「あの、変わってもらえませんか?」 「何をですか?」 「僕は、あの娘に介助をお願いしたい」 ベッドの上で、中年の男が視線を上げた。 「ここ、同性介助ですが」 「僕、見てるだけです」 「それって、結構セクハラですよ」 「合理的配慮でお願いします」 薄暗い部屋に、デジタル時計が光る。 「まぁ、上に相談してみます」 「僕、不安定になるかも……」 「はい。お大事に」 男は扉を閉めた。
その本は雨が似合う。表紙からして雨が降っている。男の人が傘を差している。灰色を基調としたちょっと暗っぽい感じのその絵は、でも本の内容としては少しも一致しない。そもそも話のなかで雨は一度も降らなくて、男の人は出てくるけれど傘は差さない。表紙の絵は物語に出てくる少女の心のうちで、話を読む私の心のうちでもある。心はぽつんとしている。ひとりで、さびしく、突っ立っている。音もないのにぽつん。 喉が渇いたのですいかを食べた。甘いすいかは好きになれず、中心の部分よりも皮に近いとこが好きだった。小学生のとき、よその子とすいかを食べるのには困ったものだった。どのあたりまで食べてよいのかと。さぐりながら食べる。こっそり目だけできょろきょろ見る。食べる速度を遅くして頃合いを測る。もどかしい。さっさと食べたい、さっさと食べてくれ。話なんかしてないでさ。男の子ほど食べるのが遅い、種で遊んだりして。肝心なとき役に立たない。私はいつもより浅く食べ、後悔することになる。もっと食べたかった。でもまわりの子たちはそこまで食べてないみたい。すいかは難しい食べものなのだな。みんなと一緒に食べるもんじゃない。でもあんな大きいのひとりじゃ無理だし。すいかで社会性を学ぶ夏。なんかつまらなそうだ。 母親はすいかを食卓に出すとき皮を切りはずしてくれた。発明だと思った。皿の上のひと口大よりはちょっと大きめに切られたすいかはフォークで刺すのに手ごろで、そのためにこそ存在があるのだとすら思わせた。食べやすい。おいしい。何よりひそかに悩む必要がない。集中できる。すいかのみずみずしさに、口からこぼれる果汁に、みるみるひいていくカラダじゅうの温度に。 雨はやんでいて、窓の外は明るくなっている。いくらかあの本の表紙も明るく見えた。すいかはひとりぼっちで食べるものではないのだな。口のなかに残ったすいかの種をふっと皿に吐き出す。カラン、ではなく、ぽつん、と音が聞こえた気がした。
降りしきる雪の中、男は道に迷った。日が暮れたが、進むしかない。 向こうに灯りが見えた。辿りついた家の老夫婦は、驚きつつも男を迎えてくれた。聞けばここの村長だという。風呂と食事、酒が供された。 三月の大雪は珍しいと村長が言った。 「お客人はなぜここへ?」 村長の酌を受ける。 「隣町で、沈丁花が咲く山があると聞きまして」 「沈丁花如きでこんな辺鄙な村においでとは」 村長の顔に呆れと自嘲が見えた。男は膝を進める。 「では、こちらに?」 「裏山です。今が盛りですが、雪で見えますまい」 男は肩を落とした。せっかく来たのに。 酒肴も尽き、離れへ通された。 一人になると、リュックを開けた。風呂の間に中を見られてはいないようだ。 男は強盗だった。足が付かないように旅をしてきて、偶然、沈丁花の話を聞いた。生家で嗅いだ香りが懐かしく、つい足を延ばし、このざまだ。 まあ、ここで仕事をすることはあるまい。 男は敷かれた布団に横になり、眠りに就いた。 翌朝、村長に隣町へ降りると告げたが、首を振られた。 「今日は雪で無理です。明日、車で送ります。ゆっくりしてください」 男は廊下から外を眺めた。竹垣の上に大勢の頭が見え隠れする。 母屋に戻り、村長の妻に尋ねた。 「表の人達はいったい何を?」 「雪かきです。今夜、神事があるもので」 更に問おうしたが、夫に訊けとあしらわれた。 「村長はどちらに」 「お社に行きました」 場所を教わり、男は表へ出た。強風に髪が乱される。 門を出ると、村人達の視線が一斉に向いた。会釈して通る。 社はすぐにわかった。中で村長と十五、六歳の少年が話をしていた。 男は、少年の上品で端正な顔立ちに息を飲んだ。ただ、その両の瞼は閉ざされている。 「お客人、何の御用ですかな?」 村長の声には険があった。 「今夜、神事があると聞きまして」 間があった。 「占いです、今年の収穫の」 「どのように占うんです?」 無言の村長に代わり、少年が淡々と答えた。 「くじで選ばれた家の門に沈丁花の枝を縛り付け、私が花の香りを頼りにその家を探します。私は目が見えませんので。一番鶏までに見つけられれば豊作、見つけられなければ――」 「凶作です」 村長が言葉を引き取った。 「豊作ならば、神子様はその家に幸いを授けてくださり、凶作ならば村の邪気を祓ってくださる。そういう神事です」 男は身を乗り出した。 「見学できますか?」 「神事を穢すおつもりか!」 村長の眦がつりあがった。 「神子様の妨げになるので、今宵は誰も外に出ぬが決まり。見学などとんでもない!」 あまりの剣幕に社を退散した。 離れに戻った男は寝転がる。 面白くない。 頭に、神子の少年の顔が浮かんだ。彼には悲哀を帯びた色気があった。 あれが欲しい。 準備は日暮れ前に終わったらしい。村長が帰ってきた。 村長とは夕食で目も合わず、話も弾まない。男は早々に離れに入った、玄関から靴を持って。 母屋の灯が消えた一時間後の午後十時、男はリュックを背負い、細身のライトとガムテープを手に、離れから直接外へ出た。 村内を巡ると、沈丁花の花枝が括りつけられた門を見つけた。甘酸っぱい香りだ。縄から枝を引き抜いた。 更に夜道をライトで照らしながら歩く。その灯りの中に人影が現れた。 あの少年だ。白い着物を纏い、杖をつきつつ近づいてくる。強風で香りが散り、まだ花の家に辿りつけていなかったのだ。 男は少年の眼前に、ライトと枝をかざす。 香りに気づいたらしい。少年の頬がほっと緩む。 その口をガムテープで塞いで、腹に拳を叩きこんだ。呻く体を担ぐと、社へ向かう。 社は無人だった。 男は花枝を投げ捨て、抗う少年の手首を留め、着物をはだけた。甘酸っぱい香りの中、すすり泣く少年の肌を、身内を劣情で汚す。 絶頂を迎えるその瞬間、睡魔とともに全身の力が抜けた。 なんだ、これ、は? 闇に堕ちるように、何もかもわからなくなった。 どこかで鶏が鳴いた。 はっと男の目が開いた。体の下で少年が涙を零している。 その時、社の戸が開いた。入ってきた男達の手で少年から引き離される。木材で全身を滅多打ちにされ、男は気絶した。 冷たさと痛みで意識が戻った。裸に目隠しをされ、口も塞がれ、手足も縛られ、土の上に横たえられている。湿った土の香りがきつい。 「お客人、今年は凶作だ」 村長の声が上から降ってきた。顔に何かが降りかかり、沈丁花の香りが鼻腔に満ちた。 「どうか花の下で村の邪気を祓ってくだされ。神子様の代わりに」 言葉と同時に、土がどっと体に降りそそいだ。 翌年の春、一年前裏山に植えられた沈丁花の花は、ひときわ強く甘酸っぱい芳香を放ったという。
