死ぬ権利

ある政治家が緊急記者会見を開いた。 真剣な面持ちでマイクの前に立つと、集まった記者たちに一礼した。 「私は、国民の皆様の死ぬ権利を保証します」 政治家は動じず、淡々と語り始めた。 「我が国の医療費は年々増加しています。私は、医療費削減のため『尊厳死還付支援金等に関する法律の一部改正を認める法案』を国会に提出しました」 ざわつきの中、政治家は続けた。 「医学的に延命治療が不可能な患者様が尊厳死を選択した場合、延命を続けたときにかかる医療費の半分を還付金として支給します。 申請の妥当性は、AIのみで構成される第三者委員会が判断します。本人、家族、後見人等が尊厳死を理解し、同意することが前提です」 テレビの画面を見つめる女。 その隣には、長い間管につながれたまま眠り続ける夫がいる。声をかけても反応はない。そんな時間が一年を超えていた。 テレビの司会者が、評論家の女に質問した。 「あなたの立場から、今の社会の風潮をどう考えますか?」 「最初は倫理的にどうかなと思いました。でもね、家族の金銭的、精神的負担を考えるとね。国も医療費を減らしたいと思っている。時代の流れかしら」 法案は成立し、運用が開始された。 AIは、不正申請や悪質な養子縁組なども瞬時に判断した。 その実績を政府は大々的に報道し、制度の正当性をアピールした。 あの政治家が再び記者会見を開いた。 「政府は規制緩和の一環として、支援金の有効活用を目的とする民間企業の商品開発、および第三者委員会のAIの一部利用を許可します」 感嘆の声が会場に響いた。 支援金は国民の生活に変化をもたらした。 「故人からの最後の贈り物」として美化され、生活の一部となった。 夫婦の病室。 温かいタオルで夫の体を拭く妻。 医師やAIからは、すでに受理のサインをもらっていた。 署名をすれば終わる…。 妻が机の上を見つめた。 そこには、笑顔で寄り添う二人の写真が飾られていた。

お狐さまと暮らす特に何も起こらない日常:06

【晴れときどきくもり、つごうにより回想 その四】  お狐さまと暮らすようになってからの食生活は、もちろんそれは以前に比べたら、ということではあるのだけど、たいへんよくなった。ひとりの生活というのは食生活に限ったことばかりでなく、自分さえそれでいいんならいいんじゃないの、がふんだんにあふれた閉鎖的な世界。そうじゃない人の暮らしというのもなんとなく知らないわけではないのだけど、どうも僕からしたら、無理してないかそれ、というもののような気がしてしまい、到底マネなんてできない。しようという気にもならないけど。  何つくるかなと仕事が終わって考えながら駅を降りて、でも疲れてるからそれこそテキトーに弁当でも買って、より疲れてて弁当を買うのすらメンドーなら買い置きの袋ラーメンですましてしまえ、な感じ。今日だけ、が明日も、明後日もになっていって、今日も明日も明後日も、に変化していくのなんて、あっという間のことだった。さすがにヤバいと思ったのは、ごみ袋にその残骸だけがたまっていくのを見たときだった、空虚に、袋ラーメンの残骸だけが。  誰かとの食事は楽しい。そのことを知った。その相手が食べものへの感覚の近しい存在だとより楽しい。そのことも知った。お狐さまの存在が、そのことを教えてくれた。なかでも一番楽しいと思えるのは買いものだ。 「何にしよっか?」  言う相手がいるというのは、それだけでうれしくなる。たとえそれが、 ―おあげさんがあれば、あとはなんでもいいのだが  と、決まりきった返答であったとしても。   ・  その日、お狐さまは甘いものを持って帰ってきた。 ―頂きものをしてな  それなりに雰囲気のある丁寧な包装は、僕が口にしたことのないランクのものを予感させるには容易だったのだけど、僕に想像させるにはいささか無理があった。  夕ごはんがすんで、その包みを開け、お狐さまは言った。 ―ほう。これはたいへんよいものだな 「やっぱり、わかるもんなの?」 ―やっぱり、とは? 「いや、なんというか…」 ―まあ、なんというか、頂きものは、よくするのでな  お狐さまは、それ以上は聞いてくれるな、ということなのか、会話を打ち切るように持って帰ってきたおせんべいにとりかかり、さっそくいい音を響かせた。 「おせんべい好きなの?」 ―うむ。いい音のするものは好きじゃな  お狐さまは好きなものだけしか食べないのではなくて、さまざま幅広く食べる。その柔軟な姿勢と食生活がお狐さまのこの性格の源にもなっているのかなと、僕は好感を持っている。 「かりんとうとかも?」 ―よいな 「だんごとか、大福とか、好きそうに思ってたけど」 ―あれらもたいへんよいな 「音はしないけどね」 ―いや、口のなかでな、よい音をかもし出すのだ。もっちりとな  そう言ってお狐さまは満足そうにニンマリした。 「今度、買ってくるよ」 ―気をつかわんでよいぞ 「そうじゃないよ。僕も食べたいしさ」 ―うむ。で、あるならば  目にはできないちいさな風がやさしく風鈴をゆらし、ちりんとささやきがあって、夜はゆっくり進んでいった。

世界の終わりに君と【sideA】1

 テレビには、赤く発光する巨大隕石が映っていた。もはや天体ではなく、災厄そのものだ。 『衝突は明日午前十時二十分と予測されています』  アナウンサーの落ち着いた声が、逆に現実味を奪う。  最初に報道されたのは数週間前のことだった。  映画のような話だと思っていたが、各国の研究機関が同じ結論を出し、一週間前に政府が会見を開いた。  地球規模の絶滅。助かる方法はない。落下地点に一番近い日本列島は、衝突の瞬間に蒸発すると専門家は言った。  逃れる術はない──誰も疑わなくなったころ、街からは人影が消えた。  私は四十二歳、独身。都内のマンションで一人暮らしだ。  勤め先は休業になり、同僚たちは家族の元へ帰っていった。最後のオンライン会議で誰かが「また来週」と言ったが、誰も訂正しなかった。  実家に帰ろうかと考えたが、交通網はすべて止まっている。  電話をかけたのは、最後くらい声を聞こうと思ったからだ。  二十歳で家を出た以降、両親とは連絡を取っていない。  理由を人に話したことはないが、信仰のせいだと自分では分かっている。  両親にとって神は、何を差し置いても優先させるべき存在だ。──子供よりも。  歳を取ってから、責める気持ちは薄れた。そうしなければ、あの人たちも生きてこられなかっただろうと思うようになったからだ。  信仰は彼らの心のよりどころだったが、私にはそれが合わなかった、それだけのことだ。  母が出た。声を聞いて、少し胸が詰まった。 「最後に話せてよかった」 「そうだね」  短い沈黙の後、父に代わった。 「祈っているか」  私は何も言わなかった。 「祈れば、神は必ず──」 「ねえ」と私は遮った。 「なぜこうなったと思う? 神様がいるなら、なぜ」  父は答えなかった。代わりに、小さく祈りの言葉を呟き始めた。聞いたことのある、子供の頃から耳に馴染んだ言葉だった。  私は少しだけ目を閉じた。  怒りはなかった。悲しみとも違う。ただ、もうこの会話は終わったのだと分かった。最後もこの人たちはこの人たちだ。そしてそれを、今さら責める気にはなれなかった。 「元気でね」  それだけ言って、電話を切った。 ──翌日、テレビがその宗教団体の集団自殺を伝える。  両親のスマホはすでに通じない。でも、不思議と納得し、動揺もしなかった。あの人達はそれが天国への近道だと思ったのだろう。  テレビは昨日の夜に沈黙し、部屋は静寂に包まれた。  窓の外には、人影のまばらな街。皆、最後の時間を大切な人と過ごしているのだろう。私は一人だった。  ふと、若い頃に恋人と通った丘の公園を思い出した。リュックに残りの食料と水を詰め、部屋を出る。使うことはないと分かっていても、手ぶらで終わりを迎える気にはなれなかった。  街は静かだった。車は走っていない。コンビニのガラスが割れていた。中はすでに空だった。  公園のベンチに老人が一人座って空を見上げていた。道の端に、誰かが置いていったのか、荷物が散らばっていた。路地の奥から、賛美歌のような歌声が聞こえた。  私は立ち止まらなかった。  坂道を登りながら、彼のことを考えた。  出会ったのは大学の頃だ。サークルの帰り道、駅の改札で定期券を落とした私を、後ろにいた彼が拾ってくれた。  それだけのことで、なぜ付き合うことになったのか、今となっては思い出せない。気づいたら隣にいた、という感じだった。  よく二人で自転車に乗った。行き先を決めずにただ走って、疲れたところで止まって、途中で買ったパンを食べる。  どこへ行ったかより、風の感触や彼の横顔の方がよく覚えている。  夏祭りの夜、浴衣を着た私を見て彼は「似合う」と言った。当たり前のことのように、さらっと。それが嬉しくて、でも照れくさくて、私は「知ってる」と返した。彼は笑った。私も笑った。  冬にはこの丘に来た。夜景を見ながら、どちらからともなく手を繋いだ。冷たい風の中で、彼の手だけが温かかった。何も話さなかった気がする。話す必要がなかった。  別れたのは二十年前──理由は、今となっては曖昧だ。  些細な行き違いだったと思う。謝るより先に意地を張って、会いに行くより先に時間が過ぎた。  連絡が途絶えたのがいつだったか、もう正確には思い出せない。  二十年経って残っているのは、怒りでも後悔でもなく、ただ景色だった。風と、笑い声と、温かい手の感触。  丘への坂道を登りながら、私は思った。  あの人は今、どこにいるのだろう。  最後の日を、誰と過ごしているのだろう。  答えは出ないまま、足だけが前へ進んだ。

