愛を確かめ合った瞬間を何度でも

「お前たち二人の、どちらか一方だけを生き返らせてやろう」    恋人同士の男と女は、悪魔にそう告げられた。  悪魔は不気味に笑っており、信用を置くには些か心もとない。  しかし、男と女の体は消えかかっており、悪魔に信用を置く以上に、生存が心もとない。    男は女を指差した。   「彼女を生き返らせて欲しい! 彼女はとても優しい人なんだ!」    女じゃ男を指差した。   「彼を生き返らせて欲しい! 彼はとても優しい人なんです」    男と女は、互いに驚いたよう見つめ合い、消えかかる体で抱きしめ合った。  悪魔は、二人の様子を眺めながら、クックックと笑いを零す。   「その願い、叶えてしんぜよう」    男と女は、同時に悪魔を見た。   「え? どっちを?」        これが百万回目。  どちらか片方しか生き返ることのできない願いに対し、二人が生き返る願いをした罰。  男と女は生き返った瞬間、どちらかしか生き返ることができないというルールに違反する。  そして再び、地獄へ落ちる。  かつて生き返ったという記憶を失ったまま。   「お前たち二人の、どちらか一方だけを生き返らせてやろう」    悪魔は同じことを口にする。   「彼女を生き返らせて欲しい! 彼女はとても優しい人なんだ!」  「彼を生き返らせて欲しい! 彼はとても優しい人なんです」    男と女は同じことを口にする。  そして生き返り、再び地獄に落ちる。    笑う悪魔。  呆れる天使。   「これから、どうするんだ?」    天使がたまらず尋ねると、悪魔は大声で笑った。   「どうもしない。このまま消えるのを待つだけだ」 「生き返ったり死んだりを繰り返すのが?」 「お前、人間界のパソコンって触ったことあるか? 再起動をするたびに、データを整理するために中で機械がガリガリ動く。そうすれば、パソコンの寿命もガリガリ削れていくんだよ」 「つまり?」    悪魔は親指と人差し指を広げ、無視を潰すようにプチっと閉じた。   「何度も記憶の再起動が置き続けるから、ほっときゃ魂という機械が削れて、魂ごとお陀仏さ」    天使は溜息をついて、悩んだように口を開く。   「それはそうなんだけど、そうじゃなくて」 「お、いよいよだ!」    悪魔は手を広げ、天使の言葉を静止する。  そして、男と女の最期に釘付けとなる。   「彼女を生き返らせて欲しい! 彼女はとても優しい人なんだ!」  「彼を生き返らせて欲しい! 彼はとても優しい人なんです」    次の瞬間、男と女の体が消滅した。  徐々に薄くなっていった体は、あっと言う間に消え去った。  後には何も残らない。  悪魔は両手を叩いて、ゲラゲラと笑う。   「あーっはっはっは! 消えた消えた消え」    ついでに悪魔も消え去った。    取り残された天使は、自身の頭に手を置いて、やれやれといった表情で首を左右に振った。   「どうして、そのルールが君には適用されないと思ったんだい。どうも悪魔ってやつは、目の前の快楽に弱すぎる」    悪魔のいた場所に、悪魔の魂の残骸が落ちてきた。  天使はそれを掌で掬い、ぐびりと飲みほした。

不起症

 真夜中の零時。  それは、人々が眠り、妖怪たちが目覚める時刻。  江戸時代には、昼に人々が往来していた通りが妖怪たちで埋め尽くされていたという。   「そのはずだったのに!」    しかし現代、妖怪は姿を現さない。  否、現せない。  人間によって作られた灯りが、通りを夜通し輝かせ、妖怪が起きるには不向きな環境を作り出していた。   「よう、隣の一つ目小僧、田舎に引っ越したってよ」 「マジ? あいつ、生まれながらの江戸っ子だっただろ」 「田舎は虫が多くて嫌だけど、東京の光よりはマシだってさ」 「はー、せちがれえ」    深夜に目覚めた妖怪たちは、しかし外を歩くこともなく、カーテンで遮光された部屋の中でひっそりと過ごす。  口を開けば、現代社会の愚痴ばかり。   「俺たちも引っ越すか?」 「んだなあ。童のことを考えるとなあ」    小鬼と唐傘は、うんざりとした表情で窓を見た後、足ともで眠りこける座敷童に視線を移した。    座敷童は、今日も眠っている。  不眠症ならぬ不起症。  光が多すぎる現代社会で、目を覚ます時間が極端に減るという、妖怪たちの現代病だ。   「今日も置きそうにねえな」 「薬買ってくっか。起床薬」 「また、灯りの下を歩くのか」 「しゃーなし、しゃーなし」    小鬼と唐傘は、座敷童に布団をかけ直した後、部屋を出た、  唐傘は目を瞑り、傘を広げる。  小鬼は唐傘の足をもって、外を歩く。  周囲から見れば、雨も降っていない夜道で傘を差して歩く、不審な人影だ。   「唐傘、大丈夫か?」 「……暑い」    小鬼が心配そうに聞くと、唐傘から汗が一滴、落ちてきた。  唐傘は閉じた目を、時々歪ませている。   「急ぐか」    小鬼は小走りに通りを進んで、妖怪専用の薬局へと向かった。   「いらっしゃい」 「いつもの」    そして、薬局で起床薬を受け取ると、部屋へと急いだ。  唐傘から落ちてくる汗が増え、小鬼も走った疲労で汗を垂らす。   「ただいまー」    小鬼と唐傘が部屋に戻る。  当然、返事はない。  唐傘は傘を閉じ、疲れた顔で傘立てに頭を突っ込んだ。   「ちょっと休んでから行くわ」 「おう」    小鬼は扉の鍵を閉め、玄関を上がる。  そして、眠っている座敷童の元へ行くと、その口に起床薬を入れた。  起床薬は、座敷童の口の中で、コロコロと転がった後、座敷童の喉の奥へと入っていった。   「ううーん」    しばらくすると、座敷童は目を覚ました。   「おはよう?」 「もう二時だ。寝坊助め」 「あちゃー」    座敷童は時計を確認すると、照れ笑いしながら、自分の頭を小突いた。  小鬼は、そんな振る舞いがおかしかったのだろう、ぷっと噴き出して笑った。  しかしすぐに、真剣な表情で座敷童を見る。   「なあ、座敷童。隣の一つ目小僧、田舎へ引っ越したらしい」 「そうなんだ。彼の作る目玉焼き、大好きだったんだけどなあ」 「俺たちも、東京から離れないか?」    小鬼からの提案に、座敷童は困ったように笑った。  ほっぺたを掻きながら、謝るような視線で、小鬼を見た。   「二人は引っ越しなよ。ぼくは、ここに残る」 「馬鹿! それじゃずっと、お前の病気が治んねえ!」    小鬼は声を荒げながら、座敷童を指差した。  座敷童は、やはり困ったように笑っている。   「東京に住む座敷童の数は、年々減って行ってる。これ以上減ると、東京にする人間たちが不幸になっちゃうから」 「いいじゃねえか! その人間たちのせいで、お前は病気になってんだから!」 「うん。でも、ごめんね。ぼくの役割は、人間たちを幸せにすることだから」    小鬼は、しばらく座敷童の説得を続けた。  しかし、座敷童は、決して首を立てには降らなかった。  数十分の後、小鬼は両手を床について、項垂れた。   「あ、ごめん! でも、君たちは本当に、引っ越していいんだよ! ぼくのことなんて気にせずに」 「……お前ひとり、置いて行けるわけねえだろ。なげえ付き合いなんだから」    廊下から、足音がした。  唐傘が部屋の中に入って来て、二人の様子を見た後、すぐに状況を察したのだろう。  小鬼の横に立って、小鬼の頭を撫でた。   「交渉失敗か」 「知ってるだろ。こいつは頑固者だ」    小鬼と唐草が、座敷童を見る。  座敷童は照れくさそうに笑った後、突然目を細めた。  頭が左右に揺れて、足元がおぼつかなくなる。   「やべえ、時間だ」    眠って倒れる座敷童を、小鬼は咄嗟に抱きかかえる。  そして、床へと寝かせ、布団をかけた。   「ずいぶん、寝るの早くなっちまったな」 「態勢がついたんだろうな」    小鬼と唐傘は、哀しそうな表情で座敷童を見ていた。

