密告者

「遥……遥ってば」  私を呼んでる? 誰? そうだ……夏帆! 夏帆が! 「夏帆!!」 「びっくりしたー。どうしたのよ? 大きな声をあげて」 「え!? 夏帆! 大丈夫!? 怪我は!!」 「本当どうしたの? 大丈夫だよ。ほら!」  夏帆は元気そうにガッツポーズをとった。さっきのは夢だったの? みんなでカフェに集合して……そのあと夏帆が持ってたトランプで遊んで……お店を出ると車が……。 「はーるーかー。おーい。聞いてる? もうすぐ中西くんと杏も来る頃だよ」  違う。あれは夢なんかじゃない。たしかにカフェを出たあと車が夏帆に……。 「どうして……またカフェに……」 「どうしてって……二人が重大発表があるっていうから集まったんじゃない」 「え? そ、そうだったね」 「もう約束の三時過ぎてる! 何やってるのかしらあの二人」  三時? カフェの時計は午後三時十二分。私はこの時計の針を既に一度確認している。このあと二人が現れて、杏は大きなピンクの紙袋を抱えているはずだ。  カランカラン  カフェの扉が開く音……やっぱり杏は大きなピンクの紙袋を抱えている。中西くんと二人だ。 「夏帆も遥も待たせてごめんね。買い物に時間かかっちゃった」 「なにその大きな袋! それって最近出来たショップのでしょ? いいなー。あそこの洋服可愛いの揃ってるよね」  ……このあと夏帆は、私を誘ってくる。 「遥、あたしたちも今度一緒に行こうよ!」 「そうだね……」 「今日、元気ないね? 何かあった?」 「え? なんでもないよ。ごめんね」  間違いない。どうしてかは分からないけれど、私は事故が起きる前に戻ってきている。それなら……もしかしたら……夏帆を救えるかもしれない。 「杏の買い物に付き合わされて俺は腹が減って仕方ないよ」 「お昼食べたじゃない?」 「あんな小さなケーキじゃ体力もたないよ」 「何か頼む?」 「夏帆ちゃん優しい。夏帆ちゃんが彼女だったら良かったな」 「あっ! 浮気者!」 「冗談だよ! 冗談!」  どうしたらいいの? このまま同じ時間を過ごしてしまったら夏帆が……。 「ね。ファミレスに行かない? その方が色々頼めるし」 「えー! 買い物で疲れちゃったから移動するのやだよー」 「遥ちゃん大丈夫だよ。俺、ここのパスタ好物だし! 杏も疲れてるしさ」 「ここでいいよ、遥」 「そ、それならいいんだけど」 「気を使ってくれてありがとう。遥ちゃん」  駄目だ、同じ流れだ。二人は席に腰をかけてしまった。このあと暫くして中西くんの頼んだパスタが運ばれてくる。 「ところで重大発表ってなによ?」 「お! 夏帆ちゃん、早速聞いちゃう? 言っちゃおうかな?」 「勿体ぶらないでいいよ。はやくはやく」  ……ここで中西くんと杏は見つめあって言うんだ。 「私たち結婚するの」 「おめでとー! そうじゃないかと思ってたんだ。ね? 遥」 「う、うん。おめでとう」 「有り難う二人とも! 暫くは杏と共働きになると思うけどね」 「お待たせしました。パスタをご注文のお客様」  注文が来てしまった……このあと中西くんが食べ終わって夏帆の持ってきたトランプで遊ぶことになるんだ。 「ふぅー。美味かった!」 「ねえ、そういえば、こんな物をもってるんだ」 「トランプ? 懐かしいね。夏帆ちゃんそれ買ったの?」 「うん。お店で見てたら懐かしくなって買っちゃった! 今から遊ばない?」 「いいね!」 「遥もいい?」 「うん」  このあとババ抜きが始まり私が負けるはず。それなら負けなければ……。    ――時計の針は午後四時二十分。ここまで全て同じ。結果が変われば……。  「最後は、あたしと遥の一騎打ちね!」  お願い夏帆! ジョーカーをひいて!  ――夏帆っ!! 「やったー! 遥の負けー!!」 「……」 「思ったより楽しかったな!」 「あっ! 私そろそろ帰らなくちゃ。中西くんどうする?」 「杏を送るよ」 「二人とも幸せそう。遥もそう思うでしょ?」  ……どうしたら……このままカフェを出てしまったら夏帆は……。 「遥?」  もうこれしか思いつかない……。 「遥? どうしたの? いきなりスマホなんて打ち出して。誰かに連絡?」    ブーブーブー 「ん? メール? ……遥? なんでスマホ?」 「どうしたの杏ちゃん?」 「……中西くん。これ……どういうことなの?」  ――これしか方法を見つけることが私には出来なかった。夏帆が中西くんと杏ちゃんに黙って付き合っていたことを密告するしか……それしか……。

   祖父は健康でした。祖父は身体の不自由な祖母を抱え、家事をこなし、毎日牛乳を欠かさず飲んでいます。なにより、肴を綺麗に食べるお人でありました。食後皿を覗いてみると、それはもう、大変満足気な骨の姿がありました。  私なんかは、肴と目を合わせると、その覇気のない目に思考を吸い込まれて、当然のことを一世一代の危機のように感じて、徒労の思惟に耽ってしまいます。あの目は、鬼のように我が身を抉り、彼岸まで引き込もうとしている目なのです。この妙な癖のせいで、私は肴を上手く食べることができません。私には、彼らの瞳に対抗し得る力が無いのだと思います。故に、祖父は真に強いお人でありました。  しかし、先日祖父は心臓の病に侵されました。朝の三時、父の携帯が鳴り、私達家族と父方の家族で、急いで隣町の病院へ駆けつけました。その時のことは、よく覚えていません。ただ、はっきり覚えているのは、病院に祖父は居ませんでした。否、祖父に似た老爺が横たわっていました。私は必至に辺りを見回しました。祖父は何処へ行ってしまったのだろう。心配はせずとも、彼は強いお人なのだから、すぐに帰ってきて、あの心地の良い乾いた笑い声を聞かせてくれるでしょう。私達は知らない老爺のすがたを、ただ、呆然と見つめていた。よく見ると、老爺は口を開けて死んでいた。さながら、虫の抜け殻である。私は居ても立っても居られなくなって、病室から抜け出して祖父を探しに行きました。  おお、おお!!  病院の廊下では絶えず病人の叫び声が響きます。私は怖くなって病院の外へ急ぎました。祖父はきっと外に出たに違いありませんでした。重いガラスの扉を開けると、朝方の冷たい風が、心の臓を貫こうと怒りをぶつけてきました。なんだか、言い知れぬ悲しみがこみ上げた私は、祖父の帰りを待つようにその場に座り込みました。  しかし、祖父は見つからないまま、私達は老爺の告別式を迎えます。見知らぬ老爺に花を添え、皆微かな死臭に息を止めました。ふと触れた老爺の肌は他人の私を拒絶するかのように冷えていました。誰かの啜り哭く声につられて、気づけば私も頰を濡らしていました。  老爺、ああ、老爺。  なみゃだぶつ、なみゃだぶつ。  さようなら、さようなら。  葬られて遺された老爺の跡。骨。太くがっしりとした見た目に反して、重量のない乾いた音。用意された骨壷の、なんと立派なこと。その壺にさえ入りきらないお骨が、潰される音はとても心地が良かった。壷に収まった老爺は、とても満足気でした。その骨壷に箱が被さった時、私は祖父が亡くなったことを初めて知ったのでした。  

言葉のすみか。

『ささやかでも、夏に浮かぶ秋穂かな』 「ねー。高谷聞いてる?」 「いや。聞いてない。何の話してたのかな?」 「ひっど。出た。いつもの妄想時間」  僕は詩を作るのが好きだ。好きだと言うより降って来る。それをただキャッチしている。  工事現場の電光掲示板を見てたらふと浮かんで来たり、不規則に並べられたレンガを見た時にも降って来たりと様々。その時は頭がぼーっとなって、頭に言葉の雨が一粒ポツリと降るのをじっと待っている。 「あっ。ポツリともう直ぐ来そうだ」  僕はじっと振って来るのを身構えて待つ。 次の瞬間ドガーッと頭にシャワーの様な文字が降ってくる。 僕は言葉を一つ一つ選びながら掴んでいく。  両手で抱えるほどの大きな文字に、爪先程の小さな文字、僕はそれを掴んで土台に乗せる。そして、紙にそれを書き殴る。忘れない様にスピード勝負だ。そして書き終わるとプツンと我に帰る。  紙に殴られた文字が浮かんでいる。 今日は満足だ。っとうなづく日もあれば、破り捨ててしまう日もある。これも、結局は好き嫌いである。  何故か僕は気分が落ちている時の方が良い作品が書ける。それは繊細だ。でも高揚している時はだいたいがスカスカの文で中身がない。だから、わざと気分を落とす時もある。自分はダメな奴だ。とか、なぜ他の人はできるのに自分は出来ないんだとか。そんな風に時々自分を傷つける。  その時は特別で気分を例えるなら自分の海に飛び込んで、真っ暗な深海を無呼吸で潜り続け、底にタッチするか、呼吸が苦しくなると、浮上を始めるって感じ。  上を見ると少しばかし黒が紺色に変わり苦しくなってもがく自分の手足が見えだす。  ボーッ無酸素状態の頭の中に言葉の雨を探す。 やがて、水面にモヤモヤとギザギザしたポテトチップスの様な満月が見えてくる。  プハッと水面から顔を出すとちょうど言葉の雨が降り出す。満月がくっきり見えるがそこに言葉の雨が降ってくる。足で立ち泳ぎしながら両手で掴んで持てなくなったら、口の中に入れ一つもこぼさない様足掻きに足掻く。  そして、出来た文章は凄く繊細で美しい。 角はなくでも見方を変えると時々鋭利で、形はあるけれど透き通っていて、凄く魅力的だ。 「これが、僕が綺麗な文章を書く度に起こる事なんだけど君には分かるかい?」 「全く分からないわ。ただ、高谷いつもボーッとしてるだけじゃない。変人よ。変人。でも。。。」 「でも。なんだよ。」 「高谷の文は好きだわ。綺麗だもの。」 おしまい。

繰り返しが日常を作る

 一日は繰り返す。  朝七時に起きて、飯を食い、夜0時に寝る。  明日も同じことを繰り返す。    一週間は繰り返す。  平日は会社に行って、土曜日は遊び倒し、日曜日は家で英気を養う。  来週も同じことを繰り返す。    一か月は繰り返す。  一日には月が替わったと感想を述べ、二十五日には給料をもらって、月末にはもう今月も終わりかなんて感慨にふける。    一年は繰り返す。  一月に年始を楽しんで、五月にゴールデンウィークを楽しんで、八月に夏休みを楽しんで、十二月に年末を楽しむ。    俺たちの時間は繰り返し。  同じことの繰り返し。  繰り返しこそが、日常の正体だ。    ごくごくと酒を飲む。  今日も明日も明後日も。    俺の繰り返しは、だいたい百年で終わるだろう。    百年経てば、人間という生物の寿命が終わり、繰り返せなくなる。  そこで終わり。    嗚呼もしも、子どがいたら違うのだろう。  つまり、人生は繰り返す。  俺が生まれ、子どもになって、大人になって、じじいになって、死体になる。  俺の子どもも同じことを繰り返す。  俺の孫も同じことを繰り返す。    これは家庭の話だ。  俺に子どもはいないから。    繰り返せない俺は、とっくに輪廻から外れているということだ。  日常への反逆。  繰り返しへの反逆。    俺は、俺たちは、もう日常さえ歩むことができていない、何かなんだ。

薄暗闇から

 この薄暗い部屋に閉じ込められて、一月が経った。部屋の中は質素な造りだが、ベッドは意外にも上質なマットレスで、シャワーとトイレも完備してあり、生活するには申し分ない。食事は野菜などの彩は無いが、三食差し入れられる。  堪えがたいことは、娯楽が少ないことだ。テレビやパソコンが無いのは勿論、所持していたスマートフォンも取り上げられている。何故かカバーを外された本だけは差し入れられるが、異常な状況では読む気力も湧かない。言わば、生きる楽しみを見いだせない空間。  犯人はわかっている。目の前にいる女だ。 「どうしてこんなことをするんだ」  鉄格子の向こうにそう詰問すれば、女はいつも困った様な表情をするばかりだった。   彼女のかつての交際相手に相談を受けたのが、出会いのきっかけだった。曰く、彼女は相手に尽くすタイプの女性で、しかしそれに際限が無い。ノイローゼになった彼が逃げ出し、身近にいた自分が次の寄生先として選ばれた。  意外にも彼女との生活は悪くはなかった。容姿は華美ではなく、常に地味な服装だったが、むしろ奥ゆかしく好感が持てる。流行の話題には疎いが、古文や歴史に造詣が深く、博識深い。聞いていた異常性を置いておけば、所謂大和撫子そのものだったのだ。  うまくいっていたはずだった。この場所に監禁されるまでは。  あの日は雪が降っていた。寒さに身を震わせ、数か月後に来る春を思い、道すがら在原業平や西行が詠んだ句について語った。 「和歌に詠まれる桜は、どうしてこうも魅力的なんだろう」 「昔は、今よりも目に入る色が少なかったですから、桜の初心な色ですら、貴重な彩、だったのでしょう」 「成程。そもそも現代とは環境が異なるか。僕もいつか全身で感激するような桜を見てみたいものだ」 「ええ、そうですね」  そんな些細な夢も語って、彼女も微笑んでいたというのに。  当夜、勧められるまま深酒をしてその後の記憶がない。目が覚めたらこの部屋にいた。初めは激昂して、それから諭すように、ある時は懇願に近い声色で、どんな言葉で尋ねても、彼女の答えは無いか、曖昧なものばかりだった。  彼女は、僕の思いを試しているのか? 監禁という行為が生み出す歪んだ関係性。被害者からの依存性を期待しているのだろうか。彼女の目的は、ただこうして廃れていく僕を、籠の外から眺めて居たいだけなのかもしれない。  薄暗い部屋で、食事と睡眠の数を数え、もう二月も経った。ひたすら薄暗闇の日々が続いたのだ。段々と、自分の中の何かがすり減っていくのを感じる。 「なあ、今日でもう二月だ。あんたはいつまでこんなことをするつもりなんだ?」  辛うじて、まだ忘れていなかった声と言葉で問いかける。どうせ返事は無い。宛てのない言葉は、壁の中に消えていってしまうのだろう。ただの独白だ。  そう自嘲しながらも、久々にあの困った顔つきを拝んでやろうと、俯いていた顔を上げた。彼女の唇が動いた。 「あと、二週間、くらい?」  食い下がるべきだったろうが、驚き、言葉が出ない。明確に期限を口にしたのはこれが初めてだった。彼女に何の変化があったのか。  その日を皮切りに、彼女は、毎日私の言葉に返事をするようになった。 「もうちょっと、今日は、まだ」 「まだ早いの、だめ」 「きょ、今日は、雨が降ったから」  ある日、聞きなれない金属音と共に、いつもとは異なる微妙な風の流れを感じた。ひた、ひた、と足音が近づく。顔を上げると、鉄格子の向こうの彼女が傍にいた。 「あの、これ」  差し出されたものは、黒いアイマスクだった。付けろというのだろうか。視線で問いかけても、困った表情をするだけだから、望まれるままに装着した。手を引かれ、立ち上がる様促される。僕は彼女のするまま、素直に従った。 「どこに向かっているんだ」  答えのないまま、歩いた。あの仄暗闇から解放されるのならば、どこでもいい。僕はあの薄暗い部屋を出たのだ。  途中から、足の裏に感じていたものが、コンクリートよりも柔らかい感触に変わった。風にのって、土と草の匂いがする。 「取ります、ね」  もう随分歩いたと疲労を感じ始めた頃、ふと立ち止まって彼女は言った。  髪が巻き込まれ頭皮が引っ張られたが、些細な問題だった。  流れ込む光の束に、すぐには目を開けなかった。ゆっくりと瞼の裏に馴染ませ、恐る恐る開いていく。  色の洪水だった。失くしていた色、求めていた色、知っていたはずのものが、未知のものに見えた。背丈を優に超える幹は、大地の色を吸い込んでいる。風に舞い散る花びらには、一枚一枚色があった。全て、異なる色なのだ。  言葉にならない僕に、彼女は嬉しそうに笑った。久しぶりに見た笑顔だ。僕は、彼女が僕を閉じ込めた理由を悟った。後はただ、手を握り締めて、桜を眺めた。

