初夏の雨は好い。それ迄の春の憂いを流して、時折滴で私を目覚めさせる。そうしてやや締まった心は紫陽花の様に鮮やかに色付く気がする。 その花弁から還る滴も又雨と云えよう。紫掛かったその滴は又誰かの下に降る。初夏は、人が人の思いを受容出来る時節である。 この頃、私はいつも人に第一印象と違う、意外と人に甘えがち、だとか、自立していない、と云われる。それは私の紫陽花から降る滴に因る物だが、他方その雨は毒をも含む。内面は染み出して来るから、人は本性を段々と知り得る事になる。然し乍らこれを以て印象と違うと云われても、大方予測出来たのではないかと思うことが有る。又、総て合わせて紫陽花なのだから、印象とは一概に第一に決まる物でもないとも思う。 私は催花雨の時点で人の印象を把握出来るから困ることは特段無いのだが、やはり対比して自分は未だ理解されていないのだと淋しく思うことも有る。然しそれは私が驕っているだけなのでないかと思う時も有る。私は真にその花の色を見ているか、その花に降る滴を見ているか。 様々な思いに駆られ、私はもう一度周りの色を見直すことにした。雨の北鎌倉はまばらな人だったが、紫陽花の蒼が鮮やかだった。源氏山を抜け辿りついたのは、朱の映える縁切寺である。
暇だ、漫画とアニメでも見よう。 暇だ、音楽でも聴こう。 その繰り返し。 投薬しているので興味のあるジャンルの絵や音楽が偏る。 万能でいたいという傲慢。 人類の総合知は何処に集約されまた開放されるのだろう? それでも生きるのを諦めてはならない。 本来よりよく生きられるはずだった。 でも僕の中の悪魔が世の中の雰囲気を悪くする。 殺してはならない。 奪ってはならない。 ネガティブな奴にはろくなものが寄ってこない。 しかし本来ナニモシナイ奴。 話しているときは元気が出る。 人の悪口を言っているときは一時的にだが気分がよくなる。 でもすぐ後悔する。 人は物語が好きである。 気分が上がらないときは歌を聴きたくなるだろう。 どんなに下らない物語でも読み手がつく。 商売もまたしかり。 ショービジネスの影で性産業が蠢く。 喧嘩バカにならず逃げ出して心をちょっと盗む。 本来漫画でも描いて歌歌ってればよかったのだ。 メトロポリタンミュージアム。 コンピューターおばあちゃんはバグを起こしロックステージで昇天する。 その繰り返し。 天使は堕天するので現世では不利な存在。 悪魔は善人面して相変わらず生物を死に追いやる。 ウイルスは神となり人間の活動範囲を拡げるために悪魔を従える。 仏は怒らない、自分との戦いに忙しいからだ。 北極圏のオーロラは白熊の瞳にどう映るのだろう? 南極の古代のウイルスが待機している。 大量絶滅の果てにまたカタストロフ。 カオスに抗う戦い。 理屈では解析できるのに言葉が足りないせいでまた齟齬が生じる。 蚊に刺される。 今日も死にかけでしかし飯は旨い。
「私、花屋さんになる!」 私の娘の口から、私の子供の頃の夢が出てきた。 「そう。頑張って」 驚きすぎて、そっけない返事をしてしまった。 私は、夢を口にすることがなくなった。 最近、口にすることと言ったら、健康のこととお金のことばかり。 ずいぶんつまらない人間になったことは自覚しつつ、大人になると夢を見なくなるんだと自分に言い聞かせていた。 でも、そうじゃなかった。 私の夢は、どうやら娘に引き継がれていたらしい。 花の図鑑を楽しそうに読む娘を見ながら、私はなくなってしまった夢の代わりに、新しい夢でも探そうかという気になった。
帰りたい。僕は今一限の授業を終えて、逃げるように図書館の1人用の椅子に座った。正方形のような穴が規則的に配列された白いレースのカーテンとその裏の窓ガラスを通してみる11号館学食前の通りは、授業を終えた学生とこれから二限に出席する学生とで忙しない様子だ。2限からの学生が多いのは世の常といったところか。皆朝には弱いんだ、特に大学生ともなれば。たった数年前まで僕らを縛っていた一定の強制力は、緩くなった靴紐のように僕らを怠惰にする。僕は2限がないため急ぐ必要はない。しかしながら今日は3限と4限があり、その後に塾のアルバイトが控えている。僕のスカスカな一週間の中で、最も気を張って臨むべき日がこの火曜日といえる。自分で選んだことなのだが、2限が空くというのが実に厄介である。2限と昼休憩を合わせたこの155分は、何かを為すにはあまりに短い。十分長いじゃねぇか!と思ったそこのあなたは正しい。しかし僕は燃費の悪い男で、食べたものが直ぐに消化されてもうすでに腹の虫が鳴りそうである。飯を食う分時間は減る。節約をしたい僕の宿敵である600円程度の昼食を挟んで、おおよそ1時間1時間で分割して何かに取り組むのは中途半端な気がして進まない。勉強するなら図書館しかないのだが、僕の少しばかりの優越感と自信を食い潰そうとするこの温い空気も、背もたれの深いこの柔い椅子も私は嫌いだ。僕の100%はどこにあるだろう。こんな環境では非効率になるとの尊大な認識が、僕の両足を蝕み末期の糖尿病患者の如く歩行をも困難にするのだ。公認会計士になろうというならば、風のような速さでごっちゃごちゃの知識の樹海を駆け抜けなくてはならないが、僕の脚は腐ってしまってもはや使い物にならないようだ。帰ってしまおう、授業を切ってしまおう。そして少し贅沢な飯を食って心を整えて、明日から頑張れば良い。そんな甘っちょろい選択肢が私の脳みそをハイジャックしている。今学期の目標は皆勤賞だと言っていた僕であるが、無様な姿であることは置いといて今の所一応の達成ができている。そんな現状が崩壊すれば、後ろ盾のなくなった僕の僅かな自信と輝かしい未来予想図が一瞬にして炭となってしまうことだろう。ああ帰ってしまおうか。僕は、誰よりも腰抜けなのだろうか。ニーチェの超人思想を知って、それに同意しつつも僕は何も為せないらしい。それとも彼が間違っているのか。僕は家に帰ることを決意した。
空港で、モバイルバッテリーの預け入れが禁止された。 爆発すると、危険だからと言うことらしい。 持ち物検査でアラームが鳴り響き、前の客が驚いていた。 事件や事故を受けて、規則はどんどん厳しくなっていく。 安全のためとはいえ、やむを得ない。 ぼくは持ち物検査をクリアしたので、優雅にゲートを通過した。 ビービービー。 『対象の人間の持ち込みを禁止します』 ぼくが驚いて後ずさりすると、一人の警備員がぼくの元へ、もう一人が原因を確かめるために操作画面の前へと移動した。 「あー、AIチェックだ。申し訳ありません。お客様の容姿が危険人物の確率が高いらしく、このままではご搭乗できません。あちらに理容師さんがいますので、髪と髭のカットをお願いします」 「……わかります」 空港で客に見守られながら髪を切るという斬新な体験を終え、ぼくは無事にゲートをくぐることに成功した。 「安全管理って、本当に大変だな」 ぼくはゲートを睨みつけた。 導入されて以降、一度も飛行機の中で犯罪を起こしていない優秀なゲートは、ぼくの視線など気にする様子もなく、次の客にもアラートを吐き出していた。
ふと気づくと 窓の外が真っ白 この谷は雲の中にすっぽり入り 霧雨が降っている 太陽の日差しが差し込んで あたりは白く明るい 軒下から次々落ちる水滴が 落下しながらチラチラ光る まるでクス玉の中身の 細く切った銀紙がいつまでも休みなく落ちて来るみたい 細かな水音が静まって来ると 薄いベールの向こうに水色の空が見え始めた 軒下からこぼれてくる キラキラの落ちる間隔が 開いて来ている こういうのが見られるのは いっときなんだ もし、私が腕のいいカメラマンだったとして このキラキラを写すことができたとしても この風、土と植物の水泡が混ざり合った匂いはどうだろう 戻って来た鳥の鳴き声も ともに写せるだろうか もし、全てを収める動画を撮れたらどうだろう それでも 今日、この時間、今の星の配置の時に これらの協奏曲を今体感していることが かけがえのない、いっとき そうして、もう雨は止んだ
この薄暗い部屋に閉じ込められて、一月が経った。部屋の中は質素な造りだが、ベッドは意外にも上質なマットレスで、シャワーとトイレも完備してあり、生活するには申し分ない。食事は野菜などの彩は無いが、三食差し入れられる。 堪えがたいことは、娯楽が少ないことだ。テレビやパソコンが無いのは勿論、所持していたスマートフォンも取り上げられている。何故かカバーを外された本だけは差し入れられるが、異常な状況では読む気力も湧かない。言わば、生きる楽しみを見いだせない空間。 犯人はわかっている。目の前にいる女だ。 「どうしてこんなことをするんだ」 鉄格子の向こうにそう詰問すれば、女はいつも困った様な表情をするばかりだった。 彼女のかつての交際相手に相談を受けたのが、出会いのきっかけだった。曰く、彼女は相手に尽くすタイプの女性で、しかしそれに際限が無い。ノイローゼになった彼が逃げ出し、身近にいた自分が次の寄生先として選ばれた。 意外にも彼女との生活は悪くはなかった。容姿は華美ではなく、常に地味な服装だったが、むしろ奥ゆかしく好感が持てる。流行の話題には疎いが、古文や歴史に造詣が深く、博識深い。聞いていた異常性を置いておけば、所謂大和撫子そのものだったのだ。 うまくいっていたはずだった。この場所に監禁されるまでは。 あの日は雪が降っていた。寒さに身を震わせ、数か月後に来る春を思い、道すがら在原業平や西行が詠んだ句について語った。 「和歌に詠まれる桜は、どうしてこうも魅力的なんだろう」 「昔は、今よりも目に入る色が少なかったですから、桜の初心な色ですら、貴重な彩、だったのでしょう」 「成程。そもそも現代とは環境が異なるか。僕もいつか全身で感激するような桜を見てみたいものだ」 「ええ、そうですね」 そんな些細な夢も語って、彼女も微笑んでいたというのに。 当夜、勧められるまま深酒をしてその後の記憶がない。目が覚めたらこの部屋にいた。初めは激昂して、それから諭すように、ある時は懇願に近い声色で、どんな言葉で尋ねても、彼女の答えは無いか、曖昧なものばかりだった。 彼女は、僕の思いを試しているのか? 監禁という行為が生み出す歪んだ関係性。被害者からの依存性を期待しているのだろうか。彼女の目的は、ただこうして廃れていく僕を、籠の外から眺めて居たいだけなのかもしれない。 薄暗い部屋で、食事と睡眠の数を数え、もう二月も経った。ひたすら薄暗闇の日々が続いたのだ。段々と、自分の中の何かがすり減っていくのを感じる。 「なあ、今日でもう二月だ。あんたはいつまでこんなことをするつもりなんだ?」 辛うじて、まだ忘れていなかった声と言葉で問いかける。どうせ返事は無い。宛てのない言葉は、壁の中に消えていってしまうのだろう。ただの独白だ。 そう自嘲しながらも、久々にあの困った顔つきを拝んでやろうと、俯いていた顔を上げた。彼女の唇が動いた。 「あと、二週間、くらい?」 食い下がるべきだったろうが、驚き、言葉が出ない。