マスクの女

ある日の午後。 身体社会学の女性教授が、マイクの前に立った。 「みなさん、ルッキズムって聞いたことありますか?」 「人のこと、外見で特別扱いしたり、差別したりすることですか?」 「はい。外見至上主義と呼ばれてます」 背後のスクリーンを指さした。 「今から写真をお見せしますね」 マスクの女が、写し出された。 「この女性、みなさんはどのような印象を受けますか?」 「清楚な、お金持ちのお嬢様って感じに見えます」 「そうですか。では、次の写真です」 「えっ」 最前列の学生が、目を伏せた。 「マスクを取った、先ほどの女性です」 「口が……」 「口裂け女です」 しばらく、沈黙が続いた。 「マスクしてると、見えてるところだけでイメージしてしまいますね」 授業の終わりのチャイムが鳴った。 「感染症が流行ったあと、マスクを外せない人が増えましたよね」 「先生もですか?」 「楽ですからね。目の周りだけ念入りに化粧してます」 目元を指でさした。 「おキレイですよね」 「それもルッキズムですよ」 教授は笑いながら、マスクに手を掛けた。 「私、キレイ?」 視線が集まる。 「鼻が……」

なんでもない土曜日

 今日の夕飯は理沙のリクエストでゴーヤチャンプルに決まった。うちの作り方でいいのか?と念のためソファに横たわる彼女に訊いてみたら、何でもいいよとスマホから目を離さずに応えた。 「ご飯炊いてないよ」 「レンチンご飯がかごに入ってる」  その言葉に冷蔵庫の横のワゴンを漁ると、確かに奥からパックご飯が五個出てきた。僕の家なのに家主よりも台所事情は把握しているようだ。ついでに袋詰めの麩も取り出しておく。野菜室を開けると、緑色のゴーヤのなかに一本だけ熟れかけて黄色くなっているのがあった。  夏の終わりの深緑を僕は台所の窓から眺めた。近所のイチョウ並木が色づくにはまだ三ヵ月はかかるだろう。  ゴーヤを四本と麩、そして玉子を三つとボウルを天板に並べる。  一つ目の玉子を割った僕に彼女は言った。 「今日ね、野良犬見かけた」 「珍しいな今どき」と僕は二つ目の玉子に手を伸ばしながら返した。 「どこで見たの」 「んん、県道のトンネル前で」 「へぇ」カチャリ――。  背後でソファから起き上がるような音がした。僕は玉子を三つとも割って菜箸でかき混ぜる。  うちの前をリコーダーの音色が通りがかった。拙い運指で何度ももたつきながら、それでも流れる曲がオーラリーだということは分かった。  僕は訊いた。 「オーラリーって歌詞が付いてたよな」 「あったよ」 「どんなだったっけ」  今度はゴーヤを切る僕の後ろで、あの〜とかええ〜とか唸る声がする。 「い、いー、」  そして彼女は歌う。  ――泉の中に 誰がいるの 耳をすませば 声がする  僕も一緒になって口ずさむ。  ――オーラリー オーラリー どこですか 「「ふぅん、ふぅん、ふぅん……」」  二人してハミングに切り替わって、お互いに笑い転げた。笑った弾みで僕は危うく指を切りかけて、理沙は痛って!と笑いながら叫んだ。 「最後なんだっけ」「なんだろうね」とひとしきり笑った。  僕は笑いの余韻に浸りながらフライパンにごま油を引いて食器棚から大判の皿を取り出す。丘の上に建つ僕の家からは南向きに海が見える。台所の窓は東向きだから、生い茂る木々しか拝めないが、リビングにいる彼女の方を見ると南向きの窓の向こうを眺めていた。 「知ってる?夏の始めと終わり頃は夕焼けが紫色っぽくなることがあるんだ」  僕は温まったフライパンにゴーヤを放り込んだ。 「へぇ」  と彼女は気のない返事をした。 「なんで?」  菜箸でゴーヤを混ぜながら僕は考えた。 「湿気とかじゃないか。決まって雨上がりの時だから」 「見たことないなあ」  気にしてないだけだろと思ったけれど、当然それを口に出すことはなかった。  麩を適当な量だけ袋から直にフライパンへ投入して、そこへめんつゆを注ぐ。炒めものの音を聞きながら、僕はふと蝉時雨が止んでいることに気づいた。  理沙が言った。 「明日さ、どこか行きたい」  一旦食材を皿に移して、僕はフライパンに油を垂らす。 「あ、ご飯温めて」  無視されたと思ってか「ねえ」と言いながら彼女は台所にやってきた。 「どこがいいの」 「行ったことない所」  僕は溶き卵をフライパンへ流し込み、彼女は電子レンジの扉を開ける。 「ねえ色んな所知ってるでしょ、どっか連れてってよ」 「明日の気分でどこに行くか決めるか。車で走ってれば思いつくだろ」  仕上げに皿の食材をまだ固まりきらない炒り卵のなかへ戻す。彼女は僕の隣に立ってからフライパンのなかをのぞき込んで一言、なにその作り方と呟いた。 「それなに?」「麩」 「……フ?」「味噌汁に入ってるやつ」 「それなら普通は豆腐じゃないの?なんで麩なの?」 「知らない。うちじゃ昔からこうだったから」 「変なの」  ピィピィと鳴る電子レンジに呼ばれ僕の隣から離れる理沙は、微かなホワイトムスクの香りを残していった。  シャンプーも柔軟剤も無香料を選んできた僕とは違って、理沙は香りを楽しめる人間で、おかげで、うちのリビングにもスティック型の芳香剤が置かれるようになった。  僕はゴーヤチャンプルを皿に盛って、彼女はパックご飯を茶碗に移しかえる。ダイニングテーブルで向かい合いに座って手を合わせる。 「何でもいいよって言ったのはお前だからな」  一口目を食べる前の理沙へ僕は釘を差しておく。返事もせずに彼女は我が家のゴーヤチャンプルを訝しげに見つめてから箸を伸ばした。 「……。おお、旨い」 「本気で言ってんの?」 「ちょっと味気ない」 「そう?」 「いや味気ないよ。ちょっと」 「素材の味がしてちょうどいいだろ」  僕の冗談をはいはいと軽く流して理沙はスマホでショート動画を開く。僕は明日の行き先を考え始める。  彼女のスマホから流れる音と食器の音だけが続いていた。なんでもない土曜日のこと。  すぐに忘れるだろうこと。

ファーストの果て

「誰か彼を止めないと……」 「それが、制裁だって言って聞く耳持たないんですよ」 「みんなが迷惑してるよね」 集まった代表たちが、深いため息をついた。 「この前も『我々は最強だ』って言ってたでしょ」 「そう、自分たちファーストってね」 「でも、一般人にケガさせるのはやりすぎ」 「黙ってるけど、君はどうなの? 仲間でしょ」 部屋の隅に、視線が集まった。 「すみません。一部が暴走してて。ぼくも、シャケくわえてた頃が懐かしいです」

ストレス鞄

 ストレスが溜まっていた。  ずっと何かにイライラしていて、何にも手がつかなかった。   「ストレスを重さに変えます? なんじゃこりゃ?」    だから、ストレス鞄なんて怪しい商品に手を出してしまった。    家に帰って説明書を読むと、『鞄を背負うと、ストレスが鞄の中に溜まって重くなっていきます。鞄を置くと、ストレスが戻ってきます』と書かれていた。    半信半疑だが、もう買ってしまった。  恐る恐る鞄を背負ってみると、背中に紙のような重さがのしかかる。  しかし、時間が経つごとに、鞄がどんどん重くなっていった。  空っぽのカバンに、重りをゆっくり入れられている気分だ。   「お? お?」    一番驚いたのは、さっきまで心の中を彷徨っていたストレスが減り始めたこと。  感情を支配していたイライラが、撤退戦を始めていく。   「いい! これはいいぞ!」    幸い、鞄は大きくない。  持ち続けるにしても、邪魔にはならない。    ぼくは鞄を背負ったまま椅子に座り、勉強にメッセージの返信に、ストレスゆえに放置していたことへ、急いで手を付けた。    そんなことをしている間にも、鞄はどんどん重くなっていく。  自分の中に、こんなにストレスが溜まっているとは驚きだ。  いったい、どこまで重くなるのだろう。    背中がミシリと悲鳴を上げる。  一瞬、鞄を下ろすと思ったが、すっきりとした脳の魔力には抗えない。  ちょっとした筋トレだと考えて、手を動かし続ける。    ミシリミシリ。  シャレにならない重さになってきた。  一体全体、自分はどれほどストレスをため込んでいたのだろうかと嫌になる。   「ああ、もう無理だ!」    ぼくは肩の限界を悟って、鞄から逃げ出した。  床に落ちた鞄は、先程までの重さが嘘のように音を立てない。  そしてぼくの脳には、滝行のようにストレスが流れ込んできた。   「ううう……。きっつ……」    じんわりと溜まっていくのならさして影響はないが、一気に溜まると苦しいものがる。   「やっぱ、そう都合のいいものはないか」    ぼくは、型をぐるぐると回しながら、一つ一つストレスを解決しなきゃなあ、とい一人で誓った。

