ラーメン(抜き)

『抜きの対応、始めました』    行きつけのラーメン屋で、妙な看板が上がっていた。  店に入ってカウンター席に着くと、さっそく事情を訊いてみた。   「大将。表の看板って?」 「ああ、実はな。俺のラーメンは、味のバランスを一から十まで拘りがあっから、今までトッピングの抜きは断ってたんだ。だが、何を抜かれようが旨いラーメンを出す。それこそが、ホンモノじゃねえかって思い始めてな」    人生、何度か転機があるものだ。  大将の場合は、今がそれなのだろうと、素直に感心した。   「大将、注文ー!」 「あいよ!」    カウンターの左端に座る客が手を上げた。  大将がそちらへ向かったんので、俺はメニューを手に取った。  今日は何にしようか。  拘り味噌か、拘り醤油か。   「拘り味噌ラーメン。メンマ抜きで」 「あいよ!」    どうやら、さっそく抜きが頼まれたようだ。  ちらりと顔を見てみると、常連の一人だ。  いつもメンマを辛そうに食べるから、印象に残っていた。    メンマが苦手な人間でも、大将の旨いラーメンを最後まで美味しく食べることができる。  他人事ながら、何故か俺が嬉しくなった。    抜き。  シンプルだが、素晴らしいシステムだ。   「大将、注文ー!」 「あいよ!」 「拘り味噌ラーメン。トッピング抜きで」 「あいよ!」    待て。  抜きすぎだ。  大将のラーメンはトッピングからにじみ出る味を加えて、初めて完成する。  それはもう大将のラーメンではなく、ただの素ラーメンだ。   「大将、注文ー!」 「あいよ!」 「拘り味噌ラーメン。スープ抜きで」 「あいよ!」    おい、どこを抜いている。  それはただの油そばだ。  卵を落として、卓上調味料のオリジナルブレンドで味付けでもする気か。   「大将、注文ー!」 「あいよ!」 「拘り味噌ラーメン。麺抜きで」 「あいよ!」    ラーメンのメンを捨ててどうする。  それはただのラーメン味のスープだ。  拘り味噌汁だ。   「大将、注文ー!」 「あいよ!」 「拘り味噌ラーメン。茹で抜きで」 「あいよ!」    ジーザス。  それはただの……なんだ。  茹でる前の麵って何て言うんだ。    いつの間にか、大将が俺の前に立っていた。  なんだろう、今までにないプレッシャーを感じた。  まるで俺も、この大喜利のごとき抜きに参加しないといけないような、意味の分からないプレッシャーを。   「注文は?」    俺は逃げるようにメニューに視線を落とし、目に入った言葉を読み上げた。   「拘り味噌ラーメン。『拘り』抜きで」 「あいよおおおおおおおおおおお!」        俺の目の前には、器と箸だけが置かれた。    翌日、看板は撤去されていた。    ついでにあの日、カウンターに座っていた人間全員出禁になった。

いっしょに…

暑い時期は 日になんども お庭の草花に お水をあげます めんどうではないです たくさんお庭の草花たちと 顔をあわせられることに よろこびがあるのです お庭の草花たちは わたしよりも 暑さに 敏感なようす 葉っぱがしなびてしまったり 丸まってしまったり 足元の土にしても かちかちと 乾ききっているのです しんどいようで 顔をあわせるたんび ぐったりした姿を わたしに見せるのです たすけて と言っているようで なんとも こころぐるしい… 鉢植えの子たちは 置き場所を考えて すこし日陰に うつしてあげたり そうでない子たちは ごめんね 夏が終わるまで がまんしてね いっしょに がんばろうね そう言ってあげれば よかったかな 反省と 反省と そして 後悔と 草花のつぎは 自分にお水を あげる番です 麦茶が とっても おいしい いまなら言えるかな いっしょに…

歳をとるということ

今日も、渋滞に巻き込まれながら前に進んでいる。でも今日はいつもとは違う。昔同級生だったあのイケメンと会うのだ。歩道を渡り終わった後、待ち合わせの場所へと向かう。 「お前、本当に魁斗(かいと)か?」 「そうだよ。俺がデブとでも言いたいのか。」 「ああ。それと、タバコ吸ってる姿は思い付かなかった。」 「そんなこと言うなよ。颯だって、めちゃくちゃ真面目そうな見た目してんじゃん。俺はそんな姿思い付かなかった。」 「僕はもう更生したんだ。あの頃を忘れて。」 魁斗はタバコをほいと地面に投げつけた。そしてもう一本タバコを吸い始めた。 「颯、お前といえばこの街一のヤンキーだった。でももう今は俺の方が悪さをしてんな。」 そして魁斗はまたタバコを投げ捨てた。 そのまた数年後、魁斗は亡くなった。車でタバコを吸っていたら、乗用車とぶつかったらしい。必ずそうとはいかないが、たぶん魁斗のせいだろう。そのまた数十年後、僕以外のクラスメイトは全員亡くなってしまった。何しろ僕は百歳だから。寂しいなんて思ってない。それがみんなの運命だから。また数年後、颯は亡くなった。

ボクノキミ

髪留め。買ったことはない 眼鏡。昔から視力は良く掛けるなら老眼鏡 口紅。付けてる仕草がフェチかな 瞳。瞳 髪型。ボブは皆好きじゃない? 服。控えめが好きかな 話し方。相手を重んじていたら好感度高い スタイル。身体の相性は抱くまで分からない 意思。尊敬出来る部分がある人 秘密。何度その人でしたか 空気。リラックス出来ないと一緒にいられない 考え。ポケモンで言えば草タイプ 思い。その人そのもの。 花。小さく可憐なそれ

