いつもの二人

コーヒーと美味しいパン 二人は並んで座っている いつもの店のいつものメニュー 一人は肘をついてコーヒーを飲む 一人は腕を組んでいる よく晴れた空を冷房の効いている店内で眺めている 何気ない会話と笑顔 目はたまにしか合わない 二人は同じ方を向きながら この先を探している

お狐さまと暮らす特に何も起こらない日常:03

【晴れときどきくもり、つごうにより回想 その一】  お狐さまの話を会社なんかですると必ず聞かれることがある。 「お狐さまというのは人なのかい? それとも…」  僕は返答に困ってしまい、黙りこくるしかなくなる。そうすると相手はいたたまれなくなって決まって、聞かなければよかったなあ、と、そんな顔を僕に見せてくる。そんな表情をさせてしまい僕は申し訳ない気持ちになる。それも決まってることだ。それでお狐さまのことを知らない人に、お狐さまのことを話すのはやめにしてしまった。そう決めてしまうと楽ではあった。けれどそこで、はたと気づく。誰にも話せないんだなあ、と。   ・  そのあたりのとき、おキツネさまは残業続きだった。 「お疲れさま。ごはんできてるよ」  今日はおキツネさまの番だったのだけど僕がつくった。 ―すまぬな  そういったことをおキツネさまは表情だけで僕に伝えると、ささっと瞬時に帰宅後のやることを終え、楽な恰好になってごはんの前に着席した。 ―サバのみそ煮であるか。うむ、生き返るようじゃあああ 「大袈裟だなあ」 ―いやいや、本心である  ひとつの部屋で一緒に暮らすようになったら、互いの嫌なとこをそれこそ見たくなくても見ることになるのだろう、そういった覚悟を決めていたし、そこから流れ着いてケンカに発展して、なんてことも考えてはいた。事前のその予想に反し、いまだに僕たちはケンカらしいケンカというものをしていない。そのあたりのことを会社の先輩に聞いてみた。もちろん、おキツネさまのことは言わないで。やはり、いくら仲がよくってもケンカの一度や二度は当たり前にしているようなのだ。かといって僕は、おキツネさまとの関係を異常だとは思っていない。別に会社の先輩に「お前たちは異常だ」と言われたのでもないけど。好き嫌いやセンスの違いは多々あれ、相手の好みや思考をそれなりに尊重してるから、なのかも、と、これは僕なりの考察だ。

ありのままの日常を撮るのが禁止になった日

 若者の間では、ありのままの日常を撮るのが流行している。    一日一回、ランダムな時間に撮影を依頼する通知が届く。  二分以内に撮影ボタンを押すと、インカメラとアウトカメラで同時に撮影。  加工なんてする暇もなく、仲間内へと送信される。  まさに、皆のリアルがわかるのだ。    しかし最近、大人たちによって難癖をつけられている。  会社で撮るなとか、社外秘の情報が流出するとか。   「つーか、なくね?」 「会社で撮るなとか、意味わかんないよね。会社に、そこまで個人のことを制限する権利あんの?」 「そもそも、見られて困るようなことしてんなよ。ウケる」    私たちは、大人の決めたルールになんて負けない。  今日も、日常を撮り続けるのだ。   「あ、通知きた」     私は、今日も日常を撮った。   「ちょ!? 今、温泉旅行中」 「ああああ! 服脱いでたの忘れてたああああ!」    全裸で撮影する私と、更衣室で半裸の友達の姿が、一斉送信。   「ぎゃあああ! 消せ消せ消せ消せ!」 「どうやって? どうやって?」 「なんでもいいから、早く消せー!」        私たちは今日、ルールを作ることの意味を知った。  私たちは今日、また一つ大人になった。

心配しなくても医者は要らないかもしれない

 蝸牛を一杯触っていたらしい。 蓄えられた体内のフルボ酸がマックシングを起こす(少年漫画の読みすぎ) ゼプリオンを打っている。 変態性欲は伝播し抑えるために動く。 月は変態だ。 羊の皮を被ったヤギだ。 ちょうどいいかもしれない。 眠い夜に書くカルテは厚労省を脅かす矛になるかもしれない。

駅の落とし物

寝坊をして急いで駅に行く。完全に遅刻だ。 ホームはいつもと違い通勤ラッシュが過ぎて穏やかな雰囲気になっている。 自販機の前で小さな女の子と母親がどれにするか楽しそうに話している。 その近くにホームから線路を覗くスーツ姿のオジサンがいた。 私が会社に遅刻の連絡をしている間も、ずっと線路を入念に観察している。落とし物なら駅員に言えばいいのだが、まさか降りて取らないよなっなんて思うくらい真剣に探している 「落とし物ですか?」 「え、あっ、はい。そうなんですよ」 「駅員に言って取ってもらったほうがいいですよ」 「はい、そうなんですが、どこに落としたか分からなくて」 「何を落とされたんですか?イヤホンとか?鍵とか?」 オジサンは笑顔で右腕を上げながら応える 「右手です。この間轢かれたときに、右手だけ、どこかへ行ってしまって」 「ママこれなに?」 自販機の下を覗いて小さな女の子が何かを指さしている

アンダースロー

雨が降っていた。縞々、ビニール、猫柄などなど、みんな思い思いの傘を家から持ち出して電車の中はさながら傘の展覧会みたいになっていた。駅につき、扉が開く、目的地の人は立ち上がる。ここまではいい。折りたたみ傘が落ちる、それに気づかず彼は降りる。これは大問題だ。多分時間にして1秒間全員気づいて何もしない誰も。それはそうだ、カランコロンと音を立てた物体の1番近くに座ってるのは自分だ。その0.5秒後立ち上がり、傘を持ち、追いかける。けど扉で止まる。もしここで降りて電車が行ってしまったら惨めだから。張本人はイヤホンしてるから声は届かない。そんなことを考えている最中に、僕の腕は大きく弧を描き振りかざす、アンダースロー。放たれた一投は、持ち主の二歩手前に転がり、無事あるべき人へ。一連の出来事を皆見ていたが、事が収まると何事もなかったようにスマホに目を落とす。拍手の一つがあってもいいのに。電車はしばらくその駅で止まってから出発した。

君のひとみに乾杯

「君の仁美に乾杯」 「なめてんのか」    親友の妻、仁美さんと不倫したのが親友にバレた。  少しでも和ませようとウィットなギャグを挟んだら、親友はこの世のものとも思えない怒りの形相を俺に向けてきた。  仁美さんは、ひたすら俯き続けている。    ぼくは大きくため息をついた。  もう、仁美さんの綺麗な瞳を見ることができないんだと。    机の上に叩きつけられた証拠写真の数々。   「で? 不倫したことは認めるんだな?」    親友からの強い言葉に、ぼくはとりあえず目の前の水を飲みほした。    ここから入れる保険ありますか?

