りずに音が止まる、つまり洗濯が終わるまで地上で待った。 ランドリールームにいる時間はできるだけ短く。 そして…あの脚があった場所だけは、絶対に視界に入れないようにした。
もちろん、蚊に刺されるのは、好きになれない。 夏の終わり、ちょっと気温が下がってから活発に動きはじめる蚊は、よりいっそう好きになれない。いままで鈍っていた動きを取り戻すみたいに、あるいは、達成までだいぶあるノルマを少しでも減らそうとするみたいに。あたかも、八月の最後に、まだ山のように残っている学校の宿題に取り組んでいる自分を、鏡映しで見せつけられてもいるようで、だから…… なのかもしれない。 ちょっと休憩を言い訳に台所へ。もどってみても、宿題は少しも進んでいない。あたり前だ。それでもガリガリ君は、どんどん溶けていく。途方に暮れて、宙を見つめ、明日を思うことくらいしか、できなくなる。
踏切の前に、空き家がある。 なんとも言えない嫌な雰囲気で、あまり近寄らないようにしていた。 ある夕暮れ、親から「財布を忘れて買い物ができない」ってメッセージが届いて、駅前のスーパーまで財布を届けに行くことになった。 僕には歳の離れた妹がいて、家にひとり置いていくわけにもいかない。だから、ふたりで出かけた。 駅前に行くには、あの踏切を越える必要がある。 黄昏時の薄暗さの中、例の空き家は影に沈んでいた。 僕はできるだけその家を意識しないようにしていたのに、タイミング悪く踏切が降りてしまい、足を止めざるをえなかった。 僕の手を握る妹が、じっと空き家の玄関を見つめていた。声をかけようとして、やめた。 そのビー玉のような瞳が、確かに“誰か”を見ているとわかったから。 玄関の隙間から、誰かがこっちを覗いているような気がした。
私は、今まで宿題を早めに終わらせずとも、夏休みの終わる数日前になんとか終わらせる程度だった。 そんな私は、今年初めて夏休みの脅威と対面する。 「やあ」 宿題が、最終日になっても終わらない。 そんな体験は初めてだった。 「明日学校だよ?」 夏休みの脅威が話しかけてくる。 「もう諦めた」 「君は今年受験生じゃないか!」 義務教育最終学年。 そういえばカッコいいのだろうが、私にとってはただの、ニートが否かの選別だ。 …あぁ、ニートにならない人もいるのか。 「早く僕を終わらせないと、成績が…!!」 「どーでもいい」 そもそも、生きる事に興味のない人間に、勉強やら高校やらを押し付けた、大人たちが悪いのだ。 別に私はいつ死んだって構わないが、気持ち悪い大人の為に死んであげるほど寛容でもないので、自分勝手に生きている。 「行きたかった高校にだって行けない!第一志望に落ちてしまうよ!」 「へー」 第一志望は、第二志望は、なんのためにあるのだろうか。 交通網が便利で、近くて、そこそこの成績を貫ける高校であれば、どこだっていい。 校舎が汚いのは嫌だけど、不良が多いのもめんどいけど、入れるだけマシなんでしょ? 「ほら早く!!ノートを開いて!ペンを持って!」 なんの為に人は勉強するのだろうか。 行きたくもない学校に通い続け、それが終われば、また行きたくもない会社に通い続け、娯楽はこの世のつまらない情報を脳に入れること。 そんな生きたくもない世界で、どうして勉強をしなければいけないのだろうか。 勉強が私をすればいいのに。 「どうして動かないの!?行きたかった高校に落ちるんだよ!?」 親の決めた志望校。第一志望だから、第二志望だからといって、行きたい訳では決してない。 どうしてこの世に固定概念はあるのだろうか。 自分のされた洗脳が、相手に害をなすとは思わないのだろうか。 「ねぇもう早く!聞いてる!?聞いてってば!!」 「あー、はいはい。」 シャーペンを手に取り、ノートを広げ、宿題の範囲をチェックする。 どうせ私は、この社会でつまらない人生を歩むのだから。 頭のぼーっとする夏の部屋、 脳のうるさい叫び声に応え、 私は終わらない宿題と向き合った。
昔、フラットアースなんて考え方があったらしい。 要するに、地球は平らで、端っこまで行ったら落ちるってことだ。 もっとも、宇宙から地球を観測できる時代になった今、そんな眉唾を信じている人間はほとんどいないが。 俺だって、信じちゃいない。 「えー、今月で契約解除となります」 「は?」 でも、人生に端っこはあるらしい。 AIによる業務効率化。 何年も働き続けた職場は、あっさりと俺を首にした。 「は!? 首? 結婚式はすぐなんだよ!? どうするの!?」 「うるせー! 俺だって言われたばっかで、どうすりゃいいか……」 「ああ、もう! 無職のやつと結婚してどうなるのよ! 出産費用は? 育児にかかるお金は? マイホームは?」 俺の首を聞いた婚約者は、あっさりと俺に別れを告げた。 何週間も話し合ったが、結局は喧嘩両成敗という、馬鹿馬鹿しい言葉で片付けられた。 婚約破棄の慰謝料もとれないどころか、彼女から慰謝料をとれないことに文句を言われた。 「たった数ヶ月で、人生ってここまで変わるんだな」 二人暮らし用のマンションから、一人暮らし用のアパートへ引っ越した。 丁度引っ越しのオフシーズン。 そこそこの部屋を手ごろな値段で借りられたのは、不幸中の幸いだった。 畳に寝っ転がって、天井を見る。 古い木の天井には、すでに小さな蜘蛛の巣ができており、家賃の安さを感じられた。 引っ越し当日からピンポンと訪問営業がインターフォンを鳴らし、引っ越しの疲れを癒す暇さえくれなかった。 「あー。これが底辺か」 一人暮らしなのをいいことに、周囲から顰蹙を買いそうな言葉を、堂々と呟く。 壁が薄いので、隣の住人に聞こえないかとも思ったが、幸い壁を叩かれたりはしなかった。 