南瓜

 かぼちゃが好きだ。何が好きって、これを切る時と種をくり抜く時がたまらない。  先ずは半分。よく研いだ包丁を振り下ろす。  なかなか切れない。自分の手を切らないよう注意して、包丁をギコギコと前後に動かす。  めきめきと音を立ててかぼちゃが真っ二つになる。何という達成感。だが、まだ終わりではない。  さらにそれを二等分。めきめきぎごぎこ、きっと人の肉や骨を切るときもこんな感触なのだろう。  これは予行練習だ。大嫌いなあいつを殺すための。  四等分したかぼちゃの種を、スプーンで丁寧に取り除く。ぐりぐりごりごり、1粒も残さないように。これも予行練習。あいつの目をくり抜くための。  綺麗に種を取ったら、もう一度半分に切る。  鍋に放り込んで、醤油や砂糖や味醂やらを入れて煮込む。  あんたを切り刻んだ後も、そんな風に美味しくなれば良いんだけどね。  そう思いながら、笑って夫の前にかぼちゃの煮物を出す。  何も知らず、いただきますも言わずそれを食べる彼を、かぼちゃのようにバラバラにする想像をして、私は毎日過ごしている。  いつか絶対実行してやる。そう思いながら、包丁を研いでいる。

呪いの人形と呪いの人間

「人間……」    私の目の前には、不幸にも私を封印していた箱を開封した人間が立っていた。  所有者に不幸を与える呪いの人形と呼ばれる、この私を。   「人間…‥お前に……憑りついてやる……永遠に……」    この人間に恨みはない。  しかし、長きにわたり封印されたこの恨み、この人間で晴らすとしよう。    人間は目を丸くして驚き、数歩後ろに下がった。    そして、なぜか落ちていたバナナの皮を踏んずけて、漫画のようにひっくり返った。  ひっくり返った先には、水の入ったバケツが置かれており、頭から突っ込んだ。  その衝撃で、バケツがスライドし、階段へと放り出された。  ゴンゴンガゴン。  何度も頭をぶつけながら、人間はバケツごと階段を落ちていく。  階段を落ちた先には、狂暴そうな犬が眠っており、バケツで思いっきり尻尾を踏みつけた。  犬は痛みで思いっきり叫び、自分に痛みを与えたそれに怒りの目を向け、人間の足に思いっきり噛みつく。   「いだいいいいい!!」   「なんでだよおおおおお!?」    待って。  まだ私、何もしてない。  憑りついてないし、不幸にあう呪いなんてかけてない。             「いやー、ぼく、昔からこうなんですよね」   「あっ、はい。そうすか」    なぜか私は、人間から人生相談を受けていた。  曰く、生まれた時から不幸体質で、一日一善ならぬ一日一不幸が最低でも訪れるらしい。  何その体質。   「人に不幸を与える呪いの人形さんなら、不幸が起きる原因もわかるんじゃないかなーと」   「私をなんやと思っとんねん」    人間に同情したわけではない。  しかし、不幸体質の原因には純粋に興味がある。  私は、目に力を込めて、人間を見る。    人間の体には、明確に呪いがかけられている痕跡があった。   「でかいな」   「えっ!?」   「股間を隠すな!! そんなところ見てない!!」    呪いは、黒い靄のように見える。  一般的な呪いの大きさは、肌から数センチメートルにかかる程度で、着ぐるみのようにまとわりつく。  が、この人間は、人間の身長の倍以上がまとわりついている。  巨大な球体の中に、体がすっぽりと隠れているイメージだ。   「御愁傷様です」   「見捨てないで!?」   「お前を助けたところで、私に得はないしね」   「得……得ならあります!」   「ほう?」   「髪が傷んでそうなので、我が家の高級トリートメントプレゼントします! お母さんが美容院で買ってくる、飛び切りいいやつです!」    私は、自分の髪に手を当てる。  指通りが悪く、ギシギシとしている。  これは酷い。   「契約成立だ」    一先ず、呪いの元を探さなければならない。  私はさらに目に力を入れる。  呪われた対象と呪いをかけた主は、紐のような靄で繋がっているのが相場だ。   「見えた!」    人間からは、無数の紐が伸びていた。  なるほど、複数の呪いによって、この人間の呪いがここまで巨大になってしまったのだろう。  何本……いや、何十本か。    私は一本の紐を目で追う。  紐は、上へ上へと向かっていき、折り返し、再び人間の中へ入っていった。       「え?」    同時に、私の頭に衝撃が走る。  何が起きたかわからないまま、私は床にうつ伏しており、目の前には砕けた私の頭の一部が散乱している。  頭の一部は、人間の手でつままれて、人間の口に放り込まれた。    振り向いて見た人間の目は虚ろだった。   「駄目だよ?」   「駄目だよ?」   「駄目だよ?」   「駄目だよ?」   「駄目だよ?」   「あげないよ?」    私の体が砕かれていく。  手が足が。  何もかも。    この人間は、どこぞの呪いの人形に好かれているのだろう。  好かれ過ぎているのだろう。  そして、人間に近づく呪いの人形を、次から次へと葬り、食してきたのだろう。    結果、どこぞの呪いの人形と、喰われた呪いの人形、複数の呪いが合わさってこんなに巨大になったのだろう。    まあ、分かったところで、ではあるが。

時々思うこと

何かいきなり死にたくなることあるよね。 例えば、このあと絶対怒られるのが分かってる 時とか、大勢の前でミスをした時とか。 でも、何も無いのに突然死にたくなることない かな?私はなんでも出来る。 片想いも出来てるし、家族もいる。学校だって 行けるし、友達もいる。ご飯だってこまらな い。 何でだろうね。この先の未来を考えると、真っ 暗く見えて地獄に見えて。いい人生を歩めない 気がしてさ。ふらっと誰にも知られず誰の記憶 にも残らずに消えたくなるの。 何度か性格曲げられたからかな?物事を いいように捉えられないの。 今、私の心の中はこうだよ。 死にたい、消えたい、つらい、苦しい、 いたい、なんで私が、好きなのに、なんで見て くれないの、みてよ、見て、私をあなたの目に 写して、ギュッてして、離さないで、好きって 愛してるって言ってよ。考えすぎていたいよ 吐き出したい、眠い、気持ち悪い、 だれか。誰か助けて。 見た?これが私気持ち悪いよね。いつも明るく 振舞ってる人がこんなこと考えるはずないって おもうよね。 だろ?違うか?なぁ……こたえろよ!! お前らのせいだ、お前らのせいで 元に戻れなくなったんだ!!返せよ! 明るい私を返して。 保育園の時に私を馬鹿にしてきた田中先生も、 小学校の時に虐めてきた奴等も、 今尚、私を苦しめている親も家族も、 ぜんぶ、全部!! 死んじゃえばいいんだ。 あはは、はは、あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは、あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは ………………………………誰? 君ィ。キミだよソコノオマエ。シンデクレル?メザワ リダ。クタバレ、オマエナンカキエテシマエ えっ? 『グサッ』 『ポタポタ』 『グシャッ』 ? あーあ。死んじゃった〜。やっぱり人間っ て愚かな生物だよね〜。 ………………次の実験してみるか。 じゃあそこの画面にいる君ね。 タノシミダナァ〜。

「どうしようもない」

そろそろ一区切り付けるために書いておきたいなと思いつつ、先延ばしにしていたのでぽつぽつ打ちこんでいこうとおもう。 最近のことを一言で言うなら『災難』だ。 どうしようもない不幸があって、それが立て続けに起こったといえる。「どうしようもない」に関しては、わたしには特に何も起こらなかったからと言えるのだが、まあ見事にわたし以外の人間が『災難』だったのである。 まず妹が大変なことになり、そこからなし崩しにわたし以外の人間が動けなくなった。同じ日に叔母を筆頭とする親類の環境が突然変わった。わたしの家についてはなんとか普段通りに戻ったものの、叔母関連については正直解決するどころか悪化している。人間関係というのは大変なのだな、と改めて実感するほどには。叔母本人もだが、その周りが見事に不幸の連鎖に陥っているような気がしており、これが来年まで続く可能性が高いというのだからもう「どうしようもない」。 わたしは基本的に外出しないしそもそもできない人間なのだが、それが良くも悪くもわたしだけ運良く免れることになってしまったのはなんとも申し訳ない気持ちになる。ただ、特別なことをする訳でもなく淡々と自分の生活を守り続けるようにしていたからか、最初以外はしんどいとは感じなかった。最初はさすがにしんどかったけれど。 一大事が終わって安堵しても未だ身内には不幸が降り掛かっている。特に兄と妹だ。兄に関してはスピード違反を切られたり(自業自得)、車を擦ったり(自業自得)、趣味のものが壊れたりした。もちろん一大事にも巻き込まれている。 妹は一大事の筆頭であるのだが未だにそれが完全に終わっている訳では無いし、他者からあることないことを言われているし、財布を落として免許証などを全て無くした。中に入っていたお金は下ろしたばかりだったらしい。お金に関してはもう可哀想としかいいようがない。 母に関しては一大事は終わっているが、身体の方にちょっとした異変が起きていて病院に行くことを勧めているし本人も探してはいるのだが、診療科が若干特殊で悩んでいるようである。 叔母関連に関しては祖母がかなり精神的に参っている。母は鬱にならないかと心配しているのだが、わたしという前例があるからかなんとか地雷を踏むことなく見守れているようである。ただし、祖母がいつ我慢出来なくなるのかは未知数だ。住んでいる家を一時的に離れざるを得なくなり、好きなことも出来ず、社会との関わりを半強制的に断たれ、幼い子供の面倒を見なくてはならないとなったら、わたしなら全力で逃げ出したい。何も出来なくて申し訳ないが、わたしは壊滅的に人と関わるのが苦手なので、この件に関しては妹を送り込むという提案しかできそうにない。ちなみに叔母は未だに病院にいる。 なんともまあわたし以外の人間がかなり不幸な目にあっているのだが、わたしはいつもの体調不良と戦うくらいで済んでいるのでだいぶマシなほうだろう。気圧と天候とストレスで簡単に体調崩すのは相変わらず治らない。ストレスに関しては姪から何故かメッセージがきて、その返信を遠回しに言われて動悸と目眩と冷や汗が止まらなくなるくらいに追い詰められたのがキツかった。壊滅的に返信が出来ないのは身内でも例外ではなくLINEをやってないのは人とのやり取りが出来ないことに関連するのだが、何年経っても一度張り付いてしまった恐怖は拭えないらしい。 こんな感じで未だに不幸は継続中なのだが、とりあえずでもみんな生きているからいいかと呑気に思っている。正直なところわたしはたぶん生死を問わず変わらないし「どうしようもない」ことはあるにせよ、なるようにしかならないので、いまは妹が買ってきてくれたシュトーレンを食べることを楽しみに生きようとおもう。

P.I.

3. 141592653589 793238462643 383279502884 197169399375 105820974944 592307816406 286208998628 034825342117 067982148086 513282306647 093844609550 582231725359 408128481117 450284102701 938521105559 644622948954 930381964428 810975665933 446128475648 233786783165 271201909145 648566923460 348610454326 648213393607 260249141273 724587006606 315588174881 520920962829 254091715364 367892590360 011330530548 820466521384 146951941511 609433057270 365759591953 092186117381 932611793105 118548074462 379962749567 351885752724 891227938183 011949129833 673362440656 643086021394 946395224737 190702179860 943702770539 217176293176 752384674818 467669405132 000568127145 263560827785 771342757789 609173637178 721468440901 224953430146 549585371050 792279689258 923542019956 112129021960 864034418159 813629774771 309960518707 211349999998 372978049951 059731732816 096318595024 459455346908 302642522308 253344685035 261931188171 010003137838 752886587533 208381420617 177669147303 598253490428 755468731159 562863882353 787593751957 781857780532 171226806613 001927876611 195909216420 198938095257 201065485863 278865936153 381827968230 301952035301 852968995773 622599413891 249721775283 479131515574 857242454150 695950829533 116861727855 889075098381 754637464939 319255060400 927701671139 009848824012 858361603563 707660104710 181942955596 198946767837 449448255379 774726847104 047534646208 046684259069 491293313677 028989152104 752162056966 024058038150 193511253382 430035587640 247496473263 914199272604 269922796782 354781636009 341721641219 924586315030 286182974555 706749838505 494588586926 995690927210 797509302955 321165344987 202755960236 480665499119 881834797753 566369807426 542527862551 818417574672 890977772793 800081647060 016145249192 173217214772 350141441973 568548161361 157352552133 475741849468 438523323907 394143334547 762416862518 983569485562 099219222184 272550254256 887671790494 601653466804 988627232791 786085784383 827967976681 454100953883 786360950680

29.地下一階

 地下一階に巨大ナマズがいた。  引っ越して来たマンション。  エレベーターの扉が開けばワンフロアサイズの水槽の中で巨大ナマズが悠々自適に泳いでいた。  世話人のオーナーに話を聞くと、マンションを建てた時から住んでいて、地震の時は揺れて振動を相殺してくれるそうだ。 (#ノベルバー 2021 お題11/29分)

残照の教室であいましょう

 生徒指導室に呼び出された少女は泰然自若としていた。  烏の濡れ羽色もかくやというほど美しく艶めいた長い黒髪に、涼やかに切れ上がった眦に、黒曜石の如き瞳が輝きを放つ。  椅子に掛けた長い脚は綺麗に揃えられ、手は兼ねて膝の上に置いている。上品の二文字だ。  姿の美しさもさることながら、その堂々とした佇まいには、大の大人も息を飲むほどであろう。  向かい合う男はというと、ボサボサの頭にくたびれたスーツによれた襟のシャツ、ネクタイはクビに引っ掛かっているが、なんともだらしない印象が拭えない。  とはいえ生徒と教師である。  ならば間違いなく、生徒指導室に呼び出されたのは女生徒であり呼び出したのは男性教師だ。 「えっと……花井さん?  今日は、ちょっとお願いがあって……」  俯き加減にボソボソと言う教師に、花井と呼ばれた女生徒は優雅に口端を持ち上げた。 「先生、大変申し訳ありませんが、聞こえません。 こんな目の前ですのに」  教師は慌てて顔を上げた。どっちが叱られているのか分からない有様である。 「あ、ごめん! その、テストの件なんだけど」 「テストがどうか致しましたか?」  にっこりと上品な笑みを向けられ、見るからに怯む教師。 「あ、いや、あの……俺、英語じゃないですか、担当」  大の大人が少女に敬語を使っているのは、最早笑劇である。しかし女生徒は教師のそんな無様も意にも介さず、淑女然とした笑みを浮かべて言葉を待っている。  合いの手すら入らず、教師は虚しく言葉を紡いだ。 「あの……俺も言い辛いし、花井さんも別に間違ってないし、俺の書き方が悪かったのかなって、一部反省するべきって思ってはいるんだけど……」  何とも回りくどい台詞にも、女生徒は――少なくとも表面上は――苛立つ様子も見せなかった。しかし相槌を打つでもない。  仕方なく教師は白状した。己の窮状を。 「――日本語に訳してってアバウトに書いた俺が悪いんだけどさあ、まさか古文で訳されると思わないし!  古文の野中先生も、草書分かんないって言うしさあ、花井さんの答案が採点できないの!  問題用意したから、今度は楷書体の現代語訳でもう一回書いてくれません?」  そう。花井の答案の日本語訳は、全て草書体の古文訳されているのだ。  古文も確かに『日本語』ではあるし、学校は草書を禁じていない。 ……なにせ、書ける者がほぼ皆無なのだから。 「……先生のお話は分かりました。  先生がそんなに困っていらっしゃるなら、協力するのも吝かではございませんわ」  女生徒の言葉に教師はぱっと顔を明るくする。  その瞬間、瞳で弧を描く少女。  ぞくりと、教師の背筋に冷たいものが走った。 「ただし、そちらの不手際で私の手を再度煩わせるのだもの。  もちろん報酬はあるのでしょう?」 (しまった! 他の先生にも立ち会ってもらうんだった!)  そう思っても後の祭りである。彼女は獲物を捕らえた猫の目をした。 「先日のお話し、先生はもちろんまだ覚えていて下さっていますでしょう?」 やはりそれかと、教師は頭を抱えた。 「今回、私は先生をお助けいたしますわ。  その代わり先生も私をお助けくださいな」  媚びるような色を含めて彼女は彼に囁く。しかし彼は教師、いや大人として彼女の要望を叶えるわけにはいかないのだ。 「いや、花井さん、それは」 「若葉とお呼び下さいませ」 「いやいやいや、そんなわけにはいかないから!」 「何故ですの? 私達、家族になりますのに……」 「いや、無理! 本当に無理だから!!」  花井若葉の攻勢に、防御一辺倒の男。 (なんだってこんな事になってるんだ……)  今回のことは、完全に隙を突かれてしまったのだ。若葉は男に自分の要求を飲ませるために、こんな面倒なことをしたのである。  然りとて、若葉の要求を飲むわけにはいかない。 (あーもう、誰か助けてマジで……)  そんな男に追い討ちをかけるように、若葉は言い放った。 「私の固い言葉遣いがいけませんのね……。  では、私ももっと砕けた話し方を致しますわね、パパ!」 「だから無理だってば!!!」  先月、花井若葉に「先生の養子になりたい」と言われ、こんな冗談言うんだな、と笑ってスルーした。  しかし翌日に養子届と共に、養子手続き等の書類を見せられ青ざめた。 (……俺、まだ三十五歳なのに)  十六歳の父親としては若過ぎるだろう。  しかし若葉はへこたれず、ついにはこんな手段を取ったわけだ。  高校教師になって、内心(生徒からモテたらどうしよう?)なんて淡い期待もあった。  が……。 (このモテ方はないわー……)  教師の内心を嘲笑うかのように、地に落ちる夕陽が眩しく窓を照らした。