明確に期限を口にしたのはこれが初めてだった。彼女に何の変化があったのか。 その日を皮切りに、彼女は、毎日私の言葉に返事をするようになった。 「もうちょっと、今日は、まだ」 「まだ早いの、だめ」 「きょ、今日は、雨が降ったから」 ある日、聞きなれない金属音と共に、いつもとは異なる微妙な風の流れを感じた。ひた、ひた、と足音が近づく。顔を上げると、鉄格子の向こうの彼女が傍にいた。 「あの、これ」 差し出されたものは、黒いアイマスクだった。付けろというのだろうか。視線で問いかけても、困った表情をするだけだから、望まれるままに装着した。手を引かれ、立ち上がる様促される。僕は彼女のするまま、素直に従った。 「どこに向かっているんだ」 答えのないまま、歩いた。あの仄暗闇から解放されるのならば、どこでもいい。僕はあの薄暗い部屋を出たのだ。 途中から、足の裏に感じていたものが、コンクリートよりも柔らかい感触に変わった。風にのって、土と草の匂いがする。 「取ります、ね」 もう随分歩いたと疲労を感じ始めた頃、ふと立ち止まって彼女は言った。 髪が巻き込まれ頭皮が引っ張られたが、些細な問題だった。 流れ込む光の束に、すぐには目を開けなかった。ゆっくりと瞼の裏に馴染ませ、恐る恐る開いていく。 色の洪水だった。失くしていた色、求めていた色、知っていたはずのものが、未知のものに見えた。背丈を優に超える幹は、大地の色を吸い込んでいる。風に舞い散る花びらには、一枚一枚色があった。全て、異なる色なのだ。 言葉にならない僕に、彼女は嬉しそうに笑った。久しぶりに見た笑顔だ。僕は、彼女が僕を閉じ込めた理由を悟った。後はただ、手を握り締めて、桜を眺めた。
白いごはんの上に、ふりかけがちょちょっとかかって、 朝つくった玉子焼きとウインナー。 あとはつくり置きをてきとうに。 脇役に金時豆とたくわんも。 さて、食べるかな。 ぱんっ あ、しまった。 いただきますのとき、手を合わせるのだけど、 いつものくせで、音を出してしまった。 気持ちいつもより大きかったように思い、 ベンチの後ろでライフルを構えている男を、 なんとなく振り向き、確認してみる。 高い集中からだろうか、男の様子に変化はなく、 安心し、私は、食べはじめた。 玉子焼き、ごはん、ごはん ごくん ウインナー、ごはん、ごはん、ごはん ごくん ほうれん草のごま和え、ごはん ごくん 玉子焼き、ごはん ごくん ウインナー と、そのとき、 ―おいしっスか? 声がした。 ウインナーを口に運ぶ途中で、私はその動作を止めた。
何故だか、友達ができなかった。 変な顔、変な顔、と言われてからかわれた。 でも、ぼくは一人ぼっちじゃない。 「変な顔だなんて、酷いよね」 ぼくには、ぼくの影がついている。 顔がないからぼくの顔を気にしないし、ぼくが右手を上げたら左手を上げて来る、お茶目な奴だ。 唯一不満があるとしたら、じゃんけんの勝負がつかないこと。 どちらがケーキを食べるかのじゃんけんをしたとき、結局どっちが食べるか決着がつかなかった。 「君はいつ見てもペラペラだね。本当は、一緒にゲームとかしたいのに」 壁に映る影に向かって言うと、突然影の口が開いた。 「やる?」 驚いて腰を抜かしたけれど、それ以上に嬉しかった。 唯一の友達と、お話しできたことが。 「やる!」 ぼくが答えると、影はぺりぺりと壁から剥がれて、ぼくの前に立った。 そして、ゲームのコントローラーを持つと、急かすように言った。 「早くやろうよ」 「うん!」 影は、その人から毎日、ぼくとゲームをしてくれた。 影だからぼくと同じ動きをするので、相変わらず決着がつかなかったけど、楽しかった。 一週間たったある日、影がぼくに聞いてきた。 「他に友達は作らないの?」 ぼくはゲームの手を止めた。 「変な顔って言ってくるんだもん」 「それは、ぼくより変な顔なの?」 「さすがに、影みたいに真っ黒じゃないけど」 ぼくは思わず吹き出した。 影も吹き出していた。 二人でひとしきり笑った後、影が言った。 「じゃあ、大丈夫だよ」 「そうかなあ?」 「君に変な顔って言ってくる奴も、変な顔じゃない?」 「確かに! 鼻が団子みたいに丸いんだよね」 「変な顔仲間じゃん。きっと友達になれるよ」 「嫌だよ、そんな仲間」 次の日。 変な顔だって言われたので、変な顔って言い返した。 そいつはぽかんと口を開けた後、ぼくを殴ってきた。 ぼくは殴り返した。 足元にいる影の分と合わせて、二倍のパンチだ。 結局、先生を呼ばれて喧嘩は終わり。 そいつとは互いに謝って終わり。 クラスでたまに話す仲くらいにはなった。 喧嘩を見ていた何人かは、「お前すごいな」って話しかけてきてくれて、友達になった。 「ぼく、友達増えたよ」 ぼくは影に報告をした。 でも、影はもう、ぼくの前に立ってくれることはなかった。 代わりに、ぼくとまったく同じポーズで祝福してくれた。 最近のぼくは友達と遊んでいる。 たまに、影ともじゃんけんをしている。 決着は、一度もついたことはない。
ねぇ、明日僕が消えたら あなたが朝に焼くパンが減って 迷惑そうな声とともに 広くなった場所はすぐに埋まるでしょう 1000日後にはいない席で 何を守っているのでしょう 平和でしょうか、退屈でしょうか もう、今日は眠りたいです いい夢を見られていないもので そんなおかしなメッセージを ふざけて書いてやっぱり消した 1000日前にいた心が 倉庫の奥に押し込められて 昨日の僕を知る人が 広くなった場所からまた消えていく もし、明日あなたが消えても 僕が朝に焼くパンが増えるだけ
雲園に行った。檻の中に、様々な雲が暮らしていた。檻の向こうのコンクリート壁は、青く塗られていた。空を模しているのだろう。隅の檻に、見覚えのある雲がいた。二十年前、私たちの町の川を氾濫させた雨を降らせた雲だった。穏やかな顔をしていた。あんなに激しい雨を降らせた雲だとは思えなかった。「覚えてる?」私は檻の外から雲に声をかけた。雲は顔を上げた。私をじっと見ていた。その目から、水滴が溢れて、こぼれて、コンクリートの床に小さなしみを作った。それは涙だったのかもしれないが、雨だったのかもしれない。
お昼はいつもひとりだ。 今日は天気もいいし、屋上にでも行ってお弁当を食べようかな。 屋上に出る扉を開けると、 そこではひとりの男が腹ばいになっていた、ライフルを構えて。 屋上にはベンチが置かれている、ひとつだけ。 男はそのベンチに隠れるようにして横になっている、ライフルを構えて。 ああ、まったく、もう 思うのだけど、この時間から場所を変えていたのでは、 ただでさえ短いお昼休みが終わってしまう。 しかたがない。 私はベンチに座り、ひざの上にお弁当箱を置いた。 男は熱心にライフルに装着されているスコープをのぞき込んでいる。 殺すのだろうか。 いま、やるのだろうか。 目撃者になってしまったら、私も殺されてしまうだろうか。 さまざま頭に浮かぶけど、いまはそんなことよりお弁当だ。
久しぶりに出社した。 ずっと自宅からテレワークをしていたので、他の社員と肩を並べて仕事するのはいっそ新鮮だ。 しかし、仕事を始めて数十分。 すぐに違和感へとぶち当たった。 「ティッシュがない!」 「ゴミ箱がない!」 「冷蔵庫の中にコーヒーがない!」 「水道に浄水器がついてない!」 「メモできる紙がない!」 備品としてデジタルな機器はやまのようにあるが、アナログな道具が少なすぎた。 退勤後、私はすぐに行動を開始した。 職場の机の隣に、サイドテーブル設置。 サイドテーブルの一番上に、コーヒー二リットルとミネラルウォーター二リットルのペットボトルを設置。 隣にティッシュボックスを設置。 棚の中にペンとメモ帳を設置。 サイドテーブルの隣にゴミ箱を設置。 僅か一夜にして、自宅に近い環境を完成させた。 一夜城ならぬ、一夜机だ。 出社する社員たちは、私の机を見てぎょっとした。 きっと、「その手があったか」と驚いているのだろう。 真似していいよ。 業務時間が始まってしばらくすると、課長が私の机までやって来て、私の机を見て首を横に振った。 「これは、駄目だよ」 「え?」 かくして、私の一夜机は十分で崩壊した。 私の仕事の能率は半分にまで落ちた。
『桜の花が満開です』 『ネモフィラの花が満開です』 『ツツジの花が満開です』 日本は、様々な花の開花をニュースにする。 人々は満開を求めて大移動を開始し、花が咲いているところに、望んでぎっしり詰め込まれる。 「ねー。ほら、綺麗だねー」 私の家族もそうだった。 おばあちゃんなんて、私が喜ぶからと花を摘もうとして、お父さんとお母さんに全力で止められていた。 確かに奇麗た。 桜も、ネモフィラも、ツツジも。 でも、私が一番好きな花じゃない。 「行ってきまーす」 玄関を出て、三歩。 車道と庭を分ける塀の足元には、小さな花が咲いている。 名前は知らない。 白くて、花弁が多くて、小さい。 わかるのはそれだけだ。 私は、この花が一番好きだ。 「行ってきます」 小さな花にも挨拶をしながら、指で突っつく。 毎年咲いてくれる小さな花。 私の背がちっちゃい時に見つけた花。 私と一緒に生きてきた花。 わざわざ見に行ったりするんじゃなくて、たまたま同じ家に生まれてくれたこの花が、私は世界で一番好きだ。
「やったぞ!ついに完成した。」 ボサボサの髪をした初老の男は、巨大な機会を前にしてひとり拳を握りしめた。 彼の計算では、あとは眼の前のこのマシンを起動すれば長年の夢である、四次元の世界に行けるはずだった。 はやる気持ちを抑え、男はスイッチを押す。 目も開けられないほどの閃光があたりに満ちた。 ここが四次元の世界なのだろうか、あたり一面が真っ白で一体どこが切れ目なのかも分からない。 男があたりを見渡すとはるか遠くに豆粒ほどのサイズの何かが見えた。 そして、突っ立っている男に向かってそれはグングンと距離を詰めてきた。あっという間に男の目の前にやってきたそれは完全に人間の見た目をしていた。 「すみません、あなたは一体何者なんですか。」 男は震える声でなんとか目の前の人物に話しかけた。 「私はこの世界の住人です。ようこそいらっしゃいました。皆があなたを歓迎していますよ。 なにせドラマの中から本当に飛び出していらっしゃたのですから。 言うなれば三・五次元俳優でしょうか...」
