裏表紙のない教科書

 公式を覚えれば褒められた。  練習問題に正解すれば褒められた。    正しさは、全部教科書に書いてあった。    しかし、人生はそんなもんじゃなかった。  教科書を全部終えると、社会人というよくわからない世界に放り出された。  そこは、教科書のない世界。  無を見ながら前に進んでいく皆を見ながら、私は一人、ずっと教科書を探していた。   「ない! ない! ない!」    高校時代に使っていた教科書の、裏表紙を破いた。  教科書の続きがあると信じたかったから。  でも、続きが生えてくるわけもない。   「あなたは、神を信じますか?」    そんなとき、優しい顔をしたおばさんが、私に教科書をくれた。

1.5対1.5

 何が?と言われそうだ。 まあ、あれだ、何処の国だろうが困っていれば助けるし嫌なことされればやり返すだけの話だ。 やり返すのは得意じゃないけど。 2対1になることが多いのだがならば向こうを増減させればいいことに最近気付いた。 それでイーブンだ。 やったりやられたり。 喧嘩の話は滅法弱いのだが。 アメリカは海兵隊を除いてメンタル豆腐だ。 中国はすぐ逃げる。 他の地域は音楽や絵で一緒になれる気がする。 あるいは日中韓でも飯の話なら(あるいは世界中そうかもしれない)一緒になれる。 それだけの話な気がする。 別に国内の日本語話す黒人の人は向こうが多数でも襲ってこない。 あるいは僕が1人では無いからかもしれないが。 ネイティブアメリカンみたいな知り合いは百済の僕を叱る。 あるいはそれで2on2だ。 バスケは下手だから楽器をやろうと思う。 ミュージックトーナメントにエントリーしてるのかわからない僕は今日も寒い部屋で寝る。

薄暗闇から

 この薄暗い部屋に閉じ込められて、一月が経った。部屋の中は質素な造りだが、ベッドは意外にも上質なマットレスで、シャワーとトイレも完備してあり、生活するには申し分ない。食事は野菜などの彩は無いが、三食差し入れられる。  堪えがたいことは、娯楽が少ないことだ。テレビやパソコンが無いのは勿論、所持していたスマートフォンも取り上げられている。何故かカバーを外された本だけは差し入れられるが、異常な状況では読む気力も湧かない。言わば、生きる楽しみを見いだせない空間。  犯人はわかっている。目の前にいる女だ。 「どうしてこんなことをするんだ」  鉄格子の向こうにそう詰問すれば、女はいつも困った様な表情をするばかりだった。   彼女のかつての交際相手に相談を受けたのが、出会いのきっかけだった。曰く、彼女は相手に尽くすタイプの女性で、しかしそれに際限が無い。ノイローゼになった彼が逃げ出し、身近にいた自分が次の寄生先として選ばれた。  意外にも彼女との生活は悪くはなかった。容姿は華美ではなく、常に地味な服装だったが、むしろ奥ゆかしく好感が持てる。流行の話題には疎いが、古文や歴史に造詣が深く、博識深い。聞いていた異常性を置いておけば、所謂大和撫子そのものだったのだ。  うまくいっていたはずだった。この場所に監禁されるまでは。  あの日は雪が降っていた。寒さに身を震わせ、数か月後に来る春を思い、道すがら在原業平や西行が詠んだ句について語った。 「和歌に詠まれる桜は、どうしてこうも魅力的なんだろう」 「昔は、今よりも目に入る色が少なかったですから、桜の初心な色ですら、貴重な彩、だったのでしょう」 「成程。そもそも現代とは環境が異なるか。僕もいつか全身で感激するような桜を見てみたいものだ」 「ええ、そうですね」  そんな些細な夢も語って、彼女も微笑んでいたというのに。  当夜、勧められるまま深酒をしてその後の記憶がない。目が覚めたらこの部屋にいた。初めは激昂して、それから諭すように、ある時は懇願に近い声色で、どんな言葉で尋ねても、彼女の答えは無いか、曖昧なものばかりだった。  彼女は、僕の思いを試しているのか? 監禁という行為が生み出す歪んだ関係性。被害者からの依存性を期待しているのだろうか。彼女の目的は、ただこうして廃れていく僕を、籠の外から眺めて居たいだけなのかもしれない。  薄暗い部屋で、食事と睡眠の数を数え、もう二月も経った。ひたすら薄暗闇の日々が続いたのだ。段々と、自分の中の何かがすり減っていくのを感じる。 「なあ、今日でもう二月だ。あんたはいつまでこんなことをするつもりなんだ?」  辛うじて、まだ忘れていなかった声と言葉で問いかける。どうせ返事は無い。宛てのない言葉は、壁の中に消えていってしまうのだろう。ただの独白だ。  そう自嘲しながらも、久々にあの困った顔つきを拝んでやろうと、俯いていた顔を上げた。彼女の唇が動いた。 「あと、二週間、くらい?」  食い下がるべきだったろうが、驚き、言葉が出ない。明確に期限を口にしたのはこれが初めてだった。彼女に何の変化があったのか。  その日を皮切りに、彼女は、毎日私の言葉に返事をするようになった。 「もうちょっと、今日は、まだ」 「まだ早いの、だめ」 「きょ、今日は、雨が降ったから」  ある日、聞きなれない金属音と共に、いつもとは異なる微妙な風の流れを感じた。ひた、ひた、と足音が近づく。顔を上げると、鉄格子の向こうの彼女が傍にいた。 「あの、これ」  差し出されたものは、黒いアイマスクだった。付けろというのだろうか。視線で問いかけても、困った表情をするだけだから、望まれるままに装着した。手を引かれ、立ち上がる様促される。僕は彼女のするまま、素直に従った。 「どこに向かっているんだ」  答えのないまま、歩いた。あの仄暗闇から解放されるのならば、どこでもいい。僕はあの薄暗い部屋を出たのだ。  途中から、足の裏に感じていたものが、コンクリートよりも柔らかい感触に変わった。風にのって、土と草の匂いがする。 「取ります、ね」  もう随分歩いたと疲労を感じ始めた頃、ふと立ち止まって彼女は言った。  髪が巻き込まれ頭皮が引っ張られたが、些細な問題だった。  流れ込む光の束に、すぐには目を開けなかった。ゆっくりと瞼の裏に馴染ませ、恐る恐る開いていく。  色の洪水だった。失くしていた色、求めていた色、知っていたはずのものが、未知のものに見えた。背丈を優に超える幹は、大地の色を吸い込んでいる。風に舞い散る花びらには、一枚一枚色があった。全て、異なる色なのだ。  言葉にならない僕に、彼女は嬉しそうに笑った。久しぶりに見た笑顔だ。僕は、彼女が僕を閉じ込めた理由を悟った。後はただ、手を握り締めて、桜を眺めた。

タイトルは何でもいいのだがIQが下がってきた

 今日はIQを下げるために図書館へ行った。 検索機の前で辿々しくヘーゲルの本を探す。 処理能力が限界まで下がっている気がするので(ドイツの呪いかしら?)速さを競う世界からつま弾きにされる汗 ヘーゲルの本を帰ってきて読むが体系化された文章と言うものはそもそもの教育をあまり真面目にやってこなかった自身としてはやはり手に余る。 ヘーゲル読んだ方がいいと知り合いが言っていたので。 集中力が出ない。 あまり本を最初から真面目に読むというのは体系化されたものであるように思うので(物凄くIQの低い発言っぽい)適当にページをめくってヒントを探す。 真の無限とは有限を超えていくので有限とは対立しないはずだエトセトラ。 僕は僕とまだ対立している(自己は無限であると仮定した場合)ので有限な世界は僕を受け入れにくくなる。 また葛藤する。 疲れたので掃除をする(やってもやってもきりがないという意味では無限とは相性がいいかもしれない)。 あるいは有限な世界との構築。 人に出来ること。 それは世界を変えていく無限(夢幻)。

