「あ、臭」 「くっさ!」 電車に乗ってきた一人の人間を、他の乗客たちが一斉に指をさす。 その人間は心当たりがあるのだろう、電車に乗せていた右足を後ろに戻して、体の向きを反対方向に捻って、立ち去っていった。 ある日より、人間は『死の匂い』を感じ取れるようになってしまった。 動物の死骸から悪臭がするように、余命が少ない人間からも独特な匂いがするようになってしまった。 最期まで人間らしく生きるという人間の権利と、悪臭というスメハラから逃れたい人間の権利。 二つの権利がぶつかって、結局世界としては結論が出せず、現在に至る。 駅構内を、一人の人間が速足で歩く。 死の匂いは、絶えず移動し続けていれば分散されて、大した匂いにはならない。 少し眉を顰める程度だ。 「匂い消し。匂い消し」 トイレの個室に駆け込んで、鞄の中からスプレーを取り出し、全身にかける。 死の匂いが緩和され、小便器の前に立って個室に険しい目を向けていた人々が、一斉に視線を小便器へと戻した。 二度目。 その人間は、電車の中に入ることを許された。 誰からも非難の視線を向けられることもなく、加害者という立場からの脱出に成功した。 電車が進んでいく。 皆が行儀よく席に座り、まるでここには善人しかいませんと言う顔をして。 死の匂いが、死の予兆を知るための重要な機能だということにも目を瞑り。 「あ、臭」 「くっさ!」 乗客全員から死の匂いが溢れ出る。 電車内は阿鼻叫喚。 強い衝撃と共に、ガタンと大きな音を上げて、電車は線路を飛び出して空へと投げ出された。
傘をなくしました。多分私は愚かなのです。何人も見てきたおんなじ手口で、傘をなくしました。 自分で選んだ、自分好みの傘でした。 憂鬱な雨の日にも少しだけ前を向けるような、大事な傘でした。 傘の青さは空に溶けるようで、雨に馴染むようで、それでいて風に負けぬ強固な骨をもっていて。 素敵な傘でした。 眠気に負けて、手放したのです。 電車の中。偶然座れた席。それも手すりのそばにある席。 電車にたどり着くまでに少しだけ濡れてしまった傘。かさ。ああ、かさ。 眠気と共に抱きしめれば、服ごと濡れてしまいそうでした。 かさ。 ああ。かさ。 そして私は。 かさ。 私の慢心を選んだのです。 何本もの、置き忘れられた姿を目にしました。わかっていました。大事なものは手放してはならないのだと。 握りしめて、大事だと叫んでいなければならないのだと。 でも、私は目先の眠気に負けました。それから、濡れるのが嫌だなという気持ちに負けました。少しばかりの目先の感情に流されて、私は大事なものを失いました。 悲しいことです。大事だったはずなのに。 お気に入りだったはずなのに。 こうしてかいているうちに、傷が癒えていくようで、もの悲しくて仕方ありません。 大事とはこの程度のことだったのかと。 大切とはこの程度のものだったのかと。 きっと、傘と共に心もなくしてしまったに違いないのです。 そうでなければどうして、私は次の傘とお財布の膨らみについてなんて、考えているのでしょう。
【晴れときどきくもり、つごうにより回想 その一】 お狐さまの話を会社なんかですると必ず聞かれることがある。 「お狐さまというのは人なのかい? それとも…」 僕は返答に困ってしまい、黙りこくるしかなくなる。そうすると相手はいたたまれなくなって決まって、聞かなければよかったなあ、と、そんな顔を僕に見せてくる。そんな表情をさせてしまい僕は申し訳ない気持ちになる。それも決まってることだ。それでお狐さまのことを知らない人に、お狐さまのことを話すのはやめにしてしまった。そう決めてしまうと楽ではあった。けれどそこで、はたと気づく。誰にも話せないんだなあ、と。 ・ そのあたりのとき、おキツネさまは残業続きだった。 「お疲れさま。ごはんできてるよ」 今日はおキツネさまの番だったのだけど僕がつくった。 ―すまぬな そういったことをおキツネさまは表情だけで僕に伝えると、ささっと瞬時に帰宅後のやることを終え、楽な恰好になってごはんの前に着席した。 ―サバのみそ煮であるか。うむ、生き返るようじゃあああ 「大袈裟だなあ」 ―いやいや、本心である ひとつの部屋で一緒に暮らすようになったら、互いの嫌なとこをそれこそ見たくなくても見ることになるのだろう、そういった覚悟を決めていたし、そこから流れ着いてケンカに発展して、なんてことも考えてはいた。事前のその予想に反し、いまだに僕たちはケンカらしいケンカというものをしていない。そのあたりのことを会社の先輩に聞いてみた。もちろん、おキツネさまのことは言わないで。やはり、いくら仲がよくってもケンカの一度や二度は当たり前にしているようなのだ。かといって僕は、おキツネさまとの関係を異常だとは思っていない。別に会社の先輩に「お前たちは異常だ」と言われたのでもないけど。好き嫌いやセンスの違いは多々あれ、相手の好みや思考をそれなりに尊重してるから、なのかも、と、これは僕なりの考察だ。
コップの水を一口飲む、夜明けのキッチンで 君の腕を触るとひんやりと冷たい 毛布をかけ、ボタンも開けず背中から抱きしめる 私の体温が君に移っていく、口に触れた指を眠る君が口に寄せる 外で鳥が鳴いている、カーテンの隙間から明かりが漏れ入る 昨日開いたボタンを一つ一つ閉めていく 君から離れ、またキッチンに行く
「どうぞ、お入り下さい」 扉から顔だけ出した男が声を掛けた。 その声に、二十代後半の女が、緊張した面持ちで部屋に入った。 「失礼します」 「そちらにおかけ下さい」 長机を前に、二人の男が履歴書に目を通していた。 「前職は物流関係とありますが、どのようなことを」 「はい。通販サイトで、購入者様への配送業務でした」 「具体的には、どのような」 「はい。ご注文の品を箱に入れて、緩衝材も詰めて、待機しているトラックまで持って行く仕事です」 二人は、うなずきながらメモを取っている。 「では、弊社を希望した理由を教えていただけますか」 「はい。私事ですが、前の職場の同僚が、私の箱詰め作業を見て、何か感心したようで、御社を勧めてくれたというか…」 「なるほど。うちも箱詰め作業はありますが、結構大変ですよ」 「はい。頑張ります」 女は、笑顔で小さく頭を下げた。 「では後日、改めてご連絡しますので、それまでお待ちください」 女が部屋をあとにする。 「君、今の女性どう思う」 社長が人事の男に聞いた。 「そうですね。即戦力になりそうですね」 「君もそう思ったか。じゃあ、採用するかな」 ──ピコンピコン 女がメールを開いた。 「採用決定。 ご存知かと思いますが、弊社の制服は喪服です。ご用意お願いします」
SNSに、日々の生活や政治への不満を書いていたら、『作家が自我を出すな!』と怒られた。 何度か繰り返し読んで、ようやく意味を理解した。 「なんで?」 最初に感じたのが、それだった。 SNSなんて、思ったことを思ったままに書く場所だ。 制限される理由がわからない。 思ったままに疑問を返信すると、相手もさらに返信をしてきた。 曰く、作家は歯車であるべきだ。 曰く、作家が自我を見せると、作家の作品を読んでいる時に作家の自我が浮かんでノイズになる。 曰く、この展開は作家の思想を広めるためではないかと疑ってしまう。 目から鱗が落ちて、しばらく画面を見つめていた。 そうか、そんなことを感じる人間がいるのかと衝撃を受けた。 私自身、作家の性格と作品は切り離して考えるため、まったく予想だにしなかった。 いや、よしんば自分が作家胃の自我に引きずられるとしたら、決して作家のSNSなど見に行かないだろう。 私の思考にない二つの感性を前に、私は何と返信すべきか悩み、『参考になりました』と礼を書き込んで終わった。 とはいえ、私に改善すべきことはない。 私にSNSを楽しまないという選択肢はないし、この怒る読者のためにしてあげられることは何もない。 