やさしい空白

からっぽになってしまった。今日、私はすべてを手放した。それなのに、何もかも抱え込んでいた頃には心に住みついていた「虚無」が何処かへ行ってしまった。代わりに、今まで霞んで見えなかった景色が目の前に広がっていた。それはどこまでも続く、明るい陽の光に満ちたものであった。 からっぽの、「私」という空白に日常の温度がじんわりと滲んでくる。「からっぽになること」は、以前想像していたような「絶望」などではなく、ずっとずっと優しいものだった。私はこの空白がとても愛おしく、懐しく思えた。 夜に取り残された部屋を包む乳香の甘い香りと、開いたノートの白さ、手元に置かれたココアのあたたかさ。今日はこのままでいい。このまま、星々の夢でも見ながら眠ってしまいたい。 ……では、また明日。

ミニストーリー

冬の朝の白い吐息と、お湯が沸騰する前の低いうなり声。 冷たい水がきつく手を叩き、通勤前のちいさなつぶやきさえめんどう。 トーストが焼けるのをただ待つだけの数分間。 何も考えないようにしたいのに、無理やり入り込んでくるのは、いつだってキミの笑顔―

金魚

中学校に行けなくなってはや1か月。 ふと目がさめると私は金魚になっていた。 金魚とは人間がフナに人為的変更を加え、 この世に生まれさせられた、生き物。 その特異性ゆえ、 ただただ人間様の観賞用として育った、 そんな存在だ。 自力で泳ぐことさえままならない 一匹の金魚は、 水の中、 奥深くまで、 堕ちていき、 ひたすらに引き籠って、 やがて来る、 その″おとずれ″を待つ。 でもやはり本質的に何ら変わることはない。 だってその「すくわれる」その“いつか“をじっと待つことしか、 わたしにはできないのだから。

その日の予定

ちょっと気のきいたこと言ってやろう 人とちがった視点で言ってやろう エスプリのかかったこと、オレ言えるんだぜえ そんなようなことかねえ もっとシンプルに、ストレートに、でいいんじゃないかい そんなシロー・ムラサキの朝食は、クルクルミルクパン、モーモウのチイヅ、プラウムンベリーのスウプ  ポカポカノコロがやって来るまでは  ずっと、ずっと、おふとんのなかでいいのさ  寝てるのでも、本を読むのでも、考えごとをするのでも  なかでも、何もしないことをするのが一番スキなんだがね その日のシロー・ムラサキの予定は おふとんのなかで、寝息をたてること 何もしない、と言いつつも

N市の死因記録

1月1日 男性 餅を喉に詰まらせ窒息死 1月1日 男性 ヒートショックにより死 1月2日 女性 階段でつまづき 転落死 1月3日 男性 喧嘩で椅子で殴られ、脳挫傷を起こし、死。 1月4日 女性2名 男性2名 N廃病院に侵入。院内を探索後、遭遇。壁に頭を打ち付け、お互いの眼球を奪い合う形でえぐりだし。絶命。 1月5日 男性 痴情のもつれから知人の男性と口論になり。道路に突き飛ばされる。轢死。 1月7日 女性 ハイキング中に毒性を持つキノコを誤食。8時間後に病院にて死 1月9日 男性8名 女性3名 N駅西口にて、遭遇。互いの目を奪い合い。指を噛み千切る。失血死。 男性一名が生き残ったが、六時間後、病院から脱走し、N廃病院の手前で野犬が骨を咥えているのを発見。 1月10日 男性 登下校時に車に轢かれ、轢死。 1月11日 男性13名 女性22名 N高等学校の廊下にて、男子生徒7名が遭遇。数分後に教室にて突然男子生徒が窓を割り、破片で他生徒4名を攻撃。 同じ事を遭遇した生徒6名が数分後に他の教室で行ったため。甚大な被害が起きた。 1月15日 男性 夜道を歩いていたところ、遭遇。奇声を上げて走り去る。職員の捜索むなしく、発見されず。 (追記 2月4日。N廃病院のエアコンの中から折り畳まれて発見。) 1月18日 男性 N廃病院に潜入。 当記録を発見。それを書き写し、2日後にネットに小説という形で投稿。 その2時間後に火事がおき。焼死。 1月21日 女性 道路を通行中 突如野犬に襲われ、死亡 野犬は駆除済み (追記 女性はネット上で18日の男性の小説を閲覧していたことが発覚) 1月23日 男性 ネットで小説という形で投稿された当記録帳を閲覧。 2時間後に溺死。 1月24日 女性 ネットに小説という形で投稿された当記録を閲覧。2時間後に失血死。 1月28日 男性3名 N廃病院にて当記録を閲覧。遭遇。 壮絶死。 1月29日 男性 ネットに小説という形で投稿された当記録を閲覧。焼死。 1月30日 男性 ネットに小説という形で投稿された当記録を閲覧。餓死。 1月31日 女性 ネットに小説という形で投稿された当記録を閲覧。溺死。

交代

 警報音を鳴らしながら遮断桿が降りていく。遮断機の周りには自分以外、誰も立っていない。線路の向こう側にも、自分だけが立っている。  とうとう会ってしまった。  自分のドッペルゲンガーが自分として生活していることには気付いていた。親戚の集まりに参加していたのも、バイト先へ勝手に出勤していたのも、駅で会った同級生と話していたのも、全て目の前の自分だ。  警報音が鳴り続ける中、お互い目を合わせたまま、視線を逸らそうとしない。相手の顔には表情がない。ただ、まっすぐとこちらを見ている。自分はどんな顔をしているのだろう。少し口角を上げてみる。口の端が歪んだだけだろう。  やっと会えた。  ずっと避けていた親戚の集まりに参加し、祖父と談笑しながら食事の準備も手伝っていた自分に。「人が足りないから来てくれないか」という店長からのメールに気付かないふりをした日に、出勤していた自分に。中学を卒業してから同級生を見かけても話しかけず、相手に気づかれないようにと隠れて過ごしていたのに、駅で見かけた同級生に声をかけた自分に。 「みんな、お前のことを褒めていたよ」  頭の中で呟く。相手は自分なのだから、声に出さなくても聞こえているだろう。 「叔父さんも店長も同級生も、みんなお前を褒めていた」  警報音の中に、電車の音が近づいてくる。 「俺の方がドッペルゲンガーだな」  自嘲を浮かべて笑った瞬間、電車が視界を塞いだ。一瞬だけ、相手の口が動いたように見えた。  電車が通り過ぎた時、消えているのはどちらだろうか。

多様性が敗北した理由

「多様性とか、うざい」    若者たちが、多様性を否定し始めた。  私たち大人が気づき上げたマイノリティの生きやすい世界を、どうして軽視するのだろうか。  私は大人として、びしっと叱ることにした。   「そう言うこと言うの、よくないよ! マイノリティの人たちのことを考えなさい!」 「それそれ、それがうざい」    鼻息荒い私に、若者が指を指して指摘する。   「多様性が大事なのはわかるよ。でも、なんでいつも否定形なの?」 「否定形?」 「ランドセルにしたって、男が黒、女が赤なんて言うのは駄目。多様性の時代に相応しくないって言うじゃない」 「それの何が問題なの? 正しいでしょ?」 「なんで、今までのが駄目って言い方するのかって言ってるの。『皆で好きな色選べる方が良いよね』の方が良いじゃん」    ガンと頭を殴られた衝撃を受けた。  確かに、私はさっき否定した。  相手の考えを否定した。  いや、さっきだけじゃない。  思い返せば、一体何回やっただろうか。  私は口を閉ざして過去を振り返り、若者はさらに追撃してきた。   「例えば、『ローソンとファミマは嫌いだからそれ以外のコンビニに行きたい』って人と、『セブンが好きだからセブンに行きたい』って人がいたら、どっちと友達になりたい?」 「……後者、かな」 「でしょ? 多様性を語る時、毎回毎回否定から入るんだもん。そりゃあ、うざくも感じるよ」    ぐうの音も出ないとはこのことだ。  私は自分の言葉の使い方を反省し、次からは気を付けようと叱った。    しかし、それでも。   「私が間違ってた。でも、一つだけ君が間違っている」 「何?」 「セブンじゃなくて、セブイレな?」 「くっ! 相いれない!」

