「私、大人になんてなりたくない!」 十七歳の私は叫んだ。 「なーに言ってんの、あんたは」 お母さんは、呆れたように笑った。 あれから七十年。 私は一歳も年をとってない。 「えー、それでは。故、○○の葬儀を始めます」 七十七歳。 親友が亡くなった。 病院のベッドの上で、孫たちに囲まれた大往生だった。 親友の子供と孫と、それから私。 親友の孫たちからは「誰だこいつ」という目で見られたが、十七歳の姿をしている私は、堂々と居座った。 棺桶に眠る親友の上に、花を一輪置いた。 中学生の頃のなんとか研修で、自然公園を見に行った日。 親友が見つけていたく興奮して、「この花こそ私のパーソナルフラワーだ」なんて騒いだ花だ。 私の記憶には、今も鮮明にこびりついている。 花を置いた親友の体はしわくちゃで、どこからどうみてもおばあさんだ。 ツルツルの私の手とは大違い。 葬儀を終えると出棺され、火葬場へ。 親友の体はあっけなく燃やされて、骨となった。 骨を一本だけ受け取って、親友の家族に礼を言い、私は家へとった。 実家は、昔と同じ姿を保ち続けている。 壁が剥がれたり、ところどころ雨漏りをしたりしたので、修繕は重ねているが。 家に着くと、すぐに配送の準備をした。 両親が亡くなった時も使った、遺骨をアクセサリーにしてくれるお店に、私は親友の骨を送った。 「はー、終わった」 それが終わると、私は親友がいなくなった実感が急にわいてきて、ソファに倒れた。 十七歳の私を知る最後の一人が、これでいなくなった。 生きている元同級生も何人かいるだろうが、関わりがない以上、いないと言って差し支えない。 「結局、大人って何だったんだろう」 友達が死ぬと、いつも考えた。 私がなることのできなかった、大人という存在はどんなものなんだろうと。 いつまで経っても、酒とたばこを買う時に年齢確認され、ナンパもぶつかりおじさんもなくならない。 閉経もしないから、月のものもなくならない。 生娘だけは卒業した、ただの糞餓鬼。 「大人になりたいなあ」 寂しい時は、ふとそんな願望を口ずさんでしまう。 あの日かかった呪いを解くための、呪文のように。 しかし、時計は止まらないし、私が十七歳なのも変わらない。 「私って死ねるのかな」 大人にならない私に、寿命はあるのか。 いつもの恐怖に襲われたので、私は寿命を縮める酒に手を伸ばした。
また知り合いと新宿の喫茶店で会う。 待ち時間特にやることがない。 スマホで漫画などを読めばいいのだがやる気が出ない。 昨日食った豚モヤシを思い出して今日も豚モヤシを食べなきゃな、などとボーっと考える。 両腕が痛い。 今日は畑が休みだ。 チェーンの喫茶店は効率重視で頼んだメニューがサッと出てくる。 何でも効率化。 そもそも暇潰しで来てる客。 暇潰し。 精神科の喫茶店と変わらない。 あるいは世界のカフェなどでもやることは一緒。 家電量販店に来る外国人観光客。 外国で買うより安いのだろうか? パソコン買わなきゃなぁ。 パソコンの前でエッチな画像を見てパソコン壊れて知り合いに茶化されてなんだかしょうがないなぁ、と思う。 基本的に野蛮人。 エッチは紳士に、と思ってるが体力が無い。 都会はお金が無いと寂しい。 飲食店が苦手。 肉を食ってないからか豆を食ってないからか髪がボサボサ。 煙草辞めたい。 お酒飲まない。 書きたいこと書いてるが特に変わったことをしていないので普通の文章になる。 彼女が銭湯で仲間外れにされる夢を見たという。 世界はお風呂場。 水は海嶺から水蒸気と共に沸き上がっているらしい。 石油と一緒。 水が増えてお風呂場が沢山出来れば世界は安定するのかもしれない。 番頭の夢を語る僕はコーヒー牛乳みたいな飲み物を飲み皆を清潔にする。
午前0時。 小高い山の頂に、30人ほどの男女が集まった。 「さぁ、皆さん。始めましょう」 銀色の三角帽子を被った男が、声を上げた。 男女は円を作ると、その中心に男が立った。 「ウィーン、ウィーン、ウィーン」 両手を挙げ、立てた人さし指をクルクルと回した。 「皆さんも、私と同じように」 夜空を見上げ、人さし指を回す。 「声を出して、願いを込めるのです」 「ウィーン、ウィーン、ウィーン」 「もう、すぐそこまで来てますよ」 山頂に、冷たい風が通り抜けた。 地球の遥か上空に、1機のUFOが止まった。 「艦長、呼んでますけど……」 モニターを覗き込んだ。 「そうだね」 「コンタクト取りますか?」 艦長は、苦笑いしながらモニターを消した。 「金貸せって言われてもね」
我ながら、幸せな人生だったと思う。 「おじいちゃんとおばあちゃんって、本当に仲がいいよね」 子供たちからも孫たちからも、そう言われた。 近所でも評判のオシドリ夫婦。 「ねえねえ、おじいちゃんとおばあちゃんって、どうやって知り合ったの?」 しかし、一番される質問には、一度たりとも答えられなかった。 秘密があるのだ。 学生時代。 お互いに恋人がいた。 この人と結婚するんだろうなと、漠然と思っていた。 しかし、その日は偶然、二人とも恋人と大喧嘩をした。 怒りと悔しさを抱えながら、家に帰る途中。 同じく恋人と大喧嘩をしたばあさんと再会した。 そのまま二人で居酒屋に入って愚痴大会。 互いの恋人を罵り合って、一瞬の意気投合のままホテルに入って、たった一回の行為で子供ができてしまった。 どうすべきかを悩んだが、罪のない子供を殺すなんて忍びないと考えて、恋人と別れてばあさんと結婚した。 後から聞けば、ばあさんも不本意ではあったらしい。 好きな恋人ではなく、嫌いではない私との結婚。 人生のレールが、大きく切り替わったと言っていた。 幸いだったのは、ばあさんとの生活が、思いのほか上手くいったことだ。 好き合ってなかったから、過度な期待もなくて不満もなかった。 仕事に育児に家事に、新生活が突然忙しくなって、不満を感じる時間がなかったとも言える。 病室で二人きり。 ベッドの上から、ばあさんを見上げる。 「変な、人生だったなあ」 「そうですねえ」 「でも、楽しかったわ」 「私もですよ。時々、あの時の人と結婚してたらどうなってたかなって、思う時はありますけど」 「それは、私もだ」 自伝でも書けば、読者たちは『なんて酷い物語だ』とか、『元々いた恋人が可哀想だ』とか、悪い感想を書くだろう。 私もそう思う。 私の人生は、決して綺麗な物ではない。 でも、自分の中でハッピーエンドにはなるだろうと、妙な確信だけはあるのだ。
ある日の夕方、男が改札を出た。 一瞬、足を止める。 駅のホールに、小学生の声が響く。 「募金お願いします」 両手で箱を抱え、頭を下げた。 小さな女の子が駆け寄り、小銭を入れた。 杖をついた老人が、財布を開いた。 車椅子の青年が、片手で車輪を回しながら、箱に手を伸ばす。 「ありがとうございます」 取材のカメラが、小学生の笑顔を映した。 男は、大きく息を吐いた。 そして、両脇に並ぶ小学生の真ん中を歩き、駅を出た。 「募金お願いします」 背中に視線を感じる。 少しずつ、声が遠くなる。 男は、街のネオンを眺めながら呟いた。 「勝った」
道の端っこの木の枝が ヘビにみえてしまったり それくらいには 目が悪い 雲のカタチはもうすっかり 夏のそれではなくなって 空をみているわたし そんな自分を 不思議に思う あのころは ずっと 下ばかりみていたのに
