この薄暗い部屋に閉じ込められて、一月が経った。部屋の中は質素な造りだが、ベッドは意外にも上質なマットレスで、シャワーとトイレも完備してあり、生活するには申し分ない。食事は野菜などの彩は無いが、三食差し入れられる。 堪えがたいことは、娯楽が少ないことだ。テレビやパソコンが無いのは勿論、所持していたスマートフォンも取り上げられている。何故かカバーを外された本だけは差し入れられるが、異常な状況では読む気力も湧かない。言わば、生きる楽しみを見いだせない空間。 犯人はわかっている。目の前にいる女だ。 「どうしてこんなことをするんだ」 鉄格子の向こうにそう詰問すれば、女はいつも困った様な表情をするばかりだった。 彼女のかつての交際相手に相談を受けたのが、出会いのきっかけだった。曰く、彼女は相手に尽くすタイプの女性で、しかしそれに際限が無い。ノイローゼになった彼が逃げ出し、身近にいた自分が次の寄生先として選ばれた。 意外にも彼女との生活は悪くはなかった。容姿は華美ではなく、常に地味な服装だったが、むしろ奥ゆかしく好感が持てる。流行の話題には疎いが、古文や歴史に造詣が深く、博識深い。聞いていた異常性を置いておけば、所謂大和撫子そのものだったのだ。 うまくいっていたはずだった。この場所に監禁されるまでは。 あの日は雪が降っていた。寒さに身を震わせ、数か月後に来る春を思い、道すがら在原業平や西行が詠んだ句について語った。 「和歌に詠まれる桜は、どうしてこうも魅力的なんだろう」 「昔は、今よりも目に入る色が少なかったですから、桜の初心な色ですら、貴重な彩、だったのでしょう」 「成程。そもそも現代とは環境が異なるか。僕もいつか全身で感激するような桜を見てみたいものだ」 「ええ、そうですね」 そんな些細な夢も語って、彼女も微笑んでいたというのに。 当夜、勧められるまま深酒をしてその後の記憶がない。目が覚めたらこの部屋にいた。初めは激昂して、それから諭すように、ある時は懇願に近い声色で、どんな言葉で尋ねても、彼女の答えは無いか、曖昧なものばかりだった。 彼女は、僕の思いを試しているのか? 監禁という行為が生み出す歪んだ関係性。被害者からの依存性を期待しているのだろうか。彼女の目的は、ただこうして廃れていく僕を、籠の外から眺めて居たいだけなのかもしれない。 薄暗い部屋で、食事と睡眠の数を数え、もう二月も経った。ひたすら薄暗闇の日々が続いたのだ。段々と、自分の中の何かがすり減っていくのを感じる。 「なあ、今日でもう二月だ。あんたはいつまでこんなことをするつもりなんだ?」 辛うじて、まだ忘れていなかった声と言葉で問いかける。どうせ返事は無い。宛てのない言葉は、壁の中に消えていってしまうのだろう。ただの独白だ。 そう自嘲しながらも、久々にあの困った顔つきを拝んでやろうと、俯いていた顔を上げた。彼女の唇が動いた。 「あと、二週間、くらい?」 食い下がるべきだったろうが、驚き、言葉が出ない。明確に期限を口にしたのはこれが初めてだった。彼女に何の変化があったのか。 その日を皮切りに、彼女は、毎日私の言葉に返事をするようになった。 「もうちょっと、今日は、まだ」 「まだ早いの、だめ」 「きょ、今日は、雨が降ったから」 ある日、聞きなれない金属音と共に、いつもとは異なる微妙な風の流れを感じた。ひた、ひた、と足音が近づく。顔を上げると、鉄格子の向こうの彼女が傍にいた。 「あの、これ」 差し出されたものは、黒いアイマスクだった。付けろというのだろうか。視線で問いかけても、困った表情をするだけだから、望まれるままに装着した。手を引かれ、立ち上がる様促される。僕は彼女のするまま、素直に従った。 「どこに向かっているんだ」 答えのないまま、歩いた。あの仄暗闇から解放されるのならば、どこでもいい。僕はあの薄暗い部屋を出たのだ。 途中から、足の裏に感じていたものが、コンクリートよりも柔らかい感触に変わった。風にのって、土と草の匂いがする。 「取ります、ね」 もう随分歩いたと疲労を感じ始めた頃、ふと立ち止まって彼女は言った。 髪が巻き込まれ頭皮が引っ張られたが、些細な問題だった。 流れ込む光の束に、すぐには目を開けなかった。ゆっくりと瞼の裏に馴染ませ、恐る恐る開いていく。 色の洪水だった。失くしていた色、求めていた色、知っていたはずのものが、未知のものに見えた。背丈を優に超える幹は、大地の色を吸い込んでいる。風に舞い散る花びらには、一枚一枚色があった。全て、異なる色なのだ。 言葉にならない僕に、彼女は嬉しそうに笑った。久しぶりに見た笑顔だ。僕は、彼女が僕を閉じ込めた理由を悟った。後はただ、手を握り締めて、桜を眺めた。
お母さんはヤカン 先生は、作文の一行目で赤えんぴつを止めた。 健太は、ふざけて作文を書く子ではない。 ぼくのおかあさんは、ヤカンです。 おとうさんがそういいました。 おかあさんは、おこりすぎて、ヤカンになってしまったといいました。 だから、おこると、ぴいとなります。 あさは、だいどころにいます。 おとうさんが水をいれると、だんだん元気になります。 ぼくはまいあさ、おかあさんに、おはようといいます。 おとうさんも、おかあさんに、おはようといいます。 作文用紙のすみには、にこにこしたヤカンの絵が描いてあった。 その横に、ぼくの字で「おかあさん」と書いてあった。 先生は、赤えんぴつを持ったまま動けなかった。 放課後、健太が古いヤカンを抱えて職員室に来た。 「先生、お母さんを直してください」 先生はヤカンを見た。 「……保健室では、無理そうだね」 「金物屋です」 「症状は?」 「水もれです」 ヤカンの底に、小さな穴が空いていた。 「父さんは仕事だったから、119に電話しました」 「119?」 「救急です。火事ではありません」 「なんて言ったの?」 「お母さんに穴が空きました」 「それで?」 「おうちの人に代わってくださいって」 「代わったの?」 健太は眉を寄せた。 「お母さんは、しゃべれません」 先生は返す言葉を探した。 でも、どの言葉も少し違った。 「学校に持ってきたら、友だちに蹴られました。笛も取れました」 「誰に?」 「いいです。先生が怒ると、お母さんがもっと困るので」 健太は、ヤカンのふたを押さえた。 「父さんの前では、お母さんなんです」 先生は立ち上がった。 「行こう。お母さんを病院へ」 金物屋のおじいさんは、底をのぞいて言った。 「直すより買うたほうが安いで」 健太は首を振った。 「買ったら、お母さんじゃなくなります」 おじいさんは黙って道具箱を出した。 「ほんなら、手術じゃ」 「痛いですか」 「麻酔なしじゃ」 健太はヤカンに顔を寄せた。 「お母さん、がんばって」 穴はふさがり、笛も戻った。 健太は、直った笛を指でそっとなでた。 「もう、ちゃんと怒れますか?」 おじいさんは、少し考えてから言った。 「前より、ええ声で怒るで」 「退院じゃ」 夕方、先生は健太と家を訪ねた。 玄関を開けた父は、先生の腕の中のヤカンを見て固まった。 「先生、それは……」 「本日は、お母様の退院報告も兼ねまして」 父の口元が動いたが、笑いにも謝罪にもならなかった。 健太はヤカンを受け取った。 「お母さん、帰ったよ」 台所で水の音がした。 「すみません」 父は下唇を噛んだ。 「五年前です。妻が出て行ったのは。健太は二歳でした」 父は台所を見た。 「お母さん、どこ行ったのって聞かれて。母親を悪く言えなかった。自分が悪かったとも言えなかった」 父の喉が動いた。 「それで、あのヤカンを指してしまったんです。お母さんは、ヤカンになったんだって」 台所から健太が戻ってきた。 先生は健太を見た。 「お父さんに、言える?」 父が顔を上げた。 「え?」 健太は足元を見た。 「父さん」 「お前……分かってたのか」 「うん」 健太はうなずいた。 「いつから」 「たぶん、幼稚園のころ」 「じゃあ、なんで」 健太は台所を見た。 「父さんが、お母さんを悪い人にせんかったけえ」 父は口を開いたが、声は出なかった。 「だから、ぼくも、ヤカンにしといた」 ヤカンが、かすかに鳴り始めた。 「ぼく、知っとるよ。お母さんは、ヤカンじゃない」 健太は初めて父を見た。 「でも父さん、ヤカンに水を入れる時だけ、ちょっと普通になるんよ」 父はその場に座り込んだ。 「ごめん」 「ぼくに?」 「ああ」 健太は少し考えて、台所を指した。 「じゃあ、お母さんにも謝っとき」 ヤカンが鳴った。 ぴひゅう。 健太が眉を上げた。 「お母さん、怒り方へたくそになっとる」 父は泣きながら笑った。 湯が沸いた。 父は湯呑みを二つ出し、先生を見て三つ目を出した。 手は、もう一つへ伸びかけて止まった。 「三つでええよ」 「ええんか」 健太はヤカンを見た。 「お母さんは、もう湯呑みいらんけえ」 父は、三つ目の湯呑みを静かに置いた。 その日、お母さんはヤカンではなくなった。 けれど次の朝も、健太は台所で言った。 「お母さん、おはよう」 父も少し遅れて言った。 「お母さん、おはよう」 ヤカンは何も答えなかった。 ただ、磨かれた腹に、父と息子の顔を、少し丸く映していた。
「月が、綺麗でs」 瞬間、俺はバズーカをぶっ放した。 バズーカの弾は月まで一直線に飛んでって、見事に月を爆破した。 雨の代わりに降って来る月の破片。 呆然と夜空を見上げる彼女を見ながら、俺は最高の笑顔を作った。 「君の言葉が聞きたいな」 数秒後、なんか世界のバランスが崩れたらしく、世界が滅んだ。 彼女の返事は、結局聞けずじまい。
