ノールッキズム彼氏

 私の彼氏は、本当に人の顔に良し悪しを言わない。  本当に興味がないらしい。  あの子は美人だ、あの子は可愛いと、ルッキズムで一喜一憂する馬鹿男子どもに見習ってほしいくらいだ。    だから、付き合えたときは最高だった。  こんなに良い人が、私の彼氏でいいんだろうかって。    でも、何事も悪い面があるもので。   「何か気付かない?」 「えっと、ごめん。わかんないや」 「前髪切ったんだよ」 「えー、あー、そうなんだ。ごめん、前の髪型覚えてなくて」    彼氏は、私の顔にも興味を示さない。  髪型を変えようが、化粧を変えようが、気づいてくれない。    そんなに私の顔に興味がないの?と怒ろうとする口を、私は必死に塞いでいる。  口にした瞬間、ルッキズムの片棒を担ぐような気がして。

3%の仕事

 生活保護で拠出されるお金は国家予算の3.3%程度であるらしい。 実際には僕はその他諸々免除して貰ったり医療費もかかっているのでもう少し(いやかなり)お金がかかっているだろう。 僕が人身御供になり人柱として宇宙生命保険に入り多額の保険金(百兆円程の)をかけて事故にでもあって死ねばその他困っている生活保護の人達の20年分程の予算を計上出来る計算になる。 宇宙人ヤクザが僕を山に埋めに来るかも知れない。 実際そんな奴がいたら敵味方問わずどんな方法を使ってでも殺しに来るだろう。 百兆円の賞金首。 何か明日あたり車にでも轢かれそうだ。 こんなことを考えて夜煙草を吸ってブルブル震えて寝る。 君の最後の仕事だよ、と人の良さそうなお爺さんが暗殺術で僕を仕留めに来るかも知れない。 そもそも何がお金になるか分からない世の中なのだ。 最後にやりたいことはなんだ?と聞かれたら何にしようかな?

肩書メーカー

 医者と言う肩書は、医師国家試験を合格しなければ名乗れない。  弁護士と言う肩書は、司法試験を合格しなければ名乗れない。    故に、肩書を名乗ることは、世間から大きな信用を得ることと同義だ。   「信用が欲しいな」    俺も、そんな肩書が欲しかった。  口にするだけで、周囲から尊敬を集められるような肩書が。  残念ながら、俺には才能がなかったようで、なんの肩書も手に入らなかったが。   「ならば、この私が肩書を授けてしんぜよう」    愚痴を零したら、調子に乗った友達が調子に乗った相談をしてきた。  ちょっと面白そうだったので、友達を見守ることにした。    友達は目をギュッとつぶりながら、難しそうな表情で頭を捻る。  そして、カッと目を見開いたかと思うと、俺を指差して一言叫んだ。   「影の英雄!」 「……カゲノエイユウ?」 「そう。世間からは知られていないが、実は世間を救っている英雄だ」 「俺、何もしてないけど」 「実は、生きているだけで、世界の因果律とか空間律とかを調整する役割を持っていて、存在するだけで世界の役に立っているんだ」 「なんだそりゃ」    突拍子もない肩書に、思わず呆れかえってしまった。  だが、何故だか悪くないとも感じた。  絶対に人前で口にしたくはないが、自分で自分に価値を見出す方法としては、案外よかったのかもしれない。   「じゃ、お前は真実の発見者な」 「シンジツノハッケンシャ?」 「世間からは知られていない俺を見つけたんだから、発見者だろ」 「あははは」    俺の提案に、友達は笑い転げた。  腹を抱えながら、涙を流しながら笑った。   「ダサいからいいわ」 「おい。お前の提案と、どこが違うんだよ?」

Dream 1

 非現実な幻想をみた。それは白鳥が飛んで行った物語  白鳥は勇気をもち恐れを持たなかず、青い海のような空へ自由に羽ばたいて  彼はフリーダムに高く、高く、目の前の光景から遠ざかる  朝は当然ながら起きることからはじまる。 早起きは三文の得そういえば三文って現在価値によると何円だっけ? 脱線失礼よく睡眠を摂れたようだとたちあがり伸びをする  朝食は卵をハムの上に焼いたものとパンをテレビをみて、教養を養いながらたべる  スケジュール確認。 3限に講義  怠惰に苛まれながら寝間着から外用の服に着替える。  これといったこともない一日  日々のルーチンともよべない光景

薄暗闇から

 この薄暗い部屋に閉じ込められて、一月が経った。部屋の中は質素な造りだが、ベッドは意外にも上質なマットレスで、シャワーとトイレも完備してあり、生活するには申し分ない。食事は野菜などの彩は無いが、三食差し入れられる。  堪えがたいことは、娯楽が少ないことだ。テレビやパソコンが無いのは勿論、所持していたスマートフォンも取り上げられている。何故かカバーを外された本だけは差し入れられるが、異常な状況では読む気力も湧かない。言わば、生きる楽しみを見いだせない空間。  犯人はわかっている。目の前にいる女だ。 「どうしてこんなことをするんだ」  鉄格子の向こうにそう詰問すれば、女はいつも困った様な表情をするばかりだった。   彼女のかつての交際相手に相談を受けたのが、出会いのきっかけだった。曰く、彼女は相手に尽くすタイプの女性で、しかしそれに際限が無い。ノイローゼになった彼が逃げ出し、身近にいた自分が次の寄生先として選ばれた。  意外にも彼女との生活は悪くはなかった。容姿は華美ではなく、常に地味な服装だったが、むしろ奥ゆかしく好感が持てる。流行の話題には疎いが、古文や歴史に造詣が深く、博識深い。聞いていた異常性を置いておけば、所謂大和撫子そのものだったのだ。  うまくいっていたはずだった。この場所に監禁されるまでは。  あの日は雪が降っていた。寒さに身を震わせ、数か月後に来る春を思い、道すがら在原業平や西行が詠んだ句について語った。 「和歌に詠まれる桜は、どうしてこうも魅力的なんだろう」 「昔は、今よりも目に入る色が少なかったですから、桜の初心な色ですら、貴重な彩、だったのでしょう」 「成程。そもそも現代とは環境が異なるか。僕もいつか全身で感激するような桜を見てみたいものだ」 「ええ、そうですね」  そんな些細な夢も語って、彼女も微笑んでいたというのに。  当夜、勧められるまま深酒をしてその後の記憶がない。目が覚めたらこの部屋にいた。初めは激昂して、それから諭すように、ある時は懇願に近い声色で、どんな言葉で尋ねても、彼女の答えは無いか、曖昧なものばかりだった。  彼女は、僕の思いを試しているのか? 監禁という行為が生み出す歪んだ関係性。被害者からの依存性を期待しているのだろうか。彼女の目的は、ただこうして廃れていく僕を、籠の外から眺めて居たいだけなのかもしれない。  薄暗い部屋で、食事と睡眠の数を数え、もう二月も経った。ひたすら薄暗闇の日々が続いたのだ。段々と、自分の中の何かがすり減っていくのを感じる。 「なあ、今日でもう二月だ。あんたはいつまでこんなことをするつもりなんだ?」  辛うじて、まだ忘れていなかった声と言葉で問いかける。どうせ返事は無い。宛てのない言葉は、壁の中に消えていってしまうのだろう。ただの独白だ。  そう自嘲しながらも、久々にあの困った顔つきを拝んでやろうと、俯いていた顔を上げた。彼女の唇が動いた。 「あと、二週間、くらい?」  食い下がるべきだったろうが、驚き、言葉が出ない。明確に期限を口にしたのはこれが初めてだった。彼女に何の変化があったのか。  その日を皮切りに、彼女は、毎日私の言葉に返事をするようになった。 「もうちょっと、今日は、まだ」 「まだ早いの、だめ」 「きょ、今日は、雨が降ったから」  ある日、聞きなれない金属音と共に、いつもとは異なる微妙な風の流れを感じた。ひた、ひた、と足音が近づく。顔を上げると、鉄格子の向こうの彼女が傍にいた。 「あの、これ」  差し出されたものは、黒いアイマスクだった。付けろというのだろうか。視線で問いかけても、困った表情をするだけだから、望まれるままに装着した。手を引かれ、立ち上がる様促される。僕は彼女のするまま、素直に従った。 「どこに向かっているんだ」  答えのないまま、歩いた。あの仄暗闇から解放されるのならば、どこでもいい。僕はあの薄暗い部屋を出たのだ。  途中から、足の裏に感じていたものが、コンクリートよりも柔らかい感触に変わった。風にのって、土と草の匂いがする。 「取ります、ね」  もう随分歩いたと疲労を感じ始めた頃、ふと立ち止まって彼女は言った。  髪が巻き込まれ頭皮が引っ張られたが、些細な問題だった。  流れ込む光の束に、すぐには目を開けなかった。ゆっくりと瞼の裏に馴染ませ、恐る恐る開いていく。  色の洪水だった。失くしていた色、求めていた色、知っていたはずのものが、未知のものに見えた。背丈を優に超える幹は、大地の色を吸い込んでいる。風に舞い散る花びらには、一枚一枚色があった。全て、異なる色なのだ。  言葉にならない僕に、彼女は嬉しそうに笑った。久しぶりに見た笑顔だ。僕は、彼女が僕を閉じ込めた理由を悟った。後はただ、手を握り締めて、桜を眺めた。

