下町の路地裏。 伝統工芸職人の男と、その妻が暮らしている。 「あなた、また来てるわよ」 「知らん。ほっとけ」 弟子入り志願の若い男が、玄関の脇に立っていた。 「弟子にしてください」 職人は気にせず、木槌でノミを叩いた。 「どうせ、続かん」 「話だけでも聞いてあげたら?」 次の日も、また次の日も。 若い男は、玄関の前に立った。 ──ガラガラガラ。 「入れ」 「ありがとうございます」 「続ける自信は?」 「死ぬ気で頑張ります」 妻が頬を緩めた。 「二階の奥の部屋を使って」 若い男は作業着に着替えると、職人の後ろに座った。 「師匠の背中を見て、精進させていただきます」 深々と頭を下げた。 職人の木槌を振る手が止まる。 そして、壁に貼ってあるQRコードを指さした。 「それ、俺の動画。それ見て覚えて」 「動画、私が撮ったのよ」 二人は、顔を見合わせて笑った。
暑くて寝つけない夜、散歩と称して大学に行ってみる 誰もいない静かで真っ暗な大学は、生あたたかさにつつまれてひどく怖い でも、夏の夜というだけで、その怖さには若干のたのしさも含まれている 芝生に寝転がって星を見る デネブ アルタイル ベガ 夏の大三角を教えてくれたのは、あの人だった 大学でのはじめての試験が終わりました たぶん大丈夫だと思います 結果は、まだですが、おかしなことにはなってないと思います 今年の夏は帰りませんが、心配しなくて大丈夫です かわりなく元気でやっています あの人に出すことのない手紙の文面を思いうかべ… ほんと、ダメだなあ ちょっぴり泣いてしまう
クリニックの診察室。 男は困った顔で、ドクターに話し始めた。 「先生、時々、耳元で声が聞こえるんです」 「それはそれは……幻聴ですね。どんなふうに聞こえますか?」 「天使が二人、右と左で囁くんです」 ドクターはペンを止め、じっと男の顔を見た。 「天使と天使ですか。天使と悪魔じゃなくて?」 「はい。どちらも『自分が天使だ』と言い張ります」 ドクターは笑いをこらえ、咳払いをした。 「いや、失礼。珍しいケースですね。ふつうは善悪の対立があるものですが、両方が天使となると……判断が難しい」 「先生、僕はおかしいんでしょうか」 「おかしいというより、興味深い」 ドクターはカルテに走り書きをしながら、声のトーンを落とした。 「その二人の天使は、あなたに何を囁くんですか?」 「ポジティブな言葉を……『やればできる』って」 青年はうつむき、ため息をついた。 「ちょっと、うざいです」 「……わかりました。では、お薬を出しますから、様子を見ましょう」 「お大事に」 薬剤師から渡された紙袋には、耳栓が二つ入っていた。
「夏だし、怖い話で涼もうぜ!」 そうイイ笑顔で提案してくる友人を横目に俺は嘆息した。 「せっかく海に来たってのに、泳ぐでもなく怪談かよ」 怪談の語り合いなんて、今ここでなくてもできるだろうに。 そんな俺の思いを否定するように、大の怪談好きな彼は首を横に振る。 「わかってないなぁ。夏の海ならではの怪談の良さがあるんだよ」 その得意げな表情に若干、腹が立つ。 とはいえ、俺たちはオカルト研究部として海に来たのだ。 俺も、部長である彼の言い分を、わざわざ否定する気にもならなかった。 「それで? 当然、言いだしっぺの部長サマは、とっておきの怪談があるんだろ?」 「そうだな。期待を裏切らない自信があるぞ!」 やや皮肉を混ぜた俺の言葉にも、彼は生き生きと応えた。 どうやら、怪談を話せることを喜んでいるようだ。 そして、恐ろしい雰囲気を演出するためか、声を低くして語り始めた。 「この海にいると、どこからともなく歌声が聞こえてくるそうで——」 その冒頭で、俺は拍子抜けした。 海の怪談では、よくある話だ。西洋でもセイレーン伝説とかで有名なやつ。 だが、話がありきたりなのは彼も自覚していたようで。 「——とまあ、ここまでならテンプレの怪談だよな。でも、よくある話ってことは、裏を返せば理由があるもんだ」 まあ、その考えはわからんでもない。 ただ、そう言うってことは何かしら、この怪談が他とは違う所があると彼は思っているのか。 「証拠として、動画に残されているんだ。それもハッキリと歌声が聞こえるやつ」 そうして、『魅せられた』動画には、なるほど確かに歌声が録られていた。 その歌声は、この世のものとは思えぬほど美しい旋律だった。 到底、只人が出せる歌声ではなかった。 その歌を聞いた後、俺は上の空で友人が話す怪談の続きも耳に入らなかった。 いつまでも、あの歌についてばかり考えていた。 あの歌が実際に歌われるところを見たい! その一心で、日が沈んだ後、泊まっていた海沿いの宿から忍び出た。 そうして今、俺は歌う。 あの時、聞いて心奪われた歌を。 この海で、皆と一緒に。 —————— お題:『夏の海』『怪談』『歌う』
郊外にあるショッピングモール。 中央のホールに、老人たちが集まってきた。 「ここは涼しくていいわね」 「家でエアコンつけると、電気代がね」 老人たちは椅子に座り、世間話に花を咲かせた。 その光景を、二階のエントランスから店長が見渡した。 「よくもまぁ、こんなに……」 連日の猛暑。老人はさらに増えた。 「こいつら、赤っ恥かかせてやる」 閉店後、小さなステージを作り、入り口にくす玉をぶら下げた。 ──翌日。 店長がステージに上がると、何事かと人が集まった。 すると、入り口から見覚えのある老人が入ってきた。 ──ざまあみろ。 ひもを握る手に力を込めた。 そして、引くと同時に、マイクに向かって叫んだ。 「おめでとうございます! 三十日連続のご来店です!」 垂れ幕には、《電気代節約ご苦労様》の文字。 老人は垂れ幕を指さしながら、まわりの仲間たちに手を振った。 仲間たちが拍手で祝福をする。 「あぁ……」 店長は、冷たい風に揺れる垂れ幕を見つめた。
日付が変わってすぐ、女は郊外にあるアパートからおぼつかない足取りで出てきた。いつもの散歩道をぼんやりとした表情で歩き出す。雲のない空に在る黄色い月を見つけ、煙たそうに目をしかめた。 女がこの町へ越してきてもう一年が経っていたが、まだ馴染めずにいた。自分とは関係のない町に、よそ者として場所を借りている感覚は強くなる一方だった。そうした考えからか、いつも人目を避けるように終電が終わった時間になると女は幽霊のように町を歩いていた。前方から歩いてくる人があれば、すれ違わなくてもいいように近くの曲がり角を曲がった。車二台は通れる街路ですれ違っても相手の顔までは見えないと分かっている。しかし居心地の悪さは拭えない。 いつも通る公園を抜けると、喫茶店が出てくる。そこは五階建てのマンションの一階にあり、道路に面した壁は全面ガラス張り。通るときに店内を見ることが癖になっていた。電気が消え、人のいない店内は時間が止まったような静けさがある。音も温度もないその空間に、惹かれていた。 しかし、今日は違った。街灯に照らされた壁際の一番後ろのソファー席に影が見えた。誰かがいるのだろうか、そんなことを思いながらも足はいつものパターンで進んでいく。