I want a regular then how wild they had to go without. I had every day a day right now have a buddy had to could’ve had to come about a dad that we had did. They couldn’t have that I had a bit of a dead with that, I could’ve had it down dumb actually I would’ve had a record a date we take care about it had an they couldn’t have a doubt that that true not dumb. I could’ve bought a box. Otherwise they could then cause they could’ve did it I could’ve had a daughter I had to cut it down. I had a quote about the one without a day back to work out. I could’ve dead way that I cannot doubt I’m down a quarter cup about that when I came about that we could’ve done with that I have a bucket that I had to come ride without nobody come out there without madame that I had to go out of that. We came down with ad that I had a grandma day today and we could ride a dead be there gone back to that ever cut out a day now doubt a date that addendum go back to the karate picture that I out there a day and make that karate picture that that I kinda like that a day down a day I’m a ride a day a day when I go out did they go out of doubt that today we could deal with that back to break to be done I’m there. I could have a date there I could back to that I had a record out of doubt how about they’ve got to run out of there without a date because they’re down running mixture that I had a they couldn’t work out a day that a karate that that is that why I come over today have a Kuba I could hear they could they go to double down I’m about to board, but they could cut that and they couldn’t ever deal with that and I Quebec that I can deal with that. I know that they could read that I can never that a day that’s with that. Add back to your bank right now. Recover about that without that today I added that out because you could write that out and how do I go with that a day look the other day and that corner of that way back I’m with that An Essayist and Yuji Tanaka
夜になると、頃合いを見て斉木信夫はパソコンの電源を落とし、夕食をとりに外へ出る。 部屋着から外出着に着替え、ハンカチと家の鍵をポケットに入れたらスマホ片手に駅のほうへと歩いていく。 その日は駅裏にある焼鳥屋へ。長年この土地で商いをしている老舗で、値段も手ごろで常連も多い。店内は六人ほどが座れるカウンター席と、壁際に這うようにある二人掛けのテーブル席が二つ、それと奥に肩を寄せ合いながら四人は座れるテーブル席が一つあるだけで、焼き場に立つ大将とお酒を作る女将さん二人でお店を切り盛りしている。 数か月まえに電子決済ができるようになってからというもの、斉木信夫はこのお店に週二回は通っている。入り口近くのカウンターの左端がお気に入りの席だ。夏は暑いし、冬は寒いけどそのおかげでわりかし空いていることが多く、忙しくなってきてもあまりその席だと座りたがる人もいない。混んできて居心地が悪くなっても、誰に気兼ねすることなくお会計さえ済ませれば、すぐにお店を出られるのも気に入っている。 女将さんが前に立ち、斉木信夫はとりあえずいつもと同じ生ビールと串焼き三本セットを注文する。女将さんは肯きながら伝票に記入し、それぞれの串をタレか塩かと彼に聞く。 彼はいつも通りにこう答える。 「ねぎまとレバーはタレ、つくねは塩で」 そこでハッと女将さんは伝票から顔を上げる。そして斉木信夫の顔をジッと覗き込む。 彼もその視線に少し緊張した面持ちで応える。 「つくねだけ塩なんて、あんた珍しいねぇ」 女将さんがそう言うと斉木信夫は曖昧に肯き、すかさずスマホに視線を移す。女将さんは大将にオーダーを伝えてビールサーバーのまえに立ってビールを注ぎ、斉木信夫のまえ ―にジョッキを置くと、常連のサラリーマンとカウンター越しに談笑し始める。隣りに座っている彼のことなど気にする様子もない。 それから斉木信夫は生ビールを一杯とイモ焼酎ロックを一杯、それと串三本と追加で注文した手羽先を二本食べてお店をあとにする。滞在時間は一時間ほど。混み合ってきたところで席を立ち、電子決済で会計を済ます。外へ出たら駅裏のあたりをブラブラと徘徊し、最近できたばかりの立ち飲みのワインバーでグラスの赤を二杯、そして駅前から家とを結ぶ直線上のちょうど真ん中あたりにあるバーでウィスキーのロックを三杯呑んで家路につく。 時刻は午後十時過ぎで、夜の町はまだこれからが本番と言わんばかりに賑わいをみせていたが、町がどうであろうと彼には関係ない。足取り不確かに路地から大通りへと出て、再び踏地へと入って自宅マンションの近くまでくると、斉木信夫はいつものように街灯の下でふと立ち止まり、足元を見据える。 そこにはあるはずの自分の影はなく、街灯の明かりに照らされた黄色みがかったアスファルトがあるだけだった。
世界が「それ」に塗り替えられてから、どれほどの月日が流れただろうか。 パンデミックの正体は、ウイルスではなく「自分自身」だった。世界に一人につき一体、自分と同じ姿をした、しかし「目が真っ白な」怪物が現れた。目的はオリジナルを食い殺す事と、無差別に人を襲う事。 その日の教室には重苦しい空気が漂っていた。 教壇に立つ教師は、震える声で生存のためのルールを叩き込んでいた。 「いいか、絶対に私の指示に従え。他校では、パニックになって窓から逃げ出した生徒ほど、外で待ち構えていたヤツらに食われている。規律こそが命綱だ」 しかし、その教えはあまりにも早く、残酷な形で崩れ去ることになる。 校門の向こうから、数体の「それ」が滑り込んできた。同時に、校舎の廊下からも、ガタガタと何かがぶつかる音が響き始める。 「……もう、入り込んでる」 誰かが呟いた。 教室のドアが勢いよく開き、入ってきた「それ」は口からは言葉とも叫びともつかない、支離滅裂な意味不明の音節が溢れ出している。 「指示に従え! 動くな!」 教師の絶叫を背に、私は直感した。ここにいたら死ぬ。 私は教えを破り、窓枠を蹴って宙に舞った。 地面に叩きつけられる衝撃を殺し、無我夢中で走り出す。背後で誰かの悲鳴が聞こえたが、振り返る余裕はない。その時、路地裏から小さな影が飛び出してきた。 小学生の姿をした「それ」だった。 ランドセルを背負い、黄色の帽子を被っていた。幼い面影を残したまま、真っ白な瞳を剥き出しにした怪物は、私の背後をぴたりと追いかけてくる。そして、子供特有の甲高い声で、呪詛のようにこう叫んだ。 「また監禁だ! また監禁なんだ!!」 その言葉の意味を考える余裕はなかった。ただ、その声には生理的な嫌悪感と、逃げられない執着がこもっていた。 逃げても、逃げても、足音は増えていく。曲がり角を曲がるたび、建物から、影から、同じように叫ぶ小学生型の模倣者たちが合流し、巨大な濁流となって私を追い詰める。 ようやく辿り着いた、見晴らしの良い広い坂道。 心臓が破裂しそうなほど脈打ち、肺が焼ける。私は意を決して、背後を振り返った。 「あ……」 声が漏れた。 坂の下を埋め尽くしていたのは、数えきれないほどの「子供の姿をした異形」の群れだった。地平線まで続く黄色帽子の海。逃げ場など、最初からどこにもなかったのだ。 絶望が重力となり、私はその場に膝をついた。
「君は、大切な人は居るかね」 密室に、淡々と響く声があった。 「あぁ、もういいだろ、さっさとしろ」 密室に、心底呆れた声があった。 「まぁ、そう焦るな」 拘束された大柄の男と、白髪混じりの髪を携えた、ロングコートの男。その内、白髪の男が懐に手を伸ばすと箱を取り出す。中から一本の棒を抜き取り、咥えた。 「死を、恐れているかね」 白い筋が、二人の間を真っ直ぐと上っている。 「いいや」 大柄な男は、いい加減にしろと言わんばかりの表情をしている。 「では、次だ」 部屋の中に、薄白のフィルターがかかり始めていた。 ─「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」「次だ」─ 立ち上る煙は、依然真っ直ぐと上っている。 「では、次だ」 「君は、大切な人は居るかね」 密室に、淡々と響く声があった。 「あぁ、もういいだろ、さっさとしろ」 密室に、心底呆れた声があった。 「まぁ、そう焦るな」 立ち上る煙が、はたと揺らいだ。 「まずは、これを見たまえ」 壁面の内一つが軽快な音駆動音を立てると、その中央部がひとつのモニターへと変化した。 「なんだ」 黒色の画面が光を発し、それは複雑な色をを絶え間無く操り続けていく。 「君は、この人を知っている。そうだな」 灰の塊が、崩れて落ちた。 −まさか…。 「では、執行を開始する」 淡々と、画面は変化を開始した。 「おい、やめろ」 「やめろやめろやめろやめろやめろ」 灰皿に、また一本が潰された。 「あ、あぁ…」 煙はもう、上っていない。 「刑は執行された」
