パン屋の裏で店主にパンの耳をもらう 彼の名はマル。茶と黒が斑に入ったオス猫だ 「マルはパンの耳好きだな。かわいいな」 マルはこの親父は簡単にパンの耳をくれることを知っている。そして、マルを大好きなことも知っている マルは食べ終わると店主に挨拶もせずにパン屋を後にする 大きな通りに出ると、ビールを飲みながら歩く若い男性が気になったので後を追 う。 マルはエサをくれるタイプの人間を勘で分かる猫だ 若い男性は急に立ち止まったので急いで隠れるマル 男は空に向かって何かを叫んでいた マルは彼に近寄るのをやめて、家に帰ることにした 家に帰る途中、立寄った公園にベンチ座るお爺さんを見つける。マルはよく観察してどこかで会ったか思い出している マルはなぜかパンの耳を食べたくなっている
街角にしろ ネット上でにしろ アンケートのとき私は 三十二歳・独身になる 怪しまれたことはない 途中で打ち切られたこともない 罪悪感は少しある 少しだけ アンケート結果の 正確性に対してではなくて どれくらいまで いけるかな 三十二歳・独身
きみの面影を目にしないまま夏休み突入 とたんの熱波襲来 きみの熱にも僕は犯されて 好きを続ける 続けていく
サイダーの鋭く弾けるシュワシュワが のどに刺さるみたいで好きじゃないからと あの子はぬるくなるまでサイダーを飲まなかった ああ、と思った この恋は、きっとうまくはいかないなって その夏の終わり、僕たちの恋も終わった
トマトが なかった 売り切れていた きゅうりに してみた きゅうりも なかなか よいようだ 久しく 味噌を 口にしていない 味噌をおいしく たべるなら 夏のきゅうりがよい かみ砕いたときの あの音がよい トマトは 買ってこなかった 売り切れていたから トマトが たべたかった あの赤いのを そのまま口に してみたかった きゅうりも しかし よいようだ あのみどりを そのまま口にしてみる かみ砕いたときの あの音がよい トマトは 買ってこなかった 売り切れていたから トマトは またにするとしよう きゅうりも なかなか よいようだ あの音が 夏らしくてひじょうによい
「世界は変わり始めたようだ。だけど、これでいいのだ!変わってしまうんだ!」 甲高い叫び声をあげた肩乗り生物ユピ。 体長十センチメートルから五十センチメートルまでのサイズを自由自在に操り、今日も僕のストーカーをする。 なんでもない休日の真昼間。陽の光が当たって熱くなった畳の上で、何周目かのマンガを読んでいた。 なんでもない日々を過ごす人生も、そんなに悪くないなんて思い始めた頃だった。 「ユピ、確かに世界は変わってる。立つ鳥が跡を濁しはじめた。」 数十年前までは青かった空も、今では血みたいに赤い。 「ユピ!?(鳴き声)」 いつものキャピキャピした抗議の声が、今日は明らかに違う。まるで、喉の奥から深く響き渡るような。 「なぁ、ユピ。今日はなんか変だ。」 ゆっくりと振り返ったユピの目玉は、いつもより赤黒く光って見えた。徐々に膨らむ身体が、逆立つ毛を強調している。 「世界は変わる。って、言ったのは君だ。」 心臓まで突き刺すように低く唸るような声が、全身の鳥肌を誘った。 「ユピ、どうしたんだよ。」 「ずっと、隠してたんだ。お前と一緒に居れば、僕も普通の生き物になれるって信じていたから。でも、もう我慢の限界だ。」 ユピの纏うオーラが、家具を巻き込み広がってゆく、次第に壁や天井、屋根までもがユピの体に取り込まれていった。 残された畳の上に、二人きり。ふいに手を取られユピは険しい顔で言い放つ。 「僕は変わりたがりなんだ。この世界で一番、変わりたくないって顔してるから。だから君のそばに居た。」 地面が、じわじわと温かくなっていく。まるで生き物の体温みたいに。なのにユピの手は氷のように冷えていく。纏うオーラの色はそのまま、鋭い目つきで睨まれる。 「ユピ。変わらないよ、いつでもね。」 「何故だ。」 少しだけ、オーラが弱った気がした。 「だって、ユピと居たいから。」 ユピと一緒に過ごすようになったのはいつからだろう。記憶はとても曖昧で、気づけば肩に乗っていた。いつも調子のいい事ばかり言って、たまに理解できない話なんかもするけれど、それが好きだ。世界は変わり続けている。でも、ユピは変わらなかった。まるで、僕みたいに。 「ユピ!!(鳴き声)」 「世界が変わってしまっても。ユピ、僕は変わらないよ。変われないんだ。」 何でもない生き物を演じていたいのは、僕も同じだった。この壊れかけた世界が、完全に壊れるまでは。 「ユピが世界を壊すなら、僕は世界を治す。」 世界はやがて、ユピ以外の大勢の手によって壊される。というより、既に壊れかけている。この世界を作った者もやがて、存在しているのに、まるで幻が世界を壊したような感覚に陥るだろう。 「悪いけどユピ。こっちも真剣なんだ。」 「もう待てない。この世の天地が一変するその時を。」 変わり始めた世界が、破滅への一途をたどっているかは分からない。ただ感じていた。ユピから伝わる脈々とした熱と鼓動が、この世を崩壊へ導くような香りを。 あと数年は、何でもない人生を過ごしてみたかった。そんな望みも虚しく、ユピのオーラに飲み込まれた家具を取り戻す。つまり世界を治す力を使って、家具と壁、天井と屋根も全てが元通りに変えていく。 「ユピ!?(鳴き声)」 みるみる縮むユピの身体も、普段の肩乗り生物に戻った。 体長十センチメートルから五十センチメートルまでのサイズを自由自在に操り、今日も僕のストーカーをする。 「焦ることはないさ、もうじきだよ。その時はまたよろしくね。ユピ。」 「ユピ!!(鳴き声)」 これが、僕とユピの冒険の始まりだった。
店の外は雨が降り出している 今朝の天気予報だと雨の予報はなかったはずだ 「夕立かな」 既に、空では竜が喉を鳴らしている スタンディングオベーションのような雨音が、ほてった街を冷やしていく 雨につられてお客が入って来た 中年の男性と女性。会話の感じからすると仕事帰りに雨に振られた様子 仲は非常に良いらしく二人の距離は近い 男性はニンジンとチーズのホカッチャ、女性は舞茸とフムスのサンド、二人ともアイスコーヒーのご注文をいただく 誰もいなかったカウンターに二人が並んで座る。雨の街を見ながら楽しそうに話している。バイトの藤咲くんがアイスコーヒーを二人に持っていく。 近くの大学でミスキャンパスのグランプリに選ばれた藤咲くんが近寄れば、どんな男性も必ず目を奪われる。 だが、カウンターの男性は藤咲くんを一瞥しただけだった。あの男性は手練れかもしれない。相変わらず二人は楽しそうに話している。微かに美味しと聞こえる。とても良いお客様だ。 店内が一瞬、光りに包まれ 車が電柱に衝突したような爆音がなる 悲鳴と同時に店内の明かりが全て消えた 外の雨の景色が、四角く切り取られて映っている。 カウンターの窓の四角の中に顔が重なった二人の影が一瞬見えた。気がした。 「失礼しました〜」 直ぐに明かりがつき、暗転が終わる お客とスタッフとが安心して、少しワクワクしている。カウンターのあの二人もそう見えた どこかで猫が鳴いている 店主はパンの耳を持って店の勝手口に向かう
「ねぇ、変わってもらえない?」 「なに?」 「僕は、あの娘に介助してほしい」 ベッドの上で、中年の男が視線を上げた。 「ここ、同性介助だからね」 「僕、見てるだけでしょ」 「それって、結構セクハラなんだけど」 「合理的配慮でよろしく」 薄暗い部屋に、デジタル時計が光る。 「まぁ、相談してみる」 「僕、不安定になるかも……」 「はい。お大事に」 男は扉を閉めた。