私の好きな人

私は、好きな人と山登りをするため、待ち合わせ場所の駅で待っている。 好きな人は、佐伯悠(さえき ゆう)という名前で、サッカー部に所属していて、結構活躍しているらしい。足も私の倍くらい速い。羨ましい。 『ごめん、凛(りん)ちゃん!少し遅れちゃった!』 悠が待ち合わせ場所にやってきた。 『ごめんごめん!ボク、信号に引っ掛かりまくっちゃって...』 悠の一人称は『ボク』だ。何だか少しカワイイ。 「いや、気にしてないよ。じゃあ、行こっか!」 目的地の山までは少し遠いので、バスで行くことにした。 『凛ちゃん!山登り楽しみだね!』 「私、山登り初めてなんだよね。」 『本当?もし山登りでわからないことがあったらボクになんでも聞いて!』 「うん。」 私は、好きな人との山登りデートということで少し緊張しているが、悠はあまり緊張しているように見えない。 多分、私のことを友達としか見ていないからだろう。 『あれ?あそこにいる娘、多分すぐそこの高校の生徒だよね?登校中かな?』 「そうなんじゃない?制服も私にはそれっぽく見えるけど。」 『だとしたらおかしくない?だってヘアゴム赤色だったよ?あの学校ヘアゴム黒か白か茶か紺にしなきゃいけないから。』 「え?そうなの?でもあの制服着てる人がカラフルなゴム付けているとこ、私何回か見てるよ。」 『本当に?あ、でもほら!あそこの娘はちゃんと黒のヘアゴムだよ!やっぱりボクの言ってることは間違ってなかったんだ!』 そんなどうでもいい会話をしていると、もう目的地に着いていた。 山を登り始めてからしばらくたった、今6合目くらいだろうか。 『よし、凛ちゃん。一回休もう。ボクも疲れた。』 悠はペットボトルのお茶を一気に半分くらい飲んだ。私もお茶を飲もうとすると、悠の服装が目についた。 「あれ?悠、スカート履いてる。」 『何?ボクにスカートは似合わないってこと?制服がスカートだからいつも見てると思うけど。』 「いや、登山用のスカートなんてあるのかと思って。」 『あぁ。そういうことね。ボクのことを女性らしくないって非難しているのかと思ったよ。』 「いやいやそんなこと…!」 『まあ女らしくありたいって思ったことはないけれど…』 悠は女の子だけど、少しガサツだ。 そんなところが私は好きだ。「恋愛的な意味で」好きだ。 この恋は叶わないかもしれないし、悠は私を本当にただの友達としか思っていないと思う。 でも、私は悠が好きだ。誰が何と言おうと、好きだ。 私達は山頂まで登りきった。 『いやぁ、凛ちゃん。やっぱり山頂は景色が良くて気持ちいいね。』 「うん、そうだね。山登りって、今までやったことなかったけど結構楽しいんだね。」 『でしょ!あそこに見える山とかも結構登るの面白いんだよね。今度登ってみるといいよ。』 「また山を登るなら、私は悠と一緒が良いな。」 『奇遇だね、ボクもまた凛ちゃんと山登りがしたいよ。』

ブラックコーヒーを飲みながら

「今日も疲れたな・・・・・・」 そう言いながら見た時計は11時を示していた。 もちろん夜の11時だ。 晩御飯を食べる気力は無いのでスーツを着たままベッドにダイビング。 汗臭いベッドに寝転びスマートフォンを手に取る。SNSをぼんやり眺めながら適当にスクロール。 こんな生活をずっと続けていた。 ふと疑問に思う。 こんな生活ばかりで良いのか? 過労で死ぬことになっても良いのか? 結婚はしなくて良いのか? なにか趣味は無いのか? もう自分は十分頑張ったのではないか? 黙れ、と自分に言い聞かせた。 深呼吸をしてベットから起き上がり、冷蔵庫を開ける。 そしてキンキンに冷えたブラックコーヒーを手に取った。 ソファに座りボソリと呟く。 「これが俺の唯一の幸せなんだよ」 そう言って俺はブラックコーヒーを飲みながら微笑んだ。 毎日辛いけど学校に通っている。 毎日夜遅くまで会社で働いている。 そんな自分にご褒美があっても良いだろう。

たった一度の人生だから

全力で生きよう。 僕は心のどこかでそれを元に生きてきた。 たった一度の人生だ。全力で生きていきたい。 全力で生きている自分を、僕は誇らしく思う。 それに比べ、コイツは何だ。 足羽裕(あしば ゆう)。友達…と言っていいのかはわからない。いつも何故か隣にいるやつ。そんな感じだ。 足羽は男気溢れる良い奴で、クラスでも人気者、足もめちゃくちゃ速く、万能タイプに見えるが、どこか抜けている。 人の話を聞かずに叱られているところを見たり、ふざけすぎて叱られているところを見たりなんてことはしょっちゅうある。 いわゆる「真面目」とはほど遠い。 「何その袋。今日も何かさせられてんの?」 足羽が話しかけてくる。 僕は、自分で言うことではないかもしれないが他人からのお願いは断れない性格で、どんなお要望も全力でこなす。 そんな性格からか、クラスの色んな人に色んなことを頼まれる。 「あぁ。ほら、あのかき氷のアイツから、前島さんにプレゼント届けてって。そういえばあの2人付き合ってるからなぁ」と僕。 「ふーん。かき氷のアイツって呼び方やめてあげろ。あれ、そっちの本は?」 「これは佐野が借りたいって言ってたから。」 「あー。それ知っているかも。何か主人公がストーカーのアレだよね?ふーん。あ、ていうかそのリュックは?」 「これはお前が僕に無理矢理持たせてきたリュックだろ!」 「そうだったそうだった。ははは」 この男が少し嫌になった。 というか、こんなことをしている場合ではない。現在15時30分。今日は部活動は休みだが、18時から塾がある。 僕は家と学校が遠く、歩くと片道35分かかる。2つの依頼を叶えるために、こんなことをしている場合ではない。 まずは前島さんの家に行こう。そう思い走り出すと、当然の様に足羽もついてくるので、とりあえず無視をした。 前島さんに袋を渡すと、 「え!?じゃあこれをお返しとして届けてもらってもいい?」 とすごい嬉しそうに言うので、時間がないが届けてあげた。するとかき氷君は、 「あ、え、じゃあこれ。何か申し訳ないからこれをお返しとして届けてもらってもいい?」そして前島さんにそれを届けると、またお返し。 この流れを何回も繰り返した。 この流れが終わった時、町のスピーカーからは『ゆうやけこやけ』が流れていた。17時だ。 「「あの二人...どんだけ仲良いんだよ...」」 僕と足羽は口を揃えて呟いた。 そこから急いで佐野の家に本を届け、時刻は17時10分。 いよいよ時間が無い。早く帰らないと! すると後ろから、クラスの女子が 「あ!ごめん!ちょっと時間がないからこれ、届けといてくれない?」と話しかけてきた。 「いや〜丁度困ってたところにきみがいたから助かったよ〜!」 と嬉しそうに言うものなので、僕は断れず承諾してしまった。届け先までは走っても片道10分はかかる。首元に冷や汗がつたる。 彼女が走り去ると、足羽が僕に話しかけてきた。 「ちょっとお前、顔色悪いぞ。出来ないなら無理すんな。」 そう言うと僕が手に持っていた袋と背負っていたリュックサックを奪い、走っていった。 3分すると僕のところに戻ってきた。そういえばコイツ、めちゃくちゃ足速かった。 「ちょっとお前…頑張りすぎだぞ…」と足羽が息を切らしながら真剣にこちらを見る。 続けて「お前、何でそんなに無理するんだ?」と聞いてきたので、 「そりゃあ、全力で生きていきたいから…」 「それじゃあダメだ。いつか身動きとれなくなって、自滅しちゃうぞ?たった一度の人生なんだから、全力で生きるな。楽しく生きろ。」 足羽の言葉が、僕に強く刺さった。 足羽のおかげでなんとか塾にも遅れずにすんだ。 そうか、辛くなったら他人に頼ればいいのか。そうしたって別に良いんだ。 僕は目が覚めた様な気分になった。 そうか…僕は頑張りすぎていたんだな。 たった一度の人生なのに、全力で生きようとしてしまった。

その若者は、諦めなかった

 その公園に植わっている大きな木は、およそ四月上旬頃になると、見事な淡い桜色に色づいてみせた。その公園はそれ故に、『桜公園』などとよばれている。  しかし現在は初夏の季節。その木に淡い桜色などはなく、夕暮れに染まる葉をつけてそこに立っている。夏風に揺られてざあざあと音を立て、ぽつんと佇んでいた。  そんな大木の影に隠れた木製のベンチに一人、俯いて魂がぬけださんばかりのため息を吐き出す、男が座っていた。 「あーあ」  弱弱しいその声で、男は言った。 「もうだめなんだろうなぁ」  男はまたも弱弱しい、細い声でつぶやく。  身に着けた白いシャツに汗がにじみ、男の額には汗がついている。そしてその瞳は、まるでこの公園すべての小石を集めろと命令されたかのように、絶望の色を含んでいた。  そんな、可哀想なさえない男。その座っている男に、 「なぁ、俺らの学校が廃校になるっつうのは本当か、先公」  と声をかける、学生服を着崩した青年が、近寄ってきた。改造された学ランは全て開け放たれ、黒いTシャツと赤いベルト、金のウォレットチェーンが特徴の青年だった。  先公と呼ばれた男は、その肩を一瞬震えさせたが、顔を上げると声をかけた学生服の青年を見た。 「お、おぅ、速水。情報、はやいな。どこでそれを?」  しかし速水と呼ばれたその学生は、軽く舌打ちをするとその男の隣へと腰かける。そして右で座る男を睨みつけながら、 「どうでもいいだろうが、そんなもん。それより、考えようぜ」  と、その見てくれとは反対して、囁くようにか細く言った。 「考える?」  少し間を開けるようにして座りなおした男が、青年を見る。青年はすぐさま「廃校にならねぇ方法だよ」と言い返した。 「俺らの学校がやべぇんだろうが。お前はまだ、信用できるほうの先公だ、仲間のやつらもそういってんだよ。だから、俺らが考えた方法をきいてくれ」  抑揚をつけ、全身でそう語った青年。それを受けた男は少し静止していたかと思うと、突然上体をのけぞらせ、驚いた顔をしてみせた。「廃校に反対!? 方法を考えた!? あの速水たちが!?」と中々に失礼なことを口走ったが、青年は気にも留めていない様子で男に真剣な表情を送っている。  男と青年の視線が、交わる。それは一瞬のことではあったが、お互い何かを得たような、満足な顔をつくった。 「じゃあ、訊かせてくれないか。君たちの思いを全部」  男が、姿勢を正した。青年も、背筋を伸ばす。 「当たり前だ。全部きいてもらうぜ、先公」  木陰の風は涼しく吹き流れ、二人の男の体温を冷ます。しかし両者の瞳には高温の熱が宿っていた。     *   「速水……それはだめじゃないかなぁ」  あたり一面がいっそう暗くなり、時刻は九時に迫っていた。ベンチにすわる二人の男。白シャツを着た男はその襟をととえながら、浅く息を吐きだした。 「なんでだよ! どこが悪いんだよ先公!」  男の左隣ですわる、学生服を着た青年が手を広げて叫んだ。その顔には、否定されたことへの不満がはっきりと出ている。先公と呼ばれた白シャツの男はその顔を見ると、だってなぁと続けて、 「校長に全校生徒で頭を下げたところで、決定は変えられないと思うよ。もっと上から来てるんだ、この話は。それ以外の提案も、殴り込みやら落とし前やらで、いつの時代なんだよ」  と青年に言い返した。考えが古臭いと指摘されて恥ずかしかったのか、青年は頬を赤く染めて髪をいじっている。  しかし男が続けざまに「いっそのことスクールアイドルやってみる?」とニヤけ面で青年に言うと、「ふざけてんのかてめぇ」とその青年の顔の筋肉がピキピキと痙攣した。  男は手で謝罪の意を示すと、ため息をついた。そしてどこか遠いところへ届けるように、囁いた。 「ありがとうな、速水」 「は?」  男は涙こそ落とさなかったが、瞳の色を濡らしていた。 「お前の学校を、好きでいてくれて。俺の母校を、愛してくれて。でも、仕方ないんだ」  大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した男は、力一杯に笑うと、青年へと顔を向ける。二人は目を合わせたが、青年がすぐに下を向いた。  そして男に聞こえない程の小さな声を漏らす。 「なんだよ……それ」 「え?」  突然立ち上がる青年。腕の先、音を鳴らして握った拳を、抜け落ちるように弛緩した。未だ座ったままの男は、そのうしろ姿を、ただじっと眺めていた。  青年は、振り返らず、男に向けて言い放った。  そしてそのまま、公園の出口へと、ゆっくりと歩いていった。 「あきらめるのは、一番だせぇ」    男は、シャツの襟を整え、腰を丸めてため息を吐きだした。  一人の男が、ベンチに座っている。その公園は、なんとも寂しく、時が止まったかのように、凪いでいた。