久しぶりにモノを書こうと思い、ノートを買った。 灼熱の夏が過ぎ、まだ暑さが残るものの日が傾けばそれなりに過ごしやすくなってきた。少しづつ季節が移り変わっているのを感じ、このセンチメンタルな気持ちを形にせずにはいられないと思い、一冊のノートを買った。 若い頃は何でもノートに記していた。人に見せられないノートが何冊もあり、断捨離をするたびに処分に困ったものだ。日常の小さなメモから、公募用の作品までありとあらゆる事、その時の私の脳内をすべて文字に起こしていた。 「私も小説を書くの」 中学の時の友人は、そう言ってびっちり文字で埋まったノートをよく見せてくれた。返す時には続きを催促し、感想を伝えた。 「あなたのも見せてよ」 友人はそういって私の書くものを読みたがった。そのたびに私は渡しても良いものを精査し、ページをちぎって渡していた。 友人のように、ノートを一冊丸々渡してしまう勇気はなかったのである。 先日、友達が一人減った。お互い相手を信用できなくなり、言い合いの末もう連絡しないことを決めたのだった。 原因は明確に私にある。友人についていたいくつかの嘘が原因だ。友人は嘘をつかれていたことが大変ショックだと主張し、私を責めた。 あまりにも酷い言葉で詰られた私は、つい言ってしまった。あなたは私にとって真実を伝えるに足る存在ではないと。 原因は私の嘘なのだから、私にそのようなことを言う権利はない。 しかし、彼女もまた、私がノートを丸々渡してしまえる相手ではなかった。ページをちぎって、書き換えてようやく紙切れを渡せるくらいの相手だったのである。 買ってきたノートの最初のページには庭に生えているマキの木に止まっていた鳥について書いた。先日剪定してもらったばかりのマキの木はまだきれいな丸みを保っている。形よく整えられたマキの木は、鳥にとって居心地が良い場所ではなかったのであろう。すぐにいなくなってしまった。 あの鳥は居心地の良い木を見つけられたであろうか。体裁よく整えられ、切り落とされたような木ではなく、伸びたい方へ自由に枝を伸ばしている木が、体になじんでいたらいい。 ノートを書き終わった頃、夕立が降った。秋になりつつあるとはいえ、まだ蒸し暑い。あわてて干していた洗濯物を取り入れたのだが、雨はすぐに止んでしまった。通り雨だったようだ。 湿度の高い夕日に照らされて赤く染まったマキの木からは、雨水が蒸発して霧が出そうだった。
「博士、本当に行くのですね。」 「ああ、先に行ってくるよ。」 「では、また100年後の未来で会うのを楽しみにしていますよ。」 そう言うと助手のワトソンはボタンを力強く押した。 宇宙船は大気圏を抜け、予想よりわずかに出力を高く保ったままついに宇宙へ飛び出す。 たった3年の旅だ、それを地球時間に換算すると100年が経過していることになる。 人間の寿命では通常体験できない未来を私は見ることができるのだ。 いずれ帰る未来の地球を想像し、ともに宇宙旅行をしているワトソンと酌み交わす酒を楽しみに私はつらく長い旅をひとり耐え抜いた。 懐かしの青い星をとらえると宇宙船はプログラムに従って3年、否100年前の約束の場所へ向かった。 無事に着地すると何やらスーツを着た男が宇宙船のもとにやってくる。 「お帰りなさいませ、こちらW株式会社のものです。データ照合をいたしますので少々お待ちを。」 「はあ、これはどういうことだ。おい君、ワトソンという男を見なかったかね。私の助手なんだが。」 「何冗談をおしゃいますか。ワトソン氏はわが社の創設者ですよ。」 そう言って笑った男の顔が突如として冷酷なものに豹変した。 「不法滞在者だ、連れていけ。」 スーツの男が虚構に向かってそうつぶやくとどこからともなく屈強な男たちが現れ、私の体を乱暴に宇宙船からひっぺがした。 「おい!いったい何をするつもりだ。」 「滞在費は宇宙での労働でもって支払ってもらいます。それでは、よい旅を。」 スーツ男の感情のこもらない笑顔はちょうど3年前、宇宙船の窓越しに見たワトソンのそれとよく似ていた。
いつからだろうか。世界は、人々から感情を「気体」として抽出できる技術を発明した。 どのような原理なのか、凡人の私には理解できない。ただ、その技術を活用することで、私達は悲しさを、辛さを明確に吐き出すことができるようになった。いつしかネガティブな感情は人々から忘れ去られ、精神病と呼ばれるアレコレも幻となったり、ならなかったりした。 それなのに、私は今、職場の上司と海に来ている。 「海水は、涙と同じ味がするんだそうだ」 先輩は誇らしげに、海の向こう側を覗こうとしている。 「知ってるかい、涙の味は」 「知らないですよ」 それがどうかしたんですか、とたずねると、先輩は「ここに来たら、涙の流しかたを思い出せる気がしたんだ」と語ってくれた。 なぜ? 涙を流す必要なんて無いでしょう。あれは、とうの昔に忘れ去られた歴史の遺物だから。悲しみや、辛さと共に。これっぽっちも残されてはいない。そうとしか、私には思えない。 「じゃあ、残されている場所があるとしたら、どうする?」 唐突な先輩の一言に、私の頭は一瞬、フリーズする。 「そんなことがあるんですか」 「ああ。無いとはいえない。我々から気体として取り出された感情は、やがて凝縮されて液体となる。その液体は、人知れず海に流されているんだよ」 そうだったのか……。今さらながらに知った感情の処理方法に、私はまだ頭の整理が追いついていなかった。 先輩曰く、学生の間に一度は科学の授業で教わる決まりになっているらしい。けれど、あいにく私は感情の液化について、みじんも記憶していなかった。ネガティブな青春時代の感情と共に、あの時かぎりの思い出すらも、知らず知らず捨ててしまったのだろうか。 なんだか急に不安がまとわりついてきて、私の胸をしめつけてくるように感じられる。一刻もはやく、このモヤモヤを消し去ってしまいたい。 「それなら、深呼吸をしたらいいよ」 悩める私に、先輩はアドバイスをくれた。 深呼吸か。そのようなセルフケアは一度も考えたことがなかった、気がする。 フッ、と深く息を吸う。風にのって、なまぬるい空気が肺を満たしていく。それらが胸中のモヤモヤを取り巻き、新たな渦を形成していく。この瞬間、私は台風になる。生まれてから今まで吐き出してきた感情が、確かな重力となって私に返ってくる。悲哀、嫌悪、苦悩、憤慨、怨恨、憎悪……。まるで魂の一部を懐かしむように、私は感情の一つ一つを慈しみ、愛でる。 やがて、吐き出す。フッと。スッと。 一瞬、煙のように立ちのぼる爽快感が胸を埋めつくして。けれど、心に残るは、あゝ、未練。されど、無情。どうにもならない後悔だけが、私のふところに先程まで何かが“あった”ことを教えてくれる。 「先輩、これは耐えきれません。私は、繊細に感じすぎる。私には。私には、やはりあの技術が必要です」 すがるように、言葉を吐いていた。その声もまた消える。けれども、誰かの頭には残る。心の奥に響く。なんて不思議だろう。 「いらないわけじゃないんだ、どれもこれも」 水平線を見つめ、先輩は静かにつぶやく。 ――ならば、もし液状となった感情が流れついて、海の向こう側に吐きだめをつくったとして。私達がその場所まで行き着いたのなら。そこにある感情を手のひらにすくったのなら。 私達は、また涙を流せるようになるのでしょうか。 そのときは、聞かせてくれませんか。涙はどんな味がするのか。きっと、私に教えてください。 しばらく二人きりで、海を眺めていた。 いいえ。二人、ただの一人の人間として。
幸せなんてそんなものかもしれない。 あの娘はおそらく僕のことをなんとも思ってないだろう。 脳内にいろんな脳内物質が出る。 恋をすると寿命が伸びるらしい。 ファインマンのように色恋に長けた物理学者もいる。 恋の物理法則。 君と僕との距離と心の質量が僕らに力学的な作用をもたらし量子の世界で変化が起きるとか自分でもよく分からないことを言って相手を混乱させることも出来るが失礼なのでやらない。 素直に君かわいいね、って言っとけばいいのかもしれない。 素直さが肝要。 君と僕との心の間にある作用点はどちらの重力波によってより強い作用をもたらすんだろうとか言って頭が悪いんですね、って言われて僕の心は重力の歪みを発生してしまうこともあるかもしれない。 素直に今日のお弁当可愛いね、って言っておけばいいのかもしれない。 恋のIQが足りない。 君と僕との心の駆け引きによって地球の時点速度が大きく変わって太陽が地平に沈むときの光のスペクトルが4原色以外のものに見えて素敵だね、って言ってお巡りさんこの人です、って言われそう。 素直に栄養のあるもの食べて早く病状が良くなるといいね、って言えばいいのかもしれない。 マッドフィジストは適応能力を欠き宇宙の法則を乱し今日も太陽に飲み込まれる。
小さな商店街の古い時計屋さん。 そのとなりにある小さなコーヒー屋さん。 そのお店の店主は、夜になるとお店の中庭で、 眠れない近所の人たちのためにコーヒーをいれるのです。 時計屋さんの灯りが消えるころ、 おとなりの小さなコーヒー屋さんに、 静かに灯りがともります。 庭のイスでは、いつものことですが、 三毛猫が丸くなって眠っています。 「こんばんは」 入ってきたのは、疲れきった様子の若い女性。 「明日、大事な… はあ… 眠れなくて」 お店の店主は小さく微笑み、 その若い女性のための特別な豆をひきはじめます。 カリカリカリ、と軽快な音が響いたあと、 お湯を静かに注ぎ入れる音へと変わっていきます。 コポコポコポ その音にまじって、三毛猫がのどを鳴らします。 やがて、琥珀のような色をした液体がしたたり落ち、 やわらかい香りが庭いっぱいに広がっていきます。 「はい、どうぞ」 疲れきった若い女性は、カップを両手で持ち、 香りを嗅いでは、ふう、と息を吐きました。 口につけると、驚いたように目を見開きます。 「すごく、やさしい」 その言葉に応じるように、三毛猫がもそっと寝返りを打ちました。 店主も、そして若い女性も、その様子を見て、 ふっと表情をゆるめます。 「また来ちゃうかも」 「ええ。いつでも、お待ちしていますよ」 若い女性は、もう一口、コーヒーを含み そのあたたかさに包まれながら、 少しだけ安心して微笑むのでした。
「私は神だ。お前の願いを一つ叶えてやろう」 奇跡が起きた。 私は躊躇うことなく、願いを口にした。 「悪人を全員消してください!」 「悪人とは、どんなやつのことかね?」 「私より悪いやつ、全員です!」 「その願い、かなえてしんぜよう」 その日、人類の三分の一が消えた。 私をいじめていた人間も、公共の場でマナーを守らないやつも、全員消えた。 いい気味だ。 私は、正しい人間しかいない世界を、大手を振って歩いた。 気が付けば、私は逮捕されていた。 私より悪いやつが全員いなくなったから、この世で一番悪いのは私と言うことだ。 ルールも、当然変わって来る。 「私は悪くない……」 悪は絶対的でなく相対的。 それに気づいたのは、私の身柄が拘束された後だった。 「囚人第一号、おめでとう」 厭味ったらしく言ってくる看守を見ながら、私はこんな奴よりも悪者だったのかと頭を抱えた。