ある日の午後。ようやく男が目を覚ました。 「結局、負けかよ…」 サッカーの国際試合を見るため、仕事を休んだ。 カーテンの隙間からは、濃い光が差し込んでいる。 照らされたテーブルの上には、妻からのメモが。 ──友達とランチに行ってくるね。夕方には帰ります。 昼ごはんはチンして食べてね。 ソファーに深く座り、テレビを点けた。 「今朝の試合の結果です」 アナウンサーが残念そうな顔で伝えている。 「試合には負けましたが、サポーターの行動が世界の方々から称賛されてます」 観客席で青いビニール袋を手に、ゴミを拾う人たち。 「素晴らしい光景ですね。では、また来週お会いしましょう」 男は画面を見ながら、鼻先で笑った。 エンディング。 右端には、 ──本日午後の存在価値 全国平均 76% 次の朝。 洗面所に置いてある体重計に乗った。 ──体重 72キロ 存在価値 95% 液晶パネルには、自分の存在価値が%で表示される。 ──生まれたばかりの赤ちゃんは存在価値100%らしい。 誰かが言ってたな。まぁ、どうでもいい。 「あなた、お弁当できたわよ」 妻は肩までの髪を耳にかけながら、片足をそっと乗せた。 ──体重 48キロ 存在価値 95% 「ねぇ…今晩、ちょっと話があるんだけど」 「なに?」 「仕事から帰ってからでいいわ」 夕食後、妻が話を切り出した。 「あのね。友達がパート募集してるから来ないって誘われたんだけど」 「どうしたいの」 「週に3日くらいだからね。お小遣い程度にはなるかな」 「いんじゃない。でも、無理しないでね」 「ありがと…」 妻はスマホを手に、友達へラインを送った。 窓の向こうが、薄暗くなる。 しばらくのあいだ、部屋には着信音だけが響いていた。 「先に行くね」 妻が弁当をバッグに入れ、もう一つをテーブルに置いた。 「あぁ、気をつけて…あのバッグ、初めて見たな」 男は体重計に乗った。 ──体重 72キロ 存在価値 90% ほんの少し、胸の奥がざわついた。 スーパーのビニール袋を手に、妻が帰ってきた。 「ごめん、遅くなった。今から晩ごはん作るね」 惣菜をパックから皿に移し替え、レンジに入れる。 「あのね、店長から正社員にならないかって言われた」 嬉しそうな横顔。 「そういえば、あなたの工場、外国人の従業員雇ったんでしょ。なんか大変だね」 男は洗面所に行き、体重計に乗った。 ──体重 72キロ 存在価値 70% しばらく、数字を見つめていた。 テレビでは、豪雨被害のニュースが流れていた。 「なぁ…ボランティアに行ってみようかな」 男の声に、妻が振り返る。 その顔は、口元だけが笑っていた。
ボクがこれまでこの街で生きてきて、痛いほど分かったことがある。それは、人間と暮らす「家猫」と、ボクのような「野猫」の間には、決して超えられない格差があるということだ。いつも快適そうなところからボク達を見下ろしている。お腹を空かせたボクの横を、たくさんの人間が通り過ぎていく。だけど、みんな手元にあるスマートフォンばかりを見つめていて、ボクの命なんて存在しないかのように、見ないふりをしていく。 世界からボクが消えてしまったみたいだニャ。砂舞う風が、眩しいくらいにアチアチの光が、とても辛いニャ。それでもボクはめげないニャ。喉が乾いて泥水をすすってでも、このアツい地べたを這いつくばってでも、絶対生き抜いてみせるニャ。お腹がすいて、地面に落ちてる変なものを食べてでもボクは絶対負けないニャ。 …人間がこっちを見て、スマートフォンでお話してる?なにかされてもボクは抵抗するニャ。 ニャニャッ!ニャニャニャ!!ニャニャ!
付き合って半年はじめての彼女で接し方が分からず、今まで気を使ってきたからか初めての喧嘩をしました。喧嘩の理由は本当しょうもない、ご飯どこで食べるかという…。 …いやよく今まで喧嘩しなかったな。というかもっと重いことで喧嘩するかと、(女の人と距離近すぎ)とか、(本当に私の事好き?)とかそういうものかと、いやなんで僕に非がある方ばかり考えてしまうんだ。 とりあえず今はデート中に喧嘩をしたので彼女と真反対の方向に歩いているだけなのですが… 「あの…」 彼女に似た声がして、自分に話しかけられた気がして後ろを振り向くと… 「鍵落としましたよ。」 彼女に声が似すぎたただの子供だった。 「あ、ありがとうございます」 なんて優しい子供なんだ。今の世界どこでも治安は悪いところは悪い。見て見ぬふりする人や盗んでく人も…また悪い方に考えてしまった。ぺこりと1度頭を下げてまた歩き始める。一瞬期待したのは彼女が謝りに来たかと思って…。 下ばかりを向いているから暗い事ばかり考えてしまうのだろうかと思い、頭を上げてみる。目の前には書店があった。いつも本や文房具を買いに来る時に来る場所。今では電子書籍があるから少しづつ本屋が無くなっているがここは無くならずにいてくれている。ここの街では一番大きい本屋だから。そういえば彼女とはお互い本好きがきっかけで仲良くなり始めて付き合うことになったんだ。どんな時でも彼女のことを考える。どのようにすれば謝って一緒にご飯を食べに行けるのかとか。そう考えながら書店へ足を踏み入れた。 彼女の本の好みは無限のようなもの、漫画でいえば少女漫画、ラブコメ、少年漫画、バトル漫画。小説でも同じような感じで、強いて本が好きだけど受け入れられなのは勉強の…これは僕も苦手。参考書などの本が苦手なのではなくお互い勉強が苦手なだけ。2冊程度買おうかな。 『ありがとうございましたー。』 やってしまった。2冊程度と思って選んでいたら15冊て…財布の中そんな入れてないから空なんですけど。頭の中で後悔しているけど自分の部屋に本が増えてその本で物語が読めるのならば安い方…来月バイトのシフト増やそう。早速店長に連絡… 『いいよー』 ちょうどシフトを作っていた時のようで直ぐに連絡が来てすぐにシフト表が届いた。うちは半月ごとに送るタイプなんだけど、あれ、休み2日しかなくね。思い切り入れたからか15日中2日しか休みがないことに気づいた。ヤバいて過労死しちゃうよ。とか言ってたらサラリーマンとかに失礼よな。いやでも2日しか休みがないって…自分が言ったことに後悔しつつも感謝のラインを送る。そしてスマホをポケットにしまい、近くのベンチに座る。そうしたら同じベンチに誰かが座ってきた。3人ほど座れるベンチだから別の人が来てもおかしくはない。チラッと見えた紙袋には僕がさっき行った書店の名前が…彼女やん。 「ごめん、ね。」 「あ、僕もごめん…なさい。」 お互い謝罪をできて一気にスッキリしたのか1人分空いて座っていた真ん中に彼女は移動してきた。「ほんと、ご飯の話でこんな喧嘩するとか…」 彼女は笑いながら喧嘩の後悔、反省を僕に話してきた。 「あの…本当にご…」 「いや!もう謝ったから、軽いことだし何回もごめんは言わないで」 明るい性格の彼女は僕を照らしてくれるかのように綺麗で輝いていて共通点があることに気づく前から君のことが気になっていて…。 「その本どうしたの?」 「本屋見つけたから寄っちゃって、そしたらこんなに」 「見てみて」 彼女は自分の持っていた僕と同じ紙袋を目の前に出してきた。中身を見ると… 「…買いすぎでしょ!何冊?」 「いうて30冊くらいだよー」 僕の倍…。そうか、ジャンル問わないなら色んな本買うんだ。 「来月バイト三昧です!」 ここまで一緒とか…奇跡というのか運命といえるのか。今はいいだろう。 後から聞いた話では、彼女は真反対に歩いてすぐ戻ってきたようで…。元々僕がベンチに座った時から気づいていたようで…。落ち込んでいる僕を見て近づいてきてくれたんだとか。