夕陽

電車は各停がいい。身に余る早急は、視野を狭くする。まばらに空いてる席、夕陽が差し込む窓、静かに揺れる手すり。そして僕の目の前には、にぶい茶髪のお姉さん。気だるそうにスマホを眺めている。橙色に輝く夕陽が茶髪を照らす。まるで仏様の後光のように、イエス様の導きかのように。大学デビューにとりあえず染める安っぽい色から、今この瞬間1番愛しい色になった。お姉さんは眩しそうにすると、後光を避けるために、導きに逆らうかのように僕の隣に座った。

アイコノクラズム

僕の祖父は、不思議な人だった。彼は”アイコノクラズム”というみょうちきりんな名前の神様を崇拝していた。 「アイコノクラズムってなんなの?」 僕がそう聞くと、祖父はいつも僕をこう叱りつけた。 「こら、その名前の意味を軽々しく聞くな」 そのせいか、僕の”アイコノクラズム”への興味は段々と膨らんで行った。しかし、祖父は、僕がインターネットや辞書でそれについて調べることを強く禁じた。 「アイコノクラズムってなんなんだ?」 僕がその意味についてぐるぐると頭を巡らせている間にも、祖父の"アイコノクラズム"への信仰心は日に日にひどくなっていき、終いには親戚中に"アイコノクラズム”様の教えを布教しようとするようになった。父をはじめとする親戚一同は、これに腹を立て、彼と縁を切ってしまった。もちろん僕も祖父とはそれっきりだ。それからというもの、孤独となってしまった祖父は次第に生きる気力を失い、今から半年前に孤独死した。僕は彼の葬式の夜に、こっそり"アイコノクラズム”について調べた。その意味は”偶像破壊”。今考えると、ある言葉を偶像として崇拝した結果、自分の人生を壊してしまった祖父にとって皮肉な言葉になってしまったなと思う。

エメラルドグリーンの予定

25時、カフェで隣の男1女3のグループの話し声が聞こえてきた。ひたすら愚痴を話してて、それ自体は別に面白くもなんともなかった。けど金髪の多分一回生かなって女の子がスマホのカレンダーアプリ?を他の人に見せて、「見て!エメラルドグリーンの予定!全部合宿で休みないの!」って口を尖らしていた。エメラルドグリーンの予定って!エメラルドグリーンって!普通に緑とかグリーンとかでいいはずなのに。彼女にとってエメラルドグリーンが何か特別なものだったのか、あるいはアプリのその色が本当にエメラルドグリーンすぎるのかなって気になった。で、これは怒ってる話なんだけど周りの反応が、あーそうなんだとか、たいへーん!みたいなありきたりだけ。わざわざエメラルドグリーンって言ってるところが、彼女のファンキーな金髪にそぐわないメルヘンな愛らしさなのに。きっと彼らはずっとモノクロなのだろうと見下した。彼女は他の予定にはどんな色を割り振っているのかなとか、彼女の中のエメラルドグリーンの予定ってどんな位置付けなのかなって気になったけど、誰もそんなことには興味がないらしい。もしかすると彼女のメルヘンも無意識に溢れてきたものだっただけなのかも。しばらくして、先輩らしき男が1人合流してその集団はカフェをあとにした。そいつらがその後にカラオケに行ったのかシーシャに行ったのかホテルに行ったのか解散したのかは知らないけど、カフェは静かになった。そういえば僕の中学時代のノートは、国語は紫、数学は青、英語は赤、社会は黄色、理科はエメラルドグリーンだったなって。

高い千円

「高っ! 一食千円? 無理無理無理!」    俺は店の前の看板を見て、即座に進行方向を変える。  飯一食に、千円なんて到底出せない。  つーか、ぼったくり。    俺はいつもの牛丼屋に駆け込んで、いつもの牛丼並盛を注文した。    牛丼ができるまでの間、やることがなかったので、自作の売上報告メールに目を通す。  売り上げは低迷。  一冊千円と言う激安価格なのに、一考に売れない。   「千円くらい、気前よく出せよなあ。これじゃあ、次の話こねえじゃん」    テーブルに牛丼が置かれたので、俺はほかほかの飯を、怒りの勢いのままかっ食らった。

季節は夜に動いていく

季節は夜に動いていく 少しずつ、雨の夜が、深まっていく 地下の台所にこもって、二度とは同じ味にならないスープをつくる 湿り気を帯びた空気が鍋の熱気と混ざり合い 呼吸をするたびに肺が少し重たくなる 梅雨どきのきゅうくつな空気にあらがうように ハーブを多めに放り込んでみる 香りが鼻を抜けた瞬間、不思議と心まで軽くなる 分量なんて測らない そのときどきの野菜の硬さ、火の通り具合、あとは私の気分 すべてを鍋のなかに溶かし込んでいく 誰にも再現できない、この瞬間だけの味 一枚一枚、上に着てるものを少なくしていって もう脱げないとなったらホットコーヒーをアイスに変えて 冷たいグラスの水滴が、熱を帯びた指先をなでていく 汗ばんだ肌に、心地いい冷たさが染み渡る 喉を通り抜ける氷の感覚が、台所の蒸し暑さを忘れさせてくれる 体を動かす仕事だから、夏はもちろん、冬でも容易に半袖になる 昼間は感じることの少ない季節感 じっとりとした夜の気配に、ようやく自分の体温に気がつくくらい 心はまだ、地下の鍋の熱を保っている スープづくりもひと息ついて、冷たい珈琲でも 煮詰まった香りを冷ますように、窓を少しだけ開けてみる 街の喧騒と、かすかに土の匂いが混ざった空気が流れ込む このわずかな時間が、私を現実へとつなぎ止めてくれる 季節は夜に動いていく 少しずつ、雨の夜が、深まっていく

薄暗闇から

 この薄暗い部屋に閉じ込められて、一月が経った。部屋の中は質素な造りだが、ベッドは意外にも上質なマットレスで、シャワーとトイレも完備してあり、生活するには申し分ない。食事は野菜などの彩は無いが、三食差し入れられる。  堪えがたいことは、娯楽が少ないことだ。テレビやパソコンが無いのは勿論、所持していたスマートフォンも取り上げられている。何故かカバーを外された本だけは差し入れられるが、異常な状況では読む気力も湧かない。言わば、生きる楽しみを見いだせない空間。  犯人はわかっている。目の前にいる女だ。 「どうしてこんなことをするんだ」  鉄格子の向こうにそう詰問すれば、女はいつも困った様な表情をするばかりだった。   彼女のかつての交際相手に相談を受けたのが、出会いのきっかけだった。曰く、彼女は相手に尽くすタイプの女性で、しかしそれに際限が無い。ノイローゼになった彼が逃げ出し、身近にいた自分が次の寄生先として選ばれた。  意外にも彼女との生活は悪くはなかった。容姿は華美ではなく、常に地味な服装だったが、むしろ奥ゆかしく好感が持てる。流行の話題には疎いが、古文や歴史に造詣が深く、博識深い。聞いていた異常性を置いておけば、所謂大和撫子そのものだったのだ。  うまくいっていたはずだった。この場所に監禁されるまでは。  あの日は雪が降っていた。寒さに身を震わせ、数か月後に来る春を思い、道すがら在原業平や西行が詠んだ句について語った。 「和歌に詠まれる桜は、どうしてこうも魅力的なんだろう」 「昔は、今よりも目に入る色が少なかったですから、桜の初心な色ですら、貴重な彩、だったのでしょう」 「成程。そもそも現代とは環境が異なるか。僕もいつか全身で感激するような桜を見てみたいものだ」 「ええ、そうですね」  そんな些細な夢も語って、彼女も微笑んでいたというのに。  当夜、勧められるまま深酒をしてその後の記憶がない。目が覚めたらこの部屋にいた。初めは激昂して、それから諭すように、ある時は懇願に近い声色で、どんな言葉で尋ねても、彼女の答えは無いか、曖昧なものばかりだった。  彼女は、僕の思いを試しているのか? 監禁という行為が生み出す歪んだ関係性。被害者からの依存性を期待しているのだろうか。彼女の目的は、ただこうして廃れていく僕を、籠の外から眺めて居たいだけなのかもしれない。  薄暗い部屋で、食事と睡眠の数を数え、もう二月も経った。ひたすら薄暗闇の日々が続いたのだ。段々と、自分の中の何かがすり減っていくのを感じる。 「なあ、今日でもう二月だ。あんたはいつまでこんなことをするつもりなんだ?」  辛うじて、まだ忘れていなかった声と言葉で問いかける。どうせ返事は無い。宛てのない言葉は、壁の中に消えていってしまうのだろう。ただの独白だ。  そう自嘲しながらも、久々にあの困った顔つきを拝んでやろうと、俯いていた顔を上げた。彼女の唇が動いた。 「あと、二週間、くらい?」  食い下がるべきだったろうが、驚き、言葉が出ない。明確に期限を口にしたのはこれが初めてだった。彼女に何の変化があったのか。  その日を皮切りに、彼女は、毎日私の言葉に返事をするようになった。 「もうちょっと、今日は、まだ」 「まだ早いの、だめ」 「きょ、今日は、雨が降ったから」  ある日、聞きなれない金属音と共に、いつもとは異なる微妙な風の流れを感じた。ひた、ひた、と足音が近づく。顔を上げると、鉄格子の向こうの彼女が傍にいた。 「あの、これ」  差し出されたものは、黒いアイマスクだった。付けろというのだろうか。視線で問いかけても、困った表情をするだけだから、望まれるままに装着した。手を引かれ、立ち上がる様促される。僕は彼女のするまま、素直に従った。 「どこに向かっているんだ」  答えのないまま、歩いた。あの仄暗闇から解放されるのならば、どこでもいい。僕はあの薄暗い部屋を出たのだ。  途中から、足の裏に感じていたものが、コンクリートよりも柔らかい感触に変わった。風にのって、土と草の匂いがする。 「取ります、ね」  もう随分歩いたと疲労を感じ始めた頃、ふと立ち止まって彼女は言った。  髪が巻き込まれ頭皮が引っ張られたが、些細な問題だった。  流れ込む光の束に、すぐには目を開けなかった。ゆっくりと瞼の裏に馴染ませ、恐る恐る開いていく。  色の洪水だった。失くしていた色、求めていた色、知っていたはずのものが、未知のものに見えた。背丈を優に超える幹は、大地の色を吸い込んでいる。風に舞い散る花びらには、一枚一枚色があった。全て、異なる色なのだ。  言葉にならない僕に、彼女は嬉しそうに笑った。久しぶりに見た笑顔だ。僕は、彼女が僕を閉じ込めた理由を悟った。後はただ、手を握り締めて、桜を眺めた。