アイスコーヒーと言いながらアイスが浮かんでいない。そのことが男には不満だった。これじゃあ、ただの冷たいコーヒーじゃないか、と。 この夏の最高気温を記録した日。冷房の効かない部屋で、刻々と頭も体も溶けていく。男は理性を失い、冷凍庫から氷を取り出すと、ボウルにぶちまけた。そして、その氷をスプーンやらフォークやらで粉々につぶしていく。つぶしていく。つぶしていく。つぶしていく。 細かくなった氷は、お世辞にもかき氷とは呼べないけれど、理性の飛んでいる男にそのことは関係ない。男はグラスに入ったただの冷たいコーヒーを手にすると、躊躇いなく氷に向かってぶちまけた。 男はスプーンを手に取り、その氷を喰らう。喰らう。喰らう。喰らう。 子どものころの記憶がよみがえる。男の母親がよくつくってくれた夏の氷菓。いや、あのときはコーヒーではなく、甘い甘い黒蜜がけの氷だったかもしれない。あいまいな記憶は、けれど、夏の暑さで鈍る頭では鮮明にできない。男はあきらめ、氷を喰らう。喰らう。喰らう。喰らう。 アイスが浮かんでいないことが不満と言いながら、やはりそこに、アイスは浮かんでいない。ただの冷たいコーヒーに変わりはない。理性を失った男は、そのことを思うこともない。 やがて、ギーンと頭を芯まで貫くような痛みが走る。男は咳き込み、頭を抱えてうずくまった。 ボウルのなかには、かろうじて残る茶色の液体と透明の粒たち。彼らが、ただ静かにゆれている。 窓際で回る扇風機の音だけが、暑すぎる夏を刻み続ける。
男がテレビをつけた。 画面の中。 若い男がマイクを向けられている。 便利な人。 噛み合わない受け答え。 ワイプのタレントが笑う。 出ない方がいいと思えば、差別。 出たら、笑いの種。 本人が良ければ、許される。 男は静かにテレビを消した。
お気に入りの喫茶店で買ったショートケーキ。仕事終わりの週末、ごほうびに食べようと冷蔵庫にしまっておいたショートケーキ…… 「やっほー」 そのケーキがしゃべった。 「は?」 「は、じゃなくて」 今、私は確かにケーキと対話した。私の知る日本語で、意志疎通を果たした。これは革命だ。ついに私の頭は、疲労でどうにかなってしまったらしい。 「おれ、クッキー」 「いや、ケーキだろ」 なぜだ。なぜケーキが自分のことをクッキーと呼ぶのだ。思わず、つっこんでしまったじゃないか。 「た、確かにケーキだけどさあ~。でも、クッキーって言葉の響き、かっこいいんだもん」 「あっそう」 「ちなみに、オレのこと炙って食ったらどうなるか、試してみてくれない?」 「無理。焦がす」 なんだコイツ。わけがわからない。ていうか、どうして私は、自分のことをクッキーと名乗るケーキと対話をせにゃならんのだ。 とにかくケーキ……いや、なんか人語を話せるものを喰らうのは忍びないから、プリンでも食べるか。 冷蔵庫から、昨夜ついつい深夜テンションで買ってしまったプリンを取り出す。ふたを開けると、カラメルの深い匂いが流れこんでくる。 「いい匂いだな」 またケーキがしゃべった。あっ、そっか。キミはクッキーなんだっけ? ……まぁ、別になんでもいいか。 ていうか、ケーキなのにプリンの匂いが分かるのか? 鼻どこ? あまりにも反応が自然だから、違和感があっさりスルーされちゃったよ。 せっかくだから、と。私は腹いせに、目の前のケーキに対して見せつけるよう、おいしくプリンをほうばる。いや、だから、私はさっきから何をしているんだ。 「おいしそうだな」 「うん? うん、おいしいよ。意外とカラメルが苦くて」 「苦いのに?」 「ときに苦いプリンも、それはそれでまた良いのさ」 「ふぅ~ん」 なんだ……ケーキがうらやましそうにこちらを見ているぞ。これは効いたか? 「ソイツも、本当はどう思ってるんだろう」 「えっ?」 「プリンはさ、自分のこと『プリン』って呼んで欲しいのかな」 しんみりとした口調で、ケーキはつぶやく。その様子があまりにも切実だったから、私は思わずスプーンをすくう指先を止めていた。 ふと、自分の名前について、想いをめぐらせてみた。 私は、自分の名前があまり好きではない。でも、親が一生懸命に考えて授けてくれた名前だと知っているから、私はその心意気を簡単には無下にできない。それでも。私はやっぱり、この名前が好きじゃない。 イヤなことが頭をめぐる。そのたびに、確かに私は、甘いものを食べて週末の幻想を乗り越えてきた。 「どうにかなるよ」 思わず、口が動いていた。 「納得いかないかもしれないけどさ。でも、やっぱり、最後はどうとでもなるんだから」 だからさ、クソだなって思いながらでいいから、付き合って。どうせ死んでも、私たちは呼ばれるんだよ、この名前で。 「クッキーって響き、確かにかっこいいね。でも、それでも、キミはやっぱりケーキなんだから。どうしようもなく」 そして、私はやっぱりケーキを食べたくて、キミを買ったのだから。 何かしら、つべこべ言ってくるかもしれないと思ったけど、ショートケーキは何もしゃべってくれない。いや、たんに私が聞き取れなくなってしまっただけで。まだ、コイツは確かに、語りかけてくれているのかも。 一度、スプーンを机に置く。それから、放置されていたフォークを手に取る。入刀せず、私は動かないショートケーキにフォークを差し出す。その甘く、まっさらな生地の向こうに、赤いイチゴが熟れていることを。私は予感している。 ――いただきます。 私の挨拶に、ケーキがそっと顔を上げた。そんな気がした。
私は、女諜報員。 任務は、この国の男性と結婚し、日常をノートに記録すること。 《指令1 一日の出来事を記録せよ。我が国との違いを把握せよ》 夜になると机に向かい、黙々と書いた。 数か月後、新聞のチラシに紛れて、メモが入っていた。 《指令2 買い物を記録せよ。我が国との経済の違いを把握せよ》 買い物から帰ると、レシートを広げ、商品名と値段をノートに写した。 私は結婚し、やがて子どもが生まれた。 届いた花束には、メッセージカードが添えられていた。 《指令3 子どもの成長を記録せよ。我が国の子どもたちの参考になるだろう》 私は、家族の日常をブログにアップした。 すると、編集者の目にとまった。 日記はエッセイに。 買い物記録は、主婦目線の経済書に。 育児記録は、若い母親向けのハウツー本に。 私の記録は本になり、評判が広がっていた。 玄関のチャイムが鳴る。 ポストには、メモが。 《指令4 今までの記録を全て本国に送れ》 私は、電子書籍のURLを書いた紙を封筒に入れた。
「いいか? 管理職に必要なのは、仕事を任せることだ。自分で何もかもやってしまっては、部下の為にもならない」 上司からのありがたいアドバイスを心に刻んで、私は管理職としての使命を全うした。 手を動かすことを我慢して、ひたすら指示。 会社のためになると信じて、ひたすら指示。 結果、私は昇進した。 私の管理するチームの成長は著しく、皆めきめきと成果を出してくれた。 私の我慢は、間違いじゃなかったんだと確信した。 この技術は、プライベートにおいてもいかんなく発揮された。 「肉だけだと、彩が悪いよ」 「鶏肉だし、もう少し焼いた方がいいだろう」 「おーい、そろそろ配膳!」 妻が、フライパンをコンロに叩きつけた。 コンロを切り、私に近づいて来て、私の首根っこを掴んできた。 「口ばっか動かさないで、自分で手ぇ動かせや」 あれから、私は妻の奴隷。 仕事のチームは上手くいったのに、家庭のチームは崩壊寸前。 つくづく、管理職とは難しいものだ。
