「ねえ、知ってる? セミって成虫になってから、七日しか生きれないらしいわよ」 「知ってるけど、突然何?」 母ちゃんのせいで、アニメの声が聞こえなかった。 俺は再生を止め、アニメを十秒間に戻す。 そして、母ちゃんをギロリと睨みつける。 いつもなら、これで母ちゃんは謝って部屋を出て行くのだが、今日は何故だかニコニコしたままだ。 部屋を出て行く気配もないし。 正直、鬱陶しいのだが。 「なんだよ?」 俺は立ち上がって、母ちゃんに近づいた。 母ちゃんは、ニコニコしたままだ。 「あんたが仕事辞めて、セミみたいにミンミンミンミン文句だけ言う生活が始まって、もう六日目ね。明後日にはどうなってるか、楽しみね」 俺は走った。 走りながら、ハローワークの場所を調べた。 やるといったらやるのが母ちゃんだ。 すぐに職など見つかるはずもない。 俺は隙間バイトで金を稼ぎ、母ちゃんに納めることで、セミから人間に成ることに成功した。
瓦礫の上に頬をあずける。金属の冷たさが、ゆっくりと肌に伝わってくる。 地平線の縁が、にごった赤色に変わっていく。街のあちこちで、アンドロイドたちのレンズがそれを捉えているはず。彼らにとって、これは単なる照度の変化にすぎない。日没までの残り時間を計算するための、ただの数値として。 風が吹いて、湿った土のような青い匂いが、鼻先をかすめる。肺の奥まで吸い込むと、心臓のあたりが少しだけ重くなった。 かつては、誰かにそのことを伝えていた。けれど、ポケットのなかの端末は冷たく黙ったまま。ネットの向こう側は、効率化の結果として人間が少なくなり、AIたちがやり取りする記号の海へと変化している。 もう、この夕陽の美しさを分かち合える誰かは存在しない。ネットワークの向こう側に言葉を投げかけたとして、返ってくるのは最適化された無機質な共感だけだ。 それを、共感と呼んでいいのなら… それでも、私は指を動かす。意味をなさなくなった画面の隅に、あるいは、指先の感覚が届く限りの地面に、言葉を書き連ねていく。それが誰に読まれるためでもなく、明日には風にさらわれ、データの海に埋もれる運命だとしても。 ―ここには美しい空があった その事実を記し続けることだけが、私がこの冷え切った世界で、まだ熱を持った生命体であるという唯一の証明となる。 足元の砂に指を沈めてみる。 ―伝えたい ただ、それだけを砂に呟く。 また風が吹いて、文字は、さらさらの粒へと戻っていく。 明日も、今日と同じような空だろうか。 今日とは、少し違う風が吹くだろうか。 深く息を吐き出す。 頭の片隅に淡く残った真っ赤な夕陽をなぞりながら、冷たいコンクリートの上で、眠りに落ちる。
今日も、渋滞に巻き込まれながら前に進んでいる。でも今日はいつもとは違う。昔同級生だったあのイケメンと会うのだ。歩道を渡り終わった後、待ち合わせの場所へと向かう。 「お前、本当に魁斗(かいと)か?」 「そうだよ。俺がデブとでも言いたいのか。」 「ああ。それと、タバコ吸ってる姿は思い付かなかった。」 「そんなこと言うなよ。颯だって、めちゃくちゃ真面目そうな見た目してんじゃん。俺はそんな姿思い付かなかった。」 「僕はもう更生したんだ。あの頃を忘れて。」 魁斗はタバコをほいと地面に投げつけた。そしてもう一本タバコを吸い始めた。 「颯、お前といえばこの街一のヤンキーだった。でももう今は俺の方が悪さをしてんな。」 そして魁斗はまたタバコを投げ捨てた。 そのまた数年後、魁斗は亡くなった。車でタバコを吸っていたら、乗用車とぶつかったらしい。必ずそうとはいかないが、たぶん魁斗のせいだろう。そのまた数十年後、僕以外のクラスメイトは全員亡くなってしまった。何しろ僕は百歳だから。寂しいなんて思ってない。それがみんなの運命だから。また数年後、颯は亡くなった。
揺れるススキ皆で手を振る 真っ白なガードレールに錆びた記憶 冷たい子どもの足 ゲームの続きをしようよ ナイトフィーバーはいつも通り ナイトフィーバーはいつも聞こえる 何処かで虫が鳴いている 渇きが遅い靴だけ干して もう布団に入ろうか 明かりを消すよ音を下げるよ 君の声が、君が寝たら裸になろういつものように ナイトフィーバーが聞こえている ナイトフィーバーが呼んでいる 何処かで虫が鳴いているうるさいくらいに
老いた男は、原稿を鞄に入れた。 そして、最後の一枚を書くためにホテルへ向かう。 「あなたって人は……」 玄関で見送る妻の目は、涙で潤んでいた。 今まで、たくさんの論文を書いた。 学生を前に、熱く語った日もあった。 そう、『生きるとは何か』。 「この論文が最後。私の集大成。生きた証」 ホテルの机に、原稿用紙と万年筆、小さな瓶を置いた。 男は椅子に座り、筆を走らせる。 最後の一行。 『生きることとは……』 静かに筆を置く。 窓の夜景を見ながら、錠剤を取り出した。 妻の顔が浮かぶ。 「今まで、苦労をかけた」 男は小さくうなずくと、掌の錠剤を口へ運んだ。 そして、寝室の扉を開けた。 ──カチャ。 「お客さん、早くしないと時間終わるわよ。 それとも、延長する?」
暑いぞ。 今日もソリッドステードシティーネリマは(そう言いたいだけやん)都市の電力網を圧縮して省エネしている。 それは他の世界都市も真似したがる画期的なものなのだが僕のうちのエアコンも新調して省エネに一役買っている。 でも何故か暑い。 それは国の中枢部の税金の無駄遣いとリンクしているのだが生かさず殺さずな政策は今日も省エネに勤しむ人達を苦しめる。 次は湧き水が狙われる。 その次は女子供だ。 朝霞にある軽水炉は秘密なのだがネリマにある高速増殖炉は小学生の工学生達のジャンクパーツの格好の集め場だ。 ネリマの悪ガキはサッカーボールに内蔵してある反重力エンジンを使って判定を掻い潜ろうとするがJAXAの判定装置も優秀なので審判にいつもイエローカードを取られる。 デジタルツールはマンホールの中にあるワームホールから取り出せるのだがいつもそれを取り出せる優先順位は上級国民からだ。 貧乏な物理屋は相対的に人口の足りない数学屋と科学屋にいつもいいところを持っていかれてしまう。 職人の労働者は泣いているナードやギークに時おりファミチキの残飯をくれる。 プレップ達は夏のフェスに向けて百貨店に買い物に行く。 夏のコミケは有明で商業主義に飲まれネリマの省エネを台無しにする電力を消費する。 僕はゴスの娘とすれ違いギターが弾けたらなぁと思いながら漫画と物理の本を図書館に借りに行く。 ジョックの試合に出て狩猟社会の厳しさを知り身体が丈夫なら山登りするのになぁ、と今日も自転車を漕ぐ。 僕の部屋は精液とヤニと汗の匂いでカルト宗教施設のような体をなしているので近所の人の監視によって動きが取りづらい。 経済テロリストの手伝いをしているかもしれないが企業からお金を奪わなければ維持できない派閥もいるかも知れないので放っておいてある。 財閥系の女の子に気に入られていたが最近会わなくなってしまった。 パトロンがいないので明日も暑い中知り合いにお金を借りに都心に出る。 圧縮された都市は大暑を向かえる。
傷の味はどうだい? 他人からの塩はよく傷口に馴染むかい? ジリジリ滲みるかい? 他人の視線が、しみじみと心に響くかい? 過去の傷跡はどうだい? 今の傷口もいずれそうなるよ きっと、きっと、きっと (完)
しかたがない。 あきらめて、となりの駅まで歩くことにする。 線路に沿って狭く、暗い道を進んでいく。 途中、小さな踏切に立ち、伸びていく線路を見やる。 さっき通りすぎた駅が見え、そして、となりの駅は、まだ、彼方か… 無意味に純喫茶のノスタルジックなメニューが頭に浮かぶ。 僕の気持ちを、いくらかでも若返らせてくれるのか。 そんなこと、望むなんて、できっこない。 足の運びは鈍い。 硬い寒さが激しく刺してくる。 心にできた無数の穴は、ふさぎようがない。 ため息すら、ずしりとしている。 腹が、訴えてくる。 何かよこせと。 落胆してても、腹はへるのか。 おもしろいものだ。 いったい、何をしてんだ。 僕は、いったい…
郊外のアパート。 母親と、幼い二人の子どもが暮らしている。 「こんなこと言える立場じゃない……」 壁にもたれ掛かりながら、スマホの画面を覗いた。 そこに映る、満足げな顔の人たち。 母親は、迷った指でタップした。 数日後、荷物が届く。 「ママ、開けていい?」 「いいよ」 「お菓子あったよ」 箱の中には、食材と数年前に流行ったキャラクターのTシャツが入っている。 「月末まで……これで何とか」 子どもたちがお菓子を頬ばった。 母親はレトルトを手に取り、裏を見て苦笑う。 「……食品ロスには役立ってる」
