高知県は眼鏡の真ん中に付いている、鼻パッドに似ている。 実際、妻の眼鏡のパッドが高知県に変わっていた。 そんなイタズラをした息子の鼻には鼻パッドだけが乗っている。 息子曰く、大阪府でも代用が効くらしい。
ドロップたちの入ったカンカンをふって しあわせの音を確かめる ドロップたちの入ったカンカンをあけて しあわせをひとつぶ取り出してやる オレンジがいいな イチゴでもいいけど あああ ハッカだったかあ それはそれで しあわせというもの
私は臨終看護師。仕事は単純だ。 臨終医の後ろをついて歩き、遺族の待つ部屋に入る。 そして、臨終医が「御臨終です」と告げたあと、 目を伏せ、軽く頭を下げる。 これが私の仕事。 そこに、ご遺体への敬意など必要ない。 それで、終わり。 母も看護師だった。 臨終看護師にはなるなと言われた。 なぜなら、それは過酷で、辛い仕事だから。 私は以前、手術室の看護師だった。 しかし、やりがいを見いだせず、異動を申し出た。 今はこの仕事に満足している。 先日、臨終医がペンライトを忘れた。 とっさに彼は胸元から万年筆を取り出し、目の上で振り、ごまかした。 私は気づいていないふりをした。 臨終看護師としてのたしなみだ。 この仕事は女優に似ている。 病室は舞台。 何も書いていないバインダーは小道具。 セリフはなくても、存在感だけで観客 ──ここでは遺族だが──を魅了する。 最近、臨終医をモデルにしたドラマが放送された。 しかし、臨終看護師の姿はなかった。 残念な気持ちはない。 その方がいい。 ある日、目の前で臨終医が倒れた。 私は慌てない。 何もしない。 それが美学だ。 そして彼は、そのまま旅立った。
未来の望遠鏡で宇宙を観測していたら 最近近付いてきた銀河系に気になる惑星を発見した その星では生命がいて、動物もいる 猫に似たその動物に興味を持って観察していた 大人しい性格のようで争いもなく、日々勤勉に働いている 仕草も猫に似て可愛い そこは、とても平和な星に見えた 僕はいてもたってもいられなくなって 事故車だった中古の宇宙船を買って、その星まで行くことにした 大したトラブルもなく到着し、星に降り立つと観察していた通り素敵なところだった。 街並みや自然が美しく、何よりこの星の住民達が友好的に迎えてくれた 僕が観察していた猫に似た人を探すことにした 街にはサイに似た人やフクロウに似た人、象に似た人や、鳩に似た人など沢山いて、僕が「猫に似た人を探している」と聞いても「ちょっと猫が分からないです」と言われるだけで。 でも見つけたんだ。町外れの丘に小さいけど素敵な家の窓辺に彼女はいて、隣には犬に似た人がいた。 せっかくワープの川を乗り継いで何万光年の道を飛ばして、ここまで来たんだ。お話しくらいしないと、って思ったんだけど、小さな猫と犬の子供たちが帰って来て、家族が楽しそうに話していて。 そりゃあ、帰るしかないよね。 僕のいる星はあの星なりに迷いながら間違えながらで何とか平和を作っている。僕も帰って僕の出来ることをしないと。 僕は中古の宇宙船に乗ってまた宇宙へ飛び立つ それにしても、別れ際、皆集まっちゃって、何だかセレモニーとか開いてくれちゃって、本当にお人好しの人達ばかりの星だった 僕も手を振って「ありがとう!さようなら!」何て言っちゃって。船に乗り込む際に、彼女が見に来ていて、手を振ってくれていた。皆と一緒に。 僕が手を振り替えしたのは気が付いたかな。分かるわけないかな。 そろそろ川の中に入る。シートベルトを閉めて、少し休もうかな。あの子の家の庭先で摘んできた萩に似た花でも眺めながら。
朝早く、窓際に置かれた文机に、年寄りの男が座った。 便箋を前に、万年筆を握っている。 横には、分厚い英和辞典が置かれていた。 「あんた、何してんの?」 妻が声を掛けた。 「手紙だ」 「はぁ……誰に出すんだ?」 「あいつだ」 ニュース番組に映る、大きな男を指した。 「俺らの生活がキツいの、あいつのせいだろ」 指で机を叩いた。 「まぁな。でも、読んでくれないだろ」 「大丈夫だ。考えがある」 ニヤけ顔の男。 「友だちの友だちをたどると、7人目であいつに届く」 「バカなこと言うな」 「俺も知らんよ。でも、そうなってるらしい」 手紙を書き終えると、封筒に便箋を入れた。 「で……最初は誰に渡すんだ?」 「あぁ、公民館の将棋仲間だ。大学出らしいからな」 男は、封筒を手に家を出た。 ──数日後。 「おい。いるか?」 近所の魚屋のオヤジが訪ねてきた。 「おぉ、どうした」 「ちょっと、頼みがあってな」 その手には、見覚えのある封筒が握られていた。
幼馴染の佐藤とは小さな頃から仲良しである。親友と言ってもいい。昔から2人で勉強し、遊ぶ仲である。だが、ある朝の登校時間のことだった。 「田中、顔に水垢付いてるよ!顔洗った時よく拭かなかったんでしょう?おでこのところと鼻の下に見えるよ。」 隣にいる佐藤は言いながら、自分の髪の生え際と鼻を指差している。 「最近知ったんだけど、専用のクレンジングがあってさあ、ガンコな汚れを落としてからワイプで拭くんだよ!毎日洗う顔だからこそ気をつけないと!」 「えっ。顔に水垢って付くの?」と俺が聞くと佐藤は真面目な顔で頷きながら言い出した。 「田中、お前水道水で顔、洗ってるだろ?」 しめしめといった顔で佐藤は言う。俺は近所に住んでいる佐藤と俺の家の水はさして変わりがないだろうと、「佐藤ん家もだろ?」と言った。 「そうだよ、最近俺美肌に凝っててさ。美肌男子目指してるんだ。」 「佐藤、鼻のニキビ跡はどうするつもりなんだ?」 あー、と佐藤は言った。 「いつかパテ埋めするつもりなんだ。」と恥ずかしそうに顔を赤らめて言う。そんな佐藤に「顔の水垢落とし、どこで買える?」と言い、スマホからアマゾネスのアプリで佐藤の言うクレンジングとワイプを即買った。そして1週間経った。 TNKさん ★☆☆☆☆ 顔の水垢を落とそうと爆速で5セット注文しました。顔にニキビが出来て、ワイプが痛いです。クレンジングを洗面台の鏡に使ったら綺麗になりました。ワイプが硬すぎます。 「なあ佐藤、あのワイプでニキビ出来てさ…クレンジングも顔が赤くなるしさ、どうしたらいいかな?」 「使い方を間違ってるんじゃない?ワイプもクレンジングも軽く円を描くように擦ってさ…」と頬に両手で丸く洗う仕草をする。佐藤の顔はいつも通りのニキビ面だ。 「いや、俺、実はムカついて洗面台の鏡に使ってみたんだよ。そうしたら綺麗になってさ。」 「クレンザー使った?10秒クレンザーってやつ。あれすぐ効くよ。というより、今日は小鼻にも水垢溜まってるね。専用のヘラを買ったら?先が丸いヘラでこう、ぐいーっと」 「佐藤、悪いけど聞いていい?普通の洗顔料で顔に水垢がつかない方法を教えて?」