いよいよ、世界が滅びる日がやってきた。人々は口々にそう言って“皮肉”った。巨大隕石が地球に衝突して世界が滅亡するとの発表が、世界をひっくり返してから1ヶ月。まさか隕石の大きさを見誤っていて、実は滅亡なんてしません、なんて……本当に、誰が予測できただろう。 「大気圏にぶつかったら、燃えながら落ちてくるんやと」 シオは長い前髪を払い、無数の星が浮かぶ空を見上げてそう言った。ユズはその横で、蚊取り線香を腰に吊りながら、「それって危なくないんかな」と呟いた。 二人を含めた村の人たちは、集会所の前に集まっていた。世界が助かると分かった途端、誰かが「せっかくやけん集まろう」と言い出したのだ。みんなで綺麗な流れ星を見るぞーといったテンションで、祭のようにがやがやと騒がしい。自治会長の奥さんなんかは、世界存続のお祝いとかで、茹で落花生を振る舞っている。 村の中学生のユズとシオは、集会所の壁を背にあぐらをかいて、手にいっぱいの落花生をぽりぽり食べていた。リーンリーンと涼しげな虫の音がしたかと思うと、草がざわりと唸って、夜風が二人の前を通り抜けてゆく。そのちょっと青臭い匂いを嗅ぎながら、ユズはうっすらとしか見えないシオに話しかけた。 「今日は世界中、こんくらい平和やとええな。もう全員に地球存続の知らせは届いたかしら」 「まだまだやろと思うな。でも、人間はしぶといけん、きっとすぐに元の世界に戻るで」 暗闇から聞こえるシオの声は、声変わり中でかすれているが、低くて落ち着いている。ユズは少し安心してクスッと笑った。 「うーん、それはそれで。シオはどう? 元に戻りたい?」 「そうやな。俺は……今のままでも構わんかな。ユズと仲良んなれたし」 「ふふ、私ら相性最高やもんな。あの水汲みの時とか、タイミングバッチリやったで」 「あれはひどかったなぁ」 ケラケラ笑うユズに、シオも思わず吹き出す。一週間前、井戸から水を汲んでいた時、シオが誤ってユズにバケツの水をぶっかけてしまった事があった。あの日は一日中、思い出しては笑い転げたものだった。 「ねぇ、もしまだ水道が復旧せんかったらさ——」 ユズがそう言いかけた、その時だった。ちか、と空の彼方で何かが光った。村の人たちは、一斉に空を見上げた。 その瞬間、雷の何倍も激しい閃光が、夜空を引き裂いた。ユズは確かに、晴れ渡った青空を見た。胸がすくような、爽やかな晴天。山は鮮やかな緑を取り戻し、まるで燃え上がっているようだった。 隕石が光を放ったのは、ほんの一瞬だった。村はすぐに夜闇に包まれる。ゴロゴロゴロ、と雷鳴のような轟音が響き、人々は身を寄せ合った。 「シオ……!」 ユズはシオのTシャツの袖を引っ張って縮こまった。シオはくらんだ目であたりを見渡しながら、震えた息を吐く。地響きのような音は次第に弱くなり、やがて止まった。 「——終わった……?」 村の誰かが呟いた。しん、と一瞬耳が痛くなるような静寂が訪れる。途端に、村人たちはどっとため息や歓声をあげた。誰一人欠けてもいないし、怪我もしていない。みんな無事に、明日も生きられるのだ。 「ねぇシオ、私ら生きとるで!」 「ほんまやなぁ。あー、よかった」 シオは安堵の表情を浮かべて、袖をつかむ手をそっと包むように握った。ユズはパッと目を輝かせて、くすくす嬉しげに笑い出した。
本日より、定旧日が施行された。 定期的な休日を求めるのが定休日であれば、定期的な古さを求めるのが定旧日だ。 最近の若い者は楽ばかりして、年寄りの苦労を知らぬ、年寄りを敬わぬという発想から生まれた。 「げっほ! ごっほ!」 電車の中が、煙で満たされる。 道行く人も、煙草をぷかぷかと吸って歩く。 禁煙の紙はあらゆる店から放たれて、国全体が喫煙場所。 「こんなんで仕事できるかよ」 「ああん?」 愚痴を零そうものなら、灰皿が飛んでくる。 机にぶつかった灰皿は、中に入った灰をぶちまけながら砕け割れた。 「掃除しとけよ!」 なんて理不尽な、なんて言葉を飲み込んで、若者は箒を手に持つ。 「俺たちの若い頃は、これが普通だったんだ」 定年間近の上司が、若者の方を叩きながら、便所へと向かう。 お客様は神様。 何をしても許される。 上司様は神様。 何をしても許される。 絶対的縦社会の顕現により、若者たちは疲弊をする。 「昔は、これが普通だった。お前たちは、恵まれてるんだよ」 新聞を読み終えて昼休み。 上司が弁当を食って、午後始まり。 「チェックお願いします」 「パードゥン?」 数日分の仕事の束を、若者は上司の机に叩きつけた。 目を丸くする上司に、若者は笑顔で答えた。 「仕事量はたいしたことないっすね。残業残業言ってるけど、煙草吸って駄弁ってたら、そりゃあ定時までに終わらねえっすよ」 一つ、定旧日の結果に想定外があったとすれば、若者が優秀過ぎたこと。 コスパタイパを正義とする絶対的効率化社会を生きた若者の能力は、優秀であることただ一点。 一時間で終わる仕事の量を増やしなさい、ただし残業時間が無くなるので手取りは減ります。 そんな損しかない契約を受け入れ続けた世代。 上司は判子を押す。 目を通して判子を押す。 腱鞘炎でも起こしそうなほど手が疲れた頃。 「追加です」 若者から、承認待ちのお代わりが届く。 「あばばばばばばばば」 「げっほ! ごっほ! 煙は慣れねえっすわ」 定旧日が、上司の仕事の遅さを露呈させた。 想定外は、各所で起きた。 「一家に一台のテレビなんて贅沢」 「ほーん」 テレビを見ぬ若者。 「昔は土曜日も学校があった」 「ほーん」 土日も塾まみれの若者。 「昔は」 「ほーん」 定旧日の効果がはじき出される。 果たして、年寄りを敬う効果はあったのか。 「結果が出ました。昭和って楽だったんだな、が大多数です」 「……人権派の議員がいたね。彼に、我々を糾弾させよう。代表の議員一人の首を差し出して、この結果はなかったことにしよう」 数か月後、定旧日の廃止が決定した。 国民に伝えられた結果は、『非人道的な政策を許さない』、只一点。
少しもない、いい思い出なんて。部活をやってたことすらまるごと記憶から欠落させていたのは、体というか、脳というのか、彼らが無意識にそうしてくれてたのかもしれない。 無理やり思い出してみたらひどい部活人生だったんだな、と改めて思うことになった。小学校のときは若めの臨時コーチに殴られ、中学ではちょっとだけボクシングをやっていたという先生に殴られ、高校では先輩と先生に殴られた。辞めるにしても殴られるんなら我慢して続けるかってなったのかもしれない。そんな後ろ向きの考えでよく続けたもんだなあ、えらい、えらい。 よく我慢したね。よくがんばったね。もう何もしなくていいからね。 おやすみ。