四月の朝、薄いレースのカーテンを透かして光が差し込んでくる。 木村美津子がゆっくりと目を開けると、天井の染みがいつものように「雲の形みたい」と思えた。数年前、脳梗塞で倒れたあの夜のことを思えば、こうして朝を迎えられるだけで十分だと、最近ようやく思えるようになっていた。 「母さん、起きてる? 桜が七分咲きだって。今日、公園に行こうよ」 廊下の向こうから、娘の彩花の声がする。四十歳になった今も、声だけ聞けば二十代のころと変わらない弾んだ声だ。 「起きてるよ。桜か……それはいいね」 彩花が寝室に現れ、歩行器を美津子のそばにそっと置いた。美津子はベッドの手すりをつかみ、ゆっくりと体を起こす。以前は「こんなもの」と歩行器を遠ざけていた時期もあったが、今は素直に頼ることができる。人間、少しずつ変わっていけるものだと美津子は思っている。 「急がば回れ、でしょ」と彩花がにっこりと言った。 「またことわざか」と美津子は苦笑する。 「だって当たってるじゃない」 「ことわざ好きだね、あんたは」 「誰に似たんだろうね」 「お父さんじゃないの」 「お父さん、ことわざなんて一個も言ったことないよ。絶対お母さんの影響だから」 こうして二人の朝は、いつもことわざと笑いから始まるのがならわしだった。 夏のある午後、美津子は麦茶のコップを持とうとして、震える手からこぼしてしまった。テーブルに広がる琥珀色の液体を見て、美津子は唇を噛んだ。脳梗塞の後遺症で左手の細かい動きがうまくいかない。頭ではわかっていても、こういう瞬間は胸に刺さる。 「ごめん……」 「なに謝ってるの」 彩花はすぐにタオルを持ってきて、何事もなかったように拭き始めた。 「転んでもただでは起きぬ、っていうでしょ。こぼしたけど、テーブルがちゃんと受け止めてくれたじゃない」 美津子は思わず吹き出した。「それはこじつけだよ」 「こじつけでも笑えりゃ正解」 「……まあ、そうだね」 秋になると、公園のケヤキが赤と黄色に染まった。その日の散歩で、車椅子のタイヤが木の根に乗り上げて「ガタン」と揺れた。 「大丈夫?」と彩花が心配そうに声をかける。 「大丈夫。……災い転じて福となす、だよ!」 「どのへんが福なの?」 「気が引き締まった」 「引き締まりすぎないでね」 二人は笑いながら、ベンチでおにぎりを食べた。彩花が朝、時間を作って握った鮭のおにぎりだった。美津子はゆっくりと、でも自分の手で口に運んだ。 「彩花、最近ちゃんと寝れてる?」 「寝れてるよ」 「本当に? 目の下にクマがあるよ」 「……まあ、ちょっとね」 美津子はしばらく黙ってから言った。「ごめんね」 「謝らないで。私が選んだことだから」と彩花は母の手をそっと握った。「案ずるより産むが易し、でしょ」 「……また出た」 二人は並んで笑った。ケヤキの葉が、ひとひら風に乗って舞い落ちた。 十二月の夜は早く暮れる。入浴介助を終えて、リビングでホットミルクを飲んでいたとき、美津子がぽつりとこぼした。 「彩花……介護が大変で、いつまで私に付き合ってくれるんだろうって、思うことがある」 彩花はカップをテーブルに置き、母の顔をまっすぐに見た。美津子の瞳には、回復への希望と、娘の将来を案じる複雑な揺らぎが混在していた。 「母さんの人生も、私がここにいることも、全部ひっくるめて特別なの。介護が大変なのは本当だよ。でも、毎日母さんの笑顔を見られることが、ちゃんと嬉しいんだよ」 「……彩花」 「情けは人のためならず、でしょ。母さんのためにしてることは、結局、私自身に返ってきてる。母さんに笑ってもらえると、私も元気になるんだから」 美津子は深く頷いた。「子は親の鏡、か。あんたみたいな娘がいて、私は本当に幸せ者だよ」 「私こそ」と彩花は静かに言った。 介護は続く。終わりは見えない。悩みも尽きない。それでも、夜、電気を消す前に美津子が言う。 「今日もよく笑ったね」 彩花が優しく返す。 「明日も笑おうね」 どんな試練が訪れようと、明日もまたことわざを交わし、笑い合える朝が来る。それは二人が積み重ねてきた「一日一笑」という名の、何物にも代えがたい宝物だからだ。 窓の外では、静かに季節が移ろっている。しかしこの家の中に流れる穏やかな絆は、どんな季節よりも温かく、二人の明日をやわらかく照らし続ける。
旧校舎の一室。 お化けでも出そうな雰囲気から、普段は誰も近寄らないこの部屋に、三人の男子生徒が集まっていた。 佐藤、鈴木、そして高橋である。 「テーマはさっき話した通り。どうすれば、俺たちにラッキースケベが起こるか、ということだ」 真剣な目つきで、佐藤が言う。 同意をするように、鈴木と高橋が頷く。 三人はしばし頭をひねり、その理由を考える。 しばらくすると、鈴木が挙手し、口を開く。 「漫画やアニメだと、登校中に可愛い女の子とぶつかって、その勢いでラッキースケベが起こる、というのがセオリーだ。登校の回数を増やしてみる、というのはどうだ?例えば、学校が休みの日も、学校に登校するとか」 「鈴木!お前は天才か!?」 「いやまて佐藤。鈴木の提案には、致命的な欠点がある!」 拍手をする佐藤に、高橋が待ったをかける。 「休みの日はな、可愛い女の子が登校していないということだ。だから、ぶつかることができない!」 「「た、確かに!!」」 議論は白熱する。 次々と現れる、漫画やアニメのセオリー。 そして、現実に当てはめた瞬間、実現不可能だという残酷な現実にぶつかる。 有益な案が出ないまま、一時間が経過した。 「馬鹿な……ここまで考えても……駄目なのか……」 突風でスカートが捲りあがる。 女の子が転んでスカートの中が見える。 階段を見上げたらスカートの中が見える。 制服が水にぬれてスケスケになる。 あらゆる状況が、所詮は漫画やアニメのことだと切り捨てられていく。 「なあ、おかしくないか?」 高橋が、神妙な表情でつぶやく。 佐藤と鈴木は、そのただならない様子に、ごくりと唾を飲み込む。 「あまりにも、完璧に防がれすぎている。何か……俺たちにラッキースケベをさせない、大いなる力が働いているのではないか?」 あまりにも突拍子もない想像。 だが、佐藤も鈴木も、それを笑い飛ばすことはできなかった。 大いなる力など信じないが、大いなる力が働いているとしか考えられないほどの、ラッキースケベの防止力が現実として働いているのだから。 「いったい……」 「どんな力が……」 「女子の純粋な努力だよ!!あんたらみたいなやつがいるからな!!」 叫び声と共に、部屋の扉が乱暴に開かれた。 逆光によって三人から顔は見えないが、そのセーラー服から、女子生徒であることはわかった。 その女子生徒は、間髪入れずに三人のところへ走り、その顔面に蹴りを喰らわせる。 「げふっ」 「がふっ」 「見え……ない……」 漫画やアニメならば、蹴られた瞬間にスカートの中が見えただろう。 だが、ここは現実。 大いなる力によって……否、スカートを抑えながら蹴りを繰り出すという女子生徒の純粋な努力によって、ラッキースケベは回避された。 「んっとに、この変態どもは!!」 罵声一つ残し、女子生徒は去っていった。
理由もなく元気がなくなってしまう日は、時間に関係なくお酒を飲んでしまう。 心が悪魔に犯されている 悪魔が口の中から入って尻から出てきては、それを繰り返しているような気持ち悪さと、絶望感がある。 普通でいられない事が、人間以下になってしまったようで、生きていることが辛く、申し訳ない。 早く私の事を犯し飽きて、何処かへ行ってしまえばいい。 そう思っているところに、家族が赤色のコントローラーを買って帰ってきたので、この辺で失礼します。
男の恋愛は新規保存、女の恋愛は上書き保存、だと世間では言われている。 その言葉を聞く度、私もそうであればどれだけ楽だったかと肩を落とす。 私の部屋には、額縁がある。 可愛い家具で揃えているので、友達から「浮いている」とお墨付きをもらったイカツイ額縁だ。 そして、額縁の中に入っているのは、初彼からもらったラブレターだ。 もっとも、もう別れているので、元彼という表現が正しいが。 高校生の頃に付き合って、同じ大学に進学して、順調な大学生活を送っていた。 別々の会社に就職した後、そろそろ同棲の話が来るかと思い始めて早一年。 やってきたのは、別れ話だった。 会社の同期と相性が合って、その人と付き合うから別れたいとのことだった。 最初は泣いて抵抗した。 何度も話し合いをした。 しかし、同棲していないことが災いした。 元彼はいつも、話し合いが始まってしばらくすると、逃げるように自分のアパートへと帰っていった。 私はただ話し合いたいだけなのにと泣いていたら、話し合いした日の夜に、元彼から音声メッセージが届いた。 そこには、ただただ泣き叫んで話し合いの『は』の字もできていない私がいた。 『こういうところが無理』 その時は、盗聴なんて悪趣味だと、罵詈雑言のメッセージを送った。 しかし、翌朝冷静になって聞き返すと、これは逃げたくなると正直思った。 私の記憶では、理路整然と、今まで付き合ってきた思い出や、私ほど相性のいい女はいないことを説明していたつもりだった。 しかし、録音の中の私は、巨大怪獣。 アンギャーアンギャーと叫ぶばかリ。 元彼が話し始めると、ひらがな三文字を話した時点で、私の咆哮が鳴り響いていた。 私は泣きながら別れを承諾し、最後にもう一度だけ会えないかとメッセージを送った。 『恐いからやだ』 それっきり、反応はなくなった。 私は、元彼の連絡先を消すこともできず、高校生の頃にもらったラブレターを額縁へと入れて飾り始めた。 最初は、見るたびに泣いた。 元彼との楽しかった頃を思い出して、ひたすら泣いた。 しばらくすると慣れてきて、まるでまだ、元彼と付き合っているような気分になった。 心配した友達が、私に男の人を紹介してくれた。 あれから二・三人と付き合ったが、元彼を超える男はいなかった。 分かれる原因は、いつも同じ。 『その手紙、捨ててよ』 『せめて、見えないところに仕舞ってくれよ』 私が首を横に振ると、その翌日か数日後に、だいたい別れ話になった。 私は独り身に戻る度、少しだけ安心感を得ていた。 これで、元彼が戻ってくる場所が蘇ったと。 「いい加減忘れなよ」 「あんたの元彼、結婚するらしいよ?」 時間は、容赦なく過ぎていく。 私との思い出を上書きした元彼は、どんどん幸せになっていく。 たった一度だけ、元彼から連絡が来たことがある。 SNSのダイレクトメールに、捨て垢から。 「まだ、俺が送った手紙を飾ってるって聞いたんだけど」 「飾ってるよ」 「頼む、捨ててくれ」 「なんで?」 「俺はもう、新しい相手を見つけたんだよ!」 「邪魔してないじゃん」 「……頼むよ。もう、俺を解放してくれよ」 「してるじゃん。お幸せに」 私の心は、歪にひん曲がっている。 元彼の幸せを願うのは本当だし、元彼が会社の同期と結婚するのを祝っているのも本当だ。 嘘じゃない。 幸せになって欲しい。 でも、同じくらい、元彼が私の元に戻ってくる期待を消すことができない。 私の恋は新規保存。 決して、元彼のことを忘れることはない。 待つのをやめることはない。 でも、邪魔はしない。 元彼の幸せの邪魔をしたら、もう二度と戻ってこないから。 私が、待つ資格を失くすから。 「ラブレター捨ててあげたら?」 「婚約者さんにあんたの噂が届いて、向こう修羅場みたいよ?」 邪魔はしない。 邪魔はしていない。 私は何もしていない。 これは本当。 『頼む! 何にもないって言ってくれ! 婚約者から、色んな誤解を受けてるんだよ!』 邪魔はしない。 邪魔はしていない。 私は何もしていない。 本当に本当。 未練がましく待ち続けた女の末路。 不幸しかないと思っていたけど、もしかしたら私は幸せになれるのかもしれない。 元彼が、戻ってきて。