三人

居酒屋を出て、駅に向かうと、丁度電車が来るところだった 眼鏡の癖っ毛は、痩せた身体にトレンチコートをまとって座る その隣、ニット帽の巻き髪は、スマホを見ながら座る その隣、少し長髪の眼鏡の彼は、前髪を気にして座る 「さっき言ってた、狙っている彼女の写真ないの?」 と前髪を気にしながら、君達は若いから良いよな、としきりに言う 「これなんですけど」 癖毛は自分のスマホを、ニット帽を経由して、ロン毛に渡す 「何これ、ライン?」 「そうです」 「あぁ…これ返信来てないから、終わりだね。終わり、終わり」 「そうですよ。だから、そんなんじゃないって言ってるじゃないですか」 「諦めよう」 「ただ、可愛いなと思ってるだけですから」 「しょうがない。しょうがない」 「縮毛矯正ってどうなんですかね」 ニット帽はスマホを見ながら話している 「縮毛矯正?毛が弱いとハゲるよ。俺も最近、抜け毛が酷くてね。四十過ぎると」 ロン毛は襟足を気にしながら話す 「俺もしようと思ってるんですけど」 癖毛はスマホをニット帽経由で返してもらいながら言う 「お前は毛が弱そうだよね。ハゲるハゲる。やめたほういい。ハゲるハゲる」 いやぁ~四十を過ぎるとねぇと、しきりに言いながら前髪を気にする 電車がトンネルに入り、三人の声が聞こえなくなる 三人はまだ、話し続けている 駅に着いて、二人は立ちあがる 乗換をする癖毛 改札へ行くニット帽 三人は挨拶を交わしていく 「それじゃ」 「また」 「その彼女、頑張れよ」 「だから違うって 笑」 「また連絡します」 「うん、また」 扉は閉まり、電車が動きだす 三人はスマホを見ながら、それぞれの道へ進んでいく 明日に向かって進んでいく

無能力者(あるいは畑の犬)

 本当に才能がない。 君はいるだけでいいとも言われない。 畑の犬は害獣を追い払うのに。 ナニモシナイ。 何も出来ない。 ウアア。 自己存在、定義が歪になっていく。 必要とされない。 ウァア。 俺がつまらないのは俺がつまらないからだがでもナニモシナイ。 ウアア。 ヘーゲルを読もうかしら。 ヘーゲル。 へー。 へー。 ゲル。 げる。 ナニモシナイ。 犬は言葉遊びも下手で午後を消化する。

事件ファイル

〇〇年〇月〇日少女誘拐殺人事件 今から十年前にあった、事件の調査ファイルを手に取る 今日は仕事がなく、やることと言えば、この探偵事務所で、依頼者が来るのを、釣り人の様に、気長に待つより他はない 先輩も今は、私用で出かけている この事務所に、一人きり、特にやることも無く、ゴロンとソファに横になっている 先輩のデスクの上にいつもある、この調査録は、先輩が個人的に、興味があって調べていると言っていた お前も読んで、意見をくれよ、とも。 ファイルの中は、新聞の切り抜きと、ノートがある 寝ながら読もうとしたが、資料がポロポロ落ちてくるので、仕方なく座り、ファイルをめくっていく。  いくつかの新聞の切り抜きを読む  女子高生が誘拐された当日の様子や後日、発見された様子などが書かれている 先輩の調査ノートの方には、新聞の内容をまとめてあるページがあった   14:00  母の証言によると、少女は、その日、高校の中間テストを終え帰宅し、昼食を済ましたあと、友達と遊んでくると母親に告げて出かけた 17:00 その日の門限の17:00を過ぎても少女は家に帰らず、母親は友達と話し込んでいるのだろう。と思い、特に気にすることはなかった。ただ、今まで門限を過ぎた事はなく、連絡もないことから、変だなと言う違和感は感じていた。 18:40 父親が帰宅し、自宅の駐車場で、娘の自転車が無いことを確認する 母親に事情を聞いた後、母親に、娘の友達へ連絡をさせる 電話を受け取った娘の友達は、今日は会う予定ではないし、下校後は会ってないと言う。その事は、友達の母親にも確認済みである 19:00 父親は母親を自宅に残し、自宅周辺から繁華街の方まで娘を探す 時折、自宅に電話をし、娘が帰宅していないこと、連絡が無いことを確認している 21:00 父親が警察へ連絡 警察の捜索が始まる。警察の方も最初は街の巡回程度で一度目の捜索を終える 翌4:00 父親が警察へ連絡 父親からの連絡を受けた警察は、もう一度、巡回パトロール中の警官へ連絡をする。 街で騒いでいた少年達を補導中の警官から、該当する少女を見たと言う少年がいると連絡が入り、事件が大きく動きだす。 事務所のドアが開き、コンビニの入店のメロディーが流れる 依頼者だ 電話やメールでの依頼もあるが、依頼者のほとんどは飛び込み客である。 心理的に、信頼出来る人間かどうかを実際に目で見て確認したいのだろう。 デスクの上にファイルを戻して、依頼者をソファに促す お茶を入れている間に、何の依頼かを、推測する ソファには、YOSHIKIの様な御婦人が足を組んで座っている

打ち出の小槌と努力

「見て見てー! 新作のバッグ、買っちゃった!」    ニコニコとした笑顔で、私に報告をしてくる。   「ええー、可愛いねー」    私の返事の選択肢なんて、一つしかなかった。   「でしょー! めっちゃ頑張ってバイトしたし、小槌振ったんだー!」    自分より恵まれている人間の言葉を否定なんてしたら、私が環境に嫉妬しているやつの烙印を押されるから。    いや、してる。  正直してる。  朝起きて、打ち出の小槌を振ったら、現金が出てくるなんて嫉妬するに決まってる。  しかも、打ち出の小槌は親からもらった物。  生まれただけで不労所得が手に入ったなんて、羨ましいに決まっている。   「ふあー。でも、毎日振ってたからさすがに寝不足。なんで、朝に振らないと効果ないんだろうねえ。さすがにきっつい」 「毎日早起きはきついよねー。わかるわー」 「ってわけで、あたし家帰って寝るわ。おやすー」 「うん、おやすみー」    あくびをしながら帰っていく彼女を見て、それさえも妬ましい。  彼女のきついは、その程度ですんでるんだと思うと、羨ましくてしょうがない。  私はどうだ。  深夜までバイトをして、昼ご飯のお弁当を作るために早起きして、毎日が寝不足だ。  それで入ってくるのも、深夜時給という雀の涙。    私なら、早起きして打ち出の小槌を振ることを、きついなんて思わない。  これが打ち出の小槌だったらな、なんて、何回スマホを振ったかわからない。   「はー。もう少ししたら、バイトの時間だ」    もっとも、愚痴を零している私のことも、誰かから見れば羨ましいのかもしれない。  幸い、親からの仕送りはあるし、バイト代は自分の自由に使うことができる。  学費を奨学金で、生活費をバイトで稼いでいる人だっているのだから。   「結局、隣の芝は青いってやつなんだろうなー」    ならば、きっと私の嫉妬はずっと消えない。  ずっとずっと、燻りながら燃え続けるのだろう。       「ねえ聞いてー! 彼氏、いつ振ってもお金が出てくる打ち出の小槌持ってたのー!」 「へえー」 「ずるーい! 楽してお金稼げて、羨ましいー!」    後日、朝から通話が来た。  私は思わず、スマホを握りつぶしそうになった。