セミ母ちゃん

「ねえ、知ってる? セミって成虫になってから、七日しか生きれないらしいわよ」 「知ってるけど、突然何?」    母ちゃんのせいで、アニメの声が聞こえなかった。  俺は再生を止め、アニメを十秒間に戻す。  そして、母ちゃんをギロリと睨みつける。    いつもなら、これで母ちゃんは謝って部屋を出て行くのだが、今日は何故だかニコニコしたままだ。  部屋を出て行く気配もないし。  正直、鬱陶しいのだが。   「なんだよ?」    俺は立ち上がって、母ちゃんに近づいた。  母ちゃんは、ニコニコしたままだ。   「あんたが仕事辞めて、セミみたいにミンミンミンミン文句だけ言う生活が始まって、もう六日目ね。明後日にはどうなってるか、楽しみね」    俺は走った。  走りながら、ハローワークの場所を調べた。  やるといったらやるのが母ちゃんだ。    すぐに職など見つかるはずもない。  俺は隙間バイトで金を稼ぎ、母ちゃんに納めることで、セミから人間に成ることに成功した。

18:30発

偶然に偶然が重なって いつも向かい合わせのあの人と、隣に座って話をした こんなこと、最初で最後かもしれない 夢みたいだったけど、夢じゃなかった 一時間残業してよかった 何気なく、あの人の手を見る 意外と指太いんだな 男の人の手って、こんな感じだっけ 忘れちゃったな 自分の手を見る こんがり日焼けして、腕は傷だらけ こんなんじゃ、恥ずかしくて手繋げない って何、考えてんだ 夢を見させてもらった 六分間の夏の思い出

ナイトクラブ魔法使い

「朝までパーリナーイツ!」 「イエーーー!」    若者が集まれば、そこは朝だろうが夜だろうが、輝く場所だ。  ミラービールがくるくると回り、赤だの青だの、大量の光が部屋中を照らしていた。  室内だというの風がぐるぐると吹き、風に乗った桜の花びらが歌の邪魔をしないよう、若者たちの頭上で舞う。   「ネックスト、ナンバー! ワールド・イズ・アワーズ! 世界は、俺たちのものだー!」 「イエーーー!」    重低音の音響が、建物全体をぶるぶると震わせながら、夜はどんどん更けて行く。       「お疲れさまっしたー」    客の若者たちが帰り、開場には桜の花びらと、食べかけ飲みかけの料理だけが残る。  とはいえ、一晩を超えた料理は乾ききって、とても食指が動きそうにない。   「づがれだー」    かつて世界を救った魔法使いは、簡易ベッドへと突っ伏した。   「お疲れしゃーす」 「お疲れー」    スタッフたちは、寝そべる魔法使いに声をかけ、部屋の掃除へと向かう。  魔法を使って  光や風を生み出し続け、疲労困憊も魔法使いを掃除要員にもするほど、彼らは鬼ではない。   「魔法使いさーん。お水いります?」 「くださーい」 「はいよっ」    魔法使いはベッドから体を起こし、水を一気に飲みほした。  自分の魔法で作れないわけではないが、浄水された有料の水の味はまた格別なのだ。   「あー、多少は生き返った。家帰って、寝よ」    魔法使いは日払いの銭を受け取って、職場であるナイトクラブを後にした。  客として参加するには、魔法使いも良い年齢なのだ。    帰り路、早朝故にほとんどの店が開いておらず、二十四時間営業のハンバーガー屋か牛丼屋かを悩んだ結果、ハンバーガーに決めた。  店の中には若者の姿も見えず、勉強をしている大人たちと、スマイルゼロ円の店員たちだけがいた。   「いらっしゃいませ。ご注文は?」 「ダブルミートバーガーケチャップ大盛りで」 「ご一緒にポテトはいかがですか?」 「Lサイズを」    料理をもって、テーブルへ向かう。  若者の真似をして写真を撮り、はしたなく大口を開けて、ハンバーガーに齧りついた。  噛んだ勢いでケチャップが発射され、頬っぺたに血のような赤が付着する。   「あー、最悪」    もっしゃもっしゃと咀嚼しながら、テーブルの上にあった紙ナプキンで、ケチャップを拭きとる。   「……最悪、かあ」    紙ナプキンをぐしゃぐしゃに丸めながら、そんな言葉が出た自分に驚いていた。    世界を救うために勇者たちと旅をしていたこを、最悪とは文字通り命の危機だった。  無数の魔物に取り囲まれたり、落とし穴にはまって底の見えない穴に落ちたり、テントを開けたら勇者と僧侶が仲慎ましくしていたのを目撃してしまったり。  しかし今は、ケチャップごときで最悪を感じる自分に、世界は平和になったのだと感動さえしていた。    ハンバーガーを食べ終えて、お盆を返却口へ返す。   「ありがとうございましたー」    ハンバーガー屋さんを出てから、紙に書きなぐられた今日のバイト代を見る。  世界を平和にした時、お上からもらった金額を考えると、ゼロが四つか五つはたりないショッパイ金額が書かれていた。   「魔法って希少だから、もうちょっと給料あがらないかなあ」    目の前に箒タクシーが飛んできたので、魔法使いはまたがって、家に向かって飛んだ。

人差し指に残ったもの

人差し指に残った感覚 君の声と君の香りと君の表情 あの数分で僕と君はあまり相性が良くないと僕は思った だけどいつも君を抱いているのは 君の身体が好きだから 君は僕の玩具でしかないよ 死ぬまで君と遊ぶのさ 最低だろ 好きなんだからしょうがないのさ 僕に唾を吐けばいい 僕は美味しくいただくだけさ 今夜も君を抱いて眠ろう 君の気持ちなんか気にしない 俺はお前が欲しいだけなのさ

傘の行方

ある日の午後。 認知考古学の教授が、学生の前でマイクを握った。 「みなさん。人が道具を本来の目的以外に使い始めたのは、どの時代か分かりますか?」 「旧石器時代に、石を遊びに使ったのが最初だと思います」 「その通りです」 教授が、背後のスクリーンを指した。 「今日のテーマは、それを踏まえて『道具の目的外使用』について考えたいと思います」 学生は耳を傾け、ノートをとった。 「これを見てください」 黒い傘を取り出し、学生たちに向けた。 「この傘。駅のホームで中年の男性が持つと、どんな行動をとるでしょうか?」 「あっ、ゴルフのスイングをします」 教室に笑いが起こる。 「それから、女の子はバトン、男の子はチャンバラとかに使いますね」 「お年寄りが杖に使うのもそうですか?」 「はい。それも目的外使用です」 教授はうなずきながら、学生を見渡した。 「では、ここまでで何か質問はありますか?」 最前列の学生が手を上げた。 「ちょっと気になってたんですけど、額のガーゼ、どうされたんですか?」 教授は笑いながら、傘を開いた。 「昨日、妻が機嫌悪くてですね……」