今まで通りの発信を続け、怒る読者が私を見限ることを願うだけだ。 その方が、双方幸せになれるだろう。 「やれやれ」 暇つぶしに、タイムラインを眺めてみる。 フォローした人間以外の言葉が画面を覆いつくし、その中には様々な職業の人間の感情が表明されていた。 成果と給料が見合わぬと嘆く会社員。 理不尽なクレームに憤るコンビニ店員。 理不尽な要望に不満を漏らす教師。 自我自我自我。 自我だらけ。 やはり、SNSで自我を出すなというのは理不尽だと、奇しくも私は私の意見を肯定できた。 しかし、投稿を眺めていくうちに、ふと気づいた。 全ての投稿が、匿名によって行われていることに。 堂々と実名を出して自我を出せばいいのではないかと思ったが、昨今の機密情報漏洩ニュースを思い出せば、組織に所属する人間には本名と自我を紐づける権利が与えられていないのではないかと想像ができた。 作家は、立派な社会人の一人である。 一方で、出版社と言う組織とは、社員としての雇用とは異なる契約で繋がっている。 いわば、大衆の考える組織に属するとは一線を画する存在だ。 なにかが私の中で繋がった。 世の中の大半の人間が、契約によって自我を出さぬことを強いられ、それ故に強いられていない作家に対し、自我を出せることを羨ましく妬ましく思っているのではないかと。 そう考えれば、先の理不尽とも思えた返信に、ぎりぎり一定の理解が示された。 普通ではない存在と言うのは、いつだって疎まれてしまうものなのだから。 考えごとをし過ぎたせいか、腹の虫が鳴った。 私は最寄りのコンビニに向かい、パンと牛乳を買い込んだ。 「いらっしゃいませー」 「二点で○○円になりますー」 「ありがとうございましたー」 何度も聞いたコンビニ店員の声を聞き、私はふと気になった。 この店員の自我は、いったいどこにあるのだろう。 仮に、この店員が客にわかる形でSNSを発信しており、その中で『日本人なのにパンと牛乳とか、意味わからない。和食だろ普通』と書かれていたらどうだろう。 もしかしたら、この投稿は私に対する物かと疑い、私の買い物を精算している間も心の中で私を非難していたのではというノイズが入るかもしれない。 先の理不尽とも思えた返信に、さらに解像度が深まった。 コンビニへ出て、家に戻る。 青空に浮かぶ雲を眺めながら、であれば、果たして彼らの自我はどこへ置いているのだろうかと気になった。 空の果てか、家の押し入れの中か。 はたまた、居酒屋で酒と共に流し込んでいるのか。 私はやはりその疑問をSNSに書き込んで、自我をSNSの海へ漂わせた。
どうやら私は、一日だけ別の人物と身体が入れ替わっていた(?)らしい。 「突然、学校に来たから、みんな驚いていたよ」 唯一の友は、とつとつと昨日の私について語ってくれた。それは普段の私からは考えられないような言動の連続で、よくもふざけたマネをしてくれたな、と本気で憤ったりもした。 悲しいかな、私は昨日のことを一つも覚えていないのに。私と身体が入れ替わったヤツは、好き勝手に反転ライフを楽しんだというのか。もしヤツを見つけたら、思いっきり肩パンしてやりたい。 「でも、久々に学校これたじゃん」 そう言ってくれるが友人よ、当の私としては複雑なのだ。 いや、でも、それ、私が学校に行ったわけじゃないし。いや、私は確かに行ったんだけど、本来の私の魂はどこかに出歩いていて、別人の魂が私の身体を学校に連れていっただけで……。ていうか結局、私自身は、今日も学校に行けなかったし……。とでも言ってやろうか。 「わたし、嬉しかったよ」 こちらを見て、友人は笑う。その顔が心底うれしそうなので、私は無言の相づちを返すに留めておいた。
コロッケのおいしい惣菜屋さんがあって 流れでそのとなりのお店で野菜を買って 荷物が多くなりそうなときは 本屋とか雑貨屋とか、先に見てまわって 段取りをつけるのも、できるようになってきた 雰囲気のよさそうなカフェを見つけて ミステリイを多めに置いている古本屋さんを見つけて からあげと麻婆豆腐がおいしいごはん屋さんを見つけて でもまだ、友だちを見つけられていない 見つけるものでもないんだろうけど まじめにちゃんと講義に出ていると よく声をかけられる といっても、そのほとんどは ―ノート、コピー取らせてくんない うん… いいけど… かまわないんだけど その都度、何かを吸い取られている感じもあって やけに、もやもやする うまくやってるなあ 会社で働くようになっても、ああいう人たちは 要領よくやっていくんだろうなあ 日々、もやもやして、もやもやと、もやもやと もやもやの種はつきない
僕には足がない。これは生まれつき。 だから、車椅子で生活していた。 僕は今病院のベッドで寝ている。車に轢かれたから。 三日前、車椅子の車輪が道の凹んだところに引っかかってしまった。信号が変わると同時に車が突っ込んできた。向こうは信号しか見ていなかったのだろう。 痛かった。 母さんは毎日見舞いにきてくれる。 「ごめんね。私がちゃんとした身体に産んであげられなかったから」 そういって謝る。 僕は何も返さない。 声が出ないから。事故で喉が壊れた。 もし、声が出るのなら 「そんなことないよ。」っていうのに。 「産んでくれてありがとう」って言いたいのに。 自分を責め続ける母親に何も伝えられない。 あぁ痛いな。 「別に足なんていらない。」っていうのは嘘で、ちょっとだけ自分の足で歩いてみたかったけど。 足がないことは悪いことだけじゃなかったよ。 同じ身体障害をもった友達に出会えた。 腕のない和樹くんは僕の親友だ。もし腕があったら彼には会うことはできなかっただろう。 車椅子ならではの景色も見れた。 普通の人よりの少し低い目線だから、地面をせっせと歩く虫、散歩中のリードが伸び切るほど先を急ぐ犬、雨の日葉っぱに乗ったまぁるい雫。みんなよりも近くで見れたよ。 毎日がワクワクだった。 ――あ。 ペンを持つ左手が震える。事故で失ったのは利き手の右手。 僕は長くはないだろう。みんなは大丈夫だっていうけど、僕にはわかる。だから、伝えときたい。声はでないから、こうやって。 字が汚いのは利き手じゃないから、それはばかにしないでよね。 ペンをギュッと握り直す。 大嫌いな勉強だけど、一生懸命に教えてくれるから頑張ろうって思ったよ。先生。 みんなと違うから行きたくなかった普通の学校。でもね、みんな優しくて足がない分サポートしてくれた。クラスメイトたち大好き。 いつも忙しいのに、休日は僕を担いで公園を走った父さん。僕本当に自分で走ってる気分だった。 父さんの背中はずうっとおっきくて憧れだったよ。もう一回乗ってみたかったな。 和樹、君はいつも陽気でふざけてたよね。僕の手術前なんかはいつもより大袈裟にふざけて、病院の先生に怒られてたっけ。とんでもないやつ(笑)おかげで全然怖くなかったよ。君は本当にいいやつだ。 そして母さん。これだけは知っててほしい。 僕がもし生まれてなかったらこんな世界知ることはできなかった。 ありがとう。僕を産んでくれて。 みんなありがとう。 僕はほんっとうに幸せだった。 ――あの子が死んだ。 お医者さんは大丈夫だって言ったのに、急に容態は悪化した。 みんなが走っているのを眺めてたときも、私を見つけると辛さを見せないくらいの笑顔を見せてくれた。誰よりも優しい子だった。 ……なのに 最後は片手を失い、声も出せなくなってしまった。 私がちゃんと産んであげられなかったから。ごめん……本当にごめんなさい。 彼の寝ていたベッドを見つめる。彼がそこにいたであろう跡はまだ残っている。 私のせいでこの子はこんなに辛かったのに、私は生きててもいいのだろうか。 ――それなら、いっそ。 「ん?」 何かがベッドの端に挟まっていた。……手紙。 封には、ひどく震えた文字で『みんな、そして母さんへ』と書いてあった。 私はそっと手紙を開く。 もう聞けないはずの声が、そこにあった。