手を繋ごう 逸れるといけないから 手を繋ごう こうすると楽しいからね 手を繋ごう やっと会えた喜びが伝わるから 手を繋ごう 意味なんて無いそうしたいんだ 笑って話す君が可愛くて こちらも笑ってしまう 待たしてごめんね これでも飛んで帰ってきたんだ 笑って話す君が愛しくて あれもこれも買ってしまうよ それでも遠慮する君は 僕の生まれてきた意味なんだな 君は僕の全てなんだな
『抜きの対応、始めました』 行きつけのラーメン屋で、妙な看板が上がっていた。 店に入ってカウンター席に着くと、さっそく事情を訊いてみた。 「大将。表の看板って?」 「ああ、実はな。俺のラーメンは、味のバランスを一から十まで拘りがあっから、今までトッピングの抜きは断ってたんだ。だが、何を抜かれようが旨いラーメンを出す。それこそが、ホンモノじゃねえかって思い始めてな」 人生、何度か転機があるものだ。 大将の場合は、今がそれなのだろうと、素直に感心した。 「大将、注文ー!」 「あいよ!」 カウンターの左端に座る客が手を上げた。 大将がそちらへ向かったんので、俺はメニューを手に取った。 今日は何にしようか。 拘り味噌か、拘り醤油か。 「拘り味噌ラーメン。メンマ抜きで」 「あいよ!」 どうやら、さっそく抜きが頼まれたようだ。 ちらりと顔を見てみると、常連の一人だ。 いつもメンマを辛そうに食べるから、印象に残っていた。 メンマが苦手な人間でも、大将の旨いラーメンを最後まで美味しく食べることができる。 他人事ながら、何故か俺が嬉しくなった。 抜き。 シンプルだが、素晴らしいシステムだ。 「大将、注文ー!」 「あいよ!」 「拘り味噌ラーメン。トッピング抜きで」 「あいよ!」 待て。 抜きすぎだ。 大将のラーメンはトッピングからにじみ出る味を加えて、初めて完成する。 それはもう大将のラーメンではなく、ただの素ラーメンだ。 「大将、注文ー!」 「あいよ!」 「拘り味噌ラーメン。スープ抜きで」 「あいよ!」 おい、どこを抜いている。 それはただの油そばだ。 卵を落として、卓上調味料のオリジナルブレンドで味付けでもする気か。 「大将、注文ー!」 「あいよ!」 「拘り味噌ラーメン。麺抜きで」 「あいよ!」 ラーメンのメンを捨ててどうする。 それはただのラーメン味のスープだ。 拘り味噌汁だ。 「大将、注文ー!」 「あいよ!」 「拘り味噌ラーメン。茹で抜きで」 「あいよ!」 ジーザス。 それはただの……なんだ。 茹でる前の麵って何て言うんだ。 いつの間にか、大将が俺の前に立っていた。 なんだろう、今までにないプレッシャーを感じた。 まるで俺も、この大喜利のごとき抜きに参加しないといけないような、意味の分からないプレッシャーを。 「注文は?」 俺は逃げるようにメニューに視線を落とし、目に入った言葉を読み上げた。 「拘り味噌ラーメン。『拘り』抜きで」 「あいよおおおおおおおおおおお!」 俺の目の前には、器と箸だけが置かれた。 翌日、看板は撤去されていた。 ついでにあの日、カウンターに座っていた人間全員出禁になった。
「朝までパーリナーイツ!」 「イエーーー!」 若者が集まれば、そこは朝だろうが夜だろうが、輝く場所だ。 ミラービールがくるくると回り、赤だの青だの、大量の光が部屋中を照らしていた。 室内だというの風がぐるぐると吹き、風に乗った桜の花びらが歌の邪魔をしないよう、若者たちの頭上で舞う。 「ネックスト、ナンバー! ワールド・イズ・アワーズ! 世界は、俺たちのものだー!」 「イエーーー!」 重低音の音響が、建物全体をぶるぶると震わせながら、夜はどんどん更けて行く。 「お疲れさまっしたー」 客の若者たちが帰り、開場には桜の花びらと、食べかけ飲みかけの料理だけが残る。 とはいえ、一晩を超えた料理は乾ききって、とても食指が動きそうにない。 「づがれだー」 かつて世界を救った魔法使いは、簡易ベッドへと突っ伏した。 「お疲れしゃーす」 「お疲れー」 スタッフたちは、寝そべる魔法使いに声をかけ、部屋の掃除へと向かう。 魔法を使って 光や風を生み出し続け、疲労困憊も魔法使いを掃除要員にもするほど、彼らは鬼ではない。 「魔法使いさーん。お水いります?」 「くださーい」 「はいよっ」 魔法使いはベッドから体を起こし、水を一気に飲みほした。 自分の魔法で作れないわけではないが、浄水された有料の水の味はまた格別なのだ。 「あー、多少は生き返った。家帰って、寝よ」 魔法使いは日払いの銭を受け取って、職場であるナイトクラブを後にした。 客として参加するには、魔法使いも良い年齢なのだ。 帰り路、早朝故にほとんどの店が開いておらず、二十四時間営業のハンバーガー屋か牛丼屋かを悩んだ結果、ハンバーガーに決めた。 店の中には若者の姿も見えず、勉強をしている大人たちと、スマイルゼロ円の店員たちだけがいた。 「いらっしゃいませ。ご注文は?」 「ダブルミートバーガーケチャップ大盛りで」 「ご一緒にポテトはいかがですか?」 「Lサイズを」 料理をもって、テーブルへ向かう。 若者の真似をして写真を撮り、はしたなく大口を開けて、ハンバーガーに齧りついた。 噛んだ勢いでケチャップが発射され、頬っぺたに血のような赤が付着する。 「あー、最悪」 もっしゃもっしゃと咀嚼しながら、テーブルの上にあった紙ナプキンで、ケチャップを拭きとる。 「……最悪、かあ」 紙ナプキンをぐしゃぐしゃに丸めながら、そんな言葉が出た自分に驚いていた。 世界を救うために勇者たちと旅をしていたこを、最悪とは文字通り命の危機だった。 無数の魔物に取り囲まれたり、落とし穴にはまって底の見えない穴に落ちたり、テントを開けたら勇者と僧侶が仲慎ましくしていたのを目撃してしまったり。 しかし今は、ケチャップごときで最悪を感じる自分に、世界は平和になったのだと感動さえしていた。 ハンバーガーを食べ終えて、お盆を返却口へ返す。 「ありがとうございましたー」 ハンバーガー屋さんを出てから、紙に書きなぐられた今日のバイト代を見る。 世界を平和にした時、お上からもらった金額を考えると、ゼロが四つか五つはたりないショッパイ金額が書かれていた。 「魔法って希少だから、もうちょっと給料あがらないかなあ」 目の前に箒タクシーが飛んできたので、魔法使いはまたがって、家に向かって飛んだ。
私は昼間は大体この公園のベンチに座っている。 大きな木がそばに寄り添っており、日差しはかからなない。 この木が桜なことは今年の春に知った。 滑り台とジャングルジム。砂場。シンプルな公園だが、近くの小学校に通っているらしい児童がみんなでサッカーボールを追いかけ回している。 いつも一人だけみんなから離れ、私の目の前の砂場で城を作っている男の子がいた。 他のみんなと同じ小学五年生くらいだろうか、彼はいつも1人でなかなかの大作な砂の城を完成させている。 そしてその城を必ず壊して家に帰ってしまう。 彼の城の完成を見守るのはいつも私と彼の2人だった。 彼も私に気付いているようで、ひときわ大きな城が出来た日には完成するとちらちらとこちらをうかがい、私はいつもにこりと微笑んでいた。 彼はよほどの職人であるようで、作っている最中に私のほうを見ることは決してなかった。 同年代の友達は一人もいない私だが、彼とは友達、とはいわずとも友情のようなものを感じていた。 今日も私がベンチに座り、サッカーをしている少年たちを眺めていると、いつも城を作る彼が公園に入ってきた。 スコップとバケツを持っているのが見える。いつもの彼の「装備」だ。 しかし、彼は砂場に足を踏み入れると、砂場を飛び越えてベンチのとなりに座った。 なんだろうか。 「ねえねえ、おじさんいつもここにいるよね。」 まさか突然話しかけてくるとは、私は子供だからこそ許される唐突なコミュニケーションに少し面食らったが、彼との対話を楽しむことにした。 「うん。僕はここが好きなんだ。みんな元気に遊んでいて、僕まで元気をもらえる。」 「ふーん。そうなんだ。」 自分から聞いておいて「ふーんそうなんだ」とは。しかし腹が立つことはない。むしろ子供ならではの無意識な生意気さに感心や可愛らしささえ覚えた。 「僕はこんなものをぶら下げてるし、体が弱いんだ。だけど子どもたちが楽しそうだと、なんだか幸せな気分になる。だからここが好きなんだ。」 「おじさんのそれ、なんなの?」 少年が私の鼻から伸びるチューブに繋がった、スーツケースほどの半透明の鞄を指差す。 「僕は生まれつき口で息ができなくてね。鼻でこうやって空気を循環させないと、息ができなくなっちゃうんだ。」 「へえ…苦しくないの?」 「大丈夫だよ。でも、君にこのスイッチを押してみてほしいんだ。」 私は鞄についた赤いボタンを指差す。 