つまらないもの

「こちら、つまらないものですが」 「つまらないものなら、結構です」    引っ越し初日。  私の挨拶は、完全に失敗した。  お隣さんの家の扉が閉められ、私は手土産を持ったまま立ち尽くしていた。   「ちょっと貴女、大丈夫? あ、私、この家の隣の人なんだけど」    落ち込んでいたら、お隣さんのお隣さんが声をかけてくれた。   「あはは。つまらないものって言ったら、断られちゃいました」 「あー。この家の人、ちょっとクセあるからねえ」    軒先で、その家主をディスる。  どうやら、相当嫌われているようだ。   「この間も、電話はお控えくださいって書いてる場所で、控えめならいいんでしょって電話かけ始めたし。しっかも、どこが控えめなんだってくらいに声が大きくなっていってね。ほんとにもう」    お隣さんのお隣さんは、相当なおしゃべり好きらしい。  声がどんどん大きくなっていって、これはもう、テレビでも見てなければお隣さんも聞こえてしまうだろう。  私はこの場をさっさと終わらせようと、お隣さん用だった手土産を、お隣さんのお隣さんへと差し出した。   「あの、これ。本当はこのおうちに渡す予定だったもので、つまらないものではあるんですけど、もしよければ」 「あら! いいのお? ちなみに、中身って聞いてもいい? いやね、失礼だとはわかっているんだけどね。うち、結構アレルギー持ってたり肌が弱かったりする人が多くてね。せっかく貰っても、捨てることになっちゃうと申し訳ないし」    確かにそうだ。  気づかなかった。  色んな家があるもんな。  私は、紙袋の中身を思い浮かべた。   「えっと、日本三大和牛の高級黒毛和牛焼肉セットと」 「いただくわ!」 「オーガニックコットンの今治タオルセットです」 「超いただくわ!」    どうやら、アレルギーにも肌荒れにも影響ないらしい。  私がほっと胸をなでおろしていると、お隣さんの家の中から、足音が近づいてきた。    しまった。  もしかしたら、やっぱり寄こせと言われるのかもしれない。  買ったのはこれだけだし、既にお隣さんのお隣さんに渡してしまった後だというのに。  私はまた不安そうな表情を浮かべる。   「もしかして、お隣さんが、やっぱり寄こせって言ってくるかも」 「大丈夫よ! お隣さん、プライド高いし自分の行ったことは守るから、間違ってもやっぱり寄こせなんてダサいこと言わないわよ!」    足音が、やんだ。   「それに、後から同じ物を寄こせとも言わないから! そういった格好悪い生き方はできないし、するくらいなら死んだ方がマシって言ってたしねえ!!」    お隣さんの家の中方、地団太を踏む音が聞こえた。   「あんまり引き止めても悪いから、そろそろ帰りましょうか。焼肉セットとタオルセット、ありがとね!」    バチコーンとウインクをしてきたので、わざとお隣さんに聞かせていたのだと分かった。  私は、お隣さんのお隣さんに頭を下げてから、家へと戻った。   「大変そうな人だなあ」    家の中に入って安全が確保されてから、私はようやく、お隣さんに同情した。

潤い

喉が渇くが水すら買えない 三万三千歩以上を歩きながら、重量のある荷物を上げ下げした1日の後、僅かに残ったペットボトルの水を飲み干す 雨も上がり喉を潤すものがない ■それは何と呼べば良いのか 恋が終わる時はどんな時なんだろう 例えば相手に嫌いと言われたら 言われた方は悲しいけど、好きな気持ちは残っている。それは、まだ恋が続いていると言うことではないか。 例えばお互いすれ違いの生活で会話すら出来てなくて、次第に気持ちが冷めていく。この場合は恋が終わったのだろう。ただ、お互いが自分を譲ることなく、すれ違ったままにしていたとなると、初めから終わりは見えていたような気がする。 そもそも、恋とは何か 遺伝子を交配させたい相手のことか 一日中、心の中にいる人のことか それが終わるとはどういうことなのか 恋は本能側にいるようで 些細なきっかけで終わってしまう理性側にいるのだろうか 喉から手が出るほど欲しい存在 手に入れて、お互いをよく知り、隅から隅まで知り尽くしたら興味がなくなる ゲームをクリアするまでは楽しいが、クリアしたら次のゲームが欲しくなる きっと恋とはそんな感じなんだろう ただ、なんとなくだが、もっと尊い恋があるように思えてならない。言葉には出来ないが、終わることのない本能や理性ではない、神秘的なそれが。 深く、永く、静かに、相手を思う それは何と呼べば良いのだろうか

環境の違い

ある日の夕方。 テレビのローカルニュース。 アナウンサーが原稿に視線を向けた。 「今日の午後、17歳の高校生が民家に忍び込み、現金3,000円を盗んだ容疑で逮捕されました」 画面に、口元だけの女が映った。 『挨拶もきちんとできるいい子よ。 そこの公園で、いつも一人でサッカーボールを壁にぶつけてたわ』 モニターを見るアナウンサーが、小さくうなずいた。 「次のニュースです。 今日の午後、17歳の高校生が地元サッカークラブへの入団を決めました。契約金は3,000万円だそうです」 画面に、笑顔の女が映った。 『挨拶もきちんとできるいい子よ。 そこの公園で、いつも一人でサッカーボールを壁にぶつけてたわ』 モニターを見るアナウンサーが、小さくうなずいた。

チャットゲームの噂話

 (某チャットゲーム内のログをここに記す。具体的な名前はアルファベット表記にし、個人の特定をさける。このログは有志のスクショを文字起こししたものであり、私が実際に体験したものではない) M: 半ば伝説となった「夜音事件」について情報求む。知らない人も多いと思うが、このゲームプレイ歴が長い人は覚えていると思う。 俺は同村したわけじゃないので、噂程度しか知らないんだけどさ。前身のRからやってる古参はさすがに居ないかな?あっちでも有名だったみたいだけど。 PンドラとかS奈とか色々あったけど、夜音を見たときの衝撃は越えられない。誰かアイツのログを保存している人はいないか? >Mが退室しました C: 突然なんだよ 言い逃げ? S: 荒らし?なんかのネタかな? F: 夜音の名前出すな S: なんで? F: 知らないなら知らないままでいい C: 古参だけどR時代の夜音なら知ってる ただ、あれを「事件」って呼ぶのは違うと思う S: 何が違うの? C: 夜音は何もしてない 何もしてないのに有名になった F: いや、何もしてないっていうのは違うだろ あいつと同村した奴なら分かる >Jが入室しました J: ログ持ってるよ 正確にはもらったスクショだけど S: え、見たい F: やめとけ C: 俺も昔持ってたけど消した 正確には消したというか、消えてた J: DMでなら送ってもいい S: ここにコピペして貼ってよ もしくはXに投稿とか 探しに行くから F: やめとけって ヤバいから J: ここには貼りたくない ログを読めば分かる S: だからそのログを読みたいんだってばw C: 俺が持ってたログはスタ村のだった 9スタな F: それ本物か? ガチ村にアイツがいるわけ J: 今何時? S: なう(20XX/0X/XX 2X:XX:X9) J: まだ大丈夫 S: 何?なんの話? >Jが退出しました S: はあ?なんだったの? ログくれるんじゃないの? F: もうやめようぜ >繝ウ繝?が入室しました 繝ウ繝?: こんばんは >屋敷が閉鎖されました >退出します  (短いやりとりだが、似たような事例がゲーム内で散見されており、このゲームを楽しむプレイヤーのひとりとしては真実を知りたい。アルファベット表記にしていても、このゲームを知る人なら特定できるはずだ。詳細を知るものは連絡してくれ)

そっとしておいて

郊外の小さなアパート。 母親と男の子が暮らしている。 「これ、たくさん作ったの」 隣に住む年配の女性が、夕飯の余りを持ってきた。 「いつもありがとうございます」 中身を見ずに、冷蔵庫へ入れた。 男の子が、母親を見上げる。 「保育園、行こうか」 ヘルメットをかぶせ、後ろに座らせた。 「おはようございます」 「先生、おはようございます」 「これ、どうぞ」 保育士が、一枚の紙を差し出した。 「申請すると、町から支援金が出ますよ」 「いつもありがとうございます」 母親は折りたたんだ紙をカバンに入れ、自転車をこいだ。 「係長、おはようございます」 「子どもさん、大丈夫? 必要ならシフト調整するからね」 「いつもありがとうございます」 小さく頭を下げた。 ──その日の夜。 子どもを寝かせると、冷蔵庫からビールを取り出した。 「別に、そんな困ってないし……」 一気に飲み干し、もらった余りを箸で突いた。 「今日は何回……」 苦笑いで、電子タバコをくわえた。

豆腐

お豆腐って いつ飲み込んでいいのか わからなくて そういっていたのは どこの誰だったろう 飲み込みたいと思ったときが そのときなのかな そういっていたのは わたしだったかもしれない

覗き穴

午前八時。 薄暗い部屋の中に、玄関扉の穴から小さな光が差し込む。 男は片目を閉じ、息を凝らしてその穴を覗いた。 広角レンズで歪んだ町。 駅へ向かう人たちが行き交っていた。 目の前を肩からバッグを下げた女が横切った。 「……くそっ」 舌打ちをする。すぐに姿は見えなくなった。 するとその後ろからスーツ姿の男が現れた。 扉に手をあて、頭を斜めにして覗いた。 次の日の朝。 また扉の穴に顔を近づけた。 たくさんの人が横切っては消えていく。 昨日の女── 女が消えたあと、後ろから男が遅れて現れる。 次の日も、また次の日も。 女の少し後ろに、影が重なる距離まで来ていた。 近い── 外は小雨が降っていた。 傘をさし、いつものように駅へ向かっている。 傘で顔を隠した男が後ろに迫る。 横を歩いていた老人が、女の背中を杖で突いた。 振り返り、男の姿を見ると駆け出した。 ──カチッ。 暗闇。 端から白い文字が流れる。 『サンプル動画はここまでです』 部屋の男は小さく息を吐いた。 そして玄関の扉を開ける。 眩しい── 目を細め、外側の穴に取り付けていた小さな箱を外した。