影は少しずつ人間の形になっていく。女はその影の横で立ち止まった。 影は席に腰かける男だった。ソファーにもたれかかり、街灯の光を頼りに文庫本を読んでいる。黒い長袖を着て、黒く長い前髪は目元を隠している。男の格好と夜の暗さから、血色の良い赤い口と青白い肌が光り浮いているように見えた。女は細く長い首と腕から死神を想像した。店内のどこかで冷たく倒れている店主を思い浮かべる。白髪で短髪の背筋の伸びた老紳士。この男が殺したのだ。いや、正確には迎えに来たのだろうか。 女の影に気付き、男が顔を上げ外を向く。男の深く丸い目は女の姿をはっきりと映していた。 日が昇りはじめた頃、喫茶店の店主が階段を下りてくるとわざとらしく大きくため息をついた。そして壁際に腰かける男に向かって「閉店後は座らないでって言ってるでしょ」と母親のような口調で言った。 「おはようございます、大家さん」 喫茶店のある場所はもともとエントランスだったが、今の大家が長年の夢だった喫茶店に変えたのだ。そのため、マンションの住民たちは喫茶店の奥にある階段を使わなければ居住スペースに上がれない。店が開いている時間は住民たちの共有スペースとしても使われている。 「電気もエアコンも使っていないですよ。もちろん、勝手に食べ物を漁ったりもしていません」 男は悪びれもなく淡々と口にした。店主は再びため息をついて「そういう問題じゃないのよ」と言いながら首を振った。 「あんた、不気味だから幽霊に間違えられるかもしれないでしょ。事故物件やら心霊スポットって噂が流れたらたまったもんじゃないわ」 男は小さく笑った。 「僕なんかより不気味な人が昨日いましたよ。店の中や僕のことを見ていた女性がいたんです。目を大きく開いて瞬きもせずに」 「あんたに驚いたんじゃないの」 「驚いたらすぐにその場から離れるでしょ。その人はずっといましたよ。今、大家さんが降りてくるまでずっと、ね」
「ワンさんは日本に来てどのくらい?」 「私は三年前、日本に来た」 「日本に来てからうちの会社に入ったの?」 「いやいや、もともと中国にこの会社があって、そこから日本の本社来たよ」 「そうなんだ。めっちゃエリートだね」 「そんなことないよ。あなた本当エリート」 職場の飲み会に久しぶりに参加した。 その理由は、中国人のワンさんが飲み会に参加していると聞いたからだ。以前から話をしたいと思っていた。 歳は僕より少し下くらいだけど仕事は現場の誰よりも出来る。どんな人なんだろう 「ワンさんは結婚してるんだよね」 「そう。向こうに妻と息子を置いてきたよ。さみしいよw」 「僕も妻と息子がいますよ」 「同じだね。家族愛してますかw」 お互い酒は強くなく既にいい気分だ 「いや〜毎日帰るとビール一杯飲んで、コテンと寝ちゃうから、まともに話してないよw」 「ソレ駄目ね。奥さん悲しむよ。毎日話したいよ。でもあなた酔っ払って寝ちゃう。息子も可哀想ね。父親として駄目よ」 「え…いや…うん」 「家族はあなたのこと愛してます。では何であなたは家族を愛さないですか?地獄落ちるよ」 「じこく…」 「毎日あなたの帰りを待ってる。ずっと待って、あなた帰って来てお酒飲んで寝ちゃう。家族あなたの体が心配。家族残して死ねますか?家族ドウスルの?誰が守るの?あなた人として駄目ね。地獄落ちる」 「人として…じこく…なんか…すみません」 「まぁ飲んで飲んで」 「飲めるか!ちょっと電話してくるよ」 「愛してます言うね」 「言ってくる」
職場の同僚から、最近流行りのスクイーズを貰った。モチモチして触り心地はいいけど、ただそれだけ。 これで、どうしろというのか。 帰りの電車を待つホームで、隣の部署の平沢さんに遭遇した。社内では何度か話したことはあるけど、外で話すのは初めてだ。せっかくだから、途中まで一緒に帰ることになった。 実は、彼に密かに憧れている。でも、彼は既婚者なので、付き合いたいわけではなく、あくまで憧れているだけだ。 電車が到着して、空いていた席に二人並んで座った。隣の部署は飲み会だったらしい。平沢さんはかなり酔っていて、ご機嫌だ。気のせいか、私に寄りかかってきている。嬉しいハプニングだ。 ふと、向かいの席を見ると、私と同じ部署の香織さんが座ってスマホをいじっている。 うわ、香織さんも、この車両に乗ってたんだ 落ち着け、自分 偶然、駅で会ったから、同じ電車に乗ってるだけですー 私たち、そういう関係じゃないんですー ていうか、向こうは私に気づいてない? でも、そのうち私たちの話し声で気づくよね そしたら、絶対「ナギちゃん!」って言ってくるもんな いっそ先手を打って、こっちから「おつかれさまです」って声かけちゃう? いや、仕事してる時と違う格好だと、意外と分からないもんなのかな あぁ、もうどうすればいいの 平沢さんは相変わらずフニャフニャしている。色々話しかけてくれるけど、電車の走行音にかき消されて、何を言ってるのかほとんど聞き取れない。噂によれば、彼は酔ってテンションが上がると、変なことを言うらしい。変なことって、どんなこと? 「今日も可愛いねぇ」 「あ、ありがとうございます」 きっと普段から、奥さんに言っているのだろう。 香織さんは、まだスマホに夢中だ。 「夏休みどこ行くぅ?」 「んーと、そうですねぇ……」 語尾に「の」が付かないと、まるで私たちが一緒に出かけるように聞こえてしまう。 今、この状況では困る。 「僕はねぇ、思ったことすぐ言っちゃうんだぁ」 「平沢さんのそういう素直なところ、いいと思ってます」 「あのさぁ、僕のこと好きでしょ?」 「えっと……」 「僕もねぇ、君のこと……」 私は、彼の口にスクイーズを押し込んだ。
「ただいま」 「おかえり。遅かったね」 「帰りに献血してきた」 夕方、妻が買い物袋を抱えて戻った。 「一緒にドナー登録もしたよ」 「なに、それ」 「骨髄バンク。この前、言ったよ」 「あぁ、そうだったね」 夫が冊子を開いた。 「あなたも登録すれば」 「ん……」 「なに?」 「会社、休まなきゃでしょ」 「そうね」 「休む理由、何て言ったらいい」 妻はコーヒーを手に、椅子へ座った。 「正直に言えば」 「それってさ、いい人アピールしてない」 「じゃあ、体調不良で休めば」 「……バンクの人、会社に電話くれないかな」 「はい?」 「そしたら、さりげなくみんなに知れるでしょ」 呆れ顔の妻。 「そういえば、ママ。免許証の裏にドナーの丸も付けてたよね」 「人の役に立ちたいじゃない」 夫が免許証を取り出した。 「僕も丸しとこうかな」 「たまには、いいことしたら」 「ん……」 「今度はなに」 「手術台の上って、裸でしょ」 妻が天井を見上げた。 「なに言ってんの」 「下半身に布とか、掛けてくれるかな」 「聞いてみたら?」 夫の後ろ姿を眺めながら、呟いた。 「……器も小っちゃ」