雨は嫌いじゃない できれば傘なんてささずに街を歩きたい 雨に濡れて、いつでも潤っていたい でも、ヘンなやつ、と思われたくないから 恰好だけでもと、しかたなく傘をさす 雨は嫌いじゃない でも梅雨の季節は好きになれない もういいかげんいいんじゃないの そう思うことはすくなくない 梅雨でうれしいのは、水やりをサボれること… 雨がやんだ すばやく「あめ」と一緒に散歩に出かける ときどき道で、はじめましての人に声をかけられる ―「あめ」です、よろしくお願いします そう言うと、相手はすこし戸惑った表情をする ―あ、「あめ」は、この子のことです 横でちょこんと座るちいさい「あめ」を手で示すと 相手の表情がゆるみ、納得してくれる 「あめ」と名前をつけたのは、出会ったその日、雨が降っていたから そこまでは、もう言っていない めんどうだから
閑静な住宅街の道に、その突起はあった。 歩道から、金属の丸い棒が二センチほど顔を出している。 昨日までは確かになかった。 通勤途中の私は、立ち止まってそれを眺めた。 「何だ…」 足先で軽く押してみるが、びくともしない。 まるで自分の存在を誇示するかのように、冷たく光っている。 突起はやがて、人々の騒ぎの中心になった。 酔った女が、ヒールをぶつけて折り、大声で笑う。 ランニング中の男がつまずき、横の芝生に滑り込んだ。 鼻先を近づけた犬が、反射した光に驚き、勢いよく逃げた。 突起は不可思議な存在へと昇華した。 並んで写真を撮る者。 両手を合わせて拝む者まで現れる。 専門家は、哲学めいた解説を延々と語っている。 一方、住宅街を見下ろせる丘の上。 男が双眼鏡を構え、突起を見つめている。 「ここもダメか…。早く転び役を見つけないと」 ケースには、同じ形の金属棒が整然と並んでいた。
「そこの兄ちゃん!危ねえぞっっっ!!!!!」 「え?」 反射的にスマホから顔を上げ、右を向いた俺の視界にうつったのは猛スピードで鼻面を俺に押し付ける大型トラックだった。 距離はおよそ3m程だろうか。 反射的に右手を出すが、次の瞬間俺の右肩にトラックの鼻面が接触する。 俺の右腕は容易く押しつぶされてしまった。 体中を殴られるような衝撃とともに俺は空中にぶっ飛ばされた。 地面に体が打ち付けられたあとも衝撃は止まらない。ゴロゴロと体が回転する。 結局体感10回転ほどしたところで体が止まった。 肌の感覚がない。 腕も全く動かない。 ただ漠然と全身が鈍く痛かった。 視界が暗くなる 「そこの兄ちゃん!!!危ねえぞっ!!!!」 「え?」 スマホから顔を上げると大型のトラックが3mほどの距離に迫ってきていた。 俺は咄嗟に腕を出そうとして、やめた。 前回はここで腕がおじゃんになった。 俺は逆にトラックと向き合い。右側にダイブした。 トラックの軌道からはずれているか? 俺の左半身にトラックが激突する。 だめだ。飛距離と時間が圧倒的に足りない・・ 俺の体はゴロゴロと道路を回転し、10回転ほどで止まった。 痛い。痛い。 まただめか・・・ 8回目。失敗。 意識が暗くなる。 「そこの兄ちゃん!危ねえぞ!!!」 「え?」 スマホから顔を上げるとトラックが迫ってきていた。『死ぬとおじさんに声をかけられる瞬間まで戻ってくる。』いつも通りだ。 現在32回目。つまりこれまでに32回トラックに体を押しつぶされている。 死ぬほど痛い。というか死んでる。 地獄のような時間だ。しかしこれは特になんの悪行も働かずに生きてきた俺へのご褒美なのかもしれない。 体に衝撃が加わり、ぶっ飛ぶ。 地面で数回転し、止まる。 やはり痛みにはなれない。体をバラバラにするような衝撃が走り。痛みが意識を支配する。 しかし、すでに今回のループを捨てている俺は死を覚悟し、次に備えて思考を巡らせる。 そう、このループはご褒美だ。見ようによっては『死を回避するチャンス』を与えられているのだ。 あとはそれをモノにするだけだ。 視界が暗くなる。 87回目。 「おい兄ちゃん!!!危ねえぞっ!!!!!!!!」 これまで様々な方法を試してきたが、もう無理かもしれない。 なんでもやった。 すんでのところで横にかわすのは基本。 しゃがみ込んで衝撃を受ける面を骨が丈夫な背中にしたり。 ヤケになって手に持ったスマホをフロントガラスに投げつける手段まで試したが、結果は失敗だった。 もう。だめかもしれない。 そう考えると俺は急に自分が置かれた状況がおそろしくなった。 トラックが体にぶつかってきた。 体をバラバラにするような衝撃。 いや、実際体がバラバラになった回も何回かあった。 こんな激痛と衝撃に俺はあと何回なすすべなくぶつけられ続ければいいのだ? もしかして、永久に・・? 気が狂いそうだった。 しかし気が狂っても一度死ねば次の回で元通りだろう。 助けてくれ。俺を逃がしてくれ。だめならこのまま死なせてくれ。 俺は数回転して地面にぶつかる。 視界が暗くなる。次のループが始まる。 「兄ちゃん!危ねえぞっ!!!!!!!」 もはやおなじみとなったオヤジの声が聞こえる。しかしもうトラックから逃れるために足掻く気力は僕にはなかった。 休憩もなく、トラックに潰されては死んでの繰り返し。安らぐ時間といえばトラックにふっとばされてから事切れるまでの十数秒だけだ。 気が狂わないほうがどうかしてる。 俺は体中に力が入らなくて、地面に仰向けにぶっ倒れた。どうにでもなれ。 次の瞬間俺の鼻と額の5cm上をトラックの床が轟音とともに通過していった。 「・・・・・!!!!!」 起き上がる。 手も足も動く。 体の感覚もある。血も出てない。 生きている!!!!!!!! 「よ、よっしゃあああああああああ!!!!!!」 『ぶっ倒れると車高でギリギリ僕の体がトラックの下に入り込む』というのは流石にない発想だった。 極限の状況にさらされ続けた疲労が僕を救ったのだ。 視界は開けている。 オヤジがなにか叫んでいるが俺には何も聞こえなかった。 しかし、視界が徐々に暗くなっていることに気づく。 どういうことだ。僕は生きているじゃないか。 なんだっていうんだ!?おい!ふざけるな! 薄れゆく意識の中で、『ステージ1。クリア』 と聞こえた。 「おい兄ちゃん!!!危ねえぞ!!!」 「えっ?」 スマホから顔を上げると、道路のアスファルトを固める用のローラー車が僕に猛スピードで突っ込んできていた。
四月の朝、薄いレースのカーテンを透かして光が差し込んでくる。 木村美津子がゆっくりと目を開けると、天井の染みがいつものように「雲の形みたい」と思えた。数年前、脳梗塞で倒れたあの夜のことを思えば、こうして朝を迎えられるだけで十分だと、最近ようやく思えるようになっていた。 「母さん、起きてる? 桜が七分咲きだって。今日、公園に行こうよ」 廊下の向こうから、娘の彩花の声がする。四十歳になった今も、声だけ聞けば二十代のころと変わらない弾んだ声だ。 「起きてるよ。桜か……それはいいね」 彩花が寝室に現れ、歩行器を美津子のそばにそっと置いた。美津子はベッドの手すりをつかみ、ゆっくりと体を起こす。以前は「こんなもの」と歩行器を遠ざけていた時期もあったが、今は素直に頼ることができる。人間、少しずつ変わっていけるものだと美津子は思っている。 「急がば回れ、でしょ」と彩花がにっこりと言った。 「またことわざか」と美津子は苦笑する。 「だって当たってるじゃない」 「ことわざ好きだね、あんたは」 「誰に似たんだろうね」 「お父さんじゃないの」 「お父さん、ことわざなんて一個も言ったことないよ。絶対お母さんの影響だから」 こうして二人の朝は、いつもことわざと笑いから始まるのがならわしだった。 夏のある午後、美津子は麦茶のコップを持とうとして、震える手からこぼしてしまった。テーブルに広がる琥珀色の液体を見て、美津子は唇を噛んだ。脳梗塞の後遺症で左手の細かい動きがうまくいかない。頭ではわかっていても、こういう瞬間は胸に刺さる。 