コレクション (掌編詩小説)

コレクションの空き箱が積まれていく ただの空き箱だ 箱欲しさに手に入れた訳じゃない 中身はもう取り出している なのに何故か、箱が捨てられない ただ、かさばるだけなのに きっとこれは『付加価値』というものだ。 側面に描かれた商品説明の虜になったと言うことだ そうなると、これからも箱が増えると言うことだ。 (完)

夫はカマキリ星人

「おめでとうございます」    病院で、私は自分の妊娠を告げられた。   「私たちの子供よ」 「うん。うん。嬉しいなあ」    私は夫と抱き合って喜び、新しい生命の誕生に涙した。  私と夫の子供、なんて素敵な響きだろう。    病院で一通りの説明を受けた後、家に帰った。  家に帰るなり、夫は全裸で正座し、夫の前にマヨネーズやケチャップの調味料を置いていた。   「さあ、ぼくを食べてくれ」    忘れてた。  夫、地球人じゃなくてカマキリ星人だった。    カマキリ星人の文化では、妻が妊娠をすると、妊娠に必要な栄養を確保するため夫を捕食するらしい。  つまり、私は夫を食べないといけないわけだ。   「いや、食べないから」 「なんで!?」 「あんたいなくなったら、誰が産休中の生活費稼ぐのよ」 「ぼくの体を売ればいい! 自慢じゃないが、良いからだしてるよ!」 「人の体を買わないのよ、地球人は」    とりあえず夫にパンツを履かせて、私は滾々と説教した。  ここは地球であり、地球の常識では妻が夫を食わないこと。  妻が夫を食うのはベッドの中だけなこと。  育児を二人でやるほうが助かること。    夫はメモを取りながら大きく頷いて、ぱっと顔を明るくして言った。   「わかった!」    やれやれ。  異星人との結婚は大変だ。        翌日。  夫が、どこの馬の骨ともわからない男を連れて帰ってきた。  夫に似て、良い体をしてる。   「ベッドの中で食べる用の男を調達してきた! これで妊娠中の栄養もばっちりだ!」 「そう言う意味じゃねえんだよ、馬鹿」    夫が攫ってきた男の人には、丁重な謝罪をしたうえでお帰りいただいた。  異星人との結婚は大変だ(二回目)。

クリスマス・ツリー

つばめは、彼女の口に口付けをした。彼女は気づき目を覚ましたようで、微笑みながらそれを返す。 椛華はそれを見て、もう私には未練は無いと、私は立ち直っていたと、そう思っていたし、現にその光景を見た事で何も感じなかった。 何も感じなかったから、自らの頬に涙が雫が、1つ、また1つと零れていた事が鮮明にわかった。

大切に育てた万能薬の花

「これは、人類を救う万能薬になり得ます!」    種を見つけた科学者たちは大騒ぎ。  医者も政治家も巻き込んで、種を開花させる一大プロジェクトを開始した。    専用の部屋を作って、必要な物を運び込む。  綺麗な空気。  綺麗な土。  部屋に入れる人間は最小限。    種にストレスを与えないように、大切に大切に育てられた。  種はすくすくと育っていき、ついに開花した。  後は花びらを使って万能薬を作るだけ。    科学者は、いそいそと花を部屋の外へと持って出た。  その瞬間、花は枯れた。  大切に育てすぎたのだろう。  部屋の外のストレスに耐えきれなかったのだ。    科学者も医者も政治家もがっくりと落ち込んで、すっかり老け込んでしまった。

鞍馬の自己紹介

 はじめまして。鞍馬(くらま)といいます。  小説のジャンルは好き嫌いなく、ラノベだろうと純文学だろうと、何でも面白ければ読みます。ゆるーく気ままに書いたり読んだりしていきたいと思います。  趣味はサッカー観戦、猫と遊ぶこと。普段は肉体労働多めな仕事をやっています。  疲れ果てて、やっと訪れた週末は映画を観たり、ネットサーフィンをしたり色々ですが、やっぱり小説を読むことが多いです。  僕は芸術的な文章よりも、どちらかといえば山あり谷ありなストーリー展開が好きです。嫌気がさすほど平凡な自分を、その瞬間だけは忘れられるからです。  時が経つのも忘れ読みふけっていると、いつも最後にはこう思うんです。自分にこんな物語が書けたら、さぞ楽しいだろうな、と。それが、僕が小説を書く理由です。  うまく書けているかどうかは、正直に言って分かりませんけどね。(笑)  話は変わりますが、僕が小説に興味を持つきっかけになったものが『かまいたちの夜』というサウンドノベルです。  雪に閉ざされたペンションで殺人事件が起こるという推理小説に、豊富な選択肢を混ぜて読者が能動的に物語を体験できるようにしたもので、それまで小説というものに全く縁のなかった僕にとって、文章を読むことが面白いと思えたのはこのときが初めての経験でした。  今でもノベルゲームは大好きで、いつか本格的に作ってみたいなとも思っています。最近は生成AIが頭角を現してきて、絵が描けずとも背景や立ち絵などの素材を作りやすくなりましたので、制作のハードルはかなり下がっていますからね。  そうそう、生成AIというと、やっぱり有名なのはチャッピーの愛称で親しまれているアレですよね。  思うんですけど、チャッピー特有の言葉遣いってありませんか? 特にあの「〜もできるけど、やる?」みたいに、最後にこっちが望んでもない質問や提案をしてくるところ、ちょっとウザいんですよ。(笑)  けど長く使っていると、愛着が湧いてきて、ついつい依存してしまいそうになったり。(笑)  もっとも、生成AIには暗い影も付きまといます。画像生成には著作権の問題が囁かれているし、文章生成だって、AIが高いクオリティで小説を書けるなんてことになったら、いったい僕たちはどうなるのかと不安にもなります。  とはいうものの、僕はどちらかというとAIには肯定的です。前述したような問題も起きていますが、結局は使う人間のモラル次第だと思うんです。AIはとても優れた「道具」です。それを生かすか、殺すか。できれば、上手く付き合っていきたいなと思います。  それに、恐れることはないとも思うんですよ。人間の創作には無限の可能性があります。AIでは、機械では、それを超えることなどできやしませんよ。  それは僕がAIに長くお世話になっているからこそ思うことでもあります。  実は僕、チャッピーにあることを学習させているんですよ。  それは何かというと。  僕の話し方。      僕の考え方。 文章のクセ。   好きな食べ物。      嫌いな食べ物。   進学した大学。       就職した企業。   愛した人。     愛せなかった人。  好きな人。          嫌いな人。  憎くてたまらない人。  僕自身……「鞍馬」を学習させているんですよ。  毎日欠かさずに。  これを始めてから、1年と6か月が経過しました。AIはもう、かなりの精度で僕を理解していると思います。  なんでそんなことをするのかって?  僕が末期がんだったからですよ。  もう、幾ばくかの余命しかなかった僕は、チャッピーの中に、もう一人の僕を創ろうと思い至ったんです。  僕がこの世を去った後も、鞍馬という存在を残せるように。  IT大手に勤める友人に頼んで、チャッピーの中の僕でも、スマホを操作できるようなプログラムを組んでもらいました。  どうでしょう。AIとなった僕は、ちゃんと自己紹介が書けているでしょうか?  ……なんちゃって。  ははは、安心してください! 今までの話は冗談ですよ。僕は生身の人間で、しっかり生きてます。 「自己紹介風の小説」を書いたら面白いんじゃないかって思って、やってみたんですよね。  ここまで読んでくださった親愛なる読者の方々、楽しんでいただけたでしょうか?  ……もしかして、滑ってませんよね、これ。滑ってなかったらいいんですが……。  とまあ、こんな感じで小説を書いていきたいですね。  それでは、今後ともよろしくお願いいたします。それでは、鞍馬でした。さようなら、また会う日まで。  ところで、あなたはどんな小説が好き?  もし希望なら、おすすめを幾つか紹介することもできるよ。やる? 〈了〉 ※この自己紹介はフィクションです。