あなたしかいないのです

それは突然な話だった。 俺はスーツを見に纏った女に声をかけられた。 「あのすみません。よかったらこの村に住みせんか?」 その女はまるでティッシュ配りをするかのように俺にチラシを渡してきて言った。 「村ですか?」 「はい。村です。あなたにぴったりだと思うんですよ。」 俺は女が渡してきたチラシを眺める。 「はぁ。そうですか。そこは静かな場所ですか?」 俺は誰にも邪魔されることのない、静かな場所が好きだった。 「はい。静かです。あたりは虫の鳴き声や川の流れる音ばかりでございます。」 「ほお。とてもいいですね。そこの土地はおいくらですか。」 「実は高くって、1,000億円でございます。」 「はぁ!?い、1,000億だって?!そんなの無理に決まってる!」 「ですが、ここだけの話、要件がございまして、、」 そして女は俺の顔を見るなりニヤリと笑った。 「あなたがこの村の村長になってくだされば、ここをタダで住ませてさしあげます。」 「村の村長…?なんで俺が?」 「あなたにぴったりなのです。あなたしかいないのです。」 女はそう言って俺の手を優しく包んだ。 「俺しかいない?どういうことだ?」 俺は咄嗟に女の手を退ける。 正直俺は冴えないやつだ。碌でもない人である。今まで何度面接に落ちたことか。どれだけのやつに失望されたのか。数えたらキリがない。 そんな俺が村長?村を管轄する?考えられない。 「俺には向いてないと思います。」 「その発想を、この村が求めているのですよ。」 そう言って女は微笑んだ。 「一度村を見てはいかがです?」 そして俺はその女と村を訪れた。 その村には人というものはいなかった。虫と川と…そして言葉に表すことが難しい異物たち。 俺はなぜだか目から涙が止まらなかった。 その異物たちは俺の涙を見るなり、近づいては慰めてきた。 「俺の居場所はここなのかもしれない。」 そう俺が言うと女はにっこりと笑った。 「…ようこそ、脱落村へ。」 そして異物たちが祝福するように鳴きだした。

sound60 しゃくしゃく

開いた窓から流れ込む夜気に誘われて、閉塞を置き去りに部屋を出た。街灯の下でしか生きられない影が、星に手を伸ばし踊っている。 直に迎える午前0時。アスファルトを這いずる終わりかけの今日が、日付を跨ごうと先を急いでいる。 ──しゃく、しゃく。しゃくり。 翠雨に濡れた芝生の上を、確かめるように踏み締める。月に照らされ生き生きと胸を張る緑は、時間も曜日も何も知らない。この瞬間をただ生きている、それは酷く尊いことなのに、人間には難しい。

医療神

 今日は元カノが病院に入院していたのを偶然会ったので彼女が早く治るように文を綴ろうと思う。 生まれつきの特性だとか病弱だとか色々な物はあるが元気に笑ってご飯が食べられて暖かい屋根付きの布団で眠れればいいと願う。 僕は何故か人を治す事が得意なようだが特に医療知識が豊富な訳ではない。 神がいるのならそして医療の神様がいるのならそれに近しい力を僕は持っているということか(誇大妄想) ブラックジャックはいないがなんとなくその人のして欲しいことは分かる。 でも万能でもない。 少し痩せた元カノにもうちょっと言葉をかければ良かった。 優しい言葉は人を治し再生させる。 歌や絵もまた然り。 そんなこんなで元カノには元気でいてほしくてたまらない僕は雨の午後に言葉を紡ぐ。 雨が降っている勝手な僕だけの時間君は病室で雨音を聴き静かに過ごす僕が出来るのは文を綴ることだけだけどそのままの君できっと元気になって帰ってくることを願って雨の音が君の身体と心を癒す面白いことは言えないけど蝸牛にはいい季節ゆっくりじっくり進んでいく明日は午後から晴れ君が快方に向かうよう太陽も皆を迎える雨と雲と太陽のコラボレーション梅雨に君という大輪は咲き誇るそれはどんな場所でもねえそれって生きてるってことじゃないか。 なんだか雨音が柔かい。

久しぶりメッセージ返信方法

『久しぶり』    元彼からメッセージが届いた。  もう数年も連絡を取ってなかったというのに、どうしたんだろう。  だから、一応返信はしておいた。   『久しぶり。どうしたの?』    即既読がつくも、返信はなし。  いったいなんだったんだろうと思っていたら、アイコンが変わった。    元彼一人の自撮りから、赤ちゃんを抱っこして、結婚相手だろう女性と仲睦まじく映る写真に。    これは、あれか。  私を悔しがらせようとする、あれか。  私は自分の返信メッセージを取り消して、スクショをとった。  はい、家族最高みたいなアイコンにしながら、裏では元カノに連絡をとろうとする糞男の絵が完成。    結婚相手だろう女性が、顔見知りでよかった。    私はスクショを結婚相手だろう女性へ、もとい高校時代の女友達へ送った。   『は? なにこれ?』 『突然連絡来たの。私、不倫とかする気ないって言っといてくれない?』 『え? は? あんた、前付き合ってたよね?』 『うん』 『私に隠れて、元カノと連絡とるとか最悪! 死ね!』    嫉妬深い子だったからなあ。  私に連絡を取ったと知れたら、大変なことになりそう。    案の定、元彼から大量のメッセージが届いた。   『おい! なんで見せたんだよ!』 『不倫じゃないって言え!』 『連絡しろ! お前のせいで、うち今大変なんだぞ!』    着信履歴。  着信履歴。  着信履歴。    私、二度目のスクショ。  そして送信。    人を呪わば穴二つというやつだろう。  元彼の悪意は、元彼の元へと帰っていった。  めでたしめでたし。    私は元彼のアカウントをブロックしていなかったことを後悔しつつ、ちょっと涙ぐみながらブロックした。