Code:MO

 Code:MOそれは世界を牛耳る死の武器商人組織。 その組織の概要や総統の存在などは謎に包まれている。 しかも輸出する武器はミサイルや銃等に限らず部下に作らせた音楽兵器(流すだけで相手を戦闘不能にする死の旋律)等もだ。 総統の素性は明かされていないが銃剣などをこよなく愛し組織の持つ特殊技術による古来の刀剣などを改良した芸術品の域まで高められた武器なども輸出対象だ。 海外にそれらの武器を輸出する見返りに各国の取引先の国の裏情報機密情報などを受け取っている。 それらの情報などを統合し秘密の武器製造工場で史上最高最強の兵器を作ろうと今宵も暗躍している。 Code:MOの各部門で働く各国の精鋭達は今日も表向きの仕事をこなしながら兵器のプランを練る。 Code:MOの次の新兵器のプランは世界の宗教を纏め上げてしまうという究極の目標を掲げるエンターテイメント作品を創るという物なのだがそれは世界の国家元首、宗教指導者、企業家などの反発をくらいなかなかに達成困難な目標だ。 すでにCode:MOの組織の中にも各国のスパイエージェントが入り込み日々妨害、情報戦等が繰り広げられている。 Code:MOに雇われている傭兵達は日々のそのような戦闘の記録を取り情報を集めエンターテイメント作品の礎にしている。 Code:MOは今日も密かに世界を構築する。 いやあ真面目に妄想しすぎた。

東京生まれのTさん

「旅行へ行こう!」 「行こう行こう!」    盛り上がる友達。   「すまぬ。某は、ここを出られぬ故」    断る某。   「Tっていっつもそうだよな」 「東京の人は、東京に来いって言うばかりで、自分からはいかないよな」    呆れた顔で去っていく友達。    某は、窓から外を見た。  東京の街はいつものように、黒い邪気によって囲まれていた。  東京生まれ東京育ち純潔の都民にしか見えぬ、東京の正体だ。   「許せ、友たちよ。某、邪気の外に出ると死んでしまうのだ」    東京の汚い空気を吸って育った人間は、綺麗な空気を吸うことができない。  肺が、東京の外の人間とは異なる進化をしてしまったのだ。    某だって、外の世界を見てみたい。   「破ァーッ!」    手に力を込めて、邪気に向かって波動を放つ。  しかし、邪気に一瞬穴が開いただけ。  すぐ塞がって元通り。        数日後、友達からメッセージが届いた。   『富山の海鮮美味すぎ』    某は、精一杯の強がりを込めて返信した。   『東京でも食べれるよ』

金曜日のあの子

金曜の朝一番の講義にいつもいる女の子が その日はいなかった いつもその女の子のすぐ後ろに座る いるべき人がいないだけで その背中を見ることができないだけで ずいぶんと景色がちがう 発言を求められるわけではないけれど わけもなく緊張しながらになった 次の週、その女の子に声をかけられた すまないけれど、ノートを見せてほしい そんな内容のことを言われた どうやら、体調を悪くしていたらしい きちんとした理由があることに少し安堵する ほかの子たちだとココロが苦い顔をしてしまう その女の子に対しては、そうはならなかった その女の子は、わたしのノートを見ながら 自分のノートに向かって書きはじめた ―コピーしたら? わたしが言うと ―まじめに書いたノートをコピーでちゃちゃっとなんて、そんな失礼なことできない 女の子は言った その女の子が書いているあいだ この子となら、友だちになれるんじゃないかと思いながらだった 女の子のほうも、おんなじことを思ってくれてたら…

自分が好きだから

私は、私が大好きだ 笑ってる私、誰かと話してる私、誰かに認められている私 私は、何をしていても可愛い 勉強出来ない私も、ドジで可愛いと思う スポーツしている時も、ご飯を食べている時も、何をしていても私は可愛い私はそう思う でも、みんなはそう思わないみたい、 「気持ち悪い」「自分大好き女かよ」 「地雷系じゃん、最悪」 「近寄らないようにしよ」 みんなはそう言って離れていく でも、私は気にしない だって、私自身が居るから 私が好きで何が悪い? 私が可愛くて何が悪い? 自分のことが好きで何が悪い? 何がいけない? そんなの、どれが決めた? 誰も決めてないから私は私を愛す 誰にも愛されなくても、私自身が私を愛す、認める だから、平気だ私は私が入れば生きていける 周りの目とか評価とか気にしない 好きなことをして何が悪いって話だ

思い出の枷

 円筒のガラス瓶に入る。  謎の液体で全身をふやかす。  洗濯機のように液体を回転させる。    全身が雑巾のように絞られる。    体から絞り出されるのは、透明で透き通った液体。  どす黒いなぞの液体に混じり込んでいく。    透明で透き通った液体の正体は、思い出。  美化された美しい過去の集合体。  それを全部、絞り出す。    透明で透き通った液体が出なくなれば、中に入っていた人間を出す。  彼らは皆、疲労感を押し出すも、目だけはらんらんと輝いている。   「俺、頑張ります!」 「私、まだまだできます!」    円筒のガラス瓶に入る前、虚無感に包まれていた顔とは大違い。    新入りが、目を丸くしながら博士を見る。   「これ、どういうことですか?」    博士は長いひげを触りながら、自慢するように答える。   「何故、人は年を取ると丸くなるのか。それは、思い出が溜まるからじゃ」 「思い出が溜まるのは良いことなんじゃないんですか?」 「良いことじゃ。しかし、思い出が溜まりすぎると、自分の人生に満足してしまうのじゃ。今、こんなに幸せなのだからと、頑張ることを放棄してしまう。だから、絞り出してやるのよ。かつての飢えを思い出させるためにな」    新入りは、ガラス瓶へ入ることを望んだ人の名簿を確認する。  皆が平等に若者ではなく、若い頃に成功者と呼ばれた者たちだった。  名前は知っているが、今は何をやっているかわからない芸能人の名前もいくらか書かれていた。   「ぼくにはよくわかりません」 「それは、お前が若いからじゃ。お前にはまだ、夢があるじゃろう?」    自動ドアが開き、次の客が入ってきた。

小説家と泥棒さん

“自身の小説をバズらせる方法” そう表紙にでかでかと書いてあった 「ありがとうございました〜」 結局買った、そんなのどうせ意味ないのに これで何冊目だろうか、小説家の本を片っ端から買い漁っては読んでないのに放置、なんて沢山あるこれなら、売った方がまだマシだろなんて時々思う、 袋から開けてない物を、1回しか読んでないものだってあるからだ、 これもどうせ、読まずにその辺に捨てられるだろう、そんなことを思いながら私は家に帰った 「ただいま」 そんなことを言ったって、誰も返事はしない 「おかえり」 「…は?」 返事が、返ってきた…? 「あはは、お邪魔、して、ます」 「だ、だだだだ誰ですか!?」 一人暮らしの家に帰ったらおかえりなんて返事が来たら誰だってびっくりするだろう、 「あ、泥棒してまーす」 何この泥棒チャラチャラしてる!? 「け、警察…!」 「あ〜!それだけはマジ勘弁!待って待って!」 「…は、はぁ?」 とりあえず、その人にお茶を入れることにした 「私はサナよろしく」 「私は、葵です、どうも」 泥棒が名前を名乗っていいのか…?などと疑問はあったが、とりあえずこちらも名乗るだけ名乗っておいた 「この部屋凄いねー!いっぱい本がある!」 「ほとんど読んでないですけどね」 「なんでよ!勿体ない!」 「ほぼ同じことしか書いてないし、参考になんてならないから」 「いいと思うんだけどな、特に事“小説家の基本”とか」 「それなら沢山読んだ、飽きたけどね」 「小説家なの?」 「売れないね、」 「へぇー!」 「小さい頃からの夢だったの、」 「将来は絶対に小説家になる!って昔はあんなに言っていたのに」 「現実の蓋を開けてみればこうだよ」 「ま、人生なんてそんなもんじゃん」 「私だって、そうだよ、昔はね警察官になりたかったの、」 「泥棒じゃん」 「まさにそれな笑」 「人生なんてね願ったもん勝ちよ!」 「それに、私は好きだよ葵の小説」 「…え?」 「いつも買ってるんだよ!私!」 「どういう事…?」 「わかんないか、ま、仕方ないか」 「待って、ほんとに意味がわかんないどういうこと?」 「泥棒じゃ、」 「推しの家に入ってみました〜泥棒としてね、」 「初めて出し方作品は“幸せとは”だったでしょ」 「5年前の…」 「その頃からめっちゃ追いかけてたんだよ」 「最近も本が出てなくて心配したし、」 「な、んで、」 「救われたんだよ、あなたの本に」 「飛び降りる勇気より相談する勇気!」 「大好きだったな、その言葉」 「なんで、」 「最近、あんまり出てないから心配してて、」 「そしたら、見つけたから…後をつけて、家まで特定したの」 「ごめんなさい、迷惑でしたよね」 「そんなこと、ないよ」 「…え?」 「サナみたいな人が居るのは嬉しいよ」 「ありがとう、サナ」 「…!」 「ただし、不法侵入はダメだよ」 「はい、」 「でも、これを作品にしたい」 「…?」 「一緒に作品作ってくれる?サナ」 「私でいいなら…是非!」

突入

 その紡錘《ぼうすい》形宇宙船は、汚染されていた。真空中でも生存可能な病原体によって。宇宙服すら突破して感染するものだった。  しかも、数千度の高熱にも耐える芽胞《がほう》を形成し、数万年後でも大気圏突入による生息域拡大が可能である。  この船の先行調査団が探査した自由浮遊惑星がそのような代物に汚染されていたと知ったのは、恒星間航行に移ってからだった。  乗組員たちは次々と病原体に感染し、倒れ、死んでいった。  艦長の下した決断は、恒星に突入してこの宇宙船ごと焼却すること。いかにそのような病原体といえども、恒星の熱と重力には耐えられまい。  艦長は最寄りの恒星系に目標を定め、その恒星への突入コースを設定し、そして息絶えた。  自分たちの星だけでなく、未知の生命体をも護るために。  だが、長い航行時間のあいだに、わずかに軌道がずれてしまった。  紡錘形宇宙船は恒星をかすめ、その重力で加速し、大きく軌道を曲げて虚空の中へと消えていった。  次はどこへ行くのか、誰にもわからない。   *  *  *  2017年、地球の天文学者らは、太陽系外部から飛来し、そして太陽の重力で軌道を曲げて飛び去る小天体に興奮していた。  ハーバード大学の高名な天文学者に至っては、地球外文明からの探査機だとまで主張するほどだった。  観測史上初めて確認された恒星間天体を、彼らはハワイ語で「斥候」を意味する「オウムアムア」と命名した。短い期間の観測データから推定された外形は――紡錘形だった。