公園のベンチに、男が座っている。 「はぁ……金が」 スマホ画面を親指で弾きながら、ため息をついた。 『高額報酬』 #叩く #運ぶ #埋める 高額報酬に目が止まった。 「これは……」 ボタンをタップした。 「お前が最後だ。早く乗れ」 指定された駅のロータリー。 隅に停まっていた黒のワンボックスに乗り込んだ。 中には、二人の若い男が座っている。 街から、少しずつ離れていく。 民家が消え、アスファルトが砂利に変わった。 「着いたぞ」 運転手の声に、ヘルメットをかぶった大男が近づいてきた。 「いいか、お前ら。今から、そこの穴に入って岩を砕け」 穴の奥深くへ連れて行かれた。 「これ使え」 大男が、ノミと金づちを足元に投げた。 三人は、ヘルメットのライトを頼りに、硬い岩を砕いていく。 狭い穴の中、金づちを叩く音がリズムよく響いた。 「砕いた岩を運んで、向こうの穴に埋めろ」 大男の監視のなか、何日も掘り続けた。 「よし。もういい。終わりだ」 大男が叫んだ。 その声に、男たちが座り込む。 「よく頑張ったな。これ、持ってけ」 渡された封筒には、お金が入っていた。 「あの、ここは何の工事現場ですか?」 「ここは工事現場じゃないぞ」 「なんですか、それ」 「お前らが、悪い道に行かないように……まぁ、リハビリ施設だな」 穴の入口から、あの時の運転手が入ってきた。 「所長。次の三人、連れてきました」
うちにまた失業者が舞い込んできた。 施設を追い出されて行くところが無いらしい。 食材は買ってこいよ。と言うとパチンコで使っちゃった、病気なんだ、と言う。 まあ僕もニコチン中毒だから強く出られない。 飯風呂洗濯寝る場所を用意する。 行政に頼れないなら宗教行けよ、とアドバイスすると韓国系のキリスト教行こうかな、と言っている。 洗脳されるなよ、と言って奴は暇潰しに外に出ていく。 米が減ってきた、味噌も。 珈琲も減る。 維持に手一杯。 暇なら絵でも描いてろよ、奇特な金持ちが買ってくれるかもだぜ、と言っても描かない(それは僕にも言える) 雨の日の犬はサナトリウムの真似事で暇を潰す。
「本日、『病み』の原因が悪霊の憑依だと判明いたしました」 衝撃的なニュースが全国にとどろいた。 闇に苦しんでいた俺は、テレビのリモコンを持ったまま固まった。 何年も精神科に通って治らなかった病気が、まさか悪霊の仕業だったとは。 俺の目はテレビにくぎ付けとなって、テレビの続きを食い入るように見つめた。 「では、病まない人間は、悪霊への耐性が強いと?」 「いえ。人間には、悪霊の憑依に対する耐性がありません」 「つまり?」 「病まない人間は、人間に化けた悪霊の可能性が高いということです」 「バレた」 「バレた」 背後で、両親が呟く声が聞こえた。 俺は背後を見ずに立ち上がり、玄関に向かって急いで走った。
雨が降り街が黒くなる 雀たちが電線に止まっている 彼らは飛んでいる時、雨の雫が目に入らないのか 入っても気にならないのか この黒い街をどう思っているのか 焦げた匂いに振り向くと、見渡す限り焼け野原で、焼けた焦げた街に雨が降り続いている。 瓦礫に立つ一人の男は街の様子を目に焼き付けていた 彼の脳裏には、逃げ惑う人の海や、一人泣き叫ぶ供の様子、傷付き倒れる仲間の姿等がダイジェストの様に流れていく 彼は雨に濡れながら自分の手を見る 息子からもらった折り紙のメダルが雨に濡れ血で汚れている 「全力で戦ったんだけど…」 「どうにもいかなくて…」 「頑張ったんだけど…」 「守れなくて…」 今回の戦いで彼は仲間と家族を失った ウルトラマンは時を戻し、街を、人を元に戻すことが出来る。 たが彼の心は癒せない 目の前で握り潰される大切な人達を見て、彼は自分を責め続けるだろう 雨に打たれて体をさらして 彼は自分の手を見ている 雨が彼に寄り添っている
大きな霊園の近くに住んでるとか言ってた気がしたな。誰だったか忘れたけど有名な人のお墓もあるとか。「ウチに来れば案内してあげるよ。遠慮せずいらっしゃい」そう笑顔で話す先生に、私たちは苦笑いを浮かべるだけだった。その先生も大きな霊園のどこかで眠っているのかもしれない。「まだそこまで老いぼれていないぞ」またあのときみたいに、怒られてしまいそうだ。