The Dancer

 やがて彼女はダンサーとして、知られることになるのでしょう。  その日はまだ梅雨明け前のじれったい天気で、私はまだ答えを見つけられてもいませんでした。大雨が私の傘をばつばつと叩いて、できればこのまま全部を投げ出したいと思ったその一日に、私は彼女に会いました。雨の中、彼女は黒いワンピースをひらひらと舞わせながら、往来の激しい通りの真ん中で静かに踊り始めました。初めは何人かの歩く速度が遅くなり、幾つかの傘が嵩張るように停滞しました。その小さな苛立ちを掠め取るように、雨音に混じるように、彼女の踊りは始まったのです。  人は心が潰れると、上手く生きていけなくなります。それを実感したのはその時よりももう少し前のお話で、記憶に残っている限り初めて、子供たちの前で泣いた時でした。歳を重ねるに連れて自然と大人に成れると思っておりましたが、私はまだ、とても卑怯な女です。  彼女は長い黒髪を揺らしながら、早くなる雨足をなぞる様に踊りました。どんよりとした曇り空から、太陽は少しも差し込みません。行き交う人は彼女を怪訝な目で見ては、決して足を止めません。世界は誰の為でもないけれど、きっと彼女以外の誰かのために動いている。そういう孤独な雨が相変わらず私の傘をばつばつと叩いて、私の足も冷たい雨に濡れてしまって、けれども私は、彼女の踊りを見続けました。  閉園が決まったのは園長先生のせいではないし、他の先生のせいでもましてや子供やその保護者のせいでもないと思う。きっと何か漠然とした曇り空のような鬱屈さが、少しずつ世界を狂わせて行ったのだと思います。きっと誰もが悪くなくて、そして誰もがそうやって穏やかに悪人となっていくのかもしれません。閉園の知らせは保護者の方へ伝えられ、くぐもった天気はやがて本降りの孤独となりました。  彼女の周りに降る雨は、次第に強くなるようでした。傘を差した雑踏は、皆足早にどこかに向かって歩いてゆき、彼女の前で足を止めるのは、なんてちっぽけな私一人。ごめんなさい。なぜか彼女にそう言いたくなってしまう、私はいつも卑怯者。  せんせい、どうしてあやまるの?  伊織の言葉は、とても大人びていました。五歳の女の子は晴れやかに、そして勇ましく笑いました。私たちの園が無くなる前に、伊織は次の春に卒園します。あんなに小さな手のひらが、ここよりもっと大きな景色の中に進んでいくことが、私はとても嬉しくて、そして同時に、彼が帰る場所の一つを、失わせてしまうことが苦しくて。  私にはどうして彼女が踊っているのか、皆目見当もつきません。雨ざらしの彼女の髪が、私の胸の中に深く刻まれるようでした。駅前の往来は更に足早に過ぎていく。無機質な電光掲示板には、大雨警報の四文字が私に烙印を押します。烙印? 何の? 雨音が彼女の踊りを霞めては、私の前から遠のけようとしておりました。それでも彼女は踊り続ける。それでも彼女は踊り続ける。  伊織ちゃんたちに、会えなくなっちゃうのが寂しくなっちゃったの。  私がそう言うと、伊織はまたさざめきのように笑いました。太陽のように優しくて、大人のように元気で、伊織はまた笑いました。  もしも私がもう少し大人で、もう少し勇ましい大人で、子供たちの将来を照らせる大人であったとしたら、  将来の夢、ダンサーになるの。  私は違う答えを選べたでしょうか。    彼女の踊りは段々と激しくなって、長い髪から雨粒が小さく飛び散りました。私の傘は雨を弾いて、けれども私の足元は、雨にじんわりと濡れています。彼女はどうしてこんな天気の日に、こんなにも美しく踊っているのだろうかと思う。その答えはきっと彼女の中にしかなくて、もしかすると彼女の中にもないかもしれなくて、私が彼女に見入ってしまう理由さえも私は具体的に口にすることが出来なくて、それでも彼女は踊り続ける。それでも彼女は踊り続ける。  伊織は少しずつ、ほんの少しずつ、大人になっていくのです。夢を語る間は誰もが無邪気な子供で居られて、夢に向かって励む姿は誰しもを大人に近づけるのです。伊織の語る夢がいつか、梅雨明けの朝顔のように柔らかく花開けばいいなと願っています。    もし仮に、この雨が上がったとしたら、それでも彼女はまだ踊り続けているでしょうか。私はまだ傘の下で、彼女の踊りを見つめています。踊りはクライマックスを迎えて、ワンピースが華やかに舞い上がって、きっといつか、伊織が彼女のようなダンサーになったら嬉しいなと思いました。  斜めに降る雨は傘にも遮られず、私ひとりを濡らします。雨水が私の瞳から、頬を伝って滴りました。彼女はもう少しだけ、生き延びるように踊り続けます。やがて伊織はダンサーとして、知られることとなるのでしょう。やがて私は彼女の姿に、いつか答えを探すのです。

可愛げのある彼女

 「え?なんだって?」  「いやだから、人形になるの」  「ごめんよくわかんないんだけど…?」  智樹の訝しげな視線を受け止めつつも私は言葉を続けた。眉間に皺がよるのは私のくせ。決して不機嫌なのではない。真剣だからこそ刻まれるものだ。  「かわいい人形になる」  外見は中の真ん中から下くらい。でも今はメイクという特殊魔法があるので、そのあたりは容易に偽装できる。スタイルは痩せ型が功を制しているので服装には困らない。足りないものは補えばいい。なんでもいけるはず。  「…人形って、誰の人形になるつもりなの?」  私が言い出したら止まらないとわかっている智樹は肩をすくめて話の続きを促す。さすが私の彼氏。もう五年付き合ってるだけはある。しかし解せぬ。誰の人形、とは。  「人形は人形だよ」  「え、だって愛でられる人形になるんでしょ?やっぱりそこは彼氏である俺じゃないの?」  「頭大丈夫?打った?」  「彼氏に言うセリフじゃないだろそれ」  智樹は呆れ顔だ。しかし呆れ顔なのはなにも智樹だけじゃない。私だって同じなのだ。  「誰のものにもならない孤高の人形になるんだよ」  「え??…ごめん、ちょっと説明が欲しい」  誰にも馬鹿にされず貶されず、下に見られることなんてまずないとにかく憧れる対象。手が届かない高嶺の花みたいな。そんな人形になりたいと思った。もちろん、素の私では到底無理な話だということは重々承知しているから何も言わないでほしい。  「…それなら別に人形じゃなくて、自分磨きすりゃいいんじゃないの?」  「…それだけじゃないんだよ」  そう、それだけじゃない。  人形でなければいけない理由がある。  「心を失くした状態で、誰もが目を引くような綺麗で美しくかわいくいたいの」  言っていて矛盾していることには気づいてる。でもそうなりたいと思っているのだ。そのためにできることは何でもしたいと思っている。 「可愛げがあるじゃん。かわいいなんかよりよっぽどいいよ。それでいいじゃん」  智樹は釈然としない顔をしつつ私の頬を撫でて言う。  「だって、俺は千都世のそこがすきなんだけど」  「なにそれ、…プロポーズじゃあるまいし」  まさかバレてるのかな。人形になりたいと言い出した真意に。心を失くしたいだなんて言った黒い感情を見たくない、手放したいことに。  私はなんてことない顔をしながら吐き捨てた。気づいて。でも、気がつかないでほしい。こんなかわいくない私。  「うん、わかった?そのつもりで言った。待たせてごめん」  智樹は言った。  一瞬、時間が止まった気がした。  頬を撫でていた手のひらが私の後頭部に回り、そのまま智樹の腕の中に引っ張り込まれた。あんまりにも無造作すぎて鼻が潰れてしまうと焦ってしまう。これでは人形になる前に素材がより悪くなってしまうじゃないか。そんな大して鼻筋も通っていないようなぺちゃんこ鼻のすぐ側をひと筋、涙が通った。  智樹は可愛げがあると言ってくれたけど、かわいさの欠片なんてこれっぽっちもない。素直じゃない天邪鬼。もう若いと胸を張れないところまで来てしまっているひねくれ女。  ああ、もう。やっぱり私は人形になんてなれない。誰からも好かれる人形になりたいんじゃない。智樹だけに好かれ認められるパートナーになりたいって、それだけのことなのに。隣に並んで歩いて生きていきたいって、それだけなんだよ。  「…遅いよバカ」  「いや、俺にだってあるんだよ段取りがさ!…でもまあ、人形になりたいと思わせるほど追い詰めたのは本当悪かったよ」  そっと手を取られた感触に気づいた後には、ずっと空席だった左手の薬指にダイヤがきらめいていた。

せめて君らしく×んでくれ

 蝉がミンミンと煩く鳴き、太陽が燦々と身を焦がす。  身じろぐだけで、汗が服に染み込み、ペダルを漕ぐ足が重くなる。  あぁ、これだから夏は嫌だ。  そう、いつもならば、こんな日には外には出なかった。冷房が効いた室内で、悠々自適に過ごすのが、尚光という人間だ。  けれど、そんな悠長は、言えなくなってしまった。 彼女に会わなければならない。  辻坂 尚光(つじさかなおみつ)は、凸凹道を、全速力で。 『古くからの伝統』 都会人からすれば、縁遠い話かもしれないが、ここ夜刀浦(やとうら)の地では当たり前のように現存しているものが大量にある。 ――妻は夫の三歩後ろを歩け。 ――妻は夫を三つ指ついて出迎えろ。 妻を”女”に言い換えてもいい。 男尊女卑が多分に残るこの地では、この程度は当たり前。  尚光の母も、文句ひとつ言わず、幼少のころから行ってきていた。 そんな中でも、一際眉を引きつらせる忌むべき因習というものは、存在する。 『人身供犠』  この土地は、毎年のように洪水が起きる土地だったらしい。だけど、ある時から神が住み着き、対価として人間を寄越せば恵みを齎す。  十干十二支、つまり、六〇年に一度、生贄を捧げれば、この土地は生き残り続けることが出来る。 少なくとも、老人どもは妄信している。  そして今年、暦が還り、六〇年の節目を迎える。  厳正な抽選とか言っていたが、十中八九意図的に選ばれただろう。 生贄に指名されたのは、僕の彼女だった。 木附 切鳴(きづきせつな)  小学生の頃、実の両親が亡くなり、祖父母に引き取られる形でこの田舎にやってきた。  尚光は切鳴の美しさに、一目惚れした。 余所者を歓迎しない風潮は、どこかにあったと思う。 だから、僕は切鳴と、隠れて付き合っていた。  勿論友人にはバレていただろうが、彼らは僕らを応援してくれていた。 けれど、今は彼女の祖父が亡くなり、祖母との二人暮らし。立場が強いとは言えない彼女は、因習を押し付ける相手としては、丁度良かったのだろう。  そのことを告げられた直後、切鳴は逃げ出した。自分でもその立場なら同じ行動をすると思う。老人は贄が消えたと大騒ぎを始めた。  そして、それを偶然聞いた尚光は、自転車で飛び出した。  タイムリミットは、日が落ちきるまで。  何も考えずに飛び出し、切鳴の家に向かった。しかし、呼び鈴を鳴らしても誰も出ず、部屋の明かりはついていなかった。 家にはいない。  そう判断し、今度は彼女が行きそうなところを考えてみる。 『お爺さんお婆さんが一杯いる施設とかって、行きづらいのよね。みんなして、私の事睨んでくるし』 いつの日かの帰り道、彼女がふと零していた言葉を思い出した。  なら彼女はあそこだろう。  再び自転車に乗り、力強くペダルを漕いだ。  二十分程漕ぎ続け、目的地にたどり着いた。 「来たんだ」  彼女は、木附 切鳴は、いつもと変わらない調子で、佇んでいた。 「実はさ、私知ってたんだ」 何を、とは聞けなかった。 「お爺ちゃんが死んじゃった時にさ、村の人たちが言ってたんだよ。”安心して娘を贄にできる”ってね」 「最初は意味が全然わからなかったんだけどさ、お婆ちゃんに聞いたら、顔色変えて教えてくれたの」 「――ねぇ、尚光…… 私と一緒に逃げて、って言ったら、ついてきてくれる?」 切鳴の目には涙が浮かんでいた。  彼女は、救いを求めて、手を伸ばしていた。 尚光の答えは既に決まっていた。 彼女の手を掴み――そのまま、隠し持っていたスタンガンを押し当てた。 「……え」 「ごめん」  自己満足だとわかっていながらも、謝罪の言葉を口にし、スイッチを押す。 切鳴の体から力が抜け、尚光の体にもたれかかってくる。そして、彼女を背負い、携帯を取り出す。 大した時間もかからず、すぐに目的の相手に繋がった。 「もしもし、捕まえました」 「そうかそうか、よくやったの」 「僕は、切鳴の彼氏でしたから。信用させるのは簡単ですよ」 自分でも驚くほど、あっさりとした口調だった思う。 「ほう…… それにしては何の後悔もないようじゃな」 相手にも伝わっていた。けれど、自分でも腑に落ちる答えは、自転車を漕いでいる間に見つかっていた。 「――だって、伝統なら、しょうがないじゃないですか」 そうだ。 これは忌むべき因習だ。 けれど、そのせいで夜刀浦がなくなるのは、嫌だ。 彼女との思い出が巡る。 田舎にやってきた都会人として、警戒していた転校初日の事。 親睦を深め、告白を受け入れてくれた時の笑顔。 無い知恵絞ってデートをした時の思い出。 どれも大事で、見捨てたくないものだ。 ――そう、だから 「せめて君らしく死んでくれ」 僕は彼女を背負い、歩き出す。

日々勉強

「食パンの耳、取ってもらえますか」そう言うとパン屋の店員はにこりと笑い、「かしこまりました」と答えつつ、耳の部分のネジを手際よく外して、あっという間に耳のない食パンにしてくれた。近くの公園へ行きベンチへ座り、家から持ってきたジャムを隙間なく入力して、ピコピコと一人でランチをはじめる。それにしてもあの耳の部分、好きだという人に出会ったことがないが、どうしてわざわざとりつけるんだろうな。そんなことをふと思って仕事帰りに図書館に立ち寄り、食パンの歴史を調べて驚いた。食パンもジャムも今のものとは似ても似つかない代物じゃないか。昔の人はこんなものを食べていたのか。食パンの耳って元々こんな風になっていたんだ。そうか、耳ってこの名残なのか。ええっ、それに、ジャムって塗るものだったのか。全然想像がつかない。本当に、日々勉強ですね。

謎でも何でもない

 美咲はため息をついた。  昼休み、弁当を食べ終わった時間だ。早々と自分のぶんを食べ終わり、スマホ片手に何やら眺めながらのため息に、一緒にお昼を食べていた三人がいっせいに美咲を見た。  美咲の隣に座る瑠海が、怪訝な視線をよこす。 「何、どうしたの?」  美咲は右手にスマホを持ち、空いた左手を自分の頬に当てた。 「推しが尊い」  友人たちは目を見合わせた。推しとな。 「え、誰? アイドル?」  瑠海の正面にいる凛が美咲のほうに身を乗りだしてきた。その隣、美咲の前に座る泉美は、口角を片方だけ持ち上げる。 「違うと思うよ」 「いーちゃん、みーちゃんの推し知ってるの?」  今度は自分のほうに身体を向けた凛を押しやって、美咲の親友である泉美はにやっと笑ってみせた。 「あれでしょ、恋人」  とたんに、二人の友人は納得顔になった。瑠海が呆れたような声で、 「今さら? もう何年付き合ってんの」 「ていうか、推し? さゆりさん、推しなの?」  再び身を乗りだしてきた凛の瞳は、どこまでも無邪気だ。美咲は二人に胸を張ってみせた。 「恋人は推し同然なのさ。何年たっても尊いもんは尊いの」 「あんた、その胸を張るつもりで腹突き出すの、やめなさい。みっともない」  泉美のジト目など意に介さず、美咲はスマホに視線を落とした。画面には、高校の先輩であり恋人でもあるさゆりが、こちらに向かって微笑んでいる。事前に撮ることを予測していない、完全に不意打ちのショットだったのだが(「さゆりさーん」「え、何?」というやり取りのすえ)、それでも完璧な美しい顔を保てる恋人に、美咲はいつも見惚れているのだった。優しげな大きな瞳に、すっと通った鼻筋、常に微笑んでいるようにキュッと上がった口角、桜色の唇。白磁の肌に艶やかな長い黒髪、モデルのように引き締まった肢体。どこをどう取っても芸術品のごとく見目麗しい容姿に加え、成績優秀、運動神経抜群、性格も穏やかと、全世界の理想を一身に集めて具現化したような人物である、とはベタ惚れしている美咲の談。  そんな人が恋人ならば、推さざるを得ない。美咲が長々と語り終わると、友人たちは一様に口を閉ざした。美咲とは、泉美は幼稚園から、凛と瑠海は中学生からの仲なので、お互いをそこそこ知っている。美咲が一途なことは(あるいは思い込みが激しいのは)把握済みだ。  泉美は咳払いをした。 「まあ、何だ、よくわかった」 「わかってくれたかね」 「あんたが盛大に惚気けてきたってことは、よくわかった」 「いや違う、そうじゃないんだけど」  慌てて手を振るも、友人たちは取り合わない。 「何が違うんだ。推しをプレゼンするオタクのつもりだったのか?」 「それも成功したとは言い難いよねえ」 「さゆり先輩が素敵な人なのは、みんな知ってるしね」  泉美、瑠海、凛の順に次々と言われ、美咲は思わず笑ってしまった。それぞれ個性的な友人たちだが、美咲はその個性が大好きなのだ。いじるにしても、意地悪ではなくきちんと愛を感じるので。  それはそれとして。美咲がわざとらしく咳払いをすると、三人の友人たちは三者三様の目で彼女を見た。 「一つ、謎があるんだよ」 「どんな?」  面白がるような視線を送ってくる泉美に、美咲は重々しく宣言した。 「推しはなぜ尊いのか問題」  そこで凛が吹き出し、瑠海が訝しげに眉をしかめ、泉美は爆笑した。共通の思いは、何言ってんだこいつ、だ。 「これ、永遠のテーマだと思わない? 推しを尊いと思う心理、どこから来るんだと思う?」  周囲のようすなど気にせず、美咲はばかに真面目な顔をして問いかける。凛が本格的に笑いだし、瑠海がそれにつられるように苦笑し、泉美は腹を抱えて震えている。爆笑のその先へ進んでいるのだ。 「不思議だよねえ、謎だよねえ。人間って深いよねえ」  マイペースなのか何なのか、友人たちを置き去りに、美咲は首をひねる。  凛と泉美は涙を拭いつつ、瑠海は美咲の肩を軽く叩いて頷いて、三人はちらっと視線を交わした。  謎でもなんでもないよ。それだけ、恋人のことが頭から片時も離れないくらい、好きなだけだよ。そう言いたかったが、しきりに首をかしげる美咲が面白いので、黙っておくことにした。