「ごめん……」 「なに謝ってるの」 彩花はすぐにタオルを持ってきて、何事もなかったように拭き始めた。 「転んでもただでは起きぬ、っていうでしょ。こぼしたけど、テーブルがちゃんと受け止めてくれたじゃない」 美津子は思わず吹き出した。「それはこじつけだよ」 「こじつけでも笑えりゃ正解」 「……まあ、そうだね」 秋になると、公園のケヤキが赤と黄色に染まった。その日の散歩で、車椅子のタイヤが木の根に乗り上げて「ガタン」と揺れた。 「大丈夫?」と彩花が心配そうに声をかける。 「大丈夫。……災い転じて福となす、だよ!」 「どのへんが福なの?」 「気が引き締まった」 「引き締まりすぎないでね」 二人は笑いながら、ベンチでおにぎりを食べた。彩花が朝、時間を作って握った鮭のおにぎりだった。美津子はゆっくりと、でも自分の手で口に運んだ。 「彩花、最近ちゃんと寝れてる?」 「寝れてるよ」 「本当に? 目の下にクマがあるよ」 「……まあ、ちょっとね」 美津子はしばらく黙ってから言った。「ごめんね」 「謝らないで。私が選んだことだから」と彩花は母の手をそっと握った。「案ずるより産むが易し、でしょ」 「……また出た」 二人は並んで笑った。ケヤキの葉が、ひとひら風に乗って舞い落ちた。 十二月の夜は早く暮れる。入浴介助を終えて、リビングでホットミルクを飲んでいたとき、美津子がぽつりとこぼした。 「彩花……介護が大変で、いつまで私に付き合ってくれるんだろうって、思うことがある」 彩花はカップをテーブルに置き、母の顔をまっすぐに見た。美津子の瞳には、回復への希望と、娘の将来を案じる複雑な揺らぎが混在していた。 「母さんの人生も、私がここにいることも、全部ひっくるめて特別なの。介護が大変なのは本当だよ。でも、毎日母さんの笑顔を見られることが、ちゃんと嬉しいんだよ」 「……彩花」 「情けは人のためならず、でしょ。母さんのためにしてることは、結局、私自身に返ってきてる。母さんに笑ってもらえると、私も元気になるんだから」 美津子は深く頷いた。「子は親の鏡、か。あんたみたいな娘がいて、私は本当に幸せ者だよ」 「私こそ」と彩花は静かに言った。 介護は続く。終わりは見えない。悩みも尽きない。それでも、夜、電気を消す前に美津子が言う。 「今日もよく笑ったね」 彩花が優しく返す。 「明日も笑おうね」 どんな試練が訪れようと、明日もまたことわざを交わし、笑い合える朝が来る。それは二人が積み重ねてきた「一日一笑」という名の、何物にも代えがたい宝物だからだ。 窓の外では、静かに季節が移ろっている。しかしこの家の中に流れる穏やかな絆は、どんな季節よりも温かく、二人の明日をやわらかく照らし続ける。
妹がタコになった。 振り向いたら、なっていた。 私の腰ぐらいまでの大きさのそれは、触手をびちゃびちゃと振り回している。 慌てて両手で抱えて風呂場へ走る。 浴槽に入れて蛇口を開き、じゃぶじゃぶと水を入れる。妹は浴槽いっぱいに触手を広げ、水を引っ掻き回している。 人並みに重くて随分骨が折れた。漫画ではこういったものに変身する時、それ相当の大きさに縮むものでは無いのか。 床に座り込んでため息を吐きつつ考える。 さて、どうにか意思疎通が出来ないものか。 とりあえず自室に行き、紙とペンを用意して風呂場に戻る。 紙が濡れたら困るから触手のうちの1本をタオルで拭いて鉛筆を持たせる。 妹は器用に動かして文字を書いた。 『おなかすいた』 確かに時計は12時。お昼の時間だ。 「なに食べたい?」 『たこやき』 「却下」 おそらくだが見てていい気持ちはしない。というか自分の今の姿を分かって言っているのか。 私の物言いが癪に障ったのか、水をバシャンとこちらにかけてきた。長く続く反抗期には困ったものだ。 「共食いじゃん、マックのポテトとかにしてよ」 顔に付いた水を拭いながらそう言うと、触手でペチンと浴槽の縁を叩き、やれやれとでも言いたげに頭を振った。生意気な。それにタコのくせに人間くさい。あ、妹なんだから人間か、一応。 財布を取りに行こうと腰を浮かせる。そういえばやけに家が静かだ。母さんは出かけているのかな。 というか、 「あんた、タコになっても私の言葉分かるんだね」 「は?」 視界の左端に怪訝そうな妹の顔が見える。目線の先には天井。 そこで自分が休日の二度寝に洒落こんでいた事を思い出した。 「戻ったんか、人間に」 「何言ってんの?」 「母さんは?」 「買い物」 紙とペンを経由しない会話は楽でいいな。 身体を起こしながらカバンを探す。 「お腹すいてる?なんか食べ行こ」 「やった」 車のカギを握って玄関に向かう私の後ろを妹が歩いて着いてくる。当然のように水音は無い。 「なに食べたい」 「たこ焼き」 「よし来た」 今度は見てていい気持ちも悪い気持ちもしないと思えたから、カーナビに少し遠くのたこ焼き屋を設定した。
寝坊をして急いで駅に行く。完全に遅刻だ。 ホームはいつもと違い通勤ラッシュが過ぎて穏やかな雰囲気になっている。 自販機の前で小さな女の子と母親がどれにするか楽しそうに話している。 その近くにホームから線路を覗くスーツ姿のオジサンがいた。 私が会社に遅刻の連絡をしている間も、ずっと線路を入念に観察している。落とし物なら駅員に言えばいいのだが、まさか降りて取らないよなっなんて思うくらい真剣に探している 「落とし物ですか?」 「え、あっ、はい。そうなんですよ」 「駅員に言って取ってもらったほうがいいですよ」 「はい、そうなんですが、どこに落としたか分からなくて」 「何を落とされたんですか?イヤホンとか?鍵とか?」 オジサンは笑顔で右腕を上げながら応える 「右手です。この間轢かれたときに、右手だけ、どこかへ行ってしまって」 「ママこれなに?」 自販機の下を覗いて小さな女の子が何かを指さしている
今はとある女優が日本中に轟いている。名は黒田鈴音。しがない俳優志望の私ですらこの名を知らない人はいないと自信を持って言える大女優だ。世間では今売れてる大女優とゆう認識だが、業界の人々は黒田にとあるあだ名をつけた、化け猫と,,,理由は察っせるだろう。まあ,今の俳優業界はさておき私はいつも通り仕事終わりにドラマオーディションを受けた。毎回違うオーディションを受けてるとはいえ毎度面接時は汗がゲリラ豪雨の土砂降りのようにかく、この時だけは生きてるのか死んでるのかよくわからないが,結局現実は厳しいんだろうなーと半分以上諦めながら顔を淀ませながら面接室に入る。(柴夏目です!よろしくお願いします)序盤は高らかといつも通り本音を仮面に隠しながら挨拶をする。(それでは演技をお願いいたします。)私は3番手の順番とはいえやはり面接は1番目か,2番目にいたかったなーと内心羨ましながら他のオーディション者の演技を聞く,やっぱり倍率が高いだけあってみんな演技が抜群だ,正直絶望もしている、だが私は今度こそ抜擢されるぞ!とあえて勘違いしながら私はつらつらと自分なりに求められる演技を淡々とこなした、今度こそもうしがない人生からは終わりなんだと思いながらついに演技を終了させた。(それでは今回のオーディションを終了致します、一週間後の22日に結果が発表されますのでよろしくお願いいたします。みなさんお疲れ様でした!審査員の少し曇られせた声が私たちの気持ちを少し沈めながら私は(ありがとうございました!)と元気に放った。[一週間後] メールが来ていた,私は内心心をバクバクさせながらメールの文章をスマホに手を伸ばしながらスライドしていく。(柴夏目さん,結果は合格です。これからは〇〇事務所で台本配布、キャスト交流がありますのでよろしくお願いいたします。) 黒田鈴音演じる主人公柴夏目はしがない俳優志望の大学生!とあるオーディションをキッカケにまさかのドラマ出演!?主役とゆう立場で柴夏目はこれからどうなっていくのかーー ドラマ(アクターアクター毎週木曜夜10時半放送予定!)