「このウイルスは、人間のIQを3も下げるのだ。ワクチンを討って対処すべきだ!」 「所詮、3っすよね?」 あまりの言い分に、私は頭を抱えた。 IQが下がるという事実がどれほど大きなことか、果たしてどうやれば理解させることができるのだろうか。 「無理でしょ」 仲間の研究者は、そんな私の悩みを一笑に付した。 「例えば、感染すると腕一本無くなりますって言われると、みんな頑張りますよ。だって、腕一本がなくなるとどんな不便が起こるか、わかりやすいから」 「その通りだ」 「でも例えば、小指一本無くなりますって言われると、首を傾げる人も出てきます。絶対に小指を使わないといけない作業というのをイメージできないから。コップを持つ時もペンを持つ時も、小指は添えているだけですからね」 「確かに添えているだけだが……うーむ」 仲間の研究者は、小指をピンと立てたままコーヒーを入れ始め、私の前にコーヒーカップを置いた。 「どうぞ」 「どうも」 「IQってのは、さらに難しい。俺たちは、何の作業にどのくらいのIQが必要かなんて、意識してませんからね。本を読むには何IQ必要? アニメを見るには何IQ必要? 誰も答えられません」 「IQは、そのようにカウントするものではないのだが」 「そー。だからこそ、理解させるのが難しいんですよ。複雑であればあるほど、理解できる人は減ってきます」 「困ったなあ」 コーヒーの苦みが、私の脳を侵食してくる。 諦めろと言わんばかりに、侵食してくる。 そして、目の前の仲間の研究者は、どうやらコーヒーの味方らしい。 「逆を考えれば、IQが下がることの危険性がわからない人は、日常生活で高いIQを必要とする作業をしてないってことですよ。3下がろうが6下がろうか、支障はないですよ。今まで通り、馬鹿なこと言ってるだけで」 「……その言い方は、あまりにもではないか?」 「目の前に人がいたら、言い方は気を付けますよ。でもここは、数字と事実を並べるだけの場所なんで」 空っぽになったコーヒーカップは、仲間の研究者によって回収されていった。 水道水の流れる音を聞きながら、私は私の考えが間違っているのかと、自問を繰り返した。
週の始まり。 こみ上げてくる怒りを抑えている。 「人のこと、バカにしやがって」 駅を出て、会社への道すがら、すれ違う。 「……」 いつも上から、見下してくる。 男は腹をくくった。 「明日だ。あいつの顔に泥を塗ってやる。待ってろよ」 ──翌日。 駅前のビルに向かった。 階段を上り、扉を開けると、一斉に鳩が飛び立った。 「くそっ……鳩の糞。これも、お前のせいだ」 見上げた先、にやけた中年男の大きな看板。 どこかのクリニックの院長。 脚立を立て、バケツの中の泥を顔に塗った。 「俺は、お前の顔が嫌いなんだ。理由? そんなものはない」
綺麗な花にはトゲがある、とは言われるが、体感的にトゲより持ち主がいることの方が多い気がする。 一目惚れをして、彼女のことを目と耳で追っていると、必ず聞くのが彼氏とのデート話だ。 昨日彼氏と行ってきてさ、なんて話を耳にした瞬間、ぼくの片想いは終わってしまう。 「イイ女ってのは、男が放っておかないもんだ」 親友が胸を張ってそう言う。 「そんなもんだよなあ」 「ああ。もちろん、俺みたいなイイ男も、女が放っておかないわけだが」 「自慢乙」 道端に生えている花を好きになれればと、いつも思う。 しかし、好きになるのはいつだって摘まれた花。 綺麗な花瓶に入った花か、白いブーケにまとめられた花ばかりだ。 「別にいいんだぜ? 花瓶の花を一本抜いても。本物の花ならともかく、人間相手なら自由だ」 「んな無茶苦茶な」 「本気も本気だぞ。道端に生えている花は誰もが物欲しそうに見つめてるけど、花瓶に入った花は誰もが諦めててライバルが少ない。持ち主をワンパンケーオーすればおしまいよ!」 「……脳筋」 ある日の散歩中。 人混みの中に、ひと際輝く女を見かけた。 目を奪われた次の瞬間、隣に立つ男に気づいた。 腕を組んで、仲睦まじい様子だ。 ふと、親友の言葉を思い出す。 これを倒せば、この美しい人が手に入るのかもしれないと。 距離がどんどんと近づいて行って、男の姿がはっきりと見えてくる。 優しそうな顔。 清潔感のある服。 彼女にあわせているのだろう、小さな歩幅。 ぼくは二人とすれ違う瞬間、気が付けば顔を背けていた。 この花を花瓶から抜いた時、果たして花はその美しさを失ってしまうのではないか。 そう思って。 すれ違った後、服屋の窓に、ぼくの全身が映っているのに気づいた。 ダサい柄の花瓶で、とてもさっきの花を刺そうという気は起きなかった。
午前0時。 小高い山の頂に、30人ほどの男女が集まった。 「さぁ、皆さん。始めましょう」 銀色の三角帽子を被った男が、声を上げた。 男女は円を作ると、その中心に男が立った。 「ウィーン、ウィーン、ウィーン」 両手を挙げ、立てた人さし指をクルクルと回した。 「皆さんも、私と同じように」 夜空を見上げ、人さし指を回す。 「声を出して、願いを込めるのです」 「ウィーン、ウィーン、ウィーン」 「もう、すぐそこまで来てますよ」 山頂に、冷たい風が通り抜けた。 地球の遥か上空に、1機のUFOが止まった。 「艦長、呼んでますけど……」 モニターを覗き込んだ。 「そうだね」 「コンタクト取りますか?」 艦長は、苦笑いしながらモニターを消した。 「金貸せって言われてもね」
息子には「後は、気持ちを込めるしかない」と、よく言う事がある。 何か、あと一歩、あと一押しが必要な時に、よくそう思う。 例えば、バスケのスリーポイントシュートの練習をしていたとする。していたことないが。息子が何十本投げても入らない。そんな時に右の言葉を伝える ポケモンを捕まえる時、モンスターボールを投げる時、どうしても捕まらない、うまく当たらない時に、それを言う。 人の心なんて分かるはずもないが、ただ、何となく、気持ちは伝わるものだし、気持ちが足らない集中力を湧き起こす気がしている。 ただ、あまりにも言い過ぎて息子から言われる事もある。