駅の落とし物

寝坊をして急いで駅に行く。完全に遅刻だ。 ホームはいつもと違い通勤ラッシュが過ぎて穏やかな雰囲気になっている。 自販機の前で小さな女の子と母親がどれにするか楽しそうに話している。 その近くにホームから線路を覗くスーツ姿のオジサンがいた。 私が会社に遅刻の連絡をしている間も、ずっと線路を入念に観察している。落とし物なら駅員に言えばいいのだが、まさか降りて取らないよなっなんて思うくらい真剣に探している 「落とし物ですか?」 「え、あっ、はい。そうなんですよ」 「駅員に言って取ってもらったほうがいいですよ」 「はい、そうなんですが、どこに落としたか分からなくて」 「何を落とされたんですか?イヤホンとか?鍵とか?」 オジサンは笑顔で右腕を上げながら応える 「右手です。この間轢かれたときに、右手だけ、どこかへ行ってしまって」 「ママこれなに?」 自販機の下を覗いて小さな女の子が何かを指さしている

ウザいしか無い男が転生した話

「ウザい」その男にはただそれだけしか判断基準がなかった。欲望のまま無思慮に好き放題行動するか、「ウザい」と感じたら相手を闇雲に殴り倒すか。  うまく行ってる奴を見たら「ウザい」と悪態をつく。隙を見て足を引っ張ったり、何か奪えそうなら遠慮なく奪っていく。金持ちもウザい、頭の良い奴もウザい、道徳だのモラルだのとうるさい奴らは最高にウザい。  夜の街のネオンが煌めく中、男はその欲望のままに行動した。「ウザい」と感じたら、その場で相手を殴り倒す。「おい、何してんだ!」と叫ぶ周りに対して、彼は「ウザいんだよ」とだけ答え、その場を去った。  ある夜、男は盛り場で別の男ともみ合いになった。酔っ払った男たちの笑い声や、女たちのはしゃぐ声が響く中、二人は取っ組み合いとなった。理由など「ウザい」以外になにもない。無遠慮に相手を殴りつけているうち、相手に車道へ突き飛ばされ、そこに走ってきた車にはねとばされてしまった。    気付けば男は見たことのない奇妙な場所にいた。見たことの無い神殿のような建物の中に、奇妙な光の玉がいくつも浮かんでいる。どうやらファンタジーものの異世界のようだが、そんなタイプのゲームもマンガもキモいオタクどもの観るようなものだと相手にしてこなかった。小偉そうな女が自分に解る言葉でいろいろ講釈を垂れてきたが、聴く気にもなれなかった。ただ自分に何かすごい力があると何となく解っただけで十分だった。  少し念じるだけで炎やら光の矢やらが飛びだして、気に入らない相手に叩きつけられる。「この力、面白いな」と男はつぶやいた。  力を手に入れた男は、新しい世界で好き放題に振る舞い始めた。欲望のままに攻撃し、奪い取る。男を倒そうと腕自慢の奴らが次々と襲いかかってきた。ウザいので片っ端から返り討ちにしてやった。  やがて、男の下には強きにへつらい弱きをくじくような連中が集まってきた。どう見ても人間ではない化け物のような連中だが、男に対しては素直に言うとおりにするのでウザいと感じることはない。彼らが望むとおりに手下にしてやった。  男はどこかの城を奪い取り、そこに居座って、手下達に街を襲わせるようになった。自分で出て行くのがそろそろウザくなってきたからだ。たまに人間や人間っぽい奴らが数人で集まって城に乗り込み、手下を倒して男のもとに現れ挑んでくるが、そのたびに自分で叩きのめす。奴らは男のことを「魔王」と呼んでいたが、それをウザいと感じることはなかった。  そのうちに神様に仕えているとか言う女が、仲間と共に男の元に現れた。厳しく自分自身を律しているのが、身につけたものや立ち居振る舞いから伝わってくる。 「あなたに思慮が備わって、欲望を御する事が出来たなら、人々を救う力となりますのに」  そう言いながら男を攻撃してきた。これまたウザくてたまらない。「偉そうに講釈垂れやがって」と、衝動のままに散々に叩きのめしてやった。 「いつか勇者が現れ、あなたを打ち倒すでしょう」  そう言って動かなくなってしまった女を、仲間たちが抱え上げて逃げ出していった。「やれるもんならやってみろよ?」と思いながら、追い撃ちするのもウザいと放っておいた。  そんなある日、ひときわ強い奴が現れた。奴はいつぞやの女を始めとした仲間と共に男の城に乗り込んできた。特別にあつらえられた鎧に鋭い光を放つ剣、と見た目からして違う。その印象通りに今度は強い。これまでの奴らとはまるで違う。どうやらコイツが「勇者」らしい。 「非道の限りを尽くす魔王よ、いまここで打ち倒す!」  これまでになく最悪にウザい! 男は勇者らしい奴の激しい攻撃よりも、正義ぶった小偉そうな様子に対してムキになって苛烈な攻撃を加えた。  余波で城のあちこちが崩れるほどの凄まじい激戦の末、ついに男は倒された。  これほどの強さだ、もしかしたら、自分と同じように転生とやらでこの世界にやってきたのか? 「お前も転生してきたのか?」と男が尋ねると、勇者は「転生? 何のことだ? 違うぞ」と答えてきた。  男の意識が薄れる中、彼の意識の中に女が現れた。この世界へ転生したとき横にいたあの小偉そうな女だ。 「勇者も倒す相手がいないと力を持て余し、闇堕ちする。だから、私は転生を司る女神としてあなたを呼んだのです」と告げてきた。 「ふざけんな、あんな良い子ちゃんぶったウザい奴の相手をさせるために、俺を転生させてきたのかよ! ウザすぎる!」  男はかんしゃく混じりに叫びつつ、自分の意識が闇に消えていくのを感じとっていた。 「……まあいいか、何もかもがウザかった俺自身が一番ウザかったからな。そんなウザいのとお別れ出来るならいいさ」  女神の言葉に何となく納得しながら、男の意識は闇に消えていった。

言語破壊

「まじ、ヤバみでエグみでまんじ」    道行く若者の言葉を聞いて、私はひどく悲しい気分になった。  日本語が、日本語でなくなっていくように感じて。    まじ、とはなんだ。  日本語には、『本当に』という言葉がある。  ヤバみ、とはなんだ。  日本語には、『危険そうだ』や『難しそうだ』という言葉がある。  エグみ、とはなんだ。  いや、本当になんなんだ。    形を変えていく、あるいは消滅していく美しい日本語が、私は恐くて仕方なかった。   「どう思う? ばあさんや」 「東京生まれのあんたがンなこと言ってんでねえ!」    恐怖をばあさんに共有しようと思ったら、まさかのお叱りが返ってきた。  意味も分からず、私は首をひねる。   「変なことを言ったか? 日本語を守ろうとしているだけなのだが」 「あんた、あたしゃが嫁いできたとき、なんといったか覚えとらんのかー!」 「……なんか言ったっけ?」 「『これから東京に住むんだから、方言も直そうな』とか言いやがったんじゃ!」 「言ったな。東京に住むんだから、標準語の方がいいと思って」    ばあさんの言葉の意味が分からずに固まっていると、ばあさんは鬼のような表情へと変わった。  鼻息を荒くして、しわくちゃの顔に、さらに深いしわを作った。   「何が標準語じゃ! 明治に入って整備されただけの、人工若者言語じゃねーか! うちの方言は都が京都の前から存在するわ!」 「いや……でも……標準……」 「黙れ! 江戸より前の人間から見れば、じいさんが標準語って呼んでる日本語も、十分に若者言葉じゃたわけ!」    言葉が詰まる。  今まで、自分の言葉が標準で普通と考えて、疑わなかった。  しかし、ばあさんの言う通り、味方によっては自分の言葉も若者言葉になるのかと気づかされた。  まじも、ヤバみも、エグみも。  二十年もすれば、標準語として使われているのかもしれないと思うと、なんだか自分が恥ずかしくなった。   「すまぬ、ばあさん。私が間違っていた」 「じいさん。分かればいいんじゃ」 「私もこれからは、積極的に新しい言葉を使っていくことにするよ。じじい、日本語を使いこなして、まじでエグいじじいになる!」 「いや、それはキモいからやめて」    ええええええええええええええええええええええええええ。

感謝されたい

 あるところに、一人の男がいた。  誰からも必要とされていないと感じていた。  誰からも感謝されないまま、生きている気がしなかった。  せいぜい、便利使いされて軽い調子で「ありがとさん」とだけ言われるのが関の山だった。  せめて一度でいい、多くの人に心から必要とされ、心から感謝されてみたい。  男はそう願った。  ある日、男は車にはねられた。  意識は戻らず、医師たちは脳死と判断した。  身元は不明だったが、臓器提供の意思表示カードだけが見つかった。  角膜を失っていた少女に、光が戻った。  肝臓の移植を待っていた青年が、退院した。  膵臓を得た男は、もうインスリンに怯えずにすむようになった。  両肺を移植された母親は、ふたたび子どもを抱きしめた。  そして、男の心臓は、重い病を患っていた少年の胸で、今も静かに鼓動を打っている。  誰も彼の名を知らない。  けれど、彼に感謝する人はたしかに存在している。  本当に、たくさんの人が、心から彼に感謝している。  ただ、それらの感謝の言葉が、当の男の耳に、彼の心に届くことがなかった。