人は一日に何度も選択をする。 朝、目を開けるか、もう少し眠るか。 右へ曲がるか、左へ曲がるか。 あの人に声をかけるか、何も言わずに通り過ぎるか。 誰も気づかないくらい小さな選択が、未来を少しずつ変えていく。 もし、あの日たった一つだけ違う選択をしていたら。 私は、今とは違う世界で笑えていたのだろうか。 第1章 私は普通の高校生。 ある日の帰り道、いつものように一人で帰っていた。 よく通る公園では、たくさんの子どもたちが遊んでいた。その中に、一人だけ私によく似た女の子がいた。とても笑顔で幸せそうだった。 「あんな人生だったら良かったのに」 そんなことを呟いてまた歩き始めた。 それから何度もその子を見るようになった。 いつも笑顔で楽しそうだった。 そんな子が羨ましかった。 ある日いつものように足を止め見ていたらその子が私の近くに来た。 「おねえさん今幸せ?」 そんな変なことを聞いてきた。 私は答えに戸惑ってしまった。 数秒時が止まったようだった。 するとその子がまた口を開き 「こっちの世界来てみる?」 私は驚いた。でも1度だけ行ってみたい気がした。 私はそれに承諾した。 「行ってみたい」 その言葉を言ったすぐ目の前が明るく光った 第2章 目を開けるといつもの街並みだった。 そこは私が望んでいたような世界だった。 みんなマイペースで幸せそうな笑顔をしていた。 「あの子は、どこ」 私はあの女の子を探すことにした。 何日も探したけど結局見つからなかった。 私の事はみんなから見えないみたいだった。 私は自分を見に行った。 そこではとても笑っていて幸せそうだった。 羨ましかった。あんなふうに私も幸せになりたかった。そう思っていたら横に女の子が来た。 「お姉さん。これみてどう思う?」 私にとってとてもきつい質問だった。 でも「羨ましいよ。」 一言だけ話した。 「ここに住みたい?」 「別に、」 ぶっきらぼうに答えてしまった。 「でもお姉さんはあっちの世界行ったら辛いんでしょ?」 「あんたには私の気持ち分からない。」 「知ってるよ。全部」 「は?」 「ふふふこっちの世界は自〇する人いないんだよ。」 「へぇ〜。」 私はこの世界がどれだけいいのか実感した。 それでも何故か前の世界に戻りたかった。 「ねぇこっから元の世界に戻るには?」 「寝たらあっちの世界戻れるよ!」 「そっかぁ。戻ったら死んじゃうかな私」 「私が守るよ。」 「そんなこと出来るわけないでしょ笑」 「ううん、お姉さんが死にそうになったら何度も助けるから」 「気持ちだけ受け取っとくね。」 「お姉さんはもう戻る?」 「ここにいたら羨ましくて死んじゃうよ笑」 「そうだよね笑」 「じゃあまた会お、」 約束して私はすぐに眠りについた。 第3章 眠りから覚めると自室のベッドに居た。 こっちの世界では1日しか経っていなかった。 「あーぁ戻ってきちゃった」 またいつもの一日に戻った。 学校が終わり公園の前に通った。 そしたら女の子がきて 「本当にこっちの世界でよかったの?」 私は少しだけ空を見上げた。 「……最初は、ここなら幸せになれると思ってた。」 「でもね。」 「世界が変わっても、私の心は変わらなかった。」 女の子は少しだけ笑った。 「そうだね。」 「じゃあね。」 「昔の私。」
「あなた、何してんの?」 「……はい?」 人通りの多いアーケード。 爺さんが下半身を出して歩いている。 「ちょっと、交番まで来て」 両脇を抱えられ、椅子に座らせた。 「公然わいせつ罪だよ」 「何故でしょう?」 「そんなの、常識でしょ」 「男としての機能は、とっくに終わってます。肌の一部です」 巡査が呆れ顔で、書類に走り書きをした。 「それでもダメなの」 「表現の自由は保障されなければならない」 その時、腰の曲がった婆さんが、ゆっくりと交番に入ってきた。 巡査が爺さんを覗き込む。 「はい。逮捕ね」
「俺と付き合ってよ!」 いつも軽いノリで私にそう言ってくるクラスメイト。本当にそういうの迷惑だからやめて欲しいのに何回も何回も…。 私に彼氏ができたって言ったらきっとは諦めてくれるはず…。 でも、私には彼氏がいない。 (どうしよう〜) そんな時だった— 「俺とこいつ、付き合ってるんだけど」 「だから、手出すのやめてくれない?」 「あきら!」 彰は私の幼馴染で幼稚園の時からずっと知っている。でも流石にこの対応には驚いた。 「彰…そうなら早く言えよ!」 「もう!!」 そう言い男子は去って行った。 「ありがとう、彰」 「助かった!」 「…うん。」 そうして恋人のふりは一ヶ月続いた。 一ヶ月後~ 「あのさ、彰。」 「どうしたの?」 私にあの子寄ってこなくなったし… 『恋人のふり』もうやめよう。 彰だって、迷惑でしょ? 私のせいで彰が恋出来なかったら申し訳ないし…。 俺は、 『恋人のふり』全然苦じゃないけど? 「え?」 私は思わず聞き返してしまった。 「どういう事…?」 「だから……」 彰は恥ずかしそうにそう言いかけた。 『好きなんだよ、お前のこと…。』 「え?!」 私は驚きを隠せなかった。 「だから、恋人のふりも自己満な所があって」 「ごめんね、気持ち悪いよね」 「ううん。 気持ち悪くなんかない。」 「私もずっと言えてなかったことがあるの。」 「私も彰の事がずっと好きだった!」 「小6の時からずっと。」 「そうだったんだ…全然気づかなかった…」 じゃあ、私達はずっとお互いを— それじゃあ、今日から俺達は『本物の恋人』に— 「なんか、変な感じだね」 そうして二人は笑い合ったのだった。
「模試どうだった?」 「なんか、難しかったね」 昼休み。学食を食べながら、男女が向かい合った。 「問3はサービス問題だよね」 男は鞄から問題用紙を出した。 『問3 裏通りにある料亭。ある企業の社長が紙袋を差し出した。中には現金が入っている』 「この答え、《怒》と《哀》?」 「いや、《喜》と《怒》よ」 「そっか……」 議員予備校。多くの議員が、この学校を卒業している。 「じゃあ、問7は」 『問7 外国人が二人、我が国の地図を広げている。二人は酒を交わしながら、国境を指でなぞった』 「これは、さすがに《怒》でしょ」 「残念。《楽》ですって」 「嘘でしょ」 「今の外務大臣、正解だったらしい」 「引っかけ問題じゃん」 男は、黙って問題用紙を閉じた。
久しぶりに前の妻と会う 息子が小さな頃は月に一度、僕と息子だけで遊ぶ日が会った。その度に妻が車で連れてきてくれていた。 息子が大きくなってからは息子が僕に会いたい時に一人で来るようになった。妻とはしばらくぶりだ 「大丈夫?」 妻が心配をしてくれている 「うん。ちょっと相談しておきたい事があるらしいから。そんなに遅くはならないと思うよ」 妻の大丈夫の答えになっていないが、どうも頭が回らない。 元妻の話がどんな話なのか、彼女が僕と会って話すくらいだから、よっぽどの事だろうに。 「別に帰ってこなくても、怒らないよ」 「何言ってんだよ」と言いたいが言葉が出ない 「私は…」 妻の瞳に涙が溜まっている。小さな肩が震えている。 ぎゅっと抱きしめて「大丈夫だよ」と言ってあげたいのに、ただ見ているだけで動けずにいる。 妻が泣き出し、やっと身体が動く。魔法が解けたように。 強く抱きしめて「必ず帰る。何もないから」と言う 「いたいよ」 と妻が涙をこぼして笑う
障害をもつ君に「可哀想」と思った時点で、 上下関係を生み出し、見下してしまっている。 耳が聞こえないこと、目が見えないことを、 一概に「障害」と呼んで良いのだろうか。人々は「障害」だと決めつけるが、僕はそうは思わない。むしろ「才能」だと思う。 だけど、それは綺麗事らしい。 僕は、障害をもつ君の世界を見てみたい。だが、特別扱いをされて、善く思っていないかもしれない。普通に扱ってほしいのかもしれない。 だけど、君は点字ブロックの前で立ちすくみ『助けてほしい』と言う。 助ける上で、対等な関係など築けるのだろうか。僕にはもう考えようがないのである。 僕は、考えているふりをしていたけれど、心の奥底では、君に依存されるのが気持ち良かった。僕がいないと、君は何もできない。僕を必要とする君がとっても可愛く思えてしまった。僕は、君と居て良いのだろうか。 君はこの事を知っても 怒らず、「いつもありがとう」と言うだろう。 僕はつらくて、つらくて、たまらないのである。