つい先日、知り合いのお店がなくなった。隣りのラーメン屋が営業中に火事を起こし、もらい火で半壊したのだ。幸いけが人も出ず、 店主も無事だったが、お店は営業できなくなった。 「あっという間だったのよ、ほんと」と彼女は笑いながら言った。「隣りから火事だから早く逃げてって言われて、それで着の身着のままじゃないけど、レジからあるだけのお金とパソコンだけ抱えて外に出たの」 「パソコン?」とぼくは言った。 「ちょうど確定申告中だったから」と彼女は恥ずかしそうに言った。「今でこそそのままなかったことにしておけばと思うけど、あのときはまだ途中だからって咄嗟に思っちゃったわけ。おかしいわよね、 他にだって大事なものはお店にあったのに」 「さすが十五年やってるだけある」 「悲しいかな、そういうことなんでしょうね」 「ぼくだったらいっそ燃えてくれたらいいのにって思っちゃうだろうな」 「あたしだってどこかではそう思ってたはずよ? 前年より売り上げ良かったから、これで税金が少しでも安くなるって。でもね、いざってなるとそうはいかないのよ」 そう言って彼女はグラスを口に運んだ。すでに氷しか入っていなかったけど、そこにまだウィスキーハイボールが入っているみたいに。 「お店を続けていくには確定申告をしなきゃならないし、払いたくなくても税金は払わなきゃならない。お店が燃えてもそう思っちゃうんだから嫌になっちゃう」 「でも払ってでも残す価値があると思うからそうするんじゃないのかな」とぼくは言った。「自分にとってなくしてはならないと思うか らさ」 「そりゃ十五年もやってるからね」と彼女は言った。「自分のお店がなくなるなんて信じられないし、いざなくなっても本当になくなったとは未だに思えないから。始めたばかりのころはこんな暇なお店で大丈夫かって毎日ヤキモキしてたけど、今はそんな過去の自分に言ってあげたいもん。暇であろうと燃えてなくなったわけじゃないから大丈夫だって・・・・まぁ、それができないから今もヤキモキしてるんだけどね」 彼女は一時間ほど滞在し、ハイボールを三杯呑んで帰っていった。「目ぼしい物件はある」と言い残して。会計はいいと言いたいところだったが、それじゃ相手の意に背くだろうし、なによりこっちもお店をやっている以上それをやってしまったら元も子もない。 暇でも燃えてなくなるよりはマシだけど、燃えてなくなる前になくなってしまうわけにもいかないのだ。 今は午前一時。相変わらず暇な店だった。
「メンタリストの仕事って、結局、相手の嘘を見抜くことなんですよね」 向かい側に座る香織が、カフェラテの泡をストローでいじりながら言った。 ベージュのブラウス。適度に整えられたネイル。そのすべてが「私はまともな側の人間です」と、無意識の主張を繰り返している。 その言葉が耳に届いた瞬間、僕の背骨のあたりを、正体不明の冷たい粘土が這い上がった。 僕が普段から駆使しているのは、視線の動き、微細な表情の揺らぎ、あるいは発話までのコンマ数秒のタイムラグを数値化し、最適解を導き出す「技術」だ。 けれど、彼女にその「技術」を名指しされた途端、僕という人間の組成が、根本から組み変わってしまうような錯覚に陥る。 「まあ、そう思われがちだよね」 僕は、鏡の前で数千回は繰り返したであろう、「自意識を適度に隠蔽した微笑み」を顔面に貼り付ける。 この時、口角は一ミリだけ左右非対称にするのがコツだ。 その方が、相手は「この人は自分にだけ、取り繕わない一面を見せてくれている」と勝手に誤認してくれるから。 けれど、今の僕は、自分の顔がどの程度の確信を持ってその表情を作っているのか、まるで見当がつかない。 嘘を見抜くことを生業にしている。そのレッテルを貼られた瞬間、僕の発するすべての言葉は、真実という回路を通ることを禁じられる。 「そのネイル、綺麗だね」という賞賛も、 「今日のコーヒーは美味しいね」という世間話も。 すべては相手をコントロールするための布石であり、計算された演出であると定義されてしまう。 もっと恐ろしいのは、僕自身もまた、自分の言葉を信じられなくなっていることだ。 今、僕が感じているこの「居心地の悪さ」は、彼女への好意から来る焦燥なのか? それとも、自分の手の内を透かされたことへの防衛本能なのか? 感情にまでタグ付けをし、因果関係を整理しようとするこの思考回路そのものが、すでに「素の自分」という領域を食い潰している。 僕の身体の境界線が、ドロドロと溶け出していく。 どこまでが僕で、どこからが「メンタリスト」という役割なのか。皮膚の下に詰まっているのは、血や肉ではなく、無数の、名前のない「嘘」の集合体だ。それは一つの生命体のように蠢き、お互いの尾を飲み込み合いながら、僕というキメラを形作っている。 信じようとしていたはずの、彼女とのこれまでの時間。 それすらも、後出しのジャンケンのように「嘘」という色に塗り替えられていく。 「嘘を仕事にする」という選択は、自分の喉元に、一生剥がれないお札を貼り付ける行為だったのだ。 『お前はもう、何者でもない』 呪いは、僕を内側から食い破ろうとしていた。 「……あ、ごめんなさい。仕事の話なんて、疲れちゃいますよね」 香織が、申し訳なさそうに視線を落とした。 その仕草に含まれる微かな罪悪感。それさえも、僕の脳内では『相手に優位性を与えるための心理的後退』というデータとして処理されてしまう。 救いようがない、と思った。 「いいよ、全然。むしろ、そう言ってもらえる方が楽かな。僕だって、二十四時間、誰かの本音を探ってるわけじゃないし」 嘘だ。 僕は今、この瞬間も、彼女がストローを噛む強さから、僕への興味の持続時間を算出しようとしている。 結局、僕は「本当の自分」なんていう、キラキラした若者が好みそうな幻想を、とっくの昔に切り捨てていたのだ。お札で封じ込めたのは素顔ではなく、素顔があるはずだという、身勝手な希望だったのかもしれない。 僕は、テーブルの上に置かれたスマートフォンに目をやった。画面に反射する自分の顔は、相変わらず、薄気味悪いほど完璧な「理解者」の表情をしていた。
本来は雨降って地固まると學んだ当時地面が 彼方此に点在してた頃正しく地面に雨降ると 風に舞い上がる土押さえ固めたのは雨の役目 だった現在世界はコンクリ塗装絨毯が敷かれ 開発され便利に為り風に舞い上がる土の様は 見ないだろう既に地面は絨毯の下に存在潜め 現在田畑公園校庭位しか見ないかも知れない 偶にスマホ、テレビ等有事の土砂災害地震時 自然共にその存在感露に破壊して日頃押さえ 固まるストレス解消するかの如く大暴れして 半壊指せたら何事無き様去らざる得ない地面 宿命もしも同じ立場ならば気短切れ易い我は 頻繁に割れ目から手を出し誘う様に歩行者の 足を取り雨雪関係無く転ばせるか或いは毎回 コンクリ絨毯蹴り上げトラブルメーカー為る 者に化し毎日地球揺らす存在に為るだろうか 如何に地面が忍耐強く尊い存在か理解出来る 者は共感性同意為る性を備えた我々だけかも 知れない他義を知り我義知る
僕の仕事は墓守、そして遺書の代筆人だ といってもただの代筆ではない 既に帰らぬ魂となった彼らの血から、その一欠片をペンに乗せて、彼らの未練を代筆するのだ そうして未練を浄化することで彼らの魂を安寧のものにする まるで聖職者のようじゃないか? そんなことはない 僕はただの大噓吐きなのだから 彼らの遺書を代筆する時、僕の手は僕から離れる 彼らの手によって遺書は書かれていく そんな彼らの言葉は大体が似通っている 「死にたくない」 それは濃密な生への執着だった そこには生きている者たちへの怨嗟の念が入っていることがほとんどだ もちろんそんなものを丸々遺族に見せるわけにはいかない だから僕は砂浜の中の一粒の宝石のような確率で混ざっている、綺麗なところだけを抜き出し、時には内容を少し変えて、遺族に渡している 遺族はそれで満足してくれるし、死者も未練を吐き出し終えて安らかに眠れる そして僕には魂亡き彼らの呪いのような言葉たちが海底の泥のように溜まっていく 辞めたいけど、これは僕だけしか出来ない事 だから仕方なく僕はこの仕事を続けている そんなある日のことだった 一人の女性が訪ねてきた 「遺書を書いてくれませんか?私の」 彼女はそう言った 生きている人間の遺書の代筆は、残念ながら請け負っていない けれど僕は彼女の依頼を引き受けることにした 彼女がもうすでに、この世の者では無かったからだ 肌は透明なほど白く、生気が欠片も無く、何より彼女には影が無かった 彼女は生者でも、死者でもなく、世界のスキマに存在しているようだ そんな彼女の遺書がどんなものになるのか、単純に興味が湧いたからだった 僕は彼女の指先に針をあてて、一滴の雫を貰い受けた インクに混ぜ、ペンを握るといつも通りに手は僕から離れた そこには静かに、淡々と、彼女の生きた証が記されていった 僕は驚きを隠すことが出来なかった 「死にたくない」 この一言が一切出てこない こんな遺書は初めて見る 遺書ではなく、彼女の物語そのものだ 彼女は遠い昔、天災に見舞われたこの土地で生贄にされた人物だった この土地はかつては閉鎖的で、誰も受け入れることがなかった そんな中彼女は赤ん坊のころにこの土地に捨てられ、見かねた一人の男が彼女を隠して育てたそうだ それから幾年か過ぎ、彼女がちょうど今の見た目の年齢になった頃 大災害が起きた 土地の者は大災害を収めるために生贄が必要だと声高に叫んでいた 男は彼女を連れて逃げようとしたが、途中で見つかってしまう 土地の者達は二人を糾弾した そして土地の長はこう命じたのだ 「男を助けたければ、生贄となれ」 そうして彼女は誰かを恨むことも、妬むこともせず、静かに運命として受け止め、その身を捧げたのだ なんという話だろうか 僕は気が付けば涙を流していた 遺書に、彼女の物語に雫が落ちては広がっていく 遺書には彼女から男への深い感謝と、暖かい献身が綴られていく こんな、清廉な人物、僕は見たことが無い 僕は憧れにも似た想いで彼女を見つめる 彼女は言う 「私はただ、誰かに覚えていてほしかったのかもしれない」 誰かをひたすらに想い、その身を捧げ、それでも気高い精神で、生き抜いた魂 その輝きは、そんな呟きだけが灰色にくすんでいた 最後のピリオドを打った時、くすんだ灰色は静かに消えていった 同時に彼女の姿がだんだんと薄くなっていく 「ありがとう。やっと、彼のところに…」 彼女の最後の言葉 僕は生まれて初めて、僕の代筆人としての力に感謝した 僕は生まれて初めて、本当の意味で魂の安寧に導くことが出来たのだ 気が付けば、いつもの部屋、ろうそくの明かりだけが揺れている、いつもの僕の部屋だった 僕は涙と共に、少しだけ笑顔を浮かべていたかもしれない 初めて、呪いの無い、美しい遺書を書くことが出来たのだから
