取り敢えず

朝の通勤時間に駅のホームで電車を待つ 向こうから走行音が近付いて来ている 電車に飛び込む前に考える  昨日何を食べたか 義理の母の作ったサツマイモの蒸しパンを食べたんだ。少し芯が硬かったが、久しぶりに甘い物を口にして幸せだった  音楽についてはあまり楽しめなかった 憧れと苦しみと退屈を伴う探求が長く、ただ良いなと思うことが少なかった 最後に聞いたのはチバの声だった  髪の毛を伸ばしてみたいなと思春期に思って、社会に畏れて短くし続けて、やっと伸ばそうとしていたけど、最後まで伸ばせなかった  ここ数年は本当に幸せな人生だった。仕事が楽しい。病気に苦しむ期間を差し引けば、後は楽しいしかない。無論、携わる人々に恵まれていた。  妻はこれからも優しく丁寧に慈悲深く僕の側にいてくれるだろう  息子に会えないのが寂しい。決して良い父親ではなかった。彼の側にいて、ただ寄り添うしか出来ないのに、もう、それも出来なくなる。深い傷を負わせることになるのだろう  …そういえば、引き出しの奥に、彼女の手紙を入れたままだ。一緒に撮った写真と手紙。あれは処分しないとな…彼女にも迷惑がかかる。…取り敢えず今日は生きるしかないか。 電車がホームを駆け抜けていく

炊飯と声

昨夜は早く寝てしまい朝と呼べる辺りで一人起きた。鍋に研いだお米を炊く。 タイマーをかけ火をつける 何処かの階で会話が聞こえる 何を喋っているかまでは分からないが 男女が幸せそうにゆったりと会話をしている 麦茶の容器が出しっぱなしになっていたので冷蔵庫へしまおうとしたが、残り少ない中身はコップに移し容器を洗うことにした。麦の黒い粉が底にある。袋からあぶれた彼らはスポンジで擦り取られ水に流されていく 鍋からモクモクと湯気が立ち上っている 行き場のない泡が鍋から出ようともがき叫ぶ ギイギイと軋む音が聞こえている ふと昔付き合っていた女を思い出す 人生は情けないことで出来ている なるだけ前より情けなくない今を求めて歩いている タイマーが鳴りお米が炊ける 少し水っぽくなってしまった 「おはよう」といつもの声が聞こえた気がした 軋む音が止んでいる

ファーストコンタクト

午前0時。 小高い山の頂に、30人ほどの男女が集まった。 「さぁ、皆さん。始めましょう」 銀色の三角帽子を被った男が、声を上げた。 男女は円を作ると、その中心に男が立った。 「ウィーン、ウィーン、ウィーン」 両手を挙げ、立てた人さし指をクルクルと回した。 「皆さんも、私と同じように」 夜空を見上げ、人さし指を回す。 「声を出して、願いを込めるのです」 「ウィーン、ウィーン、ウィーン」 「もう、すぐそこまで来てますよ」 山頂に、冷たい風が通り抜けた。 地球の遥か上空に、1機のUFOが止まった。 「艦長、呼んでますけど……」 モニターを覗き込んだ。 「そうだね」 「コンタクト取りますか?」 艦長は、苦笑いしながらモニターを消した。 「金貸せって言われてもね」

ふふふ

風の訴えはわからない 何かをいいたいらしい さわぎたいだけとも思えない いい知らせ? それとも… 気持ちをきめて窓をあけてやる キンモクセイのいい香り ふふふ 風が笑って ふふふ わたしも笑って

沸点

週の始まり。 こみ上げてくる怒りを抑えている。 「人のこと、バカにしやがって」 駅を出て、会社への道すがら、すれ違う。 「……」 いつも上から、見下してくる。 男は腹をくくった。 「明日だ。あいつの顔に泥を塗ってやる。待ってろよ」 ──翌日。 駅前のビルに向かった。 階段を上り、扉を開けると、一斉に鳩が飛び立った。 「くそっ……鳩の糞。これも、お前のせいだ」 見上げた先、にやけた中年男の大きな看板。 どこかのクリニックの院長。 脚立を立て、バケツの中の泥を顔に塗った。 「俺は、お前の顔が嫌いなんだ。理由? そんなものはない」

大きな古時計

「これがじいちゃんの生まれた時に買った時計だ。もう動かないけどな」 「え~、動かないの?」 「こっちはじいちゃんが生まれた時に買った時計だ。こっちはまだ鳴るんだぞ、ほら!」 ジリリリリリリリリ! 「わあ!おっきな音。ねえ、僕のは?」 「今はもうスマホだからなあ」 祖父 100歳 孫  56歳 玄孫 4歳

仲間へ

鬼退治に成功した桃太郎達は、家に帰るとお爺さんとお婆さんが亡くなったことを村の人達から聞きました。 あの鬼を退治した桃太郎も涙に暮れて、三人で暮らした家の中で思い出から抜け出せずに、とうとう死んでしまいました。 仲間の猿、犬、キジの皆はと言うと、街の中で英雄としてもてはやされていました。 豪勢な食事、上等な酒をいつでも与えられ、感謝され、彼らは次第にその生活が当たり前となっていきました。 ある日、村の人が街に来て、桃太郎が亡くなったことを猿、犬、キジに伝えます 彼らはその場で立ち上がり桃太郎の家まで向かいました 道すがら、何でもっと早く会いに行かなかったのかと三匹は話し、自分達を恨みました。 山の麓の村の外れに、質素な桃太郎の家が見えてきます 三匹は重い足を引きずり何とか玄関を開けました。 そこには悲しみに痩せて年老いた桃太郎が静かに眠っています。 彼の傍らには、三匹の分のきび団子が用意してありました。

夫婦の幸福

「おはようございます……」 「どうも……」  妻が朝の挨拶をすると、夫も会釈で返した。二人とも黙って寝床から起き上がると、各々身支度を始めた。  この夫婦は大した欲がない。夫の方はもっとよい暮らしを、と身を粉にするような努力をすることはなく、妻もまたそれをせっつくようなことはしない。二人とも、こうして家庭を持てただけでも満足しているのだ。慎ましい生活だろうと、それを苦にはしていないのだ。  *    夫は昔から引っ込み思案で、親兄弟にあれこれと言われて育ってきた。成績こそ兄よりも良かったが、彼の人付き合いは不器用で、いざ働いてみると、思うようにいかないことも多かった。  そんな中、たまたま縁ができた時計技師に見込まれ、数年前からその弟子として働いている。弟子の身で金を貰えているのに、これ以上を望むなど、考えられないことだった。  一方の妻は、夫に比べれば良い家の生まれであり、若くして相応しい家に嫁に出された。  だが、何年経っても子に恵まれず、そのうちに夫は外に愛人を作った。やがて愛人に子ができたため、彼女は夫や姑たちから石女と罵られたうえで、生家に返された。  不運にも、実家は彼女が嫁いだ頃よりも生活が苦しくなっていた。そんな中で泣き暮れる娘をいつまでも養えるわけもなく、両親は親類縁者に頭を下げ、貰い手を探した。とはいえ、石女と分かっていて引き受ける家などそうはない。当然、縁談は難航するかに思われた。  しかし、わずか数ヶ月で光明が射した。話を聞いた主人の古い友人が、弟子の嫁にどうか、と言ってきたのだ。  三男であり、実家を離れているため、義両親との付き合いは少ないらしい。写真を見ても悪くはない。どうにも不器用な男だが、見込みはある、という技師の言葉も後押しし、娘の預かり知らぬうちに見合い話は進んだ。  *   「失礼いたします……」  娘が戸を開けて入ってきたとき、後の夫は目が合うと、少しだけ会釈をした。愛想のない対応だが、心地の悪さはなかった。  夫としては、聞いていた以上に美人であったため、思わず下を向いただけであったのだが、結果的に奏功したのだ。    そうして、縁談はあっさりと纏まった。  娘はやつれていたことを心配され、相手が自分を気にかけてくれる人物と分かり、安心した。  夫の方も、自分の精一杯の気遣いを汲んでくれることに喜んだ。  彼の両親も、三男の嫁なら、と身の上を聞いた上で了承し、かくして二人は婚姻を結んだのだ。  *  彼らの生活は、結婚前よりもずっと充実したものとなった。  夫の方は不器用ながらに妻を想い、技師の修行に励んでいる。  妻はそんな夫を温かく迎える。夫が求めるのはそれくらいであり、他は自由にしていいと言われている。  彼女は余暇に編み物をするようになった。形になれば夫に渡すつもりで始めたが、存外彼女には合っていた。夫も触発され、後々には夫婦で並んで座りながら、お互いに渡したいものを作るようになった。  この夫婦は欲がない。わざわざ贅沢をする気など起こさない。夫婦で揃って夜に寝て、朝に起き、食事を摂る。夫は働き、妻は夫を迎える。会話はないが、愛はある。  夫は妻に恵まれた。妻は夫に恵まれた。夫婦は家庭に恵まれた。この夫婦は、この上なく幸福である。  

