そっとしておいて

郊外の小さなアパート。 母親と男の子が暮らしている。 「これ、たくさん作ったの」 隣に住む年配の女性が、夕飯の余りを持ってきた。 「いつもありがとうございます」 中身を見ずに、冷蔵庫へ入れた。 男の子が、母親を見上げる。 「保育園、行こうか」 ヘルメットをかぶせ、後ろに座らせた。 「おはようございます」 「先生、おはようございます」 「これ、どうぞ」 保育士が、一枚の紙を差し出した。 「申請すると、町から支援金が出ますよ」 「いつもありがとうございます」 母親は折りたたんだ紙をカバンに入れ、自転車をこいだ。 「係長、おはようございます」 「子どもさん、大丈夫? 必要ならシフト調整するからね」 「いつもありがとうございます」 小さく頭を下げた。 ──その日の夜。 子どもを寝かせると、冷蔵庫からビールを取り出した。 「別に、そんな困ってないし……」 一気に飲み干し、もらった余りを箸で突いた。 「今日は何回……」 苦笑いで、電子タバコをくわえた。

いいのよ

かすかにきこえてくる 幻想的な音の連なり どこかで奏でられる 楽器の音色 なんという楽器かしら 教えてくれない? 問いかけには 応じてくれなくて いいのよ 気にせずお続けなさい 窓際のハーブは外を向いて 耳を傾ける あなたならわかる? ハーブからも返事はない いいのよ それで

臨終医

私は臨終医、仕事は単純だ。 静かな部屋に入り、相手を見て、時刻を告げる。 「御臨終です」 家族が泣きながら遺体にすがる。 そこに、家族に寄り添う気持ちなど必要ない。 それで、終わり。 父も医者だった。 臨終医になろうとしたが、なれなかった。 枠は少なく、選ばれたのは別の人間だった。 それでも父は言った。 「いい仕事だぞ」 理由は語らなかったが、その声が妙に耳に残った。 私は名門の医学部を出て、海外にも行き、博士号も取った。 回り道は多かったが、今はここにいる。 だからこそ、この一言は完璧でなくてはならない。 私は週に一度、ボイストレーナーに通っている。 発声練習の合間、鏡の前で無表情を確認する。 一度だけミスをしたことがある。 ペンライトを忘れた。 とっさに胸元の万年筆を取り出し、目の上で上下左右に振った。 近くにいた看護師も気づかなかっただろう。 最近、臨終医をモデルにしたドラマが放送され、志望する医学生が増えたらしい。 彼らは「御臨終です」の後に何か一言つけたがる。 私は何も言わない。 それが美学だ。 ある日、私は突然めまいがして倒れた。 目を開けると、ベッドの横で、若い臨終医が立っている。 「御臨終です。ご主人様は良い人生だったのでしょう。安らかな表情をされています」 私は思った。 まだ若いな──だが、悪くない。

記念日

今日で十六回目です。今抱えている花も、少し背伸びして買った和菓子も、すべてあなたが好きだと言ったものです。  今日で十六回目です。毎年、数えるのをやめようと思いながらも、指折り数えるのをやめられません。  家に帰るまで私は一人で、家に着いたら家族が待っています。唯一の家族が待っています。今日も家に着いたら、真っ先に駆けてきてくれるでしょうか。  この道を通るたび、あなたと過ごした日々を思い出します。長いようで短かった気もします。あなたの笑顔が頭から離れません。他にもたくさんの表情を見せてくれたのでしょう。しかし、どうしても頭から離れないのはあなたの笑顔なのです。毎日見ているからなのでしょうか。毎日通るこの道も、今日だけ淋しい気がします。  家の近くの公園で、子供がかけっこをしています。私たちに子供はおりませんが、おらなくてもよかったなとふと思います。でもあなたは笑顔で、少し淋しそうな雰囲気をまといながら、「そんなことはないよ」と言うでしょう。きっとそうでしょう。  玄関前を掃除しているお隣さんと目が合います。「今年もこの日が来ましたか」静かにそういうと、私の目を見ずに家に戻ります。私は、毎年ありがとうございますとお隣さんの背中をぼうっと眺めます。私がふたつ深呼吸をして、庭に植えられた金木犀の香りを楽しんでいる間に、お隣さんは家から出ていて、「これ、あの人に」そう言うとあなたの好きなどら焼きをくれました。ありがとうございますと会釈をすると、それ以上言葉を交わすことはなく家へと戻りました。  ただいまと玄関を開け、中に入ると何かが駆けてくる音が聴こえます。私は花と菓子を一度床に置いて待ちます。ワン、と吠えた私の愛犬はそのまま胸に飛び込んできました。何度か撫でると満足したのか部屋の奥へと戻ってゆきます。花と菓子を持ち、靴を脱いでそのままリビングルームへと入ります。机に荷物を置き、手を洗い、再び花と菓子を持ったままあなたを探します。といっても、もうあなたの居場所はわかっています。  一つ隣の和室へ入ると、ただいま。そう言って今年もあなたの笑顔に、花と菓子を贈るのです。

沸点

週の始まり。 こみ上げてくる怒りを抑えている。 「人のこと、バカにしやがって」 駅を出て、会社への道すがら、すれ違う。 「……」 いつも上から、見下してくる。 男は腹をくくった。 「明日だ。あいつの顔に泥を塗ってやる。待ってろよ」 ──翌日。 駅前のビルに向かった。 階段を上り、扉を開けると、一斉に鳩が飛び立った。 「くそっ……鳩の糞。これも、お前のせいだ」 見上げた先、にやけた中年男の大きな看板。 どこかのクリニックの院長。 脚立を立て、バケツの中の泥を顔に塗った。 「俺は、お前の顔が嫌いなんだ。理由? そんなものはない」

オレンジの太陽

オレンジの太陽が光っている 雨戸で閉め切った部屋にオレンジの太陽が一つ光っている サタンやネプチューンはどこかで回っているのか知らないが、部屋に一人きりのぼくはオレンジの太陽に救われる 片隅で光る四角いパンドラの箱には、まだカオスが入っていて見たいものも見たくないものも一緒に閉じ込めてくれている。パスワードの鍵をして。 瞼を閉じるとあの人の声がする 何かを言っているけど聞き取れない 目を開けるとオレンジの太陽が光っている