「これから、どうすっかなー」 暗転した未来を想像しながらだらだらとしていると、ふいにスマホに通知が届いた。 『久しぶりー。飲みに行かね?』 中学生からの友人だ。 俺は薄くなった財布を確認して、すぐに返事をした。 『いいぞ』 どうせ、すぐになくなるはした金。 今日使い果たすも、来週使い果たすも、変わらない。 「まじか! お前、失業したの?」 「声がでけえ!」 騒がしいとは、誰が聞いているかわからない居酒屋だ。 大きな声で言う友人の口を、俺はすぐに塞ぎにかかる。 「わり、わり、でも、どうせ誰も聞いてねーよ」 「まあ、そうだろうけど」 友人の言葉に納得しつつ、やはりもやもやとしたものが残った。 どうやらこの底辺にも、小さな小さなプライドというやつは残っているらしい。 「人生に、端っこってあるんだな」 「なんだよ、それ?」 酔いも回った俺は、友人に持論を展開した。 人生という世界は、まるでフラットアースのように端っこがあり、端っこまで来てしまうと後は落ちるだけなのだと。 友人は、ビールをぐびぐびと飲みながら俺の話を聞いた後、唐突に手を上げた。 「すみません、お会計で!」 「はあ?」 そして、飲みを突然打ち切って、俺の手を引いて外に出た。 「おいおいおい。突然どうした?」 「いいから来い!」 訳も分からず引っ張られ、わけもわからずついていく。 連れていかれたのは、川にかかった橋。 どこぞの野球チームが勝ったとき、飛び込む馬鹿が出るところだ。 俺が怪訝な表情で友人を見ると、友人の顔はキラキラ輝いていた。 「飛ぶぞ!」 「は?」 古い服を着た俺と、高そうなアクセサリーを付けた友人。 そんな二人が、なぜだか手を握って、橋の柵から身を乗り出そうとしている。 「いやいやいやいや! なんでそうなるんだ!」 「え?」 「だいたい、飛んでどうなる? それに、怪我したら危ないし」 俺が焦ったように叫んでも、友人はにんまりとした表情を崩さない。 「端っこが怖いんだろ?」 「あん?」 「だから、飛ぶんだよ! 大丈夫! 失業も婚約破棄も、全然恐くねえよ! それよか、橋から飛び降りる方が、よっぽど恐えだろ!」 「力強っ!」 浮遊する足。 近づいてくる川。 走馬灯が頭の中をめぐり、走馬灯の中で川に飛び込む馬鹿の顔が見えた。 「殺す気か!」 「生きてる生きてる! あーっはっはっは!」 水に落ちた後、俺たちは泳いで川辺へと避難した。 友人を睨むと、友人は豪快に笑い転げていた。 「どうだった? 端っこから落ちた感想は?」 呆れて物も言えなかったが、なぜだか気分はすっきりとしていた。 「意外と、大したことねえな」 俺たちはずぶ濡れのまま、二人で夜空を見上げていた。
「ねえ、あいちゃん。私たちって周りからどう見えてるのかな」 私の問いかけにあいちゃんは前髪をいじりながら答える。 「変な風に見えてるんじゃない?」 あいちゃんの声は驚くほどに冷たい。きっとあいちゃんは周りの目なんて気にしてない。 「そうだよね」 私はそう言って花壇に植えられているスズランを見る。小さな白い鈴が風に揺れても音は出ない。偽物の鈴だ。私たちと同じ。私はそう思いながら頭の上の黄色い輪っかに触れる。 「ねえ、あいちゃん。もう戻ろうよ」 あいちゃんは黒いツノをいじっている。私たちは天使と悪魔だ。見た目だけ。私は白い羽を持っているけど飛べないし、あいちゃんは黒い尻尾を持っているけど動かせない。 「どこに帰るの?」 あいちゃんはそう言って私を睨む。その目だけが本当の悪魔みたい。 私たちに帰るところはなかった。昨日、家を追い出されてしまったから。私たちはごく普通の家庭に生まれた。お母さんもお父さんも人間。でもそこに生まれた双子の女の子は人間じゃなかった。見た目だけ天使と悪魔だった。中身は普通の人間。両親も親戚も友達もみんな私たちを気味悪がった。そして昨日、ついに追い出されてしまった。 「帰れないか」 あいちゃんは黙っている。沈黙が流れる。公園のベンチに座っている私たちに視線が集まっている。ひそひそと何かを囁かれている。悪口のようなものがかすかに聞こえてくる。 「いっそのこと本物になれたらいいのに」 私は空を見上げながらそう思う。あの雲の上に私たちの本当の居場所があるんじゃないか。 「なれないよ。見た目だけだよ」 あいちゃんは冷たく言う。 「ねぇ、人間ってなんだと思う?」 私の言葉にあいちゃんは嫌そうな顔をする。 「羽もツノも黄色い輪っかも長いしっぽも持ってない人たち」 あいちゃんは皮肉ぽく言う。 「じゃあさ、それを全部取ったら私たち人間になれるかな」 「なんか、なれない気がする。問題は見た目じゃない気がする」 あいちゃんはそう言って自分の尻尾を触る。動かせないそれはだらんと垂れるだけ。 もしスズランが揺れた時に音が出てもそれを鈴とは思わないだろう。そんな感じだと思った。 「ねぇ、あいちゃん。アイスでも食べに行こうよ」 私はそう言ってベンチを立った。何も言わずにあいちゃんもベンチを立つ。
ある日の午後。 身体社会学の女性教授が、マイクの前に立った。 「みなさん、ルッキズムって聞いたことありますか?」 「人のこと、外見で特別扱いしたり、差別したりすることですか?」 「はい。外見至上主義と呼ばれてます」 背後のスクリーンを指さした。 「今から写真をお見せしますね」 マスクの女が、写し出された。 「この女性、みなさんはどのような印象を受けますか?」 「清楚な、お金持ちのお嬢様って感じに見えます」 「そうですか。では、次の写真です」 「えっ」 最前列の学生が、目を伏せた。 「マスクを取った、先ほどの女性です」 「口が……」 「口裂け女です」 しばらく、沈黙が続いた。 「マスクしてると、見えてるところだけでイメージしてしまいますね」 授業の終わりのチャイムが鳴った。 「感染症が流行ったあと、マスクを外せない人が増えましたよね」 「先生もですか?」 「楽ですからね。目の周りだけ念入りに化粧してます」 目元を指でさした。 「おキレイですよね」 「それもルッキズムですよ」 教授は笑いながら、マスクに手を掛けた。 「私、キレイ?」 視線が集まる。 「……鼻が」
