彼は、小説を書いていた。それは、水のおいしさについて。 「水ってさ、無味無臭で、しかも透明じゃん。でも、なんか他のドリンクよりもおいしい気がするんだよね」 嬉々としてしゃべる彼に対して「そんなの錯覚でしょ」と言い返したことを、いまだに覚えている。 あの時は卑屈だった。べつに水がおいしいとか、おいしくないとか、今になって考えたらどうでもいい。でも、彼は水がおいしいと感じて、その気持ちを文章にしてみたいと思った。この行いには、きっと価値があったのだと思う。 結局、彼の小説は完成しなかった。それは、私の卑屈な返事で彼の胸をえぐったからなのかもしれない。水のおいしさを言語化するのは、たんに難しいからだったのかもしれない。 べつに完成しなかったからといって悲しむわけでもなく、完成したところで「だから、どうした」程度の話になっていたと思う。 それでも、おもむろに水道水をひねって出す時。透かした先がよく見えたり、ぼやけて見えなかったりする。そんな液体に心と手を動かされた者がいる。ただそれだけのことを、今後も覚えていたい。
一年前、ひとり。 半年前、ふたり。 今、ひとり。 席は空いている。 埋めない。
怪しい空模様に光の筋が走る 雷だ 雷鳴が雨を連れてきた 小さな雨粒は急いで地面を濡らしていく 虫が騒ぎ人が小走りになる 主役を取られた生き物達は静かに雨を鑑賞する 慌てて作った風がそこら中を当たり散らして通っていく 皆が雨をやり過ごす。この一体感が僕は好きだ
メールが来た。 卓上カレンダー、出荷完了。 私の今年も出荷されていく。 誰に買われたのか。
いつからだろうか。世界は、人々から感情を「気体」として抽出できる技術を発明した。 どのような原理なのか、凡人の私には理解できない。ただ、その技術を活用することで、私達は悲しさを、辛さを明確に吐き出すことができるようになった。いつしかネガティブな感情は人々から忘れ去られ、精神病と呼ばれるアレコレも幻となったり、ならなかったりした。 それなのに、私は今、職場の上司と海に来ている。 「海水は、涙と同じ味がするんだそうだ」 先輩は誇らしげに、海の向こう側を覗こうとしている。 「知ってるかい、涙の味は」 「知らないですよ」 それがどうかしたんですか、とたずねると、先輩は「ここに来たら、涙の流しかたを思い出せる気がしたんだ」と語ってくれた。 なぜ? 涙を流す必要なんて無いでしょう。あれは、とうの昔に忘れ去られた歴史の遺物だから。悲しみや、辛さと共に。これっぽっちも残されてはいない。そうとしか、私には思えない。 「じゃあ、残されている場所があるとしたら、どうする?」 唐突な先輩の一言に、私の頭は一瞬、フリーズする。 「そんなことがあるんですか」 「ああ。無いとはいえない。我々から気体として取り出された感情は、やがて凝縮されて液体となる。その液体は、人知れず海に流されているんだよ」 そうだったのか……。今さらながらに知った感情の処理方法に、私はまだ頭の整理が追いついていなかった。 先輩曰く、学生の間に一度は科学の授業で教わる決まりになっているらしい。けれど、あいにく私は感情の液化について、みじんも記憶していなかった。ネガティブな青春時代の感情と共に、あの時かぎりの思い出すらも、知らず知らず捨ててしまったのだろうか。 なんだか急に不安がまとわりついてきて、私の胸をしめつけてくるように感じられる。一刻もはやく、このモヤモヤを消し去ってしまいたい。 「それなら、深呼吸をしたらいいよ」 悩める私に、先輩はアドバイスをくれた。 深呼吸か。そのようなセルフケアは一度も考えたことがなかった、気がする。 フッ、と深く息を吸う。風にのって、なまぬるい空気が肺を満たしていく。それらが胸中のモヤモヤを取り巻き、新たな渦を形成していく。この瞬間、私は台風になる。生まれてから今まで吐き出してきた感情が、確かな重力となって私に返ってくる。悲哀、嫌悪、苦悩、憤怒、怨恨、憎悪……。まるで魂の一部を懐かしむように、私は感情の一つ一つを慈しみ、愛でる。 やがて、吐き出す。フッと。スッと。 一瞬、煙のように立ちのぼる爽快感が胸を埋めつくして。けれど、心に残るは、あゝ、未練。されど、無情。どうにもならない後悔だけが、私のふところに先程まで何かが“あった”ことを教えてくれる。 「先輩、これは耐えきれません。私は、繊細に感じすぎる。私には。私には、やはりあの技術が必要です」 すがるように、言葉を吐いていた。その声もまた消える。けれども、誰かの頭には残る。心の奥に響く。なんて不思議だろう。 「いらないわけじゃないんだ、どれもこれも」 水平線を見つめ、先輩は静かにつぶやく。 ――ならば、もし液状となった感情が流れついて、海の向こう側に吐きだめをつくったとして。私達がその場所まで行き着いたのなら。そこにある感情を手のひらにすくったのなら。 私達は、また涙を流せるようになるのでしょうか。 そのときは、聞かせてくれませんか。涙はどんな味がするのか。きっと、私に教えてください。 しばらく二人きりで、海を眺めていた。 いいえ。二人、ただの一人の人間として。