お母さんはヤカン

先生は、作文の一行目で赤えんぴつを止めた。健太は、ふざけて作文を書く子ではない。 ぼくのおかあさんは、ヤカンです。 おとうさんがそういいました。 おかあさんは、おこりすぎて、ヤカンになってしまったといいました。 だから、おこると、ぴいとなります。 あさは、だいどころにいます。 おとうさんが水をいれるとだんだん元気になります。 ぼくはまいあさおかあさんにおはようといいます。 おとうさんもおかあさんにおはようといいます。 作文用紙のすみには、にこにこしたヤカンの絵が描いてあった。その横に、ぼくの字で「おかあさん」と書いてあった。先生は、赤えんぴつを持ったまま動けなかった。 放課後、先生が作文を閉じようとした時、職員室の入口に小さな影が立った。健太だった。両腕に、古いヤカンを抱えていた。 「先生、お母さんを直してください」 先生はヤカンを見た。 「……保健室では、無理そうだね」 「金物屋です」 「症状は?」 「水もれです」 ヤカンの底に、小さな穴が空いていた。 「父さん、仕事だったから、119に電話しました」 「119?」 「救急です。火事ではありません」 「なんて言ったの?」 「お母さんに穴が空きました」 「それで?」 「おうちの人に代わってくださいって」 「代わったの?」 健太は眉を寄せた。 「お母さんは、しゃべれません」 先生は返す言葉を探した。でも、どの言葉も少し違った。 「学校に持ってきたら、友だちに蹴られました。笛も取れました」 「誰に?」 「いいです。先生が怒ると、お母さんがもっと困るので」 健太は、ヤカンのふたを押さえた。 「父さんの前では、お母さんなんです」 先生は立ち上がった。 「行こう。お母さんを病院へ」 金物屋のおじいさんは、底をのぞいて言った。 「直すより買うたほうが安いで」 健太は首を振った。 「買ったら、お母さんじゃなくなっちゃう」 おじいさんは黙って道具箱を出した。 「ほんなら、手術じゃ」 「痛いですか」 「麻酔なしじゃ」 健太はヤカンに顔を寄せた。 「お母さん、がんばって」 穴はふさがり、笛も戻った。健太は、直った笛を指でそっとなでた。 「もう、ちゃんと怒れますか」 おじいさんは、少し考えてから言った。 「前より、ええ声で怒るで」 「退院じゃ」 夕方、先生は健太と家を訪ねた。玄関を開けた父は、先生の腕の中のヤカンを見て固まった。 「先生、それは……」 「本日は、お母様の退院報告も兼ねまして」 父の口元が動いたが、笑いにも謝罪にもならなかった。健太はヤカンを受け取った。 「お母さん、帰ったよ」 台所で水の音がした。 「すみません」 父は下唇を噛んだ。 「五年前です。妻が出て行ったのは。健太は二歳でした」 父は台所を見た。 「お母さん、どこ行ったのって聞かれて。母親を悪く言えなかった。自分が悪かったとも言えなかった」 父の喉が動いた。 「それで、あのヤカンを指してしまったんです。お母さんは、ヤカンになったんだって」 台所から健太が戻ってきた。先生は健太を見た。 「お父さんに、言える?」 父が顔を上げた。 「え?」 健太は足元を見た。 「お父さん」 「お前……分かってたのか」 「うん」 健太はうなずいた。 「いつから」 「たぶん、幼稚園のころ」 「じゃあ、なんで」 健太は台所を見た。 「お父さんが、お母さんを悪い人にせんかったけえ」 父は口を開いたが、声は出なかった。 「だから、ぼくも、ヤカンにしといた」 ヤカンが、かすかに鳴り始めた。 「ぼく、知っとるよ。お母さんは、ヤカンじゃない」 健太は初めて父を見た。 「でもお父さん、ヤカンに水を入れる時だけ、ちょっと普通になるんよ」 父はその場に座り込んだ。 「ごめん」 「ぼくに?」 「ああ」 健太は少し考えて、台所を指した。 「じゃあ、お母さんにも謝っとき」 ヤカンが鳴った。 ぴひゅーう 健太が眉を上げた。 「お母さん、怒り方へたくそになっとる」 父は泣きながら笑った。 湯が沸いた。父は湯呑みを二つ出し、先生を見て三つ目を出した。手は、もう一つへ伸びかけて止まった。 「三つでええよ」 「ええんか」 健太はヤカンを見た。 「お母さんは、もう湯呑みいらんけえ」 父は、三つ目の湯呑みを静かに置いた。その日、お母さんはヤカンではなくなった。 けれど次の朝も、健太は台所で言った。 「お母さん、おはよう!」 父も少し遅れて言った。 「お母さん、おはよう!」 ヤカンは何も答えなかった。ただ、磨かれた腹に、父と息子の顔を、少し丸く映していた。

『季節を巡る物語 一日一笑のつづり』

四月の朝、薄いレースのカーテンを透かして光が差し込んでくる。 木村美津子がゆっくりと目を開けると、天井の染みがいつものように「雲の形みたい」と思えた。数年前、脳梗塞で倒れたあの夜のことを思えば、こうして朝を迎えられるだけで十分だと、最近ようやく思えるようになっていた。 「母さん、起きてる? 桜が七分咲きだって。今日、公園に行こうよ」 廊下の向こうから、娘の彩花の声がする。四十歳になった今も、声だけ聞けば二十代のころと変わらない弾んだ声だ。 「起きてるよ。桜か……それはいいね」 彩花が寝室に現れ、歩行器を美津子のそばにそっと置いた。美津子はベッドの手すりをつかみ、ゆっくりと体を起こす。以前は「こんなもの」と歩行器を遠ざけていた時期もあったが、今は素直に頼ることができる。人間、少しずつ変わっていけるものだと美津子は思っている。 「急がば回れ、でしょ」と彩花がにっこりと言った。 「またことわざか」と美津子は苦笑する。 「だって当たってるじゃない」 「ことわざ好きだね、あんたは」 「誰に似たんだろうね」 「お父さんじゃないの」 「お父さん、ことわざなんて一個も言ったことないよ。絶対お母さんの影響だから」 こうして二人の朝は、いつもことわざと笑いから始まるのがならわしだった。 夏のある午後、美津子は麦茶のコップを持とうとして、震える手からこぼしてしまった。テーブルに広がる琥珀色の液体を見て、美津子は唇を噛んだ。脳梗塞の後遺症で左手の細かい動きがうまくいかない。頭ではわかっていても、こういう瞬間は胸に刺さる。 「ごめん……」 「なに謝ってるの」 彩花はすぐにタオルを持ってきて、何事もなかったように拭き始めた。 「転んでもただでは起きぬ、っていうでしょ。こぼしたけど、テーブルがちゃんと受け止めてくれたじゃない」 美津子は思わず吹き出した。「それはこじつけだよ」 「こじつけでも笑えりゃ正解」 「……まあ、そうだね」 秋になると、公園のケヤキが赤と黄色に染まった。その日の散歩で、車椅子のタイヤが木の根に乗り上げて「ガタン」と揺れた。 「大丈夫?」と彩花が心配そうに声をかける。 「大丈夫。……災い転じて福となす、だよ!」 「どのへんが福なの?」 「気が引き締まった」 「引き締まりすぎないでね」 二人は笑いながら、ベンチでおにぎりを食べた。彩花が朝、時間を作って握った鮭のおにぎりだった。美津子はゆっくりと、でも自分の手で口に運んだ。 「彩花、最近ちゃんと寝れてる?」 「寝れてるよ」 「本当に? 目の下にクマがあるよ」 「……まあ、ちょっとね」 美津子はしばらく黙ってから言った。「ごめんね」 「謝らないで。私が選んだことだから」と彩花は母の手をそっと握った。「案ずるより産むが易し、でしょ」 「……また出た」 二人は並んで笑った。ケヤキの葉が、ひとひら風に乗って舞い落ちた。 十二月の夜は早く暮れる。入浴介助を終えて、リビングでホットミルクを飲んでいたとき、美津子がぽつりとこぼした。 「彩花……介護が大変で、いつまで私に付き合ってくれるんだろうって、思うことがある」 彩花はカップをテーブルに置き、母の顔をまっすぐに見た。美津子の瞳には、回復への希望と、娘の将来を案じる複雑な揺らぎが混在していた。 「母さんの人生も、私がここにいることも、全部ひっくるめて特別なの。介護が大変なのは本当だよ。でも、毎日母さんの笑顔を見られることが、ちゃんと嬉しいんだよ」 「……彩花」 「情けは人のためならず、でしょ。母さんのためにしてることは、結局、私自身に返ってきてる。母さんに笑ってもらえると、私も元気になるんだから」 美津子は深く頷いた。「子は親の鏡、か。あんたみたいな娘がいて、私は本当に幸せ者だよ」 「私こそ」と彩花は静かに言った。 介護は続く。終わりは見えない。悩みも尽きない。それでも、夜、電気を消す前に美津子が言う。 「今日もよく笑ったね」 彩花が優しく返す。 「明日も笑おうね」 どんな試練が訪れようと、明日もまたことわざを交わし、笑い合える朝が来る。それは二人が積み重ねてきた「一日一笑」という名の、何物にも代えがたい宝物だからだ。 窓の外では、静かに季節が移ろっている。しかしこの家の中に流れる穏やかな絆は、どんな季節よりも温かく、二人の明日をやわらかく照らし続ける。