トーストが こげてしまったのは 誰のせいだろう 誰のせいでも ないけれど 激しい このアタマの痛みは 誰のせいだろう 誰のせいでも ないけれど 打ちあけたいのに 言葉が出てこないのは 誰のせいだろう 誰のせいでも ないけれど それでも今日は 小さなことに 運がよかったと思えたから
あの止めるやつ さんが入室しました コンセント(刺す方):新顔キター シャー芯:あの止めるやつさんこんにちは あの止めるやつ:はじめまして コンセント(刺す方):あの止めるやつってどの止めるやつ?w あの止めるやつ:いきなりっすか? コンセント(刺す方):ごめん、、聞かないでおくわ あの止めるやつ:別にいいっすけど シャー芯:敬語じゃなくて良いですよー あの止めるやつ:了解っす コンセント(刺す方):シャー芯に言われてもな シャー芯:私は好きで敬語なので ですます調ってかわいいですよね あの止めるやつ:じゃあ殺し屋風に喋ります コンセント(刺す方):殺し屋風?wwどういうこと?www あの止めるやつ:あのパン止めるやつってあるだろう?実は俺様はあれなんだ コンセント(刺す方):あーあれね 分かるよ名前 あれだよねあれ シャー芯:絶対覚えてないじゃないですか 私は本当に知ってますよ あの止めるやつ:みなまでいうな あの止めるやつ:名前を呼ばれたことは一度もないが、“あの止めるやつ”って殺し屋のあだ名ぽくてかっこいいと思わないか? コンセント(刺す方):長文w 想いが溢れてるww あの止めるやつ:今日ここに来たのは愚痴を言うためだぜ コンセント(刺す方):カッコ良さげにダサいこと言ってるwwww あの止めるやつ:実は今日、新入りが家に来たんだ 俺のことを慕ってくれる良い後輩だった あの止めるやつ:それを家主のやつ、捨てやがったんだ しかも手持ち無沙汰に任せて、丁寧に千切りやがった コンセント(刺す方):吹いたwww ヒドイwwwwww シャー芯:ひどいですね 私も昔折られた古傷が痛みます あの止めるやつ:確かに何個もは要らないかもしれない でも何かに取って置いてくれても良いんじゃないか? コンセント(刺す方):でも正直、俺でも捨てる あの止めるやつ:え? シャー芯:シャーペンの消しゴムくらい使わないですね あの止めるやつ:お前ら…裏切ったのか…… コンセント(刺す方):いつから味方だと思っていた(悪役風) シャー芯:あれで止めても、きちんと閉まってる感じしないんですよね コンセント(刺す方):何か良い使い方教えてくれ あの止めるやつ:えー あのですね コンセント(刺す方):おい殺し屋どうした あの止めるやつ:あ、思い付きました コンセント(刺す方):言ってみろ シャー芯:教えてください あの止めるやつ:たくさんの色違いを額に要れて飾る コンセント(刺す方) さんが退室しました シャー芯 さんが退室しました
私は臨終医、仕事は単純だ。 静かな部屋に入り、相手を見て、時刻を告げる。 「御臨終です」 家族が泣きながら遺体にすがる。 そこに、家族に寄り添う気持ちなど必要ない。 それで、終わり。 父も医者だった。 臨終医になろうとしたが、なれなかった。 枠は少なく、選ばれたのは別の人間だった。 それでも父は言った。 「いい仕事だぞ」 理由は語らなかったが、その声が妙に耳に残った。 私は名門の医学部を出て、海外にも行き、博士号も取った。 回り道は多かったが、今はここにいる。 だからこそ、この一言は完璧でなくてはならない。 私は週に一度、ボイストレーナーに通っている。 発声練習の合間、鏡の前で無表情を確認する。 一度だけミスをしたことがある。 ペンライトを忘れた。 とっさに胸元の万年筆を取り出し、目の上で上下左右に振った。 近くにいた看護師も気づかなかっただろう。 最近、臨終医をモデルにしたドラマが放送され、志望する医学生が増えたらしい。 彼らは「御臨終です」の後に何か一言つけたがる。 私は何も言わない。 それが美学だ。 ある日、私は突然めまいがして倒れた。 目を開けると、ベッドの横で、若い臨終医が立っている。 「御臨終です。ご主人様は良い人生だったのでしょう。安らかな表情をされています」 私は思った。 まだ若いな──だが、悪くない。
窓をあけると 夕闇の向こうから 人のあらそう声 ちがうんだ あなたたちの叫びを ききたいんじゃないんだ ただ虫の声を ききたかっただけなのに 風だけが やけに心地いい
休憩時間になると、いつも非常階段に行く。 7階の踊り場で缶コーヒーと緑のマルボロを吸いながら風に当たる 街は夜の方が綺麗でクリスマスツリーの電球みたいにキラキラしている。 大学に入るために、ど田舎からこの街に引越してきて、大学に馴染めず親に内緒で辞めてしまった。 直ぐに母親から連絡があって『しばらくは帰ってこないほうがイイよ』と教えてくれた。父がカンカンらしい。そりゃそうだ。自分でも自分が嫌になる。どうしてそんなに情けない男なのかと。 母は『暫く都会をエンジョイしてきな』と気楽に言う。その感じが有難いけど どこかで女性の喘ぐ声が聞こえる バーや居酒屋、キャバクラ等が入ったこのビルは昼間でもビルの近くを通るとアルコールの匂いがしている 都会の空で輝くことを許された僅かな星空の下、どこかの階の踊り場で男女がヨロシクしているのだろう 非常階段の柵に胸を付けてキラめく街を見ながらマルボロを吸う。 Tシャツに剥がれた柵のペンキがパキパキと付いてくる 煙草の煙で吹き飛ばすが、ユラユラするだけで取れそうもない 足元の缶コーヒーを取ろうと屈むと、人の足があって思わず大声を出してしまう 白に近い金髪のウィッグをつけた女の人で、小さく細い身体 このビルに入っているお店の娘かと思ったが、タイトな赤いニットと黒い短パン姿は似つかわしくない。ガールズバーでもオープンしたっけか? 「煙草持ってる?」 偉そうに聞いてくるが、明らかに年下で愛想の一つもない。 マルボロを差し出すと「メンソールか…」と舌打ちをして渋々数本取っていく。 一本を咥えると、犬にお手をさせる仕草でこちらを見る。ライターを貸してと言う意味なのは分かるが一つ一つが癪に障る 自分も吸うついでに彼女にも火をつけてやった。 「このビルで働いてるの?」 「そうだけど」 「そこの居酒屋?」 「このTシャツが私服だったらやばいでしょ」 Tシャツに書かれた「居酒屋 わっしょい!」の字を指して言う 「バイト楽しい?」 「そっすね。店長にはよくしてもらってます」 「彼女いるの?」 「いないとまずいっすか?」 いつの間にか敬語になってる 「今、人生は楽しいのか?」 「……まぁそれなりに」 「そうか」 そう言うと彼女はマルボロの煙と共に消えていった 「えっ?あれ?」 暫くパニックでその場から動けなかった。脳がフリーズしている 気を落ち着かせようと柵に手をかけるとカチャンという音とともに柵が折れて地上に落ちてった 喘ぎ声を奏でていたカップルが驚いて悲鳴を上げる。 幸い柵が落ちた場所は人が入ってこれないビルの敷地内で誰もいなかった