季節は夜に動いていく 少しずつ、雨の夜が、深まっていく 地下の台所にこもって、二度とは同じ味にならないスープをつくる 湿り気を帯びた空気が鍋の熱気と混ざり合い 呼吸をするたびに肺が少し重たくなる 梅雨どきのきゅうくつな空気にあらがうように ハーブを多めに放り込んでみる 香りが鼻を抜けた瞬間、不思議と心まで軽くなる 分量なんて測らない そのときどきの野菜の硬さ、火の通り具合、あとは私の気分 すべてを鍋のなかに溶かし込んでいく 誰にも再現できない、この瞬間だけの味 一枚一枚、上に着てるものを少なくしていって もう脱げないとなったらホットコーヒーをアイスに変えて 冷たいグラスの水滴が、熱を帯びた指先をなでていく 汗ばんだ肌に、心地いい冷たさが染み渡る 喉を通り抜ける氷の感覚が、台所の蒸し暑さを忘れさせてくれる 体を動かす仕事だから、夏はもちろん、冬でも容易に半袖になる 昼間は感じることの少ない季節感 じっとりとした夜の気配に、ようやく自分の体温に気がつくくらい 心はまだ、地下の鍋の熱を保っている スープづくりもひと息ついて、冷たい珈琲でも 煮詰まった香りを冷ますように、窓を少しだけ開けてみる 街の喧騒と、かすかに土の匂いが混ざった空気が流れ込む このわずかな時間が、私を現実へとつなぎ止めてくれる 季節は夜に動いていく 少しずつ、雨の夜が、深まっていく
…バッグから瓶を出して中の粉を空に巻くと立派な虹が出来ました 虹は近くで見ると川になっていて、虹の川には小舟に乗った船頭さんが待っています 僕等が近付くと船頭が手を振って応えてくれて、僕等がここに来ることを知っているかのようでした 虹の川はとても広くて大きな川でした。川にはちゃんと魚もいて、鴨や鷺もいます。 緩やかな流れの中をプカプカと舟は進んでいきます 僕は魔法使いから貰った鍵をポケットから取り出ししげしげと眺めていました 黒い金属が錆のようなザラザラに包まれていて知らない文字が刻印されています …
それは突然な話だった。 俺はスーツを見に纏った女に声をかけられた。 「あのすみません。よかったらこの村に住みせんか?」 その女はまるでティッシュ配りをするかのように俺にチラシを渡してきて言った。 「村ですか?」 「はい。村です。あなたにぴったりだと思うんですよ。」 俺は女が渡してきたチラシを眺める。 「はぁ。そうですか。そこは静かな場所ですか?」 俺は誰にも邪魔されることのない、静かな場所が好きだった。 「はい。静かです。あたりは虫の鳴き声や川の流れる音ばかりでございます。」 「ほう。とてもいいですね。そこの土地はおいくらですか。」 「実は高くって、1,000億円でございます。」 「はぁ!?い、1,000億だって?!そんなの無理に決まってる!」 「ですが、ここだけの話、要件がございまして、、」 そして女は俺の顔を見るなりニヤリと笑った。 「あなたがこの村の村長になってくだされば、ここをタダで住まわせてさしあげます。」 「村の村長…?なんで俺が?」 「あなたにぴったりなのです。あなたしかいないのです。」 女はそう言って俺の手を優しく包んだ。 「俺しかいない?どういうことだ?」 俺は咄嗟に女の手を退ける。 正直俺は冴えないやつだ。碌でもない人である。今まで何度面接に落ちたことか。どれだけのやつに失望されたのか。数えたらキリがない。 そんな俺が村長?村を管轄する?考えられない。 「俺には向いてないと思います。」 「その発想を、この村が求めているのですよ。」 そう言って女は微笑んだ。 「一度村を見てはいかがです?」 そして俺はその女と村を訪れた。 その村には人というものはいなかった。虫と川と…そして言葉に表すことが難しい異物たち。 俺はなぜだか目から涙が止まらなかった。 その異物たちは俺の涙を見るなり、近づいては慰めてきた。 「俺の居場所はここなのかもしれない。」 そう俺が言うと女はにっこりと笑った。 「…ようこそ、脱落村へ。」 そして異物たちが祝福するように鳴きだした。
「なぁ、俺たち、なに作ってんの?」 「さあね」 路地裏にある町工場。金属を削る音が響いている。 「コンニチハ」 カタコトの外国人が、小さな鉄の扉の前に立っていた。 「いらっしゃい。待ってましたよ」 社長は握手を交わすと、奥の事務所に案内した。 従業員の男たちは、ガラス越しに二人を見つめた。 「なんだろうな、こんなボロ工場に」 「珍しいな、外人とか」 蒸し暑い工場。背中にシャツが貼り付いた。 「もしかして、俺らが作ってんの、機密部品とかか?」 「それはねえだろ」 「いや、わかんないぞ」 二人は図面を広げて話し込んでいる。 「やっぱ、なんかの重要な部品だ」 「俺らの技術、スゲーな」 男たちは嬉しそうに、機械を回した。 ──夕方。 「社長、この部品、何に使うんすか?」 「お前たちは、知らない方がいい」 薄笑いを浮かべながら、社長は事務所に入った。 そこに、作業着姿の嫁が声を掛けた。 「あんた、昼に来てた外国人、誰だい?」 「あれか?……ただのエキストラだ」 「なんだ、それ」 「あいつらの背中を押してやったんだよ」 嫁が呆れ顔で夫を見た。 「あんたねぇ……背中押したら、こんなボロ工場、みんな辞めるぞ」
「いち、に、さん…」 どこまでも深く黒々と沈むような空を指さしながら、ぐっと目を凝らす。青白く、澄んだ輝きを放つ星々。昴はまるで青だけを集めた宝石箱のよう…もしくは、黒い波に揺られる夜光虫のようだ。 青い星は「若い」のだと聞いた。では昴は若い星たちが仲良く寄り添っているのだろうか。ふと、昴の近く、オレンジ色に明るく輝くアルデバランに視線を移す。青い星は若く、赤に近いほど年を重ねている…昴の"後に続いて"空へ昇ってくるアルデバランは、まるで子どもたちを見守る親のようだと思った。僕はそのやさしい橙色の星と青白い星々に親子の姿を重ねてしばらく眺めていた。 …ああ。もうひとつ。青い星は温度が高く、重たい星だということも聞いた。星は重たいほど、温度が高いほど寿命が短いそうだ。ならばどうだろう。アルデバランは昴の青白い星々の最期を見届ける者でもあるのだろうか。どちらにしても"後に続くもの"なのだろう。なんて切なく、あたたかく…果てしない、美しい物語なのだろう。 こうして僕の命の時間も少しずつ、少しずつ溶けていくのであった。
卒業式の教室の窓に、桜の雨は降らない。 佐野昂平が中学生だったとき、そんな事を考えていた。 実際、あの頃は桜の雨は降るどころか桜の花自体咲いてはいなかった。自分の卒業式でさえ、冷たい風が吹くばかりで、桜が綺麗だなどと同級生を言葉を交わしながら別れた記憶はひとつもない。 あれは入学式か、そのあとくらいに咲くものだろう。そう思っていた。 だが、今は違う。温暖化の影響か、それともただ自分達がおかしかっただけか、卒業式の教室の窓には桜の雨が降る。 はらはらと小指の爪くらいの大きさの、薄紅の花びらが春風が吹く度に舞い、窓を叩きつけるのだ。音のない雨は生徒の歓声をあげるのに一役買うばかりで、誰もその光景が異様だとは感じない。 卒業生も、在校生も、かつて子供だった親や教員の誰一人さえ、それが当たり前で、いいことで、別れを惜しむにちょうどいいもの。その程度の事くらいに思っている。 自分のときには咲いてくれなかった桜の花は、爛漫と咲き乱れ、雨を降らし続けている。 「何がそんなに不満なんですか?」 小脇に花束を抱えて、卒業する女子生徒の一人が昂平に話しかけてきた。女子生徒は剣のあるつり目をこちらに向けて昂平が何か言うのを待っている。 別に不満などない。そう答えた。ある意味本当の事だった。不満らしい不満は特にない。 だがその返答は、女子生徒からしたら嘘に見えたらしい。 「嘘つかないでください。不満だって顔に書いてあります」 そういって彼女はさらに目をつりあげる。思わず苦笑がもれた。 「不満そうな顔に見えるのなら、それが俺の本来の顔だったんだよ」 そういって煙に撒いた。女子生徒がなんですかそれと言った。 何も不満を見透かされたからじゃない。むきになっている訳でもない。 桜の雨が降る教室に、過去の自分の醜い幼さ──つまりは桜が咲く笑顔の卒業式なんてなかった、と、残念に思いながらくすぶり続け、それがいつか見られたならと教員になった、執念深い自分の姿を、みられたくなかった。 ただ、それだけの事なのだから。
「君の仁美に乾杯」 「なめてんのか」 親友の妻、仁美さんと不倫したのが親友にバレた。 少しでも和ませようとウィットなギャグを挟んだら、親友はこの世のものとも思えない怒りの形相を俺に向けてきた。 仁美さんは、ひたすら俯き続けている。 ぼくは大きくため息をついた。 もう、仁美さんの綺麗な瞳を見ることができないんだと。 机の上に叩きつけられた証拠写真の数々。 「で? 不倫したことは認めるんだな?」 親友からの強い言葉に、ぼくはとりあえず目の前の水を飲みほした。 ここから入れる保険ありますか?