マスクの女

ある日の午後。 身体社会学の女性教授が、マイクの前に立った。 「みなさん、ルッキズムって聞いたことありますか?」 「人のこと、外見で特別扱いしたり、差別したりすることですか?」 「はい。外見至上主義と呼ばれてます」 背後のスクリーンを指さした。 「今から写真をお見せしますね」 マスクの女が、写し出された。 「この女性、みなさんはどのような印象を受けますか?」 「清楚な、お金持ちのお嬢様って感じに見えます」 「そうですか。では、次の写真です」 「えっ」 最前列の学生が、目を伏せた。 「マスクを取った、先ほどの女性です」 「口が……」 「口裂け女です」 しばらく、沈黙が続いた。 「マスクしてると、見えてるところだけでイメージしてしまいますね」 授業の終わりのチャイムが鳴った。 「感染症が流行ったあと、マスクを外せない人が増えましたよね」 「先生もですか?」 「楽ですからね。目の周りだけ念入りに化粧してます」 目元を指でさした。 「おキレイですよね」 「それもルッキズムですよ」 教授は笑いながら、マスクに手を掛けた。 「私、キレイ?」 視線が集まる。 「鼻が……」

それがどこにあるか分かっている。分かっていたとしても

まだ見えない まだ見えないが、そこにあるのは分かっている 頭が悪い俺だって流石に大切な物がどこにあるかなんて分かるよ 周りの意見や世間の目なんかじゃ測れない物もあるんだ あと、大切な物が、俺にとって大切な物が、どこにあるか分かっていたとしても、それを手に入れるか、ほっぽらかすかは俺が決める。 自由でいたいのさ。そうだろ?皆そうさ 今はまだ見えない。見たくない

ファーストコンタクト

午前0時。 小高い山の頂に、30人ほどの男女が集まった。 「さぁ、皆さん。始めましょう」 銀色の三角帽子を被った男が、声を上げた。 男女は円を作ると、その中心に男が立った。 「ウィーン、ウィーン、ウィーン」 両手を挙げ、立てた人さし指をクルクルと回した。 「皆さんも、私と同じように」 夜空を見上げ、人さし指を回す。 「声を出して、願いを込めるのです」 「ウィーン、ウィーン、ウィーン」 「もう、すぐそこまで来てますよ」 山頂に、冷たい風が通り抜けた。 地球の遥か上空に、1機のUFOが止まった。 「艦長、呼んでますけど……」 モニターを覗き込んだ。 「そうだね」 「コンタクト取りますか?」 艦長は、苦笑いしながらモニターを消した。 「金貸せって言われてもね」

ねこを撫でると 泣いてしまう 自分がそうされたかったから でもあんまりされてこなかったから なのかもしれない ねこを撫でると 泣いてしまう ふわふわの毛でおおわれていることに うらやましくなって なのかもしれない ねこを撫でると 泣いてしまう ねこが悲しい顔をするから なのかもしれない でも それは わたしのことを 想ってくれたから だったらいいな

止まった時計

商店街の端に、小さな時計屋があった。 店主の名前は誰も知らない。みんな「時計屋のじいさん」と呼んでいた。店の看板はとうに色あせて、文字もほとんど読めなくなっている。それでも店はずっとそこにあった。 僕がその店に初めて入ったのは、中学二年の夏だった。祖父の形見の腕時計が止まってしまい、母に「あそこなら直してくれるよ」と言われて持ち込んだのだ。 店の中は薄暗くて、時計の音で満ちていた。壁一面の古い時計、棚に並んだ懐中時計、修理待ちの腕時計たち。それぞれが違う時を刻んでいて、まるで店全体がひとつの生き物みたいに小さく呼吸しているようだった。 「これは、いい時計だね」 じいさんは祖父の時計を手に取り、ルーペ越しにじっと見つめてそう言った。 「おじいちゃんの形見なんです。動かなくなっちゃって」 「うん。中の油が切れてるだけだ。すぐ直る」 「すぐって、どのくらいですか」 じいさんは少し笑って、僕の顔を見た。 「時計はね、急いで直すと、また止まる。ゆっくり、正しい順番で診てやらないと」 一週間後に取りに来るように言われた。僕は少し不満だったが、仕方なく帰った。 一週間後、店を訪ねると、時計はきちんと動いていた。秒針が静かに、確かに時を刻んでいる。じいさんはそれを僕の手のひらに乗せながら言った。 「時計はね、壊れたんじゃない。ただ、休んでただけなんだ。誰かがちゃんと中を見て、汚れを落として、油を差してやれば、また動き出す。人間もそうだろう?」 僕はその言葉の意味を、そのときはよくわからなかった。ただ、時計の秒針の音が、なんだか温かく感じられた。 それから何年か経って、僕は大学に進学し、その街を離れた。忙しい毎日の中で、いつしか祖父の時計をつけることも減っていった。 久しぶりに実家に帰ったとき、商店街を歩いてみると、あの時計屋はもうなかった。シャッターが下りたままの店に、貼り紙があった。 「長らくのご愛顧、ありがとうございました。店主、体調により閉店いたします」 日付を見ると、半年以上前のものだった。 僕は胸のあたりが締めつけられるような気持ちになって、しばらくその場に立っていた。あのとき聞いた言葉が、頭の中でよみがえった。 ——時計はね、壊れたんじゃない。ただ、休んでただけなんだ。 僕はポケットから祖父の時計を取り出した。電池はとうに切れていて、針は止まったままだった。それでも捨てずに持ち歩いていたのは、たぶん、あの店とじいさんのことを覚えていたかったからだと思う。 家に帰ってから、僕はその時計を修理に出すことにした。じいさんのようにはいかないかもしれない。でも、誰かがまた油を差してくれれば、きっと動き出す。 時計だけじゃない。止まってしまったように見えるものも、本当はただ休んでいるだけなのかもしれない——そう思いながら、僕は時計をそっと箱にしまった。 いつかまた、針が動き出す日を待ちながら。

 花を持っていた。遺体が花を持っていた。周りには、それ以外、なにもなかった。  花は揺れていた。唇は渇いていた。心は萎れていた。  言葉をかけようと思ったけど、やめた。もうキミは死んでいた。それが事実で。それしかないんだ。  ただ、祈った。それでもと、祈った。  さようなら、と嘆いた。足跡だけがのこって。花は、まだ揺れていた。

風俗

風俗店。 それは出会いに飢えた獣が目を赤くして入店する恐ろしい店である。そのような風俗店にいま私はいる。    別に特段いきたかったわけではない。人並みに性欲はある方だと思う。別にシたいこともあれば、1人ですることも多々ある。しかし、今回に限っては同調圧力に流されただけなのである。獣が我の周りに蔓延って、あたかも常人であるように振る舞っていたのだ。 店員だ。私のもしかのノートと記された注文票を無言で取り、こちらには目もくれず黙々と入力している。これはご飯の準備なのだ。獣が行く店は店員も獣なのだろう。私は覚悟を決め始めた。 すると突如、もしかのノートがテーブルに置かれた。開かれた扉から新たな店員がもしかのノートをそとに持ち出した。ああ、神よ。なぜそれほど酷いことを私にするのだろう。私は餌として認められたのだ。心臓が大地を揺らしているように揺れる。終わった。 番号が呼ばれた。私は食われるのである。重りをつけられたような重い腰をあげ前店の奥へ進んだ。 本当に最高であった