 南極の上空に大量に現れた星をめぐって、科学者たちは様々な意見を戦わせていたが、地球に巨大な麺棒が迫ってきたのを見てようやく気づいた。これ、星じゃなくて、打ち粉だ。

Nonフィクション

「現実は小説より奇なり」 そんな言葉がある。 小説は、いわゆるフィクションだ。 人々の夢が詰まったロマン溢れる物語。 ヒーローがいるし、悪役がいるし、魔法少女がいる。 超能力が使えるし、空を飛べるし、動物と話せる。 デスゲームが始まるし、密室殺人が起きるし、異世界に飛ばされる。 不可思議な現象の理解に苦しみながらも、魅力的な展開に引き込まれて、目を見張りながら読み進めてしまう。 それが小説であり物語であり、想像上の単なる創作物でしかないものの少なからず価値がある。 では、現実はなんだろう。 現実は、今を生きる時間や空間や状態のことだろうか。 それとも、この【人生】自体を指すのだろうか。 誕生して、話して、立って、遊んで、勉強して、青春して、進んで、働いて、休んで、眠って、成長していく。 確かに多種多様なイベントが起こり、突然の出来事に巻き込まれて、予想外な事態に遭遇することもある。 人間関係が良くも悪くも明後日な方向に飛んでいったり、目の前に確実に置いた物を一瞬の隙に失くしてしまったり、考えに考えた答えがありえない間違えになったりする。 だからこそ、小説に匹敵するか、それ以上に異常で奇妙で価値を付けがたいのだろう。 ……じゃあ、「小説は現実より奇なり」しか知らないままに生きてきた私は、一体何なんだろう。 私は、なに不自由なく生活してきただけで、夕日を背に走ったこともなければ、帰り際に空にかかった虹を見たこともなくて、悩みに悩んだ末に数学の問題を解けた時の心地よい達成感を味わったことすらない。 それぐらい私の人生は味気なく、言ってしまえば『普通のよう』だ。 波瀾万丈な人生を送ってきているわけでもなく、起承転結の起の字もない。 だから、こんなにつまらなかったのか。 日々を過ごすことに味気なさを感じていた理由を知った。 私は片手に剣を携えながら、馬に乗って炎の海を渡り歩く。 崩壊していく家々を見るのは、さながら故郷の悲惨な光景を目にして泣き崩れ、嗚咽する主人公の気分そのものだった。 これがドラマあるフィクションのような現実か。 やっと体験できたのだ。 フィクションを実現させることで。 私は、小説より奇なりな現実を。

夜は踊る

 かつて、世界には夜があった。  太陽が出れば朝となり、太陽が沈めば夜となった。    しかし、夜は夜であることに飽きたらしい。  突然、太陽は沈まなくなり、世界はずっと朝になった。    夜を失った人々は困り果てた。  夜がなければ静寂は訪れない。  夜がなければ眠れない。    科学者たちは夜を取り戻すために研究を続け、暗雲を人工的に作り出すことに成功した。  分厚い分厚い、太陽の光を通さない黒い雲。  暗雲が空に広がる時間を、人々は新たな夜と呼び始めた。    時計の針が、午後六時を指す。  街の上に暗雲が垂れ込めて、ザアッと雨が降り始める。   「嗚呼、雨だ」   「嗚呼、雨だ」    新たな夜には、必ず雨が降る。  人工的に夜を作り出した代償だ。  人々は傘を差す。    電光掲示板に表示される『大雨警報』は、帰宅の合図。  人々は、帰路につき始める。    ピチャ。  ピチャ。  ザブン。    靴が、水をはじく。    ピチャ。  ピチャ。  ザブン。    暗雲と暗雲の隙間から、太陽の光が漏れ出ている。  光はスポットライトのように道路へ差し込み、ライトの下では黒いワンピースを着た少女が踊っている。    ピチャ。  ピチャ。  ザブン。    裸足が、水をはじく。  ワンピースの裾が濡れないように手で掴み上げ、澄んだ水色の瞳で辺りをきょろきょろと見回す。  傘を差した人々は、一瞬だけ少女の方を見るが、すぐに興味を失って目を逸らす。    少女はかつて、夜と呼ばれた存在。  人間の姿となって、今は地上を歩いている。    真っ暗な街の中、光り輝くビルの明かりに信号機の明かり。  赤に、青に、それから黄色。  まるで、街全体が宝石箱のようじゃないかと、少女は楽し気にはしゃぎ回る。    少女は、ずっと夜が嫌いだった。  太陽が沈んでから次の太陽が出るまで、ずっとずっと空にいて、退屈な時間を過ごさなければならないから。  高い高い空からでは、夜が何のためにあるのか、少女にはわからなかった。    しかし、新たな夜の中で地上を歩いて、夜の街の輝きを知って、少女は考えを変えつつあった。   「私がいることで、こんなに綺麗な世界を作れるのなら、もう少しだけ頑張ってもいいのかな?」    ピチャ。  ピチャ。  ザブン。    少女は今日も街を彷徨う。  夜とは何か、少女の瞳に刻み付けるために。        世界に夜が帰って来るまで、もう少し。

友達の形

僕は、友達がいない。高校生になったが、そもそも友達が何なのか分からぬまま、今日も1人でクラスでご飯を食べていた。しかし両親に連れられた舞台を見て以来僕は俳優に憧れていた。そこで、演劇部に入ると決めたが、ここの部員は僕一人だった。 「さて、次の大会のために台本を書いてきた。吉田の初舞台だ!頑張るのよ!」 顧問から渡された台本は、高校入学して初めてできた友達と、夏祭りに行く1人芝居だった。 「先生!僕!友達がいないから分かりません!」 「正直者ね!でも大丈夫!某ネコ型ロボットの声優もロボットになったことは無いから!」 先生の理論をその通りだと思った僕は、全力を尽くした。台本上の架空の友達、木島を徹底的にイメージし、友達の研究を重ね、僕なりの1人芝居を作り上げていった。 そしてとうとう本番だ。先生の合図で舞台に上がる。 「よろしくね!……うん?」 何故かそこに、仲間がいたような気がした。

未完成系未来形

 あたしはとにかく焦っていた。  近々あるテストとか、その先の受験とか将来のこと、とにかく全部に焦っていた。そーゆうことはあまりみんなの前では言わないキャラだけど、由衣とだけは深いところまで語り合えた。今日はわざと二人で遅刻し、由衣の家にたむろしてから学校に向かうことになった。 「急に学校来なくなった男子いんじゃん」  二階の部屋の窓辺に座り遠くを見ながら由衣が言う。 「あいつとこないだ電気屋の閉店セールで会ってさ」 「マジ?」 「なんかわたしと目合って一瞬逃げようとしたけどやめて、まあすごい混んでたし、あとめっちゃ買う物見定めてたみたいで、その場を去る余裕がなかった感じで、そんでわたしが普通に声かけたら呆気にとられた顔してた」 「なんで?」 「そいついわく『いや不登校に話しかけるトーン間違ってるぞ、まあ俺だからいいけど』ってことらしい」  あたしは乾いた笑いで流した。  野球部で坊主の頭の悪い男子。もしも普通に喋ったりする仲だったなら、案外あたしと由衣と気があったかもしれない。頭の悪さを棚に上げたかわいげのなさがあたしたちと重なる気がした。 「そんで聞いたら学校やめるって言ってた。で漫画描くためにペンタブ買いに来たって」 「漫画?」 「意外だよね。でもその反応も本人はわかってたっぽい。でなんか理由つけて結局買わなかったんだ。電気屋出るときにペンタブのコーナー見たら全部なくなっててさ、あいつはそれ見て『俺はこのためにわざわざ足を運んだのかもしれん』って言ってた。なんかわかるよね」  由衣はやっぱり遠くを見ていう。  それが学校の方角だと気づいたけど、たまたまかもしれない。由衣が語るのは沈んだあたしたちの日陰の領域のこと。あたしは自分の手の爪をいじりながら引き続き耳を傾ける。 「日々感じる焦りとか不安とかいろんな面倒事によって生じるそーゆう負の感情を打ち消すにはどう考えても安心が足りない」  由衣は少し早口だった。  あたしは相槌を打ちそのまま流れを引き継ぐ。 「うん。安心が足りないから、自信がなくて自暴自棄になる。たぶん満たされない分、その満たされなさがエネルギー?みたいになってニュースであるような事件が起こる。これは言いすぎかな」  由衣は軽く首を振った。 「いや、わたしもそう思う。でもわたしたちはドライというか、なんとなくスローな感じがする」 「ゆっくりダメになっていく感じ?」 「うん、そう。まあしょうがないか」 「由衣はどうしたい? なにがってわけじゃないけど、正直」 「わたしは……」  彼女があたしに視線をやったとき、突然部屋のドアが開いた。振り返ると見知らぬおじさんが立っていた。 「おいお前何やってんだよ、学校は?」  荒い口調で由衣に詰め寄る。あたしは彼女の動揺した顔にどうしようもない不安を感じた。 「お前姉さんに心配かけんなよぉ、なあ!」  おじさんがより声を荒げついでにあたしを見たとき、由衣が立ち上がった。 「行こう」  あたしの手を取り由衣がベランダへと向かう。あたしは慌てて足元にあった自分のリュックと由衣のカバンを拾う。彼女は躊躇せずベランダから屋根へと飛び移り、一階の塀に足を降ろす。背にした部屋の方からおじさんの「学校行けよ!」という恐ろしい声を聞きながら、あたしは由衣の手を借り地上に降り立つ。急いで靴を履き学校とは真逆の方向へと走り出す。走りながら由衣は、あれは母親の弟でシスコン野郎だと語った。恨み節を聞かせながら息切れするまで走り続け、徒歩へと切り替わる頃には駅の近くまで来てしまっていた。お互い汗をかきながらゼェゼェふらふら公園へと立ち寄る。ベンチに腰掛けて休んでいると、見覚えのある車がすぐそばで止まった。父親だった。  あたしの顔を確認すると窓を開け怒鳴った。 「こんなとこでなにしてんだ! 学校はどうした!」  あたしは心臓が縮み上がり、今度はあたしが由衣の手を取り駆けだす。  由衣は勘弁してくれと泣き言をいうが構わず無視し公園を反対側の出口へと突っ切る。 「あのクソ親父、もうずっと朝はハローワーク行って夕方帰ってきたら酒のんで酔っ払って当たり散らしてくるクソ野郎だから」 「まじか、クソだな」 「それ」  あたしは車に見つからないよう狭い道を選び由衣を先導して駅の方から遠ざかった。由衣はなぜか途中から笑っていた。あたしもこんな散々な状況に笑うしかなかった。しばらく歩いた頃、田舎道に突如として現れる派手な建物、すなわちラブホテルがあった。汗だくの手を握り合っていたあたしたちはその建物の前で立ち止まる。  由衣がふいに言う。   「さっきの質問に答えるよ。わたしにどうしたいかって聞いたでしょ」 「うん」 「その答えはこの中で考えたい」  ふたり一緒なら。

 お前んちに出る蚊っておもしろいな。潰すと毎回違う色の血が出てくるのな。

道の途中【BL】

彼は私の永い生の中に現れた唯一のひとでした。 暗い夜道に突如空に昇った星でありました。あてどなく歩く道を、もしやもう違えてしまったのではと不安に震える道中に、そこを目指せば良いのだと私を駆け出させる希望の火でありました。 実際には彼は隣にいて、いつでも私の手を引いてくれたので、旅人の星に喩えるよりは、掲げるランタンの方がいいのでしょうか。 ああ、遠すぎて温度の分からない星よりは、ランタンの方がうってつけかもしれない。彼の隣は温かかったのです。どんなに寒い冬の雪の日も、普段と変わらずに。 私は彼から多くを学びました。気遣いやら、笑わせ方やら、愛し方を。彼と同じにはできはしませんでしたが、彼のその様はたいへん、うつくしかったのです。全部、彼の言う愛によるものでありましたから、それを持たぬ私は、彼から見るこの世界はどれほど輝いているのだろうといつも不思議に思っておりました。 我々はどうやら同じものを見ることはできないのだ、と知ったのは、彼はとうに気付いていたのかもしれませんが、少なくとも私が知ってしまったのは、もう戻ることが叶わぬほど歩いた後でした。 歩き始めた地点はおろか、一度一人分が途切れた足跡の痕跡も見ることが叶わぬほど遠くまで来てからでした。 彼は変わらず私の手元にありました。この先どうしよう、と彼は決して言いませんでした。振り返る素振りすら私の見ている前ではしませんでした。 不安とともに私の手を握る掌に、ここに来てようやく、彼も私と同じくして、道を知らなかったのだと気付いたのです。 二人して道を失いましたが、私は別段悪い気はしませんでした。思えばここまで既に散々迷い、何故この彷徨い歩いた果てに、私の望む場所に、彼が連れて行ってくれるのだと疑うことなく信じていたのだろうと今更おかしくなったのです。 悪い気はしませんでしたが、悪いことをした気にはなりました。何故同じになれないのだろうと、苦しむ彼をずっと、隣で見てきたからです。彼は星でなくランタンでした。 連れ歩いたのは私です。