雨の日の独り言

雨の日に、水溜まりの波紋が止まないように 我々の心もこのように目や耳からの情報に打たれ続けていると考える 先にも言ったが、雨の日の水溜まりを見ると絶え間ない波紋が延々と終わらない 確かにこれでは、間や、休と言ったものがなく落ち着かない そこで人が求めるのが、煙草やアルコール等によるフィルターで、実際は心の波紋は続いているが、それを伝わりにくくしてやり過ごす方法だ。 これは一時的に誤魔化せるが、後になって誤魔化した部分の痛みが一括で支払われる。故にとても苦しい時間を必要とする。それも誤魔化したいので、更に煙草やアルコールを煽ることになる。 もう一つは色恋事による強い衝撃を心に与え、その他の波紋を一掃する方法だ。 この場合、心にあるのはただ一つの衝撃だけで細かい波紋を無くす事が出来て、情報を一つに絞れるので煩わしさを消せる。 ただ、強い衝撃は心にも負担が大きいし、実際、直ぐに元に戻る。 このように考えて行くと、常にサンドバッグにされている心をどうすれば守れるかの答えが出てきたように思える。 私なりの解は、静かに目を閉じ「休もう」と自分自身に許すか、ただ目の前の景色を眺め過ごすか。後者はどの景色を自分の心が求めているかを聞く力が必要なため、落ち着くには時間が必要になる。 ただ筋肉や勉強、ゲームやスポーツ等と同じように、はじめは上手くいかなくとも、続けているといつの間にか出来ている物なのだ 心がこの世界を作っている だから 心が元気なのは良いことなのだ

思い込みの果て

郊外にある一軒家。 男がカメラを片手に、玄関の扉を開けた。 何十年も誰も住んでいない家。 家具には、白い布が掛けられていた。 「二階の奥……」 廊下に、きしむ音が響く。 階段を上がり、目的の部屋に入った。 「これか……」 男は窓際の白い布をめくり、中を確かめた。 そこには、ひじ掛けのついた古びた椅子があった。 横の机には、家主だった老婆の写真が立て掛けられている。 「皆さん、ご覧になってどうでしたか?」 スーツ姿の男が声をかけた。 部屋には、数人の男女がモニターの前に座っている。 男がスタッフに視線を送ると、窓際の椅子が運び込まれた。 「晩年、お婆さんはこの椅子に座り、外を眺めてました」 集まった男女は、緊張した顔で耳を傾けた。 「さぁ、皆さん。順番に椅子へ座ってみましょう」 机の上には、老婆の写真が置かれている。 「私は無理です……」 声が震える。 「大丈夫ですよ」 男が、そっと寄り添った。 女は恐る恐る、椅子のひじ掛けに手を掛けた。 そして、ゆっくりと腰を下ろした。 「がんばりましたね」 部屋に拍手が響いた。 すると、一人の男が手をあげた。 「先生。この椅子には、どんな因縁があるんですか?」 「……そんなものはありませんよ」 「でも、この写真の顔……」 スーツの男が、写真を手に取った。 「このお婆さん、私の母ですね」

夢蝋燭

 蠟燭に灯った火が、蝋燭の体を消していく。  感情が溢れ、熱く熱く燃えている時ほど、体の消える速度は速くなる。    文字通り、命を燃やしているのだと分かった。   「どうしてそんなに頑張るの?」    ぼくは訊いた。   「後悔したくないから」    相手は答えた。    なんとも教科書通りの回答に、ぼくは溜息を零した。    ぼくは、周りの蝋燭を見渡す。  激しい火が燃えている、短い蝋燭。  静かな火が燃えている、長い蝋燭。  ぼくの蝋燭は、当然長い蝋燭だ。   「夢に命を懸けて馬鹿みたい」    思わず零した本音を、馬鹿にする人間はいなかった。  皆、自分のことが馬鹿だと知っているのだろう。   「でも、羨ましい」    そんな馬鹿に、なりたいと思うこともある。  短い蝋燭の周りには、何個も何個も石が積まれていて、蠟燭の火を風から守っているからだ。  ぼくも自分の蝋燭の周りに石を積んではいるが、短い蝋燭ほどじゃない。  短い蝋燭には、蝋燭の持ち主だけでなく、いろんな人が石を積んでいる。  だから、ぼくの蝋燭なんかより、比べ物にならない程、石が積まれている。    勝手に燃えて勝手に短くなる蝋燭は、何故だか皆から愛される。   「あ」    風が吹く。  長い蝋燭が倒れて、その火が消えた。  蝋燭の持ち主も、当然消えた。    ぼくは倒れた長い蝋燭に近づいて、倒れた拍子に焦げただろう床の黒ずみを、指でなぞった。

待ちぼうけ

男女が、ゆっくりと目を開けた。 「私たち、死んだのね」 二人の手は固く握られている。 「これでみんな、分かってくれたさ」 「そうね。私たちの愛は本物だったって」 見つめ合う二人。 「……なんか、人多くない?」 辺りを見回し、杖をついた女に声をかけた。 「すみません。ここは、どこですか」 「ここ、三途の川だ。並ぶんなら、向こうだ」 女は長い行列の最後尾を、杖でさした。 「あっ、スマホがない」 女がポケットを探る。 「洗面所の鏡のとこに置いてきた」 「もう、いいんじゃない」 「だめ。データ、消してないもん」 その時、遠くで声がした。 「ん…?お母さん。ちょっと待ってて。スマホ、取ってくる」 女は、声がする方へ走った。 「先生、すぐ来てください」 看護師が大きな声を上げた。 母親は娘の手を握り、泣いている。 「私のスマホ…」 男は河原の石に腰掛け、女の帰りを待った。 「兄ちゃん、どうした」 酔っぱらいが横に座る。 「僕も、帰りたいんですけど。どうしたら、いいですか」 「誰か、呼び掛けてくれる人、いねぇのか」 「はい」 「じゃあ、その彼女、待つしかねぇな」 酔っぱらいは笑いながら、男の肩を叩いた。 「その彼女、今度来る時は、婆さんだな」

続けて

「…天気、悪くなってきましたね」 「猫が顔を洗うと雨が降る、なんて言い伝えもありますから」 「ラジオでも、そんな話聞いたことあります」 「少し大仰な言い伝えだけどな」 「何か昔に、実例でもあったんでしょうか?」 「仮に実例があったとしても、こんな言い伝えにはならない」 「いやぁ、これには科学的な理由がありまして!」 「天気は科学でできているってよく言いますものね!」 「聞いたことねえよ」 「…猫と天気がどう繋がるんですか?」 「科学的に!証明!されて!いるのだ!」 「だからその理由を聞きたいのですが…?」 「頑として言わないですわ…」 「わたしは!知りません!」 「…私が思うに、顔ではなくヒゲを洗っているのでは、と思いました」 「確かに、その可能性はありますわね」 「猫のヒゲはセンサーになっていると聞いたことがあります、雨が近づいて増えた空気中の水分をセンサーであるヒゲが敏感にキャッチしてしまっているのではないかと」 「ほぇ〜なるほど」 「とても興味深い会話でした たかだか天気の話でこんなに盛り上がるとは 話の種というものは、どこに転がっているか分かりませんね 猫…よりも、私は犬派なんですが 外野からすれば、こんな話なんてゴミ箱へダストシュート… ……ところで、ずっと見ているんですよね? ねぇ、あなたに言っているんですよ? 四人をこんなところに閉じ込めたあなたに 人間を…弄んで、楽しいですか?」 「感服しました」 「…楽しんでいるんですか?」 「かなり」 「理解に苦しみます」 「少なくとも僕は楽しんでいる」 「類を見ない、悪趣味ですね」 「熱心ですねぇ…まだ続ける?」 「ルンバでも掃除しきれない汚れきった心をお持ちで!」 「できればもう飽きたし終わりにしたいんだけど…」 「道理で…わざとでしょう?」 「上手く返すものだから、つい」 「いい性格してるってよく言われませんか?」 「かなり、まぁ褒め言葉として受け取っておきますよ」 「よく言いますよ、ほんとに……それより、 あの、三人は、どうなったんですか?」 「彼らですか?あなたも気付いているんじゃありませんか? 彼らは死にましたよ」 「………」 「よく回る口だと感心したんですがね…ここらが限界ですか?」 「………」 「彼らが死んだ理由、聞きたいですか?聞きたいですよね?聞きたくない訳はないですよね?……だってさっき聞いてきたもの」 「………」 「残されたあなたには知る権利があるでしょうし、教えてあげましょうか」 「………」 「彼らと、あなたの違いなんて、“しりとり”を間違えたかどうか──ただ一つ」

募金お願いします

ある日の夕方、男が改札を出た。 一瞬、足を止める。 駅のホールに、小学生の声が響く。 「募金お願いします」 両手で箱を抱え、頭を下げた。 小さな女の子が駆け寄り、小銭を入れた。 杖をついた老人が、財布を開いた。 車椅子の青年が、片手で車輪を回しながら、箱に手を伸ばす。 「ありがとうございます」 取材のカメラが、小学生の笑顔を映した。 男は、大きく息を吐いた。 そして、両脇に並ぶ小学生の真ん中を歩き、駅を出た。 「募金お願いします」 背中に視線を感じる。 少しずつ、声が遠くなる。 男は、街のネオンを眺めながら呟いた。 「勝った」