郊外の家電量販店。 若い夫婦がテレビを買いにきた。 「たくさんあって、迷うわね」 並べられたテレビの前で、店員が二人に声を掛けた。 「よかったら、手に取ってください」 リモコンを妻に渡した。 「どれもいっしょね……なに? このボタン」 チャンネルの横に、ニヤケ顔の絵文字のボタンがついている。 「これ、何ですか?」 「あぁ、それは副音声ですね」 店員が説明を始めた。 「それを聞くと、ちょっとだけ安心しますかね」 「どういうこと?」 「どうぞ、お試しになってください」 妻はリモコンをテレビに向けた。 緑豊かな、この国の原風景が映った。 ボタンを押す。 『車がないと、ここでは生活ができない』 「……年取ったら大変ね」 チャンネルを変える。 シャッター商店街、町おこしドキュメント。 『ポツンと、おしゃれなカフェが』 「……常連が居座って入りづらいのよね」 料理番組、アップルパイを作っている。 『去年の台風で、リンゴはほとんど木から落ちました』 「……そんな年もあるよ」 「どうですか?」 口角が上がり、ニヤケ顔の夫婦。 「これ、買います」 「ありがとうございます。最近は、こちらが一番売れております」
道行く女子のズボンに穴が開いていた。 虫食いとか、木に引っ掛けたとか、そんな次元じゃない。 もう、穴。 膝がばっかん見えるレベル。 膝どころか、太ももがっつり見えるレベルもいる。 稀に、足首から太ももまでドギャン見えるレベルもいる。 もはやズボンと呼んでいいのかさえ疑問である。 だから、最近の若者は、ズボンのことをパンツと呼んでいるのかもしれない。 陰部を隠せれば、ズボンなのかもしれない。 まあ、そんなことはいい。 これは、待ち望んでいた状況なのだ。 地球に隠れ移住をしてきて、うん十年。 穴開き文化が流行ったことで、俺はようやく自分の素顔で歩くことができるというものだ。 俺は歩きながら、マスクをとった。 口から後頭部まで貫通した巨大な穴、お披露目だ。 「ぎゃあああ!」 「いやあああ!」 道行く人々は、俺の顔を見て逃げ出してしまった。 遠くから、パトカーのサイレン音まで聞こえる始末だ。 「……まだ、地球人には早かったのか」 俺はマスクをつけて、急いでその場から逃げ去った。 穴開きブームは服まで。 未だ、体に大穴を開ける母星のブームは理解されない。
初めて入るカフェ 端的に言ってハズレだ カフェオレはおいしい 静かで センスがあって 雰囲気もいい けどハズレだ 客のひとりがあの人に似てる 顔がそっくりなのではない ただ なんとなく あの人のことが思い出されてならない 言葉にするのが難しい そんな気配を身にまとってる 焼いてない食パンが好きで レタスが好きで トマトとは相性が悪いあの人 本を読むのが好きで 花が好きで からだを動かすのは苦手だったあの人 目玉焼きをうまく食べられなくて ゆでたまごの殻をむくのが上手で 甘いたまご焼きが好きなあの人 いい思い出ばかり でも すべて 思い出でしかない 遠い過去のこと すぎてしまったあの日のこと もうつかめないものたち いつのまにかその客の姿はなくなって けれど、きっとわたしがこの店に来ることは もうないのだろう だって この店はハズレだから 端的に言って
私はじっと、白紙の進路希望調査票を睨みつける。 漫画の世界が羨ましい。 ゴールが最初っから用意されているから。 この世界が魔物蔓延るファンタジーならば、第一希望に書くべきは『勇者』一択だ。 魔王を倒して世界を平和にしますと言っとけば、きっと先生も両親も納得する。 しかし、現実に魔王はいない。 ブンケイとリケイという四天王はいるけど、この四天王は分裂する。 ブンケイだと、ホウガクブやブンガクブ。 リケイだと、コウガクブやイガクブ。 キョウイクガクブは、どっちだっけ。 頭の中に魔物と遭遇した時のBGMが鳴り響き、ありもしないコマンド『にげる』を連打する。 「ないなーい。やりたいことなんてなーい」 両親は、私の好きにすればいいと言ってくれる。 でも、試しにブイチューバー育成の専門学校と言ったら、面白い冗談を聞いたように笑っていた。 好きにすればいいという両親の中に、ブイチューバーは入っていないということだ。 先生は、偏差値の高い学校を勧めてくれる。 実家から通うなら、一人暮らしをするなら、模擬テストの結果から考えると、 私の為でもあるのだろうが、学校の成績を少しでも上げるためだという心の声が透けて見える。 「つーか、社会も知らない高校生に進路なんて決めさせんなよー。未知のダンジョンすぎるー」 結局、自分の人生のゴールがまったく思いつかなかった私は、進路希望調査票を横にどけて、代わりに手紙を三通持ってくる。 差出人は、全部バラバラ。 秀才君からと、スポーツマン君からと、イケメン君からのラブレター。 うちの高校には、一年に何日かだけ、ラブレターで告白すれば告白成功率が上がるなんてジンクスがある。 その日に、まさか三人からラブレターが届くとは思わなかった。 「うーん」 私はじっと、未開封のラブレターを睨みつける。 漫画の世界が羨ましい。 ゴールが最初っから用意されているから。 この世界が愛と友情に汚染された恋愛漫画ならば、選ぶべきは一目惚れした『主人公』君一択だ。 私実は彼のことが好きなんだよねと親友に白状すれば、きっと幸せな恋人ライフが誕生する。 しかし、現実に主人公はいない。 良いところも悪いところもあるどころか、本音の部分を何にも知らない相手を、イイヒトソウという裏技みたいな概念で選ばざるを得ない。 「無理無理ー。彼氏なんていらねー」 私は、ラブレターも横にどけた。 空っぽになった机の上には、魔王を倒すための聖剣もなければ、主人公が泥だらけになって見つけてくれたキーホルダーもない。 あるのは、勿体ないという現実的な理由で買いかえていない、ぼろぼろの栞だけ。 私は栞を摘まんで、左右に振った。 「どこかに刺さって、実はここは漫画の中でしたーってなってくれないかな。そしたら、進路希望もすぐ埋まるのに」 作者不在の世界に中指を立てながら、私はベッドに飛び込んで現実逃避をすることにした。
「まるでホラー映画みたいですね」 過去から連れてきた人間は、私たちを見てそう言った。 「どうして、そう思うんですか?」 「皆、同じ顔だからです」 最も美しい顔が、科学的に導き出された。 よって、人類は皆、最も美しい顔へと整形した。 ルッキズムのない、理想郷だ。 しかし、昔の人間は、そんな理想郷をホラーと呼んだ。 「とても参考になりました。ありがとうございます」 私は、その人間を過去に帰した後、研究者仲間たちに結果を報告した。 仲間たちは皆、鼻で嗤いながら意見を述べる。 「AIが人間のように振舞った時も、AIを恐れていたらしいですしね」 「人間が滅ぼされるとかも」 「やはり、理解できぬ技術には、恐怖を感じる物なのですよ」 結論、『それは人間の性質であるため、人間の恐怖を考慮する必要などない』と出た。 アイスブレイクが終わったところで、仲間たちは真剣な表情に変わり、本題へと移る。 「では、計画を勧めましょう。人類一体化計画を」 自信満々に話す仲間たち。 私は恐怖心を抱えながら、それを聞いていた。 個性のすれ違いから発生する争いをなくすため、人類の魂を抽出して一つに束ね、個性を一つに集約する計画。 恐い。 私が私でなくなるような気がして恐い。 生きていながら死んでしまうようで恐い。 しかし、これはきっと、理解できない技術だからこそなのだろう。 個性が一つになってしまえば、今より便利になったと喜ぶに違いない。 私は腕に注射を打ち、感情を消し、手を挙げる。 「抽出した魂が消滅しないように、一時的に保管する必要があると思います。その際には、死者の魂をつなぎとめる例の技術が転用できるかと」
明日は月曜日。 平日だ。 また仕事に行かなくちゃならない。 ああ、嫌だ。 嫌だ。嫌だ。嫌だ。 どうして月曜日なんて来るんだ。 ずっと、日曜日のままがいい。 それを呟いたのが、一万年前。 今日も目が覚めたら日曜日。 なんど時計を見ても、時間は変わらない。 何度も泣き叫んだ。 何度も神に祈った。 何度も自殺した。 しかし、日曜日は繰り返される。 「行ってきまーす」 隣の家から出ていく高校生は、今日も元気に部活へ向かう。 それを見送る親も、どことなく楽しそうだ。 二人を殺したのは、何千年前だったか。 もう、やりたいことがない。 月曜日、来い。 月曜日、来い。 月曜日、来い。 早く、休日を終わらせてくれ。