アイコノクラズム

僕の祖父は、不思議な人だった。彼は”アイコノクラズム”というみょうちきりんな名前の神様を崇拝していた。 「アイコノクラズムってなんなの?」 僕がそう聞くと、祖父はいつも僕をこう叱りつけた。 「こら、その名前の意味を軽々しく聞くな」 そのせいか、僕の”アイコノクラズム”への興味は段々と膨らんで行った。しかし、祖父は、僕がインターネットや辞書でそれについて調べることを強く禁じた。 「アイコノクラズムってなんなんだ?」 僕がその意味についてぐるぐると頭を巡らせている間にも、祖父の"アイコノクラズム"への信仰心は日に日にひどくなっていき、終いには親戚中に"アイコノクラズム”様の教えを布教しようとするようになった。父をはじめとする親戚一同は、これに腹を立て、彼と縁を切ってしまった。もちろん僕も祖父とはそれっきりだ。それからというもの、孤独となってしまった祖父は次第に生きる気力を失い、今から半年前に孤独死した。僕は彼の葬式の夜に、こっそり"アイコノクラズム”について調べた。その意味は”偶像破壊”。今考えると、ある言葉を偶像として崇拝した結果、自分の人生を壊してしまった祖父にとって皮肉な言葉になってしまったなと思う。

【カシオ様】

これは2011年頃の思い出。 私は、スペインの小都市にある大学へ、1年間の留学をしていた。 真面目に勉強して単位を取れば、国がお金を負担してくれる国費留学だった。 私の学習の傍らには、常に電子辞書があった。 不明な単語や表現、文化背景や歴史まで、それで素早く調べられた。 もう紙の辞書には戻れなかった。 ヨーロッパ建築の優雅な、小奇麗なスペインの小都市の生活に少しずつ馴染んでいった。 3か月ほどして、スペイン人のホセという素敵な彼ができた。 日焼けして、サッカー好きで髭の似合う、日本の漫画が好きなスペイン人だった。 私たちは、バーでお酒を飲んでお互いの文化について話し合った。 アンダルシア地方へ旅行にも行ったし、サッカー観戦もした。 スペインの夕焼けを見ながら、身を寄せ合った。 「日本人の女性は本当に思慮深くて素敵だ。礼儀正しく、チャーミングで、理知的で、儚げで…」 彼のお決まりの情熱的なフレーズと、新調したフレーズが混ざり合う。 分からない言葉があれば、電子辞書で調べた。 彼の情熱と試みに備えた。とても心地よかった。 分からない単語や表現が出る度に、私の視線は彼と電子辞書の画面を行き来する事になった。 滞在して11か月が過ぎ、大学の単位も無事に取れて、帰国の時期が近づいてきた。 「ホセ君と私は…」 今後について考えていると、彼から先に連絡があった。 約束の場所へいくと、ホセ君がいくぶん神妙な顔で待っていた。 「バーに行こうか。」 そう言って、ホセ君が私の頬に2度のキスをした。 おかしい。 スペインでは、男女の友人が会った時、男性が女性の右と左の頬に2回のキスをする。 別れ際には、女性が男性の頬に2回のキスをする。 でも、恋人同士だと、会った時も離れる時も、1回のキスになる。 ホセ君とバーに行き、お互いビールを飲みながら話し始めると、案の定、別れ話を切り出された。 「君は、バケーションでここにいる。」 彼は私と過ごした時間が、いかに素晴らしかったを話したが、結局はスペインと日本で離れ離れになる以上、一緒にはやっていけないという論法であり、別れる事で決着した。 仕方ないという気持ちはあったが、やはりショックだった。 バケーションと言われた事も、遊びの関係を強調されているようで嫌だった。 それでも、彼と過ごした思い出を考えると、その場から動けなくなった。 ホセ君が「さようなら」と言い、バーを去った後も、私はしばらく机に突っ伏して、傍から見れば酔っ払いの様相で、しばらく時間を過ごした。 「続きは帰ってから泣こう。」 そう奮い立ち、バーを出て、借りていたアパートまでの道のりを、ふらふらと30分ほど、放心しながら歩いた。 「ああ、ホセ、なんという事、ホセ」 声の出ないオペラ歌手のように、悲しみに暮れ、悲壮なスペイン語でブツブツと言いながら道を歩いた。 「………あれ?」 ふと、悲しみの中で気づいた。 自分のカバンが軽い。何か、重要な物がない。分かる。 カバンの中を見ると、電子辞書が入っていない事を確認した。 あのバーに忘れたのだ。 別れ話であれ、私は電子辞書を挟んでホセ君と会話をしていた。 「やばい、やばい、ヤバい!」 私は、奇声を発し、踵を返し、どう歩いたか覚えていない道を、とてつもない速さで走って戻った。 すさまじい焦り、アドレナリンが血管をめぐる。 「どうか盗まれずに無事でいて…!」 30分フラフラと歩いた道を、8分で駆け戻った。 あのバーだ! 熊のようにガッチリした店員がいた。汗にまみれ、息も絶え絶えに叫びかける。 「私の電子辞書、電子辞書、見ませんでしたか!?」 店員は、電子辞書自体が何か分からなかったが、思い出したようにカウンターの中を調べ、銀色のものを差し出した。 「これの事かい?さっきテーブル席で見つけたよ。」 そう言って、スペインの滞在で最もお世話になった、知識の宝庫とも言えるモノを、大きなてのひらに載せて返してくれた。 「ああ、ありがとう!ありがとう…!!」 私は、それが無事であり、再度巡り合えた事で、そのツールの有り難さに感激した。 そして、ホセ君の事は頭からすっぽ抜けて消えていた。 ホセ君は優しかった。終わりを見据えていたから。 文化や生活を教えてくれた。彼自身の不正確なフィルターを通して。 その点、電子辞書は、常に的確であり、正確さの点で誠実なのだ。 異文化であっても、異言語であっても、これ以上の安定感はなかった。 こちらが忘れなければ、別れられる事もない。 なんてありがたい存在…。 「ああ、カシオ様、カシオ様、これからも私にたくさんの知恵と知識を授けてください!」 …私は、強い女だ。

別にいいんだけど

「課長、明日、休みを頂きたいのですが」 「どうしたの? 珍しいね」 「はい。急用ができまして」 男が、机を挟んで頭を下げた。 「じゃあ、引き継ぎお願いね」 「ご迷惑をおかけします」 ──次の日。 男は、集合場所に急いだ。 長靴を履き、スコップを握る。 「お兄ちゃん、ありがとね」 「いえ。大変だったでしょ」 「水がここまできたのよ」 年寄りの女が、柱を指した。 「泥がひどいですね」 「ボランティアさんが来てくれて、助かるわ」 男は、部屋の泥をかきだした。 額の汗を拭いながら、辺りを見回す。 「ここ、テレビとか来ました?」 「昨日、隣町にきてたわね」 「……そうですか」

スカート

 性別に負い目を感じながら履くスカートだ。それはまるで世界の裏側に迷い込んだ感がある。裾は長く、下方に行くに従いふんわり広がっているほど良い。ネットショッピングで購入した無地でネイビーのマキシスカートは僕のお気に入りだった。(というよりこの一着しか持っていない)  正直オシャレはまだよく分からない。雑誌やスマホで調べて、カジュアルなコーデが今の自分に合っていて再現性もある気がした。オーバーサイズの白いロゴTシャツにナイロンの黒いブルゾンを合わせてみる。身長はあるが華奢な方なので顔さえ何とかすれば、いける。鏡の中の自分を見ては何度も確信した。いやほんとかよ。鏡の中の世界ほど巧妙な虚構はない。ブルゾンから覗くTシャツのロゴの一部が目に入った。左右反転したLIVE。  セミロングのかつらにマスク、厚底の白スニーカー。武装完了。息をついて立ち上がる。玄関扉のドアノブに手を掛けた時、胸が高鳴っていた。相反する不安も沈めていた底から舞い上がってくる。これから僕は何の変哲もない日常に溶け込まなければならなかった。意識的にそれを実行しなければならなかった。ひとまず近所の公園まで行く。ただの散歩である。扉を開け、敷居を跨いだとき、空気が痛いほど澄んでいた。剥き出しの世界が呼吸している。この姿で外に出るのは初めてだった。  平日の午前10時。忙しない朝も落ち着き、ご近所さんもほとんど見かけない時間帯である。誰にも会いませんように。深い海の底を歩いているようだった。太陽が青い布地を破いた穴のようだ。それにしても住宅地の立ち並ぶ一軒一軒、屋根や外壁に形や色の違いはあれど、皆一様に見えるのはなぜだろう。人ん家の中を覗いてみたい。この通りには小さな庭が前に突き出た家がある。真っ白で清潔な家だ。芝生もいつも刈り込まれている。その庭の奥から綺麗な毛並みのラブラドールレトリバーが駆けてくる。こいつはいつも庭の前を通る者を見逃さない。柵に身を乗り出しては、舌を出してこちらを見つめてくる。よし撫でてやろう。頭を垂れて目を細めてやがる。どうだ今日の僕は。やっぱ変?変態?ここの家の主人を僕は見たことがない。  というより、誰もいない。誰にもすれ違わない。平日の午前ってこんなものか?もしや僕以外の全ての人類が神隠しにあったんか?家庭菜園のトマトはこんなにつやつやしてるのに。街に出れば同じサボりと出くわすだろうか。  あれこれ思考を巡らせているうちに公園に着いてしまった。小さなちいさな開発公園です。端っこのベンチに座って、ここに至るまでの平凡な道中を思い、へぇぁ、と気の抜けた声が出た。何かが起こると思ってたのかしら。誰かとすれ違ったり、声をかけられたときのスリルを期待してたのかしら。いや違う、そんなんじゃない。まだ言葉には出来ないけれど。まあみんなアトランタにでも避難したのだろう。もういいから襲ってこいよゾンビ。ミラーワールドに迷い込んだ可能性もある。恐る恐るTシャツのロゴを覗き見る。上下反転してるだけの、LIVE。