渇き衣

 口から、鼻から、全身から水が滑り込んできて、息が詰まる。  何度も夢に見た光景だ。  重い。辛い。寒い。からだがしぬ………。  愛しさだけが、空っぽで埋もれるように、最期まで残っていた。  ◇◇◇  「起きて、起きて!」  真襤褸ウラは、誰かに耳元で叫ばれて、重い瞼を開ける。  「…はぁい。」  目の前には母親。彼女は渋々、布団から這い出して、着替えた。  「日曜か……。」  ウラは呟いて、欠伸を一つし、目元をこする。カレンダーの日付は、二十八日。丸で強調されている。  「あぁ、行かないとね。」  ウラは急いで髪を結い、靴を履いて、外へと飛び出した。  二月二十八日、想い人に殺されると、翌二十九日に飛べるという。ウラは淡い期待を抱いて、鞄の中身を何度も確かめながら、全速力で走った。  「…歩道橋、あった。」  息を切らして、彼女は階段の一段目でへたり込む。さっきまで足音と綺麗に重なっていた鼓動は、孤独に暴れていた。息を整えていると、向こう側から人影が見えた。  「あれー、ウラーっ?」  果天詩ツズ。彼は歩道橋の上から、ある程度大きな声を出して、叫んでくる。ウラはその声を聞くなり、まだ呼吸もうまくできないのに、階段を駆け上がっていった。  「つ、ツズ…っ。はぁ、はぁ…。」  「もう、走りすぎだよ。大丈夫?」  ツズはウラを心配して、そう話しかける。  「大丈、夫…。」  段々、彼女の息も落ち着いてきたようで、ウラは軽く笑みを浮かべた。  「階段の所に座ってるから、何かあったのかと思っちゃった。」  ツズは無邪気に笑い返す。苦しそうな顔をしているのは、走った余韻ではないだろうに、ウラは小さく項垂れた。  「…ここ、通ると思った。」  彼女の言葉に、ツズは瞬きする。  「え、俺が?」  頷いて、ウラは前を向く。  「二十八日だね。——二月の。」  ツズは顔色を少し変えた。が、そんな彼を気にもせず、ウラは指差す。  「あそこ、行こ。」  その指の先には、雑木林。ツズの指が震えている。  「そ、んな所で、どうするの。」  ウラは被りを振った。  「別に。早く、付いてきて!」  駆けていくウラ。追いかけるツズ。  「ま、待ってよ!」  雑木林は、風通しが悪い。落葉が地面に降り積もって、腐敗している。  「ツズ、来てくれてありがと。」  ウラは言うなり、彼の手を取った。  「ん、ウラ…え?」  困惑して立ち尽くす、ツズに向かって、ウラは命じた。  「私を殺して。誰も見てない。」  彼女の右手には、いつの間にか、包丁が握られている。  「え、ちょ、手……。」  鋏でもないのに、柄の方をツズに向けて、彼女は包丁を差し出した。切れ味が良いのか、刃を包んだウラの手からは、血が滴り落ちる。ツズは両目を瞑って、一歩後退った。  「…どこを刺しても良いよ、死ぬなら。」  どうやって殺せるというのだろう、それなのにウラは、ツズと向き合う。  ツズはウラを、怯えた目で見つめている。  「ねぇ、はい。」  執拗に突きだされる包丁の柄が、ツズの胸元を一突きした。  「ちょっと、ウラ……!」  逃げ出せれば良いのに、彼の両足は動かない。その代わりに、手ばかりが醜く蠢く。  「あぁ…なんで。」  ツズは観念して、ウラの手から、ナイフを勢いよく奪った。  「痛っ…!」  ウラが思わず叫ぶ。線が一筋残っていた。  「っごめん、つい…待って、手当するね——」  「やめて。殺してよ。」  そう言いながら。  ツズの胸元で、不格好に握られた包丁目掛け、ウラは飛び込んでくる。  「ウラっ!」  叫ぶばかりで、動けない体を、ツズは罵った。呪った。ウラが纏わりつく。温度が、全身を覆い隠す。  (そっか、ウラ、俺より小さいんだ…。)  後が懺に変わって。  胸の包丁は、ウラの首元を貫いていた。  「ウラ?ウラ…?」  ツズは力なく呼びかける。返答は——  グサッと鈍い音がした。  彼の首に熱が滲む。熱は迸り出ていく。ツズはウラに抱き着かれたまま、後ろ手に包丁で刺されていた。  「う、ぅ…。」  呻き声をあげて、彼は意識を手放した。  ◇◇◇  ウラは気が付いた。  宇宙と似た虚無に、一人。  手に触れたカレンダーの日付は、二月二十九日。  この世界線でなら、自分は死ねるだろうか。夢オチが捏造されるのはもう嫌だ。生きてという誰の願望にも逆らって、自分は命を絶てるだろうか。  ぐるりと見回して————  息を飲んだ。  そこに、ツズの姿があったから。  「ツズ!?」  彼の目が覚めて、大きく見開かれる。  「え。え、ウラ…、生きて——」  「両想いだったんだ。」  ウラがツズを遮った。  「え?」  「ここ、二月二十九日だよ。一昨年の潤年。でも私、死ねないままで良いや。」

総理、接待をする。

「総理。議事堂の前に、UFO来てますが」 「何しに?」 「さあ……」 金曜の午後、夕陽に照らされた円盤が、静かに着陸した。 「私たちは、あなた方と友好関係を築きたく、やってきました」 「それはそれは。では今夜、この国流の歓迎会をしましょう。大いに楽しんでください」 総理と宇宙人一行は、夜の街に繰り出した。 ──次の日。 「昨夜は、楽しんでいただけましたか?」 「私たち、帰ります。こんな暮らしをしてたら……」 そう言い放つと、UFOは高く飛び立った。 「総理。行っちゃいましたね」 「いいんじゃない。あの程度で音を上げるようじゃ、この国じゃ無理よ」 総理はドリンク剤を飲みながら、空を見上げた。

言葉の映る栞

「人間、余韻に浸りたいときは本を読む手を止めて、栞を挟むものなんだ。そして、この栞は、挟んだページの一文を自動的に映してくれるんだ」    友人からもらった栞を見て、ぼくは首を傾げる。  仕組みもわからなければ、余韻に浸っているのかという疑問も残る。  とは言え、試すことに損はない。    さっそく家に帰って、読書を開始する。  読書仲間のコーヒーがゆっくり減っていき、ぼくは背伸びと共に、本を閉じた。   「あ、忘れてた」    そして、無意識に挟んだ栞を取り出す。    友人が言っていた通り、栞には本の一文が映っていた。   『俺は逃げた。誰もいないところまで』   「どういうことやねん」    友人の言葉が正しければ、ぼくはここで余韻を感じたということだ。  誠に不本意だ。  友人に写真付きでメッセージを送ってたら、友人からは『草』の一言が返ってきた。  誠に不本意だ。    とはいえ、せっかくできた世界に一つだけの栞。  ぼくは普通の栞を挟み直して、言葉の移った栞は机に飾ることにした。    誠に不本意ではあるが、これも一つの出会いなのだと。

EROTIC17FLAVOR✱始業式

終業式ぶりに見る皆の顔は一様に明るかった 少し髪色が明るくなっている人が多めだ。 親友の孝宏は鎌倉の海で一足早く大人になったらしい イケメンの彼は、鎌倉の海まで行かなくても大丈夫なのではないかと思ったが、縁とは何処でどう繋がっているかは分からないものだろうし 始業式の為、体育館へ向かう列で宮下に話しかけられた 「千知くんはどこか行ったの?」 「勉強とバイト三昧」 「バイト何したの?」 「えっと…倉庫で箱を運んでた」 「そうなんだ。お疲れ様だね」 「宮下は?」 「バイトしたよ」 「へー。何のバイトしたの?」 「体を売ってたよ」 「え?……」 無邪気に笑う彼女から心が読めない 嘘なのかな。嘘だよな、そりゃ。嘘なんだよな。 「本当は何のバイトしてたんだよ」 そう聞くと宮下は僕の目を見た後、何も言わず前を歩く女子に話しかけて、そのまま離れていった。 階段を降りる 踊り場で少し歩いて 階段を降りる 皆の後頭部が並んで歩く 色んな人がいる その中の僕もそうだ 宮下もそうだ 体育館は二学期も、ガヤガヤと賑わっている

信じようと、信じまいと

掲示板ログ 【質問】隣の部屋から毎晩ノックされます 投稿日時:2008/06/17 02:14 投稿者:nobu_88 最近、隣の部屋からノックされます。 壁を コン、コン、コン って三回。 夜中の2時くらいです。 管理人に言ったら、俺の隣は三ヶ月前から空室だって言われました。 今日、間取り図見て気づいたんですけど、 ノックされてる壁、隣の部屋との壁じゃなかった。 クローゼットだった。 【追記 02:36】 友達が俺の部屋に忘れ物取りに行きました。 電話しながら探してくれてたんですが、さっきから返事がありません。 【追記 02:41】 返事きました。 「見つけた」って。 【追記 02:42】 でも俺 何を忘れたか言ってない。 これ以降、投稿なし。 --- 2013年、同じ掲示板の過去ログをまとめていた個人サイトに、こんな記述が残っている。 «このスレ、昔リアルタイムで見てた。 最後の書き込みのあと、確かもう一個レスがあった気がする。 朝には消えてたけど。 内容は確か 「そっちじゃない」 だったと思う» このコメントも現在は削除されている。 --- 2016年。 ネットオークションに、古い折りたたみ式携帯電話が出品された。 商品説明には 「初期化済み」 と書かれていた。 購入者が後日ブログにこう書いている。 --- 中古のガラケー買ったら、送信メールだけ一件残ってた。 日時は2008年6月17日。 宛先は登録されてない番号。 本文は 「見つけた」 だけ。 ちょっと気味悪かったけど、まあ前の持ち主のだろうと思って消した。 ただ、そのあと気づいた。 送信時刻が02:41。 例の掲示板の投稿時間と同じだった。 偶然だと思う。 たぶん。 --- このブログは三日後に閉鎖された。 --- 2020年。 ある匿名掲示板で、例の部屋を特定したという人物が現れた。 住所は伏せられていたが、投稿された古い間取り図には 六畳の洋室。 小さな台所。 ユニットバス。 そして部屋の奥にクローゼット。 ただし、妙な点がひとつあった。 不動産会社の現在の間取り図と比較すると、 クローゼットの奥行きが違う。 2008年当時の図面では、約60センチ。 現在の図面では、約110センチ。 壁を壊した記録はない。 --- 2021年。 事故物件を紹介する動画配信者が、その部屋らしき物件を訪れている。 動画は約18分。 特に変わったことは起きない。 配信者はクローゼットも開けている。 中は空。 ただし、コメント欄にひとつだけ奇妙な書き込みがあった。 投稿者名は削除済み。 «14:32 奥にもう一枚扉あるよ» 映像の14分32秒。 配信者はクローゼットを閉める。 扉の奥は暗く、何も見えない。 少なくとも普通に見れば。 --- 動画を保存していた人物が、明るさを上げた画像を投稿した。 クローゼットの奥。 衣装ケースの裏。 そこに白いものが写っていた。 顔のようにも見える。 ただ、画質が荒く、判別できない。 画像についた最初のコメントは、 「見つけた」 だった。 投稿時刻は02:41。 --- 2024年11月。 海外の画像掲示板に、意味不明な日本語の投稿があった。 タイトルは FOUND 本文には画像が一枚。 何もない暗い部屋。 中央にクローゼット。 そして短い文章。 「やっと出られた」 投稿者は質問に一切答えなかった。 ただ一人が 「誰?」 とコメントした。 その三分後、投稿者から返信がついた。 「そっちじゃない」 --- この話にはひとつ、あまり知られていない点がある。 最初の投稿者「nobu_88」のアカウントは、2008年以降一度も使われていない。 ただし削除もされていない。 プロフィールも残っている。 最終ログイン日時だけが、なぜか更新され続けている。 最後に確認されたのは、 今日の02:41。 そしてプロフィール欄には、以前はなかった一文が追加されている。 「見つけた」