中華スープがおいしくできた チャーハンはそんなに うまくはできなかったけれど 中華スープはおいしくできた それだけで
女がゆっくりと目を開けた。 「そっか。私、死んだのね」 川原の石に腰掛け、辺りを見回した。 「すみません。ここはどこですか」 「ココ、サンズノウケツケ、ジュンバンネ」 外国人スタッフが、列の最後尾を指差した。 「三途の川って、本当にあるんだ」 女は、行列を眺めながら歩き出した。 すると、男が、行列に手を振りながら歩いてきた。 「いやぁ、どうも」 「先生。足元、お気をつけください」 年配のスタッフが、最前列に案内する。 「ところで、あれはご用意いただけましたか」 「ああ。ちゃんとここにある」 うなずきながら、胸のポケットを指先でつついた。 「どこも同じね」 女が、振り返って笑う。 そこに、スタッフが声をかけた。 「ジュンバン、マモッテネ」 「なんだ、お前。その口のきき方は」 何事かと、周りが騒がしくなった。 「ミンナ、マモッテルヨ」 男が、顔を赤くして詰め寄った。 「お前、国外退去にするぞ」 その言葉に、スタッフが男の手を握った。 「コレデ、クニニカエレルネ」
その結婚式は、テレビカメラを通して大々的に放送された。 「ご覧ください! 新郎新婦が出てまいりました!」 宇宙服を着た二人の男女が、宇宙船から外に出た。 腰に固定された機械によって、無重力空間ながらも決められた場所まで体を移動し、宇宙空間で向かい合った。 そして、互いの体を近づけ、メットとメットをコツンとぶつけた。 「誓いの口づけです! フィナーレを飾る、誓いの口づけです! 皆様、盛大な拍手を!」 テレビを見ていた人々は、名前しか知らない二人の男女に、盛大な拍手を送った。 この結婚式は、二人の男女の結婚式でしかない。 しかし、人類発となる宇宙空間での挙式という、人類にとって大きな一歩でもあった。 結婚式を終えた二人の男女は、地球へと帰還し、タワーマンションの最上階でソファに座る。 「はー、なんとかキス回避できたな」 「ほんとほんと。人にキスするとか、汚すぎてマジで無理」 二人は、身体接触を避けたまま結婚式を終えるという一大プロジェクトの完了を祝い、ワイングラスで乾杯した。
男女が、ゆっくりと目を開けた。 「私たち、死んだのね」 二人の手は固く握られている。 「これでみんな、分かってくれたさ」 「そうね。私たちの愛は本物だったって」 見つめ合う二人。 「……なんか、人多くない?」 辺りを見回し、杖をついた女に声をかけた。 「すみません。ここは、どこですか」 「ここ、三途の川だ。並ぶんなら、向こうだ」 女は長い行列の最後尾を、杖でさした。 「あっ、スマホがない」 女がポケットを探る。 「洗面所の鏡のとこに置いてきた」 「もう、いいんじゃない」 「だめ。データ、消してないもん」 その時、遠くで声がした。 「ん…?お母さん。ちょっと待ってて。スマホ、取ってくる」 女は、声がする方へ走った。 「先生、すぐ来てください」 看護師が大きな声を上げた。 母親は娘の手を握り、泣いている。 「私のスマホ…」 男は河原の石に腰掛け、女の帰りを待った。 「兄ちゃん、どうした」 酔っぱらいが横に座る。 「僕も、帰りたいんですけど。どうしたら、いいですか」 「誰か、呼び掛けてくれる人、いねぇのか」 「はい」 「じゃあ、その彼女、待つしかねぇな」 酔っぱらいは笑いながら、男の肩を叩いた。 「その彼女、今度来る時は、婆さんだな」
見上げれば、満天の星。冷え込んできた空気が、焚き火の熱をよりいっそう愛おしいものにしている。 タープの下、ランタンの灯りに照らされた手元。使い込まれた手挽きのミルに、深煎りに仕上げられたフレンチの粒を流し込む。ゆっくりとハンドルを回すと硬い塊が、ゴリッゴリッと音をさせ砕ける。振動が掌に伝わってきて、あたり一面に、深く、馥郁とした香りが広がっていく。 森の、湿った土や木の匂いに混ざり合いながら、それは確かな存在感を放っている。 本を読むためだけに、わざわざ森にテントを張って。 邪魔もなく、開放的ではある。でも、ここまでする必要、あったかな…… 自問自答も含め、マグカップに珈琲を注いでしまう。腹のなかに沈めてしまえば、煩わしいすべてはなくなる。そして、やさしく、安らぎを…… 「ふう」 悩むなんて、いつもしてるだろ。 後悔なんて、何度もしただろ。 まったく、やれやれだ。森のなかに来てまで、することじゃないよな。 ゆれる炎を見つめながら、最後のひと口を流し込む。ざわついていた思考が静かに消えていき、不思議と「どうでもいいか」と、ひとり言がこぼれた。 本を閉じ、夜空を見上げる。星たちの瞬きが、僕の考えを支持してくれているようだ。 本を読むため、というのは口実で、実際のところ、この香りに包まれ、何も考えない余白の時間を手に入れるためだった、と、やっとそのことに気づく。 わざわざ森にテントを張って。 来た甲斐は、あった。