「私達が生きているこの第千八百階層よりも『下』には、間違いなく人類がいる」 恋人のミカは、配給の合成タンパク・ゼリーを匙でつつきながら、ひくく乾いた声でそう言った。 僕の住む高層住居棟――通称『タワー』は、いつ誰が建てたのかも知らない。ただ確かなのは、地上へ出ることなど数百年前に禁じられ、人々は窓のない縦長のコンクリート構造物のなかで、あてがわれた階層にへばりついて暮らしているということだけだ。 僕らの日常は、濃密な悪臭に満ちている。 なぜなら、タワーの中心を貫く直径五十メートルの巨大な穴――『ダクト』を通じて、上の階層で暮らす上級市民たちの家庭内廃棄物、排泄物、使い古されたデバイス、時には病死した肉体そのものが、絶え間なく降り注いでくるからだ。 「下なんかにいるはずがない」僕は窓代わりのモニターに映る人工の青空を見つめたまま答えた。「僕ら千八百階層の人間が、上の連中のゴミを分別し、リサイクル可能な素材だけを上へと送り返す。残った汚泥や有毒な化学カスを、あの暗闇へ落とす。僕らで『一番下』なんだ。あんなものを毎日頭から浴びて、生きていられる生物がいるわけない」 「いるわ」 ミカの目は、奇妙な熱を帯びていた。 「昨日、廃棄されたスマートウォッチを修理していたの。そうしたら、自動アップロードされた位置情報のログが残っていたわ。僕らよりもさらに二千階層も下の、暗闇の底で……デバイスが『使用中』のシグナルを送り続けていたのよ」 彼女はダクトの金網の縁へ歩き出し、底知れぬ黒い穴を見下ろした。 ヒュオオオオ……と、生ぬるい風の音が垂直の闇から吹き上げてくる。 「私たち、毎日上からの悪意とゴミを黙って耐え忍んでいるでしょう? いつか報われる、これが社会の規則だからって」 ミカの唇が歪んだ。 「でもね、違うの。上から落とされた屈辱を、さらに下へと突き落とすことでしか、私たちは心の平衡を保てないように設計されているのよ。問題は……あの底の底にいる『奴ら』が、それをどこへ捨てるかってこと」 「やめろ、ミカ!」 僕が引き止めようとした瞬間、彼女はダクトのフェンスを乗り越えた。 投身自殺ではない。彼女の手には、上の階層から破棄され、不法に組み直した光学望遠スコープが握られていた。彼女は自身の体を命綱で縛りつけ、闇の底へとスコープのレンズを向けたのだ。 「見るのよ……私たちがあの穴の底に、毎日何万トンも押し付けてきた『悪臭』の行方を……!」 数秒の沈黙があった。 周囲では、上層から投げ捨てられた汚染水の滝が、ごうごうと黒い壁面を伝い落ちていく。 やがて、ミカの体がピクッと痙攣した。 「……あ」 彼女の声から、一切の感情が消えた。 「ミカ? どうした? 何が見える!?」 「……ないの」 「何がないんだ!」 「底なんて、ないわ。……いいえ、あるのよ。鏡のように、きれいな天井が」 彼女が何を言っているのか、僕の頭では理解できなかった。 「下へ落ちていったゴミや、排泄物や、腐った肉……そんなものはどこにも積もっていなかった。下にはね……私たちと同じような人間が、無数に這いつくばっているわ。彼らは、落ちてきた私たちのゴミと肉を、粘土みたいにこねて、大きな『パイプ』を作っているのよ」 ミカは振り返った。 彼女の目は、すでに人間のそれではなくなっていた。恐怖のあまり、眼球が毛細血管で赤く染まり、口元からだらだらと唾液が垂れている。 「そのパイプはね……ぐるりと上に曲がっているの。タワーの底は、はるか上空の『最上階』と繋がっていたのよ。彼らは、私たちが捨てた最悪の汚物のすべてを、巨大なポンプで最上階の『神々』の食卓とベッドルームへと送り込んでいたわ。そして最上階の奴らは……それを美味しそうに食べて、笑って、排泄して、また下へと落としてる……!」 「そんな馬鹿なこと――」 「私たちは、ただの大きな腸のなかにいるだけよ。誰もどこにも行けない。ただ、上から来て下へ行くだけの、腐った脂の輪っか……」 ミカは命綱の金具を外した。 僕が手を伸ばすより早く、彼女の体は、黒い湿った穴の底へと吸い込まれるように消えた。 悲鳴はなかった。ただ、数秒あとに、はるか上空――最上階のダクトの上方から、ズシリ、と何か重い肉塊がパイプに詰まるような、鈍い音が響いただけだった。
「お前がラスボスだな!」 ダンジョンの最深部。 勇者は、魔物に剣を突きつけて叫んだ。 「いえ、ラスボス代理です」 魔物は答えた。 冒険者は剣を下ろして、首を傾げた。 「え? 代理?」 「代理です」 「本物のラスボスは?」 「休暇中です」 「じゃ、出直します」 「私を倒しても、ダンジョンをクリアしたことになりますよ。しかも、私はラスボスより弱い。出血大サービス」 冒険者の剣が揺れる。 ラスボスを倒して気持ちよくダンジョンをクリアしたい気持ちと、通常よりも低いコストでダンジョンをクリアしたい気持ちの狭間で、心が揺れ動く。 「そんな、卑怯なことは」 「卑怯じゃないですよ。こっちの都合なんで」 「……もしもお前を倒した後、ラスボスが戻ってきたらどうなる?」 「ダンジョンのクリアが確定した後なので、魔物の生存は不可。ラスボス、バカンスから帰ってきたら家を失ってて、ひっくり返るでしょうね。あっはっは」 「笑い事なの!?」 ラスボス代理の言いざまに、思わず冒険者の方がラスボスを心配してしまう。 しかし、相手は魔物。 そんな善意ごときで相手をしていい存在ではない。 ダンジョンが存在する限り、周辺の村々に被害が出るのは事実なのだから。 冒険者は揺れていた剣を握り直し、ラスボス代理に剣を突きつけ直した。 「俺は、お前を倒す!」 「おお、ようやく決意しましたか。では、尋常に、勝負!」 冒険者の剣とラスボス代理の爪が、ダンジョンの最深部で衝突した。 そして、剣が折れ、冒険者は一撃で敗北した。 「いや、弱いんかーい!」 ダンジョンの魔物たち全員から逃げ隠れする成功にして最深部に到達した冒険者は、敗北と共に入口へと強制転送となった。
鳩が泣いている ホーホーフーフーホーホーフーフー 部屋の中で目が覚める 閉めた雨戸の隙間が白い光で滲む あの水の中のようなクーラーの音が嫌いだ クーラーを切り、雨戸を開ける 青空と街 宇宙で少し冷やされた空気 重力 疲労感と床の上の埃 この世界を飛び回る電波は僕の体を通り過ぎる時、音として感じ取れる そう思えるほどの耳鳴りが鳴り止まずうるさい このうるさい中、妻が寝ている 息子が寝汗をかいている どこかの家の雨戸が開く まだ起きるには早い時間に
夕飯に食べた激辛ラーメンが、まだ舌をヒリヒリさせている。 「どうだった?」 妻が笑いながら手話で聞いてくる 「最高に美味かったよ」 と僕も笑う 息子達は頭も乾かさないまま布団で寝ている。同じ格好をして。 妻が洗い物している姿を眺める。少し痩せたかもしれない。 初めて出会ったのは、確か、居酒屋で。たまたま行った居酒屋にバイト先の女友達がいて、その子と一緒にいたのが今の妻だった。 こちらも男友達を連れていて、一緒に飲もうみたいになって。直ぐに耳が聞こえない人だと分かったけど、彼女は、なんか、すごく自然だった。明るいし、彼女が言っていることが分かると、すごく嬉しかったのを覚えている。 しかも、あの時は隣の席のお婆さんが酔っているのか「あんたら付き合っちゃいなよ」とやたら言われた。余程お似合いに見えたのだろうか? 洗い物は既に終わり、妻が僕にスマホを見せてくる。 息子達が腰を曲げて歩いている写真 「なにこれ?」 「私達が初めて会った時の事、覚えてる?恋のキューピッドのお婆さん」 「覚えてるよ」 「そのお婆さんに会ったの」 「何処で?」と指を振る 「コンビニで」と2と4が回っている