「これを押すと、この鞄の機能は止まるんだ。」 「え、それだいじょうぶなの?だって息ができなくなるって。」 「うん。今日は大丈夫な日なんだ。だから押してほしい。」 私は少年の前に鞄を差し出して、ボタンに少年の手を押し当てた。 少年はしばらく私の目とボタンを交互に見て、恐る恐る人差し指でボタンを押した。 「ふう、ありがとう。これで楽になった。さあ、いつものように、砂の大きなお城を作ってくれないか、僕はそれを見るのもこの公園にくる楽しみなんだ。」 少年の顔がぱっと明るくなる。 「うんっ!」 ベンチを飛び降りる勢いで離れ、スコップでザクザクと砂を掘り、バケツにいれ始める。 バケツに砂が満タンに貯まるとひっくり返し、プリンのような形の綺麗な砂の山ができる。 少年は私に背を向けて夢中でプリン山を作る。 私は背後で必死でうめき声を押し殺す。 息ができない。 当然だ。 呼吸装置の電源を切ったのだ。 しかし手足をバタつかせ、跳び跳ねることはしない。 暴れれば少年が気付いてしまう。 そしてこちらを向いてしまう。 それは駄目だ。 彼には城を完全に作り終わり、完全に私の心臓が止まってからこちらをいつものようにニカッと振り返ってほしい。 作品の批評を求めるように。 共に作品を作った達成感を分かち合うようにこちらを振り返ってほしい。 そして見つけてほしい。息絶えた私を。 口から泡を吹き、顔を土気色に染めた私を。 「君がスイッチを押したせいで死んだ」私を。 もちろん彼が罪に問われることはない。 彼がいかに真実を大人たちに伝えたところで、彼は頭のおかしい男の自殺に利用された可哀想な子供だ。 しかし彼だけは覚えている。 私に唆されて自分が装置の電源を切ったことを。 自分の行動が私を殺したことを。 覚えている。 私という存在は彼の人生の中で「死なせてしまった人間」として永久に彼を刺し続けることになる。 私は満面の笑みを浮かべ、砂をバケツに盛る彼の後ろ姿を、あとからあとから喉の奥から湧いてくる泡を体に吹き出しながら眺めていた。 できるだけショッキングな死体になることができるように。
静かにしないといけない空間で一番に騒がしくしてる雨に、何も言えない。ページをめくる音さえもかき消されてしまう。 過去の自分の日記には、自分の苦悩はあるけど自分自身はいないのだな。な、ん、て、ね。ちょっとそれっぽいこと言ってみたかっただけだ。 ぶうちゃんは、雨やまないね、という意味を含んで私に微笑みかける。お鼻がブタみたいで私が胸のなかだけで勝手に「ぶうちゃん」と呼んでるヒロエは、最近きれいになった気がする。引っ越しとか、さまざま手続きとか、立て続けでたいへんみたいだけど、表情は生き生きしている。よかったね、離婚して正解だったのかもね、言葉にはしないけど。これからは犬と暮らすよ、そう言ってぶうちゃんは子犬を紹介してくれた。そうですか、ぶたさんはわんちゃんと暮らしていくことにしたんですかあ。私は心の底からの笑顔をぶうちゃんにしてみせる。ありがとね、私を笑顔にしてくれて。
「なんてことだ!」 天才恋愛作家として名を馳せた俺。 いよいよ童貞主人公とヒロインが結ばれ、ハッピーエンドの初夜を描こうとしたのだが……書けなかった。 いつもであれば指揮者のごとく滑らかに振るわれるゴッドフィンガーも、先程から石化でもしたかのように動かない。 おう、まい、ごっど。 俺の頭の中に、一つの言葉が浮かんでくる。 『作家は経験したことしか書けない』 という残酷な一文。 確かに俺は童貞だ。 認める。 だが、夜の描写は、エロ動画を何度も見て履修済み。 書けないはずがないのだ。 気分転換にコーヒーを飲んでみても、筋トレをしてみても、状況は変わらず。 文字数が一文字たりとも増えることはない。 頭をこねくり回し続けること一日。 俺はようやく原因がわかった。 「はっ! まさか、エロ動画にはどちらも初めての役者がでてこないから、俺は初夜が書けないのか!」 俺は絶望した。 あまりの絶望に、壁に向かって倒立をし、バランスを崩して床に倒れた。 「あーっはっはっは! まさかこんなところで、天才恋愛作家である俺が壁にぶつかるとは!」 もはや笑うしかなかった。 俺は床に大の字になって、狂ったように笑った。 口の中が空からになるまで笑いつくした後、俺は天才としてのプライドを護るために決めた。 「よし。恋人作って初夜を経験しよう」 完全に狂っていたが、今の俺にはこれ以上の案が出てこなかった。 そうと決まれば、俺は担当編集に電話をかけた。 「もしもし?」 「初夜を経験したいので、女の子紹介してください」 「……からかってるなら切りますよ? 私、こう見えて結構忙しいんですよ」 「本気です!」 「本気ならさらに切りたいです。そんなに経験したいなら、夜のお店にでも行ったらいいじゃないですか」 「何を言ってるんだお前は。夜の店だと、相手は初夜じゃないだろう」 「何を言ってるんだお前は」 担当編集に今までのことを説明すると、担当編集は渋々納得してくれたようで。 電話を切った後、近くで行われる街コンの情報をメールで送ってくれた。 担当編集の好意は無駄にはしない。 俺はさっそく一丁裏に着替え、街コンへ繰り出した。 そして撃沈した。 「うえっ……うえっ……うおおおおおおん!」 「はーい、よしよし。泣かないでください」 まさか、街コンがあんなに恐い場所だったとは。 話しかければ苦笑い、酷い時は無視。 天才恋愛作家の俺の心は、雑な宅配業者に運ばれたポッキーやプリッツ並にバキバキだった。 最近降られたバキバキ童貞もこんな気分だったのかと思えば、バキ童チャンネルを見てまた泣いた。 「大丈夫ですよ。恋人を作る手段は、街コンだけではありません。合コン、マッチングアプリ、出会いバー。好きな物を選んでください」 「ここまで来たら、なんでもやってやる!」 俺はがむしゃらに挑戦した。 そして全滅した。 「~~~~~~~~~~~~~」 「せめて声を出してください」 俺は三日間、執筆を止めて部屋に閉じこもった。 ご飯は全部マクドナルドのデリバリー。 時々すき家。 チーズ牛丼の美味しさが心に染みた。 三日三晩泣き叫び、いっそ清々しくなった心で机に向かう。 根を張ったように動かなかった手が、信じられないほどの速さで動き始めた。 その後、俺は完成した新作で、翌年のなんたら小説コンテストの大賞を受賞した。 「おめでとうございます、先生! いやまさか、もう体を重ねるだけってタイミングで、新ヒロインが登場するとは。こんなの誰も予想できませんよ。さすがは、天才恋愛作家」 俺はゴールドに輝くトロフィーを抱えながら、最高の笑顔で返事をした。 「まったく嬉しくない」 新作発売後のエゴサで見つけた一文は、未だに俺の心に残っている。 『この作者、絶対童貞w』
浮浪者のBさんの日中はとにかく歩く 理由はいくつかあるが、一番根っこの理由は歩きたいと体が言うからだ Bさんはこの現象をよく考える あれこれ考えた結果は体が健康を維持したいから。歩くと身体に良いから。 例えば、筋肉がほぐれる。景色が変わるので気分が変わる、無駄に悩む隙をなくす。そんなとこじゃないかなと考えているBさん。 歩いていると本当に色んなものが落ちている。 今もヘアピンを一つ拾ってBさんは自分の髪に付けた 線路の向こう側は米軍基地で広い草原地帯にポツンと倉庫がたっている。戦闘機のようなものはなく、倉庫の他はコンテナがいくつか置いてあるだけだった 散歩中の犬が笑いながらBさんに近づく。飼い主のオバサンは急いでリードを引き早足で駆けていく 夏の陽射しがアスファルトの向こうをゆらゆらさせている 紙煙草のボックスが落ちている まだ半分程残っている 煙草を吸ってみたが不味くて捨てた感じだろう。愛煙家は吸ってない煙草を落としたりしない。 また少し歩くと口の空いた缶チューハイが置いてある 拾って少し飲んでみる。ぬるいが変な味はしない。Bさんは構わず飲み干す。 宛もなく歩いている。 特に予定があるわけでもないから 靴底が擦り切れてその内壊れそうだがBさんは気にしない。必要な物は必要なタイミングで見つかる事をBさんは知っている 仕事をしている時もそうだった 退職者がいるので早めに求人をかけたが、全く集まらず気ばかり焦ったが蓋を開ければいいタイミングで経験者が入社するなんて事がよくある。 もっと言えば、会社なんか誰が辞めてもどうにでもなる。どうにかしていかなくてはならないし、結果収まるように収まる。過剰な責任感は要らないと、今なら分かる。 「レインボー保育園」 書いてある言葉を意味も無く独り言する 前から歩いてくる若い母親と小さな子が手を繋いでいる 今通り過ぎた保育園に行くのだろうか あんな小さな子と別れなくてはいけないなんて、さぞ辛いだろうに。 そうでもないのか。結婚し子供を育てると仕事が気分転換になる。楽しい時間とさえ思える。若いときは休む理由ばかり考えていたのに。 自販機の前に飲みかけのコーラが捨てある。ペットボトルの蓋は締められている。まだ半分は残っている。ゴミ箱は見た所どこにもない。 物は売るが捨てる場所は提供しない。このスタイルが増えてきたように思える。買ったものは持ち帰って捨てればよいが、バッグを持ちたがらない人も多い。邪魔になり道に置く。捨てるのではなく置いて去る。それを俺が拾う。直接渡してくれても良いのだが。 どうでもいいが日中は本当にオジサンが歩いている。彼等も俺と同じく「身体が歩けと言っている」のだろう。 何もしていない自分に嫌気がさすのだろう。奥さんがいれば、家にいて申し訳ないとも思うのだろうし。 昔はあんなに(知らないが)愛し合っていた二人が今は気を使って離れている。皆そうなのだろう。 俺が結婚した時も妻は男友達の一番人気だった。派手ではないが落ち着きがあり何より美しい。 永遠の愛は十年持たなかった。 結婚三年目で昇進と出産 2026/07/16ここまで