うっかり斧を池に落としてしまった。そんなことあるのかって感じだけど、何時間も木を切っていたら、握る力も弱くなって、ついすっぽ抜けたんだ。切らなきゃいけないノルマもあるのに、これでは上司に怒られてしまう。うちの会社も金があったらチェーンソーとかでやれるのに。 ズボンの裾をまくりながら、覚悟を決めて池に近づく。 そのとき、ざばーっという音とともに、池から女の人が出てきた。その人は水面から少し浮きながら、話しかけてきた。浮きながら?というかよく見ると服も濡れていない。 「こんにちは、木こりさん」 「あ、佐藤木材株式会社の鈴木です。あの、どちらさまで?」流れで挨拶する。 「では、ススキさん」 「スズキです」 「スズキさん、私はこの池の女神です」 「なるほど」とりあえずこの変質者を通報しよう。 「本物です」自分で言うな。というか、心を読んでます?「心を読んでます?」 「そう思うんだったら、二回言わなくても良いでしょう。ちゃんと心からも聞こえてますよ」 そういうと自称女神は両手を上に掲げる。するとそこに突然、金色と銀色の斧が現れた。 「すいません、こういうマニュアルなんで聞きます。あなたが落としたのは金の斧ですか?それとも銀の斧ですか?」 あー有名なやつだ。「そう、有名なやつです」「心読むのやめてください」 女神は無視して勝手に続ける。 「なるほど、あなたは正直者ですね」 「まだ何も言ってないんですけど」 「では、普通の斧を返します」 おい。「おい、マニュアルどうした」 「二回言わないでください。それに、誰も持って帰らないから、普通の斧ばっか貯まってくんですよ。深い池じゃないから、寝るのにも窮屈で」 「…あの、ずっと思ってたんですけど、泉じゃないんですか?」 「昔は泉でしたが、段々汚れてきてしまって。これも普通の斧があるからですよ、錆びやすいんですもん。それにたいして金銀はすぐに持ってかれるし、最近は値段も上がって作るのが大変だし」 「世知辛いですね」 「まあ池より海の方が辛いですよ」 どういうこと?「どういうこと?」 「だから二回言わないでください。ちょっと言いたくなっただけです」なんだそれ。 「とりあえず、一旦。一旦は普通の斧返しますね、これ以上要らないんで」 分かりましたと言って受け取る。 「でも思いません?ただ正直なだけで得するなんてずるいでしょう。正直なのは私達も一緒なのにいつも女神側が損をします。それに落としたのはそちらなのですから、帰ってくるだけ万々歳でしょう」 貰えると思ってたのに、貰えないのってかなりきついんですけど。精神的賠償が必要だ! 「うるさいですね」「まだ何も言ってなi「とにかく!もうマニュアル通りは止めたんです。真面目な人は質素な暮らしで満足できるでしょう」 そう言うやいなや、女神は「時代は変わりました、金は高いんです」と言いながら池に潜ろうとしていく。 「…あの、」 「何ですか?」女神は潜るのを止めた。 「マニュアル、守らなくて良いんですか?」 「バレなきゃ犯罪じゃないんです」 「誰に?」 「天国の偉い人です」 「僕って真面目で正直なんですよね」 「……そうかもしれませんね」 「じゃあ、天国行けそうですね」 女神がまた潜り出す。 えーっと、大変言いづらいんですけど。 「心の声ですし、言ってすらないですよ」もう頭しか出ていない。 金の斧、貰えます?チェーンソー買いたいんで。
私は臨終看護師。仕事は単純だ。 臨終医の後ろをついて歩き、遺族の待つ部屋に入る。 そして、臨終医が「御臨終です」と告げたあと、 目を伏せ、軽く頭を下げる。 これが私の仕事。 そこに、ご遺体への敬意など必要ない。 それで、終わり。 母も看護師だった。 臨終看護師にはなるなと言われた。 なぜなら、それは過酷で、辛い仕事だから。 私は以前、手術室の看護師だった。 しかし、やりがいを見いだせず、異動を申し出た。 今はこの仕事に満足している。 先日、臨終医がペンライトを忘れた。 とっさに彼は胸元から万年筆を取り出し、目の上で振り、ごまかした。 私は気づいていないふりをした。 臨終看護師としてのたしなみだ。 この仕事は女優に似ている。 病室は舞台。 何も書いていないバインダーは小道具。 セリフはなくても、存在感だけで観客 ──ここでは遺族だが──を魅了する。 最近、臨終医をモデルにしたドラマが放送された。 しかし、臨終看護師の姿はなかった。 残念な気持ちはない。 その方がいい。 ある日、目の前で臨終医が倒れた。 私は慌てない。 何もしない。 それが美学だ。 そして彼は、そのまま旅立った。
「コーヒーは出てこないのよ」 と、ズっちゃんは言った。 「どういうこと?」 「まあ、いいから、いいから」 そして、 「最近、おもしろい本、ないんだよねえ」 と言って、 「自分で書いちゃうか」 と、ズっちゃんは小説らしきものを書きはじめた。 ・ ユウキングはそもそもユウキングではなかった。金魚が好きなユウのことをクラスの男子がユウキンギョと言いはじめ、それがいつの間にかユウキングになってしまった、というただそれだけのことだ。 ・ ユウはキングでもなんでもないことを自覚していて、だからユウキングと呼ばれることが苦痛で仕方なかった。 ・ ユウキングはかつてはユウキンギョだった。それはユウが金魚を好きだからなのだけど語るようなエピソードは特になく、なので金魚が登場してくることは今後ない。 ・ ユウキングの背中を見ているとき、ユウキングの背中もまたこちらを見ているのだ。ユウキング自身はこちらを見てはいないけれど。 ・ 「何、この書き散らしは」 「へへ」 「書き散らしは認めるんだ」 「私の性格みたいよね」 「ああ…」 それ以上、僕は何も言えなくなる。 「ひとつでもいいから完結させてみようよ」 「いやあ」 「何?」 「私の性格がそれを許さないんだよね」 「ああ…」 やっぱり僕は、何も言えなくなる。 「だから言ったでしょ。コーヒーは出てこないのよ」 「…そうだね」 仕方なしに飲んだ麦茶は、終わりゆく夏の味がした。
「ねえねえ。最近B子、遅刻多いよねー。さり気なく言っといてよ」 私は言葉をオブラートに包んで、B子に伝える。 「A子って、ほんと他人気遣えないよね。集合場所、いっつもA子の家から近い場所にするもん。私の家から何分かかると思ってんの? さり気なく言っといてよ」 私は言葉をオブラートに包んで、A子に伝える。 「ねえねえ」 「ねえねえ」 私宛の愚痴はない。 しかし、私以外の愚痴は、私を容赦なく貫いていく。 頭が痛い。 熱が出る。 『大丈夫? ところで、B子が』 『具合どう? ところで、A子が』 私は全身布団にもぐって、あらゆる言葉を遮った。 言い合いに参加できない私の愚痴を、布団がもれなく吸収してくれた。
幽霊が買える時代が来た。“お化けちゃん”。ランダムに封入されているぬいぐるみが流行る中、その勢いに乗っかってくじ引き感覚で購入できる幽霊が発売されたのだ。爆発的に人気になり、正直転売が多くて買うこともできない。 それが今日、ふらっと立ち寄ったコンビニに残っていたのだ。冷蔵庫の中、アイスの横に一つだけ。どきどきしながら、レジに持っていく。 「こちらの商品、すぐに開封されますか?」 「はい」誰かに取られるわけでもないのに、気ばかり急いて返事が短くなってしまう。 「お札を外せばお化けの方から出てきてくれます。できるだけクーラーは付けてあげてください」そうやって教えてくれた店員さんの肩にも、お化けが乗っていた。二重瞼で可愛い。あ、今の声に出してたらお化ハラで捕まってた。 店を出てすぐに、お札を袋から取り外す。お化けが入っているという袋は軽くて、なんだか本物なのか心配になってしまうくらいだった。そんなことを考えている間に袋の表面から、すうーっと、煙みたいなものが出てきて、瞬く間に、店員さんの子とそっくりなお化けが出てくる。 ザ・デフォルメ幽霊とでも言うような、白く丸っこい体に、三角の布を頭に被っている。手は下向きに曲がっていて、招き猫のようだ。 