期待と本能

山あいにある小さな沼のほとりを、中年の男が歩いている。 「釣れますか?」 石の上に座った年寄りの男が、釣りをしていた。 「さあな」 しばらく水面を眺めていたが、魚が掛かることはなかった。 男は家に釣り竿を取りに戻った。 そして、年寄りの男から少し離れたところで、糸を垂らした。 「釣れますか?」 帽子を被った男が声をかけた。 「さあね」 その男もしばらく水面を眺めていたが、魚が掛かることはなかった。 帽子の男は、車に積んでいた釣り竿を取りに戻った。 そして、中年の男から少し離れたところで、糸を垂らした。 「釣れますか?」 膝下ズボンを履いた男が声をかけた。 「さあ」 男はしばらく水面を眺めていたが、魚が掛かることはなかった。 膝下の男が年寄りに近づき、置いてあったバケツを覗いた。 「……ここ、何が釣れますか?」 年寄りが振り返った。 「知らんよ。ここ、この前の大雨の跡だ」 男たちは二人を横目で見ながら、浮きが沈むのをじっと待った。

下賤で愚かで病気

 とても暗いタイトルだ。 まるで世界で一番不幸だと言わんばかりだ。 戦わないからこうなる。 戦ってもやられる。 四面楚歌。 蜘蛛の糸に皆群がる。 神様が垂らしてくれたものは救いではなく選別なのかも知れない。 地獄に落ちても競争している。 僕はよだれを垂らす。 最近夜蜘蛛が出る。 猫をあまり見ない。 病院の近くの黒猫に餌やっとけばよかった。 マヨネーズは歯が溶ける。 資本主義は肉体を溶かす。 液体の格闘技。 共産主義は骨を溶かす。 関節技の応酬。 中庸はどこにあるだろう? 脳が焼ききれる前に近所のコンクリート塀に八つ当たりしてゼネコンを敵に回しスカイツリーにUFO突っ込まないかな…等とテロリストの計画を着々と立てるがそんな児戯は誰も望んでないだろう。 ソーラーパネルが根こそぎ盗まれて日本海を埋めつくし大陸と地続きになる悪夢を見そうだ。 実際にはアイドルのCDの方が大量廃棄されていそうだが僕の肉体の代替物の試験体も産業廃棄物の山にうず高く積まれているだろうからそれも良し悪しだ。 奇跡は起こるよ何度でも~🎵と歌うが今生きていることが奇跡なので凡庸に回帰したいがそもそもドラマチックとか劇的とかLa La La…みたいな歌はあまり歌わない。 動物はまだたまに見るので原発周辺は自然が戻っているのかも知れない。 チェルノブイリの放射能と福島の桃。 等価交換出来ないだろうか? 桃の種。 ピーナッツ。 カカオ。 部屋が寒い。 明日は湯船入ろう。 いい湯だな🎵

思い込みの果て

郊外にある一軒家。 男がカメラを片手に、玄関の扉を開けた。 何十年も誰も住んでいない家。 家具には、白い布が掛けられていた。 「二階の奥……」 廊下に、きしむ音が響く。 階段を上がり、目的の部屋に入った。 「これか……」 男は窓際の白い布をめくり、中を確かめた。 そこには、ひじ掛けのついた古びた椅子があった。 横の机には、家主だった老婆の写真が立て掛けられている。 「皆さん、ご覧になってどうでしたか?」 スーツ姿の男が声をかけた。 部屋には、数人の男女がモニターの前に座っている。 男がスタッフに視線を送ると、窓際の椅子が運び込まれた。 「晩年、お婆さんはこの椅子に座り、外を眺めてました」 集まった男女は、緊張した顔で耳を傾けた。 「さぁ、皆さん。順番に椅子へ座ってみましょう」 机の上には、老婆の写真が置かれている。 「私は無理です……」 声が震える。 「大丈夫ですよ」 男が、そっと寄り添った。 女は恐る恐る、椅子のひじ掛けに手を掛けた。 そして、ゆっくりと腰を下ろした。 「がんばりましたね」 部屋に拍手が響いた。 すると、一人の男が手をあげた。 「先生。この椅子には、どんな因縁があるんですか?」 「……そんなものはありませんよ」 「でも、この写真の顔……」 スーツの男が、写真を手に取った。 「このお婆さん、私の母ですね」

数式がわからないので適当に書いてみる

 まずは数2数Bでこけた僕が考えた最強のガンダムだ。 と思ったがそもそも田舎に物理と数学の教科書を置いてきてしまったのでチャッピーにでも聞こうと思う。 Θ=sin²+cos²+1 うむ、意味がわからない。 デイケアにいる素粒子物理学をやっている元北海道大学の教授はいつも数式をパソコンでこねくりまわしている。 実に羨ましい老後の悠々自適な生活だ。 β=tan²(2+2)²-cos+Δ-2 こんなことを暇なので深夜にやって発達障がいを併発させている僕は勉強の出来るボンボンインテリヤンキーオタに肥溜めにバックドロップで落とされそうだ。 いいからおまえはみんなのおにぎりを作って配っていろってのがフィーリングで最適解の気がするがお米が安くなってきているので皆自分の分は自分で買って欲しい。 もしくは練馬の鉄道のダイヤグラムを最適化するツールを数学だけは出来る変態とじゃあ僕は電車のフォルムを考えるよそして一緒に特殊学級で三味線を弾こう的な事を考えるが算数の先生に休み時間はマリオカート8でも皆とやって協調性を磨きなさい、と怒られそうだ。 何か世の中うまくいかない。 あるいは黒澤明の映画のように急に練馬に富士塚やピラミッドや大聖堂などを建てましょうよ自民党さんお金は各種財閥から回しますからグヘヘと談合を持ちかけるけど共産勢力からBARにでも行ってグラス磨いて皿洗いしてなさい内部留保はこっちで何とかするから、と大企業の役に立ってるんだか労働者なんだかわからない立場で残りの人生を過ごしそうだ。 何かうまくいかない。 近所の市民体育館に行ってスポーツ女子に嫌がられてやっぱりリコーダーを盗み舐めしておけばそして競泳水着を盗んで新宿のショップで大量に売りさばいておけばよかったと思うけど酒に弱ったところを狙っているのねこの変態と蔑まれた目で飲みサーで弄られたりするのは嫌いじゃなかったと思うがゼロコーラの方が好きなお子さま舌なので胸痩せしているキャバ嬢を送り迎えするワンボックスドライバーでもやってればでもこのホモやろう!と苛められそうなので怖いから出来ない。 酔っていないが酔ってんのかお前と言われたことがあるが酔ってない。 馬鹿で貧乏なのに彼女がいて何故か嫉妬のメールなどが送られてくるがとりあえずお前は身なりをきちんとして普通に自分のやれることで女の子にアプローチしろと言いたいがそしてお前がどんな女口説こうが誰も気にしちゃいねーよ、とメールで送ったことあるけど僕ももうそんなに若くないのでテロメアを伸ばす理論を色々画策中だ。 何かうまくいかない。 でもうまくいくと信じて。

無名税

『これ以上、誹謗中傷はやめてください』    とある芸能人のSNSに投稿された一文。    さすがに心が痛む……わけない。    イケメンの顔。  ブランド物の服やバッグ。  そして豪邸。  顔にも金にも恵まれたお前たちは、誹謗中傷されてもしょうがないだろ。  いわゆる、有名税ってやつだ。   「恵まれてるくせに、ちょっとやそっとで被害者ぶってんじゃねえよ!」    開示請求するならすればいい。  どうせこっちは、無敵の人。  何も取られる物はないし、下がって困る名誉もない。   『よしよししてる信者きめええええええ』    苛立ちを返信して、一度スマホから目を離す。  腹が減ったのでカップ麺を探すが、備蓄なし。   「しゃーねえ。買いに行くか」    財布を持って、コンビニに出かける。    玄関の扉を開けば、今日は快晴。  外には、楽しそうな親子連れが歩いている。  俺に見せつけるように。   「こいつら全員、車に引かれて死ねばいいのに」    独り言をこぼして、イライラとしながら曲がり角を曲がる。    次の瞬間、激しいクラクション音が鳴り、俺の体が吹き飛ばされた。  痛む全身と霞む司会で見たのは、高そうな自動車と、後部座席に乗るイケメンの姿だった。   「あ…‥‥て……」    文句を言おうにも、言葉が出てこない。  自動車が止まり、中から慌てた顔の運転手が飛び出してくる。    そして、俺の顔にスマホを向ける。   『判定完了。無名税の対象者です』 「あ、なんだよかった」    スマホから発せられた音声を聞くなり、運転手はほっとした顔になり、自動車の中へと戻っていった。   「お……待……」    俺の声は届かない。   「安心してください。引いたの、無名税の人でした。事件にはなりません」 「助かったー。でも、今度から気を付けてよ? 引いたのが一般人なら、俺の人生積んでたから。マジで」 「大変失礼いたしました」    運転手が自動車の中に戻って、自動車が動き始める。  エンジン音が徐々に近づいてくる。    有名税の人間は、誹謗中傷されても仕方ない。  ならば、誹謗中傷を行う無敵の人も、無名税として法が保護しなくても仕方ない。  そんなくそったれな法律が可決したのが、運の尽き。   「ふざけ……」    自動車は、道端の段差を乗り上げて進むように、俺の体を踏みつぶしてどこかへと言ってしまった。    通行人は、誰も近づかない。  ただ、空腹を解消しようとするカラスだけが、俺の周りに集まってきた。