【BL】精神不安定剤

 たとえばイライラする。  イライラして、自分がイライラしてることを意識するのも腹が立ってしょうがない。  これは決して朝のお祈りをしなくなったことが原因ではない。僕はあの馬鹿な親とは違う。そんなもので僕の精神が左右されるなんてことはない。だからさっき、母親に無理矢理つけさせられてる数珠も捨ててやった。  ならばこの混沌とした感情の根源は何だ?  勉強やテストや受験、進路、そんなものはみんな同じく面倒で大変なはずだし、それらの対処法みたいなものはむしろ溢れている。  つまり、だからきっと僕は特別なのだろう。特別だから頭の中がこんなに複雑にできているのだ。  そうだろ? 「そんなことないだろ」  ひとがせっかく感傷に浸っているのに。  そんな冷めたツッコミをされ僕は拍子抜けする。 「別に学生の悩みに対処法なんて溢れてないだろ。お前はちょっと情熱的すぎるんだよ」  草野はよくくさいことを言うやつだが、今日も相変わらずだ。僕が情熱的とはいったいなんの冗談だ?  僕はすこしやり返したくなり的外れな攻撃をした。 「おしっこしながら説教するとか恥ずかしくないのか?」 「お前こそうんこしながらカッコつけたこというなよ」  扉の向こうから秒で反撃され僕は肩を落とした。  しかしうんこはしていない。僕は学校でもどこでも個室で座っておしっこするのだ。 「うんこじゃない。おしっこだ」 「じゃあ、『おしっこしながらカッコつけたこというなよ』に訂正してやる」 「助かるよ」 「いいのかよ」  草野は鼻で笑ってすましてくれた。僕は彼のそのニヒルな態度にほんとに助かったと思った。だけど、トイレから出て廊下を歩いていると、彼はまだ終わってなかったように話を続けた。 「でもお前の言ってることわかるよ。というか俺も一緒だ。だからこそ冷めたこと言いたくなるというか。お前のわかりやすい態度にちょっかいかけたくなるんだ」 「なんだよそれ……それは本音か?」 「うん、まあ、それも含めてぜんぶ些末なことだよ」  そういう草野の声はすこし暗そうだった。彼の表情を横目で伺おうとしたとき、ちょうど教室から出てきたやつに声をかけられる。 「お、佐藤。ちょうどよかった」 「え?」  僕は思わず大げさに目をそらす。目の前にいたのはクラスメイトの森下だった。彼の顔を見ると一瞬でも胸が苦しくなる。そしてその声や笑顔に理不尽な苛立ちを覚えてしまう。僕は彼にとつぜん名前を呼ばれ驚きのあまり固まった。 「いつも佐藤がつけてるブレスレットが落とし物入れにあったからさ、勝手にだけど机の上に戻しておいたよ」 「あ……」 「えっと、戻してよかったかな?」 「ああ、うん、ありがと! わるいな、森下……」 「いえいえ。じゃ俺トイレ行くわ」  森下がその場を離れるまで僕はうまく息ができなかった。机を見るとさっき捨てたはずの、忌々しいはずの数珠が置いてある。僕はため息をつき、いろんな恥ずかしさに頭を抱えた。   すると、横でずっと黙っていた草野が口を開く。 「おまえはほんとわかりやすいよ」  そういった彼は引きつったような微笑を浮かべていた。 「せっかく戻ってきたんだから、つけとけよ。モノは悪くないだろ?」  草野が僕に数珠を手渡す。  ゴミ箱に捨てたはずの数珠が、なぜ落とし物入れに?  しかしなにはともあれ、草野が言っていることは間違っていない。  それに森下の気持ちも入っているのだから仕方ない。  そう思うとすこしニヤけた。  僕が手首につけてみせると、しかし草野は悲しそうに笑った。どうした?と聞くと、 「ぜんぶ些末なことだよ」  そういって、こんどはいたずらっぽく笑った。

戯れる子どもたち

余命三ヶ月です。 淡々と言う医師の言葉を私は淡々と受け止めた。 大阪の四天王寺の骨董市に行きたいと、きみえがぽそっと言ったのは去年のことだった。 遠いから、やだよ。 と私は一言いって、それきり。 思い返せば、きみえが何処かに行きたいと言ったのは、その時だけだったかもしれない。デートの行き先は、いつも私が決めていた。きみえはいつも、いいよ、行こうと言って笑っていた。 私は気分屋だから直前になって、やっぱり行かないと言うことがある。それでもきみえは、いいよ、止めようと言って笑った。 きみえはいつも私に合わせてくれていた。こんなことになるのなら、きみえの行きたい所に連れて行ってあげれば良かった。 きみえが観たい映画をいっぱい観せてあげれば良かった。きみえが食べたい物を、きみえが欲しい物を、きみえが……。 「行こうか、骨董市」 「え」 「ほら、大阪の、お寺の」 「四天王寺の?」 三月の終わり、寒さも和らぎ少しずつ優しい風が吹き始めた頃。きみえが体調を崩したので病院へ連れて行った。その帰りに私はきみえに骨董市へ行こうと言った。 どうして急にと、きみえは聞いてきた。私はその答えを用意していなかった。なんで考えていなかったんだろう。理由を聞いてくるなんて事は予想できたはずなのに。 「…いや…行きたいって、言ったから」 妙な間を空けて取ってつけたように私は答えた。 きみえは私の目を真正面から見つめて違和感に気がつかないフリをして、嬉しい、と言った。 そうして私より十五センチも背が高いきみえは、包み込むように私を抱きしめた。 お互いの仕事の休みを四天王寺の骨董市の日に取った。私たちは一泊二日の大阪旅行に出た。電車に乗れば二時間ほどで行けるのだから旅行というほどでもないけれど。 行きの電車の中でもバスの中でも四天王寺についてからも、きみえは嬉しそうに喋りっぱなしだった。 私は、どこできみえに打ち明けようか、そのことばかりを考えていた。 「見て!動物園!」 骨董市の端っこで【にじいろ移動動物園】とペイントされたワゴン車が二台止まっていた。その前に馬や兎や猿たちが仮設の柵の中に放たれている。そして子どもたちの楽しげな声。 私ね、動物園で働きたかったんだ。そう言って、きみえは優しい目で動物と戯れる子どもたちを眺めている。観にいこうかと言うと服が汚れるからいい、と言って、きみえは笑った。 動物園で働きたかった。そう言うけれど。きみえの優しい眼差しは動物なんかじゃなくて、子どもたちに向けられている。 私は悲しい気持ちになった。 「そろそろいいんじゃないかな」 ホテルの近くの居酒屋で夕食を済ませて一緒にシャワーを浴びて一つになった後、きみえは私の小さな胸に頬を埋めて言った。 「あるんでしょ?」 何か言いたい事が。 「三島杏奈さん。残念ですが余命三ヶ月です」 淡々と言う医師の言葉を私は淡々と受け止めつづけてきたけれど。 何事も無かったかのように淡々と打ち明けるつもりだったけど。 やっぱりだめだ。 きみえ。怖いよ。あんたの前では泣きたくなかったのに。あんたの前では強い女でいたかったのに。我儘ばっかりで振り回してばかりで本当にごめん。 私は、どうしようもない女ね。

踏まれて死ぬ瞬間を下から見る

 この世界には、働き者と怠け者がいる。俺はその前者だ。だが正直、死ぬまで働き続けて安全な場所で怠けている奴らに飯を食わせなきゃいけないと考えると、真面目に生きている自分が馬鹿らしく思えてくる。もし、一人で生きていく術を見つけられたら。迷わず俺はこの場所を去って、いろいろな景色を見に行くのに。「自由」を求めて生きるのには、この世界は狭すぎる。    今日もまた一人、仲間が死んだ。奴はいわゆる「怠け者」で久しぶりに、仕事に出ていた。食糧を巣に運び込んでいる時、奴は人間に踏まれて死んだ。普段怠けていた天罰が下ったのだろう、人間が接近している時の逃げ方さえも忘れてしまっていたなんて。  「お前、人間に踏まれて死んだ奴が最期にどんな姿をしていたか、想像できるか。」  「そんなの、想像したくもないね。哀れな怠け者の、哀れな最期の姿なんて。」  「俺、見たんだぜ。俺は奴の前を歩いていた。それで前から人間が走ってきたんだ。」  「逃げなかったのか?」  「もちろん逃げたさ。けど、運が悪いことにその人間は子供だったんだ。人間の子供は俺たちを狙って踏みつぶしてくる習性があるだろ。俺は逃げることが出来たけど、奴はターゲットになって踏みつぶされたさ。何回もな。人間が去っていったあと、奴はまだ息をしていたんだ。体はもう、ぐちゃぐちゃだったがな。」    その話を聞いて、少しは同情した。だが結局は自分の普段の行いと運の悪さが招いた結果なのだから、踏まれて死んだってしょうがない。俺はそんな死に方をしないためにも、毎日真面目に生きているのだから。  それからというものの、踏まれて死んだ奴を反面教師にしたのか以前より仕事をサボる奴は減った。まあ、一割くらいは。今日は新しい土地を開拓するために、その下調べをしに行く。行ったことがない場所は危険が多いので、仲間とはぐれないように厳重な注意を払う必要がある。  「ではここからは各自別れて、調査をすること。」  俺は道脇にある草むらの中を調査することになっていた。草むらは人が多い場所と比べると安全だと思われがちだが、意外と危険が潜んでいる。例えば俺らを餌とする他の虫たちや、雨が降った時に地盤が緩んでしまうということだ。  調査を進める中で特別危険なことはなかったが、気になることがあった。それは、砂糖が落ちていたということだ。しかもかなり大きめの。砂糖は俺たちにとってはかなり貴重であり、特別な嗜好品だ。それがこんな草むらに落ちているとは。ここに巣をつくれば高頻度で砂糖が手に入るかもしれない。証拠として持ち帰ろう。そう思って砂糖に近づいた時。  「捕まえた!」  人間の子供の声がして、俺は透明な容器に入っていた。  俺は間抜けなことに、砂糖につられて捕まえられたらしい。  その後はこの子供の家に連れていかれ、人工的な匂いのする土が入った容器に移し替えられた。  「やあ。僕の名前は翔平だよ。夏休みの自由研究として君を観察したいんだ。よろしくね、チャーリー!」  いつから俺はチャーリーになったんだ。  「おい、新入り。そこのチャーリー君。」  カブトムシだ。  「翔平の言う通り、これから俺たちは研究材料になるってわけだ。俺は三日前からここにいるが、ここでの生活は快適だぜ。ここは安全だし、食糧は勝手に出てくるし。ああ、俺の名前はサム。まあそう睨むなって。仲良くやっていこうぜ。よろしくな、チャーリー。」  ここは安全だって?人間の家だぞ!いつ殺されるか分からないんだぞ。馬鹿なのかあいつは。  しかし、ここでの生活はサムの言う通り、快適だった。食糧は自動的に出てくるし、時々翔平がじっと俺を見つめてくる以外は何も困ることはなかった。  だがそれは突然だった。いきなり体が揺れ始め、容器ごと床に投げ出された。サムや他の虫たちも同じだった。その衝撃で容器の蓋が開き、俺たちは容器の外に出ることが出来た。  「サム、何が起きたんだ。」    「おそらく、地震が起きたんだ。そしてこの家の人間は電気がつかなくなって、パニックになっている。翔平を含めてな。今、俺たちは自由だぜ。俺はここから出ていく。」    「サム、ここでの生活が快適だって言ってなかったか。」  「確かにここは快適だ。だが、あの狭い空間に閉じ込められているうちに、また羽を伸ばしたくなってな。お前も、自由になれるチャンスだぞ。じゃあな、チャーリー。」  サムは飛んでいってしまった。自由か。俺も自由に一人で旅を出来るのか。もう自然と足は動き出していた。  次の瞬間、高揚感ではなく、人の足に胸が押しつぶされた。ああ、これが踏まれて死ぬということか。俺の最期がこんなにあっけないなんて。来世では絶対、カブトムシになってやるからな。

無知の肯定

「そんなの知らなかった」    近頃、たびたびその言葉を耳にする。    知らなかったから得しなかった。  知らなかったから損をした。  知らなかったから参加できなかった。    そして最後には、口をそろえてこう言う。   「もっと必要な人間に届くよう、宣伝すべきだ」    新聞にでかでかと書いた。  新聞を読まないのは君たちだ。  テレビCМに何度も流した。  テレビを見ないのは君たちだ。  ホームページにずっと掲載していた。  ホームページにアクセスしないのは君たちだ。    ネットニュースは表示内容がパーソナライズ化され、政治経済の記事を読もうとしない君たちに、政治の得の話が表示されることもない。   「もっと必要な人間に届くよう、宣伝すべきだ」    それは、どうやれば実現できるのだろうか。  自ら情報から耳を塞ぐ相手に、 どうやって情報を届けろと言うのだろうか。    今日も君たちは耳を塞ぐ。  そして、情報を持たぬ己の無知を正当化するのだ。

反対方向

 帽子を深く被り、歩幅は変えずに速度だけを上げる。自然と背筋が丸くなった。  どうか気づかれませんように。そう何度も唱える。  「それでね、」  ふわりと柔らかいその声が俺に向けられていないことは分かっているのに、その言葉の先を促したくなる。どうした?って。ころころと変わるその笑顔に手を添えたくなる。喉に力を込めた。言葉も感情もなにひとつこぼさぬように。悟られないようにするために。  「あれ?祐介?」  もうずっと聞いていなかった彼女の声に呼ばれた。あの頃に戻ったようで胸が大きく揺れた。嬉しい。でも、嬉しくない。この声に応えたい。でも、応えたくない。相反する感情に板挟みになった俺は、どうするにしても反応が遅れた。  「美代、知り合い?」  隣に並ぶ男が彼女の名を呼んだ。ずっと自分だけが彼女の名を呼ぶときに込めるものだと思っていた今はない特権をその男に感じた。憎らしくて、そんな自分が惨めで苦しくなる。もう、彼女に関するものの権利も資格も俺にはなくて。俺に残されている彼女というのは、もう過去のことなのだと。その事実のみ。  彼女の言葉を聞く前に、その場を立ち去ろう。  そうして、俺は駆け出した。どこにも逃げられないことは分かっているけれど、そうしないではいられなかった。彼女の口から、俺のことを遠ざけるような台詞はもう二度と聞きたくなかった。  過去のできごと。彼女の中では、俺はすでに過去の男。でも俺の中では、今でも唯一無二の、代わりなんていない、この後の人生にもう彼女以上に想える人には出会えないと、そう思うほどに、俺の中では今もなお、未来に続く女だった。  「祐介!元気でね!」  後ろからかけられた言葉に、足元から崩れそうだった。  逃げきれなかった。  逃げられなかった。  突きつけられた真実。  砕かれた愛想。  元気でいてほしいと思うなら、俺の背中に向かって声なんてかけるなよ。幸せを祈ってくれるなら、俺の背中を追いかけて、この腕をとって抱きしめてくれよ。なんで。なんでだよ。  愛憎。  どうして、俺と彼女の気持ちは反対方向に、一方通行になってしまったのだろうか。いつどこで。何を選びとったときに間違えてしまったんだろう。ああ、考えても仕方ないのに考えてしまう。どうしたって意味なんてもたないのに。全てがもう、遅すぎた。  「……さよなら」  掠れた声でも押し出したその言葉は、彼女に届いただろうか。  未練たらたらの後ろ向きなこんな俺の、名残惜しさを讃える気持ちの籠らない別れの言葉…さよならが、どうか現実のものになるまで、それまで。  もう、会うことなんてありませんように。