郊外にあるショッピングモール。 中央のホールに、老人たちが集まってきた。 「ここは涼しくていいわね」 「家でエアコンつけると、電気代がね」 老人たちは椅子に座り、世間話に花を咲かせた。 その光景を、二階のエントランスから店長が見渡した。 「よくもまぁ、こんなに……」 連日の猛暑。老人はさらに増えた。 「こいつら、赤っ恥かかせてやる」 閉店後、小さなステージを作り、入り口にくす玉をぶら下げた。 ──翌日。 店長がステージに上がると、何事かと人が集まった。 すると、入り口から見覚えのある老人が入ってきた。 ──ざまあみろ。 ひもを握る手に力を込めた。 そして、引くと同時に、マイクに向かって叫んだ。 「おめでとうございます! 三十日連続のご来店です!」 垂れ幕には、《電気代節約ご苦労様》の文字。 老人は垂れ幕を指さしながら、まわりの仲間たちに手を振った。 仲間たちが拍手で祝福をする。 「あぁ……」 店長は、冷たい風に揺れる垂れ幕を見つめた。
手の平に氷 を乗せて溶けるまで待つ つめたい感覚がなくなるまで なくなったら掌をつねってみる げんかいまで力を入れても感覚が ばかみたいになっていたら よ〜く暖まったお風呂に手を入れる かゆくなる。 って、そんな事は分かっている ただ夏だからバカになりたいと思って
下町の路地裏。 伝統工芸職人の男と、その妻が暮らしている。 「あなた、また来てるわよ」 「知らん。ほっとけ」 弟子入り志願の若い男が、玄関の脇に立っていた。 「弟子にしてください」 職人は気にせず、木槌でノミを叩いた。 「どうせ、続かん」 「話だけでも聞いてあげたら?」 次の日も、また次の日も。 若い男は、玄関の前に立った。 ──ガラガラガラ。 「入れ」 「ありがとうございます」 「続ける自信は?」 「死ぬ気で頑張ります」 妻が頬を緩めた。 「二階の奥の部屋を使って」 若い男は作業着に着替えると、職人の後ろに座った。 「師匠の背中を見て、精進させていただきます」 深々と頭を下げた。 職人の木槌を振る手が止まる。 そして、壁に貼ってあるQRコードを指さした。 「それ、俺の動画。それ見て覚えて」 「動画、私が撮ったのよ」 二人は、顔を見合わせて笑った。
次の曲が終われば、うちらのバンドの出番だ メンバーを見ると各々好きなように過ごしている ギターのケンちゃんが500の9%を飲み始めている 「そう言えばこのバンド何年目だっけ?」 「ん…組んだ時お前の子供が産まれたばかりだったから7歳?9歳?」 「8歳ね。8年か」 麦茶でも飲んでいるかのように9%を流し込んでいる。 ナッチンは加え煙草でスティックをブルブルと振るわせている。イヤホンをしているので曲の確認をしているのだろう 「今日は飲まないの?」ビールを差し出すと「もう飲めない」と答える。唇の先で煙草がブルブル震えている。 イクミンはスマホで歌詞を確認している 「トヨさんはいつも緊張してないですね」 イクミンの表情が強張っているようにも思えるがメイクのせいでもないのだろう 「そうかな…」 ビールを差し出すが結構ですと手のひらを押し出された 楽屋横のステージで曲が盛り上がりを迎えている。後8小節といったところだろう。 振り向くとメンバーは立ち上がりステージに行ける体勢になっている 8年 特に何を目指してきたわけではない そんな事は若い時に力の限りやってきた 夢を追いかけて追いつかなかった、自分の足を止めるまでの時間が、僕らには必要だっただけなのだ ステージが明るくなる
クリニックの診察室。 男は困った顔で、ドクターに話し始めた。 「先生、時々、耳元で声が聞こえるんです」 「それはそれは……幻聴ですね。どんなふうに聞こえますか?」 「天使が二人、右と左で囁くんです」 ドクターはペンを止め、じっと男の顔を見た。 「天使と天使ですか。天使と悪魔じゃなくて?」 「はい。どちらも『自分が天使だ』と言い張ります」 ドクターは笑いをこらえ、咳払いをした。 「いや、失礼。珍しいケースですね。ふつうは善悪の対立があるものですが、両方が天使となると……判断が難しい」 「先生、僕はおかしいんでしょうか」 「おかしいというより、興味深い」 ドクターはカルテに走り書きをしながら、声のトーンを落とした。 「その二人の天使は、あなたに何を囁くんですか?」 「ポジティブな言葉を……『やればできる』って」 青年はうつむき、ため息をついた。 「ちょっと、うざいです」 「……わかりました。では、お薬を出しますから、様子を見ましょう」 「お大事に」 薬剤師から渡された紙袋には、耳栓が二つ入っていた。
雨が降りそう 草木が降るぞ降るぞと煽っている 太陽も暗くなり始め雨を演出している 灰色のコンクリートが前に出て雨のファーストキスを狙っている 風がイントロを弾き出す 後もう少し、後もう少し、皆が空を見上げれば雨が降下を始めるだろう 今頃「またどこかで」と言葉を交わしているだろう
ある日の午後。 認知考古学の教授が、学生の前でマイクを握った。 「みなさん。人が道具を本来の目的以外に使い始めたのは、どの時代か分かりますか?」 「旧石器時代に、石を遊びに使ったのが最初だと思います」 「その通りです」 教授が、背後のスクリーンを指した。 「今日のテーマは、それを踏まえて『道具の目的外使用』について考えたいと思います」 学生は耳を傾け、ノートをとった。 「これを見てください」 黒い傘を取り出し、学生たちに向けた。 「この傘。駅のホームで中年の男性が持つと、どんな行動をとるでしょうか?」 「あっ、ゴルフのスイングをします」 教室に笑いが起こる。 「それから、女の子はバトン、男の子はチャンバラとかに使いますね」 「お年寄りが杖に使うのもそうですか?」 「はい。それも目的外使用です」 教授はうなずきながら、学生を見渡した。 「では、ここまでで何か質問はありますか?」 最前列の学生が手を上げた。 「ちょっと気になってたんですけど、額のガーゼ、どうされたんですか?」 教授は笑いながら、傘を開いた。 「昨日、妻が機嫌悪くてですね……」
今日も青い空のはるか高いとこから見下ろしてくる。 夏の真っ赤な太陽が、僕の足元に影をつくる。 濃く、短く。 これがもう少し短くなったら、きちんと気持ちを伝える。 あの子に、ちゃんと… でも、その決意はゆらぎ、黒い塊は、もっと小さく… さらに、見えなくなってしまい、影はその行き場を失う。 僕の気持ちも、どこへもって行けばいいのかと。 わからない― 僕が気持ちを伝えなかったとしても、何かが起きることはない。 何かが変わることだって… それでも― と、新たな決意もまたゆらぎ、影はじりじり短くなるばかり。 あの子が僕の気持ちを知らなくても、世界が壊れることはない。 壊れてしまうのは、僕のなかにある… けど―