有る国の交流

私は有る時からずっとこう為る事望む様に 為った一番身近な国同士の交流もしやこれ 神が動いた結果かも知れない世界が神支流 と為る時日本の行方は何処神を騙りLINEへ 引き込み金銭強請る人間達の神ビジネスに 果たして真実は有るのだろうか反日教育の 意味とは神界が日本界の扉を閉ざした証明 かも知れない

遠雷

海は、海を眺めるばかりで退屈 泳げないなら、なおさら 背を向け、沿道に目を向ける 自転車でふたり乗りの女の子たち 合唱してる歌声が風にかすかに流されて 青春よねえ 数年前の自分とあの子を重ねる 遠い雷に、互いの想いを問いかけて ふたりで風船を飛ばしたあの日みたいに いまでも好きなのに

アカウント削除

 心機一転したくて、SNSのアカウントを削除した。  何度アクセスしてもアカウントページが見えなくなり、一か月後に完全削除のお知らせが届いた。   「これで、本当に終わったんだ」    私はいくらかの開放感を感じながら、スマホからアプリをアンインストールした。   『ねえ。あんた、復活したの?』    一週間後。  私にSNSの外から、メッセージが届いた。  私のアカウントを知っている、数少ないリア友だ。   『してないけど』 『嘘。まったく同じIDと名前のアカウントがあるんだけど』    私はすぐに、削除したはずのアカウントページへと飛んだ。  そこには、私の過去アカウントと同じIDと名前を持つ、別人のアカウントがあった。  何故別人と言えるかと言うと、アカウントの画像も、投稿している内容も、私とは別人だからだ。  偶然の一致かとも思ったが、IDと名前が奇跡的に一致することなど、あるだろうか。   「き、気持ち悪い」    私は捨てアカウントを作って、なりすましアカウントだと通報したが、運営からの返事はノー。  アカウントが完全削除された時点で、そもそも過去のアカウントは存在しない。  なりすますもなにも、なりすまし元がないという結論だった。    もっともだ。  全ては、アカウントを削除した私が悪い。    私はスマホを置いて、別のアカウントだと気にしないように心掛けた。  しかし、何をしていても、私のIDと名前で好き勝手やっているやつがいるという事実が、私の記憶の隅っこに居座り続けた。    もういらないと消したつもりが、大事なアカウントだったのだと、消してようやくわかった。    アカウントを返して欲しい。  駄目元でメッセージを送ってみたが、メッセージに既読がついただけで終わった。

月と太陽示す真実

太陽は地球の周りを回転して早朝顔を出すが もしや月もその後追い賭け回転して夜顔出して るかも知れない白昼現れる月も偶には有るけど 今現状の3次元の館では其れ冴え伺う事出来ず 黄金の太陽が懐かしい再度神との静寂で不思議 な空気に紛れたい3次元の日々は騒々しい人間 は弱者を侮る生き者だ1人静かに努力する老婆 子供の様に奇声上げる者、この時空に最寄りの 無い私も今は弱者だから人間が示す哀れみと言 う名の偽善と優越感冴え伺えたやはり人間達は 今後神や宇宙とは共存不可な生き者かも知れない

大きなカブができるほど

ブックカフェの空気は、誰かのしらの謎に満ちた熱であふれている。 「いちごミルクかしらね」 どこのテーブルから聞こえてきたのかわからない誰かさんのその言葉に、ステキだなあと思ってしまった。あなたと一緒に食べたいかき氷、の返答としては最高と言える。 「ちなみに私は、夏の夜空を見るのが好き」 また聞こえてきた発信元のわからない言葉。やっぱり、ステキだなあと思ってしまう。これだけは夏に欠かせない、の流れからだったら満点の回答。冬の痛むような冷たい星空と違って、少し湿り気のあるむしむしした空気のなかでのあれ。デネブ、アルタイル、ベガ。それだけでも勝った気分になれる。 「大きなカブができるほど、お庭は広くないですから」 ちょっと想像できない。どんなシチュエーションからの言葉だろう。 ―それでも何かつくってみたくない? ―トマトつくってみたいかな ―ミニトマトは? ―どうかなあ ―トマトができたら、パスタつくりましょうよ ―じつは、ピーマンもけっこう好きだよ ―きゅうりは? ―酢のものなんてどう? ―レタスがあったら、うさぎが来てくれるかしら ―なすをつくると、雨が降りそうだ ―枝豆なんてどうかしら ―ビール飲みたくなっちゃうなあ ―大きなカブができるほど、お庭は広くないけれど ―あれもこれもと思いは広がるねえ きっとこんな感じだ。 ブックカフェの空気は、誰かのしらの謎に満ちた熱であふれている。でも、私の物語は、まだまだ進んでいかないみたい。