ある日の夕方、男が改札を出た。 一瞬、足を止める。 駅のホールに、小学生の声が響く。 「募金お願いします」 両手で箱を抱え、頭を下げた。 小さな女の子が駆け寄り、小銭を入れた。 杖をついた老人が、財布を開いた。 車椅子の青年が、片手で車輪を回しながら、箱に手を伸ばす。 「ありがとうございます」 取材のカメラが、小学生の笑顔を映した。 男は、大きく息を吐いた。 そして、両脇に並ぶ小学生の真ん中を歩き、駅を出た。 「募金お願いします」 背中に視線を感じる。 少しずつ、声が遠くなる。 男は、街のネオンを眺めながら呟いた。 「勝った」
夕方のおふとんは朝よりも熱がこもる。それに耐えかね、むっくりとベッドからはい出す。いつの間にか近くの工事の音は止んでいて、外を急ぎ足で行くその音さえも心地よくにぎやかしい。水分不足による軽い頭の痛さと空腹が、かろうじて生きていることを知らせてくれる。 いまのわたしを充たしてくれそうなものは。ひとまず、テーブルの上のお煎餅をひとかじり。買いもの行く?行かない?やりくりすればさ、行かなくても。でもあとあと困るよねえ。それはそのときじゃない。けど気持ちが少しでもあるんなら行ってもいいでしょ。行かないでもいいでしょ。うだうだしちゃってるんなら行っちゃったほうがいいと思うよ。自分に軽く言い聞かせ、お財布だけを持って部屋を出る。でも牛乳、だけでいいよね。 牛乳を買うときは財布だけ。ポケットに入るから手ぶらということ。スーパーに着いて目的は牛乳だけなのに、ひと通り見てまわる。いちおう念のため。ふうん、なかなかの品ぞろえですこと、なんて思ってもないこと頭に浮かべながら。 牛乳を買って、それだけを手に持ってスーパーを出る、明日の朝のぶんがなくってさあ、ちょっと寝る前にねえ、来てみたの、みたいなふうを漂わせながら。 道ばたの草のあたりから、虫の声が流れてくる。やさしい夜風と相まって、夏の終わりを感じさせる。どの声がなんの虫かわかったらいいのになあ、毎年、思っていて調べないのはそのときだけのことにしてる証拠。名前がわからなくてもステキなことにかわりない、オーケストラだって、昔の歌謡曲だって。 冷えた牛乳が手に心地いい。 ―だから牛乳買うときは手ぶらで行くようにしてんだあ 元彼のその習慣がいつの間にか自分のスタイルへと変わっている。アイツのために買っていた牛乳。そんなに好きじゃなかったけど、いまはないと困ってしまう。いまもわたしのなかにアイツが生きてるみたいで、それがわたしには、ひどく心地いい。 夏は終わるねえ。つぶやいてみても、その秋は駆けない。
見ていた。 見ていた。 ずっと見ていた。 朝起きて着替えている時も。 ご飯を食べている時も。 通勤している時も。 会社で仕事をしている時も。 会社近くのカフェで昼食をとっている時も。 退勤している時も。 居酒屋に寄って酒を飲んでいる時も。 家で勉強している時も。 お風呂に入っている時も。 ベッドで寝ている時も。 望遠鏡。 隠しカメラ。 防犯カメラのジャック。 あらゆる方法で見続けた。 何日も。 何週間も。 何ヶ月も。 「ああ、今日も可愛いなあ」 ずっと見ていた。 そして千日目。 お風呂から出た彼女が立ち止まり、突然隠しカメラのある方向を見た。 いや、隠しカメラを通して私の目を見た。 彼女の口が動いた。 『千日目。ずっと、見てるよ』 私は、隠しカメラの映像が映っていたスマホを落とし、後ずさりした。 背中が壁にぶつかり、へなへなと座り込んだ。 ただ、恐怖だけが襲ってきた。 何日も、何日も、何日も、彼女を見てきた。 好きだから、ずっと見てきた。 でも、見られることがこんなに恐いことだったなんて。 たった一度見られただけで、この世界から逃げ出したくなるほど恐怖を感じた。 以降、私は彼女を見るのをやめた。 彼女に見られたくなくなったから。 カーテンを閉めて、部屋に籠った。 しかし、今でも思う。 今の私も、彼女に見られているのではないかと。 時折、カーテンの隙間から外を見る。 道行く人間が全員彼女に見えて、すぐにカーテンを閉じた。 「もう、勘弁してくれ」 閉じ切ったカーテンは、今日で何日目だったか。 見られることがこんなに恐ろしいと知っていれば、誰かを見たりしなかったのに。
時は元禄、今は令和 今宵は、たんたん このような 言葉があるのは それは、誰もが知っている 感情を出さない それからどうした ダンダンとならば 早くなる そのあとどうした タンタンメンを 食べるスピードも早くなり感情ムキダシで 食べることになる こんなの どうでしょう 書けるもんなら書いてくれ
「『大森』って言う割にはビルばっかりだな」 「まぁな…昔は森だったらしいよ」 バイトで知り合いになった人が同じ大学に通っていると分かり、そこからよく遊ぶようになった 今は彼の地元に来ている ビル街を抜けると店舗と住宅が点在している所に出た。友人の家はこの先だと言う 居酒屋が入っているビルを曲がると場違いの光景があった そこは金網フェンスに囲まれたテニスコート位の敷地で、中は青い葉をつけた木々が密集している。まるで森を切り取ってそこに着けたようだ 「ここは?」 「昔からある空き地」 入るな危険! マムシ注意! 等の看板が付いている 「こんな高い木、強風で倒れたりしないのかよ」 「さぁ大丈夫何じゃない」 友人はコンビニで買い物をするというので、この小さな森を眺めて待つことにした 森のから鳥のさえずりや小動物が落ち葉の上を歩く音が聞こえる 金網の間から森を覗くと木々の間から人がいるのが見えた 黒い長い髪が腰の方まで伸びていて 白く健康な手足が服から出ている そんな若い美しい女性が木の根元で倒れていた 「わりぃ、お待たせ」 気づけば金網に足をかけてよじ登ろうとしていた 次に森を見るとあの女性はいなくなっていた 「今さ…」 「レジのおばちゃんが幼馴染お母さんでさぁ、それで思い出したんだけど…」 そう語り出した友人の話は、ここ大森に昔から語り継がれる伝説のような摩訶不思議な話だった かつて広大な森だったこの土地には鬼が住んでいたと言う この森に迷い込んだ人間を鬼は姿を変え、鬼の住む家まで誘い込んで、最終的に食ってしまうらしい 「…だから昔は大森じゃなくて、鬼森って言われていたらしいよ」