そしてこの子は、口から八重歯が覗いていた。 「君は八重歯ちゃんかあ」お札を裏返し、見る。No.8/100、八重歯。おお、まさかの番号一桁代。十以下の幽霊は少しレアで、他の幽霊よりも人気の特徴を持っている。さらに数の少ない幻のNo.0は、逆に何も特徴がないらしい。No.0の落札価格は余裕で車が買えるくらいだった。でも自分的には、このワンポイント感がなんとも言えないくらい愛くるしくて、すぐに八重歯ちゃんを気に入った。 あ、やば。お昼休みが終わる。八重歯ちゃんに声をかけて、急いで会社に戻ると、みんなから八重歯ちゃんが可愛いと言われた。なんだか自分まで誇らしくなって、いつもより仕事に身が入る。 定時がきて、八重歯ちゃんと電車ですし詰めになりながら我が家に着く。クーラーを付けて、これからはこの肌寒さが日常になると思うと、ようやく八重歯ちゃんが家族になるという実感が追い付いてきた。 「八重歯ちゃん、これからよろしくね」 八重歯ちゃんは、もう寝るとでも言いたげに、またすうっと消えていって、なんだか少し心細くなった。ちゃんと居てくれるだろうか。昨日まで一人だったというのに。 そんなこんなして、ちょっと怖めの悪夢を見て、朝になった。目の前で八重歯ちゃんが唸っている。ごめん寝坊。八重歯ちゃんのこと考えてたからタイマーかけてなかった。今から支度します。 八重歯ちゃんに怒られながら準備をして、駅まで走る。途中ガムを三個踏んで、おじさんに一回ぶつかってしまった。そうやって舌打ちされても謝罪する時間すらないんです! なんとか電車に飛び乗って、またいつもが始まる。 うー、うぅ。という声が聞こえて目を開く。少しずつ頭も冴えてきた。ああ八重歯ちゃんか。八重歯ちゃんとの出会いの夢見てたんだ。もう三年も前か。え?四年前?ごめんって。 イスから立ち上がる。 新聞指差してどうしたの?えーっと、“大人気お化けシリーズ、遂に千種類超え。一桁代プレミア価格か。”だって。いや売らないよ。最近よく言う“売ら飯家ー”にはならないから。 あ、そうだ。久しぶりにちょっと怖い悪夢を見せてよ。
柵を抜けると草刈りの終えた広場に出た 巨大な鉄塔が真ん中にあるこの広場に、人が入ってくることはほとんどない ネズミでもいないかと歩いていると 向こうの柵から知らない猫が入って来た 女だ。ミケの女の子 彼女はこちらを見ないように僕を避けて歩く 僕は彼女を目で追ったまま止まっている 彼女は僕が入って来た柵まで来て、そのまま出ていってしまった 彼女はお尻を向けたまま止まり、一瞬こちらを振り返る そしてどこかへ言ってしまった 僕は毛繕いを済ませ、ゆっくり彼女の匂いを追っていく
久しぶりにある友人に会う。大学に知り合った彼は、在学中に「世界を変える」とか言い始めて、得体の知らない事業を始めた。詐欺まがいなことに手を出したと思いこちらから連絡をかけることがなくなった。 そんな彼から急にメールが来た。ねずみ講だと思った。怪しいと感じた僕は彼の名前で検索してみると驚くことに事業は成功していて、若手有望社長として名を挙げていた。どうして僕に会いたがっているかは分からなかったが、会う恐怖感よりも関心が勝ってしまった。 通っていた大学の近くのカフェで待ち合わせ。ついに彼が来た。見た目はまさに若手社長といったオフィスカジュアルを着こなした好青年だった。もはや一周回って怪しい。左手を見ると薬指に指輪をはめていた。 「久しぶり。」 「おお!久しぶり!」 「忙しくなかったの?」 「なんで忙しいって知ってんの?」 冗談っぽく彼が言う。 「なんで今更僕に会おうって。嬉しいけど」 「ここまで人生上手くいくと、ビジネス抜きでしゃべれる友達がいないの。」 「僕も狙ってるかもよ」 「狙ってるやつはそんなこと言わん。」 すこし僕を信頼してみるみたいで嬉しかった。 そこから僕たちは自分の心境を共有しあった。 彼が僕の年収の何倍もあること。自分の好きだったアイドルと結婚できたこと。今は都内のマイホームの購入を検討していること。正直僕と人生が五段階くらいの差があった。しかし、そんな彼は僕を馬鹿にしなかった。あくまでも個人として尊重してくれた。純粋にこの人のことを知りたいと思った。そこで僕は彼に心理テストを仕掛けることにした。 「The Alligator River storyって知ってる?」 「なにそれ」 「社長だったら、知ってた方がいいかもよ。たまに面接とかでもやるらしい心理テスト。」 「なになに。出してみてよ。」 「あるところに5人がいます。 恋人に会いたくて川を渡りたいAさん。しかし、Aさんの恋人のBさんは川の向こうにいるが、『自力で来て』と言う。そこで船頭のCさんに頼むと、お金を払えば船を出すと言う。お金がなかったAさんは別の船頭のDさんに頼むと『一晩一緒に過ごすならお金をあげる』と言う。条件が飲めないAさんは友達のEさんに助けを求められるが断る。 Aは悩んだ末、Dの条件を受け入れてお金を手に入れ、Cの船で川を渡る。 でもBは事情を知るとAを追い返してしまう。 ここで質問。この5人の中で、一番ムカつくのは誰?」 「ひどい話だなぁ。」 彼は無表情で答える。何を思っているか予想できない。 「俺は全員にムカつくね。Aは他人に頼りすぎ。Bは共感能力に欠ける。Cは資本に囚われすぎ。Dは肉欲にこだわりすぎ。Eは無償の奉仕が生む価値を知らないところが嫌い。」 彼は淡々と答えた。 「これがなんなの?」 「…君には向上心があるね。」 「違う。」 彼はコーヒーを飲む。 「満足したらやめるだけだよ。それにしてもコーヒーを飲むと喉が渇くね。」
主要な政治家、知事などのコロナワクチン接種歴を調べてみたが正確に接種している情報は公開されていなかった。 うまく逃げたな。 やはり政治家は嘘八百である。 これを送ろう。 おまえは言った打ったと。 いつも言ってる切った張ったと。 でも国民から奪うだけだと。 正体は生きるだけの実はど素人。 大阪の通天閣に串刺しにならねえかな。
「あ、お客様! 財布忘れてますよ」 僕は客が置いていった、高そうな長財布を持って急いで出入口に向かった。店を出る直前だった、細身で長身の、何となくやつれた顔の男が振り返る。 「ああ……。それ、もう要らないんですよ。よかったら貰ってください」 「は……? いや、そういうわけには……」 僕の言葉も聞かずに、男は店を出ていった。慌てて追いかけると、その男は普通の足取りで至極当然のように車道へと踏み入り、 「え」 走ってきたトラックに跳ね飛ばされた。 一気に町が騒然とする。激突音にバックヤードから出てきた店長の「救急車呼んできて!」という声に生返事を返しながら、僕は財布を持ったままバックヤードに向かった。 その後、男は救急車に運ばれていったが、あの様子では生きていると考える方が難しいだろう。彼の最期の話し相手が自分になってしまっただけでも後味が悪いのに、目の前にはおそらく遺品になってしまった長財布。一応中身を確認したら、現金はもちろん、いくつかのポイントカードや免許証、キャッシュカードやクレジットカードには、暗証番号のメモまで貼られていた。本気で、誰かに貰わせるつもりだったのだろうか。 しかしながら、当然こんなものを懐に入れる気にはなるはずもなく、店長に相談した後、普通に警察に届けた。 まったく、嫌な目に遭った。しばらくは、良い夢は見られそうにない。 = = = その日死ぬ人を見分けられるようになったのは、いつ頃だっただろうか。