寄生虫と共存虫

 専業主婦は寄生虫だ。  だから、俺にとって嫁は、ただの家政婦。  いつ捨てたってかまわない。   「先輩! 俺、ついに離婚してやりましたよ!」    後輩からの朗報を肴に、俺はビールをごくりと飲んだ。   「ついにか! やったな!」 「ええ! うちの嫁……いや、元嫁か。金がない金がないって言う割に、自分は友達と旅行して高い化粧品も買って」 「いいぞいいぞ! そんな嫁、捨てて正解だ!」    後輩の話を聞いていると、どんどん酒が進んだ。  脳が飛び出しそうなほど興奮し、俺も行動せずにはいられなくなった。   「先輩も、さっさとそんな夢捨てちゃいましょうよ! 糞嫁のいない生活……自由っすよー!」 「ああ! そうだな!」    後輩と別れ、俺は上機嫌で家へと帰る。  玄関を開けてリビングに向かうと、洗濯物を畳んでいる途中の嫁がいた。   「おい! おかえりは?」 「ああ、帰って来てたの。お帰りなさい」    のんきな嫁の声を聞いていると、いらいらが募ってくる。  いったい、今何時だと思っているのか。  もっと手際よくやっていれば、今頃家事なんてしなくてもいいじゃないか。  そう思うと、嫁のために働く自分が馬鹿らしくなってきた。   「お前、洗濯くらいもっと早く終わらせとけよ!」    俺が起こると、嫁もむっとした顔をしてきた。   「仕方ないでしょ? 昼は昼で忙しいんだから」 「何に忙しいんだよ?」 「お買い物でしょ。お料理でしょ。お掃除でしょ。それから」 「あー、もういい! そんなの、俺なら全部、夕方までに終わらせられる!」    俺は嫁に一歩近づき、嫁を見下ろしながら吐き捨てた。   「このまま俺の金に寄生するって言うなら、離婚だからな?」    俺は、ついに言ってやったという高揚感で、鼻の穴が膨らんだ。  嫁がどれほど怯えた顔をし、捨てないで欲しいと泣きついてくるかを考え、口角を上げながら嫁を見た。    嫁は、冷笑するような目をして俺を見ていた。   「な、なんだその顔は? 離婚だぞ? いいのか?」 「貴方、自炊はできるの?」    そして、矢継ぎ早に言い返してきた。   「大学生の頃、外食三昧で太ってたのは誰だったかしら? 今みたいに、食事の栄養を管理して、痩せてかっこよくさせてあげたのは誰? ろくに掃除もできないで、部屋中埃だらけで、ぜんそくが悪化したのは誰? パンツの場所は分かるの? アイロンはかけられるの? 貴方が来ているシャツ、誰のおかげでシワがついてないと思ってるの? 社員旅行、随分と服のセンスを褒められたんだっけね。その服を選んだのは誰?」    いつの間にか、良い派冷めていた。  高ぶっていた心は、冷凍庫に放り込まれたように冷え切っていた。    俺は、何も言い返すことができず、小さく俯いた。   「嫁ちゃん、です」 「分かればよろしい」    嫁は洗濯物をてきぱきと畳み終え、そのままお風呂に向かっていった。  俺はと言うと、その場を微動だにすらできなかった。    頭の中に浮かぶのは、何もできない赤子のような俺の姿。    嫁に寄生されたと思っていた俺は、いつしか嫁と言う存在がなければ生きられない体になっていたらしい。  嫁が畳んだ俺のシャツを手に取って広げ、畳み直してみようとする。    しかし、目の前にできるのは、理由もわからずシワができるシャツ一玉だった。

伝えたい

瓦礫の上に頬をあずける。金属の冷たさが、ゆっくりと肌に伝わってくる。 地平線の縁が、にごった赤色に変わっていく。街のあちこちで、アンドロイドたちのレンズがそれを捉えているはず。彼らにとって、これは単なる照度の変化にすぎない。日没までの残り時間を計算するための、ただの数値として。 風が吹いて、湿った土のような青い匂いが、鼻先をかすめる。肺の奥まで吸い込むと、心臓のあたりが少しだけ重くなった。 かつては、誰かにそのことを伝えていた。けれど、ポケットのなかの端末は冷たく黙ったまま。ネットの向こう側は、効率化の結果として人間が少なくなり、AIたちがやり取りする記号の海へと変化している。 もう、この夕陽の美しさを分かち合える誰かは存在しない。ネットワークの向こう側に言葉を投げかけたとして、返ってくるのは最適化された無機質な共感だけだ。 それを、共感と呼んでいいのなら… それでも、私は指を動かす。意味をなさなくなった画面の隅に、あるいは、指先の感覚が届く限りの地面に、言葉を書き連ねていく。それが誰に読まれるためでもなく、明日には風にさらわれ、データの海に埋もれる運命だとしても。 ―ここには美しい空があった その事実を記し続けることだけが、私がこの冷え切った世界で、まだ熱を持った生命体であるという唯一の証明となる。 足元の砂に指を沈めてみる。 ―伝えたい ただ、それだけを砂に呟く。 また風が吹いて、文字は、さらさらの粒へと戻っていく。 明日も、今日と同じような空だろうか。 今日とは、少し違う風が吹くだろうか。 深く息を吐き出す。 頭の片隅に淡く残った真っ赤な夕陽をなぞりながら、冷たいコンクリートの上で、眠りに落ちる。

いつものように

揺れるススキ皆で手を振る 真っ白なガードレールに錆びた記憶 冷たい子どもの足 ゲームの続きをしようよ ナイトフィーバーはいつも通り ナイトフィーバーはいつも聞こえる 何処かで虫が鳴いている 渇きが遅い靴だけ干して もう布団に入ろうか 明かりを消すよ音を下げるよ 君の声が、君が寝たら裸になろういつものように ナイトフィーバーが聞こえている ナイトフィーバーが呼んでいる 何処かで虫が鳴いているうるさいくらいに

