ふと、目を止めた。何これ、誤字? そう思った。 周りを見渡せば、づかん、づつう、チーヅ、ヅッキーニ、づんだもち、づうづうしい…… ふと、胸元の名札を見た。 「つづり」 ……ああ。この名前で良かった。今さらだけど、そう思った。
商店街の端に、小さな時計屋があった。 店主の名前は誰も知らない。みんな「時計屋のじいさん」と呼んでいた。店の看板はとうに色あせて、文字もほとんど読めなくなっている。それでも店はずっとそこにあった。 僕がその店に初めて入ったのは、中学二年の夏だった。祖父の形見の腕時計が止まってしまい、母に「あそこなら直してくれるよ」と言われて持ち込んだのだ。 店の中は薄暗くて、時計の音で満ちていた。壁一面の古い時計、棚に並んだ懐中時計、修理待ちの腕時計たち。それぞれが違う時を刻んでいて、まるで店全体がひとつの生き物みたいに小さく呼吸しているようだった。 「これは、いい時計だね」 じいさんは祖父の時計を手に取り、ルーペ越しにじっと見つめてそう言った。 「おじいちゃんの形見なんです。動かなくなっちゃって」 「うん。中の油が切れてるだけだ。すぐ直る」 「すぐって、どのくらいですか」 じいさんは少し笑って、僕の顔を見た。 「時計はね、急いで直すと、また止まる。ゆっくり、正しい順番で診てやらないと」 一週間後に取りに来るように言われた。僕は少し不満だったが、仕方なく帰った。 一週間後、店を訪ねると、時計はきちんと動いていた。秒針が静かに、確かに時を刻んでいる。じいさんはそれを僕の手のひらに乗せながら言った。 「時計はね、壊れたんじゃない。ただ、休んでただけなんだ。誰かがちゃんと中を見て、汚れを落として、油を差してやれば、また動き出す。人間もそうだろう?」 僕はその言葉の意味を、そのときはよくわからなかった。ただ、時計の秒針の音が、なんだか温かく感じられた。 それから何年か経って、僕は大学に進学し、その街を離れた。忙しい毎日の中で、いつしか祖父の時計をつけることも減っていった。 久しぶりに実家に帰ったとき、商店街を歩いてみると、あの時計屋はもうなかった。シャッターが下りたままの店に、貼り紙があった。 「長らくのご愛顧、ありがとうございました。店主、体調により閉店いたします」 日付を見ると、半年以上前のものだった。 僕は胸のあたりが締めつけられるような気持ちになって、しばらくその場に立っていた。あのとき聞いた言葉が、頭の中でよみがえった。 ——時計はね、壊れたんじゃない。ただ、休んでただけなんだ。 僕はポケットから祖父の時計を取り出した。電池はとうに切れていて、針は止まったままだった。それでも捨てずに持ち歩いていたのは、たぶん、あの店とじいさんのことを覚えていたかったからだと思う。 家に帰ってから、僕はその時計を修理に出すことにした。じいさんのようにはいかないかもしれない。でも、誰かがまた油を差してくれれば、きっと動き出す。 時計だけじゃない。止まってしまったように見えるものも、本当はただ休んでいるだけなのかもしれない——そう思いながら、僕は時計をそっと箱にしまった。 いつかまた、針が動き出す日を待ちながら。
「結構、顔でかいよな」 彼女に何の気なしにいったら、彼女は読んでいた本を置いて、拳を振り上げた。 「オラ」 「痛い!」 「ゴラ」 「痛い!」 「シネ」 「すみませんでしたー!」 ようやく殴られるのが終わったので、俺は洗面所へと駆けこんだ。 鏡を見たら、顔全体が腫れ上がっていて、いつもより一回り大きな顔になっていた。 背後に立った鏡に映る彼女が、俺の方を見てにっこり微笑んだ。 「これで私の方が小顔ね。嬉しい?」
今日も良いことがなかった。白馬の王子様は迎えに来ないし、十二時に解けるような魔法にも、そもそもかかっていなかったらしい。 もしかしたらささいなオマジナイくらいは私にだってあるかもしれないと、ちょっといつもより運のよかった今日、日付けの進むまで起きてみてけれど、特に変わった様子もない。なるほど、電車で隣だった人が格好よかったくらいのことは魔法がなくてもあるという訳だ。 明日は、何か特別なことがあるだろうか。きっといつものようにないだろうけど。 まあ明日になってみたらきっと分かる。
私は臨終医、仕事は単純だ。 静かな部屋に入り、相手を見て、時刻を告げる。 「御臨終です」 家族が泣きながら遺体にすがる。 そこに、家族に寄り添う気持ちなど必要ない。 それで、終わり。 父も医者だった。 臨終医になろうとしたが、なれなかった。 枠は少なく、選ばれたのは別の人間だった。 それでも父は言った。 「いい仕事だぞ」 理由は語らなかったが、その声が妙に耳に残った。 私は名門の医学部を出て、海外にも行き、博士号も取った。 回り道は多かったが、今はここにいる。 だからこそ、この一言は完璧でなくてはならない。 私は週に一度、ボイストレーナーに通っている。 発声練習の合間、鏡の前で無表情を確認する。 一度だけミスをしたことがある。 ペンライトを忘れた。 とっさに胸元の万年筆を取り出し、目の上で上下左右に振った。 近くにいた看護師も気づかなかっただろう。 最近、臨終医をモデルにしたドラマが放送され、志望する医学生が増えたらしい。 彼らは「御臨終です」の後に何か一言つけたがる。 私は何も言わない。 それが美学だ。 ある日、私は突然めまいがして倒れた。 目を開けると、ベッドの横で、若い臨終医が立っている。 「御臨終です。ご主人様は良い人生だったのでしょう。安らかな表情をされています」 私は思った。 まだ若いな──だが、悪くない。
自分をブスだと思い始めたのは中学生の時かな。 祖父母からも両親からもかわいいって言って育てられた。 だから私はかわいいって思っていた。 テレビに映るアイドルやプリンセスに本当になれると思っていた。だって私はかわいいから。 今、アイドルを見たら劣等感で潰されてしまう。プリンセスを見ても同じ理由で潰れる。 それにプリンセスは性格もいい。 自分より醜いものを好いて自分を引き立たせる。それが私の生き方。 どうしてブスだって思い始めたか、教えてあげる。 中学生は美容に興味を持ち始める時期だ。私にもその時期はやってきて、そこで気づいてしまった。 かわいい人と比べたら、違いは一目瞭然。目も鼻も肌から骨格まで全て違う。同じ生き物なのかを疑うレベルで。 それに気づいた時から親や祖父母の言葉を素直に受け取れなくなった。褒め言葉を素直に受け取れなかった私は壊れていった。 人間にとって褒め言葉が必要な栄養なんだとしたら私は栄養失調で倒れてしまう。 下手な同情が悪口よりも尖って、鋭く心に刺さる。 そこから私は自虐をしだした。自分で自分をかわいいって言ったら否定をされる。もしくは苦笑いで空気が凍る。 それが嫌だから自分で自分を否定する。そうすれば他人からは傷つけられることはない。 そうして私は今日も自虐をする。自分を守るために。 でも最近、辛くなってしまう。私のキャラ的に誰にも助けを求めれなくてどうすればいいかわからない。 気づいたら私は泣いていた。