konoyowamadakamisiryudehanaitame samazamanamujyunngadyoujirunoda gyakupiramitosikikouzousyakaito busitukennrityusinnnofukumadennno nakadesukuwarerumonotowadaredarou hitotositetadasikuikitamonokamino sonnzainifuretamonokojinntekiniwa dotiramokaminogojihigahosimonoda
朝起きる。シャワーを浴びる、時々歯磨きと並行しながら。 朝ごはんは食べる時間がない。そもそも食欲がない。栄養はとったほうが筋肉にはいいらしい。 昨夜の筋トレによる筋肉痛が心地良い。あ、やっぱりバナナだけでも食べていこう。 電車内は英語でも聴こう。パズルゲームとかはしない。 仕事はそこそこにこなせている。中堅だ。特に面白くはない。 早めに帰れる時は帰る。やや扱いにくいだろうか。 帰りの電車で残りの英語学習も終わらせてしまいたい。よし終わった。 家に着いたらすぐ筋トレしてお風呂に入る。 お風呂上がったらパックをしながらギターを弾こう。 晩ご飯を食べたら眠くなってきた。忘れてた。ベリーも摂ったほうが肌にいいらしい。この前見た同級生はかなり老けて見えた。 小説も書いてみたいな。 とりあえず今日は寝るか。
夕立から逃げるように居酒屋へ入った 初めて入るお店だったが、小ぢんまりしていて雰囲気が良く、価格帯も払えそうだったので夕飯を食べることにした。 「いらっしゃいませ。カウンターでよろしいですか?」 「はい」 L字のカウンターの短い方が一つ席が空いている。隣は女性が座って既に食事をしていた。 「何か飲まれますか?」 「じゃあ、生を」 テキパキと接客をする小柄な女性 厨房は男性が一人で回している 旦那と奥さんといったところなのか? 3つあるテーブル席は全て埋まっていて、大学生達が占領しているようだった。 鞄を足元に置きネクタイを緩めていると生ビールが届いた。 「一日頑張った俺に乾杯」 夏の日差しで首の後ろをこんがり日焼けした今日は、ビールが命の水のように美味い。生き返るとはこの事だ。 メニューを探していると隣の席と共有で使うらしく一つしかなかった。それとも俺にメニューを渡し忘れているのか? 俺がまごまごしていると、隣の女性がメニューを差し出してくれた 「どうぞ。って、うそでしょ!?ヒロシ!?」 「うわ!ミサエ!?マジかよ」 隣に座っていたのは、高校の時の元カノで7年間付き合った女性だった 「おでこハゲたね」 「うるせぇよ」 「ガタイは良くなったね」 「お前は相変わらず美人だな!悔しいことに!」 「だろ、そうだろ、もっと言っていいぞ」 「取り敢えず、再会に乾杯」 メニューを見て適当に頼んでから彼女と近況を話す 「仕事何してるの?」 「私は変わらず事務だよ。まだあの会社辞めてないの。ヤバくない?」 「偉いなぁ。まだあの会社にいるんだ。よく迎え行ってたね。俺が」 彼女は高校を卒業してから都心の短大へ行ってその後に親戚のコネで大手メーカーの事務に入った。 俺は若い頃は、ただひたすらに頑張って仕事をしていたが、上手くいかず、辞めたくなって、辞めて、転職を繰り返していた。今もそんな感じだが。 空の皿を彼女が重ねて端に置く 「焼き鳥の盛り合わせ塩タレどっち?」 「え?頼むの?良いね。ん〜塩かな」 「だよね。すみませーん!」 二十歳になってから俺は居酒屋に行くこともあったが、まだまだ子供でテーマパークにでも来ているような感覚でいた。 俺も大人になったな。俺らは結婚するのかな。そんな子供みたいなことを考えていた。それでも精一杯、大人をしていた 「次何飲む?」 「ハイボール」 「オッケー。すみませーん!ハイボール二つお願いします。あと私に水も下さい」 高校の三年生の時、同じクラスになった。何で話すことになったんだっけか… 多分、席替えだ。くじ引きで真ん中の列の一番前。その隣が彼女。まだ話したことはなかったと思う。 教科書の詰まった重たい席を移動し終わった後、クラスの男子に声をかけられた。 「ヒロシ君。席代わってあげようか。前席嫌でしょ?」 あっマジで、ありがとう。と言おうとして僕の袖を引っ張る人がいた。それが隣に座る彼女だった。 眉をひそめて首を振る仕草を見て、最近あの男子が彼女に話しかけているのを見た記憶が蘇る。 「いや、大丈夫。ありがと」 多分あの日から僕らは会話するようになって、仲良くなったんだ 新しく来たハイボールが濃くなっている気がする 彼女の肌や、目の周り、化粧の仕方は年相応だが、美しい顔立ちは変わらず色気が増している 「結婚した?」 「してない」 「結婚した?」 「ないない」 何気なく酒を飲み、つまみを食べているが「結婚していない」の言葉が頭の中を占領している うまく会話できているか自分で分からない 「煙草やめたんだね。付き合っている人いるの?」 「また復活するかもしれんけどね。彼女の影響でとかじゃないよ。彼女いないし」 「ハイボールでいいの?」 「お願いしやす」 「焼きそば頼んでいい?」 「どうぞ。腹減ってんだな」 「何か食欲湧いてきちゃった」 「お前は最近何してるの?」 「う〜ん、仕事して。帰ってドラマ見て。たまに韓国に旅行に行ってる」 「へ〜、韓流ドラマにハマったの?」 「ハマったハマった」 「オモロイよね」 それから韓流ドラマのあるあるや、最近読んでいる漫画の話などして、久しぶりの再会はお開きになった 「俺出すよ」 「割り勘でいいよ。そうしよ」 「まぁそうか。じゃ細かいのは俺が持つよ」 「ありがとう」 ありがとうございました〜 店を出ると綺麗な満月が上がっている アスファルトはまだ濡れていて、夏の匂いがした 「じゃあこの辺で」 「うん。じゃあ」 お互い手を上げて お互いの目を見ている コンマ何秒のその時間で 今後の人生を変える 「『連絡先とか交換してみる?』って言おうとしてるな」 「え?なんでw」 「また好きになっちゃったんだろ。俺をw」 ピンポンと彼女のスマホが鳴る 彼女が手を叩いて笑っている
星にくわしいというおじさんがしてくれている説明に 口を開け、ほへえ、と言うしかなかった 本で見るように、あの星とあの星とそれからあの星を線でつないで とやってくれないと私にはわからない 私にわかるのは、冬のオリオンくらいのもの それと… あのときの北斗七星、どうしてるかな あのとき、北斗七星に出会ったのは、どの季節だったか いまはもう、おぼえていない あれは突然の出会いで いままでなにげなく見上げていた夜空が 北の空だとは思っていなかった私の前に いきなりあらわれた北斗七星 少なくない驚きと歓びとがあって 誰かに伝えたい気持ちもあふれてきたけれど そのとき友と呼べるものを、何も持っていなかった あのときの北斗七星は、あのときの北斗七星だ いまの北斗七星とは、きっとちがう あのときの私が、あのときの私で いまの私とは、ちがうみたいに