ある日思いついた

ある日の夕暮れ。 僕は思いついたことがある。 さっそく、友達に打ち明けてみた。 「どうしたの?」 僕の覇気に気圧されながら、彼女は言った。 「思いついたことがあって」 「?」 「僕は神なのかもしれないし、そうじゃないのかもしない」 会話を続ける 「世界は自分を中心に回っている。だから僕は神なのかもしれない」 「それはみんなそうなんじゃないの?」 「そう返されると神じゃないのかも」 彼女は言った 「いいね。主体的で」

知らない女

都会の明るい夜に慣れ過ぎて 深夜に散歩することが 習慣みたいになっていた でもやっちゃダメだったんだ 男だからと油断していたんだよ もしもこうなると知っていたら 外なんか出なかったのに その日は盆休みで帰省していた 夜遅くまで両親と酒を酌み交わす 二人は先に寝てしまったけれど 俺はどうにも寝付けなくて 酔い覚ましも兼ねて 深夜散歩に出かけることにした 一歩外に出て玄関を閉めると 辺りは途端に黒の陰影だけになり ポツポツと立ち並ぶ街頭だけが 黒い田んぼ道を照らしていた その光景に少し息を飲んだが スマホのライトを付ければ なんてことはなかった スマホのライトを頼りに歩く もう日付が変わる頃だったので 他に歩いている人はおらず たまに車が横切るだけだった 近づく車の音だけには注意しながら 夜風を感じながら歩く さてそろそろ帰ろうかと 来た道を戻ろうとしたときだった 振り返った先の黒い景色が 揺れているのに気づいた 直接ライトを向けるわけにもいかず 遠くてハッキリとは見えなかったが どうやら人影らしかった ライトも付けずに歩くなんてと思ったが 慣れていればそんなものかとも思えた 人影らしきものが近づくにつれて ライトがその足元を照らしていく サンダルとスカートの端が見える この人とすれ違ったら遠回りして帰ろう そんなことを考えていたときに 気づいた 恐らくは女が手に持っているのが 刃物だということに アルコールなんて吹き飛んで 全身から冷たい汗が吹き出した 呼吸は思わず止めてしまったが しかし足を止めるわけにはいかない 女を刺激しないようにライトを下げて ただただ祈りながら震える足を前に出す 女の足音がどんどん大きくなっていく 女の足元がライトの円の中に入り そうして通り過ぎていった 女の足音が徐々に小さくなっていく 俺はしばらく早歩きで進み続けてから ゆっくりと速度を落とし立ち止まった 辺りはしんと静かになった 俺の足音はもう聞こえない 女の足音も聞こえなかった ずずずと後ろを振り返る 黒い陰は立ち止まって その場でゆらめいていた 女がどちらを向いていたかはわからない だが俺は迷わずまた歩き出していた できるだけ遠くへ行かなければ 静かな夜に俺の足音が響いていく するとそれにもう一つの音が重なっていく 見たくなかったが見るしかなかった 足は止めないまま振り返ると ライトの先ではさっきの女が 小走りで追いかけてくるのが見えた そこからは無我夢中だった とにかく走って走って走りまくった そうして現在地もわからなくなった頃 ふと足を止めると足音が聞こえない 振り返って辺りを照らしたが もうあの女の姿は見当たらなかった まだどこかにいるかもしれない そう考えライトで周囲を照らし 警戒しながら家へと帰ることにした 結局のところ何事もなく 実家へ帰ることができた もしかしたら何かしら 俺の勘違いだったのかもしれない そんな風にすら思いながら 部屋に直行した俺はそのまま ベッドに倒れ込んで眠った 「朝ごはんいらないのー?」 母の声に目が覚めてリビングへと向かう 父はもう仕事へ向かったらしく 母は食器洗いをしていた 用意された朝食をすぐに食べ終えると キッチンに立つ母の元へ皿を運ぶ 「自分で片付けるなんて成長したわねー」 「それ毎年言ってるけどな」 そんな会話を交わしながら皿をシンクへ入れる ちょうどそのとき入れ替わりで 母がシンクから包丁を取り出して洗い始めた

シンデレラからのクレーム

「本日は、お時間をとっていただき、ありがとうございます」 「いえ、こちらこそ。このような貴重な機会を頂き、感謝します」    シンデレラは我々に丁寧なお辞儀をした後、椅子に座った。  スタッフが普段使いする事務椅子だったが、なんということでしょう。  シンデレラが座ると、まるで玉座のような華々しささえ感じられます。  我々は緊張しながらシンデレラにマイクを付け、対面へと座った。   「まず、お名前をお願いします」 「シンデレラ、と申します。和名では、灰かぶり姫とも呼ばれていますが」 「日本でも、シンデレラという呼び方が一般的です。ですので、インタビュー中は、シンデレラとお呼びさせていただいても?」 「構いません」    まるで鈴のように透き通る言葉。  一言躱すたびに、スタッフの胸は思わずときめいてしまっていた。   「それで、お話したいこととは」 「はい。シンデレラ体重についてです」    しかし、シンデレラが本題を切り出した瞬間、場の空気が変わった。  物腰柔らかな話し方は変わらないというのに、どこか迫力のある雰囲気が、シンデレラの全身から発せられていた。   「シンデレラ体重、ですか」 「ええ。日本の女性の皆様は、綺麗になるためにシンデレラ体重を目指していると伺いまして」 「そうですね。皆、シンデレラの美しさに憧れて、シンデレラみたいになりたいと」 「はっきり言って不愉快です」    いつの間にか、シンデレラは真顔になっていた。  シンデレラにときめいていた胸もすっかり静まり、スタッフの緊張感が高まる。  瞳の奥底には強い怒りが感じられ、スタッフの喉がからからに渇いていく。   「不愉快……ですか」 「ええ。シンデレラ体重は、BMIが十八と伺いました。それは、美しくなる体重ではなく、不健康になる体重です」 「それは、まあ、確かに」 「そもそも私が細かったのは、美容を意識していたからではなく、継母たちにいじめられ、ご飯をろくに食べられなかったからです。苦しい状況の中で痩せてしまった体型を、美しくなる体重ともてはやすなど、言語道断です!」    シンデレラは声を荒げた。  我々スタッフ陣は、何も言い返すことができなかった。  本場のシンデレラ体重の人からアドバイスをもらえるかも、などとインタビュー前に話していたスタッフは、すっかり部屋の隅で縮こまっていた。   「確かに。配慮が足りませんでした」 「私が言いたかったのは、それだけです。シンデレラ体重を素敵な物ともてはやし、若者たちが誤った行動をしない様に、しっかりと注意をしてください」    やや険悪な雰囲気のまま、インタビューは終了した。  しかし、さすがはシンデレラ。  インタビューが終わると、先程とは打って変わって、優しく気品あふれる姿を振りまいていた。   「ありがとうございました」    スタッフ全員に丁寧なあいさつをし、部屋を出て行った。  ふくよかな背中は、シンデレラが幸せに生きているのだろうことを、我々に教えてくれた。