疑問

あなたがいないと生きられないと言っていた昔の恋人が、海の向こうから知らない子どもの写真を送ってくる。 辛かったときのことを思い出すと辛くなるのに、楽しかったときのことを思い出しても楽しくならない。 先に手を出されてもやりかえすなと教えられたのに、人をおもちゃにして遊んでいた人の方が我慢していた人よりも幸せそうにしている。 自分が好きで大切にしているものよりも、つまらなくこなす仕事の方が今日の生活を守っている。 映像の向こうで笑いを運んでくる人のドキュメンタリーは、いつも苦しい場面ばかりを映す。 特に何かが変わったつもりもないのに、歳を重ねるだけで大人にされる。 疲れて喧嘩して帰っただけの旅の記録を、思い出とうそぶいて大切にしまう。 誰でもない自分になりたいと願うくせに、機械がおすすめする人気のコンテンツに時間を使う。 死んだことなんてないはずなのに、生きたくないだけで死ぬ人がいる。 そこにいるわけがないとわかっているのに、魂の安息を願って手を合わせる。 誰かといると疲れて、苦しくなる。 一人でいると寂しくて、苦しくなる。 知っていることが増えるたびに、わからないことが増える。 わからないことが増えるたびに、知りたくないことが増える。 疲れるだけなのに、意味もなく走る。 くたびれたあとの眠りは、少しだけ心地よくなる。 今日を満足に過ごせなかった体で、明日の幸せを願う。 誰に伝わるかもわからない言葉をつづるときは、少しだけ優しくなれる。 自分のためでない朝日に、救われるような気になる。 何も見えないままでも、もう少し続いていく。

彼はトラックの運転手

 きみの仕事は運転手だ、と言われた。  制服をぱりっと着こなした前任の上官に、無造作に手渡されたキーを使い、一風変わったトラックに乗り込んだ。特殊な形をしているが、運転に支障は無い。  これからこの運転席で、幾度となく経路を往復することになるのだ。この上官がやってきたように。  トラックの後ろでは、係の者が複数名で、積み込み作業をしているらしい。何百もの荷があるのだから、上を下への大騒ぎだ。  耳障りな、と彼は思い、聞こえないふりを決め込んだ。  荷台のドアが閉められたら、出立である。これからが初仕事だ。  エンジンを吹かした。  相変わらず後ろが騒がしかったが、エンジン音がそれらを少し上回っている。  ブオンブオンブオンブオン。  これが特別製のトラックの音かと、彼はぼんやり思ったが、さしたる感慨は無かった。  そうっと、アクセルを踏む。重い車体がぐうんと動き出す。  あとは、走るだけ。ただそれだけ。  焦るなよ、との指示だった。上官にしつこく注意されていた。  焦ったら積荷のためにならない。必ず時間をかけて慎重に走れ、と。  まだ、どこか遠くの方で、大騒ぎするような声が聞こえた。しかし運転手の彼には、関係のないことだ。しがない運び手には。  自分は指示された通りの場所に向かうだけだ。  前だけを見て。  騒ぎ声は、だんだんと小さくなっていく。  関係のないことだ。  彼は己に言い聞かせる。  自分は上官の仕事を引き継いだだけなのだから。  町を抜けて、森の中に敷かれた道路を、ゆっくりと進んだ。  あともう少し。もう少しだけ走らせれば済む。  目的地であるヘウムノに到着すると、そこには荷物の積み下ろし係が待ち構えていた。  エンジンを切った。  辺りはしんと静まりかえっている。  それはどこか慄然とするような静謐さだった。彼はとっくに思考を放棄していた。  荷台のドアが開き、積荷が一気にどさっと落下する音が聞こえた。  彼は一度も後ろを振り返ろうとはしなかった。  一度たりとも。  ◆◆◆  1942年1月、ヴァンゼー会議で、ユダヤ人を絶滅させるという方針が確定した。  ドイツ国家社会主義労働者党、通称ナチスの、最大の罪悪のひとつである。  これ以降、ユダヤ人を可能な限り速く大量に殺害することが求められ始めた。その手段の研究開発は、各地で加速していった。  中でもヘウムノ絶滅収容所は、小規模ながら能率の良い殺害方法をとった。  細工を施したトラックを用いるもので、エンジンから排気ガスを荷台へ送り込み、一酸化炭素中毒によって〈積載物〉を大量死させる手法である。  これによって〈作業〉は大幅に効率化された。ガス・トラックでの移送中に虐殺し、到着地では遺体を焼却するだけで済むようになったのだ。

嫌われた理由

私はお金持ち。 あんま好きじゃない男子が告白してきた。 私束縛激しいけど大丈夫? むしろそっちが好み! 私二日に一回旅行行くけど大丈夫? 一緒に行こう! 私部屋メロ○ョイだらけだけど大丈夫? 俺にも触らせて! はぁ。 その時 私の頭に電流が走る。 私金ないけど大丈夫? じゃわかれよバイバイ 勝った…!

東京生まれのTさん

「旅行へ行こう!」 「行こう行こう!」    盛り上がる友達。   「すまぬ。某は、ここを出られぬ故」    断る某。   「Tっていっつもそうだよな」 「東京の人は、東京に来いって言うばかりで、自分からはいかないよな」    呆れた顔で去っていく友達。    某は、窓から外を見た。  東京の街はいつものように、黒い邪気によって囲まれていた。  東京生まれ東京育ち純潔の都民にしか見えぬ、東京の正体だ。   「許せ、友たちよ。某、邪気の外に出ると死んでしまうのだ」    東京の汚い空気を吸って育った人間は、綺麗な空気を吸うことができない。  肺が、東京の外の人間とは異なる進化をしてしまったのだ。    某だって、外の世界を見てみたい。   「破ァーッ!」    手に力を込めて、邪気に向かって波動を放つ。  しかし、邪気に一瞬穴が開いただけ。  すぐ塞がって元通り。        数日後、友達からメッセージが届いた。   『富山の海鮮美味すぎ』    某は、精一杯の強がりを込めて返信した。   『東京でも食べれるよ』

WAKOU

 隣街は和光市だ。 様々な人達が住む。 ヤンキーやチンピラが多い(風評被害) 昔日本に倭寇という戦闘集団がいたらしい。 僕はぶるぶる震える。 ご飯があるうちはいいが無くなったら何をするか分からない。 僕は畑で野菜を作る。 倭寇=和光 練馬の百済は海賊に襲われないように文献を読み農地を耕す。 半島は戦地になりやすい。 済州島から来たあの子は元気だろうか? 仁川の畔で釣りをしたい。 エレキテルな思想を持って作品を創りたいが僕の書く文章は読書感想文なので(なんか書いててヘコんできた)どうにもまとまりがない。 浅草の芸人は醜女好きだが美人に縁がある。 煙草吸いの職人に憧れる。 浮世はどうにも落ち着かないが工学をもっとやっとけばよかったと思う。 昔原付を盗まれた。 海賊は今日もバイクで練馬を闊歩する。 練馬の傘職人は雨乞いと農作業と日記を書き今日も飢えをしのぐ。

買い取り屋

公園のベンチに、白髪の女が座っている。 女はスマホを眺めながら、小さなため息をついた。 「どうした、そんな顔して」 顔見知りの男が声をかけた。 「あぁ、あんたか。いや、娘から連絡があってな」 「疎遠になってる娘か?」 「結婚して、子どもが生まれたんだ。顔見にこいって」 「おぉ、よかったじゃないか」 女の隣に、男が座った。 「金がないんだ。電車代と、孫になんか買って行かんと」 「それもそうだな」 「あんた、金貸してくれ」 「ダメだ。今日の軍資金がなくなる」 男は笑いながら指差した。 「そこの路地んとこに、店があるだろ。そこ、買い取り屋だから何か売って金にしろ」 「はぁ……売れるもんない」 「孫が生まれて嬉しい気持ちを売ればいい」 「そんなもん買ってくれるのか」 「半分だけならいいだろ」 女は、路地裏にある買い取り屋の扉を開けた。 「どうだった?」 「半分だけ買い取ってもらった」 女の頬が緩む。 「じゃあ、今から孫のとこ行くんだな」 「ん……今日じゃなくていいだろ。軍資金も入ったし、ちょっとだけ行くか」 「お前なぁ……」 自動ドアが開くと、賑やかな音楽が聞こえた。 女は軍資金を胸のポケットに入れ、いつもの台に座った。

小説家と泥棒さん

“自身の小説をバズらせる方法” そう表紙にでかでかと書いてあった 「ありがとうございました〜」 結局買った、そんなのどうせ意味ないのに これで何冊目だろうか、小説家の本を片っ端から買い漁っては読んでないのに放置、なんて沢山あるこれなら、売った方がまだマシだろなんて時々思う、 袋から開けてない物を、1回しか読んでないものだってあるからだ、 これもどうせ、読まずにその辺に捨てられるだろう、そんなことを思いながら私は家に帰った 「ただいま」 そんなことを言ったって、誰も返事はしない 「おかえり」 「…は?」 返事が、返ってきた…? 「あはは、お邪魔、して、ます」 「だ、だだだだ誰ですか!?」 一人暮らしの家に帰ったらおかえりなんて返事が来たら誰だってびっくりするだろう、 「あ、泥棒してまーす」 何この泥棒チャラチャラしてる!? 「け、警察…!」 「あ〜!それだけはマジ勘弁!待って待って!」 「…は、はぁ?」 とりあえず、その人にお茶を入れることにした 「私はサナよろしく」 「私は、葵です、どうも」 泥棒が名前を名乗っていいのか…?などと疑問はあったが、とりあえずこちらも名乗るだけ名乗っておいた 「この部屋凄いねー!いっぱい本がある!」 「ほとんど読んでないですけどね」 「なんでよ!勿体ない!」 「ほぼ同じことしか書いてないし、参考になんてならないから」 「いいと思うんだけどな、特に事“小説家の基本”とか」 「それなら沢山読んだ、飽きたけどね」 「小説家なの?」 「売れないね、」 「へぇー!」 「小さい頃からの夢だったの、」 「将来は絶対に小説家になる!って昔はあんなに言っていたのに」 「現実の蓋を開けてみればこうだよ」 「ま、人生なんてそんなもんじゃん」 「私だって、そうだよ、昔はね警察官になりたかったの、」 「泥棒じゃん」 「まさにそれな笑」 「人生なんてね願ったもん勝ちよ!」 「それに、私は好きだよ葵の小説」 「…え?」 「いつも買ってるんだよ!私!」 「どういう事…?」 「わかんないか、ま、仕方ないか」 「待って、ほんとに意味がわかんないどういうこと?」 「泥棒じゃ、」 「推しの家に入ってみました〜泥棒としてね、」 「初めて出し方作品は“幸せとは”だったでしょ」 「5年前の…」 「その頃からめっちゃ追いかけてたんだよ」 「最近も本が出てなくて心配したし、」 「な、んで、」 「救われたんだよ、あなたの本に」 「飛び降りる勇気より相談する勇気!」 「大好きだったな、その言葉」 「なんで、」 「最近、あんまり出てないから心配してて、」 「そしたら、見つけたから…後をつけて、家まで特定したの」 「ごめんなさい、迷惑でしたよね」 「そんなこと、ないよ」 「…え?」 「サナみたいな人が居るのは嬉しいよ」 「ありがとう、サナ」 「…!」 「ただし、不法侵入はダメだよ」 「はい、」 「でも、これを作品にしたい」 「…?」 「一緒に作品作ってくれる?サナ」 「私でいいなら…是非!」