最低限度の保証が受け取れない

 働けなくなってしまった。  身体はボロボロ、精神もボロボロ。  できるなら、生活保護を受け取って、休息をとりたかった。    しかし、世界がそれを許さない。    ベッドで眠る私の体は、ベッドごと職場へと運ばれる。  ベッドに付いた足とホイールは、歩道だろうが階段だろうが、お構いなしだ。   「それでは、今日も一日頑張りましょう」    ベッドの半分が起き上がり、上半身が無理やり起こされる。  私の目の前では、私の手足代わりとなる人形立ちが、せっせと労働をしている。  私は、それをじっと見つめる。  立て付けは監督者だが、正直何やっているかわからない。   「今日もお疲れ! 日給は振り込んでおくから」    終業時間が来ると、私は再び、ベッドで自宅に戻る。  ようやく仕事が終わったのだと、部屋の天井を見上げながら溜息をつく。    ああ、休みたい。  全ての労働を人形が代行する世界は、全ての人間が労働環境から逃れられない世界だと思わなかった。  見ているだけの仕事も労働扱いだから、収入が入ってしまう。  生活保護は受けられない。    過去の人間たちが私を見たら、働かなくとも収入が入って羨ましいと思うだろうか。  働かなくとも働いたことになって羨ましいと思うだろうか。    私は、何もできないのに労働者として扱われる今が、苦痛で苦痛でしょうがない。

手向け

 後悔ではなく事実だ。ハロウィンというものを通ってこなかった。そういう人生だった。仮装も、パーティも、オレンジ系の飾りつけのそれぞれにしても、わたしの前には登場してこなかった。あらわれてくれるな、わたしが仕向けていたともいえる。いずれにしても、でもそれは、たぶんに都合がよかった。誰もわたしの部屋のドアをたたく者はなく、だから、お菓子をあげることも、いたずらをされることもなかった。平穏に生きていられた。  タイムマシンである地点に戻って、あるいは、すごろくでふりだしにまで戻されて、もう一度、人生をやり直してみたい気持ちに、なることはすくない。またあれをやらないといけないのか、そういった心持ちになってしまうのだ。だから、寝て、起きて、お砂糖のように真っ白で、心根にしても欠けているところのない無垢な子どもの姿になっていたとして、それでもきっとわたしは、ハロウィンの上を歩いていかない気がする。  お菓子をねだられるのは嫌だ。自分ですべてたべてしまいたい。いたずらをされるのはもっと嫌だ。お菓子をたべながらいたずらっ子たちが去っていくのを待つしかなくなる。かぼちゃの中身をくりぬいてしまうのも、ドレスを着るのも、頭に飾りをつけるのも、みんなとワイワイさわぐのだって、きっと、わたしはしないのだ。ほっぺにドクロを描いている女の子を、うらやましい目でみる必要に迫られないのは、だから、幸福なことだ。  嫉妬かもしれない。いや、それはない。不遜だ。はなはだ不遜だ。ああいうふうに生きたいわけじゃない。ほかの世界のデキゴトだ。 「せいぜい別の世界でがんばってくれたまえ」  と、これは、自分への手向けの言葉だ。

原風景

「お義母さん、テレビ見て」 女が画面を指さした。 レポーターがスマホを手に歩いている。 「私は今、ダムの巨大な壁のてっぺんに立ってます」 観光客にマイクを向けた。 「どうですか? ご覧になって」 「なんていうか、ノスタルジックですね」 「連日の猛暑の影響で、ダムの底に沈んでいた村が顔を出してます」 ワイプのタレントがモニターを覗き込んだ。 「鳥居が見えますね。奥にあるのは学校ですか」 「はい。今は統合されて、子どもたちは隣町に通ってます」 「お義母さん、懐かしいでしょ?」 女が湯呑みをテーブルに置いた。 「去年も見た」

Wednesday✕メガネの彼

駅のホームで、遠くの山を静かに見つめるメガネの彼 今、彼は何も考えていない 流れ行く暗い雲と、夜と太陽に青を奪われていく空を眺めながら、時間を潰している 感情は動かず。それが彼を落ち着かせている ホームで響く誰かの足音が8ビートに聞こえる 無意識でスティックを探してしまうメガネの彼 風が冬を乗せてきても、彼はソレを、ただ眺めている 柱のように立って、微動だにしない。 アナウンスが入り、電車がホームに入ってくる間近、列から出てきた子供が線路に近づく、楽しそうに、笑いながら。 彼は、メガネのフレームに遮られながら子供の気配を感じ、咄嗟に体が動く 同時に、母親が強く子の手を引き、危ないと叱っている 心が一瞬、時間で言えば点の所で激しく動いた。 電車が川のように流れてくる。 車内は時間が止まったままの人々が座っている メガネの彼はまた前を向き、ただ電車が止まるのを待っている。時間が止まったように

君に聞こえないひとりごと

君に振られた今日は僕にとって忘れられない日になるだろう。君は他に好きな人ができて、あっさりとそっちに行ってしまったね。でもね、君を責めるつもりはないんだ。だって僕よりその人の方が魅力的に見えたんでしょ。だったら仕方ないよ。それに君がその人のことを考えながら僕と付き合い続ける方が僕にとって辛かっただろうからむしろ振られて嬉しいまであるよ。 君は僕に謝ったね。一回だけ、冷たく。君が持っていた僕への気持ちはもうとっくに冷めてしまってたんだね。ピロンと僕のスマホが鳴った。君からだ。君だけ着信音を変えていたからすぐにわかる。 「ブロックしておくから。そっちもしておいて」 文面まで冷たいなぁ。結構、スパンと切る方なんだね。君の今の彼氏は浮気の心配しなくていいね。よかった。 君はもう26歳だ、僕と同じ。君は年齢も年齢だからそのままその人と結婚して幸せな家庭でも築くのかな。僕は君と結婚する予定だったから残念だ。僕はもう結婚は諦めようかな。 別に結婚だけが幸せじゃないんだし。趣味でも見つけてさ、一人静かに暮らすのも魅力的だよね。園芸でも始めてみようかな。君が好きだったネモフィラでも植えてみようかな。その度に僕は君を思い出すんだろうね。それはそれで君を忘れられなくて良さそうだ。でも君はきっと、僕になんか思い出して欲しくないだろうから園芸はやめておこうかな。 ねぇ、君はいつまで僕が好きだった?