このTシャツにしたのは その時、適当に決めたからじゃなくて あの人のイメージカラーを着たかったから、なんだけど どんなことを考えていたのかは、内緒にしとこう これから仕事行かなくちゃ とりあえず着替えよう バナナみたいな黄色いTシャツに
ある日の午後。 認知考古学の教授が、学生の前でマイクを握った。 「みなさん。人が道具を本来の目的以外に使い始めたのは、どの時代か分かりますか?」 「旧石器時代に、石を遊びに使ったのが最初だと思います」 「その通りです」 教授が、背後のスクリーンを指した。 「今日のテーマは、それを踏まえて『道具の目的外使用』について考えたいと思います」 学生は耳を傾け、ノートをとった。 「これを見てください」 黒い傘を取り出し、学生たちに向けた。 「この傘。駅のホームで中年の男性が持つと、どんな行動をとるでしょうか?」 「あっ、ゴルフのスイングをします」 教室に笑いが起こる。 「それから、女の子はバトン、男の子はチャンバラとかに使いますね」 「お年寄りが杖に使うのもそうですか?」 「はい。それも目的外使用です」 教授はうなずきながら、学生を見渡した。 「では、ここまでで何か質問はありますか?」 最前列の学生が手を上げた。 「ちょっと気になってたんですけど、額のガーゼ、どうされたんですか?」 教授は笑いながら、傘を開いた。 「昨日、妻が機嫌悪くてですね……」
今度の彼はだいぶ強引だ 目玉焼きを口に放り込まれた 半ば無理やり わたしは目玉焼きにはしょう油と決めてるのに 彼はなんの迷いもなくケチャップをかけた きれいだけどね でも…… 「食べてみる?」 「え……」 わたしの返事を待たず 彼はスプーンで器用に切り分けた目玉焼きを わたしの口もとにもってきた ケチャップのかかった目玉焼き きれいだけど 「んん」 「どう?」 「う……ん……おいしい……かも」 今度の彼とは、うまくやっていけそうな気がした
郊外にあるショッピングモール。 中央のホールに、老人たちが集まってきた。 「ここは涼しくていいわね」 「家でエアコンつけると、電気代がね」 老人たちは椅子に座り、世間話に花を咲かせた。 その光景を、二階のエントランスから店長が見渡した。 「よくもまぁ、こんなに……」 連日の猛暑。老人はさらに増えた。 「こいつら、赤っ恥かかせてやる」 閉店後、小さなステージを作り、入り口にくす玉をぶら下げた。 ──翌日。 店長がステージに上がると、何事かと人が集まった。 すると、入り口から見覚えのある老人が入ってきた。 ──ざまあみろ。 ひもを握る手に力を込めた。 そして、引くと同時に、マイクに向かって叫んだ。 「おめでとうございます! 三十日連続のご来店です!」 垂れ幕には、《電気代節約ご苦労様》の文字。 老人は垂れ幕を指さしながら、まわりの仲間たちに手を振った。 仲間たちが拍手で祝福をする。 「あぁ……」 店長は、冷たい風に揺れる垂れ幕を見つめた。
人によって、この世界の視え方はまるで違う 世界の見方として、パラパラ漫画のようにはっきりとした画像を次々に更新する見方と、曖昧さを残しつつ、その残像を追っていく見方に別れるように感じる これには個人の特性としか言えなく、前者は『頭の回転が早い・器用』後者は『容量が悪い・不器用』とされる人の世界(物事)の見え方なんだと思う 私はどうやら、後者のようだ… (完)
男がテレビをつけた。 画面の中。 若い男がマイクを向けられている。 便利な人。 噛み合わない受け答え。 ワイプのタレントが笑う。 出ない方がいいと思えば、差別。 出たら、笑いの種。 本人が良ければ、許される。 男は静かにテレビを消した。
新築の工事が済んだと思ったら 今度は道路を掘り返している なんてこと 偏見であることは十分、理解しているけれど ああいう作業をする人たちというのは 野蛮で、粗野で、手前勝手で およそ近くにはいてほしくない もちろん音にも迷惑している ああ、なんてこと いま私、愚痴っているのね ミルクを飲みましょう 弱った気持ちと体に あの白くてやさしいミルクを つめたい風にあたって なかまで冷えているから ミルクは少しだけあたためて 大きめのカップにうつして ゆっくり、ゆっくり、こくんと飲みましょう 少しは落ち着いたのかな ちょっとだけ、お砂糖入れればよかったかな
私は、女諜報員。 任務は、この国の男性と結婚し、日常をノートに記録すること。 《指令1 一日の出来事を記録せよ。我が国との違いを把握せよ》 夜になると机に向かい、黙々と書いた。 数か月後、新聞のチラシに紛れて、メモが入っていた。 《指令2 買い物を記録せよ。我が国との経済の違いを把握せよ》 買い物から帰ると、レシートを広げ、商品名と値段をノートに写した。 私は結婚し、やがて子どもが生まれた。 届いた花束には、メッセージカードが添えられていた。 《指令3 子どもの成長を記録せよ。我が国の子どもたちの参考になるだろう》 私は、家族の日常をブログにアップした。 すると、編集者の目にとまった。 日記はエッセイに。 買い物記録は、主婦目線の経済書に。 育児記録は、若い母親向けのハウツー本に。 私の記録は本になり、評判が広がっていた。 玄関のチャイムが鳴る。 ポストには、メモが。 《指令4 今までの記録を全て本国に送れ》 私は、電子書籍のURLを書いた紙を封筒に入れた。
夕飯に食べた激辛ラーメンが、まだ舌をヒリヒリさせている。 「どうだった?」 妻が笑いながら手話で聞いてくる 「最高に美味かったよ」 と僕も笑う 息子達は頭も乾かさないまま布団で寝ている。同じ格好をして。 妻が洗い物している姿を眺める。少し痩せたかもしれない。 初めて出会ったのは、確か、居酒屋で。たまたま行った居酒屋にバイト先の女友達がいて、その子と一緒にいたのが今の妻だった。 こちらも男友達を連れていて、一緒に飲もうみたいになって。直ぐに耳が聞こえない人だと分かったけど、彼女は、なんか、すごく自然だった。明るいし、彼女が言っていることが分かると、すごく嬉しかったのを覚えている。 しかも、あの時は隣の席のお婆さんが酔っているのか「あんたら付き合っちゃいなよ」とやたら言われた。余程お似合いに見えたのだろうか? 洗い物は既に終わり、妻が僕にスマホを見せてくる。 息子達が腰を曲げて歩いている写真 「なにこれ?」 「私達が初めて会った時の事、覚えてる?恋のキューピッドのお婆さん」 「覚えてるよ」 「そのお婆さんに会ったの」 「何処で?」と指を振る 「コンビニで」と2と4が回っている
第 一 章 土 の 匂 い と 光 の 影 田舎の小さな町だった。真面目な子も、少し背伸びをして悪ぶっている子も、放課後になればみんな 一緒に自転車を漕ぎ、山側の公園を目指すような場所だった。 家にも学校にも、私には逃げ場がなかった。家庭の中に漂う殺伐とした気配と、絶え間ない緊張。外 へ出ても、小5の時に始まったいじめは日に日に陰湿さを増していった。無視や陰口から始まった悪意 は、上履きへの悪戯、教科書の糊付け、そして泥棒の冤罪へとエスカレートしていった。信用していたは ずの幼なじみに押さえつけられ、縄跳びで叩かれた時の冷たい衝撃と絶望感は、今でも肌が覚えてい る。 けれど、そんな暗闇の中で、いつも私の視界の隅にいたのが彼だった。 クラスで男女問わず人気があった彼は、小1からずっと隣の席や同じ班になり、写真をとればなぜかい つも隣に写っていた。小3の頃は髪を引っ張ってはニヤニヤしていたような不器用な奴で、班決めの時 には「しょーがねーなー」なんて不機嫌そうに言いながら、必ず私の隣に来てくれた。 ある朝、彼より早く登校した私の机の中に、荒らされた彼の道具箱の中身が数点入っていたことが あった。主犯の女子たちが仕組んだ罠だった。「好かれたくてわざとやったんじゃないの?」と周囲か ら冷たい声が飛ぶ中、学校に来た彼は、私の前に立ち塞がってクラス中に響く大きな声で言った。 「こいつがそんな事するわけないだろ。お前はそんな事はしない」 彼の一言は、集団の悪意に押し潰されそうになっていた私にとって、唯一の呼吸口だった。