目玉焼き

目を覚ますと部屋は明るくテレビもつけっぱなしだ 昨日、仕事から帰ってきて風呂も入らず寝てしまったらしい 冷蔵庫から卵を取る ひんやりとして気持ちがいい 咳き込む自分の息が分解出来ていない酒の匂いがして再びむせる シンクの角で殻をトントンして ヒビの入りを確認し もう一度叩く 少し強く割りすぎて急いで フライパンの上に卵を落とす 油をしいたけっか 昨日はなぜあんなに飲んでしまったんだろうか 仕事が終わり、その後好きな女と会っていて、いい感じになっていた所で向こうの夫が帰ってきたんだ。 二階から飛び降りてとにかく走って家まで来たんだ あいつの家の、塀を越える時後ろで声がしたが振り返ることはしなかった。 あれは旦那の声か、あいつの声か 今更、シャツに萩の花が絡まっているのに気が付く 花を摘んで、フライパンに投げ込む 少し焦げた目玉焼きが出来上がる

憂う心と曇り空

 最近、浩司さんのお顔が、曇っている……気がする。  気のせいと思いたいけれど、今日だって、目が合ったとき、何か後ろめたいことがあるように、すっと顔を背けられてしまった。  ……考えられるとすれば、何かご病気されたくらい?  あの実直な人に限って、浮気なんてするはずないし、他のことにしても、そう隠しごとをしたがる人ではないもの。  ……決めたわ。今度お話しできるときに、聞いてみましょう。  * 「……不安にさせてすまなかった。……でも、僕は、君を汚したくなかったんだ」  雨の中、来てくださった浩司さんに、姿勢を正して伺うと、すぐに打ち明けてくださった。  どうやら、私に対して情欲を抱いてしまうことに、罪悪感を覚えていたらしい。 「……お話は分かりました。……ですが、無理に我慢なさるよりは、私を頼って欲しかったです」 「すまない。ただ、話しても、『そんなふしだらなことはしたくない』と、跳ね除けられる気がしてね……」 「……他の男の方ならいざ知らず、浩司さんは正式な婚約者です。それに、あなたが軽薄で浮ついた方でないことは、誰より承知しているつもりです。……浩司さんが求めてくださるのなら、私はお応えいたします。……お父様には、怒られてしまうかもしれませんが……」 「大丈夫だよ。……実は、お義父さんには、前にお話ししているんだ。『元より、娘のことは君に任せたつもりだ。いちいち俺に通さなくても、今更目くじらは立てんよ』と笑っていたよ」 「そう、ですか……。でしたら、何の憂いもありません。……絹江に、未来の妻としての務めを、果たさせてください」 「嬉しいけど……本当に、嫌ではないんだね?」 「想い合う方に求められる幸福を嫌う私ではありません。……それに、実を言えば、私の方も、求めてくださらないことを、不安に思っていました」 「本当かい?」 「はい。……ですが、女の方からお誘いするなど、そんな……婚前の身で、貞淑さを欠くようなことはできませんから……近頃などは、夜毎に寂しさが募ってしまって……」 「絹江っ!」 「……はい」 「すまなかった。僕の思い込みのせいで、君の心に影を落としてしまった。……自分が情けないよ」 「いえ、いいんです。今こうして、あなたに包まれているだけでも、絹江は幸せですから。……あの、浩司さん」 「あっ……すまない、つい力が入ってしまった、どこか痛めたかい?」 「そうではなく……今まで、言い出せませんでしたが……私は、浩司さんに抱きしめられるのが、好きなんです、とても」 「……よかった。うん、僕も好きだよ。君の温もりを、全身で感じられるからね」 「では、これからは、会う度に、こうしてください。あと、お別れするときも……」 「ああ、それが君の望みなら、僕は幾らでも応えるよ。……そうか。婚約者に、自分のことを求めてもらえるというのは……こんなにも嬉しいことだったんだね……」 「はい。……ですから、遠慮は無用です。今日はもう、お別れになってしまいますが……これからは、いつでも求めてください。私も準備をしておきますから」 「ありがとう。……絹江。こんな僕だけど……これからも、よろしく頼むよ」 「はい。浩司さん。こちらこそ……末永く、お願いいたします」  *  浩司さんを見送って、ふと空を見上げたら、小さな七色の橋がかかっていた。  ……これは、神様が、私たちのことを祝福してくれたのね。  そう思った途端、胸に沈んだ名残惜しささえも、温かくて、愛おしいものに感じられた。  ……でも、きっと、今の私の顔は、この空よりも、いっそう晴れやかなのでしょう。  ――どうか、浩司さんにこのお話ができるときが、早く訪れますように。

臨終看護師

私は臨終看護師。仕事は単純だ。 臨終医の後ろをついて歩き、遺族の待つ部屋に入る。 そして、臨終医が「御臨終です」と告げたあと、 目を伏せ、軽く頭を下げる。 これが私の仕事。 そこに、ご遺体への敬意など必要ない。 それで、終わり。 母も看護師だった。 臨終看護師にはなるなと言われた。 なぜなら、それは過酷で、辛い仕事だから。 私は以前、手術室の看護師だった。 しかし、やりがいを見いだせず、異動を申し出た。 今はこの仕事に満足している。 先日、臨終医がペンライトを忘れた。 とっさに彼は胸元から万年筆を取り出し、目の上で振り、ごまかした。 私は気づいていないふりをした。 臨終看護師としてのたしなみだ。 この仕事は女優に似ている。 病室は舞台。 何も書いていないバインダーは小道具。 セリフはなくても、存在感だけで観客 ──ここでは遺族だが──を魅了する。 最近、臨終医をモデルにしたドラマが放送された。 しかし、臨終看護師の姿はなかった。 残念な気持ちはない。 その方がいい。 ある日、目の前で臨終医が倒れた。 私は慌てない。 何もしない。 それが美学だ。 そして彼は、そのまま旅立った。

冬ざかりの蝶

 あなた様に初めてお会いしたのは、桜舞う春のこと……と言えるのならば、聞こえがよいのですが、実際は、枯れ葉が時折舞うだけの、冬のことでありました。  散歩に出た私がお見掛けしたとき、あなた様は、花の傍でじっとしておりました。  寒さに耐えているのか、それとも何か別の意図があるのか、私には分かりませんでしたが、陽光に煌めくあなた様に目を奪われたことは確かです。  私は、ただその場に立ち尽くして、あなた様をじっと見つめていました。  あなた様は、目が見えないので、気づかれることはないと思ったのです。  事実、あなた様は、気づいていなかったでしょう。  ただ日差しを浴びながら、ゆっくりと羽を伸ばしているのです。  私は、意外な感に当てられ、寒い中でも、こうも寛げるのだな、などと、変なことを考えてしまいました。  それから、いつまでこうしているのだろう、とも思いました。  いくら日差しがあるとはいえ、この寒さが堪えないはずはありませんし、どこか逃れられる場所を探す方が、ずっと賢明だったでしょう。  しかし、あなた様の、堂々とした態度は、氷像になることさえも厭わないようで、私は、それを邪魔しては、誇りを傷つけてしまう気がして、お傍に寄ることさえもできずにいました。  それから少しして、奥方様でしょうか、あなた様にお似合いの美しい方が、お迎えにいらっしゃいました。  しかし、あなた様は、頑なに動かず、困り果てたのであろう奥方様は、花の傍を、所在なさげに彷徨くばかり。  私は、いよいよ奥方様が気の毒になり、一歩、二歩と歩み寄りました。  奥方様は、私から距離をとりましたが、やはりあなた様は、動じることなく、ただ私が手を伸ばすのを、待っていたように思われます。  私は、あなた様のお身体にそっと触れて、微かに指先に力を入れて、花から足を引き剥がしました。  凍っていたせいか、それとも力加減のせいか、足先のひとつがちぎれて、取り残されてしまいました。  それでも、命あっての物種と分かっているのか、あなた様は怒りなどせず、私の掌に煌めく鱗粉を残して、空へと舞い上がってゆきました。  そして、私に礼を言うように、奥方様とともに、私の頭上をぐるぐると二、三度巡ると、横風の入らないうちに、ひらひらとどこかへ去っていくのでした。  私は、それを見送って、空を見上げました。  空気がよく澄んでいて、ふと手をかざすと、鱗粉の光沢が、私の心をも輝かせてくれたような心持ちになりました。    あれから幾年も経ちますが、冬のさかりに蝶を見たのは、あなた様と出会ったあの日の他にはありません。  それに、たとえ今後お見掛けする機会があったとしても、それはあなた様ではなく、きっとその子孫の方で、もうあなた様にお目にかかれることは、終ぞないでしょう。  人に蝶の言葉は分かりませんし、蝶もまた人の言葉など話せませんから、僅かな時間とはいえ、心の交流ができたことは、奇跡というほかありません。  夢幻の鱗粉が見せた、私の他に誰も知らない、小さな小さな奇跡です。  ……ですが、私は、二度とはないはずの神秘を求めて、今も尚、晴れた冬の日には、蝶の幻影を探してしまうのです。