汚い涙が頬を伝う。肌が余計に荒れてしまいそう。 「ねぇ、大丈夫?」 後ろから声がした。すごく綺麗な声。声の方を振り返った。 目を疑った。声以上に綺麗な顔をしていた。まるで西洋の絵画から出てきたみたいに。 「うん」 私は答えた。私の声は汚いって思った。声にもブスの成分が含まれている。 「嘘つかないでよ、泣いてるじゃん」 「え?」 私は泣いていたことを再確認させられる。ただでさえ小さい目が腫れてさらに小さくなってしまう。でも、私の目が多少小さくなったところで誰も気づかないよね。 彼女はハンカチを差し出してくれた。 偶然、そのハンカチは私と同じものだった。けれどなんだか私のより綺麗だった。ハンカチにまで美人の成分が含まれている。 そのハンカチで涙を拭ったら視界がはっきりした。 ハンカチに染み込んだ水分がすごく汚く見えた。色鮮やかな花畑に季節外れの枯れた花が一輪咲いている。 まるで白い絵の具に黒を落としたみたいだった。 彼女の顔をよく見ると、アイドルをやっていると有名な北野みなだった。 「えっ、みなちゃん?」 「私のこと知ってるの?」 「う、うん。有名だよ」 「あのさ、はっきり言わせてもらうんだけど、私の名前、そんな軽々しく呼ばないでくれない?」 みなの態度が変わった。どこで怒ったのか、気に障ったのかわからない。美人の気持ちはわからない。私はブスだから。 「え?」 「あんたみたいなブスに呼ばれて、私の名前汚れたんだけど。」 「えぇ」 「私とあんたじゃ、目も鼻も肌から骨格まで全て違うのよ。」 「わかってるよ」 私は小さな声でつぶやいた。勝手に口から出ていた。 「え?なんて?まぁいいや。そのハンカチあげるから。」 そう言ってみなは去っていった。 ハンカチが私のものになった瞬間、急に汚く見えた。 アイドルは性格が悪い。わたしがなるならプリンセスになろう。 どちらにもなれるわけないのにそう思った。 また、視界がぼやけていった。 たった今私のものになったハンカチで拭った。 花畑が全部枯れて、白い絵の具が真っ黒になった。
僕は、一体何が――― ―――なにがしたいのかわからないんだね。 怖いんだ。■■に慣れることが。 ―――■■、なくなればいいのにね。 ■■、君にも? 君は寂しく嗤っていた。 僕は、「寂しく笑う」とはこういう顔なのだと、生まれて初めて君の横顔で思った。 ■■は天泣を呼ぶ。差せる傘は、君以外ない。君を傘にすることもできないけど。 僕は、一体何がしたいのだろう。 意味も無い問いを生み出す。言葉にして吐き出す。答えのないまま、辛くなる。今の気持ちを君以外の誰にもわからないようにして、短編小説をポエムと履き違える。どうしてそんな事を言うの。 どうして どうして どうして もういいよ 18:02に奪われていたのでしょう。 君は、どうかもう一度stAineD_glaSsを感じてほしい。 === ―――「さよなら」、なくなればいいのにね。 と、私は言った。 全部、知ってたよ。 === そう言ってほしい。妄想だ。
塾の帰り道、僕はいつもより早足だった。 「お前んち、新聞配達なんだってな」 さっきの授業終わり、先生がそう言った。悪気なんてなかったのかもしれない。ただの世間話のつもりだったのかもしれない。でも、その後に続いた小さな笑いが、僕の胸の奥に小石みたいに残った。 「大変な仕事だなあ、あれは」 その言い方には、たしかに軽蔑が混じっていた。僕はその場では何も言い返せなかった。ただ「はい」とうなずいて、テキストをかばんに詰め込んで、逃げるように塾を出た。 家までの道を歩きながら、僕は父の朝を思い出していた。 父は毎朝、僕がまだ布団の中にいる時間に家を出る。まだ空も薄暗い、四時とか五時とか、そのくらいの時間だ。自転車の後ろに新聞を山ほど積んで、住宅街をひとつひとつ回る。雨の日も、雪の日も、真夏の蒸し暑い朝も休まない。僕が小学校に上がる前からずっとそうだった。 一度だけ、父の配達についていったことがある。小学四年生の冬休みだった。真っ暗な中、父の自転車のライトだけが道を照らしていた。息が白かった。父の手はかじかんで、それでも一軒一軒、丁寧に新聞受けに新聞を差し込んでいく。音を立てないように、その家の人を起こさないように。 「なんで音立てないようにするの」と僕が聞くと、父は笑って言った。 「みんな、まだ寝てるからな。気持ちよく寝てる人の朝を、俺が壊しちゃいけない」 そのとき僕はまだ子どもで、その言葉の意味がよくわからなかった。ただ、父の背中が大きく見えたことだけ覚えている。 家に着くと、母が夕飯の支度をしていた。妹と弟がテレビを見て笑っている。三人の子どもを育てるというのは、簡単なことじゃない。学費も、給食費も、靴も、自転車も、修学旅行の積立も、全部お金がかかる。父はその全部を、朝の暗闇の中で自転車をこぐことで払ってきたのだ。 僕は塾でのことを、その夜父には言わなかった。言えば、父が悲しむとわかっていたから。 でも僕は思う。あの塾の先生は、朝の街を歩いたことがあるんだろうか。誰も見ていない時間に、誰かのために体を動かしたことがあるんだろうか。先生の仕事は立派だ。それは間違いない。でも、立派な仕事とそうでない仕事を分ける線なんて、本当はどこにもないんじゃないか。 仕事というのは、たぶん、誰かの一日を支えるものだ。先生が生徒に知識を渡すように、父は毎朝、誰かの玄関先に「今日という日」を届けている。新聞を待っている人がいる。それを配る人がいる。そのつながりに、上も下もないはずだ。 次の日、僕はいつもより少し早く起きた。まだ外は暗かった。玄関の鍵を静かに開けて、外に出ると、少し先に父の自転車のライトが見えた。 「どうした、こんな時間に」 父が驚いた顔で振り返る。 「ちょっとだけ、ついていっていい?」 父は少し戸惑った後、笑った。 「寒いから、ちゃんと着込んでこいよ」 僕らは並んで、まだ眠っている街を歩いた。誰も見ていない朝の中で、僕の父は今日も、静かに誰かの一日を運んでいた。 僕はその背中を見ながら、心の中で塾の先生に言った。 ——これが、僕の父の仕事です。
風俗店。 それは出会いに飢えた獣が目を赤くして入店する恐ろしい店である。そのような風俗店にいま私はいる。 別に特段いきたかったわけではない。人並みに性欲はある方だと思う。別にシたいこともあれば、1人ですることも多々ある。しかし、今回に限っては同調圧力に流されただけなのである。獣が我の周りに蔓延って、あたかも常人であるように振る舞っていたのだ。 店員だ。私のもしかのノートと記された注文票を無言で取り、こちらには目もくれず黙々と入力している。これはご飯の準備なのだ。獣が行く店は店員も獣なのだろう。私は覚悟を決め始めた。 すると突如、もしかのノートがテーブルに置かれた。開かれた扉から新たな店員がそのもしもカードをそとに持ち出した。ああ、神よ。なぜそれほど酷いことを私にするのだろう。私は餌として認められたのだ。心臓が大地を揺らしているように揺れる。終わった。 番号が呼ばれた。私は食われるのである。重りをつけられたような重い腰をあげ前店の奥へ進んだ。 本当に最高であった
