ファーストコンタクト

午前0時。 小高い山の頂に、30人ほどの男女が集まった。 「さぁ、皆さん。始めましょう」 銀色の三角帽子を被った男が、声を上げた。 男女は円を作ると、その中心に男が立った。 「ウィーン、ウィーン、ウィーン」 両手を挙げ、立てた人さし指をクルクルと回した。 「皆さんも、私と同じように」 夜空を見上げ、人さし指を回す。 「声を出して、願いを込めるのです」 「ウィーン、ウィーン、ウィーン」 「もう、すぐそこまで来てますよ」 山頂に、冷たい風が通り抜けた。 地球の遥か上空に、1機のUFOが止まった。 「艦長、呼んでますけど……」 モニターを覗き込んだ。 「そうだね」 「コンタクト取りますか?」 艦長は、苦笑いしながらモニターを消した。 「金貸せって言われてもね」

トースターの灯火

見たこともない虫を見つけて固まっていたら、こちらに向かって飛んでくる悪夢を見た 夢で良かったと何度も思ってベッドを抜け出す 細い妻の肩に毛布をかけ直すと、真っ直ぐな髪がサラリと流れた キッチンの小さな明かりをつけて顔を洗う。水が温かく感じる 曇りガラスの向こうはぼんやりと青い テーブルからバケットを持ってきて薄く切る 冷蔵庫を開けて丸いタッパを取り出す 箸を探すがペアが見つからず黄色と赤のペアを使うことにした 昨夜の妻の肉じゃがをバケットに乗せトースターであたためる 暗い部屋で赤い灯りが美しい タッパの蓋を閉めようとしたが、一本の髪の毛があるのを見つけた。取り出すと長く真っ直ぐな妻の髪だった それを口に入れ飲み込む 昔、君の髪の毛が欲しいと言ったことがあった。あの髪の毛は今、口の中にある。 あんな細い髪の毛は喉の中でも妻のままで強くしなやかだ。 少しむせたので牛乳を飲んで流し込む 願いは別にあるのだけれど また、何処か遠くで叶うものかもしれない チーンと音が鳴る

闇バイト

公園のベンチに、男が座っている。 「はぁ……金が」 スマホ画面を親指で弾きながら、ため息をついた。 『高額報酬』 #叩く #運ぶ #埋める 高額報酬に目が止まった。 「これは……」 ボタンをタップした。 「お前が最後だ。早く乗れ」 指定された駅のロータリー。 隅に停まっていた黒のワンボックスに乗り込んだ。 中には、二人の若い男が座っている。 街から、少しずつ離れていく。 民家が消え、アスファルトが砂利に変わった。 「着いたぞ」 運転手の声に、ヘルメットをかぶった大男が近づいてきた。 「いいか、お前ら。今から、そこの穴に入って岩を砕け」 穴の奥深くへ連れて行かれた。 「これ使え」 大男が、ノミと金づちを足元に投げた。 三人は、ヘルメットのライトを頼りに、硬い岩を砕いていく。 狭い穴の中、金づちを叩く音がリズムよく響いた。 「砕いた岩を運んで、向こうの穴に埋めろ」 大男の監視のなか、何日も掘り続けた。 「よし。もういい。終わりだ」 大男が叫んだ。 その声に、男たちが座り込む。 「よく頑張ったな。これ、持ってけ」 渡された封筒には、お金が入っていた。 「あの、ここは何の工事現場ですか?」 「ここは工事現場じゃないぞ」 「なんですか、それ」 「お前らが、悪い道に行かないように……まぁ、リハビリ施設だな」 穴の入口から、あの時の運転手が入ってきた。 「所長。次の三人、連れてきました」

仲間はずれ

少しでもいい人になれるように努力しようとした。 筋トレ、スキンケアなど毎日に欠かさず行った。 しかし、それはいい人になろうとしているのではなかった。 「努力している自分は報われるだろう」という無駄な期待をしているだけなのである。 ありもしない未来に期待しているのだ。 「今までありがとう」 彼女はバイトの帰り際、笑顔でそう言った。 「こちらこそ」 私もいつもの笑顔で返した。 本当に言いたいことはこんなことではない。 君に好きでしたと伝えて抱きしめたい。また会いたいよと君に甘えたい。 しかし、これまで作り上げたエゴでできた仮初の仮面を取ろうとしても取れないのである。 私は何をしてきたのだろう。 私は、君に一歩も踏み出せずに取り残されている。 君は新たな未来に大きな一歩を踏み入れることのできる勇気を持っていた。気にしていた人の目には私などはなから映っていなかったのだ。 私はただ君の輝く背中を眺めていた。

高知県を動かす男

高知県は眼鏡の真ん中に付いている、鼻パッドに似ている。 実際、妻の眼鏡のパッドが高知県に変わっていた。 そんなイタズラをした息子の鼻には鼻パッドだけが乗っている。 息子曰く、大阪府でも代用が効くらしい。

ポエム新落語 誰もが知っている やすみの話

時は元禄、今は令和 今宵は、さいじつ このような 言葉があるのは それは、誰もが知っている やすみ 文字を変更 さいじつ から しゅくじつ それからどうした 法律で 定められているか 定められてない そのていど それでどうした しゅくしゅくと つまり 落ち着いて考える お前さん おバカさんか? ていど ならぬ ていのうとなる こんなの どうでしょう 書けるもんなら 書いてくれ

家の近くのD地蔵

 地蔵を中心に世界が魔術体系化する。 何を言っているのだ。 実際僕の住んでいた土地は練馬のチベットと呼ばれていた。 悪口を書いていると外から外国人さんの声でアーユー?(あなたは?)って言われるので僕も悪口書いている連中とそう変わらないのだろう。 地蔵が最新鋭の土地防衛AIになる。 それは過去からこの土地を守ってきた理論体系なのだがお供え物をすると非常に低コスト高コスパで土地を守ってくれる。 色々な人達がこの土地には集まるのだが夜光ケ丘公園を散歩しているとスポーツ少年がこんばんは!と自警なのか悪戯なのか遊びなのか暇潰しなのかわからないが最新防衛AIを装備して動き回っているので僕もつられてこんばんわ、と言う(元気のいい人にはつられてしまう、と言う何かの法則なのかもしれない) ぜひそのような少年少女達に美味しいご飯をお供えしてほしい。 地蔵少年地蔵少女は未来の練馬の土地を守り遊び回る。

SUNNY

雨に濡れる窓の外 上着を引っ張り出して袖を通す 昼を過ぎても太陽は見えず  父親はそれでも明かりをつけない 窓の横にベースケースが立てかけてある 黒いケースのジッパーを下ろし、中から黒いベースを抜き出す 弦がネックに触れる音がする 窓に流星が群生して、Gravityを感じるほどに一つになって降ってくる Eを探す 彼女は大概側にいる 太っていてあまり動けないから Aを呼ぶ 背中が痒いと思えばAの女が爪を立てていた 次はDだ あの犬はきっと草原で走り回っていだろう スティックでも投げれば咥えて来るはずだ 一度戻ってEとAの様子を見てみるが、既に出掛けようとしていたので呼びとめる。Dも来た。 最後にg。あの子は優しく、手を繋いでこよう。泣かないように。優しく SUNNYを一度だけ弾いて その一度で満足して もうやめてしまった 今日の雨と同じで降り止みそうにない

どっちにする?