そっとしておいて

郊外の小さなアパート。 母親と男の子が暮らしている。 「これ、たくさん作ったの」 隣に住む年配の女性が、夕飯の余りを持ってきた。 「いつもありがとうございます」 中身を見ずに、冷蔵庫へ入れた。 男の子が、母親を見上げる。 「保育園、行こうか」 ヘルメットをかぶせ、後ろに座らせた。 「おはようございます」 「先生、おはようございます」 「これ、どうぞ」 保育士が、一枚の紙を差し出した。 「申請すると、町から支援金が出ますよ」 「いつもありがとうございます」 母親は折りたたんだ紙をカバンに入れ、自転車をこいだ。 「係長、おはようございます」 「子どもさん、大丈夫? 必要ならシフト調整するからね」 「いつもありがとうございます」 小さく頭を下げた。 ──その日の夜。 子どもを寝かせると、冷蔵庫からビールを取り出した。 「別に、そんな困ってないし……」 一気に飲み干し、もらった余りを箸で突いた。 「今日は何回……」 苦笑いで、電子タバコをくわえた。

症状欄

 初診の待合室は空調の音だけがしていた。壁の高いところに呼び出しモニターが一つだけあって、14を出したまま動かない。  俺は受付で渡された問診票を膝の上に置いていた。症状を書く欄が、もう埋まっている。  椅子に座ったまま3秒おきに受付のモニターをちらっと見る  活字のように揃った字でそう書かれ、文末に小さな印があった。□の中に点が一つ。受付は何も言わなかった。ペンは渡されなかった。  上着のポケットに、いつものA6のメモ帳が入っている重さがある。左手の親指で、右手首の内側を一回なぞった。皮膚が少しだけ引っ張られる。  斜め前の椅子に、五十代くらいの女性が座っていた。膝の上で手を組み、背筋を伸ばしている。顔を上げて、壁のモニターをちらっと見る。視線を落とす。一、二、三、と数えると、また同じように顔を上げる。また落とす。  俺はポケットからメモ帳を取り出した。開いたページは白かった。そこに、自分の字で一行書く。  椅子に座ったまま3秒おきに壁のモニターを見る  書き終えて、手を止め、小さく四角を書いて中に点を打った。ペン先が紙を叩く音がした。  問診票は膝の上に置いたまま、メモ帳だけを少し持ち上げる。 「観察で気になって。いまの動作、心当たりありますか」  女性は顔を上げた。笑わなかった。 「え、私?」 「三秒おきくらいに、あそこの表示を見てますよね」  女性は自分の膝を見た。それから俺の手の中のメモ帳を見た。 「そのメモ、見せてください」  女性が手を伸ばす。俺は反射的にメモ帳を引っ込めた。そのとき、二人の手が、膝の上の問診票の上で重なった。問診票が少しずれる。覗き込んだ女性の目の下に、症状欄の字が来る。  女性の視線が止まった。 「これ……」と女性が言った。 「さっきあなたが書いていた印と同じ」  指先が、問診票の文末の□の中の点を指していた。俺がさっきメモ帳に打ったのと同じ印だった。  俺はメモ帳の次のページに親指をかけた。まだめくっていないページ。めくる。  左手の親指で右手首の内側を一回なぞる  活字のように揃った字でそう書かれ、文末に□の中に点が一つあった。  モニターは14のままだった。俺はめくったまま、手を止めた。

貢献度

 クラスに天才が一人いました。  天才は、絵を書くのがとても上手でした。  天才の描いた絵は、いつもコンテストで日本一になりました。    天才には、二人の幼馴染がいました。  白い幼馴染と黒い幼馴染です。    白い幼馴染は言いました。   「この子はね、自由にさせとくのが、一番いいんだよ」    白い幼馴染は、天才とはほとんど話しません。  毎日の挨拶でしか話しません。  それが、天才の為だと言っています。   「この子はね、インスピレーションになるものをあげるのが、一番いんだよ」    黒い幼馴染は、天才にいつも話しかけます。  暇さえあれば話しかけます。  それが、天才の為だと言っています。    ある日、天才の作品がついに世界で注目されました。  白と黒。  モノクロで描かれた作品は、世界中の全ての色を凝縮したかの如く、鮮やかでした。    白い幼馴染は言いました。   「ほら、私が自由にさせたから、この子は過去最高の絵が描けた」    黒い幼馴染は言いました。   「ほら、私がたくさんアドバイスしたから、この子は過去最高の絵が描けた」    天才は、今日も絵を描いています。  今までと変わらずに。    白い幼馴染と黒い幼馴染は、今日も天才のために何かをしています。  今までと変わらずに。

ちょうのうりょく・こんぷれっくす

 あと四分。絶対覆せないぃ。  悲しいかな、金曜六限そろそろ眠くなる時間。うちのクラスの時間割りだとクラス内エスパー戦が入ってるんだ。  高校の入学式、全国の新一年生と同じように私もエスパー化薬を飲んだんだ。期待に胸を輝かせてたのになぁ。  あ、駄目だせめて集中しよう。怒られないよーに。  急に違和感。髪の毛がちりちりする。咄嗟にその場で後ろでんぐり返し。やば後ろの人にぶつかった、と思ったのも束の間、一瞬前まで私が居た場所に小さな雷が落ちる。 「ちょ危なっ」  雷ということは、いつもいつも得点ホルダー、クラス内順位一位の委員長だ。ざっと見た感じクラスの半分くらいはもうダウンしてるから、そのうちさらに半分は委員長のポイントになってるかな。  さっきぶつかった人に蹴りをいれつつ、委員長の元へ駆け出す。現在私の得点は一ポイント。クラス最下位は始まってすぐ倒させていただきました。  右にずれ、左にずれ、雷を躱しながら、距離を詰める。不意打ちじゃなければ、案外どうとでもなる。あ。調子に乗ってたら左足にくらった。前に出すのが遅かったなぁ。失敗は気にしない。ことにした。  さて、私の能力は、相手を転ばせること。我ながら意地悪だ。目の前で刃物を構えてるだけで、相手は即座に得点に変わる。リスポーンコースまっしぐら。  足をかばいながらも委員長の前に躍り出る。 「いいんちょー、倒さしていただきまぁす」  たまにはジャイアントキリングでも。  間合いまで近付こうと一歩出た途端、鼻から1センチと離れていないところに雷が落ちる。私の可愛いお顔に傷が付くところだった。  利き手の方の右側にサイドステップして隙を伺う。委員長の足が縺れることを祈りつつ、とりあえず様子見で一周。目が回ってきたから、一旦逆方向へバランスを取る。と、私の回っていた先に雷が。危ないセーフ。  土の焦げる匂いがする。私みたいに“ハズレ”の能力じゃどう足掻いたって無理な盤面。  残り一分。  全身の力を振り絞って突進する。ナイフを右手で突き出し、また髪の毛がぴりぴりとするのを感じた。  一瞬。タイミングを合わせる。 「はぁっ!」格好いい掛け声とともにナイフを真横にぶん投げる。  委員長の目が驚きで大きく開かれた。  委員長がその場で体制を崩し、倒れ掛かってくるのと同時に、空を切るナイフに雷が落ちた。  光と音。もちろん私には当たらない。  さあ、スポットライトを浴びてヒーロータイムだ。  私の最大の力を込めた拳が今、打ち出された。

One day

 今日も良いことがなかった。白馬の王子様は迎えに来ないし、十二時に解けるような魔法にも、そもそもかかっていなかったらしい。  もしかしたらささいなオマジナイくらいは私にだってあるかもしれないと、ちょっといつもより運のよかった今日、日付けの進むまで起きてみてけれど、特に変わった様子もない。なるほど、電車で隣だった人が格好よかったくらいのことは魔法がなくてもあるという訳だ。  明日は、何か特別なことがあるだろうか。きっといつものようにないだろうけど。  まあ明日になってみたらきっと分かる。