おねえちゃんな女の子

妹なんてだいっきらい。 ままとぱぱの目を独り占めするし、親戚の集まりでも妹ばっかりちやほやされる。 なんで、なんで、なんで。 あきが生まれる前までずっと私をみてたじゃん。 なんで、なんで、なんで。 意味わからない。 妹、あきが生まれる時、ままは私にプレゼントを渡すときのようにもったいぶって言った。 「はるに」 「なになに?」 「妹ができまーす!」 「え」 妹ができるって普通は嬉しいことなのかな。 私は欲しいなんて一言も言ってないし、ぱぱとまま二人だけでよかった。 なのに、どうして 「うれしい」 生まれて初めて嘘をついた。作り笑いもした。 「はるももうお姉ちゃんだね」 パパが嬉しそうに言う。 何がそんなにうれしいの? お姉ちゃんがいる友達に相談したら、妹いいなーって言われた。 一人っ子の友達に相談したら、兄弟いいなーって言われた。 誰もわかってくれない。 お姉ちゃんなんてやめてやる。 妹なんてだいっきらい。

始まりの日

 あるところに男がいた。彼はいつも不平不満を口にしていた。仕事でも家庭でも、何かと他人のせいにしていた。仕事が遅れれば上司や同僚のせい、家での問題があれば妻や子供のせい。しかし、自分から解決策を提案することは一度もなかった。 「どうせ俺がやっても無駄だからさ」と、彼はよく言っていた。そのくせ、自分にはもっと良い待遇が当然だと考えていた。彼は「人は死んだら転生するかもしれない」という話を耳にしたが、「そんなバカな話、あるわけがない」と一笑に付していた。それでも心の中では、「神になって人々を思うがままに操りたい」と密かに思っていた。  突然の出来事が彼の人生を変えた。急いで横断歩道を渡っていると、運悪く一台の車が突っ込んできた。はね飛ばされ、地面に叩きつけられた彼は、意識が遠のくのを感じた。その瞬間、彼は「神がいるって言うのなら、俺を神に生まれ変わらせろ!」と心の中で叫んだ。  気がつくと、男は暗闇の中にいた。何も見えない、何も聞こえない。しかし、彼は「何だよこれ、真っ暗闇じゃないか! なんで真っ暗なんだよ!」と叫び、誰か何とかしてくれるのをただ待つばかりだった。  そして、男は永遠の暗闇の中で不平不満をこぼすばかり。彼はその願い通りに神になったのだが、その力を使うことはなかった。自分の世界を明るくする最初の一言、その重要な「光あれ」という言葉を口にすることすらしなかった。

或る七夕の日に

 彼女は水溶性。  僕は揮発性。  水溶性とは水に溶ける性質のこと。  揮発性とは空に溶ける性質のことだ。  彼女は雨の日には肌から少しずつにじみ出て、最後には水たまりに溶けていく。  僕は晴れた日には皮膚の隙間から気化して、空にすこしずつ溶けていく。  つまり、雨の日には彼女が消えてしまい、晴れた日には僕がいなくなる。  ひとりが安定しているとき、もうひとりは不在になる。  だから僕たちは、めったに会えない。  すれちがう気象現象みたいな関係。  それが、僕たちの体質だった。ふたりの、ささやかな欠陥。とてもふしぎだけど、そういう話。  僕たちが一緒にいられるのは、高温多湿で風のない午後に限られている。  湿度は70パーセント以上、気温は26度以上、風速1メートル以下。  そんな天気なんて、一年でそうそうおとずれない。  梅雨と夏のあいだのほんの数日。ちょうど七夕のころ。  今年のその日が来るのを、僕は心の中で、ずっと数えていた。  7月7日、午後2時。  空はどんよりと曇っていた。けれど雨は降らず、風も吹かない。アスファルトからは湿気が立ちのぼっている。  駅前の公園。ベンチがひとつだけあって、彼女が座っていた。  スカートの裾を両手で押さえながら、遠くの空を見ている。  輪郭がぼんやりとにじんでいて、まるで霧の中にいるようだったけれど、それでもちゃんと待っていた。  目が合って、ふたりで笑ってしまった。  こういうとき、泣くか笑うか迷って、だいたい笑ってしまうのが僕たちだ。  「やっぱり、来てくれたんだね」  僕が言うと、彼女はふわりと笑った。  「うん。だってやっぱり、今日だよね」  湿った空気のなかで、彼女の声は水の中みたいにやわらかかった。  「ちゃんと同じ日をえらべた」  たった一言に、今までのあいだに言えなかった言葉が、たくさんしずんでいた気がした。  「駅から走ってきた? 空気が揺れてた」  「うん、ちょっと。間に合わなかったらどうしようと思って」  「ちゃんと間に合ったね」  「ふふ、わたしちょっとにじんでるでしょ」  そう言った彼女の声のなかに、ほんのすこしだけ、水の音がした気がした。  「でも、大丈夫」  空気はぬるく、アスファルトのにおいが強くなっていて、遠くで蝉が一度だけ鳴いた。  ベンチで並んで座る。指先がふれても、どちらも溶けなかった。  彼女の髪は湿気を吸ってわずかにうねっていた。  話したのは、どうってことのないことばかりだった。最近読んだ本のこと。ベンチに新しくできたひび割れのこと。  ふたりでアイスを食べて、どっちが先に食べおわるか競争もした。  アイスが溶けるより、彼女の手の方が少し先に溶けてた。それでも彼女は、笑っていた。  そのあと僕たちは、湿った空気のなかで、ふかく、深呼吸をした。吸って、吐いて。  たったそれだけで、目の前の空気が、すこしだけ形をもった気がした。まだ吹いていないけれど、もうすぐ風が吹くのを、僕たちは予感していた。  空の色が、ほんのすこし明るくなっている。  気温もすこしだけ下がってきた。  僕の指先にも、風の気配がふれた。  「もうすぐかな」  「うん。今年も、すぐだったね」  「来年もまた」  「うん、またここで」  彼女の言葉の、最後のひとことが水になる。  僕のすがたも、それを追うように揺らいだ。  風が吹いた。ほんのすこしだけ。  たったそれだけで、僕たちは一緒にいられなくなる。  次の再会まで、あと364日。  それまで僕たちは、空のどこかにまぎれている。目には見えないけれど、たぶん、すぐそばに。  髪のうねる季節まで。

コーヒーは冷めちゃって

深夜のファミレスはちょっとさみしい 人が少なくて、ちょっとさみしい その人たちは、どこか仲間のようで、でも、誰の名前も知らなくて、ちょっとさみしい ひとりでさみしいから、 仲間だよね? って、心のなかで問いかけてみるけど、誰もこたえてくれなくて…… ファミリーレストランなのに、ファミリーで来てる人なんてみあたらなくって、ちょっとおかしい いま、このさみしい雰囲気のなかにいる人たちをひっくるめてファミリーだっていうんならそうなのかもしれない だからファミリーレストランでいいのかも…… 終電を逃しちゃったよれよれスーツのサラリーマンも 何かを書きたくて、でも書けなくて、アタマをかきむしってる若い男の子も 窓の外の暗闇をじっとみつめて、きっと来てくれるわって願ってる髪の長い女の人も 何かしら起きてくれないかな、でも何も起こってほしくないんだけどね、そんな表情の店員も そして、何者とも呼べないこの私も ファミリーだっていうんならファミリーなのかな とってもさみしいファミリーだよね だから、ちょっとさみしい 口をつけたコーヒーが、すっかり冷めてしまってて、ちょっとかなしい ドリンクバーでいれかえてきたコーヒーはあったかだけど、いまの私の気持ちにはふさわしくなくて、ちょっとせつない わかってくれてないアイツみたいで、なんかさみしい そんなことを思いながら、朝になるのを待っているのは、とてもさみしい

ねがい

パパが帰ってくると、僕は今日学校であった事とか、今日見たYouTubeの話をしたいけど、疲れて帰って来たときは、あまり話さないようにしている。 ママにパパを休ませてあげようと言われて「分かってるよ」と言ったし。 朝はパパが出かける直前に目が覚めるから、ちょっとしか話せない パパは僕を抱きしめて「テキトーでいいから」と笑顔で言うが、テキトーがよく分からない パパは休みの日には掃除とかお昼ゴハンとか洗濯とか色々やって忙しいけど、それが終われば、僕と一緒にゲームをしてくれる。でも少しすると「疲れた」と言って、あっと言う間にイビキをかいて寝てしまう いつものことだから気にしないけど 僕はパパが喜ぶ顔が見たいんだ パパが笑っていると、とてもハッピーになるから 今日のパパはまだ帰って来ない どうか疲れていませんように パパが一緒にゲームをしてくれますように あと、ママが宿題したのかと聞きませんように 彡 ★ 朝起きると昨晩の記憶がなくなっている ただ、どんな雰囲気だったかは何となく覚えている 仕事が辛いわけでも、嫌なわけでもなくいし、家族が好きで、妻と息子と一緒にいる時間は世界で一番リラックス出来る それなのに、酒を浴びるように飲んでは、家族の会話を聞こえないふりして、そのうち酔いつぶれる 肉体労働だから確かに筋肉も体力もギリギリで帰宅するが、そんな事は何でもない。疲れなんかどうにでもコントロール出来る。そうじゃなくて、気持ちが揺らいでいる。不安定な足場でオロオロしている心の中の私が気を狂わせないために酒を浴びる 本当は息子と穏やかに話したいし、妻の愚痴の一つも聞いてやりたいけど、崩れ落ちないようにするので精一杯なのだ あと少しで家に着く。今日こそは家族の為に暇なパパでいたい。呼べば直ぐ来るようなパパでいたい。 「ただいま」