早朝の河原に響くサックスの悲しい音色りんご追分 夏休み前に転校していったアイツ元気でやってるのかな? ことさらに なりたいとかは ないけれど しいてあげれば 猫になりたい
平日の午前。 男は整理券をもらうため、小走りでパチンコ屋に向かった。 「今日は勝つ気がする……」 ポケットの中の軍資金を握った。 すると、道路脇でかがんでいる女を見かけた。 「……あの婆さん」 アパートの隣に住む婆さんが、お地蔵様を雑巾で丁寧に拭いていた。 男は足を止めた。 「信じる者は救われるか」 鼻で笑う。 夕方。帰り道、うつむいて舌打ちをした。 「ん……」 隣の婆さんがビニール袋をぶら下げ、地蔵の前に立っている。 そして、気にする素振りもなく、お供え物と小銭を袋に入れた。 「婆さん、こずるいこと考えたな」 「なにがだ」 「いやいや、今、お供え物と小銭、盗ったろ」 婆さんは笑いながら、男を見た。 「この地蔵、私が通販で買って、ここに置いたんだ」 「なんだそれ」 「他にも、何か所も置いてるさ」 辺りが暗くなってきた。 「私はねぇ、ちゃんと考えて置いてるんだ。リピーターを増やすためにね」 そう言うと、地蔵を抱えた。 「それ、どこに持って行くんだ」 婆さんが振り向いた。 「……ここは儲けが少ない」
かつてのドサ回り系女性バンドも、いまでは― ひとりは、バーの雇われ女店主。 ひとりは、子どもたちにまじって草野球。 ひとりは、主婦兼スーパーのレジ係。 そして、ひとりは… 十数年後の場末の酒場。月日は、彼女たちをたくましい大人へと変えていた。 「ちょっとリーダー、このお店、暇そっすねー」 「そういうとこ相変わらずよね。これでも食べて口ふさぎなさい」 「へへ、ポテチポテチ。いまでも毎日、食べてまーす」 どこか懐かしい響きをさせながらドラムさんがポテチを頬張り、ベースさんがその姿に微笑む。 「そっちは、また野球?」 とベースさん。 「そだよ。ダメなの?」 とボーカルさん。 「いいけどさ」 そのときだった。 扉のベルを響かせ、入ってきたのはギターさんだった。 ギターさんは、カウンターの上を叩くようにギターケースを置くと、 「お揃いですね。ちょうどよかった」 「どうしたの?」 ベースさんがそれに応じた。 「皆さんそろそろ、いまの生活にも飽きてきたころなんじゃないかと」 ギターさんを除く三人が、顔を見合わせる。 それを見つつ、ギターさんが続ける。 「もう一度、やっちゃいませんか。私たち」 その言葉にベースさんとボーカルさんは顔を見合わせ、ふふっと噴出した。 まるで今夜、その話をしようと思ってた、とでも言わんばかりに。 そのふたりを見て、ドラムさんも察しがついたよう。 「あーあ、まったく、しかたないっすねー」 喧嘩するほど仲がいい それはやはり、彼女たちの音だ―
「あと少しだ! 皆、頑張るぞ!」 「ええ。ここまで来たら、絶対にクリアする」 「うちらなら、絶対いけるっしょ! だって、うちらにはレイくんがついてるし!」 三人に視線を向けられたレイくんは、照れるように微笑んだ。 突如巻き込まれた謎のゲーム。 霊というこの世ならざる者が目の前に現れ、ゲームをクリアできなかった生徒たちは食い殺されていった。 絶望的な恐怖の中、霊能力者のレイくんがいたことは、三人にとって幸福だった。 『最後のゲームは、しりとりです』 三人の中心に、文字が浮かぶ。 『りんご』 三人は、即座に意味を理解した。 「ゴリラ!」 熱血生徒が叫ぶ。 リンゴの文字は変わらない。 「ラ、ラッパ?」 知的生徒が呟く。 リンゴの文字は変わらない。 「パンツ!……って、乙女に何言わせてんの!」 ギャル生徒が叫ぶ。 リンゴの文字は変わらない。 『釣り』 リンゴの文字が、変わった。 三人とも、しりとりのルールに気づく。 霊対人間、ではない。 霊対人間対人間対人間。 霊が一度答える間、人間が三度答えなければならない不公平なルール。 「卑怯な!」 「ああ。ボクたちが、圧倒的に不利だ」 「でも、きっといけるっしょ! だって、うちらにはレイくんがついてるし!」 三人に視線を向けられたレイくんは、照れるように微笑んだ。 「陸!」 「宮内庁」 「う○ち!……だーかーらー! 乙女になんてこと言わせてんのよ!」 『地図』 三人は、決して希望を捨てなかった。 「おい、る攻めするぞ」 「る、る攻め?」 「最後の文字を『る』で終わらせ続ける」 「なるほど!…‥って、それするの、うちじゃーん! うち、馬鹿なの知ってるでしょ!?」 「知ってる。だが、最後が君なんだから、君がやるしかないだろ」 「ふえーん。リフジーン。助けて、レイくーん!」 ゲームが進む。 『ルビー』 『ルーマニア』 『ルッキズム』 『ルーズベルト』 『類例』 『ル……ルルルルルルルルルルルルルルルルルルル……』 浮かぶ文字の、七百四回目の回答。 ついに、文字が限界を迎えた。 霧のように霧散し、教室の扉の鍵が開く音がした。 「か、勝った?」 「勝った……」 「勝ったんだ!」 三人は勢いよく立ち上がり、ハイタッチした。 今日という日まで一切の接点がなかった三人は、極限状態において互いを信頼し合い、見事に過酷なゲームを乗り切ってみせた。 「俺たちの、友情の勝利だ!」 「ああ。そして何より」 「うん。レイくんがいたから!」 三人に視線を向けられたレイくんは、照れるように微笑んだ。 教室を出る三人の後ろを、レイくんはてこてことついて行く。 「次は、どんなゲームにしようかな」 レイくんは、霊から生き残った生徒たちの数を聞く。 百に分けた三人組も、六十は残っていたと聞けば、溜息をつかざるを得なかった。 もっと多くを殺すつもりだったのだから。 翌日。 「お、きたきた!」 「英雄の登場だ!」 「レイくんがいなかったら、私たちは生き残れてないよー。ありがとー」 全員に視線を向けられたレイくんは、照れるように微笑んだ。
ドサ回り系女性バンドを乗せたバンは走る― 「本当に、そうならいいけどねえ」 それまで、壊れたラジオのように何かを呟き続けていたギターさんが、ふいに明確な言葉を紡いだ。 視線は雨の粒を追いかけたまま、表情は暗がりに溶けて見えない。 「どういうことよ?」 助手席から、ドラムさんが鋭く返してくる。 「喧嘩するほど仲がいい… か…」 「違うの?」 「本当に、そうならいいけど…」 その一言は、呪いのように、あるいは、あまりにも純粋な祈りのように、車内のすべてを静止させた。 誰も否定できない、肯定もできない。 ただ、エンジンの音だけが、夜の底へと沈んでいく。 喧嘩するほど仲がいい その言葉が、雨音を切り裂く。 一瞬、四人のあいだに、奇妙な連帯感が芽生えたか。 ここから、また新しい音がはじまるのか。 再生の予感に、四人全員が、毒気を抜かれたようでもあった―