スーパー☆ビーム

「必殺!スーパー☆ビィーーームッ♡!」  ああもう、やっぱり恥ずかしい。  私は確かにね?戦隊物とかプリキュアとか好きだったよ?でもさ、いざ大勢のちびっこ達のまえでこれをやるって、なかなかどうして恥ずかしい。  ピロン。あーあ。ラインきたー。どうせあいつじゃん。わたしを“ビショウジョセンシ”とやらにしたあいつ。あのさ、この町怪人来すぎだから。  走りながら、もうすっかり体に染み付いて、こないだなんか目を瞑ってもアイテムを落とさなかった_変身の儀式?シーン?何て言うんだこれ_変身のシーン(暫定)をテキパキとこなして次の怪人のことを考える。もはや流し作業。  さて、今日のやつはどんなやつだろうか。はい、予想!たぶん今回はタピオカの怪人!なぜなら朝の占いのラッキーアイテムだったから!  自分の中の、なんとなくこっち!という勘に従いながら角を曲がると、「助けてぇっ!誰かぁ!」という声が聞こえてきた。はいはいオーケーです。  さらにもう一つ路地に入る。と、目の前に女の子。あれ?この子、先週もじゃなかった? 「あ、レモンちゃん!助けに来てくれたの?」レモンってのが私ね。  はい!ここで答え合わせー!何の怪人だったか!てけてけてけてけてけてけてけ、てん!  今日はセミの怪人ですっ!ゼツミョーにキモい…。こいつ両手両足に加えて、お腹から足六本生えてやがる。合計十とかダンゴムシか。  ここでシリアス入りまーす。  適当にノリと雰囲気で殴る蹴るします。武道なんか習ってないけど、そこはほら美少女戦士(笑)のパワーアップでドーピングします。あ、いいのはいった。てゆーかお腹の足全然使わないじゃん。  今回は必殺技要らないかなーと思いましたがそんなわけもなく。今日も今日とて死にそうになりながらも急に本気を出してきたセミの怪人が向かってきてピンチに!ほんとこのくだりやめて欲しい、見せ場作る強制イベント。  さあ、「頑張ってー!」いただきましたぁ。こっから、恥っずい台詞を言うって勇気があれば勝てちゃいます。 「必殺!スーパー☆ビィィィーームゥッッ♡♡」

綺麗な花には持ち主がいる

 綺麗な花にはトゲがある、とは言われるが、体感的にトゲより持ち主がいることの方が多い気がする。    一目惚れをして、彼女のことを目と耳で追っていると、必ず聞くのが彼氏とのデート話だ。  昨日彼氏と行ってきてさ、なんて話を耳にした瞬間、ぼくの片想いは終わってしまう。   「イイ女ってのは、男が放っておかないもんだ」    親友が胸を張ってそう言う。   「そんなもんだよなあ」 「ああ。もちろん、俺みたいなイイ男も、女が放っておかないわけだが」 「自慢乙」    道端に生えている花を好きになれればと、いつも思う。  しかし、好きになるのはいつだって摘まれた花。  綺麗な花瓶に入った花か、白いブーケにまとめられた花ばかりだ。   「別にいいんだぜ? 花瓶の花を一本抜いても。本物の花ならともかく、人間相手なら自由だ」 「んな無茶苦茶な」 「本気も本気だぞ。道端に生えている花は誰もが物欲しそうに見つめてるけど、花瓶に入った花は誰もが諦めててライバルが少ない。持ち主をワンパンケーオーすればおしまいよ!」 「……脳筋」    ある日の散歩中。  人混みの中に、ひと際輝く女を見かけた。  目を奪われた次の瞬間、隣に立つ男に気づいた。  腕を組んで、仲睦まじい様子だ。    ふと、親友の言葉を思い出す。  これを倒せば、この美しい人が手に入るのかもしれないと。    距離がどんどんと近づいて行って、男の姿がはっきりと見えてくる。  優しそうな顔。  清潔感のある服。  彼女にあわせているのだろう、小さな歩幅。    ぼくは二人とすれ違う瞬間、気が付けば顔を背けていた。    この花を花瓶から抜いた時、果たして花はその美しさを失ってしまうのではないか。  そう思って。    すれ違った後、服屋の窓に、ぼくの全身が映っているのに気づいた。    ダサい柄の花瓶で、とてもさっきの花を刺そうという気は起きなかった。

三枚

 母が隣から立った。 「これお願いね」と一枚を私に渡し、診察室へ入った。扉が閉まる。  診察室の扉の上に、番号が一つだけ光っている。四十二。待合室に響くのは空調の低い音と、向かいの子の靴が椅子の脚を擦る音だけだ。椅子は全部同じ色で、少し冷えている。  向かいに、子連れの母親と、その子が座っている。母親の右手に札が一枚、握られている。指の間で縦に持っている。その子は俯いて、椅子に足が届かず、交互に揺らしている。  時々、母親の袖を引く。母親は子の肩に手を置いて、また札を持ち直す。私の左手にも一枚、母から預かった札がある。  視線を落とす。私の隣の椅子の上にも、一枚。裏返しに置いてある。数字は見えない。椅子の座面の窪みに、少しだけ沈んでいる。  患者は二人。札は三枚。一枚多い。私はもう一度数える。向かいに一枚、私の手に一枚、隣に一枚。  母は前は自分で持っていた。落とさないように端を摘む持ち方だった。カバンから出すときも自分で出していた。最近になって、私に預けるようになった。診察券と一緒に渡されることが増えた。  最近やっと任されるようになった持ち方で、親指の腹で真ん中を押さえる。端が指から出ないようにする。そうすると折れない。重みが手に残る。  もう片方の手で、隣の椅子の札を拾う。埃もない。誰かの忘れ物だと思った。ここに置いたままでは、探しに来た人が困る。  探しに来た人がいれば、すぐ渡せるようにしておくのがいい。預かった一枚と重ねて、両手で握った。番号はまだ見ない。重ねたまま、親指で縁を揃える。カサッと音がする。二枚の厚みになる。 「あの」向かいの母親が声をかけてきた。 「それ、受付に持って行きましょう。私が」手を伸ばす。もう片方の手は子の札を握ったままだ。 「余ったままだと、順番、ずれちゃうと困るの。うちの子、学校あるから。ね」  子の足が止まる。母親のほうを見る。向かいの母親の指先が、私の手のすぐ手前まで来る。あと数センチで触れる。爪が短く切ってある。  触れられる直前、私は重ねた二枚を引き剥がした。右と左に分ける。両手が少し離れる。どちらが母から預かった札か、見ないと分からなくなった。親指が震えるのを止めるために、もう片方の指で押さえる。  一枚は三十七。角が擦り切れて、白くなっている。古い札だ。インクも薄い。もう一枚は四十二。インクが濃く、新しい。縁もまっすぐだ。  扉の上の表示は、四十二のままだった。光は変わらない。手の中の四十二と、上の四十二。交互に見る。首を上げては下げ、また上げる。三十七を下にして、重ね直す。指で押さえる。  扉が開いた。母が出てくる。歩幅は行きと同じだ。私の膝の上の二枚を見て、言った。 「あ、そこにあった」  母は四十二番を取った。指先で摘む。紙が少ししなる。ポケットに入れる。私は残った三十七番を母のほうへ差し出す。母は受け取らなかった。  指先で、私の手のひらの中央へ、とん、と押し戻した。札は私の手の中に戻る。母は先に椅子のほうへ行って座った。  そのとき、扉の上の数字が、ぱっと切り替わった。四十五。音はしない。  向かいの母親が立った。 「ほら、行くよ」子が頷き、椅子から降りる。母親の手の中では、四十五番がずっと握られている。離していない。最初から同じ手だ。指の跡がついている。  私は自分から立ち上がった。二歩進む。向かいの母親の開いた手のひらに、三十七番を置いた。擦り切れた角が、上を向く。重さはほとんどない。渡したあと、手を引っ込める。  彼女は頷き、それを受付のカウンターに置いた。カウンターで軽い音がする。子の手を引いて、診察室へ向かった。扉が閉まる。上の表示は四十五のままだ。  私の手の中には、何も残らなかった。

眠れない夜の音楽

《Ba.朝顔》 ここ最近は眠りが浅い。 眠ってから2時間もすれば必ず起きて、そこから長い夜を過ごす。お酒も珈琲も飲んでないのに、神経が高ぶっているのか、双極症の症状の一つなのか。 とにかく無理に寝るのは諦めて、音楽を聴くことにした。 Spotifyをランダムで曲をかける ▽一曲目 THE YELLOW MONKEYの薔薇色の日々(Live) この曲の最後のギターソロはやっぱりいいクライマックスから終わりまでバンドが一つに感じられる ▽二曲目 L'Arc~en~CielのSell my Soul(Live) いつも謎に思えるイントロを終えると、カーテンを開けるようにラルクが出てくる。テツさんのベースは唯一無二で摩訶不思議だ。コピーしようと思ったことはあるが、テツさんが弾かないと魂を持たないメロディーだと思い、未だに弾いてない。ハイドさんの歌声は言うまでもなく。 ▽三曲目 星野源 エウレカ 冒頭のチチチチの音は何だろうと思いながら曲が進んでいく 川の流れるような曲とメロディーと歌声、このMVもかなり好きだ。間奏のソロがベースでも弾けそうで耳を澄ます ▽四曲目 サカナクション ドキュメント 荒野を一人で歩いているような歌い出し 一人ひとりメンバーが参加して、いっくんを支えているような風景が見える。彼の純粋で頑なな心の灯火を消さないように。間奏の二胡みたいなソロも曲の世界観に合っていて良い ▽五曲目 くるり LOVELESS かかりにくいエンジンにキーを回しているようなイントロを終え、無事にトロトロと車を走らせている情景だ 運転しながら、あーでもないこーでもないと思案している様な、孤独だが、誰かを思い、そして、のんびりと道を進んでいる曲。この歌詞で「テクスチャーを上げよう」の意味が調べたけど分からない。勝手に今をしっかり見るんだ。や今の気持ちを丁寧に感じるんだ。の様に解釈している。 時刻はam4:36。あと30分もしたら目覚ましが鳴る。 ▽六曲目 INORAN 想 彼のファーストにして最高の曲と思っている。歌詞も、世界観も、曲も、彼の作る曲にいつもあるコアな部分が強く出た曲だと感じる。とても好きな曲の一つ ▽七曲目 TheBirthday 誰かが 変なイントロとチバの声 可愛い歌詞と分かりやすいメッセージ こんな曲は彼にしか書けないだろう 彼の優しさと生き方が伝わる曲 ▽八曲目 Mr.Children Over こんな素敵な曲が青春を思い出すキーになっている僕らの世代は幸せだと思う 失恋をしてよく聞いた気がする 最近の遠い昔 この曲はイントロ、コーラス、歌詞、声、が若い恋をよく表している。ギターソロは絶品だ 学生時代は田原さんに似ていると言われていたっけか アラームが鳴る。 ソロソロ朝ごはんを作らないと あの人はまだ寝ているだろうに …五分だけベースを弾こうかな。昔作った曲でも…