製薬会社の会議室。 各部署の責任者が集められた。 「君たち、なぜ呼ばれたか分かってるよね」 会長の言葉に、皆がうつむいた。 「あの薬、全く売れてないんだろ」 「申し訳ございません。現在はこのような……」 資料をめくる音が続いた。 「臨床試験の効果は?」 「最高齢の女性にも、先日まで服用していただいていました」 「じゃあ、何で売れないんだ」 隣に座っていた社長が割って入った。 「ドクターには、丁寧に薬の説明をしましたか」 「もちろんです。一日一錠で、平均寿命より約十五年長生きできると」 「よろしいですか」 女性社員が、薬に添付されている使用上の注意の紙を配った。 そこには── 『まれに、異性に興味がなくなることがあります……』

焼き芋

都会のど真ん中に いし焼き芋の屋台がぽんっ シブいね シブいよね 焼き芋の屋台 何度もみかけるけれど いままで 買ったことはなし たべたいね たべたいよね おじさんに 声をかけるのが 躊躇われるのだ 買う? 買うよ おじさんに 「くださいな」 声をかければいいのだ ふう かんたんなものだな おいしいね 買ってよかったよね 秋風が たいへん心地いいことで

取り敢えず

朝の通勤時間に駅のホームで電車を待つ 向こうから走行音が近付いて来ている 電車に飛び込む前に考える  昨日何を食べたか 義理の母の作ったサツマイモの蒸しパンを食べたんだ。少し芯が硬かったが、久しぶりに甘い物を口にして幸せだった  音楽についてはあまり楽しめなかった 憧れと苦しみと退屈を伴う探求が長く、ただ良いなと思うことが少なかった 最後に聞いたのはチバの声だった  髪の毛を伸ばしてみたいなと思春期に思って、社会に畏れて短くし続けて、やっと伸ばそうとしていたけど、最後まで伸ばせなかった  ここ数年は本当に幸せな人生だった。仕事が楽しい。病気に苦しむ期間を差し引けば、後は楽しいしかない。無論、携わる人々に恵まれていた。  妻はこれからも優しく丁寧に慈悲深く僕の側にいてくれるだろう  息子に会えないのが寂しい。決して良い父親ではなかった。彼の側にいて、ただ寄り添うしか出来ないのに、もう、それも出来なくなる。深い傷を負わせることになるのだろう  …そういえば、引き出しの奥に、彼女の手紙を入れたままだ。一緒に撮った写真と手紙。あれは処分しないとな…彼女にも迷惑がかかる。…取り敢えず今日は生きるしかないか。 電車がホームを駆け抜けていく

別にいいんだけど

「課長、申し訳ありませんが、明日、休みを頂きたいのですが」 「どうしたの? 珍しいね」 「はい。急用ができまして」 男が、机を挟んで頭を下げた。 「じゃあ、引き継ぎお願いね」 「ご迷惑をおかけします」 ──次の日。 男は、集合場所に急いだ。 長靴を履き、スコップを握る。 「お兄ちゃん、ありがとね」 「いえ。大変だったでしょ」 「水がここまできたのよ」 年寄りの女が、柱を指した。 「泥がひどいですね」 「ボランティアさんが来てくれて、助かるわ」 男は、部屋の泥をかきだした。 額の汗を拭いながら、辺りを見回す。 「ここ、テレビとか来ました?」 「昨日、隣町にきてたわね」 「……そうですか」

知らない女

都会の明るい夜に慣れ過ぎて 深夜に散歩することが 習慣みたいになっていた でもやっちゃダメだったんだ 男だからと油断していたんだよ もしもこうなると知っていたら 外なんか出なかったのに その日は盆休みで帰省していた 夜遅くまで両親と酒を酌み交わす 二人は先に寝てしまったけれど 俺はどうにも寝付けなくて 酔い覚ましも兼ねて 深夜散歩に出かけることにした 一歩外に出て玄関を閉めると 辺りは途端に黒の陰影だけになり ポツポツと立ち並ぶ街頭だけが 黒い田んぼ道を照らしていた その光景に少し息を飲んだが スマホのライトを付ければ なんてことはなかった スマホのライトを頼りに歩く もう日付が変わる頃だったので 他に歩いている人はおらず たまに車が横切るだけだった 近づく車の音だけには注意しながら 夜風を感じながら歩く さてそろそろ帰ろうかと 来た道を戻ろうとしたときだった 振り返った先の黒い景色が 揺れているのに気づいた 直接ライトを向けるわけにもいかず 遠くてハッキリとは見えなかったが どうやら人影らしかった ライトも付けずに歩くなんてと思ったが 慣れていればそんなものかとも思えた 人影らしきものが近づくにつれて ライトがその足元を照らしていく サンダルとスカートの端が見える この人とすれ違ったら遠回りして帰ろう そんなことを考えていたときに 気づいた 恐らくは女が手に持っているのが 刃物だということに アルコールなんて吹き飛んで 全身から冷たい汗が吹き出した 呼吸は思わず止めてしまったが しかし足を止めるわけにはいかない 女を刺激しないようにライトを下げて ただただ祈りながら震える足を前に出す 女の足音がどんどん大きくなっていく 女の足元がライトの円の中に入り そうして通り過ぎていった 女の足音が徐々に小さくなっていく 俺はしばらく早歩きで進み続けてから ゆっくりと速度を落とし立ち止まった 辺りはしんと静かになった 俺の足音はもう聞こえない 女の足音も聞こえなかった ずずずと後ろを振り返る 黒い陰は立ち止まって その場でゆらめいていた 女がどちらを向いていたかはわからない だが俺は迷わずまた歩き出していた できるだけ遠くへ行かなければ 静かな夜に俺の足音が響いていく するとそれにもう一つの音が重なっていく 見たくなかったが見るしかなかった 足は止めないまま振り返ると ライトの先ではさっきの女が 小走りで追いかけてくるのが見えた そこからは無我夢中だった とにかく走って走って走りまくった そうして現在地もわからなくなった頃 ふと足を止めると足音が聞こえない 振り返って辺りを照らしたが もうあの女の姿は見当たらなかった まだどこかにいるかもしれない そう考えライトで周囲を照らし 警戒しながら家へと帰ることにした 結局のところ何事もなく 実家へ帰ることができた もしかしたら何かしら 俺の勘違いだったのかもしれない そんな風にすら思いながら 部屋に直行した俺はそのまま ベッドに倒れ込んで眠った 「朝ごはんいらないのー?」 母の声に目が覚めてリビングへと向かう 父はもう仕事へ向かったらしく 母は食器洗いをしていた 用意された朝食をすぐに食べ終えると キッチンに立つ母の元へ皿を運ぶ 「自分で片付けるなんて成長したわねー」 「それ毎年言ってるけどな」 そんな会話を交わしながら皿をシンクへ入れる ちょうどそのとき入れ替わりで 母がシンクから包丁を取り出して洗い始めた