いつの間にかわかるようになっていたし、そうなった理由もわからない。ただ、顔がブレて見える人は、その日のうちに死んでしまうことだけはわかっている。 始めは目が悪くなったのかとか、疲れているんだろうとか、そのくらいにしか思わなかった。しかし、顔がブレて見えるようになったその日のうちに友人や年老いていた母が死に、きっとこれはその予兆なのだと気づいた。 当然、どうにかできないものかと自分なりに策を講じてみたこともあるが、そのすべてが何の役にも立たなかった。今となってはもう、顔がブレている人に出会っても見て見ぬふりをしている。 その日もいつも通りに目覚めて、いつも通りに出社のための準備をしていた。そして鏡の前に立った時。 そこには、見慣れすぎた自分の顔は映っていなかった。というより、それが見えなかった。自分の顔がブレて見えることに気づき、自分の最期を悟った。 自分でも驚くほど、妙に冷静だった。その日はいつものように出社するのはやめた。会社に体調不良を理由に欠勤するという旨の連絡を入れると、出かけるためスーツに着替えた。これ以外に外出着はなかった。 それから貴重品を集めて、通勤で使っている鞄に入れた。財布に入れていたカード類に暗証番号のメモを貼り付け、いつも通りに家を出た。 いろいろなところに向かい、行く先々で貴重品を置いて回った。自分は独り身なうえ、母が死んでから親族ともすっかり疎遠で相続する人間もいないのだから、どうせなら誰かが拾って持って行ってくれた方が有意義だ。 今日死ぬことはわかっていても、いつ死ぬのかはわからない。しかし、死ぬことへの恐怖は不思議となかった。強いて言うのなら、それが一番恐ろしいのかもしれない。 やがて貴重品の大半をどこかに置き終え、残るは財布だけになった。都合よくコンビニがあったので、そこに立ち寄った。ATMでなんとなく1万円だけ引き出し、それを財布にしまうとそれを置いたまま立ち去る。出入口を出る直前、店員の青年に呼び止められた。 「あ、お客様! 財布忘れてますよ」 振り返って答える。 「ああ……。それ、もう要らないんですよ。よかったら貰ってください」 「は……? いや、そういうわけには……」 戸惑ったような彼の声を聞きながら、店を後にした。そしてそのまま、まっすぐに歩いた。 トラックに撥ねられるのは、あまり良いものではない。しばらくの間、右半身がかなり痛かった。 初めて知った。 (お題:「拾ったものを返しに行ったら、持ち主が『それ、もう要らないんですよ』と言った。」)
「ち、ちくしょう! 女神のやつ……殺してや……ぎゃああああああ!?」 また一人、異世界転生者が死んだ。 それも、転生させた直後も直後。 異世界最弱に近い、四つ足の魔物によって。 「はあー。なんでこうなるかなあ」 私は、その期待はずれさに呆れていた。 ちゃんと、チート能力を与えていた。 反撃すれば、拳一発で倒せる魔物だ。 でも、最近の転生者たちは、反撃さえしない。 驚いて、腰を抜かして、泣きべそをかいて、噛みつかれて、恨み言を言いながら食われて死ぬ。 いくらチート能力を与えていても、一方的に攻撃を受け続ければ、そりゃあ死んじゃう。 当たり前だ。 「次、探さないとなあ」 私は壁にかけた鏡に触れて、世界の一つを映す。 世界の住民の頭の中を覗きこんで、その住民の覚悟を確認する。 『あーあ。俺がもし異世界転生したら、こうやって、ああやって、大活躍してやるのに』 「見つけた」 今日もまた、次の転生候補を見つける。 正直、先日死んだ転生者と同じようなことを言っているから不安は残るが、仕方ない。 こうしている間にも、異世界の危機は迫っている。 一万人送り込んで、一人でもチートを使いこなしてくれれば採算は合う。 「ねえ、貴方。異世界に興味はない?」 私が鏡に話しかけると、鏡の中から声にならないはしゃぎ声が聞こえてきた。
よく晴れた肌寒い日の昼下がり。とある国の盲目の王が、自室で一人、立派な椅子に腰掛けていた。灯りのない仄暗い豪華な部屋に、少し調子の外れたオルゴールの音がどこか寂しげに響いていた。 「良い音色だ……」 誰に言うでもなく、王が呟いた。 「そうか? こんな壊れかけの音、チビなら怖がって泣き出すだろうよ」 誰かがそう答えた。そんな砕けた物言いに苦言を呈することもなく、王は静かに言葉を返す。 「そんなことはない。軽やかな旋律に混じる寂寞が、音楽に深みを与えている。……とても落ち着く音色だ」 「……変わってるな」 「代々伝わるオルゴールだ。もう何代にも渡って、この家と共にある」 同じ部屋にいるはずの誰かに向かって、王が徐に話し始めた。 「色は……、何色だったか。最後に見たのは何十年も前なものでね……」 「藍色だ。薄暗い、不気味な夜闇を溶かしたような色」 言い淀んだ王に、誰かの声がぶっきらぼうに答えた。 「そう、藍色だ。澄んだ高い青空のような、深く煌めく海のような色。……はは、私も耄碌したものだな」 「全くだ。人間ってのは歳をとると体どころか趣味まで悪くなるらしい」 「はっはっは、……そうかもしれないな」 どことなく不機嫌そうな誰かの声に、王は愉快そうに朗らかに笑った。 やがてオルゴールの音が途切れ、広い部屋に静寂が訪れる。しばらくの間、無音に耳を傾けるように黙っていた王が、静かに口を開いた。 「悪いが、もう一度螺子を巻いてくれないか」 「……本当、変わってるな」 王の言葉に、誰かの声は溜息混じりにそう答えた。 藍色のオルゴールの螺子が、一人でに廻り出す。 カチカチ、カチ。螺子を巻く小さな音がしばらく鳴ると、再び寂しげな音色が部屋に響き出した。 「本当に、良い音色だ……」 「……」 王の呟きに、誰かの声は答えなかった。 オルゴールの音色が、まるで溜息でも吐くかのようにゆらりと揺らいだ。 (お題:『盲目の王』『壊れかけたオルゴール』『藍色の溜息』」)
子供の頃の元気は、どこから来ていたのだろうか。 そんな質問を、真面目に考えてみた。 体力。 我武者羅。 将来への期待。 つまるところ、世界における自分の立ち位置を知らないが故の振る舞いに帰着するのだろう。 自分が生徒だと知っているからこそ、授業中は先生の指示で椅子に座る。 もしも自分が生徒だと知らなければ、きっと教室を飛び出し、廊下を駆けだすに違いない。 「ならば、大人になって自分の立ち位置を知ってしまった今、我々の人生はなんなのだろうね?」 コーヒーに口をつけ、私は友達に問いただす。 子供の頃はまずいからと嫌っていたコーヒーも、カフェインによる眠気覚まし効果があると知ってからは愛飲をしている。 これもまた、コーヒーの立ち位置を知ったが故。 「燃えカスのようなものじゃないか? しかし、燃えカスには燃えカスの役割があると思うんだ」 「例えば?」 「草木灰。植物の燃えカスは、土壌の三度を調整して、次に生まれてくる野菜たちの養分となる」 「次世代のための養分、ねえ。完全に脇役じゃないか」 また私に、新しい立ち位置がインプットされる。 若者として主役を走っていた立ち位置から、若者を育てる養分として脇役になる立ち位置へ。 「いいじゃないか、脇役。物語は、主役と脇役がいるから成立するんだ。桃太郎の物語に、犬も猿も雉も出てこなければ、面白味もない」 「桃太郎一強でも、様になる気はするけど」 「きっと、鬼もいない」 「ああ、それはつまらなさそう。桃から生まれただけの人で終わる」 コーヒーが空っぽになったので、目くばせをして店を出る。 きっちり割り勘にして、きっちり解散。 街の大衆に紛れ込み、私の体が脇役へと溶けていく。 「いくぞ! 走れ!」 途中、ランドセルを背負ったチビたちの大群とすれ違う。 リコーダーを旗のように振り上げて歩道を走る姿に、かつて体内に存在しただろう感情が一瞬脈打った。 「こら! 危ないだろ!」 そんな感動も、大衆から発せられた立ち位置をわきまえている極めて真っ当なお叱りによって、すぐに萎んでいった。 「……ケーキでも食べるか」 気分が萎えた私にできるのは、ケーキを食べたくなったからケーキを食べるという、主役時代には決してできなかった行動だけだった。 家に帰って食べたケーキは、カサカサの灰のような味がした。