雨に降られ、服の下から肌が滲み、くしゃみする。 ──それでも私は元気です。 太陽は雲を破り、私を目の当たりにする。アスファルトに残る水溜まりに日が反射して網膜を刺した。 夏のこと、夕日は空を引きずって山影に入る。私は今日、何度も空を見た……そう、何度も。雲の影を見ようとした。空の青さを感じたかった。だが、私のキャンパスは白を湛え、脳内の虚無がぶち撒けられていた。止めどない何かが私を襲った。誰何することもできず、ただ日は巡る。 ──それでも私は描き続けた。 制服の堅苦しさが嫌いだった。サナギの殻のようだと思っていた。ここから溢れ出た私が未来を舞う、そんな夢に苛まれた。 中学のこと、私は舞い上がった。枯葉が風に舞い上げられたように。最優秀賞……その響きが体を駆け巡る。正直、期待道理だった。今まで作ってきたものの中で一番の出来だったのだから。 だから私は思いあがった。傲りが生まれた。 ──それで、私は燃え尽きた。 枯れた草がうるさくか擦れ合う。畝って、たなびいて、それは海のよう。 高校のこと、私は芸術を忘れた。深い、記憶の底に投げうった。人生と芸術を天秤にかけ、人生をとった。 くだらない。いつも見ていた青も赤も黄も。色味を失った。 ──それでも私が投げうった。そう……私が捨て去ったのだ。 夜のこと、音が死んでいた。鼓動が聞こえるほどの静寂が立ち込める。 星を眺めていた。月は欠け、星が散りばめられた宝石のようだった。あの月はどのような夢を散らして砕けたのだろう。これは自問だった。 ──それでも私は目を背けた。考えないように、考えないように…… この頃夢を見る。芸術に人生を捧げた私の夢だ。金も、知識も、常識だってあるかわからない。親に勘当されていないだろうか。 愚問だった。幸せそうだった。今の私では描けない絵、持ったことがない道具、そのすべてが羨ましかった。 ──やはり、私は…… 飛び起きる。その先を口にしてはいけない。私は天才ではなかったのだ。だから芸術をやめた。なのに……いまさら。 ──それでも私は……私は…… 本当に偶然だった。芸術をみた。雄大な尾根に、赤く滲む空、鏡写しの湖。清涼な風が走り抜ける。嫌悪感……は感じなかった。むしろ、甚く痛快だった。 ──それでも……いや、やはり…… 感じてしまった。感じ入ってしまった。もう心に絡まって解けそうにない。 気づけば外に駆けていた。雨の中、今までの時を追うようにただ走る。 雨に降られ、服の下から肌が滲み、くしゃみする。 ──それでも私は元気です。 涙が雨かもう分からなかった。雨音に紛れ嗚咽を漏らす。それすらも側溝に流れる雨水の音か、嗚咽かわからない。ただ立ち尽くして、鳴いている。 ──それでも私は芸術が好きだ。 なぜ捨ててしまったのだろう。才も時間も投げ捨てて、得たものはあっただろうか? 雨足が弱まり、雨音が小さくなる。我に帰る。こんな惨めな姿を誰に見せることができようか? 帰ろう。私は家路を辿る。歩を進めるうちに雨は止んだ。 雲が薄れ、割れる。空はすでに太陽を無くして黄身のような色をしている。 木についた水滴は、はじけるように光を反射している。雨が降った後の路面や屋根は赤みがかって……綺麗な夕焼けだった。燃えるような世界が広がっていた。 「描きたい……」 思わず口に出していた。筆もパレットも、絵の具だって捨ててしまった。まだ、私は描けるだろうか? いや……描きたい。描きたいんだ。 ──やはり、私は芸術が好きだ。大好きなんだ。 帰路を外れ、文房具屋へと行く私の影を薄暮は飲み込んだ。
平日の朝。 大雨が降っている中近所のスーパーに買い物に行く。 春の嵐の中テクテク歩く。 少し寒い。 髪切らなきゃな、などと思い歩を進める。 スーパーではトマトが安く売っていたので買う。 買い物棚を見ながらやること無いから買い物や~と独り言を言う。 朝のスーパーマーケットファンタジーは特にドラマチックなことが起こらない。 レジの店員も空いてるので暇そうだ。 特に会話もなく会計が終わる。 この前会計機でお釣りが多く出てきたので店員さんに言ってお金を渡したのを思い出した。 機械でもたまに誤作動することがあるんだな。 買ったコーラを帰り道で飲みながらテクテク歩く。 少し肌寒い。 スーパーと家の往復。 主婦は大変なんだと思う。 これに子供の送り迎え炊事掃除洗濯近所の人との交流など。 ストレスも溜まるだろう。 僕は自分のことだけしててもストレスが溜まる。 嗚呼。 忙しい人達のための雨の協奏曲。 夕方から雨は上がる。 雨上がりに人々は何を思うのだろう。
How do I reset why I had a man every day it creates that and I’m glad we had a crew watching that ad Saturday at the Color about about created then it breaks it where our body and to reach that kind of bit down. I am today at wake up we had to be down to battery and data to be out heartbreak that we had a murder day and the doubt of every day add back to big head. they got my head, Koru. I’m very busy day headed back to where I had a dad who had a day look through that when I’ve been back to the cab, but he had to cry the bloody cab every doubt though I’m back down I’m about hello could a date you could’ve turned on a virtually deal with Delray and met heart rate tablet covered by daddy had to cut it down and secure data. Could I have a body that we did good about dad go out that day you down to go down have Baba recover the daughter had to go to work and I had that karate cover that I had to grab a blood karate. Make sure that I get out without a day to truly down here with a day and make sure that Kenna tell that daddy and I could’ve done that how do I Kuwata data down that I am gonna be down back have a M day credit day and make it with that advocate have a day without that I’m a bad buddy go ahead I could I could write a picture that I am at and a very edge could’ve had a beer and had a day the other day and make it with that at Bach that I could and we could provide a decorate that and now the day have karate make sure that I have that a quarter that Kevin dead out of that back to be that kind of a death today that I had a day Ababa truth that I doubt a day and we could’ve done a ditch. I’m back in there without a that I’m walking out the dead dead dead today and making it down that walking walking to that way that I’m begging him now I’m benefit that I’d like to direct to that another day a day add back to work another day to that day and that add back to that another day there with that karate there I doubt that I’m back An Essayist and Yuji Tanaka
双極性障害の鬱期から寛解へ向けての道の上だと思う 力が入らず 思考が回らず 決められない 判断出来ない等ある 恐怖と不安が側から離れない ラジオの針が合っていない感じがする セーフティモードの様に必要最低限しか操作できない感じがする 幼児のまま隠れていた僕が優位な そんな感じ 呼吸がうまくできない 頭がにじむ 振り返ると一日が一ヶ月にも感じる 自分を責めてしまう 元気になりかけると怖い 元気になるのが怖い そして最大の力と勇気と知恵を振り絞って立ち上がり歩き出す それを年に何度か繰り返す 本気で死のうと思ったことなど何十回もある そんな日々をもう何十年と過ごしている 僕の死神はとても優秀だと関心をする 死ぬまで終わらないこの苦しみを何というのか名は知らない もっと見た目で分かりやすいモノなら自分も納得できるのに 体が光るとか、半透明になるとか 家族の為生きようとは思っている ずっと溺れているような苦しみの中でも 息子が悲しまないために 妻が苦しまないために この間の土曜日、普段出かけたがらない息子が自分の財布を持って僕の寝ている側にいた。本当はパパと出かけたかったろうに。色々話したが出かけたいとこがあるとはひと言も言わなかった。早くどうにか元に戻りたい 普通に生活出来る事は僕にとって奇跡