奇談は書いたことがないとの相談に、指定の喫茶店に行くと友人はすでにショートケーキなんぞを食べていた。らしくない。この友人とケーキの取り合わせが。これからしようとしている奇談とやらとも。 「何にする?」 挨拶もそこそこなのはいつものこと。そのことに安堵するが、それはつかの間だった。 「最近、少年のころの心がよみがえってきてな」 「それでショートケーキか」 「そうだな」 「奇談もそれか?」 「たぶんな」 言って友人は、窓の外を見やる。 「あそこの看板な」 「どれ?」 「矢印のある」 「ああ、なんて読むんだ。モン……」 友人はその地名を教えてくれたが、僕はすぐに忘れてしまった。 「沈黙の音がきこえる村だとかなんとか。美しいところらしい」 「で?」 「なんかうずいちゃってな、カラダが」 ちらっと見せた友人の笑顔が少年のようで、僕は少しはっとした。 「吸い込まれるような感覚にな。あの看板見てると」 「見るなよ。おいっ、行くなよ」 笑い飛ばすわけでもなく友人から明確な返事はなかった。しかし、その数日後だ。その友人と連絡が取れなくなったと知らせが入ったのは。僕は、でも妙に納得した。きっとあの矢印の先を目指しているんだろう、と。友人のなかの少年の心がそうさせている。友人は、彼のなかの少年に喰われてしまった。もしかしたら、彼なりに奇談を書こうとしているのか。
「ち、ちくしょう! 女神のやつ……殺してや……ぎゃああああああ!?」 また一人、異世界転生者が死んだ。 それも、転生させた直後も直後。 異世界最弱に近い、四つ足の魔物によって。 「はあー。なんでこうなるかなあ」 私は、その期待はずれさに呆れていた。 ちゃんと、チート能力を与えていた。 反撃すれば、拳一発で倒せる魔物だ。 でも、最近の転生者たちは、反撃さえしない。 驚いて、腰を抜かして、泣きべそをかいて、噛みつかれて、恨み言を言いながら食われて死ぬ。 いくらチート能力を与えていても、一方的に攻撃を受け続ければ、そりゃあ死んじゃう。 当たり前だ。 「次、探さないとなあ」 私は壁にかけた鏡に触れて、世界の一つを映す。 世界の住民の頭の中を覗きこんで、その住民の覚悟を確認する。 『あーあ。俺がもし異世界転生したら、こうやって、ああやって、大活躍してやるのに』 「見つけた」 今日もまた、次の転生候補を見つける。 正直、先日死んだ転生者と同じようなことを言っているから不安は残るが、仕方ない。 こうしている間にも、異世界の危機は迫っている。 一万人送り込んで、一人でもチートを使いこなしてくれれば採算は合う。 「ねえ、貴方。異世界に興味はない?」 私が鏡に話しかけると、鏡の中から声にならないはしゃぎ声が聞こえてきた。
時は元禄、今は令和 今宵は、けだかい このような 言葉があるのは それは、誰もが知っている 人柄や容姿 雰囲気が高貴で 優れている それからどうした けだるい そのあとどうした やる気が まったくしない そんなことだから あいつとの差は ソコだな 悪口はコソコソ 言うなよな こんなの どうでしょう 書けるもんなら 書いてくれ #公式アメーバブログ #小説家になろう #note投稿サイト #pixiv投稿サイト #カクヨム投稿サイト #ノベマ投稿サイト #プロローグ投稿サイト #公式テラーノベル #ポエム新落語500 #X、SNS #mH6z2yQHpn59104 #ライブ配信 #showroom #ライブ配信ショールーム #ポエム新落語 #中谷美咲 #ポエム新落語作家 #いろはの咲 #創作ポエム新落語 #しずかなインターネット※投稿サイト #ノベルアップ+ #ネオページ
ある日の夕方。 テレビのローカルニュース。 アナウンサーが原稿に視線を向けた。 「今日の午後、17歳の高校生が民家に忍び込み、現金3,000円を盗んだ容疑で逮捕されました」 画面に、口元だけの女が映った。 『挨拶もきちんとできるいい子よ。 そこの公園で、いつも一人でサッカーボールを壁にぶつけてたわ』 モニターを見るアナウンサーが、小さくうなずいた。 「次のニュースです。 今日の午後、17歳の高校生が地元サッカークラブへの入団を決めました。契約金は3,000万円だそうです」 画面に、笑顔の女が映った。 『挨拶もきちんとできるいい子よ。 そこの公園で、いつも一人でサッカーボールを壁にぶつけてたわ』 モニターを見るアナウンサーが、小さくうなずいた。
マルが誰かの家の駐車場で毛繕いをしている 横を通る時、私を見て通り過ぎるまで目で追っている マルを抱きしめたらどんな感触がするのだろう フワッとしているのか 温かい感じも合って 大して重くもないだろうし どんな匂いがするのだろうか マルを見かけるだけで嬉しくて 動いているのを見てしまう マルはただ生きているだけだろうに 私もマルになりたい