オセロ

俺はオセロが大好きだ。オセロをこよなく愛している。今日もスマホでオセロをしている。授業中だろうが気にしない。なぜなら俺はオセロが好きだから。 「おい。お前、何時間やってんだよ。」 俺の友人が隣で囁く。 「は?いいだろ。好きなんだよ。」 そして俺は順調に角を取る。 「はいっ勝ち〜」 俺はここのところ毎回勝っていた。 俺はオセロからも愛されているのだろう。オセロで俺に敵うものは誰もいない。 授業はいつのまにか終わっていた。 「は?お前それ1番強いAIのやつだろ?すご。いや、やり過ぎだろ。」 友人に凄いと言われ、調子が良くなる。 「あーあ。なんか弱過ぎてつまんないかも。もっと強いAIないかなぁ。」 そして俺はそう呟いていた。今思えば、そんなこと呟かなきゃよかったのに。 「あの…。急に話しかけてごめんなさい。オセロ、良かったら対戦してくれませんか。」 俺は思わず肩をあげる。声の先にはクラスで静かな女子がおずおずと後ろに立っていた。 「あ、いいっすよ。」 俺に対戦を挑むとはいい度胸じゃんと思った。どうせ俺が勝つんだ。俺が勝ったらお前は泣くんだろ。やめとけばいいのに。 そうして俺はその女子と勝負した。俺は黒。そいつが白だった。 だが、始まると共に、俺は焦り始めていた。 そう。勝ち目は最初からなかったんだ。 そいつの思い通りに俺はまんまと嵌められる。 ついには角を取られてしまう。 へ〜すごい。という友人の声は、俺にではなく、そいつに向けられる。 俺は焦る。焦るほど駒は白く染まる。 正義は必ず勝つと言うのか。 いつのまにか黒なんて初めからなかったかのように、白だけになった。 「…まじか。」 俺は呆気に取られてしまった。泣きたいのは俺の方だった。どうせ馬鹿にされるんだ。そう思ってそいつの顔を見る。だが、そいつは俺を煽りもせず、満足そうな顔をした。 思わず俺の心が跳ねた。 なんだ今の。 まるで、角に駒を置かれたかのようだった。 「…また、やってもいい?」 その子、いや、そいつはそう言ったんだ。 「…ああ。まぁ、今回は手加減しただけだから。勝たせてやっただけ。次は勝つから。」 俺はそんなこと思ってもいないのに、強がって口走ってしまった。だが、その子は微笑んだだけだった。

最新情報の書いてある石板

 俺は、最新の情報が好きだ。  巷では、紙という石板より薄っぺらい道具が流行っているらしい。  乗るしかない、このビッグウェーブに。   「という訳で、石板買ってきた。最近流行りの紙について、説明が書いてあるらしい」    俺の背負っている石板を見て、妹は驚き、顔を伏せた。  妹の手元には、石板より薄っぺらい道具があった。   「なんで紙を知るのに、石板を買ってくるのよ。そこは、紙の説明を書いた紙を買うべきでしょ」 「あるぇえ?」    その後、俺の買ってきた石板は、玄関のオブジェクトとして飾られている。   「ほほう! これが紙! 軽くて便利だな!」    俺は妹の持っている紙で、紙の勉強を始めた。

誰のせい

 シュークリームを、口のまわりを汚さずきれいに食べられたとき、ではなかった。ひとりで初めての場所にお使いに行ったときは、少し思った。高校生になって電車通学になってその帰り、駅のホームで立ち食いそばを食べたとき、強く感じた。大人になったんだなあ、って。でも手に持った器のそばは、自分で稼いだ金で食べていたのではなかった。大きな勘違い。それでも、思ったことは思った。大人になったんだな、と。  きつねそばだった気がする。うどんだったかもしれない。立ち食いそばというくらいだからそばだったのかな。それくらいにしか思ってなかった。自分がそばとうどん、どっちが好きなんて考えたことなかったんだ。何も考えてなかった、あのころは。いまはちゃんと考えてるみたいに言ってしまったけど、たいして変わってない、いまだって。  寝ていたような寝ていないような。この喉の渇きぐあいと頭の回らなさ加減、きっと寝ていたんだろう、少しだけうつらうつらまどろんで、そんなふうに。意識だけがつかの間の旅に出てカラダだけはしばしお休みで。  台所に立ってお湯を沸かす。温かい飲み物は僕を救ってはくれない。心を温めてはくれるけど。それでいい。目の前にあらわれたと思ったらすぐいなくなってしまうんだ。誰のせい? 僕のせいだけど。そこまで深い関係でもないんだ。それでいい。  昨日の残りの肉じゃがを卵でとじて、ごはんのおかずとした。入れるだけでごちそうへと変化させる卵はすごいと思った。肉じゃが、ごはんの順に口に入れ、目を閉じて口を動かす。女の尻のアップが浮かんできた。この前、ジムで見た女性の大きなお尻。卵はすごい、その「すごい」にアタマが反応したのだろうか。しかしなんだってこのタイミング。制御できないこのアタマは、不思議と思っても、確実に僕のものなんだ。  もっとドライな関係ならね。ふうん。また余計なこと考えちゃってさ。それくらいに思えたらね。誰のせい? 僕のせいだけどさ。

老いぼれ

大きな霊園の近くに住んでるとか言ってた気がしたな。誰だったか忘れたけど有名な人のお墓もあるとか。「ウチに来れば案内してあげるよ。遠慮せずいらっしゃい」そう笑顔で話す先生に、私たちは苦笑いを浮かべるだけだった。その先生も大きな霊園のどこかで眠っているのかもしれない。「まだそこまで老いぼれていないぞ」またあのときみたいに、怒られてしまいそうだ。