学校に逃げる場所はない。 教室はさることながら、トイレにも人がいる。図書室も保健室も、逃げ場にはならなかった。 図書室は、教室の空気に耐えかねた人間がいる場所だ。すでに人がいる。保健室は、具合の悪い人がいくところだ。元気な俺は入れない。 そもそも、生徒がいなくても、教員がいるなんて事は多い。部室も空き教室もなんだかんだで人がいた。 結局、俺はどこへ逃げればいい。人がほとんどいない、静かな場所がほしいだけなんだ。人のいるところは息がつまる。授業と、その間にある休憩の時だけで十分だ。昼休憩の時まで一緒に人といたくはない。 その事を俺は担任に話した。担任は、「だったらここを使っていい」と、ある部屋の鍵を渡してくれた。 「昼休憩は、鍵を借りてそこで過ごせばいいよ。内側から鍵をかければ誰も入ってこないし、鍵がないのならそこにいるんだなって、自分もわかってありがたいから」とのことだった。 それ以来、俺は昼休憩になると担任から鍵を借りてその部屋に入る。入って一人で過ごす。誰も入ってこない俺だけの空間。俺一人しかいなくて、誰も俺の思考や行動を邪魔しない場所。心穏やかに過ごせる部屋。完璧だった。とても充足していた。息苦しさはだいぶ軽減した。俺は学校へ行くことが苦ではなくなった。逃げ場がないと思うことはひとつもなく、少しずつ余裕が出てきた。担任と話せるようになった。 担任と話せるようになると、色々な事が見えてきた。 まず、俺が昼休憩の間、平穏な空間を手にいれていたのは、ひとえに担任のおかげだった。担任は俺に鍵を渡したあと、なるべくあの部屋周辺は近づかないようにと他の職員に話していたそうだ。 そうすることであの時間だけは、近寄らないようにしてくれていたらしい。 職員によっては、生徒も近づけさせないようにしてくれていたとかで、俺が誰も来ないと思っていた逃げ場は、担任や職員が作り上げていた砦のなかだった。 それと、同級生たちは俺が昼休憩になると、あの部屋にいるのを知っていたらしい。 と、いうより、俺が昼休憩になると、教室から逃げだすのを知っていたそうだ。一人になりたいんだろう。そっとしておいてやれ。なんて言われていた事もあったとか。 正直、俺は誰も自分を見ていないし、自分がどこへ行っているか知らないだろうと思っていたので、その話を聞いたときはものすごく面食らった。 同級生は、ただ黙っていただだけなんて、夢にも思わなかった。 そして、自分は思っていたより、周囲を見ていなかったんだなとも。 そう思えてからは、俺は昼休憩になると、同級生の誰かに声をかけるようになった。 あの部屋に行ってくる。何かあったら担任に言っておいてくれ。それを伝えるだけだった。 それで、同級生の誰もが「わかった」とか「任せろ」と快く送り出してくれた。 担任から鍵を受けとる時、このくらいの時間までいると告げるようになった。 そしたら、「じゃあその間は人を近づけないようにするよ」と笑って鍵を渡してくれるようになった。 俺は今日も一人であの部屋で昼休憩を過ごす。 ただ、ここは逃げ場だとは思ってない。みんなが作ってくれた、俺のための居場所だった。
まただ。またあの時の記憶を思い出してしまった。私はあの時の記憶を思い出しては眉間に皺を寄せた。あれは、想定もしない出来事だった。 そして私はその時の友人の声を脳内で再生する。 「私、この曲と結婚したい。」 そう友人はぽつりと言った。 「へー。なんの曲?」 私は友人が普段から変わり者でもあったことから特に驚きもせずに聞いた。 「それはヒミツ!教えたら好きになっちゃうでしょ。私のものにしたいの。」 「すんごい独占欲。その曲にげてー」 「えー!ちょっと!勝手に逃がさないで!」 そんな他愛もない話をしていた。だが、事の始まりは結局はこの話題からであったのだと思う。 それから一ヶ月が過ぎた。 「今日ね実はデートするんだ。」 「は?!あんた彼氏なんていたっけ、?」 「うん。実はねこの前つき合ったの。」 「へー。もっと早く言ってよー」 「えへごめんごめん!笑」 そして彼女は曲がり角へ衝突した。 自ら彼女は衝突したのだ。 そして彼女の身体はあの曲のものとなった。 彼女の思い通りに。 そして彼女の身体は今もなお曲がり続けている。 見るも無惨な姿を思い出し、私はまた眉間に皺を寄せる。 そしてまた私は想起を繰り返す。繰り返せば繰り返すほど、あの記憶をもう一度思い出したくて仕方がなくたなる。まるで好きな曲を何度もリピートするように。そしてまた私は再生ボタンを押す。 『私、この曲と結婚したい。』
土曜日。私は仕事に行くため、子供二人の世話を夫に頼んだ。おやつに、一箱のキャラメルを用意して家を出た。 「ただいまー」 「おかえりー」 「キャラメル、美味しかった? あ、全部食べちゃったんだ」 「うん!」 一箱十二個入りのキャラメル。一個でいいから、私の分も残しておいて欲しかった。 ⑫÷③=④ みんななかよく4個ずつ ⑫÷④=③ みんななかよく3個ずつ 誰も⑫÷④をしようと思わなかったんだな。 「……」 「ママも食べたかったの?」 「あ、あとで、買ってくるから」 自分の分も残しておいて、と伝えておけば良かったんじゃないかって? 別にキャラメルが欲しかったわけじゃない。 欲しかったのは思いやり。 日曜日。昼寝から目を覚ますと、折り紙で包まれた四角いものが枕元に置いてあった。 一生懸命に包んだつもりなんだろうけど、折り紙とテープの隙間から中の箱が少し見えている。中身は、限定のアーモンド入りキャラメル。 「ママ おつかれさま」と書かれたメモが添えられていた。 今日のおやつは、⑫÷④
郊外の家電量販店。 若い夫婦がテレビを買いにきた。 「たくさんあって、迷うわね」 並べられたテレビの前で、店員が二人に声を掛けた。 「よかったら、手に取ってください」 リモコンを妻に渡した。 「どれもいっしょね……なに? このボタン」 チャンネルの横に、ニヤケ顔の絵文字のボタンがついている。 「これ、何ですか?」 「あぁ、それは副音声ですね」 店員が説明を始めた。 「それを聞くと、ちょっとだけ安心しますかね」 「どういうこと?」 「どうぞ、お試しになってください」 妻はリモコンをテレビに向けた。 緑豊かな、この国の原風景が映った。 ボタンを押す。 『車がないと、ここでは生活ができない』 「……年取ったら大変ね」 チャンネルを変える。 シャッター商店街、町おこしドキュメント。 『ポツンと、おしゃれなカフェが』 「……常連が居座って入りづらいのよね」 料理番組、アップルパイを作っている。 『去年の台風で、リンゴはほとんど木から落ちました』 「……そんな年もあるよ」 「どうですか?」 口角が上がり、ニヤケ顔の夫婦。 「これ、買います」 「ありがとうございます。最近は、こちらが一番売れております」
電車は各停がいい。身に余る早急は、視野を狭くする。まばらに空いてる席、夕陽が差し込む窓、静かに揺れる手すり。そして僕の目の前には、にぶい茶髪のお姉さん。気だるそうにスマホを眺めている。橙色に輝く夕陽が茶髪を照らす。まるで仏様の後光のように、イエス様の導きかのように。大学デビューにとりあえず染める安っぽい色から、今この瞬間1番愛しい色になった。お姉さんは眩しそうにすると、後光を避けるために、導きに逆らうかのように僕の隣に座った。