インターフォンがなった。 誰かと思ってカメラで外を見てみれば、にこにこした女性が二人立っていた。 一人は年を食っていて、一人はまあ若い。 宗教勧誘かとも思ったが、手に持っているのは本でなくのしのついた箱だ。 「はーい」 俺が玄関の扉を開けると、二人の女性は顔を見合わせて笑顔になっていた。 「あの、私たち、隣に引っ越してきた者なんですけど。引っ越しのご挨拶にと思いまして」 「それはまあ、ご丁寧にどうも」 「こちら、つまらないものですが、良ければどうぞ」 年を食った女性が、箱を渡してきたので、俺は素直に受け取った。 タオルか何かだろうか。 「ついでに、つまらない人間ですが、私もどうぞ」 若い女性が俺の手を握ってきたので、俺は思わず固まった。 いい匂いがする。 「まあー。いいお相手と出会えて良かったわねえ。じゃあ、後は若い者たちだけで」 俺が戸惑っていると、年を食った女性は扉を閉めて、立ち去っていった。 玄関に残ったのは、俺と若い女性のみ。 「え? いやいや、え?」 俺が肩を掴んで女性を引きはがすと、女性は一瞬驚いた後、目を潤ませて俺を見てきた。 「私じゃ、嫌ですか?」 「いや……。嫌とか嫌じゃないとか、そう言う問題じゃなくて」 「私、料理得意です!」 「料理は、俺もできるから……」 「後、掃除も得意です!」 「掃除もできるしなあ」 「Gカップです!」 「話を聞こうか」 俺が意識を取り戻したのは、翌日のことだった。 隣に眠る名も知らぬ女性を見ながら、俺はカーテンを開けて、遠くの空を見つめた。 「俺の人生、これからどうなるんだろう」
出さない手紙に意味はあるのかと でもそれは 僕の勝手だ 届いた手紙に意味を見出せるのかと でもそれは あの子の勝手だ あの子が好きな夏はすぎてしまった でもそれは 夏の勝手だ そんなに好きじゃなかった夏も 悪くないと思えた でもそれは 僕の勝手だ
ドーナツの穴をのぞいた先に希望が見えたらいいけれど 現実はドーナツみたいに甘くはない せいぜい おい、何してるんだ そんな顔で「のの」がこっちを見てくるくらいだ 私の顔なんて見あきたとばかり 「のの」は窓際に行って外を眺めはじめる しんけんに空を見て 雲の流れをおっていく 風が強く、うかぶ雲はとても流れがはやくて 太陽はその場にとどまることに難儀しているみたいだ 「のの」があくびをして そしてまた、外に視線を移す そのすこしのあいだで雲のかたちが大きく変わってしまい 「のの」は困惑ぎみに私を見てくる
「ハァ……」 天使が一つ、溜息をついた。 「どうか……どうかお助けください、天使サマ! 名前は、えぇと……」 大きなステンドグラス越しに夕日が差し込む静かな教会。今日も又、「仕事だから」と仕方なく教会へやってきた天使は、教会の最奥に置かれた大きな神像の頭の上に座り込み、未だに思案を巡らせている少女を見下ろしていた。彼女に天使は視えていない。 「なんだっけ……イグアナ……じゃなくて、シブサワ……? それは違う人か。うーん……」 「なんで毎日来るくせにひとの名前覚えてないのこいつ?」 天使は呆れかえった表情で再び溜息をついた。 「全く……これじゃボクが帰れないんだけど」 そう呟くと、天使はどこからか懐中時計を取り出した。そして鏡映しの文字盤を見る。 「この時計、直ることあんのかな……?」 天使にとって、時計は命の次に重要なアイテムだ。時計は人の時間を、歴史を、思い出を記録する。「善い人」を導く役目を負う天使にとって、人の一生を見ることができる時計は決して欠かすことのできない道具である。これを見るためには、時計は時計でなくてはならない。つまり、「逆さまの時計」ではその力は持ちえないのだ。 「大天使様が言うには、あいつの手助けをしていれば直るって話だけど……」 そう言って天使が目を遣った先には、未だに云々と唸り続ける少女の姿があった。 「シバヅケ……ラッキョウ……? うーん、あおかっぱ」 「なんで漬物なんだよ……」 「なんか違う気がするんだよなぁ……」 「何もかも間違ってるよ」 「なんだっけなぁ、あとちょっとで出てきそうなんだけど……」 少女が天使の名前を思い出そうとするのには理由があった。この協会は彼女の実家でもあるのだが、ここでシスターを務めていた祖母の教えがあるのだ。「神様は多忙なので助けを求めるときには天使を呼ぶこと。お願いを聞いてもらうときには天使の名を声に出し、敬意をもって呼ぶこと。頼る相手はひとりに決め、手あたり次第すがらないこと」。それとともに、この教会が世話になっているという天使の名も教わっているのだが、 「ジーパン、セーラー……短ラン?」 「なんで服になるんだよ。というか短ランとかよく知ってるな……」 この通り、少女はなぜだか天使の名だけを忘れてしまっているのだ。 対する天使は、教会に呼ばれている場合、自らの名を呼ばれるまでは手助けをすることが出来ない。名前そのものが、天使の力を発揮させるための呪文のような役割を果たしているためだ。 そういうわけで、この少女はいつも願いを伝える段階まで話を進められず、この天使はいつも手助けできないまま自分の名とは似ても似つかない言葉の羅列だけを聞かされ続けている。 「違うなぁ……もっとこう、気の抜けるような……。ファスナー……?」 「! そうだそう、母音はあってる! この際『気の抜ける』発言は見逃すから、今日こそ思い出せ……!」 「うーん、マスター……キャスター……」 「おお、かつてないほど近い! あとは頭の文字だけだ……!」 「ファスター……あっ、春日!」 「アスターだよ!」 ゴーン、ゴーン……。 どこからともなく鐘の音が響く。 「えぇ、もうそんな時間? あとちょっとで思い出せそうだったのに……」 「ああもう、今日も願いともボクの名前とも無関係な言葉を聞かされただけだった!」 「じゃあ、私もう行かなきゃなので失礼します、天使サマ! 明日もまた来ますねー!」 そう溌剌と言いながら、少女は荷物を持ち、小走りで教会を後にする。 「明日こそボクの名前を思い出してから来いよなー」 ゆっくりと閉じていく大きな扉を見ながら、天使が声をかける。 扉が閉まり、ドォン……と静かにずっしりとした音が響いた教会で、神像の頭の上にだらしなく寝そべった天使が、呆れたように溜息をついた。 (お題:『天使の溜息』『逆さまの時計』『君が忘れた名前』)