そんなことはある

 天矢鳥トウは放課後、教室の机に腰掛けて、窓の外を眺めていた。いきなり、教室の扉が開く。  振り向くとそこには、虹錦ユウイが立っていた。  「…は?お前、まだいたん?早く帰れよーっ。因みに俺は、忘れ物を取りに来ましたー。帰りまーす。」  ユウイは半ば笑いながら、トウに声をかける。が、そう言いつつも彼は、トウの隣までやってきた。  「雨、この後強まるって予報なんだけど、大丈夫か?」  そう言いながら、ユウイは隣の席に座る。もちろん、机に。  「俺は雨、好きだし。だから濡れても良い。」  「え、じゃあ傘貸してくんね?」  ユウイが言うので、トウは小さく笑って、  「いやお前…雨の予報見て、イナちゃんと相合傘するために忘れた、って言ってたじゃんか。」  と答えた。イナちゃん…塔知イナとは、ユウイの好きな相手だ。  「…いや、それが…あいつも、傘忘れたらしいんだよ。」  ユウイの返事に、トウは  「あぁ訊きはしたんだ!」  と確かめる。  「…おい!訊いてないと思ったのかよ!?」  「ごめん。」  そう言いながら、トウは首を傾げた。  (イナも?あいつに時間目の途中で来たし、そんとき降ってたし!?)  「…いや、やっぱ、言えたに入らないかも。」  ユウイがふと、自信なさげに付け加える。  「ほら、やっぱり!」  トウはそう笑った。  「でもどうした?いきなり弱気じゃん。」  「だって俺、迷ってたら、イナちゃんに話しかけられたんだよ。『何してんの?』って。そしたら——」  ユウイの言葉が切れる。  「なになに?」  「俺、話しかけられてさ、言ったの。『あ、傘、忘れちゃったから…』って言いかけたの。被ったんだ、イナちゃんと。『うち傘忘れちゃった』って、同時に言ったんだよ。」  トウはちょっと笑ってしまって、それから言った。  「…それで、どうした?イナちゃんは。」  ユウイは被りを振って、  「『あ…すごい同時だったね。そっか…。』って言って、B組の靴箱の方、戻ってっちゃった。『持ってなくてごめん。』って声かけたんだけど————。」  と答える。  「それで、イナちゃんとなんか話した?」  とトウに聞かれて、ユウイは再び、首を横に振った。  「いや、俺はテスト勉強で、教科書要るの思い出して、こっち来た。だからそのまま帰しちゃった。…あー、もう!今日は言えたのにー!」  するとトウは、首をかしげて、  「うーん…?俺、ホームルーム終わってからずっとここにいたけど、イナちゃん見てねーよ?」  と言う。  気づけば、雨脚は大分強まってきていた。  「………あっ!」  ユウイが何かに気が付いて、急に言う。  「まだいるかも、だろ?それに、もう一つ思うところが…あるけど、言わないでおくわ。」  トウに図星を指されて、ユウイは片を竦めた。  「はぁ…。お前、ほんっと頭良いよな。ってか、もう一つ教えろよ。」  トウは初めて、校庭から目を逸らし、  「いや、後で。」  とユウイの方を見て言った。  「あぁそうだ、あと。傘は貸す。」  再び校庭に戻された目線。差し出された傘を見て、ユウイはトウの肩を叩く。  「サンキュ。」  トウは黙ったまま、首を縦に振る。  その後聞こえてきたのは、ユウイが走り去る音だけだった。  (そういえば前も、雨の日、イナちゃん最初に教室出て、ずっと靴箱にいたよな…。)  トウは、数日前のことを思い出す。  (『今日は言えたのに』って、あいつでさえ思うのか…もはや、イナちゃんが可哀そうだ。落ち込んでるだろ、絶対。)  「…雨か。」  トウはこの後もしばらく、校庭を眺めたまま、雨宿りするだろう。

お化け屋敷

山間部にある限界集落。 集会所に年寄りたちが集まった。 「だいたい集まったな」 村長が、長机を挟んで座った。 「今日は、村の今後のことを話そうと思ってな」 「どうした、急に」 「昔みたいな、賑やかな村に戻りたいだろ」 ──ガラガラガラ。 玄関の扉が開いた。 「遅くなりました」 スーツ姿の男が入ってきた。 「おぉ、待ってたよ。この人、ホラープランナー」 年寄りたちが、視線を向けた。 「村長、あんた何考えてんだ」 「この村、空き家多いだろ。それ使って、お化け屋敷作る」 男が、声をあげた。 「私は、お化け屋敷の企画から立ち上げ……」 「ちょっと待て。村に、お化け屋敷作るってか」 村長が立ち上がり、窓の向こうを指さした。 「若い奴らって、心霊好きだろ? しかも、没入型だ」 「なんだ、それ」 男が一枚の紙を取り出した。 そして、年寄りたちを見渡すと、大きくうなずいた。 「まぁ、開業は二、三年後ってとこですかね」 ──契約書。 『死後はキャストとして勤務すること』

悪食

とりあえず書こうか。なんとなく惰眠を貪る悪魔。 「無駄寝をやめたい」 一日中寝て過ごす。変人野郎、転がり続けろ。そう思って平日が終わり休日へと赴く。深夜へ徘徊し世間の流れに沿う。働いているひと 「乾杯」 と今日仲間と酒を飲み休みを矜持する。最近はアルコールを飲んでいない。大学のメールでは 「飲んでも呑まれないよう」 にと警報を鳴らしている。すぐにゴミ箱に投下するが。 「自分が神と確信する」 ただし、落ち目の半神。偽りの偶像を崇拝する。錆びたクロムのように栄光の日々を追体験する。空虚な人生を無視する。

待ちぼうけ

男女が、ゆっくりと目を開けた。 「私たち、死んだのね」 二人の手は固く握られている。 「これでみんな、分かってくれたさ」 「そうね。私たちの愛は本物だったって」 見つめ合う二人。 「……なんか、人多くない?」 辺りを見回し、杖をついた女に声をかけた。 「すみません。ここは、どこですか」 「ここ、三途の川だ。並ぶんなら、向こうだ」 女は長い行列の最後尾を、杖でさした。 「あっ、スマホがない」 女がポケットを探る。 「洗面所の鏡のとこに置いてきた」 「もう、いいんじゃない」 「だめ。データ、消してないもん」 その時、遠くで声がした。 「ん…?お母さん。ちょっと待ってて。スマホ、取ってくる」 女は、声がする方へ走った。 「先生、すぐ来てください」 看護師が大きな声を上げた。 母親は娘の手を握り、泣いている。 「私のスマホ…」 男は河原の石に腰掛け、女の帰りを待った。 「兄ちゃん、どうした」 酔っぱらいが横に座る。 「僕も、帰りたいんですけど。どうしたら、いいですか」 「誰か、呼び掛けてくれる人、いねぇのか」 「はい」 「じゃあ、その彼女、待つしかねぇな」 酔っぱらいは笑いながら、男の肩を叩いた。 「その彼女、今度来る時は、婆さんだな」