Ed back true and Patto and proudly and require it to be in the car by hand without had a bed out down that had to go for a date could you run about now? I’m petty that’s my day at work on down at Canterbury code while Kuba set broke back to a day at a quarter to I’m at our husband work to write down a day about Canal day and a rock every day out of a day that had a day about him with that I could on a day where could everybody immigrated down a day out of death? I’m truly about to be down. I care about the blood at a factory and a black. Could I have down a day and make it with that how about another day another day the other day out of a day every day at lottery have a body cover that welcome out a day to break down a big a day and make it with that bad about a dating to the date of that day how do I consider the date but data dead to welcome to every day that I doubt that way down daddy have a day could down the day shoot by that ad make sure that going out today that every day that’s a day that a day that we could work another day represented that I am good with that today and make it with that vehicle to ride. Could I run a day to death day whether that’s out of doubt back to be dead I that could’ve done without a day to the other day and that day to truly have a debt. How about make sure that that day that day and make sure that today and make it with that. How do I do what I have they could have another a day to choose the other data a day today to choose that today I could provide Berkshire the data of a data I could have ever die ever could’ve done a debt today to out of down and Down a day that day they could add another day a dead could about a dead could about a daycare market out of that I could work another day and brew I’m better be out of that umbrella out of that. I’m out a day. I’m back with that Ambre and that and brew about a day brew. An Essayist and Yuji Tanaka
セイレーンの歌声に囚われて 船底にしがみつく狂骨たち さざなみを返り討ちにする 船の警笛を遮る美声 独唱の人間讃歌 水平線が、かすめるほどの海の中 水面が反射して眼に照りつける 水面が唸って耳に音色が届く セイレーンの歌声に救いを求めて 回遊する狂骨たち 生の潤いを返り討ちにして (完)
「お前だけは」 そう言う連中に、碌な人物を見かけたことはない。 何故なら、その一言を使う人物は、その人に固執“させたがる”からだ。 私は人の言葉を信じすぎるもので、よくその言葉に、密かに独占欲めいたそれを抱きつつ絆を感じていた。 ――今はもう、信じられない。 ――そう言っていた人物は、全員離れていったのだから。 ――彼らにとっての“お前だけは”は、今日もまた犠牲者を増やしていくのだろう。
透明な氷が、カラリと音を立てた。時計回りにストローを滑らせながら、彼女は言う。 「グラスには、空白がないと意味が無いのよ」 「それってどういう意味?」僕は聞き返す。 彼女は伏せた目を少し上げながら、答えた。 「もし空白が無かったら、何も注げないでしょう」 カランと氷がぶつかり合った。 「それに、私達は注がれた飲み物を楽しんでるの」そう言って彼女はストローを咥えて、ゴクリとミルクティーを飲み込んだ。 「でも、楽しんでる内に少しずつ減って…それをまた頑張って注ぎ直す」 僕はただ、静かに彼女の話に耳を傾けている。 「そして満杯になったグラスを見て皆は言うのよ。“充足してる”って」 僕が大きく頷くと、彼女は「ふぅ…」と一息ついて、また話し出す。 「充足なんて言うのはね、楽しむから満たされないし、満たされないから楽しめるの」 彼女は徐に僕のグラスを手に取ると、中身を自身のグラスへと移す。僕は「そのまま飲んで良いのに」と言ったけれど、彼女は「これに意味があるのよ」と蠱惑的な笑みを浮かべた。グラスの中身とは裏腹に、僕はまた満たされているのをどこかで感じながら、返されたグラスを受け取る。すると、外側に張り付く水滴の冷たさと、共に伝わる彼女の温かさに板挟みにされてしまった。 僕の顔に彼女は微笑みかけて、言う。 「今日は充足した日だった。また満たしてね」 僕達はまた、並々と注ぎ合って味わい合う。互いにグラスを交わし合う。満たされない充足が、どうしようもなく愛おしかった。
「子どもたちの数? 数えたことないわ〜……。でも、たっくさんいるわ」 暗いカフェの角。僕は目の前のマダムと食事をしていた。マダムは真っ赤な口紅を施した艶やかな唇を弧の字に歪ませて、天を仰いだ。 僕は不満げに問う。 「子どもに興味ないのかい?」 マダムは心外だとでもいうように目を丸くし、口を窄める。僕よりも格段に年上なのに時々こうやって子供のような仕草をする。 「あるわよー。でもね? どこでも喧嘩ばっかりで手を焼いちゃう。一緒に育ててみる? なーんて」 「子どもが多いとそうなりますよね」 わかったフリをしてみるが、あいにく僕に子どもはいない。 ふと、目の前のマダムは目を伏せて、近くの地球に目をやる。 「本当に……。愛していても、人間は何かを渇望して喧嘩をやめないの。止めようとはしないわ。学ばないから」 マダムの表情には愛と同時に残虐さが混在していた。妖艶で危険を帯びている。 マダムが地球の上で指を回すと、くるくると可愛らしく地球が応える。 星が散りばめられた黒いカフェでは、いろいろな神が訪れる。 彼女は地球の女神。人間には何と呼ばれているのだろう。それとも存在すら忘れられているのだろうか。 「あなたは子どもは要らないのかしら? 人間たちは月にはウサギがいるとかカニがいるとか美しい少女がいるとか噂されているのよ」 思わず吹き出してしまう。 「ありえないね。僕は君と長老がいれば他は何も要らないさ」 「変わらないわね」 何度となく繰り返されている会話だ。 僕は何とは無しに指を回す。目線の先に浮かんでいる月にはクレーターが増えていく。 ウェイターが持ち込んできた星のパスタと星の液体を味わう。相変わらず甘酸っぱくて美味しい。 「それじゃあ、今日もよろしく」 「ああ、今日は三日月だよ」
電気屋というだけあって、広く細かなものが多くあるのがよく分かった。私は詳しくないが、後ろに着く彼はきっといろいろ詳しいのだろう赤い自販機に目を通す、財布を取り出す私に「付き合わせているので、俺に飲み物くらいおごらせてください」 まだ何を買うか見定めていないのにもかかわらず五百円玉を自販機に入れ込み、さぁ!という目線で私の選択を待つ。結果私はグレープとマスカットのフルーツティーを選んだサントリーの紅茶シリーズは好きだった。もっとも十年前くらいにはやった、透明なミルクティーは私は好きではなかった。なんだか何を飲んでるのかわかんなくなる感覚が気持ち悪かった。味はそのままなのにと驚かされたのを覚えている。ありがとうございます、とペットボトルをひねる私を今度は彼が横目に、私を誘導した。 足元を見れば、この店のどこにどんなものがあるか、のフロア表が貼ってあったりした。 彼はモバイルバッテリーのようなものを手に取り、凝視している、これではないということを何度か繰り返していた、正直興味もなかったので私はフルーツティーを嚥下して、ケータイをいじったりして暇を持て余した。とはいえ、十分もせず会計に向かった レジにいた店員はきっちりと身なりを整えた男性だった、目が合えばにこっと笑ってくれた、その顔が俳優の高杉真宙さんにそっくりだった。いつか見た映画で好きだった役を彼がやっていたので顔が頭に浮かんで出てきた、最も私は好きな俳優も女優もいない。嘘も意地もなくテレビの人間より、私の友人らのほうが顔も性格も整っていると思うのでそういう手の届きそうで届かない娯楽に好きなものを作るのはよしている、テレビやネットの世界は常に娯楽であるから面白い、それは皮肉的にもアイドルなどの炎上でそれを袋叩きにして国民が承認欲求を満たしてるときであってもだ。 この後は普通に帰れると期待していた私の瞳を眩ますように、彼は長話を始めた。 「こんなことを言っても倉渡さんなら大丈夫でしょうか、俺実は結構過去はやんちゃしていて、十七の時から渋谷で飲んでは女の子とっかえひっかえしてたような男なんです。」 「それは、まぁ、なんというか、若かったんですね、私の周りにはそんな男の子はいませんからそういうノリがあった、くらいに受け止めておきますが、それがどうしたんです?」 「えぇ、だから俺は経験人数が九十人前後です、さすがの倉渡さんも動揺が隠せませんか、俺確かにそうは見えないでしょうしね、けど、彼女は片手に収まるくらいですし、彼女がいたときは遊びも飲みも断るくらい誠実ではあったんです」 「そうなんですね」 「で、ルナちゃんのお母さんと結婚してから、女遊びもなかったし、女の子にときめくだなんてことなかったんです、ここ十年くらいかな、そこら辺に歩いてる姉ちゃん見ても胸がでかいとか、金髪だなとかその程度だったんです」 私の手を取り彼がさすりだす、私は声が出なかった。