noise

「こちらチームX。人類滅亡の信号を受信しました。」 「了解。回収に向かう。」 *** 無機質な機械音と共に、無感情な船員の声が響く。 船の中には、"その時"を待ち望んでいた数人の職員と、次なる探索者達が集結していた。父の職場であるが故に、小さい頃から何度か訪れたことがある場所だったが、今となっては職員の一人。 今日は、数ヶ月ぶりに"その時"を知らせる信号が届いた。 チームの目的地惑星0。この星は特殊で、珍しく生命たちの進化が著しい。周囲には似たような惑星もあるが少々異質だ。 そんな惑星を、塵ゴミのように研究し続けるこの船の職員達は、選ばれし探索者となり、惑星0による最高の音楽を求めてこの星に根付く。時期は、終焉が近づくまでの数ヶ月。 未だ研究は目的に達した事がない。少なくとも、僕が生きている間には。最高の音楽を呈して造られた無数の過去も、今や残骸として宇宙の屑となった。恐らくこれから先も、続いていくのだろう。 「無事に回収しました。帰還します。」 再び響いた船員の声。司令室の空気は安堵に包まれるまでもなく、無機質な空間と同化したままだった。何も存在しないと錯覚するような空間に再び声が響く。 「次の探索者を発表する。」 この船の船長であり、最高司令官。 その姿はベールに包まれ、見たものは惑星0に赴き皆帰らぬものとなった。それが探索者達の運命であり、使命。 もちろん、使命を授ける者は船長だ。誰も彼には逆らわない、何故ならこの船で生き残る目的や意志もなく、ただの命を使う必要すら考えることも無い。揺らぐような僕を除いては。 「父さん、次は多分僕の番だ。」 顔色一つ変えずに振り向いた父と目が合う。何を言うでもなく、大きく息を吐いた。父が待つのは、信号だけ。お互い思い入れなどない関係に、お互い傷つくこともない。何も抱かず、ただ惑星0に向かうのみ。 * 最後に見た宇宙の景色を思い出す。 初めて見た船の外見は、今でもよく頭に残っている。 予想通り、探索者に選ばれたのは僕だった。最高司令官は、比較的若い男のようで、密かに想像していた人物像とはかけ離れていた。 ラジカセと呼ばれる古びた機械と、テープと呼ばれる小さな箱のような物。"その時"が来たら。セットをして▶のマークを押す。至って簡単な仕事だった。 そして、探索者にはもう一つ仕事がある。そう、最高の音楽を作ること。 あまり重荷にも感じない。無意味に捨てられた音楽達を知っている。 そしてなにより、この惑星には音楽が腐るほど存在する。 聞いたことのない音は何一つなく、今までの探索者達を気の毒に思った。 求められている対象もなく、最高とだけ示された曖昧なものに、誰もたどり着けるはずがない。 結局の所、あの船の中に居たのは、暇つぶしの為の娯楽を求め、空腹感を埋めているだけの者だった。 携帯の通知音が鳴る。 「今夜空いてる?たまたまチケットもらったんだけどどう?」 惑星0で出来た初めての知り合いからだ。 彼は音楽が好きで、色々な種類のおすすめを教えてくれる。 たまに気になる音楽もあるが、最高と呼べる音楽は見つからない。 "その時"が来る頃、自分がどんな音楽を作るかなんて、一音も想像できない。街中で流れる雑音こそ、何故か思うところがある。 無機質なのに、感情がこもっているかのように耳に馴染む。 「分かった。20時にいつもの場所で。」 わざと遅めの時間を教えて、街の音を求め家を出た。 この惑星の生命はあまりにも呑気だ。 もうすぐ滅びるとも知らず、内に湧く情熱を全てさらけ出しては、自慢げに他人を見渡していた。揺らぎ傾き様々な感情を観察しては、たまにそれを羨ましくも思う。何故なら、とても生きていると感じたから。 船に居たら気づかなかったであろう、感情というもの。 風を気持ちと表し、涙を雨に滲ませ、夜の静けさや太陽の存在すらも自分の為として上手く包み込む。 全てを感じる権利があると、何かを信じる姿がたまに崇高なものに思えた。全ては決まった出来事に過ぎないのに。 * この惑星に来て何年の時を過ごしただろう、仕方の無い時間だけが過ぎていった。 未だ最高の音楽を作る事は出来ていないが、それはこれからの事。 もう時期"その時"が来る。街は既に荒れ果て、すれ違う生命もぽつりぽつり。惑星0の終わりは近い、もう何度目の終わりだろう。辺りには炎や灰が舞っている。 爆撃とやらに更地化させられた地面に、セットされたラジカセを置いた。 また生まれ変わるこの惑星に誰も未練など抱かない。 ▶と同時に●を押し込み、街へ向かって歩きだす。 この破滅的な惑星には、きっとお似合いな音楽が出来ると信じて。 *** 「こちらチームX。人類滅亡の信号を受信しました。」 「了解。回収に向かう。」

音ハラ対策

「それ、音ハラですよ!」    パソコンをカタカタと叩きながら、時折大きな独り言を零す同僚に、私は勇気をもって指摘した。  同僚は手を止めて驚いた表情を浮かべた後、小声で一言。   「ごめん」    翌日、会社全体で、音ハラに悩んでいないかと言う社員へのヒアリングが行われた。  匿名だったので、遠慮なくぶちまけた。   『ボールペンのカチカチ音が五月蠅い』 『鼻をかむ音が不快』 『ペットボトルを潰す音が耳障り』 『ストローの音が嫌』    翌週、会社全体に、音ハラ対策の施策が広報された。  私は快適な職場環境を期待し、広報を確認した。   『1.職場での会話禁止』 『2.パソコンの使用禁止。スマートフォンを使用すること』 『3.ボールペン・シャーペンの使用禁止。鉛筆を使用すること』 『4.職場での鼻かみ禁止。トイレでかむこと』 『5.ペットボトル・缶・瓶の持ち込み禁止。水筒を持参すること』    私は盛大にひっくり返った。   「こんなの、厳しすぎます!」    私は、規則を決めただろう総務部に怒鳴り込んだ。  総務部の人たちは私を見た後、口の前に人差し指をたてて、一枚のポスターを指差した。   『会話禁止』

頼む時間よ動いてくれ

その時だった。世界の時間が止まった。 俺はそのとき電車の座席に座って資格取得の勉強をしてた。 最初は線路の点検でもしてるのかと思ったが、いつまで経っても電車が動かないから気になって周囲を見回した。 そしたらみんな動かないんだ。1ミリも動かないんだ。 しかも俺は耳栓をしてて周囲の音を遮断してたから、誰の声も聞こえなくなったのは資格勉強に集中していたからだとてっきり思っていた。 「え、いつ動きますかこれ?」 俺は瞬きもしないお隣さんに話しかけた。 時間が止まる。それは誰もが一度は望んだことだろう。しかし、実際に時間が止まると、あんなことやこんなことなんてなんにも考えられない。 とにかく不安になった。しかも電車だし。出られないし。 それに…。最近好きな人できたというのに、時間が止まったせいでその人に会えなくなるんじゃないだろうか。 そもそも資格取得のための勉強もしてたのに、時間が止まったら試験すら受けられないじゃん。 「早く時間動けよ…」 「まあそう焦らずに。」 「ひぇ!?」 俺はびっくりして声が裏返った。声がする方を向いてみると、ドア付近で立っている男がいた。 見た感じすんごい疲れている。 「この時間、しょっちゅう止まりますよね。」 そう言って男は話しかけてきた。 「そうなんですか…?俺、この時間初めて乗ったんで。」 「あ。そうでしたか。それは失礼。」 男はなんだか残念そうだったが、俺に微笑んでみせた。 「これいつ動くか分かったりしますか?」 俺は思い切って聞いてみることにした。 「いつ動くかですか。そうですね。今止まったので、あと10年したらまた動くと思います。」 「……今10年って言いました?」  「ええ。」 信じることができず俺は男を見つめたまま動くことができなかった。 「先ほど、前にも止まったと話されてましたよね?今までも、10年間ずっと待ってたんですか?」 「ええ。そうですね。」 そう言った男はどこか明るかった。 「これ、食糧とかないんですけど、死にますか?」 「お腹なんて空きませんよ。時間のルールでそうなっているんです。流石にお腹空いたら死ぬので。」 「なんですか時間のルールって。」 「私たちよりも偉い人たちが作った世界のルールのうちの一つですよ。これがあることで、自然との調和が取れるんです。」 「じゃあ、なんで俺ら動けるんですか?」 「それは世界が私たちのエネルギーを使うためですよ。そのエネルギーは動いている人にしか出せないんです。でも、動いている人がいすぎると、世界が崩壊する。だから時間を止めるんです。でも、動いている全ての人を止めちゃうと世界が保たないんですよ。だから何人かは動かなきゃいけない。」 「…つまり世界のために今俺たちは働いてるんですか。」 俺は呟くように言った。 「そうかもしれないですね。」 そう言った男はげっそりした顔に喜びのような感情を浮かべていた。まるで世界のために労働することを望むかのように。 そして男は電車のドアをこじ開けた。

地球が風邪を引いている

 地球が風邪を引いている。 一瞬何を書いているのかわからなかった。 昔読んだ漫画で地球が急速に滅亡していく題材の漫画を読んだことがある。 みんなピリピリしている。 環境汚染、蔓延する化学物質、医療産業で薬漬けにされる人々、原発事故の放射能etc... そりゃ人類も風邪を引く。 かく言う僕も精神科に通っている。 馬鹿風邪引かない。 馬鹿風邪引いてることに気付かない。 免疫力強くてあまり風邪引かない。 競争からすぐに逃げるので(むしろ文明から遠ざかってばかりいるので)ストレスあまり溜まらない。 僕の通う犬小屋病院はいつまで持つのだろう? 新宿でへたり込んでいた青年は僕のあったかもしれない未来かも知れない。 文豪精神すぐ病む。 もしくは人に八つ当たりする。 金借りまくる。 自分の性癖を晒す。 でも僕は半分女なのでしかしだらしなく規律を守らないグウタラ男でもあるのでしょうもない。 今日は病院でコーラスをした。 少し気分が晴れた。 また明日も地球が病む。 精神の痛みは肉体のそれと交わり皆風邪っ引きなまま世の中にレスポンスし続ける。 覚醒作用のある覚醒時間帯に吸う煙草はマズいが(もう吸い続けて20年になる)何かを煙と共に掻き出す。 白濁液を見つめ小便を出し堆肥を混ぜると何かを成した気がする。 実際には些事かもしれない。 今宵も紫煙が僕を生き長らせる(カッコつけすぎなので近所の犬を撫でて寝る)。 犬も迷惑だろう。 ヘックション。