午前十時まであと五分、私は画面とにらめっこしていた。 なんとしてもこの競争には勝たねばならない。 私の大好きなテーマパーク。 最新のパレードは、なんとしても最前列で見ないといけない。 ピコンッ、 私は、はじめそれがウェブページの更新された音だと気が付かなかった。 だって、まだ十時になっていない。 焦って更新されたページをクリックする。 『各駅停車パス、ご予約完了しました。』 表示された画面を見て、脳がフリーズする。 「え、なにこれ?」 各駅停車パス? 私はパレードの指定席を予約するはずなんだが? 落ち着け、まだ十時までには数分ある。 『この選択は無効です。』 『この選択は無効です。』 『この選択は…』 定刻は来た。しかし、何度押してもなぜかパレードのチケット予約はできない。 私は気を失うようにして机に突っ伏した。 翌日、私は入場ゲートの前にいた。 まあ、何時間も前から待機すればある程度いい席は確保できるだろう。 それよりも不安なのはこの各駅停車パスだ。 やけに安かったが大丈夫だろうか。 私はドキドキしながらキャストのお姉さんにチケットを手渡した。 「いってらしゃ〜い」 無事に入場はできたようだ。 いつもと変わらぬ彼女の笑顔にほっと胸をなでおろす。 しかし、順調なのはここまでだった。 その日は過去に類を見ないほど悪い出来事が重なった。 アトラクションの列に並んだら先を越されるわ、お昼を食べようとしたら注文を忘れられるわで散々だった。 挙句の果てには、パレードもかなりの後列になってしまった。 どうしてこうなった、私はスマホを握りしめながら溢れでる涙を拭った。 なんで、好きな場所にいるのにこんな気持ちにならないといけないのだろうか。 列の後ろでぽつんと佇む自分がひどく惨めに思えてくる。 「そこのお嬢さん。ちょっといいかい。」 振り返るとそこにはシルクハットを被ったおじいさんが杖を手に立っていた。 「今の時代に各駅停車パスとは、珍しいのお」 そう言うと、おじいさんは私の横にのんびりと腰を下ろした。 「今日は散々だったじゃろう。」 「どうして…?」 おじいさんは何も言わない。 もう、パレードが始まろうとしていた。 わあっ!! 色とりどりのライトを前に観客席から歓声が上がる。 「どうだい?ここからの景色もそう悪くは無いだろう。」 おじいさんは愉快そうに微笑んだ。 おじいさんの見つめる先には、圧巻のパレードに目を輝かせる子どもたちやまだ序盤にもかかわらず目に涙を浮かべる大人たちの姿があった。 「そうですね、悪くないかも。」 そう言って、私が横を向いたときにはおじいさんはもういなかった。 今まで通りの最前列だったら、決して知ることはなかった。 段々と日が沈み暗くなっていく中で、今はただ、この景色を閉じ込めておきたいと切に願った。
「パパ、これなあに?」 「……どれ?」 空にヒモのような物が見えた。 でも、私しか見えていなかった。 少し引っ張ってみたら、世界が揺れた。 地震とは違う。 大きな手が地球を掴んで、ゆさゆさ揺らしたよな揺れだ。 その日、電柱がたくさん倒れたらしい。 「やばいやつだ」 私は、ヒモのようなものを決して触らないと決めた。 でも、ヒモは私の部屋の中にあるし、さらに言えばベッドの近くだ。 ごろんと寝返りを打てば、ひっかかってしまいかねない。 「部屋の模様替えしたのか」 「うん」 私は、ヒモのある場所に近づかなくていいように、家具を移動させた。 部屋の角の一つだけに、何も置かないちょっと変な見た目になったけど、仕方がない。 世界のためだ。 「早く一人暮らししたいなあ」 私は今日もベッドから、ヒモのようなものを見ている。 毎日が楽しい訳じゃない。 死にたい日もある。 そんな時、あのヒモを引っ張ってなにもかも失くしてしまいたくなってしまう。 だから、私はあのヒモから早く逃げたい。 「県外の大学に?」 「うん」 「うちにはお金が」 「バイトするから」 大学に、無事合格。 私は、大学の寮に入ることができた。 「こんにちはー! 私の新生活!」 四人一部屋、ドミトリー式の寮。 私のベッドは、入って右側の、上側のベッド。 天井には、ヒモのようなものがぶら下がっていた。 「おっと、マジか」 試しに、少しだけ引っ張ってみた。 大学の使われていない教室が爆発した。 「先輩、ベッドの位置変わってください」 「嫌よ。私、高所恐怖症なの」 このヒモは、いったい私に何をさせたいのだろうか。 私は自分の手足を紐でぐるぐる巻きにして、寝ている間にヒモのようなもの触らないようにした。 「何やってんの?」 「寝相悪いんで」 その日の夜に、夢を見た。 夢の中に出てきた王様は、世界を破壊するスイッチを持っていて、常に押さないようにと苦しんでいた。 夢の中で私と目が合って、王様はニヤッと笑った。 『お前も同じ苦しみに合え』 私は前世で、こいつに何かしたのだろうか。 それとも、単なる八つ当たりの相手に選ばれたのか。 私は思いっきり舌を出して、王様を睨みつけた。 ヒモは、今日も天井からぶらさがっている。
今日は世界滅亡の日らしい。ニュースでやっていた。 どうでもいい、そんなことことは気にもとめずトコトコ歩く。街には仕事に追われたサラリーマンやOLが去っていく。 彼らは今日世界滅亡だと知っているのだろうか。 今日は推しバンドの新作CDが出る日だ。アルバイトで貯めたお金で買う。 捨てられた新聞に「世界滅亡まで」と書かれていた。 今日世界が滅亡したらどうだろう バンドの新曲が聞けないもし聞けたとしても不作だったら、次の新作まで期待することもできない 今になって焦ってきた とりあえず良作であってくれよと思う 目的の場についた CD屋さんだ。 1階から8階までCDからレコードが売っていた。所狭しと音楽グッズが販売されている。 3Fまでエスカレーターに乗る NEWアルバムは売れきれず残っていた 「いらっしゃいませ」 滅亡するのに店員もいつも通り接客をしている。 「案外いつも通りなんだな」それに安心した僕はCDを買い帰路に就く。 満員電車に揺られる苦行に耐え、家まであと50mといったところ どうやら、アパートの前に人がいる 「あ、僕くん、帰ってきたんだ」 僕を待つ人がいた
「ついに人類は、男性を造ることに成功しました!」 関節まで完全に再現した機械の体。 そして、学習を繰り返したAIの脳。 男性型アンドロイドは、完璧な歩行を見せた後、ステージ上の椅子に着席した。 そして、稼働音と共に、足を百二十度開いた。 まるで股間を見せつけるように。 「違う! こんなの男性じゃない!」 「欠陥品だ!」 「冒涜だ!」 完成した男性型アンドロイドは、記者会見中に販売の中止が発表された。 記者会見後、開発者たちは意気消沈。 開発者の一人が、弱弱しく口を開く。 「あのー、第二弾の女性型アンドロイドはどうしましょう?」 「馬鹿! 男性型でこれだけ燃えたんだ! 女性型だとさらに燃えるに決まってんだろ!」 二体のアンドロイドは、今も倉庫の中で眠っている。
とっくりのセーターはタートルネックで、ジーパンはデニムで、スパゲッティはパスタになって、食後や三時に食べる甘いものはスイーツになっていった。いやそんなのリブランディングでしょ基本基本。フェーズフェーズで丁寧に付き合ってアジャストののちコミットしてさ。そのうちジャッカルにあってスティールされちゃうぞ。スケジュール?リスケリスケだよ、気にすんな。ああ、でも無理はダメだ、ブレイクブレイク、だがブレイクスルーは禁物。そこらへんルーティン化しちゃうと早いけどね、そこにいくまでだよなあ。ああそれと、きちんとシャドーつけるのも忘れないでな。もはや宇宙人とでも話してるようだ。 「異様なまでにカタカナ言葉を使う奴らは嗅覚が異常に発達しててねえ。匂いを嗅ぎ分け、どっかからつまんで持ってきては我々をケムに巻こうとするんだ」 「どういう必要で?」 「自分にも仕事にも自信がないんだ」 「ふうん。男ってたいへんね」 「女もだろ」 「そうなんだけどね… ああ、それで、ワークライクバランスって?」 「さっくり言うと、生きたいように生きるってことかな」 「ざっくりしすぎじゃない?」 「それくらいでいいんだよ、言葉なんて」 タイミングよく、かつては言葉にするのが恥ずかしかった、いまでは食べるのもその名前を言うのだって容易にできてしまうパスタを運んでいって、ギャルソンという名のアルバイト店員が静かにテーブルに並べていく。男の前には赤い、女の前には白いパスタを。 「あなた、アラビアータ好きよね」 「ちょっとしたクセみたいなもんだね」 「そんなにアラビア地域に興味あったなんて」 女の言葉に、男はひどくむせた。 「ちょっと…」 「いや、なんだって? アラビアだって?」 「言ったわ。それがどうかしたの?」 「アラビアータとアラビアにはなんの接点もないんだぜ」 ちょっと格好つけて「ぜ」と最後につけてしまったと、そんな後悔を男は少し見せた。もう言葉にしてしまったあとだ。取り返せない。 「え、そうなの?」 女の驚きより「ぜ」が流されたことに男はほっとしたようだった。 「アラビアータってのは「怒りんぼ」って意味で、このとてつもない辛い味付けが… いや、すまない。よそう」 「ううん、こっちこそ。ごめんね」 「家に帰って調べてみてくれよ」 「ええ。そうさせてもらう」 いくらかの恥ずかしさに耐え女は、あさりがふんだんに入ったボンゴレに取りかかる。動揺してソースを飛ばさないようにしないと、と思いながら、でも跳ねたって、とも思い直しながら。 脳内をさとられないようにすんとした顔で店内を見渡しながらゆるふわヘアーのギャルソンバイトは考える。今日、ミーちゃんとシフトかぶってなくてよかった、顔合わせたくなかったんだ。メールで告白してくるなんてなあ。最近の若い子ってあれだな。まだ高校生なんだっけか、そんなこと言ってたか。少しは興味持ってみるか。ってミーちゃんに、じゃなく、人にってことだけど。でも、ほんとまいった。あっちからしたら俺みたいな大学四年っておじさんくらいじゃないのか。なんか俺ニヤケてる?大丈夫?べつに浮かれてなんてない。不快であるはずはもちろんない。もう俺も若くないんだな。正面からそういった感情と向き合えるほど体力ないんだ、肉体的にも精神的にも。こんなんで大丈夫なんかな会社入って。入っていいのか会社、こんなんで。ま、慣れだよな、それはある。この店だって入ったときはしんどかった、立ち仕事のキツさ舐めてた。いまじゃぜんぜん平気。だから慣れなんだよ。知識は慣れじゃあなんともならない。きちんと自分のアタマにインプットしてやって、それを適切にアウトプットして。よしよし、できるできる、きっとできるさ。この前のグループディスカッションで出てきたな、ワークライクバランスだっけ?知らないのに知ったかで会話に突っ込んでってヘンな空気にしちゃった、あれはマズかった。ちゃんと勉強しないと、インプット、インプット。 さきほどゆるふわくんが給仕したテーブルで、客が手をあげた。あのふたりどういう関係かな。単純に付き合ってるふたり? 結婚は? 指輪チェックしてみるか。あげられた手の薬指の、光るものに意識を向けながらもスマートによっていく。適切な間合いのところで男のほうから「コーヒー、お願いできるかな」低く渋めの声がゆるふわくんに向けられた。瞬間、ふたりの皿を見て、料理の進み具合を見て、もちろん女の指も。 ふうん あんなシュッとした不倫て、この世に存在するのかあ、ゆるふわくんの目が自覚あるくらい遠いものになった。社会に出て、果たしてやってけるかな。まあ、慣れなんだろうな、結局のところそこに落ち着くことにはなるのだが。