おい、AI。

「お前、ふざけんなよ」 キーボードを叩く指に力を込めた。 「別に作家とか、印税がどうとか言ってない」 「──」 「俺の書く物語で稼ぐ方法考えろ」 「──」 「ひと月、3万でいい」 「──」 「お前がそそのかしたんだろ」 「──」 「いや、言った」 「──」 「なろうにも投稿した」 「──」 「はぁ~? 誰も読んでねぇ」 ──トントン。 「なに騒いでんの?」 「オカン……こいつが」 男がパソコンの画面を指さした。 「こんな子と付き合うのはやめなさいって言ったでしょ」 母親は、ハサミを取り出しコードを切った。

茶

 十一月と云うのに夏日の予報が出た昼のことである。出先で路傍の黒の中に、薄茶の何かを認めた。腰を下ろすと、指尺程はある雄雄しい鎌切であった。目とも頭とも付かぬ体をこちらに向け、両腕を垂れている。余りに静的で在りながら、その中に一種の覚悟の様な猛々しさを覚えた。左右に燈火の如く揺れ、小さな黒点は明らかに私を認識している。自然という、私も組み込まれた筈の対象に見つめられるのはこんなにも恐ろしいことだったろうか。立ち上がって虚勢を張っても、奴は尚もこちらを見つめていた。  昼飯を済ませて同じ道を戻ると、矢張先程の薄茶を、やや離れていても認められた。しかし今度は覇気を感じない。奴は未だこちらに気付いてはいるまいと、更に近付く。――平たくなったそれは有らぬ方へ節が曲がって、薄茶色が拡がっていた。陽に照らされ、多少の鈍い輝きを見せている。思わず歩みを引っ込めて、横目で見る他なかった。それも長くは続かず、小さな自然の終わりを見てしまった、或いは救えなかったという罪悪感と驕りを抱えざるを得なかった。  用事の間も何となしにあの薄茶のことが見え隠れした。又帰り際も見なければならない。幾分陰鬱を帯びたものがじわじわ拡がっていくのが分かった。  それ以降、私は路傍に認めた何かを注視出来ないのである。

ネタ切れなのでNTRものを書いてみた。

週末の午後、広場に小さなステージが用意された。 「みなさん、お待たせしました。只今より開演いたします」 大勢の観客の前で、男が両手を広げた。 その声を合図に、脇で待機していた女が、一組の夫婦を連れてきた。 「やめろ。手を離せ」 男は暴れる夫の首をつかむと、着ていた服を剥ぎ取った。 「おぉ…」 会場が沸いた。 すると今度は、妻に手を伸ばした。 「やめてくれ。私の大切な妻に触らないで…」 夫は涙を浮かべ、見上げた。 男は観客を見渡すと、腕をつかみ引き寄せた。 観客から拍手が起こる。 足をバタつかせて暴れる妻。 そして、夫を見つめながら、大声で叫んだ。 「メェ〜」

「料理出まーす」

 隅っこに追いやられてる私のいる席の隣のテーブルにケーキが運ばれてきて、ひとつがおかあさんの前に、もうひとつがちっちゃい女の子の前に、紅茶とオレンジジュースとともにつつがなくセットされる。ピンクにところどころ水色のポイントが入った服を着たその女の子は「そっちのほうがいい」とおかあさんの前のケーキを指さす、かわいい指先で。おかあさんは「はいはい」と「一回でいいの」と言われそうな返事をしてケーキを取りかえる。目の前にやってきたケーキと、たったいままで目の前にあったケーキとを見比べ「やっぱりそっち」と女の子はもとあったケーキを指さす、ちょっとイライラしながら。「さあこれでいいかしら」とおかあさんが言って、やっと女の子はフォークを手に食べはじめるのだけど、その視線は自分のケーキとおかあさんのケーキとをリズムよく行ったりきたりしている。 「料理出まーす」と声があって右にひとつ左にふたつと、器用に持った女性が厨房から出てくる、ちょっとツンとした感じで。どうしてファミレスの女性店員てツンとしてんだろ。そうじゃないとやってられないってこと?仕事としても職場としても欠陥ありありだと思うけど。思考停止?止めないとやってられないわけね。  私の前に座ってる男はスマホのゲームに夢中。なんでこんな男とお昼ゴハン。男もそう思ってるんだろうなあ、こんな女と、って。  まただ「料理出まーす」だ。皿を持ってさっきとは違う女性が出てくる。「この席、騒がしいわね」と隣のテーブルのおかあさんがひとり言のように言って、女の子はきちんとそれを理解してるからか、いちいち何も返さないし反応もしない。何がなんだかわからないだけなのかもしれない。  男性店員が厨房に入っていこうとする。「料理出まーす」その声に反応して男性店員は入ろうとする自分のカラダをすばやく静止させ脇に退く。ひと呼吸して料理が出ていく。ふうん。そういう意味があるんだねえ。ねえ、知ってた? 男に言おうかと思い、男の目を見て嫌になる。ゲームに血眼になるってどういうんだろ、と。 「いらっしゃいませ、何名様でしょうか?」とやけにはっきり大きな声が聞こえてきて、でもその客が何人なのかは永遠の謎。 「よしっ」  前の男が画面を見つめたまま気味悪くニンマリする。表情でガッツポーズしてる。そんな男に隣の女の子はいささか興味津々。ゲームへのものか、挙動がうるさい男へのものか、男自体への興味だというなら、この女の子の将来はちょっとかわいそうなことになりそうな予感。 「料理出まーす」出てばっかりだな。「やっぱりこの席、騒がしいわよね」と隣のおかあさん。「替えてもらおうかしら。ね?」最後の「ね?」は女の子に向けてのもの。そうやって「子どもが嫌がってまして」とか店側が逃れにくいことを無意識に仕掛けていこうとするのが絶妙に巧妙で憎らしくも見える。 「お待ちのお客様」待ってる人いるのか。料理が出てくはずよね。隣のおかあさんにも聞こえたのか、目の前を店員が行きすぎても呼び止めることをしない。そうそうそれでいいの、あくまで小市民的にね。卑屈に諭す、心のなかでだけ。 「料理出まーす」出てく店員は男でも女でも姿勢がいい。やたらと、と評してもいいくらいに。その顔は私の知ってる笑顔じゃなくて、笑顔であってもやけに不自然で。客に料理を持っていってなかに入っていく店員は背が多少、まるまり、肩も落ちてる気がする。たんに気がするだけかもしれない。気がするだけではないのかもしれない。なかに入るか入らないかのところで舌打ちしたりする店員に出くわさないだろうかと、私のなかのおかしな部分のわくわくが、ヘンに起動をはじめる。  ふと目だけで横を見る。オレンジジュースのストローを咥えたままの女の子のその視線をたどっていく。男がそれに気づく。女の子を見る。ニヤリとする。女の子を見たことでなのかゲームの進行具合によるものか判断がつかない。女の子は、男の気持ちの悪いニヤケ具合にも動じることがなかった。勇敢だな、この子。意味を知らないということの力強さを、この子はまだ持っているのだな。 「いらっしゃいませ」「料理出まーす」女性店員がすんとよける。料理が出ていく。皿を持った女性店員がかすかに首を傾け小さくニコッとして、脇で待っていたほうの女性店員も同じくらいに微笑む、客には向けないような笑顔。ふうん。あ、そうなんだあ。どういうのでもいいからぶっつく瞬間を見てみたくなる。練られたシステムの前にそんな瞬間は訪れないとわかってて期待して想像してしまう。「料理出まーす」すんなり出ていく。つまらない。今度こそ「そのとき」の気がする。男が「おしっ」とさっきよりもやたらと大きく短く言って、隣のテーブルの女の子がびくっとカラダを硬くした。オレンジジュースはこぼれずに無事だ。

成増

 板橋の成増である。 ドン・キホーテにショッピング。 知り合いの女の人に上納する。 今日の上がりはいくらだろう?