ゆめぎみさま

 夢君様。  うららかな春の日差しのなか、レイノは、ある昔話について考えていた。  夢みる君の様だ。そんな一節から始まる、有名な語り草、ゆめぎみさま。怪異の一種、ともいえるかもしれない。  夢君様とは、夢の世界を治める王子のこと。向こうの世界では時折、雲が晴れたとき、上空に現の世界が見える。王子が夜空を見上げていて、偶然人の姿を捉えると、その人は白昼夢に落ちる。向こうの世界の夜は、こちらの昼だから。  王子が、見つけた人を夢に引き入れると、その人は美しい夢を見るそうだ。ただ、大抵の人は、目覚めたくないと思ってしまう。  だから白昼夢は、レイノの住む地域では、死の前兆として恐れられているのだった。  夢君様とは、こんな御伽噺。  レイノはふと、頬杖をついている窓の下、池に映る自分の顔と、視線が合った気がした——————。  ◇◇◇  気がつくとレイノの意識は、池の中に溺れていた。  「ここはどこ?」  ぼんやりとした音色が、彼女の口をついて零れる。すると、  「眠り姫、こっちへおいで…レイノ……。」  どこかから、彼女を呼ぶ声が聞こえた。彼女は覚束ない意識のまま、ふらふらと、ついて行ってしまった。思考を誘い込まれたように。  「だぁれ?なんで、私の名前を知ってるの?」  いきなり、鮮明な声を出せるようになって、レイノはぱっと顔を上げた。今は夜みたいだ。顔を上げて初めて、俯いていたと気付いた。  「………えっ?」  彼女が素っ頓狂な声を上げたのは——目の前に、誰かの顔があったから。  「あぁ、お前がレイノ…か?僕は、ユラユ。よろしく。」  その言葉を聞いた瞬間、誰かの顔の揺らぎが、一つに収まっていく。段々とまとまって、最後、そこにあったのは、同い年くらいの少年の姿だった。  (でも私…君を…知ってる……。)  レイノの思考がふと、彼方を彷徨った。  「ユラユ…。」  「どうしたの?どこかを見ているよ。」  ユラユの声が、どこかへ行きそうになった彼女を引き留める。  「いや、なんでもない。でも、君を知ってる気がしたの、ユラユ…。」  すると彼は、首を縦に振って言った。  「そりゃあそうだよ。だって僕は、ここの王子様だもん。」  レイノはふと、何か思い出しそうになりながら、  「でも私、外から来たんだよ。なのに、ここの王子様なんて、知ってるはずがないの。」  と答えた。  「ううん、そうじゃなくて。僕、夢の世界の王子様。だからみんな、ここに来る人は、僕の印象を知っているんだ。いや、僕が、君の想い出の何かと似てるってこと。」  ユラユの言葉に、あっ、とレイノは声を上げた。  「じゃあ君………夢君様、なの?」  「そうだよ、うん、そうだよ。」  ユラユは、目を細めて微笑み、頷く。その瞬間、レイノの思いの中を、影が掠めた。  (……あ、分かった。君、ライリに似てる。)  レイノは気が付く。思い出す。  ライリは、レイノの弟。——と、レイノが思ってばかりいた相手。  ライリは、異母兄弟だった。父親の、不倫相手の子だった。  「ライ、リ…。」  レイノは、思わず呟く。彼女は昔、まだ小さいのに、兄弟を奪われてしまった。その悲しみが、彼女の胸をついて襲った。  「…レイノ。どうした?」  ライリ…ではなくユラユが、彼女の顔を覗き込んで、手を差し出す。指と指が触れた途端、涙が込み上げてきて、レイノは両手を握りしめた。握ったはずの手に、いつの間にかユラユの手が、滑り込んでいた。  「…ライリ、って呼ばせてっ。」  ユラユは不思議そうな顔をする。  「別に、良いけど。」  (でも、ここに来た人は、みんなそういう。誰も、誰も……!)  「え!?」  レイノがいきなり上げた大声に、ユラユはびっくりして、彼女の手を離した。  彼女は泣きたいのを必死にこらえて、じっとユラユを見つめている。  「う、そ…そんなこと…良いの……?」  ユラユは半ば困惑して、首を傾げた。  「そりゃ、そうだけど…。まさか冗談だった?」  限界まで溜まった涙が、レイノの両目から溢れて、ぼろぼろと零れる。  「………ユラユっ。」  レイノは、彼の手をぱっと握って、握りしめていた。じっと、ずっと、動かなかった。  「ありがと、ありがとっ。」  ユラユはレイノを見つめる。  「……な、にっ?」  「ここに来た人は、大切な誰かを愛していたんだ。僕はその誰かに、見立てられてばっかり。誰も僕を、僕だと思ってはくれなかった。だから…君に、ありがと。」  ◇◇◇  レイノが暮らす地域では、白昼夢は恐れられていた。  けれどもう誰も、白昼夢は見ないという。  だって夢君様ユラユは、レイノしか見上げなくなったから。  レイノが、白昼夢をみるのを、ずっと秘密にしていたから。  夢君様とは、こんな御伽。

水を1杯ください

いつも通る道にいるホームレスがそう言ってきた こうゆう時、皆はどうするだろう 俺はあげる一択だ  「ちょっと待っててください」 そう言って俺は近くにあった自動販売機で、水を1本買った  「はい、熱中症に気を付けてくださいね」  「ありがとう、君は優しいね」 ニタニタと気持ち悪く笑うホームレスを後にして、俺はその場を去った なぜ、俺はあのホームレスに水をあげたのか 多分、大抵の人は無視する一択だろう 俺は見てしまったんだ つい昨日の夕方、そのホームレスが遠くの方で誰かと揉めているところを 見間違いかと思って昨日はそのまま帰った 今日気になって昨日揉めたであろう場所を見に行ったら、草影に血塗れの包丁があった 辺りに死体らしきものはなかったが、まさかと思い先程のホームレスに会ってみた そのホームレスは見かける度いつも同じ服を着ていて、洗濯もできてなさそうで臭いがやばかったが 今日は別の服を着ていた 服には血がついていた 赤のチェック柄で少し紛らわしいが、アレは間違いなくそうだ そしてホームレスは俺に言ったのだ  「水を1杯ください」と 勝手な憶測だが、多分同じ様に問いかけたのだろう そしてそれを無視したか、罵声を浴びせたかを誰かはしたのだろう… チラッと後ろを見た ホームレスがニタニタとコチラを見ている 断っていたらどうなっていたことやら… 背筋がゾッとした、俺はその足で警察署に向かった

右目の大きい君

 君は右目が少し大きい。 角度によっては誰よりも美しい目をしている。 僕にとっての大切な宝物。 その素敵な目を授けてくれたのは誰なんだろう?と蛍光灯のついた部屋で考える。 でも人工物におおわれた部屋では考えがまとまらない。 月明かりが見たくなる。 でも外は雨。 優しい目は昔動物園で見た象の授け物かも知れないと思う。 あるいは僕がまだ狩りをしていた頃許しを請うような目で見ていたマンモスの物かも知れないと思い至る。 狩りとは罪なのか? でもあなたは私を狩ったじゃない、と君は言った。 今日も豚肉を食べた。 命を頂く、その行為に少し罪を感じる。 月明かりが見たい。 明日も太陽は雲に隠れているだろう。 長雨は生き物たちの連綿とした繋がりを考えさせる。

環境の違い

ある日の夕方。 テレビのローカルニュース。 アナウンサーが原稿に視線を向けた。 「今日の午後、17歳の高校生が民家に忍び込み、現金3,000円を盗んだ容疑で逮捕されました」 画面に、口元だけの女が映った。 『挨拶もきちんとできるいい子よ。 そこの公園で、いつも一人でサッカーボールを壁にぶつけてたわ』 モニターを見るアナウンサーが、小さくうなずいた。 「次のニュースです。 今日の午後、17歳の高校生が地元サッカークラブへの入団を決めました。契約金は3,000万円だそうです」 画面に、笑顔の女が映った。 『挨拶もきちんとできるいい子よ。 そこの公園で、いつも一人でサッカーボールを壁にぶつけてたわ』 モニターを見るアナウンサーが、小さくうなずいた。

母親の顔

私は乗車口のすぐ後ろの座席に腰を下ろした。 車内に、女性の丁寧な口調の自動アナウンスが流れる。 その声だけが、場違いなほど大きかった。 だが、それを気にする乗客はいないようだ。 周りの誰もがスマホの画面をじっと見つめている。 多分、隣に立っている人が突然消えたとしても、彼らは気づきもしないだろう。 流れる外の景色を眺めながら、田舎に住む母との昨夜の電話を思い出していた。 母の口調は、この前話したときよりも柔らかく、どこかゆっくりしたものになっていた。その変化に、少し戸惑った。 バスを降り、駅へ向かう途中のコンビニで煙草と缶コーヒーを買った。 出口脇のラックに差し込まれた新聞の見出しを横目で見ながら、店を出る。 街路樹の緑を映す水溜りの向こうに、駅のホームが見えた。 トイレを済ませてホームに戻ると、電車を待つ人は数えるほどになっていた。 到着を告げるアナウンスが響く。 母が元気なうちに、あと何回帰れるだろう。 ホームの喧騒が遠のき、母の顔が脳裏に浮かんだ。 ここ数年の、少し穏やかになった顔。 宿題をさぼったときの厳しい顔。 小学校の参観日にきた時のまだ若い頃の顔。 故郷との距離が、急に遠くなったような気がした。 私はしばらく目を閉じた。 目を開けると、滑り込んできた電車にいつも通り乗り込んだ。 車内には、昨日と同じ顔が静かに並んでいた。

覗き穴

午前八時。 薄暗い部屋の中に、玄関扉の穴から小さな光が差し込む。 男は片目を閉じ、息を凝らしてその穴を覗いた。 広角レンズで歪んだ町。 駅へ向かう人たちが行き交っていた。 目の前を肩からバッグを下げた女が横切った。 「……くそっ」 舌打ちをする。すぐに姿は見えなくなった。 するとその後ろからスーツ姿の男が現れた。 扉に手をあて、頭を斜めにして覗いた。 次の日の朝。 また扉の穴に顔を近づけた。 たくさんの人が横切っては消えていく。 昨日の女── 女が消えたあと、後ろから男が遅れて現れる。 次の日も、また次の日も。 女の少し後ろに、影が重なる距離まで来ていた。 近い── 外は小雨が降っていた。 傘をさし、いつものように駅へ向かっている。 傘で顔を隠した男が後ろに迫る。 横を歩いていた老人が、女の背中を杖で突いた。 振り返り、男の姿を見ると駆け出した。 ──カチッ。 暗闇。 端から白い文字が流れる。 『サンプル動画はここまでです』 部屋の男は小さく息を吐いた。 そして玄関の扉を開ける。 眩しい── 目を細め、外側の穴に取り付けていた小さな箱を外した。

遅くなった夜

久しぶりに遅くなった。 先延ばしにしていた雑務に手を付けたら、八時を回っていた。 やってしまった、と思う。 この時間に会社を出ると、乗り継ぐバスが極端に減る。 この前、ひどい目に遭ったばかりだった。 残業そのものより、自分の要領の悪さに対する徒労感で身体が重い。 引きずられるように地下鉄の階段を降りた。 車内に滑り込み、躊躇なく優先座席に腰を下ろす。 夜の地下鉄には、朝とは違う歪んだ熱気が溜まっていた。 高いテンションで喋り続ける者。 置物のように動かない者。 死んだような目でスマホを撫でる者。 斜め向かいで、中年夫婦が漫才のような会話を続けている。 うるさいと感じてしまうのは、こちらの勝手だ。夫婦に罪はない。 そういえば、妻から今日中に頼まれていた用事があった気がする。 思い出せないまま、向かいの喋り声を聞いていた。 困ったことなど、何ひとつ起きてはいない。 家に着けば、妻の小言を聞きながら冷えた晩飯を食い、風呂に入る。 これが平和というやつなのだろう。 目的の駅に着くまで、まだ少し時間がかかりそうだ。