雨が降っていた。縞々、ビニール、猫柄などなど、みんな思い思いの傘を家から持ち出して電車の中はさながら傘の展覧会みたいになっていた。駅につき、扉が開く、目的地の人は立ち上がる。ここまではいい。折りたたみ傘が落ちる、それに気づかず彼は降りる。これは大問題だ。多分時間にして1秒間全員気づいて何もしない誰も。それはそうだ、カランコロンと音を立てた物体の1番近くに座ってるのは自分だ。その0.5秒後立ち上がり、傘を持ち、追いかける。けど扉で止まる。もしここで降りて電車が行ってしまったら惨めだから。張本人はイヤホンしてるから声は届かない。そんなことを考えている最中に、僕の腕は大きく弧を描き振りかざす、アンダースロー。放たれた一投は、持ち主の二歩手前に転がり、無事あるべき人へ。一連の出来事を皆見ていたが、事が収まると何事もなかったようにスマホに目を落とす。拍手の一つがあってもいいのに。電車はしばらくその駅で止まってから出発した。
25時、カフェで隣の男1女3のグループの話し声が聞こえてきた。ひたすら愚痴を話してて、それ自体は別に面白くもなんともなかった。けど金髪の多分一回生かなって女の子がスマホのカレンダーアプリ?を他の人に見せて、「見て!エメラルドグリーンの予定!全部合宿で休みないの!」って口を尖らしていた。エメラルドグリーンの予定って!エメラルドグリーンって!普通に緑とかグリーンとかでいいはずなのに。彼女にとってエメラルドグリーンが何か特別なものだったのか、あるいはアプリのその色が本当にエメラルドグリーンすぎるのかなって気になった。で、これは怒ってる話なんだけど周りの反応が、あーそうなんだとか、たいへーん!みたいなありきたりだけ。わざわざエメラルドグリーンって言ってるところが、彼女のファンキーな金髪にそぐわないメルヘンな愛らしさなのに。きっと彼らはずっとモノクロなのだろうと見下した。彼女は他の予定にはどんな色を割り振っているのかなとか、彼女の中のエメラルドグリーンの予定ってどんな位置付けなのかなって気になったけど、誰もそんなことには興味がないらしい。もしかすると彼女のメルヘンも無意識に溢れてきたものだっただけなのかも。しばらくして、先輩らしき男が1人合流してその集団はカフェをあとにした。そいつらがその後にカラオケに行ったのかシーシャに行ったのかホテルに行ったのか解散したのかは知らないけど、カフェは静かになった。そういえば僕の中学時代のノートは、国語は紫、数学は青、英語は赤、社会は黄色、理科はエメラルドグリーンだったなって。
開いた窓から流れ込む夜気に誘われて、閉塞を置き去りに部屋を出た。街灯の下でしか生きられない影が、星に手を伸ばし踊っている。 直に迎える午前0時。アスファルトを這いずる終わりかけの今日が、日付を跨ごうと先を急いでいる。 ──しゃく、しゃく。しゃくり。 翠雨に濡れた芝生の上を、確かめるように踏み締める。月に照らされ生き生きと胸を張る緑は、時間も曜日も何も知らない。この瞬間をただ生きている、それは酷く尊いことなのに、人間には難しい。
今日は元カノが病院に入院していたのを偶然会ったので彼女が早く治るように文を綴ろうと思う。 生まれつきの特性だとか病弱だとか色々な物はあるが元気に笑ってご飯が食べられて暖かい屋根付きの布団で眠れればいいと願う。 僕は何故か人を治す事が得意なようだが特に医療知識が豊富な訳ではない。 神がいるのならそして医療の神様がいるのならそれに近しい力を僕は持っているということか(誇大妄想) ブラックジャックはいないがなんとなくその人のして欲しいことは分かる。 でも万能でもない。 少し痩せた元カノにもうちょっと言葉をかければ良かった。 優しい言葉は人を治し再生させる。 歌や絵もまた然り。 そんなこんなで元カノには元気でいてほしくてたまらない僕は雨の午後に言葉を紡ぐ。 雨が降っている勝手な僕だけの時間君は病室で雨音を聴き静かに過ごす僕が出来るのは文を綴ることだけだけどそのままの君できっと元気になって帰ってくることを願って雨の音が君の身体と心を癒す面白いことは言えないけど蝸牛にはいい季節ゆっくりじっくり進んでいく明日は午後から晴れ君が快方に向かうよう太陽も皆を迎える雨と雲と太陽のコラボレーション梅雨に君という大輪は咲き誇るそれはどんな場所でもねえそれって生きてるってことじゃないか。 なんだか雨音が柔かい。
コーヒーと美味しいパン 二人は並んで座っている いつもの店のいつものメニュー 一人は肘をついてコーヒーを飲む 一人は腕を組んでいる よく晴れた空を冷房の効いている店内で眺めている 何気ない会話と笑顔 目はたまにしか合わない 二人は同じ方を向きながら この先を探している
『久しぶり』 元彼からメッセージが届いた。 もう数年も連絡を取ってなかったというのに、どうしたんだろう。 だから、一応返信はしておいた。 『久しぶり。どうしたの?』 即既読がつくも、返信はなし。 いったいなんだったんだろうと思っていたら、アイコンが変わった。 元彼一人の自撮りから、赤ちゃんを抱っこして、結婚相手だろう女性と仲睦まじく映る写真に。 これは、あれか。 私を悔しがらせようとする、あれか。 私は自分の返信メッセージを取り消して、スクショをとった。 はい、家族最高みたいなアイコンにしながら、裏では元カノに連絡をとろうとする糞男の絵が完成。 結婚相手だろう女性が、顔見知りでよかった。 私はスクショを結婚相手だろう女性へ、もとい高校時代の女友達へ送った。 『は? なにこれ?』 『突然連絡来たの。私、不倫とかする気ないって言っといてくれない?』 『え? は? あんた、前付き合ってたよね?』 『うん』 『私に隠れて、元カノと連絡とるとか最悪! 死ね!』 嫉妬深い子だったからなあ。 私に連絡を取ったと知れたら、大変なことになりそう。 案の定、元彼から大量のメッセージが届いた。 『おい! なんで見せたんだよ!』 『不倫じゃないって言え!』 『連絡しろ! お前のせいで、うち今大変なんだぞ!』 着信履歴。 着信履歴。 着信履歴。 私、二度目のスクショ。 そして送信。 人を呪わば穴二つというやつだろう。 元彼の悪意は、元彼の元へと帰っていった。 めでたしめでたし。 私は元彼のアカウントをブロックしていなかったことを後悔しつつ、ちょっと涙ぐみながらブロックした。
蝸牛を一杯触っていたらしい。 蓄えられた体内のフルボ酸がマックシングを起こす(少年漫画の読みすぎ) ゼプリオンを打っている。 変態性欲は伝播し抑えるために動く。 月は変態だ。 羊の皮を被ったヤギだ。 ちょうどいいかもしれない。 眠い夜に書くカルテは厚労省を脅かす矛になるかもしれない。