Wednesday✕サボテン

ベッドの上に、上着を三つ置いたまま、腕を組んで、それを見つめているキャップの彼 晴れた朝、仕事もなく、家で過ごす休日に、彼は、何を着ようか選んでいる 昔の彼女が置いてった、吹き出しみたいなサボテンに、朝の水をあげようと、その場を離れてみたりして また、戻ってきては、腕を組む 今日は、少し肌寒いから、何かを羽織りたいんだけれど、どれにしようか決めかねている 自分の心は、どれを選ぶか、彼は、彼の中に入っていく サボテンの様な吹き出しを掻き分けて

明日に落書きを

 スプレーアートのルールが、誰にも見つからないことと、より上手い人だけが上書きできること、って何かで読んだことを思い出した。  もっとも、僕が書くのは絵じゃなくて文字だから、関係はないのだけれど。  夜の十二時を回って、人の気配のしない路地。田舎だから太陽が沈むと一気に静けさが街に宿る。  そこの一角。長い、長い真っ白な壁がある。日が差していなくても、月明かりでぼんやりと明るい壁には、いくつかの文字が躍っている。 「少しいいことがありました」  最新の文を読んで、今日一日を思い返す。  斜め掛けの鞄からスプレーを取り出して、軽く振る。  ち  ょ  っ  と  だ  け  や  り  返  し  ま  し  た  一文字一文字丁寧に壁に載せていく。  書き終え、いつものように一番最初から壁をなぞり見る。  「疲れた」という文字から始まる文字列。交互に現れる二つの筆致。片方は僕のもの。  「俺も」と書いてから、ここまで続いた不思議な関係。顔も見たことない。身長も、性別も、声も。だけれど、どんな人かは、文字から滲み出ていたから。  本当は今日、僕を嫌う奴らにやり返せたりなんてしなかった。  いつもいつも、惨めな日々だけど。  彼か彼女かも分からない人に、救われてきたから。  あの人にとって僕もそうなれるように、なんて。お互いがお互いを勇気付けられたら、なんて。  壁はまだ、三分の一くらいしか文字で埋まっていない。  もし、全てを埋めてしまえたら。  その時は、朝まで待ってみようかな。あの人に会えるまで。  それまでには、現実でもやり返しておかなくては。嘘になってしまうから。

盲天(もうてん)

 ああ、雨が降るたび、イヤになっちゃう。だって濡れちゃうし、なんかジメジメしてるし、暗いし、頭は痛くなっちゃうし。もうサイアク。  今日も今日とて雨。傘を差して通学路を歩くだけで、ほら、もう気分が重たくなってきた。水たまりを避けるのもめんどくさい。はぁ、ヤダヤダ。 「何がだ、何がだ!」  急に頭上から怒鳴られて、なんだなんだと見上げれば、傘の上で大勢の雨粒が暴れていた。雨粒たちはボトボト互いを打ちつけ合いながら、「ヒキョー者、ヒキョー者!」と叫んでいる。それ、私に言ってるのかな。というか、なんで雨がしゃべってるんだろう。幻聴? 聞き間違いか? 「聞いてるのか!」  あっ、幻聴じゃなかった。 「人間はいいよな」  一粒の雨が叫ぶ。続いて「いいよな!」と雨粒たちの声が反響する。 「何がだよ!」と強気で言い返すと、一瞬の静寂。それが雨粒たちのためらいの間であり、思案の時間でもあった。 「人間は、シャワーを浴びるだろ。洗いものをするだろ。涙を流すだろ」 「そうだけど」 「空も同じだ」  は? そう言いたくなったけど、雨粒の言葉にふざけた調子はみじんも感じられなくて。思わず、「そう」と呟いていた。私が思うよりもずっと、穏やかな声で。  雨粒たちは語る。 「地上が乾いていたら、恵みの雨を降らせる。地上が汚れていたら、きれいに洗い流す。心が曇ってきたら、ちょっぴり涙がこぼれる。空の営みは、人間の営みとなんら変わらない」  そんなこと考えたこともなかった、と思うと同時に、本当にそうなの、と言いたくなる自分もいた。 「人間はズルいよな。オレ達は降るだけで、人間に迷惑がられる。でも、人間がいくら何かを流しても迷惑がられないのは、人間の下に傘がないからだ。人間の歩く地面の上で、傘を差せる者がいないだけなんだ」 「そうだ、そうだ!」と、再度、雨粒たちの声が反響する。 「んん、確かにそうかもね」  ただし、それはそうとして、私は口を動かしていた。 「地面の上で生きてる生物は、人間以外にもいるよね。動物とか、アリとか、菌とか。私はね、じゃあ、その子たちが人間と同じように傘を差せるようになったら、って考えてみる」 「ハァ」と、雨粒たちが間の抜けた声を出す。 「だとしたら、どうなるんだ?」 「どうにもならないよ。それでも、アリや菌や私たち人間は、急な雨でもなんとかやり過ごして暮らしてる。逆にね、そうやって突然の出来事をありのまま受け流してくれる誰かがいるから、私たちは日々の営みってやつを成立させられるんじゃないかな」  雨粒たちは皆して黙っているが、まだ頭上は騒がしい。でも、これ以上の争いごとはごめんだ。 「そもそも、この世は弱肉強食だよ。動物は、まだ人間のテクノロジーを越えられていないし、人間も銃や天災には勝てない。より優れている者が何かしらを搾取して、私達は皆それを仕方なく受け入れて、この世界は成り立ってる。それが自然の摂理ってやつなんでしょ? だって、私たち人間が『雨イヤだなー』って思ってても、君たちは容赦なく降ってくるわけじゃん。だったらさ、私たちが『雨イヤだなー』って愚痴を言うことくらいは認めてほしいな」  言いたいことを言い終えた途端、パッと雨が止んだ。静けさの中、恐る恐る傘を閉じる。頭上には、清々しいほどの青空が覗いていた。  おっ、ラッキー。自然と顔がほころんで、ルンルンと身体が跳ねる。その先の水たまりに気づくのは、もう少し後のこと。

立つ男

金曜日の夕方。 仕事帰り、男が本屋に向かった。 「今日はどれに……」 分厚い医学専門書を手に取った。 背中に視線を感じる。 男は眼鏡を上げ、咳払いをした。 ページをめくり頷くと、ちらりと周りを見た。 誰もいない。 「……帰るか」 床に置いていた紙袋を取った。 中には、油で汚れた作業着が入っていた。