人が失敗するのを見ると安心する。人が成功していたら、嬉しそうな笑顔を浮かべおめでとう、やったじゃん、凄いねと言うが心の底ではがっかりする。目は笑っていない。だけどそんな自分が好きである。それゆえに救いがないのである。
「男って、マジポジティブだよね(笑)」 「わかるー。『ネイルの色を変えたのって俺の気を引きたいからだよね?』って、お前の好きな色なんて知らねえっつーの(笑)」 また、雄の被害が出たらしい。 彼女たちの言う通り、結局雄は単細胞だ。 目の前のことを自分に都合よく解釈する能力が高く、時に自意識過剰と罵られる。 しかし、自意識過剰は悪なのか。 万物は、毒にも薬にもなり得るのだ。 「ねー。あいつ、全然告白してこないんだけど!」 「は? もう二人でデートしたんだよね?」 「したした! なんなら私から誘ったし。もー! なんでー?」 「それキツー。どんだけ鈍感なんだよー」 自意識過剰を悪とした結果、起こるのは揺り戻しだ。 何を言っても自意識過剰と扱われることに恐れた雄どもの、卑屈なまでの消極性に他ならない。 まるで草食獣のように。 ただ、そこにいるだけの何かとなり果てた。 「もういいや。私から告ろ」 「草。がんばれー!」 そして、草食獣しかない世界。 かつて草食獣と呼ばれた雌は、気づけば肉食獣へと進化する。 「女って、マジポジティブだよね(笑)」 「わかるー。『私からのデート断らないって、私のこと好きだからだよね?』って、んなわけあるか。普通に友達と遊んでるつもりだわ(笑)」 別のファミレスで、新種の草食獣の鳴き声が聞こえた。
パート先の工場を17:00ぴったりでタイムカードを打つ。 これから息子達を預けている学童へ向かう。 道路が濡れているので雨が降っていたのだろう。空が暗く早めの夕方が来ている。 学童へ着くと、息子達が既にランドセルを背負って待っていた。 「遅いよ」 「ママお腹すいた」 学童の先生にお礼を言って家に向かう 「ママお腹すいた」 と三年生の長男が言う 「ぼくも」 一年の次男が言う 「ママも」 皆で笑う ここ数日で梅雨が明け猛暑日が続き私も息子達も疲れている。今日くらい楽しようか。ノリの良い夫も「良いね〜」と言ってくれると思うし。 「コンビニでご飯買っていこうか?」 「うん」 「カップラーメン食べたい」 「ぼくもカップラーメンたべる」 「皆カップラーメンにしよう」 スーパーで買ったほうが絶対に安いのだがあいにく逆方向にある。そちらに行くのも億劫だ。 コンビニに入ると息子達は各々好きなカップラーメンを手に取る。 「パパのはどれにする?」 息子達は真剣に考えている。その様子が可愛くておかしい。 小さな子供が眉間にシワを寄せて、カップ麺売り場でしゃがみ込んで悩んでいる。 「これにする」 長男が選び、弟もそれが良いと賛成する。真っ赤なパッケージの激辛ラーメン。夫はこれを渡されてどんなリアクションを取るのだろうか。帰ってからのお楽しみが増えた。 戸棚に買い置きのカップ麺があるから、それを食べてもらおう。 レジに行くとオーナーなのか腰の曲がった小さなお婆さんが対応してくれた。 何度も息子達を可愛いねと笑顔で褒めてくれた。店を出るときも深々とお辞儀をしてくれたお婆ちゃんオーナー。 息子達が何度も振り返って手を振っていた。 息子達に小指を曲げて「おばあちゃんだったね」と言う それを見て長男が腰を曲げて歩く 次男も長男の真似をして腰を曲げて歩いている
彼は都内にある古びたマンションに住んでいた。妻が一人と子供が二人いた。決して裕福とは言えないが幸せを感じていた。 彼がいつも遅くに仕事から帰ってきても妻は温かいご飯を作って待っていてくれた。 その日は結婚六周年記念日だった。彼は美味しいケーキを買って家へ向かった。 家の近くに来ると人がたくさんいた。 なんだろうと思った。ただそれだけだった。 マンションが見える道に差し掛かった瞬間、言葉を失った。 真っ赤な炎がぼうぼうとマンションから噴き出て救急車や消防車がたくさん停まっている。 頭より先に体が出た。野次馬を押し退けてすぐ最前列まで来た。 「妻と娘は大丈夫なんですか!」 そう叫んだ。しかし野次馬に押されて後ろに行ってしまった。 泣き崩れた。 とにかく泣いた。 もう何分、何時間泣いたことだろう。 野次馬もどんどん減ってきた。 しかし、炎はまだ燃え盛っている。 もう助からないことはわかっていた。 だけど、まだ炭と化したマンションを見ていた。 さよなら。 かなこ、あかり、めい
以前の彼女は元気ハツラツで鳥が好きで、よく写真を撮る人だった。 しかし不慮の事故が、彼女の日常をすべて奪い去った。 体は動かず、ただ白い天井を見上げるだけの退屈な病室。それでも、不幸中の幸いか窓際のベッドだった。 彼女の隣にはいつも、遮るもののない青空が広がっている。以前の彼女が鳥を観察するために買った日記帳は、今では何も無い病室で今日あったことを書くためだけにある。 「今日はよく晴れてるなぁ。外にはたくさん鳥が飛んでいるし、とっても綺麗だな。…なるべく早く起きたいな」 文字は涙で小さくにじんでしまっている。 窓の外をどんなに美しい鳥が飛ぼうとも、病室のベッド生活の彼女にはもう二度と鳥を愛でることすら出来ない。 毎日自傷のようにペンを握り、文字を紡ぐ。 静寂の中、目の覚めない彼女に語りかける。 「……今日も、お前の代わりに書いておいたよ」 男はそっと、日記を閉じた。
「お前がラスボスだな!」 ダンジョンの最深部。 勇者は、魔物に剣を突きつけて叫んだ。 「いえ、ラスボス代理です」 魔物は答えた。 冒険者は剣を下ろして、首を傾げた。 「え? 代理?」 「代理です」 「本物のラスボスは?」 「休暇中です」 「じゃ、出直します」 「私を倒しても、ダンジョンをクリアしたことになりますよ。しかも、私はラスボスより弱い。出血大サービス」 冒険者の剣が揺れる。 ラスボスを倒して気持ちよくダンジョンをクリアしたい気持ちと、通常よりも低いコストでダンジョンをクリアしたい気持ちの狭間で、心が揺れ動く。 「そんな、卑怯なことは」 「卑怯じゃないですよ。こっちの都合なんで」 「……もしもお前を倒した後、ラスボスが戻ってきたらどうなる?」 「ダンジョンのクリアが確定した後なので、魔物の生存は不可。ラスボス、バカンスから帰ってきたら家を失ってて、ひっくり返るでしょうね。あっはっは」 「笑い事なの!?」 ラスボス代理の言いざまに、思わず冒険者の方がラスボスを心配してしまう。 しかし、相手は魔物。 そんな善意ごときで相手をしていい存在ではない。 ダンジョンが存在する限り、周辺の村々に被害が出るのは事実なのだから。 冒険者は揺れていた剣を握り直し、ラスボス代理に剣を突きつけ直した。 「俺は、お前を倒す!」 「おお、ようやく決意しましたか。では、尋常に、勝負!」 冒険者の剣とラスボス代理の爪が、ダンジョンの最深部で衝突した。 そして、剣が折れ、冒険者は一撃で敗北した。 「いや、弱いんかーい!」 ダンジョンの魔物たち全員から逃げ隠れする成功にして最深部に到達した冒険者は、敗北と共に入口へと強制転送となった。