朝の五時、まだ空が藍色をしているうちから、健太の父は家を出る。作業着に着替え、長靴を履き、自転車の荷台に道具箱を括りつける。父の仕事は、街のビルの共用部やトイレを掃除することだった。 健太は中学二年生になったころから、父の仕事を人に言うのが嫌になっていた。友人の父親は会社員だったり、医者だったり、公務員だったりする。「お前の親父、何やってんの」と聞かれるたび、健太は「普通の会社員だよ」と曖昧にごまかしていた。 ある土曜日、健太は駅前のショッピングビルで友人と待ち合わせをしていた。約束の時間より早く着いたので、トイレに寄った。個室から出て手を洗っていると、清掃用のワゴンを押した男が入ってきた。振り返った瞬間、健太は息が止まりそうになった。父だった。 「あ……」 父も驚いた顔をしたが、すぐに柔らかく笑った。 「健太、友達と遊びに来たのか」 健太は何も言えず、ただ小さく頷いた。そこへ、友人たちがトイレの入り口から顔を覗かせた。 「健太、こんなとこで何して……あ、清掃のおじさんと知り合い?」 健太の心臓が跳ねた。ここで「違う」と言ってしまえば楽だ。そう思った瞬間、父の手が視界に入った。荒れて、ひび割れて、絆創膏が何枚も貼られた手。その手が、鏡や床をどれだけ丁寧に磨いてきたか、健太は誰よりも知っていた。 「……お父さんだよ」 健太は言った。声が震えていたが、はっきりと。 友人たちは一瞬きょとんとした後、「そうなんだ、よろしくお願いします」と頭を下げた。父も「息子がお世話になってます」と笑って返した。それだけのやり取りだった。世界が終わるようなことは、何も起きなかった。 その夜、夕食の席で父はいつものように味噌汁をすすっていた。健太はずっと考えていたことを、思い切って口にした。 「お父さん、今日はごめん。今まで、友達に本当の仕事のこと言ってなかった」 父は箸を置き、少し間を置いてから言った。 「謝ることじゃない。恥ずかしかったんだろう。それは仕方ないことだ」 「でも……」 「健太、お父さんはな、この仕事を三十年やってきた。毎朝同じビルを磨いていると、そこで働く人たちが気持ちよく一日を始められる。それだけで十分な仕事だと思ってる。誰かが見ていないところで手を抜けば、すぐ分かる。逆に丁寧にやれば、誰かが必ず気づいてくれる。名刺の肩書きじゃなくて、そういうところに仕事の値打ちはあるんじゃないかな」 母が横で頷きながら付け加えた。 「お父さんが担当してるビルはね、テナントの人たちがみんな『あの掃除の人が来ると気持ちいい』って言ってくれるんだって。名前も知らないのに、感謝されてる」 健太は俯いた。恥ずかしかったのは父の仕事ではなく、それを恥じてしまう自分の狭い心だったのだと、ようやく分かった気がした。 数日後、健太は学校の作文で「わたしの尊敬する人」という課題が出た。健太は迷わず父のことを書いた。三十年間、誰かのために場所を整え続けてきた手のこと。肩書きは掃除員でも、その仕事に誇りを持って向き合う姿のこと。 作文は学年で紹介されることになった。健太は壇上で少し緊張しながら、最後にこう締めくくった。 「仕事に貴賎はないと、父から教わりました。大切なのは、何をしているかではなく、それにどう向き合っているかだと思います」 教室の隅で、担任の先生が小さく拍手をした。健太は初めて、父の仕事を誰かに堂々と話せたことが、少しだけ誇らしかった。
僕が中学校に入学したとき、知っている人はほとんどいなかった。 それまでとは違う環境。周りには、すでに仲の良い友達同士の輪がいくつもあった。 そんな中で、僕が入ったのが吹奏楽部だった。 そこで出会ったのが、四人の女子だった。 最初から特別な関係だったわけじゃない。 ただ、同じ部活で、同じ学年で、毎日のように顔を合わせる。 でも、その「毎日」が、とんでもなく濃かった。 朝早くから部活の朝練があって学校へ行き、授業が終わればまた夜まで部活。休みはほとんどなかった。 演奏会があり、コンクールがあり、失敗すれば一緒に怒られ、うまくいけば一緒に喜んだ。 気づけば、家族と過ごす時間より長いんじゃないかと思うほど、僕たちは一緒にいた。 そうして、僕たちは五人になっていった。 ⸻ そして、最後の大きなコンクールが終わった。 結果は、振るわなかった。 その後、顧問から厳しく叱られた。 それまで積み重ねてきたものが、全部嫌になった。 「もう辞めたい。」 そう思った僕は家に帰り、次の日の部活を休んだ。 もう戻らなくてもいい。 そう思っていた。 その日の夕方、突然、家のチャイムが鳴った。 玄関を開けると、そこには四人がいた。 僕を連れ戻しに来たのだ。 「辞めないで。」 「最後まで一緒にやろう。」 そんな言葉を何度も聞いた。 気づけば、何時間も経っていた。 完全に納得していたわけじゃない。 それでも、もう一度部活へ戻ることにした。 翌日、反省文を書き、また厳しく叱られた。 それでも戻った。 そして僕たちは、五人で最後までやり切った。 ⸻ 今思えば、あの日が僕たちの関係を決定的に変えた日だったのかもしれない。 もし本当に辞めていたら、学校で気まずくなり、卒業後に連絡を取らなくなっていたかもしれない。 でも、僕は辞めなかった。 四人が、辞めさせてくれなかった。 だから僕たちは、五人で最後の日を迎えることができた。 ⸻ それから時間が流れ、僕たちは卒業し、それぞれ違う道へ進んだ。 いつの間にか、みんな社会人になった。 仕事も、それぞれの生活もある。 五人全員の予定を合わせるのは、昔よりずっと難しくなった。 会えない年もあった。 それでも、不思議と仲は変わらなかった。 「またみんなでご飯行こう。」 その言葉は、何年経っても変わらなかった。 大人になった今でも、僕たちは昔から暮らしてきた同じ街にいる。 みんなずっと実家暮らしで、一人だけ恋人と暮らし始めた友達もいる。でも、それも実家のすぐ近くだった。 僕自身も、もうすぐ一人暮らしを始めようと思っている。 少しずつ生活は変わっていく。 それでも、五人の関係まで変わる気はしなかった。 ⸻ 成人式の日にも、僕は大勢の同窓生が集まる場所より、あの四人と過ごすことを選んだ。 大勢の中にいるより、五人でいるほうが自然だった。 くだらない話をして、笑って、昔のことを思い出す。 あれから何年経っても、五人でいるときだけは、時間の流れが少し違う。 ⸻ そして今年も、五人で集まることになった。 今回も日程を合わせるのは簡単ではなかった。 それでも少しずつ予定を合わせ、ようやく五人で集まれる日が決まった。 駅の近くの焼き鳥屋で、また五人で飲む。 それだけのことなのに、なんだか嬉しかった。 ⸻ 考えてみれば、僕たちは特別なことをしてきたわけじゃない。 毎日一緒に部活をして。 一緒に怒られて。 一緒に笑って。 一度は離れかけて。 それでも、また五人で戻った。 大人になってからは、会えないこともあった。 それでも、誰かがまた声をかければ、五人の時間が戻ってくる。 ただ、それだけだ。 でも僕にとっては、それが何より大切なことだった。 あのとき、四人が家まで来てくれなかったら。 今の僕たちは、きっと存在していない。 だから今でも思う。 あの日、僕が部活を辞めなくてよかった。 そして―― あの日、四人が家まで来てくれて、本当によかった。 五人の音は、あの日からまだ止まっていない。