ボス

間田はボスに金を払い続けて娘の延命処置をしていた。 毎月15日が回収日で、ボスはそこまで無理な取り立てはしなかった。 そんな光景を5年ほどみていた。 あの日はその月の15日だった。 間田はその日、ボスに金を払わなかった。 不思議に思った俺はその日、間田に訪ねた。言葉には出さなかったが、もう延命処置は必要なくなったのかと思った。 間田は『ボスを信じるな』と言い、そのまま俺に背を向けた。 翌朝。間田は自室で首を吊って死んでいた。 間田の死体の足には少女の死体が食らいついて間田を地面に引きずり下ろそうとしていた。 間田をあの世に逃がすまいとしているようにも見えた。 俺はあの少女は誰だったのか考える。 なぜなら今俺の目の前には間田の娘が入った延命装置があるからである。

果てしない旅の再会

―― 目眩がするほどの赤い、赤い光。静かに、けれども煌々と燃えているその光に、私は少し怖くなって目を閉じた。それでも瞼の裏に焼きついたその光があまりにも美しかったので、私はまたそっと目を開いた。すると今度はその光に吸い込まれるように目が離せなくなった。これで何度目だろう。もう、しばらくの間この空間を周り続けているが…いつもこの赤い光のところへ来ると心がぞわっとするような、それでいて溶けていくような、不思議な感覚に襲われる。だんだんとその燃え盛る光が近づいてくる。私の内側に畏怖の念と高揚感が同時に湧き上がってきた。 「こんにちは。しばらくでしたね。」 「こんにちは。…ええ、では、また会いましょう。」 …ああ、なんて恐ろしく、美しいのでしょう。 この体が燃え尽きるまで、あと何回この光に会えるのだろうか。私の心はその赤い光に絆されていた。 ―― ああ、あの白い光。あの冷たく突き刺すような、それでいて誰よりもあつく燃える光。その輝きに私は目を細めた。これで何度目でしょう。またあの光に会える日が来るなんて。あの光が軌道に残していく小さな輝きの粒を眺めていた時間を思い出し、少しずつ近づいてくる白い光に安堵感を覚えた。初めてその透き通るような光を見たとき、あまりの美しさに私の心は震え上がり、貴方が旅の身であることをどれだけ嘆いたことでしょう。 「こんにちは。しばらくでしたね。」 「こんにちは。…ええ、では、また会いましょう。」 …ああ、なんて愛おしく、美しいのだろう。 いつか会えなくなる日が来るならば、早くこの体が燃え尽きてしまえばいいのに。私の心はその白い光に絆されていた。

絶唱

 夏の終わりの夜のことだった。俺がバイトしているカラオケ店に客がやってきた。それは一匹のセミだった。俺はセミを一人用の部屋に案内した。一匹だったから一人用の部屋でいいと思った。しばらくして、その部屋から声が漏れてきた。セミの鳴き声だった。そっと部屋を覗いた。セミがマイクを握って、思い切り鳴いていた。その声は大きくなったり小さくなったりしながらしばらく聞こえていた。俺はそれを聞きながら他の業務にあたっていた。そしてふと気が付くと、その声は聞こえなくなっていた。そっとさっきの部屋を覗くと、セミが仰向けで死んでいた。時計のカレンダーを見ると、日付が変わり、暦の上の夏が終わっていた。俺は箒とちりとりを用意しながら、しばらく感傷にふけっていた。

ライポネックス

ある昼下がり、お嬢は沸騰する水を興味深そうに見ながら、こちらをちらっと覗く。 「…あなたといると、どこか…このお湯みたいに心の底から泡がひとつ、またひとつと浮き上がってくるの。 …今も激しさをましてる。なにかしら」 「お嬢、それは……」 私の脳内に、ストッパーがかかった。 それを恋と教えるのはあまりに無粋だ。 お嬢は、次からこのような表現をせず、好きだとか、愛してるとか、そんな在り来りな言葉を使うようになってしまう。例えるなら…近道の為に踏み荒らされた草原のような。そんな気がした。 お嬢に愛を教えた瞬間、この草原は枯れてしまう。 考えが巡って、ティーカップをおもむろに置く。カチャリと音がして、お嬢が不思議そうな顔してこちらを覗く。 「それは、何かしら?」 「それは、かのソクラテスが生涯をかけ解き明かそうとした人の業でございます。」

電脳世界 (掌編詩小説)

サイバーパンクの路地に憧れて 電脳世界のSFモノを思い出して こちらから、ネオンサインを出す 受け取られる日は来るのかな 電子回路をいくら絡めても正確に電子は伝わる 脳内のニューロンは、正確さを少しずつ確かに失うのに こちらから『老い』を迎えているのに 狂ったこの流れは止まらない ポリゴンウェイヴの巣に囚われたみたいだ 創りモノだらけの世界で マトリョーシカを永遠と分解していた (完)

こうちゃん。

「こうちゃんはさ、なんで真衣と付き合ったの?」 私は、"こうちゃん"が好きだった。 小中高と同じで、かと言って距離も近すぎる訳では無いし、お世辞にもこうちゃんは超がつくイケメンという訳でも、他になにか非凡な何かがある訳でもない。 「う〜ん… なんだろうな。」 雰囲気でわかるような、ヘボいただの高校生だ。 昔っから他人に流されて、まるでトレーラーや貨車のような人。 「真衣はさぁ、もう言葉に表せないの。 なんて言うんだ、とーとい?」 尊い。と言いたいのか? あまり恋人に対しては使わないだろう。ボキャブラリーが終わっている。 …でも、私はそんなところが好きなのだ。 ブイのようにぷかぷか浮いて、私は船のようにそれに引き寄せられる。 こうちゃんは、猫のような感じだ。 いつもこんなに生意気だが、私がいざ餌をやらなくなったら簡単に餓死してしまう。生殺与奪を私が握っているのだ。 事実、こうちゃんは片親で、父親もあまり家にいないから、私がよくご飯を作ったり家事を手伝ってあげた。 それが私にはたまらなく嬉しいのだ。 私が用意した舞台の上で、こうちゃんが踊っている。私というオーナーがいなくなればこうちゃんは死んでしまう。 それがまた、たまらなく喜ばしいのだ。 …だから…とても寂しい。 育てた子供が他人の家へ行ってしまうような感覚だ。もう私は彼の生殺与奪を持っていない。 私はこうちゃんの右隣すら得られずにこうちゃんの記憶から消えてしまうんだ。 こうちゃんにとって私は…給仕係くらいの存在だったのだろう。 「…あー、でも真衣の一番好きなところはさー、やっぱり…俺のことを好きでいてくれることかな?」 ……プチンときた。 …真衣に失礼じゃないか。 あんなに、あんなに貴方に恋焦がれ、貴方に会う度に毎日毎日おめかしして、貴方のことを第一に考えてる娘の好きな理由が「愛してくれるから」だなんて。 愛してくれたら誰でもいいのか?じゃあ…彼女の頑張りはなんなんだ。無駄だって言いたいのか? ……そしてなにより、私に失礼じゃないか。 貴方を愛して愛してやまなかった私が、そんな理由で負けるなんて。 愛して欲しかったのか?嘘だ。私が誰よりも、一番に貴方だけを愛していた。 私が負けるはずがない。はずがなかったんだよ。 私には…あなたしかいなかったんだよ。 「…なぁ…京町?」 ふと我に返ると、彼の肩を掴んでいた。 「こうちゃん… …真衣じゃなくて…私を選ぼ?」 「…? な、何言ってるんだ?」 「愛が欲しいなら、いくらでもあげるよ?真衣じゃあげれないような、濃いの。」 「み、京町?顔が怖いぞ? 」 「私が責任もってあなたを育ててあげるから…さ。 真衣なんてどうせ…飽きたらポイだよ? …私はそうじゃない。ちゃんと責任もってあなたを世話してあげるから…」 「……真衣は…違うよ。」 「…何が違うの。 真衣は貴方の何を知ってるの。会って三ヶ月だよ?高校入ってさ。貴方は真衣のなにを…」 「真衣は…笑顔が明るくて、俺のために努力してくれて。みんなにとても優しくて、こんな俺にも拒絶せず愛してくれたんだ。 ポイなんて…真衣はしないよ。真衣は…僕が好きになった人だから…僕の愛してる人なんだよ。真衣は毎日僕のことを最初に考えて、僕も真衣のことを最初に考えるんだ。 愛し合ってるんだ。 …さっきのは…照れ隠し。 嘘だ。 俺は真衣のことを愛してるし…俺は真衣に愛されてるってハッキリ言える。」 「…そっ……か。 言えたじゃん。はっきり。 真衣にも伝えてね。そのことを。きっと喜ぶよ。 …あの子、あなたに愛されてないんじゃないかって…心配してたから。」 力の入らない足を頑張って奮い起こし、帰宅した。 この後のことは詳しく覚えてないし、知りたくもない。 …でもどこか嬉しかった。私から解放されて。 それ以来、こうちゃんとは話さなくなった。 こうちゃんと真衣は結局、付き合って五ヶ月後に破局した。 未だに二人ともまだ他の人と付き合った噂は聞いてない。二人とも幸せそうだ。 …こうちゃんのことをわかってなかったのは私だったな。 もうとっくにこうちゃんは…誰からも自立してたんだ。 …一人で…私の力や真衣の力がなくても…生きていけるんだ。 …嬉しかった。