寝坊をして急いで駅に行く。完全に遅刻だ。 ホームはいつもと違い通勤ラッシュが過ぎて穏やかな雰囲気になっている。 自販機の前で小さな女の子と母親がどれにするか楽しそうに話している。 その近くにホームから線路を覗くスーツ姿のオジサンがいた。 私が会社に遅刻の連絡をしている間も、ずっと線路を入念に観察している。落とし物なら駅員に言えばいいのだが、まさか降りて取らないよなっなんて思うくらい真剣に探している 「落とし物ですか?」 「え、あっ、はい。そうなんですよ」 「駅員に言って取ってもらったほうがいいですよ」 「はい、そうなんですが、どこに落としたか分からなくて」 「何を落とされたんですか?イヤホンとか?鍵とか?」 オジサンは笑顔で右腕を上げながら応える 「右手です。この間轢かれたときに、右手だけ、どこかへ行ってしまって」 「ママこれなに?」 自販機の下を覗いて小さな女の子が何かを指さしている
この階段は、終わりがない。 上っても上っても、階段が続く。 下りるときは、上った分だけ下りなければならないので、どれだけ上るかよく考えなければならない。 過去最長の人は、一ヶ月だった。 水と食料と睡眠具を担いで、階段を上っていった。 水や食料には困らなかったらしいが、なにせ階段。 睡眠具を完全に広げるにはスペースが足りず、毎日不完全な睡眠を余儀なくされた。 また、無理な態勢で眠らざるを得ず、一か月目にして腰を負傷。 無念の帰還だったらしい。 「それでは、行ってまいります!」 今日もまた、チャレンジャーが一人。 ビデオカメラを片手に、配信をしながら上り始めた。 ぼくは家でビールを飲みながら、配信を鑑賞する。 同じ色の壁。 同じ色の階段。 前も後も、同じ光景。 その人は時折、上を見たり下を見たりもしてくれるが、景色が変わるわけじゃない。 登山がどれだけ人間に親切か、よくわかる。 結局、代わり映えしない景色に飽きて、ぼくは動画を見るのを止めた。 あくびをして、ふかふかの布団へもぐりこむ。 代り映えしない階段へ挑む人間の気持ちなんて、ずっとわからなかった。 でも、最近一人の挑戦者の言った言葉が、印象に残っている。 「代り映えしない生活に飽きたので、未知に挑戦してみたくなりました!」 代わり映えしない階段が、日常を変えるなんて、なんという皮肉かと思った。 でも、妙に納得もした。 「来月あたり、挑戦してみようかなあ」 ぼくは部屋の隅っこに置かれた旅行セットを見て、すぐに視線を枕に戻した。
「池袋ー。池袋。終点、池袋です。」 アナウンスと共に外の世界へ一歩踏み出す。まだ陽光が主張を続けている時間帯だというのに、ホームの床は冷気を纏っていた。 秋。床から放たれる冷気と身につけている服の袖の長さが、その季節を連想させた。 軽い足取りで目的地へ向かう。直進、左、右。焼きたてのパンやアロマショップの香りが鼻を掠める。次々と変化する匂いに心を踊らせながら、角を曲がる。すると、突如、人通りの少ない広間に放り出された。先程までのような立ち並ぶ店も無く、まるで誰かが昼から夜へと時間を塗り替えたように、空気が変わった。 コツンコツンと自分のヒールの音が響く。外に向けられていた意識が急に自分の方に集中し、ひと握りの緊張を足に乗せながら進む。 廊下に張り出されている化粧品の広告に目を向けながら歩を進めていた時、自分と視線が合った。三人分ほどの横幅がある全身鏡が壁に組み込まれていたのだ。そんな鏡の中に写る自分と目が合った時、記憶が蘇ってきた。 深く被った帽子、目の下から顎まで広げられたマスク、毛玉まみれのスウェット、黒く汚れたスニーカー。今目の前にいる自分は、上品でモード感のある黒いワンピースを身に纏い、その色に合わせにいくように鋭く尖ったような化粧を施していた。 記憶の中にいる自分と今ここにいる自分とでは、顔立ちも身に付けているものもかなり異なっていた。しかし、何よりも変わっていたのは、表情そして背筋の伸び方だ。帽子の下からこちらを窺っていたあの目には、このワンピースの色よりも真っ暗な、深く深く沈むような絶望が滲んでいた。今の自分は、そんな暗闇を祓ってしまうほど自信のある表情を浮かべている。 洋服の毛玉も、靴の汚れも、今の自分が見れば見逃してしまうほど些細なものだったと思う。けれども、あの頃の自分にとってはそれらがこの大きな鏡の中心にすら見えるほど、根強い穢れだと感じていた。醜く哀れな自分を象徴するようだと。 もう、大丈夫だよ。 鏡が時空を越えることを願いながら、あの日の自分に微笑みかける。構内に残る秋の冷たさを味方にするように、プリーツを揺らしながらその場を後にした。
まただ。またあの時の記憶を思い出してしまった。私はあの時の記憶を思い出しては眉間に皺を寄せた。あれは、想定もしない出来事だった。 そして私はその時の友人の声を脳内で再生する。 「私、この曲と結婚したい。」 そう友人はぽつりと言った。 「へー。なんの曲?」 私は友人が普段から変わり者でもあったことから特に驚きもせずに聞いた。 「それはヒミツ!教えたら好きになっちゃうでしょ。私のものにしたいの。」 「すんごい独占欲。その曲にげてー」 「えー!ちょっと!勝手に逃がさないで!」 そんな他愛もない話をしていた。だが、事の始まりは結局はこの話題からであったのだと思う。 それから一ヶ月が過ぎた。 「今日ね実はデートするんだ。」 「は?!あんた彼氏なんていたっけ、?」 「うん。実はねこの前つき合ったの。」 「へー。もっと早く言ってよー」 「えへごめんごめん!笑」 そして彼女は曲がり角へ衝突した。 自ら彼女は衝突したのだ。 そして彼女の身体はあの曲のものとなった。 彼女の思い通りに。 そして彼女の身体は今もなお曲がり続けている。 見るも無惨な姿を思い出し、私はまた眉間に皺を寄せる。 そしてまた私は想起を繰り返す。繰り返せば繰り返すほど、あの記憶をもう一度思い出したくて仕方がなくたなる。まるで好きな曲を何度もリピートするように。そしてまた私は再生ボタンを押す。 『私、この曲と結婚したい。』
「あ。アイコン変わってる」 愛用していたメールアプリのアイコンが変わった。 デザインが似ているとはいえ、アプリがどこにあるのかわからなくなってしまった。 アプリを起動すると、中身はそのまま。 いつも通りに宛先と本文を書いて、仕事先へとメールを送る。 人生、こんなことがよくある。 使い勝手は変わらないのに、慣れ親しんだ見た目だけが変わってしまうのは、なんとも不思議な気分だ。 一説には、外国人や障碍者でもわかるような、よりユニバーサルなデザインに改善したとも言われているが。 どちらでもない私からすれば、ただただ面をくらうばかりだ。 「おはよー」 そんなことを考えていたら、旦那が起きてきた。 禿げ散らかした頭で日光を反射しながら、前に出た腹をぼりぼりと書いている。 顔と言うアイコンが、結婚時とは完全に変わってる。 「どうしたの? じっと見て。俺の顔に、何かついてる?」 「んーん。なんでもない」 年を取って変わった見た目。 これにも、何か意味があるのだろうか。 不倫ができないように、あえてアイコンを崩したとか。 旦那は台所に入ってくると、結婚前からの習慣らしいモーニングコーヒーを作り始めた。
あと何日、ボタンを通す日がやってくるのだろう 待ちに待ってる訳じゃ無いけど 明日がまたやってくる訳で ほつれたボタンを針で結び直した前日 今日も靴を履いて、深呼吸をして、世界に挑む 今週はあと何日だろう 待ちに待った休日 締め付けられたボタンを緩めたくて ほつれた感情を抱き抱えたくて 今日は靴下を履いて、深呼吸をして、自分に挑む 来週はボタンを替えようかな 替えるなら何がいいだろう いや、どうでもいいや いつものボタンでいいや (完)
「食べらんないのある?」 「ヒカリモノ、ちょっと苦手」 「ああ、わかるわ」 「ダメなのあるの?」 「んん、なんだろなあ…」 考えていたら 「おじさん、たまごダメでねえ」 と、カウンターのあちらから低い声が 見てみると、ほのかな酢飯の香りの向こうから、お店のご主人がにっこりとした笑顔をしてみせる 友人と顔を見合わせる 思いは一緒のよう 「たまご、ダメなんですか?」 そろった声で聞いていた 「ダメっていうか、おじさんが小さかったころは、たまごも高価でねえ… それで…」 そうなんだあ、と呟く友人 私も、心のなかで… 「ああ、ごめんねえ、ヘンな話しちゃって」 「いえ…」 「気にせず、たくさん食べてってくださいねえ」 「ええ…」 どれもおいしいお寿司だったのだけど… なんだか、たまごは注文できなかった