「楽に稼げたらいいのになぁ……」 自堕落な呟きは白く昇る息とともに朝日に消えていく。 まだ青白い斜陽が照らす公園は閑散としていて、冴え返る空気の中で動くものといえば早起きな鳩くらいのものだ。 「どこかに金でも落ちてないもんかね」 どっこいせ、と冷え切ったベンチから腰を上げると、近くにいた呑気な鳩たちが驚いたように少し飛びのいた。それを横目に、伸びをしながら公園の隅を歩き始める。 しんと静まり返る凛然とした朝の空気に、ジャリ、ジャリ、と砂を踏む音だけが響く。 遠くの方でカラスが小さく鳴いた頃。公園の片隅にジッと佇む自販機の前で、キラリと輝く「落とし物」を拾った。ほんの少しだけ黄みがかった、少し大きいコイン。精巧に作られた凹凸が浮かび上がらせる、「500」の文字。 「お、ラッキー。今日はツイて——」 ツイてるかもな。そう言おうとした瞬間、黒い影が鼻先をかすめた。あまりに突然すぎて反応することもできず、黒い影が去った手元を呆然と見つめれば、摘まんでいた五百円玉は夢幻のごとく消えてしまっていた。 ふと、カラスが頭上でカァと鳴く。 何気なく顔を上げれば、どこか揚々とこちらを見つめるカラスが一羽。よく見れば、その嘴には何やら煌めく「拾い物」を咥えているらしい。 「アイツか……」 何となく事の次第を察し、小憎らしいドヤ顔を睨め付けながらため息を吐く。 視線の先で、カラスがまた一つカァと鳴いた。 赤みを増してきた斜陽が、寒宵の気をすっかり解きほぐす。底寒い冬の朝の、ちょっとした出来事。
都会の明るい夜に慣れ過ぎて 深夜に散歩することが 習慣みたいになっていた でもやっちゃダメだったんだ 男だからと油断していたんだよ もしもこうなると知っていたら 外なんか出なかったのに その日は盆休みで帰省していた 夜遅くまで両親と酒を酌み交わす 二人は先に寝てしまったけれど 俺はどうにも寝付けなくて 酔い覚ましも兼ねて 深夜散歩に出かけることにした 一歩外に出て玄関を閉めると 辺りは途端に黒の陰影だけになり ポツポツと立ち並ぶ街頭だけが 黒い田んぼ道を照らしていた その光景に少し息を飲んだが スマホのライトを付ければ なんてことはなかった スマホのライトを頼りに歩く もう日付が変わる頃だったので 他に歩いている人はおらず たまに車が横切るだけだった 近づく車の音だけには注意しながら 夜風を感じながら歩く さてそろそろ帰ろうかと 来た道を戻ろうとしたときだった 振り返った先の黒い景色が 揺れているのに気づいた 直接ライトを向けるわけにもいかず 遠くてハッキリとは見えなかったが どうやら人影らしかった ライトも付けずに歩くなんてと思ったが 慣れていればそんなものかとも思えた 人影らしきものが近づくにつれて ライトがその足元を照らしていく サンダルとスカートの端が見える この人とすれ違ったら遠回りして帰ろう そんなことを考えていたときに 気づいた 恐らくは女が手に持っているのが 刃物だということに アルコールなんて吹き飛んで 全身から冷たい汗が吹き出した 呼吸は思わず止めてしまったが しかし足を止めるわけにはいかない 女を刺激しないようにライトを下げて ただただ祈りながら震える足を前に出す 女の足音がどんどん大きくなっていく 女の足元がライトの円の中に入り そうして通り過ぎていった 女の足音が徐々に小さくなっていく 俺はしばらく早歩きで進み続けてから ゆっくりと速度を落とし立ち止まった 辺りはしんと静かになった 俺の足音はもう聞こえない 女の足音も聞こえなかった ずずずと後ろを振り返る 黒い陰は立ち止まって その場でゆらめいていた 女がどちらを向いていたかはわからない だが俺は迷わずまた歩き出していた できるだけ遠くへ行かなければ 静かな夜に俺の足音が響いていく するとそれにもう一つの音が重なっていく 見たくなかったが見るしかなかった 足は止めないまま振り返ると ライトの先ではさっきの女が 小走りで追いかけてくるのが見えた そこからは無我夢中だった とにかく走って走って走りまくった そうして現在地もわからなくなった頃 ふと足を止めると足音が聞こえない 振り返って辺りを照らしたが もうあの女の姿は見当たらなかった まだどこかにいるかもしれない そう考えライトで周囲を照らし 警戒しながら家へと帰ることにした 結局のところ何事もなく 実家へ帰ることができた もしかしたら何かしら 俺の勘違いだったのかもしれない そんな風にすら思いながら 部屋に直行した俺はそのまま ベッドに倒れ込んで眠った 「朝ごはんいらないのー?」 母の声に目が覚めてリビングへと向かう 父はもう仕事へ向かったらしく 母は食器洗いをしていた 用意された朝食をすぐに食べ終えると キッチンに立つ母の元へ皿を運ぶ 「自分で片付けるなんて成長したわねー」 「それ毎年言ってるけどな」 そんな会話を交わしながら皿をシンクへ入れる ちょうどそのとき入れ替わりで 母がシンクから包丁を取り出して洗い始めた
カツ丼と、天丼と、親子丼で、たくさん迷って あげく全部注文しちゃうくらいであってほしいのに コイツときたら 「ああ、もう食べらんないよ」 ざるそばを前に弱音を吐く はあ、まったくさ 「あとひと口食べなよ」 「さっきからそればっか言ってさ」 「だってさ」 「それを続けてやっとここまで……」 「も少し続けたらなくなるよ」 「はあ……」 こっちが「はあ……」だよ、食事の途中でため息なんてさ たのしい食事にしたいのにさ そのくせ、お惣菜屋さんの前を通ったりなんかしたとき 「コロッケおいしそうだね」 とか言ってポケットから素早く財布を取り出してる 子どもなんだよなあ、コイツはさあ そんなコイツとうまくやってるわたしにしても やっぱり子どもなんだけどさあ
--- tags: - 106号室 - 幸せ status: 経過観察 --- # 揺らぐ 朝日が眩しい。 隣には寝息を立てる君。 声を掛けても、起きる気配は全く無い。 身体を揺する。 機嫌悪く起きる君。 「おはよう」と確かめる僕。 腹を抱えながら照れ臭そうに笑う君。 ぐちゃぐちゃのその髪型さえ愛おしい。 二人仲良く並んで歯磨き。 小さい洗面台の取り合い。 互いに歯ブラシを口元に突っ込んで語らう。 何喋ってんだか全く分からない。 だけど、伝わる。 賞味期限切れ間近のお勤め品コーナーに置いてあったノーブランドの食パンを、好みのジャムを塗って一口、二口。 視線が合う。 互いに確かめるように顔を見て、微笑み合う。 まるで何もなかったかのように。 いつも通りのありきたりな日常。 些細な幸せ。 二人だけの幸せ。 ――目を閉じる。 腹を抱えて嗤う君に、僕は気付いた。 僕だけが視えていなかった。 君の事を。キミの気持ちを。 彼女の輪郭が揺らぐ。 羽音が空間を満たす。 涙を流す君。 ゆっくりと動く口元。 聞こえないけど、伝わる。 眼前に迫る爪先。 彼女はそれを、ゆっくりと深く沈めた。 ――朝日が眩しい。 何も見えない。 痛みは無い。 感触と、音だけが僕に残された。 頑張ったね、えらいね。 君のいつもの口癖を、機嫌の良さそうな声で繰り返すキミ。 確かめるように目元に手をやる。 深く刻まれた傷。 窪んだ穴が、二つ。 瞼を開ける。 キミと僕だけが視える。 キミを通して。 『おはよう』 幾重にも重なるキミの声。 幾重にも連なる君の姿。 蠢く羽根が僕を呼ぶ。 キミと君。 伸びた爪先には、僕の肉片が付いている。 まるで何もなかったかのように、 互いに確かめるように、 腹を抱えて微笑み合う。 愛おしそうに視線を外すキミ。 視界が揺らぐ。 照れ臭そうに僕の疵を撫でる。 そのキミから視える僕の後ろ。 背後に羽音が聴こえる。 『頑張ったね、えらいね』 互いに確かめるように手を重ねて、カーテンを閉じた。 --- tags: - 106号室 - 幸せ status: 適合 --- # 触れる いつからか私の事を避けるようになった貴方も、今は私だけを求めてくれている。 ほら、今も私を探してる。 おはようと優しく撫でてくれる貴方が愛おしい。 私が起きると貴方も起きる。 私が歩くと貴方も歩く。 二人仲良く並んで、歯ブラシでしゃかしゃか、もごもご。 何喋ってるのか全く分からないよ。 だけど、伝わる。 味覚まで似てきたのかな? 私の好きなジャムでパンを頬張る貴方。 笑い方まで似てきたみたい。 いつも一緒。 これからも私だけを見てくれる貴方。 「おはよう」 朝日に照らされる貴方。 黒く大きな瞳で私を見つめる貴方。 「頑張ったね、えらいね」 証を優しく撫でる。 貴方の音が聴こえる。 私と同じ音。 互いに確かめるように手を重ねて、カーテンを閉じた。 --- tags: - 106号室 - 幸せ status: 幸せ --- # 滲む 同じ光景を眺めている。 同じ空間を見つめている。 同じ二人が、同じ二人に魅入られる。 同じ仕草、同じ動作、同じ歩幅。 減らない歯磨き粉、減らないパン、減らないジャム。 変わらない光景、変わらない空間、変わらない二人。 君が瞬きをする度に、視点が揺らぐ。 僕が触れる度に、君が照れる。 ボクが笑う度に、キミも嗤う。 私が深く沈める度に、二人に涙が伝う。 ――反芻。 カーテンを開ける。 僕の輪郭が滲む。 私の輪郭が滲む。 それを見つめる二人。 深く沈むように肌を重ねて、瞼を綴じた。
カラダのほうは 思ったより細いけれど アタマがおおきいのも ときどきみかけるけれど 強い風にその身が傾いでも 子どもらにぺしぺしとはたかれても 桃色の秋桜が好きなんだがねえ あの人がいって ええ わたしが短く応じて
「お疲れ様です」 「お疲れ様」 プルタブを上げ二人は同時にコーヒーを飲む あ〜とCM並みの溜息が出る 「昨日の帰り雨降ってたじゃないですか」 「あぁ、丁度降り始めたところだったよな」 先輩が煙草を加え火をつける 後輩がコーヒーをもう一口飲む 「僕の家、川の側で、道がかなり浸水していて、一面池みたいになってて」 「そんなに降ってたか」 「はい、こっちはヤバかったですよ」 先輩の口から黙々と紫煙が昇っていく 後輩からは先輩が煙の中にいるように見える 「公園を越えたら家なんですけど、公園の側のマンホールがズレて水が溢れちゃてて。こう噴水みたいに。こんな感じで」 「マジか」 先輩は後輩が噴水の真似をしているのを見て、それはよく分からないけど、と思う 後輩は額に汗を流しながら噴水の様を真似している 「スゲーなって見てたらマンホールからにゅーって、出てきたんですよ」 「えっ?出てきたって何が」 「あれ河童だと思うんですよね」 「河童?…あぁ怖い話してんのね」 「え?知りません?河童、緑色の体と頭に皿があって」 「いや知ってるよ。河童は。河童なんかいるわけないだろ」 「いや、いたんすよ。噴水がこうあって、シャワーみたいに凄い水で」 「いや噴水の話はもう分かったから。河童が本当にいたの?」 「はぁい」 「…はい。って。…じゃあその後、河童はどうしたの?」 「何か僕が見てたのに気がついちゃったみたいで、コソコソしてどこかに行っちゃいました」 「…あぁそぅなの」 「はぁぃ」 その日の帰り先輩が家に着くと、料理をしながら奥さんが七歳になったばかりの娘と笑いながら話している 「ただいま」 「おかえりなさい。あなた聞いてよこの子がね…」 「パパ!私ね。河童をみたよ。コンビニにいたの」 先輩は驚いて鞄を床におとす 「あなた、笑っちゃうでしょ」 「本当だよ。パパ、河童知っている?」 「知ってる知ってる。河童は知ってるんだよ。それで、か、河童はコンビニで、な、何をしてんだ」 「たくあんを持ってレジにならんでた」 妻が大笑いをしている 娘は本当だよと言うが、妻の笑い声につられて笑っている 「たくあんかぁ…妥協したんだな…」
苦しい。覚えているのは苦しかったこと。 走って走って、転びそうになって、それでも走って走って。腕の中で泣いている弟の声を聞きすぎて耳がおかしい。音が遠い。違う、弟のせいじゃない。あいつらのせいだ。もしかしたら耳を失くしているのかも。さっきの剣先は避けたと思っていたのに。走って。どこまで。分からない。どこかへ。 「弦義くん!」 その声に目を開けると、見慣れた天井だった。10年、いや20年以上見ている天井。 「最近、よく夢にみるな」 そう寝起きの掠れた声で呟けば枕元のスマートフォンが起床時刻を知らせてきた。手探りで止めて、ゆっくりと起き上がる。なんだか脚が怠い。あんな夢をみたせいだ。 「起きないと」 深呼吸をひとつして無理矢理にベッドから立ち上がる。 「今朝は何にするかな」 弥栄弦義の朝は早い。 冷水で顔を洗い、台所に立つ。昨日は米だったから、今日はパンにするか。そう思いたちトースターで食パンを焼く。その間に挟む具材を調理していく。毎日こなしているだけあって手際がいい。今日は義父も居るから三人分だ。仕事でアメリカに行くことも多く、忙しい人だから居ないことが多い。なので、言葉にはしないが彼が在宅の日は嬉しいと思っている。弟には「言えばいいのに」と言われたが、なんだかな。弟がそういうことをよく言うので、自分の言うタイミングをなかなか掴めずにズルズルと来てしまっている。父の日とか、きっかけがあれば言えるかもしれない。 「おはよう、弦義くん。今朝も早いな」 「おはようございます、一条さん」 そんないつもの挨拶を交わし、義父である一条は席につく。既にスーツに着替え身支度が済んでいるので、彼も自分と同じぐらいの時間に起きていたのではないだろうか。 焼き上がったトーストに具材とソースを挟み、更にもう少し表面に焦げ目がつくように焼く。完成したホットサンドをテーブルに置けば、一条は「美味しそうだ」と言ってくれる。 「ありがとうございます。弦護を起こしてきますね」 「なら俺はコーヒーを淹れておこう」 早い二人の分まで眠るかのように、弟である弥栄弦護は朝に弱かった。大人になって手がかからなくなっても、ここだけは変わらない。 「弦護、朝だぞ」 んんー、と生返事をしつつもぞもぞと上体を起こす。まだ半分夢の中なのか、頭がふらふらと揺れている。 「ほら、早く起きないと朝飯が冷めるし、一条さん仕事に行っちまうぞ」 「それは……やだ……」 大きな欠伸をひとつすれば漸く目が開いた。 まだ眠そうな弦護を引き連れてリビングに戻れば、淹れたてのコーヒーのいい香りがした。 「おはよう、弦護くん」 「……おはようございます」 差し出されたコーヒーを一口飲んで、少しは目が覚めたようだ。ふわりと笑って言葉を交わしている。 こういう朝の日常というものは嫌いではない。どうしても殺伐となる仕事をしている身だ。こういう時間を過ごせている自分たちはとても恵まれているのだと思う。それもこれも、あの時見つけてくれたのがこの人だったからだろう。もし、他の誰かだったなら。もし、見つけてもらえずに犬死していたなら。考えて、容易に想像できることに嫌悪する。 「なぁ、二人とも。今度の長期明けにはなるんだが、よかったら久々に出掛けないか。やっと休みがとれそうでな」 この人から普段聞きなれない休みという単語が出たことに驚いた。少し間を要したが隣に座る弟の顔を見れば、弦護もこちらを見ていた。そうだな、と思い口を開く。 「行きます」 「行きたい」 二人揃った回答と声に一条さんは笑った。