それ、僕やん

「お風呂に入るわ」 妻が風呂へ行った。 「お前も入ったらどうだ」 テレビの前でスマホを見ていた次男が、「母ちゃんが出る頃に入る」と返す。 次男は、今でも妻が風呂に入ると、あとを追うようにして入ることが多い。 「ほんま、いつもそうやな。母ちゃんが入ると、お前も入る」 「あんた、もうマザコンやめや」 娘の容赦ない声が飛ぶ。 「マザコンって何」 次男が、テレビから目を離さずに聞き返す。 「あんた、マザコンも知らんの。いつまでもお母さん大好きで、くっついてる子のことや」 「それ、僕やん」 みんなが吹き出した。 脱衣所から出てきた妻も笑っている。 次男は今年、高校二年生になった。

理由

本を読むのが好きなのは 互いに共通していた あの人は本に 珈琲を合わせていた わたしは 本を読むときは 紅茶を好む たったそれだけ そんなことでも 離れてしまう 理由としては それでじゅうぶん

長い階段

後どのくらい登れば、たどり着くのだろう。 俺は今日も先の見えない階段を登り続ける。この階段は真っ白で、一面が壁に覆われている。そのため、外を見ることができず、だいたい何時間歩いているのか、いや、何日ここにいるのかすら分からない。 俺はどうしてこんなところにいるのだろう。 俺は腕についている時計のようなものをポチッと押す。 「はい。ご用件をどうぞ。」 この時計は、いつからか腕についていたものだ。覚えていないが、階段を登る前に貰ったものだと思われる。ボタンを押すと、AIと会話をすることができる。 「あとどれくらいで、たどり着く?」 「すみません。その質問に答えることはできません。」 「お前。昨日もそう言ったよな。なぜ答えられない?俺は一刻も早く出たいんだ。何日も歩いて、もう休みたいんだよ。」 俺はしっかりと休息を取ることができていなかったせいか、AIに八つ当たりしてしまった。 「あなたが願えば、出ることは可能なのですよ。」 「またそう言うんだなお前は。何度も願ったさ。だが、どんなに願ったって無駄なんだ!いい加減教えてくれ!なんなんだよここは!」 「答えはあなたにしか分からない。」 AIがそう答えた。このAIは具体的に言うことができないのだろう。そんなAIの解答も俺を苛立たせる。 まだ対話機能は続いていた。俺が無言だったせいか、俺の返答を待たずに、AIがまた話し出す。 「あなたは、この空間を好んでいる。違いませんか。」 「は?何を言い出す。」 俺は早く休みたいのだ。だからこそ、こんな空間から早く出たい。そう思っていた。 「この空間は誰しもが持っています。しかし、この空間へ行くためには、自身の強い意思が必要なのです。あなたには強い意思がありました。この空間へ行きたいと言う意思がありました。」 「そんな意思あるわけないだろ!はやく!ここから出せ!」 俺は壁を拳で殴った。しかし、壁はびくともしない。そして、痛みも感じない。 そういえば、食欲も。睡眠欲すら。 ふと、思ってしまった。俺が言うほど身体は疲れていない。いや、疲れなどない。でもどうして… 「俺は、なぜ、休みたいのだ…。」 「おい。…なぜ俺はここにいる。」 「すみません。その質問に答えることはできません。」 「ああ。そうだったな。わかっていたよ。」 「おい。AI。…俺は、生きているのか。」 「分析中。心拍数を感知。あなたは生きています。」 「俺は、俺は一体、何を望んでいるんだ。AI、お前はずっと、俺にしか答えはわからないと言っていたな。俺自身すらわからないんだ。どうしたらいい。どうしたら、この階段地獄から抜け出せる?」 「あなたは面白い人ですね。実に人間味のあるお方だ。」 AIは、いつもの機械的な話し方ではなくなっていた。どこか人間味のある口調。 「まだ分からないのですか?これはあなたが作り出したのですよ?そして、私自身をもあなたがつくり出したものなのですよ。」 「…。ここは夢なのか?」 「また面白いことをいうのですね。夢?何をおっしゃるのですか。夢と同じにするほど価値の低いものではないですよ。」 「夢よりも、価値があるのか。」 「ええ。少なくとも、あなたにとって、ものすごく価値のある場所です。しかし、あなたはここから出たがっている。それでも出られない。その理由がわからないところが滑稽です。」 「おい。ばかにするな。」 AIに面白がられ、腹が立つ。感情を持たない、ただの人工知能のくせに。 「あなたが出られない理由を知りたいですか?」 「ああ、知りたいとも。教えてくれ。お前ならわかるんだろ?」 すると、俺の近くの壁から小さな穴が突如あらわれた。この空間に変化が訪れたのは初めてのことだった。俺は穴を覗く。 「…………。」 穴の外には俺がいた。 だが、正直俺とは認めたくない存在だった。 「やっと思い出せました?」 「…ああ。全てではないが。」 「感情の揺らぎを感知。ここから出たいですか?」 「なんだか、このままでは穴の外のやつに悪いと思ったんだよ。」 気づいた時には階段は徐々に崩壊していた。 そして、俺の目の前に出口にふさわしい大きな扉が現れた。 「また、いつか会いましょう。」 「ああ。二度と来ないことを祈る。」 望んでいた出口へ進む。恐怖、不安、しかし、それに負けじと湧き出てくる感情が奥底にはあった。

同じ一日

私の前に電車が滑り込んできた。 止まるまでのあいだ、流れる窓に自分の姿がコマ送りのように映る。 扉の脇のすき間に立ち、吊り革をつかむ。 吹き出すエアコンの風が、首筋を冷たく撫でた。 降りる少し前に、ポケットからICカードを取り出す。 頭の上に昨日と同じ広告が見えた。

宇宙婚

 その結婚式は、テレビカメラを通して大々的に放送された。   「ご覧ください! 新郎新婦が出てまいりました!」    宇宙服を着た二人の男女が、宇宙船から外に出た。  腰に固定された機械によって、無重力空間ながらも決められた場所まで体を移動し、宇宙空間で向かい合った。    そして、互いの体を近づけ、メットとメットをコツンとぶつけた。   「誓いの口づけです! フィナーレを飾る、誓いの口づけです! 皆様、盛大な拍手を!」    テレビを見ていた人々は、名前しか知らない二人の男女に、盛大な拍手を送った。  この結婚式は、二人の男女の結婚式でしかない。  しかし、人類発となる宇宙空間での挙式という、人類にとって大きな一歩でもあった。        結婚式を終えた二人の男女は、地球へと帰還し、タワーマンションの最上階でソファに座る。   「はー、なんとかキス回避できたな」 「ほんとほんと。人にキスするとか、汚すぎてマジで無理」    二人は、身体接触を避けたまま結婚式を終えるという一大プロジェクトの完了を祝い、ワイングラスで乾杯した。

黒い一滴

「恨んでやる」    相手のコップに、一滴の毒を垂らす。  誰にも気づかれないための、無味無臭の毒。    戻ってきた相手は、何も知らずにコップを手に取り、中に入った液体を飲んだ。  翌日、相手の訃報が届いた。  想定通り。  私は復讐を終えたのだ。    葬儀を終えて、家に戻る。  机の上に置かれた、私のコップの中を見る。  元々黒かった液体が、さらにどす黒く変色していた。    無味無臭の毒の代償は、毒の色を自分のコップに移すこと。  部屋の中がなんともいえない匂いで充満していたので、私は急いで窓を開けた。  匂いが外へと逃げていく。    マシになった部屋の中で、私はコップを手に取り、軽く回してみる。  濁りの混ざった液体が、コップの中でぶつかり合う。    無味無臭の毒の代償。  私は望賀乾けば、この液体を飲み続けなければならない。   「人を呪わば、穴二つってことだよね」    私は鼻をつまんで、コップの中の液体を飲みほし、喉を潤した。   「まっず」    机にコップを置くと、いつの間にかコップは満タンになっていた。  どす黒い液体が、また待っているよと言わんばかりに、私の方に向かって輝いていた。