【お狐さまはお狐さまであってほかの何者でもないということをどうやって理解してもらおうかとあれやこれや】 楽しい宴のあとは、さびしくて、せつなくて。だったらいっそのこと宴に出なければいいんじゃないかと思ってしまう。出なければ楽しい思いにもならず、そのあとの急な落ち込みにしても襲ってくることはない。でも、それはそれで、さみしくてせつなくてやるせないことだ。理解だってしてる。僕とお狐さまによるささやかな暮らしという名の宴は終わりを迎えようとしている。さびしくてせつないやるせなくて胸をえぐられる。 結局、僕は、逃げたいんだと思う。そのことから目を背けたいんだと思う。 そんなとき僕は、わざわざ深夜、こそっと部屋を飛び出して、外をひとりで歩く。さびしくてせつなくて、でも案外、人を感じられる。タクシーが走っていたりいなかったり。新聞配達のバイクが走っていたりいなかったり。アパートの一室に、明かりがついていたりいなかったり。 深夜の道ばたに落っこちている何かを、ひょいとひろい上げてみる。かつて誰かのものだったその何かを。その姿に反して大切にされていたのかもしれないその何かを。その姿のとおり、ぞんざいに扱われていたであろうその何かを。所有者にどう扱われていたのかの如何によらず、他人のものであったその何かを、容易に手にするその行為が、なんだか大それたことをしでかしてるみたいで急にドキドキしてしまったりする。 深夜の闇に、工場の建物たちが要塞のようで、それが不意にあらわれては僕を驚かせ、不覚にも僕は驚く。昼間はまったくもって、たんなる工場の建物としてそこにあるくせに。 それらのことを話せる相手がいまはいるというのに、それでもたまらなくさみしい。もはや神経反応というくらいに。 深夜の闇に拒まれたことは、これまで、あっただろうか。深夜の闇にバカにされたことは、これまで、あっただろうか。深夜の闇に吸いこまれそうになったことは、これまで、何度かあった。深夜の闇のヤツは、そうやって容易に、僕のことを誘惑してくる。いくら誘惑してきたって、応じてあげることはないというのに。それでも深夜の闇のヤツは― ・ 「引っ越すことにしたよ」 お狐さまに短く報告する。 ―うむ。致し方あるまい いつものように淡白な返答があるだけだった。 僕たちは、契りどころでは、なくなっていた。
皆は一人の時間をどうやって過ごしているのだろうか。 休日前夜、一人きりの部屋で何をしているのか。ふと気になりだした。 ゲームに没頭していたり、ドラマ、映画で感動したり、バラエティーを観て死ぬほど笑っていたり 食べたい物を好きなだけ食べたり飲んだり マインドフルネスな過ごし方もあるだろう どちらにしても、素の自分がそこにはいるのだろう その姿を見てみたいなと思い始めて、その思いから抜け出せなくなってしまったので、自ら足を踏み入れてみた ネット検索していると、いわゆる裏サイトに一般の部屋を盗撮し、ライブ配信しているのを発見した。 男性も女性もいる ラーメンを食べている男性がいたり、髪をドライヤーで乾かしている女性が写っていたり、その中で私の知っている男性がいた。会社の上司だがセクハラが酷くて女子に嫌われている。そいつに弱みを握られたら直ぐ辞めようと皆で話し合っている。 その気持ち悪い上司が暗い部屋でPC画面を夢中になって覗き込んでいる その画面にPCを覗き込む私の映像が流れていた
病院のデイケアで楽器を触る。 フレットだとか何弦だとか組み合わせて弾くと上手く音が出るらしい。 でもめんどくさがりなので練習しない。 何かに夢中になれる心を忘れてしまっているのだろうか。 単に手先が不器用なだけかもしれない。 畑の野菜をダ・ヴィンチの最後の晩餐のように机に並べて音符に見立てる、みたいなことを思い付くがそもそも音符の種類を知らない。 茄子は茄子の音、キュウリはキュウリの音、ジャガイモはジャガイモの音。 病院のベンチに座っていたアメリカ人のお爺さんとその孫達は僕にミネラルウォーターをくれた。 ゴクリと喉を鳴らして飲む音がまた何か世の中の喧騒と混ざり会い相関するような気がするようなしないような。 十字架を切って挨拶したお爺さんはオーケストラの指揮者のような身振りで優しい目をしていた。 老人は全てを信じる、という言葉を思い出す。 僕はまだ自分を信じきれない。 梅雨が始まる。 クラシックな生活をしたいがパンクラップのアーティストの音楽でも聴こうかしらとまた定型的になる。 定住して3年。 鶏の鳴き声でも聴いて病院の近くを散歩してるペットの豚の声を聴き猫のキャットファイトの鳴き声を聴いてお婆ちゃん犬のフガフガ言う声を聴き認知症のお婆ちゃんの怒号も聴く。 世の中は音で溢れているが攻撃的な都会の喧騒は僕を引きこもらせたくなる。 イヤホンを最近していない。 煙草の煙で描く楽譜は規則性がなく町の人達に怪訝な顔をされてまた忘れ去られていく。 数学の出来ない農民は水を求めて言葉を抑え込む。 本当は叫びたい。 いやあ愚痴になってしまった。 ベートーベンを羨むサリエリは(とは言っても音楽史に疎い)こんな感じなのだろうか。 何もしていないので鬱にもなりようがないのだけど馬鹿やってよう。 て言うか馬鹿なんだからアベレージ馬鹿でいいのだ。 楽士になれない農奴は土と水と風によって地球を楽譜に見立てる。 台風のあとは少し世の中が綺麗になっていればいいなと思いオシッコをして寝る。 ジョロジョロジョロジャー🎵
教師とは、数ある職種の中でも、理不尽を背負った職種の一つであろう。 残業と言う概念はなく、気が立っている親からのクレームを受け、時には無償で部活の遠征に同行する。 教師と言う職業を目指す人間がいなくなるのは、半ば自然出会った。 しかし、社会は教師と言う概念を求めた。 空っぽになった学校では、有志の大人たちが集まって、教師の代わりを務めた。 職員室の電話が鳴り響く。 「もしもし? 私、山田ですけど!」 「どうされました?」 「どうされましたもなにも、給食で魚が出たって言うじゃありませんか! うちの子は魚が苦手なんですから、配慮を頂かないと」 「なら自分で作れ!」 田中君の親は、容赦なく電話を切った。 再度電話が鳴り響くが、誰も出る人はいなかった。 「今日の教師止めます」 それどころか、田中君の父親は早退を申し出て、さっさと学校を後にした。 授業を行うのは、あくまでも有志。 授業に対してお金をもらっておらず、当然毎日行う義務もない。 突然帰ったところで、ペナルティもない。 その日の授業は、一日自習。 授業がなくなったことで、山田君の親は周囲からの非難を受け、次からは給食が魚の日にはお弁当を持たせるようになった。 「では、授業を始めます」 教師が滅亡し、教師の代役が一切の責任を持たない世界。 不思議なことに、クレーマーの数が減っていき、教師の働きやすさが改善されたらしい。
どうにも僕には好きなものがない。 全てが嫌いってわけではない。 景色を眺めること、本を読むこと、そしてお料理をすること、全部全部大好きなんだ。 だけど、どんな景色が好きなのか、どんな本を好むのか、どんな料理を作るのか、をきかれると答えられない。 だってどれも魅力的なんだもん。 景色だって、太陽が沈むオレンジ色の空も雨上がりのキラキラ光ってる地面も全部素敵で大好き。 本だって、キュンキュンするラノベも少し難しい純文学もどっちも大好き。 お料理だって、味噌汁みたいな和食もパスタみたいな洋食も全部大好き。 どれも大好きで僕にとって特別なものなんてない。 全てが特別だから全てが普通になる。 だから自動的に好きなものがなくなる。全部大好きなのに。 なんだか寂しい。大好きが普通になる。僕にとって普通=好きなのに。
「高っ! 一食千円? 無理無理無理!」 俺は店の前の看板を見て、即座に進行方向を変える。 飯一食に、千円なんて到底出せない。 つーか、ぼったくり。 俺はいつもの牛丼屋に駆け込んで、いつもの牛丼並盛を注文した。 牛丼ができるまでの間、やることがなかったので、自作の売上報告メールに目を通す。 売り上げは低迷。 一冊千円と言う激安価格なのに、一考に売れない。 「千円くらい、気前よく出せよなあ。これじゃあ、次の話こねえじゃん」 テーブルに牛丼が置かれたので、俺はほかほかの飯を、怒りの勢いのままかっ食らった。
57577に投稿した短歌です。 煌煌と瞼の裏に浮かぶ星 月が手招く「夢はいかが?」 「間も無く終点、夢に到着です」 月の列車で今夜もぐっすり 流星に願った「夢を見てみたい」 きっと叶わない『ぼく』は『夢』 星のアイマスクを片手に飛び乗る 『夜発↓夢着』最終列車 月をもぎ取り枕にし「おやすみ」の 合図で消灯する星団 寝る支度夢の木に成る実を一つ 食べて今宵も紡ぐおとぎ話 「はいどうぞ」夜が差し出すあみだくじ 今夜見る夢を決める為に 夜に散る星の欠片を切り取って 夢の中で空に貼り付ける 夢の中広がる空に貼り付けた 寝る前に切り取った天の川 速達で届いた鞄の中身は 昨夜の夜空泳ぐ流星 置き去りにされた春をこっそりと 鞄に忍ばせ解き放つ夏 夏だから夏色に替えるのが『普通』? 春色が好きなくせに嘘吐き 雨に濡れここぞとばかり泣いてみる 鞄だって泣きたい日もある
何のきっかけもなく、唐突に頭に浮かぶ、過去の嫌な場面 好きなミュージックをイヤホンで聴いていたら、歌詞と歌詞の間に「死ね」と聞いた気がして思考が止まるような衝撃と、「今、何が起こったんだ?」と頭の中で何度も聞き返してしまうような不安感を心に残す 少し体調が悪いときはよくあることなんだけど。 すっかり忘れていた懐かしい場面を観ることもあるのだけれど。 目に見えない、ただの記憶なのだけれど。 見晴らしの良かった家の前に、マンションが建ったような残念さがある。 死にはしないんだけれど。 死神が頬を寄せている気がしてならない。
「君の仁美に乾杯」 「なめてんのか」 親友の妻、仁美さんと不倫したのが親友にバレた。 少しでも和ませようとウィットなギャグを挟んだら、親友はこの世のものとも思えない怒りの形相を俺に向けてきた。 仁美さんは、ひたすら俯き続けている。 ぼくは大きくため息をついた。 もう、仁美さんの綺麗な瞳を見ることができないんだと。 机の上に叩きつけられた証拠写真の数々。 「で? 不倫したことは認めるんだな?」 親友からの強い言葉に、ぼくはとりあえず目の前の水を飲みほした。 ここから入れる保険ありますか?