しのり

わからん。哲学は、わからん。私は苛立たしく本を閉じようとしたが、しおりが無いことに気が付いた。だが海苔はあった。個包装の五枚入りの海苔だった。私は袋を破き、一枚を取り出し、二十八ページ目の溝に海苔を挟んで本を閉じた。これはしおりならぬ、しのり、ではないか。私は、ほくそ笑んだ。

野乃と「のの」

この時期、残業をしていると、学園祭の準備で残っているみたいな感覚におそわれる それで、あのわくわくした時間がずっと続けばいいのに、なんて思いながらも早く終わらせ、とっとと家に帰る 基本的に人のことを信用していないのかもしれない 自分では、そうは思っていないのだけれど 「のの」に言わせると、どうやらそういうことらしい なら、そうなのかもしれないな 「のの」のことは信用しているから そういうことなんだな 学園祭気分がまだ少し残った気持ちのまま家までたどり着く 「秋なんだし何かしてみたら」 と「のの」に言ってみる  そうだな、絵でも描くかな 「のの」が言う でも… 「のの」が、絵がへたっぴいなのを、私は知っている

16番の方

 待合室は乾いた空調の音だけがしていた。膝の上に、制服の入ったバッグ。右手には紙の札、22番。バッグの内ポケットに、スマホが入っている。正面の表示板は16番を出していた。 「16番の方」  受付の女性がマイク越しに言った。奥の長椅子で、19番を持った男性が足を組み替えるだけだった。窓際で21番の女性が雑誌をめくり、入口に近い席の25番の老人が目を閉じたままだった。誰も立たない。  受付はスイッチを切った。カチッという音のあと、唇だけが小さく動いた。私の席からは、何と言ったのか聞こえない。表示は16番のままだった。  膝のバッグが重い。チャックの隙間から、たたまれたシャツの白が見える。18時からバイトだ。行けば、今日はまだ何でもない人でいられる。  ここに座っていれば、結果は聞かずに済む。でも座っていれば、間に合わない。帰る、という選択肢だけが最初からなかった。 「16番の方」  また同じ声。やはり誰も立たない。私は周りを見た。19番の札、21番の札、25番の札。指先で握られている。16番は、どこにもない。  それを確認してから、私は立った。 「私かもしれません」  声が少し割れた。カウンターまで三歩。右手の22番を差し出す。受付の女性は一瞬だけ札を見た。 「確認しますので、お掛けになって」  手は伸びてこなかった。札は私の手の中に戻った。彼女はすぐにマイクのスイッチを入れる。 「16番の方」  すぐそばで聞く声は、待合室のより乾いていた。スイッチを切る。カチッ。そのあと、すぐ口元で。 「16」  小さく、はっきり。16。  私はカウンターの前で立ち尽くした。右手の札が汗で少ししなる。もう一度差し出すことはしなかった。代わりに、カウンターの縁に置いた。 「これ、預かってください」  22番の札。受付はうなずいて、それを手元に置いた。後ろの、番号札を入れる透明の箱には入れない。机の隅、自分のボールペンの横に置いただけだった。  表示は16番のままだった。 「16番の方」  誰も立たない。19番の男性が咳をした。  私は席に戻り、バッグからスマホを出した。シフト表の画面。18:00-22:00、とある。画面の右上、18:07。  膝のバッグは、置いたままだった。 「16番の方」  受付がまた呼んだ。マイクを切る。カチッ。  間があった。彼女の唇が、さっきとは違う形に動いた。 「22」  表示は16番のままだった。私は座ったままだった。

知らない女

都会の明るい夜に慣れ過ぎて 深夜に散歩することが 習慣みたいになっていた でもやっちゃダメだったんだ 男だからと油断していたんだよ もしもこうなると知っていたら 外なんか出なかったのに その日は盆休みで帰省していた 夜遅くまで両親と酒を酌み交わす 二人は先に寝てしまったけれど 俺はどうにも寝付けなくて 酔い覚ましも兼ねて 深夜散歩に出かけることにした 一歩外に出て玄関を閉めると 辺りは途端に黒の陰影だけになり ポツポツと立ち並ぶ街頭だけが 黒い田んぼ道を照らしていた その光景に少し息を飲んだが スマホのライトを付ければ なんてことはなかった スマホのライトを頼りに歩く もう日付が変わる頃だったので 他に歩いている人はおらず たまに車が横切るだけだった 近づく車の音だけには注意しながら 夜風を感じながら歩く さてそろそろ帰ろうかと 来た道を戻ろうとしたときだった 振り返った先の黒い景色が 揺れているのに気づいた 直接ライトを向けるわけにもいかず 遠くてハッキリとは見えなかったが どうやら人影らしかった ライトも付けずに歩くなんてと思ったが 慣れていればそんなものかとも思えた 人影らしきものが近づくにつれて ライトがその足元を照らしていく サンダルとスカートの端が見える この人とすれ違ったら遠回りして帰ろう そんなことを考えていたときに 気づいた 恐らくは女が手に持っているのが 刃物だということに アルコールなんて吹き飛んで 全身から冷たい汗が吹き出した 呼吸は思わず止めてしまったが しかし足を止めるわけにはいかない 女を刺激しないようにライトを下げて ただただ祈りながら震える足を前に出す 女の足音がどんどん大きくなっていく 女の足元がライトの円の中に入り そうして通り過ぎていった 女の足音が徐々に小さくなっていく 俺はしばらく早歩きで進み続けてから ゆっくりと速度を落とし立ち止まった 辺りはしんと静かになった 俺の足音はもう聞こえない 女の足音も聞こえなかった ずずずと後ろを振り返る 黒い陰は立ち止まって その場でゆらめいていた 女がどちらを向いていたかはわからない だが俺は迷わずまた歩き出していた できるだけ遠くへ行かなければ 静かな夜に俺の足音が響いていく するとそれにもう一つの音が重なっていく 見たくなかったが見るしかなかった 足は止めないまま振り返ると ライトの先ではさっきの女が 小走りで追いかけてくるのが見えた そこからは無我夢中だった とにかく走って走って走りまくった そうして現在地もわからなくなった頃 ふと足を止めると足音が聞こえない 振り返って辺りを照らしたが もうあの女の姿は見当たらなかった まだどこかにいるかもしれない そう考えライトで周囲を照らし 警戒しながら家へと帰ることにした 結局のところ何事もなく 実家へ帰ることができた もしかしたら何かしら 俺の勘違いだったのかもしれない そんな風にすら思いながら 部屋に直行した俺はそのまま ベッドに倒れ込んで眠った 「朝ごはんいらないのー?」 母の声に目が覚めてリビングへと向かう 父はもう仕事へ向かったらしく 母は食器洗いをしていた 用意された朝食をすぐに食べ終えると キッチンに立つ母の元へ皿を運ぶ 「自分で片付けるなんて成長したわねー」 「それ毎年言ってるけどな」 そんな会話を交わしながら皿をシンクへ入れる ちょうどそのとき入れ替わりで 母がシンクから包丁を取り出して洗い始めた

秋の微笑み

秋が私に甘えるのです そっと優しく微笑むのです 遊んでほしいとからかうのです   そのうち静かな木々さんも いっぱいたくさん実が成って みんなでおいしい季節です いつもは安いヨーグルト トロトロダラン白いやつ たまにはプリンも食べたいな 茶色いカラメル甘いよね 黄色い友だち乗っかって びっくり返ってまたあとで 秋が私に問いかけるのです 幼かった頃の想い出は 幸せだった頃の想い出は それってきっといつまでも 心の中のアルバムに いっぱい詰まっているのです いつも一緒にいるのです  