「ボールを取ろうとして」 リッカは俯いたまま話し始めた。 アルバートとインダは「ああ、あのボールか」という風な反応を見せた。レイとミミはまだよく分かっていないようだ。 そして、私が何のボールだろうと思考を巡らせていると、カウルがリッカの方をちらりと見やって申し訳なさそうに、一言漏らした。 「僕のせいだ」 そこで、アルバートが私にも分かるように事の顛末を事細かに話してくれた。 私がここにやって来る数分前、みんなは私を驚かせるために歓迎会を開こうとしてくれていたらしく、その準備をしていたのだそう。 しかし、カウルはすぐに退屈になってしまい、リッカやインダの目を盗んで外に遊びに行ってしまった。 しばらくして、レイの報告によってカウルがいないことが分かり、リッカがボールのある外にカウルを呼びに行った。案の定、ボール遊びに耽けっていたカウルはその場でリッカに説教され、ボールはリッカによって遠く、高く投げ捨てられてしまったのだそう。 リッカは見た目によらず、ボールを投げるのが上手だそうで、アルバートは「大事になったなあ」と俯瞰していたらしい。 もちろん、カウルは号泣し、インダとミミがカウルを慰めていた。アルバートはリッカにやり過ぎだと諭したが、リッカはそれを無視して私の歓迎会を準備してくれた。 なるほど、カウルの自己紹介がぶっきらぼうだったのはリッカと仲違いしていたからだったわけか。 しかし、私が孤児院に来てからもカウルの機嫌が治らないのを見て、少し申し訳なくなって、自分の投げたボールだからと、今の今まで懐中電灯を持って外を探していたのだそうだった。そのとき、孤児院の屋根まで伸びた木の枝が、屋根を転がって落ちる寸前で止まったボールを支えているのを見つけ、リッカは寝室の窓からその枝を突つこうとしたらしい。 結果は失敗。枝を掴み損ね、体勢を崩して静かに二階から転落した。 「ボールはすぐそこにあったのに、伸ばした手がボールから離れていくのを、見ているしかなかった」 リッカは落ち着いた声で、私に話す。 アルバートはそんなリッカを見て、「安静にしてていいよ、あとは僕らが何とかするから」と、背中を見せて台所に向かった。 「いや、私がやるよ」 リッカが立ち上がろうとすると、それをインダが制する。そして、リッカの目を見て優しく呟いた。 「ありがとう、リッカ。でも、今日は休んで」 リッカは目を丸くして、インダの背中を見送った。 「お姉ちゃん、大丈夫?」 ゆっくり寄ってきたのはミミ。人形をキュッと握るその手はお姉ちゃんを見つけることができなかった妹なりの後悔を感じられた。 「大丈夫、ちょっとドジやっただけ」 「お姉ちゃん」 ミミはまだ姉の「骨折」をよく理解していない。だから、添え木も無視して全体重をかけてリッカに寄りかかり、抱き締めた。 私はひやっとして思わず声を出しそうになったが、リッカはミミを受け入れ、抱き締め返した。まだ足も痛いはずなのに、折れた方の足で踏ん張りながら妹を。 私はリッカが笑っているのを見て、姉の魂を感じた。 私は二人をソファに残し、台所を覗いた。すると、こちらでもまた一悶着している。アルバートが「危ないから無理だって」と制するところを、カウルが「リッカのために」と包丁を持とうとしている。 私は肝を冷やした。 すぐに止めに入り、カウルから包丁を奪い取る。カウルは私の慌てた顔を見て、「包丁を返して欲しい」とは言わなかった。むしろ、落ち込んだ様子。 アルバートは安心して私から包丁を受け取る。 「カウル、今日の夜はトーストにしよう。包丁を使わなくても作れるよ」 カウルの目が光を取り戻す。 「作る!」 インダはカウルの肩を持って、パンの籠を指さす。そして、アルバートはトースターの位置を指さした。カウルはその指に沿って歩き、何をこなすかの指示を出さなくとも、トーストを焼き始める。 「お母さんは子どもいたの?」 「いないよ。でも、私も子どもだったから」 「じゃあ、お母さんもカウルみたいだったんだね」 アルバートは私の傍でそんなことを言ったあと、カウルに駆け寄って行った。 「優しいだけじゃない」 院長の言葉に、今の私なら付け加えられる。 あの子は「よく見ている」。院長はそう言いたかったのではないだろうか。もう、私のことまで。 昔にボールを失くしてわんわんと泣いた幼い自分の影が、頭の奥を通り過ぎて行った。反響する泣き声に孤児院の喧騒が絡まり、トーストの匂いが鼻をくすぐり始めたところで、現実に戻る。 「できた!」 カウルの前には少し黒いトーストがあった。 【つづく】
左目の近くの髪が曲がっている 朝着ていたシャツが汗臭い 虫よけを丹念に吹きかける 靴下に穴が空きそう。底の方 緑が盛り上がりを迎えている アリの歩く速度を人の大きさで考えてみたら急に恐ろしくなった 変な咳が出る 若い女性が皆可愛く見える 同世代の女性が皆素敵に見える 年上の女性が皆美人に見える いや実際にそうなんだろう 自分のお腹を見ては痩せようかなと思う もうすぐ秋かと思うほど暑い 皆が持ってる小型扇風機がマイクに思える。これから一曲歌うんじゃないかと。イントロ中なのではないかと。 トトロは本当にいるんじゃないかと思っている 子供が何か歌っている お爺さんも歌っている クーラーを作った人はノーベル賞をもらっているのだろうか 会話しながら電車に入って来る人 学生の話はいつも初々しい どんなに繕ってもどうして歳がある程度分かってしまうのか バッグにぶら下がっているぬいぐるみ達もラブストーリーはあるのだろうか 皆、限りある命の子 電車の中のアリは降りた先で帰ってこれるのか まだ知らないと言うことは知る楽しみがあるという事 ベテランほど白が似合う ベランダは思ったほど汚れない 泣いている他人の子供を心の中でなぐさめている 気持ち悪いオジサンにならないように気を付けるほど気持ち悪さが増す 何で生きてるんだっけ 草木が「バイバイ」をしてくれる 発車メロディを弾けるとは思えない 恋人の会話ほど聞く必要のないものはない 若い女性の居眠りが肩にかかるのは嬉しい オジサンの居眠りが肩にかかりそうになると頭を引っ叩く 電車内で小さな子が泣くのは気にならない。懐かしくて嬉しくなる。 革靴。あれはなんですか? ネクタイ。あれはなんですか? セーラー服。化石になっても残しておいたほうが良い スマホを見ながら歩いている人ではなく 歩いている人に持たれているスマホだ いつかお尻の食い込みをなおしたい ベランダに女性の下着が干してあると「ヨシ!」と思う 年配の方の物だろうという推測を振り切って 可愛い声に弱い 女性は皆、美しく 男性は皆、…………出てこない 好きにすればいいし 好きにしようと思う、出来れば。 とにかく今日も一日生きて帰れた そんなんで良いと思う 汗臭くなければ尚良し。
放課後、中学の友達とイオンでドーナツを食べながら何でもない話で盛り上がり時間を過ごした 私だけ違う方向だったので一人で歩いて帰る 帰りに公園に寄ることにした 最近、野良猫が住み着いたのか行けばサビトラの猫がどこかにいた。人懐っこく近付くとにゃあにゃあ言いながら寄ってくる。 公園に着いて猫を探していると公園の向こう側にあるラブホテルから母が男の人と出てきた 母は女性らしい表情をして、女の人って感じだった。あまりにも衝撃的だったので、今思えばそんな感じに見えた。ということだけど。相手の男性は優しそうな人。お父さんより若い気がする。スラッとした人で確実にお父さんより痩せている。 私は驚いて木の陰に隠れた 胸がドキドキして喉から飛び出てくるんじゃないかって思ったほど。 もう一度見ようと木の陰から覗くと母と男の人が公園の中に入ってきた私の近くに来て、私が隠れている木の側で立ち止まって「次はいつ会える?」「離れたくないな」と母が言う。 ここからどこかへ飛んで逃げたいと何度も思った 気が付くとサビトラの猫が私に気が付いて凝視している。あの人間はあんな所で何をしているんだ。みたいにこちらを見ている。 母と男の人はどこかへ行ってしまい私はコソコソと家に帰った。 家に帰ると兄が既に帰っていてリビングで勉強をしている。私が帰ってきたのを見ると「何か作ろうか?」と聞いてくるので「まだお腹減ってない」と自分の部屋へ逃げ込んだ。 その後直ぐに母が帰宅し、急いで夕飯の支度をしているようだった あれから一週間たつが、いまだに母に聞くことが出来ない。あれから母が気になってしょうがない。父とも普通に話しているし誰も、私ですら母が不倫しているとは信じられない。 今も公園の木の陰で母を見ている 前回二人が約束していた日のあのホテルの前で。足元でサビトラが私を見上げている。