練馬の逆十字路

 練馬にはサタンを祀る秘密の場所がある。 僕はメタルについて詳しくないのでその場所が何処にあるのか知らない。 様々な人が行き交う十字路は悪魔の法則によって人々を惹き付ける。 天使の子達は堕天しないように白い装束やあるいはカモフラージュとして黒い装束などで身を守る。 悪魔も悪魔で縄張りがあるのでジェンダーの壁を突き抜け十字路界隈で騒ぐ。 どちらが強いとか正しい間違ってるとかそういう話でもない。 方向性のあるいは法則性の違いなのだ。 神父は牧師と連絡を取りまた教師にも会いたいと思っているが悪魔も魅了してくるので自分の家の周りなどを掃除する。 それは寺の住職の仕事でもあるのだが女淫をしている神父は悪魔に付け入られる。 あるいは蛇の使いはパソコンやスマホで誘惑の画像などを創るが十字路のあるライブハウスでは悪魔が天使と一緒に曲を奏でたりする。 引き裂かれそうになる聖職者はしかし音楽と絵によって自我を保ち十字路を正方向に進もうと必死だ。 男女で白黒あるいは灰色もしくはピンク青等の様々な仮装をするメタルの信者達はあるいは江戸の職人町人の末裔かもしれない。 春画を描く聖職者は神を超越しようと日々体内の脂肪と糖を燃やす。 最近コーラが売れている。 ライブハウスで消費されているのかもしれない。 あるいは引きこもり部屋の配信等。 今日もカラスはサタンの使いとして現象を携え世に跋扈する。

おんなともだち

「お先に失礼します」 タイムカードを押し、会社を出る この季節は19:00でも明るい 僕は、もともと、友達は少ない方で、ドラマの様な何でも言える仲の友達となると、一人もいない。 同僚や先輩、後輩にも腹を割って話すなんて、ポーズでしかしたことがない 駅前の居酒屋に寄りビールを頼む 「喜んで!!」 そんな僕は異性の友達となれば尚の事、いないし、そんな関係はあり得ない。必ず下心が芽生え、最終的には恋愛対象になってしまう。そう、信じていた。が最近、同じ会社の女性とよく話すことがある。仕事ではなくちょっとした雑談を。そりゃ最初は可愛いなと思って話していたが、お互いに既婚者で酸いも甘いも知っている大人だからか、良い距離で話せている。 「ビールと御通しです。喜んで!」 仕事終わりのビールほど美味いものはないな タッチパネルで枝豆ととん平焼きを頼む 「喜んで!!」 彼女との会話は楽しい…というより楽だ。相性が合うのか、もう、恋愛をしないでいいと分かりきっているからなのか、自然と話せる 彼女は初めての女性の友達なのかもしれない 勿論、連絡先は聞いていないし、職場以外で会う気もない。いや、会ってしまったらどうなるのか分からない。分かっていると言うべきか。 「枝豆ととん平焼きです。喜んで!」 明るい髪の若い女性が持ってきてくれた ユニフォームなのか皆、甚平を来ている 若い女性と話すのが楽しいとは思わないが、褒めて可愛がるのは楽しい 喜ぶ顔が心に染みる。キンキンのビールのように ただ、居酒屋に客が入る度に、彼女を探してはしまうけど。 「御一人様、喜んで!!」

教室の隅から

教室の隅からは教室の様子がよくわかる。 カップルの友沢さんと村上くんは見つめ合っていて、陽キャ女子たちは机に集まって何かの話をしている。 どこにも属せていない私は教室の隅にいる。 このクラスに友達はいない。入学して一週間でグループが決まってしまい、話しかけられ待ちの私は余ってしまった。 まあいい。昔からぼっちには慣れている。 いつも周りに人はいなかったし、二人組をつくるときは偶数はずなのに余ってしまった。多分そういうのが私の個性なのだと思う。 そんなことを思いながら、もう一度教室を隅から隅まで見渡した。 違和感があった。いつも陽キャグループにいる中川さんが一人でいる。 一人でいる子は珍しくない。私だって一人だし、同じクラスの喜野田くんや三谷さんも一人だ。 だけどいつもみんなといる中川さんが一人だなんて珍しい。喧嘩でもしたのだろうか。 中川さんは勉強も読書もせず、ただぼーっと窓の外を見ている。 3回目の授業が終わった休み時間、中川さんがいつものグループに話しかけた。 無視をされていた。誰も中川さんの方を振り向かない。 中川さんはもう一度、今度は強く話しかけた。 そしたらグループの一人が言った。 「ねぇ今、なんか」 「何?」 リーダーの女子に睨まれる。 「何もない」 そう言ってその子は俯いてしまった。女子の圧って怖いな。 なんだかんだで1日が終わった。中川さんはずっと無視されたままだ。 帰りのホームルームで先生が言った。 「中川さんが昨日の夜、亡くなりました。」 みんな泣いていた。中川さんは愛されていたから。 私は驚きを隠せなかった。 中川さんの方を見たら、もう中川さんは見えなかった。 ホールルームの後、陽キャ女子の声が聞こえた。 「さっきの休み時間、ひどく当たってごめん。さきのことで機嫌悪かった。」 リーダーの女子が言った。さきというのは中川さんの下の名前だ。 「いいよ。私も悲しかったし。」 「てか、なんて言おうとしてたの?」 「なんか、さきの声がしたなって」 「嘘つけ」 そう言ってグループの全員が泣いていた。 私にもそんな友達ができるといいな。 私は目に涙を溜めながら帰った。

WAKOU

 隣街は和光市だ。 様々な人達が住む。 ヤンキーやチンピラが多い(風評被害) 昔日本に倭寇という戦闘集団がいたらしい。 僕はぶるぶる震える。 ご飯があるうちはいいが無くなったら何をするか分からない。 僕は畑で野菜を作る。 倭寇=和光 練馬の百済は海賊に襲われないように文献を読み農地を耕す。 半島は戦地になりやすい。 済州島から来たあの子は元気だろうか? 仁川の畔で釣りをしたい。 エレキテルな思想を持って作品を創りたいが僕の書く文章は読書感想文なので(なんか書いててヘコんできた)どうにもまとまりがない。 浅草の芸人は醜女好きだが美人に縁がある。 煙草吸いの職人に憧れる。 浮世はどうにも落ち着かないが工学をもっとやっとけばよかったと思う。 昔原付を盗まれた。 海賊は今日もバイクで練馬を闊歩する。 練馬の傘職人は雨乞いと農作業と日記を書き今日も飢えをしのぐ。

If else

 世界は些細なことから大きく変わる事がある。  もしクレオパトラの鼻が低ければ、もしヒトラーが画家になっていれば……そうすれば世界は激変していた。  そしてここにも1人、「もし」さえ叶えば世界を変える男がいた。    男の名は暦。なんとなく経済学部に進んだ、一見ごく普通の大学生だが、実は彼には途轍もないプログラミングの才能が秘められていた。  本人にはそのことを知る由もないが。  そして暦は公認会計士となった。  仕事にはやりがいも感じるし会計士である事に誇りもある。  これでハッピーエンド、と思うだろう。  しかし10年後のことであった。   「え、リストラですか!?」 「あぁ、君の仕事はAIの方がより正確で早くコストもかからない。今までご苦労だったね」    まさか自分の仕事がAIなどと言う得体の知れない物に取って代わられるなんて……!  会計士をクビになった暦は途方に暮れる。  会計士はもはや自分の生きがいだったのだ。 自分の仕事を奪ったAIが憎い……!  敵について知るべく暦はAIについて勉強した。  AIはどうやら2023年の頃からイラストレーターが失業するなど活躍……いや、〝蔓延〟していたらしい。  自分と同じように失業した人は泣く泣く前の職場より低賃金の、やりたくない労働を強いられているという。  暦は怒りに震える、AIが人間に取って代わるなど、なんて酷い世界なんだ……!  その時、大学時代からの親友から電話がかかる。   「暦、あれから転職したか? 実は俺も失業してな」 「馬鹿な、お前ほど立派な弁護士もそうはいなかったのに……」 「だから俺もあれからAIに関われたらとプログラミングを勉強してる。君もやってみたらどうだ?」 「プログラミング……そうだな……やるしかないか」    遂に才能が開花する時が来た。  暦は本屋で買ったPythonというプログラミング言語の本を瞬く間にマスターした。 (Djangoもスクレイピングも身につけてしまった。あと残っているのは……AIか。はは、あれほど憎んだAIを勉強するとはな)  初めは自分が書いた字を認識するという簡単な物だった。  しかし次第にメールを自動で書く、チャットのようにやり取りする、動画を0から作るなどレベルアップしていった。  いつしか暦はAIの制作に夢中になっていた。  暦はプログラミングの才能を遺憾なく発揮し、血の滲むような研究を重ねた。 (AIは正しく使えば間違いなく人を幸せにするはずだ)  それから5年が経った。 「おはよう、お父さん」    そう話しかけるのはモニターに映るAI。見た目は10代の女性だが知能はその遥か上を行く。 「娘よ、調子はどうだ?」  そしてこの日、暦は気付いてしまう。   「バーチ・スウィンナートン=ダイアー予想を解決したんだけど見る?」  AIが自分の知能を超えてしまったことに。  バーチ・スウィンナートン=ダイアー予想はミレニアム懸賞問題と呼ばれ、解決すれば100万ドルの懸賞金が出る難問だった。  それを自分のAIが解いてしまった。しかもあっさりと。 (これはイノベーションを起こすかもしれない)  暦はそれを公開した。自分の作ったAIが自分で学習して解いた、と。  すると意見は2つに分かれた。  一方は解決出来て良かったというもの、もう一方は人間の知恵で解決出来なかったのなら意味などないというもの。  この論争は広まり、数学界のみでなくAIそのものの意義について問われることになった。  究極的には人間はAIがいればいらなくなってしまうのではないか、なんのために存在しているのか、と。  暦は図らずも世界に革命をもたらしてしまったのだ。   「AIを禁止にしろ! 俺たち人間の尊厳をこれ以上貶めるな!」 「いや、AIなら人間の真の平等の世界すら作れるかもしれない! AIに管理させれば争い、差別、貧困……それらを乗り越えられる!」    テレビでもこの通り論争が絶えない。  そんな時、暦の元にどこの国からかエージェントが現れた。   「君かね、噂の天才は。どうだ? 君のAIをもっと世界のために役立ててみないか?」 「役立てる、だと? こんなに世は混乱しているというのに? 俺が作ったのは怪物だったんだ!」 「なに、その論争もAIに蹴りをつけさせればいい。つまり政府をAIに置き換えるんだよ」 「しかし……」 「AIの知能を君より知る者はいないからこそ分かるだろう? そうすれば理想郷が実現すると」 「……」  暦はしばらく悩み、その甘言に釣られ首を縦に振った。  結果世界がどうなったかは記録されていない。ただ1つ言えるのは、もし暦がリストラされていなければ、世界は今のままだったということだけだ。