クリニックの診察室。 男は困った顔で、ドクターに話し始めた。 「先生、時々、耳元で声が聞こえるんです」 「それはそれは……幻聴ですね。どんなふうに聞こえますか?」 「天使が二人、右と左で囁くんです」 ドクターはペンを止め、じっと男の顔を見た。 「天使と天使ですか。天使と悪魔じゃなくて?」 「はい。どちらも『自分が天使だ』と言い張ります」 ドクターは笑いをこらえ、咳払いをした。 「いや、失礼。珍しいケースですね。ふつうは善悪の対立があるものですが、両方が天使となると……判断が難しい」 「先生、僕はおかしいんでしょうか」 「おかしいというより、興味深い」 ドクターはカルテに走り書きをしながら、声のトーンを落とした。 「その二人の天使は、あなたに何を囁くんですか?」 「ポジティブな言葉を……『やればできる』って」 青年はうつむき、ため息をついた。 「ちょっと、うざいです」 「……わかりました。では、お薬を出しますから、様子を見ましょう」 「お大事に」 薬剤師から渡された紙袋には、耳栓が二つ入っていた。
ドサ回り系女性バンドを乗せたバンは走る― 「ねえ、なんで無視するの」 ボーカルさんが、運転席のベースさんの背中に言葉を投げつけた。 「私の歌、もうきこえてないの?」 運転に激しく気を取られ、それどころではない様子のベースさん。 「それとも、最初からきく気なんてないのかな」 返事をする余裕すらないベースさんの沈黙が、追い打ちのように車内を凍りつかせる。 その硬直を切り裂くように、助手席のドラムさんが片方のイヤホンを外し、わざとらしく笑った。 「喧嘩ですか、喧嘩ですか。このバンドの名物みたいなね。おふたりによる喧嘩ですか」 ドラムさんのあおりに、ボーカルさんは気持ちを削がれ、しらけムードとなった。 「しないんですか喧嘩。まあ、なんと言いますか、喧嘩するほど仲がいいってね。ほんとマジウケるー」 言うだけ言うとドラムさんは、袋の底に残ったポテチの欠片を、わざとらしく音を立ててかみ砕いた。 ヘラヘラと軽い、けれど温度のない空気が、密閉された空間を逆なでする。 これもやはり、彼女たちの音だ―
きみの面影を目にしないまま夏休み突入 とたんの熱波襲来 きみの熱にも僕は犯されて 好きを続ける 続けていく
「僕と一緒に堕ちてくれる?」 そう言って来たお前は、大層幸せそうに見えた。 「まぁた追いかけて来たよ〜……」 隙あらば家から抜け出すこいつを追いかけるのは、もう何度目だろう。 「今度はなんだ? 散歩か?」 「ん〜 さんぽさんぽ」 やはり、彼女は幸せそうだ。 ふらふらと腕を揺らしながら、行く当てもなくのんびりと歩く彼女の横を追いかける。 隣に立ってみたって、この世界が彼女の目にはどう映っているのかなんて想像もできない。 お前は本当に幸せなのか? こいつの生い立ちを詳しく知っているわけではなくて、ただ偶然あの場に居合わせた。それだけ。だというのに、もう一度目が覚めた時悲しげに笑う彼女が、真緒がそこにいて。また今度ね、なんて言って来たその時から、俺は彼女に囚われ続けている。 俺は、お前の幸せになれているだろうか。お前をこの世に引き留めることはできているだろうか。お前の熱を受けて、どうしてか流されてしまった俺でもお前を幸せにしてもいいのか? 「奏兎」 綺羅びやかに光る星空を背負って、真緒はこちらへ向き直る。 「心配しなくてもさ、大丈夫だよ、僕は。ちゃんとお前の所に帰るから」 「だからそんな顔するなって。ちゃんと幸せだよ、僕は」 奏兎もそうでしょ? 彼女は俺の耳元に口をよせ、そう言った。 そのまま彼女の指が俺の頬を包みこんで、そうして、そのまま。 幸せの味がする。
久しぶりに前の妻と会う 息子が小さな頃は月に一度、僕と息子だけで遊ぶ日が会った。その度に妻が車で連れてきてくれていた。 息子が大きくなってからは息子が僕に会いたい時に一人で来るようになった。妻とはしばらくぶりだ 「大丈夫?」 妻が心配をしてくれている 「うん。ちょっと相談しておきたい事があるらしいから。そんなに遅くはならないと思うよ」 妻の大丈夫の答えになっていないが、どうも頭が回らない。 元妻の話がどんな話なのか、彼女が僕と会って話すくらいだから、よっぽどの事だろうに。 「別に帰ってこなくても、怒らないよ」 「何言ってんだよ」と言いたいが言葉が出ない 「私は…」 妻の瞳に涙が溜まっている。小さな肩が震えている。 ぎゅっと抱きしめて「大丈夫だよ」と言ってあげたいのに、ただ見ているだけで動けずにいる。 妻が泣き出し、やっと身体が動く。魔法が解けたように。 強く抱きしめて「必ず帰る。何もないから」と言う 「いたいよ」 と妻が涙をこぼして笑う
ドサ回り系女性バンドを乗せたバンは走る― 湿った窓ガラスに額を押しあて、ボーカルさんが不意にハミングをはじめる。 届かない高音をなぞるような、かつての武器だった歌声。 どうだった、とでもいうように運転席のベースさんを見やる。 けれど、きつくハンドルを握ったベースさんは、 雨に曇るフロントガラスを、無言で睨んだままだ。 希望の象徴だった歌声は、いまはただ車内の沈黙を塗り潰すための逃避にすぎない。 バックミラー越しに、ハンドルを握るベースさんの横顔を盗み見る。 ボーカルさんに気がつかない様子のベースさんは、余裕なくハンドルを強くつかむのみ。 何かを声高に、ボーカルさんが叫び、誰もそれには応じてくれない。 そして、どれほど声を重ねても、その視線は虚空を彷徨い、誰とも交わることはない。 助手席のドラムさんは、あきれ半分に窓の外に視線を移し、耳にイヤホンをねじ込む。 寝たふりを決めこんでしまえば、いつものドラムさんのできあがり。 ギターさんもまた、いつものように、誰にも聞こえないような声で何かをつぶやく。 不協和音 それも、彼女たちの音だ―
ボクがこれまでこの街で生きてきて、痛いほど分かったことがある。それは、人間と暮らす「家猫」と、ボクのような「野猫」の間には、決して超えられない格差があるということだ。いつも快適そうなところからボク達を見下ろしている。お腹を空かせたボクの横を、たくさんの人間が通り過ぎていく。だけど、みんな手元にあるスマートフォンばかりを見つめていて、ボクの命なんて存在しないかのように、見ないふりをしていく。 世界からボクが消えてしまったみたいだニャ。砂舞う風が、眩しいくらいにアチアチの光が、とても辛いニャ。それでもボクはめげないニャ。喉が乾いて泥水をすすってでも、このアツい地べたを這いつくばってでも、絶対生き抜いてみせるニャ。お腹がすいて、地面に落ちてる変なものを食べてでもボクは絶対負けないニャ。 …人間がこっちを見て、スマートフォンでお話してる?なにかされてもボクは抵抗するニャ。 ニャニャッ!ニャニャニャ!!ニャニャ!