闇バイト

公園のベンチに、男が座っている。 「はぁ……金が」 スマホ画面を親指で弾きながら、ため息をついた。 『高額報酬』 #叩く #運ぶ #埋める 高額報酬に目が止まった。 「これは……」 ボタンをタップした。 「お前が最後だ。早く乗れ」 指定された駅のロータリー。 隅に停まっていた黒のワンボックスに乗り込んだ。 中には、二人の若い男が座っている。 街から、少しずつ離れていく。 民家が消え、アスファルトが砂利に変わった。 「着いたぞ」 運転手の声に、ヘルメットをかぶった大男が近づいてきた。 「いいか、お前ら。今から、そこの穴に入って岩を砕け」 穴の奥深くへ連れて行かれた。 「これ使え」 大男が、ノミと金づちを足元に投げた。 三人は、ヘルメットのライトを頼りに、硬い岩を砕いていく。 狭い穴の中、金づちを叩く音がリズムよく響いた。 「砕いた岩を運んで、向こうの穴に埋めろ」 大男の監視のなか、何日も掘り続けた。 「よし。もういい。終わりだ」 大男が叫んだ。 その声に、男たちが座り込む。 「よく頑張ったな。これ、持ってけ」 渡された封筒には、お金が入っていた。 「あの、ここは何の工事現場ですか?」 「ここは工事現場じゃないぞ」 「なんですか、それ」 「お前らが、悪い道に行かないように……まぁ、リハビリ施設だな」 穴の入口から、あの時の運転手が入ってきた。 「所長。次の三人、連れてきました」

月

月がきれいですね    こっちは雨が降っていますよ どうやら、脈なしのようだ

病みの正体

「本日、『病み』の原因が悪霊の憑依だと判明いたしました」    衝撃的なニュースが全国にとどろいた。  闇に苦しんでいた俺は、テレビのリモコンを持ったまま固まった。  何年も精神科に通って治らなかった病気が、まさか悪霊の仕業だったとは。    俺の目はテレビにくぎ付けとなって、テレビの続きを食い入るように見つめた。   「では、病まない人間は、悪霊への耐性が強いと?」 「いえ。人間には、悪霊の憑依に対する耐性がありません」 「つまり?」 「病まない人間は、人間に化けた悪霊の可能性が高いということです」             「バレた」 「バレた」    背後で、両親が呟く声が聞こえた。  俺は背後を見ずに立ち上がり、玄関に向かって急いで走った。

賢いお調子者

なあ、漫才をやらないか? いいネタを思いついた。 夏休み明けに久しぶりに登校した学校で、俺は 突然、友人に声をかけられた。 は?意味がわからん。 そんなこと、言わずに〜 何事も挑戦は大事って言うじゃん? 目の前にいるニヤニヤと した友人の頭にデコピンする。 ばーか。あーほ、マヌケな愚か者め。 そう言って、話を終わらせようとすると 友人は俺の手を掴み、ぶっ叩いてきた。 この野郎...ウゼエ。そう思い、何か 言おうとすると友人が先に口を開いた。 そう言って、ありきたりな言葉でしか否定の 言葉を吐けないんだ〜? この多様性の時代にそんな、独創性の 欠片もないようなセンスのない言葉。 人の意見を否定する奴が、コピー野郎とは〜 変な世の中。いや、君がお馬鹿なだけかな〜? ....ご丁寧に変顔までしやがって。 殺意を込めて、チョップすると避けられた。 無駄な反射神経の良さが余計に腹立つ。 そう思い、二発目のチョップを 喰らわせようとすると、今度はパシンと チョップを挟んで受け止められた。 こいつ...と先程と同じ展開にイラついていると 再び友人が口を開いた。 あらあら〜、人の体に暴力を振るう割には 当てることもできないの。 あ、もしかして当てる勇気もないって 事かな〜?ごめんね〜?せっかく、臆病な君が 勇気を振り絞って、攻撃したのに一瞬で 受け止めちゃって。ショックだよね〜? ほんっとに申し訳ないなあ。 あまりの煽りにイラつきすぎて、 胸ぐらを掴んだと言うのに、友人は飄々とした 顔をしている。それどころか、 薄気味悪い笑顔である。 おい、あんまふざけんなよ?と言うと 友人はどこかへお辞儀を始めた。 そして、以上。ウザダル絡み クソガキと短期拗らせ野郎の怒り。でした〜と 満面の笑みで言い放った。 俺が何かを言うまでもなく、 友人は教室の奥を指さした。 その方向を見ると、漫才配信中!と 明るいポップがつけられたカメラがあった。 全てを理解した俺は友人の首根っこを掴んで 廊下へと連行するのだった。

嫌イナ人ヨ

 従兄弟は人気者だった。  休み時間になれば、皆と一緒に運動場へと出て行った。    従兄弟は勉強ができた。  授業中に誰も手を挙げられない問題は、全部従兄弟が答えていた。   「お前って、本当に従兄弟と似てないよな」    何度も何度も言われた呪いの言葉。    どうしていつも、前を歩くのか。  どうして一つも、勝てるところがないのか。  いっそズルをしていてくれ。  学校全部を巻き込んで、ぼくを騙していると言ってくて。  そんなことを願い続けた。    学校を卒業して、就職をする。  上京して有名企業に行った従兄弟と、地元の小さな企業に行ったぼく。  東京には悪い人が多いから、東京で悪い人になってくれと願い続けた。   「今度、結婚するんだ。式に来てくれないか?」 「もちろん! 喜んで参加するよ!」    でも、知っていた。  ぼくの願いは、決して叶わない。  だって従兄弟は、こんなぼくにも優しいんだから。    優しそうな奥さんと歩く奥さんを見ていると、怒りと憎悪が煮えたぎってくる。  ずっとぼくに劣等感を抱かせた、嫌いな嫌いな相手なのに。  ぼくは君の何一つを、否定することができないんだから。   「来てくれてありがとうな!」    引き出物のギフトカタログは、駅のゴミ箱に投げ捨てた。  従兄弟からもらった物なんて、目にしたくもない。  欲しい物があるとすれば、従兄弟と二度と会わなくていい権利だ。    空が青い。  人が多い。  このうちの何人が悪人なのだろうか。    どうかお幸せに、大嫌いな従兄弟。  こんな悪人のぼくと友達でいてくれて、本当に本当に嫌いだよ。

紙飛行機の行方

男は、不機嫌だった。 ブスッといかにも不快そうな顔をして頬杖をついていた。 それはなぜか。 男は先刻、担任の教師に怒られたばかりだった。 男が授業中に隣の席の友人に紙飛行機にした手紙を送って遊んでいたからである。 男としては、怒られる分にはウザいだけなのでまだいい。 だが、友人は行き先はわからないが手紙をどこかに送っているくせに 先生からもとくにお咎めなしだったのだ。 それを先生に追求してもお前とは関係ない別件な上に 証拠もないのになぜそんなことを言うんだと返された。 そのせいで、男は非常にイラついていた。 だが、そんな男はある妙案を思いつく。 それは、恐らく先生のお気に入りであろう友人を怒らせるような手紙を送り、 それに怒った友人の手紙を先生に見せれば、いくらお気に入りの 生徒といえど、怒らざるを得ない。男はそう考えたのである。 早速男は計画を実行することにした。 運の悪いことに次の授業は当の担任だが、男は一刻も 早く友人が怒られる姿が見たいがためにリスクを承知で実行することにした。 ざまあみろ。俺の共犯なんだから、地獄へ落ちろ… そんなことを考えてほくそえんでいると、早速チャンスがやってきた。 先生が長々しい解説を黒板に書き始めたのだ! 今だ!行けー!そうしてボロクソに書き殴った暴言を紙飛行機にして友人の席へ飛ばす。 紙飛行機は順調にスイーっと進み、友人の机へと着陸した。 男はワクワクしながら、友人が手紙に気づくのを待った。 だが、友人は一向に気づく気配がない。それから10分ほど 観察してみたものの気づかれた様子はなく、結局男は諦めて、睡魔への抵抗をやめた。 男は、突然叩き起こされた。眠たげな眼を擦りながら起こしてきた人物が誰かと見ると 笑みを浮かべた担任が仁王立ちで立っていた。ただし、目の内には冷たい光が宿っている。 それをみて背筋がゾッとした男は飛び起きて、ピンと背筋を伸ばした。 す、すみません先生。ちょっと〜寝てましたと言うと先生はにこやかに笑って言った。 これについて。話をしようか? その手には先ほど投げたはずの紙飛行機が握られていた。 後ろを見ると、紙飛行機を投げた相手であるはずの友人が爽やかな笑顔で おつかれざまあと書かれた紙を紙飛行機にして男の方に投げてきた。 それに当たった男はキレようとするが、先生に捕まり、連行されていった。 友人は笑いながら手を振って見送った。 その日、生徒指導室には絶望が響いたと言う。