スキンケア

深呼吸して感じた 大嫌いな女の匂い。 雪がちらほら降っている 肌寒い夜に干渉に浸る。 温かい湯につかり 子供を寝かしつけた後のスキンケア。 インフルエンサーきどりの女のインスタを見ながら色んな感情が降り積もる。 気取った仲間同士の アピールを見て鼻で笑う。 「突然会うことになったのに、結婚おめでとうって祝ってくれたーほんと×××は性格もいいし可愛いすぎる〜だいすき〜」 女同士の見えない剣の振り合いがたまらなくくだらない。 性格のいい女って不倫するもんなの? 一生答えがでなそうな疑問が浮かび どす黒い感情が這い上がる。 あれは5年前。 妊娠中の私を襲った悲劇 笑 その女いわく、不倫される側に問題があるらしい。 いまとなっては冷静な自分だか、心の中で何度あの女を絞め殺したかわからない。 きつと、人生で1番人を憎んだろう。 今となっては、そのインスタの閲覧が 私のルーティン。 笑える。 だから把握してるよ。 これがオススメとか、このお店おしゃれーとか。どこに住んでてどこで働いているかも。 コメント欄に全部吐き出したいと 思う私は性格が屈折しているのだろうか。 結局、オススメのスキンケアを 買ってしまうのはまだ過去にしきれてないのか。憧れからなのか。 まぁ、大嫌いな女と同じ匂いをさせながら眠りにつく私はまだ大人になりきれてないのだろう。 愛が歪んだ憎悪になるなら 憎悪が歪んだ愛になることもあるわけだ。 ××× ?自分のことだと思った? そーだよあんたの話だよ。

顔採用

「俺は顔採用してるから」 この世の中で堂々とセクハラ宣言する部長に、私は我が耳を疑った。 と言うか、私を含めてこの部署の二十代女性は大体部長に面接してもらってるはず。 部長は普段から気さくな感じだし、みんなからもそれほど嫌われていなかった。 しかし今、過去形になったようだ。 入社三年目の私。 コロナ禍の中でも細々とコミュ取って、色々教えてもらっていた。 結構上司に恵まれたなって思っていたと言うのに。 (あり得ないわあ〜……) 顔採用した、と言われれば能力や人格を軽んじられた気がするし、お前は顔採用じゃないと言われれば、それはそれでなんだかモヤモヤする。 久々の飲みの席で、つい口が滑ったんだろう。 しかし聞いてしまった話を聞かなかった事にはできない。 女性同僚同士で目配せし、全会一致で部長の評価が決定した。 「え? じゃあ俺もっすか?」 部内のムードメーカーの男性の先輩が茶化す。 自分イジリに持っていって、雰囲気を立て直すつもりなんだろう。 ああ見えて周りの空気に敏感な先輩らしい納め方だと思った。 「もちろんそうだ」 しかし、何と部長は肯定した。 「え!? マジっすかあ? 部長、俺の顔好きなんすか?」 普段営業先で、若手お笑い芸人の個性のない方、と自己紹介している先輩だ。 まあ、確かに良くも悪くも特徴のないどこにでもいる顔なので、この回答は私にも、正直予想外だった。 「もちろん! この部署には俺が不快に思う顔は一人もいない!」 不快な顔って。 顔採用ってそういう意味? 確かにこの部署、別に美男美女揃いってわけではないし、ましてや似たタイプの顔ばっかりなわけでもない。 ギリギリでセクハラではないと取れるが、グレーって感じかな。 「顔採用のメリットって、自分が不快にならないからなんすか?」 先輩、空気読めるんだからその話終われよ。 「当たり前だろう? 教えるにしたってミスのカバーするにしたって、なんかイライラする顔の奴とかだったら余計腹立つだろうが」 ……まあ、分からなくはない。 特にイケメン好きではなくとも、やはり目の保養になる人への対応は自然と良くなってしまうし。 「能力じゃないんすか? やっぱり一番大事なとこでしょ?」 先輩はギリギリの線まで攻めるみたいだ。 悪ノリなのか何なのか。 「お前さあ、俺がそこまで人見る目があると思うか?」 「部長……全然思わないっす!」 「ほざけ! ま、事実だけどな」 そう言って部長はホッピーを煽る。 「俺だって最初は能力だとか性格だとか見極めようとしたよ? だけどさあ、いいと思って採用しても、蓋開けたら酷いサボり魔だったり、遅刻魔だったり、三日で辞めた奴もいたよ」 そう言えば、随分前は『人が定着しない部署って有名だったって聞いたなあ。 今は部署内は友好的なムードだから、ちょっと想像もつかないけど。 「俺は悟ったね。 俺に人を見抜く目はない! ならこっちが熱心に教えられるように、気持ちのいい顔した奴だけ採用してやろうってな。 そう割り切ってから集まって来たのがお前らだよ」 気持ちのいい顔。 そんなこと言われたことなかったけど、悪くない表現だ。 でもきっと私が『気持ちのいい顔』をし続けられているのはきっと部長を含めたこの部署のお陰なんだろう。 「部長! 俺感動しました! 部長に一緒――着いていくのは嫌なんで五分の一生くらいはついて行きます!!」 「今の顔はキモいわー」 悪態吐きながらも、部長は照れたように笑った。 うん、この会社入ってよかったな。 ……これで残業がなきゃ最高なんだけどなあ。

サンタクロース

ボーン、ボーン、ボーン……… 重々しい鐘の音が、村中に響き渡った。日付が変わる合図だ。 「ねぇねぇ、知ってる?クリスマスの前日に、自分で編んだ毛糸の靴下に欲しいものを書いた紙を入れておくと、サンタさんが願いを叶えてくれるんだって!」 「お金がほしいって願い事をしたら、靴下一杯に銀貨が入っていたのよ!」 年上のシスター達が囁いていた、そんな眉唾ものの噂話を信じて、こんな夜中に靴下を編む自分がとんでもなく浅ましく思える。 「あれ……?」 また、どこかで間違えた。 毛糸が滅茶苦茶に絡まり、鍵棒が引っ掛かって仕舞った。 元々手先が器用でない私が薄暗くて手元が見えない中、編み物なんかするのが間違いだったのかもしれない。 もう辞めてしまおうかという考えが頭をよぎったが、なんとか思いとどまる。 折角、仲良くしてくれるソフィアに鍵棒を譲ってもらったのだ。 パチパチと爆ぜる暖炉の炎に照らされて金色に輝くそれを握りなおし、根気強く絡まりを解いてゆく。 絶対に、願いを叶える為に。 * クリスマスの前日。歪ながらも、なんとか靴下を完成させることができた。 予定より時間がかかって仕舞ったのは、可愛らしく雪の結晶の模様を入れたからでもあるが、何よりもその大きさが原因だろう。 なんせ、一般的な子供が履く靴下の5倍に近い大きさなのだ。 私は作った靴下に、早速願い事を書いた紙を入れた。 "友達が欲しい" そんな、ささやかな願い事を書いた紙を。 * ピンと張り詰めた冬の空気を震わせる叫び声で、私は目が覚めた。 叫び声の元は、祈りの場だ。クリスマスの飾り付けに混ぜて隠していた私の靴下が、そこにある。 それに、朝の礼拝もある。眠気でぼんやりした頭で、祈りの場へ向かう。 辿り着いた祈りの場は……… 血の海と、化していた。 いつも綺麗に磨かれた床が、真っ赤に染められている。 まるで孤島のように浮かぶ、陶器のように真っ白なものは人体の一部だろう。 あれはきっと、脚だ。 所々に、糸屑が付着しているのが見て取れる。 そして。視線を上げると。 祈りの場の中央に飾られているもみの木の頂点に、生首が置かれていた。 金髪碧眼の少女の生首が……。その少女には、痛いほど見覚えがある。 あれはソフィア、だ。 彼女の生首に、帽子のように載せられている毛糸の靴下は、私が編んだもので。 ふと、この前聞いた眉唾物の噂話を思い出す。 ───お金がほしいって願い事をしたら、靴下一杯に銀貨が入っていたのよ! 私は一瞬で、全てを悟った。 サンタクロースは、たしかに願いを叶える。たしかに望みのものを与えてくれる。 全てを、靴下に入れて。 後悔しても、もう時は戻らない。 私はただ、神に祈った。

筋肉痛

「ふふふふふ……」 私の口から変な笑いが漏れた。 でもしょうがない。 だってさ、世界の真理を一つ知ってしまったのですよ。 勉強はもちろん、仕事上必要なスキル習得だけでなく、アップデートされる技術の取得、研究など、当然日々の中で行なっている。 しかしテキストを開いてノートに音読しながら書き連ね、反復してテストを受けて……。 学生以来のガチな『勉強』なんぞ、少なくとも十年はやっていない身だ。 最初は頭痛だった。 鈍痛が起こり始め、最初は頭が疲れたかな、くらいに思っていた。 しかし頭蓋の内に張り付く鈍痛は治る気配はなく、更に残業後、勉強しているから、という理由では語りきれないほどの異常な疲労感と怠さが今朝、唐突に襲いかかって来ていた。 寝るのが遅くなったから? いや、私は晩酌を欠かさない人間だったが、今は酒を飲む時間を勉強に当てている。 睡眠時間は変わらないはずだ。 不意に頭に浮かぶ諺。 『年寄りの冷や水』 たかが勉強ですら、ガチに体にくる年齢になってしまった事実。 少年老い易く、学成り難し。 若い頃に頑張らなかった、取り戻しようのない、歴然とした壁。 これぞ、世の中の真理。 だからあんなに母は、先生は、大人達は、口を酸っぱくして「勉強しろと言っていたのだ。 今、私も言いたい。 中一の私に「勉強しろ。今、お前は苦手な英語の勉強が苦痛だろうが、考えてみ? 四十五でこれは最早苦行通り越して服役だぞ?」と、心を込めて説きたい。 まあ、聞きゃしないだろうが。 って、いやいやいや! さすがに年寄りにはまだ早いだろう! 私は探す。 この状況を説明できて、かつ、先程の真理を覆し、成長を思わせる魔法の言葉を……。 「!!!」 そうか。わかった。 これは『筋肉痛』だ! 今まで怠けていた人間が一気に頑張ったために起こった頭の筋肉痛なのだ!!! ならばこれはトレーニングを継続することで基礎体力が上がり、辛さが軽減されていくものなのだ。 さすが私! 素晴らしい言いわ……ゲフンゲフン。 素晴らしい前向きな解釈だ。 年齢を言い訳にせず、より成長するために前向きに取り組む。 なんて素晴らしい姿勢なんだろうか! まあ、実際やっているのは中一レベルの復習だが。 しかし何事も継続が大事なのですよ。 千里の道も一歩から。 そういうことだ。 私は素晴らしいこの結論に納得してうんうんと頷いた。 ……え? 実際の辛さはどうするのか? 知るか!!! その内慣れるさ。 気合いが正義と育てられた昭和世代ですから。

メガネメガネ

「メガネメガネ。ママー、パパのメガネ知らない?」   「知らなーい」    朝から旦那が、どたばたと走り回っている。  そろそろ出勤時間だというのに、メガネが見つからないらしい。    いつも寝る前に置いているベッドのサイドテーブルにも見つからず、洗顔の前にはずして置く洗面台にも見つからずらしい。   「あれー? 起きるでしょ? 顔洗うでしょ? 着替えるでしょ? ご飯食べるでしょ? あれー?」    旦那は起きてからの自分の行動を振り返り、思い当たる場所を順に見ていく。   「やっぱりなーい! ママー!」    徐々に声が焦っていくのを感じる。  さて、そろそろ答えを教えようか。    と、思ったところで、娘が起きてくる。   「あ、パパのメガネ見なかった?」    旦那の言葉に、娘は呆れかえった表情を浮かべた。   「……お父さん、今耳にかけてるの何?」   「え? 耳にかけてるって……あああああ!! あったあ!!」    旦那は耳に触れ、メガネに触れ、ようやく現状を理解したようだ。   「よかったー! 助かったー!」   「ぎゃー!? 抱き着こうとしてくるな気色悪い!?」   「これで出社できる。行ってきまーす!」    そのまま旦那は鞄を持って、颯爽と家を出て行った。    娘が台所にやって来る。   「お母さん、すぐに教えてあげればいいのに」   「いやー、ちょっと面白かったから。つい?」    今日も我が家は平和です。