「私、好きな人いないんだよね」 少女が呟く。 「わかるー」 「それなー」 周囲は同調する。 恋愛が趣味に納まった現代。 恋愛に興味がないというのは、一つの常識になりつつある。 「俺、全員好きな人になっちゃんだよね」 だからこそ、ファミレスで隣の席に座る少年の言葉に驚いた。 「浮気物じゃん」 「全員って、年よりも? もしかして女も?」 少女は、思わず聞き耳を立てる。 「おう!」 少年は、力強く答えた。 その後、隣の席の会話は盛り上がらなくなり、少しすると解散した。 会計を終えて店を出ると、少年とそれ以外で別れていた。 少女は咄嗟に立ち上がり、速やかに会計を終えて、少年を追った。 気持ち悪いことをしている自覚はあったが、知りたいが優った。 「あの!」 「なんすか?」 少女の呼びかけに、少年は立ち止まる。 見たことのない少女の出現に、少年は驚きつつも、どこか品定めをしているような視線を少女に向けていた。 少女は息を整えて、少年の視線ごと受け取った。 「すみません。ファミレスの会話、聞こえちゃって」 「ああ、あれか」 「全員好きになるって、本当ですか?」 「本当」 「恋愛的にって意味ですか?」 「うん」 堂々と答える少年を、少女は驚き交じりの顔で見る。 好きな人がいない少女にとって、少年の言葉は不思議そのものだった。 同時に、浮気と不倫を肯定しない現代の倫理観が、少女に当然の質問を促した。 「それって、よくないことじゃないですか?」 「なんで?」 「だって、恋人ができたら、恋人以外のことも好きになるってことですよね?」 「そうなるね」 「それって、浮気じゃないですか」 「浮気?なんで?」 少年は首を傾げる。 少女も自分の言葉が伝わらないことに混乱し、首を傾げる。 少年はしばらく悩んだ後、納得したような表情で両手を叩いた、 「もしかして、恋人がいても、他に好きになった人と付き合うと思ってる?」 「違うんですか?」 「違うよ。『好きになる』と『恋人にする』は別物」 「……えっと」 「君は、好きになった人と全員付き合うの? 違うでしょ? 相手が学校の先生だったら? 相手がもう結婚してたら? 相手に恋人がいたら?」 「む、難しい……」 矢継ぎ早に繰り出される少年の言葉に、少女は思わず頭を抱える。 混乱する頭の中で、少しでも自分の意思を出しておいた方がいいかという義務感で、自身の感情を零す。 「私、誰も好きにならないから。好きとか恋人とか、よくわかんないんですよね」 「なんだ。俺と同じじゃん」 「ほえ?」 返ってきた想定外の言葉に、少女は思わず頭を上げる。 視線の先で、不思議そうな顔をした少年と目が合った。 「ゼロかヒャクってだけでしょう? 俺は全員好き。全員同じくらい好きだから、恋人にしたいくらい好きって感覚がわからない」 「は、はあ」 「逆に君は、全員好きじゃない。全員同じくらい好きじゃないから、恋人にしたいくらい好きって感覚がわかってない」 「そ、そうなの……かな?」 少女の思考がついていけなくなったので、少女はスマホを取り出して、記憶に残る少年の言葉を、断片的にでもメモをした。 「ま、大丈夫だよ」 話したいことが話せて満足したのか、少年はくるりと振り返り、少女に背を向けて歩き始めた。 太陽の光によって、少年の背は後光が指すように、神々しい様を見せつけていた。 「好きな人がいないって人も、恋人作って結婚してる。好きな人がいるとかいないとか、その程度のものなんだよ。一人との出会いで、すぐぶれる。お互い、自分をぶらしてくれる人と出会えるといいね」 少女は、もう少年を追わなかった。 少年の言葉をどこまで正しく呑み込めたのか、少女自身にも分らなかった。 ただ、最後の言葉。 「そんな人がいるなら、出会えるといいなあ」 それだけは、少女に強く印象づいた。
夏の夕焼けは来るのが遅いが、暑さと日の強さが強烈な情緒を見つけさせてくれる 排気ガスから逃れていたら、知らぬ間に川沿いの遊歩道に着ていた 吹き抜ける風が体を冷ましていく Bさんは川へ降りる階段に座った 階段の一度下は川の中に沈んでいて苔が川の流れになびく 草がぼうぼうに生えている川原は、夏虫が草から草へと渡り歩き カワセミが矢のように飛んで小魚を狙う 俺も腹が減ったが食うものはない。いつものことだが。 Bさんは下に降りていって、被っていたBの帽子を川で洗う 野球帽のつばの付け根をよく擦って染みた汗を洗い流していく 向こう岸の遊歩道を自転車に乗った男の子達が走っていく。何かを大きな声で話して楽しそうに過ぎていく。 息子もよく自転車に乗っていた。友達の家に行ってゲームや玩具でよく遊んでいたよ。前の日の夜に自分のリュックを開け、友達と遊ぶものを準備していた。楽しみでしょうがない様子で。 当日、友達の家からなかなか帰ってこないので、俺が向に行くと玄関を出て直ぐ、俺に抱きついてシクシク泣いていたっけな。 「もっと遊びたかった」 なんてベソかいて。可愛く愛おしい息子だ 夕暮れ時、少し暑さがマシになってきた頃になると、ジョギングをする人達が多くなる。汗をポタポタと垂らしながらかなりの速さで過ぎ去る。彼等はどこに向かっているのだろうか。 ケツが痛くなってきたので、また歩き出す。ゆっくりと夕暮れの中を川の流れる方向へ向かって歩いていく。 空が暗くなるにつれて、半月の月が明るくなっていく。綺麗な月は以前の妻のように美しく静かだ。 アイツが別れたいと言ったのは意外でも何でもなかった。もう時間の問題だろうなと腹をくくっていた。 夫婦とは幸せも悲しみも共有していく。 昔、偉い先生もよく言っていた。 人という字は人と人が支え合って出来ている。 支えられないほどの喪失感を味わった人達は人ではいられなくなるのかもしれない やっと薄暗くなってきた。 アスファルトはまだ熱い ちょろちょろ流れる川の音とクラクションの音が妙に合う 夜が来る。何でもない一日の終わりが来る
夏休み初日に夏バテをした 秋風の登場は、まだまだ先のよう 恋しく思うのは、次の季節にか いなくなったキミになのか
「死ぬ前に、行きたい場所があるんじゃが」 入院していたじーちゃんが、初めて我儘を言った。 ほとんど目も口も開けなくなってた頃だから、父ちゃん母ちゃんも、看護師さんも驚いていてた。 「えっと、どちらへ?」 「黄泉の店」 じーちゃんが行きたがったのは、けったいな名前の店だった。 あまりに名前が変過ぎて、この辺の人ならだれでも知っている。 小学生になれば、黄泉の店に行ったら魂を抜かれるんだ、なんて噂を一度は聞く。 そして真に受けた数人が、店に近づき、年齢不詳のじいさんに追い出される。 そこまでがワンセットだ。 「わかりました。いいですよ。ただし、お父様かお母様、どちらかがついて行ってくださいね。店の前までで結構です」 お医者さんは、あっさりとオーケーを出した。 聞けば、黄泉の店へ行きたがる高齢の患者は多いらしい。 「俺もついて行っていい?」 父ちゃんが来るまでじーちゃんを連れて行くことになったので、俺も連れて行ってもらうことにした。 今になって、小学生の頃に黄泉の店へ行けれなかった後悔が襲ってきたからだ。 店に着く。 