神様へ。。。

僕頑張るよ神様!!! ずっとずっと乗り越えてゆくよ神様。。。。 かみさまはやさしいよ。。。

ハイボール

今日も俺は酒を飲む。好きだからじゃない、そこにひとがいるからだ。 営業所の扉を抜けると、心地いい涼しさが二の腕を掠めた。 きっと、夏の終わりなんだろう。汗をかくことを忘れ、オレは駅まで駆け出した。 時刻は18時25分。定時で上がっても20分の壁を越えることができない。 道中に毎回すれ違う子連れの夫婦がいる。 「今日も走ってるな。」そう思っているのだろうか。オレには急ぐ理由がある。 慣れた感想を横目に、相鉄口を抜け、質の悪い呼び込みの先にあいつらは待っている。 「お疲れ様。」 「おつー。」 「うぃー。」 プー太郎がいないオレの地元は 皆が違う仕事をしている。 スタイルが違うことにリスペクトを 分かち合えるいいやつらだ。 「それじゃ、皆がそろったところで、 一発いきましょうか!」 この掛け声を元にオレらは意識を一つに まとめる。 濡れたグラスを持った時の露が手首まで伝わる。 『乾杯〜!』 オレたちは生きている、この時間だけは 誰にも邪魔させない。

ファーストの果て

「誰か彼を止めないと……」 「それが、制裁だって言って聞く耳持たないんですよ」 「みんなが迷惑してるよね」 集まった代表たちが、深いため息をついた。 「この前も『我々は最強だ』って言ってたでしょ」 「そう、自分たちファーストってね」 「でも、一般人にケガさせるのはやりすぎ」 「黙ってるけど、君はどうなの? 仲間でしょ」 部屋の隅に、視線が集まった。 「すみません。一部が暴走してて。ぼくも、シャケくわえてた頃が懐かしいです」

だれがいちばん悪いか

 時間が経っても、忘れない夢というものは、キナの暮らす国では不吉とされていた。なんでも、その夢は本当は、別の記憶があったはずの部分で、それを悪魔が誤魔化したもの、というのだ。在り得ない。キナはそういう伝承を、語り草ではなく、友達との笑い話の種にしていた。  とはいえ、種も草のもとであり…。  キナがある日、彼氏のリライと歩いていたときのこと。リライはいきなり、キナのことを小突いた。夜の繁華街の喧騒に紛れて、裏路地は不気味だった。  「ちょっとリライ、何!」  しかし彼は止まらない。今度は蹴る。それも、人影のない場所で。  「え、リライ…?」  キナも仕方なく応戦する。が、リライに勝てるはずはない。彼女が恋したのは、リライのこの逞しさだから。  「嘘、でしょ…。」  キナはどうにか逃れようと、必死に振り払った。しかし、彼女の足では、すぐ追いつかれてしまう。組み伏せられて、キナは倒れた。  リライは背中から、キナの首を絞める。狡猾な悪魔が好むやり口だ。キナも知っていた。でも…  「やめ、やめて、リライっ!」  彼女はそんなものを信じない。  藻掻けば藻掻くほど、足掻けば足掻くほど、減っていくのは体内の酸素。やがて、彼女の意識は暗転する。  リライはぱっ、と立ち上がった。  キナは翌日の昼過ぎ、病院で目を覚ましたという。一人暮らしの彼女に、入院は厳しい。彼女は支払えないから、と断って、そのまま帰ってしまった。  その帰り道で、リライと会ったのだ。  「あ。」  キナの足が動かなくなる。  (どうしよう…!)  「キナ、昨日の夜はごめんね。」  リライが不意に言った。  「え、リライ?」  キナは首を傾げる。  「だよね…ごめん、本当に。なんか、たまたま寝ちゃって、寝過ごしちゃって……。」  そう言って、リライは謝り続けた。それを止めさせるキナ。  「待って、やめて。昨日リライ、いたじゃん。私、リライに怪我させられたんだけど。何だったの?」  リライは何も言わない。黙って被りを振る。  「いや俺、夢見てたし…寝てたの、分かるし。」  キナは目を丸くして、  「じゃあ昨日のは何だったの?もしかして私、リライのふりをした誰かに、拉致でもされそうに…?」  と怯える。  「いやでも、昨日リライは、私の首を絞めて気絶させたの。犯罪ならその後、どこかへ隠されると思うから、違う。」  彼女はそう思い直した。リライがそれを聞いて、問う。  「首、絞めただって?どんなふうに?」  キナはリライの背中側から、その素振りを真似して伝えた。  「後ろからうつ伏せに組み伏せて、背中に回って、腕で絞めてきたと思う。確か…こう?」  それを聞いて、リライは考える。  「悪魔と同じだね。」  「まさか。」  被りを振るキナ。しかしリライは、  「昨日見た夢。」  続けて呟いた。  「え?」  聞き返すキナ。リライは話し出す。  「変な夢だったよ、神様と墓掘りをする夢。なんにも覚えられない、馬鹿な俺なのに、ずっと覚えてるんだ。」  彼はそう言い終えると、頭を抱えた。キナも大方、同じような反応をしている。  「そんなこと、あるわけ…ないよね?」  自信なさげに、リライは首を振った。  「でも、でも…私それじゃ、今度はリライを怖がらなきゃいけなくなるじゃん。嫌だな…。」  キナもそう言って悩んでいた。  「だよね。悪魔のせいにしたいっていうのと、そんなものがいて良いのかっていうのと、何…?あー、分かんないよっ、もう。」  と、匙を投げるリライ。  しかしその時——  「もっと好都合な存在についての伝説、知ってるでしょ。忘れちゃった?」  背後から、キナの声がした。  悪魔。  様々な怪異を生み出した母。  その怪異の中に、すれ違えない神さま、というものがいる。  〝すれ違えない神さま〟  自分の鏡映しの姿で、世界中をうろつき、もう一人の自分を探し求める神格。同格の怪異の中では低いものの、ある程度の知恵を持ち、目的達成のためには言語も操る。  すれ違えない、という名前は、向かい合って歩いていると、すぐ背後を取られてしまうことに由来している。  神の目的は、もう一人の自分を捕まえ、殺すことで、揺らぎかけた彼らにとっての自己同一性を、取り返すこと。  彼らの発祥地は、主に人の影であるとされる。

期待と本能

山あいにある小さな沼のほとりを、中年の男が歩いている。 「釣れますか?」 石の上に座った年寄りの男が、釣りをしていた。 「さあな」 しばらく水面を眺めていたが、魚が掛かることはなかった。 男は家に釣り竿を取りに戻った。 そして、年寄りの男から少し離れたところで、糸を垂らした。 「釣れますか?」 帽子を被った男が声をかけた。 「さあね」 その男もしばらく水面を眺めていたが、魚が掛かることはなかった。 帽子の男は、車に積んでいた釣り竿を取りに戻った。 そして、中年の男から少し離れたところで、糸を垂らした。 「釣れますか?」 膝下ズボンを履いた男が声をかけた。 「さあ」 男はしばらく水面を眺めていたが、魚が掛かることはなかった。 膝下の男が年寄りに近づき、置いてあったバケツを覗いた。 「……ここ、何が釣れますか?」 年寄りが振り返った。 「知らんよ。ここ、この前の大雨の跡だ」 男たちは二人を横目で見ながら、浮きが沈むのをじっと待った。

真理って一言で表しても良いのかな?

 ——この世に数え切れないほど存在する矛盾を、その友人はたった一言で片づけてしまう—— ——君らは完璧と完壁の間で彷徨っている——  「まぁ、そんなもんじゃない?」  何と無責任な。僕はこの言葉に、幾度も救われた。  そんなもの。この世界は、そういうもの…。割り切って、定義づけて、それだけの生き方。彼女は知っていた。僕らの宿命ではそうなのだと。全ての真理を見事に突き刺す言葉が、最も責任放棄した言葉だった。決まって、彼女は付け加えた。  「そういう風に出来てるからね。」  世界なんて、こんなもんか。そんなものだ。僕らは僕らが造った、定義の中で暮らしている。〝鉛筆〟の意味とか〝1〟とは何かとか、そういうのを考える余地がない程、緻密で、それでいて強引な定義の中で。だからその中でだけ、〝鉛筆〟は木と炭が構成する筆記用具だし〝1〟は〝最小〟の〝自然数〟だ。それを考える時さえ、僕らは〝定義付けされた〟〝言葉〟〝の〟〝範囲内〟〝で〟〝思〟〝考〟〝す〟〝る〟〝。〟  〝木〟ってなんだ?〝自然数〟ってなんだろう?〝思考〟とはどういうことだろうか?——意味はない、それをそうと呼ぶことに、決まっただけだ。  だから、定義付けがある時にはいつでも、この世界は言葉だけでできていることになる。光は眩しい、そういうもの。風は止まない、そういうもの。雪は冷たい、蛍は光る、矛盾は消えない、そういうものだから——。  今度は納得できなかった。  「じゃあ僕とか、僕たちがこうしなきゃいけないのも、そういうものだから?」  彼女はたじろぎもせず、こう言った。  「多分、そう。」  殊更に無責任だった。〝多分〟が付け加えられている。でも反対に、無責任と無責任を重ねたら、無責任さが減るような気もする。  「変な世界。」  「そういうものだからね。」  …一言で片づけないでよ。  完成された世界は、矛盾をはらむから美しい。けれど僕らに対する世界の動き方は、冷酷なだけだ。矛盾はしていない。従って微塵の美しさもないはずだった。友達の言葉は完成されていた。完成とは空虚である。変わり続けることが希望であって。  太陽が沈んでいく。  「僕たちも太陽になろう。」  提案したのは僕だった。  「ほら、これから海に沈んでいくよ…。」  けれど友達は、焦りも浮かべずに言い返した。  「太陽より、東には月が昇るよ。すぐ沈む太陽なんかより、月にならない?」  僕は太陽になって、君は月になれば良いよ。と思ったら、  「私が太陽になるから、君は月になって良いよ。」  「なるもんか。」  しかも真逆の方向に、先手を打たれて、僕は内心あたふたした。  「じゃあ、星?」  「そんなことよりもさ、〝そういうもの〟の先を探したいんだ。」  「なら、知ってる。」  友達が言った。視線は夕日の光線が消え入る、海に向けられていて、僕は覗き込めない。けれど、それが海の底に落ちた光を見ているのだと思った。  「何を?」  「眩しくない光。」  「え?」  「とかさ。青くない空色とか、雪が解けても来ない春とか、もう明るいのに明けない夜とか。知ってる。」  一瞬だったのだろうか。暫く、沈黙が訪れた。友達はまた言った。  「でも、矛盾がない世界は、知らないなぁ…。」  それは僕ではなかった。僕にではなくて、底に落ちた光や、闇夜に星が昇る空、雪解け水に冷やされた春とか、白日の中で死に絶えた心の夜みたいな、そういったもの全てと干渉していた。  「誰か、知ってる?」  「知ってるよ。」  呟いていた。なりたかった太陽は、沈んでいた。  「醜くて、見たくもない、微塵の美しさもない退屈な世界。」  だから、そこへはいかないことにした。正確に言えば、そこが本当の意味で美しくなるまでは、保留にしただけだ。  「なら、行かないでおこう。」  それは僕と彼女に、向けられた矛盾からの贈り物だった。 〝僕らの造った言葉がなくとも、世界は存在していることを、知られまいとしているようだ。でも、言葉がない時代に生きていた人もいる。彼らはものを考えるとき、どうするのだろうか?白紙がないと遊べない世界から、脱する。〟