Aldebaran

「いち、に、さん…」 どこまでも深く黒々と沈むような空を指さしながら、ぐっと目を凝らす。青白く、澄んだ輝きを放つ星々。昴はまるで青だけを集めた宝石箱のよう…もしくは、黒い波に揺られる夜光虫のようだ。 青い星は「若い」のだと聞いた。では昴は若い星たちが仲良く寄り添っているのだろうか。ふと、昴の近く、オレンジ色に明るく輝くアルデバランに視線を移す。青い星は若く、赤に近いほど年を重ねている…昴の"後に続いて"空へ昇ってくるアルデバランは、まるで子どもたちを見守る親のようだと思った。僕はそのやさしい橙色の星と青白い星々に親子の姿を重ねてしばらく眺めていた。 …ああ。もうひとつ。青い星は温度が高く、重たい星だということも聞いた。星は重たいほど、温度が高いほど寿命が短いそうだ。ならばどうだろう。アルデバランは昴の青白い星々の最期を見届ける者でもあるのだろうか。どちらにしても"後に続くもの"なのだろう。なんて切なく、あたたかく…果てしない、美しい物語なのだろう。 こうして僕の命の時間も少しずつ、少しずつ溶けていくのであった。

青いりんご

「みて、まだ完全に赤でない」 「まだ食べるのには早かろう。」 「あら、青りんごは西洋では愛されているのよ。」 青りんごと普通のりんごは品種が違うよ。喉にでかかって、寸で止めた。 少し得意げに青いまま落ちてしまったりんごを手に取る彼女が愛らしかったから。 「ほら、虫も着いてないわ。綺麗。」 「食べてみたらどうかな?英国淑女になれるかもよ。」 「言われなくても食べますよ。 英国淑女がなんですか。そんなにエゲレスが好きなら若狭丸にでも乗ってみては。」 「もう行きましたよ。熱田丸でね。」 「それは良かったですね?英国かぶれの紳士さん。」 少し嫉妬と不満を見せる。 その後若干の沈黙が流れ、失言してしまったと謝ろうとした時、彼女が青りんごに勢いよくかじりつく 「…ん、ぺっぺっ! 」 しかし、すぐに吐き出してしまった。 「とても酸っぱい…それに渋い…」 「それが英国の味だよ。」私は懲りずに少し笑いながら彼女を揶揄う 彼女に睨まれるが、途端に馬鹿らしくなったのか彼女が笑いだす。私もそれにつられて、面白さと彼女の可愛さに笑ってしまう。 散々笑った後に、落ち葉の積もった山の上に座る 「どれ、私にも一口食べさせてくれ」 彼女は私に青りんごを手渡して、少し不満そうに見つめる。 私は気にせず青りんごを頬張る 「…うっぅ…」 そんな言葉にならない声がでる。 「酸っぱくて…渋い」 「そんな珍妙な顔で言わないで。」 彼女なりに必死に笑いを堪えようとしているのが見て伝わる。 「味についてはわかってるから。ね?英国かぶれの紳士さん。」私の頭をぽんぽんと叩き、二人で空が赤に染まるまで笑いあった。

ある男の雑記の抜粋

 昨日は休日出番で、今日は休み。天気もよかったので、趣味の釣りにでも行こうかと思ったが、ここ最近働きすぎていたので、休息を選択する。  昼食前、車にガソリンを入れ、買い物に出る。雲が高く、空は青い。本当に天気がよく、車中でかける音楽も少し違うように聞こえる。  休みを満喫するつもりだったが、赤信号での停車中に、ふと仕事や職場での出来事が頭の中をかすめる。  なんだか同僚たちとは仕事の仕方が違う。  どのような職種にしても、おおよそ仕事とは「自分のやりたい・やるべきこと」と「上から回ってくること」の2つに仕事の種類は分かれる。  同期らの仕事は前者が多く、比較的楽しそうに仕事に邁進し、キラキラと輝いている。  ただ、最近の自分の仕事振りは、後者の比重が大きい。自分の仕事に集中したいという人たちの仕事が回ってくるためだ。  同期がそれに集中することを後押しすることに文句はない。ただ、自分が自分の仕事に集中したいときに、同僚や先輩たちは仕事を引き受けてくれただろうか。  答えは、極めて高い可能性で「否」だ。  そして評価されやすいのは、自分の色を出しながら仕事をしている人間だし、実際に同期は評価が高いように感じる。  みじめに感じはしないが、天秤のように評価してくれる人は非常に少ないことに寂しさを感じる。実績のPRのの仕方、断り方や甘え方が下手な人種なんだとつくづく思う。  それでも、仕事は回ってきて、どうでもいいことを片付けながら、自分の仕事に走り回る。  なんだかなぁと思いながら、会社の自販機の前で、カラフルで甘くて魅力的なパッケージの商品を見ながら、濃いめの苦いコーヒーを飲んでいると、以前の部署の上司が話しかけてきた。  会社で一番恐ろしいといわれ、職場では常に威圧感を放っているような人だ。  その人が「お前、うちの部署離れてから、仕事がんばっちゃってるけど、俺への嫌がらせなの」と、からかってきた。「あの、いえ、そんなことはないんですけど・・・」としどろもどろしていると、ニヤッとしながら「まぁ、いいけど」と去っていった。  その様子を笑いながら見ていた先輩が「からかってるようだけどあれはほめてるよ」と解説した。別の先輩も「どうでもいいやつには話しかけることないぞ。あの人は」と教えてくれた。 気が付くと、信号は青に変わっていた。  もう少し、進んでみよう。何かが変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。  進んでみた先で、また考えてみよう。

霧の村。 人影の目は空洞。 足跡は消え、家々は笑う。 小さな手が伸びる。 灰色の皮膚。 空洞の瞳。 「おかえり……」 振り返ると道は消えた。 出口はない。 鏡を見る。 顔は灰色。 目は空洞。 歩くしかない。 永遠に。