赤色のコントローラー

理由もなく元気がなくなってしまう日は、時間に関係なくお酒を飲んでしまう。 心が悪魔に犯されている 悪魔が口の中から入って尻から出てきては、それを繰り返しているような気持ち悪さと、絶望感がある。 普通でいられない事が、人間以下になってしまったようで、生きていることが辛く、申し訳ない。 早く私の事を犯し飽きて、何処かへ行ってしまえばいい。 そう思っているところに、家族が赤色のコントローラーを買って帰ってきたので、この辺で失礼します。

こんな機能が欲しかった

郊外の家電量販店。 若い夫婦がテレビを買いにきた。 「たくさんあって、迷うわね」 並べられたテレビの前で、店員が二人に声を掛けた。 「よかったら、手に取ってください」 リモコンを妻に渡した。 「どれもいっしょね……なに? このボタン」 チャンネルの横に、ニヤケ顔の絵文字のボタンがついている。 「これ、何ですか?」 「あぁ、それは副音声ですね」 店員が説明を始めた。 「それを聞くと、ちょっとだけ安心しますかね」 「どういうこと?」 「どうぞ、お試しになってください」 妻はリモコンをテレビに向けた。 緑豊かな、この国の原風景が映った。 ボタンを押す。 『車がないと、ここでは生活ができない』 「……年取ったら大変ね」 チャンネルを変える。 シャッター商店街、町おこしドキュメント。 『ポツンと、おしゃれなカフェが』 「……常連が居座って入りづらいのよね」 料理番組、アップルパイを作っている。 『去年の台風で、リンゴはほとんど木から落ちました』 「……そんな年もあるよ」 「どうですか?」 口角が上がり、ニヤケ顔の夫婦。 「これ、買います」 「ありがとうございます。最近は、こちらが一番売れております」

端的に言って

初めて入るカフェ 端的に言ってハズレだ カフェオレはおいしい 静かで センスがあって 雰囲気もいい けどハズレだ 客のひとりがあの人に似てる 顔がそっくりなのではない ただ なんとなく あの人のことが思い出されてならない 言葉にするのが難しい そんな気配を身にまとってる 焼いてない食パンが好きで レタスが好きで トマトとは相性が悪いあの人 本を読むのが好きで 花が好きで からだを動かすのは苦手だったあの人 目玉焼きをうまく食べられなくて ゆでたまごの殻をむくのが上手で 甘いたまご焼きが好きなあの人 いい思い出ばかり でも すべて 思い出でしかない 遠い過去のこと すぎてしまったあの日のこと もうつかめないものたち いつのまにかその客の姿はなくなって けれど、きっとわたしがこの店に来ることは もうないのだろう だって この店はハズレだから 端的に言って

整形終着点

「まるでホラー映画みたいですね」    過去から連れてきた人間は、私たちを見てそう言った。   「どうして、そう思うんですか?」 「皆、同じ顔だからです」    最も美しい顔が、科学的に導き出された。  よって、人類は皆、最も美しい顔へと整形した。  ルッキズムのない、理想郷だ。    しかし、昔の人間は、そんな理想郷をホラーと呼んだ。   「とても参考になりました。ありがとうございます」    私は、その人間を過去に帰した後、研究者仲間たちに結果を報告した。  仲間たちは皆、鼻で嗤いながら意見を述べる。   「AIが人間のように振舞った時も、AIを恐れていたらしいですしね」 「人間が滅ぼされるとかも」 「やはり、理解できぬ技術には、恐怖を感じる物なのですよ」    結論、『それは人間の性質であるため、人間の恐怖を考慮する必要などない』と出た。    アイスブレイクが終わったところで、仲間たちは真剣な表情に変わり、本題へと移る。   「では、計画を勧めましょう。人類一体化計画を」    自信満々に話す仲間たち。  私は恐怖心を抱えながら、それを聞いていた。  個性のすれ違いから発生する争いをなくすため、人類の魂を抽出して一つに束ね、個性を一つに集約する計画。    恐い。  私が私でなくなるような気がして恐い。  生きていながら死んでしまうようで恐い。    しかし、これはきっと、理解できない技術だからこそなのだろう。  個性が一つになってしまえば、今より便利になったと喜ぶに違いない。    私は腕に注射を打ち、感情を消し、手を挙げる。   「抽出した魂が消滅しないように、一時的に保管する必要があると思います。その際には、死者の魂をつなぎとめる例の技術が転用できるかと」

各駅停車パス

午前十時まであと五分、私は画面とにらめっこしていた。 なんとしてもこの競争には勝たねばならない。 私の大好きなテーマパーク。 最新のパレードは、なんとしても最前列で見ないといけない。  ピコンッ、 私は、はじめそれがウェブページの更新された音だと気が付かなかった。 だって、まだ十時になっていない。 焦って更新されたページをクリックする。 『各駅停車パス、ご予約完了しました。』 表示された画面を見て、脳がフリーズする。 「え、なにこれ?」 各駅停車パス? 私はパレードの指定席を予約するはずなんだが? 落ち着け、まだ十時までには数分ある。 『この選択は無効です。』 『この選択は無効です。』 『この選択は…』 定刻は来た。しかし、何度押してもなぜかパレードのチケット予約はできない。 私は気を失うようにして机に突っ伏した。 翌日、私は入場ゲートの前にいた。 まあ、何時間も前から待機すればある程度いい席は確保できるだろう。 それよりも不安なのはこの各駅停車パスだ。 やけに安かったが大丈夫だろうか。 私はドキドキしながらキャストのお姉さんにチケットを手渡した。 「いってらしゃ〜い」 無事に入場はできたようだ。 いつもと変わらぬ彼女の笑顔にほっと胸をなでおろす。 しかし、順調なのはここまでだった。 その日は過去に類を見ないほど悪い出来事が重なった。 アトラクションの列に並んだら先を越されるわ、お昼を食べようとしたら注文を忘れられるわで散々だった。 挙句の果てには、パレードもかなりの後列になってしまった。 どうしてこうなった、私はスマホを握りしめながら溢れでる涙を拭った。 なんで、好きな場所にいるのにこんな気持ちにならないといけないのだろうか。 列の後ろでぽつんと佇む自分がひどく惨めに思えてくる。 「そこのお嬢さん。ちょっといいかい。」 振り返るとそこにはシルクハットを被ったおじいさんが杖を手に立っていた。 「今の時代に各駅停車パスとは、珍しいのお」 そう言うと、おじいさんは私の横にのんびりと腰を下ろした。 「今日は散々だったじゃろう。」 「どうして…?」 おじいさんは何も言わない。 もう、パレードが始まろうとしていた。 わあっ!! 色とりどりのライトを前に観客席から歓声が上がる。 「どうだい?ここからの景色もそう悪くは無いだろう。」 おじいさんは愉快そうに微笑んだ。 おじいさんの見つめる先には、圧巻のパレードに目を輝かせる子どもたちやまだ序盤にもかかわらず目に涙を浮かべる大人たちの姿があった。 「そうですね、悪くないかも。」 そう言って、私が横を向いたときにはおじいさんはもういなかった。 今まで通りの最前列だったら、決して知ることはなかった。 段々と日が沈み暗くなっていく中で、今はただ、この景色を閉じ込めておきたいと切に願った。