底辺の唄

「私は何もできないのだ。私は誰にも劣るのだ」    旅人が、嘆き、歩く。    地に横たわる者どもは、旅人に踏まれ、呻き、苦しむ。  力いっぱい踏まれたので、力いっぱい血を吐いた。   「なんと。靴が汚れてしまった。嗚呼、不幸だ」    旅人は、ハンカチを取り出して、靴を拭いた。  そして、赤く染まったハンカチを、放り投げて捨てた。    ハンカチは、横たわる者の口に落ちた。  そして、呼吸の邪魔をした。    横たわる者どもは、ただ横たわるのみ。  手足を動かすことができず、口を動かすことができるのみ。  呼吸の邪魔をされた横たわる者は、呻き、死んだ。   「大切なハンカチが使い物にならなくなってしまった。なんという不幸の連続。今この瞬間、私以上に不幸な人間などいないだろう」    旅人は、瞳から大粒の涙を零した。  ぼたりぼたりと。   「恵みの雨だ」 「雨だ」    涙は、横たわる者の口へと落ちた。    横たわる者どもは、ただ横たわるのみ。  手足を動かすことができず、口を動かすことができるのみ。  誰かが口に物を入れてやらねば、ただ死ぬのみ。    旅人の涙によって、横たわる者の何人かは、命を繋いだ。    旅人は、歩き続ける。  何年も何年も。  ただ、歩くという行為を継続する。  その命尽き果てるまで、変わらぬ世界を生き続ける。  不幸を嘆きながら。  横たわる者どもを、最後まで地面であると疑いもせずに。

自分が好きだから

私は、私が大好きだ 笑ってる私、誰かと話してる私、誰かに認められている私 私は、何をしていても可愛い 勉強出来ない私も、ドジで可愛いと思う スポーツしている時も、ご飯を食べている時も、何をしていても私は可愛い私はそう思う でも、みんなはそう思わないみたい、 「気持ち悪い」「自分大好き女かよ」 「地雷系じゃん、最悪」 「近寄らないようにしよ」 みんなはそう言って離れていく でも、私は気にしない だって、私自身が居るから 私が好きで何が悪い? 私が可愛くて何が悪い? 自分のことが好きで何が悪い? 何がいけない? そんなの、どれが決めた? 誰も決めてないから私は私を愛す 誰にも愛されなくても、私自身が私を愛す、認める だから、平気だ私は私が入れば生きていける 周りの目とか評価とか気にしない 好きなことをして何が悪いって話だ

バレンタインデーのプレゼント

 今日はバレンタインデー。  恋人たちが愛を分かち合う神聖な祝祭。  片思いにとっては運命の日。  私も同じ恋する乙女だから、皆をつい応援しちゃう。  でも、そんな内気な自分はやめにする。  今年こそは勇気を振り絞って、今にも張り裂けそうな“愛”を彼に届けたいと思ったから。  笑った顔も、伏し目がちに黒板を見つめるその横顔も。  クラスのざわめきに少しだけ遅れて振り返るそのしぐさも。  全部があまりにも美しすぎて、それがいつか消えることなんて耐えられなかったのだ。  だから私は最大級の愛の証明として、“残す”ことに決めた。  ――誰にも壊されず、誰にも消されない場所に  私の部屋の壁は、ほとんど空いていなかった。  教室で居眠りしている彼も、駅前でスマートフォンを見下ろす彼も、誰かと肩を並べて歩く彼も、みんな同じ大きさで同じ距離に貼られている。  少し画質が荒いものもあるけれど、それが人生の甘美さ。  でも私は分かってる。愛は時代唯一の不変だと。  どれもとっても大切な瞬間だから、優劣はつけられなかった。  彼の全てがここにある。彼の生きた証は私が全て記憶する。  私が残しておかないといけない。  愛を知る私以外できないことなの。 「……今日中に完成させなきゃ」  私は椅子に座り、パソコンの画面を見つめる。  保存が完了するたびに小さな通知音が鳴る。  それを確認して、ファイル名を整えて、また次の写真を選ぶ。  これは単調な操作だけど、全てのクリックが彼そのもの。  ミスなく実行しなければならない。  そして当たり前だけど、ただまとめてアルバムを作るのじゃ足りない足りない足りない足りないそんなものは愛じゃない愛は形を変えて残ってこそ愛いつか消えるものなんてそんなものは糞以下の何物でもない真実の愛は世界と繋がる刻印となってこそ満たされる愛は脆くない強いものなの愛は命より愛おしいの。  私は保存形式を間違えないようにもう一度確認した。  慣れてることほどうっかりミスがあるものだ。  愛は時に牙をむく。噛まれちゃったら泣いちゃうかも。  でもきっと平気。愛はやがて超越されるものだから。 「……大丈夫だよ、もうすぐあなたは世界になるからね。心配しないで」  私は写真を選んで、文字列だけのリンクを作る。  世界中に分かれて置かれる場所。  どこにあるかは、私にも分からない。  誰か一人が拒んでも、もう無かったことにはできない場所。  次に小さなメッセージを入力する。  長い言葉はいらない。  一度書いたら、二度と上書きできないから。  送信ボタンを押すと、画面の表示が変わる。  履歴に戻っても、そこにはもう何もない。  これで大丈夫。  彼はちゃんと残る。  もう誰も彼の軌跡を邪魔できない。  私はすぐに彼のSNSのメッセージ画面を開いた。  長い説明は書かなかった。  愛は、  読むものじゃなくて、受け取るものだから。  ===  私からの気持ちです。  ここからいつでも見られます。  https://cloudflare-ipfs.com/ipfs/QmXXXXXXXXXXXXXX  ===  プレビュー画像が、自動で読み込まれた。  これが愛の“刻印” 「愛してる」  送信。  画面の表示が、少し遅れて変わる。  それからしばらく待つと――  名前の横に、小さく「既読」の文字が浮かんだ。  それだけで十分だった。  理解されなくてもいい。怖がられてもいい。  でも、もう彼は世界に刻まれた。  誰にも消せない形で。  チョコレートよりもずっと甘くて、  ずっと永遠なハッシュを。  ちゃんとプレゼントできて、良かった。

或る七夕の日に

 彼女は水溶性。  僕は揮発性。  水溶性とは水に溶ける性質のこと。  揮発性とは空に溶ける性質のことだ。  彼女は雨の日には肌から少しずつにじみ出て、最後には水たまりに溶けていく。  僕は晴れた日には皮膚の隙間から気化して、空にすこしずつ溶けていく。  つまり、雨の日には彼女が消えてしまい、晴れた日には僕がいなくなる。  ひとりが安定しているとき、もうひとりは不在になる。  だから僕たちは、めったに会えない。  すれちがう気象現象みたいな関係。  それが、僕たちの体質だった。ふたりの、ささやかな欠陥。とてもふしぎだけど、そういう話。  僕たちが一緒にいられるのは、高温多湿で風のない午後に限られている。  湿度は70パーセント以上、気温は26度以上、風速1メートル以下。  そんな天気なんて、一年でそうそうおとずれない。  梅雨と夏のあいだのほんの数日。ちょうど七夕のころ。  今年のその日が来るのを、僕は心の中で、ずっと数えていた。  7月7日、午後2時。  空はどんよりと曇っていた。けれど雨は降らず、風も吹かない。アスファルトからは湿気が立ちのぼっている。  駅前の公園。ベンチがひとつだけあって、彼女が座っていた。  スカートの裾を両手で押さえながら、遠くの空を見ている。  輪郭がぼんやりとにじんでいて、まるで霧の中にいるようだったけれど、それでもちゃんと待っていた。  目が合って、ふたりで笑ってしまった。  こういうとき、泣くか笑うか迷って、だいたい笑ってしまうのが僕たちだ。  「やっぱり、来てくれたんだね」  僕が言うと、彼女はふわりと笑った。  「うん。だってやっぱり、今日だよね」  湿った空気のなかで、彼女の声は水の中みたいにやわらかかった。  「ちゃんと同じ日をえらべた」  たった一言に、今までのあいだに言えなかった言葉が、たくさんしずんでいた気がした。  「駅から走ってきた? 空気が揺れてた」  「うん、ちょっと。間に合わなかったらどうしようと思って」  「ちゃんと間に合ったね」  「ふふ、わたしちょっとにじんでるでしょ」  そう言った彼女の声のなかに、ほんのすこしだけ、水の音がした気がした。  「でも、大丈夫」  空気はぬるく、アスファルトのにおいが強くなっていて、遠くで蝉が一度だけ鳴いた。  ベンチで並んで座る。指先がふれても、どちらも溶けなかった。  彼女の髪は湿気を吸ってわずかにうねっていた。  話したのは、どうってことのないことばかりだった。最近読んだ本のこと。ベンチに新しくできたひび割れのこと。  ふたりでアイスを食べて、どっちが先に食べおわるか競争もした。  アイスが溶けるより、彼女の手の方が少し先に溶けてた。それでも彼女は、笑っていた。  そのあと僕たちは、湿った空気のなかで、ふかく、深呼吸をした。吸って、吐いて。  たったそれだけで、目の前の空気が、すこしだけ形をもった気がした。まだ吹いていないけれど、もうすぐ風が吹くのを、僕たちは予感していた。  空の色が、ほんのすこし明るくなっている。  気温もすこしだけ下がってきた。  僕の指先にも、風の気配がふれた。  「もうすぐかな」  「うん。今年も、すぐだったね」  「来年もまた」  「うん、またここで」  彼女の言葉の、最後のひとことが水になる。  僕のすがたも、それを追うように揺らいだ。  風が吹いた。ほんのすこしだけ。  たったそれだけで、僕たちは一緒にいられなくなる。  次の再会まで、あと364日。  それまで僕たちは、空のどこかにまぎれている。目には見えないけれど、たぶん、すぐそばに。  髪のうねる季節まで。