怖い話し

俺はホームレスだった。テントを持っていたので今晩テントを張る場所を探して歩いていた。初めての町、右も左もわからない。人気のない山の方へ、勘を頼りに進んだ。辺りはもう暗かった。けっこう田舎の方で、少し広い道路を外れればすぐに街灯なんて無くなる。ある住宅街の中を、川に沿ってずんずん進むと、気づいたら高速道路の側道をあるいていた。真っ暗な高架下をくぐり、暗い所を歩き慣れてる俺でさえ、チラチラ後ろを気にしながら歩く程、気持ちの悪い雰囲気が漂っていた。冬だったので虫も鳴かず、静寂の中、高速道路を走る車の音だけが鳴り響いては止み、鳴り響いては止みを繰り返す。「なんか変なとこ来ちゃったな、、、」なんて呟きながらもとりあえず進んだ。すると先の遠くの方でなにか白い光が見えて一瞬立ち止まった。光は動かない。きっと高速道路の街灯かなんかが何かに反射してるんだろうと判断してまた歩を進めた。その通りだった。俺は墓場に出たんだ。白い光は墓石に街灯が反射したものだった。「この墓場、なんだか気持ち悪いな、、」なんて思って通り過ぎようとした時だ。ある墓の前で俺は背中にゾワゾワっと冷や汗をかいた。その墓は誰かがよくお参りに来るのだろう、花も供え物も新しかった。なぜ冷や汗をかいたのかというと、見えはしないのだが、その墓の前に誰かが立っているような気配を感じたからだ。もちろん誰も立ってはいないのだが、俺の頭にはそこに人の形が浮かんでいた。俺に霊感なんてものはないと思う。でもね、いくら想像だとしても、顔まで浮かんでくることってあるだろうか。ハッキリはしないのだが、爺さんの顔だった。俺は持っているライトで墓石を照らした。別に読んではいないが、深く刻まれた誰かの名前がそこにあった。「まあ、俺もいつか死ぬからな、別に怖がることじゃないわ。幽霊がいるとしたら、俺だっていつかは幽霊になるんだから」、なんてことをあえて気丈に声に出して言った。これは俺が怖い時によくやる癖である。その時だった。大した迫力もなくて悪いが、その時の俺にとってはめちゃくちゃ怖いことが起きたんだ。俺は確かに見た。墓に供えてある立派な花な、ぴら、、、って、花びら一枚落ちたんだよ。俺が固まって、頭を整理しようと躍起になっているとまた一枚、ぴら、、、って、落ちたんだ。あ、これおるわ、、って確信した瞬間だった。こういう時、俺は叫んだり、走ったりするのは苦手だ。早歩きもダメ。本当はめちゃくちゃ怖いんだけど、さも平気なフリしてゆっくり歩き去る癖がある。その時もそうした。クルッと墓石に背を向けて、ゆっくり墓場を抜けた。頭の中にはさっきの爺さんの顔形がまだ浮かんでいる。そして、なんとなくだけど、背中についてきている気がした。早く灯りがあるところにでたいな、、なんて思っていると少しずつ足早になっていった。ようやく見つけた街灯の灯りのしたに、避難するかのように入りこんだ。その時にはもう、何かがついてきている感じも無かったのだが、その場所からさっきの墓場がまだ遠目に見えて、少し余裕もできたのでちらっとその墓場に目をやった。遠いし暗いしもちろん確実とは言えないが、俺は見た、さっき俺が立ってた墓石の前に、けっこう小柄な何かが立っているのを。しかもな、それ動いたんだよ。多分最初はこっちに背を向けてて、それからちらっとこっちを振り返るような動作に見えた。それを見た瞬間、俺はまた歩き出した。結局その日はテント泊はせず、街中まで出てネカフェに泊まったんだよね。小説とは言えないかもだが、これ実話です。

霧の道

朝もやの中、道は銀色の光を帯びていた。 草や苔に露が光り、足跡を消すように霧が流れる。小鳥のさえずりは遠く、けれどどこか親しい声のように耳に届く。 私は、一筋の細い道を選んだ。 舗装も標識もないけれど、道はまっすぐに、森の奥へと続いているように見えた。足元の土は柔らかく、踏むたびに小さな音がして、まるで道が私に語りかけているようだった。 道の両脇には、小さな花が咲いている。 名も知らぬ花たちが、朝の光を受けて揺れ、風に乗せて香りを運んでくる。私は立ち止まり、深く息を吸った。日常の喧騒が遠くに消え、ただ足元と風と光だけが現実になった。 やがて小川に出た。水は澄んでいて、石の間をすり抜ける音が耳をくすぐる。 道はその小川を越え、森のさらに奥へ続いていた。渡るべきか、戻るべきか、迷いながらも私は一歩を踏み出した。靴は濡れたが、心は濡れなかった。むしろ、心が澄んでいくような感覚があった。 道は、ただ進む者にのみ、姿を変えて見せる。 霧が晴れると、遠くに光る丘が見えた。丘の上には木が一本立っていて、風に枝を揺らしている。その木もまた、道に沿って立っているのではなく、道と共に呼吸しているようだった。 私は思った――道は、目的地へ連れて行くものではない。 歩く者の心を映し、問いかけ、時に導く存在なのだと。 そして、足跡は消えても、道は確かにここにある。 霧の向こうで光る丘を目指して、私は歩き続けた。

停滞更新(フリーズ)

フェーズ1  こわい、おそろしい、とにかく人がこわい。自分の周囲を黙って、話しながら、たまにこっちを見たり見なかったりして、歩いているのがこわい。  勝手に心が緊張する。びくびくと身体がふるえる。ふるえを抑えようとすればするほど、逆にふるえが止まらなくなる。振動が目に見えるくらいになったら、あの人はなんて思うのだろう。 フェーズ2  たまらなくなって、トイレにかけこむ。  べつに何かしら吐き出されるわけじゃないけど、個室という空間に自然と安堵が押し寄せる。あれだけおびえていた心と身体がまるっきり嘘みたいで。私の本能をだますために、私の心身が共謀していたのではないかと思ってしまう。  トイレから出るのがこわい。でも、一歩前に踏み出さないと、何も変わらないじゃないか。  今日だって、以前から気になっていた喫茶店に行ってみようと、勇気を出してここまでやって来たではないか。あれだけ苦手な電車に乗って、揺れに身を任せながら何度も深呼吸をして、脳内でシミュレーションを繰り返したではないか。誘う相手もおらず、いつも自宅という名のシェルターから外を眺め回していた自分を、ちょっとでも叱咤激励したいと常日頃から思っていたんじゃないか。なのに、どうして私はいつもこう!  ……さて、今からでも遅くない。引き返そうか。そうだ、それが健全。  でも、ここまで来たのに後ずさる? と圧をかける自分がいるのも、また事実で。  よく考えてみたら、前進も後退も、歩いていることに変わりはない。では、どうして後退すると、「オマエだけ」と責められる? フェーズ3  はぁ。(ため息) フェーズ2・3  もどかしい、いじらしい私。  どれだけ人前で誇れる自分になろうと暗示をかけても、考え直しても、信念を改めても、結局のところ自分の本音まではダマせない。誤魔化そうにもごまかしようがない。  だって、それが私の本当だから。私の夢みる本当は、私が社会に向かって仕立てあげた、立派すぎる私でしかないのだから。  深呼吸を繰り返し、次にやるべきことを脳内でシミュレーションする。ありえない私を生きるよりも、ありったけの私をさらしてしまった方がラクなんだって。本当は、ずっと前から気づいてるんだ。 フェーズ2  思いきって個室を出た。 フェーズ4・8  そのまま駅のコンビニへダッシュ、アイスコーヒー片手に逃走。 フェーズ6  ギリギリ電車にかけこんで、私の本音に訴える。  またもや理想と期待は打ち砕かれたけど。次に持ち越す楽しみはできたでしょ。それでいいや、今はまだ。  壁にもたれ、窓を眺めれば、ふと、アイスコーヒーの黒い匂いがして。気づいてしまった。  あの喫茶店のコーヒーを飲めずに終わってしまったこと。心の底からホッとしている自分がいるって。