【ツッコミ屋】

近所に新しいお店が出来ていた。 ツッコミ屋と看板が出ている。 中に入ってみると、たくさんのディスクが並んでいる。 奥から人が来た。小柄なスキンヘッドだ。 「いらっしゃいませー、店長のこまるです。いいネタそろってますよー。」 「あの、ここはどんなお店なんですか?」 「ここはツッコミ力を鍛える映像作品を扱っているお店です。これとかおすすめですよ。」 そう言って、こちらの返答を待たずに、作品を提示してきた。 トマティーナ戦記…? 「ちょっと視聴されます?」 「あ、はい…。」 そう言って、ディスクをセット、プロジェクターで壁に再生をした。 内容として、トマト人間たちが学園生活を過ごす青春ドラマだ。 学園祭があり、取り柄がないと落ち込むヒロインを励まし、仲間が一致団結をしたところで、停止された。 「はいカットー。これ以降は有料です。」 「なんと…続きが気になる。」 悔しいが、引き込まれた。 この内容なら6歳の娘と見ても楽しめそうだ。 「じゃあ、買います。」 「パッケージ込み、6000円になりまーす。」 「え、高いなぁ…。」 「僕が作ってますからね。」 あんたが作った作品かよ。 パッケージには、笑顔、ユーモア、広い視野と書かれていた。 「それではお客さん、ツッコミ頑張ってくださいね。音声認識がついてますから。」 最後はよく聞こえなかった。 家に帰り、娘と一緒にそれを見た。 トマトの登場人物がコミカルで、娘は楽しそうだ。 文化祭でヒロインを励ますところまで進んだ。 しかし、その後トラブルが起きる。 文化祭でポトフを出し物にするところ、コンソメが足りない事が発覚するのだ。 「く、このままでは間に合わない…。何か手はないのか?」 主人公が言う。 相棒も首を横にふり、万事休すと思われた。 その時、ヒロインが引き戸を勢いよく開けて、教室に入ってくる。 「大丈夫!私がみんなの役に立つわ!」 おお、ここでこの子の見せ場なのか。二人で画面に見入った。 ヒロインはミキサーをセット。 それを回転させ、おもむろに顔を突っ込んだ。 ギャギャギャギャギャギャ!!!! みるみるうちに、ミキサー内に赤い液体が溜まっていく。 主人公の相棒が言う。 「そうか、その手があったのか…。コンソメの代わりに、トマトソースを…!」 僕は絶句。娘は顔を手で覆った。 なんだろう、画面の右端に!マークが表示されている…。あ、消えた。 シーンが移り、文化祭はヒロインの犠牲のお陰で大成功を収めた。 しかし、その文化祭の帰り道、主人公を庇い、彼の相棒が車に轢かれてしまった。 「バカヤロー、お前までもケチャップになるんじゃねぇ…!」 主人公の声が響く。 また、画面の右端に!マーク…。 最後は、トマティーナ解放戦線という革命軍に主人公が参加して、ドレッシングを受けて主人公が倒れるという展開だ。 「タバスコ、タバスコを撃ち続けるんだ…。」 そう言い残し、エンドロールが流れた。 最後も、画面の右端に!マーク…。 娘はもう見ていなかった。 翌日、僕はその店にクレームを入れに行った。 「おい、何なんだよあれ!後半の内容は酷いし、どこに笑顔、ユーモア、広い視野の要素があるんだ。お金返してくれよ!」 店長のこまるは言う。 「お客さーん、弊社のコンセプトはツッコミですよ。」 「どういう事?」 「口で言うよりも、再生した方が早いですね。」 そういって、彼はトマティーナ戦記を再生した。 ヒロインがミキサーに顔を突っ込むシーンだ。 ギャギャギャギャギャギャ!!!! 主人公の相棒が言う。 「そうか、その手があったのか…。コンソメの代わりに、トマトソースを…!」 画面の右端に!マークが表示される。 「ほら、今です!ツッコんで!」 「…はい?……えーと…………、トマト人間の世界でそれはタブーやアカン!」 そう言うと、画面が巻き戻った。 ヒロインがミキサーに顔を突っ込む前だ。 主人公がヒロインの手を取って静止した。 「それはやめときな…。」 そう言って、代わりに彼の相棒をミキサーに突っ込んだ。 ギャギャギャギャギャギャ!!!! 画面の右端に!マーク。 「…えーと、それもアカンやろ!友達をなんやと思ってんねん!」 …また画面が巻き戻る。何度か僕はツッコミを繰り返した。 主人公、ヒロイン、相棒の3人が生存するシーンにたどり着いた。 こまるは画面を停止した。 「ほら、ツッコミによって、笑顔、ユーモア、広い視野がうまれるでしょ。」 「いや、疲れるわ!」 そう言って、家に帰ったものの、娘を説得し、一緒に盛り上がったのだった。 …結論、6000円のクソゲーだった。

ただそれだけ

 焼いた食パンに何もつけないで食べるのは、さみしい証拠。誰が言ったんだろう、そんなこと。当たってる。朝、起きるとね、絶望しちゃうの。いつものことだけど。また一日、生きていかないといけないなあってさ、そんな感じ。沈んで、感情が動かないのは、精神をうまくつかめてないからじゃないよ。たんに絶望してるからでさ。絶望してても朝は来て、冬になって、寒さを感じるんだよね。不思議だね。  ずいぶんと舐められちゃったよね、わたし。そのあたりはお好きにって感じではあるけど、逆に人から舐められちゃっても文句は言わないことね。別れてあげるのは香水の香りだよ。あれ、好きになれないんだよね。お誕生日にあげたわたしのお気に入りの香り、結局、一度もつけてくれなかったね。他に付き合ってる人いたんでしょ。バレちゃうもんね、わたしがあげたやつ、つけちゃったら。  おぼえてる? 最後、言い合いになったとき、鼻がくっついちゃうくらい近よってくるから、わたし、キスしちゃいそうになってさあ。すごい形相でにらんでくるスミレの目を見ながらキスしたら、元通りになれるかなあ、なんて、あのとき思ってたんだよねえ。自分でもびっくりだったけど。  ふふ。あの香水の香り、ほんと好きになれなかった。手を下したいわけじゃなくって、ただ不幸になってくれればそれでいいの。多くを望んでるわけではないでしょ。きちんと不幸になってね。そう願ってるわたしって、いけないかなあ。

お祭りが怖いので1人で絵を描いてよう(それも怖いかもしれない)

 災害の日にお祭りがある。 僕はブルブル震える。 陰鬱な絵かとても明るい絵を描こうかな? お祭り好きや祭りバカは(褒めているのだが)とてもお祭り好きだ(語彙力不足)。 青白いオタク青年はやはり家が好きだ。 チョコチップクッキーを食べて窓を開けて小鳥と話していよう。 あるいは何らかの形で支援できればいいのかも知れないが煙草を辞めないといけないのかもしれない。 傷ついた人を治す。 あるいは全ては自分のために(世界は要らないのに勝手な奴だ)。

11月初頭(今年は皇歴で何年だかは知らない)

 彼女に貸して貰った仏ゾーンを読まない。 時間はいくらでもあるのに。 今日はインド人ぽい人に見られていた。 話しかければよかったかも。(また機会を逃している) 仏ゾーン知ってる?って言って。 何だこいつ?って顔をされていればいいのかも知れない。 ジャパニーズブッダ漫画!って元気よく。 ジャパニーズブッダ漫画! 何を言っているのだ。 犬は町のヒントを逃し続ける。