面倒ごと

 とんでもなく頭はよいが、ちょっぴり変わり者の博士がいた。  博士はとても温厚で学生を叱りつけることなどただの一度もなかったので、学生たちは彼のことをたいそう好いていた。では、なぜ彼が変わり者と言われるのか。それは彼が極度の面倒くさがりであるからだった。  博士は「家に帰るのが面倒だ。」と言って毎日、研究室で寝泊まりした。食事はすべてインスタント食品で済ませ、その買い出しでさえ金を渡して学生に頼んでいた。  博士が研究室の外を歩くのを見かけた日には、翌日大雪になるなどという迷信がつくられるほど彼は頑なに外出したがらなかった。  本格的に寒さが強まってきた十一月中ごろ、博士が何か面白いものを作ったらしいという漠然とした噂が学内に広まった。となると当然、講義の合間に暇を持て余した野次馬大学生たちが研究室の前に人だかりを作る。  研究室の前の目立つ場所には立て看板があり、そこには”面倒ごと解決ロボット”とだけマジックで殴り書きされていた。  研究室の中には人の形をしたマネキンのようなものがぽつんと置かれている。ただ博士の姿は見当たらない。  誰もがロボットを好奇の目で眺めていたが、なかなかそれに触れようとするものは現れなかった。    しばらくして研究室の中で随一の頭脳をもつマモルが名乗りを上げた。  マモルが慎重にロボットに手を触れるとガシャコンという謎の音を立てて、それは立ち上がった。 「コンニチハ、マモル君。」 そういうとロボットはマモルに握手を求めるように手を差し伸べた。 マモルはその手をやさしく振り払った。 「父さん、そろそろ家に帰ってきてください。僕も母さんももう怒っていませんから。」

沸点

週の始まり。 こみ上げてくる怒りを抑えている。 「人のこと、バカにしやがって」 駅を出て、会社への道すがら、すれ違う。 「……」 いつも上から、見下してくる。 男は腹をくくった。 「明日だ。あいつの顔に泥を塗ってやる。待ってろよ」 ──翌日。 駅前のビルに向かった。 階段を上り、扉を開けると、一斉に鳩が飛び立った。 「くそっ……鳩の糞。これも、お前のせいだ」 見上げた先、にやけた中年男の大きな看板。 どこかのクリニックの院長。 脚立を立て、バケツの中の泥を顔に塗った。 「俺は、お前の顔が嫌いなんだ。理由? そんなものはない」

かかしごっこ

 かかしは、田畑に置いとくことで、田畑を鳥や害獣から守ってくれるらしい。  つまり正義の味方だ。    だからぼくも、教室でかかしになった。  自分の席の前に立って、両手を左右にピンと伸ばした。   「なにやってんだこいつ、キメー!」    いじめっこたちはぼくをあざ笑った。  水筒の水をかけられて、席をひっくり返された。  ぼくは、かかしのままだった。   「なにしてんだ! 席に着きなさい!」    先生はぼくを叱ってきた。  手を引っ張られて、動かされそうになった。  ぼくは、かかしのままだった。    一時間目が終わる。  二時間目が終わる。    校長先生がやってくる。  校長先生が、困った表情でぼくに何度も話しかける。  ぼくは、かかしのままだった。   「悪かった! 俺たちが悪かった!」 「先生が悪かった! 反省してる!」    いじめっ子と先生は、ぼくに謝ってきた。  ぼくは、かかしによって守られた。  かかしの役目は終わった。    ぼくは人間に戻って、席に着いた。   「許すよ」    かかしって、すごい。

れいんぼー・こーと

 そういえば、今日は警報が出ていた。  僕は鞄からカッパを出しながら、家に帰るまでのルートを考える。確か今日はレベル三の警報だったから、屋根の多い商店街を通って帰ることにする。恵みは何だったかな。そうだ、家に帰ったら庭先で雨でも眺めながら酒を飲むことにしよう。  会社の入り口を出ると、幸いまだ降っていなかったので、早歩きで道を進んでいく。歩道には他にもカッパを着ている人や、忘れてしまったのか傘を手にぶら下げている人がいる。でも今日はレベル三の日だから、傘だけだときっと辛いだろう。  いつも見かける黒い野良猫に、「にゃあ」と喋り掛けながら、細い路地に入った。ここでは傘が開けないので、建物と建物に橋を架けるように、申し訳程度のビニールの屋根が作られている。  路地を抜け、家までの道を半分程来たところで、ついに雨が降ってきた。  赤青黄色と視界に彩りが加わり、少し懐かしい気分になった。そうか、今日の恵みはおもちゃだったか。  からんころんと音を鳴らしながら、コンクリートの道路を雨が叩く。振り替えれば、ビニールの屋根におもちゃが降り積もっている。僕の故郷にも、こうしたビニールの屋根はあって、雨の降った翌日には、子ども達が集まったものだ。レベルニのサンマの次の日は、ちょっと臭かったけど。  レインコートに守られた肩に、紫色のスコップか当たる。きっと明日には、どこかの誰かがこれで城を作っているかもしれない。砂場とか公園とか、もう随分と行っていない。  僕はこの、空糸で織られたレインコートに、雨が奏でる音が好きだ。これでもくらえーって、空が好きなものを渡して遊びに誘って来ているように感じるから。レベル七のハサミだったときは、さすがにそんな呑気なこと言ってられなかったけど。いくらレインコートが頑丈でも、ね。  ふと見ると、少し先にヒーローの変身ベルトが落ちていた。なんだか少し、昔に戻りたくなって、レインコートの上から腰に巻いてしまった。「へーんしーんっ」なんて口ずさみながら、ちょっとだけ、ほんとにちょっとだけ、跳ねるように歩く。道路の反対側を見ると、両手一杯におもちゃを抱えた小学生くらいの子が、慎重に慎重に進んでいる。  頑張れーなんて思いながら、雨の音が弱くなっていることに気付き目線をあげる。 「あ、虹」  ビルが少なく開けた空に、大きな大きな、そしてとても美しい、虹が掛かっていた。たくさんの七色のおもちゃが、夕日に照らされて、鮮やかに輝いている。  あとちょっとで家に着いてしまうから。  やっぱりもう少しゆっくりと歩くことにした。

炊飯と声

昨夜は早く寝てしまい朝と呼べる辺りで一人起きた。鍋に研いだお米を炊く。 タイマーをかけ火をつける 何処かの階で会話が聞こえる 何を喋っているかまでは分からないが 男女が幸せそうにゆったりと会話をしている 麦茶の容器が出しっぱなしになっていたので冷蔵庫へしまおうとしたが、残り少ない中身はコップに移し容器を洗うことにした。麦の黒い粉が底にある。袋からあぶれた彼らはスポンジで擦り取られ水に流されていく 鍋からモクモクと湯気が立ち上っている 行き場のない泡が鍋から出ようともがき叫ぶ ギイギイと軋む音が聞こえている ふと昔付き合っていた女を思い出す 人生は情けないことで出来ている なるだけ前より情けなくない今を求めて歩いている タイマーが鳴りお米が炊ける 少し水っぽくなってしまった 「おはよう」といつもの声が聞こえた気がした 軋む音が止んでいる

ふふふ

風の訴えはわからない 何かをいいたいらしい さわぎたいだけとも思えない いい知らせ? それとも… 気持ちをきめて窓をあけてやる キンモクセイのいい香り ふふふ 風が笑って ふふふ わたしも笑って

大きな古時計

「これがじいちゃんの生まれた時に買った時計だ。もう動かないけどな」 「え~、動かないの?」 「こっちはじいちゃんが生まれた時に買った時計だ。こっちはまだ鳴るんだぞ、ほら!」 ジリリリリリリリリ! 「わあ!おっきな音。ねえ、僕のは?」 「今はもうスマホだからなあ」 祖父 100歳 孫  56歳 玄孫 4歳