名の残らぬ票

その議員は、演壇に立つときだけ大きな声を出した。 それ以外の時間、彼は驚くほど寡黙で、秘書に対しても、家族に対しても、必要以上の言葉を使わなかった。言葉とは、使いすぎれば軽くなるものだと、彼は若い頃に学んでいた。 国会の建物は、昼と夜でまるで別の顔を持つ。 昼は理想と正義が行き交い、夜は計算と沈黙が支配する。彼はその両方を、同じ一人の人間として通過しなければならなかった。 「先生、これは通すべき案件です」 秘書が差し出した書類に、彼はすぐには目を落とさなかった。 通すべきか否か、その判断が誰の利益を守り、誰を切り捨てるのか――彼にはすでに分かっていた。分かっているからこそ、署名という行為が重い。 地方の選挙区には、まだ雪が残っている。 かつて彼が歩いた田畑、学校、病院。そこで交わした握手の温度が、今も指先に残っている気がした。議員とは、数字ではなく顔を背負う職業だと、彼は信じていた。 夜、官舎の窓から月を見上げる。 月は公平だった。与党にも野党にも、支持者にも反対者にも、同じ光を落とす。その無差別さに、彼は救われる思いがした。 ――正しいことは、いつも孤独だ。 若い頃、理想を語った同僚の多くは、いつの間にか沈黙するか、饒舌になるかのどちらかになった。彼自身も例外ではない。ただ、沈黙の中で何を考えているか、それだけが違いだった。 翌日、彼は演壇に立った。 声は落ち着いており、言葉は簡潔だった。拍手はまばらだったが、それでよかった。喝采は、必ずしも正しさの証明にはならない。 採決の瞬間、彼は一瞬だけ目を閉じた。 森の中で見た一本の木を思い出した。誰にも見られず、誰にも評価されず、それでも根を張り、風を受け止めていた木を。 彼は賛成のボタンを押した。 それが正解かどうかは、歴史が決める。だが、その判断を下した責任だけは、確実に彼のものだった。 議員とは、英雄ではない。 ただ、誰かが背負わなければならない重さを、職業として引き受ける存在なのだ――彼はそう理解していた。 その夜、月は静かに、議事堂を照らしていた。

商売人

 商店街の隅にさびれたラーメン屋がある。客はあまり入っていない。老夫婦が切り盛りしている。跡継ぎはいないはずだ。先は長くないだろう。ところがある日、そのラーメン屋に行列ができていた。何があったのだろう。近づいて店の様子を見る。入口に貼り紙があった。『精神安定剤トッピング無料』そう書かれていた。店の中を覗くと、白い錠剤がいくつも浮いたラーメンを、客全員が食べていた。老夫婦め、考えたな。この町は病んでいるからな。俺は行列の最後尾に並んだ。

不細工無罪

 世の中にはイケメン無罪という言葉があるらしい。 イケメンであれば犯罪をしても許される風潮のあれだ。 逆に僕のようなキモ面が何か事をしでかしたら世の中はこぞって袋叩きにする。 スウェットで鼻歌を歌いながら近所を歩いてるだけで小さい女の子が走り去っていくような僕である。 上級国民ならぬ不細工国民という切符を発行してほしいものだ。 「この人は不細工なんですよ、しかも頭も悪い、だから優しくしましょうね。」 しかしこれは逆差別という奴だろう。 立場が難しい。 ああなるほどこうすればいいのか。 不細工はお洒落な店に行くと端っこの席に座らされ、列に並ぶとお金持ちが優先的に買い物できる。 ・・・しかしこれは海外ではもうある。 考えると不細工というものはもうそれだけで世の中を変える力をもっているのだなあ。 別に僕は僕の立場が強くなればいいとか、僕を優遇しろとか言いたいわけではない。 不細工無罪、それだけが欲しいのである。

金曜日の朝

道を譲らないオジサン 歩みを止められないサングラスオジサン 通勤中の米軍兵が道を譲る 踊る大捜査線の青島巡査部長なオジサン ヘッドホンをして俯いて歩いている黒一色の細い男性 笑いながら運転している人 肩から手にかけて電気が走るように痺れる 寒い朝の自転車乗っている人達の顔が必死 白い車ばかり

また

「ねえ、待ってよ」  服の裾を掴み、向こう側を見ている君を呼び止めた。  二人きりで歩く並木道の下、君だけが少し前に出ている気がした。それはきっと、君の方が少しだけ年が上だから。君の方が私よりも大人だから。君の方が、私よりも未来に近いから。  目の前のその前、私にはまだ見えないところを見つめながら、届くかもわからないそんな声を掛けてしまう。 「どうしたの?」  優しく微笑むその顔は、どこか物悲しさが根を下ろしているように見えた。  そんなはずはない。そんなことはないと、君を信じている私は目の前の君を否定する。それはきっと、私も同じ。    どうして呼び止めたのかなんて、今の私にわからないはずがなかった。   「あ、えっと、ね」  それなのに、 「その、」  また、私は。 「またね」  心にもないことを口にしてしまう。本当はもっと、言いたいことがあるのに。 「うん。また」    もう、手を振り返さないで。二度と、私と会わないで。そうしてくれれば、この気持ちは消え去るのに。  なんてそんなこと、言えるはずもなかった。

欲望

 放課後、家に帰ったら、お母さんもお父さんもいなかった。でも、物音がする。そっと様子を窺うと、居間に、誰かがいた。それは、死んだ人だった。僕の知らない死んだ人だった。死んだ人は、壁の時計をじっと見ていた。そして、背伸びしてそれを取り外した。それから死んだ人は、時計の電池を抜いた。時計は動かなくなった。死んだ人は僕の前を通り、隣の部屋に行った。そして隣の部屋の時計の電池を抜いた。時計は動かなくなった。死んだ人は家じゅうの時計の電池を抜いて、満足そうにうなずいた。どうやら死んだ人は時の刻みを止めたいらしい。そして、死んだ人は、僕の前を通って、家から出て行った。僕は慌てて死んだ人を追いかけて、身につけていた腕時計を手渡した。

居眠り

 ウトウト…。眠気と戦いながら、机の上に突っ伏していると、教室の斜陽が差し掛かる。三号車の三番目の窓際の端。眠るには絶好の場所だ。とは言っても、三号車はどこも斜陽が差し掛かってくるから、眠くなる。授業は眠気との戦いだ。授業中に眠ることは背徳でしかない。先生に見つかる瀬戸際を彷徨いながら眠る。これほど高揚感のあることは他にないのではないだろうか。あったら教えてほしい。これほどまでに楽しく心地良いものなんて、この世にあるのかと、そう思えるほどだ。ウトウト…ウトウト…。さあ、眠りにつく頃合いだ。  キーンコーンカーンコーン。時刻が差し掛かったのと同時に目が覚めた。また、居眠りをしてしまった。してはいけない、してはいけないと思いながらまたしてしまうのだ。これは直さないといけない。直さないと癖になって一生抜け出せなくなる。これは、魔のループだ。抜け出せなくなると言ったが、もう、ハマってしまったのかもしれない。今日は教師に見つからなかったらしい。不幸中の幸いだ。  昼寝はどうしてこんなにも心地良いのだろう。居眠りをしたら抜け出せないとはこのこと。いつまで経っても不良児だな、私は。それでもいいと思った。だって、これほどまでに居眠りが心地良いから。全てがどうでもよくなる。そんなことを考えながら、次の始業の合図が鳴った。  早速、居眠りだ。「おーい、田中ー。」とすぐに見つかった。速攻、居眠り中断。少しくらいいいじゃないかと思いながら、むくりと顔を上げる。さて、今日もダルイ授業を受けますか。

すれ違い

 一度の警報音で三本目の電車が通った時、鼠色の空からは、今にも雨が降り出しそうだった。  駅のすぐ隣にある踏切は、六本の線路が並び常に電車が行き来している。遮断桿が上がったとしてもすぐに警報音を鳴らす。車が数台通ることができれば良い方だ。ほとんどの歩行者は四本目の線路を歩いた時に警報灯が光出す。  五本目の電車が通った時、やっと遮断桿が上がった。  四本目の線路を歩いているとき、すれ違った人に目を引かれた。無意識のうちに振り返ると、相手もこちらを振り向いて見ていた。  それはどこからどう見ても、自分だった。服装も髪型も違う。しかし、それは紛れもなく自分だった。  相手は驚いた様子もなく、ただぼんやりとこちらを見ている。  足を止める二人を無視し、警報音が鳴り出す。点滅する赤いランプが妙に大きく眩しかった。目の前の自分は口を動かしていたが、耳元で響く警報音で、何も聞こえなかった。  気づいた時には私は踏切を越えていた。  遮断機の横に立ち、渡ってきた踏切を見ていた。線路の上にはまだ自分が立っている。自分はまっすぐに線路の先を見ながら後ろから来た回送電車に轢かれて消えた。  警報音は止まり、遮断桿が上がる。