祝。はーちゃん。ハジメ。橘さん。はじめちゃん。 名前を呼ばれると、安心する。 呼び方は違っていても、それはどれも私を指している。私を私たらしめる、私だけのものだ。 夜は嫌いだ。 昼のあいだ作業をしていた机が、夕日とともに暗がりへ沈んでいく。そこで作業をしていた私も、少しずつ消えていく。 抗うように部屋の明かりをつけても、窓を見れば、闇がにやにやとこちらを手招きしている。 「祝、ごはんよ」 母の声がする。 まだできあがりきっていない料理を横目に、棚から皿を取り、箸と一緒に食卓へ並べる。 私の名前を呼ぶ母の声。煌々と光る、部屋の中の太陽。湯気を立てる温かい料理。 私は、この時間が好きだ。 食卓に皿を並べ終えるころ、鍋のふたが小さく鳴った。 「はーちゃん、それ取って」 母が示した先に、布巾があった。 はーちゃん。 さっきまで祝だった私は、今度ははーちゃんになる。 呼び方が変わるたび、違う私が生まれるようで、それでも不思議と、どれも嘘ではなかった。 布巾を渡すと、母は何も言わずに鍋をつかんだ。 家族のあいだでは、言葉にしなくても済むことが多い。けれど、それは言葉が要らないのではなく、これまで交わしてきた言葉が、目に見えないまま部屋に積もっているからなのだと思う。 湯気と一緒に、醤油の匂いが立ちのぼった。 「今日は何してたの」 「別に。いつもと同じ」 いつも違う『いつもと、同じ』 机に向かっているあいだ、何度か自分が何をしているのか分からなくなった。画面の中には作りかけのものがあり、その隣には調べかけの言葉があり、もっと隣には返信していない誰かの名前があった。 どれも私が始めたものなのに、並べてみると、私よりも私らしく見えた。 けれど、それをどう説明すればいいのか分からなかった。 「そう」 母はそれ以上聞かなかった。 箸が器に触れる音。 テレビから流れる、知らない街のニュース。 窓の外では、相変わらず闇がこちらを見ていた。けれど食卓の中までは入ってこられないらしい。 私は味噌汁を一口飲んだ。 舌で温もりと母の愛を感じながら、私はようやく、自分がここにいることを確かめた。 「祝、おかわりいる?」 母が聞いた。 私は少しだけ考えてから、うなずいた。 「いる」 その言葉が、今日いちばん自分で決めたことのように思えた。 ご飯をたべて、お風呂に入って、一時の忘却に耽れば、またあの時間が私を飲み込む。 真っ暗で、何も見えなくて、私だけを見るしかない時間。 私を呼ぶ声がなくなり、私を私と規定するものがなくなる。 「祝」 試しに、自分で呼んでみる。 声は暗い部屋の中で小さく跳ね返り、すぐに消えた。 母が呼ぶ「祝」とは違っていた。 友達が呼ぶ「はーちゃん」とも、先生が呼ぶ「橘さん」とも違う。 私の口から出た名前は、誰か知らない人のもののように聞こえた。 名前は私だけのものだと思っていた。けれど、本当は誰かに呼ばれて初めて、私のところまで届くものなのかもしれない。 私は布団の中で身体を丸めた。 暗闇はやはりつめたくて、残酷なほどやさしい。 何も見せない代わりに、何も隠してもくれない。 昼間にうまくできなかったこと。 言えなかったこと。 途中で投げ出したこと。 それらが、目を閉じるほど鮮明になっていく。 私はいったい何なのだろう。 机に向かっているときの私。 皿を並べているときの私。 誰かに名前を呼ばれて振り返る私。 そのどれもが私なら、それらがなくなった今、ここに残っているものは何なのだろう。 廊下の向こうで、床が小さく鳴った。 母の咳が聞こえた。 冷蔵庫がランダムなステップを踏み、遠くで水道管が騒ぎ出す。 誰も私を呼んではいない。 それでも、家の中にはまだ誰かが生きている音があった。 私は布団から片手を出し、枕元の明かりをつけた。 眩しさに目を細めながら、机の上に置いていたノートを開く。 白いページの一番上に、ゆっくりと書いた。 祝。 その下に、少し迷ってから続ける。 夜が怖い。 文字になった途端、それは私から少し離れ、私が見ることのできるものになった。 私はもう一度、自分の名前を見た。 誰かの声ではない。 けれど確かに、私を呼んでいる。 今夜だけは、私が私を呼ぶ番だった。
鞄が小学生と被る。 近所を歩いてる人と被る。 人民服のようだな、と思う。 僕の流行遅れの鞄。 いや、流行なんて今は無いか。 イオンモールのボディバッグ。 イオンモールにすら行かない。 個人の無個性化。 日本は単一民族じゃなくて均一民族だと思う。 今日も列島は暑い。
喫茶店に入るや否や、彼氏さんは雑誌を手にしてしまう 私は悲しくなって雑誌から顔を上げてとお願いしないとならなくなる、というひと手間が発生する それを回避するため、お店に入る前、雑誌はダメだよ、と彼氏さんに忠告する 彼氏さんは言うことを聞いてくれ、雑誌には手を伸ばさない うれしい でもそこには、やっぱりひと手間があるという事実 なかなかうまくいかないものね なかなかうまくいかないように世の中はできているのかしら そんな世の中に、彼氏さんは加担しているとでも言うのかしら 私を困らせておもしろい? おもしろいよ、って言われるとつらくなっちゃうから私は聞けない そんなことまでお見通しなのかしら ほんと、なかなかうまくいかないものね
人生に疲れた。 人間の常識に合わせて、人間の決めたタイムスケジュールを守るのに疲れた。 だから、ポストに乱暴に突っ込まれていた『人生デトックス』というチラシに惹かれてしまったのかもしれない。 ぐしゃぐしゃの紙に書かれた住所をスマホで撮り、地図アプリを起動して住所の場所まで向かった。 着いた場所には、廃園済だろう幼稚園があった。 小さな運動場には誰もおらず、園舎の中からは歌声が聞こえる。 好奇心に負けて、窓からそっと園舎の中を覗き込んでみる。 そこには、おむつをはいた老若男女がいた。 どいつもこいつもだらけ切った顔をしており、大の字になって天井を見上げたり、積み木を積んでは崩したり、まるで本能のままに体を動かしている様だった。 いむつを吐いた変態たちに囲まれながら、制服に身を包んだ数人が、走り回って彼らの世話をしている。 オムツの中に小便をした人がいれば、慌てておむつを替える。 抱き着いてくる人がいれば、優しく撫でてやる。 子供がやっていたら、もしかしたら微笑ましい光景なのかもしれない。 しかし、全員大人だ。 全裸におむつの大人だ。 さらに、顔全体を隠すマスク付き。 「気持ち悪」 思わず後ずさりをすると、背中が誰かにぶつかった。 焦って振り向くと、そこには園舎の中にいる人と同じ制服を着た人が立っていた。 ぼくの方を見て、にっこりと微笑んでいる。 「人生デトックス希望の方ですか?」 「結構です!」 ぼくは逃げ出した。 後ろを振り向くこともなく、一心不乱に逃げ出した。 足音が聞こえないので、追いかけてくる様子はなさそうだ。 そのまま電車に乗り込んで、とにかく園のない場所まで逃げ切った。 近くのハンバーガー屋に入り、ハンバーガーとコーヒーを注文して、ぼくはようやく落ち着いた。 窓から見える歩道には、学生服に身を包んだ子供たちから、杖を突きながら歩くお年寄りまで、多様な人種に溢れていた。 「やっぱ、人生を生きることが一番のデトックスなのかもしれない」 何故か今日はコーヒーが苦すぎたので、追加でオレンジジュースを注文した。
院長室を出ると、そこにはミミがいた。 人形を片手に、誰かを探しているようだった。 「無力ではなかったと証明したい」 院長のこの言葉が私の中でふつふつと燻っている。小さな明かりを灯して、そこに私は優しく息を吹きかける。 「ど、どうしたの、ミミ?」 「あ、ママ! お姉ちゃんがいないの。さっき、二階に上がったはずなのに」 「リッカ? えっと、私も今院長室から出てきたばかりだから見てないなあ」 私の言葉に不安そうにするミミ。私が子どもを怖がらせてどうする。もっと別の言葉掛けを。もっと別の方法で何か、不安を除かないと。 「えっと、一緒に探してみよっか」 ミミは人形を胸の前で抱えると、私の言葉に少し悩んで、「アルくんに言ってみる」と言った。 そうだよね、私よりアルバートやインダの方がここに詳しいし、ミミとの信頼関係がある。まだ勝てない。私は下の階に降りていくミミを見送った。 さて、私も何か食べ物を。 「無力ではなかったと証明したい」 院長は私を引き返させる。違うだろう、と背中の目が私を見ているような気がする。何のために過去の話をしたと思っているんだ、と聞こえる。 ミミはリッカが二階に上がったと言った。しかし、院長室には入って来ていないとなれば、残るは寝室。ミミは寝室を覗いた上でリッカがいないと言ってると見て間違いない。 私は寝室に入った。確かに誰もいない。 「リッカ?」 返事はない。 私は「それじゃあいつの間にか下の階に戻ってた、っていうすれ違いなんじゃないか」と思って、廊下に出ようとした。 ふと、私の足下を風が通り過ぎていく。その風は冷たく、夜の空気と嫌な予感を運び込んできた。 寝室に振り返ると、窓が開いている。 「まさか」 私は急いで寝室の窓にしがみつき、そこから顔を出した。そこには、地面にぐったりと横になっているリッカの姿があった。 「リッカ!」 私はすぐに廊下を走り抜け、螺旋階段を滑り降りた。この慌ただしさを聞きつけたアルバートとインダが私に走り寄ってくる。 「どうしたの、お母さん?」 「何?」 