夫婦の幸福

「おはようございます……」 「どうも……」  妻が朝の挨拶をすると、夫も会釈で返した。二人とも黙って寝床から起き上がると、各々身支度を始めた。  この夫婦は大した欲がない。夫の方はもっとよい暮らしを、と身を粉にするような努力をすることはなく、妻もまたそれをせっつくようなことはしない。二人とも、こうして家庭を持てただけでも満足しているのだ。慎ましい生活だろうと、それを苦にはしていないのだ。  *    夫は昔から引っ込み思案で、親兄弟にあれこれと言われて育ってきた。成績こそ兄よりも良かったが、彼の人付き合いは不器用で、いざ働いてみると、思うようにいかないことも多かった。  そんな中、たまたま縁ができた時計技師に見込まれ、数年前からその弟子として働いている。弟子の身で金を貰えているのに、これ以上を望むなど、考えられないことだった。  一方の妻は、夫に比べれば良い家の生まれであり、若くして相応しい家に嫁に出された。  だが、何年経っても子に恵まれず、そのうちに夫は外に愛人を作った。やがて愛人に子ができたため、彼女は夫や姑たちから石女と罵られたうえで、生家に返された。  不運にも、実家は彼女が嫁いだ頃よりも生活が苦しくなっていた。そんな中で泣き暮れる娘をいつまでも養えるわけもなく、両親は親類縁者に頭を下げ、貰い手を探した。とはいえ、石女と分かっていて引き受ける家などそうはない。当然、縁談は難航するかに思われた。  しかし、わずか数ヶ月で光明が射した。話を聞いた主人の古い友人が、弟子の嫁にどうか、と言ってきたのだ。  三男であり、実家を離れているため、義両親との付き合いは少ないらしい。写真を見ても悪くはない。どうにも不器用な男だが、見込みはある、という技師の言葉も後押しし、娘の預かり知らぬうちに見合い話は進んだ。  *   「失礼いたします……」  娘が戸を開けて入ってきたとき、後の夫は目が合うと、少しだけ会釈をした。愛想のない対応だが、心地の悪さはなかった。  夫としては、聞いていた以上に美人であったため、思わず下を向いただけであったのだが、結果的に奏功したのだ。    そうして、縁談はあっさりと纏まった。  娘はやつれていたことを心配され、相手が自分を気にかけてくれる人物と分かり、安心した。  夫の方も、自分の精一杯の気遣いを汲んでくれることに喜んだ。  彼の両親も、三男の嫁なら、と身の上を聞いた上で了承し、かくして二人は婚姻を結んだのだ。  *  彼らの生活は、結婚前よりもずっと充実したものとなった。  夫の方は不器用ながらに妻を想い、技師の修行に励んでいる。  妻はそんな夫を温かく迎える。夫が求めるのはそれくらいであり、他は自由にしていいと言われている。  彼女は余暇に編み物をするようになった。形になれば夫に渡すつもりで始めたが、存外彼女には合っていた。夫も触発され、後々には夫婦で並んで座りながら、お互いに渡したいものを作るようになった。  この夫婦は欲がない。わざわざ贅沢をする気など起こさない。夫婦で揃って夜に寝て、朝に起き、食事を摂る。夫は働き、妻は夫を迎える。会話はないが、愛はある。  夫は妻に恵まれた。妻は夫に恵まれた。夫婦は家庭に恵まれた。この夫婦は、この上なく幸福である。  

憂う心と曇り空

 最近、浩司さんのお顔が、曇っている……気がする。  気のせいと思いたいけれど、今日だって、目が合ったとき、何か後ろめたいことがあるように、すっと顔を背けられてしまった。  ……考えられるとすれば、何かご病気されたくらい?  あの実直な人に限って、浮気なんてするはずないし、他のことにしても、そう隠しごとをしたがる人ではないもの。  ……決めたわ。今度お話しできるときに、聞いてみましょう。  * 「……不安にさせてすまなかった。……でも、僕は、君を汚したくなかったんだ」  雨の中、来てくださった浩司さんに、姿勢を正して伺うと、すぐに打ち明けてくださった。  どうやら、私に対して情欲を抱いてしまうことに、罪悪感を覚えていたらしい。 「……お話は分かりました。……ですが、無理に我慢なさるよりは、私を頼って欲しかったです」 「すまない。ただ、話しても、『そんなふしだらなことはしたくない』と、跳ね除けられる気がしてね……」 「……他の男の方ならいざ知らず、浩司さんは正式な婚約者です。それに、あなたが軽薄で浮ついた方でないことは、誰より承知しているつもりです。……浩司さんが求めてくださるのなら、私はお応えいたします。……お父様には、怒られてしまうかもしれませんが……」 「大丈夫だよ。……実は、お義父さんには、前にお話ししているんだ。『元より、娘のことは君に任せたつもりだ。いちいち俺に通さなくても、今更目くじらは立てんよ』と笑っていたよ」 「そう、ですか……。でしたら、何の憂いもありません。……絹江に、未来の妻としての務めを、果たさせてください」 「嬉しいけど……本当に、嫌ではないんだね?」 「想い合う方に求められる幸福を嫌う私ではありません。……それに、実を言えば、私の方も、求めてくださらないことを、不安に思っていました」 「本当かい?」 「はい。……ですが、女の方からお誘いするなど、そんな……婚前の身で、貞淑さを欠くようなことはできませんから……近頃などは、夜毎に寂しさが募ってしまって……」 「絹江っ!」 「……はい」 「すまなかった。僕の思い込みのせいで、君の心に影を落としてしまった。……自分が情けないよ」 「いえ、いいんです。今こうして、あなたに包まれているだけでも、絹江は幸せですから。……あの、浩司さん」 「あっ……すまない、つい力が入ってしまった、どこか痛めたかい?」 「そうではなく……今まで、言い出せませんでしたが……私は、浩司さんに抱きしめられるのが、好きなんです、とても」 「……よかった。うん、僕も好きだよ。君の温もりを、全身で感じられるからね」 「では、これからは、会う度に、こうしてください。あと、お別れするときも……」 「ああ、それが君の望みなら、僕は幾らでも応えるよ。……そうか。婚約者に、自分のことを求めてもらえるというのは……こんなにも嬉しいことだったんだね……」 「はい。……ですから、遠慮は無用です。今日はもう、お別れになってしまいますが……これからは、いつでも求めてください。私も準備をしておきますから」 「ありがとう。……絹江。こんな僕だけど……これからも、よろしく頼むよ」 「はい。浩司さん。こちらこそ……末永く、お願いいたします」  *  浩司さんを見送って、ふと空を見上げたら、小さな七色の橋がかかっていた。  ……これは、神様が、私たちのことを祝福してくれたのね。  そう思った途端、胸に沈んだ名残惜しささえも、温かくて、愛おしいものに感じられた。  ……でも、きっと、今の私の顔は、この空よりも、いっそう晴れやかなのでしょう。  ――どうか、浩司さんにこのお話ができるときが、早く訪れますように。