電球が切れた。 だから、カーテンを開けた。 月の光が部屋を照らし、床の表面を立体化させる。 これで、床を歩く時に物を踏んづける心配はない。 「いや、電球買おうよ」 パートナーが突っ込んできた。 廊下にもトイレにもお風呂にも灯りがあるのに、リビングにだけない生活には耐えられなかったらしい。 びっくり。 あるなら使う。 なければないなりに工夫する。 そうして生きてきた私にとって、ないから買うというのは、初めての発想だった。 「新しい」 「多分、ぼくの方が多数派だからね!?」 パートナーの言葉が真実ならば、私は少数派なのかもしれない。 冷蔵庫を開ける。 豆腐しかない。 今日の献立は冷ややっこ。 「いや買おうよ」 トイレに入る。 トイレットペーパーがない。 シャワーで代用。 「いや買おうよ」 クローゼットを開ける。 ハンカチがない。 ティッシュで代用。 「いや買おうよ」 改めてパートナーの行動を観察すると、ないものは買っていた。 なくなった、と言った翌日には買いそろえていた。 私はパートナーと向き合って、宣言した。 「私、なくなったら買う」 パートナーは目をぱちくりとした後、私の両手を力強く握ってくれた。 「その言葉を待っていた!」 どうやら正解だったらしい。 私は満面の笑みで、首を縦に振った。 一週間後。 「自宅にスペースがなくなったから、新しい自宅買ってきた」 「なんでそうなるの」 パートナーはずっこけた。 なくなったら買うって難しい。
ところで、とよく言う男で、その頻繁に変化する話題に耐えかね、私はところてんを想像した。ところてんに黒みつをかけて食べるのが好きだ。それに飽き足らずバニラアイスやフルーツをのせて食べたりもする。土台がところてんのパフェみたいにして、ヘルシーなところてんをカロリー満点にして食べるのだ。 実家の近所の、いまはラーメン屋さんになっているその場所は、以前、甘味処があった。小学校のときの同級生がそのお店の子で一度、お店に行ったことがあった。特別親しい間柄だったわけではなかったけど、記憶にはある。肌の白い男の子で、黙っていると女の子みたいだった。活発さはなく、およそ平均的な小学生の活動量には到底、及ばないように見えた。代わりに本はよく読んでいた。本に顔を向けていないときは窓の外を見つめていた。遠くにある世界の、そのまたずっとずっと向こうを見てるようなそんな目が、私はとても好きだった。 本に挟む栞のことでその男の子とちょっとだけ話をしたことがあった。 ―ああ、またその栞なの? 私はちょっとがっかりして言った。 ―その本には合わない栞だよ。内容も、イメージも、色合いも 本は好きなくせに、本に挟む栞には無頓着なのかなあ、この男の子を見る目が変わるかもなあ、そう思ってしまう自分が怖かった。そう思っても思わなくても、怖くても怖くなくても、私のがっかりが小さくなることはないし、栞がふさわしいものに変わってるなんてなかった。 「ところで昨日、てんぷらを食べましてね、暑いときのてんぷらというのはいいものですねえ。あらためて…… あの、大丈夫ですか?」 私の目の前で小刻みに手を振るその男が、私の思考を引き戻す。強引で、無粋で、聞きわけのない。 「てんぷらは、やはりつゆで食べるのがいいんだなあと、ええ。あの香りがいいんでしょうねえ。よし食べるぞと気持ちがかき立てられるようで」 「え、ええ……」 ―その本には合わない栞だよ。内容も、イメージも、色合いも あの男の子は、なんと言って私に言葉を返したのだったか、いまではもう覚えていない。いつも決まって本に挟んでいたあの栞も。どんな大きさで、どんな色で、どんな形か、少しも、覚えていない。 「ところで……」 不意打ちのような私の言葉に男はカラダを固くする。その見えない縛りが解かれるより先に私は言葉を続ける。 「ところてん、お好きですか?」 「と、ところてん…… ですか」 「ええ」 「ああ、このお店、ところてんあるのかな。聞いてみましょう」 そういうことじゃないんだよな、そういうことじゃ。あの男の子が、私とこの男の仲を引き裂いた。
数ヶ月後。新潟の空は、低い雲に覆い尽くされた。消雪パイプから噴き出す水が、アスファルトを錆色に染める。降り積もる前の雪は、泥混じりのシャーベット。視界のどこを切り取っても、あの夏の暴力的な白光が嘘のような、徹底したモノクロームの世界だ。 「やっぱり、冬は灰色だな」 駅へ向かう道。浅井は首元をマフラーに埋めて呟いた。かつてなら、呪詛のような重みがこもっていたはずの言葉。けど今は、隣を歩く陽葵に少しだけ顔を向け、穏やかにそう言った。 「そうだね。でも、悪い色じゃないでしょ?」 陽葵が立ち止まり、空を仰ぐ。巻いているマフラーは、あの夏、やすらぎ堤で見つけた濃緑によく似た色をしていた。白一色の世界の中で、その緑だけが、生命のしるしのように鮮やかに浮き上がっている。 「まあね。この灰色があるから、来年の夏がまた眩しく見えるんだろ」 「正解」 陽葵は満足そうに微笑むと寒さに赤くなった手で、浅井のコートの袖を、あの日のように少しだけ掴んだ。 「楽しみだね。長岡の花火、一番いい場所で、夏にしか出会えない無二の色、さがそうね」 「うん。約束だ」 空から落ちてきた雪のかけらが、陽葵の頬の珊瑚色の上で溶けて消える。冷たい風が吹き抜け、肺の奥まで冬が染み込んでくる。けど、隣から伝わる微かな熱と、胸の奥にある色彩の記憶があれば、この長いモノクロームの季節さえ、深く、静かに呼吸していける気がした。 世界はまだ、こんなにも呼吸(いき)をしている。
数日が過ぎた午後、美術室の窓際でスケッチをする陽葵の隣に、浅井は腰を下ろした。エアコンの微かなうなり。紙をなでる鉛筆の音。 「これ、一個目。どうかな」 浅井が差し出したスマホの画面には、信濃川の土手に広がる、むせるような濃緑。 「わあ、いい深み。春の若草色とは違う、ちょっと重たい緑だね」 「だよね。やすらぎ堤のあたりは、草の匂いがすごくてさ。萬代橋の御影石の白と、この緑がわちゃわちゃしてるみたいで夏って感じがしたんだ」 「ふふ、合格。浅井くん、意外と感度いいんだね」 「意外は余計だなあ」 陽葵が微笑む。陽葵の持つ鉛筆が、紙の上で短く転がる。鉛筆の音が止まった美術室はやけに静かで、けど、浅井の心臓が少しだけリズムを乱した。暑さのせいだ、と自分に言い聞かせる。そのときから浅井の瞳は、見過ごしていた色彩を鮮明に捉えはじめた。 「今日は何を見つけたの?」 陽葵がスケッチブックから顔を上げずに聞いた。 「西堀通りに揺れる柳の薄柳色」 「渋いね。大人の色」 「あと、これ。昨日の夕飯に出てきた十全茄子。浅漬けになっても、この紺青がすごくキレイでさ。食べるのがもったいなかったよ」 「あ、わかる。あの色は、新潟の夏にしか会えない宝石だよね」 会話が色を重ねるごとに弾んでいく。かつては肺を焼くばかりだった熱い空気が、色を語るときだけは、不思議と喉を清々しく通る。色を意識するだけで、呼吸が深くなるような気がした。 「今日はこれ。寺泊の海に沈む夕日が角田山を影にして作る茜色」 陽葵がようやく顔を上げた。窓からの強烈な西日に射抜かれた瞳が、琥珀色に透き通っている。あまりの透明感に、浅井は呼吸を忘れるほどだった。 「いいな、それ。私も一緒に見たかったかも」 不意の一言に、浅井の心臓がうっすら跳ねた。 「ん、じゃあ、次は誘うよ。長岡の花火のときとか」 「本当? 約束だよ」 さらりと返され、浅井は顔が熱くなるのを隠すように視線をそらした。壁に並ぶキャンバスや絵具の色彩が、今はどれも、捉えようのないほど鮮やかに揺れている。 八月の終わりの夕暮れ。浅井は陽葵を学校の屋上に誘った。目の前には、見渡す限りの越後平野。収穫を待つ稲穂が西日に照らされ、世界をシャンパンゴールドに染め上げている。風が吹くたび、黄金色の海が大きく呼吸するように揺れた。 