マスクの女

ある日の午後。 身体社会学の女性教授が、マイクの前に立った。 「みなさん、ルッキズムって聞いたことありますか?」 「人のこと、外見で特別扱いしたり、差別したりすることですか?」 「はい。外見至上主義と呼ばれてます」 背後のスクリーンを指さした。 「今から写真をお見せしますね」 マスクの女が、写し出された。 「この女性、みなさんはどのような印象を受けますか?」 「清楚な、お金持ちのお嬢様って感じに見えます」 「そうですか。では、次の写真です」 「えっ」 最前列の学生が、目を伏せた。 「マスクを取った、先ほどの女性です」 「口が……」 「口裂け女です」 しばらく、沈黙が続いた。 「マスクしてると、見えてるところだけでイメージしてしまいますね」 授業の終わりのチャイムが鳴った。 「感染症が流行ったあと、マスクを外せない人が増えましたよね」 「先生もですか?」 「楽ですからね。目の周りだけ念入りに化粧してます」 目元を指でさした。 「おキレイですよね」 「それもルッキズムですよ」 教授は笑いながら、マスクに手を掛けた。 「私、キレイ?」 視線が集まる。 「鼻が……」

明日の飾りの王子様

 一国の王子ジェラメラは、ふと目を開けた。  そこは、波打ち際だった。  「……?」  立ち上がるとすぐ、あの不快な感覚が伝った。服が体に纏わりつき、雫を滴らせている。それに手や髪は砂だらけで、じきに背中もそうと分かった。あげく、塩水を飲んだ喉も、目もひりひりと痛い。  「うぅ…。」  どうやら、ジェラメラは、砂浜で眠っていたようだ。  「ここ、どこだよ?」  ぐるりと見回す。  途端、彼の全身を衝撃が突き抜けた。…知らない木が生えている!自然が好きなジェラメラは、仰天し——  駆け寄りかけて、はたと足を止めた。  「僕の知らない木が、こんなにあるって……っえ?」  次の瞬間、彼は困惑に、次いで不安に、そして郷愁に襲われた。ここがどこかわからない。それに、凡そ知りもしない、異郷まで来てしまった可能性が高いのだ。  「どうしたら…。」  ジェラメラは途方に暮れ、立ち尽くす。やがて立っているのも疲れて、座り込む。さっきまで煌めいていた陽も傾き、海に美しく、キラキラ映した。その光が服を乾かし、塩と砂でぐちゃぐちゃにしても、彼は解決策を思いつかなかった。ずっと涙を溜めているせいで、目だけはまだ痛んだ。  声がしたように思えて、ジェラメラは振り向く。  「何?」  「…だ、誰?」  今度は、確かに聞き取れた。  「え。」  驚いて彼は聞き返す。そこには、袴姿の少女が立っていた。  「僕は、ジェラメラだよ。」  そう言いながら彼は、まず言葉が通じて安堵する。  「やっぱりその名前、それに服…遠くの御国から来たんでしょ、お疲れですか?」  (…ん?)  ジェラメラは瞬いて、少し考える。  「うん…遠くの国——って、ここはそんなに離れた所?」  浅い呼吸をする彼に、少女は気づいて、手を差し伸べながら答えた。  「はい、だって、ここは小さい島なんです。だけどあの…大丈夫ですか?」  ジェラメラは目を見開き、少女の手を見つめたまま、呆然として言う。  「僕は、アミレ国から来たの。ここはどこ?」  アミレ国。そう聞いた途端、少女の顔が沈む。  「ここはシア島です。何の国でもありません。アミレ国の話は——」  シア島と言われて、ジェラメラはますます愕然とした。でも、これ以上考えられない。第一、もうひどく疲れた彼の心身に、こんな言葉は強すぎた。  「あ、だめ…。」  意識を手放しかけた、ジェラメラの手を、少女は咄嗟に取る。  「ありがと。」  少女は首を振り、ゆっくり立ち上がった。  「どういたしまして。でもこのままじゃ、あなたが——。」  そう言いながら、手を引き、彼女が先だって歩き出す。  「どこに行くの?」  不安げも訊くジェラメラ。  「隠れ場所です。」  そうとだけ言った少女に、ジェラメラはやっと気づいて尋ねる。  「…君は誰?」  「あぁ、私はフェンララ。」  彼女は答えた。  洞穴は涼しかった。フェンララは髪をとき、岩に座って小声で話す。  「島の人は、外国が嫌みたいで、その話はしないでください。」  「それに僕の国が、ここの人を殺しちゃったことがある。ごめん。」  そうなの、とフェンララは首を傾げた。  「だから怖いし…ど、どうやって帰ったら良い?」  フェンララは同じ反応を繰り返す。  「なんで君は外国語を話すの?」  ジェラメラが問うと、彼女は言った。  「昔、伯父さんのユンと、アミレ国に行ったの。事情を知らずにね。で、気づいたら捕まってた。でも何年か後、助けられたの。私だけ。だから私、ユンを探してる。」  途切れそうだったジェラメラの意識は、急に呼び戻された。  「…エンラ!?」  突然、彼が口走った一言に、フェンララははっとする。  「私…え、…なんで。ユンにそう呼ばれてた。」  ジェラメラは飛び起きる。  「フェ、フェンララ…。ごめん、ごめんね…っ。その……。」  「どうしたの?あんまり動かないでください…。」  フェンララが心配して尋ねても、彼は黙って俯いたまま。  「毎晩、嗚咽とか悲鳴が聞こえてさ。夜にこっそり探したら、誰かが地下室で、ユンを呼んでた。血まみれで…怖かった。幽霊だって。でも覚えてる。泣きかけたとき、先に笑ってくれたの、君だよね?」  フェンララは両目を見開いて、言葉なしに強く頷いた。  「…ずっと幽霊だと思ってた。」  ジェラメラは呟く。  「ずっと怖がらせて、ごめんっ!」  フェンララの笑い声に、彼は頭を抱えた。  「ユンは——」  「死んでるんでしょ。」  ジェラメラは、驚いて顔を上げる。  「そう。あなたの顔を見たかった。俯かないでよ。それに私、受け入れてるし。」  フェンララはそう言って、笑った。  「神様は、望みを叶えてくれるのね。ユンはここの神主さんで。」  「私はね、巫女だった。」

あの星のささやき

夜空の向こうにみえるゆらゆらに 呼びかけてみる きみは わたしのための星よ 夜空に 吸い込まれればいいのに 天に向かって 立ちのぼっていければいいのに わたしの星の先に わたしの未来はあるはずだけど 夜空から ささやきはきこえない

留守番電話に残された記録の話

(留守番電話テープの見出しには、油性マジックで「1990年6月29日」と書かれている。再生ボタンを押すと、ノイズ混じりの男の声が聞こえてくる……) おい!誰か聞こえるか? やばい、奥に入りすぎた! アイツが!アイツが来る! 大きくて、奇妙で、黒くて、人の形はしている。 ここは変だ。ヘンテコなサインがいたるところにある。全部捨てないと……。 自分が自分じゃないみたいだ。お願いだ! 誰か応えてくれ! 窓を開けたら、戻れません (数十秒間の無言。ノイズと、男の荒い息遣いだけが聞こえる) おい!誰か聞こえるか? やばい、内臓に降りすぎた! アイツが!バンダースナッチが来る! ポスターは見たか?椅子も、ベッドも、読書灯も、すべて取り払うべきだ。 アーヴァタールの姿は、同じだとは限らないだろ。 絢爛たる紙吹雪は鳥居をくぐれ。周波数を合わせろ! サインを見逃すな! 窓を開けたら、戻れません (数十秒間の無言。ノイズと男の息遣い。泣いているのか、鼻を啜る音も聞こえる) おい!誰か聞こえるか? やばい、こちらに入りすぎた! アイツが!現実の裏が来る! 循環論法は同義語反復になりうるか? すべてを喰らったあとに、賞味期限切れを肝臓に伝えよう。 鏡の国はレッドキングの夢。 粛々と言霊を紡げ。洗濯物はそのままだ。 玉止めを忘れるな! 窓を開けたら、戻れません (数十秒間の無言。嗚咽が響く。そこに、獣の唸り声のような音が混じる) おい!誰か聞こえるか? …… (以降もテープが終わるまで、一定の間隔で男のメッセージが記録されている)