商店街の端に、小さな時計屋があった。 店主の名前は誰も知らない。みんな「時計屋のじいさん」と呼んでいた。店の看板はとうに色あせて、文字もほとんど読めなくなっている。それでも店はずっとそこにあった。 僕がその店に初めて入ったのは、中学二年の夏だった。祖父の形見の腕時計が止まってしまい、母に「あそこなら直してくれるよ」と言われて持ち込んだのだ。 店の中は薄暗くて、時計の音で満ちていた。壁一面の古い時計、棚に並んだ懐中時計、修理待ちの腕時計たち。それぞれが違う時を刻んでいて、まるで店全体がひとつの生き物みたいに小さく呼吸しているようだった。 「これは、いい時計だね」 じいさんは祖父の時計を手に取り、ルーペ越しにじっと見つめてそう言った。 「おじいちゃんの形見なんです。動かなくなっちゃって」 「うん。中の油が切れてるだけだ。すぐ直る」 「すぐって、どのくらいですか」 じいさんは少し笑って、僕の顔を見た。 「時計はね、急いで直すと、また止まる。ゆっくり、正しい順番で診てやらないと」 一週間後に取りに来るように言われた。僕は少し不満だったが、仕方なく帰った。 一週間後、店を訪ねると、時計はきちんと動いていた。秒針が静かに、確かに時を刻んでいる。じいさんはそれを僕の手のひらに乗せながら言った。 「時計はね、壊れたんじゃない。ただ、休んでただけなんだ。誰かがちゃんと中を見て、汚れを落として、油を差してやれば、また動き出す。人間もそうだろう?」 僕はその言葉の意味を、そのときはよくわからなかった。ただ、時計の秒針の音が、なんだか温かく感じられた。 それから何年か経って、僕は大学に進学し、その街を離れた。忙しい毎日の中で、いつしか祖父の時計をつけることも減っていった。 久しぶりに実家に帰ったとき、商店街を歩いてみると、あの時計屋はもうなかった。シャッターが下りたままの店に、貼り紙があった。 「長らくのご愛顧、ありがとうございました。店主、体調により閉店いたします」 日付を見ると、半年以上前のものだった。 僕は胸のあたりが締めつけられるような気持ちになって、しばらくその場に立っていた。あのとき聞いた言葉が、頭の中でよみがえった。 ——時計はね、壊れたんじゃない。ただ、休んでただけなんだ。 僕はポケットから祖父の時計を取り出した。電池はとうに切れていて、針は止まったままだった。それでも捨てずに持ち歩いていたのは、たぶん、あの店とじいさんのことを覚えていたかったからだと思う。 家に帰ってから、僕はその時計を修理に出すことにした。じいさんのようにはいかないかもしれない。でも、誰かがまた油を差してくれれば、きっと動き出す。 時計だけじゃない。止まってしまったように見えるものも、本当はただ休んでいるだけなのかもしれない——そう思いながら、僕は時計をそっと箱にしまった。 いつかまた、針が動き出す日を待ちながら。
最近読んだ雑誌で書いてあったが カミュ曰く「最も貧しい者こそが世界が与えてくれる快楽を一滴も残さずに深く享受する能力を賦与されている特権者なのだ」という言葉が、今の自分はよく分かる気がする 何かを買ったり、何かを口に入れたりすることがなくなってくると、些細な事に感動し楽しみ喜びを覚える 家族間の会話も増えるし、一つの状況を解決するのに家族間で考え解決していく、そんな大したことのない事が貧困にならないと出来ない 何かを得ることよりも後回しにしてしまいまい、ひたすら誤魔化しを作り上げていく。 昔から口癖のように言っているが、今を大切にする。それが繋がり幸せな人生となる。大切にするのは今だけでいいのだ。今を楽しめない奴は過去も未来も楽しめない。 簡単で当たり前のことだが、苦しまなければ見つからない
君が小学校教諭に向いていて僕が養護教諭に向いている。 君は万能、僕は落ちこぼれ。 何かの因果。 あるいは君はスーパーウーマン。 僕は地下鉄のロビンフッド。 恋は何歳からでも出来ると言うが僕は筋肉注射を切り身体を回復させるのに精一杯。 あなたは私にとってのナイチンゲールなのね、と君は言う。 あるいは追い詰められると掃除をし出す僕はそうなのかもしれない。 衛生学。 看護も手一杯。 民間の闇医者に知り合いが欲しい。 眠れるようになれば寿命は10年くれてやる。 能力のブースト。 精神力。 煙草が欠かせないのはヒロポンが無いからだ。 脳の分析。 酒。 理数的能力。 機能。 愛。
かすかにきこえてくる 幻想的な音の連なり どこかで奏でられる 楽器の音色 なんという楽器かしら 教えてくれない? 問いかけには 応じてくれなくて いいのよ 気にせずお続けなさい 窓際のハーブは外を向いて 耳を傾ける あなたならわかる? ハーブからも返事はない いいのよ それで
オレンジの太陽が光っている 雨戸で閉め切った部屋にオレンジの太陽が一つ光っている サタンやネプチューンはどこかで回っているのか知らないが、部屋に一人きりのぼくはオレンジの太陽に救われる 片隅で光る四角いパンドラの箱には、まだカオスが入っていて見たいものも見たくないものも一緒に閉じ込めてくれている。パスワードの鍵をして。 瞼を閉じるとあの人の声がする 何かを言っているけど聞き取れない 目を開けるとオレンジの太陽が光っている
まだ見えない まだ見えないが、そこにあるのは分かっている 頭が悪い俺だって流石に大切な物がどこにあるかなんて分かるよ 周りの意見や世間の目なんかじゃ測れない物もあるんだ あと、大切な物が、俺にとって大切な物が、どこにあるか分かっていたとしても、それを手に入れるか、ほっぽらかすかは俺が決める。 自由でいたいのさ。そうだろ?皆そうさ 今はまだ見えない。見たくない
今日で十六回目です。今抱えている花も、少し背伸びして買った和菓子も、すべてあなたが好きだと言ったものです。 今日で十六回目です。毎年、数えるのをやめようと思いながらも、指折り数えるのをやめられません。 家に帰るまで私は一人で、家に着いたら家族が待っています。唯一の家族が待っています。今日も家に着いたら、真っ先に駆けてきてくれるでしょうか。 この道を通るたび、あなたと過ごした日々を思い出します。長いようで短かった気もします。あなたの笑顔が頭から離れません。他にもたくさんの表情を見せてくれたのでしょう。しかし、どうしても頭から離れないのはあなたの笑顔なのです。毎日見ているからなのでしょうか。毎日通るこの道も、今日だけ淋しい気がします。 家の近くの公園で、子供がかけっこをしています。私たちに子供はおりませんが、おらなくてもよかったなとふと思います。でもあなたは笑顔で、少し淋しそうな雰囲気をまといながら、「そんなことはないよ」と言うでしょう。