魔物は大企業に住まう

 うちの部署には、働かない妖精さんがいる。  もちろん、妖精というのは比喩で、正体はしごとのできないおっさんだ。    妖精さんは、始業時間に出社してから、ずっとパソコンに貼りついて、時々頼まれた雑用をしているだけ。  パソコンに貼りついているのだって仕事なんかじゃない。  ちらっと見た時には、いつもニュースかブログを読んでいる。  妖精さんにまともな仕事が振られるところを、俺は見たことがない。    そのくせ、週に何日も残業している。  何をしているのかは不明。  残ってまでやる仕事なんてないだろうに。  あんなのに、俺が稼いできた金が流れていると思うと、腹が立ってくる。   「すんません。手が空いてれば、ちょっと手伝ってもらえないっすか? 人手足りなくて」    何度か、腹いせみたいに仕事を頼んだことがある。   「わかりました」    頼めば、嫌な顔をせずに受け取って、関心なさそうに手を動かしてくれる。   「できました」    しかし、返ってくるのは、どれも役に立たない物ばかり。  調べものを頼めば、間違えた情報だらけ。  書類作成を頼めば、複数人で手分けしたのかと思うくらいバラバラの書き方の詰め合わせ。  いや、返ってくるときは、まだましだ。  最悪のときは、お腹が痛いという理由で仕事を早退し、その日が締切の仕事を完全無視して帰りやがった。  さすがに怒ったら、「お腹が痛かったので仕方なく」と言い訳にもならない理由を並べてきた。    俺は、妖精さんに仕事を頼むのをやめた。   「いいんすか? あの人、首にしなくて」    俺は上司との食事で、ついつい本音を零した。  上司は面食らったような表情を浮かべた後、穏やかな表情を浮かべた。   「いいんだよ」 「いや、よくないっすよ」 「いいんだ」 「……実はすごい人脈があって、いざという時の秘密兵器とか?」 「少なくとも、私が知る限り、そんな話はないね」    のらりくらりな上司の態度にも、だんだんいらだちが募ってきた。   「じゃあダメでしょ! 俺、部長にもお願いして来ます! あの人、首に……いや、せめて部署移動させてくださいって!」 「部署移動って、どこに?」 「どこって……総務とか、情シスとか」    移動先を聞かれて、思わず言いよどんだ。  どこに行こうと、あの妖精さんに仕事ができるイメージがわかなかった。   「総務部に移動させたとしようか。フロアの電灯の交換が滞って、フロアが暗くなるかもね。とお入れからトイレットペーパーも消えそうだ」 「……なら、情シス」 「パソコンが動かないと相談しても、きっとパソコンは動かないままだろうね。いや、下手したらもっと壊れるかも」 「……じゃあ、やっぱり会社から追い出すしか」    上司は、悠々とスパゲッティを頬張っていた。  チュルンという音と共に、麺が口の中へと消えていく。   「君は、あの人が働く飲食店でご飯食べたい? レジで会計されたい?」 「う……」 「生活保護を受けるにしても、あの人が手続きできると思うかい? 無理無理。打つ手がなくなったら、無敵の人の完成さ。会社の人間に、逆恨みしてくるかもしれない」 「うう……」    上司は一人でさっさと食べ終わり、一人先に食後のコーヒーを飲んでいた。  俺の食欲は消えたまま。  一人、サラダを何度も咀嚼していた。   「ああいう人にはね、安定的に給料をあげながら、何もしないでいてもらうのが一番なんだよ。仕事ができる人は何かしなきゃだめだけど、できない人は何もしないことが一番の社会貢献なんだ。うちは大手だからね。そういう役目もになっていると思うんだ」    コーヒーを飲み終えた上司は腕時計を確認し、昼休みだけど会議があるからと、店を出て行った。  食事代は払ってくれたようで、いつの間にか伝票がテーブルから消えていた。   「理不尽すぎる……」    俺は冷めたイカスミパスタにフォークを刺し、くるくると絡めとった。

百日草

帰り道を歩く 曇り空の一日が、終わりかけで青空を見せている 目を落とすと畑の隅に百日草を見つけた 小さく群生しているが派手さは無く何とも素朴な花だと思う 素朴。人生は素朴で良い。 強い真夏の日差しの派手さはちょっと。 雷雨が作る刺激もちょっと。 私は素朴にいきたい 百日草のように素朴に咲き 誰かの目に止まれば、それは幸福である そんな事を考えながら駅に向かう

パンケーキの朝

今日は僕も妻もお休みで、一日なにも予定がなく、朝が来ても妻にくっついて横になっていた 妻は時たま起きて「重いよ」と言ったり、「寒い」と言ったりしてまた眠ってしまう 髪が伸びたね ニキビができてる と話しかけたり 肩をもんだり ふくらはぎをもんだりして 寝ている妻で遊んでいる パンケーキ作ろうか? と聞いた時だけ、えっ?ってなって 「おねぇしゃす」 と言われた 僕だけ起きて 台所に行く前に布団をかけ直して、頭を撫でて、顔を洗う 冷蔵庫を開けると牛乳が空だった。 コンビニに買いに行こうと服を着替える 水道の水で寝癖を直して少し水を飲む 妻と出会ったときは、お互い疲れていて、お互いが救いを求めるように寄り添っていた気がする 妻はあの性格だから僕は大変だし 僕もこんな性格だから妻も大変だろう それでも僕らは何とかなってる 今も妻の為に牛乳を買いに行けるほど愛している 少し大げさかもしれないけど。 アイスでも乗せたら美味しいかな 意外とそのままが一番だったりするけどな きっと僕が買い物から帰って来ても寝ているんだろうな 寝ている彼女の口にパンケーキを入れてみようか 一度キスをした後で

熱の重さ

無理やり肩を組まれたとき、鼻をついてきた汗の匂いに混じってアイツの匂いがした 石鹸の残り香か、それともアイツ自身の匂いなのか 同じ男同士で、なんで… 正直、戸惑うけれど、すぐそばの熱を嫌だと思えない自分がいるのも事実で ずっとフタをしていたのかもしれない そんな自分の気持ちに、いま、正直になってみる どんより曇っていた心の表情が、驚くほどはっきりと明るく笑っているよう 「帰り、なんか食べてかない?」 わざとそっけないフリをしながら、震えないように声をしぼり出す 少しだけ意外そうな顔をして、でもアイツはすぐにニイッと笑った 「おう」 夕暮れの空気に心地よく響く、音みたいに短い一言 ただそれだけなのに、胸が大きく、うるさいくらいに弾むのがわかる もう少し一緒にいられる素直なうれしさ 肩にまわされたアイツの腕の重みさえ、いまは愛しく感じられて

欲しいものが手にはいらない。欲しいものが手に入らない。欲しいものが!手に!!入らない!!!

黒虫と言う男がいる 朝から雨が降っている 折れた傘が金網に刺さって雨に打たれている 朽ちるまでそこにいるのか レインコートエイリアンズが街を行き交う フードに溜まった水は何に使う 黒虫氏が長い髪を雨に濡らせ歩いてくる 肩をいからせて 両手をポケットにいれて ガニ股に歩く姿は蜘蛛が歩いているようだ 彼は駅に向かっている ボブヘア サングラス 白い肌 赤い口紅 赤いブラジャー 黒いジャケット 赤いヒール 彼女だ、猫のようなあの女 彼女は黒虫氏の向かう先にいる 勿論雨に打たれて 泣きながら朝顔を食べている 赤 紫 青 赤 紫 青 Red Violet Blue 黒虫氏は彼女の髪を鷲掴みにして「あの黒い女は何処だ」と聞く 彼女は答えない 彼女は答えないかわりに掌を彼に突きつける そこには何かが書いてある 雨に滲んでよく見えない 「お前の事は死んでも頭の中にある」 「死んだら恋をするつもりなんだ」

どっちにする?