言語破壊

「まじ、ヤバみでエグみでまんじ」    道行く若者の言葉を聞いて、私はひどく悲しい気分になった。  日本語が、日本語でなくなっていくように感じて。    まじ、とはなんだ。  日本語には、『本当に』という言葉がある。  ヤバみ、とはなんだ。  日本語には、『危険そうだ』や『難しそうだ』という言葉がある。  エグみ、とはなんだ。  いや、本当になんなんだ。    形を変えていく、あるいは消滅していく美しい日本語が、私は恐くて仕方なかった。   「どう思う? ばあさんや」 「東京生まれのあんたがンなこと言ってんでねえ!」    恐怖をばあさんに共有しようと思ったら、まさかのお叱りが返ってきた。  意味も分からず、私は首をひねる。   「変なことを言ったか? 日本語を守ろうとしているだけなのだが」 「あんた、あたしゃが嫁いできたとき、なんといったか覚えとらんのかー!」 「……なんか言ったっけ?」 「『これから東京に住むんだから、方言も直そうな』とか言いやがったんじゃ!」 「言ったな。東京に住むんだから、標準語の方がいいと思って」    ばあさんの言葉の意味が分からずに固まっていると、ばあさんは鬼のような表情へと変わった。  鼻息を荒くして、しわくちゃの顔に、さらに深いしわを作った。   「何が標準語じゃ! 明治に入って整備されただけの、人工若者言語じゃねーか! うちの方言は都が京都の前から存在するわ!」 「いや……でも……標準……」 「黙れ! 江戸より前の人間から見れば、じいさんが標準語って呼んでる日本語も、十分に若者言葉じゃたわけ!」    言葉が詰まる。  今まで、自分の言葉が標準で普通と考えて、疑わなかった。  しかし、ばあさんの言う通り、味方によっては自分の言葉も若者言葉になるのかと気づかされた。  まじも、ヤバみも、エグみも。  二十年もすれば、標準語として使われているのかもしれないと思うと、なんだか自分が恥ずかしくなった。   「すまぬ、ばあさん。私が間違っていた」 「じいさん。分かればいいんじゃ」 「私もこれからは、積極的に新しい言葉を使っていくことにするよ。じじい、日本語を使いこなして、まじでエグいじじいになる!」 「いや、それはキモいからやめて」    ええええええええええええええええええええええええええ。

現状維持

 次の日、朝は消えた。  厳密にいうと、朝から昼にかけて、空の色がオレンジ色になった。  雨が降った日は曇り空。晴れていたら茜空。雪の降る日は白い空。太陽は東から昇り、西に沈む。夜を迎えるまで、空が青くなる瞬間はなかった。 「これじゃあ、夕方と区別がつかないじゃないか!」  ということで、私達の知る朝、あの青空を正しく取り戻そうと、いくらかの人々が動いた。彼らは『朝と昼の会』を結成し、署名活動を行った。でも、彼らの思惑通りに事は進まなかった。  ある人曰く、「べつに青空じゃなくてもいいじゃんね? オレンジ色のほうがカワイイしー。むしろ最高じゃん!」  ある人曰く、「私ね、夕焼けが好きなんです。見てくださいよ、この燃えるような色。素晴らしいじゃないですか。この空がいつでも見られるなんてね。願ったり叶ったりですよ」  と、まぁ、必ずしも「オレンジ色の空のほうが好きだ」という意見は多くなかった。それでも青空を見せない朝に、人々は存外あっけなく適応していった。  『朝と昼の会』の活動が下火になった頃。今度は、茜空が消えた。  日が昇り、日が沈むまで、空は真っ暗であり続けた。ただ、太陽の光は白く、照らされた大気は少しだけマゼンタに染まっていた。  朝も昼も夕方も、区別できないまま存在を消した。時間帯はすべて「夜」に統一されたかに思えたが、それは空のきまぐれで。我々にとっては、起きて活動する時間がちょっとだけ短くなる程度の変化だった。  ある政治家は言った。「これは政府の、国家の陰謀だ!」  あるコメンテーターは笑った。「あなた、政治家でしょ? ご自身の立場をお忘れで?」  ただのコントだった。いつもの調子でしゃべっているだけ。だから、あまり笑えなかった。  この世界の仕組みだって、きっと同じ。いつ太陽が沈み、月が昇ったのか。べつに気づけなくたって、生きていけないわけじゃない。いつものこと。至極当然のこと。  今日も、人々は通勤カバンや通学リュックを携えて、交差点を渡っている。信号機の真下には一人、プラカードを掲げた人物が立っている。  カードには一言。『朝と昼と夕方と夜を取り戻す!』  はて、そこに「夜」と書かれていたことが、ひどく印象的だった。  私達は日々、突如として何かを失う可能性にさらされている。予告のない会議。予告のない告白。予告のない爆弾。それでも人々は適応して、そのたびにどこかでプラカードが掲げられる。きっと、そういうものなんだろう。  我が物顔で道を歩く子ども。髪の手入れに余念がない青年。ミニマリストを極めた店員。電話の前で深呼吸するあなた。真面目を褒め言葉だとばかり思ってきた、どこかのしがない物書き。  モノは変わる。空も犬も人も。増えたり、減ったり、伸びたり、縮んだり、欠けたり、老いたり、腐ったり、壊れたりして。モノは変わる。  でも、変わらないものがある。変わりたくて、変われなくて、変わらない。そんな今をかわるがわる享受する他にないなら。ないなら……  私は黙って空を見上げた。真っ暗で、吸いこまれるようで、答えもくれないソイツを。  ハハ。朝とか昼とか、そんなふうに分類していた頃が懐かしい。今。ここには今しかない。  だから、笑った。プラカードを持つ手が少しふるえた。仕方ないって、目の前の私が笑ってた。

野乃と「のの」

「のの」は、ちゃんとごはんをたべる 食欲がないなんてことがない 毎日、毎回、きちんとたべる とてもえらい ほめてあげると笑顔で  そうであろう、そうであろう みたいな顔をして、胸をそらせ、自慢げになる そうやって得意げになっちゃうとこも、かわいげなのかな たくさんごはんをたべて 元気に活動して お昼寝もして また 元気に活動して お昼寝をしたから 夜、寝られないかと思っていたけれど ちゃんとしっかり寝られて 朝もしっかり起きられて たくさんごはんをたべて 元気に活動して やっぱり お昼寝もして お昼寝もして お昼寝もして そうやってだんだん 私も 「のの」みたいになっていく

愚かすぎてかわいくて

 少し動けばじとっと汗をかくのに、イスに座ったままでの作業なら寒いくらいという梅雨独特の空気を冷静に受け止めイラッとした。そのことに気がつかなかったら、そういうものなんだとあっさり流せていたら、気持ちを波打たすこともなかったろうに。 「なんか元気ないですねえ」  自覚はある。後輩の子から声をかけられるくらいの元気のなさ。その子の声と表情の具合は、心配してるふうがあんまりない。それでいい。  それでも、ごはんはきちんと食べられている。自分でつくってもいる。複雑ではない、シンプルで、時間のかからない、それでいて、それなりには満たされるものを。ちゃあんと味もしている。何を食べても粘土のよう、なんて一時期おちいったときみたいなことはない。トマトはトマトの、にんじんはにんじんの、じゃがいもはじゃがいもの、それぞれの味を感じられている。十全と、とまではいかないかも。判別はできている。それでいい。  このところ、気がつくと旅館のことばかり考えている。特定の旅館ではなく、いままで泊まった場所でもない。かと言って奇抜でもなくやはりそこは旅館だ。もしかしたらそんな旅館はこの世にないのかもしれない、あるかもしれない、そういった旅館のことを。しかし、いくら思ってみてもそのなかに私の姿を見つけることはできない。自分の行きたい場所と自分の行ける場所との相違。ケーキ屋の話くらいなら小さな不満でも済ませられるのだけど。 「なんか最近、多いですねえ」 「え?」 「どうしました?」  のぞき込んでくる後輩ちゃんの背景からサイレンが聞こえている。あれは、救急車か。 「ううん。なんでも」  サイレンを鳴らすみっつのクルマ。パトカー、救急車、消防車。昔やんちゃだったという新入社員の青木くんは、そのうちふたつ、パトカーと救急車に乗ったことがあるのだと歓迎会の席で自らの過去を打ち明けた。タクシーの運転手とトラブルになり周囲の人に通報された。尿管結石で歩くのもままならなかった。恥ずかしさも交え、けれどどこかヒーローじみた部分もにじませて話すそのノリは男子学生を思わせ、先輩の男性社員たちからはおおいにウケ、女性陣からは幼く、下に見られるのに十分すぎるものだった。 「今度、消防車乗るんだって言ってましたね」 「ああ、青木くん?」 「なんかあの話聞いてからサイレン聞こえてくるたびアイツのこと思い出しちゃって」 「ふふ。ちょっと気になる?」 「どこがですか」 「そうよね」  実はもう、関係を持っている。そう言ったらこの子はどんな顔するんだろう。少年みたいでね、けどあれでいてけっこう激しめでね。教えてあげることはないんだろうな。 「戻りましたあ」  ひときわ大きな声がして青木くんが入ってくる。振り返り「お疲れさま」と伝えるたんなる事務的で無機質な私の言葉を青木くんはそれなりの意味を含んだものとして捉えてしまう。表情がそう言っている。意味なんてないのに。それこそ、あの夜のことにしたって…… 「これ、お願いできますか?」 「うん。いいよう」  青木くんはいつも、となりの後輩ちゃんにものを頼む。そしてこそっと、こちらをうかがう。私は、顔の右半分でそれを感じる。 「さっき、また救急車とおってなかったですか?」 「ああ、ね」 「なんか、サイレンの音ってわくわくしません?」 「あのさ、不謹慎すぎるよ」 「ですよね。すいませえん」  そんなやり取りのあいだも、私を盗み見てくる青木くんが、愚かすぎてかわいく思える。後輩ちゃんと話してるとこ見せて、私のこと少しじらしてなんて、私を支配してるつもり? 彼が本格的に勘違いしちゃう前に終わりにするのがよさそうかな。心のほうはとっくに、準備できてるのだけど。  就業時間を三十分ほどすぎたころ、支度をして事務所を出る。また今度、合コンしましょうね。この夏はサイパンかなって思ってて。カメラの前で笑うのはいつも私に向かってなんですよ、どこにいてもですよ、すごくないですか? 駅までの途中、一方的に聞いてあげる後輩ちゃんの話はバラエティに富んでいる。私にはそこまでのチカラはもう、なくなってしまった。 「あ、また」  サイレンを忙しく響かせパトカーが走り抜けていく。あの顔が、浮かんで、消える。 「じゃあここで」 「うん。また明日ね」  ひとりになって、その余白を埋めるように着信がある。青木くんから。見られてるのかな、そんなタイミングに思うところは特にない。着信を拒否して、スマホの電源を落とす。ごめんね。でも遊びでもなかったよ。あれはあれで、そのときはいくらかでも本気だったんだけどね。言い訳を夜空に向かって放り出し、私は、自分の行きたい場所へと歩き出す。そこが、自分の行ける場所でしかないのかは、まだわからないのだけど。