不用意な、あるいは、お昼休みの天使の話

 わたしが悪かったんだと思う。わたしが不用意に「天使の使い」と口にしたら、 「え?天使の使い?天の使いじゃなくて?」  ひとりが言って、 「天使の使いでいいんじゃない」  またひとりが言って。 「天使って天というか神さまの使いってことでしょ。使いの使いってこと?」 「子分の子分みたいな?」  わたしのアタマはこんがらがってしまった。そもそもどういった経路をたどって天使の話になったのかを、いまのわたしは思い出せない。思い出す必要はないようで、だから思い出さない。  お昼休みにお弁当を食べながらする会話なんてそんなものだ。駅に行く途中のさ、パン屋あるでしょ。ああ「すずベーカリー」だっけ。あのお店でたまに見かけるんだけどさ、青い服のさ。大学生とか。わかんないけど、なんかいいなって。出たっ、その、なんかいいなって。そんなに言ってるかな。言ってるよ。青い服の人に気持ちもってかれるの多いよなあ。青じゃない服の人いいなって思うこともあるでしょ。えええ、これまであったかなあ。これまではなくてもこの先はあるでしょ。でもそれってきっと気のせいかもね。わたしがウインナーとポテトサラダとレンコンのきんぴら?みたいのとプチトマトとごま塩のふられたごはん、それらとしずかなやり取りをくり広げているときに流れていた会話は、でもやっぱり、もう思い出せない。  思い出すことも、おぼえていることも、しなくていい。天使の使いについては、だから、永遠に、よくわからないままになるのかな。

年越しウォーズ2020

「たぬきだろ」 「きつねに決まってるわ」 「またやってるのかお前らは」  テレビのチャンネルは紅白にセット完了。熱湯の煮えたぎる鍋には蕎麦を投入済み。茹で上がるのは時間の問題だ。  のんびりこたつの中で蕎麦を啜りながらテレビを見る為には、そろそろ決着をつけさせないと時間がなくなってしまう。 「あのさ、もう間を取って鴨南蛮にしたらいいんじゃね? な?」 「鴨はすっこんでろ。燻製にするぞ」 「焼き鳥にしてやろうか?」 「無駄に息ピッタリなとこ見せやがって……!」  こちらに罵声を浴びせたあと、狸と狐は再び睨み合いに戻ってしまった。紅白開始までは、残り三〇分だ。 「いいか狐野郎。お前油揚げが好物って散々言われてきただろ。なのに年越し蕎麦できつね蕎麦を食べんとはどういう了見だ」 「お前こそなんだアホ狸? 狐が油揚げを好むなんて夢見てんじゃねぇぞ。大晦日に食べる蕎麦は揚げ玉をしっかり載せたたぬき蕎麦、他の選択肢なんてあり得てたまるか」  きつね蕎麦が食べたい狸とたぬき蕎麦が食べたい狐。話し合いは平行線のまま、紅白開始のカウントだけが進んでいく。残り時間はあと一〇分になってしまった。 「お前らほんともういい加減にしろよ……鴨南蛮の何がいけないんだよっ!」  鴨南蛮もめげずに推してみるが、これに対する反応も全く変化していない。  残り五分となったところで段々馬鹿らしくなり、仲裁を諦めることにした。鴨南蛮を手にこたつへ陣取り、更に買ってきた海老天を添える。ガサガサという音に反応して狸と狐がこちらを向いた。その瞬間、海老天を捉えた4つの瞳が大きさを増した。 「お、おい鴨野郎……お前が持ってるそいつはもしや……」 「まさかお前……一人で海老天を食うつもりじゃあるまいな…………?」  ギラギラと光る目玉達は、ジリジリと少しずつ海老天への距離を詰めてくる。先程言い争いをしていたときよりも更に目が血走っている。 「おっおおお落ち着けや、な? お前らにも一口ずつくらいはやるから……」  二〇二〇年の最後は、海老天(尻尾)のみが載った鴨南蛮で終わりを迎えた。

Wednesday✕ロン毛の彼

太宰の小説を一つ読む あまり手応えがないがもう二つ 家で朝を待つだけの時間に 水と本を飲んでいく 朝が来て窓の外で鳴く雀に 「ちょっと分かんなかったな」 と伝える 「気にするな」 と雀が言う 朝日が注ぐ部屋の中で飯も食わずに腕立てをする彼 汗もかけずに床に倒れる そのまま眠る 洗濯機のタイマーが作動してモーターが唸りを上げる 彼の中のモーターも馬力を上げていく 充血した自分の目を鏡に映しながら歯を磨いていくロン毛の彼 髭もサマになってきた 息を一吹き 白いノートに歌詞を書き上げていく ギターに合わせて雀も歌う

【舟】

ある男は舟を漕ぐ。 その舟は男に応え、男が漕ぐと、その動きに合わせて彼を進ませた。 男は、舟を扱う事で満足をしていたが、少しずつ舟が古くなり、自らの漕ぐ力を増す必要がある事に不満を抱くようになった。 ある時、疲労感の限界か、もしくは退屈か、彼の中に限界が訪れた。 「もういい」 彼はオールを投げ出し、湖の真ん中で目を閉じ、寝そべってしまった。 彼には十分な食料があったが、何をする気も無くなってしまったのだ。 どれくらいの間だろうか。 うっすらと目を開けると、彼は周囲を見回し、目に映るものにハッとした。 月が優しく照らしていた。 また、両岸に豊かな花をつけた、木々が目に入った。 「なんと豪華で美しい。』 また、身を乗り出し、静かな水面を見て、力強く泳ぐ魚が目に入った。 「なんと優雅で、活き活きとしているのだろう。」 彼は、それらに心を奪われて、すっかりと舟を漕ぐ事を止めてしまった。 夜には月を見上げ、両岸の木々花々の見せる四季折々の佇まいが、彼を飽きさせなかった。 昼の太陽の眩しさも、夜を待つ楽しさに置き換えられた。 水は彼の傍らにあった。彼を潤し、呼吸を整えてくれた。 男は食料を魚たちへ与え、魚たちは男の周囲へ押し寄せた。 それらに囲まれ、かつての心を取り戻したかのように幸せであった。 しかし、ある時、突然の出来事が起こった。 舟に穴が空いたのだ。 修復しようとも、水を掻き出そうとも試みたが、水の侵入は止まらず、少しずつ舟は沈み始めた。 「助けてほしい。」 男は誰ともなく懇願した。 月は優雅に、両岸の美しい木々は、佇むのみであった。 沈んでいく中で、男は気づく。 舟のお陰でこれらの楽しみを享受出来ていたのだ。 男は、なんとか対岸まで泳げないか試みたが、優しかった水は、淡々と男の力を奪い、ついに男は溺れてしまった。 光が少しずつ届かなくなり、息も絶え絶えというところ、魚が彼の肉に食い込んだ。 鈍い痛みを感じた後、さらに数匹、数十匹と魚が同様に男に食いつき、男の臓腑を食い破った。男は悲鳴にならない悲鳴を上げた。 意識が消え、自然に還った後は、何も残らなかった。 水の上では、彼の残した食料を、別の魚たちが、食い、奪い合う事となった。 役割のなくなった舟の残骸、木片は、静かに、あてもなく水の上をただよった。 男が居なくなった事で、木片は【舟】という役割から解放されたのだった。

Wednesday✕キャップの彼

キャップの彼は歌を歌う 戦争が起こっているよ。 大変だと思わないかい? 皆はどう思う?と キャップの彼はカレー屋でカレーを食べている。 今の彼は美味しいカレーを追い求めている。緋色のスウェットに毛玉を携えて。 風が冬を乗せている 毛のない頭に冬を残す Jazzmasterが沈んでしまう 「それでもいい」とキャップの彼は歌を歌う

裏ドラフト会議

都心の貸会議室に、スーツ姿の男たちが集まった。 「だいたい揃いましたね」 司会の声に、それぞれが椅子を引いた。 「では、始めたいと思います」 「すみません」 資料を見ていた男が手を上げた。 「これって……?」 「はい。今日はテレビ中継と、球団のイメージ戦略についての会議です」 小さな笑いが起こる。 「局側が、もう少しドラマが欲しいと……」 「どういうことですか?」 「今年は、なかなか難しいそうです」 ため息と、資料をめくる音が続いた。 ──ガチャン。 「いました」 額の汗を拭いながら、スカウトが入ってきた。 「母親がパートを掛け持ちして、五人の子どもを育ててます。その長男ですね」 「いいじゃない。で、野球の実力はどう?」 「まぁ、何とかなるでしょう」 「局には、この子で時間をつないでもらうとして……」 すると、腕を組んで座っていた年配のスカウトが手を上げた。 「こういう子はいいね」 その言葉を合図に、スタッフが抽選箱を机に置いた。

今日も酸素を吐いていた

 植物のようになってしまう。 酸素を吐いてしまう。 二酸化炭素を吐いていた方が皆と一緒に共存できるのに。 あるいは植物の管理をしながら。 それならイーブンだ。 知り合いがお休みなさいと言ってきたので僕は奴のうちにテロで二酸化炭素を送る。 気付いていないので夜のうちに酸素を吐いて貰おう。 僕は生物学は苦手である。 とりあえず税金分酸素を吐いて貰おう。 近くの場所の緑化である。 寝ていても稼げる(あるいは皆こぞって続いてやるのですぐ価値のなくなってしまう仕事である)。 南極に酸素を集めて(あるいは氷床は二酸化炭素だったか?はて?)もう一回南極の氷を増やす。 あるいは北極でもいいかもしれない。 北極熊の保護も兼ねているのでこれはいくらかお給料が環境保護団体から出るかも知れない(希望的観測)。 犬は架空のアルバイトで治験を終えまた動き出す。