先生は、作文の一行目で赤えんぴつを止めた。健太は、ふざけて作文を書く子ではない。 ぼくのおかあさんは、ヤカンです。 おとうさんがそういいました。 おかあさんは、おこりすぎて、ヤカンになってしまったといいました。 だから、おこると、ぴいとなります。 あさは、だいどころにいます。 おとうさんが水をいれるとだんだん元気になります。 ぼくはまいあさおかあさんにおはようといいます。 おとうさんもおかあさんにおはようといいます。 作文用紙のすみには、にこにこしたヤカンの絵が描いてあった。その横に、ぼくの字で「おかあさん」と書いてあった。先生は、赤えんぴつを持ったまま動けなかった。 放課後、先生が作文を閉じようとした時、職員室の入口に小さな影が立った。健太だった。両腕に、古いヤカンを抱えていた。 「先生、お母さんを直してください」 先生はヤカンを見た。 「……保健室では、無理そうだね」 「金物屋です」 「症状は?」 「水もれです」 ヤカンの底に、小さな穴が空いていた。 「父さん、仕事だったから、119に電話しました」 「119?」 「救急です。火事ではありません」 「なんて言ったの?」 「お母さんに穴が空きました」 「それで?」 「おうちの人に代わってくださいって」 「代わったの?」 健太は眉を寄せた。 「お母さんは、しゃべれません」 先生は返す言葉を探した。でも、どの言葉も少し違った。 「学校に持ってきたら、友だちに蹴られました。笛も取れました」 「誰に?」 「いいです。先生が怒ると、お母さんがもっと困るので」 健太は、ヤカンのふたを押さえた。 「父さんの前では、お母さんなんです」 先生は立ち上がった。 「行こう。お母さんを病院へ」 金物屋のおじいさんは、底をのぞいて言った。 「直すより買うたほうが安いで」 健太は首を振った。 「買ったら、お母さんじゃなくなっちゃう」 おじいさんは黙って道具箱を出した。 「ほんなら、手術じゃ」 「痛いですか」 「麻酔なしじゃ」 健太はヤカンに顔を寄せた。 「お母さん、がんばって」 穴はふさがり、笛も戻った。健太は、直った笛を指でそっとなでた。 「もう、ちゃんと怒れますか」 おじいさんは、少し考えてから言った。 「前より、ええ声で怒るで」 「退院じゃ」 夕方、先生は健太と家を訪ねた。玄関を開けた父は、先生の腕の中のヤカンを見て固まった。 「先生、それは……」 「本日は、お母様の退院報告も兼ねまして」 父の口元が動いたが、笑いにも謝罪にもならなかった。健太はヤカンを受け取った。 「お母さん、帰ったよ」 台所で水の音がした。 「すみません」 父は下唇を噛んだ。 「五年前です。妻が出て行ったのは。健太は二歳でした」 父は台所を見た。 「お母さん、どこ行ったのって聞かれて。母親を悪く言えなかった。自分が悪かったとも言えなかった」 父の喉が動いた。 「それで、あのヤカンを指してしまったんです。お母さんは、ヤカンになったんだって」 台所から健太が戻ってきた。先生は健太を見た。 「お父さんに、言える?」 父が顔を上げた。 「え?」 健太は足元を見た。 「お父さん」 「お前……分かってたのか」 「うん」 健太はうなずいた。 「いつから」 「たぶん、幼稚園のころ」 「じゃあ、なんで」 健太は台所を見た。 「お父さんが、お母さんを悪い人にせんかったけえ」 父は口を開いたが、声は出なかった。 「だから、ぼくも、ヤカンにしといた」 ヤカンが、かすかに鳴り始めた。 「ぼく、知っとるよ。お母さんは、ヤカンじゃない」 健太は初めて父を見た。 「でもお父さん、ヤカンに水を入れる時だけ、ちょっと普通になるんよ」 父はその場に座り込んだ。 「ごめん」 「ぼくに?」 「ああ」 健太は少し考えて、台所を指した。 「じゃあ、お母さんにも謝っとき」 ヤカンが鳴った。 ぴひゅーう 健太が眉を上げた。 「お母さん、怒り方へたくそになっとる」 父は泣きながら笑った。 湯が沸いた。父は湯呑みを二つ出し、先生を見て三つ目を出した。手は、もう一つへ伸びかけて止まった。 「三つでええよ」 「ええんか」 健太はヤカンを見た。 「お母さんは、もう湯呑みいらんけえ」 父は、三つ目の湯呑みを静かに置いた。その日、お母さんはヤカンではなくなった。 けれど次の朝も、健太は台所で言った。 「お母さん、おはよう!」 父も少し遅れて言った。 「お母さん、おはよう!」 ヤカンは何も答えなかった。ただ、磨かれた腹に、父と息子の顔を、少し丸く映していた。
理由もなく元気がなくなってしまう日は、時間に関係なくお酒を飲んでしまう。 心が悪魔に犯されている 悪魔が口の中から入って尻から出てきては、それを繰り返しているような気持ち悪さと、絶望感がある。 普通でいられない事が、人間以下になってしまったようで、生きていることが辛く、申し訳ない。 早く私の事を犯し飽きて、何処かへ行ってしまえばいい。 そう思っているところに、家族が赤色のコントローラーを買って帰ってきたので、この辺で失礼します。
初めて入るカフェ 端的に言ってハズレだ カフェオレはおいしい 静かで センスがあって 雰囲気もいい けどハズレだ 客のひとりがあの人に似てる 顔がそっくりなのではない ただ なんとなく あの人のことが思い出されてならない 言葉にするのが難しい そんな気配を身にまとってる 焼いてない食パンが好きで レタスが好きで トマトとは相性が悪いあの人 本を読むのが好きで 花が好きで からだを動かすのは苦手だったあの人 目玉焼きをうまく食べられなくて ゆでたまごの殻をむくのが上手で 甘いたまご焼きが好きなあの人 いい思い出ばかり でも すべて 思い出でしかない 遠い過去のこと すぎてしまったあの日のこと もうつかめないものたち いつのまにかその客の姿はなくなって けれど、きっとわたしがこの店に来ることは もうないのだろう だって この店はハズレだから 端的に言って
「まるでホラー映画みたいですね」 過去から連れてきた人間は、私たちを見てそう言った。 「どうして、そう思うんですか?」 「皆、同じ顔だからです」 最も美しい顔が、科学的に導き出された。 よって、人類は皆、最も美しい顔へと整形した。 ルッキズムのない、理想郷だ。 しかし、昔の人間は、そんな理想郷をホラーと呼んだ。 「とても参考になりました。ありがとうございます」 私は、その人間を過去に帰した後、研究者仲間たちに結果を報告した。 仲間たちは皆、鼻で嗤いながら意見を述べる。 「AIが人間のように振舞った時も、AIを恐れていたらしいですしね」 「人間が滅ぼされるとかも」 「やはり、理解できぬ技術には、恐怖を感じる物なのですよ」 結論、『それは人間の性質であるため、人間の恐怖を考慮する必要などない』と出た。 アイスブレイクが終わったところで、仲間たちは真剣な表情に変わり、本題へと移る。 「では、計画を勧めましょう。人類一体化計画を」 自信満々に話す仲間たち。 私は恐怖心を抱えながら、それを聞いていた。 個性のすれ違いから発生する争いをなくすため、人類の魂を抽出して一つに束ね、個性を一つに集約する計画。 恐い。 私が私でなくなるような気がして恐い。 生きていながら死んでしまうようで恐い。 しかし、これはきっと、理解できない技術だからこそなのだろう。 個性が一つになってしまえば、今より便利になったと喜ぶに違いない。 私は腕に注射を打ち、感情を消し、手を挙げる。 「抽出した魂が消滅しないように、一時的に保管する必要があると思います。その際には、死者の魂をつなぎとめる例の技術が転用できるかと」