ちいさかったころ ぬいぐるみで よく遊んでいた いま思い返してみて あのときの ぬいぐるみたちは みいんな お口のまわりが よごれていた はて さて 当時は それでいいと 思っていた はて さて ああ ああ そういうことか ぬいぐるみに ごはんを たべさせていたから お口ちゃんと ふいてあげていたのに やれやれ
都会の明るい夜に慣れ過ぎて 深夜に散歩することが 習慣みたいになっていた でもやっちゃダメだったんだ 男だからと油断していたんだよ もしもこうなると知っていたら 外なんか出なかったのに その日は盆休みで帰省していた 夜遅くまで両親と酒を酌み交わす 二人は先に寝てしまったけれど 俺はどうにも寝付けなくて 酔い覚ましも兼ねて 深夜散歩に出かけることにした 一歩外に出て玄関を閉めると 辺りは途端に黒の陰影だけになり ポツポツと立ち並ぶ街頭だけが 黒い田んぼ道を照らしていた その光景に少し息を飲んだが スマホのライトを付ければ なんてことはなかった スマホのライトを頼りに歩く もう日付が変わる頃だったので 他に歩いている人はおらず たまに車が横切るだけだった 近づく車の音だけには注意しながら 夜風を感じながら歩く さてそろそろ帰ろうかと 来た道を戻ろうとしたときだった 振り返った先の黒い景色が 揺れているのに気づいた 直接ライトを向けるわけにもいかず 遠くてハッキリとは見えなかったが どうやら人影らしかった ライトも付けずに歩くなんてと思ったが 慣れていればそんなものかとも思えた 人影らしきものが近づくにつれて ライトがその足元を照らしていく サンダルとスカートの端が見える この人とすれ違ったら遠回りして帰ろう そんなことを考えていたときに 気づいた 恐らくは女が手に持っているのが 刃物だということに アルコールなんて吹き飛んで 全身から冷たい汗が吹き出した 呼吸は思わず止めてしまったが しかし足を止めるわけにはいかない 女を刺激しないようにライトを下げて ただただ祈りながら震える足を前に出す 女の足音がどんどん大きくなっていく 女の足元がライトの円の中に入り そうして通り過ぎていった 女の足音が徐々に小さくなっていく 俺はしばらく早歩きで進み続けてから ゆっくりと速度を落とし立ち止まった 辺りはしんと静かになった 俺の足音はもう聞こえない 女の足音も聞こえなかった ずずずと後ろを振り返る 黒い陰は立ち止まって その場でゆらめいていた 女がどちらを向いていたかはわからない だが俺は迷わずまた歩き出していた できるだけ遠くへ行かなければ 静かな夜に俺の足音が響いていく するとそれにもう一つの音が重なっていく 見たくなかったが見るしかなかった 足は止めないまま振り返ると ライトの先ではさっきの女が 小走りで追いかけてくるのが見えた そこからは無我夢中だった とにかく走って走って走りまくった そうして現在地もわからなくなった頃 ふと足を止めると足音が聞こえない 振り返って辺りを照らしたが もうあの女の姿は見当たらなかった まだどこかにいるかもしれない そう考えライトで周囲を照らし 警戒しながら家へと帰ることにした 結局のところ何事もなく 実家へ帰ることができた もしかしたら何かしら 俺の勘違いだったのかもしれない そんな風にすら思いながら 部屋に直行した俺はそのまま ベッドに倒れ込んで眠った 「朝ごはんいらないのー?」 母の声に目が覚めてリビングへと向かう 父はもう仕事へ向かったらしく 母は食器洗いをしていた 用意された朝食をすぐに食べ終えると キッチンに立つ母の元へ皿を運ぶ 「自分で片付けるなんて成長したわねー」 「それ毎年言ってるけどな」 そんな会話を交わしながら皿をシンクへ入れる ちょうどそのとき入れ替わりで 母がシンクから包丁を取り出して洗い始めた
週の始まり。 こみ上げてくる怒りを抑えている。 「人のこと、バカにしやがって」 駅を出て、会社への道すがら、すれ違う。 「……」 いつも上から、見下してくる。 男は腹をくくった。 「明日だ。あいつの顔に泥を塗ってやる。待ってろよ」 ──翌日。 駅前のビルに向かった。 階段を上り、扉を開けると、一斉に鳩が飛び立った。 「くそっ……鳩の糞。これも、お前のせいだ」 見上げた先、にやけた中年男の大きな看板。 どこかのクリニックの院長。 脚立を立て、バケツの中の泥を顔に塗った。 「俺は、お前の顔が嫌いなんだ。理由? そんなものはない」
公園のベンチに、男が座っている。 「はぁ……金が」 スマホ画面を親指で弾きながら、ため息をついた。 『高額報酬』 #叩く #運ぶ #埋める 高額報酬に目が止まった。 「これは……」 ボタンをタップした。 「お前が最後だ。早く乗れ」 指定された駅のロータリー。 隅に停まっていた黒のワンボックスに乗り込んだ。 中には、二人の若い男が座っている。 街から、少しずつ離れていく。 民家が消え、アスファルトが砂利に変わった。 「着いたぞ」 運転手の声に、ヘルメットをかぶった大男が近づいてきた。 「いいか、お前ら。今から、そこの穴に入って岩を砕け」 穴の奥深くへ連れて行かれた。 「これ使え」 大男が、ノミと金づちを足元に投げた。 三人は、ヘルメットのライトを頼りに、硬い岩を砕いていく。 狭い穴の中、金づちを叩く音がリズムよく響いた。 「砕いた岩を運んで、向こうの穴に埋めろ」 大男の監視のなか、何日も掘り続けた。 「よし。もういい。終わりだ」 大男が叫んだ。 その声に、男たちが座り込む。 「よく頑張ったな。これ、持ってけ」 渡された封筒には、お金が入っていた。 「あの、ここは何の工事現場ですか?」 「ここは工事現場じゃないぞ」 「なんですか、それ」 「お前らが、悪い道に行かないように……まぁ、リハビリ施設だな」 穴の入口から、あの時の運転手が入ってきた。 「所長。次の三人、連れてきました」
夜道のあちこちが街灯に照らされて煌めいていた。それが雨の痕跡だと気がつくのに時間はそれほど必要ではなかった。 タクシー乗り場には長い列ができている。もう最終バスも無いのだろう。並んでいる人は女性も男性も若い人も中年の人もいるようだが、暗くてよく見えない。「回送」と橙色に表示されたタクシーが停車した。ドアが開くと、先頭の女性は不自然さなく飲み込まれてしまった。 鈴虫の鳴き声がTシャツの袖から服の中へ入った。肌の熱が奪われた。そのまま耳の辺りまで来ると、ふわっと消えてしまう。それが幾度も反復される。 道を右に曲がったところで、自販機が白く光っていた。なんとなく飲み物を見遣ると、赤い帯状のものがディスプレイされていた。 温かい飲み物だった。 私は、歩くのを止められてしまった。あったか〜いという文字から目が離せなかった。未だ真っ青な冷たい飲み物は残っている。赤いそれは、何か、膨張している風に見えた。 写真に収めようとスマホを取り出す。しかし、ポケットから半分ほど抜いたところで、やめた。掌には炎天下に地面を触れた時の熱が広がっていた。 その場が少し明るんだ。車が行ってしまうと、また自販機の光だけになった。 私の影が、遠く後ろにまで伸びている。