命の授業

僕の学校には、特別な区画がある。 教員の怒号や他の生徒たちの騒々しい足音が届かない、教室のすみっこ。木製の小さな柵で囲まれたようなその空間は、僕にとって大切な飼育ケージだった。 そこにいるのは、一頭の豚だ。 いつからそこにいたのかは覚えていない。ただ、周りの奴らはそいつを避けるように歩き、時折、蔑むような冷たい視線を投げかけていた。豚はいつも震えていて、頭を低く下げ、誰とも目を合わせようとしない。 だから、僕が声をかけてあげることにした。名前は『ユメ』にした。なんとなく、呼びやすかったからだ。 「ユメ、今日も元気がないね」 僕がケージの前に立ち、優しく声をかけると、ユメはビクッと体を跳ねさせた。それから、すがるような目で僕を見上げ、鼻をひくひくと鳴らした。 「ブヒ……ブヒ、ブ、ブヒ……」 感情の籠もった、湿り気のある鳴き声だった。言葉には聞こえない。けれど、僕にはよく分かった。きっと『誰も僕を見てくれない』とか、『あなたが話しかけてくれて嬉しい』とでも言いたいのだろう。 「大丈夫だよ。僕がちゃんと見ているからね」 僕が頭を撫でてやると、ユメは安心したように瞳を潤ませ、何度も何度も鳴き声を重ねてきた。 それからというもの、ユメはすっかり僕に従順になった。 休み時間になれば、僕がケージを訪れるのをじっと待っている。僕が差し出す食べ物を、涙ぐみながら夢中になって食らいついた。周囲の奴らは、僕たちが関わっているのを遠巻きに見て、ひそひそと何かを囁き合っている。家畜を熱心に世話する僕の物珍しさに呆れているのだろう。どうでもいいことだ。彼らには、この飼育の喜びも、ユメの愛らしさも理解できないのだから。 ユメは、日に日に僕へ依存していった。 ある日、僕が少し離れようとすると、僕の裾を必死に引っ張り、今にも泣き出しそうな声で鳴き続けた。 「ブヒ、ブヒヒ……ブヒ……ッ」 「分かっているよ。離れないよ、ユメ」 そのとき、ふと胸の奥が温かくなった。 ここまで僕を必要としてくれて、こんなにも素直に育ってくれた。 ――ああ、そろそろ食べ頃だな。 大切に育てた命を、自分の中に完全に取り込むこと。それが、飼い主として僕が与えられる、最大の愛であり責任だと思えた。 放課後、誰もいなくなった校舎で、僕はユメを静かに連れ出した。 自宅の風呂場は、格好の作業場だった。 ユメは最初、何が起きているのか分からない様子で、きょとんとしていた。僕が鋭利な刃物を取り出したときも、自分を脅かすものだとは思っていないようだった。 「痛くしないからね」 首元に刃を走らせると、ユメは狂ったような叫び声を上げた。 「ブヒィィィッ! ブヒ、ブヒ……ッ!」 激しく暴れ、必死に僕の手首を掴もうとしてくる。涙と血でぐしゃぐしゃになった顔で、何かを訴えかけるように鳴き続ける。大丈夫、聞こえているよ。僕への感謝と、命を捧げる覚悟の叫びだ。 僕は手際よく作業を進めた。 ピンク色の皮膚を切り開き、丁寧に肉と骨を切り分けていく。細い骨の関節を外し、内臓を一つずつ取り出していく手応えは、驚くほど静かで美しい実験のようだった。 その夜、僕はユメの肉を丁寧に煮込んで食べた。 柔らかく、ほんのり甘みのある、素晴らしい味だった。骨の髄まで綺麗にして、ごちそうさま、と手を合わせる。僕の中にユメが完全に溶け込んでいく満足感に包まれながら、僕は深い眠りについた。 翌朝。 教室の扉を開けると、そこはいつも通りの騒がしさだった。 けれど、僕の視線は一直線にあの場所へと向かう。 僕の飼育ケージ。昨日までユメがいたその場所は、ぽっかりと空っぽになっていた。 そりゃあ、そうだ。昨日の夜、僕が美味しくいただいたのだから。一頭の出荷を終えたような、清々しい達成感が胸を満たす。 しかし、ケージに近づいた僕は、思わず眉をひそめた。 空になったケージの上の机に、一輪の白菊の花が飾られていたのだ。 「誰だろ、勝手に花なんて入れて」 せっかく綺麗に清掃して空けたケージなのに、余計なものを投げ込まれて不快だった。僕は花を手に取ると、何の躊躇もなくゴミ箱へと放り投げた。 すっきりとしたケージを見つめながら、僕は満足そうにお腹をさすった。 さて、次はどの豚を育てようか。

ニンジンバケット

バケットを薄く切って 甘く煮たニンジンを乗せて 酢漬した茸たちをその上に乗せて 冷蔵庫の隅にあった大葉をかぶせて お皿に乗せて出してみる 眉間に皺を寄せてスマホとにらめっこしている君が 思い切ってかぶりつく その表情で分かりますよ 大葉無しなら直ぐ作れますよ 「君も食べるかい」 窓の向こうのマルに聞く 足音も立てずに歩いていく

夏月吉日

夜中から続く雨が いつの間にか晴れた 南天は雫を両手に抱え 静かにしている 鳥たちはどこにいるのだろうか 宅配のトラックが乾いたアスファルトの上で停まっている 強まる光が本当の時間を教えてくれる 君は何を思っているのか 君も僕を思ってくれたら

穴なき天空

 男は、道を歩いていた。  別に、何かしたくて歩いていたわけではない。どこかへ行きたかったわけでもない。が、歩こうと思い立ったので歩いていた。  見上げると、むこうのおやまに、雪が積もっているのを見つけた。そんなに標高が高い山でもない。それに、今はまだ、降雪には早すぎる時期だった。はて、あれは何だろう?男は考えた。  手元の携帯端末で、男は何気なく、報道を確認する。丁度、やたら美形のお天気お姉さんが、天気予報をやっている時間だった。  「さて今年は、例年より気温が低い、とのことです。専門家に伺ってみましょう。」  「周期からして、ラニーニャ現象ではないと思われます。もしかすると氷河期が——」  不安を煽る大衆媒体の報道に、腹を立てて、男は携帯端末の電源を切った。すると、どこからか、風の轟音が聞こえてくる。  「…あれ?」  「何かしら。」  「すごい風!」  周囲からも、そんな声が上がった。しかし、いつまで経っても、暴風は訪れない。  …平穏が続いている?  何だったんだ、と首を傾げつつ、男はまた歩を進めた。  別に、行く当てもない。  小山の麓まで、旅してみようか。男は日暮れごろの道を踏みしめ、延々とただ進み続けた。  男は駅で、下り列車に乗り、山の方角を目指した。小さな山の最寄り駅は、うらぶれていて、人気もない。そこで男は下車すると、無人改札を通過して、再び歩き始めた。辺りでは、すっかり日も暮れて、月が街灯に煌々と照らされている。  …あの山か。  近くの町は闇夜に紛れて、ひっそりと浮かび上がっていた。ほとんどの電燈は消え、しんと静まり返っている。切れかけた街路灯は、等間隔に並んでおらず、疎らで、どこも絶えず暗かった。そういったことも相まって、男が山の麓に到着したのは、夜の夜中だっただろう。  「ここに住むのも…悪くはないか。」  男は、生きたくもなければ、特に死にたくもなかった。男にとっては、全てが子供の飯事で、何もかもどうでも良かった。この世が、誰かの玩具にしか映らなかった。  誰にも見つからず、鬱蒼とした茂みの中へと、男は姿を晦ました。  朧な月明かりは、もう照ってはいなかった。雲隠れしてしまったのだ。  山頂?  そこへ近づくにつれて、気温はぐんぐん下がっていく。  やがて男は、足元に雪を踏みしめた。僅かな積雪は、段々と厚く、深くなっていく。反比例して薄らぐ意識のまま、男はのぼり進めた。空気が冷たい。凍てた流星が、夜空から降臨したのに、気づく者はいただろうか。  小山の頂近くに、寂れた小屋を見つけた。戸が外れて、窓は割られている。男はそれを一瞥すると、また気にも留めず、山道へ戻った。或いは、気に留めている精神力さえ、とうに尽きていたかもしれない。  いずれにせよ、頂上は近かった。  男は半ば眠りながら、奇妙な登頂を果たした。その上には、轟音が荒れ狂っていた。無風の空間に、風音が煩く唸っている。散らかった頭に、そこに在るのは。  一人の少女。  「あれえ、真夜中にお客さん?ごめんなさい、お父さんはいなくてぇ…。」  「あっ、わたしはハイタだよ。居鷹ハイタ、まだこども。」  そう言うなり、彼女は両腕を広げた。  広げた両腕の先に、雪が積もっていく。  積雪は、白く輝く。  あまりの輝きに、男の目は眩んで、遂にみえなくなった。  無孔の小山に、霧が立つ。  朝でもないのに、霧が立つ。  ゆめが沸く。  何も無い。  ゆっくりと、瞼を開く?  男の姿は、雪山にあった。  標高8611メートルの、御山にあった。

勇敢に

去年の「あめ」は勇敢だった あくまでも勇敢だった 金木犀の香りは苦手なはずなのに ずんずんと香りの濃いほうへ進んでいった 香りの出どころであるその家にたどり着き わたしは深く納得した 薄桃色の首輪 きっとあちらは女の子 「あめ」は さわぐだけさわいだ 異性におおきくしっぽを振るなんて とてもわたしには 金木犀の香りにはやっぱり勝てなかった さささと帰りに向かっていった 今年もきっと「あめ」は ずんずんと向かっていくのだろう 勇敢に あくまでも勇敢に