鬼の教官

私の教官は鬼である。 私にだけスパルタ指導してくるのだ。 なぜ、私にだけなのか。 訓練が終わった後も、どうしても納得が出来ずにいた。 意を決して、廊下で教官を呼び止めた。 威圧感のあるしかめっ面を前に、足が震えてしまいそうだ。 すうっと息を吸って、一息に言葉を発した。 「なぜ私に対して、そんなに厳しいのですか」 私の言葉に、教官は意外にもきょとんとした表情をする。 そして次の瞬間、声を上げて豪快に笑った。 「そりゃ、お前に見込みがあるからだろ」 え。 戸惑う私の頭を乱雑に撫で、教官は去っていってしまった。 ……それはつまり、期待してるっていうこと? 予想外の言葉に混乱しつつ、じんわりと胸に嬉しさが広がっていく。 いつもは厳しい教官だが、本当に凄い人なのは皆が知っている。 そんな教官に期待されて、嬉しくないはずがない。 緩む口元を抑える。 教官も、実は優しいのかもしれないな。 次の日、私の訓練量が倍に増えていた。 なんでだ。優しいと思ったのに。 やはり私の教官は鬼である。 スパルタな訓練にぜぇぜぇと息を切らしながら、私は心底そう思った。

キス味のソフトクリーム

ベチャッ 静寂。 これが子供だったらどれほど泣いていただろう。だが、彼女は大人で、お金もそりゃあまり余るほど持っている。ただただ手元から落ちてコンクリートとキスをしているソフトクリームを見下ろしていた。 「ああいうのって自分が不幸だとか思っちゃいけないの」 「じゃあどう思うの?」 「ソフトクリームはそうしたくてそうしたの。コンクリートと恋をしたのよ。それでコンクリートとキスをした。私はソフトクリームの恋のキューピッドになったの」 屁理屈だ。 彼女は何でも屁理屈を言う。それがまた面白くて飽きないわけだが、いつも無表情で本音がわからないのがネックだ。 「だけど、そんなソフトクリームはいつか溶けてなくなるよ」 「なくなる前に幸せになれたのだから悪いことではないわ」 そう言う彼女は、先ほど買っていたバニラ味のソフトクリームではなく、いちご味に変えていた。よっぽど悔しかったのだろう。別に味を変えても運命など変わりはしないが。 すでに溶け始めているソフトクリームを急いで舐め取りながら、量を減らしていく。 彼女とは久々のデートで、遊園地に来ている。家族連れや他のカップルも多く、活気盛んだ。夏ということもあり、ソフトクリームが様々な人の手に渡っている。 「貴方にとって幸せって何?」 突如聞かれた。「幸せとは」なんて生きていれば誰だって自問自答することも多いが、俺にとってはそんなの簡単だ。 「それは君と過ごすことだよ」 「そう。でもそれは当たり前になったら幸せにはならないわね」 彼女の言いたいことはわかる。幸せというものは常日頃にないからこそ幸せを感じる。「毎日が幸せです」なんて言える人は本当の幸せを感じたことがないだけだ。なんてのは俺の主観でしかないが。 「じゃあ君にとっての幸せは?」 彼女は数秒俺と目を合わせる。 「……貴方と共有すること」 「……それは俺の幸せとどう違うんだ?」 彼女は俯いて、そのまま黙ってしまう。 遊園地のデートは、最後に観覧車と決まっている。別に誰からともなく決めたわけではないけれど、夜景っていいよねというだけで自然と体は観覧車へと向かう。 4人乗りのゴンドラはゆっくりと昇っていく。 隣に座るか向かい側に座るかで悩んだ挙句、向かい側に座り、お互いの顔がよく見えるようになった。 下方からの明るい光が2人を照らす。 また、彼女はバニラ味のソフトクリームを買って手に持っていた。甘党の彼女は無表情ながらも幸せそうに食べている。……幸せそう? なんだか寂しそうにも見える。 「どうした? 何だか寂しそうだけど」 訊ねられて、ソフトクリームを口にしようとしていた唇が、少し開けたところで一瞬止まり、そしてゆっくり閉じる。 「いえ……、寂しいというよりも悔しい、かしら」 「悔しい?」 「共有……というのは……つまり、貴方と同じものを食べて、同じことをして、同じものを見て、同じことを感じる。そういうものを……望んでいるの」 珍しく口篭りながらも、一生懸命伝わるようにと彼女は語る。いつも無表情な彼女が、光に照らされながらも頬を染め、少し涙目になって輝いていた。 「同じ……ソフトクリームを……食べていないでしょ? 今日、一度も」 言われてみれば……。彼女にソフトクリームを買っただけで、自分は一度も買っていない。 ただ……それだけで寂しいと思うのか? 「同じ……ソフトクリーム……」 もう一度同じ言葉を、先程とは一段と小さな声で。持っているソフトクリームを俺の目の前に差し出す。手が震え、さらには光に負けないくらい真っ赤な顔を隠すように真下に向け、彼女なりの勇気ある告白とも言える行為だった。 そこで合点がいった。 彼女は俺と全く同じものを共有したかっただけだ。間接キスになるのは躊躇いもないけれど恥ずかしかったのだ。 重ねて、ソフトクリームを落とした時の彼女を思い出す。コンクリートとキスしたソフトクリームが羨ましいとさえ思ってしまったのかもしれない。 そう思うと、いつも冷静で、でも恋愛には臆病で、それでも勇気を出した彼女に愛しいという感情が湧き立つ。 俺はそっとソフトクリームを掴んでいる彼女の手を握る。少し熱を帯びた手はビクッと震えたが、顔を上げる彼女を見つめながら、すっかり溶けたソフトクリームを舐め上げる。 「溶けてんだけど」 笑いながら、彼女の緊張を解そうと試みる。 「あ、貴方のせいでしょ。食べるのが遅い」 「でもさ……」 こんな彼女が見れただけで愛しいと同時に悪戯を仕掛けたくなる。 もう一度、ソフトクリームを舌に乗せると、そのまま彼女の唇へ__。

学校に居るうるさい奴

「え、先生。この芋ようかん、同じ金払ってる のに、一グラム違かったらおかしいですよね?」 (お前自分が嫌いなもの残すくせに何いってんの) 「なんで俺だけ怒られるの?!」 (特にお前がうるさいからだよ。) 「え、個物の給食は俺にくれるって お約束だよね?」 (誰がお前なんかにあげるか) 「ねー、もっと多く入れて!」 (平等って知らない?) 「ねー、少ない!」 (平等って知らない?) 「うるさい黙れ!」 (注意は良いけど君の声が一番うるさい) 大変な毎日

描くのが好きだった

絵を描くのが好きだった。 物心ついた時からずっと描いて、それなりに賞を取れるくらいにはうまかったと思う。 それだけ描くのが好きだったのだろう、15の夏、わたしは進路に悩まされていた。 正直、わたしは絵を描きたい。芸術科に行こうか迷っている。でも、親は反対してくるのだ。 「田舎でちょっとうまくても何もならない」 これがトドメだった。 今までのわたしが全否定されたような気がした。 わたしは、評価されたくて故に絵を描いていた。絵を描いたら評価してもらえる、みんなわたしを褒めてくれる、いつのまにかそんな風に絵を描いていてしまった。 なんで滑稽だろう、15になって初めて知った感覚だった。 わたしは絵は大してうまくもないし、描き続けたって意味がない、ということだ。 急に全部がどうでも良くなった。絵をかけないわたしなんて価値がないとさえ思えた。それほど絵に依存していた。大して美味いわけでもないのに。自分でも笑ってしまう、描いていた手を止める。 本格的に絵を描き始めたのは小学5年生だっただろうか。好きな人がいた、これもまた好きな人に評価してもらいたかったのだ。 考えているうちに全て嫌になって、絵の資料、絵のこれまでの記録、5年間描いてきた絵、全部ぐしゃぐしゃにしてしまった。 気がついたのは深夜だった。部屋が散乱していた、そこでまた思ってしまった。 「こんなに絵に縋っていたなんて、滑稽だな」 自分の滑稽な姿を見て、1人苦笑いをしてしまった。

剥がれる

 子どもの頃から、かさぶたを剥がすのが好きだった。  ペリペリペリと。    剥がした先には、治りかけの皮膚というグロテスクなものが現れる。  なんだか、本当の姿を見たようだった。    大人になると、めっきりかさぶたができなくなった。  転ばなくなったから当然だ。    それでも、剥がしたい衝動に駆られる。   「いい? これは貴方のために言ってるの」   「違いますよね? 自分のためですよね?」    最近は、人の心を剥がしている。    貴方のためを思って言っている。  私は何とも思わないけど他の人が。  君のためにも辞めた方がいい。    偽善の仮面をつけてせえっしてくるやつらの、本性をペリペリペリと剥がしている。    きれいに剥がれた後には、怒りの顔が残っている。    これがきっと、人間の本当の姿なのだろう。        今日も、かさぶたを剥がす。    ペリペリペリ。

金魚色

「おじゃまします」  美咲は深く一礼して、玄関をくぐった。扉を開けてくれているさゆりが、軽やかに笑う。 「そんなに頭下げなくてもいいよ。ほら、入って入って」  その声に背中を押されるように、美咲は靴を脱いで廊下に立った。高校の先輩である恋人の家に初訪問という特別なイベントで、ガチガチに緊張している。案の定、足がうまく動かず段差で躓きかけてしまった。それに気づいたさゆりに、「おっと、気をつけてよ」と言われる始末だ。自分の無様さに目眩を覚えながら、回らない口を開く。 「ま、まずは、ご両親にご挨拶を」 「今日は両方いないよ。仕事なんだ」  お父さんは昨日から出張、お母さんは夜までパートだよ、と軽やかに笑いながら、美咲が持ってきた手土産を受け取り(どうぞお納めください、というセリフつき)、キッチンに立ってお茶の準備をはじめた。手伝おうと隣に並んだ美咲に、座っていなさいときっぱりした口調で言うのも忘れなかった。彼女がすこぶるつきの不器用だということを知っているので。  美咲は綺麗な柄のカバーに包まれたソファに恐る恐る腰を下ろし、失礼にならないように目玉だけ動かして部屋を観察した。目の前には磨きこまれたガラスのテーブル、少し離れた正面に最新型の大型テレビ、出窓には束ねられたレースのカーテン。センスのいい花瓶に花が生けてあり、家族写真も飾られている。部屋全体的にいい匂いがするが、なんの匂いかは美咲には判別がつかなかった。発生源も不明だ。全体的な広さも、美咲の自宅とは比べ物にならない。平凡な女子高生からすれば、この家は立派な「豪邸」だ。  美咲の家にはない洒落たポットにお湯を注いで、そっと紅茶のティーパックを沈めてから、さゆりは口を開いた。 「そう言えばね、最近、金魚を飼いはじめたの」  あのポット、直火はだめなのか、などと考えていた美咲は、びくっとしてさゆりを見た。何だって? 金魚? 「そう、金魚。けっこう可愛いんだよ」  思っただけでなく口に出してしまっていたらしい。ますます焦りつつ、美咲はかろうじて相槌をうつ。 「そ、そうなんですか。種類は何ですか?」 「出目金だよ。真っ赤で可愛いの」  にっこりと嬉しそうに言うさゆりを見て、美咲もつられて笑顔になった。美咲は恋人のこの笑顔が一番好きだ。 「見てもいいですか?」  美咲が言うと、さゆりはますます笑みを深めて頷いた。 「もちろん。うちの可愛い子たち、見てって」  その前に紅茶、飲んじゃおう。さゆりがそう言って片目を瞑るのを、美咲はくらくらしながら眺めた。この人より可愛いものは存在しないと思う。  銘柄はわからないが何だかいい香りのする紅茶と持参したお菓子を飲み下し、さゆりに導かれて隣室へ向かった。窓が一つあるだけのその部屋は、リビングよりは小ぢんまりしてはいるが、美咲の自室よりは広々としていた。軽い家具があり、整理整頓がされていて、何が目的の部屋かは判然としない。一体、何部屋あるんだこの家は。  呆然としつつ、さゆりに手を取られて棚の上に置かれた金魚鉢の前に立つ。 「じゃーん、この子たちでーす」  美咲が覗きこむと、大きな金魚鉢に、真っ赤な出目金が二匹、優雅に泳ぐのが見えた。鉢の中は砂利や水草などもレイアウトしてあり、勝手ながら居心地がよさそうだ。 「わあ、可愛いですね」 「そうでしょう。たまたま行ったホームセンターで一目惚れしちゃって」  さゆりさん、ホームセンターとか行くのか。交際歴二年にして今さらの親近感を抱きつつ、何気なく金魚から隣のさゆりに視線を移す。  と、ばっちり目が合った。  思わず狼狽えると、さゆりは目を細めて笑った。 「まあ当然、美咲ちゃんのほうが、何倍も可愛いけどね」  突然のことで、美咲は頬が熱くなるのを感じた。あわあわしながら目を泳がせていると、さゆりがその手を握った。 「何で私が、二年も家に招かなかったか、わかる?」 「わ、わかりません……」  混乱する頭をフル回転させたが、答えは見当たらない。ふと、さゆりの目が真剣な光を灯した。 「それはね、二人きりになれる機会を待ってたから。両親がいない、こういう状況をね」  さゆりの美しい顔が近づいてくる。美咲は何が何だかわからないまま、ますますパニックになる。いつの間にかへたりこんでしまっていることに気づく。ほとんど唇が触れそうなほどの距離で、さゆりは笑う。 「可愛いね美咲。顔、金魚と同じ色になってるよ」  愛しい愛しい美咲。あなたは私のものだよ。  金魚が水の中で、尾をくゆらせて優雅に泳ぐ。もはや美咲にはそれを見る余裕はなかった。

.先生、私っていい子ですよね

私、いつも頑張ってるよね? テストの点も悪くないし 先生に注意されないよう身なりも態度も気を使ってる なのに一度だけ、信号無視したくらいで それをたまたまそこにいた先生に見つかったくらいで 私はいたたまれなくなってその場を離れてしまった 完璧な生徒だったのに、私 他のクラスメートよりも大人しくしてたし 手のかからない子だったし なのにこんなとこ見られたら先生に失望されてしまう 優等生の勲章を剥奪されてしまう それは私に取っては死に等しいのだ 先生にとっていい子であり続けなければ、教室にいる価値すらないのに 翌日は登校するのが憂鬱だった 教室に入ってくる先生を見て冷や汗が止まらなかった ホームルームが終わったあと、意を決して先生に話しかけた 「あの、昨日の放課後、会いましたよね」 「ん?なんのこと?」 あっけらかんと話す先生を見て 時間が止まったような気がした 私はこんなに先生に嫌われないように 見放されないように頑張ってるのに 先生にとっては、私なんて眼中にすらなかったんだ