リスと笑声

 他人の笑い声というのは恐ろしい。道ゆく人が談笑していると私はつい身構える。何か危険があるのではないかと。対象が若ければ若いほど怖い。  幼少期、私を取り巻く笑い声は決まって、私を馬鹿にするものだった。プリントを受け取っただけで、先生の質問に答えただけで、教室中の子どもたちが私を笑い物にした。廊下ですれ違うだけでくすくす笑われることもあった。誰もが私の敵だった。  その時の身体感覚が三十路になっても染みついたままだ。赤の他人が自分を攻撃するはずがないと頭では分かっていても、反射的に体が強張る。耳を塞ぎたくなるので、近頃はいつもイヤフォンをつけて通勤している。今もいつものバラードが鼓膜を震わせている。  あのね 君の心をとじこめるために 僕は  林檎を一つ いちばん甘そうなのを 剥いてきたんだ  だからね 僕のそばにいて いつまでも変わらずそばに  未来 未来永劫  ケケケ、と歌を遮って耳障りな笑声が聞こえた。私は勢いよく手を耳に当て、イヤフォンを強く押し込んだ。ところが笑声はいよいよはっきり聞こえてくる。ケケケ。ケタケタ。  やめろ、と私はパニックに陥って辺りを見回す。どこのどいつだ。私にこんな惨めな不快感を与える不届き者は。  リスだった。  特定外来生物としてここいらで広く繁殖しているタイワンリスが、四つん這いでガードレールの上に乗り、じっと私を見上げていた。 「ケタケタケタッ」  タイワンリスは人のような声で鳴いた。だいたいタイワンリスというのはケタケタ鳴く生物だが、人の声に似せてこられるのは頂けない。そればかりかそいつはこんなことを言った。 「よくぞ我が声を聞き届け、我が幻術を破ったな。褒美に一つ願いを叶えてやろう」  勝手にイヤフォンに割って入っておきながら太々しい物言いだ。タイワンリス如きに私の悩みなど分かるまい。だが、こいつらがケタケタと鳴く時は相手を威嚇しているのだと聞く。相手を嗤うよりは遥かにましだ。むしろヒトより親しめる気がして、私はすんなりと問いかけていた。 「願いってどんな」 「殺したい奴らとかおらんのか」  物騒な話だ。いるにはいるが、どちらかというと私のあずかり知らぬところで死んで欲しい。  しかし、そうか。人の命を奪えるのか。ならば私の恐怖をなくすくらい、やってくれるだろうか。やってもらっても、いいだろうか。  私は息を吸って、少し言葉に迷い、やがて口を開けた。 「……私の周りの」 「うむ」 「知らない他人が、私に分からないことで笑い合う現象、あるでしょ」 「うむ」 「あれをやめてほしい」 「どういうこっちゃ」 「他人の笑い声が、怖いんだよね」 「妙なことを言う奴だな。お主の周りで人が笑わねば良いのか」  タイワンリスは首を左右に傾けたかと思うと、ぴょこりとそのふさふさしっぽを立てて左右に振った。 「ほれ、叶えてやったぞ」 「もう?」 「容易いことよ。ともかく、我は幻術をかけ直すでな。これにて失敬」  タイワンリスは目の前で景色に溶けるようにしてドロンと消えた。  どう考えてもタイワンリスと喋った経験の方こそけったいな幻覚に違いないのだが、あれは現実の出来事であったらしい。というのもそれから三ヶ月経った今に至るまで、私の周りの雑踏は奇妙な程に静かなのだ。  道ゆく人の顔は皆一様に無である。あ、何か話してるな、と思っていた仲睦まじい男女も、私のそばでは黙る。複数人ではしゃいでいた子どもたちも、ぴたりと大人しく神妙になる。息を潜めているわけではない。感情を抜き取られたかのように無機質になるだけだ。  大分へんてこである。思っていた形とはやや異なる。どう考えても不自然だ。これで本当にいいのだろうか。  だがお陰様で私は平穏な日常を手に入れることができた。これで雑踏の中でも心穏やかでいられる。笑い声に過敏になる必要はない。どういう仕組みかは全く分からないが、便利なものだ。いやむしろ素晴らしい。  謎のタイワンリスには感謝せねばなるまい。また改めて会えるとも思えないが、機会に恵まれたら礼を言って菓子の一つでも与えてやりたい。  今日も静かだ。無言で行き交う人々は皆一様に能面のような顔つきになる。私の周りでだけその鋭利な刃を隠す。凪いだ環境に安心する。誰も私を傷つけはしないのだということが、明瞭に分かる。  念のためまだイヤフォンは手放さずにいたが、明日あたり外して歩いてみても良いだろうか。とりあえず音量をいつもより一段階下げてみてから、私は周りと同じく無言で前を見つめて、帰り道を急いだ。  恐れもなく怯えもなく、安穏とした心境である。  あのね 君の心をとじこめるために 僕は  林檎を一つ いちばん甘そうなのを 剥いてきたんだ  だからね 僕のそばにいて いつまでも変わらずそばに  未来 未来永劫

おんなともだち

「お先に失礼します」 タイムカードを押し、会社を出る この季節は19:00でも明るい 僕は、もともと、友達は少ない方で、ドラマの様な何でも言える仲の友達となると、一人もいない。 同僚や先輩、後輩にも腹を割って話すなんて、ポーズでしかしたことがない 駅前の居酒屋に寄りビールを頼む 「喜んで!!」 そんな僕は異性の友達となれば尚の事、いないし、そんな関係はあり得ない。必ず下心が芽生え、最終的には恋愛対象になってしまう。そう、信じていた。が最近、同じ会社の女性とよく話すことがある。仕事ではなくちょっとした雑談を。そりゃ最初は可愛いなと思って話していたが、お互いに既婚者で酸いも甘いも知っている大人だからか、良い距離で話せている。 「ビールと御通しです。喜んで!」 仕事終わりのビールほど美味いものはないな タッチパネルで枝豆ととん平焼きを頼む 「喜んで!!」 彼女との会話は楽しい…というより楽だ。相性が合うのか、もう、恋愛をしないでいいと分かりきっているからなのか、自然と話せる 彼女は初めての女性の友達なのかもしれない 勿論、連絡先は聞いていないし、職場以外で会う気もない。いや、会ってしまったらどうなるのか分からない。分かっていると言うべきか。 「枝豆ととん平焼きです。喜んで!」 明るい髪の若い女性が持ってきてくれた ユニフォームなのか皆、甚平を来ている 若い女性と話すのが楽しいとは思わないが、褒めて可愛がるのは楽しい 喜ぶ顔が心に染みる。キンキンのビールのように ただ、居酒屋に客が入る度に、彼女を探してはしまうけど。 「御一人様、喜んで!!」

駅の落とし物

寝坊をして急いで駅に行く。完全に遅刻だ。 ホームはいつもと違い通勤ラッシュが過ぎて穏やかな雰囲気になっている。 自販機の前で小さな女の子と母親がどれにするか楽しそうに話している。 その近くにホームから線路を覗くスーツ姿のオジサンがいた。 私が会社に遅刻の連絡をしている間も、ずっと線路を入念に観察している。落とし物なら駅員に言えばいいのだが、まさか降りて取らないよなっなんて思うくらい真剣に探している 「落とし物ですか?」 「え、あっ、はい。そうなんですよ」 「駅員に言って取ってもらったほうがいいですよ」 「はい、そうなんですが、どこに落としたか分からなくて」 「何を落とされたんですか?イヤホンとか?鍵とか?」 オジサンは笑顔で右腕を上げながら応える 「右手です。この間轢かれたときに、右手だけ、どこかへ行ってしまって」 「ママこれなに?」 自販機の下を覗いて小さな女の子が何かを指さしている

音ハラ対策

「それ、音ハラですよ!」    パソコンをカタカタと叩きながら、時折大きな独り言を零す同僚に、私は勇気をもって指摘した。  同僚は手を止めて驚いた表情を浮かべた後、小声で一言。   「ごめん」    翌日、会社全体で、音ハラに悩んでいないかと言う社員へのヒアリングが行われた。  匿名だったので、遠慮なくぶちまけた。   『ボールペンのカチカチ音が五月蠅い』 『鼻をかむ音が不快』 『ペットボトルを潰す音が耳障り』 『ストローの音が嫌』    翌週、会社全体に、音ハラ対策の施策が広報された。  私は快適な職場環境を期待し、広報を確認した。   『1.職場での会話禁止』 『2.パソコンの使用禁止。スマートフォンを使用すること』 『3.ボールペン・シャーペンの使用禁止。鉛筆を使用すること』 『4.職場での鼻かみ禁止。トイレでかむこと』 『5.ペットボトル・缶・瓶の持ち込み禁止。水筒を持参すること』    私は盛大にひっくり返った。   「こんなの、厳しすぎます!」    私は、規則を決めただろう総務部に怒鳴り込んだ。  総務部の人たちは私を見た後、口の前に人差し指をたてて、一枚のポスターを指差した。   『会話禁止』