商売

「あら? ねえ、あの客って確か先週来た客じゃない? ほら、あんたが接客してた」 振り返って小梅に話しかけた。 さっきの客のせいで乱れたのだろう。 小梅は仕切りと頭を整えていたが、入口でスタッフと話す客を見た。 「あら本当、先週の客ね。 姐さんったら相変わらず目敏いわねえ」 「なかなか金払いが良かったからねえ。 私もまたご相伴に預かりたいもんだ」 「もちろん、姐さんなら大歓迎ですよ。 でも若そうな子だしね。 あんまり期待しないであげてくださいな」 小梅は若くて情に篤い。 しかし若い男好きという厄介な癖も持っている。 身請けを狙ってんのかもしれないけど、こんな若い子相手じゃ難しいだろうに。 「おやおや相変わらずだねえ。 でも初手から甘やかしちゃ、吝い客になっちまうよ? 自分を安売りしちゃあ負けなのさ。 たっぷり搾り取ってやらなきゃね」 男は店に入ってくるなり、小梅に嬉しそうな顔を向けた。 まあ、この時期が一番楽しいだろうからねえ。 「あたしにゃ姐さんほどのテクは無いもの。 そりゃ姐さんくらいの太客がついてくれりゃあ万々歳だけど、まずはこの子をこの店にどっぷり浸からせに行ってきます」 おや、怖い怖い。 そうとは知らない初心な坊やは、小梅の甘い声に既に骨抜きにされているようだ。 扉が開いた。 今度は私の客だった。 受付ももどかしそうに、一目散で私の所へ駆けてくる。 「ああ〜ん! 涼姫ちゃあん!! 涼姫ちゃんの下僕、涼子が参りました!! 会いたかったあ!」 リョウコは私に抱きつこうとするが、するりと避ける。 全く、リョウコは金払いは良いが、どうにも品性に欠けている。 私を指名するなら、もっと落ち着きが欲しいわね。 「ああ! そのクールさも素敵! ちゅーる食べたいでしょう? 早速買ってきたよ? あと最高級のマイブラシも持ってきたから、尽くさせて! お願あーい!」 ……やれやれ。まあそこまで言うなら仕方ないわね。 周りの子達は羨ましげに見ている。 「さすが姐さんよね」 「俺ももっとツン増やした方がいいかなあ……」 などと、店内あちこちから聞こえてくる。 まあ、こういう時は悪くない。 ここに入れられた私達は、普通はここから出ることはない。 しかし客に身請けされれば別だ。 身請けを狙って特定の客に媚びる子も多い。 いつまで人気でいられるか、いつ若い子にこの座を奪われるかも分からないこんな店だ。 またひもじい思いをするくらいなら、若くて可愛いうちにさっさと身請けされたいというわけだ。 だけど私はごめんだね。 幼い頃に至近距離からフラッシュを焚いて撮影され続け、普通の猫よりはるかに視力が落ちた私を、『サイセイカイスウが伸びなくなった』という意味不明な言葉と共にゴミ袋に入れてゴミ捨て場に捨てた女を今でも覚えている。 また誰かに命を握られるくらいなら、私は自力で生きて死ぬさ。 でもこの店で生きるんだ。 私だって商売だからね。 客に少しくらい付き合ってやっても良いさ。 私はリョウコの膝で丸まりながら、最高級ブラシでブラッシングさせてやった。 リョウコはこんなだが、ブラッシングの腕は悪くない。 たまには誉めてやるか。 「にゃーん」 「ああ! 可愛いお声有難うございます!! 姫様最高! 猫カフェ万歳!! あなたのお陰で生きていける!! 涼姫様、生まれてきてくれて有難うございます!!」 ……たまにおかしなのも混ざっているのが難点だけどね。

女の子の朝は戦争

女の子の朝は戦争なの。なんなら、デートとか遊びに行くなら前日から戦いは始まってるの。 前日の夜はお風呂から上がったら、化粧水とか美容液とか塗って、パックを付けるの。私はその後に唇のパックだってしたわ。 それから、髪の毛のケアだってめんどくさいけどちゃんとして、次の日の服を考えるの。明日はどんな系統で行こうかなとか、この前着た服は着ないようにしようとか、色々考えながら服を考えるの。 それから服に合わせてネイルだってしたわ。ん?爪が可愛いって?ありがとう、でもね気付くのが遅いわよ。ネイルってすぐに乾かないから、普段よりも寝る時間が遅くなっちゃうんだよね。 それから朝起きてすぐに顔を洗うの。今日は九時に集合だったから、六時半に起きたかしら。 それからちゃんと美容液とか塗って、簡単にご飯を食べて、歯磨きをして。 それから服を着替えて化粧をしようと思うけれど、なんだか服が違うなって違和感を持っちゃうから、また服を選び直してしまう。 前日に服を選んだ必要がないって?確かにそうだけど、適当に服を着ていくよりかは全然マシじゃない? 服を選び直すだけで三十分は時間を掛けてしまって、それから大慌てで化粧をする。それでも雑にする訳には行かないから、急ぎながらちゃんと一つずつの手順を踏みながらやっていくのよ。 化粧が終わったら次は髪の毛!中々アイロンって言うことを聞いてくれなくてさ、変な方向にプリッって髪の毛が向いちゃったりするの。 そして、今日の集合場所はこの駅だったよね。本当は自転車で行きたかったけれど、やっぱり君には可愛い姿を見せたかったから髪の毛を崩すなんてことしたくなくて、三十分かかる道を歩いてきたわけ。 なのに、あなたは三時間も遅刻をして。 私の努力をどう返してくれるのよ。彼氏さん?

ロッカー

「ここに、一つの鍵がありますね?」 都会の薄暗い路地裏に手招きされてここに来たが、目の前の男がそんな言葉を口にした。実際、テーブルの上に鍵がある。ただの洋風な少し古い鍵のように見える。 「それを持って、自分の消したい物を思い浮かべて、回してみて下さい!」 胡散臭さが尋常ではない。彼の口調や顔のコロコロとした感じは完全にピエロなのだ。 とはいえ、もし叶った時のために一応、自分の消したい"黒歴史"を思い浮かべて、鍵を回す動きをする。 ガチャン、とドアがないというのに音がする。確かに腕に手応えも感じ、驚きで声が出ない。その沈黙を破ったのはそのピエロだった。 「何を思い浮かべていたか、言えますか?」 ...わからない。その気持ちを顔で察したのか、ピエロはケラケラと笑う。 「こちら今なら1000円で譲りますけど、どうです?自分の不都合なことは永久に消せるんですよ!」 財布を無自覚に取り出し、しわくちゃの一万円札をテーブルの上に叩きつけ、この薄暗い空間を後にする。いつもの都会の煩い騒めきが戻って来たが、あの路地裏には戻れなくなっていた。手元に残ったのはあの鍵だけだった。 仕事が終わり、扉を開け、光を灯す。幽霊でも一人いそうなアパートの角部屋にネクタイやスーツを散らす。テーブルの上の物を押し除け、鍵と一対一の状況を作る。 しばらく熟考して、まず最初に"嫌な記憶"を消すことにした。上司の嫌味や夜の都会の騒めきや昔の嫌がらせ、消したいものなんて幾らでもある。 鍵を回す。買う前より断然重く感じる。なんとか回し切り、また机の上に置く。思い出そうとしても、できなかった。成功と考えていい、それにしても素晴らしいな!肩の重荷がスッと去った気がする。元気がいつもより出る。 今日のうちは、あと一回だけにしておこう。そうだ!最後に消す物は"ストレスの原因"にしよう!そうすればいつまでも上機嫌のまま生きられる。我ながらなんて良い発想なんだ。 鍵を手に取り、回す。とても重い。両手でずっと格闘してようやくガチャン、と音が鳴る。 少しして、これを拡散しようと思った。これだけすごい鍵があるのなら紹介してこの楽を享受したいと思った。しかし、連絡帳には何もなかった。仕事仲間も、親戚も、弟も、家族も。どう言うことだ? 電話帳を開くが同じく何もない。電話をかけることはできたのだが何も聞こえない。電波の不調か?それだったら少し待たなきゃいけないが... まぁ取り敢えず、電話もメールも使えないのなら今日は寝よう。明日になれば仕事仲間にも家族にも連絡はできる。その時で良い。 朝、起床する。うんと長く伸びをし、辺りを見るがまだ暗い。早く起きすぎたか?目覚まし時計...目覚まし時計...あれ?目覚まし時計がない。携帯でようやく見れた。9:45?!始業時間とっくに過ぎてるじゃん。早く行かないと!適当に服を着て、適当に財布と定期とを持って家を出る。 アパートを出て、走る、走る。街は真っ暗だったし、人もいない。駅ホームを駆け降り、電車を待つが、数分経っても来ない。どうなっている?ダイヤが狂った?いや、そう言うわけでもなさそうだが... 仕方なく、家に帰ることにした。これだけ頑張ったのに何も成果が得られなかった。結局、どういうことだ?誰も居ない交差点を歩いているとき、不意に思い付いた。私がなぜこうなっているのか。 私は何を望んだ?最初はどうでもよくて、最後はなんて言った?!思い出せない...どうして?消したからだ!そうだ!あの鍵のせいだ! 「アンタの所為だよ」 背後から声がする。私はこの声に見覚えがある。あの鍵を売っていたピエロみたいな... 「アンタの最後の、どんなだったか教えてやろうか?」 頷く。そいつはあの時と同じようにケラケラと笑い、言った。 「自分のストレスの原因、だ」 自分の...ストレスの原因...?そう...そうか、私のストレスの原因... 私は、朝が嫌いだ。朝日を見るたび今日が始まったと実感してしまうから。 人が嫌いだ。意味もなく騒ぎ立て、意味もなく歩くから。 知り合いが嫌いだった!事がある度褒め称え、ある時は掌を返すから。 私は、自分が嫌いだった。何も為せず、無駄な事ばかりしていたから。 目覚まし時計も未だ見ぬ未来も電車の喧しい騒音も言葉も自分の取り留めもない悩みも責任も無責任感も何もかも! そうか...そうか!こいつはただのロッカーだったんだ!!! うずくまり、曇天に包まれる。 「結局、私のせいなのか?」 ピエロに話しかける。既に歪んだ視界の中で、奴は千円札を振っている。 「おれはただ単にアンタに釣りを返しに来ただけさ。アンタ、一万円出してたぜ?」 ピエロは言葉を続ける。 「お前さんのどこにこれと10倍の価値があるってんだ?」

ストーカー

虚しくチャイムが響いた。次いで扉を叩く。 「宅配便でーす!! お荷物お届けに上がりましたあ!」 ――しかし、応答はない。 ああ、またか! 苛立ちについ舌を打ち、不在票の用意を始めた俺の耳に、階段を駆け上がる軽やかな足音が響いた。 (まさか部屋主か?) 顔を覗かせたのは、二十代前半の若い女の子だった。オフィスカジュアルな服装だ。会社勤めなのだろう。 「あ、間に合ったあ。 すみません、微妙な時間で……」 可愛らしい高めの声、愛想の良い明るい笑顔。 こっちに居丈高に振る舞う客は多いが、この人はすごく気持ちのいい対応をしてくれる。 「いえ、丁度良かったです」 俺は伝票を彼女に渡す。 彼女は慣れた手付きで「佐藤」とサインした。 荷物を渡すと彼女は笑顔で「ありがとうございました」と挨拶してくれた。 何というか……久々に自然な笑顔になった。 荷物を運ぶという俺の仕事に価値がある、そう思わせてくれる笑顔だった。 車に戻った俺は、もう一度伝票を見た。 『佐藤 要』かなめさんかあ。 俺はその日から、彼女宛の荷物を心待ちにするようになった。 もちろん一目惚れとかそんなんじゃないさ。 何というか、一服の清涼剤のような存在なんだよな。 それから俺は、彼女が帰って来そうな時間に合わせて荷物を届けた。 度々彼女の帰宅時や、家に入る直前に会う事ができて、「いつもありがとうございます」や「お疲れ様です」など、気遣いの言葉をかけてもらった。 俺はストーカーではない……よな? 別に彼女を付け回してないし帰宅時間を把握しているわけでもない。ただ、たまたま会っただけなんだし……。 若干の後ろめたさを持ちつつも、俺は彼女宛の荷物を見るたび、スキップしそうなほどテンションが上がっていた。 (今日はちょっと遅くなったな) いつもよりも一時間は遅い。 彼女はもう帰っているだろうし、部屋着かな? そう言えば仕事帰りの服装しか見た事なかったし、これはこれでいいかもな。 ニヤニヤ笑いが止まらない。 さすがに気持ち悪く思われてしまうだろう。 俺は無理矢理顔を引き締めた。 彼女の部屋の方を見ると、丁度扉の前に若い男が立った所だった。 「あ」 俺を見て、男は短く声を上げた。 彼氏―― そうか、彼氏がいたのか。 そうだよな。あんな可愛いんだもんな。 分かっちゃいるが、妙にショックを受けている自分に気付いた。 「あ、この部屋っすよね? 受け取ります」 男の当たり前みたいな態度に、俺はやけにカチンと来た。 「いや、部屋主にしか渡せませんので」 基本的にはそうだ。だが、明らかに家族や恋人だろう人にはサインもらって渡すのが普通だ。 だからこれは嫉妬からくる八つ当たり。 「あ、ここ俺の部屋なんで大丈夫っす」 「はあ!?」 思わず声が出た。 彼女の部屋なんでって言うなら分かるが、自分の部屋だと? 明らかにワンルームで同棲にも向かない物件だ。 彼女と住んでるなんておかしくないか? ……いや、待てよ? この男、本当に彼女の恋人か? もしかしたら、こいつ本当にストーカーなのでは? 別に部屋から出てきたわけでもなく、ただ部屋の前に立っていただけの男を信頼して、彼女の大事な荷物を渡すなんて有り得ない選択だと思えてきた。 「いや、ここの部屋の主は若い女の子ですよね? あなたの部屋じゃないでしょ?」 俺がそう言うと、男は怪訝そうな顔をした。 ……まさか、部屋主をチェックしてると思われたか!? 彼女をストーカーしている男と勘違いされては堪らない! 「いや、偶然ね、偶然! 何度かこの部屋に入る所に出くわしたから知ってるだけだけど、若い女の子じゃない? この部屋に住んでる人! たまたま、偶然行きあって何度か荷物を渡したから知ってるだけだけどね! 偶然ね!」 どうにも言い訳くさくなってしまった。 男の顔は見る見る険しくなっていく。 まずい……。 誤解されている。 怪しまれている……! 「……ちょっと、その話、詳しくしてくれませんか?」 男の目が座り、低い声が俺の耳朶を打った。 逮捕劇は速やかに行われた。 逮捕されたのはもちろん――彼女だ。 住居侵入罪、迷惑防止法条例違反、いわゆるストーカー規制法だ。 近所に住む派遣社員の彼女は路上で彼に一目惚れし、度々付け回していた。 一度彼が落とした部屋の鍵を拾って合鍵を作り、それからは度々侵入していたと言う。 その内、荷物を勝手に受け取り、中身を確認した後、今度は宅配便を装い、彼に届けていたと言う。 盗聴器やカメラも仕掛けられており、世を震撼させた。 俺は今日も荷物を運んでいる。 時々、彼女のあの笑顔をカタルシスと共に、思い出しながら。