近所のスーパーが進化した。 昨日までスーパーだったのに、なぜかハイパーと名乗っていた。 「なにこれおもしろそう」 好奇心で入ってみた。 店内は、昨日とは比べ物にならない程ピカピカになっており、店員たちも高そうな制服に身を包んで立っている。 「我がスーパーは、より良い物をお客様に届けたい想いで、変わりました!」 スーパー……いや、ハイパーの店長さんらしい人が、メガホンを持って客へアピールをしている。 そこはアナログなのか。 それはさておき、ぼくは昼食を調達するため、いつものお総菜コーナーに向かった。 ぼくが好きなのは、中華弁当だ。 チャーハンと八宝菜の組み合わせが、このスーパーのお惣菜の中で、ベストマリアージュなのだ。 「あれ?」 だが、お総菜コーナーに、中華弁当の姿はなく、代わりにに北京ダック弁当が置かれていた。 お値段は、中華弁当が十個は買える値段だ。 他のお惣菜を見ても、どれも内容とお値段がハイパーになっていた。 ぼくは無言で、お総菜コーナーを後にした。 ハイパーを出る途中、ハイパーに出店しているお店を見てみれば、どれもこれもお高い物ばかり。 庶民の財布では、ちょっと手が出ない。 「普段の日常に、良い物を取り入れましょう! ハイパーな日常にしましょう!」 必死な店長の顔をチラ見して、ぼくはハイパーを出た。 「店長がお客さんなら、買うのかな?」 いったい、なぜこんなことになったのか。 答え合わせが完了するより先に、しばらくするとハイパーは潰れていた。 建物が取り壊され、新しく何かが建つのを見ながら、ぼくなら何を建てるだろうと物思いにふけっていた。
湿った空気が肌にまとわりついてくる。 ホームに立つと、ぬるい風が吹いてきた。 電車の先頭車両のいちばん前。 私はいつもそこから乗り込む。 今日の運転士は指差喚呼の声が大きい。 この声を聞いていると、なぜだか乗っていて安心する。 扉のほうを見ると、脇に立つ男が扇子をせわしなくあおいでいる。 車内には、しっかりと冷房が効いているというのに。 暑がりなのか。それとも匂いにでも敏感なのか。 横の女性も落ち着かないだろうと思ったが、スマホに目を落としたまま、気にする様子がない。 考え過ぎだったようだ。 私はそっとため息をつき、窓の外に目をやった。
宇宙人から手紙が届いた。 それは独りよがりな詩のような形をとっていたが、要約するとこのようなことになる。 「貴方たちの人工衛星とそれに乗った金色のレコードを、確かに受け取りました。伝えにくいのですが、この星のほとんどの住民はそれを侮辱のメッセージと受け取り、中には宇宙戦争を提唱する者もいます。しかし、幸いこの星は私たち少数の上級民によって成り立っていますので、ご心配には及びません。ええ、あのレコードは素晴らしい。評価星10では物たりません。これほどの上質な音楽を聞かせていただけることは、私たちにとってまさに光栄と言えるでしょう。追加のレコードが欲しいので、貴方たちの時間感覚で1ヶ月後にお訪ねします。貴方の素敵な火星人より。」 写真もいくつか入っていた。ピースだのシェーだののポーズをとった、いかにも異星人らしきフォルムのやつが写っている。 宇宙人たちは1ヶ月より少し遅れて、本当にやってきた。人類側としては初めての宇宙人との接触だ。宇宙的規模で見ればほんの少しの遅刻を責めるなど、何をどう考えても悪手甚だしいだろう。 どこかでもう見たことがあるような宇宙船の扉が開き、彼らは出てきた。お父さん、お母さん、お子さん三人。穿った見方をしなければ、誰が見てもそう受け取るだろう。(訳註:この「穿った」が本来の意味なのか、誤用での意味なのか、誰か教えてくれませんか?) 例のことが起こるまで、特に特筆すべき事項は起こらなかった。やはり穿った見方をしなければ、日本に憧れた外国人を日本人たちは温かくもてなしました、という類の話とそうそう変わらない。彼らは写真通りの容姿だったし、性格をとっても、あの手紙から想像された淡い影に綺麗にピントが合わさったといった感じである。 しかし、とうとう事件は起こる。宇宙人帰星前日の夕食会で、彼らはうっかり口を滑らしてしまったのだ。 「名残惜しいけれど、明日でとうとうおわかれですね。最後に一つだけお願いがあります。お土産のレコードを積む時は急いでくれると嬉しいです。一週間後には、この星は超巨大地震とコアの大爆発で粉々になりますから。」 「は?」 「え?」 「この星とは、つまりこの星ですか?」 「ん?あ、え、あえ、あっ!!!!」 その時の宇宙人の狼狽ぶりと来たら、本当に文字通り狼狽していてあまり特徴がなかったので特に書くこともない。土下座やら何やらしまくって、同席していた各国のお偉いさん方もその場では止めたが、市民の不安までは止まらなかった。 とりあえず地球人たちは宇宙人のそれを侮辱もとい宣戦布告と捉えたので、両者了解で宇宙戦争になった。30秒で終わらせる!とどちらかの陣営の誰かが意気込んだが、開戦後3秒間で地球人口の1割が削られてしまったため、残りの9割のほとんどは捕虜になることを選んだ。幸いにして、宇宙人たちは捕虜を傷つけるほど残忍ではなかったため、人類が滅亡することもなく、少々狭苦しい宇宙船に乗せられて彼らの星に運ばれた。地球はほとんど無人となった後、彼らの言葉通り、勝手に爆発して木っ端微塵になった。 まあ、この金の像に関する話を至極簡単にわかりやすくまとめるとこういうことになる。 一瞬で終わった宇宙戦争の原因、この星と地球人との友好の架け橋、うっかり口を滑らして旅行先で死刑になった間抜け。彼らを表すのに何という言葉を使えばいいのか、僕たちはまだ答えを見つけられていない。 けれどまあとりあえず、5体の彫刻たちは、彼らが愛した金のレコードを両手に抱えて微笑んでいる。