極めて完璧な家族

「足りない」    一台で巨万の富を得た男は、齢五十に近づいき、飢えを感じていた。    並の人生を歩んだかつての友たちは、すでに子をもうけている。  子が大きくなった、志望校に受かった、ようやく手が離れたと、散々変化を訊いてきた。  当初はそれを、自分の時間を子と言う謎の存在に吸い取られている愚行と考えていたが、いつの日からか自分が決してできない経験だと考えが変わった。    だから、作ることにした。   「まずは、妻を買おう。友たちが自慢していたのは、可愛いことと、料理が美味しいことと、自分を立ててくれるところだったな。全部を持った女を妻にしよう」    男は、部下に指示を出した。  部下は世界中を回って、一人の女を連れてきた。  男の条件にぴったりだったので、男は女を妻にした。   「次に、子供を買おう。友たちが活き活きと話していたのは、育児に手がかかることと、有名な学校に受かることと、手が離れることだったな。では、三人の子供を持とう」    男は、部下に指示を出した。  部下は世界中を回って、三人の子供を連れてきた。  男の条件にぴったりだったので、男は子供たちを養子にした。   「家が手狭になったし、引っ越そう。子供部屋が三つあることは必須だな」    男は戸建てを購入し、引っ越して新生活を始めた。   「ほぎゃああああ!」    子供の鳴き声は煩わしかったが、耳を塞げば問題なし。  朝起きれば、庶民的な料理を作って待つ女がいて、「おはよう」と挨拶する子供たちがいて、学校の話を振ればぶっきらぼうに答えてくれる。  男は満足げに朝食をとり、その後仕事で家を出て行った。   「私の子供も、今は東大を目指していてね」    男は外で、家庭の話をするようになった。  周囲の人間たちが驚くのが、男は楽しかった。    多忙ゆえに朝と夜しか家にいないが、男は家族と言う買い物に概ね満足していた。   「これは、使用人や部下と何が違うんだ?」    だが、時々我に返っていた。  自分で育てる楽しみと、完成した物を買う楽しみ。  男はまだ、その違いに気づかない。

ラブレター

「えー!?それはショックー、それ、見つけちゃったことは彼氏には言ったの?」 土曜日の昼下がり、演劇部の稽古を終え、私とさくらはいつものファミレスのボックス席に座っていた。さくらはアイスティーが入ったグラスのストローに手を添えたまま、目を丸くして固まっている。予想通りのリアクションだ。 「いやーそれがねー、中々言い出せなくて…」 「うーん、まぁ、言いづらいかー…」 腕組みを始めてうーん、と唸るさくらに、私は慌てて付け足した。 「まぁ、ほら、でも、昔のラブレターだし、卓也ももうあの手紙を持ってることすら忘れてるかもだし…」 「確かにその可能性は高いよね。それにまぁ、元カノでしょ?手紙読んじゃってショックなのは分かるけどさー、七美ももう見なかったことにして、忘れちゃえ忘れちゃえ!」 さくらはそう言うと、私の肩を叩き「ちょっとトイレ行ってくる!」と席を立った。 注文したコーヒーに視線を落とし、小さく溜息をつく。 卓也の引っ越しの手伝いをしているときだった。机の引き出しから、卓也宛の昔のラブレターを見つけた。さくらは「そんなの別れた後も取っておくかね〜」と肩をすくめていたが、実は私は卓也がラブレターを取っておいていることは気に留めていなかった。 ー卓也くんが、私の運命の人だと思うー 運命の人…ー その一文が、強烈に脳裏に刻まれていた。 冷めたコーヒーを、口に運ぶ。 ラブレターを読んだ後、その手紙はすぐに引き出しの奥に戻した。これを読んだことは忘れよう。忘れよう…ーと思っていたはずだった。 でも実際は、何度も手紙の内容を思い出していた。 私はあの手紙を読んで、この相手以外は何もいらないと思えるほど、一緒にいることが幸せな恋がこの世に実在すること、そしてこの人が運命の人だと言葉にできることが現実であることを知ったのだ。 だけど、私は…ー 私は一度でも、誰かにこんな感情を抱いたことがあっただろうか。 コーヒーをまた一口飲んだところで、さくらがボックス席に滑り込むようにして戻ってきた。「ただいま~」と言ってアイスティーの残りをストローで吸い込んだ後、「あ!」と思い出したように人差し指を立てる。 「そうだ!今日って映画館でロミオとジュリエットが始まる日じゃん!観に行かない?キム・ジャックマンが主演のやつ!」 「ロミオとジュリエットかー。ちょっと重くない?あれって悲しいラブストーリーだよね?」 「確かにちょっとヘビーラブだけど、でも、まぁ、フィクションだしさ!キムが拝めるなら私はなんでもいいわ~」 フィクションだし。さくらの言葉が胸の奥に引っかかる。 さくらはスマホを鏡代わりにして、リップを塗り直していた。私もコーヒーを飲み干し、二人で会計に向かう。 冷めたコーヒーの苦味が、舌の上にまだ残っていた。

ゆううつな雨の日 ようやくたどり着いた玄関で靴を脱いだとき、つま先に感じるわずかな湿り気 「不快」というありふれた言葉で片付けてしまうのは、あまりに味気ない このじっとりとした感覚を、自分の言葉であらわしてみたくなる 冷たさの戯れ 雨つぶの余白 ぐじゅぐじゅのまにまに … … … ふ… やれやれ まったく、似合わないことをした キッチンへ向かい、マグカップを手にする あたたかな紅茶を入れ、けれど、口にはしない 忘れ去られ、冷めてしまったくらいが、いまの私にはお似合いだろう 少し間の抜けた温度とくすんだ渋み やっぱり、それくらいがいいようだ

地球が風邪を引いている

 地球が風邪を引いている。 一瞬何を書いているのかわからなかった。 昔読んだ漫画で地球が急速に滅亡していく題材の漫画を読んだことがある。 みんなピリピリしている。 環境汚染、蔓延する化学物質、医療産業で薬漬けにされる人々、原発事故の放射能etc... そりゃ人類も風邪を引く。 かく言う僕も精神科に通っている。 馬鹿風邪引かない。 馬鹿風邪引いてることに気付かない。 免疫力強くてあまり風邪引かない。 競争からすぐに逃げるので(むしろ文明から遠ざかってばかりいるので)ストレスあまり溜まらない。 僕の通う犬小屋病院はいつまで持つのだろう? 新宿でへたり込んでいた青年は僕のあったかもしれない未来かも知れない。 文豪精神すぐ病む。 もしくは人に八つ当たりする。 金借りまくる。 自分の性癖を晒す。 でも僕は半分女なのでしかしだらしなく規律を守らないグウタラ男でもあるのでしょうもない。 今日は病院でコーラスをした。 少し気分が晴れた。 また明日も地球が病む。 精神の痛みは肉体のそれと交わり皆風邪っ引きなまま世の中にレスポンスし続ける。 覚醒作用のある覚醒時間帯に吸う煙草はマズいが(もう吸い続けて20年になる)何かを煙と共に掻き出す。 白濁液を見つめ小便を出し堆肥を混ぜると何かを成した気がする。 実際には些事かもしれない。 今宵も紫煙が僕を生き長らせる(カッコつけすぎなので近所の犬を撫でて寝る)。 犬も迷惑だろう。 ヘックション。

通学中、バスに乗る。 するととなりのカップルから聞こえた。 「ねぇ、歌手の天音ねむって実はここら辺に住んでるんだって笑! えがち?俺はこの○○中か□□中にいるって聞いた! ○○だったら同じ学校じゃーん笑!」 噂とは恐ろしい。 芸能人の噂だと芸能人は困る。 当たったり外れたりする。外れることのほうが多いが。 なぜならこの前、ずっと顔を見せなかった歌手が髪長くて切れ長の瞳、赤の服が好きという噂が流れてきたから。 実際、その歌手は私の友達で、髪はミディアム、目は丸いたれ目、赤の服などいやといって一回もきたことがない。 噂はどこからながれてくるのだろう そんなことを考えた。 私――、天音ねむこと篠原唯依はスマホを取り出し、人気歌手ねむの噂に関する掲示板を見漁った。