女の旬を過ぎたあと

 すっかり冷え切ったかぼちゃの煮物をつつきながら、ため息をついた。  あんたたちは毎年旬が来て美味しく食べられて良いわね。  人間にも『旬』というものがあるのではないか。特に女。私の旬はとっくの昔に終わったらしい。  夫のスマホに女からのメッセージを見つけたのが半年前。  脱衣所にスマホが置いてあった。何故こんなところに、と思った瞬間にスマホが振動する。ぱっと画面に映ったのは、『大塚商事 水谷』という名前。なんだ、会社の取引先の人か――と思って何気なく文面を見る。一瞬で体が凍りついた。 『今日は楽しかったね♡ 次はいつ会える?』 『会社でも会えるだろ♡ 夜はまた今度な 妻にバレるといけないから』  反吐が出るようなハートの絵文字。明らかに不貞行為のあったであろうメッセージ。床に胃の中身を全てぶち撒けそうな気分の悪さをなんとか堪え、淡々と画面の写真を自分のスマホで撮影した。  スクショは加工が疑われるから、自分のスマホで画面ごと撮った方が良いと聞いたことがある。妊娠中に浮気されて離婚した友人が言っていた。自分には関係ないと思っていた。  たしかに帰りが遅い日が多いと思っていた。目を合わせることも少ないなと思っていた。仕事が忙しくて疲れているんだ、という彼の言葉を信じていた。  できる限り無心で、平然を装って事務的に写真を撮り続ける。ある言葉が目に入り、メッセージ画面をスクロールしていた手が止まった。 『この前奥さん見たよぉ? 綺麗な人じゃん、なんで不倫なんかしてるの?』 『あれはもう女として見れないから(笑) 今はミユだけだよ♡』  黙れ。黙れ黙れ黙れ。私はスマホを壁に投げつけたい衝動を抑え、静かに画面を伏せた。投げつけたところで、画面が割れたりすれば不審に思われるだけだ。  何が大塚商事だ。名前まで変えやがって。バレないと思ったのか。何より――女として見れないってなんだ。お前だって、自慢できるような見た目でもないじゃないか。だらしない腹、手入れのされていない肌、白髪混じりの髪。お前が言うな、と私は歯を食いしばった。気を抜けば叫び出してしまいそうだった。  立ち上がって洗面台の鏡を見る。目元の皮膚は弛み、顔にはいくつかシミができているが、周りの40代と比べればまだ若い方だと思う。白髪は目立たぬよう染めているし、体型も維持できるよう朝晩ランニングして。  『若くて美人で自慢の妻』、夫が結婚当初そう言っていたのを知っているから、誰に会ってもそのイメージが壊れないように尽力した。  しかし私の努力はなんだったのか。これだけ努力しても、夫はいつのまにか私に手を出さなくなった。寝室も分けられた。  挙句、自分はなんの努力もせず老いていくのに、若い女と不倫して私を馬鹿にしている。  悔しくて涙が出た。悲しみではない。彼の裏切りが許せなかった。世の中の理不尽さを恨んだ。  それからは相手の女のことを調べ上げた。探偵に頼むお金はないので尾行まがいのこともやった。ラブホテルに入って行く写真も撮ることができた。メッセージのやりとりの証拠写真も集まった。  それらを持って弁護士に相談に行った。 「あなたは旦那様と離婚したいのですか?」  向かいに座った弁護士にそう聞かれて言葉に詰まった。離婚したいわけではない。結婚当時の生活に戻りたいわけでもない。私はどうしたいのだろう、と考えた時、一つの答えが出た。 「私は夫を殺したいです」  そう言った瞬間、胸のわだかまりがすっと晴れていくのがわかった。そうか、私はあいつを殺したかったのか。  弁護士はぎょっとした顔をしていた。あの、ええとそういうことではなく、ともごもご何かを言っていたが、無視して私は立ち上がった。 「ありがとうございました、やりたいことが見つかりました」  深々と頭を下げ、相談料金を払って弁護士事務所を出る。  そうだ。かぼちゃを買って帰ろう。まずは予行練習をしなくては。あとは何が良いかしら。旬のものといえばサンマかしら。魚を捌いて内臓を取り出す練習をすれば良いかしら。  ああ、楽しみ! 私に殺される時、あなたはどんな顔をするのかしら?  私は秋の澄んだ空に向かって伸びをして、ふふっと微笑んだ。

頭の中に

 ああ、まただ。  何もしないでいると、いつもやって来る。  何気ない日常の一コマで、いきなりやって来る。  それは、ずいぶんと長い間私の頭の中に居座っている。  追い出そうと、いろいろな方法を試した。  でも、そいつはいなくならなかった。  ネットで調べたどこの誰かも分からない人間の自己流のやり方も。  著名な医者の書籍のやり方も。  何をしても、そいつを追い出すことは叶わなかった。  私の頭の中にいる二匹の化け物。  その正体は――過去の失敗と劣等感。  夜の深い時間。  ふとしたときに、頭の中に現れては、私を苦しめる。  もう忘れたいことなのに。  もう終わったことなのに。  忘れようとすればするほど、色濃く頭の中に深く刻み込まれる。  考えないようにしようとすればするほど、鮮やかに頭の中に浮かび上がる。  私は、この二匹の化け物に支配され続けている。  何かに挑戦しようとしても。 「どうせ、失敗するさ。あの時もそうだったろう?」 「何をしても、うまくいかないさ。だって私はできないやつなんだから」  二匹の化け物のささやきが聞こえてくる。  無視して進もうとしても、化け物はどこまでも追いかけてくる。  そして、二匹の化け物は、私に嚙みついて離さない。  嚙みつかれた私は、歩けなくなる。  大きく恐ろしい二匹の化け物の重さは、尋常なものではない。  先に進むことなど、できなくなってしまうほどに。  気にするなとか考えすぎだと言われるかもしれないが、そんなことは分かっている。  それでも、この二匹の化け物は消えてくれないのだ。  過去の失敗。見知らぬ誰かへの劣等感。  これらを抱えているのは、自己責任なのかもしれない。  だって、失敗したのは、私だし。  努力をせずに下にいるのも、私だから。  こんなことになるとは、思わなかったんだ。  こんなにも化け物に支配されるとは、夢にも思わなかったんだ。  あの時こうしておけば。  もっと努力をしていれば。  こんなことには、ならなかったのかもしれない。  でも、そう考えれば考えるほど、頭の中の二匹の化け物は大きく強くなるばかりだ。  たらればの話は、化け物の餌ににしかならない。  それも分かっているのだが、どうしても思ってしまうのだ。  私だって、こんなことを続けたいと思わない。  他の人たちは、どうしているんだろう?  忘れることができない失敗。  消すことができない劣等感。  これらは、誰にでもあるとは思う。  それでも、他の人たちは前に進めている。  それをみて、私はまた劣等感という化け物に餌を与えてしまう。  劣等感という化け物から逃げたいと思い、自信をつけられる何かを始めようとしても。  今度は、過去の失敗という化け物が足に食らいついてくる。  どうすればいい?  何をすれば、この二匹の化け物は頭からいなくなってくれるんだ?  私は、ずっとこのままなのか?  この支配から、解き放たれる日はくるのだろうか?

夜展

 紀田恵(きだめぐむ)は『Downstairs』に自分のアクリル画を搬入した。  『Downstairs』の入り口にはイーゼルが立てられていて、黒板に「夜展」と書かれていた。八人のグループ展である。自分の名前もその下に書かれているのを確認する。店の入り口から地下へ続く階段を、作品が入ったカルトンバッグを抱えて下りていく。  『Downstairs』の扉を開けると、ものうげなシャンソンの歌声が聞こえた。 「こんにちは、紀田です。お世話になります」  『Downstairs』は地下にあるバーで、店の壁面をギャラリーにしている。が、店が夜しか営業しないので、展覧会の名前は自動的に「夜展」と名づけられる。格安のギャラリーであるせいか、使用するのは美術大学の学生が多い。  店にはマスターといっしょに、二歳年下の弟の明拓(あきひろ)がいた。恵が目を見開く。 「何しに来た」 「絵を観に。でも日にちを間違えた」  恵は手を差し出す明拓にカルトンバッグを渡すと、店の三十代のマスターに挨拶をした。 「紀田くんの絵は奥の右の壁面ね。それにしても似てない兄弟だね」  恵は苦笑を浮かべ、明拓は真顔でマスターに「よく言われます」と返した。  明拓は絵を店の奥へ運ぶと、絵の梱包を解いて額を天井から吊されたヒートンにかけた。恵が額の水平を調節していると、マスターが脚立を持ってふたりのもとへやってくる。 「絵が固定できたら、スポットを当てるよ」  マスターは脚立に乗ると、天井のスポットライトの位置を調節した。アクリル画の中心にライトが当たり、象牙色の女性の身体がふわりと浮かび上がる。  絵は半抽象の裸婦だった。首から上がぼかされた女性のトルソで、なまめかしい女性の胸から腰のラインが、多重露光の写真のように輪郭を重ねて描かれている。女性の腰に当たる部分にはうっすらとピンク色の花が浮かんでいて、女性のトルソは分厚いガラスの花瓶のようにも見えた。 「題名は?」 「砂の記憶」  マスターに渡されたネームプレートを絵の下に貼ると、恵は絵を眺める明拓の隣に並んで立った。 「あいかわらずマザコンだな」 「明拓ほどじゃないよ」  明拓は腕を組んで恵を見下ろした。恵はマスターに礼を言うと、明拓を促して店を出て行った。 「恵と顔を合わせる気はなかった」  狭い階段を上がりながら、明拓は先を歩く恵に声をかけた。 「でも家に招待状をくれて、嬉しかったよ。あんたが美大に入ってから、顔を合わせてなかったから」 「叔父さんたちへの報告だよ。明拓に出したわけじゃない」  店を出ると、ふたりは歓楽街を歩き出した。周囲にはバーや小料理屋の看板が輝き、仕事帰りのサラリーマンが軽い足取りで歩いている。 「母親は元気?」  恵が明拓に聞く。 「あいかわらずだよ。誰が誰だかわかってないな」  長年精神病院に入院している母親の三津子は、若年性の痴呆症も重ねて罹患していた。 「死ぬ前に一度くらい会っておけば?」 「そんな状態で会っても意味ないだろう」 「恵の心が整理できる。別に母親のためじゃない」  恵が明拓を見上げた。明拓は眩しそうに目を眇めて兄の顔を見返す。 「あんたは自分の心を第一に考えたほうがいい」 「明拓の言葉とは思えないな」  恵が皮肉な笑みを浮かべる。明拓はバーのネオンサインを見上げながら言葉を継いだ。 「あんたは母親を許しても、許さなくてもいい。ただ、どちらかに決めたほうがいいというだけだ」  恵は明拓に憎まれていると思っていた。精神的に不安定だった三津子を追い詰めて破壊したのは、他ならぬ自分であったというのに。  が、恵が三津子に暴力をふるわれていたと知ってからの明拓は、恵に奇妙に優しい。その甘ったるさに常に居心地の悪さを感じている。 「答えを出すのは怖いか」  明拓は恵の肩に手を置いた。 「今でなくても、いつか答えを出せばいい」  自分の胸から空気が膨らんで、何かをぶちまけたい思いが湧き上がる。泣きたいのか怒りたいのか自分でもわからない。  恵は明拓の手を払い落とすと、どぎつい赤のネオンに縁取られた夜空を見上げた。

異世界ファンタジーがなんぼのもんじゃい、愛の方がファンタジーじゃ あほんだらぁ!

「もはや、これまでか……」    洞窟の最深部で、勇者は壁にもたれかかった座っていた。  勇者の目の前には、大きな口を開ける巨大な魔物と、魔物の後には気を失って倒れている仲間たちの姿があった。  状況は絶望的。    勇者は己の死を悟り、目を閉じた。  思い出すのは、勇者に期待を託した国王や国民たちの顔。  そして、勇者の幼馴染の姿。   「おっらあああああ!! そこの蛇の化け物おおおおお!! 私の勇者様になんばしよっとかあああああ!! 勇者をむしゃむしゃしていいのは、私だけなんだよあほんだらあああああ!!」   「はは……。ついに幻聴まで聞こえたか」    何かが折れる音がした。  何かが衝突した音がした。  何かの断末魔が聞こえた。    勇者はいつまで立っても食べられない。       「……あれ?」    不思議に思った勇者は目を開ける。    そこには、顔を真っ赤にして勇者の唇を奪おうとする幼馴染がいた。   「うわあ!?」   「きゃあ!?」    勇者は咄嗟に立ち上がり、幼馴染も突然動いた勇者に驚いてしりもちをついた。   「な……な……な……。なんで君がここに……!?」   「魔法で勇者様を見てたら、ピンチそうだったので、助けに参りました!」    勇者が我に返って辺りを見回すと、先程まで口を開けていた魔物は、すべての牙をへし折られた状態で壁にめり込んでいた。  勇者は再び、幼馴染に顔を戻る。  幼馴染は、にこにこと笑顔を見せている。   「えっと……、君が……やったの……?」   「はい! 惚れました? 結婚します?」   「しない!!」   「お礼にむしゃむしゃしてもいいですか?」   「駄目!!」   「じゃあ、私をむしゃむしゃしてくれます?」   「しない!!」   「えー、私が来なかったら死んでたんですよ?」   「それについてはありがとう!!……あ!?」    勇者は幼馴染の横をすり抜け、倒れている仲間の元へと向かう。  意識はないが命はあったようで、勇者は急いで回復魔法をかける。   「これで、一安心かな」    仲間の安全を確認し終えた勇者は、ほっと一息つく。       「おやおや、まさか私の作った可愛いペットがやられてしまうとは……」    が、最悪は脱さない。  不気味な声が近づいてくる。  勇者はすぐに臨戦態勢をとる。    その瞬間、勇者の視界が歪んだ。  ぐにゃりぐにゃりと、周囲が雨の落ちた水溜りのようにうねる。  うねりのなかに、真っ黒なローブを着た人間が見えた。  闇の魔法使い。    魔法使いは、勇者に掌を向け、呪文を唱える。   「闇の炎よ……勇者を燃やし尽くせ……」    勇者は向かって来る炎に対処しようと、全身に力を籠めるが、足場がうねって力が外へと流れる。  視界に入るうねりは、幻覚などではなく、空間そのものをうねらせているようで、勇者の体が上下左右にぶれる。  剣の照準が炎に合わない。   「ぐっ……!」    苦し紛れに降った剣は、見当違いの空を斬り、炎は勇者の顔面へと直撃した。   「がああ……!?」   「ははは! かの勇者も、我が魔法の前では赤子同然よのう」    苦しむ勇者。  勝ち誇る魔法使い。  そして。   「私の勇者様になんばしよっとかあああああ!! 私の勇者様の綺麗な顔に傷をつけるとか、わりゃあ覚悟できとんじゃろおなあああああ!? ああん!?」    怒る幼馴染。   「……? なんだこのおなごは?」    魔法使いは、幼馴染へも魔法を放つ。  空間のうねりと闇の炎。    幼馴染は、クラウチングスタートで魔法使いに向かって走った。  体の軸が一切ぶれない、綺麗な走りを見せた。   「馬鹿な!? このうねりの空間の中で、なぜそんな動きが……!?」   「当然だろあほんだらぁ!! こちとら、勇者様見るたびに脳が沸騰して、視界も体もぼやぼやのまま生活しとんじゃあああああ!! 空間の一つや二つうねったくらい、どうってことないわあああああ!!」    幼馴染は思いっきり息を吸い込んで、炎に向かって吐き出した。  炎は霧散し、消え失せた。   「馬鹿な!? 闇の炎を……息で!?」   「当然だろあほんだらぁ!! こちとら、勇者様がバースデーケーキを準備してくれた時のために、ろうそくが何本だろうと一息で消す練習しとんじゃあああああ!!」   「ぐ……!!」    魔法使いが次の魔法を出そうとするが、愛の前には速度が足りない。   「反省しろやあああああ!!」    幼馴染の拳が魔法使いを撃ち抜き、魔法使いの体が壁にめり込んだ。        静かになった洞窟の最深部で、幼馴染は勇者に微笑む。   「惚れました? 結婚します?」   「しない!!」