青い景色

憧れの旅館生活だったが もうすっかり慣れてしまった 浴衣での生活は数日で億劫になり 窓から見える青く輝いた海も 空の青さと大差なく感じて 最近はカーテンを閉めっぱなしだ ただこの大鎌原市には 観光に来たわけではないのだから それでいいようにも思う 私は終わらせにきたのだから 一発屋の小説家として稼いだ金 それを使い切る為の旅館暮らしだ 金が底をついたらいよいよその時 そう思ってこの田舎町へやってきた ただ一週間ほどこの町に滞在して いくつか気になったことがある どうにもこの町は変だ 例えば泊まっている海辺の旅館だが まだ一度も他の客を見ていない 食事は朝と夜部屋に運ばれるのだが 大浴場も売店もいつ行っても伽藍堂 観光シーズンではないのかもしれないが 経営が成り立っているのかと不安になる 例えばよく海辺を散歩するのだけれど 船が一隻も見当たらないのだ 大きい船も小さい船も 漁船らしきものすら見当たらない けれども宿の食事にも近くの定食屋にも 当たり前のように刺身が出てくるのだ わざわざ取り寄せているのだろうか 中居さんに尋ねてみたこともあるが 「魚は空も泳ぎますから」と 適当にはぐらかされてしまった こういう違和感が大鎌原には 至る所に存在している ただまぁ、どうでもいいか 金が尽きるその時まで 飽きない町というのは結構だ けれどその謎解きをしようとか そんな面倒なことまではしたくない 謎とか伏線とかトリックとか そういうものは飽き飽きしている 現実はそう一本道に解釈できるほど 整合性の取れた世界ではないのだ だからこそ物語に夢見るのだろうが しかし夢物語を作る側になれば 裏から見えるのはハリボテの虚構 だからもういいのだ 外を出歩くのも億劫になり 私は部屋にこもるようになった 風呂も部屋にあるものを使った 日々溶けていく時間と金に 焦りと諦めが同時にこみ上げる これでいいのだと自分に言い聞かせて 言い聞かせ続けてーー 「ほら、魚ですよ」 フロントからの電話に出ると 中居さんはそう言って 窓の外を見るよう私に告げた 閉め切っていたカーテンに手をかける そんなバカなと思いながらも 頭の中ではもうすでに 溶け合う空と海を想像していた

君の適正

 君が小学校教諭に向いていて僕が養護教諭に向いている。 君は万能、僕は落ちこぼれ。 何かの因果。 あるいは君はスーパーウーマン。 僕は地下鉄のロビンフッド。 恋は何歳からでも出来ると言うが僕は筋肉注射を切り身体を回復させるのに精一杯。 あなたは私にとってのナイチンゲールなのね、と君は言う。 あるいは追い詰められると掃除をし出す僕はそうなのかもしれない。 衛生学。 看護も手一杯。 民間の闇医者に知り合いが欲しい。 眠れるようになれば寿命は10年くれてやる。 能力のブースト。 精神力。 煙草が欠かせないのはヒロポンが無いからだ。 脳の分析。 酒。 理数的能力。 機能。 愛。

口約束

 「またね」  君とした口約束。覚えているかい?  学校まで歩いた、あの朝。  他愛もない事を言い合った、あの頃。  でも僕は君に酷いことを言ってしまった。今でも後悔しているよ。  花々が咲き乱れ、茜色に染まった夕焼け。  こんな事を思う。  「もう一度やり直せたら......」  でも、こんな事も思う。  「僕らの人生は、間違えも、正解もない、これが人生で、これも青春なんだ」   この瞬間だって僕にとっての青春。   そしてこの瞬間も明日へ、未来を作ってくれる思い出なのだ。  君が許してくれるなら、もう一度、口約束をしてくれないか。  「 またね」って。

満月の話

今夜はやけに月が明るい。雲ひとつない空に浮かぶ満月を見上げながら、俺は村の中を歩いていた。窓を開けて眠りにつこうと思ったのだが、どうにも落ち着かない。冷たい風が入ってくるたび、何かを探すように鼻を鳴らしてしまう。妙な癖だ。子どもの頃はこんな癖なんてなかったはずなのに。最近は気がつくと、すんっと音を立てて空気を吸い込んでしまう。村では数日前から、家畜が襲われる騒ぎが多発している。危険だからと皆、夜の外出を避けるようになった。馬鹿馬鹿しい話だ。そう思いながら歩いていると、視界の端で何かが動いた。俺と同じく、満月に誘われた人間らしい。声をかけようと口を開いた、その瞬間。 視界が暗転した。 誰かの叫び声で目を覚ました。いつものベッド。開いた窓。差し込む朝日。首をひねる。……夜の散歩は、夢だったのか?すんっと鼻を鳴らす。開け放った窓から、酸っぱくてうまそうなにおいがする。不思議なことに、俺の服からも同じにおいがした。 まだ、腹が減っている。

病みの正体

「本日、『病み』の原因が悪霊の憑依だと判明いたしました」    衝撃的なニュースが全国にとどろいた。  闇に苦しんでいた俺は、テレビのリモコンを持ったまま固まった。  何年も精神科に通って治らなかった病気が、まさか悪霊の仕業だったとは。    俺の目はテレビにくぎ付けとなって、テレビの続きを食い入るように見つめた。   「では、病まない人間は、悪霊への耐性が強いと?」 「いえ。人間には、悪霊の憑依に対する耐性がありません」 「つまり?」 「病まない人間は、人間に化けた悪霊の可能性が高いということです」             「バレた」 「バレた」    背後で、両親が呟く声が聞こえた。  俺は背後を見ずに立ち上がり、玄関に向かって急いで走った。

感情遺産

 親父が死んだ。  残された遺産は、家と、貯金と、感情。   「相続されますか?」    弁護士からの質問に、俺は即答できなかった。   「考えさせてください」    親父の残した家は、良い場所にあるから普通に住みたい。  親父の残した貯金も、当然欲しい。  問題は、感情だ。    親父は優秀な経営者だったが、その分ストレスの量も尋常ではなかったらしい。  自死を考えるくらいに追い詰められた親父は、感情を閉じ込めることで自死を回避し、大成功を収めた。  しかし、この閉じ込めた感情は、財産扱いとなる。  遺産を放棄しなければ、俺の物になってしまう。    そして、感情はいつまでも閉じ込めておくことができない。  いつかどこかで決壊し、持ち主へと返ってくる。  相続した場合、俺に返ってくる。  死にたいという強烈な感情が。   「くそ親父。面倒なもの残しやがって」    家と金が手に入っても、死んでしまっては意味がない。  俺なら死なないという自信もあるが、あの親父が死にたくなるほどの感情となれば、俺の想像以上に大きな感情なのだろう。   「いいじゃない! 感情なんて! あの豪邸と財産を手放すの?」    感情が返ってこない妻は、無関係と言わんばかりの顔をして、俺をせっついてくる。  もしかしたら、金が手に入った上に、俺が死ねばラッキーとでも思っているのかもしれない。   「なら、お前が相続するか?」 「無理に決まってるでしょ? お義父さんと血が繋がってるわけじゃないんだから!」 「なら、俺たちの子供に」 「子供が死んでもいいって言うの? 人殺し! 最低!」    その言葉、そっくりお前に返してやろうか。   「ちょっと煙草」    騒ぐ妻から逃げて、ベランダで一服する。  冷たい風が、俺の脳を冷やしてくれる。    もしかしたら、妻の本性を暴くために感情を残してくれたんじゃないだろうか、親父ならやりそうだ。  なんて楽観的な予想をしながら、俺は引き続き、悩み事に頭を抱えた。