ドサ回り系女性バンドを乗せたバンは走る― ハンドルを、リーダーであるベースさんが握る。 しかし、バンのコントロールはできても、このバンドは、そううまくはいかない。 ワイパーが刻む単調なリズムだけが、 何もかもをひとりで背負い込むベースさんの正気を繋ぎ止めている。 重すぎる機材と、それ以上に重い四人の沈黙を乗せて、夜の国道をひた走る。 自分がハンドルを手放せば、この砂上の城のような関係は、一瞬で瓦解する。 そんなことは、十分に理解している。 もともとの責任感がそうさせているのか、リーダーという肩書がそうさせているのか。 ベースさんにも、それはわからない。 もはやベースさんには、誰の声も背景のノイズにしか聞こえていない。 指先に力を込め、濁った水飛沫の向こう側にある出口のない明日だけを睨みつける。 それだって、このバンドの姿だ―
ある恋愛小説を読んでいる タイトルと言葉の端々から結末は予想できるけど、毎回楽しみにしている小説だ いつ最終回を迎えてもいいように準備をしてみた ティッシュ 目薬 缶チューハイ 板チョコ スナック菓子 うさぎの動画 好きな音楽 遊びに行く予定 準備OK あとは泣くだけ
ドサ回り系女性バンドを乗せたバンは、西へ向かっている― 雨がフロントガラスを執拗に叩く。 車内は、湿った重い空気が滞留していた。 リーダーのベースさんは強くハンドルを握り、前を見やる。 助手席では、ドラムさんがポテチを食べる。 その後ろでは、ボーカルさんが外を見ながら歌を口ずさみ、 となりでは、ギターさんが誰にも聞こえないような声で、何かつぶやいた。 バンは、国境をこえた。 もう誰も、彼女たちを甘やかしてはくれない。 エンジンの音だけが、夏の空気をゆらしていた―
ある日の午後。ようやく男が目を覚ました。 「結局、負けかよ…」 サッカーの国際試合を見るため、仕事を休んだ。 カーテンの隙間からは、濃い光が差し込んでいる。 照らされたテーブルの上には、妻からのメモ。 ──友達とランチに行ってくるね。夕方には帰ります。 昼ごはんはチンして食べてね。 ソファーに深く座り、テレビを点けた。 「今朝の試合の結果です」 アナウンサーが残念そうな顔で伝えている。 「試合には負けましたが、サポーターの行動が世界の方々から称賛されてます」 観客席で青いビニール袋を手に、ゴミを拾う人たち。 「素晴らしい光景ですね。では、また来週お会いしましょう」 男は画面を見ながら、鼻先で笑った。 エンディング。 右端には、 ──本日午後の存在価値 全国平均 76% 次の朝。 洗面所に置いてある体重計に乗った。 ──体重 72キロ 存在価値 95% 液晶パネルには、自分の存在価値が%で表示される。 ──生まれたばかりの赤ちゃんは存在価値100%らしい。 誰かが言ってたな。まぁ、どうでもいい。 「あなた、お弁当できたわよ」 妻は肩までの髪を耳にかけながら、片足をそっと乗せた。 ──体重 48キロ 存在価値 95% 「ねぇ…今晩、ちょっと話があるんだけど」 「なに?」 「帰ってからでいいわ」 夕食後、妻が話を切り出した。 「あのね。友達が、パート募集してるから来ないって誘われたんだけど」 「どうしたいの」 「週に3日くらいだからね。お小遣い程度にはなるかな」 「いんじゃない。でも、無理しないでね」 「ありがと…」 妻はスマホを手に、友達へラインを送った。 窓の向こうが、薄暗くなる。 しばらくのあいだ、部屋には着信音だけが響いていた。 「先に行くね」 妻が弁当をバッグに入れ、もう一つをテーブルに置いた。 「気をつけて…あのバッグ、初めて見た」 男は体重計に乗った。 ──体重 72キロ 存在価値 90% ほんの少し、胸の奥がざわついた。 スーパーのビニール袋を手に、妻が帰ってきた。 「ごめん、遅くなった。今からごはん作るね」 惣菜をパックから皿に移し替え、レンジに入れた。 「あのね、店長が正社員にならないかって」 嬉しそうな横顔。 「そういえば、あなたの工場、外国人の従業員雇ったんでしょ。なんか大変だね」 男は洗面所に行き、体重計に乗った。 ──体重 72キロ 存在価値 70% しばらく、数字を見つめていた。 テレビでは、豪雨被害のニュースが流れている。 「なぁ…ボランティアに行ってみようかな」 男の声に、妻が振り返る。 その顔は、口元だけが笑っていた。
新落語 誰もが知っている 「たえるの話」 今宵は、たえる このような 言葉があるのは それは、 誰もが知っている ほめる 文字を追加 たえる から たたえる そのあとどうした 柔道の試合に 勝った それでいいのか えらいとなる ふつうだな こんなの どうでしょう 書けるもんなら 書いてくれ
人は一日に何度も選択をする。 朝、目を開けるか、もう少し眠るか。 右へ曲がるか、左へ曲がるか。 あの人に声をかけるか、何も言わずに通り過ぎるか。 誰も気づかないくらい小さな選択が、未来を少しずつ変えていく。 もし、あの日たった一つだけ違う選択をしていたら。 私は、今とは違う世界で笑えていたのだろうか。 第1章 私は普通の高校生。 ある日の帰り道、いつものように一人で帰っていた。 よく通る公園では、たくさんの子どもたちが遊んでいた。その中に、一人だけ私によく似た女の子がいた。とても笑顔で幸せそうだった。 「あんな人生だったら良かったのに」 そんなことを呟いてまた歩き始めた。 それから何度もその子を見るようになった。 いつも笑顔で楽しそうだった。 そんな子が羨ましかった。 ある日いつものように足を止め見ていたらその子が私の近くに来た。 「おねえさん今幸せ?」 そんな変なことを聞いてきた。 私は答えに戸惑ってしまった。 数秒時が止まったようだった。 するとその子がまた口を開き 「こっちの世界来てみる?」 私は驚いた。でも1度だけ行ってみたい気がした。 私はそれに承諾した。 「行ってみたい」 その言葉を言ったすぐ目の前が明るく光った 第2章 目を開けるといつもの街並みだった。 そこは私が望んでいたような世界だった。 みんなマイペースで幸せそうな笑顔をしていた。 「あの子は、どこ」 私はあの女の子を探すことにした。 何日も探したけど結局見つからなかった。 私の事はみんなから見えないみたいだった。 私は自分を見に行った。 そこではとても笑っていて幸せそうだった。 羨ましかった。あんなふうに私も幸せになりたかった。そう思っていたら横に女の子が来た。 「お姉さん。これみてどう思う?」 私にとってとてもきつい質問だった。 でも「羨ましいよ。」 一言だけ話した。 「ここに住みたい?」 「別に、」 ぶっきらぼうに答えてしまった。 「でもお姉さんはあっちの世界行ったら辛いんでしょ?」 「あんたには私の気持ち分からない。」 「知ってるよ。全部」 「は?」 「ふふふこっちの世界は自〇する人いないんだよ。」 「へぇ〜。」 私はこの世界がどれだけいいのか実感した。 それでも何故か前の世界に戻りたかった。 「ねぇこっから元の世界に戻るには?」 「寝たらあっちの世界戻れるよ!」 「そっかぁ。戻ったら死んじゃうかな私」 「私が守るよ。」 「そんなこと出来るわけないでしょ笑」 「ううん、お姉さんが死にそうになったら何度も助けるから」 「気持ちだけ受け取っとくね。」 「お姉さんはもう戻る?」 「ここにいたら羨ましくて死んじゃうよ笑」 「そうだよね笑」 「じゃあまた会お、」 約束して私はすぐに眠りについた。 第3章 眠りから覚めると自室のベッドに居た。 こっちの世界では1日しか経っていなかった。 「あーぁ戻ってきちゃった」 またいつもの一日に戻った。 学校が終わり公園の前に通った。 そしたら女の子がきて 「本当にこっちの世界でよかったの?」 私は少しだけ空を見上げた。 「……最初は、ここなら幸せになれると思ってた。」 「でもね。」 「世界が変わっても、私の心は変わらなかった。」 女の子は少しだけ笑った。 「そうだね。」 「じゃあね。」 「昔の私。」