娘の三歳の誕生日だった。 妻は朝から美容院へ出かけていた。 娘は二、三日前から熱っぽい。 保育園でも何人か休んでいるようだった。 いつもよりおとなしいが、家の中にいるのにも飽きてきたらしい。 昼を過ぎると、私も出かけたくなった。 欲しい本があったのだ。 「本屋に行こうか。好きなミノムシの絵本もあるよ」 「いく」 「誕生日プレゼント、そこで買おうか」 「うん」 子どもの世話グッズを詰めた布バッグを肩にかけ、娘と郊外の本屋に向かった。 一階の新書コーナーで一冊、文庫本コーナーで二冊、本を選んだ。 娘は先に絵本コーナーへ行き、見覚えのある絵本を見つけると、嬉しそうに指さして話しかけてきた。 本屋を出ようとしたときだ。娘が急に困ったような顔をした。 次の瞬間、口から中身が噴水のように飛び出した。 娘は、自分の身に何が起きたのか理解できていない顔をしている。 びっくりした私は、なぜか笑ってしまった。 服の状態を確認する。上着だけ替えれば済みそうだった。娘の上着を拭き、自動販売機でポカリスエットを買う。店の外れで娘にうがいをさせる。 手をつないで、もう一度店内へ戻った。 「すいません。娘がもどしたので、モップを貸していただけますか」 「いいですよ。そのまま置いておいてください」 「いや、店の入り口なんで。できる範囲でやりますから」 店員が掃除道具を持って戻ってきた。 ホースで水を流し、さっき娘が吐いたものを溝へ押しやる。そのあとで丁寧にモップをかける。娘は、その様子をじっと見つめていた。 その後、娘をトイレに連れて行き、顔と手を洗う。 ようやく一息つき、車の外で煙草に火をつけた。 さあ帰ろうとキーを回したとき、嫌な予感が走った。 エンジンがかからない。何度やってもセルがむなしく唸るばかりだ。 「車がちょっと壊れたから、あそこのお店に行こうか」 「こわれた?」 娘はどこか上機嫌だ。私はぐったりとため息をつきながら、チャイルドシートのベルトを外した。そのあいだに、娘は両手を叩きながら歌を歌い出す。 「元気で何よりです、お姫様」 私までが、開き直ったように気分が軽くなった。 娘と手をつないで、本屋から国道を挟んだガソリンスタンドへ歩く。 「父ちゃん、お店にアイスある?」 「どうかな。お利口に待てるか?」 「待てる」 「すいません。バッテリーがあがったみたいで、ケーブルを貸していただけませんか」 「いいですよ。車はどこです?」 「前の本屋の駐車場です」 ガソリンスタンドの店員は手際よくケーブルをつなぎ、一発でエンジンがかかった。 家に戻ると、妻の機嫌はすこぶる悪かった。 「どこへ行ってたの」 「本屋さんに。ちょっとだけのつもりだったんだけど」 「なに? 上着、着替えてるじゃない」 「本屋を出たところで吐いた」 「ええ? 熱があるちっちゃな子どもを、普通連れ回す?」 「ごめん」 娘は、アイスをかじりながらさっきの歌を口ずんでいる。 娘との長い一日が終わった。 今度からは時々にしよう。 しかし困ったことに、娘と洗車機の中に入る約束をしてしまった。 忘れてくれればいいのだが。
地下鉄の階段の手前で、父親が足を止めた。 小柄な背中が一人で階段を降りていく。車の途切れ目から、ふたりの距離が広がる。 子どもが立ち止まり、振り返って手を振る。 父親もポケットから手を抜き、小さく振り返した。 数歩進んでは振り返り、遠くからまた手が上がる。 やがて、小さな姿が階段の向こうへ消えた。 父親は動かず、眩しい風の残像の中に佇んでいた。 ポケットに両手を戻し、来た道をゆっくりと引き返す。 朝の街は、何ごともなかったかのように流れていた。
彼と火の花を見たのはこの空だった。マゼンタの色が、黒い彼の眼鏡に映っていたのをまだ覚えている。二人でこさえた浴衣でもって、確かにあの時尺玉に並んで照らされていた。 芝の湿った、煩わしい匂いがする。雲間に中秋の月が見え隠れしているのもいじらしい。今はただ、鈴虫の声だけが聞こえている。初盆から、もう季節は二回巡ってしまった。 遠くで、二人連れが小さな火を手に持っている。しばらく見ていれば火はぽとりと落ちて、また直ぐに手元に灯される。どうやら今度のは長生きなようで、わっと声が上がっている。 見ているだけで段々と胸元が締め付けられるのだが、やはり見ずには居られない。小さな小さな遠くの火が、私の瞳に映っている。一層堪えて、いよいよ火は私の頬にも映りだした。細いその火の筋は段々と延びてゆく。誰にも見られまいと見上げれば、雲はいつの間に晴れて、濃紺の澄空によく名月が映えている。彼が最期に見たのも、この月だったろうか。今では彼の他には誰にも分からない。一つだけ分かるのは、余りにも若すぎたことだけである。 幾分落ち着いてきた。慕情が募るので、早く白檀を灯しに帰ることにする。二人で歩いた道は、あの日より足元が見づらかった。余り夜更けだからか、或いは別のものなのかは分からない。 背の方から、またわあっと声が上がっていた。
アイスコーヒーを飲んでいない僕には いまだに夏はやって来ていない そう頑なに思い込んでいたら いつのまにか夏のピークは過ぎていた 僕はやっとのことで アイスコーヒーを口にした 金曜日の疲れたカラダ 無事に帰宅できたよろこび シャワーのあとの ご褒美アイス だいぶ痩せてしまった 毎食後に飲んでる黒酢のせいでも サプリのせいでもない たんに食欲が落ちたのだ それもこれも 夏のせいだ 僕には 夏はやって来ていなかった そのはずじゃなかったのか でも いつのまにか 秋の背中が見えている