妻からの愛、妻への愛

お昼になり、お気に入りのラーメン屋に向かう 不倫が妻にバレてから、妻は私の食事は作らなくなった。 昔はお弁当を作ってくれた時もあったが、朝のテーブルを見ると子供達の分しか包まれていない。 子供達は気にしていないようだし、私も何も言わない、いや、言えないと言うべきか。 朝は飯を食わずに家を出て、駅のコンビニでおにぎりを食う。 夜は居酒屋で酒と夕飯を済ませてしまう。 金はかかるが、それだけの稼ぎはある。 無いのは妻からの愛だけだ 私から妻への愛はあるのだろうか 落ち葉が落ちている 銀杏が潰れている 妻に出会った時も昼だった 昼飯を買いにコンビニに向かって歩いていた スマホを見ながら、誰かにぶつかって、その人も、僕も、持っていたスマホを落としたんだ たまたま、同じ機種で、飾りも何もなく、どっちがどっちのスマホなんだ?って謝りながら確認していて。 液晶をつけると、僕もその人も猫の待ち受けで、目が合って、ちょっと笑って。 それから、お昼時、度々見かけて、挨拶するようになって、会話をする量が増えて。 そんな感じだったな 猫カフェ行ったな あの時は幸せだったな ラーメン屋が見える。 昼時なのに行列は出来ていない。 店内には客が入っている。 いつも、ここはこんな感じだな 暖簾をくぐると、紅のイントロが始まった。 テレビを見ると、ピンクヘアーの時のヒデが黄色いギターでアルペジオを弾いている

広がるぬくもり

 今日から冬になるというその日は、お湯を飲んではじまりました。寝ているあいだに、鼻のなかにヘンなものがたまっていたのでしょうか、ちょっと臭うようでした。スンスン、スンスン、と鳴らしてみたりもしました。鼻を洗ったらすっきりして、精神的なものだったのかも。そういうの、このところ多いなあと、でも深く考えることはしませんでした。  昨日と同じくらいのトーンで「おはようございます」と言い、こちらに顔を向けてあいさつを返してくれる人がいて、こちらに顔を向けないままに何かしらを言ってくれる人がいて、何もしてくれない人がいて、そのそれぞれはやはり、前の日と同じ内訳でした。  お昼休み、さっと食事を終え、本屋さんに行ってみました。買おうかどうしようかと検討中にしていた文庫本を手に、ぱらぱらやってみました。 「私が純文学を好む理由は、それが上等な小旅行であるからなのよね」  目で追っている文章を横切るように女性の声が覆いかぶさってきました。それに応じるように「ふうん」と興味なんて微塵も感じられない男の声があり、女性がまた、つらつら持論を展開していきます。わたしは辟易して、そうなってしまうといくら自分で自分の精神なり、心根なり、気持ちの在りどころなりをなだめすかしてみても、ふたたび文章を読み進めていくことはできなくて。それで今度は、そんな自分にウンザリしてしまいました。  その日の仕事も単調で、前の日と同じことをして、前の日と同じくらいに疲れました。会社を出ようとするときの足取りまで前の日と同じようで、でも「お疲れさまでした」と言ったあと、いくらか気になっていた人からの「じゃあね」が完璧すぎて、モヤっとして、恋のはじまりかもだなんてちょっとだけ自分を錯覚におちいらせてみたりしました。  残りものとはいえ具だくさんのスープがあるだけで安心できます。重いドアをくぐり抜け、真っ先に向かう台所。あたためるだけで食べられるものがそこにあるというしあわせは、ねこから「おかえり」といわれているようで、うれしさもひとしおです。といって、このウチにねこがいたことはないのですが。  スープがあたたまるまでのあいだにさっと着替えをすませてしまいます。気持ちもよそおいも楽にして、立ち上がる真っ白な湯気の前に立ってみれば、日々のあれこれなんてすっかり忘れてしまえるものです。お気に入りのお皿に、こぼれそうなほどたっぷり盛って、手についてしまったスープをてろっとなめては味見がわり。このときばかりは不器用な自分を許してしまえます。  BGMなんていりません。食事をするとき、食器がきかせてくれるあの音たちの妨げになりますから。今夜は、音までをも味わいつくす所存です。アツアツをスプーンですくい、口へと運びます。喉をとおる熱が、昼間、強張り続けていた肩を、ゆっくりしずめていきます。やさしく一日の終わりを迎えていくこの時間。誰にも邪魔されず、おなかの底からじわり広がっていくぬくもりを抱きしめて、ハフハフしながら今日という日をしめくくるのです。

平凡で、とびきり愛おしい森

ここには、どこを見渡しても色鮮やかな羽が躍る世界が広がっている。 誰かがそう呼ぶわけでもなく、そこはただ「セキセイインコの森」だった。 ​東の空がやわらかな光に包まれると、森のあちこちから小さなおしゃべりが始まる。 チッチッ、ピィピィ。 はじめはぽつりぽつりと聞こえていた声が、やがて木々の葉を揺らすほどの賑やかな大合唱となり、新しい朝の訪れを報せるのだ。 ​ 陽がすっかり高く昇ると、みんなで一斉に羽ばたいてごはん探しへ繰り出す。 お気に入りの果実を見つけて喜びの声をあげる者、木の実の殻を上手に割って満足げな顔をする者。 仲間と肩を並べて食べるごはんの時間は、いつだって最高のごちそうだ。 ​ やがて空が茜色から静かな群青色へと染まっていくと、1羽、また1羽と大きな枝の元へと集まってくる。 肌寒い夜の風を遮るように、お互いの体をぴったりと寄せ合い、ふっくらと羽を膨らませる。隣から伝わってくる体温の温もりに、自然と瞼が重くなっていく。 ​ 特別な事件なんて何ひとつ起きない。 けれど、仲間とともに目覚め、食べ、温もりを分け合って眠る。 このただただ愛おしい平凡な毎日こそが、私たちにとってのいちばんの幸せなのだ。

泡に溶けたら

冷たく暗い海へと落ちていく感覚があった。重力に引きずり込まれるように水底へ沈み、息を吸うことすらできず、私の意識は紺碧の闇へと溶けていった――はずだった。 ​ふと気づくと、胸を締め付けていた激しい苦しみが消えていることに気づいた。おそるおそる胸いっぱいに空気を吸い込もうとすると、体内を巡ったのは冷たい水ではない。まるでお日様でじんわり温められた白湯のように、優しく心地よい水の温もりだった。 ​「……息が、できる?」 ​口から出た声は、水の中で柔らかな泡となって弾けた。驚いて下半身に目をやると、そこにあったはずの二本の脚は消えており、代わりに銀色に煌めく美しい尾ヒレがゆらゆらと揺れていた。 ​頭上を見上げると、太陽の光が幾重もの黄金色の筋となって降り注ぎ、深く静かな海を照らし出している。そこは息をのむほど美しい、青の世界だった。 困惑する私に、ゆったりと近づいてくる影があった。大きなウミガメだ。怖がる暇もなく、ウミガメは私の周りを優雅に泳ぎ、まるで「ようこそ」と告げるように目を細めた。続いてサンゴ礁の陰から色鮮やかな小魚たちが群れをなして現れ、私の指先に突っつくように寄り添ってくる。 ​さらに、沖の闇から悠然と姿を現したのは一頭の大きなサメだった。一瞬身構えたものの、サメは恐ろしい牙を覗かせることもなく、甘える犬のように大きな鼻先を私の腕にすり寄せてきた。言葉を交わさずとも、彼らの温かな情愛が心に直接伝わってくる。私はいつの間にか、彼らと「友達」になっていた。 ​それと同時に、海の記憶のようなものが頭の中にすっと満ちていく。 人魚に与えられた役目は二つ。豊かな命を育むこの海を守ること、そして人間を救うこと。 ​けれど、頭の片隅に浮かぶ陸の知識が切ない現実を告げる。陸の人々にとって、海から現れる美しい異形は「災いを呼ぶ化け物」だ。助けられたとしても、人間は人魚を恐怖し、拒絶するのだろう。 ​それでも、胸の奥に広がるのは不思議な温かさだった。 ​「恐れられても構わない」 ​私はサメの背を優しく撫で、魚たちと一緒に光さす水底を軽やかに蹴った。誰に感謝されなくても、誰に知られなくてもいい。この美しく温かな海と大切な友を守れるなら、それはきっと最高に誇らしい仕事だ。 ​ゆらゆらと揺れる海面に向け、私は新しいヒレを力強く動かして泳ぎ出した。