dream and real

どうやら俺は死んだらしい。 目が覚めたら家族が泣いていて、近くには遺影があった。 そこでようやく気づく。少し浮遊感があるのだ。 幽霊というやつなのだろうか。俺の存在は誰1人として認識されていないらしい。 しかし……だ。たまに妙な視線を感じる。 まるで俺が死んでいないかのような、この世界に存在しているかのような視線を向けてくる「何者か」がいるのだ。 もしかしたら俺と同じ境遇のやつがいるのかもしれない。そう思って俺は探し回った。思い当たる場所なんてなかったため、とにかく多くの場所を何度も何度も巡った。どうやらこの浮遊感は本当に浮いているらしく、相当なスピードで走って、いや……飛んでいても全然疲れないのだ。 その視線の主を探して3日がすぎたころ突如として探していた「何者か」に声をかけられた。 「ねぇ」 その子はとってもかわいい女の子だった。 スラッとした体型と愛嬌のある笑顔、そしてそれには銀髪のショートヘアがとてもよく似合っていた。 あまりの可愛さに少し驚きつつも、平然を装い返答をした。 「どうした?……というより誰」 人に名を尋ねる時はまずは自分からというマナーを耳にしたことがあったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。 「私の名前は、春宮 奏」 「奏…俺は裕之って言うんだ」 すると、彼女は目を見開いた。その直後すぐに泣きながら謝ってきた。 「あなたが死んだ原因は、私にあるの」 彼女はそういった。さらに 「実は私もあなたと一緒。死んじゃってるの。幽霊としては私の方が先輩かもね」 そんなこと平然と笑顔と言ってのける彼女だったが、俺は彼女の表情があまりにも「作られた物」 であることに謎の危機感を抱いた。 ほんとにこの一瞬だけだったのだ。これを逃してしまうと何も残らないような気がした。 ほんのささいな、だけど最も大事ななにかだった。 どうやら神様は俺に気付くチャンスをくれたらしい。神など信じてなかった俺でも、この時ばかりは神に感謝した。 ところで、俺が死んだ原因が彼女にあるとはどういうことだろうか。その思考を読み取ったかのように彼女は語り出した。 「私がこの世に残ってるから、寂しくならないようにってパパが誰か適当な人を殺して、この世界に連れてくるの」 何を言っているのか…… 理解しろという方がおかしくないか? なぜかは分からないが、怒りとか憎しみだとかはなかった。それよりも彼女を悲しませたくないという感情が湧き上がっていたのだ。だから俺は言った 「数億人のうちのたった1人、俺が選ばれたってことだろ?運がいいじゃないか」精一杯の笑顔で、彼女を悲しませないように。 「ふふ、優しいんだね、裕之君は」 その言葉を聞いた俺は疲労からか急に眠気が襲ってきた。そしてそのまま、深い眠りについた。 次の日目が覚めると、彼女はの姿は見当たらなかった。さらにそれだけじゃなく家族が俺の事を認識できているっぽいのだ。 「裕之お兄ちゃん起きて〜」 まさか……夢? 「なぁ、遥。俺って死んだりしてないよな?」 「何言ってんのお兄ちゃん?そんな縁起でもない。下でお母さんがご飯作って待ってるよ!」 なんの夢だったんだろう。 俺がベッドから出ると1枚の紙が落ちてきた。 そこには「春宮奏」という名前が書かれていた。 彼女は一体何者だったんだ…… そんな不可解な疑問を残したまま、俺は母親の作ったご飯を食べにリビングへ向かった。 「今日もありがとう。かなで母さん」

人魚姫の声

 まさか自分が、手話を勉強することになるなんて。  私は生まれつき声が出せない訳じゃない。喉の病気なのだ。いつか声が出せる、と思いながら闘病を続けて半年。最初の頃は辛くて悲しかったけど、ここまで来るともう慣れてしまった。そろそろ周りの人との筆談も疲れてきたところだ。  そんな中、親友の愛菜ちゃんが手話を覚えてくれると言うので、私も手話を覚えることにした。しかし……。 (手話って、こんなに大変なの?)  現在、高校生の私。受験勉強もしなくてはならない。隙間時間に……と始めた手話の勉強は、まるで英語の授業のようだ。新言語。あ、プログラミングじゃなくて。プログラミングは情報の授業で十分。大っ嫌い。  愛菜ちゃんが覚えてくれるんだから、私もしないと。愛菜ちゃんはいいよ! 頭が良いんだから!  それにしても、声を失うなんて。人魚姫じゃないのに。  元々歌は好きだけど、人間を惑わすような美声でもないし、王子様と結ばれたくて魔女と契約したわけでもない。 (好きな人は、いるけど……)  声を失ってからというもの、クラスメイトのその人、篤君とは疎遠になった。休み時間に軽く話すこともなくなり、彼が校庭で友達とサッカーをするのを窓から見下ろすだけだ。やや寂しい。  だからと言って「手話を覚えてよ!」って言うのも酷い話だから出来ない。そんなの自分勝手。私ってば。 (好き、って、手話でどうやるんだろう)  私は手話の本を開いた。 「あなたを好きです」は 1、「あなた」で相手を指差す 2、「好きです」は親指と人差し指を開いた右手を喉に当て、下に下ろしながら閉じる。 (好きなものが出てきて、ゴクリと唾を飲む様子から出来ています……へぇ、そうなんだ)  喉が痛いし、好きな人を飲み込みたくはない。そういう話でもないかもしれないけれど。 (じ、じゃあ……あ、愛してるの方が適切?)  そもそも「好き」と「愛してる」の違いとは? 私にはよく分からない。同級生の皆は分かるのだろうか? というか、何調べてるの私!? 何処で使うの!?  ……でも一応。一応ね。 「あなたを愛しています」は 1、「あなた」で相手を指差す 2、「愛しています」は左手の甲を右手で優しく撫でるように回す。 (頭を撫でている仕草で、愛おしい様子を表す……)  頭を撫でる。  私の脳裏に篤君に頭を撫でられている自分の姿がよぎった。 (やだもおお!!)  赤面して枕に顔を埋めて、ベッドで足をバタバタする私。漫画か。私よ。 『ピンポーン』  誰か来た。宅配便かな? お母さんが出るよね。 「よ、真莉」  篤君だった。いきなり部屋の扉を開けて入ってきた。 「……!?」  どういうこと!? 篤君って幼馴染だっけ!? 私、風邪ひいて休んでたっけ!? 授業のプリント忘れたっけ!? 「小林さんと帰りにバッタリ会ってさ、真莉と約束してるから、三人で遊ばないかって。お菓子買いに行くから、先に行っててって言われた」  聞いてない聞いてない。愛菜ちゃんめ! 私と篤君をくっつけようとして勝手に! 「……まだ、喉治らないの?」 「……!……。……。?」  私は慌てて身振り手振りで、喉から声が出ないことを伝えようとした。 「……っ」  突然、篤君が顔を真っ赤にして、手で口を押さえている。ど、どうして……?  そのとき、頭の中にひとつ、思い当たった。 (喉から、声が、出ないの)  私は、どうした?  喉を押さえて、下に下ろして、手を握って……。 「……!!」 「あ、あの、俺……オレは……」 「好き」のサインだ!! 違うの篤君! いや違わないけど! そのつもりじゃ!?   突然、ふわりと風が吹いた。温かい。何?  篤君が、私を抱きしめていた。 「……!?!?」 「……返事。俺は、声が出せるから」  そう言って、篤君は私の頭を撫でた。どういう意味なの……?  頭を撫でられた私は力が抜けて、何も考えられなくなった。 「…………ふぬ……」  久しぶりに声が少しだけ出た。

27.ほろほろ

 シュトーレンを買って来た。  いつも立ち寄る駅前のパン屋。  代り映えしないラインナップの中にあったそれは季節限定の品で、物珍しさに手が伸びてしまった。  日を置いて食べた方が美味しいらしい。  けど我慢出来ずに切り分ければ、砂糖がほろほろ。  雪のように降り積もった。 (#ノベルバー 2021 お題11/27分)

石橋を叩いて壊す

 石橋さんは、慎重だ。  いつも失敗を恐れていて、いつも予定を念入りに確認する。    ある日、喫茶店で開く女子会に誘ったら、「私が行っていいの?」と返ってきた。  来て欲しいから誘ったのに、その返答をしてきた理由は理解できなかったが、「全然いいよ」と返しておいた。  石橋さんは、嬉しそうに微笑んだ。    翌日から、最低一日一通のメッセージが届いた。   「本当にいいの?」   「皆の手前、誘ったのなら、全然無理しなくていいからね」   「本当に、やっぱなしって言ってくれてもいいからね」    石橋さんは、慎重だ。  自分が実は嫌われていて、私が渋々誘ったという、石橋さんにとって最悪の前提で言葉を選ぶ。  いや、もしかしたら。石橋さんの中では、もっと最悪な前提を想像しているのかもしれない。  例えば、石橋さんをからかう目的で私が声をかけ、約束の場所に誰も現れない、とか。  私は石橋さんではないので、真実はわからないが。   「いいよ」   「無理なんてしてないよ」   「全然そんなことないよ」    石橋さんからメッセージが届くたび、私は石橋さんの不安を消す言葉をかける。    女子会は無事に終わって、私も石橋さんも、他のみんなも、楽しそうな表情で解散した。   「私がいて、大丈夫だったかなあ?」   「変なこと言ってなかったかなあ?」   「あの言葉は失礼だったよね」    メッセージで、石橋さんの反省会が始まる。   「大丈夫大丈夫」   「言ってないよー」   「そんなこと思わなかったけどなあ」    メッセージで、私の添削会が始まる。        いやあ、楽しい女子会だった。  でも、今回は人数を増やしすぎてしまった気がするので、次の女子会は一人か二人、人数を減らすことにしよう。

28.隙間

 うちの家には女が住み着いている。  隙間に佇むその姿が常人であるはずもなく、かと言って異形と恐れるほどの迫力も無かった。  当初は流石に警戒もしていたが、危害を加える気が無いと解れば緊張もほぐれ。 「部屋の掃除したら?」 「その内な」  今では良好な関係を築いている。 (#ノベルバー 2021 お題11/28分)

隙間

押し入れが、数センチ開いている。 「隙間は気をつけたほうがいいですよ、見られていますから」 バイト先で後輩が言っていたセリフが忘れられない。そんなはずはないのだ。隙間からお化けが見ているはずなんてない。 しかしその日は、寝室の押し入れが数センチ開いていることに意識が向いて止まらない。 そんなの気にせず寝ろよ 気になるなら戸を閉めろよ そんな意見が頭をぐるぐる回る。わかっている。わかっているのだ。 つい暗闇の中で押し入れを横目で追ってしまう。 いないいない いないいない いないいない なにもいない 何もいないのを確認して体を起こす。ベッドから降りて押し入れを閉めに行った。 だから和室を子供部屋にするなんて計画は反対だったのだ。お兄ちゃんみたいにフローリングの部屋が良かった。なんとかベッドにできたのが救いか。あの時自分の部屋が欲しいなんて駄々をこねなきゃ良かった。 押し入れの戸をぴたりと閉めて振り返ると、窓のカーテンが少し開いていることに気づく。また隙間、隙間だ。閉めなければ。誰かがのぞいているかも。 一歩足を踏み出すと、ベッドの下の闇がやたら目についた。おおい、おおいと手招きしている。 いないいない だれもいない だれもいない ゆっくり窓に向かうが、暗闇はまだ私を追いかけてくる。 おおいおおい おおいおおい のぞけのぞけ ぞわわ、と全身の毛が逆立って慌てて窓に走った。カーテンをサッと閉める前。窓の下、家の前の道路から、ギロリと目玉がこちらを見つめていることに気づく。細長い暗闇には手足が生えていて、二つの目は血走っていた。ゆらり、ゆらりと体を動かしながら二階の私の部屋をじっと見つめてある。 呼吸が激しくなる。鼓動が強くなる。 ぎゅっと胸を押さえ、窓に背を向けた。 カーテンは閉めた。もう隙間はない。 安心していると自分の部屋の引き戸が空いていることに気づく。少しだけ。さっきは空いていなかったのに少しだけ。 ゆっくり目線を下から上に動かすと、ゆらゆらと暗闇が揺れて、そこには二つの血走った目玉があった。 「ひ……」 思わず漏れた声。口を右手で押さえ、這うように入り口の引き戸を閉める。 嘘だ、目玉なんてなかった。 ドアを開ければわかる。 さっきもそう。カーテンを開ければわかる。 心臓の音がさっきより激しい。身体の震えが止まらない。 私は大きく息を吸い、引き戸をゆっくりと開けた。 なにもない そこには何もなかった。目玉なんてなかった。あるのは暗い、いつもの夜の廊下だけ。 良かったと安心してベッドに向かう。 布団とシーツの隙間から、真っ赤な目玉が二つ覗いていた。

私が角煮を作る理由

 最近の日課は、クックパッドとのにらめっこ。今日はどうしてもほろほろの角煮を作りたい。 「もしかしてだけど、今日は角煮?」 「ビンゴ」  私はキッチンを覗く娘にわざとらしく人差し指を向ける。娘は小さく鼻で笑って、キッチンに入ってきた。 「柔らかく煮るのって大変なんだねぇ」 「本当、圧力鍋買おうかなぁ」 「柔らかくなるの?」 「らしいよ、まあなくてもいいんだけど」  とはいいつつ、ずっと「圧力鍋 おすすめ」で調べている。 「私も作ってみようかな。ママ、いつも頑張ってるし」 「あらっ、そう? 嬉しい〜。明日はビーフシチューにしようと思ってて」 「うんうん、いいと思う。手伝うよ」  隣に立ってニコニコと笑う娘の身長は、もう私を追い抜かした。あとしばらくしたら、大学進学で一人暮らしを始める。  急に寂しくなった。こうやってキッチンに並べるのはあと何回だろう。 「ママ、どうしたの?」  ぐすん、と鼻を鳴らす私に気付いて娘が黙った。 「さ、さみしくなっちゃって」 「ママ……」  娘と私がしんみりしているのを察したのか、ソファーでゲームをしていた息子がやってくる。最近反抗期で全然話を聞いてくれないが、リビングにいてくれるだけマシだからとママ友に言われた。 「ちょっと、何事?」 「ふ、ふたりとも、おおきくなったね……って、思って」  ぐずぐずと泣いている私と、つられて忍び泣く娘を見て、おろおろと肩をさすってくる息子。 「クゥン」  足元には私たちの状況を案じて、犬のプリンがすり寄ってきた。七歳の、ミニチュアダックスフンドの男の子。 「ちょっと、俺まで泣くんだが」 「アンタぁ、私が家出てったら、ママのことよろしく頼むよ?」 「わかってるよ、言われなくても……グスッ」  息子が泣き出したところでもう三人とも我慢できなかった。声をあげてワンワン泣く。  目の前にはコトコト音を立てる角煮。キッチンには醤油の香り。私たちの顔には涙。足元には犬。リビングにはゲーム音。 「父さんと俺で母さんを支える、頑張る」 「うん、ありがとう」 「待ってよ、パパは頼りにならないでしょ! 今だってママにこんなことさせてるんだから」  娘は落とし蓋の乗った鍋を指さす。ほろほろになった角煮が揺れている。  そのとき、キッチンの入り口で音がした。 「ほい、ほれのほと、はなひてたは?」  頬をパンパンに腫らし、おでこに冷えピタを貼り、グレーのスエット姿の夫がのぞいていた。  先週初めから親知らずを毎週一本ずつ抜いている。その度に熱が出て、パンパンに頬が腫れている。親知らずは全部で四本。とにかく痛くて硬いものが食べられないから、ホロホロの柔らかい料理をつくるしかないのだ。なぜそんなことになったのか。どうやらまとまった休みが取りやすい時期が今しかないらしい。だからって医者もよく了承したな。 「確かに、無茶な抜歯スケジュール立てちゃう人に、家は任せられないかあ」 「でしょ?」  娘と息子がくすくす笑いながら夫を見ている。夫は涙目の私たちに気づいて、腫れた顔に埋もれた目玉をまあるくした。 「ほい、なにないへるんは」 「お父さんいい加減喋れるしょ?」 「ひや、はへへない」 「えーさっきパパが会社の人と電話してるところ、見たよ」 「えっ」  夫の顔が面白くて吹き出してしまう。ああ、幸せだなあ。柔らかい料理を作り続けるなんて絶対にめんどくさいと思ったけれど、幸せだから続けられるんだなあ。 「クゥン」  プリンが足にすり寄ってくる。息子が彼を抱き上げる。 「家族って、いいな」 夫が突然呟いた。 「ほらー喋れてる」 「本当だ、父さんの嘘つき」 「へっ、はへへへはひよ?」  また始まったと四人と一匹で笑う。 「ひんは、はひひへふよ」  夫が私たちをギュッと包み込んで、何か口にした。真ん中でプリンが嬉しそうに笑っている。