けど怖くはなかった。人目があったから、ここで私が声を出せば大丈夫だと過信していた。けど、気持ち悪かった 「はぁ、女性的な人に惹かれるのは男性ならばいくつになってもあり得ることなんでしょうね、私はそういった経験もなければ過去の恋が純情だった、とも言い切れないので何とも言えませんが」 「純情じゃない?」 「あぁ、いや大したことじゃないです、dvだったり浮気性だったり、なので私は恋人以前に異性にあまり信用を置かないようにしているんです、最もきっと私の最初の恋は女性でしたので今の言葉に信憑性などありませんが、」 「レズビアンというわけではなさそうですが、」 「えぇ、私は多分異性だろうと、同性だろうと、好きな人が好きです、でも女性を好きになったのはそれっきりですし、付き合うことはなかったです。ただ、相手はとてもきれいな目をした小学校の頃の女友達です。もし君が先に死んだら君の目をください、だなんて気持ちの悪いことを言っていたのを今でも覚えていますその時私は小学二年生だったそうですよ。母親に止められて自覚した、という感じです、昔から瞳に惹かれるのでしょうね、私は」 自語りが過ぎたと思ったころ、関心を彼は私に示して、自分を肯定してもらったような表情を浮かべていた。正直何を言い出すかと思えば、ルナの義父の昔話、もしやルナにも同じことを言っていないだろうな。と歯を食いしばる、もしそうだとしたら私は許さない、こういう状況に苛まれている私たちは、私の手元にある蝶そのもので、ゆっくりと相手の言葉に展翅され動けなくなっていくのが分かるからだ。それに加えて、何かを守ったりする正義感なども相手の手中に収まる。私の場合はルナも同じ目に合っていないかという危惧、そして私で満足するうちは、という自暴自棄だ。 「そうです、それです。それで俺は貴女に恋をしているんですよ、倉渡さん」
電車の揺れに身を委ねて目を閉じる、そのまま何駅か通り過ぎる、人はそこまで出入りした様子はなかった、それでも三駅目あたりの開閉で入ってきた人影が私の前で止まる、そこまで混んでいなかったし目を瞑っているとしても両隣の席が空いてるなどは気配で感じられる、悪意がある感じではないが、そわそわとしているような感じがした。 知り合いかとよぎったが、私の友人がこんな遠方に来るタイプだとも思わない このまま眠ったふりを貫いていたらきっと面倒事に巻き込まれなかっただろうが、私はなるべく自然に目を瞬かせながらゆっくり開いた。 「あ。やっぱり、倉渡さん、お久しぶりです」 元気のあるしゃがれ声が私を後悔させる。 目が合えば目尻にしわを作って笑う、丸っこい浅黄色と茶のメガネの淵から瞳孔の黒さを知る。 「お疲れ様です、そしてお久しぶりですルナのお義父さん」眠っていたのにじっと見てしまった悪かった、と彼は申し訳なさそうな顔をしていた、お気になさらず、と膝の上に抱えていた彼女が入っている紙袋に力をこめる。隣に座ってこなかっただけマシだと考えることにした。ただ、彼は車を持っているはずだったので電車にいるのはどうにも不自然だと思った。仕事もしていなく趣味は犬の世話とガジェット機器だった つり革をつかんでこちらをにこにことみている彼に問う 「そういえば、今日は何をしに?他意はないのですが、いつもは車で移動していると伺っていたので」 「あぁ、今日はねルナちゃんのお母さんが車を使いたいって言ってたのと外に出ているのは気分転換、俺たまにこうやってふらふらするだけの時間作るんですよ。」 「なるほど、お母さんはお仕事で?あの方いつも忙しそうで時々心配になりますが」 「そうそう、送り迎えの社用車が足りないとかなんとかで、私運転できるからってそれ乗って行っちゃった」 ルナの母は福祉職に就いていて、頼られることも多く精神的に辛い中であろうと、肉体的に傷つこうと休むほうが落ち着かない、とでも言いたげに頑張る、とても女性らしい人だ。それに対して心配の目を向ける私に彼は続ける 「最近はルナちゃんのお姉さんの結婚式が近いこともあって仕事は前より量が減りました、まぁ、家の中でウェルカムボード作ったりで忙しいことに変わりはありませんが」 「そうですか、ならよかったです、私次で降りますね」 「倉渡さんこの後のご予定は?」 「とくには、」 「それならご飯でも一緒に」 アナウンスが鳴り、立ち上がる私についてくる、 「先ほど食べてしまったんですよね、」 ドアが開き、ホームに足をかけ、手を振ろうと後ろを振り向くと、彼は私の横にいた。 ルナと私の家は反対方向なのでまず、彼が家に帰るにはあの電車に乗り続けていないとならなかった 「それなら、俺の暇つぶしに少し付き合ってください」 藤沢駅のホーム、雑踏の中私は少しだけため息をついて、ぱっと顔を上げて首を傾げどこに行きたいのか、を聞いた。電気屋にというのでそのままホームへ向かう。江ノ電乗り場などが目に付く。海や水族館なんかもいいなと思った、三月の上旬のこと。ぼうっと、一人で歩いてしまって、ルナの義父をつい追い越していた 「倉渡さんは足が速いんですね、いつもはルナちゃんに合わせてくれてるのがよくわかります、荷物を持ってあげたり、ルナちゃん恋人はいますが、どちらかといえば倉渡さんがルナちゃんの彼氏みたいですね。」 「御冗談を、確かに女友達は彼女だけと言っていいほどで信用も信頼もしていますが、それは決して恋慕ではないです」 「恋慕だなんて、倉渡さんは文学的ですね、月が綺麗ですねとか言ってきそうだ」 「さぁ、どうでしょうか」 はぐらかすように私は笑う、大きな建物が並んでいる、その駅の広間みたいなところで藍染のようなものを売っていたり、弾き語りをしていたりする、ギターの荒々しい中に、歌詞の切なさと弾き語りをしている男の夢なんかがちらついて見えたりする、紙袋の中の彼女は意思があったらこの状況をどう思うだろうか、ルナの義父と目線を合わせないまま目的地に向かう、すると 「倉渡さん!」と私の名前を強く呼ぶ、私はふと、彼のほうを振り向く。なにか粗相をしたか、と不安で上目遣いをしてみる。 彼はニタリ、と笑う 「やっとこっち向いてくれた、なんだか先ほどから顔色も悪そうですし休憩しますか?」あぁ、やられた。これは優しさではない。 私はそう思いながら「そうですね、電気屋の中に自販機が見えます、そこで水でも買います」 足早に電気屋へと入っていった。
五時間目の教室は、目に見えない睡眠薬が充満している。 さっきまで学食のA定食だった物体が、生徒たちの胃袋の中で無慈悲な消化液にまみれ、アイデンティティを剥奪されていく。 その「内臓の労働」が放つ熱気のせいで、教室の空気は誰かが吐き出したあとのぬるいスープみたいに濁りきっていた。 教壇から降ってくる教師の説教くさい声は、もはや意味を運ぶための記号ではない。それはただ、鼓膜をなでるだけの単調なBGMとして、僕たちを「まどろみ」という名の底なし沼へ引きずり込んでいく。 けれど、僕だけは違った。 「恋」なんていう、この教室の退屈なカースト構造とは無縁な場所にあるはずの劇薬が、僕の脳を不自然なまでにシャッキリと覚醒させていた。 隣の席に座る彼女に触れたいという、あまりに生々しい肉体的な欲求。 そして、その「聖域」に踏み込んで今の関係を台無しにすることへの、ヘドロのような自意識。 その二つが、僕の胸の中でずっと、終わりのないベイブレードバトルを繰り広げている。 彼女を網膜に焼き付けたいという渇望は、現実世界に映し出されるときには「数秒に一度、伏せ目がちに視線を盗む」という、ひどく卑屈でカッコ悪い挙動へと変換されている。 この、銀河系規模の激情と、カメムシみたいに矮小な行動のギャップ。 たぶん、窓の外を飛んでいる鳥から見れば、僕は透明な壁に閉じ込められたまま踊り狂っている、ただの痛いパントマイム役者に見えるんだろう。 黒板には、漱石の『普遍的趣味』という文字が、いかにも論理的なツラをして並んでいる。 僕は、自分の中のこの醜悪なまでに個人的な自意識を、なんとかして全人類に共通する「普遍」にまで無理やり格上げしたくて、祈るような気持ちでノートにペンを走らせた。 普段なら、いわゆる「味がある」と形容されるはずの僕の走り書きが、今日はただの崩れたジェンガのように見えた。 今日、このノートという名の祭壇に捧げられるべき「味」という一字は、パルテノン神殿の柱みたいな、完璧な黄金比を持ってなきゃいけないんだ。 一画書くたびに、その右上がりの傾斜に「妥協」という名の自分自身の汚点を見つけて、僕は消しゴムを召喚する。 紙の繊維を傷つけないように、でも、さっきまでのダメな自分を完全に殺害するために。 机の上に、死者の灰みたいな消し屑が散らばっていく。 僕は、そこにいないはずの大観衆に向かって、最高傑作の「味」をプレゼンしようとする、絶望的な一人芝居を繰り返していた。 ……笑えてくる。 僕のこの、魂を削るような消しゴムの往復運動に、気づく奴なんて一人もいない。 周りの連中は、自分の内臓が行っている消化という名の小宇宙に閉じこもっているか、さもなければ、ただの録画機能しかないレコーダーみたいに黒板を写しているだけだ。 そして、僕の「全宇宙」である彼女さえ、チョークが立てる乾いた音に集中していて、隣で必死に踊っている道化師の存在なんて、一ミリも知りはしてないだろう。 僕の情熱は、誰もいない劇場で、最高に贅沢な衣装を着て演じられる、世界一孤独で、世界一コスパの悪い喜劇だった。 いつの間にか、僕と彼女の間には、見えない壁がそびえ立っていた。 いや、違う。彼女が壁の向こうにいるんじゃない。 僕自身が、巨大なジャムの瓶の中に、逆さまに放り込まれているんだ。 ガラス越しに、決して届かない太陽としての彼女を眺めている、哀れな小人の捕虜。 それが僕だ。 密閉されたプラスチックの蓋の下で、僕の酸素は、恋の熱によってどんどん二酸化炭素に変わっていく。 息が、苦しい。 胸の奥が、冬の凍った池の表面みたいに、ミシミシと音を立てて割れそうになっている。 誰か、助けてくれ。 僕を救えるのは、神様なんかじゃない。 誰かがこの小瓶の蓋を奪い取って、せめて、あの家庭的な、薄っぺらくて頼りない「サランラップ」に張り替えてくれること。 そして、その透明な膜に、一本の爪楊枝で、残酷なくらいに優しい穴を開けてくれること。 それだけなんだ。 その穴から、彼女が髪を耳にかけるたびに生まれる、あの微かな春の風が入り込んでくる。 それだけが、この孤独なパントマイムを続ける道化師に許された、たった一つの生存許可証になるはずだった。 終演を告げるチャイムが、冷酷な金属音を響かせた。 誰にも見られなかった舞台の上で、僕は、完璧に書き直された「味」という文字の横で、酸素を求めてただ静かに、醜く喘いでいた。