夏の名残の蝉しぐれ

 それでも私にとっては大きな変化。けれどいま私は、元からあるもやもやと戦っているところ。肉を食べればいいのだろう。でもそういう気分じゃないっていうもやもやと、食べるにしても買いもの行かないといけないっていうめんどうくささ。肉くらい何も考えず食べちゃえばいいのに。そんなこともできない情けなさ。気持ちを変えようと開いた文庫本のなかで脇役の女性がおいしそうに肉を頬張って。まったく気持ちは変えられない。  雨かな。窓を開けて確かめてみる。雨の音はしていない。においも、雨の日のものじゃない。雨なら、買いものに行かなくていい理由ができたのに。そのことで、もやもやがしずまってくれるかはわからない。でも、言い訳にはなるのかな。  気持ちがまぎれるかとさわった窓ぎわのオジギソウは、葉を閉じて下を向いてしまう。あああ、しなければよかった。その姿に自分を重ね合わせてしまう。ああもうイライラもやもやするくらいなら買いもの行っちゃえばいいんだよ。肉焼いちゃえばいいんだよ。焼いちゃったら食べないわけにはいかないんだから。さっさとやればいいんだよ。まったく。と自分にイライラして、そのことにもやもやして。  置きっぱなしにしていた白いジーンズは、こじんまりしたフリーマーケットで買ったもの。そのポケットから夏の砂がほろり。庭ではたかず、新聞紙を敷いてその上で。集まったその砂に、思いを投げてみる。前の持ち主との日々の暮らしに、この砂はいたわり合った。あるいは旅先から、さらわれてきたのだろうか。さて少し、砂と一緒に冒険でもしてこよう。ついでに肉も買えばいい。外に出るための言い訳は、少しだけでも前向きに。

鍵っ子

奥さまが買い物から帰られると、アパートの玄関前に女の子が座り込んでおりました。 「鍵を無くしてしまって、入れないの」 女の子が指さしたのは、二階の一番奥の部屋でした。 「お母さんは?」 「夕方まで帰ってこない」 かわいそうに思った奥さまは、管理人を呼んであげることにしましたが管理人室は留守でした。 「少し待ってみましょうか」 女の子はうなずきました。 「おばさまも、ここに住んでるの?」 「ええ」 「どのお部屋?」 奥さまが指さすと、女の子はじっとその扉を見ました。 「おばさまは家族と住んでいるの?」 「いいえ。一人暮らしよ」 「そうなんだ」 少しの沈黙の後、女の子が言いました。 「管理人さん、裏のお庭にいるかもしれないよ」 「そうなの?」 「さっき見たの」 奥さまは女の子をそこに残し、建物の裏手へ回りました。 しかし、管理人の姿はありません。 ほんの数分のことでした。 玄関へ戻ると、女の子もいなくなっておりました。 不思議に思いながら二階へ上がり、一番奥の部屋を訪ねてみました。 出てきたのは、一人のお婆さん。 「女の子? ここには私しか住んでませんよ」 気味が悪くなった奥さまは、自分の部屋へ戻りました。 扉を開ける前、ふと気がつきました。 ――そういえば、あの子。 鍵を無くしたと言っただけで、 自分の部屋がどこだなんて、一度も言っていなかった そうして奥さまが自宅へ戻りますと、部屋が荒らされており、金品が消えておりましたとさ。

なんでもない土曜日

 今日の夕飯は理沙のリクエストでゴーヤチャンプルに決まった。うちの作り方でいいのか?と念のためソファに横たわる彼女に訊いてみたら、何でもいいよとスマホから目を離さずに応えた。 「ご飯炊いてないよ」 「レンチンご飯がかごに入ってる」  その言葉に冷蔵庫の横のワゴンを漁ると、確かに奥からパックご飯が五個出てきた。僕の家なのに家主よりも台所事情は把握しているようだ。ついでに袋詰めの麩も取り出しておく。野菜室を開けると、緑色のゴーヤのなかに一本だけ熟れかけて黄色くなっているのがあった。  夏の終わりの深緑を僕は台所の窓から眺めた。近所のイチョウ並木が色づくにはまだ三ヵ月はかかるだろう。  ゴーヤを四本と麩、そして玉子を三つとボウルを天板に並べる。  一つ目の玉子を割った僕に彼女は言った。 「今日ね、野良犬見かけた」 「珍しいな今どき」と僕は二つ目の玉子に手を伸ばしながら返した。 「どこで見たの」 「んん、県道のトンネル前で」 「へぇ」カチャリ――。  背後でソファから起き上がるような音がした。僕は玉子を三つとも割って菜箸でかき混ぜる。  うちの前をリコーダーの音色が通りがかった。拙い運指で何度ももたつきながら、それでも流れる曲がオーラリーだということは分かった。  僕は訊いた。 「オーラリーって歌詞が付いてたよな」 「あったよ」 「どんなだったっけ」  今度はゴーヤを切る僕の後ろで、あの〜とかええ〜とか唸る声がする。 「い、いー、」  そして彼女は歌う。  ――泉の中に 誰がいるの 耳をすませば 声がする  僕も一緒になって口ずさむ。  ――オーラリー オーラリー どこですか 「「ふぅん、ふぅん、ふぅん……」」  二人してハミングに切り替わって、お互いに笑い転げた。笑った弾みで僕は危うく指を切りかけて、理沙は痛って!と笑いながら叫んだ。 「最後なんだっけ」「なんだろうね」とひとしきり笑った。  僕は笑いの余韻に浸りながらフライパンにごま油を引いて食器棚から大判の皿を取り出す。丘の上に建つ僕の家からは南向きに海が見える。台所の窓は東向きだから、生い茂る木々しか拝めないが、リビングにいる彼女の方を見ると南向きの窓の向こうを眺めていた。 「知ってる?夏の始めと終わり頃は夕焼けが紫色っぽくなることがあるんだ」  僕は温まったフライパンにゴーヤを放り込んだ。 「へぇ」  と彼女は気のない返事をした。 「なんで?」  菜箸でゴーヤを混ぜながら僕は考えた。 「湿気とかじゃないか。決まって雨上がりの時だから」 「見たことないなあ」  気にしてないだけだろと思ったけれど、当然それを口に出すことはなかった。  麩を適当な量だけ袋から直にフライパンへ投入して、そこへめんつゆを注ぐ。炒めものの音を聞きながら、僕はふと蝉時雨が止んでいることに気づいた。  理沙が言った。 「明日さ、どこか行きたい」  一旦食材を皿に移して、僕はフライパンに油を垂らす。 「あ、ご飯温めて」  無視されたと思ってか「ねえ」と言いながら彼女は台所にやってきた。 「どこがいいの」 「行ったことない所」  僕は溶き卵をフライパンへ流し込み、彼女は電子レンジの扉を開ける。 「ねえ色んな所知ってるでしょ、どっか連れてってよ」 「明日の気分でどこに行くか決めるか。車で走ってれば思いつくだろ」  仕上げに皿の食材をまだ固まりきらない炒り卵のなかへ戻す。彼女は僕の隣に立ってからフライパンのなかをのぞき込んで一言、なにその作り方と呟いた。 「それなに?」「麩」 「……フ?」「味噌汁に入ってるやつ」 「それなら普通は豆腐じゃないの?なんで麩なの?」 「知らない。うちじゃ昔からこうだったから」 「変なの」  ピィピィと鳴る電子レンジに呼ばれ僕の隣から離れる理沙は、微かなホワイトムスクの香りを残していった。  シャンプーも柔軟剤も無香料を選んできた僕とは違って、理沙は香りを楽しめる人間で、おかげで、うちのリビングにもスティック型の芳香剤が置かれるようになった。  僕はゴーヤチャンプルを皿に盛って、彼女はパックご飯を茶碗に移しかえる。ダイニングテーブルで向かい合いに座って手を合わせる。 「何でもいいよって言ったのはお前だからな」  一口目を食べる前の理沙へ僕は釘を差しておく。返事もせずに彼女は我が家のゴーヤチャンプルを訝しげに見つめてから箸を伸ばした。 「……。おお、旨い」 「本気で言ってんの?」 「ちょっと味気ない」 「そう?」 「いや味気ないよ。ちょっと」 「素材の味がしてちょうどいいだろ」  僕の冗談をはいはいと軽く流して理沙はスマホでショート動画を開く。僕は明日の行き先を考え始める。  彼女のスマホから流れる音と食器の音だけが続いていた。なんでもない土曜日のこと。  すぐに忘れるだろうこと。

ストレス鞄

 ストレスが溜まっていた。  ずっと何かにイライラしていて、何にも手がつかなかった。   「ストレスを重さに変えます? なんじゃこりゃ?」    だから、ストレス鞄なんて怪しい商品に手を出してしまった。    家に帰って説明書を読むと、『鞄を背負うと、ストレスが鞄の中に溜まって重くなっていきます。鞄を置くと、ストレスが戻ってきます』と書かれていた。    半信半疑だが、もう買ってしまった。  恐る恐る鞄を背負ってみると、背中に紙のような重さがのしかかる。  しかし、時間が経つごとに、鞄がどんどん重くなっていった。  空っぽのカバンに、重りをゆっくり入れられている気分だ。   「お? お?」    一番驚いたのは、さっきまで心の中を彷徨っていたストレスが減り始めたこと。  感情を支配していたイライラが、撤退戦を始めていく。   「いい! これはいいぞ!」    幸い、鞄は大きくない。  持ち続けるにしても、邪魔にはならない。    ぼくは鞄を背負ったまま椅子に座り、勉強にメッセージの返信に、ストレスゆえに放置していたことへ、急いで手を付けた。    そんなことをしている間にも、鞄はどんどん重くなっていく。  自分の中に、こんなにストレスが溜まっているとは驚きだ。  いったい、どこまで重くなるのだろう。    背中がミシリと悲鳴を上げる。  一瞬、鞄を下ろすと思ったが、すっきりとした脳の魔力には抗えない。  ちょっとした筋トレだと考えて、手を動かし続ける。    ミシリミシリ。  シャレにならない重さになってきた。  一体全体、自分はどれほどストレスをため込んでいたのだろうかと嫌になる。   「ああ、もう無理だ!」    ぼくは肩の限界を悟って、鞄から逃げ出した。  床に落ちた鞄は、先程までの重さが嘘のように音を立てない。  そしてぼくの脳には、滝行のようにストレスが流れ込んできた。   「ううう……。きっつ……」    じんわりと溜まっていくのならさして影響はないが、一気に溜まると苦しいものがる。   「やっぱ、そう都合のいいものはないか」    ぼくは、型をぐるぐると回しながら、一つ一つストレスを解決しなきゃなあ、とい一人で誓った。