冬ざかりの蝶

 あなた様に初めてお会いしたのは、桜舞う春のこと……と言えるのならば、聞こえがよいのですが、実際は、枯れ葉が時折舞うだけの、冬のことでありました。  散歩に出た私がお見掛けしたとき、あなた様は、花の傍でじっとしておりました。  寒さに耐えているのか、それとも何か別の意図があるのか、私には分かりませんでしたが、陽光に煌めくあなた様に目を奪われたことは確かです。  私は、ただその場に立ち尽くして、あなた様をじっと見つめていました。  あなた様は、目が見えないので、気づかれることはないと思ったのです。  事実、あなた様は、気づいていなかったでしょう。  ただ日差しを浴びながら、ゆっくりと羽を伸ばしているのです。  私は、意外な感に当てられ、寒い中でも、こうも寛げるのだな、などと、変なことを考えてしまいました。  それから、いつまでこうしているのだろう、とも思いました。  いくら日差しがあるとはいえ、この寒さが堪えないはずはありませんし、どこか逃れられる場所を探す方が、ずっと賢明だったでしょう。  しかし、あなた様の、堂々とした態度は、氷像になることさえも厭わないようで、私は、それを邪魔しては、誇りを傷つけてしまう気がして、お傍に寄ることさえもできずにいました。  それから少しして、奥方様でしょうか、あなた様にお似合いの美しい方が、お迎えにいらっしゃいました。  しかし、あなた様は、頑なに動かず、困り果てたのであろう奥方様は、花の傍を、所在なさげに彷徨くばかり。  私は、いよいよ奥方様が気の毒になり、一歩、二歩と歩み寄りました。  奥方様は、私から距離をとりましたが、やはりあなた様は、動じることなく、ただ私が手を伸ばすのを、待っていたように思われます。  私は、あなた様のお身体にそっと触れて、微かに指先に力を入れて、花から足を引き剥がしました。  凍っていたせいか、それとも力加減のせいか、足先のひとつがちぎれて、取り残されてしまいました。  それでも、命あっての物種と分かっているのか、あなた様は怒りなどせず、私の掌に煌めく鱗粉を残して、空へと舞い上がってゆきました。  そして、私に礼を言うように、奥方様とともに、私の頭上をぐるぐると二、三度巡ると、横風の入らないうちに、ひらひらとどこかへ去っていくのでした。  私は、それを見送って、空を見上げました。  空気がよく澄んでいて、ふと手をかざすと、鱗粉の光沢が、私の心をも輝かせてくれたような心持ちになりました。    あれから幾年も経ちますが、冬のさかりに蝶を見たのは、あなた様と出会ったあの日の他にはありません。  それに、たとえ今後お見掛けする機会があったとしても、それはあなた様ではなく、きっとその子孫の方で、もうあなた様にお目にかかれることは、終ぞないでしょう。  人に蝶の言葉は分かりませんし、蝶もまた人の言葉など話せませんから、僅かな時間とはいえ、心の交流ができたことは、奇跡というほかありません。  夢幻の鱗粉が見せた、私の他に誰も知らない、小さな小さな奇跡です。  ……ですが、私は、二度とはないはずの神秘を求めて、今も尚、晴れた冬の日には、蝶の幻影を探してしまうのです。

症状欄

 初診の待合室は空調の音だけがしていた。壁の高いところに呼び出しモニターが一つだけあって、14を出したまま動かない。  俺は受付で渡された問診票を膝の上に置いていた。症状を書く欄が、もう埋まっている。  椅子に座ったまま3秒おきに受付のモニターをちらっと見る  活字のように揃った字でそう書かれ、文末に小さな印があった。□の中に点が一つ。受付は何も言わなかった。ペンは渡されなかった。  上着のポケットに、いつものA6のメモ帳が入っている重さがある。左手の親指で、右手首の内側を一回なぞった。皮膚が少しだけ引っ張られる。  斜め前の椅子に、五十代くらいの女性が座っていた。膝の上で手を組み、背筋を伸ばしている。顔を上げて、壁のモニターをちらっと見る。視線を落とす。一、二、三、と数えると、また同じように顔を上げる。また落とす。  俺はポケットからメモ帳を取り出した。開いたページは白かった。そこに、自分の字で一行書く。  椅子に座ったまま3秒おきに壁のモニターを見る  書き終えて、手を止め、小さく四角を書いて中に点を打った。ペン先が紙を叩く音がした。  問診票は膝の上に置いたまま、メモ帳だけを少し持ち上げる。 「観察で気になって。いまの動作、心当たりありますか」  女性は顔を上げた。笑わなかった。 「え、私?」 「三秒おきくらいに、あそこの表示を見てますよね」  女性は自分の膝を見た。それから俺の手の中のメモ帳を見た。 「そのメモ、見せてください」  女性が手を伸ばす。俺は反射的にメモ帳を引っ込めた。そのとき、二人の手が、膝の上の問診票の上で重なった。問診票が少しずれる。覗き込んだ女性の目の下に、症状欄の字が来る。  女性の視線が止まった。 「これ……」と女性が言った。 「さっきあなたが書いていた印と同じ」  指先が、問診票の文末の□の中の点を指していた。俺がさっきメモ帳に打ったのと同じ印だった。  俺はメモ帳の次のページに親指をかけた。まだめくっていないページ。めくる。  左手の親指で右手首の内側を一回なぞる  活字のように揃った字でそう書かれ、文末に□の中に点が一つあった。  モニターは14のままだった。俺はめくったまま、手を止めた。

ちょうのうりょく・こんぷれっくす

 あと四分。絶対覆せないぃ。  悲しいかな、金曜六限そろそろ眠くなる時間。うちのクラスの時間割りだとクラス内エスパー戦が入ってるんだ。  高校の入学式、全国の新一年生と同じように私もエスパー化薬を飲んだんだ。期待に胸を輝かせてたのになぁ。  あ、駄目だせめて集中しよう。怒られないよーに。  急に違和感。髪の毛がちりちりする。咄嗟にその場で後ろでんぐり返し。やば後ろの人にぶつかった、と思ったのも束の間、一瞬前まで私が居た場所に小さな雷が落ちる。 「ちょ危なっ」  雷ということは、いつもいつも得点ホルダー、クラス内順位一位の委員長だ。ざっと見た感じクラスの半分くらいはもうダウンしてるから、そのうちさらに半分は委員長のポイントになってるかな。  さっきぶつかった人に蹴りをいれつつ、委員長の元へ駆け出す。現在私の得点は一ポイント。クラス最下位は始まってすぐ倒させていただきました。  右にずれ、左にずれ、雷を躱しながら、距離を詰める。不意打ちじゃなければ、案外どうとでもなる。あ。調子に乗ってたら左足にくらった。前に出すのが遅かったなぁ。失敗は気にしない。ことにした。  さて、私の能力は、相手を転ばせること。我ながら意地悪だ。目の前で刃物を構えてるだけで、相手は即座に得点に変わる。リスポーンコースまっしぐら。  足をかばいながらも委員長の前に躍り出る。 「いいんちょー、倒さしていただきまぁす」  たまにはジャイアントキリングでも。  間合いまで近付こうと一歩出た途端、鼻から1センチと離れていないところに雷が落ちる。私の可愛いお顔に傷が付くところだった。  利き手の方の右側にサイドステップして隙を伺う。委員長の足が縺れることを祈りつつ、とりあえず様子見で一周。目が回ってきたから、一旦逆方向へバランスを取る。と、私の回っていた先に雷が。危ないセーフ。  土の焦げる匂いがする。私みたいに“ハズレ”の能力じゃどう足掻いたって無理な盤面。  残り一分。  全身の力を振り絞って突進する。ナイフを右手で突き出し、また髪の毛がぴりぴりとするのを感じた。  一瞬。タイミングを合わせる。 「はぁっ!」格好いい掛け声とともにナイフを真横にぶん投げる。  委員長の目が驚きで大きく開かれた。  委員長がその場で体制を崩し、倒れ掛かってくるのと同時に、空を切るナイフに雷が落ちた。  光と音。もちろん私には当たらない。  さあ、スポットライトを浴びてヒーロータイムだ。  私の最大の力を込めた拳が今、打ち出された。