ネリマアツイ

 暑いぞ。 今日もソリッドステードシティーネリマは(そう言いたいだけやん)都市の電力網を圧縮して省エネしている。 それは他の世界都市も真似したがる画期的なものなのだが僕のうちのエアコンも新調して省エネに一役買っている。 でも何故か暑い。 それは国の中枢部の税金の無駄遣いとリンクしているのだが生かさず殺さずな政策は今日も省エネに勤しむ人達を苦しめる。 次は湧き水が狙われる。 その次は女子供だ。 朝霞にある軽水炉は秘密なのだがネリマにある高速増殖炉は小学生の工学生達のジャンクパーツの格好の集め場だ。 ネリマの悪ガキはサッカーボールに内蔵してある反重力エンジンを使って判定を掻い潜ろうとするがJAXAの判定装置も優秀なので審判にいつもイエローカードを取られる。 デジタルツールはマンホールの中にあるワームホールから取り出せるのだがいつもそれを取り出せる優先順位は上級国民からだ。 貧乏な物理屋は相対的に人口の足りない数学屋と科学屋にいつもいいところを持っていかれてしまう。 職人の労働者は泣いているナードやギークに時おりファミチキの残飯をくれる。 プレップ達は夏のフェスに向けて百貨店に買い物に行く。 夏のコミケは有明で商業主義に飲まれネリマの省エネを台無しにする電力を消費する。 僕はゴスの娘とすれ違いギターが弾けたらなぁと思いながら漫画と物理の本を図書館に借りに行く。 ジョックの試合に出て狩猟社会の厳しさを知り身体が丈夫なら山登りするのになぁ、と今日も自転車を漕ぐ。 僕の部屋は精液とヤニと汗の匂いでカルト宗教施設のような体をなしているので近所の人の監視によって動きが取りづらい。 経済テロリストの手伝いをしているかもしれないが企業からお金を奪わなければ維持できない派閥もいるかも知れないので放っておいてある。 財閥系の女の子に気に入られていたが最近会わなくなってしまった。 パトロンがいないので明日も暑い中知り合いにお金を借りに都心に出る。 圧縮された都市は大暑を向かえる。

walk

しかたがない。 あきらめて、となりの駅まで歩くことにする。 線路に沿って狭く、暗い道を進んでいく。 途中、小さな踏切に立ち、伸びていく線路を見やる。 さっき通りすぎた駅が見え、そして、となりの駅は、まだ、彼方か… 無意味に純喫茶のノスタルジックなメニューが頭に浮かぶ。 僕の気持ちを、いくらかでも若返らせてくれるのか。 そんなこと、望むなんて、できっこない。 足の運びは鈍い。 硬い寒さが激しく刺してくる。 心にできた無数の穴は、ふさぎようがない。 ため息すら、ずしりとしている。 腹が、訴えてくる。 何かよこせと。 落胆してても、腹はへるのか。 おもしろいものだ。 いったい、何をしてんだ。 僕は、いったい…

君は僕の全て

手を繋ごう 逸れるといけないから 手を繋ごう こうすると楽しいからね 手を繋ごう やっと会えた喜びが伝わるから 手を繋ごう 意味なんて無いそうしたいんだ 笑って話す君が可愛くて こちらも笑ってしまう 待たしてごめんね これでも飛んで帰ってきたんだ 笑って話す君が愛しくて あれもこれも買ってしまうよ それでも遠慮する君は 僕の生まれてきた意味なんだな 君は僕の全てなんだな

ぶうちゃんのお鼻

 静かにしないといけない空間で一番に騒がしくしてる雨に、何も言えない。ページをめくる音さえもかき消されてしまう。  過去の自分の日記には、自分の苦悩はあるけど自分自身はいないのだな。な、ん、て、ね。ちょっとそれっぽいこと言ってみたかっただけだ。  ぶうちゃんは、雨やまないね、という意味を含んで私に微笑みかける。お鼻がブタみたいで私が胸のなかだけで勝手に「ぶうちゃん」と呼んでるヒロエは、最近きれいになった気がする。引っ越しとか、さまざま手続きとか、立て続けでたいへんみたいだけど、表情は生き生きしている。よかったね、離婚して正解だったのかもね、言葉にはしないけど。これからは犬と暮らすよ、そう言ってぶうちゃんは子犬を紹介してくれた。そうですか、ぶたさんはわんちゃんと暮らしていくことにしたんですかあ。私は心の底からの笑顔をぶうちゃんにしてみせる。ありがとね、私を笑顔にしてくれて。

宿無し ②日中(途中まで)

浮浪者のBさんの日中はとにかく歩く 理由はいくつかあるが、一番根っこの理由は歩きたいと体が言うからだ Bさんはこの現象をよく考える あれこれ考えた結果は体が健康を維持したいから。歩くと身体に良いから。 例えば、筋肉がほぐれる。景色が変わるので気分が変わる、無駄に悩む隙をなくす。そんなとこじゃないかなと考えているBさん。 歩いていると本当に色んなものが落ちている。 今もヘアピンを一つ拾ってBさんは自分の髪に付けた 線路の向こう側は米軍基地で広い草原地帯にポツンと倉庫がたっている。戦闘機のようなものはなく、倉庫の他はコンテナがいくつか置いてあるだけだった 散歩中の犬が笑いながらBさんに近づく。飼い主のオバサンは急いでリードを引き早足で駆けていく 夏の陽射しがアスファルトの向こうをゆらゆらさせている 紙煙草のボックスが落ちている まだ半分程残っている 煙草を吸ってみたが不味くて捨てた感じだろう。愛煙家は吸ってない煙草を落としたりしない。 また少し歩くと口の空いた缶チューハイが置いてある 拾って少し飲んでみる。ぬるいが変な味はしない。Bさんは構わず飲み干す。 宛もなく歩いている。 特に予定があるわけでもないから 靴底が擦り切れてその内壊れそうだがBさんは気にしない。必要な物は必要なタイミングで見つかる事をBさんは知っている 仕事をしている時もそうだった 退職者がいるので早めに求人をかけたが、全く集まらず気ばかり焦ったが蓋を開ければいいタイミングで経験者が入社するなんて事がよくある。 もっと言えば、会社なんか誰が辞めてもどうにでもなる。どうにかしていかなくてはならないし、結果収まるように収まる。過剰な責任感は要らないと、今なら分かる。 「レインボー保育園」 書いてある言葉を意味も無く独り言する 前から歩いてくる若い母親と小さな子が手を繋いでいる 今通り過ぎた保育園に行くのだろうか あんな小さな子と別れなくてはいけないなんて、さぞ辛いだろうに。 そうでもないのか。結婚し子供を育てると仕事が気分転換になる。楽しい時間とさえ思える。若いときは休む理由ばかり考えていたのに。 自販機の前に飲みかけのコーラが捨てある。ペットボトルの蓋は締められている。まだ半分は残っている。ゴミ箱は見た所どこにもない。 物は売るが捨てる場所は提供しない。このスタイルが増えてきたように思える。買ったものは持ち帰って捨てればよいが、バッグを持ちたがらない人も多い。邪魔になり道に置く。捨てるのではなく置いて去る。それを俺が拾う。直接渡してくれても良いのだが。 どうでもいいが日中は本当にオジサンが歩いている。彼等も俺と同じく「身体が歩けと言っている」のだろう。 何もしていない自分に嫌気がさすのだろう。奥さんがいれば、家にいて申し訳ないとも思うのだろうし。 昔はあんなに(知らないが)愛し合っていた二人が今は気を使って離れている。皆そうなのだろう。 俺が結婚した時も妻は男友達の一番人気だった。派手ではないが落ち着きがあり何より美しい。 永遠の愛は十年持たなかった。 結婚三年目で昇進と出産 2026/07/16ここまで