秋の雨と男爵

止む気のない雨の中、スーパーの横を通っていたら、いくつか並んだ、まだ蕾も無い金木犀の一つが人となって歩き出した。 それはスマートな紳士の様で、背広にステッキを持ち、ハットを被っている。よく見えはしないけど、きっと顔もハンサムなんだろう。 彼は傘も差さずに、雨を気にする素振りもなく僕の前を歩いていく。 僕は今日、祝日だって言うのに台風の最中、出勤するために足元を濡らしながら駅に向かうところだ。 階段を降りて線路を地下道で越えていく、階段を登って地上に出る。 こちらの行き方のほうが近いんだ。金木犀男爵もそれを知っているようだ。僕は彼の事を金木犀男爵と呼ぶことにした。  道には人通りは無い。こんな日に出勤する人も珍しいのだろ 線路沿いの道には金木犀男爵と僕しか見えない 男爵が、もし電車に乗るとしたなら、改札はどうやって通るのだろう スイカでも持っているのか? 切符を買うのか? そもそもお金を持っているのか?身なりはしっかりしているけど。 駅に入ると、迷うことなく自動改札機へ向かっていく。 僕は遠くからどうなるのか見ていた。 駅にはそれなりに人がいて、皆、改札に足が向いている。金木犀男爵が改札のレーンに入った。彼は右手にステッキ、左手には何も持っていない。 金木犀男爵が通ると、改札機は当たり前のように開放し男爵はスマートに通り過ぎて行く。 誰も自然に開いた改札の事には気づいていない様だ。 僕は急いで後を追う。 鞄の中のスマホがなかなか見つからずに改札の前でオロオロしてしまったが急いで降りて、来ていた電車に乗れた。 車内は平日のそれとは違い、かなり空いている。皆、間隔を持って座れている。これは休日出勤の良いところだ。 男爵も同じ車両にいた。座っている。 僕は車両の端に行って遠目から観察することにした。 相変わらず車窓からは雨が絶え間なく降り続いている。あの暑かった夏は、別れの挨拶も無しに秋と交代してしまったようだ。 寒い秋。冬と何が違うのか。 金木犀男爵はステッキの頭を両手で押さえ、静かに座っている。その様子もスマートで美しい。まるで金木犀が咲いているように

One day

 今日も良いことがなかった。白馬の王子様は迎えに来ないし、十二時に解けるような魔法にも、そもそもかかっていなかったらしい。  もしかしたらささいなオマジナイくらいは私にだってあるかもしれないと、ちょっといつもより運のよかった今日、日付けの進むまで起きてみてけれど、特に変わった様子もない。なるほど、電車で隣だった人が格好よかったくらいのことは魔法がなくてもあるという訳だ。  明日は、何か特別なことがあるだろうか。きっといつものようにないだろうけど。  まあ明日になってみたらきっと分かる。

救ってくれないアイドル(リメイク版)

自分をブスだと思い始めたのは中学生の時かな。 祖父母からも両親からもかわいいって言って育てられた。 だから私はかわいいって思っていた。 テレビに映るアイドルやプリンセスに本当になれると思っていた。だって私はかわいいから。 今、アイドルを見たら劣等感で潰されてしまう。プリンセスを見ても同じ理由で潰れる。 それにプリンセスは性格もいい。  自分より醜いものを好いて自分を引き立たせる。それが私の生き方。 どうしてブスだって思い始めたか、教えてあげる。 中学生は美容に興味を持ち始める時期だ。私にもその時期はやってきて、そこで気づいてしまった。 かわいい人と比べたら、違いは一目瞭然。目も鼻も肌から骨格まで全て違う。同じ生き物なのかを疑うレベルで。 それに気づいた時から親や祖父母の言葉を素直に受け取れなくなった。褒め言葉を素直に受け取れなかった私は壊れていった。 人間にとって褒め言葉が必要な栄養なんだとしたら私は栄養失調で倒れてしまう。 下手な同情が悪口よりも尖って、鋭く心に刺さる。 そこから私は自虐をしだした。自分で自分をかわいいって言ったら否定をされる。もしくは苦笑いで空気が凍る。 それが嫌だから自分で自分を否定する。そうすれば他人からは傷つけられることはない。 そうして私は今日も自虐をする。自分を守るために。 でも最近、辛くなってしまう。私のキャラ的に誰にも助けを求めれなくてどうすればいいかわからない。 気づいたら私は泣いていた。汚い涙が頬を伝う。肌が余計に荒れてしまいそう。 「ねぇ、大丈夫?」 後ろから声がした。すごく綺麗な声。声の方を振り返った。 目を疑った。声以上に綺麗な顔をしていた。まるで西洋の絵画から出てきたみたいに。 「うん」 私は答えた。私の声は汚いって思った。声にもブスの成分が含まれている。 「嘘つかないでよ、泣いてるじゃん」 「え?」 私は泣いていたことを再確認させられる。ただでさえ小さい目が腫れてさらに小さくなってしまう。でも、私の目が多少小さくなったところで誰も気づかないよね。 彼女はハンカチを差し出してくれた。 偶然、そのハンカチは私と同じものだった。けれどなんだか私のより綺麗だった。ハンカチにまで美人の成分が含まれている。 そのハンカチで涙を拭ったら視界がはっきりした。 ハンカチに染み込んだ水分がすごく汚く見えた。色鮮やかな花畑に季節外れの枯れた花が一輪咲いている。 まるで白い絵の具に黒を落としたみたいだった。 彼女の顔をよく見ると、アイドルをやっていると有名な北野みなだった。 「えっ、みなちゃん?」 「私のこと知ってるの?」 「う、うん。有名だよ」 「あのさ、はっきり言わせてもらうんだけど、私の名前、そんな軽々しく呼ばないでくれない?」 みなの態度が変わった。どこで怒ったのか、気に障ったのかわからない。美人の気持ちはわからない。私はブスだから。 「え?」 「あんたみたいなブスに呼ばれて、私の名前汚れたんだけど。」 「えぇ」 「私とあんたじゃ、目も鼻も肌から骨格まで全て違うのよ。」 「わかってるよ」 私は小さな声でつぶやいた。勝手に口から出ていた。 「え?なんて?まぁいいや。そのハンカチあげるから。」 そう言ってみなは去っていった。 ハンカチが私のものになった瞬間、急に汚く見えた。 アイドルは性格が悪い。わたしがなるならプリンセスになろう。 どちらにもなれるわけないのにそう思った。 また、視界がぼやけていった。 たった今私のものになったハンカチで拭った。 花畑が全部枯れて、白い絵の具が真っ黒になった。