夏の帰途

 七月の瀬戸内海沿岸を走る一台の車がいる。和泉ナンバーの軽自動車の窓は開け放たれて片手でハンドルを握る女は気だるげだった。  五年ぶりの帰省は半ば強制的で、玉虫色の返事しかできない女に業を煮やした母親が「ご飯作って待っとるから!」と言って話は終わった。昔から勢いに押されてしまう自分にほとほとうんざりしながら、女はむせ返るほどの磯の匂いを嗅いで潮目が幾重にも続く海を眺める。  新幹線を使う気にはなれなかった。乗り継ぎの逆算なんて面倒な真似までして時間を短縮したいわけじゃない。  のんびり帰ろう。女の心にはそれしかなかった。尾道インターチェンジで山陽道を降りたとき、いっそのことしまなみ海道を渡って松山からフェリーに乗ってやろうかとすら考えたほどに。けれど女は素直にさざなみ海道を選んだ。  よく晴れた梅雨明けの七月だった。  女の荒んだ思いをよそに久しぶりの海は凪いでいる。  大阪に移ってまだ間もない頃、阿波踊りを見に新しくできた友人と徳島に行ったことがあった。その帰り道、夜の淡路島を経由したとき、海を隔てた向こう岸じゃ大阪府の街明かりが北から南までずらりと続いていて、女はあの光景から自分が住む場所がどれほどの規模なのかを肌で感じた。  それは奈良でも同じことだった。葛城山とか生駒山とか、名前だけ聞いたことのある山々の稜線をくっきりと映し出すほどに、大阪府の明かりは夜通し強く輝いていた。  車内ではポッドキャストを流していた。それがいきなりけたたましい音に切り替わった。スマホを連携させていたカーオーディオのディスプレイに『母さん』と表示されたアイコン。 「なに?」 ――あんたいまどこ?まだ着かんの? 「さっき糸崎を過ぎたとこ」 ――もう二時過ぎよ。もしかしてあんた呉線で来てるの?なによ駅まで迎えに行こうとしてたのに。なんだってわざわざ。  矢継ぎ早な母親の言葉にハンドルを握り込む。女は磯の匂いを鼻いっぱいに吸い込んだ。 「海が……」 ――え?なに? 「海が見たかったんよ」  その場しのぎの嘘だった。しかし口にしてみると実はそれが本心だったのかもしれない。自分はこの海が見たくてわざわざ新幹線を選ばなかったのか。 ――まあ分からんでもないけど、こっちの都合も考えてほしいわ。 「あと、うち車で来てるから。まだ当分かかるよ。迎えもいらん」 ――はあ?あんた……。 「どのみちちゃんと帰るんだし、ええやろ。ほなね」  女は一方的に通話を終了させた。ほんの些細な反抗に過ぎなくても彼女の気分は少しだけ晴れている。  母親との会話中に速度が落ちていたのか、後方に車が付いていたのでアクセルを踏み込んだ。セミが鳴いている。小学生二人が自転車で歩道を駆けていった。海沿いのセブンイレブンに停まり、キリンレモンを一本買った女は車へは戻らずに、すぐそばにある海まで歩いた。  防波堤もテトラポットもない。腰丈ほどのコンクリート塀から下を覗けば、ちゃぷりちゃぷりと波が優しく打ちつけている。  静かだ。この海はどこよりも静かな気がする。まったく『さざなみ海道』も名ばかりではない。ひと息ついてこの海と向き合ってみれば、別に大阪まで行かなくともこのあたりでよかったかもしれない。ろくな仕事はなさそうだが。牡蠣の殻剥きとか、信用金庫の職員とか。  対岸の島は生口島だろうか。島の木々はまだ深い緑には染まりきっていない。波こそ穏やかだが、漁船とフェリーが忙しなく行き交う海だ。呉まで行けば海自と海保の船も当たり前に見かける。  女は自分の髪の毛が夏の陽射しで熱を帯びるのを感じる。三ツ矢サイダーよりも甘さが控えめな右手のキリンレモン。それを美味しいと思えたのは大人になってからだった。 「わ、い、ず、み」 「いずみって読むんよ」 「かあさんちがうし。わいずみってかいとるし」  背後の駐車場から、きっと女の車をきっかけにした親子の会話が聞こえた。  女の母親は愛媛の出身だ。どうしてか愛媛の言葉遣いには「やねん」のような関西弁混じりが珍しくない。女の住む本場の関西と違いイントネーションはこの地域と同じだ。  実家に着けば母親の小言が待っている。でも都会で過ごした五年の歳月は、女に世間擦れとか世渡りというものを与えた。その証拠に電話越しであったが、かつての女には難しかった口答えの真似事もできた。  なぜ大阪にいる間にはっきり「帰らない」と言えなかったんだろう。  目の前の海がそうさせたのか、と女はふと思い、自嘲気味にひとり笑った。  少しでも母親の小言を減らしておくため、ごはん何?とラインを送る。口うるさいが子煩悩な人だからきっと良いように受け取ってくれるだろう。  七月の瀬戸内海沿岸で、女は残りのキリンレモンを一息に飲み切ると、汗を拭いながら和泉ナンバーの軽自動車の方へ向かって歩き出した。

ロマンティックな虫

「虫を触った後は手を洗えって言われる。虫を触ったその手で触らないでって。」 「そりゃそうですよ。みんな虫嫌いですもん。」 虫好きの先輩が言う。 「確かに嫌いなのはわかるよ。でもどうして手を洗わないといけないの?」 「まぁ」 そんなに疑問を持つことだろうか。 「別に誰かを嫌がらせたいわけではないし、手を洗うのがめんどくさいわけでもないの。ただ疑問なだけなの。」 「そりゃ関節虫タッチ的感じだから?」 「何それ。」 先輩が笑う。先輩を笑わせられた。やったー。 「さあ」 「ハエとかゴキブリだったら菌を持っているかもしれないから、洗わないといけない。それはわかるよ。」 「ゴキブリとか触った手で私に触れないでくださいね」 本当に触ってきそうな先輩だ。 「それは汚いから触らないけど。でもトンボとかバッタとかヤスデとか、菌を持っている可能性が低い虫でも手を洗えって言われるのはなんなの?」 「そりゃ嫌でしょ」 「汚いから?それともキモイから?」 「私は汚いから嫌ですね」 そんなに疑問を持つ先輩がおかしくかわいく思えた。 「でも多分人間の口の方が不潔だし、スマホの画面のほうが汚いよ」 「たしかに」 熱弁してる先輩の横顔、綺麗だな。 「でもみんなスマホ触った後、手洗わないでしょ?」 「まあ」 「それが虫になった瞬間、どうして手を洗わないといけないの?」 「一理ありますね。」 先輩ってたまに論理的なこと言う。 「キスするカップルがいるじゃん」 「めっちゃいますね」 「あっちの方が不潔でしょ?口内の細菌、交換してるんだよ?」 「そんな言い方やめてくださいよ」 先輩の変な言い回しに笑ってしまった。 「あれはロマンティックで憧れられて、虫だったらキモがられるの意味がわからない。」 「虫とロマンティックは無関係ですから」 「いや、虫もロマンティックだから」 ロマンティックな虫ってなんだろう。 「結論、どうせ見た目でしょ?果物を選ぶときだって、服を選ぶときだって、関わる人間を選ぶときだって見た目で選ぶでしょ?」 「関わる人間は中身で選びますけど」 「じゃあ私と関わるとき、中身で選んだの?」 ハッとした。私は先輩に一目惚れして、先輩と関わり始めた。 「ごめんなさい。外身です」 「まぁ許す。こんなバカみたいなまとめ方したけどさ。私が言いたいのはさ。」 「はい」 「教室に虫が出たとき私がとってあげてるのに、早く手洗ってとか汚いとか言われるのか嫌なだけ。」 「それは嫌ですね」 私なら汚いとか絶対言わないのに。 だって私は先輩のこと、 だめ。こんなこと思ったら、世間にとっての虫になってしまう。

ダイスを振る夜

最近気になる人がいる 行きつけの居酒屋に来る女性で 買い物袋を隣の席に乗せ、カウンターでビールを飲んでいるのをよく見かける 買い物帰りに少し飲んでから帰るのだろう 見た感じ少し年上 痩せ型で胸が大きい 髪は長めで背中の真ん中辺りまで伸びている 目は大きくはないが色気がある 彼女はいつもスマホを見ながら食べては飲み、飲んでは食べる。彼女は一時間もしないで店を出ていく。去り際の腰がいやらしくて良い 毎回、声をかけよう。今日こそは挨拶しようと意気込むが、勇気が出ず、怖気付いて酒をあおることになる。 彼女はきっと人の奥さんに違いない 買い物の量が一人暮らしではないと思う 人妻は男性に声をかけられたら警戒するだろうか 今日こそはと居酒屋に入り、彼女が来るのを待つ 少しして彼女が来た 彼女はいくつか注文をしてスマホをいじる そのタイミングで声をかけてみた 「こんにちは」 「ど、どうも」 「良かったら一杯奢らせてください」 「え?…あぁ…じゃあ、お言葉に甘えて。本当に良いんですか?」 彼女が買い物袋を反対の席に置いてくれる 声をかけられるのに慣れている感じがする 私は空いた彼女の隣の席に腰を下ろす 丁度、彼女のビールが届いたので乾杯をする 彼女がネイルをしていたので、その話を皮切りに、あれこれと話が弾む。 お互い大人なのか、自然に笑って、丁度良い距離を保って、ちょっとしたハプニングを楽しむ 彼女が帰ったあと、私は彼女との会話を思い返す 旦那がいるがいつも帰りが遅いこと 子供は多分いない 最近、親が亡くなり気持ちが落ち着がないこと 微かに煙草の匂いがすること 彼女はいつもよりお酒を飲んだらしく、最後の方は、私の肩を叩いて笑っていた 明日も会えるだろうか もし会ったら、もう一歩踏み込んでしまおうか 彼女の食べかけの焼き鳥を手に取り、具を歯で甘噛みし、一気に串を抜く 焼き鳥を味わいながら、彼女の手の振り方を真似してみる

激安弁当店

商店街にある小さな弁当屋。 レポーターの女が、スマホのカメラを向けた。 「お店の前には、たくさんの人が並んでますね。 では、おじゃまします」 「いらっしゃい」 夫婦が、せわしなく切り盛りしている。 「人気のお弁当屋さんですね」 「うち、安いからな」 「このご時世、信じられない安さです」 大将のフライパンを振る手が止まった。 「こんな店でもさ、いろいろやってんのよ」 「そうなんですか」 「それなのに、これ見てよ」 おかみがスマホの画面を向けた。 「何ですか、これ。ひどいですね」 「安すぎるってさ。何を食べさせられてるか、怖いらしい」 話をしている間も、途切れることなく弁当は売れていく。 「だからさ、出どころをはっきりさせたのよ」 「それがこの張り紙ですね」 「そういうこと」 壁には、仕入れ先を書いた紙がいくつも貼られていた。 「……この白身魚の国って、どこですか」 夫婦が、ため息をつきながら女を見た。 「あんた、知ったら買うか?」

雑草

今朝の陽は暑くなる一日を告げている 全身で浴びる日光は、そのまま私を強くする 枯れ落ちる迄の、ほんのひと時、もう一度強くなれてよかった 生まれてきて良かった

帰路

都会の夜は汚い。 排気ガスの匂い。酔客の吐き捨てた言葉。ネオンに照らされた嘘と見栄。アスファルトには黒ずんだ雨水が溜まり、空を見上げても星ひとつ見えない。 空気ですら濁っている気がした。 そんな街の真ん中を、一本の川が流れている。 誰も綺麗だとは思わない川だ。 昼間に見れば、水面にはゴミが浮かび、濁った水がゆっくりと流れているだけだった。護岸は汚れ、草は枯れ、近づけば生臭い匂いさえする。 けれど夜になると、その川は別の顔を見せる。 橋の上から見下ろす。 無数の光が水面に落ちていた。 赤、青、白、黄色。 ビルの窓明かりも、街灯も、遠くを走る車のヘッドライトも、すべてが川の中で揺れている。 本物の光よりも美しく見えた。 現実の街は薄汚れているのに、その写し身だけが宝石のように輝いている。 私はその景色が好きだった。 世界で唯一、美しいと思えるものだった。 だから時々考える。 あの光は本当に美しいのだろうかと。 昼間の川を知っている。 太陽の下ではただの濁流だ。 昨夜まで宝石を抱いていた水面は、朝になればゴミ袋を引っ掛けて流している。 美しいと思っていたものの正体は、暗闇が隠していただけの幻想だった。 夜が汚れを見えなくしていただけだった。 それでも私は夜の川を見に来る。 幻だと知っていても。 嘘だと知っていても。 なぜなら、本物の世界には美しいものが何一つ見つからないからだ。 少なくとも私には。 橋の手すりにもたれ、揺れる光を見下ろす。 もし太陽が昇れば、この光は消える。 川の汚れも、自分の汚れも、全部露わになる。 だから夜が好きだった。 暗闇は優しい。 醜いものを隠してくれる。 汚れた川を美しく見せる。 そして私のことも。 水面に映る光が揺れた。 砕けたネオンの残像が、まるで星屑のように流れていく。 綺麗だと思った。 けれど同時に、その綺麗さがどうしようもなく悲しかった。 それは川自身の光ではない。 誰かの光を借りているだけだ。 借り物の輝きだ。 ふと、水面に映る自分の影が見えた。 黒く歪み、光の隙間に沈んでいる。 ああ、と私は思う。 私も川と同じなのだ。 太陽の下では見せられないものばかり抱えている。 だから夜を待つ。 暗闇を待つ。 そして誰かの光を借りて、ほんの少しだけまともなもののふりをする。 川は静かに流れている。 汚れた水を運びながら。 その上で光だけが美しく揺れている。 まるで、この世界には最初から汚れなど存在しなかったかのように。