製薬会社の会議室。 各部署の責任者が集められた。 「君たち、なぜ呼ばれたか分かってるよね」 会長の言葉に、皆がうつむいた。 「あの薬、全く売れてないんだろ」 「申し訳ございません。現在はこのような……」 資料をめくる音が続いた。 「臨床試験の効果は?」 「最高齢の女性にも、先日まで服用していただいていました」 「じゃあ、何で売れないんだ」 隣に座っていた社長が割って入った。 「ドクターには、丁寧に薬の説明をしましたか」 「もちろんです。一日一錠で、平均寿命より約十五年長生きできると」 「よろしいですか」 女性社員が、薬に添付されている使用上の注意の紙を配った。 そこには── 『まれに、異性に興味がなくなることがあります……』

鏡代わり

「あー、今日もいい感じだ!」    パパが写真を見て笑っている。   「ママ。なんでパパ、鏡じゃなくて写真を見るの?」    娘が、至極真っ当な質問をしてくる。   「ニ十キロは痩せてた時代の写真だからね。理想の自分なんでしょ」 「ふーん?」    娘はいまいちわかってなかったようだし、私も正直何考えているかわからない。  でも、気持ちは分かる。    私も、肌や顔の輪郭を自動で加工してくれる写真アプリを、手放すことができないのだから。

フェルトの鍵

 鍵をかけたのは私だった。カチャリという手応えが指先に残る。ドアを閉めた振動が廊下の蛍光灯に伝わって、文芸部の部室は今日も終わりだ。 窓を閉めて、机を拭いて、最後に私が施錠する。一年前から決まっている順番だった。廊下には私と真子しかいない。外はまだ少し明るい。 「よし、帰ろ」  真子が言った直後だった。閉めたばかりのドアの向こうから、チャリンと乾いた音がした。  二人で顔を見合わせる。鍵は私の右手の中にある。現在の正規の鍵だ。銀色の新しい鍵。確かに施錠した。部室の中は無人のはずだ。 「今の、中だよね」 「うん。中から聞こえた」  真子がドアに耳を近づける。私は咄嗟に鍵を握り直した。 「開けてみる」  差し込んで回す。鍵は素直に開いた。夕方の色を残した部室は、誰もいないままだった。床に、モスグリーンの小さな塊が落ちている。  拾い上げると、古い方の部室の鍵だった。交換前に使われていた正規の鍵で、今は顧問の許可を得てドア内側のフックに記念として掛けてある。 鍵全体が、フェルトで作られた小さな袋に収められていた。縫い目の端がほどけて、そこから金属の鍵先だけが覗いている。  フックは空っぽだった。 「振動で落ちたんだ」  真子がしゃがんでフックを見上げる。私は袋を手のひらで包んだ。普段はこの袋のおかげで、揺れてフックやドアに触れても音がしないのだ。ほどけた部分から出た先だけが床に当たって、あの音を立てたらしい。  袋は擦り切れていた。何度も縫い直した跡がある。糸の色が緑、生成り、また緑と違う。細かいかがり縫いが、ほどけた端を何度も押さえてきたことが分かる。指先で触れると、フェルトは柔らかく毛羽立っていた。 「これ、作ったの真子?」  真子は少し笑った。 「二年の秋くらいから。ドア閉めるたびにカチャって鳴るから」  私は鍵の音が少し苦手だ。高い金属音がすると、今日が終わったと区切られた気がして、一瞬だけ黙ってしまう。言ったことはない。言うほどのことでもないと思っていた。 「ほどけてきたら縫ってた。気づかなかった?」  首を振る。毎日そこに掛かっていたのに、袋に入っているのが当たり前だと思っていた。  真子はいつも持ち歩いている小さな裁縫セットを取り出した。 「貸して」  渡すと、真子は床に座り込んだ。膝の上で袋の口を押さえ、針を通す。チク、チクと小さな音がする。何度もやってきた動きだった。私は横に座って、ほどけた糸先を見ていた。  部室は開けたまま、廊下からの蛍光灯の光だけが細く入っている。私たちは本来なら廊下にいるはずだったのに、また中に入ってしまっていた。  縫い終わった真子が立ち上がり、袋に入った古い鍵をフックに戻した。今度は触れても音がしなかった。 「よし」  私はまだ新しい鍵を握っていた。その鍵で、もう一度閉めなければ帰れない。 「お茶、淹れていい?」  私が言うと、真子は「いいよ」と言った。  私はドアを閉めなかった。鍵もかけなかった。真子が湯を注ぐ音だけが、夕方の部室に柔らかく響いていた。

次の駅まで

空いている席に座る 次の駅で隣に誰かが座る どこの誰だか知らない人と一緒に過ごす 次の駅で降りるにしても 次の駅が三年先だとしたら 僕はこの人のアレやコレやを知ることになりそうだ 人が何処でどうやって出会って別れるかなんか 路線図には書いてなかった 窓の外の景色をすっ飛ばして 電車は終着駅まで走っていく

明日の薬

 待合室の長椅子は、冷えきって、背中の形を覚えていた。民子は膝の上で手袋を握りしめ、正面の壁にかかった時計を見上げた。針は十時を五分過ぎたところで、重い音もなく、ただのろのろと進んでいる。 窓の外は曇り空で、白い光が磨りガラスを通して、床のタイルにぼんやりと落ちていた。薬局の受付が近いのか、名前を呼ぶ声が、ビニールのカーテンの向こうから、間欠的に聞こえてくる。 「………何やそれ」 民子は、隣の信二の膝の上に置かれた白い袋に気づいた。 「薬や」 「見えるわ。どうして私の名前、書いとるん」 信二は腕を組んだまま、正面の健康掲示を眺めている。民子は袋を取り上げた。調剤済の印に、確かに自分の名前。中から出した説明書には、聞き慣れない薬名が並んでいた。 マグコロール、ピコスルファート。どちらも明日の大腸検査のための腸管洗浄剤だ。まだ何も始まってもいないのに。 「明日の分やろ」 「ああ」 「なんで今日、持っとるん」 「朝、受付混むからな。今日取っといてよかった」 民子は眉を寄せた。一週間前から知っていた検査のことを、彼女は封筒に入れたまま見ないふりをしていた。予約票だって、受付の前で初めて目にしたのは、信二が無造作に取り出したからだ。 避けたかった。年に一度の健診さえ、去年は風邪を口実に逃げた。信二は黙って朝粥を炊き、薬を煎じて、文句も言わずにその背中を見せた。 「また一人で勝手に」 「別に。付き添い来たんやから、それくらいせな」 「言うてくれたらええやないか」 「お前、嫌がるやろ」 信二はそう言って、初めて民子の方を見た。口の端が、わずかにへの字になっている。それが怒りではなく、照れ隠しだと、民子は四十年以上も知っていた。 信二は説明書を広げようとして、小さな字に眉を曇らせた。老眼鏡は持ってきていない。民子は袋の中から、一つ一つの薬包を取り出した。 丁寧に折り目が整えられている。若い頃から、彼は紙ものを粗末にしなかった。封筒の糊も、新聞の折り方も、いつもきちんとしていた。民子は無意識に、薬袋の四つ折りの折り目を、指の腹でなぞった。紙の繊維が、乾いた音を立てた。 「飲む時間、書いとるんやって」 「知っとるわ」 民子はそう言いながら、隣を見た。信二は病院の床をじっと見つめ、再び腕を組んでいた。隣の椅子に座った若い女性が、スマートフォンの画面を指で滑らせている。 受付の呼び出し音が鳴り、誰かの名前が響いた。民子はバッグを膝の上に引き寄せた。ナイロンの冷たい感触が、手のひらに残った。 「………朝、四時に起きんとならんのやろ」 「目覚まし、二つかけとくわ」 「うるさいわ。一つでええ」 「お前、一つやと聞こえへん。前もそうやった」 民子は薬袋を自分のバッグにしまい込もうとして、留め具が固くて開かないことに気づいた。信二が横からそっと手を差し出し、袋を受け取った。 彼は薬包を中に戻し、説明書を折り直して、元のように整えた。そしてバッグの留め具を、親指で軽く押して開け、中へ滑らせた。民子はその手の甲に目を落とした。しわと薄い黒子が、昔と同じ位置にある。 「冷たい水、取ってくる」 信二は立ち上がると、待合室の奥の給茶器に向かって歩いた。背中が少し丸くなっている。民子はその背中を見つめた。薬袋の中身が、明日の不安を確かなものにしていた。 それでも、膝の上に残るバッグの重みが、不思議と温かかった。信二がカップに注ぐ水の音が、静かな待合室に響いた。二つのカップが落ちてくる音が重なった。 「………ありがとうな」 小さく呟いた時、信二は給茶器のボタンを押すのに手間取っていた。民子はそっと目を伏せ、バッグの上に手を置いた。留め具の冷たい金属が、ほんのりと体温を帯びていた。

家の近くのD地蔵

 地蔵を中心に世界が魔術体系化する。 何を言っているのだ。 実際僕の住んでいた土地は練馬のチベットと呼ばれていた。 悪口を書いていると外から外国人さんの声でアーユー?(あなたは?)って言われるので僕も悪口書いている連中とそう変わらないのだろう。 地蔵が最新鋭の土地防衛AIになる。 それは過去からこの土地を守ってきた理論体系なのだがお供え物をすると非常に低コスト高コスパで土地を守ってくれる。 色々な人達がこの土地には集まるのだが夜光ケ丘公園を散歩しているとスポーツ少年がこんばんは!と自警なのか悪戯なのか遊びなのか暇潰しなのかわからないが最新防衛AIを装備して動き回っているので僕もつられてこんばんわ、と言う(元気のいい人にはつられてしまう、と言う何かの法則なのかもしれない) ぜひそのような少年少女達に美味しいご飯をお供えしてほしい。 地蔵少年地蔵少女は未来の練馬の土地を守り遊び回る。