地下ランドリーの話

俺が学生時代、アメリカに住んでたときの話なんだけどさ。俺が住んでたところは、それぞれに個室があって、キッチンとか風呂は共用。 シェアハウスって言えばイメージしやすいと思う。すっげぇ古い家を何度もリノベーションして使ってて、煙突と暖炉のある立派な家だった。歴史を感じられる、いい家だったよ――ただひとつを除いて。 俺は、この家のランドリールームが嫌いだった。 玄関から入って右の扉を開けると、地下に続く暗い階段がある。そこを降りると、例のランドリールームだ。コンクリート打ちっぱなしで、年中ひんやりしてて、どこか湿っぽい。裸電球がひとつ、部屋の真ん中にぶら下がっているだけだから、端のほうはいつも薄暗くてよく見えない。昔の住人が使っていたのかもわからない工具が、床にいくつも転がっていた。 洗濯機と乾燥機が一台ずつあって、誰かが使ってたら少し待たなきゃいけない。三十分以上かかるなら一度部屋に戻るけど、十分くらいなら他のやつに取られたくないし、そのまま地下で待つことが多かった。 その日もそうだった。真夏なのに、ランドリールームは相変わらず肌寒い。俺はイヤホンから流れるヘビメタの音量を上げて、ぼんやりと洗濯機の回転を眺めていた。 ドラム式の洗濯機がゴウンゴウンとうなりを上げ、右上に表示された赤い残り時間が、五分ごとに減っていく。 そのとき、視界の端で何かが動いた気がした。 反射的にそっちを振り向く。 床には何もない。 ゆっくりと視線を上へ上げていくと……脚があった。 白い脚が二本、何もない空間で、ゆらゆらと揺れている。 膝から下だけの、裸足の脚。 暗闇の中で、自ら発光しているみたいに白く、静かに揺れていた。 俺は声も出せずに、階段へ駆け上がった。 そして、家にいたやつら全員を引き連れて地下に戻った。けど、そこにはいつも通りの、ひんやりとしたランドリールームがあるだけだった。洗濯が終わったことを示す赤い「0」が点灯している洗濯機と、俺の洗濯物が入ったカゴがぽつんと置かれているだけ。 ハウスメイトたちには「ビビリ」だなんだとバカにされたけど、俺はこの目で、確かに見たんだ。 その日からアメリカを去るまで、俺は地下に行く前に階段の上から洗濯機の音を確認してから降りるようになった。ゴウンゴウンと聞こえれば、地下に降りずに音が止まる、つまり洗濯が終わるまで地上で待った。 ランドリールームにいる時間はできるだけ短く。 そして…あの脚があった場所だけは、絶対に視界に入れないようにした。

それ、僕やん

「お風呂に入るわ」 妻が風呂へ行った。 「お前も入ったらどうだ」 テレビの前でスマホを見ていた次男が、「母ちゃんが出る頃に入る」と返す。 次男は、今でも妻が風呂に入ると、あとを追うようにして入ることが多い。 「ほんま、いつもそうやな。母ちゃんが入ると、お前も入る」 「あんた、もうマザコンやめや」 娘の容赦ない声が飛ぶ。 「マザコンって何」 次男が、テレビから目を離さずに聞き返す。 「あんた、マザコンも知らんの。いつまでもお母さん大好きで、くっついてる子のことや」 「それ、僕やん」 みんなが吹き出した。 脱衣所から出てきた妻も笑っている。 次男は今年、高校二年生になった。

総理、接待をする。

「総理。議事堂の前に、UFO来てますが」 「何しに?」 「さあ……」 金曜の午後、夕陽に照らされた円盤が、静かに着陸した。 「私たちは、あなた方と友好関係を築きたく、やってきました」 「それはそれは。では今夜、この国流の歓迎会をしましょう。大いに楽しんでください」 総理と宇宙人一行は、夜の街に繰り出した。 ──次の日。 「昨夜は、楽しんでいただけましたか?」 「私たち、帰ります。こんな暮らしをしてたら……」 そう言い放つと、UFOは高く飛び立った。 「総理。行っちゃいましたね」 「いいんじゃない。あの程度で音を上げるようじゃ、この国じゃ無理よ」 総理はドリンク剤を飲みながら、空を見上げた。

行き合いの空

ブザーが鳴った。 降りかけた遮断機の下を、原付バイクがすり抜けていく。 盆休み明けの出勤だった。 駅のホームで列のいちばん後ろに並ぶと、ぬるい風が首元を撫でていった。 少しずれた位置で電車の扉が開いた。 吊り革につかまり、窓の外を見た。 帰省中に、施設にいる義母の様子を見にいった。 去年の暮れに面会したときは、机に目を落としたまま、黙っていた。 もう言葉が届いていないのかもしれないと、妻と心配した。 「今日はどんなことをした?」 「……」 「具合の悪いところはない?」 「ない。身体だけは丈夫やき」 「×××さんは、いつ見に来てくれた?」 「……。あんたらぁも忙しいに、すまんねぇ」 会話は頼りないが、前より調子はよさそうだった。 敷地の外に出て、タバコを吸った。 足元の溝に、アメンボが五匹、水面を滑っている。 コンクリートの塀に、シオカラトンボが止まっていた。 ゆっくり流れる時間の中に、煙が消えていった。 電車の窓の外の雲が高く見えた。 季節は一歩ずつ秋に近づいているようだった。 義母の身体の中では、どんな速さで時間が流れているのだろう。 容赦なく進むその時間を、私は窓の外の空に見ることしかできなかった。

月列車、運休

「本日の特急ムーンアース月行きは、スペースデプリ衝突可能性のため運休となります」    発車標に映る出発時刻が、運休の文字へと切り替わる。  駅にいた人たちは、驚いた様子で発車標を見つめ、何人かは駅員へと詰め寄っていた。  私の手を握っていた弟の手に、力がこもる。   「おうち、帰れないの?」 「そうね。今日は、地球に一泊みたい」 「ええー。見たいテレビがあったのに」    私は、泣きそうな顔をする弟の頭を撫で、近くのベンチへと座らせる。  そしてスマホを取り出して、近くのホテルに空きがないかを検索する。   「高っ!」    案の定、宿泊せざるを得ない客を見込んだ周辺ホテルは、宿泊費を倍以上に上げていた。  月の民の平均年収は、地球の民より多いとはいえ、あまりにも露骨で腹が立った。  とはいえ、怒ったところで何かが解決するわけもない。  私は、近くの安くてダブルベッドの部屋があるホテルを、すぐに予約する。  予約のメールが届くと、さしあたりの危機が回避できたと、安心して溜息をついた。    私は弟の隣に座って、弟に微笑みかける。   「今夜は、ホテルに泊まるからね」 「えー。地球のホテル、重力が重いから嫌い」 「なんと、朝食はバイキングつきです」 「どこどこ? どこのホテル?」    目を輝かせる弟に、私はホテルの情報を表示したスマホを渡す。  弟は私からスマホを奪い取ると、画面を食い入るように見続けた。   「すげー! ハンバーグがある!」 「そうねー」    手持無沙汰になった私は、駅を歩く人たちをボーッと見つめる。  皆、月に帰る予定の人だったのだろう。  大荷物を抱えたまま、どこかへと電話している。  ものすごく焦りながらペコペコと頭を下げている人もいて、明日は大切な仕事でもあったのだろうか、なんて妄想を膨らませる。   「姉ちゃん、速く行こ!」    物思いにふけっていると、弟が私の手を引いてきた。  もう片方の手でスマホを差し出してきたので、私はスマホを受け取って、弟と手を繋いで歩き始める。  人の流れは、駅の外へと向かっており、私たちも流れに沿って歩き続ける。    駅の天井の窓から、月の光が差し込む。  まるでスポットライトのように、駅を歩く人たちを照らす。  私は天井に視線をやって、黄金色の突きを眺めた。    私の家は、当然見えない。  そもそも裏側の田舎だし、表側だったとしても小さすぎて見えるはずもない。   「不思議な感じー」 「え?」 「独り言ー」    駅を出る。  月は空で輝いて、地球の町にある家も一つ一つが灯りを放っていた。    いつも、遠くで青く光っている地球にも、こんなに誰かの人生があるんだ。  そう思うと、宇宙は広いんだなと、あらためて実感した。