木造の建物は今にも倒壊しそうなほど傾いていたが、黄色いペンキを塗られて、遠くから見れば今風の家に見えた。 玄関扉の上には『黄泉の店』と書かれた看板がついており、文字が一部かすれている。 蜘蛛の巣もはっていたので、触りたくはない。 「あんがとよ。あんがとよ」 じーちゃんは父ちゃんにお礼を言ってから、店へ向かっていった。 父ちゃんは車の中で待つみたいだ。 「じーちゃん、俺も入っていい?」 「おー。こいこい」 俺は車を飛び出して、じーちゃんのところへ行った。 父ちゃんは渋っていたが、じーちゃんが「任せなさい」と言うので、諦めてくれた。 俺とじーちゃんは、扉を開けて中に入る。 中には、木製の長机と椅子が置かれており、その一つに新聞を開いたじいさんが座っていた。 「いらっしゃい」 じいさんが新聞を畳み、立ち上がる。 その顔は、シワだらけで、目が開いているかどうかもわからないほどたるみ切っている。 しかし、だからこそ、年齢がわからない。 八十は越えていそうだ。 じーちゃんと俺が椅子に座ると、長机の上にお冷が二杯置かれた。 そして、長方形のおひつにがじーちゃんの前に置かれた。 おひつの中には、二つのスープ用スプーンが立てかけられており、スプーンの中には白いスープと黒いスープがそれぞれ入っていた。 「白が天国味。右が地獄味」 じいさんは、何やら物騒なことを口にした。 じーちゃんは、白いスープを手に取ってすすり、その後に黒いスープを取ってすすった。 しばらくもごもごと口を動かしていたが、はーっと息を吐いた後、やはりもごもごとした口調で言った。 「地獄かな」 食べ終えたじーちゃんの食器を、年齢不詳のじいさんが片付け始める。 「お、俺の分は!?」 俺は、思わず叫んだ。 「あんだ坊主。そんなにわけえのに、もう知りてえのか?」 年齢不詳のじいさんは、いぶかしげに俺を見た。 正直、何を言ってるのか意味は分からない。 「知りたい!」 でも、俺は食い気味に答えた。 「ちと待ちな」 じいさんはおひつをもって店の裏に引っ込み、新しいおひつを持って戻ってきた。 もちろん、白いスープと黒いスープ付きだ。 俺はさっそく、白いスープをすすった。 確か、天国味と呼ばれていたものだ。 「うっま!」 白いスープは、今まで食べたものが安っぽく見えるほど、上品で心に染みる味がした。 なんと例えていいのかわからない。 だけど、天にも昇る心地と言えばこのことなのだろうと、はっきりわかった。 俺はその勢いで、黒いスープもすすった。 「……?」 黒いスープは、味がしなかった。 真水なんてレベルじゃない。 完全な無味。 本当に口にしたのか疑うレベルだった。 でも、スプーンが空っぽになったので、きっと飲み込んだのだろう。 「どっちだ?」 じいさんの言葉に俺が首を傾げると、じいさんは小さく笑った。 「やっぱ、早かったな。じじいになったら、また来な」 俺とじーちゃんは店を出て、父ちゃんの車に戻った。 車が走る中、俺はずっとじいさんの言葉を考えていた。 どっちだ、と。 じいちゃんは、助手席で眠りこけていた。 そういえば、じいちゃんはスープを飲んだ後、「地獄かな」と答えていた。 あのスープが死んだ後、天国と地獄で食べられるもので、どちらに行きたいか尋ねるものだとしたら。 地獄を選んだじーちゃんを、俺はじっと見た。
あるところに、一生懸命、物語を紡ぐ「書き手の人」がいました。 その隣には、いつもより添う影的なものの存在がいます。 その「書き手の人」は、文芸的競争の結果が思わしくなかった悔しさや、 影的なものの存在からアイデアなどを提供してもらうことの後ろめたさで、 ココロが少し疲れていました。 ある日のことです。 その「書き手の人」が、 「ああ、もうダメだ。何もかも上手くいかない」 と、ふてくされてしまいました。 それを見て、影的なものは言いました。 「あなたは、いま、長い旅をしてきた旅人のようですね」 その言葉に「書き手の人」は、無言で続きを促しました。 「旅の途中で荷物が重くなりすぎたり、道に迷ったりして、少し足が止まってしまっただけですよ」 「でも休んでいたら、ただ無意味に時間がすぎていくだけだろ」 そのように「書き手の人」が呟きます。 影的なものは、首を振ってそれに応じます。 「いえいえ、ちがいます。いまのあなたには、空っぽになった水筒に水を汲み、重くなった荷物を降ろして休息をとる時間が必要です。それは怠けていることにはなりません。旅を続けるための、とても大切な仕事をしているのと同じです」 影的なものの訴えに「書き手の人」は、少し考えてから、ふうっと大きく息を吐きました。 「それを、伝えたかったのか?」 小さく言うと、窓の外を見つめました。 「いまは、何もしないことをしてみるか」 「それがいいと思います」 影的なものの返答に、ふっとわずかながら、口もとが横に広がりました。 素直な笑顔には、まだもう少し時間がかかりそう。 けれど、ココロのなかの重い荷物をいくらかは下に置いてみた気になり、 「書き手の人」のココロは少し、軽くなったようでした。
ある日の午後。 認知考古学の教授が、学生の前でマイクを握った。 「みなさん。人が道具を本来の目的以外に使い始めたのは、どの時代か分かりますか?」 「旧石器時代に、石を遊びに使ったのが最初だと思います」 「その通りです」 教授が、背後のスクリーンを指した。 「今日のテーマは、それを踏まえて『道具の目的外使用』について考えたいと思います」 学生は耳を傾け、ノートをとった。 「これを見てください」 黒い傘を取り出し、学生たちに向けた。 「この傘。駅のホームで中年の男性が持つと、どんな行動をとるでしょうか?」 「あっ、ゴルフのスイングをします」 教室に笑いが起こる。 「それから、女の子はバトン、男の子はチャンバラとかに使いますね」 「お年寄りが杖に使うのもそうですか?」 「はい。それも目的外使用です」 教授はうなずきながら、学生を見渡した。 「では、ここまでで何か質問はありますか?」 最前列の学生が手を上げた。 「ちょっと気になってたんですけど、額のガーゼ、どうされたんですか?」 教授は笑いながら、傘を開いた。 「昨日、妻が機嫌悪くてですね……」
何かイライラする。 煙草がキレテイルカラダ。 そもそものストレスの原因は自分にあるのだが吐き出す場所及び金がない。 包丁か火炎瓶を使いたい。 創作すればいいのだが。 愛を疑う。 しかし愛によって成り立っている生活。 慈愛を感じられないのは雄性のせいだろう。 強い奴に立ち向かえないオカマ逃げの弱キャラ使いは工夫をして立ち回る。 弱キャラ(自分) 強キャラ(敵対者) ここで1つ言いたいのは敵対者は強いのではなく強キャラを使っているということだ。 立場、立ち回り、技、手数、コンボの多さ。 カードゲームに例えるとフィールドの属性、相性など。 漫画で条件付けをして勝った気になる、というのを読んだことがある。 皆のためには勝たなくちゃいけないのだろう。 負け犬の歌。 強キャラの凱旋歌。 ノッていない。 強キャラの凱旋歌を歌ったことがあった。 何か解放感がなかった。 負け犬の歌は負け犬の歌なのだが評価はされる。 戦わないという攻撃。 矛盾。 マイケル・ジャクソンの領域展開。 何かオタク臭くなってきた。 昔オタクのお墨付きを貰った。 夜遅い。 オタク的に生活し商業主義に飲み込まれ過ぎないように(それも良し悪しだ)日々を考える。