「リッカが寝室の窓から落ちた! アルバートはすぐ救急隊を呼んで! インダは院長に連絡して!」 「分かった! やってみる」 「院長ね、呼んでくる」 私は内情を二人に任せ、すぐにリッカの元へ駆け寄った。玄関を抜けた先でリッカは倒れている。 二階から落ちるのは私も経験がある。下手をすれば死にかねない大事故だ。 私はすぐにリッカの意識を確認するため、何度も呼びかけた。 「リッカ! リッカ! 聞こえる? リッカ!」 無反応だが、息はある。呼吸が乱れたり、掠れたりしていないということは内臓破裂の線はなさそう。動けないのなら、脊髄損傷? 私は身体を大きく動かさないよう、気道だけを確保して、少し離れた。 「先生」という声が聞こえたのはそれから少ししてからだった。 「リッカ! 大丈夫?!」 「うん、でも、足が」 リッカは身体を動かそうとするが、足に力が入らないようで、上手く体を起こせなかった。 「骨が折れたんだ。ちょっとここを動かないで、なにか添え木のようなのを持ってくるから」 「うん」 リッカは私の言葉を受け入れてくれた。 私は玄関のすぐ隣に山積みにされた古い薪から、まだ堅くて丈夫なとのを幾つか見繕い、リッカの足に固定した。幸い、右足だけの骨折で何とか持ち堪えたようだった。 「歩ける?」 「多分」 私はリッカの右肩を救うように肩を入れ、リッカの歩行を助ける。リッカも私に身を委ね、少しずつ前へ進む。 そして、孤児院の中に入ると、アルバートの怒声が聞こえてきた。 「どうして来れないんですか! 僕の家族が死んでしまうかもしれないんだぞ! おい、聞いてるのか!」 それを心配そうに見守るレイやカウル、そして、ミミがいた。 「おい! あ、切った。あの野郎、もう一回かけてやる。救急隊のくせに」 アルバートが電話にもう一度手をかけたとき、「いいよ、もう」とリッカが優しくアルバートに声をかけた。すると、みんなが一斉にこちらに振り返る。 そこにいるのは添え木をして足を浮かせながら歩くリッカとそれを支えて歩く私の姿。 まるで、私がリッカに怪我をさせた悪者のように映るだろう。それは仕方がないと思う。私は歓迎されたとは言え、まだ部外者なのだから。 「大丈夫、リッカ?!」 アルバートはすぐにリッカに駆け寄った。それは妹のミミよりも早い。迷いのない心配だった。 「うん、まあ」 「お母さんから落ちたって聞いてびっくりしたよ」 そこへ歩み寄って来るミミ。 「ありがとう、ママ」 小さな声でミミは私にそう言った。 リッカの足に添え木をしたはずの私は、自分の心にも添え木を施したようだ。私はミミの頭を撫でた。 【つづく】
三ヶ日駅のホームに立つと、耳の奥まで蝉時雨で満たされる。 「ふうう、今日は一段とチリチリすっなあ」 自慢の長い体毛がなびく。シロー・ムラサキは、赤茶に輝くその毛をはためかせ、駅舎のなかへと逃げ込んだ。夏の線路は、陽炎がゆれるほど。けれど、この駅の待合室は不思議と涼しい。ベンチに座って目を閉じると、浜名湖を大きく越え、猪鼻湖を抜けてきた風が、青い草の匂いとともに鼻先で遊ぶのがわかる。 ―ガタン、ゴトン 遠くから、列車が近づいてくる。ぼおう、とひときわ大きな口であくびをしつつシローが顔を上げると、真っ青な夏空を背景に、白を基調とした車体がすべり込んできた。降りてきた部活帰りの高校生たちが、笑いながら「あっちー!」と首をすくめるその様子を、シローはくりくりの青い目でやさしく見つめていた。 「お、いるじゃん、シロー」 「オレ、久々だわ」 茶化されてる。わかってもシローは、ぬいぐるみのようにそこにいた。 「うわっ、何やってんだ」 「わりー、わりー」 バッグのなかでゆさぶられた炭酸が、勢いよく泡を飛ばしたようだ。夏が一気に弾け、若い彼らをあわてさせる。そのさまを、微笑ましくシローは目を細め、ゆったりとした動きで、その手にあった三ヶ日特産のキミドリオレンヂからつくったジュースを喉へとすべらせていった。 若い一団が去り、いっとき静寂が。誰もいないことを覚えると、シローはひんやりとした床にお腹をぺたりとつけた。 ―これがスキだあ 外には灼熱の太陽。けれど、ここだけは水の底みたいに穏やかだ。 蝉のその声に抱かれるように、シローはそのまま、ひと眠りした。水の底へ、沈んでいくみたいに―
山の上の大きなお寺にほど近い無人駅 それを駅舎と呼ぶには、いささか無理があるその建物が まるで異世界への入り口のようにも見える そこにしかない静かな呼吸は見えず、けれど 目には鮮やかだ わたしたちが暮らしているところとはまた別の ヒガシノヒガシノヒノモトノクニ、というところでは この駅は、あるべきところに帰るのではなく あるべき姿に生まれる場所なのだ 一度だけ鳴った踏切の音に、わたしは、そっと目を閉じた 次に開けたとき、世界は鮮やかに、碧く染まって―
ある夏、私は外れ丘の一画にある孤児院で働くことになった。そこは酷く寂れていて、孤児院という名こそあるけれど、ほとんどボロ小屋、とても使われているようには見えなかった。 扉を開けると、私を見てクラッカーを鳴らす子どもたち。それが銃声に聞こえて少し怯むも、すぐに状況を把握して笑顔で取り繕った。 「うわあ、何?! すごーい!」 「新しい先生だ!」 「かわいい! ママって呼んでもいい?」 「こら! ちゃんと並んで! 一人ずつお名前を言っていこうね」 少し背の高い男の子が子どもたちを統率する。この子がこの孤児院で一番年上なのだろうと思った。 「私はインダ」 「僕はアルバート。よろしく先生」 私は二人に手を出され、両手で握手をした。なんて滑稽な格好をさせるんだ、子どもというのは。 「私はリッカ、で、こっちが妹のミミ」 「えっと、初めまして」 「初めまして、よろしくね、ミミ」 すると、奥から男の子が二人出てくる。 「僕はレイ! よろしく」 「カウル」 小さい男の子は名前を言うので精一杯だろう。 「私はミーリュア。難しいから『先生』とか『ママ』って呼んでくれると嬉しいな」 私は今まで作ったことのないような笑顔を見せた。いつもなら緊張で何も話せなくなるけど、ここでは素の自分でいたい。何も隠したくない。 「じゃあ、僕は『お母さん』って呼ぼうかな」 アルバートとか言った子は私にそう言って迫った。そして、「案内するよ」と、手を引いて二階を目指した。 「まずは寝室から」 それから暫く、アルバートという少年に引っ張り回され、院長への挨拶がとても遅くなった。 院長室の扉を恐る恐るノックする。乾いた木の音が二回。すると、奥から「どうぞ」という乾いた声。 私はゆっくり扉を開き、院長室を覗いた。 「すみません、挨拶が遅くなってしまって」 「ミュリー、よく来たね。どうだい、この『孤児院』は? 気に入ってくれたかい?」 院長は背中越しに私を見ている。あの曲がった背中には無数の目が付いているのかもしれない。私は自然と背筋が伸びた。 「はい、えっと、とても可愛らしい子どもたちがいて、たくさん教えてもらいました。つい先程までアルバートという少年にここを案内してもらって」 「アルバート、そうか。あの子は優しいから」 「そう思います」 「でもね、あの子はただ優しいだけじゃない」 私は優しさに種類があることを知らなかった。乾いた木が軋んで、気まずい空気にメロディが乗る。 「まあ、そのうち分かることだよ」 院長は羽根ペンを立てて、蝋燭を取り替えた。 そして、院長は立ち上がり、私の方に顔を向けた。 一言で表すと「老人」なのだろうけれど、この人をそんな簡単な言葉で言い表してはいけない。そう忠告を受けたような衝撃だった。 「さて、『ここ』について話そうか」 なんだ、あの目は。青く向こうまで、奥までずっと続く星空のような煌めきを秘めた目。いつまででも見つめていたい、そんな綺麗な水晶に、私は「はい」とだけ答えた。 この心拍は緊張か、恐怖か、ときめきか。 「ここはね『家族を作る場所』なんだ」 院長はポケットからブレスレットを取り出した。そして、飾り部分を開いて、一枚の写真を私に見せた。 誰だろう。何人もの子どもたちがこちらを見て笑っている。でも、アルバートやカウルのような、ここの子たちではない。 私は眉を顰めてそれを見た。 「小さくて悪いね」 「あ、いえ!」 私はこの眉のことを指摘されたと思い、すぐに写真から距離をとった。そして、額を撫でる。 「これは私の孫たち、家族だ」 「すごく可愛らしいお孫さんたちで」 「みんな死んじまった」 耳を疑った。 「二十年前の戦争、ミュリーは知らないね?」 「えっと、そういうことがあったということは知っていますが、幼かったので何も」 「その戦火に飲まれたんだ、みんな」 私は言葉を上手く繋げられない。いつもは言いたいことが喉の奥につっかえて、出てこない。でも、今回は何も思いつかない。 「私はあの子たちにこの子たちの無念を重ねてしまっている。自分が無力ではなかったと証明したいがために、こんなところで」 院長はブレスレットをもう一度ポケットにしまった。私は院長の顔に刻まれたたくさんの皺を目でなぞる。 「まだ、戦争の爪痕は至るところにある。親を亡くした子どもたちもだ。ここはそんな子どもたちの居場所にしてやりたい。そして、新しい家族ができれば」 院長は目を伏せた。 「お、お手伝いします」 精一杯の言葉だ。 院長はそれに顔を上げ、にっこりと笑った。幾つになっても笑顔は可愛いものだ。 「ありがとう、ミュリー。君に頼んで良かった」 院長の背中の向こうで、蝋燭の火が揺らめいた。 【つづく】