スーパー☆ビーム

「必殺!スーパー☆ビィーーームッ♡!」  ああもう、やっぱり恥ずかしい。  私は確かにね?戦隊物とかプリキュアとか好きだったよ?でもさ、いざ大勢のちびっこ達のまえでこれをやるって、なかなかどうして恥ずかしい。  ピロン。あーあ。ラインきたー。どうせあいつじゃん。わたしを“ビショウジョセンシ”とやらにしたあいつ。あのさ、この町怪人来すぎだから。  走りながら、もうすっかり体に染み付いて、こないだなんか目を瞑ってもアイテムを落とさなかった_変身の儀式?シーン?何て言うんだこれ_変身のシーン(暫定)をテキパキとこなして次の怪人のことを考える。もはや流し作業。  さて、今日のやつはどんなやつだろうか。はい、予想!たぶん今回はタピオカの怪人!なぜなら朝の占いのラッキーアイテムだったから!  自分の中の、なんとなくこっち!という勘に従いながら角を曲がると、「助けてぇっ!誰かぁ!」という声が聞こえてきた。はいはいオーケーです。  さらにもう一つ路地に入る。と、目の前に女の子。あれ?この子、先週もじゃなかった? 「あ、レモンちゃん!助けに来てくれたの?」レモンってのが私ね。  はい!ここで答え合わせー!何の怪人だったか!てけてけてけてけてけてけてけ、てん!  今日はセミの怪人ですっ!ゼツミョーにキモい…。こいつ両手両足に加えて、お腹から足六本生えてやがる。合計十とかダンゴムシか。  ここでシリアス入りまーす。  適当にノリと雰囲気で殴る蹴るします。武道なんか習ってないけど、そこはほら美少女戦士(笑)のパワーアップでドーピングします。あ、いいのはいった。てゆーかお腹の足全然使わないじゃん。  今回は必殺技要らないかなーと思いましたがそんなわけもなく。今日も今日とて死にそうになりながらも急に本気を出してきたセミの怪人が向かってきてピンチに!ほんとこのくだりやめて欲しい、見せ場作る強制イベント。  さあ、「頑張ってー!」いただきましたぁ。こっから、恥っずい台詞を言うって勇気があれば勝てちゃいます。 「必殺!スーパー☆ビィィィーームゥッッ♡♡」

三枚

 母が隣から立った。 「これお願いね」と一枚を私に渡し、診察室へ入った。扉が閉まる。  診察室の扉の上に、番号が一つだけ光っている。四十二。待合室に響くのは空調の低い音と、向かいの子の靴が椅子の脚を擦る音だけだ。椅子は全部同じ色で、少し冷えている。  向かいに、子連れの母親と、その子が座っている。母親の右手に札が一枚、握られている。指の間で縦に持っている。その子は俯いて、椅子に足が届かず、交互に揺らしている。  時々、母親の袖を引く。母親は子の肩に手を置いて、また札を持ち直す。私の左手にも一枚、母から預かった札がある。  視線を落とす。私の隣の椅子の上にも、一枚。裏返しに置いてある。数字は見えない。椅子の座面の窪みに、少しだけ沈んでいる。  患者は二人。札は三枚。一枚多い。私はもう一度数える。向かいに一枚、私の手に一枚、隣に一枚。  母は前は自分で持っていた。落とさないように端を摘む持ち方だった。カバンから出すときも自分で出していた。最近になって、私に預けるようになった。診察券と一緒に渡されることが増えた。  最近やっと任されるようになった持ち方で、親指の腹で真ん中を押さえる。端が指から出ないようにする。そうすると折れない。重みが手に残る。  もう片方の手で、隣の椅子の札を拾う。埃もない。誰かの忘れ物だと思った。ここに置いたままでは、探しに来た人が困る。  探しに来た人がいれば、すぐ渡せるようにしておくのがいい。預かった一枚と重ねて、両手で握った。番号はまだ見ない。重ねたまま、親指で縁を揃える。カサッと音がする。二枚の厚みになる。 「あの」向かいの母親が声をかけてきた。 「それ、受付に持って行きましょう。私が」手を伸ばす。もう片方の手は子の札を握ったままだ。 「余ったままだと、順番、ずれちゃうと困るの。うちの子、学校あるから。ね」  子の足が止まる。母親のほうを見る。向かいの母親の指先が、私の手のすぐ手前まで来る。あと数センチで触れる。爪が短く切ってある。  触れられる直前、私は重ねた二枚を引き剥がした。右と左に分ける。両手が少し離れる。どちらが母から預かった札か、見ないと分からなくなった。親指が震えるのを止めるために、もう片方の指で押さえる。  一枚は三十七。角が擦り切れて、白くなっている。古い札だ。インクも薄い。もう一枚は四十二。インクが濃く、新しい。縁もまっすぐだ。  扉の上の表示は、四十二のままだった。光は変わらない。手の中の四十二と、上の四十二。交互に見る。首を上げては下げ、また上げる。三十七を下にして、重ね直す。指で押さえる。  扉が開いた。母が出てくる。歩幅は行きと同じだ。私の膝の上の二枚を見て、言った。 「あ、そこにあった」  母は四十二番を取った。指先で摘む。紙が少ししなる。ポケットに入れる。私は残った三十七番を母のほうへ差し出す。母は受け取らなかった。  指先で、私の手のひらの中央へ、とん、と押し戻した。札は私の手の中に戻る。母は先に椅子のほうへ行って座った。  そのとき、扉の上の数字が、ぱっと切り替わった。四十五。音はしない。  向かいの母親が立った。 「ほら、行くよ」子が頷き、椅子から降りる。母親の手の中では、四十五番がずっと握られている。離していない。最初から同じ手だ。指の跡がついている。  私は自分から立ち上がった。二歩進む。向かいの母親の開いた手のひらに、三十七番を置いた。擦り切れた角が、上を向く。重さはほとんどない。渡したあと、手を引っ込める。  彼女は頷き、それを受付のカウンターに置いた。カウンターで軽い音がする。子の手を引いて、診察室へ向かった。扉が閉まる。上の表示は四十五のままだ。  私の手の中には、何も残らなかった。

しのり

わからん。哲学は、わからん。私は苛立たしく本を閉じようとしたが、しおりが無いことに気が付いた。だが海苔はあった。個包装の五枚入りの海苔だった。私は袋を破き、一枚を取り出し、二十八ページ目の溝に海苔を挟んで本を閉じた。これはしおりならぬ、しのり、ではないか。私は、ほくそ笑んだ。

16番の方

 待合室は乾いた空調の音だけがしていた。膝の上に、制服の入ったバッグ。右手には紙の札、22番。バッグの内ポケットに、スマホが入っている。正面の表示板は16番を出していた。 「16番の方」  受付の女性がマイク越しに言った。奥の長椅子で、19番を持った男性が足を組み替えるだけだった。窓際で21番の女性が雑誌をめくり、入口に近い席の25番の老人が目を閉じたままだった。誰も立たない。  受付はスイッチを切った。カチッという音のあと、唇だけが小さく動いた。私の席からは、何と言ったのか聞こえない。表示は16番のままだった。  膝のバッグが重い。チャックの隙間から、たたまれたシャツの白が見える。18時からバイトだ。行けば、今日はまだ何でもない人でいられる。  ここに座っていれば、結果は聞かずに済む。でも座っていれば、間に合わない。帰る、という選択肢だけが最初からなかった。 「16番の方」  また同じ声。やはり誰も立たない。私は周りを見た。19番の札、21番の札、25番の札。指先で握られている。16番は、どこにもない。  それを確認してから、私は立った。 「私かもしれません」  声が少し割れた。カウンターまで三歩。右手の22番を差し出す。受付の女性は一瞬だけ札を見た。 「確認しますので、お掛けになって」  手は伸びてこなかった。札は私の手の中に戻った。彼女はすぐにマイクのスイッチを入れる。 「16番の方」  すぐそばで聞く声は、待合室のより乾いていた。スイッチを切る。カチッ。そのあと、すぐ口元で。 「16」  小さく、はっきり。16。  私はカウンターの前で立ち尽くした。右手の札が汗で少ししなる。もう一度差し出すことはしなかった。代わりに、カウンターの縁に置いた。 「これ、預かってください」  22番の札。受付はうなずいて、それを手元に置いた。後ろの、番号札を入れる透明の箱には入れない。机の隅、自分のボールペンの横に置いただけだった。  表示は16番のままだった。 「16番の方」  誰も立たない。19番の男性が咳をした。  私は席に戻り、バッグからスマホを出した。シフト表の画面。18:00-22:00、とある。画面の右上、18:07。  膝のバッグは、置いたままだった。 「16番の方」  受付がまた呼んだ。マイクを切る。カチッ。  間があった。彼女の唇が、さっきとは違う形に動いた。 「22」  表示は16番のままだった。私は座ったままだった。