尽生桜歌

「墓の前 桜を見ては 重ねけり」 これは、貴方に向けての詩です。もう、昔のことになってしまいましたね。貴方のことを知らない親戚もいます。 来る日も来る日も、貴方が帰ってくると思っていた時期がありました。虚しさに包まれ、自分の無力さを悔いました。 桜を見ると、貴方が近くにいるような感じがしました。それも、満開の桜。ちょうど貴方の後ろに咲いているような。 この詩は、此処に残します。好きな時に、読み返してください。 そして、多分。ここに来るのも最期になるでしょう。 なんと言うことはありません。また逢えるだけですよ。少々、此処に長く居座りすぎている気がしましてね。 坂道を登って少し歩いた貴方の場所も、貴方の後ろにある大きな桜の木を見るのも、生暖かい風で春を感じるのも、群青と少しの雲で昔の日々を思い出すのも、おそらく最期になるでしょう。 貴方は、わたしの事を暖かく迎えてくれますか?「情けない」と、わらいますか? でも、どちらにしても、どこにいっても、私達は幸せになれる。そう思っています。 桜を見る度に、貴方との思い出が流れ込んで来て、空しくて、悲しくて、寂しくて、今も泣きそうです。 ただ、私のせいで、貴方を悲しませたくないから。 私のせいで、貴方を心配させたくないから。 「さようなら」 あえて、この言葉を選ばせて貰います。

みせる

一緒に居るのが『普通』だった。 なにせ僕らそれぞれの親が同じ理由で、同じ時期に、隣同士に居を構えたから。 「子供ができたのを機に」 これらの共通点で、僕らは幼い頃から家族ぐるみの付き合いだ。互いに一番身近であり続けた異性。 学校こそ事情により違ったが、それでも共通する通学路は連れだって歩いた。男女が連れだっていれば、必ず入るのが茶々というものだ。 「夫婦! 夫婦!」 声には出さなかったが、「バカじゃねぇの?」。何が面白いのか、嘲笑いながら雑音を吐く同級生達を冷ややかに見つめたものだ。 僕は好きで彼女の側にいたし、彼女もまた僕を必要としてくれていた……と思う。 「わたしと一緒だと恥ずかしくない?」 一度だけ彼女が僕に尋ねた事がある。 「バカじゃねぇの?」 その時は声に出た。僕らの『普通』を、どうでもいい他人がどう言おうが、心底どうでもいい事だったから。彼女は怒って、でも吹っ切れた笑顔を浮かべた。 きっかけは何だったか。ああ、彼女の言葉だった。 「小説とか物語でさ、『心が動く』ってシーンがあるでしょ?」 彼女の両親は共働きで、帰りが遅くなる日がよくある。そんな時はいつも彼女は僕の家で待つ。女の子が一人で居るのは心配だからね。 「あれがなんか、ピンとこなくってさ」 制服のスカートの下にジャージという色気もへったくれもない格好で、僕のベッドに横たわって。天井を見上げて、手元の本のページを指先で撫でながらそう呟いた。 僕は勉強机に広げた課題から、その横顔に視線を移して黙って聞いた。そして、意を決した。 「見せるよ」 以前から考えては、いた。でも実行に移せずに、いた。『それ』を彼女に見せたい。 無言で驚きの表情をこちらに向ける彼女に、僕は改めて宣言する。 「君の心を動かすものを見せたいんだ」 向けられた表情が、半信半疑と言わんばかりの笑みに変わる。 「そんなものあるの?」 その表情は声にもにじんで、「やれるものならやってみなさい」と言外に言われているようだ。 「ある」 僕は断言した。あえて。強く。 「ふうん」 楽しげに鼻を鳴らした彼女はイヤホンを、長い髪を耳にかけてから着けた。 やがて聞こえる鼻歌を背に、僕はまず課題を片付ける事にした。 次の日から僕は挑戦を開始した。まさしく挑戦だ。彼女の心を動かすという、絶対に達成したい目標があるから。 僕が無言で資料や道具を机一杯に広げて奮闘する背後から、彼女の鼻歌が聞こえる。 まるでループする録画映像の様に、その光景は何日にも渡って繰り返された。 表。裏。位置。形。 慣れない全てが、僕の手を頭を目を痛めつけた。 指先が痛み、手首も痛い。前腕に上腕、肩まで妙な筋肉痛に覆われた。 馴染まない知識に悩み、完成形を想像するが、現物との差異に苦しむ。 凝らし続けた目は、熱を持つ錯覚に陥る。 とにかく疲れたが、それでもやめようとは思わなかった。 「湿布のにおいすごいね」 苦笑いの口調の彼女に、その心に届けたい一心で。 そして、やっと。 「できたっ!」 完成した『それ』を手に、椅子を蹴る。拍子に椅子がベッドにぶつかり、彼女が非難めいた声をあげるが、それどころじゃない。 「できたんだよ! ほら!」 僕は急く気持ちを抑え、彼女の左手をそっと取った。そしてできあがった物を、一枚の厚紙を掴ませる。 端を確かめさせるように触れさせ、丁寧に。 「これ……」 彼女は厚紙の質感に、表情を変えた。怠惰に寝そべっていた上体を起こして、右手の指先で表面に触れた。 ゆっくりと、ほっそりとした指が、撫でていく。静かな、耳が痛くなるほど静かな時間が過ぎる。 「ちょ……あんた……」 ややあって、彼女の指先が、肩が、声を漏らした唇が震え始める。 やがて閉じた目から、つ、と涙が一筋伝い落ちた。 「こんな、こんなの反則よ……」 彼女は天を仰いだ。それでも涙は止まらない。あとから。あとから。 震える息を吸い込んでから、彼女は涙声で一言だけ、言った。 「わたしの負けよ」 涙でくしゃくしゃの、泣き笑いの表情で。手のひらで厚紙を優しく撫でながら。 厚紙。点字で綴った、僕が彼女へ贈ったラブレター。 翌日から僕らの『普通』は『特別』に変わった。以前は僕の肩に手を置いていた彼女が、自らの腕を僕の腕にからめるようになった。 有言実行できたようだ。 僕は彼女の心を動かし、魅せる事に成功したのだ。

愛情

心がカラカラで、動けない いつも、愛情を欲していた。 他人を愛そうと思った。 でもね。無理だってわかったんだ。 気付かぬうちに、言葉から、動きから、見た目から。 愛されたいが、滲み出ていた。 愛さなければ、愛して貰えない。そんな言葉が嫌いだった。 愛されないで育ってきた人は、愛し方なんて分からない。 誰かに見て欲しくて、認められたくて、自慢してみたくて そしたらさ。 みんな離れていった どうして?あんなに頑張ったのに。 どうして?愛想よくしていたのに。 どうして?なんで?なんでミンナハナレテイクノ? 見捨てないで、おいていかないで、ひとりはもうやだよ。ねえ。 愛情ってなんですか? ××日6時ごろ、××駅構内の××踏切で××行きの 電車が男子高校生をはねました。 女性は心肺停止の状態で救急搬送され約10分後 に死亡が確認されたようです。××署によります と自殺を測った可能性が高いということです。 ××線は約2時間後に運転を再開し、通常運行が 運休。5本に最大1時間50分の遅れが生じ、 約800人に影響が出ました。 続いてのニュースです。先程……………… ?:なんか最近、自殺増えてるわね〜。 ?:ほんとそれ!電車止まって大変なの! 迷惑だからやめて欲しいよね。 おまえらに、この気持ちがわかるかよ。

姉さんの髪は美しかった。真っ直ぐで、艶やかで、さらりと風に揺れて、春の日差しを誇らしげに浴びて透き通るようなロングヘア。 「こんな髪型がいいわ」 細い指がヘアカタログの一つを指差した。セミロング、いやミディアムか。それを後頭部で、いわゆるくるりんぱ、としてから整えていく髪型だ。 「解った」 俺は首肯して笑う。さっそく取りかかる。こめかみの辺りから、後れ毛を残して横の髪を束ねて持つ。ふわりとゆるくウェーブがかかった、柔らかい感触。 「ふふ。弟が美容師なんて、役得ね」 冗談めかして言って、上品に笑う姉さんは上機嫌だ。 束ねた所に、髪色に寄せた色のヘアゴムをかける。 「お役に立てて光栄です」 なんて馬鹿丁寧な言葉で返し、二重三重にかけたところで、くるりんぱ。ぺたん、と潰れないように、かつ、みっともなくならないように、ちょっとだけほぐしていく。 「……良い手際になったわね」 背もたれに体重を預けた姉さんが、眩しげに目を細めた。 「姉さんが練習台になってくれたお陰だよ」 つられて俺も目を細めて、薄く笑う。この表情が、そっくりだとよく言われる。 新人の頃、もたくさしていた俺は姉さんの長い髪で何度も練習させてもらった。 「そうね。ヘアアイロンでライオンにされちゃった時はどうしてやろうかと思ったわ」 あの時は本当に申し訳なかった。角度や力加減なんかを、夢中で試行錯誤していたら、姉さんの頭が三倍くらいに膨れ上がってしまった。 「勘弁してよ。もう何年も前の事じゃないか」 苦笑するしかない俺は目の前の髪に集中し、つんつんとほぐす。適度にほぐせたのを確認し、頷く。 「された側はなかなか忘れないものよ」 姉さんは『ライオン頭』の自分と顔面蒼白の俺を思い出したのか、軽くお腹を押さえながら笑う。楽しげに。 残りの髪をひとまとめに握り、ヘアゴムでポニーテールに仕上げる。ここで登場するのが曰く付きのヘアアイロンである。 「あら、使えるようになったのね」 俺の手元を横目で見て、意地悪げに姉さんが微笑む。 「おかげさまでね!」 いーっと噛み合わせた前歯を見せつけてやる。我ながらガキみたいだ。 いや、実際姉さんにとっては、俺がいくつになってもどれだけ格好つけても、『ちっちゃくて可愛い弟』なんだろう。こればっかりは仕方ない。一生敵わない。 毛先を軽く巻く。元々ゆるいウェーブのかかった髪だ。しつこくかける必要もない。 「どうよ」 ポニーテールの先を掌でぽんぽん、と弾ませながら姉さんを見る。 「イメージ通りね……とっても良いわ。気に入った」 姉さんは髪に、崩さないようにか、おずおずと触れながら何度も頷く。 「それじゃ……」 そっと持ち上げ、姉さんの頭に載せる。 美しかった髪がすっかり抜け落ち、インナーキャップを被った頭に。 ぱちり、ぱちりとストッパーで留め、馴染ませるように整える。 「綺麗だよ、姉さん」 俺の顔が映らぬ様に鏡を姉さんの前に差し出す。そして震える唇を噛む。泣いてはならない。 かつて好んで着ていた、リボンタイのフリルスリーブのブラウス。俺が誕生日に贈った、皮肉になってしまったパールのペンダント。そして今俺が仕上げたウイッグ。下品にならない程度の厚化粧。それらに飾られた姉さんは綺麗だ。 頬が削げ落ちようが、頬骨が浮こうが、誰にはばかることなく、綺麗だ。 「ありがとう」 俺に向けられた満面の笑顔。 それは二ヶ月後、遺影となった。 あの時俺はちゃんと笑顔で応えられただろうか。もう覚えていない。 理性の手綱が引きちぎれた悲しみが、喪失感が脳髄を支配している。涙腺は閉じる事を忘れ、わめき続けた喉は意味を成さない擦りきれた音を漏らすだけ。 用意したハンカチが本来の役目を果たすことなく、手の中で潰れている。 姉さん。 早くに両親を喪って、二人だけの家族になった。そして俺を親代わりに育ててくれた。望んだ道を歩ませてくれた。 姉さん。 喪主なんてできないよ。 姉さんが煙となって昇っていくのを、ただ見上げていると、唐突に膝が抜けた。斎場の地面の小石が膝の皿にめりこんだ。その痛みすら、遠い。 「ひとりぼっちだ……」 呟いた時、不意に俺の頭が柔らかい物に包まれた。抱きしめられている。 「わたしが、わたしが家族になるから!」 俺の恋人だった。力強い言葉で、腕で、胸で、俺を包んでくれている。 「う。うう。ううう……」 呻いた。感謝の言葉も形になってくれない。 だからすがりついた。 ありがとう。心強いよ。そう伝われ、と。 ゆるくウェーブのかかった髪の、今はショートヘアの恋人に。