国喰み

「——ふむ、これがイヅモの化身か」  ヤマトの大王《おおきみ》は、床に寝かされた男をじろじろと眺めた。歳は十四、五くらいだろうか。祭祀用と思われる長い衣と、細い三つ編みをいくつも下げた長い髪が、床に扇状に広がっている。目は閉じられたままで、顔はすっかり血の気が失せている。衣はずたずたで、血の跡が生々しくこびりついている。唇から浅い息がもれるのに気付かなければ、ただの若者の死体だと思うだろう。  だが、これほどまでの大怪我を負って尚生きているのだから、不死身と称される国の化身で間違いないのだろう。現に、出血は既に止まっている。大王はふむ、と少し考えたあと、側に控える少年を見た。 「こやつで間違いないか、祖国よ」 「……ええ、そうでありましょう」  少年は無表情のまま、静かにそう答えた。切りそろえられた黒髪に、深く闇に沈むような大きな瞳。彼がヤマトの化身——キリである。 「国の化身同士というのは、そう見ただけで分かるものなのか」 「……上手く言えませぬが、分かるのです」 「そうか。まあ、それなら話が早い。すぐに同化をしてしまえ」  大王はさっと手を振ってキリに命じた。キリは黙って礼をし、男のそばに寄った。  男のまぶたが震え、細く開いた。国の化身同士の気配を感じたか、ただの危機感か。御所の灯りを映して、男の黄みがかった瞳がちらりと光る。 「おま、えは……」 「ヤマトの化身です。今から貴方を喰い、イヅモをヤマトに同化させます」  キリは淡々と言い放った。大王は黙って腕をつき、興味深そうに眺めている。男は弱々しく笑った。 「ふん。そのような呪《まじな》いをしたところで……何も変わらぬ。我が死ねど、イヅモは続く」 「いいえ。化身の死す時はクニの死す時。たとえ八つ裂きにしようと細切れにしようと、クニが生きておれば化身もまた生きておるものです」 「……おまえの言う通りではないか。我はお前に食いちぎられようと、肚の中から復活してみせようぞ」  ひゅう、と喉を鳴らして、男は強気に笑ってみせようとする。 「よく覚えておけ、ヤマトよ。イヅモは何度でもよみがえる。お前らなぞに屈するなど——決して、あり得ぬ」  そう言い終えると、男は疲れ切ったように息をついた。キリは真っ黒な瞳をくもらせたまま、微かに首をかしげた。 「——言いたいことは、以上ですね」  男は答えなかった。ただか細い呼吸を続けるばかりだ。キリはまだ幼さが残る小さな手で、男の刺青だらけの左手をそっと包み込んだ。 「イヅモの地を、民を、神を——いただきます」  キリは男の手にかぶりついた。鋭く歯が食い込み、吐き気を催すような音を立てて肉が裂ける。鮮血が溢れ出て、国の化身二人の袖を真っ赤に染め上げた。キリは口に入った肉をよく噛みもせず、顔をゆがめて飲み込んだ。そして、飢えた狼のように、再びかぶりつく。  男はぴくりとも動かなかった。ただ薄く目を開けて、自分の体の喰われる様を眺めていた。その表情は、天寿を全うしようとする老人のようにも、早すぎる死を受け入れられない若人のようにも見えた。 (やれやれ。やはり国の化身とは、我ら人とは似て非なる者なのだな)  大王は脇息に片腕をあずけたまま、ため息をついた。部屋には、金物に似た血の匂いがつんと漂っていた。

募金お願いします

ある日の夕方、男が改札を出た。 一瞬、足を止める。 駅のホールに、小学生の声が響く。 「募金お願いします」 両手で箱を抱え、頭を下げた。 小さな女の子が駆け寄り、小銭を入れた。 杖をついた老人が、財布を開いた。 車椅子の青年が、片手で車輪を回しながら、箱に手を伸ばす。 「ありがとうございます」 取材のカメラが、小学生の笑顔を映した。 男は、大きく息を吐いた。 そして、両脇に並ぶ小学生の真ん中を歩き、駅を出た。 「募金お願いします」 背中に視線を感じる。 少しずつ、声が遠くなる。 男は、街のネオンを眺めながら呟いた。 「勝った」

百日紅

百日紅を怖いと思うようになった きっとあの物語のせいだ からすも かえるも いじわるなねこでさえも わたしは嫌いにならなかった 怖いとも思ったことがなかった 百日紅は どうもいけない 百日紅の咲く時期は 百日紅の咲くあの道を 避けてしまう日々

葛藤

頭の上で、オルゴールみたいなBGMが流れている。 息子を連れて、眼科に来ていた。 コンタクトレンズに替えたいと、言い出したのだ。 目が悪いのは、たぶん私の遺伝だろう。 「あなた、お願いね」 妻はそう言って、二万円を私に渡した。 診察代と、レンズの定期購入の分まで入っているらしい。 私は苦笑した。 子どものことになると、妻は気前がいい。 昼を過ぎると、待合室には受付の女性と私だけになった。 息子は診察中で、まだ扉の向こうにいる。 しばらくすると、またトイレに行きたくなった。 短パンには、エアコンが効きすぎている。 「すいません。ちょっと出ます。すぐ戻ります」 「はい。わかりました」 さっき、そんなやりとりをしたばかりだ。 またかと思われるのも気まずい。 黙って出るのも少し変だ。 迷っている暇はない。 自然に足が浮いてくる。 席を離れることを伝えると、受付の女性はさっきと同じ顔で「はい」と言った。 トイレから戻ると、ちょうど診察室の扉が開いた。 息子が、どこか得意げな顔で出てきた。

何もできない 何もしない

風が強くて何もできない 音が大きくて何もできない ということを理由に何もしないでいる そういった言い訳たちが、ただただわたしに何もさせない そんな怠惰なわたしを横目に、地鳴りのようなものすごい風の音 「あめ」は怯えをかくさない 窓の外の暗さが知らせてくれた、雨のおとずれ 「あめ」の小さな耳が素早くピッと立ち上がる 降りはじめを知ったのは、わたしより「あめ」のほうがいくらか早かったみたい ―さすがですね ほめてあげるその言葉は、カタチにはしないけれど 空高くにいる神さまが、やたらと怒っている 鳴神さまのおでましに「あめ」は、一目散で逃げていく 隙間でじっとしている「あめ」に 「雷っていうのよ」 教えてあげるのだけど「あめ」は、ぎゅっと目をつぶり、それどころではないみたい

ジュンバン、マモッテネ

女がゆっくりと目を開けた。 「そっか。私、死んだのね」 川原の石に腰掛け、辺りを見回した。 「すみません。ここはどこですか」 「ココ、サンズノウケツケ、ジュンバンネ」 外国人スタッフが、列の最後尾を指差した。 「三途の川って、本当にあるんだ」 女は、行列を眺めながら歩き出した。 すると、男が、行列に手を振りながら歩いてきた。 「いやぁ、どうも」 「先生。足元、お気をつけください」 年配のスタッフが、最前列に案内する。 「ところで、あれはご用意いただけましたか」 「ああ。ちゃんとここにある」 うなずきながら、胸のポケットを指先でつついた。 「どこも同じね」 女が、振り返って笑う。 そこに、スタッフが声をかけた。 「ジュンバン、マモッテネ」 「なんだ、お前。その口のきき方は」 何事かと、周りが騒がしくなった。 「ミンナ、マモッテルヨ」 男が、顔を赤くして詰め寄った。 「お前、国外退去にするぞ」 その言葉に、スタッフが男の手を握った。 「コレデ、クニニカエレルネ」

見えない男の子の話

ただのイタズラのつもりだった。 友だちとの悪ノリで交差点に添えられていた花を蹴りとばした。 そこでどんな事故があったのか、詳しくは知らない。 その日から、俺のあとを男の子がついてくるんだ。 最初に気が付いたのは、コンビニから出た時 曲がり角のうらにその子がいた。 気配を感じる、影が見える。 女の子じゃない。 男の子だ。 でも絶対に姿は現さない。 昨日は玄関ドアの向こうにいた。 日に日に距離が近づいている。 あの男の子に捕まったら俺はどうなるんだ?

人外人生相談②

『一途に想っているだけなのに』 私は今も生きている人間です。しかし強い想いのあまり、生霊になって好きな相手のそばに存在しています。相手が眠るときも、仕事に向かうときも、私はただ見守っているだけです。危害を加えたことは一度もありません。むしろ、わるい虫が近づくときには私の力で遠ざけてあげています。それなのに最近相手は体調を崩し「誰かに見られている気がする」「一人になりたい」と怯えるようになりました。お祓いを検討していると聞き、深く傷ついています。私は一途に愛しているだけです。生霊になるほど想っているのに、それを怖いだの迷惑だのと切り捨てられるのはあまりに理不尽ではないでしょうか。愛する人を見守り続けたいだけなのです。どうすれば、この想いを相手に理解してもらえますか? (30代・女性) はっきり申し上げます。あなたが語っているのは愛ではなく所有欲です。「危害を加えていない」「見守っているだけ」という言葉はあなた自身を安心させるための表現にすぎません。相手が恐怖を感じ、体調を崩している時点で、あなたの存在は明らかに加害です。あなたは「一途さ」を免罪符にしていますが、一途であることと相手の意思を無視することは別です。むしろ、拒絶されてもなお離れない点においてあなたの行為は非常に一貫しています。自分の欲望に対して、です。相手が「一人になりたい」と言っているのにそばに居続ける。それを愛と呼ぶなら、世の中の多くの暴力も愛になってしまいます。なぜ理解されないのか。その答えは単純です。あなたの想いは、相手に向いていない。自分が満たされるためだけに存在しているからです。生霊になるほど想った、という事実は美談ではありません。それは「相手の人生より、自分の感情を優先した」という記録です。理解してもらう方法はありません。理解されるべきものではないからです。もし、ほんのわずかでも相手を愛しているという自覚があるなら、今すぐ離れなさい。姿を消すことが、あなたにできる唯一の善行です。それができないのなら、あなたは相手を愛しているのではありません。取り憑いているだけです。 (作家) 『老いることに恐怖と嫌悪感』 20代女です。年をとる自分や、衰えていくことが怖いです。年齢を重ねた自分にどんな価値を見いだせるのかと考えると、老いた自分を想像することが嫌になります。「若い時間を無駄にするな」などの言葉を聞くと、「私はこの瞬間を大事にできているのか」と強迫観念に押しつぶされそうになります。また、特に女性は若さが絶対的な魅力のように言われることも少なくないと思います。老いてかわいくなくなる自分や衰えていく自分を想像すると「若くてきれいなまま一生を終えられたらどれほどいいか」とさえ考えてしまいます。あらがえない時間の流れに揺らがないためにはどんな心持ちでいたらよいですか? (20代・女性) 老いることに恐怖や嫌悪感を覚えるとの相談ね。驚いたのは、相談者がまだ20年しか生きていないこと。そんな若い頃から老いを悩みにしてしまうとこれから先大変よ。老いを不安に感じるのは、それが衰えだと思うからでしょう。でも、本当にそうなの?老いというのは衰え?いいえ、成熟でしょう。精神だけではなく、肉体さえも成熟していくの。人間の身体が変化するのは仕方がないわ。そういう生き物だもの。でも、その変化を衰えと捉える必要はないの。衰えと捉えるのは、できないことをやろうとするからよ。若い頃の精神や肉体に向いていることと、老いてからのそれらは違うの。だから逆に老いてから向いてることを若い頃にやろうとしてもダメね。年齢を重ねて、その時にできる最高のことをしましょう。 (400代・妖狐) ※実在の人生相談をモデルにしています