きっとそうでしょう。 玄関前を掃除しているお隣さんと目が合います。「今年もこの日が来ましたか」静かにそういうと、私の目を見ずに家に戻ります。私は、毎年ありがとうございますとお隣さんの背中をぼうっと眺めます。私がふたつ深呼吸をして、庭に植えられた金木犀の香りを楽しんでいる間に、お隣さんは家から出ていて、「これ、あの人に」そう言うとあなたの好きなどら焼きをくれました。ありがとうございますと会釈をすると、それ以上言葉を交わすことはなく家へと戻りました。 ただいまと玄関を開け、中に入ると何かが駆けてくる音が聴こえます。私は花と菓子を一度床に置いて待ちます。ワン、と吠えた私の愛犬はそのまま胸に飛び込んできました。何度か撫でると満足したのか部屋の奥へと戻ってゆきます。花と菓子を持ち、靴を脱いでそのままリビングルームへと入ります。机に荷物を置き、手を洗い、再び花と菓子を持ったままあなたを探します。といっても、もうあなたの居場所はわかっています。 一つ隣の和室へ入ると、ただいま。そう言って今年もあなたの笑顔に、花と菓子を贈るのです。
ねこを撫でると 泣いてしまう 自分がそうされたかったから でもあんまりされてこなかったから なのかもしれない ねこを撫でると 泣いてしまう ふわふわの毛でおおわれていることに うらやましくなって なのかもしれない ねこを撫でると 泣いてしまう ねこが悲しい顔をするから なのかもしれない でも それは わたしのことを 想ってくれたから だったらいいな
乾麺になるまでの間だって激動な人生(麦生?)だったのに、茹で上がったあとに包装されて、出荷されて、買われて、戸棚で一休みがあって、また、熱々の湯の中で柔らかくされて、それだけでもヘトヘトなのに、まさか、流されるとは思ってもないだろうに 素麺を最初に流した奴はいったいどんな気持ちで流していたのか それを箸で食い止めて、自分の丼に移して食う。そして、同じ箸でまた素麺川の中に浸ける どうしたんだ。何かあったのか? その素麺が流れる竹は、使い回しか?洗ったのか? その水はどこの水なんだ? 鍋で茹でた素麺を自分の分だけ取り分けてテーブルで食べては駄目だったのか? こうは言っているが、実際やったら楽しいだろうに。 素麺じゃなくてもいいだろう。ラーメンとか、餃子とか、おでん、カレー、シチュー… いっその事、野球部のボールがポーンと出るマシーンを借りてきて、おにぎりを飛ばして口でキャッチするのはどうだろう。 寿司は無理でも太巻きなら何とかなるか パンもいける 口に入れた瞬間、ジャリジャリと音が鳴りそうだけど
「本日は、お時間をとっていただき、ありがとうございます」 「いえ、こちらこそ。このような貴重な機会を頂き、感謝します」 シンデレラは我々に丁寧なお辞儀をした後、椅子に座った。 スタッフが普段使いする事務椅子だったが、なんということでしょう。 シンデレラが座ると、まるで玉座のような華々しささえ感じられます。 我々は緊張しながらシンデレラにマイクを付け、対面へと座った。 「まず、お名前をお願いします」 「シンデレラ、と申します。和名では、灰かぶり姫とも呼ばれていますが」 「日本でも、シンデレラという呼び方が一般的です。ですので、インタビュー中は、シンデレラとお呼びさせていただいても?」 「構いません」 まるで鈴のように透き通る言葉。 一言躱すたびに、スタッフの胸は思わずときめいてしまっていた。 「それで、お話したいこととは」 「はい。シンデレラ体重についてです」 しかし、シンデレラが本題を切り出した瞬間、場の空気が変わった。 物腰柔らかな話し方は変わらないというのに、どこか迫力のある雰囲気が、シンデレラの全身から発せられていた。 「シンデレラ体重、ですか」 「ええ。日本の女性の皆様は、綺麗になるためにシンデレラ体重を目指していると伺いまして」 「そうですね。皆、シンデレラの美しさに憧れて、シンデレラみたいになりたいと」 「はっきり言って不愉快です」 いつの間にか、シンデレラは真顔になっていた。 シンデレラにときめいていた胸もすっかり静まり、スタッフの緊張感が高まる。 瞳の奥底には強い怒りが感じられ、スタッフの喉がからからに渇いていく。 「不愉快……ですか」 「ええ。シンデレラ体重は、BMIが十八と伺いました。それは、美しくなる体重ではなく、不健康になる体重です」 「それは、まあ、確かに」 「そもそも私が細かったのは、美容を意識していたからではなく、継母たちにいじめられ、ご飯をろくに食べられなかったからです。苦しい状況の中で痩せてしまった体型を、美しくなる体重ともてはやすなど、言語道断です!」 シンデレラは声を荒げた。 我々スタッフ陣は、何も言い返すことができなかった。 本場のシンデレラ体重の人からアドバイスをもらえるかも、などとインタビュー前に話していたスタッフは、すっかり部屋の隅で縮こまっていた。 「確かに。配慮が足りませんでした」 「私が言いたかったのは、それだけです。シンデレラ体重を素敵な物ともてはやし、若者たちが誤った行動をしない様に、しっかりと注意をしてください」 やや険悪な雰囲気のまま、インタビューは終了した。 しかし、さすがはシンデレラ。 インタビューが終わると、先程とは打って変わって、優しく気品あふれる姿を振りまいていた。 「ありがとうございました」 スタッフ全員に丁寧なあいさつをし、部屋を出て行った。 ふくよかな背中は、シンデレラが幸せに生きているのだろうことを、我々に教えてくれた。