「これ、最後のひとつ。どうだ」 「すごい。黄金色の海だね」 「冬は消雪パイプの錆色と雪の白に覆われる場所だけど、今は新潟で一番、光り輝く場所だと思う」 「うん。この色、浅井くんに教えてもらうまで、こんなに特別だって気づかなかった」 陽葵が手すりによりかかり、浅井をじっと見上げた。ぬるい風が吹き抜け、細い髪が小さく躍る。夕日のせいか、別の理由によるものか、陽葵の頬は淡い珊瑚色に染まっていた。浅井は、その色を胸の奥まで吸い込もうとして、一度、深く呼吸した。 「浅井くん、色さがし楽しかった?」 「ああ、うん。自分でも驚いてる。新潟って、こんなにカラフルだったんだな」 「それは浅井くんがちゃんと世界を見ようとしたからだよ」 「世界っていうか、陽葵が教えてくれたからだよ」 思わず口をついて出た言葉に、自分でも心臓が止まるかと思った。 「私ね、浅井くんがさがしてくる色、どれも優しくて大好きだった」 「それって、色だけの話?」 「さあ、どうでしょう」 陽葵はクスクス笑って、浅井の制服の袖を少しだけ掴んだ。 「来年の夏も、再来年の夏も。一緒にさがしてくれるなら、教えてあげる」 新潟の夏は短い。けど、この圧倒的な色彩の記憶と、袖を引く指先の微かな熱があれば、どんなに長いモノクロームの冬だって、乗り越えられる気がした。 「約束。絶対、来年も一緒にさがそう」 「うん。約束だよ」 黄金色の海の上を、赤とんぼが横切っていく。二人の影は、長く、ゆっくりと重なり合っていた。
新潟の夏は、光が飽和する。 自転車のペダルを漕ぐ足が重い。今しかない高校二年の夏を、けれど浅井は、アスファルトに揺れる憎らしげな幻影を、視線で強く射貫いた。部活帰りの午後二時。肺に吸い込む空気は熱く、吐き出す息さえ白光に焼かれそう。冬のあの重苦しい鉛色の空を、すべて塗りつぶそうとするような、暴力的なまでの白。 「新潟の夏って、眩しすぎるよな。冬はあんなに灰色なのにさ」 熱気が澱む駅前の駐輪場。浅井がぼやくと、隣の陽葵(ひまり)が小さく笑った。 「そうかな。むしろ、夏にしか出会えない無二の色がたくさんあると思うけどな」 美術部の陽葵は、美術館のロゴ入りトートを涼しげに肩にかけ、浅井の不機嫌な横顔を覗き込む。 「無二の? たとえば?」 「それは内緒」 陽葵は答えるかわりに、ヤスダヨーグルトの青いボトルを自分の頬に当てる。ボトルの表面に浮き出た水滴が白い肌に伝って落ちた。 「浅井くん、新潟の本当の色、自分でさがしてみたら。見つけたら教えてよ」 「いいけど。見つけたら何かご褒美ある?」 軽口のつもりだった。けど、陽葵はいたずらっぽく微笑んだ。 「あたり前でしょ。ちゃあんと用意してあるからさ」 その日から、浅井の「色さがし」がはじまった。陽葵の言葉に胸の鼓動がいくらか速まったのを、浅井はまだ、自覚していなかった。
とある女の手元には一ミリの狂いもなかった。損なわれた遺体に生前の面影を蘇らせる、凄腕の死化粧師。それが彼女の誇りだった。 しかし、その夜運ばれてきたのは、不慮の事故で急逝した恋人の男だった。 絶望をプロの矜持でねじ伏せ、女はあえていつものトーンで話しかけた。 「あーあ、また無茶しちゃって、次の休みは海に行く約束だったでしょ。傷だらけじゃ困るよ」 ブラシを動かし、彼の擦り傷を消していく。いつも通りの会話、けれど返事はない。触れた肌の冷たさが、彼がもう生きていない現実を突きつけてくる。 「ねえ、起きてよ……」 チークを乗せる頃には、指先がはっきりと震え始めていた。言葉の語尾がかすれ、涙で視界が歪む。最後は、唇に血色を灯す口紅だった。 「これ、塗ったら、終わりだから」 震える手で筆を握り、唇に触れた瞬間、 彼の「死」の重みが指に伝わった。 張り詰めた糸が切れた。 完璧だった彼女の手元が、無残に狂う。 頭の整理が追いつかない。 滑った紅筆は彼の口元から白い頬へと鮮烈な一本の赤い線を引いた。それは彼の傷痕のようであり、二人の幸せな日常を真っ二つに切り裂いた決定的な境界線だった。
少しもない、いい思い出なんて。部活をやってたことすらまるごと記憶から欠落させていたのは、体というか、脳というのか、彼らが無意識にそうしてくれてたのかもしれない。 無理やり思い出してみたらひどい部活人生だったんだな、と改めて思うことになった。小学校のときは若めの臨時コーチに殴られ、中学ではちょっとだけボクシングをやっていたという先生に殴られ、高校では先輩と先生に殴られた。辞めるにしても殴られるんなら我慢して続けるかってなったのかもしれない。そんな後ろ向きの考えでよく続けたもんだなあ、えらい、えらい。 よく我慢したね。よくがんばったね。もう何もしなくていいからね。 おやすみ。
雪が舞う静かな朝。木村彩花(40歳)は、ベッドで眠る母・美津子(70歳)の枕元にそっと歩み寄った。脳梗塞の後遺症で右半身に麻痺が残り、要介護2となった母を支える日々。彩花は最近、介護の負担からつい慌てて母の身体を動かしてしまい、美津子が強張った表情を見せることに胸を痛めていた。 「これじゃいけない。もっと母さんの尊厳を大切にする方法はないかな……」 彩花が以前本で読んだ、フランス生まれのケア技法**「ユマニチュード」**のことを思い出す。――「見る」「話す」「触れる」「立つ」。人間らしさを取り戻すための4つの柱。今日はこれを試してみようと、彩花は心に決めた。 まず実践したのは**「出会いの準備」だった。 彩花はカーテンを開けっぱなしにせず、ドアを軽くノックしてから、ゆっくりと部屋に入る。「母さん、おはよう」。そして、ベッドの横にしゃがみ込み、美津子と同じ目の高さ(水平)**になり、正面からしっかりと見つめた。 「見る」ことは「あなたを大切に思っている」というメッセージになる。美津子は驚いたような顔のあと、穏やかな笑みを浮かべた。 次に、**「ケアの合意(声と触れる)」**のステップだ。 いきなり車椅子へ移そうと抱き起こすのではなく、美津子の手をとる。ギュッと掴むのではなく、手のひらを広げ、広い面積で優しく包み込むように触れた。 「母さん、今日も寒いね。一緒にリビングへ行こうか。温かいお粥が待ってるよ」 低めで穏やかな声をかけながら、知覚を優しく連動させる。美津子はうんと頷き、表情がフッと緩んだ。 そして、4つ目の柱である**「立つ」**。 人間らしさを保つための直立姿勢の時間だ。彩花は美津子の体をゆっくりと支え、ベッドから車椅子へと移す際、ほんのわずかな時間でもしっかりと両足に体重を感じさせながら立位の姿勢を保った。 「よいしょ、っと……。母さん、足腰しっかりしてきたね」 「本当かい? まだまだおぼつかないけどねえ」と美津子は照れくさそうに笑う。 リビングの食卓につき、朝食を終えたあと、美津子は彩花の手をそっと握りしめた。 「彩花、今朝はなんだか……すごく大切に扱われている気がしたよ。なんだか、昔の自分に戻ったみたいだね。『急がば回れ』って言うけれど、あんたがゆっくり丁寧に向き合ってくれると、私の心まで温かくなるよ」 彩花的にも、慌ただしく作業をこなしていた時とは違い、母としっかり心が通い合ったような深い充実感があった。 「ふふ、母さん、今日もいいことわざが出たね。情けは人のためならず、ってね」 ケアの締めくくりである**「感情の固定」と「再会の約束」**を交わす。 「今日も一緒に朝を迎えられて楽しかったよ」「また午後も、ゆっくり散歩に行こうね」 介護という終わりなき日常の中で、ユマニチュードという「まなざし」の魔法は、ただの介助の時間を、かけがええない親子の対話の時間に変えてくれた。窓の外では雪が静かに降っているが、二人の間には、何よりも温かな絆の光が満ちていた。