ネタ切れなので恋愛ものを書いてみた。

ある日の午後。 若い男女が手を繋いで歩いていた。 「見て見て。あそこ」 「……なに?」 高齢の男女が手を繋いで歩いている。 「なんか、可愛いよね」 「僕たちも、あんな風になりたいね」 二人が、見つめ合った。 「見て。あの人たち」 「……どこ?」 中年の男女が手を繋いで歩いている。 「なんか、気持ち悪い」 「生々しいな」

かぼちゃの馬車に乗れなくて

 かぼちゃとは、なかをくりぬいてランタンにするものではなく、馬車にして乗り込むものだと疑うことのなかったわたしは、十月の終わりにある奇妙で、本来のものとはかけ離れて広まったそのイベントを、ありのままに奇妙そのものと考えていました。  さわげればなんでもいいのですね。日常のなかに非日常をさがし求める労力。出会ったその非日常に疑いを向けることなく信じていられる方向のまちがった熱意。自分と同等程度の思考をもち合わせている友人。わたしにはそのどれもが欠落しているらしく、でもそれが、幸福なことのように思えてなりません。  人が乗れるまでに育ってくれなかった小さなかぼちゃは、スープにされてしまう運命です。人が履いた靴の裏でその身を汚されることと、ぐずぐずになるまですりつぶされ冷たいお皿にべちゃっと広げられるのと、どちらが不幸なことなのでしょうか。わたしには少しの見当もつきません。  オレンジ色が好きではないのかもしれません。オレンジ色の飾りから目を背けたいのかもしれません。お菓子は魅力的ですが、いたずらっ子や魔物たちに囲まれながら食べたいとまでは思いません。参加することは、ないと思います。かぼちゃの馬車に乗れるというのなら、気持ちはゆらいでしまうかもしれませんが。  暑さのすぎ去った秋の夜は、しずかに本を読むことにしています。人とかかわるよりも、お月さまにみまもられながら本を読んでいることが、わたしのこころにはひどくおさまりのいいものです。本の横にミルクティーがあればそれでよいのです。とっても熱いミルクティーでしたら、なおよいのですけれど。

吸血鬼は眠りから覚めた

「余は今より、千年の眠りにつく。次に目覚めた時が、世界終焉の時だ」    そう言い残し、ヴァンパイアの王は眠りについた。  特別製の棺の中で横になり、部下に命じて棺桶を海底へと沈めさせた。  誰も、眠りを妨げないように。    そして千年後。  ヴァンパイアの王は、一秒のズレもなく目を覚ます。   「ああ、良い目覚めだ」    これから世界が血で染まると考えれば、ヴァンパイアの王の口元は自然と緩んだ。  鋭い眼光を輝かせながら、棺の蓋を押す。   「……ん?」    押す。   「あれ?」    押す。   「あれれー?」    棺桶は、なんと鉄製。  海底の水圧によって、壊れはしないが、蓋を開けさせない向きに膨大な力がかかっていた。  そのうえ、ヴァンパイアの王は千年間体を動かしていない。  筋肉がすっかり衰え、千年前には余裕で壊せた鉄も壊せない。   「え、ちょ、ま! だ、誰か開けてー!」        地上では、ヴァンパイアたちが集まっていた。  王の帰還を迎えるために。   「遅くね?」 「遅いな」 「きっと、寝坊してるんっすよ」 「なーんだ、寝坊か。まあ、千年も眠ってれば、寝坊くらいするよな」 「じゃ、王が来るまで、解散解散」    世界の支配者は、未だ人類のままだ。

デジタル遺言書

「こちらが、お父様からの遺言で御座います」    男は、弁護士から送られてきたURLを受け取った。  それは、最近流行りのデジタル遺言書。  Webサイトからいつでも書けることと、暗号化されているのでURLを見つけてダウンロードされても内容を読まれる心配がないことから、最近流行のサービスだ。   「ありがとうございます」    弟は、集まった兄弟に視線を向けた後、URLをタップする。  更新される画面に、一同の視線は集中する。       『 【重要】当サイトの一時閲覧停止について 』        そして、皆で仲良くずっこけた。   「停止中!?」 「アイエエエナンデエエ!?」 「親父の遺言は?」    弁護士は、表示された画面を確認した後、「ああー」と諦めたような声を出し、眼鏡をかけ直す。   「これは、最近ニュースになったPHPの脆弱性対応ですね」 「脆弱性対応!?」 「遺言のお話は、脆弱性対応が直った後ということで」 「いつ? いつ直るんですか?」 「さあ。私は、システムの専門家ではありませんので」    弁護士が持って来ていた暗号を解除するプログラムも、ダウンロードできないのでは無用の長物。   「なんて日だ!」    男はスマートフォンを握りしめ、天を仰いで叫んだ。

ファミレスが終わらない

宿題が終わらない。 三角形の面積も、登場人物の気持ちも求められたけれど。 「やっぱり、日記を夏休み初日に終わらせるのは無理あるって」 「文句言わないでよ。スッキリして過ごしたいでしょ?」 なんだか、未来を決めつけるような気がしてかったるい。 シャープペンシルの芯が、また折れた。 掃除が終わらない。 どうせ汚れるんだから、放っておけばいいのに。 「あんた、自分の家を掃除しなよ」 「無責任だから、綺麗にできるんだよ」 人を付き合わせてまで、することなのだろうか。 埃をどれだけ掃いても、チリトリに沿った線が残る。 ミーティングが終わらない。 どうせ二人なんだから、適当に決めてくれればいいのに。 「学校は民主主義の基礎。委員会は社会の基礎」 「また変な本読んだんでしょ」 黒板を好き勝手に使えるのは、ちょっと楽しい。 チョークはうまく消えなくて、袖に煙っぽさが残った。 ファミレスが終わらない。 ドリンクバーなんて置いてあるほうが悪い。 「ぶっちゃけ、もう話すことなんてないよね」 「あんたが言うんだ」 お金は、一応もう払った。 「ね」 「ん」 「ごめん」 「ううん、こっちこそ」 「……ごめん」 「ありがとね、いつも付き合ってくれて」 「ううん、一緒にいて楽しかったよ」 私たちは嘘つきだ。 嘘つき同士だから、よくわかる。 テーブルを立つとき、携帯が鳴った。 あの子が知らない友達から、明日の旅行のメッセージ。 「またね」 ファミレスを出るとき、そう言った。 あの子の顔は、もう見ないようにした。

わたしの親友

最近は美のハードルが上がってきている気がする。時代が進むにつれてたくさんの技術が発達している。まつげパーマに縮毛矯正、リフトアップに二重整形、ネイルに眉毛タトゥー。たくさんの技術が生まれてたくさんの美人が生まれる。そして美のハードルが上がる。最近では高校生が整形をしていてびっくりする。別になりたい自分になれるのならいいと思うし、否定するわけでもない。でも時代だなーと思う。まぁ、仕方ない。ルッキズムなんだから。外見至上主義。結局は見た目が全てなんだよね。 「大事なのは性格だよ」 美人の君が言う。君は天然物の美人。綺麗事ばかり言う。本当に綺麗事ばかり。綺麗な君は発する言葉も綺麗だね。 「じゃあ、性格いいブスと性格いいイケメンどっち選ぶ?」 「ええ」 君は困る。そうだ。いくら性格のいいブスがいたって性格のいい美形には敵わない。 「それは後者かも」 「ほら」 君は黙る。 「でも本当に世の中顔じゃないと思うんだ。」 「なんで」 「だって私は顔で何か言われたことないから。」 あまりにもまっすぐな目に言葉を失ってしまう。平行二重で長いまつ毛が自然に上がってて涙袋がぷっくりある目に。 「私はあるよ」 「え、?」 「髪切った時、陰で色々言われた。そりゃ顔整ってたら言われないよ」 「そう」 そうやって君は俯く。顔が整っているって言われて喜んでいるに違いない。でも隠さないとね、それ。だって君は外身まで美人でいなきゃいけないもんね。本当君って欲張り。見た目がいいならせめて性格はバカみたいに悪くいてほしい。性格が悪い私はそう思っちゃう。顔もかわいくて、性格も良くて、勉強もできて、人望もあって、友達想いな君に私は何一つ勝てない。 「負けたわ」 「え、?」 君は白くてきめ整った肌によく映えている薄ピンク色に唇を少し開いていった。今ので何人の人間が落ちただろうか。