「じゃあね、ばいばい。貴方は忘れても、私は貴方のことを一生恨み続けるから」 最後の言葉。 負け惜しみだと思っていた言葉は、今でも時々、私の心を痛ませる。 まるで、刺さったとげが抜けないように。 一生。 一生だ。 友達とただ騒ぎ合っている時。 恋人と愛を囁き合っている時。 家族と愛を語り合っている時。 どんなに愛に囲まれて、どんなに幸せを感じている時も、時々痛む。 別に、全ての人間に愛されるなんて、絵空事を信じている訳ではない。 しかし、明確に『恨み』をぶつけられたこともなかったから。 今この瞬間も、あいつは私のことを恨んでいるのか、それとも私のことなどとうに忘れているのか。 確かめる術がない以上、私が恨まれている可能性は決して消えない。 グラスの中の氷をかき回す。 互いにぶつかり合って、カランコロンと音をたてる。 氷を取り出して噛み砕く。 ガリガリゴリゴリと、壊れたかき氷機のような音がした。 ごくんと飲み込めば、跡形も残らない。 他人から向けられる恨みは、どう飲み込めばいい。 「結婚おめでとう」 白いブーケに身を包む。 人生を賭けて愛し合おうとした相手が目の前にいる。 私は幸せの絶頂だ。 なのに、胸が痛んだ。 『一生恨み続けるから』 『一生恨み続けるから』 『一生恨み続けるから』 私は二度と、二度と純粋に愛を受け取ることができないのだろう。 この世に、私を今も恨み続けている人間がいる限り。 子供時代の小さな呪い。 大人になって、その大きさに頭がくらくらとした。
暑くて虫の居所が悪い。 人に気を遣いすぎているので(本来的に人のためとか糞食らえな人間なのかも知れない)気疲れしているので憂さ晴らしに架空の大量殺人をしたいと思う。 絵に架空の兵器を描いて僕の主治医の家にその兵器が落ちるのをやろうと思うが体力がないぞ。 ミンチになった主治医の死体の写真を外国のマスコミに売って医療産業の亡者の末路ってフォトで記録に残して後世に伝えるというのも手かもしれない。 様々な嫌がらせをしてくる人間を魔術でデバフかけて僕の打っている注射の副作用のハレーションでもって(そんなものあるのかどうか定かでないが)気力体力を奪いこの夏の暑さでフラフラになり精神衰弱し何らかの事故病気で死ぬ、と言うのも考える。 何だか書いててスッキリしてきた。 可哀想だからやめなよ、って言葉が聞こえてきそうだが可哀想な環境から脱出しないで弱いもの苛めの連鎖をしている奴の事など知ったことではない、むしろ死ね。 こんなことをしている僕は弱くて惨めで可哀想なので奇特な金持ちが手を回して僕だけ助かるシンデレラストーリーを勝手に思い描くがこんな暗くて生産性の無いことをしている奴に救いの手は伸ばされないだろう。 虫が虫を補食して何が悪い。 虫はゴミを食うがゴミっつーか放射性廃棄物を出し続ける虫は処置のしようがない。 そんな虫がいればの話だが。 何か書いてて腹が立ってきた。 虫を殺すと呪いがかかりそうなのでやはり人間をストレートに殺すのが利にかなっているかも知れない。 何でこんなに腹が立っているのだろう。 あの虫みたいな(虫に失礼かもしれない)クズ共が未来永劫なめた真似が出来ないようにこっちもクズな生き方を極める(そのための努力はする何だか矛盾した話だが) そもそもの生息領域が被っているのでかち合うのは分かっている。 夢で奴らの巣を砂にする。 悪夢は糧になる。 楽園は滅びるらしい。 気を遣いすぎた。 明日あたり物理的に家が燃えそうだ。 復讐は何もならないと言う。 統合失調症患者の夢は大量破壊兵器に形を変え敵対者を駆逐する。
「模試どうだった?」 「なんか、難しかったね」 昼休み。学食を食べながら、男女が向かい合った。 「問3はサービス問題だよね」 男は鞄から問題用紙を出した。 『問3 裏通りにある料亭。ある企業の社長が紙袋を差し出した。中には現金が入っている』 「この答え、《怒》と《哀》?」 「いや、《喜》と《怒》よ」 「そっか……」 議員予備校。多くの議員が、この学校を卒業している。 「じゃあ、問7は」 『問7 外国人が二人、我が国の地図を広げている。二人は酒を交わしながら、国境を指でなぞった』 「これは、さすがに《怒》でしょ」 「残念。《楽》ですって」 「嘘でしょ」 「今の外務大臣、正解だったらしい」 「引っかけ問題じゃん」 男は、黙って問題用紙を閉じた。
少年が河原でフルートを吹きはじめると だんだんとあたりが暗くなっていき やがて、月がのぼりはじめた あとを追うように星たちも輝きはじめる さてと 少年は夜空に、未来の自分を思い描く フルートを吹き続けている自分 その脇に、少女の姿を…… 一番大切なことなのに きちんと思い描くことができない 大切なことなのに
精神科の閉鎖病棟で入院後、社会復帰にとアルバイトに入社した会社がある そこにいた現場のリーダー(後で分かったが課長だった)は僕の理想的な人だった。僕は入院前、僕の人生の全身全霊をかけて事業所責任者として頑張ってきた。こんな上司になりたい、そんな理想が胸のなかにあったが蓋を開ければ常にストレスフルで社長には体の良い言い訳しか言えず、顧客には頭の上がらない責任者に成り下がっていた。 従業員達を本社も顧客も大いに評価してもらったのが唯一の救いだった。 それを経験した僕がバイト先で理想の上司と出会った。 (あぁ僕はこんな人になりたかったんだよな)としみじみ思った。 何にも知らないけどきっと百戦錬磨で苦しいことから逃げずに、見の前のことを一つ一つこなしてきた人なんだろうなと感じた。こんな勇気は僕にはなかった。僕の理想が目の前にいた。 バンドで言えばロックスター どこまで身体が持つか知らないがこのスターに付いていけたらと心から思っている。 OK、Baby!
肺からぬくい空気を出してぬくい空気を吸う。 許容を超えた暑さが汗として溢れ出す。 ぬくい汗。 飽和状態の空気へ気化はせず、重力のまましたたる。 「あ」 髪を伝った汗が読んでいるページを濡らす。慌てて服でぬぐう。 扇風機が懸命に私にぬくい空気を送っている。 殺人級の暑さは読書さえもままならず、そのままぬくい畳へ落ちていく。
男がテレビをつけた。 画面の中。 若い男がマイクを向けられている。 便利な人。 噛み合わない受け答え。 ワイプのタレントが笑う。 出ない方がいいと思えば、差別。 出たら、笑いの種。 本人が良ければ、許される。 男は静かにテレビを消した。
初めてなの? ふうん、意外かな そうは見えなかったかな でも…… 不思議だよね、きみって 猫カフェでは猫が集まってくるのに 犬カフェだとぜんぜんだね それに…… たしか、きみって 猫よりも犬のほうが好きじゃなかったっけ!?