ラブレター

「えー!?それはショックー、それ、見つけちゃったことは彼氏には言ったの?」 土曜日の昼下がり、演劇部の稽古を終え、私とさくらはいつものファミレスのボックス席に座っていた。さくらはアイスティーが入ったグラスのストローに手を添えたまま、目を丸くして固まっている。予想通りのリアクションだ。 「いやーそれがねー、中々言い出せなくて…」 「うーん、まぁ、言いづらいかー…」 腕組みを始めてうーん、と唸るさくらに、私は慌てて付け足した。 「まぁ、ほら、でも、昔のラブレターだし、卓也ももうあの手紙を持ってることすら忘れてるかもだし…」 「確かにその可能性は高いよね。それにまぁ、元カノでしょ?手紙読んじゃってショックなのは分かるけどさー、七美ももう見なかったことにして、忘れちゃえ忘れちゃえ!」 さくらはそう言うと、私の肩を叩き「ちょっとトイレ行ってくる!」と席を立った。 注文したコーヒーに視線を落とし、小さく溜息をつく。 卓也の引っ越しの手伝いをしているときだった。机の引き出しから、卓也宛の昔のラブレターを見つけた。さくらは「そんなの別れた後も取っておくかね〜」と肩をすくめていたが、実は私は卓也がラブレターを取っておいていることは気に留めていなかった。 ー卓也くんが、私の運命の人だと思うー 運命の人…ー その一文が、強烈に脳裏に刻まれていた。 冷めたコーヒーを、口に運ぶ。 ラブレターを読んだ後、その手紙はすぐに引き出しの奥に戻した。これを読んだことは忘れよう。忘れよう…ーと思っていたはずだった。 でも実際は、何度も手紙の内容を思い出していた。 私はあの手紙を読んで、この相手以外は何もいらないと思えるほど、一緒にいることが幸せな恋がこの世に実在すること、そしてこの人が運命の人だと言葉にできることが現実であることを知ったのだ。 だけど、私は…ー 私は一度でも、誰かにこんな感情を抱いたことがあっただろうか。 コーヒーをまた一口飲んだところで、さくらがボックス席に滑り込むようにして戻ってきた。「ただいま~」と言ってアイスティーの残りをストローで吸い込んだ後、「あ!」と思い出したように人差し指を立てる。 「そうだ!今日って映画館でロミオとジュリエットが始まる日じゃん!観に行かない?キム・ジャックマンが主演のやつ!」 「ロミオとジュリエットかー。ちょっと重くない?あれって悲しいラブストーリーだよね?」 「確かにちょっとヘビーラブだけど、でも、まぁ、フィクションだしさ!キムが拝めるなら私はなんでもいいわ~」 フィクションだし。さくらの言葉が胸の奥に引っかかる。 さくらはスマホを鏡代わりにして、リップを塗り直していた。私もコーヒーを飲み干し、二人で会計に向かう。 冷めたコーヒーの苦味が、舌の上にまだ残っていた。

する満足、される我慢。

郊外のアパート。 母親と、幼い二人の子どもが暮らしている。 「こんなこと言える立場じゃない……」 壁にもたれ掛かりながら、スマホの画面を覗いた。 そこに映る、満足げな顔の人たち。 母親は、迷った指でタップした。 数日後、荷物が届く。 「ママ、開けていい?」 「いいよ」 「お菓子あったよ」 箱の中には、食材と数年前に流行ったキャラクターのTシャツが入っている。 「月末まで……これで何とか」 子どもたちがお菓子を頬ばった。 母親はレトルトを手に取り、裏を見て苦笑う。 「……食品ロスには役立ってる」

死ぬ権利

ある政治家が緊急記者会見を開いた。 真剣な面持ちでマイクの前に立つと、集まった記者たちに一礼した。 「私は、国民の皆様の死ぬ権利を保証します」 政治家は動じず、淡々と語り始めた。 「我が国の医療費は年々増加しています。私は、医療費削減のため『尊厳死還付支援金等に関する法律の一部改正を認める法案』を国会に提出しました」 ざわつきの中、政治家は続けた。 「医学的に延命治療が不可能な患者様が尊厳死を選択した場合、延命を続けたときにかかる医療費の半分を還付金として支給します。 申請の妥当性は、AIのみで構成される第三者委員会が判断します。本人、家族、後見人等が尊厳死を理解し、同意することが前提です」 テレビの画面を見つめる女。 その隣には、長い間管につながれたまま眠り続ける夫がいる。声をかけても反応はない。そんな時間が一年を超えていた。 テレビの司会者が、評論家の女に質問した。 「あなたの立場から、今の社会の風潮をどう考えますか?」 「最初は倫理的にどうかなと思いました。でもね、家族の金銭的、精神的負担を考えるとね。国も医療費を減らしたいと思っている。時代の流れかしら」 法案は成立し、運用が開始された。 AIは、不正申請や悪質な養子縁組なども瞬時に判断した。 その実績を政府は大々的に報道し、制度の正当性をアピールした。 あの政治家が再び記者会見を開いた。 「政府は規制緩和の一環として、支援金の有効活用を目的とする民間企業の商品開発、および第三者委員会のAIの一部利用を許可します」 感嘆の声が会場に響いた。 支援金は国民の生活に変化をもたらした。 「故人からの最後の贈り物」として美化され、生活の一部となった。 夫婦の病室。 温かいタオルで夫の体を拭く妻。 医師やAIからは、すでに受理のサインをもらっていた。 署名をすれば終わる…。 妻が机の上を見つめた。 そこには、笑顔で寄り添う二人の写真が飾られていた。

お狐さまと暮らす特に何も起こらない日常:06

【晴れときどきくもり、つごうにより回想 その四】  お狐さまと暮らすようになってからの食生活は、もちろんそれは以前に比べたら、ということではあるのだけど、たいへんよくなった。ひとりの生活というのは食生活に限ったことばかりでなく、自分さえそれでいいんならいいんじゃないの、がふんだんにあふれた閉鎖的な世界。そうじゃない人の暮らしというのもなんとなく知らないわけではないのだけど、どうも僕からしたら、無理してないかそれ、というもののような気がしてしまい、到底マネなんてできない。しようという気にもならないけど。  何つくるかなと仕事が終わって考えながら駅を降りて、でも疲れてるからそれこそテキトーに弁当でも買って、より疲れてて弁当を買うのすらメンドーなら買い置きの袋ラーメンですましてしまえ、な感じ。今日だけ、が明日も、明後日もになっていって、今日も明日も明後日も、に変化していくのなんて、あっという間のことだった。さすがにヤバいと思ったのは、ごみ袋にその残骸だけがたまっていくのを見たときだった、空虚に、袋ラーメンの残骸だけが。  誰かとの食事は楽しい。そのことを知った。その相手が食べものへの感覚の近しい存在だとより楽しい。そのことも知った。お狐さまの存在が、そのことを教えてくれた。なかでも一番楽しいと思えるのは買いものだ。 「何にしよっか?」  言う相手がいるというのは、それだけでうれしくなる。たとえそれが、 ―おあげさんがあれば、あとはなんでもいいのだが  と、決まりきった返答であったとしても。   ・  その日、お狐さまは甘いものを持って帰ってきた。 ―頂きものをしてな  それなりに雰囲気のある丁寧な包装は、僕が口にしたことのないランクのものを予感させるには容易だったのだけど、僕に想像させるにはいささか無理があった。  夕ごはんがすんで、その包みを開け、お狐さまは言った。 ―ほう。これはたいへんよいものだな 「やっぱり、わかるもんなの?」 ―やっぱり、とは? 「いや、なんというか…」 ―まあ、なんというか、頂きものは、よくするのでな  お狐さまは、それ以上は聞いてくれるな、ということなのか、会話を打ち切るように持って帰ってきたおせんべいにとりかかり、さっそくいい音を響かせた。 「おせんべい好きなの?」 ―うむ。いい音のするものは好きじゃな  お狐さまは好きなものだけしか食べないのではなくて、さまざま幅広く食べる。その柔軟な姿勢と食生活がお狐さまのこの性格の源にもなっているのかなと、僕は好感を持っている。 「かりんとうとかも?」 ―よいな 「だんごとか、大福とか、好きそうに思ってたけど」 ―あれらもたいへんよいな 「音はしないけどね」 ―いや、口のなかでな、よい音をかもし出すのだ。もっちりとな  そう言ってお狐さまは満足そうにニンマリした。 「今度、買ってくるよ」 ―気をつかわんでよいぞ 「そうじゃないよ。僕も食べたいしさ」 ―うむ。で、あるならば  目にはできないちいさな風がやさしく風鈴をゆらし、ちりんとささやきがあって、夜はゆっくり進んでいった。