郊外の小さなアパート。 母親と男の子が暮らしている。 「これ、たくさん作ったの」 隣に住む年配の女性が、夕飯の余りを持ってきた。 「いつもありがとうございます」 中身を見ずに、冷蔵庫へ入れた。 男の子が、母親を見上げる。 「保育園、行こうか」 ヘルメットをかぶせ、後ろに座らせた。 「おはようございます」 「先生、おはようございます」 「これ、どうぞ」 保育士が、一枚の紙を差し出した。 「申請すると、町から支援金が出ますよ」 「いつもありがとうございます」 母親は折りたたんだ紙をカバンに入れ、自転車をこいだ。 「係長、おはようございます」 「子どもさん、大丈夫? 必要ならシフト調整するからね」 「いつもありがとうございます」 小さく頭を下げた。 ──その日の夜。 子どもを寝かせると、冷蔵庫からビールを取り出した。 「別に、そんな困ってないし……」 一気に飲み干し、もらった余りを箸で突いた。 「今日は何回……」 苦笑いで、電子タバコをくわえた。
俺は、最新の情報が好きだ。 巷では、紙という石板より薄っぺらい道具が流行っているらしい。 乗るしかない、このビッグウェーブに。 「という訳で、石板買ってきた。最近流行りの紙について、説明が書いてあるらしい」 俺の背負っている石板を見て、妹は驚き、顔を伏せた。 妹の手元には、石板より薄っぺらい道具があった。 「なんで紙を知るのに、石板を買ってくるのよ。そこは、紙の説明を書いた紙を買うべきでしょ」 「あるぇえ?」 その後、俺の買ってきた石板は、玄関のオブジェクトとして飾られている。 「ほほう! これが紙! 軽くて便利だな!」 俺は妹の持っている紙で、紙の勉強を始めた。
憧れの旅館生活だったが もうすっかり慣れてしまった 浴衣での生活は数日で億劫になり 窓から見える青く輝いた海も 空の青さと大差なく感じて 最近はカーテンを閉めっぱなしだ ただこの大鎌原市には 観光に来たわけではないのだから それでいいようにも思う 私は終わらせにきたのだから 一発屋の小説家として稼いだ金 それを使い切る為の旅館暮らしだ 金が底をついたらいよいよその時 そう思ってこの田舎町へやってきた ただ一週間ほどこの町に滞在して いくつか気になったことがある どうにもこの町は変だ 例えば泊まっている海辺の旅館だが まだ一度も他の客を見ていない 食事は朝と夜部屋に運ばれるのだが 大浴場も売店もいつ行っても伽藍堂 観光シーズンではないのかもしれないが 経営が成り立っているのかと不安になる 例えばよく海辺を散歩するのだけれど 船が一隻も見当たらないのだ 大きい船も小さい船も 漁船らしきものすら見当たらない けれども宿の食事にも近くの定食屋にも 当たり前のように刺身が出てくるのだ わざわざ取り寄せているのだろうか 中居さんに尋ねてみたこともあるが 「魚は空も泳ぎますから」と 適当にはぐらかされてしまった こういう違和感が大鎌原には 至る所に存在している ただまぁ、どうでもいいか 金が尽きるその時まで 飽きない町というのは結構だ けれどその謎解きをしようとか そんな面倒なことまではしたくない 謎とか伏線とかトリックとか そういうものは飽き飽きしている 現実はそう一本道に解釈できるほど 整合性の取れた世界ではないのだ だからこそ物語に夢見るのだろうが しかし夢物語を作る側になれば 裏から見えるのはハリボテの虚構 だからもういいのだ 外を出歩くのも億劫になり 私は部屋にこもるようになった 風呂も部屋にあるものを使った 日々溶けていく時間と金に 焦りと諦めが同時にこみ上げる これでいいのだと自分に言い聞かせて 言い聞かせ続けてーー 「ほら、魚ですよ」 フロントからの電話に出ると 中居さんはそう言って 窓の外を見るよう私に告げた 閉め切っていたカーテンに手をかける そんなバカなと思いながらも 頭の中ではもうすでに 溶け合う空と海を想像していた
「またね」 君とした口約束。覚えているかい? 学校まで歩いた、あの朝。 他愛もない事を言い合った、あの頃。 でも僕は君に酷いことを言ってしまった。今でも後悔しているよ。 花々が咲き乱れ、茜色に染まった夕焼け。 こんな事を思う。 「もう一度やり直せたら......」 でも、こんな事も思う。 「僕らの人生は、間違えも、正解もない、これが人生で、これも青春なんだ」 この瞬間だって僕にとっての青春。 そしてこの瞬間も明日へ、未来を作ってくれる思い出なのだ。 君が許してくれるなら、もう一度、口約束をしてくれないか。 「 またね」って。
花を持っていた。遺体が花を持っていた。周りには、それ以外、なにもなかった。 花は揺れていた。唇は渇いていた。心は萎れていた。 言葉をかけようと思ったけど、やめた。もうキミは死んでいた。それが事実で。それしかないんだ。 ただ、祈った。それでもと、祈った。 さようなら、と嘆いた。足跡だけがのこって。花は、まだ揺れていた。
今夜はやけに月が明るい。雲ひとつない空に浮かぶ満月を見上げながら、俺は村の中を歩いていた。窓を開けて眠りにつこうと思ったのだが、どうにも落ち着かない。冷たい風が入ってくるたび、何かを探すように鼻を鳴らしてしまう。妙な癖だ。子どもの頃はこんな癖なんてなかったはずなのに。最近は気がつくと、すんっと音を立てて空気を吸い込んでしまう。村では数日前から、家畜が襲われる騒ぎが多発している。危険だからと皆、夜の外出を避けるようになった。馬鹿馬鹿しい話だ。そう思いながら歩いていると、視界の端で何かが動いた。俺と同じく、満月に誘われた人間らしい。声をかけようと口を開いた、その瞬間。 視界が暗転した。 誰かの叫び声で目を覚ました。いつものベッド。開いた窓。差し込む朝日。首をひねる。……夜の散歩は、夢だったのか?すんっと鼻を鳴らす。開け放った窓から、酸っぱくてうまそうなにおいがする。不思議なことに、俺の服からも同じにおいがした。 まだ、腹が減っている。