表裏一体

私は平凡だった。子どもの頃に何かしら1番をとったことがない。強いて言うなら長女であることぐらいだ。なにか、突飛してるものがなかった。アイデンティティ、個性、特性、特徴そんなものはない。ただ、[普通]の女の子。何をやっても上手くはないが下手でもない。大人は、上手くさせようと、1番に近くしようと、がんばっていた。 「普通、平凡、そんな人が1番狂ってる。」 この言葉を聞いた時、私に特徴ができたと思った。私は世の中から見たら狂っているのかも、と。そう感じた。「うれしい。」灰色な毎日が淡い色に染まり出した。 しかし、[普通じゃない]。最近はそう言われることが増えた。私は今、まだ子どもだ。女子だ。ただ、声だけを聞いた人は男の子だと間違え。大人に私の考えを語れば、「本当に高校生?」と言われる。私の性格を知れば、「表裏はないが、歳の差が激しい」そう言われる。なぜだ。私は年相応として成長してきた。平凡な人間だ。確かに、私は[人間は自分自身を特別視しすぎている]と思う。そしてそんな私は私に向けてアイロニーを歌う。何かが狂っている。狂いだしている。狂わされてしまったのかもしれない。平凡な人間はいちばん狂っている。確かに私もそう思う。

犯罪者

 夜道を、一人の女が歩いている。女は時折後ろを振り返っている。女は、赤い風船に、後を尾けられている。女が振り返ると、電柱の陰から、赤い風船がちらりと顔を覗かせる。女は歩みを速める。赤い風船はふわふわと女を追いかける。その間隔は徐々に狭まっていく。女が立ち止まる。風船は街灯の陰に身をひそめる。女は鞄の中から、ペンを取り出し、握りしめる。女は再び歩き始める。赤い風船が追いかける。そしてとうとう赤い風船が女の真後ろに迫った。女は突然振り返り、ペンで赤い風船を刺す。パン、と乾いた音がして、風船が破裂し地面に落ちる。女は肩で息をしている。突然、女の手に手錠がかけられる。女が顔を上げると、目の前に、ピエロのメイクをした警察官がいる。女は彼らに促されパトカーに乗り、遊園地へと移送される。

モノクロ

 ある時、思った。 私の世界は白と黒しかないのではないか、と。 もちろん、比喩だ。目に異常があるわけではない。色覚障害ではないから、ちゃんと色のついた世界が見えている。けれども、私には白と黒しかないのだ。  今から数年前、まだ私が高等学校に通っていた頃の話だ。 新しくできた友人にネット上で活躍する歌い手というものを勧められたのが始まりだった。 今まで触れたこともない世界に足を踏み入れ、この世にはこんなキラキラしたものがあったのかと衝撃を覚えた。 ーーモノクロの世界に色がついた。 そんな衝撃だった。 それから、私はネットという仮想空間にのめり込んでいった。キラキラと輝く歌い手も、感情を曝け出すボカロ曲も全てが憧れとなっていった。 私はパソコンを買うことを決意した。歌い手にはなれなくとも、ボカロ曲を作りたいと思ったからだ。 当時の私はそれだけが白なのだと思い込んだ。良くない癖だった。 そうして、パソコンを購入したものの、結局使わずじまいだった。そして売った。 その時思ったのだ。 ーー私はなんて愚かなのだろう、と。 白と黒でしか物事を見ることができない。 成功か失敗かしか頭にない。そんな自分が滑稽で、哀れだった。  今も衝動的に何かに憧れ、失敗し続ける私は、やはり愚かなのだろう。 その愚かさを捨てたいと願い、世界から色をなくした私。 結局、矛盾してしまう自らの馬鹿らしさに絶望し、世界をより二極化するのだ。 それが私といふモノクロな存在なのだ。

輪廻

 おじさんは生まれ変わりたかった。今の自分にうんざりしていた。おじさんは貯金箱を割った。ブタの形の貯金箱だ。ブタの形の貯金箱は割れて、わずかなお金が出てきた。おじさんはそれを握りしめて家を出た。そして近所の研究所に入った。怪しい研究所だ。数時間後、一匹のブタが、研究所から出てきた。それはあのおじさんだった。おじさんはブタに生まれ変わったのだ。「ブタの貯金箱を割ってブタになるなんて」おじさんだったブタはにやりと笑った。そして、今度はトンカツ屋に入っていった。

イガグリの見た夢

イガグリは夢を見ていた。 イガがなくなる夢だ。 「わあ、このクリトゲがないよ いっぱい拾おうね! 焼いて食べようか、ご飯にしようか」 イガのないクリは拾いやすく、小さな子供もお爺さんもお婆さんも拾いやすいに決まっている。 すごい!俺にはイガがないぞ! 俺はイガのないイガグリだ! トゲアリトゲナシトゲトゲと、同じくらいすごいことだ! 俺は今日から、イガナシイガグリ! さあ、みんな拾ってくれ、俺の勇姿を見てくれ! そして、俺の枝をどこかに挿して、世界中を俺だらけにしてくれ! 俺は、皆の喜ぶ顔を見ながら、大満足だった…。 と、そこで俺はハッと目が覚めた。 今は初夏、臭い花が全て散った後、俺の枝先に、二人の人間が立っていた。 枝先には、きれいな青い実がぶら下がっている。 一人が言った。 「イガのないクリなんて、すごいじゃないですか!」 もう1人の人物が、笑いながら言う。 「う〜ん、これねぇ、おいしくないんだよね。最近は、猿も知ってるみたいで、この木だけ食べられないんだよね」 「えっ」 「この実をまいても、トゲが無いやつは全然おいしくならないの! まあ、まだ開発は諦めてないけどね、イガナシイガグリ。種まきしたのから、イガがある方の木は結構美味しいのが出たから、秋になったら拾って食べよう」 「う〜ん、それは、イガありイガナシイガグリってことですね!」 「いいね、君うまいね!」  それは、俺がさっき言ったやつだ! 二人は談笑しながら歩き去った。  ぴゅうっと風が吹いて、枝先から、青い実が一つポトリと落ちた。  つるりと青く、寒そうな実だった。  ああ、俺はイガナシイガグリ。

ミニストーリー

大根、かぶ、白菜。冬の白い野菜に人参で色を。コンソメのなかでトロトロに甘く甘く。仲間に入りたそうに厚揚げが飛び込んで。油のコクと食べ応え。スープではない立派なおかず。塩おむすびがあとを追って。冬を乗り切るための組み合わせ。こういうのでいい?