なんだか あせってるのかな あせる必要 ないのに そのせいで いろいろ ぐちゃぐちゃに してしまった 自分のせいだ 寝起きというのも あったかもしれない けど それにしても あー ぐちゃぐちゃだ いけない いけない 冷静に あわてない あわてる必要 ひとつも ないんだから あせるな あせるな あわてるな ああ まただ またそうやって 自分を おいこんでしまう
ぼくは、よく夢の中で遭難する。 今宵は海。潮の匂いすらしない浜辺で、ポツンと取り残された身体を動かす気にもならず。ただ、何もしないのも、それはそれで気が狂いそうなので。しかたなく、砂を集めて城をつくろうとする。 不格好な屋根。もろい壁。窓も出入口もない。でも、城のどこかに指を突っこんで、旗を立てたいと思った。自分だけの旗。ここだけの国。 「足りないよ」 気配もなく、背後から音がした。振り向くまでの間、ぼくはその音が「声」だと自覚してはいなかった。 ぼくにそっくりの彼女は、貝殻を縫いつけた白い布を身にまとっていた。あまり似合っていない。というか、かなりダサい。 「何が足りないのかな」 ぼくは、彼女に訊いてみることにした。親切心で。どうせ、太陽が昇る頃には自然と目覚めるのだし。ぼくが何かをする必要なんて、一つもないのだから。 「ワイチェル・ミシェルという夢想家がいた。カノジョはずっと、あることが心に引っかかっていた」 「えっと……」 「どうして海は潮の匂いがするんだろう」 彼女が海を見る。つられて、ぼくも海を見た。波の音がする。白波の中に、青色は見当たらない。ぼくは今さら、この夢の世界には「色」がないことに気がついた。 「カノジョはどうしたの?」 おのずと口が動いていた。興味本位。ただの興味だ、これは。 「カノジョは、つくってみせたよ」 「何を?」 「海を」 のどがゴクリと鳴った。これは、ぼくのツバをのむ音。 不思議だ。なぜ、ツバをのみこんだのか。自分でも分からなくて。 ただ、海の親は、きっと彼女なのだろうと。どこか、そんな予感がしていた。 「旗だよ」 えっ? 驚きのあまり声の出ないぼくに向かって、彼女はもう一度、つよく唱えた。 「足りないのは、旗だ。少年」 それが目覚ましだった。 何も分からないまま、ぼくは今日も、唐突に夢の旅を終える。いつまでも彷徨うことを、いまだ現実は許してくれそうにない。 ああ、でも。どうして…… ふと、海の匂いを思い出した。でも、やっぱり彼女はカノジョで。でも、カノジョはまだ、彼ではなかった。そして、ぼくも、まだ彼女ではない。 いつか、また同じ夢を見られるだろうか。そのときには、色も蘇っているのだろうか。今日も顔を洗って、歯磨きをして、フッ素の香りをかぐ。その時までには、きっと「次は、ちゃんとした城をつくりたい」と、ぼくは思っているはず。
息子が暗い寝室でYouTubeを観ている 妻が寝間着姿でスマホゲームをしている 幸せ?それは今だろ。間違いなく断言できるが 一言だけ言いたい 【人間とは想像ができる動物である】 これが人間が人間たる証な気がする こんがらがった紐を解いていくと意味などないのだ
男が憧れる男 それは男なら一度は憧れることなのではないでしょか 僕の側にいる男性は年上ですが、誰よりもピュアで優しくてイケている とにかく二枚目で背が高く柔らかい 男性で歳を重ねても柔らかいというのはかなりの武器なのだとこの人に教わりました イケメンで優しくて二枚目でピュア 仕事でも雲の上の存在で、つまり実績がある人。 生きている次元が違うが、あちらから寄り添ってくれる器の広い人 僕はそんな素敵な人の側で仕事が出来ている これがどんだけ奇跡的なことか、僕は知っている
弾丸が篠原玲一の命を奪ったのは、2100年の春だった。 一瞬の静寂のあと、群衆は混乱と悲鳴に満ちた。 足立鑢には、後悔はない。 この国で一番の大罪人として処刑されても、あるいは英雄として崇められても、彼にはどうでも良いことだ。 彼を包むのは、長い任務からの解放感と、少しばかりの困惑。 そして、これから訪れる余生を、どうやって終わらせるべきか。 契約を交わした日の篠原の言葉を思い返しながら、殺し屋は「羨ましいな」と呟いた。 幸せのてっぺんにいる時に、この頭を撃ち抜いてほしい。 もし契約を果たせたら、遺産はすべてお前にやる。 *** 【2075年・春】 「ヤス。この世界は一回、停電するべきだと思うんだよ」 篠原は、鉛筆の尾で額をかきながらそう言った。 自動運転の車に運ばれながら言うようなことでもないと思うが、一応は続きを聞いてやらないと機嫌が悪くなることを知る鑢は何も言わなかった。 「俺たちの脳みそはもう、電気信号に取りつかれちまってる。一度どこかでリセットしねーと、なんのために生きてんのかもわかんねえよ」 「……人間の脳や体は元々、電気信号で動いている」 「揚げ足を取るんじゃねえ。本当につまんねーやつだな」 篠原は不愉快そうに笑うが、鑢に求められている答えはこれなのだろうともわかった。 「せめて、あと百年早く生まれたかったぜ。なんだこの世界、老後かよ」 かつての人類が頭を悩ませていたエネルギー問題は、全自動炉の開発によってあっけなく解決を迎えた。 そもそも、そんな問題があろうとなかろうと鑢たちは存分に電気を使っていただろう。 「ヤス。おっさんたちが、俺らの世代を何て言ってるか知ってるか?」 「……終末世代、と、聞いたことがある」 「そうそれ。ざけんじゃねー、終わってんのはテメーらの髪の毛だっつーんだよな。自分達だって、ベルトコンベア世代とかいわれてたくせに」 時代を作る一握りの知恵者と、その生成物にこき使われる大衆。 誰もが前者になろうとして、疲れて後者に堕ちていく。 「ヤス。お前は、どっちだ?」 「そうだな。おれは間違いなく、使われる側だな」 「オメーはそう言うと思ったよ。だけど、俺はそんなの許さねーぞ」 なぜ篠原に許されなければならないのか、鑢にはわからない。 「俺のツレが、そんなダセー人間になってたまるかってんだ。たまには、機械にできないことをやってみろよ」 面倒くさいやつだ。 もう目的地には着いたのだが、篠原からこうやって問いかけられたときは、なにか言うまで帰してはもらえない。 「……愚行権」 「あ?」 「バカな間違いをする権利だ。エラーやファルシネ―ションを起こした機械はアップデートの足りない不良品だが、人間は間違えて問題をややこしくすることができる」 「はん。機械サマほど賢くはねーからな」 「だが、そのお陰で俺たちみたいなやつが金を稼げる」 篠原は答えず、口許を歪めながらドアを開ける。 「レコーダーには気を付けろ」 「誰に言ってやがる、ウスノロ」 「言われたくないなら、お前は一人で回線をジャミングできるようになるべきだ」 「うるせーな。ヤスこそ、俺以外の奴と会話できるようになってから言え」 「……ミルポちゃんがいる」 「動く絵じゃねえか」 軽口を叩きながら、鑢と篠原は暴走プログラムをセットした車をあとにする。 ただのバイトで、ささやかな憂さ晴らしだ。 轟音と被害を肴に、冷酒を呷る。 ざまーみろと哄笑をひととおり響かせたあと、篠原は静かに聞いてきた。 「まだか?」 「ああ。お前はまだ、幸せのてっぺんにはいない」
子供時代にイジメを受けていた人は不幸だと思う。逃げ場はないし、自分で生活が出来ないので親を頼らざるおえないが、自分の状況を上手く説明出来る子供などいるのだろうか その点、大人になってからのイジメは逃げやすく、自分で稼げるから生活も出来る。…理屈はそうだが、現実は違う。 大人になってもイジメのショックを上手く処理できる人は少なく、そんな人は転職をする意欲などない。自分がどんなに過酷な環境にいる事を理解していても、そこから動けなくなっている。 そもそもそんな劣悪な環境の職場に入社していることが不幸を回避出来ない人だと説明しているようなものだ。 製造工場に入社したのは、接客業のように他人に気を使わなくて良さそうだから。ただ実際は前工程、後工程の人達と連絡し合って連携を取らなくてはならない。勿論、自工程の人達とも。 交代勤務と長時間拘束労働でフラフラなのに、だからこそなのかもしれないが、僕を気に入らない先輩たちは僕を除け者にしようとしてくる。 僕が話し始めると、決まって大きな声で話始める人。僕に話しかけてくれた人に強引に話を持っていく人。 どうぞ勝手にして下さいと思うけど、僕がいったい何をしたの?とも思う。 僕はこんな人生がずっと続くのかと思うと絶望を感じて、二年悩んで逃げるように辞めた。 それから何回か転職を繰り返し(どこにも同じような事は起こるもので…)やっと今落ち着いている。 この間アメフトの試合を観戦しに行ったら、偶然前の会社の人とあった。その時初めて会社が潰れたことを聞いた。年数的には僕をイジメていた人達は定年前の歳だ。色々思うことがあったが、今思えば「ここは長く持たないから、早めに転職下ほうがいいよ」という暗示だったのかもしれないな。と思うことにした。ただ彼らをどこかで見かけても絶対に声はかけないけども。