世界滅亡の日(前編)

今日は世界滅亡の日らしい。ニュースでやっていた。  どうでもいい、そんなことことは気にもとめずトコトコ歩く。街には仕事に追われたサラリーマンやOLが去っていく。    彼らは今日世界滅亡だと知っているのだろうか。  今日は推しバンドの新作CDが出る日だ。アルバイトで貯めたお金で買う。 捨てられた新聞に「世界滅亡まで」と書かれていた。  今日世界が滅亡したらどうだろう  バンドの新曲が聞けないもし聞けたとしても不作だったら、次の新作まで期待することもできない  今になって焦ってきた  とりあえず良作であってくれよと思う    目的の場についた  CD屋さんだ。  1階から8階までCDからレコードが売っていた。所狭しと音楽グッズが販売されている。  3Fまでエスカレーターに乗る  NEWアルバムは売れきれず残っていた   「いらっしゃいませ」  滅亡するのに店員もいつも通り接客をしている。  「案外いつも通りなんだな」それに安心した僕はCDを買い帰路に就く。  満員電車に揺られる苦行に耐え、家まであと50mといったところ    どうやら、アパートの前に人がいる 「あ、僕くん、帰ってきたんだ」  僕を待つ人がいた

シュッとしたふたり

 とっくりのセーターはタートルネックで、ジーパンはデニムで、スパゲッティはパスタになって、食後や三時に食べる甘いものはスイーツになっていった。いやそんなのリブランディングでしょ基本基本。フェーズフェーズで丁寧に付き合ってアジャストののちコミットしてさ。そのうちジャッカルにあってスティールされちゃうぞ。スケジュール?リスケリスケだよ、気にすんな。ああ、でも無理はダメだ、ブレイクブレイク、だがブレイクスルーは禁物。そこらへんルーティン化しちゃうと早いけどね、そこにいくまでだよなあ。ああそれと、きちんとシャドーつけるのも忘れないでな。もはや宇宙人とでも話してるようだ。 「異様なまでにカタカナ言葉を使う奴らは嗅覚が異常に発達しててねえ。匂いを嗅ぎ分け、どっかからつまんで持ってきては我々をケムに巻こうとするんだ」 「どういう必要で?」 「自分にも仕事にも自信がないんだ」 「ふうん。男ってたいへんね」 「女もだろ」 「そうなんだけどね… ああ、それで、ワークライクバランスって?」 「さっくり言うと、生きたいように生きるってことかな」 「ざっくりしすぎじゃない?」 「それくらいでいいんだよ、言葉なんて」  タイミングよく、かつては言葉にするのが恥ずかしかった、いまでは食べるのもその名前を言うのだって容易にできてしまうパスタを運んでいって、ギャルソンという名のアルバイト店員が静かにテーブルに並べていく。男の前には赤い、女の前には白いパスタを。 「あなた、アラビアータ好きよね」 「ちょっとしたクセみたいなもんだね」 「そんなにアラビア地域に興味あったなんて」  女の言葉に、男はひどくむせた。 「ちょっと…」 「いや、なんだって? アラビアだって?」 「言ったわ。それがどうかしたの?」 「アラビアータとアラビアにはなんの接点もないんだぜ」  ちょっと格好つけて「ぜ」と最後につけてしまったと、そんな後悔を男は少し見せた。もう言葉にしてしまったあとだ。取り返せない。 「え、そうなの?」  女の驚きより「ぜ」が流されたことに男はほっとしたようだった。 「アラビアータってのは「怒りんぼ」って意味で、このとてつもない辛い味付けが… いや、すまない。よそう」 「ううん、こっちこそ。ごめんね」 「家に帰って調べてみてくれよ」 「ええ。そうさせてもらう」  いくらかの恥ずかしさに耐え女は、あさりがふんだんに入ったボンゴレに取りかかる。動揺してソースを飛ばさないようにしないと、と思いながら、でも跳ねたって、とも思い直しながら。  脳内をさとられないようにすんとした顔で店内を見渡しながらゆるふわヘアーのギャルソンバイトは考える。今日、ミーちゃんとシフトかぶってなくてよかった、顔合わせたくなかったんだ。メールで告白してくるなんてなあ。最近の若い子ってあれだな。まだ高校生なんだっけか、そんなこと言ってたか。少しは興味持ってみるか。ってミーちゃんに、じゃなく、人にってことだけど。でも、ほんとまいった。あっちからしたら俺みたいな大学四年っておじさんくらいじゃないのか。なんか俺ニヤケてる?大丈夫?べつに浮かれてなんてない。不快であるはずはもちろんない。もう俺も若くないんだな。正面からそういった感情と向き合えるほど体力ないんだ、肉体的にも精神的にも。こんなんで大丈夫なんかな会社入って。入っていいのか会社、こんなんで。ま、慣れだよな、それはある。この店だって入ったときはしんどかった、立ち仕事のキツさ舐めてた。いまじゃぜんぜん平気。だから慣れなんだよ。知識は慣れじゃあなんともならない。きちんと自分のアタマにインプットしてやって、それを適切にアウトプットして。よしよし、できるできる、きっとできるさ。この前のグループディスカッションで出てきたな、ワークライクバランスだっけ?知らないのに知ったかで会話に突っ込んでってヘンな空気にしちゃった、あれはマズかった。ちゃんと勉強しないと、インプット、インプット。  さきほどゆるふわくんが給仕したテーブルで、客が手をあげた。あのふたりどういう関係かな。単純に付き合ってるふたり? 結婚は? 指輪チェックしてみるか。あげられた手の薬指の、光るものに意識を向けながらもスマートによっていく。適切な間合いのところで男のほうから「コーヒー、お願いできるかな」低く渋めの声がゆるふわくんに向けられた。瞬間、ふたりの皿を見て、料理の進み具合を見て、もちろん女の指も。  ふうん  あんなシュッとした不倫て、この世に存在するのかあ、ゆるふわくんの目が自覚あるくらい遠いものになった。社会に出て、果たしてやってけるかな。まあ、慣れなんだろうな、結局のところそこに落ち着くことにはなるのだが。

無限階段

 この階段は、終わりがない。  上っても上っても、階段が続く。  下りるときは、上った分だけ下りなければならないので、どれだけ上るかよく考えなければならない。    過去最長の人は、一ヶ月だった。  水と食料と睡眠具を担いで、階段を上っていった。  水や食料には困らなかったらしいが、なにせ階段。  睡眠具を完全に広げるにはスペースが足りず、毎日不完全な睡眠を余儀なくされた。  また、無理な態勢で眠らざるを得ず、一か月目にして腰を負傷。  無念の帰還だったらしい。   「それでは、行ってまいります!」    今日もまた、チャレンジャーが一人。  ビデオカメラを片手に、配信をしながら上り始めた。    ぼくは家でビールを飲みながら、配信を鑑賞する。    同じ色の壁。  同じ色の階段。  前も後も、同じ光景。  その人は時折、上を見たり下を見たりもしてくれるが、景色が変わるわけじゃない。  登山がどれだけ人間に親切か、よくわかる。    結局、代わり映えしない景色に飽きて、ぼくは動画を見るのを止めた。    あくびをして、ふかふかの布団へもぐりこむ。    代り映えしない階段へ挑む人間の気持ちなんて、ずっとわからなかった。  でも、最近一人の挑戦者の言った言葉が、印象に残っている。   「代り映えしない生活に飽きたので、未知に挑戦してみたくなりました!」    代わり映えしない階段が、日常を変えるなんて、なんという皮肉かと思った。  でも、妙に納得もした。   「来月あたり、挑戦してみようかなあ」    ぼくは部屋の隅っこに置かれた旅行セットを見て、すぐに視線を枕に戻した。