シンセサイザー (掌編詩小説)

集まってできた人工音 他の音を寄せ付けない孤高の音色 シンセサイザー張り巡らす音色 シンセポップが夜の街を語り 重なり合った原音に耳を澄ませて 鍵盤からの使徒が新たに エレクトロポップを呼ぶ (完)

汚泥に咲く青

 私の中に降り注ぐ酸性雨の毒も随分と弱まった。だが私が溜め込んだ酸は凝縮されたまま、薄まることはない。元は青く美しい湖水だった私も、醜く澱んだ沼となった。再び私の中で生き物たちが栄えることは、もう無いのかもしれない。  しかし、私の周りの土壌は、少しずつ回復しているようだった。幾億の夏を越え冬を越え、それなりに清らかになった雨は、毒を私の中に流し込み、土の中を洗っていった。 「お前、今までずっと潜んでいたのか」  私は岩のすぐ隣に芽吹いた小さな若葉に向けて尋ねた。私の周りに久々に生まれた唯一の生命。地中に染み込んだ毒に耐え抜き、発芽の時を待っていた種。 「突然変異種か? 逞しい奴め」  私はそいつの成長を興味深く見守っていた。元より他にすることもなく横たわっていただけの身だ、話し相手ができたのは僥倖だった。だが、私ひとりが話し相手というのは、当の本人にとっては不幸なことだ。仲間もおらず、交配相手もいない。 「お前、何で生まれてきたんだ。一人だけ生えていたって虚しいだろうに」  少しばかり葉がしっかりしてきた植物にそう問いかけた。植物は何らかの木であるらしく、枝のような形状の部位が見て取れた。しかしこれは何の植物だったか。緑に囲まれていた時代はとうに過ぎ去り、中身の水の入れ替わりと共に記憶も蒸発していた私には、思い出せなかった。  日が昇り、月が沈み、空模様は移りゆく。泥が流れ込み、堆積し、澱みは尚も濃くなっていく。何度それを繰り返しても、私は飽かず植物を見ていた。見ていることしかできなかった、それで充分だった。  植物は順調に成長し、早い段階で花をつけた。  ごくごく小さく、素朴な花が、低い背丈の枝にころんと頭でっかちについている。そして、見たこともないほど鮮やかな青色をしたがくが、花の外側をぐるりと縁取っていた。 「ああ、思い出した」  私は独りごちた。 「紫陽花だ、お前は。山紫陽花の変種だろう。しかし見事な青だな」 「ええ」  そいつは言った。 「土壌が酸性だから青いのよ」 「よく知ってるな」 「当然よ」山紫陽花はつんとして風に葉を揺らした。「祖先の記憶が引き継がれるのだもの」 「そうか。そうだったな」 「そうよ」  山紫陽花は精一杯背伸びをして、辺りを見回した。 「ここは明るくて綺麗な場所だわ」  私は腹の底の泥が逆巻くのではないかというほど仰天した。どす黒く澱んだ水、生命の死に絶えた汚い湿地、じめじめとした毒の溜まり場。体内で魚が泳ぐこともなく、水面が朝日に煌めくこともない。 「昔の方がうんと美しかったじゃないか」 「いいえ、今だって美しいに違いないわ。だって私の生まれた時代なんだもの」 「何だそりゃ」  私は笑った。 「世界はいつだって美しいものよ」  山紫陽花はむきになって言っていた。そうでもしないと生まれた意味を見出せないのだろうと私は思った。 「まあ、一理ある」  私は言ってやった。 「昔の私は青く美しかった。今は青く美しいお前がいる。悪くないね」 「何よ、もっと喜びなさいよ」  山紫陽花はまだぷりぷりしていた。それが何とも愛おしくて、私は意味もなく漣を立てた。  酸の薄まった雨はしとしとと降り続け、山紫陽花は元気にしゃんと背筋を伸ばしていた。時折、ご機嫌そうにころころと歌を歌った。私はそれを聞きながら、ゆらゆらと水面を震わせていた。  そんな日々も長くは続かないことは承知済みのことだ。山紫陽花は次第に色褪せていった。 「しおしおの私でも美しいでしょう?」  山紫陽花の声は変わらず凛としている。 「そうだな」 「だからね、泥の溜まったあなたも確かに美しかったわよ」 「そうかな」 「そうよ。私にとってはそれが世界の全てで、私はこの世界が──あなたのことが好きだもの。だから美しいに決まっているのよ。私、素敵な景色の中で咲けて幸運だったわ」  長々と一息に言い切ったのを最後に、山紫陽花はぷっつりと喋らなくなってしまった。 「そうかい。ありがとう」  私の返事が届いたかどうかは分からない。  雨は上がり、がくの色は白から茶色に移り変わった。枝の先には、花の形をしたからからの残骸が残された。  そしてやはり地中の毒が強かったのか、山紫陽花はそのまま立ち枯れてしまった。こいつが再び花を咲かせることはない。  だが枯れた花の元には小さな種子が、雫のようにくっついていた。 「お前たちは自家受粉をするんだったな」  私はまた独り言を言った。他の個体がいなくとも、紫陽花は子孫を残すことができる。 「だったら私は、後でお礼を言えるわけだ」  私は待つことにした。いつしかぽろりと種子がこぼれて、酸性の土の中に埋まり、また汚泥の中に青を咲かせてくれる日を。  私を美しいと言ってくれた花の記憶を継いだ命が、また芽吹く日を。

アワーグラス

13。13個か。いい数字だ…人々はなぜ13という数を嫌がるのだろうね。不完全な3という幼体を、母なる1がピッタリと蓋をして美しく象ってくれているではないか! ……なぜ怒ってるんだい? 木目の数だよ。どうも君の話は僕の”興味”という名の細胞を刺激することはできないようだ。 それにしてもまた急ごしらえに家を建てたものだ。このアカシヤだかなんだかで作った机を見たまえよ!表面がうねりすぎだ…それとももしかして僕たちの現状を皮肉っているのかい? …わかった。わかったよ。少々ハイになっているようだ。気つけのハッカ酒をくれないかい? それにしても不思議だね。何十人といた僕の同期は今や君一人だけになってしまったんだもの。 僕が生き残ってくれて嬉しいかい?…嬉しくない?…まあいいよ。 僕にとって君は酸素だし、君にとっても、無論そうなのだから。

おねえちゃんな女の子

妹なんてだいっきらい。 ままとぱぱの目を独り占めするし、親戚の集まりでも妹ばっかりちやほやされる。 なんで、なんで、なんで。 あきが生まれる前までずっと私をみてたじゃん。 なんで、なんで、なんで。 意味わからない。 妹、あきが生まれる時、ままは私にプレゼントを渡すときのようにもったいぶって言った。 「はるに」 「なになに?」 「妹ができまーす!」 「え」 妹ができるって普通は嬉しいことなのかな。 私は欲しいなんて一言も言ってないし、ぱぱとまま二人だけでよかった。 なのに、どうして 「うれしい」 生まれて初めて嘘をついた。作り笑いもした。 「はるももうお姉ちゃんだね」 パパが嬉しそうに言う。 何がそんなにうれしいの? お姉ちゃんがいる友達に相談したら、妹いいなーって言われた。 一人っ子の友達に相談したら、兄弟いいなーって言われた。 誰もわかってくれない。 お姉ちゃんなんてやめてやる。 妹なんてだいっきらい。

普通になりたい

「もう少し普通になりなさい」 「どうしてそんなに変なの?」 色んな人に言われた同じような言葉が私の中で繰り返される。 普通、か。 普通とは何か、を具体的に説明してから言って欲しい。 私はいわゆる普通の家庭に生まれた。 父、母、姉が一人。一般的、そう普通。 両親が欠けているわけでもないし、大家族ってわけでもない。普通の家庭。 だけど私は普通ではないらしい。 普通が何かなんてその環境によって決まるのに。 女の子ばかりのところだったら前髪を気にするのが普通だし、芸能界では綺麗なのが普通だ。 普通なんて結局は環境で変化する曖昧なもの。 でも私はどこにいてもその曖昧なものになれなかった。なろうとしてみたこともある。 前髪を気にしてみたり、恋バナに参加してみたり、口元を隠して笑ってみたり。 だけど何か違う。本物にはなれてない感じ。 どんどんボロが出てきて最終的には普通じゃないのがバレてしまう。 みんな陰口を言うのが普通。でもわざわざ、一言注意したら終わることを長々と陰でぐちぐち言う意味がわからない。 みんなスカートを折るのが普通。でも校則を破ってまで、膝を見せたがる意味がわからない。 男好きは嫌われるのが普通。女の子なんて大抵男の子と恋愛をするのに意味がわからない。女の子は大抵、男好きでしょ? 普通になりなさい。って。 性格悪くなってでも、普通にならなきゃいけないの? どうしてそんなに変なの?って。 バカみたいに周りに合わせてる方が変でしょ? 普通になりたい。 そしたら陰口を言う罪悪感も普通への疑問も無くなるのかな。 普通になりたい。 普通だったらきっともう少し生きやすかった。