マスクと傘

手の平に氷 を乗せて溶けるまで待つ つめたい感覚がなくなるまで なくなったら掌をつねってみる げんかいまで力を入れても感覚が ばかみたいになっていたら よ〜く暖まったお風呂に手を入れる かゆくなる。 って、そんな事は分かっている ただ夏だからバカになりたいと思って

ライブハウスの楽屋の中で

次の曲が終われば、うちらのバンドの出番だ メンバーを見ると各々好きなように過ごしている ギターのケンちゃんが500の9%を飲み始めている 「そう言えばこのバンド何年目だっけ?」 「ん…組んだ時お前の子供が産まれたばかりだったから7歳?9歳?」 「8歳ね。8年か」 麦茶でも飲んでいるかのように9%を流し込んでいる。 ナッチンは加え煙草でスティックをブルブルと振るわせている。イヤホンをしているので曲の確認をしているのだろう 「今日は飲まないの?」ビールを差し出すと「もう飲めない」と答える。唇の先で煙草がブルブル震えている。 イクミンはスマホで歌詞を確認している 「トヨさんはいつも緊張してないですね」 イクミンの表情が強張っているようにも思えるがメイクのせいでもないのだろう 「そうかな…」 ビールを差し出すが結構ですと手のひらを押し出された 楽屋横のステージで曲が盛り上がりを迎えている。後8小節といったところだろう。 振り向くとメンバーは立ち上がりステージに行ける体勢になっている 8年 特に何を目指してきたわけではない そんな事は若い時に力の限りやってきた 夢を追いかけて追いつかなかった、自分の足を止めるまでの時間が、僕らには必要だっただけなのだ ステージが明るくなる

雨が降りそう

雨が降りそう 草木が降るぞ降るぞと煽っている 太陽も暗くなり始め雨を演出している 灰色のコンクリートが前に出て雨のファーストキスを狙っている 風がイントロを弾き出す 後もう少し、後もう少し、皆が空を見上げれば雨が降下を始めるだろう 今頃「またどこかで」と言葉を交わしているだろう

かげふみ

今日も青い空のはるか高いとこから見下ろしてくる。 夏の真っ赤な太陽が、僕の足元に影をつくる。 濃く、短く。 これがもう少し短くなったら、きちんと気持ちを伝える。 あの子に、ちゃんと… でも、その決意はゆらぎ、黒い塊は、もっと小さく… さらに、見えなくなってしまい、影はその行き場を失う。 僕の気持ちも、どこへもって行けばいいのかと。 わからない― 僕が気持ちを伝えなかったとしても、何かが起きることはない。 何かが変わることだって… それでも― と、新たな決意もまたゆらぎ、影はじりじり短くなるばかり。 あの子が僕の気持ちを知らなくても、世界が壊れることはない。 壊れてしまうのは、僕のなかにある… けど―

夜は明けるから #16

「ボールを取ろうとして」 リッカは俯いたまま話し始めた。 アルバートとインダは「ああ、あのボールか」という風な反応を見せた。レイとミミはまだよく分かっていないようだ。 そして、私が何のボールだろうと思考を巡らせていると、カウルがリッカの方をちらりと見やって申し訳なさそうに、一言漏らした。 「僕のせいだ」 そこで、アルバートが私にも分かるように事の顛末を事細かに話してくれた。 私がここにやって来る数分前、みんなは私を驚かせるために歓迎会を開こうとしてくれていたらしく、その準備をしていたのだそう。 しかし、カウルはすぐに退屈になってしまい、リッカやインダの目を盗んで外に遊びに行ってしまった。 しばらくして、レイの報告によってカウルがいないことが分かり、リッカがボールのある外にカウルを呼びに行った。案の定、ボール遊びに耽けっていたカウルはその場でリッカに説教され、ボールはリッカによって遠く、高く投げ捨てられてしまったのだそう。 リッカは見た目によらず、ボールを投げるのが上手だそうで、アルバートは「大事になったなあ」と俯瞰していたらしい。 もちろん、カウルは号泣し、インダとミミがカウルを慰めていた。アルバートはリッカにやり過ぎだと諭したが、リッカはそれを無視して私の歓迎会を準備してくれた。 なるほど、カウルの自己紹介がぶっきらぼうだったのはリッカと仲違いしていたからだったわけか。 しかし、私が孤児院に来てからもカウルの機嫌が治らないのを見て、少し申し訳なくなって、自分の投げたボールだからと、今の今まで懐中電灯を持って外を探していたのだそうだった。そのとき、孤児院の屋根まで伸びた木の枝が、屋根を転がって落ちる寸前で止まったボールを支えているのを見つけ、リッカは寝室の窓からその枝を突つこうとしたらしい。 結果は失敗。枝を掴み損ね、体勢を崩して静かに二階から転落した。 「ボールはすぐそこにあったのに、伸ばした手がボールから離れていくのを、見ているしかなかった」 リッカは落ち着いた声で、私に話す。 アルバートはそんなリッカを見て、「安静にしてていいよ、あとは僕らが何とかするから」と、背中を見せて台所に向かった。 「いや、私がやるよ」 リッカが立ち上がろうとすると、それをインダが制する。そして、リッカの目を見て優しく呟いた。 「ありがとう、リッカ。でも、今日は休んで」 リッカは目を丸くして、インダの背中を見送った。 「お姉ちゃん、大丈夫?」 ゆっくり寄ってきたのはミミ。人形をキュッと握るその手はお姉ちゃんを見つけることができなかった妹なりの後悔を感じられた。 「大丈夫、ちょっとドジやっただけ」 「お姉ちゃん」 ミミはまだ姉の「骨折」をよく理解していない。だから、添え木も無視して全体重をかけてリッカに寄りかかり、抱き締めた。 私はひやっとして思わず声を出しそうになったが、リッカはミミを受け入れ、抱き締め返した。まだ足も痛いはずなのに、折れた方の足で踏ん張りながら妹を。 私はリッカが笑っているのを見て、姉の魂を感じた。 私は二人をソファに残し、台所を覗いた。すると、こちらでもまた一悶着している。アルバートが「危ないから無理だって」と制するところを、カウルが「リッカのために」と包丁を持とうとしている。 私は肝を冷やした。 すぐに止めに入り、カウルから包丁を奪い取る。カウルは私の慌てた顔を見て、「包丁を返して欲しい」とは言わなかった。むしろ、落ち込んだ様子。 アルバートは安心して私から包丁を受け取る。 「カウル、今日の夜はトーストにしよう。包丁を使わなくても作れるよ」 カウルの目が光を取り戻す。 「作る!」 インダはカウルの肩を持って、パンの籠を指さす。そして、アルバートはトースターの位置を指さした。カウルはその指に沿って歩き、何をこなすかの指示を出さなくとも、トーストを焼き始める。 「お母さんは子どもいたの?」 「いないよ。でも、私も子どもだったから」 「じゃあ、お母さんもカウルみたいだったんだね」 アルバートは私の傍でそんなことを言ったあと、カウルに駆け寄って行った。 「優しいだけじゃない」 院長の言葉に、今の私なら付け加えられる。 あの子は「よく見ている」。院長はそう言いたかったのではないだろうか。もう、私のことまで。 昔にボールを失くしてわんわんと泣いた幼い自分の影が、頭の奥を通り過ぎて行った。反響する泣き声に孤児院の喧騒が絡まり、トーストの匂いが鼻をくすぐり始めたところで、現実に戻る。 「できた!」 カウルの前には少し黒いトーストがあった。 【つづく】