秋の微笑み

秋が私に甘えるのです そっと優しく微笑むのです 遊んでほしいとからかうのです   そのうち静かな木々さんも いっぱいたくさん実が成って みんなでおいしい季節です いつもは安いヨーグルト トロトロダラン白いやつ たまにはプリンも食べたいな 茶色いカラメル甘いよね 黄色い友だち乗っかって びっくり返ってまたあとで 秋が私に問いかけるのです 幼かった頃の想い出は 幸せだった頃の想い出は それってきっといつまでも 心の中のアルバムに いっぱい詰まっているのです いつも一緒にいるのです  

月

月がきれいですね    こっちは雨が降っていますよ どうやら、脈なしのようだ

賢いお調子者

なあ、漫才をやらないか? いいネタを思いついた。 夏休み明けに久しぶりに登校した学校で、俺は 突然、友人に声をかけられた。 は?意味がわからん。 そんなこと、言わずに〜 何事も挑戦は大事って言うじゃん? 目の前にいるニヤニヤと した友人の頭にデコピンする。 ばーか。あーほ、マヌケな愚か者め。 そう言って、話を終わらせようとすると 友人は俺の手を掴み、ぶっ叩いてきた。 この野郎...ウゼエ。そう思い、何か 言おうとすると友人が先に口を開いた。 そう言って、ありきたりな言葉でしか否定の 言葉を吐けないんだ〜? この多様性の時代にそんな、独創性の 欠片もないようなセンスのない言葉。 人の意見を否定する奴が、コピー野郎とは〜 変な世の中。いや、君がお馬鹿なだけかな〜? ....ご丁寧に変顔までしやがって。 殺意を込めて、チョップすると避けられた。 無駄な反射神経の良さが余計に腹立つ。 そう思い、二発目のチョップを 喰らわせようとすると、今度はパシンと チョップを挟んで受け止められた。 こいつ...と先程と同じ展開にイラついていると 再び友人が口を開いた。 あらあら〜、人の体に暴力を振るう割には 当てることもできないの。 あ、もしかして当てる勇気もないって 事かな〜?ごめんね〜?せっかく、臆病な君が 勇気を振り絞って、攻撃したのに一瞬で 受け止めちゃって。ショックだよね〜? ほんっとに申し訳ないなあ。 あまりの煽りにイラつきすぎて、 胸ぐらを掴んだと言うのに、友人は飄々とした 顔をしている。それどころか、 薄気味悪い笑顔である。 おい、あんまふざけんなよ?と言うと 友人はどこかへお辞儀を始めた。 そして、以上。ウザダル絡み クソガキと短期拗らせ野郎の怒り。でした〜と 満面の笑みで言い放った。 俺が何かを言うまでもなく、 友人は教室の奥を指さした。 その方向を見ると、漫才配信中!と 明るいポップがつけられたカメラがあった。 全てを理解した俺は友人の首根っこを掴んで 廊下へと連行するのだった。

紙飛行機の行方

男は、不機嫌だった。 ブスッといかにも不快そうな顔をして頬杖をついていた。 それはなぜか。 男は先刻、担任の教師に怒られたばかりだった。 男が授業中に隣の席の友人に紙飛行機にした手紙を送って遊んでいたからである。 男としては、怒られる分にはウザいだけなのでまだいい。 だが、友人は行き先はわからないが手紙をどこかに送っているくせに 先生からもとくにお咎めなしだったのだ。 それを先生に追求してもお前とは関係ない別件な上に 証拠もないのになぜそんなことを言うんだと返された。 そのせいで、男は非常にイラついていた。 だが、そんな男はある妙案を思いつく。 それは、恐らく先生のお気に入りであろう友人を怒らせるような手紙を送り、 それに怒った友人の手紙を先生に見せれば、いくらお気に入りの 生徒といえど、怒らざるを得ない。男はそう考えたのである。 早速男は計画を実行することにした。 運の悪いことに次の授業は当の担任だが、男は一刻も 早く友人が怒られる姿が見たいがためにリスクを承知で実行することにした。 ざまあみろ。俺の共犯なんだから、地獄へ落ちろ… そんなことを考えてほくそえんでいると、早速チャンスがやってきた。 先生が長々しい解説を黒板に書き始めたのだ! 今だ!行けー!そうしてボロクソに書き殴った暴言を紙飛行機にして友人の席へ飛ばす。 紙飛行機は順調にスイーっと進み、友人の机へと着陸した。 男はワクワクしながら、友人が手紙に気づくのを待った。 だが、友人は一向に気づく気配がない。それから10分ほど 観察してみたものの気づかれた様子はなく、結局男は諦めて、睡魔への抵抗をやめた。 男は、突然叩き起こされた。眠たげな眼を擦りながら起こしてきた人物が誰かと見ると 笑みを浮かべた担任が仁王立ちで立っていた。ただし、目の内には冷たい光が宿っている。 それをみて背筋がゾッとした男は飛び起きて、ピンと背筋を伸ばした。 す、すみません先生。ちょっと〜寝てましたと言うと先生はにこやかに笑って言った。 これについて。話をしようか? その手には先ほど投げたはずの紙飛行機が握られていた。 後ろを見ると、紙飛行機を投げた相手であるはずの友人が爽やかな笑顔で おつかれざまあと書かれた紙を紙飛行機にして男の方に投げてきた。 それに当たった男はキレようとするが、先生に捕まり、連行されていった。 友人は笑いながら手を振って見送った。 その日、生徒指導室には絶望が響いたと言う。

百日草

帰り道を歩く 曇り空の一日が、終わりかけで青空を見せている 目を落とすと畑の隅に百日草を見つけた 小さく群生しているが派手さは無く何とも素朴な花だと思う 素朴。人生は素朴で良い。 強い真夏の日差しの派手さはちょっと。 雷雨が作る刺激もちょっと。 私は素朴にいきたい 百日草のように素朴に咲き 誰かの目に止まれば、それは幸福である そんな事を考えながら駅に向かう

熱の重さ

無理やり肩を組まれたとき、鼻をついてきた汗の匂いに混じってアイツの匂いがした 石鹸の残り香か、それともアイツ自身の匂いなのか 同じ男同士で、なんで… 正直、戸惑うけれど、すぐそばの熱を嫌だと思えない自分がいるのも事実で ずっとフタをしていたのかもしれない そんな自分の気持ちに、いま、正直になってみる どんより曇っていた心の表情が、驚くほどはっきりと明るく笑っているよう 「帰り、なんか食べてかない?」 わざとそっけないフリをしながら、震えないように声をしぼり出す 少しだけ意外そうな顔をして、でもアイツはすぐにニイッと笑った 「おう」 夕暮れの空気に心地よく響く、音みたいに短い一言 ただそれだけなのに、胸が大きく、うるさいくらいに弾むのがわかる もう少し一緒にいられる素直なうれしさ 肩にまわされたアイツの腕の重みさえ、いまは愛しく感じられて