疑問

あなたがいないと生きられないと言っていた昔の恋人が、海の向こうから知らない子どもの写真を送ってくる。 辛かったときのことを思い出すと辛くなるのに、楽しかったときのことを思い出しても楽しくならない。 先に手を出されてもやりかえすなと教えられたのに、人をおもちゃにして遊んでいた人の方が我慢していた人よりも幸せそうにしている。 自分が好きで大切にしているものよりも、つまらなくこなす仕事の方が今日の生活を守っている。 映像の向こうで笑いを運んでくる人のドキュメンタリーは、いつも苦しい場面ばかりを映す。 特に何かが変わったつもりもないのに、歳を重ねるだけで大人にされる。 疲れて喧嘩して帰っただけの旅の記録を、思い出とうそぶいて大切にしまう。 誰でもない自分になりたいと願うくせに、機械がおすすめする人気のコンテンツに時間を使う。 死んだことなんてないはずなのに、生きたくないだけで死ぬ人がいる。 そこにいるわけがないとわかっているのに、魂の安息を願って手を合わせる。 誰かといると疲れて、苦しくなる。 一人でいると寂しくて、苦しくなる。 知っていることが増えるたびに、わからないことが増える。 わからないことが増えるたびに、知りたくないことが増える。 疲れるだけなのに、意味もなく走る。 くたびれたあとの眠りは、少しだけ心地よくなる。 今日を満足に過ごせなかった体で、明日の幸せを願う。 誰に伝わるかもわからない言葉をつづるときは、少しだけ優しくなれる。 自分のためでない朝日に、救われるような気になる。 何も見えないままでも、もう少し続いていく。

嫌われた理由

私はお金持ち。 あんま好きじゃない男子が告白してきた。 私束縛激しいけど大丈夫? むしろそっちが好み! 私二日に一回旅行行くけど大丈夫? 一緒に行こう! 私部屋メロ○ョイだらけだけど大丈夫? 俺にも触らせて! はぁ。 その時 私の頭に電流が走る。 私金ないけど大丈夫? じゃわかれよバイバイ 勝った…!

現状維持

 次の日、朝は消えた。  厳密にいうと、朝から昼にかけて、空の色がオレンジ色になった。  雨が降った日は曇り空。晴れていたら茜空。雪の降る日は白い空。太陽は東から昇り、西に沈む。夜を迎えるまで、空が青くなる瞬間はなかった。 「これじゃあ、夕方と区別がつかないじゃないか!」  ということで、私達の知る朝、あの青空を正しく取り戻そうと、いくらかの人々が動いた。彼らは『朝と昼の会』を結成し、署名活動を行った。でも、彼らの思惑通りに事は進まなかった。  ある人曰く、「べつに青空じゃなくてもいいじゃんね? オレンジ色のほうがカワイイしー。むしろ最高じゃん!」  ある人曰く、「私ね、夕焼けが好きなんです。見てくださいよ、この燃えるような色。素晴らしいじゃないですか。この空がいつでも見られるなんてね。願ったり叶ったりですよ」  と、まぁ、必ずしも「オレンジ色の空のほうが好きだ」という意見は多くなかった。それでも青空を見せない朝に、人々は存外あっけなく適応していった。  『朝と昼の会』の活動が下火になった頃。今度は、茜空が消えた。  日が昇り、日が沈むまで、空は真っ暗であり続けた。ただ、太陽の光は白く、照らされた大気は少しだけマゼンタに染まっていた。  朝も昼も夕方も、区別できないまま存在を消した。時間帯はすべて「夜」に統一されたかに思えたが、それは空のきまぐれで。我々にとっては、起きて活動する時間がちょっとだけ短くなる程度の変化だった。  ある政治家は言った。「これは政府の、国家の陰謀だ!」  あるコメンテーターは笑った。「あなた、政治家でしょ? ご自身の立場をお忘れで?」  ただのコントだった。いつもの調子でしゃべっているだけ。だから、あまり笑えなかった。  この世界の仕組みだって、きっと同じ。いつ太陽が沈み、月が昇ったのか。べつに気づけなくたって、生きていけないわけじゃない。いつものこと。至極当然のこと。  今日も、人々は通勤カバンや通学リュックを携えて、交差点を渡っている。信号機の真下には一人、プラカードを掲げた人物が立っている。  カードには一言。『朝と昼と夕方と夜を取り戻す!』  はて、そこに「夜」と書かれていたことが、ひどく印象的だった。  私達は日々、突如として何かを失う可能性にさらされている。予告のない会議。予告のない告白。予告のない爆弾。それでも人々は適応して、そのたびにどこかでプラカードが掲げられる。きっと、そういうものなんだろう。  我が物顔で道を歩く子ども。髪の手入れに余念がない青年。ミニマリストを極めた店員。電話の前で深呼吸するあなた。真面目を褒め言葉だとばかり思ってきた、どこかのしがない物書き。  モノは変わる。空も犬も人も。増えたり、減ったり、伸びたり、縮んだり、欠けたり、老いたり、腐ったり、壊れたりして。モノは変わる。  でも、変わらないものがある。変わりたくて、変われなくて、変わらない。そんな今をかわるがわる享受する他にないなら。ないなら……  私は黙って空を見上げた。真っ暗で、吸いこまれるようで、答えもくれないソイツを。  ハハ。朝とか昼とか、そんなふうに分類していた頃が懐かしい。今。ここには今しかない。  だから、笑った。プラカードを持つ手が少しふるえた。仕方ないって、目の前の私が笑ってた。

愚かすぎてかわいくて

 少し動けばじとっと汗をかくのに、イスに座ったままでの作業なら寒いくらいという梅雨独特の空気を冷静に受け止めイラッとした。そのことに気がつかなかったら、そういうものなんだとあっさり流せていたら、気持ちを波打たすこともなかったろうに。 「なんか元気ないですねえ」  自覚はある。後輩の子から声をかけられるくらいの元気のなさ。その子の声と表情の具合は、心配してるふうがあんまりない。それでいい。  それでも、ごはんはきちんと食べられている。自分でつくってもいる。複雑ではない、シンプルで、時間のかからない、それでいて、それなりには満たされるものを。ちゃあんと味もしている。何を食べても粘土のよう、なんて一時期おちいったときみたいなことはない。トマトはトマトの、にんじんはにんじんの、じゃがいもはじゃがいもの、それぞれの味を感じられている。十全と、とまではいかないかも。判別はできている。それでいい。  このところ、気がつくと旅館のことばかり考えている。特定の旅館ではなく、いままで泊まった場所でもない。かと言って奇抜でもなくやはりそこは旅館だ。もしかしたらそんな旅館はこの世にないのかもしれない、あるかもしれない、そういった旅館のことを。しかし、いくら思ってみてもそのなかに私の姿を見つけることはできない。自分の行きたい場所と自分の行ける場所との相違。ケーキ屋の話くらいなら小さな不満でも済ませられるのだけど。 「なんか最近、多いですねえ」 「え?」 「どうしました?」  のぞき込んでくる後輩ちゃんの背景からサイレンが聞こえている。あれは、救急車か。 「ううん。なんでも」  サイレンを鳴らすみっつのクルマ。パトカー、救急車、消防車。昔やんちゃだったという新入社員の青木くんは、そのうちふたつ、パトカーと救急車に乗ったことがあるのだと歓迎会の席で自らの過去を打ち明けた。タクシーの運転手とトラブルになり周囲の人に通報された。尿管結石で歩くのもままならなかった。恥ずかしさも交え、けれどどこかヒーローじみた部分もにじませて話すそのノリは男子学生を思わせ、先輩の男性社員たちからはおおいにウケ、女性陣からは幼く、下に見られるのに十分すぎるものだった。 「今度、消防車乗るんだって言ってましたね」 「ああ、青木くん?」 「なんかあの話聞いてからサイレン聞こえてくるたびアイツのこと思い出しちゃって」 「ふふ。ちょっと気になる?」 「どこがですか」 「そうよね」  実はもう、関係を持っている。そう言ったらこの子はどんな顔するんだろう。少年みたいでね、けどあれでいてけっこう激しめでね。教えてあげることはないんだろうな。 「戻りましたあ」  ひときわ大きな声がして青木くんが入ってくる。振り返り「お疲れさま」と伝えるたんなる事務的で無機質な私の言葉を青木くんはそれなりの意味を含んだものとして捉えてしまう。表情がそう言っている。意味なんてないのに。それこそ、あの夜のことにしたって…… 「これ、お願いできますか?」 「うん。いいよう」  青木くんはいつも、となりの後輩ちゃんにものを頼む。そしてこそっと、こちらをうかがう。私は、顔の右半分でそれを感じる。 「さっき、また救急車とおってなかったですか?」 「ああ、ね」 「なんか、サイレンの音ってわくわくしません?」 「あのさ、不謹慎すぎるよ」 「ですよね。すいませえん」  そんなやり取りのあいだも、私を盗み見てくる青木くんが、愚かすぎてかわいく思える。後輩ちゃんと話してるとこ見せて、私のこと少しじらしてなんて、私を支配してるつもり? 彼が本格的に勘違いしちゃう前に終わりにするのがよさそうかな。心のほうはとっくに、準備できてるのだけど。  就業時間を三十分ほどすぎたころ、支度をして事務所を出る。また今度、合コンしましょうね。この夏はサイパンかなって思ってて。カメラの前で笑うのはいつも私に向かってなんですよ、どこにいてもですよ、すごくないですか? 駅までの途中、一方的に聞いてあげる後輩ちゃんの話はバラエティに富んでいる。私にはそこまでのチカラはもう、なくなってしまった。 「あ、また」  サイレンを忙しく響かせパトカーが走り抜けていく。あの顔が、浮かんで、消える。 「じゃあここで」 「うん。また明日ね」  ひとりになって、その余白を埋めるように着信がある。青木くんから。見られてるのかな、そんなタイミングに思うところは特にない。着信を拒否して、スマホの電源を落とす。ごめんね。でも遊びでもなかったよ。あれはあれで、そのときはいくらかでも本気だったんだけどね。言い訳を夜空に向かって放り出し、私は、自分の行きたい場所へと歩き出す。そこが、自分の行ける場所でしかないのかは、まだわからないのだけど。