『キュイキュイ。一目惚れです。キュイキュイキュイ。一目惚れです。キュイキュイキュイ。一目惚れです』 私のスマホから、アラートが鳴り響く。 私はすぐにスマホを取り出して、アラートの停止ボタンを押すが、時すでに遅し。 私の周りを歩いていた人たちは、皆私に注目している。 私がそっと顔を上げて振り返ると、さっき私とすれ違ったばかりのイケメンと目が合った。 あー、ばれた。 これで、誰が誰に一目惚れしたのか、完全にばれました。 「えーっと」 強制的に発生した告白イベント。 「ごめんなさい。ぼく、彼女いるんです」 結果は、完全な惨敗だ。 「い、いえ! こちらこそ、すいませんでしたー!」 私はいたたまれない気持ちになって。その場から逃走した。 さっきのイケメンは、当然追ってこない。 一人か二人、スマホのカメラが私の方に向いてた気はする。 でも、止めろと言ってる余裕はない。 ああ、国を恨む。 若者の恋愛離れを食い止めるためだか何だか知らないけど、一目惚れしたら即座に相手に伝えることで恋愛に繋げようとするなんて、原始人の発想だ。 私は憎々しげに、腕に巻かれたブレスレットを睨みつける。 この脈を測る機械、何度破壊してやろうと思っただろう。 「はあ」 路地に隠れて一息を突く。 一目惚れと、それがバレた恥ずかしさ。 ついでに全力疾走したせいで、私の顔はまっかっかだ。 「あー、やっぱ引きこもり絶対ジャスティス」 私は体力が回復したら、さっさと家に帰ろうと決めた。 外は、目に毒なものが多すぎる。 手で自分をパタパタと仰ぐ。 顔がほんの少しだけ冷えて、気持ちが落ち着いてくる。 『キュイキュイ。一目惚れです。キュイキュイキュイ。一目惚れです。キュイキュイキュイ。一目惚れです』 その瞬間、近くでアラートがなった。 「お? お? なんだなんだ! パーティーか!?」 私は路地を飛び出して、音のする方へと走り出した。 ああ、これだから、国にアラートを失くせと要望出せないし、外に出るのをやめられないんだ。
学校が終わって、バスに乗り込む。そしていつもの席に座ってワイヤレスイヤホンを耳にはめる。スマホを操作して曲を流す。 少しだけ切ないイントロが流れてきて、歌詞が流れてくる。それは今の心にすごく刺さる。切り傷に塩を塗るのに似ている。 目から垂れた雫が頬を伝う。でも、それを拭う気にもなれずに窓の外を眺める。いつも見ている景色なのに今日はなんだか色が薄い気がした。 音楽に浸っていると、急に通知音がきてびっくりする。友達からだ。なんて名前だったっけ。 「りの、落ち込むなよ」 その文章を素直に受け取れなかった。落ち込むに決まってる。こんなの送ってきてただ人助けした気になりたいだけでしょ。 「うん、大丈夫だよ。わざわざありがと」 私は返信をした。不自然じゃないように、違和感がないように。嘘つきが殺される世界なら私は今すぐに殺される。 再び、窓の外を見る。さっきより色が薄くなっている。ポツポツと降っている雨は私の目を濡らす。 君は多分私が好きだった。私も君が好きだった。何度もニ人っきりで出かけたし、手だって繋いだ。君は笑っていて、私の顔は真っ赤で。 今日、君に気持ちを伝えた。あんなにいろんなことをしたんだからOKもらえるに決まってる、そう甘く見ていた。 君は一回だけ眉毛を下げて頬を掻きながら言った。 「ごめん、えーと。そういう目では見たことないかな」 私の頭の中が真っ白になった。あんなにニ人で遊びにいったし、花火だってニ人きりで見たのに。 「そっか、ごめんね」 でもびっくりはしなかった。心のどこかではわかっていた。叶わないって。 ねぇ、もし私が男の子だったら君は私のこと好きになった? 雨がさっきより強くなった。曲がラスサビにはいる。涙はもう出ない。
ボーイズラブのチラシではない。 バスケットリーグのチラシが入っていた。 しかし男と男の戦いという意味では一緒だろう。 何を言っているのだろう?
商店街の端、シャッター街に埋もれるように「柳質店」はあった。曇りガラスの引き戸には金の文字が半分剥げていて、それでも常連客だけは迷わず戸を開けた。 店主の柳伊佐夫は七十を過ぎても背筋が伸びていた。カウンターの向こうで新聞を畳み、来た客の顔よりも先に持ち込まれる品物を見る。長年の癖だった。品物には嘘がないが、人の顔には嘘があるからだ。 ある雨の夕方、若い女が戸を開けた。傘の雫を店の土間に落としながら、彼女は震える手で古びた腕時計を差し出した。 「これを、お願いします」 伊佐夫はルーペを取り、文字盤を覗き込んだ。スイス製の年代物で、裏蓋には小さく「К.T.へ 一九六八」と彫られていた。 「お父様の形見か」 女は驚いた顔をした。「なぜ分かるんですか」 「時計は嘘をつかない。針は止まっていても、彫られた言葉は動かない」 女は目を伏せた。父が入院していて、手術費が足りないのだという。伊佐夫は時計をもう一度眺め、査定額を紙に書いて見せた。相場よりいくらか高い数字だった。 「本当は、もっと安いはずですよね」 「品物の値打ちは、市場だけが決めるものじゃない。この時計には、あんたの父親が誰かを想った時間が詰まっている。わしはそれを預かるだけだ。売るわけじゃない」 女は深く頭を下げ、金を受け取って帰っていった。 質屋という商売は、誤解されやすい。人の弱みにつけこむ商売だと思われがちだが、伊佐夫にとっては違った。質草とは、いつか取り戻すという約束の証だ。流れて他人の手に渡る品物もあるが、それすらも「次の誰かの物語」の始まりに過ぎない。伊佐夫は棚に並んだ指輪や着物、古い万年筆を見るたび、そこに眠る無数の人生を思った。 三ヶ月後、あの女がまた店を訪れた。今度は晴れた昼下がりで、彼女の顔には以前の翳りがなかった。 「父の手術、成功しました。おかげさまで、退院もできて」 彼女は流質期限ぎりぎりで、利息を添えて時計を受け出しに来たのだった。伊佐夫は奥の金庫から丁寧に時計を取り出し、布で拭ってから渡した。 「大事にしなさい。時間は取り戻せても、想いは取り戻せんこともある。だが、あんたはちゃんと取り戻した」 女は時計を胸に抱き、何度も頭を下げて店を出た。戸の鈴が鳴り、雨上がりの光が土間に差し込む。 伊佐夫はカウンターに座り直し、また新聞を広げた。だが目は文字を追わず、窓の外を歩いていく女の後ろ姿をしばらく眺めていた。 質屋の仕事とは、物を預かることではない。人が人生のどん底で、それでも何かを信じようとする瞬間に、静かに寄り添うことなのだと、伊佐夫はいつも思っている。今日もまた、誰かが何かを抱えて、あの曇りガラスの戸を開けるのだろう。