人外人生相談①

『満月が憂鬱』 私は生まれつき人狼です。普段は人間社会に紛れて、会社勤めをし、近所付き合いも無難にこなしています。しかし月に一度満月の夜になると理性を失い、遠吠えを上げ、どうしても衝動的になってしまいます。幸いこれまで大きな事件は起こしていませんが、翌朝には記憶が曖昧で爪や服が傷んでいることから「何かしてしまったのでは」と不安になります。周囲には正体を明かせず、恋人とも深い関係を築けません。人狼である自分は、普通の幸せを諦めるべきなのでしょうか?最近は満月が近づくたび、憂鬱で仕方ありません。人狼としてどう生きていけばいいのか、助言をいただければ幸いです。 (30代・男性) ご自身の本質と社会生活との間で揺れ動くお気持ち、文章から痛いほど伝わってきます。まずお伝えしたいのは「人狼であること」と「幸せになること」は両立するということです。あなたはすでに人を傷つけぬよう努力し、理性を保とうとしてきました。それは獣ではなく責任を引き受ける存在の姿です。満月の夜に理性が揺らぐのはあなたの怠慢ではなく性質です。重要なのは被害を最小限にする工夫を重ねること。その日は人里を離れるなど防衛策を練りましょう。それは逃げではなく、熟慮の上での選択です。また、誰にも正体を明かさず生きる孤独は想像以上に心をすり減らします。すべてを打ち明ける必要はありませんが「月に一度、どうしても一人になりたい夜がある」程度の真実を誰かと共有することは可能かもしれません。理解されるかどうかよりも伝える勇気を持ったという事実があなた自身を支えます。人狼であるあなたが諦めるべきなのは、普通の幸せではありません。「人としての」普通の幸せです。完璧に人間であろうとする必要はありません。理性と衝動、その両方を抱えたまま、それでも誰かを想い、社会と関わろうとする姿は十分に人間的です。満月を憂鬱と感じられるあなたは、もうすでに孤独な獣ではないのですから。 (心療内科医) 『うわっ、俺の体臭くさすぎ!?』 俺は数年前にゾンビになった。自我ははっきりしてるし、会話もできるし、腐敗の進行も比較的ゆるやか……なほうだと思う。ただ、どうしても気になるのが体臭。自分では慣れてしまって気が付かないが、人とすれ違うと露骨に顔をしかめられる。消臭スプレーや香水も試したが「腐敗+フローラル」のような、かえってひどい結果になることが多い。最近は外出そのものが怖くなって、必要最低限の買い物以外は引きこもっている。ゾンビである以上、臭いは仕方ないと割り切るべきなんだろうか?それとも、社会で生きる以上もっと努力すべきなのだろうか?どうしたらいいのかはわからないが、ゾンビを言い訳にするのは違う気がしてる。 (享年20代・男性) ご相談文からは、体の問題以上に「周囲からどう見られているか」を気にしているあなたの誠実さが伝わってきます。まず大前提として、ゾンビである以上ある程度の体臭が生じるのは避けられません。これは不潔さの問題ではなく、構造上の話です。その点を、まずご自身が責めすぎないでください。一方で「仕方ないから何もしなくていい」という結論も、あなたにはしっくりこないのでしょう。実際、あなたはすでに試行錯誤を重ねています。ここで少し視点を変えてみましょう。人間社会は実のところ、常に「誰かの不快」を内包しています。汗の匂い、香水、タバコ、生活臭など完全に無臭な人間など存在しません。ゾンビの体臭は目立ちやすいだけで「存在してはいけない匂い」ではないのです。もし可能であれば「完全に消す」ことを目標にするのではなく「状況を選ぶ」工夫をしてみてください。屋外中心の行動、理解のある店やコミュニティ、同族や人外が集まる場所。あなたがあなたらしく生活できる環境は必ずあります。何より大切なのは、臭いによって否定されているのは、あなたの存在そのものではないということです。体は変わっても、気遣い、恥じらい、他者を思う気持ちは、あなたが生きている証です。臭いを気にするあなたは、すでに「社会の一員」であることを誰よりも真剣に考えているのですから。 (作家)

浮ついた心

目が覚めたとき、自分がどこにいるのかわからなかった。 最後の記憶はワインに口をつけたところでぶつりと切れている。 意識がはっきりしてくると、見慣れた自分の部屋の天井が見えて安心する。 だが、起こそうとした体が動かない。 視線だけで改めて自分の状況を確認する。 脚は足首の部分で縛られており、左手は背中に固定されピクリとも動かない。 さらに奇妙なことに右手には包丁を握らされ、テープでガチガチに固定されている。 喉がひりつく。 空気が乾いていて、喉を裂くみたいに呼吸が痛い。 声を出したつもりだったが、口から漏れたのはひゅうという息だけだった。 部屋の隅、誰かが座っていた。 椅子の脚がきしみ、細い影が立ち上がる。 「目、覚めたんだ」 彼女だった。薄暗い部屋に似つかわしくない綺麗な白いワンピース、長い髪がしっとりと肩に落ちていた。 いつものように、穏やかに笑っていた。 「ねえ、浮気、してたよね?」 足音はやけに軽く、でも、ひたひたと地面に染み込むように近づいてくる。 「バレないと思った?まぁ、いいよ。もう全部、終しまいにするから」 彼女が俺の右手に視線を落とす。包丁が鈍く光を返した。 そっと俺の膝に自分の膝を重ね、白い手を伸ばしワンピースの胸あたりに包丁の刃をあてがう。 「やめろ、待て、おいっ……!」 声が裏返る。恐怖じゃない。脳が現実についていけていない。 「……ずっと思ってたの。どうしたら、あなたの中に、残り続けられるんだろうって」 刃が、皮膚を押し分ける感触が伝わる。 彼女の身体がゆっくりと沈んでいく。 右手に、ぬるりとした温もりが絡みつく。 確かな人の重みが、 俺の腕だけではなく、 身体に、 足に、 かかっていく。 鼻をつく鉄の匂いが一気に広がる。 酸味を帯びた温かい風が鼻腔を焼き、喉の奥に貼りついた。 ぐちゅり、と音がした。 彼女の中を刃がかき混ぜる音。 鼓動の音が、 うるさい。 自分のものか、 彼女のものか、 もう区別がつかない。 耳鳴りのなか、彼女の唇がゆっくりと動いていた。 何かを言っていた。 大事な何かを。 だけど、聞こえない。 聞こえない。 吐き気がこみあげる。視界の端が滲む。 彼女の顔がすぐそこにある。 血の匂いと髪の香りが混ざって、脳がぐらつく。 彼女は笑っていた。 何もかも、満たされたような、安らかな顔で。 俺の腕の中で、冷たく、静かに、沈んでいった。 ……忘れられるわけがない。 このぬくもりも、匂いも、目の奥に焼き付いたその顔も。 一生、俺の右手に、彼女は残り続ける。

病院

平日の昼前だというのに、大学病院は思ったより混んでいた。 待合室のモニターが短いチャイムと共に、番号を無機質に読み上げる。 白い天井。周囲の雑多な騒めき。 看護師が患者の番号を繰り返し呼んでいる。 妻は今ごろ、駅前で時間を潰しているはずだ。 診察が終わったら、娘と三人で昼を食うことになっている。 疲れた患者たちの頭上を、看護師の明るい声が通り過ぎる。 どこかおかしくて、私は小さく息を吐いた。 立ち止まったベビーカーの陰から、小さな女の子が私を見つめている。 軽く笑いかけると、女の子は慌てて母親の背中に隠れた。 待ち始めて四十分が過ぎた。 受付窓口では、さっきから男がひとり文句を言い続けている。 三階に上がった。 以前世話になった腎センターの横に、喫食スペースがあるのを覚えていたからだ。 缶コーヒーの冷たさに指を滑らせながら空いている席を探したが、どこも埋まっていた。弁当を広げている者もいる。 諦めて、二階のソファに戻った。 腰を下ろすと同時に、隣の男の呼び出しベルが鳴った。 私の順番は、まだ来そうにない。 「結構、時間がかかったのね」 合流した妻の声には、少し棘があった。 両手には、量販店の買い物袋が増えている。 ——それより、検査結果はどうだった? そう尋ねるのが普通だろう、という言葉を私は呑み込んだ。 「さて、昼飯は何にしようか」 「マックがいい」 娘がスマホから目を離さずに言う。行き先は、端から決まっていたようだった。 「じゃあ、そうするか」 歩行者信号が変わるのを待ちながら、私はさっきまでいた小さな診察室を思い出していた。 半年前の術後の経過が、あまり芳しくないらしい。 担当の女医が見せた職業的なポジティブさと、やけに丁寧な口調だけが、妙に耳に残っていた。