背中に翼があるのなら

 騒がしい教室の窓際の列、後ろから二番目は、日当たり良好で教師の視線からも外れやすい理想の席だと思う。  後ろの席が神野(かみの)じゃなければ。  肩甲骨に沿って背中をなぞる指先に肌が波打つ。 「だあっ、やめろ!くすぐったい!」 右肩を回すようにして振り払い、神野を振り返った。 「ねぇ、あもーくん、肩甲骨は翼のあとって知ってる?」 「語尾を伸ばすな。僕は天羽だ」  激しく動いたために鼻の頭にずれた眼鏡を人差し指で押し上げながら神野を睨みつけた。  しかし全く気にする様子もなく、神野は頬杖をつき気怠げな様子でこちらを見ている。 「あもーくんってさ、天パなの?」 「僕はあ、も、う、だ!天然パーマだったら何だ、問題でもあるのか」  何度訂正しても直らないのに、毎回訂正してしまうのはもう意地のようなものだ。  怒ったように喋ってしまうのは、僕自身直したいところではあるが。 「羽毛みたいにふわふわしてて、光に透けてきらきらしてて、目がチカチカする」  僕が吊り上げた眉に気付かないのかそれとも気付かないフリをしているのか、神野は机に突っ伏して両腕を伸ばしたあと、腕を枕にして目蓋を閉じた。 「神野こそチカチカしてるだろ…」  明るい茶髪に、伏せた長い睫毛が陽の光を受けて煌めいている。  同じクラスになってから数ヶ月経つが神野とは何の接点もなく、いつもだるそうなやつがいるなといった具合の認識しかなかった。  ニ週間ほど前の席替えから前後になったところ、何故か毎日のように話しかけてくるようになったのだ。  寝顔を不躾に眺めたままでいるわけにもいかず、前に向き直ろうと一瞬腰を浮かせた時だった。 「人間にも翼があればいいのに…」  眠っていると思った神野が突然呟き、驚いて神野を見るが、寝言だったのか背中が呼吸に合わせて深くゆっくりと上下していた。  いくら凝視しても全く読めない神野の意図に溜め息を吐いてから黒板の方に向き直ったものの、後頭部に目があるかのように神野の気配が気になった。  放課後になり人がまばらになってきた頃、読んでいた本を閉じ、机の横に掛けた学校指定の黒い鞄を手にして本を押し込み、帰り支度を始めた。  鞄を肩に掛け何気なく後ろの席を振り返ると、まだ神野は帰っていないのか鞄が机に掛かったままだった。  だから何だというのか、しかしながら妙に気になってしまい、机に腰掛けて腕を組む。  待っているつもりはない、ただ少し考え事をしているだけだと誰に言うでもなく心で呟いた。  それから三十分ほど経過したが神野は戻らなかった。  今日の様子を振り返れば気になるのはあの小さな呟きだけで、他はいつもどおりだったはずだ。  そう思うのに、神野を探しに足が動いていた。  一通り探し終え中庭にたどり着く。  深く息を吐き腰に手を当て、なんとなく空を見上げると灰色の雲に覆われつつある目に眩しい空の片隅に、二本の脚が見えた。 「かみ、の…?」  学校の屋上は落下防止のフェンスどころか簡易な柵すらないため立ち入り禁止だ。  しかし何故か屋上の縁に、よく知った姿が腰をかけて脚をぶらつかせている。  考える間もなく屋上に向けて走り出した。 「神野!おま…なにやって…!あぶ、危ないだろ、がっ!」  勢いよく屋上の鉄扉を開け放して怒鳴りつけるつもりが、倒れ込むように鉄扉を開きながら息も切れ切れに声を掛ければ、鉄扉がそんな僕を憐れんで猫が鳴くように哀しげな声を上げた。  そんな格好つかない僕を神野は驚いた様子もなく振り返る。 「あもーくん、どうしたの?」  どうしたのじゃないんだよ、と声を出そうにも喉が掠れて咳き込む事しかできず、それでもどうにか神野を安全な位置まで引っ張ろうと、おぼつかない足取りで神野の側まで歩く。  あのな、と発しようとしたが引き続き声にならず、膝に手を着き自分の体力の無さに愕然としながらも神野を見つめれば、今にも泣き出しそうなぎこちない笑顔を浮かべた。 「あもーくん、どうして人間には翼がないのかな」  今にも屋上から飛び降りてしまいそうな神野の様子に、唇を強く噛み締める。  もしかしたらもう、話しかけてくれなくなるかも知れない。  いつの間にか神野に対してそんな感情を抱えていたのに気づいて、だから僕は屋上まで急いだのかと心の内で笑った。 「…僕が神野の、翼になろうか」  鳥よりも大きな、まるで羽毛布団でもシワを整えるために端の方を掴んで振っているような、バサバサと忙しない羽音を立てて僕は羽を広げる。  無意識に閉じていた目蓋をゆっくりと開けば、雲間から差し込む光が神野の丸く開いた瞳に降り注いで、きらきらと輝くのが見えた。 「よかった、もうひとりじゃない」  そういう彼女の背中には、純白に輝く柔らかそうな羽が、空を横切るように広がっていた。

拷問部屋

 その部屋の存在は、日本人のごく一部しか知らない。  あまりに救いのない悪人を痛みによって改心させるために、その部屋は存在する。  口の堅い裏組織の人間から情報を一滴でも多く搾り取るために、その部屋は存在する。    拷問部屋。   「ぎゃああああ!?」   「いでええええ!! いでえよおおおお!!」   「殺してくれえええええ!!」    その部屋は、いつだって阿鼻叫喚に染まっている。  拷問を執行する看守たちも、最初は異様な光景に恐れ、いずれ慣れ、今では嬉々として拷問を執行する。    そしてまた一人、今日も凶悪犯が拷問にかけられる。             「ぎもっぢいいいいいい!! 最高れしゅううううう!!」   「看守長おおおおお!! 駄目です、このドМ!!! 何をやっても興奮してます!!! もう、見たくありません!!!!」    そんな拷問部屋に、過去最大の試練が訪れていた。

プライド

「なあ〜? 機嫌悪いのかあ?」 彼が猫撫で声をかけてくる。 その事自体に腹が立ってくる。 私はそれどころではない。 むしろ一生懸命頑張っているし、繊細な作業を邪魔するなと言いたいほどだ。 「ねえ〜。ねえってばあ〜」 あー本当うるさいなあ。 こっちは環境悪い中で頑張ってんのよ! ちょっとは黙って待てないわけ!? 「……まじで感じ悪いわあ。 なんでこんな上手くやれないんだよ?」 ……文句と来たか。 必死で頑張る私に、お前は何もせずに文句と来たか!! もうやめちゃおうかなと一瞬考えたが、私には私のプライドがある。 こんな事も出来ないなんて、絶対に思われたくない!! 半ば意地だ。 絶対に成功させてやる……!!! 「あ!? 来た!! 来た来たやったー! ありがとなあ、モバイルWi-Fi!」 全く調子のいいことだ。 こんな環境の悪い所で無茶振りするのはやめてもらいたいものだ。 扇マークを綺麗に立てて、私はほっと息を吐いた。

かたつむり

「かたつむりになりたいかも」  こうやって、にょーんって伸びるの。まよちゃんは腕を伸ばして机の上に倒れ込む。じめじめした雨の一日。彼女の腕は真っ白、よりもちょっとだけ日に焼けている。にょーんって、どこまでも伸びるの。にょーん。 「背中に殻を背負ってさ、なんか旅人みたいだよね」  私の席は窓際だから、雨のじめじめが肌に触れているようだった。まよちゃんは椅子を百八十度後ろに向けて、私の机に、にょーん。 「かたつむりになったら何したい?」  私がそう言うとかたつむりのまよちゃんは、んーと小さく唸り始める。雨の音のパーカッションがまよちゃんの声に調和して、私はちょっとどきどきする。じめじめした暑さに耐えられず、私のこめかみにじんわりと汗が浮かぶ。 「そりゃあもちろん、日本縦断かねえ」  まよちゃんは伸び伸びとそう言った。捲ったワイシャツの袖から伸びる、まよちゃんの腕。じめじめとした空気に触れていないかのような、きらきらと滑る細い腕。私のこめかみの汗は、今か今かと滴ろうとする。 「かたつむりになったら何したい?」 「え、私?」  まよちゃんは腕を伸ばしながら、上目遣いにこっちを見る。かたつむりはそんなにいたずらな表情をしないと思う。一瞬だけ目が合った私はすぐ、まよちゃんから視線を逸らす。考えるふりをしながら、まよちゃんの腕をもう一度見た。考えなくても答えなんて決まっている。細くて長くて柔らかくて、あなたの腕の上を、にょーん。 「いや私はそもそもかたつむりにはならないよ」  そう言って笑う私を見ながら、まよちゃんもしっとりと笑った。まよちゃんの笑い声が教室に響いて、私の耳の奥で鳴って、じめじめとした雨が私の胸を熱くする。 「こらお前ら、ちゃんとやれ」  はーい、と言ってまよちゃんは起き上がると、もう一度英語のペアワークを始めるふりをする。教科書に視線を落とすまよちゃんの、肌に触れてみたいなと思ってしまう、かたつむりな私。 「背中に荷物を背負ってさ、私も伸び伸びいきたいよ」 「まよちゃんは十分伸び伸びしてると思うけど」  私のこめかみを一粒だけの汗が伝っていった。ひんやりとした雫が一粒、ゆっくりと、火照った私の首すじを這うように、伝っていった。

ゆらゆら

僕は今、地元へ向かうバスの中。 あなたとお別れしてからもう二ヶ月経とうとしているらしく、防衛本能のような美化や忘却が始まりつつある最中での帰省だ。そんな機能、誰が望んだんだと言わんばかりに感情の波を俯瞰しては悲しみに暮れる毎日に小休止を挟む帰省なのだ。 バスの外を眺めていると、次第に空は赤くなり、青くなり、黒くなった。あまりに速い時の流れは、まるで何も手につかない毎日のそれと同じようだが、その事実にさほど関心はなく、あなたが住んでいた街からあなたが住む街に近付いている事実にばかりお熱なようだ。 期待してしまう自分がいた。胸が嫌に高鳴る。バスが目的地に到着するまでの四時間と十分、僕は身も心も揺られ続けるのだろう。 近くにいないということ。僕の中では「チカクニイナイ」だった。それがどういうことなのか、どんな作用をもたらすのか、僕はこれっぽっちも分かっていなかったし、分かろうともしていなかった。月に一度会える現状、互いの「好き」を確かめ合う日々、これらで十分だと思っていた。足りなかったのは話し合いや自己研鑽なんだと考えた時もあったが、お花畑と化している頭と、今何が起こっているのか見定めようとする心の目と、言葉に置き去りにされた行動、そして本当の優しさなのかもしれない。 本当の優しさ、って何だろう。"優しい人間になりたい"を掲げてきた僕だが、これまでの成果は「優しいだけじゃダメ」という事実のみである。どうも優しさには扱い方があるらしく、それを漠然と身につけた人間が僕の周りに現れ始めた今日この頃だ。決して掲げるだけではなかった。どうすれば、どうしたら、なにか、なんで、どうして、それでも分からなかったものを持っている人を前にすると、心がグチャグチャになる。僕はそんな人間だ。もしかすると健全でない僕の身体には決して宿ることのない代物なのかもしれない。けれど、あなたに愛されたいのだから知らないままではいられない。そうしてまた苦悩の日々に戻っていく。 この世に生を享け早二十五年、心の疲労とは裏腹に身体は案外若いままだ。何かを成すには十分なHPを残している。しかし、来てもいない悲しい未来に思いを馳せる癖が次の行動を選ばせてくれない。このまま物語を進めないのなら、いっそアストロンでもかけられてしまいたい。なんて、悲劇のヒロインを演じようとする癖もまだまだ治らないようだ。 今夜は中秋の名月らしい。バスの中からはわからない(というより揺れて輪郭をはっきり捉えられない…)が、きっとまんまるお月様が暗い夜にきいろく浮かんでいるのだろう。それぞれ好きに味わえばいいとは思うのだけれど、こんな日にぴったりの言葉がせっかくあるのだから、どれだけ使い古されていたとしても、うん。皆さま、良い夜をお過ごしください。 到着まで残り一時間、やはり早い。心はより複雑にもつれた気がするが、こうして文字に起こせたのだから、読み解いていけばどうにか…なるわけないか。 それでも。 それでも着いてしまうのだから。 せっかくなら笑っていたいと思う。 未だ夜は明けないけれど、いつかは明けるのだから。そんないつかを笑って迎えたいから。 バスを降りて、また乗るまで、笑って過ごしたい。

星の砂

公民館のスピーカーから途切れ途切れに流れる「夕焼け小焼け」メロディは、子どもが帰宅するべき時間を告げている。 普段の花乃と裕翔なら、他愛のない話をしながら帰路に付いたことだろう。 けれど、今日の二人はいつまで経っても動き出さなかった。 蜂蜜色の夕陽に包まれていく八月の街を、ただぼーっと眺めている。 ただ、このまま時を無為のしてもならぬと思ったのだろう。 一生分の勇気を振り切るように、裕翔が口を開く。 「花乃、恥ずかしくて言い出せなかったけど、予々ずっと渡したいものがあったんだ」 裕翔はポケットから取り出したものを、押し付けるように花乃に手渡す。 「わぁ、綺麗……」 花乃の口から、小さな呟きが零れる。 彼女の掌に収まるほどの小さな小瓶には、金平糖のような形の小さな粒が入っていた。 藍色に着色された砂や桜貝も相まって、小瓶の中にはまるで夜の世界が丸ごと入っているようだ。 「それ、星の砂って言うんだ。奇跡を引き寄せるって意味なんだよ。だから……ぼくが10年後の今日、ここに戻ってくるって言う奇跡を信じてはくれないかな?」 旅立つ前から遠い未来に此処に戻ってくる宣言をしたところで、薄っぺらい言葉以外のなにものでも無いとは幼い裕翔でも理解できていた。 ただ、これ以上の言葉が見つからなかったのだ。 「……わかった。10年後の今日、絶対、この場所で待ってるからね!」 「うん。ぼくも絶対に戻ってくるから。約束、するね」 二人の小指が交わり、確かな想いを通じ合い、解けた。 * ―――子供の頃の約束事を根拠に、わざわざこんな場所に来るなんて本当に酔狂だ。 自嘲しつつも、結局花乃は、有給まで使ってかつて裕翔と別れた場所に訪れていた。 丘の上から見る街の景色はすっかり変わってしまったが、蜂蜜色の夕日だけはいつまでも変わらない。 無意識に、あの頃の情景といまこの目で見ている景色を重ね合わせてしまう。 あそこの古びた建物は工場に建て替わっている、あそこのレストランは変わりがないな―――。 ポケットの中に入れているあの星の砂の小瓶を無意識に撫でながら、暫くそうしていただろうか。 と、肩をポンと軽く叩かれた。 花乃は、振り返る。 そこには、懐かしい裕翔の姿があった。 本当に、星の砂が奇跡を運んでくれたのだ。 花乃は、目に涙が滲むのを感じる。 裕翔に掛ける言葉は、もう決まっていた。 「おかえり、裕翔くん!」 時が、10年前に巻き戻る。

評価値

「今や医療や賭け事で幅広く使われている"評価値"ですが、何処に利点があるのですか」 さっきまで見てたチャンネルがCMに入ったので別のチャンネルに入った時その番組のナレーターがそう言った。席に座る少し太った専門家が返す。 「客観的に物事を見れて、また、それに対して適切な判断を下すことができるのです」 ナレーターが話を続ける。 「それを全てAIに任せるのが不安な方もいるようですが...」 専門家は鼻で笑った。そして繋げる。 「AIだって、現実の事象をもとに判断しています。その規模だって自由自在ですよ。さほど人間と大差ないでしょう?」 もう一人の専門家がベルを鳴らす。ナレーターは話を切り替えようとした。 「現代においてAIというのは必要不可欠なものです。今後は裁判や介護、人員削減などに大きく貢献すると...」 そろそろCMが終わったかな。チャンネルを戻そう。 そのあとは風呂に入って、寝て、メールを確認した。メールは一件あり、それは衝撃的なものだった。 爺さんが死んでいる。今家に警察が入った。と書かれていた。何故警察がいるのだろう?取り敢えず、まぁまぁ近いので走ればまだ間に合う。 爺さんの家に着く。警察はまだいて、書斎に集まっていた。 「どうしたんで...」 言葉が遮られる。その目は有無を言わさぬ形相だった。黙って見ている。 爺さんの遺体がベッドに横たえられ、そこに何やらアンドロイドらしきロボットがいた。 「テスト一、本一冊、1」 「テストニ、使用していたと思われる机、2」 「テスト三...」 こんな調子だ。少し離れて、警察官の一人にあれはなんなのか、と話を聞いた。 「ん?知らないのかい。評価値を出すロボットだよ。変死体にはよくああして、犯人を炙り出すのさ」 瞠目する。するが、私にはそのアンドロイドを見ることしかできない。 「テスト十五、ドライヤー、19」 「テスト二十三、死体、0」 「テスト八十七、ロープ、970」 ...私は、どう捉えればいい?これは、誰だ?このアンドロイドは誰なんだ?