昔から、ろくでもない人生だったように思う。 他人と自分を比較しても、何も変わらないのに。 叶わないことばかりを夢見てしまう。気が付けばそんな大人になっていた。 そんな日々の中で、自分にしかない何かを探した。他人と比較して、自分がより優れてるように見える、そんなものを求めた。 しかし、そんなことですら、自分より輝く人間はいくらでもいた。中途半端で終わらせた自分へと罰みたいに、その事実が思考を支配する。認めたくはなかった。認めるしかなかった。 昔から、雨でも晴れでもなく、曇りが好きだった。大した理由もなかったが、中途半端なわたしらしい。潔く降り頻る豪雨の方がきっとわたしよりもずっと素直だ。それも認めたくなくて、目を逸らした。 こんな中途半端でどうしようもない人間が何を残せるのだろうか、何を書けるのだろうか。今でもわからない。ふわふわ、ただ今を漂うように生きて、足掻いている。 生きたい理由も特別無いけど、死にたい理由も浮かばないから。今日も明日も、来るかわからない未来を生きる。透明なまま。
引っ越しの日、隣の部屋から出てきた老人が、段ボールを運ぶ私に声をかけてきた。 「一人かい」 「はい」 それだけの会話だった。名前も知らないまま、私たちは三年間、同じ廊下ですれ違い続けた。会えば会釈をする。それ以上でも以下でもない関係だった。 変化が起きたのは、四年目の冬だった。仕事で三日間、家を空けることになった夜、私は郵便受けから溢れそうな新聞を見て、隣の部屋のドアをノックした。 「すみません、旅行に行くので、新聞だけ止めておいてもらえますか」 老人は少し驚いた顔をした後、静かに頷いた。 「いいよ。鍵は」 「え?」 「郵便受けの鍵だよ。中に溜まったら外から丸見えだ。留守だと分かる」 私は少し迷ってから、郵便受けの小さな鍵を差し出した。渡した瞬間、妙な感覚があった。他人に鍵を預けるということが、こんなにも心もとないことだとは思わなかった。 三日後、帰宅すると、郵便受けは空だった。新聞はまとめて、私の部屋のドアの前に、雨に濡れないようビニール袋に入れて置かれていた。鍵はドアの隙間から、几帳面に返されていた。 「ありがとうございました」 翌朝、礼を言うと、老人は少し照れたように笑った。 「大したことじゃない」 それから、私たちの関係は少しずつ変わっていった。旅行のたびに新聞を頼むようになり、老人が体調を崩したときには、私が代わりに買い物を頼まれるようになった。合鍵を渡すようなことは、その後も何度かあった。 ある日、老人がぽつりと言った。 「昔、息子に鍵を預けたことがあってね」 初めて聞く話だった。 「息子は、勝手に部屋に入って、金を持っていった。それからしばらく、誰にも鍵を渡せなくなった」 私は何と言えばいいか分からず、黙って話を聞いていた。 「でも、あんたに新聞を頼まれたとき、思ったんだ。この人になら、渡してもいいかもしれないって」 その言葉に、私は少し驚いた。信頼というものは、大きな出来事によって生まれるものだと思っていた。けれど実際は違う。新聞を止めてほしいという、ただそれだけの小さな頼みごとの積み重ねが、いつの間にか、何かを預けてもいいという感覚に変わっていたのだ。 信頼とは、証明するものではなく、積み重ねていくものなのかもしれない。大きな約束をひとつ交わすことよりも、小さな頼みごとを何度も交換し合うことのほうが、よほど確かな絆になる。 老人が亡くなったのは、それから二年後のことだった。 葬儀の後、老人の親族から、一本の鍵を渡された。 「叔父が、あなたに渡してほしいと言っていました。何かあったときのために、と」 私はその鍵を、しばらく握りしめていた。 人と人は、大きな言葉や誓いで繋がるのではない。新聞を止めてほしいという頼みごとや、鍵を預け合うという小さな行為の積み重ねが、少しずつ信頼というものを形づくっていく。 その鍵は今も、私の部屋の引き出しの奥にしまってある。使うことのない鍵だが、捨てることは、これからもないと思う。
祖母の家の裏には、小さな畑があった。 子どもの頃、私はその畑が嫌いだった。夏休みのたびに、汗だくになって草をむしらされる。虫に刺され、腰は痛み、収穫できるのはたった数本のきゅうりやトマトだった。 「スーパーで買えばいいのに」 ある日、そう言った私に、祖母は笑いながらこう返した。 「買えるよ。でも、育てたことは買えない」 当時の私には、その言葉の意味がまったく分からなかった。きゅうりはきゅうりだ。スーパーのものも、畑のものも、味は多少違うかもしれないが、結局は同じ野菜じゃないか。そう思っていた。 大人になって、いくつかの仕事を経験し、いくつかの失敗を重ねるうちに、あの言葉の意味が少しずつ分かるようになった。 世の中には、お金さえ出せば、時間をかけずに手に入るものがたくさんある。知識も、道具も、資格でさえも、お金で買える部分は確かにある。けれど、買えるのはいつも「結果の入れ物」だけで、その中身、つまり「なぜそれが手に入ったのか」という過程は、決してお金では買えない。 私は一時期、近道ばかり探していた時期がある。効率のいい勉強法、手っ取り早く成果が出る方法、少ない努力で評価される立ち回り方。そういうものを探すたびに、確かに一時的にはうまくいった。けれど、不思議なことに、そうやって手に入れたものは、驚くほど早く色あせた。 評価は長続きせず、身につけたはずの知識はすぐに抜け落ち、手にした自信もどこか薄っぺらいものだった。まるで、根を張らずに植えた花のように、少し風が吹いただけで倒れてしまう。 一方で、時間をかけて、失敗しながら積み上げたものは違った。習得するまでに何年もかかった技術、何度も書き直した文章、何十回も断られてから成立した信頼関係。そうしたものは、簡単には崩れなかった。壊れそうになっても、根がしっかりしているから、また立て直すことができた。 祖母の畑のきゅうりも、きっとそうだったのだと思う。味の違いの問題ではない。土を耕し、種をまき、水をやり、虫と戦い、天候に一喜一憂した時間そのものが、あのきゅうりの価値をつくっていた。スーパーで買うきゅうりには、その過程がまるごと抜け落ちている。だから軽い。だから、すぐに忘れてしまう。 楽をすること自体は、悪いことではない。効率化できる部分は効率化すればいい。けれど、本当に価値のあるものだけは、いつの時代も、近道を許してくれない。 草をむしり、虫に刺され、それでも育てた者にしか分からない味がある。 楽して手に入るものなんて、本当に、一つもないのだと思う。