カラフルなカプセルに粉末を押し詰める 駆け巡る違和感 馬車に括り付けられた痛覚が体中を走る 鎮静剤を血管に流し込んで、血液を濁していく いつの間にか『痛み止め』が『致傷物』に めり込んだ自己愛に、ねじ込んだエゴ そして、さしずめの休暇 (完)
ゴミの夕暮れ 明日はどこを向くだろう 端に寄せられ 異質に寄せられ 余った食べカスみたい …今夜も散歩しよう しょっぱい顔の通行人を横目に 搾り取られた自分の手を視る 目の前の檸檬と自分を照らし合わせて 唐揚げに檸檬の果汁を掛け直す (完)
昼食が済んだ頃、外は漸く雨模様となった。葉を打つ雨音が窓の向こうから聞こえる。どうでもいいことが目に入る、耳に届く。僕は寝室のベッドに座って外を見ていた。 「雨じゃ、外行けないね」 「濡れて風邪でも引いたら大変だからね」 リッカとミミは姉のベッドで横に並んで寝転がっている。それを横目にカウルは仰向けに寝転がった。 「おい、そこ僕のベッド」 レイは声をかけるも無理に退かせることはしなかった。 「じゃあ勉強でもしようか」 そう提案したのはインダ。隣のユキは相変わらず視線が低い。 「えー、勉強?」 「朝から遊んだんだから、お昼はお勉強にしたって文句はないでしょ?」 「何の勉強?」 カウルは起き上がる。文句は言うが否定はしない。 「星のことなら分かるでしょ?」 「星?」 僕はその「星」を知らない。だから、誰よりもインダの話に前のめりになったことだろう。 「空には『星』という光があって、それぞれの光に名前がついてるんだって。その名前はかつて私たちのようにここで生きていた人のもので、有名なものだと、ベガとか」 リッカはインダの顔を見ずに、耳だけ傾けている。レイとカウルは身体を起こしてインダの口を見ている。言葉の出口、そこに集中している。 「他にもいろんな星があって、例えば」と言いかけたインダの言葉を遮ったのはユキ。インダの隣から、ボソボソとではあったが、大量の星を吐いた。 「アルタイル、ポルックス、リゲル、アンタレス、デネブ、シリウス、アルクトゥルス、ベテルギウス、カノープス、スピカ、フォーマルハウト、アルデバラン」 ポカンと口を開けたミミ。カウルとレイは開いた口が塞がらない様子。僕には呪文のようにしか聞こえなかった。時々、ギャングが訳の分からないことを言っていたときがあったが、そうか、星の名前を言っていたのか。 さすがのリッカも振り向いた様子。 ユキは視線を集めていることに気が付くと、一度みんなの顔を目だけで追い、気まずそうに再び目を伏せた。 「すごいね、ユキ。私ほとんど分からなかった」 インダは優しく言い、ユキは「ひいおばあちゃんが教えてくれるんだ、星見の日に」と言った。 「何、星見の日って?」 僕は声に出した。知りたかっただけだった。ここは僕とクーの天国。だから、僕が死んだときクーにいろんな話を持って帰ってやりたい。僕はユキの視線を待った。 しかし、ユキは顔を上げないで下を向いている。 「火隠しの日は知らない?」 リッカが寝転んだまま言う。 「知らない。でも、目隠しなら知ってるよ、よくみんな持ってる」 レイは眉を顰めながらも、「面白いな」と一言。 ユキは何かを知ってる。でも、何も知らないことにしているような、そんな違和感がある。 「光が消える日」 カウルが口を開いた。すると、ユキもカウルの方を見るように顔を上げた。雨音が止まったように感じた。 「本当に生き返ったんだよ、ユキは」 「どういうこと?」 そこへ、先生が寝室に入って来た。扉はユキの疑問を吹き飛ばす勢いで開かれ、体を跳ねさせたミミとカウル。僕は何とも思わなかった。日常の音だ。 「カウル、あなた、本当に聞いてしまったのね」 先生は無言でカウルに歩み寄る。その異様な目は僕には分かる不自然な動きをしていた。 危ない。 僕は近くにあった枕を引き寄せると、先生の足下を狙って投げた。手の届かないところなら、相手を足止めできる。 枕は先生の足の間に挟まり、先生の歩みは一時的に止まる。躓くような所作の隙間を縫って、僕はカウルの前へ。カウルの驚いた目は僕の背中を見ている。 先生は枕を拾い上げると、僕の姿を見て呟く。 「大丈夫、全部話すから」 騒ぎの後、先生は僕らを一度下の階に呼び集めた。先生は枕を元の場所に戻すと、カウルではなく、インダをまず先導した。インダは初め、少し警戒の色を見せたが、すぐにその警戒を解き、リッカに他の子を連れるように指示を出した。 僕はリッカの後ろを歩き、その後ろにレイ、ミミ、カウル、ユキが続いた。 ソファに先生が腰掛けると、その右隣にインダが座った。僕はそれを見て先生の左隣に座った。僕の側のソファにはレイとカウルとユキが座り、その対面、インダ側のソファにミミとリッカが座った。 こんな非常時にも「院長はいない」という。僕は天井の模様を見上げた。小さく足音が聞こえる。 先生は蝋燭に火を灯した。これが消えるまでに全部話すということなのだろうか。それとも、話し終わったらここに火でも放つつもりなのだろうか。 玄関はあの位置。 先生は僕らがみんないることを確認すると、額に手を当てながら言った。 「ユキはね、殺されるはずだったの」 そのときのユキの顔は、暫く脳裏から離れなかった。 【つづく】
僕は、言葉が嫌いだ。 何かを安易に言語化したり、表現したりする行為そのものが気持ち悪くて仕方がない。まるで、海に浮かぶ綺麗な泡だけを掬い取って、それが海のすべてだと言い換えているような、とてつもない虚無感を感じるからだ。 特に、街に溢れるポジティブな言葉――「楽しもう」「幸せになろう」といった手垢のついたフレーズを聞くと、背筋に悪寒が走る。最初から用意された「薄っぺらい幸せ」を目指して行動したところで、一体何が得られるというのだろう。 感情とは泥臭く、形がなく、言葉に置き換えても極わずかなことしか表現することが出来ない。激しく心が動かされたあとで、呆然としながら、「ああ、あの感情を『楽しい』とか『幸せ』と呼ぶのかもしれない」と、後から気づくものなのだ。 吐き気のするような言葉の氾濫から逃げるように、僕は冬の街を歩いていた。 風は鋭く、刺すように冷たい。そんな道路の片隅から流れてきた歌声に、僕は不意に足を止められた。意識を丸ごと持っていかれたのだ。 観客は、僕一人しかいなかった。 穴の開きそうなほど汚れた靴を履いた、同い年くらいの少女。彼女は寂しさと悲しさを必死に覆い隠すような、歪な微笑みを浮かべて歌っていた。だが、そのみすぼらしい姿に反して、紡がれる歌詞はどこまでも力強く、まるで狼のようだった。 表現することに対する気持ち悪さなんて、一瞬で忘れていた。ただ釘付けになって、彼女の声を、その姿を聞いていた。 歌い終えた彼女は、たった一人の観客である僕に視線を合わせ、にこりと笑ってお辞儀をした。 僕は、弾かれたようにその場を立ち去った。逃げるように、早足で。 冷え切った家へ帰る道中、気づけば僕の頭は彼女のことでいっぱいだった。胸の奥が、焼け付くように熱い。足取りが軽い。頬が緩む。 「一目惚れ」 脳裏に浮かんだその文字列を認識した瞬間、ひどい目眩がした。 嫌悪していたはずの、手垢のついた、どこまでも薄っぺらで陳腐な記号。それを今、あろうことか僕自身が、この名前のない激しい衝動に貼り付けようとしている。 言語化したくない。認めれば、この感情すら世間の安っぽいお仕着せに成り下がってしまう。 なのに、心臓の鼓動がうるさく告げていた。 人が、あのどうしようもない引力のことを、そう呼ぶのだと。 翌日、僕は訳もなくあの街の方へ散歩をしていた。体が勝手にあのストリートミュージシャンのいる街に引き付けられていた。頭の中では「一目惚れ」などしていないと必死に否定しているのに、三日、四日と足を運んでいた……。頭の中から消えてくれないくせに、姿さえ見せない彼女に向けて、『一体どこへ行ったんだ』と、喉の奥まで出かかった怒りのような叫びを必死に飲み込んだ。