フェルトの鍵

 鍵をかけたのは私だった。カチャリという手応えが指先に残る。ドアを閉めた振動が廊下の蛍光灯に伝わって、文芸部の部室は今日も終わりだ。 窓を閉めて、机を拭いて、最後に私が施錠する。一年前から決まっている順番だった。廊下には私と真子しかいない。外はまだ少し明るい。 「よし、帰ろ」  真子が言った直後だった。閉めたばかりのドアの向こうから、チャリンと乾いた音がした。  二人で顔を見合わせる。鍵は私の右手の中にある。現在の正規の鍵だ。銀色の新しい鍵。確かに施錠した。部室の中は無人のはずだ。 「今の、中だよね」 「うん。中から聞こえた」  真子がドアに耳を近づける。私は咄嗟に鍵を握り直した。 「開けてみる」  差し込んで回す。鍵は素直に開いた。夕方の色を残した部室は、誰もいないままだった。床に、モスグリーンの小さな塊が落ちている。  拾い上げると、古い方の部室の鍵だった。交換前に使われていた正規の鍵で、今は顧問の許可を得てドア内側のフックに記念として掛けてある。 鍵全体が、フェルトで作られた小さな袋に収められていた。縫い目の端がほどけて、そこから金属の鍵先だけが覗いている。  フックは空っぽだった。 「振動で落ちたんだ」  真子がしゃがんでフックを見上げる。私は袋を手のひらで包んだ。普段はこの袋のおかげで、揺れてフックやドアに触れても音がしないのだ。ほどけた部分から出た先だけが床に当たって、あの音を立てたらしい。  袋は擦り切れていた。何度も縫い直した跡がある。糸の色が緑、生成り、また緑と違う。細かいかがり縫いが、ほどけた端を何度も押さえてきたことが分かる。指先で触れると、フェルトは柔らかく毛羽立っていた。 「これ、作ったの真子?」  真子は少し笑った。 「二年の秋くらいから。ドア閉めるたびにカチャって鳴るから」  私は鍵の音が少し苦手だ。高い金属音がすると、今日が終わったと区切られた気がして、一瞬だけ黙ってしまう。言ったことはない。言うほどのことでもないと思っていた。 「ほどけてきたら縫ってた。気づかなかった?」  首を振る。毎日そこに掛かっていたのに、袋に入っているのが当たり前だと思っていた。  真子はいつも持ち歩いている小さな裁縫セットを取り出した。 「貸して」  渡すと、真子は床に座り込んだ。膝の上で袋の口を押さえ、針を通す。チク、チクと小さな音がする。何度もやってきた動きだった。私は横に座って、ほどけた糸先を見ていた。  部室は開けたまま、廊下からの蛍光灯の光だけが細く入っている。私たちは本来なら廊下にいるはずだったのに、また中に入ってしまっていた。  縫い終わった真子が立ち上がり、袋に入った古い鍵をフックに戻した。今度は触れても音がしなかった。 「よし」  私はまだ新しい鍵を握っていた。その鍵で、もう一度閉めなければ帰れない。 「お茶、淹れていい?」  私が言うと、真子は「いいよ」と言った。  私はドアを閉めなかった。鍵もかけなかった。真子が湯を注ぐ音だけが、夕方の部室に柔らかく響いていた。

明日の薬

 待合室の長椅子は、冷えきって、背中の形を覚えていた。民子は膝の上で手袋を握りしめ、正面の壁にかかった時計を見上げた。針は十時を五分過ぎたところで、重い音もなく、ただのろのろと進んでいる。 窓の外は曇り空で、白い光が磨りガラスを通して、床のタイルにぼんやりと落ちていた。薬局の受付が近いのか、名前を呼ぶ声が、ビニールのカーテンの向こうから、間欠的に聞こえてくる。 「………何やそれ」 民子は、隣の信二の膝の上に置かれた白い袋に気づいた。 「薬や」 「見えるわ。どうして私の名前、書いとるん」 信二は腕を組んだまま、正面の健康掲示を眺めている。民子は袋を取り上げた。調剤済の印に、確かに自分の名前。中から出した説明書には、聞き慣れない薬名が並んでいた。 マグコロール、ピコスルファート。どちらも明日の大腸検査のための腸管洗浄剤だ。まだ何も始まってもいないのに。 「明日の分やろ」 「ああ」 「なんで今日、持っとるん」 「朝、受付混むからな。今日取っといてよかった」 民子は眉を寄せた。一週間前から知っていた検査のことを、彼女は封筒に入れたまま見ないふりをしていた。予約票だって、受付の前で初めて目にしたのは、信二が無造作に取り出したからだ。 避けたかった。年に一度の健診さえ、去年は風邪を口実に逃げた。信二は黙って朝粥を炊き、薬を煎じて、文句も言わずにその背中を見せた。 「また一人で勝手に」 「別に。付き添い来たんやから、それくらいせな」 「言うてくれたらええやないか」 「お前、嫌がるやろ」 信二はそう言って、初めて民子の方を見た。口の端が、わずかにへの字になっている。それが怒りではなく、照れ隠しだと、民子は四十年以上も知っていた。 信二は説明書を広げようとして、小さな字に眉を曇らせた。老眼鏡は持ってきていない。民子は袋の中から、一つ一つの薬包を取り出した。 丁寧に折り目が整えられている。若い頃から、彼は紙ものを粗末にしなかった。封筒の糊も、新聞の折り方も、いつもきちんとしていた。民子は無意識に、薬袋の四つ折りの折り目を、指の腹でなぞった。紙の繊維が、乾いた音を立てた。 「飲む時間、書いとるんやって」 「知っとるわ」 民子はそう言いながら、隣を見た。信二は病院の床をじっと見つめ、再び腕を組んでいた。隣の椅子に座った若い女性が、スマートフォンの画面を指で滑らせている。 受付の呼び出し音が鳴り、誰かの名前が響いた。民子はバッグを膝の上に引き寄せた。ナイロンの冷たい感触が、手のひらに残った。 「………朝、四時に起きんとならんのやろ」 「目覚まし、二つかけとくわ」 「うるさいわ。一つでええ」 「お前、一つやと聞こえへん。前もそうやった」 民子は薬袋を自分のバッグにしまい込もうとして、留め具が固くて開かないことに気づいた。信二が横からそっと手を差し出し、袋を受け取った。 彼は薬包を中に戻し、説明書を折り直して、元のように整えた。そしてバッグの留め具を、親指で軽く押して開け、中へ滑らせた。民子はその手の甲に目を落とした。しわと薄い黒子が、昔と同じ位置にある。 「冷たい水、取ってくる」 信二は立ち上がると、待合室の奥の給茶器に向かって歩いた。背中が少し丸くなっている。民子はその背中を見つめた。薬袋の中身が、明日の不安を確かなものにしていた。 それでも、膝の上に残るバッグの重みが、不思議と温かかった。信二がカップに注ぐ水の音が、静かな待合室に響いた。二つのカップが落ちてくる音が重なった。 「………ありがとうな」 小さく呟いた時、信二は給茶器のボタンを押すのに手間取っていた。民子はそっと目を伏せ、バッグの上に手を置いた。留め具の冷たい金属が、ほんのりと体温を帯びていた。