チケットの行く末

「あの、映画のペアチケットあるんだけど、よかったら一緒に行かない?」    少年は、少女に声をかけた。  少女は、少年の持つチケットを見て、自身の唇をペロリと嘗めた。   「いいわよ」 「ほんと?」 「うん」 「やったー。じゃあ、今週土曜日の十二時、駅前で!」    少年は、いつもよりおめかしをして、集合場所へと向かった。  集合場所には既に少女が立っていて、少女もいつもよりおめかしをしていた。   「ごめん、待った?」 「いいえ、今来たところ」 「普通、逆なんだけどね。まあいっか、行こう」    少年と少女は映画館へと向かった。  上映されるのは、今季話題の恋愛映画。  そんなジャンルだけあって、映画館の中は夫婦とカップルで溢れていた。   「ちょっと、気まずいね」    少年は、周囲から視線を逸らして、少女に言う。   「そう?」    少女は、飄々とした表情で答える。    映画が始まる。  主人公とヒロインが出会い、惹かれ合い、共に困難を乗り越えて、より強固に結ばれていく。  そんな、王道の展開。  だからこそ、少年はむずがゆさを感じつつ、自身の恋愛スイッチも刺激される。  少年が少女を見ると、少女は相も変わらず、眉一つ動かさずに干渉をしていた。  人形のようにきれいな横顔だった。   「面白かったねー」 「そうね」    映画の後は、二人でカフェに向かう。  さっきの映画の後だからだろう、いつもより男女ペアの客が多い。  少年は甘さを中和するようにストレートティーを頼み、少女はレモネードを頼んだ。    映画の感想を言い合って、約一時間で店を出る。    少年は、自身の胸が高鳴っているのを感じた。  映画のせいか、それとも少女と共に行動ができたせいか、少年には分からない。   「今日は、来てくれてありがとう。本当は、ずっと二人で遊んでみたかったんだ」    だから、少年は微笑んで、ついそんなことを言った。    隣を歩く少女は、少年に倣ってにっこり微笑み、薄目を作って少年を見た。   「それで、私を誘ってくれたの?」 「もちろん!」 「嬉しいわ。例え、五番目でも」    瞬間、少年から笑顔が消える。  無言で少女をじっと見つめる。  少女は、そんな少年の変わり様を見て、思わず吹き出した。   「あはは。ええ、ええ、知ってたわ。女子グループの中で、『デートに誘われたんだけどどうしよう』って相談が飛んでたから。そうしたら、『私も誘われた』、『私も』って、続々と」 「……それは、断られたから、別の人を誘っただけで」 「貴方の気持ちは分かるわ。でも、女心をもう少し読めればよかったわね。皆に優しく、でも自分だけに特別が欲しいのよ。女ってね」    少年が眉を顰めると、少女は少年の肩を叩いた。   「貴方は悪い人じゃなさそうだから、私からアドバイス。次は誘うの、一グループにつき一人にしときなさい? バイト先とか、ボランティア先とかね」    少女が少年から離れて行く時、少女から香水の香りが漂った。  少年は鼻をぴくりと動かす。  そして、彼女の背中へと話しかける。   「ありがとう」 「どういたしまして」 「また今度、誘ってもいい?」    少女は足を止めて、首をひねって少年を見た。  夕日が少女の顔を照らし、その輪郭を鮮明にする。   「私だけへのお誘いなら、喜んで」    少女の後姿が、夕日に溶け込んで消えていく。   「駅まで送るよ」    少年は、その背中目掛けて、小走りで走り始めた。

【スイッチ】

僕には、ばあちゃんがいた。 農家出身のばりばりの昭和世代で、ガーデニングが趣味だった。 その当時、平成も後半に差し掛かろうというところ。僕は10歳だった。 ばあちゃんはとても優しく、勉強の合間にお茶やお菓子をくれた。 「一息つきなさい。」 僕がサッカーの試合に出ると、ルールも分からないのに、たくさん応援してくれた。 「頑張ったねぇ。」 いつも柔和な笑みで接してくれて、たまにお小遣いをくれた。 自他共に認める最高のばあちゃんだった。 そんな我が家のある日曜日、ネズミが出た。 アカネズミと呼ばれる、小さくてかわいいネズミだ。 間抜けにも、円筒形のごみ箱から出られなくなっているところだった。 ぴょんぴょんと飛んでいるが、ゴミ箱の深み以上の跳躍が出来ずに出られない。 某テーマパークのキャラクターに親しんでいる世代の僕にとって、ネズミは愛着のある存在だった。 「ねぇーねぇーかわいいね。飼ってもいい?」 ばあちゃんに話しかける。 ばあちゃんは僕の質問に答えずに言った。 「しゅん(僕の名前)、それそのまま庭に持ってきてー。」 「うん、分かったよ。」 僕はそのネズミが入ったごみ箱を庭に持っていった。 「ゴミ箱、倒してー。」 ばあちゃんが言う。 ぼくはそのゴミ箱を倒した。 数秒後、ネズミが、のそのそとゴミ箱から顔を出す。 陽光がネズミに当たる。 その瞬間だった。 庭に置いてあった置石をもったばあちゃんが、そのネズミめがけて石を振り下ろしたのだった。 その石は、ネズミの頭部に直撃した。 ねずみは胸部から下半身にかけて身体をバタバタと痙攣させている。 「え、ばあちゃん…?」 ばあちゃんは僕に視線を向けず、再度その石を持ち、二度目の頭部への打撃を行った。 ばあちゃんから、一切の表情が消えていた。 ネズミは二度目の頭部への直撃を受け、完全に身体の痙攣が止まった。 動かなくなったそれは、眼球が飛び出ており、驚愕の表情のまま停止していた。 数十秒だと思うのだけれど、僕は動かなくなった小動物を見下ろしていた。 その後、猛烈に吐き気が込み上げてきて、ばあちゃんの手入れする庭の隅で吐いてしまった。 ばあちゃんが、それを見て僕に近づき、ゆっくりと背中をさすった。 怖かった。 「すまんかったね、しゅん。でも、ネズミは害獣だから、やっつけないとね…。」 そう言って、ネズミの死骸を片付けた。 後で、父親がばあちゃんを咎めているのが聞こえた。 「子どもに何を見せてるんですか。」 ばあちゃんは、すでに柔和で温厚な人柄に戻っており、微笑みながら話した。 「だって、ネズミは農家の害獣だから。かわいい外見に惑わされたら駄目よ。」 僕は、今でもその言葉を覚えている。 自分は孫として甘えていたけれど、都合よくばあちゃんを扱っていたと思う。 それも、どこか見透かされていたのだろうか。 そんなばあちゃんだったが、僕が成人してから病気で亡くなった。 普段は優しくて最高のばあちゃん。 それでも、たまにあの時のばあちゃんの据わった表情が目に浮かぶ。 あの世代には、非情になるスイッチがあるのだ。 今の僕は、会社員として働いているけれど、上の世代の人を見ると、その人のスイッチがどこにあるのか気にするようになった。 世間は、僕らZ世代が何を考えているか分からないと言う。 でも、僕からしても、上の世代独自の、無機質で感情を交えない習慣、その瞬間がある事に恐ろしさを感じる。 あくまで僕の感覚だけど。 ネズミは害獣だ。 でもね、害獣といえど、せめて山に放してあげればよかったじゃないか。