台所に立つ彩花(40歳)の背中に、リビングから不規則な足音が響く。脳梗塞の後遺症で右半身に麻痺が残る母・木村美津子(70歳)が、歩行器を頼りにゆっくりと近づいてきた。要介護2の母を支える毎日は、まさに「悩みの綱渡り」だ。 「母さん、危ないよ。急がば回れ、でしょ」 彩花が慌てて振り返ると、美津子は悪びれもせずにふっと笑った。 「慌ててないよ。あんたの顔が早く見たかったからさ。『待てば海路の日和あり』ってね」 「いつの間にそんな洒落たことわざ覚えたのよ」 乾いた空気が漂いがちな介護の現場に、美津子の飄々とした言葉がすっと風を通す。しかし、笑い声の裏で、彩花の心は常にすり減っていた。夜中の排泄介助で睡眠不足が続き、この日も朝食の準備をしながら、目の奥がツンと熱くなるのをこらえていた。 (いつまで、この生活が続くんだろう……) そんな娘の心の重さを、美津子は長年の母親の勘で察知していたのだろう。食卓に座った美津子は、震える右手でスプーンを懸命に握りしめ、ポロポロと食べこぼしながらも言った。 「彩花、すまないねえ。私のお陰で、あんたの自由がどんどん削られていく」 その言葉に、彩花の手がぴたりと止まった。隠していたはずの弱音を見透かされたようで、胸が締め付けられる。 「そんなこと……思ってないよ」 「嘘はおよし。目は口ほどに物を言う、だよ。……いっそ、施設に入った方が、あんたは楽なんじゃないかい?」 美津子の瞳に、寂しさと、我が子を縛り付けているという罪悪感が揺れていた。親が子に遠慮し、子が親に気を遣う。介護という名の不可視の壁が、いつしか二人の間に「スープの冷めない距離」ならぬ、「近すぎて火傷しそうな距離」を生んでいた。 重苦しい沈黙が落ちたその時、美津子は急に真顔になり、こう呟いた。 「情けは人のためならず、って言うだろ?」 「……どういう意味?」 「あんたが私にくれる優しさはね、巡り巡って、いつかあんた自身の心を温めるんだよ。だから、そんなに自分を責めて、曇った顔をするんじゃない。笑う門には福来たる、だ」 美津子の言葉は、胸の奥ににつかえていたものを一気に溶かした。彩花はこみ上げる涙を隠せず、しかし満面の笑みで母の手をそっと包み込んだ。母親の手は小さく、けれど驚くほど温かかった。 「……そうだね。母さんの言う通りだわ」 窓の外では、冷たい冬の風が吹き抜けているが、小さなリビングの中には、何にも代えがたい穏やかな温もりが満ちていた。完璧じゃなくていい。毎日が「一日一笑」であれば、それだけで十分に、私たちはうまくやれている——。親子の影が重なるリビングに、今日も温かな湯気がふわりと立ち上った。
最悪だ。後を付けられている気がする 念の為コンビニに入ろう 店内を何気なく歩きながら、後をつけてきた人を探す まず、小学生くらいの男の子二人と母親がレジ前に立っている 長い茶髪の男性が立ち読みをしている。彼なのか? お菓子コーナーで黒いキャップを被った細身の男性が立っていた。商品を探しているとかではなく、黒いリュックを肩にかけてただ立っている。 私が通り過ぎる瞬間黒いキャップがこちらを向き、一瞬目が合う。きっとあの人だ。 ヤバい。怖い。どうしよう。 アパートはオートロックで安全だが、あの人に場所を知られたくない。 色々迷った挙句バイト先の店長に電話した。 店長には「コンビニに来てほしいんですけど」とだけ伝えると「うん。すぐ行くね」と言ってくれて、本当に直ぐに来てくれた。パン屋の横に停めてある黄色い車に乗って。 店長は小麦粉だらけのエプロンをつけたまま来てくれて「待たせてゴメンね」と笑ってくれる 気が付くと黒いキャップの男性はいなくなっていた。 黄色い車に乗って、店長に運転してもらって、私のアパートまで送ってもらっている。 「藤咲さんは大学の勉強は大丈夫ですか?」 「はい。何とかついて行けてます」 「それは良いですね。素晴らしい」 黒いアスファルトがキラキラとヘッドライトを跳ね返している 「店長すみません。急に呼んでしまって」 「全然大丈夫だよ。夕飯買えたし」 店長はコンビニでお弁当を二つも買ってニコニコしている。最近は、このお弁当にはまってると言っていた 「何か誰かに付けられている気がして。私の気のせいかもしれないんですけど…」 「大丈夫。藤咲さんが家に入ったらワンギリしてよ。それまで車で待っているからさ」 「分かりました。本当にすみません」 「いいのいいの。藤咲さんが悪いわけじゃないし」 「ありがとうございます」 道を歩く男性が皆怖く見える 「僕も娘がいてさ」 「そうなんですね」 「今は別々に暮らしているんだけど。バツイチだから。へへへ」 「そうなんですね。知りませんでした」 「娘はもう社会人だけど、高校生の時とか同じような事が会って暫く塾の送り迎えをしていたよ。あっこの辺だよね」 「あっそうです。そこの小さな公園の隣です」 店長にお礼を言って車を降りる 「これ食べてみて。美味しいから」 とお弁当を一つもらった。 ニコニコ笑っている。店長は美味しが似合う人だなと思う。 約束通り部屋に入って玄関の鍵とチェーンを閉める。 店長にワンギリするとファンファンとクラクションがなって車のエンジン音が遠くに消えた コンビニのビニールを覗き込むとお弁当の他にバイト先のパンも入っている お父さんがいたら、あんな感じなのかなと思ってみる
「……ねえ、それ、なに?」 ふとした瞬間に捲れ上がった袖の隙間。彼女の鋭い視線が、僕の腕の『痕』を完璧に捉えていた。日が照りつけるなか、頬を汗が滑り、下着が肌に張り付くのを感じた。 「あ、違う。これは……」 僕は必死だった。 「自分でつけたんだよね。」 だがそれはあまりにも嘘くさく、無論、彼女は僕が浮気をしたと確信した。 だが実際は全くの冤罪である。実は昨日湯船に浸かり、二の腕にぎゅうっと唇を押し当てて、薄い皮膚を吸い上げた。それが、本当に僕の楽しみなのだ。 しかし彼女は信じなかったが当然である。 「嘘つき……」 か細く肩を震わせ、ポロポロと涙を流し始める彼女。焦りで頭が真っ白になり、涙で瞳を濡らす彼女の顔を見た。 (あ……泣いてる顔もめちゃくちゃ……) 「可愛い。」 漏れ出てしまっていた。 「……え?」 時間が止まったかのように思われる。彼女は一瞬呆然とし、怒りとも悲しみとも言えない顔を浮かべ、トイレへ向かった。その背はまるで生後間もなくして、よちよち歩きをする赤子を見ているようだった。
何故誕生日を祝うのだろうか。残りの寿命が減っていくことを明確にしていく。死へのカウントダウンと言うか、死への階段を一段のぼっている感覚だ。 到底理解できない。何がおめでたいのか。おぞましい。 故に大好きなのである。生きていると実感することができて最高なのである。だから今年も去年より1本多い蝋燭の灯を消す。
平日の午前。 男は整理券をもらうため、小走りでパチンコ屋に向かった。 「今日は勝つ気がする……」 ポケットの中の軍資金を握った。 すると、道路脇でかがんでいる女を見かけた。 「……あの婆さん」 アパートの隣に住む婆さんが、お地蔵様を雑巾で丁寧に拭いていた。 男は足を止めた。 「信じる者は救われるか」 鼻で笑う。 夕方。帰り道、うつむいて舌打ちをした。 「ん……」 隣の婆さんがビニール袋をぶら下げ、地蔵の前に立っている。 そして、気にする素振りもなく、お供え物と小銭を袋に入れた。 「婆さん、こずるいこと考えたな」 「なにがだ」 「いやいや、今、お供え物と小銭、盗ったろ」 婆さんは笑いながら、男を見た。 「この地蔵、私が通販で買って、ここに置いたんだ」 「なんだそれ」 「他にも、何か所も置いてるさ」 辺りが暗くなってきた。 「私はねぇ、ちゃんと考えて置いてるんだ。リピーターを増やすためにね」 そう言うと、地蔵を抱えた。 「それ、どこに持って行くんだ」 婆さんが振り向いた。 「……ここは儲けが少ない」