二〇十三年十一月四日

 冬になろうとしていた。その日は二〇十三年の十一月四日で、楽天が巨人を倒して日本一になった次の日で、未華子さんが亡くなる二週間前だった。  月曜日なのに仕事が早めに終わった私は、八王子駅北口の駅ビルの中で偶然に未華子さんに会った。まだ新しさをほとんどそのまま残したビルの内装が少し早いクリスマスに浮かれ始めていたのと、私のスマートフォンがほとんど田中将大のガッツポーズと今は亡き星野監督の胴上げ姿に埋め尽くされていたのを覚えている。少し腹回りのサイズが小さくなったジャケットを羽織る私に対して、未華子さんは地に足の着いた大人らしい上着を羽織っていた。  未華子さんに会ったのは久しぶりの事だったが、彼女はその時間の経過を感じさせないような以前と変わらない話し方をした。会話をしているのにゆっくりと話が脱線していき、けれどそこには不思議と不快さがないような、掴みどころのないところを私は彼女らしいと思った。巨人負けちゃったね、と未華子さんはしんしんとした声で言った。未華子さんは高校時代にソフトボール部の部長を務めていて、人数は少なかったけど部員みんなから慕われていた。その話を聞いたのはいつだったかは覚えていないが、ほとんど虚ろになっていく記憶の中で数少ない正しく記憶していることの一つだった。私も野球を見るのは好きだったからもちろんその試合を見ていたが、巨人が好きな未華子さんと違って私はどちらのファンでもなかった。強いて言えば楽天が日本一になったらドラマチックだなと、にわか野球ファンのほとんどと同じくそんな気持ちで見ていた。  未華子さんは駅ビルの一階にある小さな店でケーキを選ぼうとしていて、私は呑気に後ろからその様子を見ていた。昨日の仙台は大雨が降っていて、星野監督はその雨にも打ち勝ったような晴れやかな表情で九回宙に舞った。八王子は既に雨の跡の一つさえ残っておらず、行き交う人々は冷たい空気を裂きながら早足に帰路についている。未華子さんはショートケーキとチョコレートケーキに交互に目配せをして忙しそうだった。クリスマスケーキでもお祝いでもないらしいけれど、確かに、ケーキを食べるのに理由なんて必要ないかもしれないとゆっくりと思っていた。  これにしよ、と言って未華子さんはショートケーキを一つだけ買った。すると私の方に向かって、買わないの? とまたしんしんとした声で言う。彼女の声を聞く度に冬の訪れを感じるような気がした。けれどそれは今振り返ってみて初めて感じることができる侘しさかもしれない。彼女と話していた私はむしろ彼女の朗らかに笑う姿に季節外れの心温かさを感じてしまうほどだった。私は夕食に昨日作ったカレーが余っているから、今日はケーキはいらないと言うと、彼女はカレーの後にケーキを食べたらいいと言った。何者にも縛られることのないように、生き生きと笑う彼女の姿がショーウィンドウに艶やかに映る。雨さえ知らず、八王子駅は緩やかに夜を迎えていった。  雨の仙台、東北が一つになり、そして、田中将大が伝説になりました。  美味しいのに、と未華子さんは少し不服そうな表情を浮かべたので、私はつい笑ってしまった。まだ食べていないケーキを美味しいと言い切る彼女の横顔は、ほんの少しだけ私の知らない表情だった。きっとこういう表情を晴れやかというのかもしれない。巨人が負けて悔しい気持ちはどこにもなくて、むしろあんなに素晴らしい試合をもう二度と見ることはできないだろうというじんとした想いを噛みしめているような表情だ。私の知っている彼女はもう少し自分の人生に対してふわふわとした心のまま生きていて、よく言えば自分に素直な、悪く言えば少し子供らしいところのある人だと思っていた。お互いに年を取ったのかもしれない。過ぎ去った時間はそんなに長くないと思っていたけれど、大抵は気が付いたときには遥かに時が経過していると思った。楽天は創立九年目で初めて日本一になった。その時間の長さは人によって変わるのかもしれない。時間は誰にでも平等だけれども、誰に対しても公平という訳ではない。それでも私は彼女に再会した今日この時間に、染み入るような優しさを感じていたのだった。  八王子駅の改札前で私は未華子さんと別れた。別れ際の未華子さんはもう一度、ケーキ買えばよかったのに、と笑って言った。私はそれを丁寧に断って未華子さんを改札へ見送った。小さくなっていく背中はやはり、以前にも増して大人になったなと、失礼ながらそう思った。  それが彼女に会った最後だった。  ケーキくらい買って帰れば良かったと、今更になって、悔やんでいる。

夕焼けの美しさを知る君へ

 夕方の五時だった。 「ずっと夕焼けに見惚れていたい」 雅人は淡い夕焼けを見つめながらそう言った。 「じゃあ沈むまで見とく?」  と蒼汰が聞くと、  雅人は微笑して、 「ううん、帰ろ」  と答えた。  その声はほんの少し切なく響いた。  けれども蒼汰は特に気に留めず、何も聞かなかった。蒼汰たちは、じゃあねと言って、別々の帰路についた。  夕日は地平線上で最後の輝きを放ち、空は紅く燃えていた。  その夜、蒼汰は雅人の夢を見た。  彼は大海原でもがいていた。どこまでも広がる海で、沈まないように必死に手と足をバタつかせていた。次第に手足に力が入らなくなって、意識を失った。  気がついたら真っ暗な海底にいた。どちらが前か後ろか、方向感覚が一切通用しない漆黒の世界は、静まり返っていた。彼が動いたときに起こる水の抵抗が、唯一の感覚だった。  夕焼けはもちろん見えない。雅人は夕焼けが恋しくなると見上げて、いつの日か見た夕空のグラデーションを思い浮かべる。  それでも日を重ねるごとに記憶の夕焼けの色は薄まっていって、最後は漆黒の海と同化した。  雅人は、夕日の美しさを忘れてしまった。  一週間後のことだった。  雅人は死骸のような目つきで会社に向かった。朝から雨だったが傘を持っていかなかったので、会社につく頃にはずぶ濡れだった。ずぶ濡れのまま仕事をして、夕方5時に会社を出た。雨はまだ降っていて、むしろ雨脚は強まっていた。それでも傘は買わずに、冷たい雨に打たれながら歩いた。  道中で立ち止まり、空を見上げた。  海底のように真っ暗だった。  そして一言呟いた。 「雨か」  夜一一時、雅人の母から電話がかかってきた。  電話越しの絞り出すような泣き声と雨音が、蒼汰の胸を激しく揺さぶった。雅人の言動の全てが急激に蘇ってきた。  何か予兆があったはずだ。気づけたはずだ。  止められたはずだ。絶対に。絶対に。 「ずっと夕焼けに見惚れていたい」  ふとその言葉が浮かんだ。  雅人が夕日を見ながら言った言葉。そしてその言葉は、その日の夜に蒼汰が見た雅人の夢と繋がった。  そうか、あの言葉は日が沈むまで夕焼けを見たいという意味ではなかったんだ。  どれほど苦しい日々が続いても、空を見上げ、夕焼けを美しいと思える人であり続けたいたいという君の願いだったんだ。  夕焼けの美しさを忘れそうな自分に、忘れるな、と必死に言い聞かせていたんだ。  僕は何をしていたんだ。なぜ君の気持ちに気づかなかったんだ。  蒼汰は家を飛び出した。丘の上の展望台に向かって走った。雨を切り裂くようにひたすら走った。展望台に続く階段が現れると、ふくらはぎにありったけの力を込めて地面を蹴り上げ、一気に掛け登った。  展望台の前に広がっているのは漆黒の闇で、無数の槍のような雨が蒼汰の体に襲いかかる。君はこんな日に命を絶ったのか。夕焼けなんて全く見えないこんな日に。  蒼汰は、あの日雅人と見た夕焼けを脳みその奥から引っ張り上げた。そして悲しさとか、後悔とか、湧き上がる感情を必死に抑え込んで、あの日の夕焼けで頭の中をいっぱいにした。  君はもうこの世にいない。  だけどどうか届いてほしい。  夕焼けの美しさを知る君に届いてほしい。  蒼汰は暗闇に向かって叫んだ。 「明日の夕方五時は、快晴だ!」

告白予行演習

「ずっと好きでした! 私と付き合ってください!」    私は頭をさげて、手を伸ばす。  伸ばした先には、私の親友が立っている。    これは告白の予行演習。  親友を私の好きな人に見立てて、頭の角度や手を伸ばす位置、声の大きさまで、親友に最終チェックをしてもらっているのだ。  一世一代の告白。  私のできる全力を出し切りたかったのだ。   「あ」    まさかその瞬間を、私の好きな人にばっちり目撃されるとは思わない。   「え!?」    突然聞こえた好きな人の声に、思わず私は振り向いて、その尊い顔を見れたことに一瞬だけ胸が高鳴り、見られた光景を思い出して青ざめる。  私の好きな人は、気まずそうな表情で顔を背ける。   「ごめん、お邪魔しました。あ、誰にも言う気はないから」    そして、速足で立ち去っていった。       「うわっちゃー。最悪のタイミングだねー」    親友の言葉で我に返る。   「ごめん! 私誤解解いてくる! お礼は今度するから!!」   「おー。スイーツバイキングなー」   「コンビニスイーツ!」    私は走った。   「ちょっと来て!」   「え?」    速足で校舎に入っていく好きな人の手をがっしり掴み、そのまま人目のつかないところへ引きずり込んだ。   「さ、さっきのなんだけど……」    なんとか誤解を解こうと口を開くが、さっきの全力奪取の疲労が一気に押し寄せて来て、私の呼吸がゼイゼイと乱れた。  次の言葉を出すことができない。  大げさに呼吸をする私を見ながら、私の好きな人はほんのりを顔を赤く染めて、頬をポリポリと書いた。   「いや、うん、大丈夫だよ」   「…………?」   「誰にも言わないし、女子同士の恋愛も、あっていいと思う」   「……ち……!?」   「応援してる! ごちゃごちゃ言ってくるやつらがいたら、俺がなんとかしてやるから! 頑張れ!」   「……ちが……!?」    こういうところが好きなんだ。  自分の損得なしに、手を差し伸べてくれるところが。  優しい。  好き。    でも違うの!    何か言いたげな私の様子を察して、好きな人は話すのをやめ、私の言葉を待ってくれる。  私は、疲労と動揺で乱れる呼吸のまま、なんとか一言を紡ぎ出す。    言いたいことは山ほどある。  さっきのはあなたへの告白の予行演習なんです。  私が本当に好きなのはあなたなんです。  私と付き合ってください。  私をあなたの……。   「恋人に……て、……さい」    絞り出した。    絞り出した。    電波の悪いスマホから出るみたいな、とぎれとぎれの声であったが、絞り出した。    果たして、伝わっただろうか。  私は、好きな人の顔を見る。  好きな人は、納得したような顔で、両手をポンと叩く。   「なるほど、カモフラってことか!」   「……え?」   「わかる。わかるぜ。女子同士の恋愛なんて今時普通のことだけど、まだまだ理解しないやつもいるし、俺をカモフラージュに使いたいってことだな!」   「……ち!?」    違う!    私の必死の訴えは。   「よう、こんなところで何やってんの?」    突然現れたクラスメイトたちによって、遮断された。    好きな人は、驚いたようにクラスメイトの方を向いた後、私を見てぐっと親指を立て、再びクラスメイトの方を振り返る。    あああ、待って待って。  なんか絶対、その口を開くと大変なことが起きそうな予感が。   「俺たち、付き合うことになったんだ!」    ぎゃあああああああああああああああ!?   「まじで!?」   「嘘だろ!!」   「どうしたお前!! 数々の女を泣かせた鈍感力はどこいった!?」    今ここにいいいいい。  鈍感力ううううう。  今ここにいいいいい。    私の好きな人は、私にウインク一つ残して、クラスメイトに引きずられて校舎の中へと消えていった。        待って。  今、どういう状況だ。    私は、好きな人と付き合うことができた。  でも、好きな人は、私と私の親友が付き合うカモフラと思っている。  でも、クラスメイトたちは私と好きな人が付き合っていると思っている。  いや、それは正しいんだ。  いや、でもそれは正しくないんだ。  いや、でも。  いや、でも。   「みぎゃあああああ!?」   「あ、壊れた」    途中から追いつき、状況を眺めていた親友が近くに来て、私の肩をポンと叩く。   「ま、頑張れ」   「みぎゃあああああ!?」        私と、私の親友と、私の好きな人。  奇妙な関係の恋愛が始まる。

嫌だ

あなたなら大丈夫でしょ。 そう言って親は仕事に行く、僕をおいてって。 『おいてかないで!』 あぁ。嫌な目覚めだ。 なんでこういう時に限って思い出してしまうの だろうか。 消したくても消せない記憶。 何度願っても叶うことの無かった夢。 一度でもいいから、両親に心配されてみたかった。 子供っていうのは、親が全てであり世界でもある。その親に見放された子は、暗闇の奥底に沈んでゆく。そして二度と這い上がる事は出来ない。 僕は、絶対親に囚われたりしない。 そう思っていたんだ。

苦戦する勇者一行

「はあ、はあ……。ヤバいなもう俺のHPは15しか残っていない……」 「私も……、もう駄目だわ……。あとHPが7よ……」 勇者一行は強敵の前にすでに瀕死だった。もはや勇者もヒロインもすでに戦うための気力は残っていない。 「おい! お前らしっかりしろよ! こんなとこで倒れてる場合じゃねえだろ!」 そんな絶望に陥っている2人を鼓舞しているのがこのパーティーの中で一番弱い格闘家の男だった。日頃はお調子者キャラなのに、ピンチのときに味方を鼓舞する姿は頼もしかった。 「しかし格闘家よ、お前ももうHP1なんだろ? 本当はしんどいだろうに俺たちの為に自身も苦しいのに鼓舞してくれるなんて……!」 「ああ、俺のHPは残り1だ。だが元々最大HPも1だから普段と同じく元気なんだ!」

書けない

「書けない」 心の中に浮かんだ言葉をそのまま音にすると、不思議なことにそれが現実になってしまう。言霊というやつだろうか。言葉を発したとともに私の指は止まった。 「……書けない」 もう一度呟く。唯一音を発しているエアコンは見事にスルーしてくれている。いやエアコンが「そうだね」なんて返事を返したらどうしよう。なんの変哲もない一人暮らしの部屋で突然ファンタジーが始まってしまう。エアコンから始まる話ってジャンルは現代ファンタジーでいいのかな。 ……いやいやそうじゃない。見事な脱線だ。今向き合わなきゃいけないのはエアコンファンタジーじゃない。目の前のパソコンで書いている一作だ。 ネタは出来上がっているのだ。なのに指が進まない。先ほどまでは順調だったのだ。うんうん唸りながら書いたものを消してまた書いて消して……いつも通りの作業を繰り返していたのに、なぜか指自体が止まってしまった。 「……書ける。私は書ける」 言霊を打ち消すために新たな言霊で上書きする道を選んでみた。そう、私は書ける。だってネタはあるのだ。あとは文章を頭の中で組み立てる。そうして出来上がったパズルを、指を通してパソコンに映し出すのだ。さぁパズルを……ああっ!ピースが上手く嵌まらない! 「…………」 頭の中なんて見えない場所に書いているからいけなんだ。とりあえず書いてみよう。それから考えればいい。 頭に浮かんだ言葉を打ち込む。……何だろう、小学生のような文章が見える。こんなにも単純な言葉しか浮かばないのか。なんだか落ち込んできた。……やっぱり止まってしまった。行き当たりばったりなんかで書からだああもう。 そしてここでもう一つの問題が浮上してきた。先ほどのエアコンファンタジーが脳内を侵食し始めたのだ。ひと昔前に流行った脳内で考えていることを文字で表すアレが今もあるならば、私の頭の中は今「エアコン」で埋め尽くされているだろう。 エアコンが喋っている。勝手に喋っている。ああこんなことが起こりえるなんて……動揺する私にエアコンは衝撃的な一言を告げる。「君たちの住む世界は……実は……」。 「……………………」 もうだめだ。諦めた。 「……エアコンファンタジー書くか」 こうして私は新規ファイルを開くのであった。