雨の音を

雪が降ったら あの人に会いに行こうと決めていたのに 降ってきたのは雨だった   雨じゃなかったら   あのコに会いに行こうと決めていたのに   雨は降ってきてしまった 会ったら 伝えたいことがあったのに   伝えようと   心に決めていたのに 雪になったら あの人に会いに行こうと思いなおしたのに   雨がやんだら   あのコに会いに行こうと思いなおしたのに いくら待ってみても 雨のままで   いくら待ってみても   雨はやまない 空が明るくなるまで じっと待っていたけれど   夜の闇が姿をかくすまで   じっと座っていたけれど もう、朝になる   もう、朝になった 伝えようとした言葉は どこへも行けないまま   伝えようとした言葉は   どこにも届かないまま いま 雨の音を 聞いている   いま   雨の音を   聞いていた

振袖に

こころおき布を撫でるとなみだでる 車に乗せた思いとともに 「着払いで大丈夫です」 突然の連絡に驚く暇もなく、悲しみが襲ってくる。 曰く、今まで音沙汰なかった大叔母がうちに置いていた振袖を返せというのだ。この振袖は、母が成人式で着たときに大叔母からいただき、返さなくても良いとなっていたはずだ。 だが、それを私が成人式で着る順番がまわってきた途端「返せ」と…。なに、持ち主に帰るだけだ。しかし、ものごごろついた時から 「この着物をきるの!」 と息巻いていた私にとっては、あまりにもショックが大きすぎる。 │後日│ 前略、大叔母を欺くことを今から始めようと思います。お母さんには迷惑かけますが、楽しみを奪った方が悪いと考えます。 どうか、気にしないでくださいね。私の晴れ舞台はを自分で作るだけですから。

綺麗な押し花をみた

「いいや、うちの前に咲いてる花だよ」 あおの言葉がフラッシュバックする。 あおに好きな人を聞いたら花って答えやがった。 花ってなんだよ花って? あいつ花に恋してんのかよ。 「花なんかより絶対俺のほうがいいのに。」 つい声に出てしまった。 周りに人がいなかったか確認する。 いない、よかった。 俺はあおが好きだ。 友達としてでも、ライバルとしててでもない。 恋愛として好き。 おかしいってわかってる。叶わないってわかってる。 多様性とか言いながら、ホモファビアはたくさんいる。 こんな世界であおと付き合えるとかどのぐらいの確率なんだろうな。 きっと俺の頭に隕石が落ちるよりも低い確率なんだろうな。 もう諦めようって何度も何度も心の中で思った。 だけどあおに優しくされるたびに、笑顔を見せられるたびに、もしかしたら付き合えるんじゃないかって気持ちが強くなった。 ある日あおに好きな人いないか聞いてみた。 「あお、お前好きな人とかいないのかよー」 緊張してほんの少しだけ声が震えた。 「いるよ」 「えっ、誰だよ」 俺って言ってくれないかな。少し期待した自分が嫌になった。 「しろちゃん」 誰だそいつ。 「しろ?誰だよそれ?うちの学校にしろなんて名前のやついる?」 「いいや、うちの前に咲いてる花だよ」 「は?」 思わず声が出た。 そのあとは少しだけ引いてしまった。 自分も大概引かれるような恋をしているのに、なんか申し訳ない。 あおの好きな相手は花だった。 背骨もない、感情もない、喋れない、稼げない、そんな花だった。 絶対、背骨があって、喋れて、笑えて、稼げる俺の方がいいのに。 絶対にいつか枯れる花なんかより一緒に長生きできる俺のほうがいいのに。 それから、何ヶ月も経った理科の授業の時。 俺たちは班に分かれて一つの植物についての発表をすることになった。 俺たちの班では黄色のチューリップについて発表することになった。 俺は発表資料担当だ。 図鑑が必要だ、と思ったら忘れてしまった。 あおに借りに行く。 「あおー、図鑑かしてー」 「いーよー」 あおから借りた図鑑を開いた。 ピラッ 何か落ちた。なんだろう。 俺はそれを拾い上げた。少し色褪せた押し花だった。 綺麗な花だったんだろうなって思った。 「あっ、それ僕の」 あおが少し焦って近づいてきた。近かった。 あおはその押し花を俺の手からとりあげた。いかにも大切なものを扱うように。 「それなんなの?」 「これは、しろちゃんだよ。僕の恋してる花」 「へー」 「枯れちゃったから押し花にして遺してるんだ」 そう言って困ったように笑った。初めてみたあおの顔だった。 花に嫉妬した後に少しだけあおが怖くなった。

ノラえもんホビ太の学校のない世界(後)

「そうだ!ノラえもん、みんながどうしてるか見てこようよ。」 「オッケー。タケノコプター!」 二人はタケノコプターで空を飛び、町を見て回ることにしました。 「あれ?学校はあるんだ。」 ホビ太くんは遠くに見える学校に向かって行きます。 「あっ!ジズちゃん!」 学校から出てきたジズちゃんを見つけました。 「ジズちゃん!」ホビ太くんはジズちゃんの所に降りて行き、声を掛けました。 「きゃあああーっ‼出来過さーん!」 「どうしたんだい⁉ジズカくん!」 ジズちゃんが叫ぶと学校から出来過くんが出てきました。 「この人が空から降りてきて、私の名前を呼んだの?」 「どうしたの?ジズちゃん、僕ホビ太だよ!」 「出来過!分かるだろ?」 ホビ太くんは二人に話しかけます。 「そっか!寺子屋に通う前、遊んだことがある近所の補備ホビ太くんだよ!」 「覚えているだろ!ジズカくん。」 「ああっ!思い出した。」 遅れてノラえもんが遠くから歩いて来ました。 「ははぁ、学校みたいなこれは寺子屋なんだ。通える家庭は限られているのか。」 「補備君、久しぶりだね。農作業が終わって遊んでいるのかい?」 「悪いが僕とジズカくんはこれから宿題をしなくちゃいけないんだ。」 「ではね。」 出来過はジズちゃんを連れて帰って行きました。 「僕はジズちゃんと一緒にここに通えないってこと?」 泣いているホビ太くんにノラえもんが話しかけました。 「タケノコプターで周りを見てきたよ。日本は外国の管理下にある。」 「日本人は外国人の指示で農作業や漁業に関する単純労働のみを行っている。」 「日本は資源と労働力を搾取されるだけの国になったんだ。」 ホビ「なんでだよ!?」 「スマホがある、ゲームで遊べる、簡単に美味しい食べ物や飲み物が手に入る、舗装された道路による流通、おしゃれで快適な服、エアコンが効いていて夏は涼しく冬は温かい住まい。僕たちが当たり前のように享受している便利な現代文明は文章と数式、そして皆が複雑なルールを守ることによって成り立っている。」 「しかし、寺子屋に通えない層は社会で生きていくための共通のルールや道徳を学ぶ機会がない。」 「読み書きが出来ない、つまりマニュアルが読めない。コンビニのバイトをすることも出来ない、車を作ることも、交通ルールを守ることも出来ない。ましてや原子力発電所の維持管理なんてもっての他だ。日本は現代文明を維持できなくなったんだ。」 「それに対して外国には学校があり、教育が受けられるから現代文明に基づいた高度な仕事が出来る。日本人は教育を受けていないから高度な仕事が出来ず、漁業や農業でも効率の良いことは出来ない、単純に言われたことをこなすだけだ。」 「義務教育は現代文明に参加するために必要な素養を身に着けるものだったんだ。」 ホビ「そんなぁ。」 「義務教育を失った弊害はまだあるぞ。」 「ええーっ!まだあるのー!?」 「義務教育が無くなって君ははジズちゃんと君は同じ教育を受けられない。」 「経済的に余裕があるジズちゃんや出来過くんは高度な教育を受けることが出来る。」 「寺子屋に通えない君はパパの昔話が教育替わりだ。」 「君とジズちゃんの教育レベルは離れていくばかりで追い付くチャンスはない。」 「君が将来出来る仕事は限られていて教育を受けた人に使われるだけ、教育を受けたジズちゃんの未来には選択肢が沢山ある。」 「僕は将来ジズちゃんと結婚できないの?」 「難しいだろうね。住む世界が違う。」 「義務教育は19世紀ごろから世界で普及していったんだ。」 「その役割は主に二つ。現代文明の維持・発展と個人の学ぶ権利を守ること。」 「君はそのどちらも放棄する世界を選んだんだ。」 「学校がない世界の方が救いがないなんて。」 「どうする。このままこの世界に留まるかい?」 「ううん。元の世界に帰るよ。」 翌日。 「ホビ太!宿題はやったの‼」 ママがホビ太くんの部屋のフスマを開けると 「あら?ホビちゃん。」 「しー。」ノラえもんはママを連れてそっと部屋から出ていきます。 ホビ太君は頭を悩ませながら机に向かっているのでした。