朝刊のにおい

塾の帰り道、僕はいつもより早足だった。 「お前んち、新聞配達なんだってな」 さっきの授業終わり、先生がそう言った。悪気なんてなかったのかもしれない。ただの世間話のつもりだったのかもしれない。でも、その後に続いた小さな笑いが、僕の胸の奥に小石みたいに残った。 「大変な仕事だなあ、あれは」 その言い方には、たしかに軽蔑が混じっていた。僕はその場では何も言い返せなかった。ただ「はい」とうなずいて、テキストをかばんに詰め込んで、逃げるように塾を出た。 家までの道を歩きながら、僕は父の朝を思い出していた。 父は毎朝、僕がまだ布団の中にいる時間に家を出る。まだ空も薄暗い、四時とか五時とか、そのくらいの時間だ。自転車の後ろに新聞を山ほど積んで、住宅街をひとつひとつ回る。雨の日も、雪の日も、真夏の蒸し暑い朝も休まない。僕が小学校に上がる前からずっとそうだった。 一度だけ、父の配達についていったことがある。小学四年生の冬休みだった。真っ暗な中、父の自転車のライトだけが道を照らしていた。息が白かった。父の手はかじかんで、それでも一軒一軒、丁寧に新聞受けに新聞を差し込んでいく。音を立てないように、その家の人を起こさないように。 「なんで音立てないようにするの」と僕が聞くと、父は笑って言った。 「みんな、まだ寝てるからな。気持ちよく寝てる人の朝を、俺が壊しちゃいけない」 そのとき僕はまだ子どもで、その言葉の意味がよくわからなかった。ただ、父の背中が大きく見えたことだけ覚えている。 家に着くと、母が夕飯の支度をしていた。妹と弟がテレビを見て笑っている。三人の子どもを育てるというのは、簡単なことじゃない。学費も、給食費も、靴も、自転車も、修学旅行の積立も、全部お金がかかる。父はその全部を、朝の暗闇の中で自転車をこぐことで払ってきたのだ。 僕は塾でのことを、その夜父には言わなかった。言えば、父が悲しむとわかっていたから。 でも僕は思う。あの塾の先生は、朝の街を歩いたことがあるんだろうか。誰も見ていない時間に、誰かのために体を動かしたことがあるんだろうか。先生の仕事は立派だ。それは間違いない。でも、立派な仕事とそうでない仕事を分ける線なんて、本当はどこにもないんじゃないか。 仕事というのは、たぶん、誰かの一日を支えるものだ。先生が生徒に知識を渡すように、父は毎朝、誰かの玄関先に「今日という日」を届けている。新聞を待っている人がいる。それを配る人がいる。そのつながりに、上も下もないはずだ。 次の日、僕はいつもより少し早く起きた。まだ外は暗かった。玄関の鍵を静かに開けて、外に出ると、少し先に父の自転車のライトが見えた。 「どうした、こんな時間に」 父が驚いた顔で振り返る。 「ちょっとだけ、ついていっていい?」 父は少し戸惑った後、笑った。 「寒いから、ちゃんと着込んでこいよ」 僕らは並んで、まだ眠っている街を歩いた。誰も見ていない朝の中で、僕の父は今日も、静かに誰かの一日を運んでいた。 僕はその背中を見ながら、心の中で塾の先生に言った。 ——これが、僕の父の仕事です。

掃除人のうた

 朝の五時、まだ空が藍色をしているうちから、健太の父は家を出る。作業着に着替え、長靴を履き、自転車の荷台に道具箱を括りつける。父の仕事は、街のビルの共用部やトイレを掃除することだった。  健太は中学二年生になったころから、父の仕事を人に言うのが嫌になっていた。友人の父親は会社員だったり、医者だったり、公務員だったりする。「お前の親父、何やってんの」と聞かれるたび、健太は「普通の会社員だよ」と曖昧にごまかしていた。  ある土曜日、健太は駅前のショッピングビルで友人と待ち合わせをしていた。約束の時間より早く着いたので、トイレに寄った。個室から出て手を洗っていると、清掃用のワゴンを押した男が入ってきた。振り返った瞬間、健太は息が止まりそうになった。父だった。 「あ……」  父も驚いた顔をしたが、すぐに柔らかく笑った。 「健太、友達と遊びに来たのか」  健太は何も言えず、ただ小さく頷いた。そこへ、友人たちがトイレの入り口から顔を覗かせた。 「健太、こんなとこで何して……あ、清掃のおじさんと知り合い?」  健太の心臓が跳ねた。ここで「違う」と言ってしまえば楽だ。そう思った瞬間、父の手が視界に入った。荒れて、ひび割れて、絆創膏が何枚も貼られた手。その手が、鏡や床をどれだけ丁寧に磨いてきたか、健太は誰よりも知っていた。 「……お父さんだよ」  健太は言った。声が震えていたが、はっきりと。  友人たちは一瞬きょとんとした後、「そうなんだ、よろしくお願いします」と頭を下げた。父も「息子がお世話になってます」と笑って返した。それだけのやり取りだった。世界が終わるようなことは、何も起きなかった。  その夜、夕食の席で父はいつものように味噌汁をすすっていた。健太はずっと考えていたことを、思い切って口にした。 「お父さん、今日はごめん。今まで、友達に本当の仕事のこと言ってなかった」  父は箸を置き、少し間を置いてから言った。 「謝ることじゃない。恥ずかしかったんだろう。それは仕方ないことだ」 「でも……」 「健太、お父さんはな、この仕事を三十年やってきた。毎朝同じビルを磨いていると、そこで働く人たちが気持ちよく一日を始められる。それだけで十分な仕事だと思ってる。誰かが見ていないところで手を抜けば、すぐ分かる。逆に丁寧にやれば、誰かが必ず気づいてくれる。名刺の肩書きじゃなくて、そういうところに仕事の値打ちはあるんじゃないかな」  母が横で頷きながら付け加えた。 「お父さんが担当してるビルはね、テナントの人たちがみんな『あの掃除の人が来ると気持ちいい』って言ってくれるんだって。名前も知らないのに、感謝されてる」  健太は俯いた。恥ずかしかったのは父の仕事ではなく、それを恥じてしまう自分の狭い心だったのだと、ようやく分かった気がした。  数日後、健太は学校の作文で「わたしの尊敬する人」という課題が出た。健太は迷わず父のことを書いた。三十年間、誰かのために場所を整え続けてきた手のこと。肩書きは掃除員でも、その仕事に誇りを持って向き合う姿のこと。  作文は学年で紹介されることになった。健太は壇上で少し緊張しながら、最後にこう締めくくった。 「仕事に貴賎はないと、父から教わりました。大切なのは、何をしているかではなく、それにどう向き合っているかだと思います」  教室の隅で、担任の先生が小さく拍手をした。健太は初めて、父の仕事を誰かに堂々と話せたことが、少しだけ誇らしかった。

ぬいぐるみ

ちいさかったころ ぬいぐるみで よく遊んでいた いま思い返してみて あのときの ぬいぐるみたちは みいんな お口のまわりが よごれていた はて さて 当時は それでいいと 思っていた はて さて ああ ああ そういうことか ぬいぐるみに ごはんを たべさせていたから お口ちゃんと ふいてあげていたのに やれやれ