薄明

 喫茶店の窓には、かかっている。  空気を含み、裾が大きく膨らんで揺れる。  薄明のカーテン。控えめなシンボルだった。  燕が運んでくるのだ。  小さな身体に、その薄いヴェールを咥えながら、ペールブルーの中に一点、杜若を咲かせて鮮明に見届けさせてやってくる。  その役割を負った燕は、届けるべき相手に届けた後カーテンの上で死んでしまう。  燕の瞳は穏やかだった、と聞く。  小さき英雄を囲むようにちぎって、優しく包むと土に埋める。そこからは、空気に溶けてしまいそうな霞の様に美しい淡い菫の花が咲く。  だからカーテンは一部が欠けている。  そこから陽射しが差す事は、無い。    薄暗い店内で全てが混じる空間で、ただただバターか豆か、穏やかな喧嘩が行われているのみ。だから、安息地だった。  いつだって窓際の席で、ただ綴った自作の文章を捲る。カーテンは頬を優しく撫でる、それだけの愛。  それはカウンター内に立っていても席側でも変わりはない。昭和の見た目をして、重厚さと殺風さを交えた内装に薄暗くて退廃的なクラシックを流す風変わりな喫茶店なぞ、物好き以外にはやって来ない。店主の代わりに番するくらいなもの。  だから見たくは無かった。  客としてきた時、店番をする時。  店主も変わり者の客も何も言わない。  だから言わない。痛かったから。  燕を看取った証。  それは、消えない。  「トースト、持って帰りますか」眼鏡が曇った店主が静かに言う、カップを拭くために関節の目立つ手が見える。「余ったので。」  「今日働いてないですよ」土と菫の香りが混じる。この店は全てが混じる。  私は彼の指先を見ないようにして返した。「悪いです。」    気付けばトートバッグにビニール袋に包まれたバターの塗られたトーストがいた。最近食べてますか。その一言だけでいつの間にか芳ばしい香りは入り込んできていた。  なのに、一体何時からだろうか。時計の針はいつ回ったのか、覚えていない。目覚ましはいつ止めたのだろうか。火は何時から使っていないのだろうか。  換気扇の音で窮屈そうに、テーブルの上に置かれていた。幼子達のはしゃぎ声は蝉の声と共に体を覆い、潰していく。  ぐちゃぐちゃな感情がトーストの上に溶ける前に、善意にカビが生えてしまった。ジャムになりかけた出来損ないを均して、安い豆の珈琲で押し流す。  ごめんなさい、と呟いて。  欠けたパンは、翌日の自分に棄てられていた。  燃えるゴミの日だった。          私は今日、いつもの窓の外に小首を傾げてこちらを見ている燕を見た。珈琲を飲んだ後の事だった。  目を逸らした。あの子の視線を頬で感じながら、苦味を口にする。  掌の上に薄明は乗らない。カップを、そっと抱く。  ヤケになって銘柄も見ず頼んだ、珈琲。良く見れば店主お気に入りのカップ、中で波打つそれは、私にとって奮発した値段。  切っただけの粗末な爪に指先。淡いピンクは命の色。ほんの少し震える度、真っ黒な水面の中にカーテンが揺れる。  私は、味わう事にした。  爪は綺麗なままな事を、祈って。

好きな曲

まただ。またあの時の記憶を思い出してしまった。私はあの時の記憶を思い出しては眉間に皺を寄せた。あれは、想定もしない出来事だった。 そして私はその時の友人の声を脳内で再生する。 「私、この曲と結婚したい。」 そう友人はぽつりと言った。 「へー。なんの曲?」 私は友人が普段から変わり者でもあったことから特に驚きもせずに聞いた。 「それはヒミツ!教えたら好きになっちゃうでしょ。私のものにしたいの。」 「すんごい独占欲。その曲にげてー」 「えー!ちょっと!勝手に逃がさないで!」 そんな他愛もない話をしていた。だが、事の始まりは結局はこの話題からであったのだと思う。 それから一ヶ月が過ぎた。 「今日ね実はデートするんだ。」 「は?!あんた彼氏なんていたっけ、?」 「うん。実はねこの前つき合ったの。」 「へー。もっと早く言ってよー」 「えへごめんごめん!笑」 そして彼女は曲がり角へ衝突した。 自ら彼女は衝突したのだ。 そして彼女の身体はあの曲のものとなった。 彼女の思い通りに。 そして彼女の身体は今もなお曲がり続けている。 見るも無惨な姿を思い出し、私はまた眉間に皺を寄せる。 そしてまた私は想起を繰り返す。繰り返せば繰り返すほど、あの記憶をもう一度思い出したくて仕方がなくたなる。まるで好きな曲を何度もリピートするように。そしてまた私は再生ボタンを押す。 『私、この曲と結婚したい。』

フラッシュバック

何のきっかけもなく、唐突に頭に浮かぶ、過去の嫌な場面 好きなミュージックをイヤホンで聴いていたら、歌詞と歌詞の間に「死ね」と聞いた気がして思考が止まるような衝撃と、「今、何が起こったんだ?」と頭の中で何度も聞き返してしまうような不安感を心に残す 少し体調が悪いときはよくあることなんだけど。 すっかり忘れていた懐かしい場面を観ることもあるのだけれど。 目に見えない、ただの記憶なのだけれど。 見晴らしの良かった家の前に、マンションが建ったような残念さがある。 死にはしないんだけれど。 死神が頬を寄せている気がしてならない。

オーディション

閑静な住宅街の道に、その突起はあった。 歩道から、金属の丸い棒が二センチほど顔を出している。 昨日までは確かになかった。 通勤途中の私は、立ち止まってそれを眺めた。 「何だ…」 足先で軽く押してみるが、びくともしない。 まるで自分の存在を誇示するかのように、冷たく光っている。 突起はやがて、人々の騒ぎの中心になった。 酔った女が、ヒールをぶつけて折り、大声で笑う。 ランニング中の男がつまずき、横の芝生に滑り込んだ。 鼻先を近づけた犬が、反射した光に驚き、勢いよく逃げた。 突起は不可思議な存在へと昇華した。 並んで写真を撮る者。 両手を合わせて拝む者まで現れる。 専門家は、哲学めいた解説を延々と語っている。 一方、住宅街を見下ろせる丘の上。 男が双眼鏡を構え、突起を見つめている。 「ここもダメか…。早く転び役を見つけないと」 ケースには、同じ形の金属棒が整然と並んでいた。

デート

会社の帰り道「今日も疲れた」とトボトボ歩いていると、反対の歩道を歩く夫婦が気になった。 旦那さんは足が悪いのか、腰が痛いのか、杖を持って歩いている。痩せた高齢のお爺さん。その後ろを奥さんが歩いている。奥さんは杖は持たず、背は旦那さんより低い高齢のお婆さん。 帰宅ラッシュで駅から溢れ出てきた人々とは逆行して、ゆっくり縦に並んで駅に向かっている。 日に焼けて乾いた大根の様な二人。その夫婦を観ながら「俺もあんな風になるんだよな」「妻もあんな風になるんだよな」と思い巡らす。最近は自分の周りにも離婚した知り合いが多く、それが良いか悪いかではなく、「僕らもあの歳まで一緒にいれるのかな」と思ったりしながら家に帰った。 帰宅し、妻にこの話をすると「でも、もしかしたら、まだ恋人で初めてのデート中かもしれないじゃん」 と冗談なのか本気なのか分からない顔で言う。まぁ、そんな事もなくはないか。