風俗店。 それは出会いに飢えた獣が目を赤くして入店する恐ろしい店である。そのような風俗店にいま私はいる。 別に特段いきたかったわけではない。人並みに性欲はある方だと思う。別にシたいこともあれば、1人ですることも多々ある。しかし、今回に限っては同調圧力に流されただけなのである。獣が我の周りに蔓延って、あたかも常人であるように振る舞っていたのだ。 店員だ。私のもしかのノートと記された注文票を無言で取り、こちらには目もくれず黙々と入力している。これはご飯の準備なのだ。獣が行く店は店員も獣なのだろう。私は覚悟を決め始めた。 すると突如、もしかのノートがテーブルに置かれた。開かれた扉から新たな店員がもしかのノートをそとに持ち出した。ああ、神よ。なぜそれほど酷いことを私にするのだろう。私は餌として認められたのだ。心臓が大地を揺らしているように揺れる。終わった。 番号が呼ばれた。私は食われるのである。重りをつけられたような重い腰をあげ前店の奥へ進んだ。 本当に最高であった
シュークリームを、口のまわりを汚さずきれいに食べられたとき、ではなかった。ひとりで初めての場所にお使いに行ったときは、少し思った。高校生になって電車通学になってその帰り、駅のホームで立ち食いそばを食べたとき、強く感じた。大人になったんだなあ、って。でも手に持った器のそばは、自分で稼いだ金で食べていたのではなかった。大きな勘違い。それでも、思ったことは思った。大人になったんだな、と。 きつねそばだった気がする。うどんだったかもしれない。立ち食いそばというくらいだからそばだったのかな。それくらいにしか思ってなかった。自分がそばとうどん、どっちが好きなんて考えたことなかったんだ。何も考えてなかった、あのころは。いまはちゃんと考えてるみたいに言ってしまったけど、たいして変わってない、いまだって。 寝ていたような寝ていないような。この喉の渇きぐあいと頭の回らなさ加減、きっと寝ていたんだろう、少しだけうつらうつらまどろんで、そんなふうに。意識だけがつかの間の旅に出てカラダだけはしばしお休みで。 台所に立ってお湯を沸かす。温かい飲み物は僕を救ってはくれない。心を温めてはくれるけど。それでいい。目の前にあらわれたと思ったらすぐいなくなってしまうんだ。誰のせい? 僕のせいだけど。そこまで深い関係でもないんだ。それでいい。 昨日の残りの肉じゃがを卵でとじて、ごはんのおかずとした。入れるだけでごちそうへと変化させる卵はすごいと思った。肉じゃが、ごはんの順に口に入れ、目を閉じて口を動かす。女の尻のアップが浮かんできた。この前、ジムで見た女性の大きなお尻。卵はすごい、その「すごい」にアタマが反応したのだろうか。しかしなんだってこのタイミング。制御できないこのアタマは、不思議と思っても、確実に僕のものなんだ。 もっとドライな関係ならね。ふうん。また余計なこと考えちゃってさ。それくらいに思えたらね。誰のせい? 僕のせいだけどさ。
ある日の夕暮れ。 僕は思いついたことがある。 さっそく、友達に打ち明けてみた。 「どうしたの?」 僕の覇気に気圧されながら、彼女は言った。 「思いついたことがあって」 「?」 「僕は神なのかもしれないし、そうじゃないのかもしない」 会話を続ける 「世界は自分を中心に回っている。だから僕は神なのかもしれない」 「それはみんなそうなんじゃないの?」 「そう返されると神じゃないのかも」 彼女は言った 「いいね。主体的で」
親父が死んだ。 残された遺産は、家と、貯金と、感情。 「相続されますか?」 弁護士からの質問に、俺は即答できなかった。 「考えさせてください」 親父の残した家は、良い場所にあるから普通に住みたい。 親父の残した貯金も、当然欲しい。 問題は、感情だ。 親父は優秀な経営者だったが、その分ストレスの量も尋常ではなかったらしい。 自死を考えるくらいに追い詰められた親父は、感情を閉じ込めることで自死を回避し、大成功を収めた。 しかし、この閉じ込めた感情は、財産扱いとなる。 遺産を放棄しなければ、俺の物になってしまう。 そして、感情はいつまでも閉じ込めておくことができない。 いつかどこかで決壊し、持ち主へと返ってくる。 相続した場合、俺に返ってくる。 死にたいという強烈な感情が。 「くそ親父。面倒なもの残しやがって」 家と金が手に入っても、死んでしまっては意味がない。 俺なら死なないという自信もあるが、あの親父が死にたくなるほどの感情となれば、俺の想像以上に大きな感情なのだろう。 「いいじゃない! 感情なんて! あの豪邸と財産を手放すの?」 感情が返ってこない妻は、無関係と言わんばかりの顔をして、俺をせっついてくる。 もしかしたら、金が手に入った上に、俺が死ねばラッキーとでも思っているのかもしれない。 「なら、お前が相続するか?」 「無理に決まってるでしょ? お義父さんと血が繋がってるわけじゃないんだから!」 「なら、俺たちの子供に」 「子供が死んでもいいって言うの? 人殺し! 最低!」 その言葉、そっくりお前に返してやろうか。 「ちょっと煙草」 騒ぐ妻から逃げて、ベランダで一服する。 冷たい風が、俺の脳を冷やしてくれる。 もしかしたら、妻の本性を暴くために感情を残してくれたんじゃないだろうか、親父ならやりそうだ。 なんて楽観的な予想をしながら、俺は引き続き、悩み事に頭を抱えた。
都会の明るい夜に慣れ過ぎて 深夜に散歩することが 習慣みたいになっていた でもやっちゃダメだったんだ 男だからと油断していたんだよ もしもこうなると知っていたら 外なんか出なかったのに その日は盆休みで帰省していた 夜遅くまで両親と酒を酌み交わす 二人は先に寝てしまったけれど 俺はどうにも寝付けなくて 酔い覚ましも兼ねて 深夜散歩に出かけることにした 一歩外に出て玄関を閉めると 辺りは途端に黒の陰影だけになり ポツポツと立ち並ぶ街頭だけが 黒い田んぼ道を照らしていた その光景に少し息を飲んだが スマホのライトを付ければ なんてことはなかった スマホのライトを頼りに歩く もう日付が変わる頃だったので 他に歩いている人はおらず たまに車が横切るだけだった 近づく車の音だけには注意しながら 夜風を感じながら歩く さてそろそろ帰ろうかと 来た道を戻ろうとしたときだった 振り返った先の黒い景色が 揺れているのに気づいた 