記憶マーラータン

 店に入ると、アルミ色の入れ物がたくさん並んでいた。  入れ物の中には、プラスチックの札が入っている。   「こちらをお使いください」    店員から渡されたボウルを受け取り、俺はプラスチックの札を物色する。  同じ入れ物に入っている札には、すべて同じ言葉が書かれている。  ある入れ物には、年収。  ある入れ物には、健康。  つまりこれは、次の人生で得られる能力だ。    まずは、最低限必要だと思う物を入れていく。  健康は言うまでもない。  年収も欲しいし、住居も欲しい。  都会出身も欲しいし、恋人も欲しい。  とはいえ、全てを入れることはできない。    俺より先に札を入れていた客が、レジへと向かう。  そこでボウルと札の重さが測られ、レジに値段が表示される。   「三千八百四十一円ですね」 「……二千二百円しかありません」 「では、いくつかお戻しください」    俺は、無言で財布の中を確認する。  二千二十六円。  この現金は、生きている間の振る舞いとか、死んだ自分を悲しんでくれる人間の数とか、色々加味されて決まるらしい。  俺は、前の客が持っていたボウルの中をチラ見し、自分のボウルの中を見る。   「はあ。また、凡人の人生になりそうだなあ」    これ以上を入れることはできないと判断した俺は、そのままボウルをレジへと持っていく。  測定の結果、無事に二千二十六円以内に納まった。   「はい、二千円以上のお買い上げなので、こちらの札から好きなものを一枚サービスします」 「じゃあ、ポジティブな性格で」    支払いが終わる。  店員は、ボウルの中身を鍋の中に投入し、調理を始めた。  アレが、次の俺の人生というわけだ。    調理姿をボーっと見ていると、俺の意識は徐々に薄れ、鍋の中に吸い込まれていった。

水面は光る

私の側頭部に、黒い柱が刺さった。 私の口ほどの大きさがあろうそいつには返しが付いている。 必死にもがいてみたが、私の内側を掻き回すだけだった。いつしか私の体は動かなくなり、息をすることしか能のない肉塊と化した。 私の体は黒い柱に貫かれたまま海面へと向かう。海面に私の体がぶつかる。いつもの想像よりもそれは柔らかく、簡単に割れた。 普段海面の反対側からものが海面を割って落ちてくるのは見たが、どれも動かない。 海面に勢いよく打ち上がった仲間は帰ってこなかった。他の奴らが言うことはわからない。 これはある種の特別な体験なのかもしれない。自分がいつか憧れていた海面、そこに自分で向かう勇気はなく、それに関する情報も無い。 この柱が私を突き刺したおかげで見れるとは、なんたる幸運であろうか。私はそう思うことにした。 あぁ、海面の向こうは海よりも薄い青だったのか。なら、そこまで変わらないのかもしれない。 私の体から水が落ちきった時、私は先程の考えを後悔した。 嗚呼!熱いっ!熱いっ!私の一生涯において、海底火山の吹き出す湯水に皮膚を掠めた時とは比にならない熱さを感じることになるとは!眼球が沸騰し、今にでも灰になりえるような熱が全身に刺さっている!海面の上はなんて辛く厳しいのだろう! 私はもうもたなさそうだ。 しかし、きっと他の奴らは私より大きかったこともあって、この辛く厳しい世界では生きていけるのだろう。 私の頭から柱が引き抜かれた。何が何だか分からない私は、体の表面に冷たい水を感じて、ハッとした。 私は海中に戻ってこれたのだ。私はこの経験を活かし、これから生まれるちびっ子達に伝えていこうと思う。 この世界は無理をしない方が良いと。 私は精一杯に動こうとするが、私の体は言うことを聞くようにはならなかった。

言葉の拾い集め

濡れた線路 頭の鈍い痛み 息子の踵 夜通しの充電 優しい花 白い空 切り途中の髪 人参の傷み 昨日の後悔 昨日の再会 スマホの重み 皮膚のカサつき 出費の項目 皆困っている 皆話を聞いて欲しがっている 皆優しくして欲しがっている そのくらいなら僕にも出来る 始まらない物語 掴めない詩 死んでもいい人 皆と別れの頃合 すれ違う電車 最後に会いたい人 向こうで会いたい人 幸せにいてほしい人 気軽に守れる人 雨の行方 あの日まではここにいる 手に残る感触 案山子を知らない案山子 低く丸いベース音 楽しいは自分のもの 上手いは相手のもの 買い食い欲を殺す 最初で最後の日

おかゆ

 前に付き合った男で、そういうのがいました。そういうの、とは、よく泣く、ということです。でもあれは、お酒を飲みながら泣ける映画をみていたときのことなので、ちょっと事情がちがうのですが。そもそも泣くために映画をみていたわけです。おおめにみてやってもいいと思います。それにしても、よく泣いていたっけ。  マーガリンをやめてバターにしたのは、その男のせいです。全面的に、まちがえることなく、あの男のせいです。マーガリンはバターに似た外見をつくろって、でも実際はただの油の塊です。その点、バターは、きちんと幸福を内在してそこにあるのです。そのことを、あの男は教えてくれました。あの男は、様々なことをわたしに教えてくれました。とくに、たべものに関して。  カレーパンとハムチーズパンがやけにおいしいお店を教えてくれました。きっと、わたしひとりでは、みつけるなんてできなかったお店。ちいさくて、かわいいお店。何度もそのお店の前を通っていたはずなのに、目に入っていなかったお店。しわしわで、くしゃくしゃのおじいさんが、つくってくれているお店。  チョココロネがおいしいお店も教えてくれました。あの男は、チョココロネにパックの珈琲牛乳を合わせていました。子どもっぽくて、甘いのがやけに好きなあの男は、でも絶対に期待を裏切らないチョイスを容易にできてしまうのです。男からはチョココロネのたべ方も教えてもらいました。それまでのわたしは、後先のことをすこしも考えずチョココロネに喰らいつき、うにいいいとチョコをこれでもかとはみ出させては、居合わせた人たちに「あらあら」「まあまあ」と世話を焼かせるのを得意にしていました。 「チョココロネはね、こうやってたべようね」  ひと口ちぎってチョコをつけ、男はわたしの口に放りこんでくれました。ああ、なんてスマートで甘々しいんでしょう。そう思ったものでした。  その男は、体調が思わしくないと感じたら、おかゆをたべるようにしていました。 「体調が思わしくないと自分では思っていなくてもね、おかゆをたべたい、って思ったとき、たいがいカラダが不調におちいってること多くてねえ。もしくは、その前ぶれだったり。カラダが教えてくれてるんだね。そして伝えてくるんだ。おかゆをたべなさい、って」  そんなふうに、珍しく強めに語ってくれたことがありました。  男はいちど、おかゆをたべると、しばらく「おかゆ熱」を自身のなかに滞在させていました。その気持ちを、あきさせないように、丁寧に、もてなしてやるみたいに。その日の気分で、梅干しを落としてあげて、その日の気分で、大根の葉っぱを細かく刻んでパラパラと彩りよく散らして、その日の気分で、塩味だけだったり。それは、ちょっとさみしい気がしたけれど。その日の気分で、濃いめに味をつけたひじきの煮物と一緒にしてみたり、その日の気分で、たまごがゆに、のりの佃煮を添えて。いつのまにかいなくなってしまったと思ったら食欲が戻っている、「おかゆ熱」とはそういうもので、そのすぎたあとには、たりなくて、まだたべるの? あきれてしまうほどになるのです。  ここ数年、病気らしい病気をすることなく、誇らしい気持ちでいられるのは、あの男のせいなのかもしれません。あなたのおかげで、いまわたしは元気でやっていますよ。男に、それを教えてあげることはないけれど。

埼玉に行ってネギ泥棒かキャベツ泥棒しようと思うがそんなことしたら親方様に切り殺されるので出来ない

 おとなしくジャガイモ食っとこう。 今日は彼女に食事代を貰った。 ネギ買えんじゃねーかよ!行ってこいよ!という声が聞こえてきそうだ。 無益な盗みや殺生をするのはやめよう。 あるいは食べられなくなったらゴミ箱を漁れば今のところは何とかなる。 それを珈琲と煙草を吸いながら書いてる僕はまだ富裕層なので(つーかまだ太ってるので)痩せるのも手かもしれない。 和食を食べているアメリカの富裕層は早死にしているらしい。 何かの循環。 珈琲と煙草は早死にするだろうか? 飯に対する認識が甘い。 近くの畑に行ってあるいは八百屋に行って野菜の捨てる部分を貰ってくるのも手かもしれない。 知恵と行動力が足りない。 まだ冷蔵庫に頼ってるうちは資本主義にも社会主義にもそっぽ向かれるだろう。 というわけで雨がやんだら飯を調達しに行こうかと思ったけどまだまだ冷蔵庫の中に食えるものがあるので僕はまだ体制側だ。 ラーメン。