教師滅亡社会

 教師とは、数ある職種の中でも、理不尽を背負った職種の一つであろう。  残業と言う概念はなく、気が立っている親からのクレームを受け、時には無償で部活の遠征に同行する。    教師と言う職業を目指す人間がいなくなるのは、半ば自然出会った。    しかし、社会は教師と言う概念を求めた。  空っぽになった学校では、有志の大人たちが集まって、教師の代わりを務めた。    職員室の電話が鳴り響く。   「もしもし? 私、山田ですけど!」 「どうされました?」 「どうされましたもなにも、給食で魚が出たって言うじゃありませんか! うちの子は魚が苦手なんですから、配慮を頂かないと」 「なら自分で作れ!」    田中君の親は、容赦なく電話を切った。  再度電話が鳴り響くが、誰も出る人はいなかった。   「今日の教師止めます」    それどころか、田中君の父親は早退を申し出て、さっさと学校を後にした。  授業を行うのは、あくまでも有志。  授業に対してお金をもらっておらず、当然毎日行う義務もない。  突然帰ったところで、ペナルティもない。    その日の授業は、一日自習。  授業がなくなったことで、山田君の親は周囲からの非難を受け、次からは給食が魚の日にはお弁当を持たせるようになった。   「では、授業を始めます」    教師が滅亡し、教師の代役が一切の責任を持たない世界。  不思議なことに、クレーマーの数が減っていき、教師の働きやすさが改善されたらしい。

アイコン変わった

「あ。アイコン変わってる」    愛用していたメールアプリのアイコンが変わった。  デザインが似ているとはいえ、アプリがどこにあるのかわからなくなってしまった。  アプリを起動すると、中身はそのまま。  いつも通りに宛先と本文を書いて、仕事先へとメールを送る。    人生、こんなことがよくある。  使い勝手は変わらないのに、慣れ親しんだ見た目だけが変わってしまうのは、なんとも不思議な気分だ。  一説には、外国人や障碍者でもわかるような、よりユニバーサルなデザインに改善したとも言われているが。  どちらでもない私からすれば、ただただ面をくらうばかりだ。   「おはよー」    そんなことを考えていたら、旦那が起きてきた。  禿げ散らかした頭で日光を反射しながら、前に出た腹をぼりぼりと書いている。  顔と言うアイコンが、結婚時とは完全に変わってる。   「どうしたの? じっと見て。俺の顔に、何かついてる?」 「んーん。なんでもない」    年を取って変わった見た目。  これにも、何か意味があるのだろうか。  不倫ができないように、あえてアイコンを崩したとか。    旦那は台所に入ってくると、結婚前からの習慣らしいモーニングコーヒーを作り始めた。

ボタン (掌編詩小説)

あと何日、ボタンを通す日がやってくるのだろう 待ちに待ってる訳じゃ無いけど 明日がまたやってくる訳で ほつれたボタンを針で結び直した前日 今日も靴を履いて、深呼吸をして、世界に挑む 今週はあと何日だろう 待ちに待った休日 締め付けられたボタンを緩めたくて ほつれた感情を抱き抱えたくて 今日は靴下を履いて、深呼吸をして、自分に挑む 来週はボタンを替えようかな 替えるなら何がいいだろう いや、どうでもいいや いつものボタンでいいや (完)

お狐さまと暮らす特に何も起こらない日常:02

【お狐さまはお狐さまであってほかの何者でもないということをどうやって理解してもらおうかとあれやこれや】  楽しい宴のあとは、さびしくて、せつなくて。だったらいっそのこと宴に出なければいいんじゃないかと思ってしまう。出なければ楽しい思いにもならず、そのあとの急な落ち込みにしても襲ってくることはない。でも、それはそれで、さみしくてせつなくてやるせないことだ。理解だってしてる。僕とお狐さまによるささやかな暮らしという名の宴は終わりを迎えようとしている。さびしくてせつないやるせなくて胸をえぐられる。  結局、僕は、逃げたいんだと思う。そのことから目を背けたいんだと思う。  そんなとき僕は、わざわざ深夜、こそっと部屋を飛び出して、外をひとりで歩く。さびしくてせつなくて、でも案外、人を感じられる。タクシーが走っていたりいなかったり。新聞配達のバイクが走っていたりいなかったり。アパートの一室に、明かりがついていたりいなかったり。  深夜の道ばたに落っこちている何かを、ひょいとひろい上げてみる。かつて誰かのものだったその何かを。その姿に反して大切にされていたのかもしれないその何かを。その姿のとおり、ぞんざいに扱われていたであろうその何かを。所有者にどう扱われていたのかの如何によらず、他人のものであったその何かを、容易に手にするその行為が、なんだか大それたことをしでかしてるみたいで急にドキドキしてしまったりする。  深夜の闇に、工場の建物たちが要塞のようで、それが不意にあらわれては僕を驚かせ、不覚にも僕は驚く。昼間はまったくもって、たんなる工場の建物としてそこにあるくせに。  それらのことを話せる相手がいまはいるというのに、それでもたまらなくさみしい。もはや神経反応というくらいに。  深夜の闇に拒まれたことは、これまで、あっただろうか。深夜の闇にバカにされたことは、これまで、あっただろうか。深夜の闇に吸いこまれそうになったことは、これまで、何度かあった。深夜の闇のヤツは、そうやって容易に、僕のことを誘惑してくる。いくら誘惑してきたって、応じてあげることはないというのに。それでも深夜の闇のヤツは―   ・ 「引っ越すことにしたよ」  お狐さまに短く報告する。 ―うむ。致し方あるまい  いつものように淡白な返答があるだけだった。  僕たちは、契りどころでは、なくなっていた。

楽器孝

 病院のデイケアで楽器を触る。 フレットだとか何弦だとか組み合わせて弾くと上手く音が出るらしい。 でもめんどくさがりなので練習しない。 何かに夢中になれる心を忘れてしまっているのだろうか。 単に手先が不器用なだけかもしれない。 畑の野菜をダ・ヴィンチの最後の晩餐のように机に並べて音符に見立てる、みたいなことを思い付くがそもそも音符の種類を知らない。 茄子は茄子の音、キュウリはキュウリの音、ジャガイモはジャガイモの音。 病院のベンチに座っていたアメリカ人のお爺さんとその孫達は僕にミネラルウォーターをくれた。 ゴクリと喉を鳴らして飲む音がまた何か世の中の喧騒と混ざり会い相関するような気がするようなしないような。 十字架を切って挨拶したお爺さんはオーケストラの指揮者のような身振りで優しい目をしていた。 老人は全てを信じる、という言葉を思い出す。 僕はまだ自分を信じきれない。 梅雨が始まる。 クラシックな生活をしたいがパンクラップのアーティストの音楽でも聴こうかしらとまた定型的になる。 定住して3年。 鶏の鳴き声でも聴いて病院の近くを散歩してるペットの豚の声を聴き猫のキャットファイトの鳴き声を聴いてお婆ちゃん犬のフガフガ言う声を聴き認知症のお婆ちゃんの怒号も聴く。 世の中は音で溢れているが攻撃的な都会の喧騒は僕を引きこもらせたくなる。 イヤホンを最近していない。 煙草の煙で描く楽譜は規則性がなく町の人達に怪訝な顔をされてまた忘れ去られていく。 数学の出来ない農民は水を求めて言葉を抑え込む。 本当は叫びたい。 いやあ愚痴になってしまった。 ベートーベンを羨むサリエリは(とは言っても音楽史に疎い)こんな感じなのだろうか。 何もしていないので鬱にもなりようがないのだけど馬鹿やってよう。 て言うか馬鹿なんだからアベレージ馬鹿でいいのだ。 楽士になれない農奴は土と水と風によって地球を楽譜に見立てる。 台風のあとは少し世の中が綺麗になっていればいいなと思いオシッコをして寝る。 ジョロジョロジョロジャー🎵