自販機

 夜道のあちこちが街灯に照らされて煌めいていた。それが雨の痕跡だと気がつくのに時間はそれほど必要ではなかった。  タクシー乗り場には長い列ができている。もう最終バスも無いのだろう。並んでいる人は女性も男性も若い人も中年の人もいるようだが、暗くてよく見えない。「回送」と橙色に表示されたタクシーが停車した。ドアが開くと、先頭の女性は不自然さなく飲み込まれてしまった。  鈴虫の鳴き声がTシャツの袖から服の中へ入った。肌の熱が奪われた。そのまま耳の辺りまで来ると、ふわっと消えてしまう。それが幾度も反復される。  道を右に曲がったところで、自販機が白く光っていた。なんとなく飲み物を見遣ると、赤い帯状のものがディスプレイされていた。  温かい飲み物だった。  私は、歩くのを止められてしまった。あったか〜いという文字から目が離せなかった。未だ真っ青な冷たい飲み物は残っている。赤いそれは、何か、膨張している風に見えた。  写真に収めようとスマホを取り出す。しかし、ポケットから半分ほど抜いたところで、やめた。掌には炎天下に地面を触れた時の熱が広がっていた。  その場が少し明るんだ。車が行ってしまうと、また自販機の光だけになった。  私の影が、遠く後ろにまで伸びている。

失恋ソング

学校が終わって、バスに乗り込む。そしていつもの席に座ってワイヤレスイヤホンを耳にはめる。スマホを操作して曲を流す。 少しだけ切ないイントロが流れてきて、歌詞が流れてくる。それは今の心にすごく刺さる。切り傷に塩を塗るのに似ている。 目から垂れた雫が頬を伝う。でも、それを拭う気にもなれずに窓の外を眺める。いつも見ている景色なのに今日はなんだか色が薄い気がした。 音楽に浸っていると、急に通知音がきてびっくりする。友達からだ。なんて名前だったっけ。 「りの、落ち込むなよ」 その文章を素直に受け取れなかった。落ち込むに決まってる。こんなの送ってきてただ人助けした気になりたいだけでしょ。 「うん、大丈夫だよ。わざわざありがと」 私は返信をした。不自然じゃないように、違和感がないように。嘘つきが殺される世界なら私は今すぐに殺される。 再び、窓の外を見る。さっきより色が薄くなっている。ポツポツと降っている雨は私の目を濡らす。 君は多分私が好きだった。私も君が好きだった。何度もニ人っきりで出かけたし、手だって繋いだ。君は笑っていて、私の顔は真っ赤で。 今日、君に気持ちを伝えた。あんなにいろんなことをしたんだからOKもらえるに決まってる、そう甘く見ていた。 君は一回だけ眉毛を下げて頬を掻きながら言った。 「ごめん、えーと。そういう目では見たことないかな」 私の頭の中が真っ白になった。あんなにニ人で遊びにいったし、花火だってニ人きりで見たのに。 「そっか、ごめんね」 でもびっくりはしなかった。心のどこかではわかっていた。叶わないって。 ねぇ、もし私が男の子だったら君は私のこと好きになった? 雨がさっきより強くなった。曲がラスサビにはいる。涙はもう出ない。

BLのチラシ

 ボーイズラブのチラシではない。 バスケットリーグのチラシが入っていた。 しかし男と男の戦いという意味では一緒だろう。 何を言っているのだろう?

小顔効果(物理)

「結構、顔でかいよな」    彼女に何の気なしにいったら、彼女は読んでいた本を置いて、拳を振り上げた。   「オラ」 「痛い!」 「ゴラ」 「痛い!」 「シネ」 「すみませんでしたー!」    ようやく殴られるのが終わったので、俺は洗面所へと駆けこんだ。  鏡を見たら、顔全体が腫れ上がっていて、いつもより一回り大きな顔になっていた。    背後に立った鏡に映る彼女が、俺の方を見てにっこり微笑んだ。   「これで私の方が小顔ね。嬉しい?」

質草の記憶

商店街の端、シャッター街に埋もれるように「柳質店」はあった。曇りガラスの引き戸には金の文字が半分剥げていて、それでも常連客だけは迷わず戸を開けた。 店主の柳伊佐夫は七十を過ぎても背筋が伸びていた。カウンターの向こうで新聞を畳み、来た客の顔よりも先に持ち込まれる品物を見る。長年の癖だった。品物には嘘がないが、人の顔には嘘があるからだ。 ある雨の夕方、若い女が戸を開けた。傘の雫を店の土間に落としながら、彼女は震える手で古びた腕時計を差し出した。 「これを、お願いします」 伊佐夫はルーペを取り、文字盤を覗き込んだ。スイス製の年代物で、裏蓋には小さく「К.T.へ 一九六八」と彫られていた。 「お父様の形見か」 女は驚いた顔をした。「なぜ分かるんですか」 「時計は嘘をつかない。針は止まっていても、彫られた言葉は動かない」 女は目を伏せた。父が入院していて、手術費が足りないのだという。伊佐夫は時計をもう一度眺め、査定額を紙に書いて見せた。相場よりいくらか高い数字だった。 「本当は、もっと安いはずですよね」 「品物の値打ちは、市場だけが決めるものじゃない。この時計には、あんたの父親が誰かを想った時間が詰まっている。わしはそれを預かるだけだ。売るわけじゃない」 女は深く頭を下げ、金を受け取って帰っていった。 質屋という商売は、誤解されやすい。人の弱みにつけこむ商売だと思われがちだが、伊佐夫にとっては違った。質草とは、いつか取り戻すという約束の証だ。流れて他人の手に渡る品物もあるが、それすらも「次の誰かの物語」の始まりに過ぎない。伊佐夫は棚に並んだ指輪や着物、古い万年筆を見るたび、そこに眠る無数の人生を思った。 三ヶ月後、あの女がまた店を訪れた。今度は晴れた昼下がりで、彼女の顔には以前の翳りがなかった。 「父の手術、成功しました。おかげさまで、退院もできて」 彼女は流質期限ぎりぎりで、利息を添えて時計を受け出しに来たのだった。伊佐夫は奥の金庫から丁寧に時計を取り出し、布で拭ってから渡した。 「大事にしなさい。時間は取り戻せても、想いは取り戻せんこともある。だが、あんたはちゃんと取り戻した」 女は時計を胸に抱き、何度も頭を下げて店を出た。戸の鈴が鳴り、雨上がりの光が土間に差し込む。 伊佐夫はカウンターに座り直し、また新聞を広げた。だが目は文字を追わず、窓の外を歩いていく女の後ろ姿をしばらく眺めていた。 質屋の仕事とは、物を預かることではない。人が人生のどん底で、それでも何かを信じようとする瞬間に、静かに寄り添うことなのだと、伊佐夫はいつも思っている。今日もまた、誰かが何かを抱えて、あの曇りガラスの戸を開けるのだろう。