運を測定する研究所

「運とは、人間が引き寄せることのできる現象である」    一人の博士が、そんな仮説を提唱した。  研究者たちは、一様に笑った。   「ばかな。偶然起きるから、運というんだ」 「運を引き寄せることができるのなら、宝くじを当て放題だな」 「そうすりゃ、人類はみんな金持ちさ」    四方八方からの笑い声を受けながら、博士も笑った。  研究者たちは、笑う博士を見ながら、一人また一人と笑いを止めていく。  最後は博士一人だけが笑っており、博士はニカッと笑顔を作った。   「大きなものを動かすには、引き寄せる努力が膨大ということだ。一かけらのチョコなら二本指で引き寄せられるが、人間よりも高い石像を引き寄せるには何十人の力が必要か。我々の願う行為は、運という大きなものを引き寄せるには足りなさ過ぎただけさ」    博士はその後、研究室に籠った。  一日三食の提供をアルバイトに頼み、外界との接触を避けた。  部屋の壁はガラス張りになっており、研究者たちはガラス越しに博士の姿を見ることはできた。    博士は、小さなテーブルの横で、手を組んで座っていた。  そしてテーブルの上には、さかさまに置かれた紙コップがあった。  紙コップの中には、十面ダイスが入っている。  博士は、その出目を知らない。   「うおおおおおお! 十でろ! 十でろ! 十でろぉ!」    博士はただ、十が出ていることを祈り打づけた。  運を引き寄せることができるならば、出目も思い通りにできるという仮説の元に。  狂気的なのは、祈りを捧げる時間の長さだ。  最低で一年。  最大で寿命。   「博士。もうやめましょう」    出目を唯一する部下は、食事を提供するついでに、博士へとさり気なく進言する。   「うおおおお! 十! 十! 十!」 「どうにもできないから、運って呼ぶんですよ」 「十十十十十十十十十十!」    一年が経過すると、部下は新しい人間を雇って、博士の元を離れて行った。  博士は、今日も祈っている。    五年が経過すると、二代目の部下も新しい人間を雇って、博士の元を離れて行った。  博士は、今日も祈っている。    祈り始めて三十年。  博士の黒髪は、すっかり白髪に変わってしまった。  もはや研究者でさえないアルバイトは、博士の元に食事を運ぶ。   「変なジジイ」    ひたすら祈る博士を一瞥し、博士の近くに食事の乗ったお盆を置こうとした。    瞬間、地震が起きた。   「うおっ!」    アルバイトは、食事を零さないようにお盆をしっかり持ち、足を器用に動かして揺れる体を支えた。  博士は自身の体が揺れるのも厭わずに祈りを続け、博士の前にある小さなテーブルはタップダンスでも踊っているように揺れた。   「あ」    そして、揺れは紙コップを倒し、中にあった十面ダイスを転がした。  渋面ダイスは床に落ちて、ころころと転がり、博士の足元で止まった。  出目は、十。   「十! 十じゃあ!」    博士は出目を見るなり、大きく目を見開いて両手を挙げた。   「え? 十? 五だったはずなのに」    テーブルの上にあるダイスの出目を伝え聞いていたアルバイトは、思わず口を滑らせる。    博士はくるりとアルバイトの方へ顔を向け、お盆を持ったアルバイトの腕を掴んだ。   「え? なんすか?」 「運を! 引き寄せたのじゃ! 最初は五だったんじゃな? ならば、わしはそれを、十へと変えたわけじゃ! 運は、引き寄せられるんじゃ!」 「いや、偶然地震が起きたからでしょ」    その後、博士は一本の論文を発表した。  博士が運を引き寄せる実験を開始した時、博士を笑った人々は、とっくに定年を迎えて現場を離れていた。  しかし、博士の論文発表会には、引退済みの元研究者たちが真剣な表情で集まったという。

きいたことのない言葉

 わたしがこのところ気にかけているその人は、やけにわたしの知らない言葉を口にする。それが、なんか、わたしの心にはいい。 「髪、染めたのですね。栗鼠色? 橡鼠ですかね。んん、どうだろうか」 「つ…… なんですか?」 「つるばみねず。きいたことないですか?」 「ダークグレーじゃダメなんですか?」 「ああ。そういういいかたもありますねえ」  まだ薄暗い早朝の出会いは、そんなはじまりになった。今日はこの先、色の話になるのだろうか。わたしはすこし気持ちを引きしめた。色は、よくわからない。といって、どの分野なら得意というのもないのだけれど。  その人は枯葉をふみしめ歩いていく。かさかさと心地いい音をさせて。わたしは、そのあとを。 「赤朽葉とはこういうことをいうのでしょうねえ」 「あかくち……」 「源氏物語や蜻蛉日記に出てきたりするんですよ。簡単にいって赤よりの茶色といいますか」 「赤よりの茶色でいいんじゃないですか?」 「んん。そうともいえますねえ」  ひけらかすふうじゃないのがわたしには好感だ。わたしからの提案に、否定を示さないとこも。  その人は歩き続ける。かさかさと鳴らし続ける。なんのために歩いているのだろう、その人のうしろで思う。並んでほしいのか、ふり返ってもらいたいのか。ともかく、歩いている。 「ああ、紅掛空色ですね」 「え?」 「きいたことないですか? 紅掛空色」 「ごめんなさい。はじめてです」 「清らかな青に、ほのかに赤が走った深い青紫色のことです。夜あけ前の、薄闇のような青空といいますか」 「ブルーモーメント」 「ああ、んん…… そうですね」  その人が、ほうと息を吐き、顔の前が白くなる。真似をするのでもなく、わたしも小さく息を吐く。いくらか視界に白がまじる。その白に興味を示してなのか、赤く染まったもみじの葉っぱが落ちてきて、わたしの髪にとまる。 「ふふ。とってあげましょう」  その人が近づいてきて、わたしはからだを硬くする。これでもかと、じっと、目を閉じて。はやく時がすぎてよと…… 願って。 「もうとれましたよ」  その言葉に、わたしは目をあけ、気持ちをつぶやいてしまう。 「脈あり誤認誘発罪」  その人が、はじめてみせる、形容しがたい、でも、そのままを保っていてもらいたい、そんな表情。 「なんですか、いまの。きいたことありません」  わたしはうれしくなって、その人にいう。 「きちんと教えてあげますよ」  その人のつくる音が横に並び、わたしたちは、ふたりで歩いていく。