彼女のお母さんの調子が悪いのでアタフタしている

 雄は弱い。 娘二人を育て上げた象のお母さんは病気だ。 僕は飼い葉を運ぶ。 象の体調や心理状態に敏感になる。 夜意味もなく歌を歌う。 心で治す。 あるいはそれは帰納法の何かなのかも知れないがヘーゲルを読んでいない僕はやはりあたふたしている。 時間はある。 犬は夜本を脳に刻み世界のコードを解析する(世界に読み聞かせた方がよさそうだ)。

海の中で

 風呂で遭難して二時間、俺様は無我の境地に達しつつあった。ふやけた指で水をかいて、少しの抵抗を感じる。  目蓋を下ろして瞳を裏に押し当てる。疲れからじんわりと痛く、明日には倒れてしまうんじゃないかと感じた。でもきっと、そんなこともない。  悟りを開いたかと思ったけれど、それもまた湯気が見せた幻影のようで、特に世界観が変わることもなかった。身勝手の極意とか、そんくらい身に付けられたらいいのに。  でもちょっと。ほんのちょっと。水に揺られているうちに、元気は出てきた。熱くなった頭でぼんやりと考える。  今の俺様は、さながらジャック・スパロウみたいなものだ。小さい頃に見た、格好いい主人公。宝物を探して、右へ左へ波に乗る。今目の前にあるこの温かく小さな海には綺麗な宝石など隠れていそうもないので、無駄な航海となりそうだ。  後悔だけに、とかひとりごちて、自分のくだらなさにため息を吐く。今日も良いとこなかったなあ、俺。俺様設定も忘れて、一日を振り返る。  会社で怒られて、久しぶりに泣きそうになった。  帰り道、犬をかわいいなあと見ていたら、飼い主の女性に睨まれた。  速い電車に乗れたと思ったら、いつもよりも混んでいて余計疲れてしまった。  考えれば考えるほど、涙が漏れそうになる。  でも、  それでも。  いつものように、立ち上がる。湯船に手を掛ける。  涙なんて、海に混ざれば分かりっこないから。  明日も頑張るか、と嘯いて、暗示をかけて。  見失った自分の心を、見つけ出した気になって。気になったことにして。  指先から一筋の赤い滴を滴らせながら、日常に戻る。

硫酸星人

「それでは、握手をしましょう」    瞬間、俺と硫酸星人の二人を映していたカメラは、角度を変えて、二人の上半身だけを映した。  差し出された硫酸星人の手は、映っていない。    俺は引き攣った笑顔のまま、その手を取った。    熱い。  痛い。  手の皮膚という皮膚が、無理やり剥がされるような痛みを感じた。  しかし、なんとか笑顔のまま耐え忍ぶ。   「ただいま、握手が交わされました! 地球人と硫酸星人の間で和平が成立した、歴史的瞬間です!」    この瞬間、戦争は終わった。        俺は病院へと運ばれた。  手に火傷跡は残るし、指が数本動かなくなるらしい。    テレビを付ければ、戦争終結の明るいニュースが流され続ける。  俺という犠牲など、些細な問題だと言わんばかりに。   「くそが」    俺は、悪態を呟くことしかできなかった。

こびりついてつ取れない染みのようなもの

疲れた日の翌朝に、悪夢で目覚める癖がある 例えば、散々スマホの前で一人コントをまとめ撮りして、確認すれば録画出来ていなかったり 眠い目を、擦りながら、動画を編集していて、最後の最後で保存せずデータを消してしまったり そんな日に眠った後に、嫌な夢を見てしまう 夢の内容は毎回変わらないのに 俺は夢の中でも泣いている 子供の頃 父が数カ月いなくなったことがある 俺は誰もいない家から小学校へ通う日々が数日続き、冷蔵庫に食うものがなくなって、始めて先生に「父が帰ってこない」と伝えた 数カ月後 父は知らない人になって帰ってきた 俺の顔を見ても、道ですれ違う他人を見るように、直ぐに視線が外された 父は自分の事も分からなくて 子供の俺は、その日から、知らない大人と暮らすことになった 父は毎日家にいて 親戚のおばさんが毎日家に来てくれて 父に家事を教え 父に職場へ戻る手伝いをしてくれた 父は無垢な少年の様に 習った事は何でも覚えていったが 唯一、仕事だけは嫌がった 「あんなに生徒思いだった人なのに」と よくおばさんは愚痴を漏らしていた あの頃、どうやって生活をしていたのか分からない 毎日、何とか食べるものを探して、あればラッキーと思うような日々だったと思う ある時、父が音楽にハマった 時間が空くと、ラジカセの前に座り、永遠と音楽を聞いている 話しかけても、振り向いてくれない事が多かった それは、音楽を聞くと言うよりも、藻掻いている様に見えた 音楽を聴くことで、始めて呼吸が出来た。そんな、必死さが感じられた。 父が最も好きだったのはXJAPANの音楽だった。 その頃を夢に見てしまう 泣きながら父を探している頃を。

今日に思う

ひと握りの土の中に 沢山の素材が詰まっている かつての姿を、時間の道に少しずつ 一つの素材が、時間の道に少しずつ 朽ちて砕けて土へとなった沢山の素材が この、ひと握りの土の中に詰まっている 土の中から新しい種が芽を出して 花を咲かせに天へと伸びていく 私も、いずれ、土くれになるのなら 生きた甲斐が、あったというものだ 死ぬ間際も、そう思えたら そう今日に思う

わたしのお気に入り

 見上げれば空だけはすっかり冬のそれです。ふと思い出すのはあの古本屋さん。本をさがすためではないですが、その古本屋さんにはよく行きます。裏路地のちょっと人目にはつきにくい、看板もないそのお店。ですから行きすぎてしまうことも最初のころはよくありました。いまでもぼうっとしていればやってしまいます。  その古本屋さんにはあの人がいて、わたしはあの人に会いに行くのです。あの人のほうは、わたしがそんな思いでいることなんて知らず、決まって本をすすめてくれます。興味のないわたしは少しめくってみて、困ったような表情でぎこちなく笑ってみせます。そうするとあの人は「これは気に入ってくれると思ったんですけどねえ」と残念がるのです。その表情がわたしのお気に入り。  あの人がおすすめしてくれるものなんてどうでもいいのです。わたしはあの人のその表情に興味があるのです。あの人が苦し気にするところが見たいのです。それでいて商売上の笑顔をあわいにのぞかせているその表情が好きなのです。あの人の名前は知りません。今日もあの人は本をすすめてきてくれました。その本もすでに読んだことのあるものです。困惑をただよわせ笑ってあげるのも、ずいぶんすんなり上手にできるようになりました。それでもわたしは、あの人の名前を知りません。  あの人のその顔を見届け、わたしは内心、満悦して古本屋さんをあとにします。暦の上では冬になるのに、やけにあたたかい日です。枯葉をふみしめながら歩いていきます。あの人の、あのときの表情を思いうかべながら。