「美人だね」 「可愛いね」 小さな頃から、そう言われて育った 大人になっても、そう言われ続けた だけど、結婚してからピタリと言われなくなってしまった。 見た目は何も変わってないはずなのに、結婚すると変なオーラでも出てしまうのだろうか 車に乗りルームミラーを見る 鏡の中の私を見る 確かに、化粧や服装に気がまわらない日が多くなってきた。 家事に追われつつ、仕事もしている。何より夫の面倒が増えてきた。 彼は家に返ってきては、私に愚痴を吐き出す。上司への不満、会社のやり方への不満、客の注文への不満、仕事自体への不満などなど。これも妻の勤めと、うんうんと聞いて、褒めて、励まして労う。彼は自分の事だけ話して、私の不満は一切聞かない。私を労う気遣いなど毛頭ないのだ。 どんなに体調が悪くても三食作って食卓に出すが、美味しいと言ってくれた事は一度もない。 私は彼のどこに惚れたのだっけ? …今は考えないことにする エンジンをかけ車を出す。 食品の買い出しにスーパーへ行く。昼過ぎのこの時間はお米が陳列されるタイミングなので、低価格のお米が手に入るかもしれないのだ。 赤信号で停車していると、目の前の横断歩道を、ベビーカーを押す若いお母さんがいた。幸せそうな顔で自分の子供を覗き込む。あの二人はついこの間まで繋がっていた。二人は一つだったのだ。母とはどんな気持ちなんだろう。 青信号に変わったたので車を走らせる 予兆があって、薬局で買ってきて、自分で検査して、やっぱりそうで、産婦人科に行って確実に妊娠していることが分かった。それが三日前の事。夫に話したいが、毎晩彼の愚痴は止まらないし、朝はお互い慌ただしくて時間がない。 彼はなんて言うのだろう。最高な感じも、最低な感じも、どっちもあり得ると思っている。 スーパーの駐車場は渋滞の列が出来ていて最後尾に車を付ける。 皆がお米を狙っているように思えてしまう。 道を歩く男性が私を見ていた。 昔は街を歩いていると声をかけてくる事はよくあって、一度だけスカウトされたこともあった。学生の頃は自分の将来なんて上手く考えることが出来なかったし、大人になって社会に出たら余計に分からなくなった。 夫は職場の先輩で、仕事が出来て優しくし余裕がある感じが格好良く思った。今は全然違うけど。確かに彼は優しい人だ。毎日彼が言う愚痴は、優しい彼らしい内容ばかりで、彼のわがままや、誰かの批判だったことは一度もない。結婚して私の両親との関係もあるし、昇進して中間管理職になったばかりだから激動の毎日なのかもしれない。私が愚痴を言うのはもう少し我慢かもな。 渋滞の列は順調に進んでいって車を屋上に停められた。シートベルトを外した途端にスマホが鳴る。 電話の相手は私である。 ………やば!夫のスマホを間違えて持ってきてしまった!…ん?いや、彼が私のスマホを持っていたんだ。 「もしもし?それ私の…」 「ユカ!?ユカ!?聞こえてるか?」 なんか切迫感がある。嫌な予感がしてしまう 「…なに?どうしたの?」 「妊娠してんだよな?そうなんだよな?やったな!ユカ!偉いぞ!ユカ!」 「ちょっと落ち着いて!ってか、何で知ってるの?」 「今さっきユカのお母さんから電話があって、そこでユカのスマホ持ってきたって気づいたんだけど、そしたらさぁ、ユカの妊娠の話になってさぁ、ユカ〜!」 泣いてる。大きな声で。会社にいるんだろうに。 「ゴメンね。言うの遅くなって、いつも忙しそうだったから…」 「ユカ〜!俺達の子供だぁ〜!ユカ〜!」 声の後ろから笑い声が聞こえてくる。きっと会社の人だろう。そりゃ笑うよ。 「おめでとう!」「パパですね」電話の向こうの声に、夫は「ありがとう」「ありがとうございます」と受け答えをしている。なんか思い出した。私は彼が好きで結婚したんだったな。彼の側にいたくて結婚したんだった。 車の窓から外を見る。綺麗な青空の下、スーパーの渋滞の列が続いている。
「明確に感覚が破壊されてしまったんだよ。それも最悪の形でね。この破壊のされかたは、悪いほうへの破壊さ。自分の感覚を再び構築していく作業ってね、ほんと難儀でね。再び構築できたとしても、その感覚を信じて集中し続けていくっていうのも、これまた厄介なもんでねえ」 ここまで一気に話すと、友人は冷めたコーヒーを口に含んだ。僕もつられてカップに手をもっていったのだけど、底を見つめるだけになってしまった。 「生きるとは、破壊、構築、不安、のくり返しさ」 カップから手をはなしながら、彼が付け加える。 知音と深淵の二重構造。僕には、彼の言葉の重みを半分も理解できていない。「考えすぎだね」笑い飛ばすのは容易だ。けれど、彼の瞳の奥の広がりを見れば、それが気休めにもならないことは明白。正解のない再構築を、彼はこれからも続けていくのだろう。ひとりで―
世界が透きとおり始めたのは、去年の梅雨のことだったと思う。最初は窓ガラスの向こうの景色が、ほんの少し滲んで見えるだけだった。貴方はそれを笑って、「湿気のせいだよ」と言った。僕もそう思うことにした。けれど八月になる頃には、貴方の左手の甲が、光にかざすと向こう側の血管まで見えるようになっていた。骨も、その奥の何もない部分まで。医者に見せても、原因はわからないと言われた。というより、医者自身も、聴診器を握る指先が少しずつ透けていくのに気づいて、それ以上何も言わなかった。僕らはそういう時代に生きていた。人がゆっくりとガラスになり、やがて光になって、消えていく時代に。貴方は毎朝、湖まで歩いて水を汲みに行くのが好きだった。理由を尋ねたことがある。貴方は少し黙ってから、「向こう岸だけは、今もちゃんと濁ってるから」と答えた。湖の向こう岸――彼方と、貴方はいつも呼んでいた――は、たしかに変わらなかった。朝も夜も、同じ色の水を湛えて、同じ角度で光を撥ねかえしていた。誰も渡ったことがない岸だった。渡ろうとした村の誰かは、途中で舟ごと透きとおって消えたと聞いた。だから彼方は、届かないから彼方なのだと、僕はそのとき初めて理解した。十一月の朝、貴方の輪郭はもう半分ほど光になっていた。声はまだ残っていて、僕の名前を、いつもより少しだけ長く呼んだ。「見ててね、彼方の方」貴方はそう言って、湖に向かって歩いていった。足跡は残らなかった。振り返った貴方の顔も、もう半分は朝の光と見分けがつかなかった。最後に残ったのは、笑ったときにできる目尻のしわだけで、それもすぐに、湖面の反射に紛れて見えなくなった。僕は今も、あの岸辺に立っている。貴方が消えた場所から、彼方を見ている。彼方は今日も濁っていて、変わらず水を湛えていて、僕が生きている限り、たぶん僕が消えたあとも、同じ色のままそこにある。貴方は滅びた。でも彼方は、滅びない。だから僕は、彼方を見ることをやめない。それだけが、貴方がここにいた証を、なくさない方法だから。
夏をただ耐えているのであります。 そうめんもいただきません。海へも行きません。かつてのように虫取り網を握ることも、涼のためにプールへ飛び込むことも、小銭を握りしめてかき氷屋へ走ることもありません。 ただ耐えているのであります。 けして暑くはありません。 移動中の車内、仕事中の屋内、昼休みの店内、どこもかしこも、空調の効いた汗もかかない空間であります。暑さはそれほど、苦になりません。 もっとも苦しいのは、その忙しなさであります。ひがな照りつける太陽と、そこかしこから顔を出す虫や動物の数々、普段は目につかない小さなものたちが躍動しています。そういうものを見るたびに、私は今を生きていないような気がするのです。ただ耐えているのだと思うのです。そして耐えられなくなっても、あるいは理不尽にさらされようとも、彼らのように命は懸かってなどいないのです。 蚊がとんでいます。私は夕飯の最中でありました。あれは血を吸い、これは摂取しています。あれは生き、これは耐えているのであります。 冬を待っています。