ひきこもりについて

 ひきこもりにできることは一つもない。寝て食べて便所へ行くことはできる。たまに、便所にさえ行くことを拒むひきこもりもいるらしいが。とにかく、ひきこもりにできることは一つもない。何かできることがあれば、外へ出られるから。  そう思うことは間違いなのだろうか。そもそも、ひきこもりに対する考え方に正解はあるのだろうか。個人の問題、ひきこもりの数だけ正解があると言われれば、何も言えなくなってしまう。  一人の引きこもりを例に挙げてみよう。  自尊心と自負心に溢れ、人との距離をうまく掴めず、人間関係を構築できない。理想の自分と外の社会へ出た自分のギャップに耐えられず、ひきこもりになり、小さな部屋でせっせと自負心を積み上げ、周囲の人間の無理解へ憎悪と軽蔑を膨らませるのだ。それは風船のように中身のないもので、膨らませれば膨らませるほど、部屋の中は狭くなり、膨らませる力だけが鍛えられていく。数日経てば萎んで、部屋に溜まった埃を絡めたゴム袋になって床にへばりつく。その頃、当の本人は小さな画面で見た嘘か本当かもわからない他人の生活を見ては、新しい風船に空気を吹き込んでいる。  大きく幾つもある風船が部屋を占領し、脳へ運ばれるはずだった酸素を奪い、玄関の扉を塞いでいることに本人はまだ気づいていない。  それが私自身であることを除けば、滑稽な風景に呆れて笑うことができたんだろうけど。

シチュエーション:教室

ひどく冷える。そして、なんだか息苦しい。僕のまわりの空気だけがやけに薄くって、それで息苦しいのか、それとも濃すぎて息苦しいのか、そのあたり、いまいち判然としない。 教室という同じ空間にいて、その小さな世界に薄いとこと濃いとこがあって、冷たいとことあたたかいとこがあって。 「教室がまるでドッグランみたいに見えるわね」 僕のひとつ前の席にいて、みっちゃんは僕のまわりの空気をあたためてくれる。 「小さな台風と言ったほうがいいかしら」 みっちゃんのひと言は、瞬時にクラスメイトを犬に変え、ニンゲンではない気象現象にも変えてしまう。教室を近くの公園に変えるのだって、雰囲気のいい喫茶店に変えるのだって、みっちゃんにとってはわけのないことだ。 「苦しかったの?」 「え…」 「深呼吸…」 みっちゃんを見つめ、僕は、次の言葉を待つ。 「してみたら」 言われるまま、深く息を吸い込み、そして、ゆっくり吐いていく。 「少しはおさまったかしら?」 見抜かれてる感じが、でも、僕にとっては心地いい。 チャイムが鳴って、先生が教室に入ってくるのとほとんど同時にみっちゃんは前を向く。朝のホームルームがはじまり、先生があの言葉を言わないことを、僕はいつも祈っている。  席替え みっちゃんの席が遠くになってしまったら、きっと僕は、寒くて凍えてしまう。

今日の終わり

天井のスポットライトと、通り過ぎる車の灯りが、自分の影に別の影を重ねては離していく。 やがて目の前の群衆は、あっという間にバスに飲み込まれていった。 一番後ろの座席に腰を下ろす。 目の前では、女学生が手すりにつかまって立っていた。 座れそうな隙間はあるのに、わずかに足を開き、オレンジ色の棒を握っている。 その背中を、ぼんやり眺めていた。 足元から伝わる微かな振動が、眠気をゆっくり連れてくる。 今日一日をどうにかやり過ごしたことも、その揺れのなかではもう遠いことのように思えた。

プール

いくらまだ 暑さが残ってるからといって 九月に入るプールほど マヌケなものはない バレンタインにお雑煮を食べるような ゴールデンウィークに桜餅を食べるような サンタさんはとっくに行ってしまったのに ケーキとチキンを食べるような 夏の盛りより いくらか低い位置にいる太陽は 夏の疲れがちょっぴり見える 僕たちにしても 夏休みに求めていたほどには プールの水の冷たさを 求めてはいないのだ 先生が笛を吹いて みんながいっせいにプールから上がる ゆらめきがおさまるプールの上を トンボが優雅に舞っていく 雲のカタチが すこしだけ秋っぽい それがなんだか さびしくてならない

1+1=3を丸にした

 完全に、好奇心だったと言わざるを得ない。  生徒の間違えた問題に、丸を付けてみた。  そして、次のテストでも、同じ問題を出した。    その生徒は、前と全く同じ間違い方をしてきたので、ぼくは再び丸を付けた。    きっと、生徒は間違った物を正解とみなしてしまったことだろう。  その原因が自分にあると思うと、なんだか全知全能の存在になった気がした。       「先生? どうして、あんなことしたんですか?」    結論から言おう。  ぼくは、間違いを教えた生徒に刺された。  腹部に広がる生暖かい感触が、自分の罪を教えてくれた。   「そういえば、人を刺してはいけませんって教えてなかったね」 「そうですね。教わったのは、自分に害をなす人間は排除しろ、です」    過去の自分を引っぱたきたい。  嘘を教えて、間違える生徒たちを見て、無邪気に笑っていた自分を引っぱたきたい。    世界という同じ檻の中。  世界に落とした間違いの種は、いつか自分に跳ね返ってくることを予想できなかった。ぼくの落ち度だ。    ぼくもまた、ぼくの先生から間違えたことを教えられていたらしい。

遠足が あったとしても そうでなくても 眠れない 悩みが あったとしても そうでなくても 眠れない 暑くても 寒くても 涼しくたって 眠れない 眠らない街で 今夜も わたしは 眠れない

職業魔王選択

 『1564番の方、お待たせ致しました。4番窓口へお越し下さい』 巨大な禍々しいオーラーを放っているいかにもな大角の魔王ぽい男が、ドシドシと歩いていった ここは、職業選択受付案内所 死んだ者達が毎日ここで、次に生まれた時の職業を選んでいるらしい 農民になるもよし、貴族になるもよし、王子様になるもなんでもだ  『1565番の方、お待たせ致しました。5番窓口へお越し下さい』 どうやら俺の番が来たようだ 案内された窓口前まで行き、用意されていた椅子に座る  『前ご職業をお願いします』  「えと…勇者でした」  『ここまでお疲れ様でした。ここの説明は入り口で聞きましたか?』  「あ、はい…簡単に」 さっき天使ぽい人に、冒頭の説明を聞いた  『では、次のご職業は何をご希望されますか?』  「えと………」  『今でしたらこちらの世界の勇者パーティー枠や、ここの世界の子爵の枠もあります』  「いや、勇者以外でお願いしたいです」  『かしこまりました。では…そうですね……』  「……あの」  『はい、何か気になる職業ありましたか?』  「魔王って……ありますかね」  『魔王ですね、かしこまりました。暫くお待ちください』  「あ、はい」 受付の人が奥へ行き、姿が見えなくなる 数分後、1枚の紙を持って戻って来た  「お待たせ致しました、只今こちらの世界の魔王枠が空いておりますが、いかがでしょうか」 受け取った紙の詳細を見る どうやら魔王が数百年前に討伐されて、世界が平和になったと端的に書いてある  「あの……こう言うのもアレなんですが」  『はい、何でしょうか』  「世界平和になったところ案内してもいいんですか?」  『そうですね…特に決まりはありませんので、大丈夫ですよ』  「そうなんですね……」 意外とあっさりでいいんだな  「じゃあ、ここでお願いします」  『はい、ではこちらで受理致します。続いてこちらの整理券を持って、あちら右手側にあるスキン選択案内へお願い致します』 見た目も選べるのか、良心的だな  『1565番の方ですね、こちらの枠内へどうぞ』 言われた通りに枠内へ入ると、目の前にステータス表示みたいなのが出てきた どうやらこれで見た目や属性などを変えれるらしい  『魔王ですと、こちら大角や三つ目などオススメでございます』  「大角……」 さっき大角の奴がいたな…いいな  「じゃ、大角を選択っと………あとは」 色々見た目に拘り、約30分が経過したところ  「これで…お願いします」  『はい、ではそのまま枠内でお待ち下さい。……まもなくスキン変更されます』 円状の光が俺を包み、下から姿が変わっていく  「おお……」  『こちら鏡です、ご不満な点はございますか?』  「いや………充分です、ありがとうございます」  『では、まもなく選択された世界へと飛びます、最初は赤ちゃんのままで誕生致しますが、成長するにつれて今選んだスキンになるように設定されております。あと一つ、こちらでの記憶は消去されますので、ご了承宜しくお願い致します』  「何から何までありがとうございました…では」  『良き魔王ライフを』