新落語 誰もが知っている 「かかるの話」 今宵は、かかる このような 言葉があるのは それは、 誰もが知っている とびかかる 文字を書く かかる から イメージ カンガルーが とびかかる そのあとどうした どのぐらいの 力でけった かるくとなり それでいいのか けったくそわるい となる こんなの どうでしょう 書けるもんなら 書いてくれ
「俺と付き合ってよ!」 いつも軽いノリで私にそう言ってくるクラスメイト。本当にそういうの迷惑だからやめて欲しいのに何回も何回も…。 私に彼氏ができたって言ったらきっとは諦めてくれるはず…。 でも、私には彼氏がいない。 (どうしよう〜) そんな時だった— 「俺とこいつ、付き合ってるんだけど」 「だから、手出すのやめてくれない?」 「あきら!」 彰は私の幼馴染で幼稚園の時からずっと知っている。でも流石にこの対応には驚いた。 「彰…そうなら早く言えよ!」 「もう!!」 そう言い男子は去って行った。 「ありがとう、彰」 「助かった!」 「…うん。」 そうして恋人のふりは一ヶ月続いた。 一ヶ月後~ 「あのさ、彰。」 「どうしたの?」 私にあの子寄ってこなくなったし… 『恋人のふり』もうやめよう。 彰だって、迷惑でしょ? 私のせいで彰が恋出来なかったら申し訳ないし…。 俺は、 『恋人のふり』全然苦じゃないけど? 「え?」 私は思わず聞き返してしまった。 「どういう事…?」 「だから……」 彰は恥ずかしそうにそう言いかけた。 『好きなんだよ、お前のこと…。』 「え?!」 私は驚きを隠せなかった。 「だから、恋人のふりも自己満な所があって」 「ごめんね、気持ち悪いよね」 「ううん。 気持ち悪くなんかない。」 「私もずっと言えてなかったことがあるの。」 「私も彰の事がずっと好きだった!」 「小6の時からずっと。」 「そうだったんだ…全然気づかなかった…」 じゃあ、私達はずっとお互いを— それじゃあ、今日から俺達は『本物の恋人』に— 「なんか、変な感じだね」 そうして二人は笑い合ったのだった。
新落語 誰もが知っている 「かかるの話」 今宵は、かかる このような 言葉があるのは それは、 誰もが知っている とびかかる 文字を書く かかる から イメージ カンガルーが とびかかる そのあとどうした どのぐらいの 力でけった かるくとなり それでいいのか けったくそわるい となる こんなの どうでしょう 書けるもんなら 書いてくれ
街角にしろ ネット上でにしろ アンケートのとき私は 三十二歳・独身になる 怪しまれたことはない 途中で打ち切られたこともない 罪悪感は少しある 少しだけ アンケート結果の 正確性に対してではなくて どれくらいまで いけるかな 三十二歳・独身
サイダーの鋭く弾けるシュワシュワが のどに刺さるみたいで好きじゃないからと あの子はぬるくなるまでサイダーを飲まなかった ああ、と思った この恋は、きっとうまくはいかないなって その夏の終わり、僕たちの恋も終わった
「世界は変わり始めたようだ。だけど、これでいいのだ!変わってしまうんだ!」 甲高い叫び声をあげた肩乗り生物ユピ。 体長十センチメートルから五十センチメートルまでのサイズを自由自在に操り、今日も僕のストーカーをする。 なんでもない休日の真昼間。陽の光が当たって熱くなった畳の上で、何周目かのマンガを読んでいた。 なんでもない日々を過ごす人生も、そんなに悪くないなんて思い始めた頃だった。 「ユピ、確かに世界は変わってる。立つ鳥が跡を濁しはじめた。」 数十年前までは青かった空も、今では血みたいに赤い。 「ユピ!?(鳴き声)」 いつものキャピキャピした抗議の声が、今日は明らかに違う。まるで、喉の奥から深く響き渡るような。 「なぁ、ユピ。今日はなんか変だ。」 ゆっくりと振り返ったユピの目玉は、いつもより赤黒く光って見えた。徐々に膨らむ身体が、逆立つ毛を強調している。 「世界は変わる。って、言ったのは君だ。」 心臓まで突き刺すように低く唸るような声が、全身の鳥肌を誘った。 「ユピ、どうしたんだよ。」 「ずっと、隠してたんだ。お前と一緒に居れば、僕も普通の生き物になれるって信じていたから。でも、もう我慢の限界だ。」 ユピの纏うオーラが、家具を巻き込み広がってゆく、次第に壁や天井、屋根までもがユピの体に取り込まれていった。 残された畳の上に、二人きり。ふいに手を取られユピは険しい顔で言い放つ。 「僕は変わりたがりなんだ。この世界で一番、変わりたくないって顔してるから。だから君のそばに居た。」 地面が、じわじわと温かくなっていく。まるで生き物の体温みたいに。なのにユピの手は氷のように冷えていく。纏うオーラの色はそのまま、鋭い目つきで睨まれる。 「ユピ。変わらないよ、いつでもね。」 「何故だ。」 少しだけ、オーラが弱った気がした。 「だって、ユピと居たいから。」 ユピと一緒に過ごすようになったのはいつからだろう。記憶はとても曖昧で、気づけば肩に乗っていた。いつも調子のいい事ばかり言って、たまに理解できない話なんかもするけれど、それが好きだ。世界は変わり続けている。でも、ユピは変わらなかった。まるで、僕みたいに。 「ユピ!!(鳴き声)」 「世界が変わってしまっても。ユピ、僕は変わらないよ。変われないんだ。」 何でもない生き物を演じていたいのは、僕も同じだった。この壊れかけた世界が、完全に壊れるまでは。 「ユピが世界を壊すなら、僕は世界を治す。」 世界はやがて、ユピ以外の大勢の手によって壊される。というより、既に壊れかけている。この世界を作った者もやがて、存在しているのに、まるで幻が世界を壊したような感覚に陥るだろう。 「悪いけどユピ。こっちも真剣なんだ。」 「もう待てない。この世の天地が一変するその時を。」 変わり始めた世界が、破滅への一途をたどっているかは分からない。ただ感じていた。ユピから伝わる脈々とした熱と鼓動が、この世を崩壊へ導くような香りを。 あと数年は、何でもない人生を過ごしてみたかった。そんな望みも虚しく、ユピのオーラに飲み込まれた家具を取り戻す。つまり世界を治す力を使って、家具と壁、天井と屋根も全てが元通りに変えていく。 「ユピ!?(鳴き声)」 みるみる縮むユピの身体も、普段の肩乗り生物に戻った。 体長十センチメートルから五十センチメートルまでのサイズを自由自在に操り、今日も僕のストーカーをする。 「焦ることはないさ、もうじきだよ。その時はまたよろしくね。ユピ。」 「ユピ!!(鳴き声)」 これが、僕とユピの冒険の始まりだった。
このTシャツにしたのは その時、適当に決めたからじゃなくて あの人のイメージカラーを着たかったから、なんだけど どんなことを考えていたのかは、内緒にしとこう これから仕事行かなくちゃ とりあえず着替えよう バナナみたいな黄色いTシャツに
今度の彼はだいぶ強引だ 目玉焼きを口に放り込まれた 半ば無理やり わたしは目玉焼きにはしょう油と決めてるのに 彼はなんの迷いもなくケチャップをかけた きれいだけどね でも…… 「食べてみる?」 「え……」 わたしの返事を待たず 彼はスプーンで器用に切り分けた目玉焼きを わたしの口もとにもってきた ケチャップのかかった目玉焼き きれいだけど 「んん」 「どう?」 「う……ん……おいしい……かも」 今度の彼とは、うまくやっていけそうな気がした