若者の間では、ありのままの日常を撮るのが流行している。 一日一回、ランダムな時間に撮影を依頼する通知が届く。 二分以内に撮影ボタンを押すと、インカメラとアウトカメラで同時に撮影。 加工なんてする暇もなく、仲間内へと送信される。 まさに、皆のリアルがわかるのだ。 しかし最近、大人たちによって難癖をつけられている。 会社で撮るなとか、社外秘の情報が流出するとか。 「つーか、なくね?」 「会社で撮るなとか、意味わかんないよね。会社に、そこまで個人のことを制限する権利あんの?」 「そもそも、見られて困るようなことしてんなよ。ウケる」 私たちは、大人の決めたルールになんて負けない。 今日も、日常を撮り続けるのだ。 「あ、通知きた」 私は、今日も日常を撮った。 「ちょ!? 今、温泉旅行中」 「ああああ! 服脱いでたの忘れてたああああ!」 全裸で撮影する私と、更衣室で半裸の友達の姿が、一斉送信。 「ぎゃあああ! 消せ消せ消せ消せ!」 「どうやって? どうやって?」 「なんでもいいから、早く消せー!」 私たちは今日、ルールを作ることの意味を知った。 私たちは今日、また一つ大人になった。
僕には足がない。これは生まれつき。 だから、車椅子で生活していた。 僕は今病院のベッドで寝ている。車に轢かれたから。 三日前、車椅子の車輪が道の凹んだところに引っかかってしまった。信号が変わると同時に車が突っ込んできた。向こうは信号しか見ていなかったのだろう。 痛かった。 母さんは毎日見舞いにきてくれる。 「ごめんね。私がちゃんとした身体に産んであげられなかったから」 そういって謝る。 僕は何も返さない。 声が出ないから。事故で喉が壊れた。 もし、声が出るのなら 「そんなことないよ。」っていうのに。 「産んでくれてありがとう」って言いたいのに。 自分を責め続ける母親に何も伝えられない。 あぁ痛いな。 「別に足なんていらない。」っていうのは嘘で、ちょっとだけ自分の足で歩いてみたかったけど。 足がないことは悪いことだけじゃなかったよ。 同じ身体障害をもった友達に出会えた。 腕のない和樹くんは僕の親友だ。もし腕があったら彼には会うことはできなかっただろう。 車椅子ならではの景色も見れた。 普通の人よりの少し低い目線だから、地面をせっせと歩く虫、散歩中のリードが伸び切るほど先を急ぐ犬、雨の日葉っぱに乗ったまぁるい雫。みんなよりも近くで見れたよ。 毎日がワクワクだった。 ――あ。 ペンを持つ左手が震える。事故で失ったのは利き手の右手。 僕は長くはないだろう。みんなは大丈夫だっていうけど、僕にはわかる。だから、伝えときたい。声はでないから、こうやって。 字が汚いのは利き手じゃないから、それはばかにしないでよね。 ペンをギュッと握り直す。 大嫌いな勉強だけど、一生懸命に教えてくれるから頑張ろうって思ったよ。先生。 みんなと違うから行きたくなかった普通の学校。でもね、みんな優しくて足がない分サポートしてくれた。クラスメイトたち大好き。 いつも忙しいのに、休日は僕を担いで公園を走った父さん。僕本当に自分で走ってる気分だった。 父さんの背中はずうっとおっきくて憧れだったよ。もう一回乗ってみたかったな。 和樹、君はいつも陽気でふざけてたよね。僕の手術前なんかはいつもより大袈裟にふざけて、病院の先生に怒られてたっけ。とんでもないやつ(笑)おかげで全然怖くなかったよ。君は本当にいいやつだ。 そして母さん。これだけは知っててほしい。 僕がもし生まれてなかったらこんな世界知ることはできなかった。 ありがとう。僕を産んでくれて。 みんなありがとう。 僕はほんっとうに幸せだった。 ――あの子が死んだ。 お医者さんは大丈夫だって言ったのに、急に容態は悪化した。 みんなが走っているのを眺めてたときも、私を見つけると辛さを見せないくらいの笑顔を見せてくれた。誰よりも優しい子だった。 ……なのに 最後は片手を失い、声も出せなくなってしまった。 私がちゃんと産んであげられなかったから。ごめん……本当にごめんなさい。 彼の寝ていたベッドを見つめる。彼がそこにいたであろう跡はまだ残っている。 私のせいでこの子はこんなに辛かったのに、私は生きててもいいのだろうか。 ――それなら、いっそ。 「ん?」 何かがベッドの端に挟まっていた。……手紙。 封には、ひどく震えた文字で『みんな、そして母さんへ』と書いてあった。 私はそっと手紙を開く。 もう聞けないはずの声が、そこにあった。
喫茶店の窓には、かかっている。 空気を含み、裾が大きく膨らんで揺れる。 薄明のカーテン。控えめなシンボルだった。 燕が運んでくるのだ。 小さな身体に、その薄いヴェールを咥えながら、ペールブルーの中に一点、杜若を咲かせて鮮明に見届けさせてやってくる。 その役割を負った燕は、届けるべき相手に届けた後カーテンの上で死んでしまう。 燕の瞳は穏やかだった、と聞く。 小さき英雄を囲むようにちぎって、優しく包むと土に埋める。そこからは、空気に溶けてしまいそうな霞の様に美しい淡い菫の花が咲く。 だからカーテンは一部が欠けている。 そこから陽射しが差す事は、無い。 薄暗い店内で全てが混じる空間で、ただただバターか豆か、穏やかな喧嘩が行われているのみ。だから、安息地だった。 いつだって窓際の席で、ただ綴った自作の文章を捲る。カーテンは頬を優しく撫でる、それだけの愛。 それはカウンター内に立っていても席側でも変わりはない。昭和の見た目をして、重厚さと殺風さを交えた内装に薄暗くて退廃的なクラシックを流す風変わりな喫茶店なぞ、物好き以外にはやって来ない。店主の代わりに番するくらいなもの。 だから見たくは無かった。 客としてきた時、店番をする時。 店主も変わり者の客も何も言わない。 だから言わない。痛かったから。 燕を看取った証。 それは、消えない。 「トースト、持って帰りますか」眼鏡が曇った店主が静かに言う、カップを拭くために関節の目立つ手が見える。「余ったので。」 「今日働いてないですよ」土と菫の香りが混じる。この店は全てが混じる。 私は彼の指先を見ないようにして返した。「悪いです。」 気付けばトートバッグにビニール袋に包まれたバターの塗られたトーストがいた。最近食べてますか。その一言だけでいつの間にか芳ばしい香りは入り込んできていた。 なのに、一体何時からだろうか。時計の針はいつ回ったのか、覚えていない。目覚ましはいつ止めたのだろうか。火は何時から使っていないのだろうか。 換気扇の音で窮屈そうに、テーブルの上に置かれていた。幼子達のはしゃぎ声は蝉の声と共に体を覆い、潰していく。 ぐちゃぐちゃな感情がトーストの上に溶ける前に、善意にカビが生えてしまった。ジャムになりかけた出来損ないを均して、安い豆の珈琲で押し流す。 ごめんなさい、と呟いて。 欠けたパンは、翌日の自分に棄てられていた。 燃えるゴミの日だった。 私は今日、いつもの窓の外に小首を傾げてこちらを見ている燕を見た。珈琲を飲んだ後の事だった。 目を逸らした。あの子の視線を頬で感じながら、苦味を口にする。 掌の上に薄明は乗らない。カップを、そっと抱く。 ヤケになって銘柄も見ず頼んだ、珈琲。良く見れば店主お気に入りのカップ、中で波打つそれは、私にとって奮発した値段。 切っただけの粗末な爪に指先。淡いピンクは命の色。ほんの少し震える度、真っ黒な水面の中にカーテンが揺れる。 私は、味わう事にした。 爪は綺麗なままな事を、祈って。
雨粒が窓に付着している 後に重くなった雨粒は他の雨粒を吸収しながら 躓くように降りていき通り道を作る 一度、道ができてしまうと 他の雨粒たちも躓くように通りまで出て 道に着けば急いで降りていく そして暫く通る雨粒がなくなれば 道は無くなり雨粒の草原となる 雨粒も道なき道を行く時は何度も躓く そして歩き続けなければ絶えてしまう