タールの重さ

壁も天井も真っ白な空間に小ぶりで上品なシャンデリアが三対。 十人掛けの円卓が、三つ、二つ、三つ、二つと規則正しく交互に並べられ、その円卓には壁や天井と同じような真っ白なシーツが掛けられている。 卓上には十人分の皿とフォークとナイフとナプキンが円卓の縁に沿って綺麗な輪を描いて並んでいる。 披露宴に出席したのは四年前に従姉妹の妙ちゃんの時以来だ。 と栗本里佳子は思っている。 社会人になって初めての披露宴は美大予備校時代の恩師、佐々木先生のハレの舞台だった。 二年ぶりに会った佐々木先生は、まるで別人のように新郎席に座っている。 佐々木先生は、ぼさぼさの髪と伸ばし放題の髭がトレードマークで熊のような体格で、まるでハリーポッターに出ているハグリッドのようなので、みんなからハグリッドと何のひねりもなく呼ばれていた。 だけど、いま新郎席に座っている佐々木先生はハグリッドではなくドカベンの山田太郎だと栗本里佳子は思っている。 もちろん今年二十四歳になる里佳子がドカベンの主人公の名前が山田太郎だと知ってるわけもなく、それは後で調べて分かったことだ。 あの頃の佐々木先生の見た目は全体的に粗野だけど瞳だけは優しさに溢れていた。 先生を好きになる生徒も多かった。 男性、女性問わずに。 里佳子はタイプではないので完全に恋愛射程距離から佐々木先生を外していた。 その恋愛射程距離内で佐々木先生に標準を合わせていた里佳子の友人、三島杏里が喫煙所から戻ってきたのは新郎友人代表スピーチの最中だった。 「現金だねぇ」 「何が」 「タバコ」 「何よ」 「先生が結婚しちゃったから?」 「うっさい」 佐々木先生が煙草嫌いらしいという事を杏里に教えたのは里佳子だったし、佐々木先生がバトルロワイヤル・ゲームが好きらしいと教えたのも里佳子だった。 射程距離内で標準を合わせて一向に発射ボタンを押さない杏里に、里佳子はいつも世話を焼いていた。 お陰で杏里は高校三年の時から隠れて吸っていた煙草をキッパリと止め、かわりにバトルロワイヤル・ゲームにドップリとはまっていた。 今はVRゲームとコンビニエンスストア『リトルエレファント』でバイトの日々。 杏里は学生時代から『リトルエレファント』で働いている。 「まだやってんの?リトファン。長いね」 「一途だからね。アンタと違って」 「その言葉、アンタがここで言ったら怖いセリフ、ナンバーワンだよね。ちょっとタバコの匂いがキツいんだけど何吸ってるの?」 「なんでもいいじゃない」 「見せて」 何すんのよと言う杏里の言葉を無視して里佳子は杏里のバックから煙草を取り出した。 「ジャル、ジャルム…」 里佳子は黒と赤の二色のパッケージにDJARUMSUPERのロゴが入った紙箱の成分表示を読み上げる。 「タール40ミリグラム、ニコチン1.8ミリ……。心の重さがタールの重さって事でオーケイ?」 二時間の予定の披露宴はきっかり二時間で終わった。 里佳子は彼氏に会うからと早々に帰った。 杏里は迷っていた。 二次会に行こうか止めようか。 佐々木先生の幸せそうな笑顔をもっと見ていたい気持ちと。 佐々木先生の横で幸せそうにしている女を見たくない気持ちと。 心の重さがタールの重さって事でオーケイ? 里佳子の言葉が的を射てムカつく。 杏里はまだ十四本も煙草が残っているDJARUMSUPERの紙箱を握りつぶしてゴミ箱に捨てた。 そして自動販売機でタール1ミリグラム、ニコチン0.1ミリグラムのピアニッシモ・ペティル・メンソールのボタンを押す。 心を軽くして二次会に行ってやる。 そして今日で吹っ切るんだ。 結婚式場の外はすっかり陽が落ちている。 三島杏里がフと吐いた煙草の煙の向こうに濃ゆい朱色の月が浮かんでいた。

青色の絵の具

 僕は小さい頃から絵を書くのが好きだった。父は小学校の図画工作の先生だったので、絵の具を父に買ってもらったときには絵の具の使い方はもう全部知っていた。  特に僕の好きだったのは青色だった。  青は人の心を青くする力がある。心の中を青色の晴れ晴れとしたものにする力がある。だから好きだった。  特に、僕の生まれ育った高知県は本当にいつも晴天で、空の青い色を何度も描いたことだろう。そんな僕は青色の絵の具だけ空っぽにしていつも文房具屋に行ったものだ。    ある日、文房具屋に行ったところで青色の絵の具を選んでいる間に大雨が降り出した。 「おじいさんの居間で待ってなさい。」  と僕は文房具屋のおじいさんに言われて、僕はおじいさんが案内した部屋でお茶を飲んで一服した。 「ちょっと待っててね。」  とおじいさんが言って、僕はその場で少し待機した。数分後、おじいさんが持ってきたのはある夜の日の風景画だった。 「どうだ?」  僕はその絵に強く惹かれるのを感じた。  その次の日から僕は学校が終わるとあすぐにおじいさんの文房具屋に行って、絵を教えてもらった。 「徹哉、今日はは遠近法を学習しよう。」  と、おじいさんは、客が少なければその時間は休憩に使わずに、一分一秒でも僕に長く絵を教えていられるように本当に力を尽くしてくれた。そして僕はおじいさんに絵が上達していくうちに僕に 「よく頑張ったな。」  と頭を撫でて、褒めてくれた。  僕はおじいさんに本をもらい、早く絵が上達するようにと猛勉強を続けた。  しかし、僕が小学校六年生の十月のある日、おじいさんの文房具屋が閉店した。  僕はおじいさんの文房具屋の戸を叩いたけれど、おじいさんはいなくなっていた。  理由は経営がうまく行かずに地方に行ったとか、農業を始めたとか噂が流れたけれど、未だに真実はわからないままだ。  数日後、学校の図画工作の授業で隣の女子の絵を描きなさいという題が出された。  僕は顔以外はできるだけ青を使って描きたかったのだが、先生に 「中西、青色ばかりの作品に何が込められているんだ。」  と怒鳴られて、多彩の作品に作り変えられた。 「怒鳴られてたね。」  授業が終わると、その女子に話しかけられた。  その女子の名前は秋元佳世といった。 「ごめんな、周りをあんなに変な感じにしてしまって。」  と僕は行ったのだが、 「ううん、中西くんの絵、本当に良かったと思うよ。私も青色、好きだもん。」  僕は彼女に何か心を奪われるのを感じた。僕の絵を認めてくれるのは、おじいさんを除いて、初めてで、その時に僕の絵を認めてくれるのは彼女しかいなかったからだ。 「ねえ、私に絵を教えてよ。」  このときから僕は彼女を僕の家に呼んで、彼女に絵を教えた。おじいさんから教わった絵の技法を彼女に教えた。  けれど、僕は彼女に技法を教えていくうちに青色の絵の具の存在を忘れてしまい、僕の僕だけの絵と自信を持っていたものが、ちょっとずつ壊れていった。そして僕の絵はどんどんすべてが均等になった絵になってしまった。  十数年後、僕は有名な画家となり、佳世と結婚することになったのだが、一戸建てに引っ越すためにアパートの整理をする時にあるカピカピになった使いかけの青色の絵の具が出てきた。  それは僕の小さな頃の大きな思い出が詰まっているように感じて、何故か涙が出てきた。   「ごめんな。」  と一言、青色の絵の具に言って僕はその絵の具をきれいに洗うと何故か少しだけ青色の絵の具は柔らかくなったように感じた。

ノスタルジック・ランドリィ

「起きてアコ、洗濯物入れるの手伝って」  開け放した窓から漂ってくる雨の匂いにいち早く気付くのはいつも父だ。  呼ばれた私は眼を擦りながら、気怠そうにベランダへと向う。  ベランダに出た父がハンガーから洗濯物を取り外し、受け取った私がそれらを隣の和室へと運ぶ。  全ての洗濯物を入れ終わると、待っていたかのように小粒の雨が窓を叩き始める。  次第にその音は大きくなり、あっという間に土砂降りになるのだ。  父は雨が降るタイミングを読むのがうまかった。  私はそれが不思議で仕方なくて、父になんで雨が降るとわかるのか聞いた。 「アコも父さんぐらいの歳になればわかるようになるさ」  そう冗談めかした父は「あとは頼むよ」と言って、夕飯の支度を再開するために台所へと戻っていく。    洗濯物を畳み始める前、積み重なった洗濯物の上に寝転ぶのが好きだった。  見つかるとシワがつくと叱られるのでこっそりと山の上へとうつ伏せになり、服の中に顔を埋めて大きく深呼吸する。  父のエプロン、母のワイシャツ、兄の部活着、私の体操服。  日の光を目いっぱい吸った服はまだ少し温かくて柔らかく、母好みの甘い洗剤の香りがした。  肺の中にその空気を満たしてから私は片付け始めるのだ。    私が片付け終わる頃には夕食の匂いが台所から香ってくる。玄関の方から母と兄の足音が聞こえてきて一気に家の中が騒がしくなる。濡れて帰って来るだろう二人が口々に何かを話し、笑い声が家の中に響く。  そして和室の襖が開いて顔を出した父が微笑む、 「お手伝いありがとうアコ。夕飯にしよう」 「うん」  私の頭を撫で、手を握る父の大きな手は少しだけ冷たくてゴツゴツしている。  その手が作った料理が今日も食卓へと並んでいるのだろう。  最後にみんなで食卓を囲んだのはいつだっただろうか――。 「起きろアコ。早いけど飯にしよう」  兄が私の肩を揺らした。  いつの間にか眠ってしまったらしい。私は服の山から顔を上げて、壁にかかっている時計で時間を確認しようとした。  しかしそれは兄が先週片付けてしまったので、そこだけをくり抜いた様に日焼けしていない壁があるだけだった。  私は手に持っていたブラウスを置いてダイニングへ移動した。外はもうすっかり日が落ちていた。  テーブルにつくと兄は私にコンビニの袋を渡した。中にはお茶のペットボトル、おにぎりがいくつか入っている。  兄がペットボトルの中身を勢いよく飲んで大きく息を吐くと、その声は静かな部屋に驚くほど響いた。 「書斎、もう少しで終わりそうだよ」口元を手の甲で拭うと兄は言った。 「ごめん、和室はもう少しかかりそう。お母さんの服が多すぎるんだもん」  私も飲み物に口をつけた。腹の中に冷たい感覚が沈んでいく。ひどく喉が乾いていた。 「父さん、母さんが死んでから一着も捨てなかったからなあ」 「頑なだったね。あんな剣幕のお父さん見るの初めてだったから私、結構びっくりした」 「だな。後にも先にも父さんのでかい声聞いたのはあん時ぐらいだよ。母さんの時の遺品整理はほんとに大変だった」  そう言って苦笑いした後、兄はコンビニ袋から適当なおにぎりを一つ手に取った。  ラベルに梅と書いてあるのを確認すると、兄は私にそれを渡した。  兄は鮭のフィルムを剥がしてかぶりつく。  私も兄に倣う様にかぶりついた。べたりとした米も真っ赤な梅干しも、やけにしょっぱく感じた。    私はさっき見た夢のことを兄に話した。  小学生の私と父、洗濯物や夕立ちの匂い、この家で囲んだ食卓。  兄は聞きながらじっと私の目を見て頷いた。その顔に母の面影を感じて、私は思わず泣きそうになった。  話し始めるとたくさんの記憶がとめどなく溢れてくる。  私達は流れる川の中から様々な形の石を拾い上げて見せ合うかのように、既に話し尽くされた思い出をいくつも話し合い、もう戻ってこない日々を思った。 「もうあの時のお父さんより歳取っちゃったけど、ああなるにはまだまだかかりそう」 「大丈夫だよ。アコは父さん似だから」  そう言って笑った兄は椅子から腰を上げて大きく伸びをした。 「さて、もう少し続きやるか」  書斎へと戻る兄の背中を眺めてから私も和室へ戻った。  和室の電気もつけないまま、私はポケットからスマートフォンを取り出してメッセージアプリの通知をタップした。  通知は全て旦那からだった。  ――こっちは大丈夫だからゆっくりしてくるといいよ。  送信された写真にはお気に入りのぬいぐるみを抱いて眠る娘が写っている。  私は画面を指先でひと撫でしてからポケットにしまった。  目を閉じていないのに閉じているかのように真っ暗な部屋の中。  静かに深呼吸してみると、畳の匂いとどこか懐かしい洗濯物の匂いがした。

それは夢だった

 遠い昔に、いなくなってしまった人がいた。  その人は金魚が好きだった。  いや、好きだったかどうかはわからないのだが、俺はその人に緑色の金魚を見せてもらったことがある。  緑色の金魚。  本当にいるのかはわからなかった。そのときの俺は夢ばかり見ていて、その記憶もただの俺の思い込みかもしれないからだ。  俺は記憶が混濁している。夢の記憶と現実の記憶の区別がうまくつけられない。  けれど、その人がいなくなってしまったことだけは現実だとわかっていた。  都合のいいことは夢で、都合の悪いことは現実。  そう思っていれば、区別がつけられなくても自分で判断することができる。  便利な判断方法だ。  だから、あの人がいなくなってしまったのは現実。    緑色の金魚は空中を泳いでいて、夏の夜、ぼんやりと発光していた。  あの頃は何でもできると思っていた。  その人が目の前からいなくならないよう、引き留めることすら。  だがそれは俺の勘違いだったようで、あんなに親しかったのにあの人はいなくなってしまった。  親しかった、という記憶も捏造なのかもしれないが、わからない。  あの人との思い出だけは真実だと思いたかったが、あまりにも幸せな記憶なのでそれも夢かもしれない。  あのとき、緑色の金魚は宙を泳いで消えてしまった。  落胆する俺に、あの人は「そんなこともありますよ。また出してあげますから、気にしないでください」と言った。  その後すぐにあの人はいなくなってしまって、緑色の金魚を見ることは二度となかった。  そんなことを、閉め切った部屋の布団の中でぐるぐると考えている。  もう昼なのに、起きる気になれない。  あの人がいなくなってから、俺の生活は変わってしまった。  あんなに世界が輝いて見えたのに、今や灰色。  心が大きく動くこともないのならそれは安寧であり、些細なことでいちいち上下するのは時間の無駄だし本当のところはそれでよかったのかもしれない。  わからない。  何が正しかったのかなど。  あの人がいなくなったとき、もっと話しておけばよかった、と思った。  もっとたくさんのことを話して、もっとたくさんの思い出を残しておけば、あの人を繋ぎとめることもできたんじゃないかと。  けれどそれらは全て「もしも」で、現実にはならない。    夢ばかり見る。あの人がまだいたころの思い出。  海に行ったり、祭りに行ったり、あちこち一緒に旅して回った。  俺とあの人は親友なんだ。そう思っていた。  そのはずだった。    あの人は何も残さずに消えた。  ■■ことさえ許してくれないなんて、残酷だ。  かといって恨むわけにもいかないので、ただ布団に潜って夢見るだけ。  あの人のいた現実を。  ■■は生き返らない。二度と。  取り返しのつかないことが起こったので、夢を見る。  いくら夢を見てもそれは現実にならず、夢の中で「これは夢じゃないですよね?」と確認して承認をもらっても、目が覚めると全て消えて夢になる。  夢は残酷だ。  けれど俺はもう夢の中でしかあの人に会えないから、眠って、眠る。  そうして日々は過ぎ、俺はいつか死ぬのだろう。  緩慢な■■。  わかっている。何もかも。  緑色の金魚が目に焼き付いて離れない。  それは夢だった。