「視察だよ」 それだけを言って出てきた。見学でも、見物でもなく、視察。 ―視察って? 「のの」は、そんな顔をしていた。 「その場所に直接行き、その状況を自らの目で注意深く確認すること、です」 AIに教えてもらったのがバレバレみたいなことを「のの」に言ってみる。言い終わらないうちに「のの」は、ひゅるんと窓際に行ってしまう。その背中に「行ってくるね」と言って私は出てきたのだった。 ネット上の情報によると、おそらくもう少し行ったとこ。ココ? ああ違う? このあたりのはずなんだけど。あ、ココ、ココ。 ひとり、ふたり、さんにん… 木の陰に隠れて見ていると、さらにもうひとりが塀を飛び越えてやって来た。初めて目にする光景に、興奮が抑えきれなかった。 部屋に戻って「のの」に報告する。 ―ねこの集会は初めてだったのかい? 「うん。初めて、初めて」 ―ほう。それはそうと、ねこを、ひとり、ふたりと数えるのだなあ 「へん?」 ―いや。なんとも好感の持てる話じゃあないか そう言って「のの」は、むくっと立ち上がり、ニンゲンになったみたいな気で胸を張ってみせる。 ―まったく、キミといると飽きることがないよ 「のの」の、その視線の先には、まんまるのお月さま。黄色いまんまるに向かって「のの」は、小さく、けれど長く、にゃあ、と何かを訴える。振り向くと、わたしに対しても同じように。 「ごめん、ごめん。いまお水取りかえるから」 わたしも、キミといると飽きることがないんだよ。そのしあわせについては「のの」には伝えないでおくことにした。そんなこと「のの」はとっくに知っているはずだから。
八十歳の元夫が六十六歳の元妻を刺殺したらしい。八十と六十六。十四。〇歳と十四歳。 年齢が高いほど、二人の年齢に差があっても何の不自然さもないのに、年齢が下がるにつれて一歳差の存在感は強くなる。 歳をとるにつれ毎日が圧縮されていく。私が八十歳くらいになる頃には、今の一日は銅板のごとく薄くなってしまうのかもしれない。 不意に来年で小学三年生になる姪の顔が浮かんだ。今ごろは九九の計算に、右手の側面を黒く汚しているんだろうなと思う。姪と同じくらいのときは1日はとても長かった。なかでも一月と二月がずっと続いているように感じられた。黒板の右端に書かれた今日の日付を見て、まだか、と気が遠くなる思いがあった。何に対しての「まだか」だったのかはわからなかった。ただ漠然と、行かなければならない地点みたいなものがあって、そこへ向かって歩いてる感覚だけがあった。 今思えば、小学校は無限であり、中学校も無限であり、高校のときにようやく一日が縮み出した気がしないでもない。毎日思っていた「まだか」が次第に減っていった。気がつけば大学生になっていた。その頃にはすでに、あの頃に戻りたい、とむしろ考えていた。たちまちのうちに卒業してしまった。四年の歳月を絞ってみても滴ってくるものはほとんど何も無かった。 今私はここに居る。 七と二十七。二十。 私が八十になる頃、この二十の差はどれだけ縮んでいるのだろう。
『時代はAI! 今はAIがなんでも教えてくれるし、なんでも作ってくれる! AIを使っているかで、今後の人生は大きく差がつく!』 最近、そんな投稿に溢れている。 右を向けばAI。 左を向けばAI。 そしていつだって、誰かと不毛なレスバを繰り広げている。 「AIは、なんでも教えてくれるんだよね? レスバしても時間の無駄だし、いいことないよって教えてくれないの?」 思わずぼくは、AIを持ち上げるFFさんへと尋ねた。 嫌味ではなく、本当に知りたかった。 FFさんも、ぼくの性格を知っているのだろう、ぼくの質問を疑うことなく答えてくれた。 「レスバするとインプが稼げて、お金が稼げるんだよ」 実にシンプルな答えだった。 「それだけ?」 「それだけ」 「AIを使えば、今後の人生は大きく差がつく?」 「つくよ。インプで稼いで数百万円」 実にシンプルな動機だった。 「そのためにレスバ?」 「そのためにレスバ」 「仕事じゃん」 「仕事だよ」 ぼくはFFさんと話した後、改めて皆の投稿を眺めていた。 最近、趣味の投稿をほとんどしなくなっている。 自分だけの投稿ではなく、他人の投稿を引用する投稿が増えている。 右を向けばAI。 左を向けばAI。 そしていつだって、誰かと不毛なレスバを繰り広げている。 「これが、令和の豊かさってことなのか?」 投稿だけで、お金を稼ぐ。 泥臭い訪問営業と比べれば、実にスマートな方法だ。 一方、他人の生き方と思想にケチをつけ続ける人生が、他人と差をつけた人生なのかとも思う。 皆に返信して訊いてみたくなったが、レスバが面倒なのでやめた。
窓を開けるのが待ち遠しい朝 おはよう そういってくれるわけではないけれど わたしをあたたかく包んでくれるのは しっかり心と肌で感じられる そんな確からしさ 気にしてしまっているのだ そうそう容易にはふり切れないものなのだ ある種の思考の持ち主が存在してしまう そのことへの確固たる嫌悪 まったくね、妙な世のなかよね それでも少しずつ改善はしてるのかな 経過観察の毎日は、あたたかな飲みものから 秋の空がね 笑っているのだと感じられるなら
「焼肉よりやきとりのほうが好きでしょ?」 「え、なんでわかった?」 「そんな感じだもんね」 「そんなってどんな?」 「へへっ」 ズっちゃんは、ずいぶんとご陽気の様子だけど、僕はそこまでの気分にはなれないでいる。仕事で大きなミスをやらかしてしまった。なんであんなことになったかなあ。 「ふふふ~ん」 こっちの気も知らないで。言ってないからしかたないけど。ズっちゃんは鼻歌まじりにやきとりの串を思いっきり横に引く。 「ふふふふ~ん」 すこしは合わせてくれてもって思っちゃうよ。 「わたしって、タレより塩って感じでしょ?」 「どこがさ?」 「やだなあ、もう」 「え、何がさ」 「へへへっ」 無理やり自分のペースに引き込んでくズっちゃんのスタイル、嫌いじゃないけどね。いまは、ちょっと… 「もう一杯、飲むでしょ」 「あ、え」 「すいませ~ん」 ズっちゃんが生ビールを注文する。僕の返事も待たず。と言っても、僕は止めない。それが無駄だと知っているから。 店員が行ってしまい、ズっちゃんが振り向きざま言う。 「まあ、元気出しなよ」 「え…」 「なんて、何も知らないんだけどさ」 ズっちゃんが枝豆に手をのばす。僕もつられて手をのばす。 ほんと、何も知らないくせにさ。 ほんと、ありがと。
どこからか、鳥の囀りが響く。どこからか、優しげな風が温度を運んでくる。 緑に彩られた丘の上、晴天の下。私は、いつかのベンチに座ったまま、町を見下ろす。 眠りから目覚めたばかりの私は、眠い目を擦る。 ずっと、長い夢を見ていた気がする。途方もないほどに、長い夢を。 同じ場所をぐるぐる廻って、同じ場所に辿り着くような、そんな夢。どうしてかと聞かれて、何も覚えていない私には何も答えられない。 ただひとつ記憶の片隅にあるのは、何かを捜していたこと。誰かを、追いかけ続けていたこと。 結局辿り着けないまま冷めた夢のどこかで、誰かと同じ果てを見る。そんな、夢のまた夢をも、見ていた。 辿り着いた先の世界、夢から覚めた私は、理を見つめた。 そして、全てを忘れぬまま、貴女の夢を視ていた。