16:58/18:01

左目の近くの髪が曲がっている 朝着ていたシャツが汗臭い 虫よけを丹念に吹きかける 靴下に穴が空きそう。底の方 緑が盛り上がりを迎えている アリの歩く速度を人の大きさで考えてみたら急に恐ろしくなった 変な咳が出る 若い女性が皆可愛く見える 同世代の女性が皆素敵に見える 年上の女性が皆美人に見える いや実際にそうなんだろう 自分のお腹を見ては痩せようかなと思う もうすぐ秋かと思うほど暑い 皆が持ってる小型扇風機がマイクに思える。これから一曲歌うんじゃないかと。イントロ中なのではないかと。 トトロは本当にいるんじゃないかと思っている 子供が何か歌っている お爺さんも歌っている クーラーを作った人はノーベル賞をもらっているのだろうか 会話しながら電車に入って来る人 学生の話はいつも初々しい どんなに繕ってもどうして歳がある程度分かってしまうのか バッグにぶら下がっているぬいぐるみ達もラブストーリーはあるのだろうか 皆、限りある命の子 電車の中のアリは降りた先で帰ってこれるのか まだ知らないと言うことは知る楽しみがあるという事 ベテランほど白が似合う ベランダは思ったほど汚れない 泣いている他人の子供を心の中でなぐさめている 気持ち悪いオジサンにならないように気を付けるほど気持ち悪さが増す 何で生きてるんだっけ 草木が「バイバイ」をしてくれる 発車メロディを弾けるとは思えない 恋人の会話ほど聞く必要のないものはない 若い女性の居眠りが肩にかかるのは嬉しい オジサンの居眠りが肩にかかりそうになると頭を引っ叩く 電車内で小さな子が泣くのは気にならない。懐かしくて嬉しくなる。 革靴。あれはなんですか? ネクタイ。あれはなんですか? セーラー服。化石になっても残しておいたほうが良い スマホを見ながら歩いている人ではなく 歩いている人に持たれているスマホだ いつかお尻の食い込みをなおしたい ベランダに女性の下着が干してあると「ヨシ!」と思う 年配の方の物だろうという推測を振り切って 可愛い声に弱い 女性は皆、美しく 男性は皆、…………出てこない 好きにすればいいし 好きにしようと思う、出来れば。 とにかく今日も一日生きて帰れた そんなんで良いと思う 汗臭くなければ尚良し。

木の陰のドキドキ

放課後、中学の友達とイオンでドーナツを食べながら何でもない話で盛り上がり時間を過ごした 私だけ違う方向だったので一人で歩いて帰る 帰りに公園に寄ることにした 最近、野良猫が住み着いたのか行けばサビトラの猫がどこかにいた。人懐っこく近付くとにゃあにゃあ言いながら寄ってくる。 公園に着いて猫を探していると公園の向こう側にあるラブホテルから母が男の人と出てきた 母は女性らしい表情をして、女の人って感じだった。あまりにも衝撃的だったので、今思えばそんな感じに見えた。ということだけど。相手の男性は優しそうな人。お父さんより若い気がする。スラッとした人で確実にお父さんより痩せている。 私は驚いて木の陰に隠れた 胸がドキドキして喉から飛び出てくるんじゃないかって思ったほど。 もう一度見ようと木の陰から覗くと母と男の人が公園の中に入ってきた私の近くに来て、私が隠れている木の側で立ち止まって「次はいつ会える?」「離れたくないな」と母が言う。 ここからどこかへ飛んで逃げたいと何度も思った 気が付くとサビトラの猫が私に気が付いて凝視している。あの人間はあんな所で何をしているんだ。みたいにこちらを見ている。 母と男の人はどこかへ行ってしまい私はコソコソと家に帰った。 家に帰ると兄が既に帰っていてリビングで勉強をしている。私が帰ってきたのを見ると「何か作ろうか?」と聞いてくるので「まだお腹減ってない」と自分の部屋へ逃げ込んだ。 その後直ぐに母が帰宅し、急いで夕飯の支度をしているようだった あれから一週間たつが、いまだに母に聞くことが出来ない。あれから母が気になってしょうがない。父とも普通に話しているし誰も、私ですら母が不倫しているとは信じられない。 今も公園の木の陰で母を見ている 前回二人が約束していた日のあのホテルの前で。足元でサビトラが私を見上げている。