浮上しない

 黄昏時には魔のものが現れるという。  そんなことを考えながら、黄昏時に歩いている。買い物に行くためだ。  昼間は危険な暑さなので、こんな時間にしか外に出られない。  わざわざ選んで黄昏時に歩いているというわけだ。    何か面白いものがいないかきょろきょろしてみるが、何もいない。  引きこもりの生活は退屈だ。毎日部屋に閉じこもって、寝るしかすることがない。刺激が少ない。  だから、せめて魔のものぐらいは見ておきたい。誰に伝えるでもないが、そういうものを見ることができたらちょっとだけ嬉しいからだ。  しかしながら俺は霊感と呼ばれるものを持ったためしがなく、おそらくゼロだった。  魔のものは霊感がないと見えないのかと問われるとわからないが、たぶんそうだろう。 「はあ……」  ため息を吐く。黄昏時でも暑い。危険な暑さだ。やっぱり夜にすればよかった。  そんなことを考えていると、 「あ……」  電柱のそばに「何か」を見た。  群青色の小さな三角形がくるくると回っている。  なるほど、これが魔のものか。  ……本当にそうか?  俺は三角形を注視する。  こういうところから出てくる魔のものもいるが、これが「魔のもの」と断定するにはまだ早いだろう。  まずは触れるかどうか確認してみよう。  そう思って近付くと、近付いたぶんだけ三角形は離れてゆく。  ははーん。  これ、幻覚だな?  なんだ、つまらない。結局俺に霊感はなく、三角形は魔のものなんてファンタジーなものじゃなかった。  そう思って先に進む。スーパーに着くまでまだあと少しある。  人通りはない。黄昏時は中途半端な時間なのだ。  三角形は相変わらず俺の視界の隅でぐるぐる回っている。  邪魔だなあ。消えてくれないかな。こんなものがあったら車が見えないじゃないか。  俺は三角形を手で払おうとするが、消えない。  まあ当然か。幻覚だしな。  一人で頷いてみるが、ただの怪しい人になっただけだった。幸運なのは人通りがないこと。誰かが見ていたら俺は完全に怪しい人だ。通報されてしまう。  いやそこまではいかないかもしれないが。  まあまあ、いいんだそんなことは。  魔のもの探しも飽きてきたし、さっさと買い物を終わらせて部屋に帰ろう。  俺は足を速める。  景色の流れるスピードが速くなる。  信号のない横断歩道を渡って、しばらく行くとスーパーだ。  黄昏時にスーパーの明かりがうっすらと浮かんでいる。  三角形のぐるぐるがそれと合わさって、スーパーが何やら幻想的に見える。  幻想的なスーパー。  需要あるのか、そんなものは?    俺はスーパーに入る。  ここにも人がいなかった。  かごを取り、野菜売り場で安めの野菜をいくつか見繕って、牛乳をかごに入れて、レジに向かう。  セルフレジなので、店員さんはいない。  バーコードを読み取って代金を払うと、俺はスーパーを出た。  三角形のぐるぐるが視界に占める率はどんどん高くなる。  邪魔だな。  でも、払うこともできない。  幻覚だからだ。  肩にかけた袋を持ち直す。そうしないとどんどんずれてくるからだ。  何が?  袋が。  三角形はぎらぎらと輝いている。  さっさと帰って寝よう。ご飯は明日でいいや。  重い身体を引きずるようにして、部屋に帰る。  鍵を開けて、買い物袋を床に置いて、部屋に入って鍵を占める。  何のことはない。いつものルーティンだ。  違うのは、視界で群青色の三角形がぐるぐる回っていることだけ。  パーティクルって言うんだっけ、こういうの?  まあそんなことはどうでもいい。  俺は買ってきたものを冷蔵庫に入れ、寝る準備をしてベッドに転がった。  目を閉じると、三角形はますます鮮明になる。  仮にこれが幻覚じゃなくて何かに取りつかれた結果だとしても、別に良い。  朝になって俺が死んでいても、別に良い。  退屈で苦しい人生が終わるだけだからだ。  魔のものに会おうとしたのもそんな理由からだった。  三角形は何の救いも示さず、ただぐるぐると回っている。  どうせそんなものだ。世界を変える魔法なんてない。  俺はこの部屋の片隅でひっそりと行方不明になるだけ。家族もいないから、行方不明者リストに載ることもない。  つまらない人生だった。  そうして三角形は俺を飲み込んだが、走馬灯も何もなく、俺の意識は浮上しなかった。  それで終わり。

見えない友達

 私の家では度々怪奇現象が起きる。  最初は扉が勝手に開くだとか、テレビが勝手に点くとか些細な物だったけれど、日が経つにつれ大きなことになってきた。  財布や大事なものが身に覚えのないところに置かれているとか、窓も開けていないのに強い風が吹くとか。  こういうことを友達に話すと気味悪がられるし、幽霊を信じている人からは変な興味を持たれ、変な札や石を押しつけられる。  でも、私は何とも思っていない。  怖くもないし、気味悪くも思わない。不思議な現象だな、と思うだけで気にせず過ごしている。  朝、起きると机に紙とペンが置かれていた。  紙には歪な文字で「おはよう」と書かれていた。  いつからか、私たちは紙とペンで情報交換をするようになった。  きっかけは私からだ。  本当に幽霊がいるのなら、寂しがっている顕れで怪奇現象を起こしているのだろうと思い、意思表示ができるようにと考案した。そもそも字が書けるかわからなかったが。  だが、そんな心配も無用でガタガタの字で返事が来た。日本語もわかっているようで名前は「れい」  最初からわかってはいたが、悪霊ではなく、ただただ私にちょっかいをかけただけ。地縛霊のせいなのか、私の家から離れることができず、ずっと一人のようだ。  怪奇現象が起こっていたとしても、悪事ではなく、財布も見つかるようなところにあるし、第一、私の命に関わるようなこともない。「幽霊」という一括りだけで怖がったり離れたりするのはかつて生きていた人にも失礼だ。 「なぜ君は亡くなってしまったんだ? 思い出したくなかったら書かなくて良いけど」 「……忘れてしまったの?」 「……え?」 「あなたが私を殺したんだよ」

夢を巡る巡るわ

あたしは、特技を持っているの。 見たい夢を毎晩見ることが出来る事。 この前なんか晩御飯に嫌いなピーマンが出て嫌いだから食べたくないって言ったらお風呂上がりのアイスを没収されたの。酷くない?1日の楽しみをお母さんは取り上げたの。だから夢でお腹いっぱいアイスを食べようって思ってアイスが沢山載っている本を枕に忍ばせて寝たわ。 そしたらアイスの家が目の前に現れて全部食べたわ。次の日の夜は要らないって思うくらい飽きちゃったの。バニラにチョコミントにストロベリー。もう飽き飽きよ。 でも、お母さんに黙って食べちゃったの少し悪いことしたかな〜。 今日はお母さんにプレゼントを探しにいこうかな〜ついでにお父さんにも。 ふむふむ。これはこれは。興味深いわね〜。 今日はこの夢に決定。 あたしは天才ね。 お母さんお父さんおやすみなさい。お楽しみに。 きたきた。ちょっと夢とは言え少し乱暴じゃない?もう雲を越えたわ。え?もう地球が小さいんですけど。 これが火星ね。周りを一周回って方角はあっちだから。。。ここで踏ん張って イケーー。 ゼーゼー。何とか成功ね。後はこの方角に真っ直ぐ。。。 えっと図鑑によるとそろそろね。ダイアモンドの惑星。キラキラして眩しいわ。それにしても大人は何でこんな石っころ欲しがるのか不思議なものね。 あのダイアモンドが丁度良いくらいだわ。あれにしましょう。 右のポッケに詰めてっと。次はお父さんのね。面倒くさいけれど仕方ないわ。 一回戻ってだから。。。逆方向ね。 火星が見えてきたわ。一回火星を回って。 イケーー。 えっとーそろそろだと思うんだけれど。 何か臭いわ。匂うわ。大人はこの液体が好きなのよね。本によるとラム酒ってやつみたい。 それにしても匂うわ。お母さんの味噌汁の匂いにすればいいのに。 この池で良いかしら。 瓶に詰めてっと。 それにしても宇宙って凄いわ。音があまりしないし。星は小さいけれど、近くで見たら凄くでかいわ。 さてさて。。。そろそろ帰ろうかしら。 明日は学校で体育あるし、疲れてたら跳び箱4段跳べなくなるわ。 月に寄り道して、かえりましょう。 イケーー。 月は綺麗だけど何かゴツゴツしてるわねー。うさぎもいないし。つまらないわ。 さてさて我が家に帰りましょう。 ん?お母さんの声がするわ。 おはよう。 お母さんとお父さんにお土産あるよー。 あっ。ホトケにお土産忘れたわ。今度行った時に木星の輪っかの首環を持ってくるから、今回はお預けね。

新しいこと

 今日もまた、仕事で覚えることが増えた。  DXだかSDGsだか知らないが、社員の覚えることを増やして、会社は何がしたいのだろうか。    会議は会議室でやるものだ。  顔を突き合わせて、フェイストューフェイスでやるからこそ、心の通った会話ができる。    ――来月から、全ての打ち合わせをオンライン会議に変更します。オンライン会議用のアプリの導入手順と使い方は別途告知しますので、来月までに使えるようになっておいてください。    だから、一か月前の会社からの通知に、俺は苛立ちを隠せなかった。  若いやつらは、ようやくか、なんてほくほく顔だったが、わかってねえ。  パソコン越しで、目線もあってるかわかんねえ顔を見ながらの会議が、何の役に立つんだか。   「っはー、会議終わりっと。タバコでも吸ってくるかー」    俺は逃げるように、喫煙室へと向かった。  六人分の席しかない、こじんまりとした部屋。  部屋の中央には灰皿が設置され、換気と脱臭を行う装置がゴウゴウと音を立てて働いている。    俺は椅子にどっかりと座り、煙草に火をつけた。   「っはー! うめぇ!」    この場所は落ち着く。  昔から、何も変わらねえ。  昔は仕事場でもくもく煙草が待っていたのが当然だったが、健康被害が騒がれ出されてから、喫煙者はこんなちんけな部屋に追い込まれた。  以来、変わらないこの部屋が、今ではとても尊く感じる。   「なにがミュートだ。なにが共有だ」    今日の会議を思い出す。    突然、ミュートをしてくださいと言われた。  俺の鼻息が聞こえるらしいが、人間は鼻息ぐらいだてるもんだ。    突然、画面共有してファイルを見せてくださいと言われた。  やり方がわからないと言えば、使い方読みましたか、と呆れた顔で言われた。    読んだに決まってんだろ!  読んでも理解できなかったんだよ!    今まで常識だったことは、次々非常識に変わっていく。  今まで存在しなかった常識が、次々常識になっていく。    俺の背中に積みあがっていく『新しいこと』は、確実に俺の体力を奪っていく。   「ああ、糞!……昔はよかったなぁ」    戻りたい。  昔に戻りたい。    煙草をぷかぷか吸いながら、隣の席の同僚と談笑しながら、仕事をしていたあの時代に戻りたい。    仕事に熱をあげていたあの時代に戻りたい。        新しく学ぶことに、楽しさを感じでいたあの時代に戻りたい。        わかってんだ。  DXだかSDGsだので変わっていく環境についていけない俺が悪い。  新しいことを学ぶことに楽しさを感じれない俺が悪い。  そんなことはわかってんだ。    でもな、もう俺にはそんな元気がないんだ。    頼むから、変わるな世界。    これ以上、変わるんじゃねええ。    俺はもう、世界から振り落とされそうだ。    灰皿に煙草を押し付け、火を消す。  ジュッと鳴り響く火消し音が、昔と変わらなくて心地よく感じた。

画面の前で母は

 この度は、お悔やみ申し上げ――  哀悼の意を、表し――  ご愁傷様で――  言葉尻まで言い切らないことで、悔しさを表現するのがマナーなんだそうだ。  そんな余分に気を回せるのは、本当の紳士か、あるいは、左程悔しくもないが義理や関係があるからと、出席した人だけだろう。  喪主として匂いを嗅いだ線香は、暫く鼻の奥に刻み込まれて、消えそうになかった。  母が死んだ。 交通事故に巻き込まれて、あっさりと逝ってしまった。 警察にも、見るには悲惨だと言われ、止められた。  次に会った時には棺の中にいて、そのまま顔も見ずに小さい壺に収まってしまった。  だからだろうか、もう六日も経ったというのに、死んでしまったという実感は湧いてきていない。今すぐにでも扉を開けて、買い物袋をもって帰ってきさえしてしまう。  そして、私の目には、未だ一滴の涙すら零れてこない。  妹は今日も、自室の隅に蹲って、声を殺して泣いている。  悲しみで胸中は包まれている。けれど、表面にはなんの発露もしてくれない。 ”男は生涯では三回だけ泣いていい”と昔の人は言ったそうだけど、友達との喧嘩で散々泣いた自分は、それに含まれている母の死は悼めない。 不義理なのだろうか。 判らなかった。  けれど、今、うじうじしても何も始まらないことだけは、はっきりしている。 夕食のためのインスタントの封を切りながら、お湯を沸かすために、台所に足を踏み入れる―― 『おかーさん! 今日のご飯は?』 『お兄ちゃんが好きなハンバーグよ』 『やったー!』 自分が子供の頃によくあった会話だった。 感傷に浸っていると、お湯を沸かしているヤカンが吹きこぼれそうになっていた。 慌ててスイッチを回し火を弱める。 動揺はしてるみたいだと実感を得れた自分が、不謹慎だと分かっていながらも嬉しくなった。  そのまま妹を呼び、いらないと断られたカップ麺を二人分食べた。こんな中でもシーフードの味付けが、しっかりと感じられたことに対して、またしても腹が立った。 「妹みたく、しおらしくしているのが普通で、正しいだろうに……」 何もやる気が起きず、ベットの上に倒れ込んだ。こんな時間などまだ夕方だと豪語していたけれど、気分は晴れない。 「あ……」 その時、唐突に母と交わした約束を思い出した。 「確かこの辺に……」 普段は入らなかった母の寝室に足を踏み入れる。目当ては、棚に置いてある筈の―― 「あった」 死亡保険に関する書類だ。 そのまま中身を確認する。 『もし私に何かが起きた時、私の寝室にある棚を漁んな! 暫くは生きれる筈だよ!』  母子家庭だった我が家は、常にいろいろな部分に保険をかけていた。 書類を読み進める中で、気になる記述を発見した。 ――保険金を受け取る手続きは、一週間以内に行わないと、保険金受領振込が遅れる可能性があります。 母が死んで六日経った。 つまりこの手続きの期限は実質的には、明日まで。 中々愉快な保険金サービスだなと、保険会社に怒りを覚えるとともに、作業に取り組もうと指定のHPを訪れた。 『この度は、お悔やみ申し上げ――』 すっかり聞きなじみになった文言はこのサイトでも健在のようだった。 見なかったふりをして、母に与えられた番号を入力していく。 『必要な書類は以下のリストとなります』 ・保険金受取人の戸籍謄本 ・申し込みされた方の番号 ・申し込みされた方の住民票 ・事故を起こした相手の自動車登録番号 ・事故を起こした相手の住所 ・死亡診断書  ずらっと並んだ必要書類の数々。片手を使って数えきれなくなったところで、数の把握は諦めた。  戸籍謄本は喪主の手続きの為に必要だったから今も残っている。事故を起こした相手は、死んだ次の日には頭を下げに来た時に、なんとか聞き出したのがどこかにあるだろう。  だが、死亡診断書はもっていなかった。 正確には、紙として所持しているが、向こうが要求してきたのは電子の形だった。  これだけやって寝ようと、今度は役所のHPへアクセスする。  明日中に行かなきゃいけないところは沢山あるとゲンナリしつつも、またしても求められる母の個人情報をフォームに入力する。 『死亡診断書を出力しますか?』 一連の入力も終わり、最後にその画面が出て、クリックしようとした。 だが、指が凍り付いたかのように、誰かが拒んだように、ピクリとも動かなかった。  だが、その自問には、すぐに答えることが出来た。  そういう事かと、胃袋の底にストン、と何かが落ちた。こんなしょうもない入力で母は書類から、戸籍から、名前を消えるのか。  こんな画面の前で、母は――  待ち望んでいたそれで、視界に広がる画面は一気にぼやけた。

 蝶ネクタイの群が、はたはたと森の方へ飛んでいった。野生の司会者がいるらしい。しばらくにぎやかだな。