「怖い」が怖くて

 『きゃあ!』  悲鳴が上がる。中央に、一人の少年がいた。紺の短い髪が、地面すれすれで揺れている。彼から離れるように、子供たちはわっと逃げ出した。  「痛ぁ…!」  その向こうから、微かに声がする。誰かが転んだのだ。突き飛ばされ、小さくうずくまっている。…少年は立ち上がった。震える足で、誰もいなくなった、広場の真ん中へ向かう。炎のように赤い瞳が、彼をじっと見上げた。  「助けて。」  奥の方から数人が、甲高い声で叫ぶ。  「だめ、殺されちゃう!」  「その子、竜の奴隷だよ!」  それを無視する、赤い瞳は、見開かれていた。その眼の持ち主は言う。  「お願い――」  少年は、無言で見下ろしたまま、動かない。  「時計塔に連れて行って。」  …確かに、その子はそう言った。少年は大きく瞬きをして、何か言いやめる。彼の両手は、震えていた。  「あ、僕はリューセ。」  そう言って、立ち上がろうとするリューセ。彼は白髪で、小型だった。  「だ、大丈夫…っ?」  少年は、握りしめていた片手を解き、差し出す。それを掴みかけて、リューセが言った。  「ねぇ、名前を教えて。」  「え、イェラン…。」  リューセは、今度はイェランの手を、しっかり取る。  「ありがと。」  イェランはゆっくりと、リューセを支えながら、歩き始めた。さっきまで隠れていた子供たちも、もう逃げ帰ってしまったらしい。静かだ。  リューセが、話しかける。  「イェランはなんで、僕を助けてくれたの?」  イェランは少し驚いた顔をして、数秒考えてから答えた。  「ん?怪我してたし、そりゃ助けるよ。」  リューセが瞬きした。  「誰でも?」  イェランは、小さく頷く。  「優しいね。」  と言って、リューセは笑った。笑いかけた。  「……イェラン?」  リューセが、呼びかける。イェランの足は、いつの間にか、止まっていた。  「ねぇ、どうしたの?」  答えない代わりに、イェランはただ、被りを振る。  「えっと…すぐ着くよ。」  今度はリューセが、手を引く側だ。足が痛むようで、引きずりながら、彼は歩き出した。イェランも、一歩ずつ進み始める。  時計塔に着いた。  「…一緒に休む?」  リューセが、イェランの手を握って言った。イェランは無言のまま、ついていく。それを見て、リューセも少し、顔を明るくした。  塔の上からは、街がよく見えた。傷を手当してもらったリューセが、今度はイェランを心配している。  「助けてくれてありがと。…ねぇ、どうしたの?」  イェランは少しだけ、頷いた。気を付けていたはずなのに、涙が零れかけて、慌てて上を向く。  「何かあった?」  イェランは静かに、話し始めた。  「ううん、ちょっと驚いた、だけ…。」  リューセが首を傾げる。  「いつも、みんなに怖がられてばっかりで。だから、初めて…優しいって、言われたから……っ。」  泣きたいのを必死に堪えて、イェランは何とか、話し終える。その途端、力が抜けて、立てなくなってしまった。  「そうなんだ。その…竜、ってやつ?」  イェランが答えられそうにないのを見ると、リューセは隣に座った。間を開けて、イェランが呟く。  「うん。でも…卵、拾っただけ。」  そっか、とリューセは息を吐いた。  「…僕のお姉ちゃん、黒蛇の巫女なんだ。だから分かるよ。怖がられたくないって。お姉ちゃん、いつも隠れてるから、巫女は僕だってみんなに言ったら、喜んでくれた。」  黒蛇の巫女、とイェランが繰り返す。彼の頬を伝って、大粒の涙が一粒、零れ落ちた。  「イェラン?」  それが合図だったように、イェランの両目から、水滴が溢れ出す。視界が大きく揺れた。  「…竜の話も、僕ってことにしようか?」  その途端、イェランが立ち上がって、  「やめて。」  と言う。確かに、はっきり聞こえた。  「……!」  「その代わり…」  イェランは言葉を続けた。  「友達になろう?」  リューセが、目を大きく開けて、そして…笑う。  「うん!」  十年後。  今日も二人は、二人きりで笑っている。ふと、イェランが呟いた。  「リューセ。俺と関わったから、お前、嫌われてるよな。…ごめん。」  リューセが否定する。  「そんなこと言うなよ。僕――あの時、イェランを助けたくて、近づこうとしたんだ。」  「それで突き飛ばされたのか!?」  少し笑うイェラン。  「そう。」  リューセは答えた。前とは違い、ちゃんと切り揃えられた白い髪が、風に吹かれて舞う。  「俺に助けろって言ってきた癖に。」  そう言うイェランの、真っ黒な瞳が揺れた。リューセはちゃんと見ていた。  「リューセ、ありがとう……っ!」  彼は笑いながら、イェランの手を取る。  「僕こそ、ありがとう、イェラン。」

汀

 あざやかな青いシャツを着た人に、人知れず欲情してしまうのは、たんに青が好きなのを通り越し、もはや性癖といってもいいかもしれません。海のみえるこの土地に住むようになったのは、ですから必然ということもできます。ですが、考えていたほどには海は青い姿をみせてくれません。ここはあまりにも、灰色の空であることが多すぎます。沈んだ色の海の悲しさは、まったくもって不憫です。わたしが、ではなく、海が。  朝、最初に部屋に入ってくるのは、波の音です。最初、というのは、正確ではありません。波は、いつでもその音をきかせているのですから。最初、ではなく、つねに。 「ねえ、波の音よ」  わたしの言葉に、男は、 「なんでそんなに楽しそうなの?」  波の音なんてききあきた、そういうことなのでしょう。うんざりしたように言葉を絞り出してきました。四六時中きこえているものへの反応としては、それが本来なのかもしれません。  わかってないのね。その日のお天気がわかるのよ。波の音でね。  相変わらずわたしたちときたら、微塵もかみ合っていなくて。やっぱり、別れたほうがいいのでしょうね。澄みわたる青い空の日にだって、別れを決意する朝はあるのです。

偽物人間

 世界には、偽物が溢れている。    ビールを名乗る発泡酒。  煙草を名乗る電子煙草。  お金を名乗る電子マネー。    どいつもこいつも偽物だ。  見ているだけでうんざりとしてくる。  しかし、偽物は偽物なりに便利なので、ついつい使ってしまう自分もいる。   「お支払いは?」 「カトチャンPayで」    スマートフォンに表示されたバーコードが、バーコードリーダーによって読み取られる。  スマートフォンに表示されていたお金を名乗る数字が、一瞬で減って、別の数字へと切り替わる。  これで、偽物のお金が引き渡されたわけだ。   「ありがとうございましたー」    買い物袋を持って、コンビニを後にする。  店を出れば、改造バイクが音を出しながら右から左へ走っていった。  本物を破壊した、偽物バイク。    どいつもこいつも偽物だ。  見ているだけでうんざりとしてくる。  しかし、世界にはあまりにも偽物が多すぎた。  便利を求めて、格好良さを求めて、本物が駆逐されているような気分さえしてくる。    アパートへ戻る帰宅道。  イヤホンを付けて、スマートフォンからニュースを流す。   『今年の合計特殊出生率は、二・〇を超えました。そのうちの半分が、細胞から作り出した培養人間であり』    いつか、本物の人間もいなくなるのだろうか。  それとも、性行為という穢れを介さなければ人間を作ることさえできない俺たちが、偽物の人間だったと言われる日が来るのか。   「しょーもな」    頭の中がぐちゃぐちゃになってきたので、俺は流す物を、ニュースから音楽へと切り替えた。

ただいま【初投稿、よろしく!】

ここはどこだろう。最初に目に入ったのはビルを覆い尽くす緑。人気はなく荒れ果てていた。なんでこんなところにいるのか。わからない、世の中はわからないことばかりだ。  俺はある日突然病にかかった。植物化。体中から芽が生え蔦が絡み、花が咲く。最終的には物言わぬ木になってしまう。現代の医療では治せない、諦めなさいと言われた。絶望した。何もかも手につかなくなって、自暴自棄になった。その間にも親は必死に金に糸目をつけず治療法を探し、全国の医者に見せ、怪しい霊媒師にまで頼った。失敗だった。騙され、金も、家も、全てを奪われた。悲劇としか言いようがない。両親が最後に選んだのは、新技術、コールドスリープの被験体だった。タダという言葉に寄せられ、確立してもいない技術に全てをかけた。  とりあえず動かないことには始まらない。蔦が絡む体は動きにくいが動けないほどではない。屈伸をしたり、腕を回したり、動くことを確かめ歩き出した。壁にあった大きな穴から外に出る。やはり景色は緑一色。コンクリートは割れ、隙間からバカみたいに太い蔦や木の根が這いまわり、街を完全に飲み込んでいる。分かりきっていたことだが、触って本物だと認識すると、どうしようもなく不安になってくるものだ。何年経ったのか、両親たちはどうなったのか、この世界に何があったのか_____。何もわからないのだから尚更だ。  しばらく歩くと、甘い香りが漂ってくる。俺の腕にある忌々しい花と同じ匂い。草を掻き分け、大きな根を飛び越える。そこにあったのは大きな木、そして俺の腕にあるのと全く同じ花だった。頭の中に最悪の想像が浮かぶ。今まであった植物たちは人間の成れの果てだ。  俺は気づいたら走り出していた。こんなところにはいられない。吐き気を飲み込み、息を切らし、もつれそうな足を必死に動かす。  行き着いたのは最初に目覚めた施設だ。知らなければならない。世界がこうなった理由を。手がかりを探す。目についた部屋を開けると埃を被ったコンピューターが一台。震える手で電源ボタンを押すと画面が光る。奇跡的に補助電源が生きていたようだ。マウスを握り、動かす。映された真実は想像を絶する残酷さを孕んでいた。  最初は淡々と記録がされているだけだった。成功を確信しているようだった。だか、病は止められなかった。むしろ悪化していた。中盤、狂気が顔を出す。研究員の一人が俺と同じ病気を発症した。原因は俺。不完全な冷却システムは俺の細胞を変化させ、体から微細な胞子が放たれていた。換気システムにより驚異的な感染力でそれは世界中に拡散していった。人々の体から次々と芽が出て、蔦が絡ませ、花を咲かせて、最後には動かぬ大樹になった。  「俺のせいだ……」 画面に激しいノイズが走る。両親が最後に見つけた希望。それは人類を滅ぼす悪魔の苗床になってしまった。  植物たちが一斉に揺れる。さわさわと俺に囁きかける。 「おかえり。お父さん」 脳裏に響く、愛おしい声。俺の体から生まれたかわいい、かわいい子供達。  正体が分かれば、怯える必要などない。近くにある大きな大樹に向かう。優しく抱きしめると、優しい風が吹いてくる。足が根に変わる。手が、体が、自分の意思が緑と混ざり合っていくのを感じる。かつて大都会と言われた緑の海の中心で、俺は物言わぬ木になった。 「ただいま」