バビロニア王朝の事を調べていた。 ハンムラビ王が治めていたらしい。 60進法が使われていたらしい。 理数IQ74の僕は2進法の定義すら曖昧だ。 近くのお寺の時計が60進法から2進法に変わる。 僕の生活時間が圧縮される気がする。 物理演算的にあり得ない現象が起こる。 しかしそれは他の地域の話だ。 時間は圧縮され明日寿命を迎える人達の心拍数と酸素消費量が極限までコストカットされる。 そんな気がした。 医者からデータに無いことは起こり得ない、と叱責されそうだ。 お寺や教会やモスクにいる人々の祈祷や歌や何やらが数学屋と化学屋の耳に届きまたハーモニーを奏でる。 それは演繹計算の音楽なのだが経済に忙しい人達によってまた算盤を弾かれる。 少し追加支給が来た。 鼻唄も馬鹿にならない。
はじめて会ったとき 「の」の字みたいに寝ていたから 「のの」と呼ぶと「の」の字を描いた からだ全部を使って ぼくの名前は「のの」なんだよ、とでも言うみたいに そんな「のの」は万能神 どんな願いごとでも叶えてくれる いつ叶えてくれるのか けれど、それは… 「のの」にだってわからない 万能神は、いつでも気まぐれ
みやこで働きづめの夏も そろそろお休みするのかな 涼しい秋と 交代するのかな ゆっくり 休んで 休んで 休んで また来年 やって来るのかな 来年は そこまで一生懸命に 働かなくてもいいですよ きちんと夏に きこえたかな
間に合った…。 データを送信し終えると、楠田はそのまま仮眠用のマットに倒れ込んだ。精魂尽きたとばかり、そのままピクリとも動かない。 毎回“何も浮かばない!今度こそ落す…”と覚悟するのだが、なぜかそういう時ほど不思議と普段考えないようなアイデアが降ってくるのだ。 そうやって楠田は今もなんとか漫画家を続けてこれている。 しかし、それはなにも楠田が幸運だとか、行いが良いとかいう話ではない。 普段から楠田はテレビでもネットでも、少しでも創作のヒントになりそうなものは、片っ端からメモしている。 おそらくはそうやって意識の底に溜まった情報が、ピンチの時に浮かび上がっているのだろう。 だが、その程度の努力はプロならみんなやっているのに違いない…。 なぜなら楠田はデビュー5年目にして、一度も長期連載を獲ったことが無かった。
私たちは旅人 終わりのない旅をしている 空が青色か確かめるために 青、灰色、それとも黒。 今朝は曇り空 灰色。でも 夕方は晴れ どう。空は青い?
黒虫と言う男がいる 300メートル先からでも、彼がいることが分かる ガリガリの体に黒く長い髪を後ろに流し、肘と膝を外に向けて歩く人は彼くらいだろう。まるで蜘蛛が歩いているようだ 黒虫氏は夢想家である 彼は8月の曇り空のした、黒い長袖のスーツをまとい、白いシャツに黒いネクタイを締めカクカクと歩いている どうやら駅に向かっているようだ 黒虫氏の前から丸々と肥ったおばさんが暑そうに歩いてくる。 おばさんに道を譲るつもりの無い黒虫氏はアスファルトに溶けておばさんをやり過ごす。 黒虫氏は丸々と肥ったおばさんを振り返り 「あのケツは悪くないがな。しかし」 と虫の声を出す 夏の風が彼の黒く長い髪をなびかせ、髪の中のノートを道に落とす 舌打ちをしてノートを広い手で砂を払う たまたま開いたノートに、「恋はあの世に行ってから」と書いてある 黒虫氏はノートに書かれた「恋はあの世に行ってから」を凝視している 目から光線が出てノートに書かれた「恋はあの世に行ってからが良い」の文字を焼き消そうとしているかのように、凝視して、ふとペンを取り追記をする。 「恋はあの世に行ってからするが、セックスはこの世でする」 と書かれたノートを黒く長い髪に入れて、また蜘蛛の様に歩いていく 駅はまだ付かない様子だ
終わりの見えない旅を続ける。創作という道を。寄り道も回り道もいいかな。少なからず目的地に近づいているから。 最近小説を書くのを中断してしまった。一回立ち止まったものを進むためには小出しにして、ギアを下げて漕ぐのが一番である。そういった意味でこのPrologueは有用だ。簡単なことを呟くのにうってつけだ。一方小説を読むことは続けてきた。早くきり上げて小説を書いていきたいが。長編小説が長くてなかなか創作に移ることができない。糧になるといいが。
「もう一度言ってもらってもいいですか。」 面倒臭そうに目の前の人が言う。 「嫌です」 「帰って貰っていいですか」 「嫌です」 「喋って貰っていいですか」 「嫌で」 ドアが光の速さで閉まる。 ピンポンを押す返事がない。
夏の終わりのクッキーは すこし湿気っていた 夏の午後を 愉しませてくれていたクッキーは すこしさびしそうに 湿気っていた つめたい珈琲も どことなく さみしそうな味を させている 秋になったら ぱりぱりのおせんべいを買おう 秋の午後を 愉しませてくれるはずのおせんべいは にこやかに やってくるだろう つめたい珈琲よりも あたたかいお茶が いいだろうか 秋の終わりには すこし湿気ってしまうのだろう それでも おせんべいは にこやかに やってくるだろう
窓ぎわで 空を眺めながら 監視を続けていたお犬さまが 雨が来たと知らせてくれる 僕のほうが早かったね 気がつくの 僕のほうが ね、ね 中太の短いしっぽを振る 「おさんぽ行けないねえ」 私がささやくと 部屋のなかで遊ぶのも 悪くないよ こんな日は やっぱり 中太の短いしっぽを振る 遊んで、食べて、最後に眠って 一緒に、一緒に いつも一緒に
8/27 本日3作品 ナンバー11418 ポエム新落語 「かく」時は元禄、今は令和 今宵は、このような 言葉が あるのは それは、誰もが知っている。ライト それからどうした 文字を変更 ライト から トライ そのあとどうなった 挑戦することは必要 文字を変更 トライ から ドライ 挑戦したあとは トライ ならぬ ドライはビール いいかがですか? こんなの どうでしょう 書けるもんなら 書いてくれ