会社の帰り道「今日も疲れた」とトボトボ歩いていると、反対の歩道を歩く夫婦が気になった。 旦那さんは足が悪いのか、腰が痛いのか、杖を持って歩いている。痩せた高齢のお爺さん。その後ろを奥さんが歩いている。奥さんは杖は持たず、背は旦那さんより低い高齢のお婆さん。 帰宅ラッシュで駅から溢れ出てきた人々とは逆行して、ゆっくり縦に並んで駅に向かっている。 日に焼けて乾いた大根の様な二人。その夫婦を観ながら「俺もあんな風になるんだよな」「妻もあんな風になるんだよな」と思い巡らす。最近は自分の周りにも離婚した知り合いが多く、それが良いか悪いかではなく、「僕らもあの歳まで一緒にいれるのかな」と思ったりしながら家に帰った。 帰宅し、妻にこの話をすると「でも、もしかしたら、まだ恋人で初めてのデート中かもしれないじゃん」 と冗談なのか本気なのか分からない顔で言う。まぁ、そんな事もなくはないか。
どうやら私は、一日だけ別の人物と身体が入れ替わっていた(?)らしい。 「突然、学校に来たから、みんな驚いていたよ」 唯一の友は、とつとつと昨日の私について語ってくれた。それは普段の私からは考えられないような言動の連続で、よくもふざけたマネをしてくれたな、と本気で憤ったりもした。 悲しいかな、私は昨日のことを一つも覚えていないのに。私と身体が入れ替わったヤツは、好き勝手に反転ライフを楽しんだというのか。もしヤツを見つけたら、思いっきり肩パンしてやりたい。 「でも、久々に学校これたじゃん」 そう言ってくれるが友人よ、当の私としては複雑なのだ。 いや、でも、それ、私が学校に行ったわけじゃないし。いや、私は確かに行ったんだけど、本来の私の魂はどこかに出歩いていて、別人の魂が私の身体を学校に連れていっただけで……。ていうか結局、私自身は、今日も学校に行けなかったし……。とでも言ってやろうか。 「わたし、嬉しかったよ」 こちらを見て、友人は笑う。その顔が心底うれしそうなので、私は無言の相づちを返すに留めておいた。
閑静な住宅街の道に、その突起はあった。 歩道から、金属の丸い棒が二センチほど顔を出している。 昨日までは確かになかった。 通勤途中の私は、立ち止まってそれを眺めた。 「何だ…」 足先で軽く押してみるが、びくともしない。 まるで自分の存在を誇示するかのように、冷たく光っている。 突起はやがて、人々の騒ぎの中心になった。 酔った女が、ヒールをぶつけて折り、大声で笑う。 ランニング中の男がつまずき、横の芝生に滑り込んだ。 鼻先を近づけた犬が、反射した光に驚き、勢いよく逃げた。 突起は不可思議な存在へと昇華した。 並んで写真を撮る者。 両手を合わせて拝む者まで現れる。 専門家は、哲学めいた解説を延々と語っている。 一方、住宅街を見下ろせる丘の上。 男が双眼鏡を構え、突起を見つめている。 「ここもダメか…。早く転び役を見つけないと」 ケースには、同じ形の金属棒が整然と並んでいた。
「ちょっと!あんた!脱いだら脱ぎっぱなしやめなさいっていつまで言ったらわかるんだい!?」 「あぁ…。はいはい。やりますよ」 俺は毎日妻に怒られっぱなしだ。それもそうだ。俺はだらしがないからだ。 「もういい加減にしなさんな」 俺のどこを好きになってこの妻は結婚してくれたのか。きっと今は離婚したいけど経済的に俺と暮らした方がいいと思っていて一緒にいてくれてるのだろう。 そう思うとなんだか、俺って一体…と思ってしまった。 「あ、そうそう。あんた今日暇でしょ?ちょっとさ、スーパーの特売。行ってきてよ。」 「えー。たまの休みくらい好きにさせろよー」 「そんなこと言ったら夕飯つくらないわよ!?」 「はぁ、へいへい」 俺は妻に脅され、渋々スーパーへ出かけることにした。 そしてそれは突然の出来事だった。 そう。なんだか鼻がムズムズし出したのだ。 「へっっっくしょょょん!!!!」 そして俺は勢いよくくしゃみをした。 俺のくしゃみによって、目の前に生えていた木が根本から倒れた。 くしゃみをしたのは久々だったが、木が倒れるほどの威力とは。俺は驚きのあまり現実ではないと思った。 もちろん、そこにいたのは俺1人ではなく、街の住民もいた。そいつらも目をまんまるくしてその光景を目に立ち尽くしていた。 「おいなんの音だ?」 「木が倒れたらしいよ。」 「あのおじちゃんがくしゃみで倒したんだ。」 「あのおじさんが倒したんだって。」 そんなことを住民が言いながら、家々からゾロゾロとこの光景を見に住民が出てきた。 「これはなんと!!くしゃみ王じゃぁぁ!」 いきなりこの地域で最年長の老人が大声を上げて言った。 「おい!くしゃみ王だってよ!」 「くしゃみ王!かっこいいわ!」 「すごいすごい!握手して!」 その老人の発言により、みんな一斉になって俺を讃え出した。 こんな平凡でいつもだらしなくて妻に怒られてる俺がこんなにも讃えられていいのだろうか。そんなことを思いつつ、俺は調子にのってそのままスーパーへ行った。 そして俺はつい、いい気になってスーパーの店員さんに、 「おれ、くしゃみ王なんすよ。」 と言った。 店員は首を傾げ。 「ほ、ほぉ。なんか、凄そうっすね。」 と、俺に目を合わせずに言い放った。 とてもわけがわからない様子だった。 急に現実に戻った気がしてなんだか恥ずかしかった。 俺の地域の住民がおかしいのか。それともこの店員の態度がおかしいのか。はたまた俺のくしゃみがどうかしてるのか。 俺はもうよくわからず、何年間も適当に使ってた脳みそをフル回転させて考えたが、結局よく分からないままだった。 なんだくしゃみ王って。とか思いながら俺は重い特売の商品を持って家へ帰った。 あ、そういえば薙ぎ倒した木どうしよう…。
僕の祖父は、不思議な人だった。彼は”アイコノクラズム”というみょうちきりんな名前の神様を崇拝していた。 「アイコノクラズムってなんなの?」 僕がそう聞くと、祖父はいつも僕をこう叱りつけた。 「こら、その名前の意味を軽々しく聞くな」 そのせいか、僕の”アイコノクラズム”への興味は段々と膨らんで行った。しかし、祖父は、僕がインターネットや辞書でそれについて調べることを強く禁じた。 「アイコノクラズムってなんなんだ?」 僕がその意味についてぐるぐると頭を巡らせている間にも、祖父の"アイコノクラズム"への信仰心は日に日にひどくなっていき、終いには親戚中に"アイコノクラズム”様の教えを布教しようとするようになった。父をはじめとする親戚一同は、これに腹を立て、彼と縁を切ってしまった。もちろん僕も祖父とはそれっきりだ。それからというもの、孤独となってしまった祖父は次第に生きる気力を失い、今から半年前に孤独死した。僕は彼の葬式の夜に、こっそり"アイコノクラズム”について調べた。その意味は”偶像破壊”。今考えると、ある言葉を偶像として崇拝した結果、自分の人生を壊してしまった祖父にとって皮肉な言葉になってしまったなと思う。
梅雨の温室はさみしくて、でもさわがしい。雨がなかに入れろと、しきりに壁をたたく。それが目に見えているから余計にうるさい。 そんな雨のなかにできた大きな余白に、ふわりあの香り。 さわがしさが気にならないのか、ひとりの少女が大きなイスに腰かけ、ひざに本を置いている。その姿は、この空間の雰囲気にひどく馴染んでいる。 ―何を読んでるんだい? 少女は、あからさまに顔をそむける。 雨の音より、僕の声のほうがよっぽど気に障るらしい。 ―すまなかったね イスの上で窮屈そうに体をひねり、少女は僕に背を向ける。 やれやれ、ずいぶんと嫌われてしまったな。 僕は、その少女から離れたベンチに腰を下ろした。 さて… カバンに折りたたみの傘と文庫本は入れておけよ。じいさんからの忠告が、今日ほど役に立ったことはない。 読んでいて気がついた。雨の音は、本を読むのに心地いいものだと。 ―そういうことを言いたかったのか? いや、それはないか ふと、あの香り。あの少女が僕の横に、静かにカップを置く。 ―僕にかい? ただ頷くだけの少女に、 ―ありがとう 僕のぎこちない笑顔は、果たして通じただろうか。 少女は行ってしまった。ふたたび大きなイスに腰をかけると、先ほどまでと同じくひざに本を置いた。きれいな花のようなその姿。けれど彼女にふれることは、誰にも許されることではないようにも感じられる。 あながち、嫌われたわけでもなかったのかな。よくわからんな。いや、いままで僕が、女性の考えを理解できたことなんて、あったっていうのか… 梅雨の温室はさみしくて、でもさわがしくて。いろいろ考えさせられる。 まったく、やれやれだな。