直接ライトを向けるわけにもいかず 遠くてハッキリとは見えなかったが どうやら人影らしかった ライトも付けずに歩くなんてと思ったが 慣れていればそんなものかとも思えた 人影らしきものが近づくにつれて ライトがその足元を照らしていく サンダルとスカートの端が見える この人とすれ違ったら遠回りして帰ろう そんなことを考えていたときに 気づいた 恐らくは女が手に持っているのが 刃物だということに アルコールなんて吹き飛んで 全身から冷たい汗が吹き出した 呼吸は思わず止めてしまったが しかし足を止めるわけにはいかない 女を刺激しないようにライトを下げて ただただ祈りながら震える足を前に出す 女の足音がどんどん大きくなっていく 女の足元がライトの円の中に入り そうして通り過ぎていった 女の足音が徐々に小さくなっていく 俺はしばらく早歩きで進み続けてから ゆっくりと速度を落とし立ち止まった 辺りはしんと静かになった 俺の足音はもう聞こえない 女の足音も聞こえなかった ずずずと後ろを振り返る 黒い陰は立ち止まって その場でゆらめいていた 女がどちらを向いていたかはわからない だが俺は迷わずまた歩き出していた できるだけ遠くへ行かなければ 静かな夜に俺の足音が響いていく するとそれにもう一つの音が重なっていく 見たくなかったが見るしかなかった 足は止めないまま振り返ると ライトの先ではさっきの女が 小走りで追いかけてくるのが見えた そこからは無我夢中だった とにかく走って走って走りまくった そうして現在地もわからなくなった頃 ふと足を止めると足音が聞こえない 振り返って辺りを照らしたが もうあの女の姿は見当たらなかった まだどこかにいるかもしれない そう考えライトで周囲を照らし 警戒しながら家へと帰ることにした 結局のところ何事もなく 実家へ帰ることができた もしかしたら何かしら 俺の勘違いだったのかもしれない そんな風にすら思いながら 部屋に直行した俺はそのまま ベッドに倒れ込んで眠った 「朝ごはんいらないのー?」 母の声に目が覚めてリビングへと向かう 父はもう仕事へ向かったらしく 母は食器洗いをしていた 用意された朝食をすぐに食べ終えると キッチンに立つ母の元へ皿を運ぶ 「自分で片付けるなんて成長したわねー」 「それ毎年言ってるけどな」 そんな会話を交わしながら皿をシンクへ入れる ちょうどそのとき入れ替わりで 母がシンクから包丁を取り出して洗い始めた
止む気のない雨の中、スーパーの横を通っていたら、いくつか並んだ、まだ蕾も無い金木犀の一つが人となって歩き出した。 それはスマートな紳士の様で、背広にステッキを持ち、ハットを被っている。よく見えはしないけど、きっと顔もハンサムなんだろう。 彼は傘も差さずに、雨を気にする素振りもなく僕の前を歩いていく。 僕は今日、祝日だって言うのに台風の最中、出勤するために足元を濡らしながら駅に向かうところだ。 階段を降りて線路を地下道で越えていく、階段を登って地上に出る。 こちらの行き方のほうが近いんだ。金木犀男爵もそれを知っているようだ。僕は彼の事を金木犀男爵と呼ぶことにした。 道には人通りは無い。こんな日に出勤する人も珍しいのだろ 線路沿いの道には金木犀男爵と僕しか見えない 男爵が、もし電車に乗るとしたなら、改札はどうやって通るのだろう スイカでも持っているのか? 切符を買うのか? そもそもお金を持っているのか?身なりはしっかりしているけど。 駅に入ると、迷うことなく自動改札機へ向かっていく。 僕は遠くからどうなるのか見ていた。 駅にはそれなりに人がいて、皆、改札に足が向いている。金木犀男爵が改札のレーンに入った。彼は右手にステッキ、左手には何も持っていない。 金木犀男爵が通ると、改札機は当たり前のように開放し男爵はスマートに通り過ぎて行く。 誰も自然に開いた改札の事には気づいていない様だ。 僕は急いで後を追う。 鞄の中のスマホがなかなか見つからずに改札の前でオロオロしてしまったが急いで降りて、来ていた電車に乗れた。 車内は平日のそれとは違い、かなり空いている。皆、間隔を持って座れている。これは休日出勤の良いところだ。 男爵も同じ車両にいた。座っている。 僕は車両の端に行って遠目から観察することにした。 相変わらず車窓からは雨が絶え間なく降り続いている。あの暑かった夏は、別れの挨拶も無しに秋と交代してしまったようだ。 寒い秋。冬と何が違うのか。 金木犀男爵はステッキの頭を両手で押さえ、静かに座っている。その様子もスマートで美しい。まるで金木犀が咲いているように
私は臨終医、仕事は単純だ。 静かな部屋に入り、相手を見て、時刻を告げる。 「御臨終です」 家族が泣きながら遺体にすがる。 そこに、家族に寄り添う気持ちなど必要ない。 それで、終わり。 父も医者だった。 臨終医になろうとしたが、なれなかった。 枠は少なく、選ばれたのは別の人間だった。 それでも父は言った。 「いい仕事だぞ」 理由は語らなかったが、その声が妙に耳に残った。 私は名門の医学部を出て、海外にも行き、博士号も取った。 回り道は多かったが、今はここにいる。 だからこそ、この一言は完璧でなくてはならない。 私は週に一度、ボイストレーナーに通っている。 発声練習の合間、鏡の前で無表情を確認する。 一度だけミスをしたことがある。 ペンライトを忘れた。 とっさに胸元の万年筆を取り出し、目の上で上下左右に振った。 近くにいた看護師も気づかなかっただろう。 最近、臨終医をモデルにしたドラマが放送され、志望する医学生が増えたらしい。 彼らは「御臨終です」の後に何か一言つけたがる。 私は何も言わない。 それが美学だ。 ある日、私は突然めまいがして倒れた。 目を開けると、ベッドの横で、若い臨終医が立っている。 「御臨終です。ご主人様は良い人生だったのでしょう。安らかな表情をされています」 私は思った。 まだ若いな──だが、悪くない。