好きな人に告白した後どうしていいか分からない 「告ったの?」 「話したこともない」 学校終わりに友達とラーメン屋で鬼辛というラーメンを頼んだ。 一口目でヤバイと分かって、友達と拷問の様な食事を何とか済ませ、今はミニストップの前でハロハロを食べている 友達は彼女がいて、付き合って二年になると言う。 僕は彼女がいたこともないし、告白したこともない 「好きな人はいるんだ?」 「…うん…」 「誰よ?」 同じ学年の女子で藤岡と言う人がいる。彼女はどちらかというと休み時間に本とか読んでいそうな、静かなイメージで、話している所もあまり見たことないが、いつも決まった友達と固まって行動している。 「藤岡さんって分かるだろ?」 「おっ、うちのクラスの藤岡?分かる分かる」 「話したことある?」 「あるよ」 友達の話によれば彼女が藤岡さんと同じ中学だったらしく、彼女といるとたまに話すことがあるらしい。 「どんな人なの?」 「いや、あのまんまだけど。…あっ、確か引っ越すんじゃなかったけ」 「え!?なんで!」 それは知らないけど…と友達は知っている情報を全て話してくれた。彼女はクリスマス近くでアメリカに引越することになるらしい。父親の仕事の関係らしいが、何の仕事なのかは聞いてないと言う。 クリスマスまであと3カ月 早く告白しないと 「好きです」と伝えないと一生後悔すると思う たった4文字を発言すれば良いのに、どうして言えないんだろう 「そんなに好きなんだな」 「そうなんだよ。これが」 「でも告るのって難いよな」 「でも頑張る」 「手紙は?」 「そうか!」 手紙に思いを書き出して渡せば、僕の気持ちが彼女の側にいることが出来る。(捨てられたら元も子もないが)でも、何もしないよりマシだ。 「あっ!!」 「何だよびっくりした」 「藤岡は…彼氏いるぞ」 「…………」 「…泣いていいぞ」 「…それにしても、ラーメン辛かったな」 「…………」 「お前が何で泣くんだよ」 「…お前が…不憫でな」 「うるせぇよ」 帰り道、二人であのちゃんのモノマネを全力でやりながら帰った。 訳がわからなくて泣くほど笑った
会議で配られた重要書類の端っこに、ぽやん、の文字。自分で書いたのだと思うその言葉に、私のアタマもぽやんとなる。どういった心境によるものか、自分の過去の思考がわからない。まあ、きっと、ぽやんとしていたのだと思うけど。 「ずっと眠そうにしてたな」 会議が終わり、ひとりで部屋の片付けをしていたらひょっこりあらわれた課長が言う。え? となって、あああ、と納得し、ぽやんについても腑に落ちた。やけに筆圧の弱い字だったしな、と。 「夜おそくまで本でも読んでるんだろ。最近のお気に入りは何かな」 そうやって、お前のことは知り尽くしてるんだ、カラダの隅々まで、みたいな言いかた、もうしないでほしいのに。過去のこと。出来事も、私の気持ちにしても。 「まだ公にはされてないんだけどね」 言って課長は近づいてくる。関係の終わりを切り出された距離を思い出す。 「今度、転勤になる。福岡だ。キミには言っておこうと思ってね」 「なんで私?」 「みんなより先に知っておいてもいいだろ」 「知らなくても困ることじゃないけど」 「そうやってさ」 課長の手が私の左肩に置かれる。つかむのではなく、ただ置かれた手に力はなかった。 「昔みたいに話してくれてうれしいよ」 ああ、この人もちゃんと男なんだな、と思った。昔の女の前ではきちんと過去を引きずってくれるちゃんとした男なんだ、と。あなたとの三年は、魅惑的で、華やかで、輝きにみちた日々の連続だった、楽しさも、さびしさも。でもそれはやっぱり過ぎてしまったこと。もう一度と望む自分はすでにいない。ほかの男と同じように、そんなことを考える自分にしても。 「福岡から戻ったらいよいよ昇進ですね。部長とお呼びすることになるんでしょうか」 「そう、うまくいくかな」 私とのことだってうまく隠し通せたあなたなら、と、それは言わない。部長になったら私のこと引き上げてくださいね、そんな浅ましいことも思っていない。この人が戻ってくるころ私は、ここにいないんだろう。知らないままこの男は福岡へと旅立つのだ。仕返しとでも思うかな。そんなつもりまったくなくて、だからただ、過去のことってだけなんだな、と。
黒く黒く黒い何かが、溢れ出そうとする。今日も、時間だ。 太陽が沈んで、夜になる。星の輝き始めた冷たい空に、暗い闇が降りてくる。それと同時に、僕の両手の平から、ひどく濁った灰色の、ヘドロのような液体が垂れ始める。やがてそれは、腕、肩胸や首と全身に広がっていく。泥でびしょびしょになったような奇妙な感覚に体が重く、いつも、いつもいつも、吐き気がする。 指の先から頭のてっぺんまで、どんよりとした灰色に染まり、体が引き寄せられるように、外に出る。今日僕は、何をしてしまうのだろうか。 怖くて怖くて仕方がない。夜になる度、怪物となる僕は、自分の意思とは関係なく動いてしまう。夢を見ない夢遊病なんて、洒落になっていなくて、やっぱりそれにも、吐き気がする。 怪物の僕は、毎夜違うことをするが、一つだけ、絶対に同じ行動をする。 着ていたパーカーのポケットから、酒を取り出して浴びるように飲む。零れた雫が地面を濡らし、明日には乾いていることを勝手に期待する。缶を放り投げると、もう一度ポケットに手を突っ込み、今度はエナジードリンクを掴み、喉に押し込む。炭酸がお腹に沁み、また吐き気。 パーカーに入っていないと、誰かから獲るか、金も払わずお店で飲んでしまうから、昼間にうちに買っておき、そしてその日の終わりに消費する。 しばらく町を彷徨っていると、急に寒気がした。いつもはないことなのに、どこかへめがけて走り出す。僕はどこに向かっているんだろう。そしてそこで何をするんだろう。 三分程行くと、自然と足が止まる。怪物の姿だからか、全く息が切れていない。暗闇に目を凝らすと、うっすらと月明かりに照らされた人影が見える。 ああくそ。直感的に分かる。こいつは僕の敵だ。僕にそっくりなその体は、僕と正反対の白色をしている。固まっていない石膏像のような姿に、僕もこう見えているのかと吐き気がする。 無造作にお互いが近づき、足元からそれぞれの色の液体が流れ落ちる。 吐き気がする。 両者の中間辺りで交わったそれは、シューシューと音と煙を出しながら、蒸発していく。 吐き気がする。 液体の流れる速度が増す。洪水のように、僕まで流されてしまうんじゃないかと思えるほど。 吐き気がする。 目の前で火花が散った気がした。よく見ると、濁った灰色の隙間から、肌色の二の腕が覗いてる。 吐き気がする 白い人影の方も同じように、少しずつ、少しずつ、中の人間が現れているようだ。 吐き気がする。 液体の流れる勢いが急速に弱まる。もうすでに、足まで露になってきている。 ああ。 吐き気がする。吐き気がする。吐き気がする。 黒と白の液体が、一滴も残ることなく、消えきった。 吐き気がする。まだ体に馴染まない。この身体の持ち主は、私の体であったものと一緒に抜けきった。もうこの身体には、私の精神しか残っていない。吐き気がする。あとは、あの白いのを、殴り殺すだけ。
ある日思いついた 「…俺は神なのかもしれない」 友達が言った 「そんなわけないだろボケ」
曇りなき 心の月を 先立てて 浮世の闇を 照らしてぞ行く 伊達政宗