祝。はーちゃん。ハジメ。橘さん。はじめちゃん。 名前を呼ばれると、安心する。 呼び方は違っていても、それはどれも私を指している。私を私たらしめる、私だけのものだ。 夜は嫌いだ。 昼のあいだ作業をしていた机が、夕日とともに暗がりへ沈んでいく。そこで作業をしていた私も、少しずつ消えていく。 抗うように部屋の明かりをつけても、窓を見れば、闇がにやにやとこちらを手招きしている。 「祝、ごはんよ」 母の声がする。 まだできあがりきっていない料理を横目に、棚から皿を取り、箸と一緒に食卓へ並べる。 私の名前を呼ぶ母の声。煌々と光る、部屋の中の太陽。湯気を立てる温かい料理。 私は、この時間が好きだ。 食卓に皿を並べ終えるころ、鍋のふたが小さく鳴った。 「はーちゃん、それ取って」 母が示した先に、布巾があった。 はーちゃん。 さっきまで祝だった私は、今度ははーちゃんになる。 呼び方が変わるたび、違う私が生まれるようで、それでも不思議と、どれも嘘ではなかった。 布巾を渡すと、母は何も言わずに鍋をつかんだ。 家族のあいだでは、言葉にしなくても済むことが多い。けれど、それは言葉が要らないのではなく、これまで交わしてきた言葉が、目に見えないまま部屋に積もっているからなのだと思う。 湯気と一緒に、醤油の匂いが立ちのぼった。 「今日は何してたの」 「別に。いつもと同じ」 いつも違う『いつもと、同じ』 机に向かっているあいだ、何度か自分が何をしているのか分からなくなった。画面の中には作りかけのものがあり、その隣には調べかけの言葉があり、もっと隣には返信していない誰かの名前があった。 どれも私が始めたものなのに、並べてみると、私よりも私らしく見えた。 けれど、それをどう説明すればいいのか分からなかった。 「そう」 母はそれ以上聞かなかった。 箸が器に触れる音。 テレビから流れる、知らない街のニュース。 窓の外では、相変わらず闇がこちらを見ていた。けれど食卓の中までは入ってこられないらしい。 私は味噌汁を一口飲んだ。 舌で温もりと母の愛を感じながら、私はようやく、自分がここにいることを確かめた。 「祝、おかわりいる?」 母が聞いた。 私は少しだけ考えてから、うなずいた。 「いる」 その言葉が、今日いちばん自分で決めたことのように思えた。 ご飯をたべて、お風呂に入って、一時の忘却に耽れば、またあの時間が私を飲み込む。 真っ暗で、何も見えなくて、私だけを見るしかない時間。 私を呼ぶ声がなくなり、私を私と規定するものがなくなる。 「祝」 試しに、自分で呼んでみる。 声は暗い部屋の中で小さく跳ね返り、すぐに消えた。 母が呼ぶ「祝」とは違っていた。 友達が呼ぶ「はーちゃん」とも、先生が呼ぶ「橘さん」とも違う。 私の口から出た名前は、誰か知らない人のもののように聞こえた。 名前は私だけのものだと思っていた。けれど、本当は誰かに呼ばれて初めて、私のところまで届くものなのかもしれない。 私は布団の中で身体を丸めた。 暗闇はやはりつめたくて、残酷なほどやさしい。 何も見せない代わりに、何も隠してもくれない。 昼間にうまくできなかったこと。 言えなかったこと。 途中で投げ出したこと。 それらが、目を閉じるほど鮮明になっていく。 私はいったい何なのだろう。 机に向かっているときの私。 皿を並べているときの私。 誰かに名前を呼ばれて振り返る私。 そのどれもが私なら、それらがなくなった今、ここに残っているものは何なのだろう。 廊下の向こうで、床が小さく鳴った。 母の咳が聞こえた。 冷蔵庫がランダムなステップを踏み、遠くで水道管が騒ぎ出す。 誰も私を呼んではいない。 それでも、家の中にはまだ誰かが生きている音があった。 私は布団から片手を出し、枕元の明かりをつけた。 眩しさに目を細めながら、机の上に置いていたノートを開く。 白いページの一番上に、ゆっくりと書いた。 祝。 その下に、少し迷ってから続ける。 夜が怖い。 文字になった途端、それは私から少し離れ、私が見ることのできるものになった。 私はもう一度、自分の名前を見た。 誰かの声ではない。 けれど確かに、私を呼んでいる。 今夜だけは、私が私を呼ぶ番だった。

鞄が被る

 鞄が小学生と被る。 近所を歩いてる人と被る。 人民服のようだな、と思う。 僕の流行遅れの鞄。 いや、流行なんて今は無いか。 イオンモールのボディバッグ。 イオンモールにすら行かない。 個人の無個性化。 日本は単一民族じゃなくて均一民族だと思う。 今日も列島は暑い。

なかなかうまくいかないものね

喫茶店に入るや否や、彼氏さんは雑誌を手にしてしまう 私は悲しくなって雑誌から顔を上げてとお願いしないとならなくなる、というひと手間が発生する それを回避するため、お店に入る前、雑誌はダメだよ、と彼氏さんに忠告する 彼氏さんは言うことを聞いてくれ、雑誌には手を伸ばさない うれしい でもそこには、やっぱりひと手間があるという事実 なかなかうまくいかないものね なかなかうまくいかないように世の中はできているのかしら そんな世の中に、彼氏さんは加担しているとでも言うのかしら 私を困らせておもしろい? おもしろいよ、って言われるとつらくなっちゃうから私は聞けない そんなことまでお見通しなのかしら ほんと、なかなかうまくいかないものね