最後に会ったのは半年くらい前。だから、そこまで変わっていないのだろうと勝手に決めつけていた。けど、容姿の不変さとはうらはら、注文するものが大きく変わっていた。 「しらすのせ卵ピザと」 ―え? いまなんて?? しらす、食べたことなかったよね。てかさ、魚あんま好きじゃなかったでしょ。知らないみたいだから教えてあげるけど、しらすって魚だよ。ちっちゃいけどあれ魚だよ。あれ魚だよ。大丈夫なの? 食べれんの? 「あとセロリスティックを」 ―は? へ?? セロリ、けっこう癖あるよ。そういうの嫌いだったじゃん。ニラとか春菊とか少しでも入ってるといらないとも言わずにわたしのお皿にポイってしてたよね。 注文を終えた女友だちの笑顔を見てわたしは悟った。 ―付き合ってる男、いるなあ その男の趣味とか好みとか、あるいはときどき、つくりに行ってるなんてことも。一緒に買いものとかもするのだろう。インジケーターがみるみる下がって気持ちがあっけなく沈んでいく、そんな自分を想像できている、あまりにも容易に。 そんなわたしの思いなんて存在しないかのように前の席にいる女友だちは楽しそうにメニューを見返す。もう注文はし終えたのだから、こっちを向いてくれてもいいだろうに。あまりにも向いてくれないから、この前の飲み会のことなんてわたしは思い出してしまう。 ―どこ住み? 都内? ―ええ、まあ ―お。山手線の円のなか? そと? ―は? ―だから、なか? そと? ―そと、ですね ―なんだよ 急に男は興味を失った。なかだとどうだというんだろう。そとだと何がいけないんだろう。それにしても山手線の、そのなかとそとというたったそれだけのことで人を判断するだなんて。そんなアンタの住んでるとこってどこかしら? 埼玉あたり? それとも千葉の外れ? それをこの男にぶつけないのは埼玉あたりに住んでる人にも千葉の外れに住んでる人にも申し訳ないとの気持ちがあるからかな、きっと、たぶん。それでさ、ねえねえ、山手線で人を選別するそこのダサいお兄さん、なかだと何? そとだと何? 聞く価値なんてこれっぽっちもないそのことについて教えてくれないかしら― 聞きたかったけど、男のこの態度の前ではその気持ちもあっけなく失せた。 わたしはその男に精神的に背を向け、最近、読んだ本のことを考えた。料理屋をはじめる女というのはどうして決まってその前段階で離婚を経験するのだろうか、と。もしくは、父親が死んでその店を継ぐことになるのだろうか、と。永遠の謎というより物語の主たる部分へ向かうための通過儀礼くらいの気持ちでかるく流してしまったほうがむしろ精神衛生上いいのかもしれない。しかし、順風満帆な人生を歩んでいる美女がなんの苦労もなく高級イタリアンをオープンして連日盛況で、とそういった話があってもいいだろうに。誰がその本を手に取るのかは知らないけれど。 まったく、やれやれなことね。 そんな思いを込めて頭のなかの本を勢いよく閉じる。 くしゃ やけに弱々しい音がわたしの頭のなかでして、爽やかな香りを放つ。きれいに咲いて、きれいに… 女は潰れていった。文句は言わない。栞にだってならないくらいに。 目の前の女友だち… いや、もう、友だちとは呼びたくない。かつての女友だちは、いまだにこちらを向かないまま。そんなにメニューおもしろいの? それなら今夜、そのメニューと一緒にホテルにでも泊まるといいよ。きっと満足させてくれるんじゃない。 さあてちょっと、本格的に嫉妬でもしてみようかな。
自称ショートショート作家の男が、パソコンの前で固まった。 「なんだ……この世界は。異世界、転生、魔法、ファンタジーばかりじゃないか」 その時、微かに声が聞こえた。 「お前も、書いてみるがいい」 「その声は……星先生、筒井先生ですか?」 「パステルカラーな世界を書くのだ」 男は指を走らせた。 ある日の午後。 道路脇で、婆さんが杖を大きく振っていた。 かすれた声で呟きながら、ふらふらと歩いている。 「ん……魔法の杖か?」 そこへ、車が止まった。 出てきた女は、慣れた様子で駆け寄った。 「義母さん、帰りましょ」 婆さんは手を引かれ、小さく笑った。 その様子を見ていた男が、スマホにメモを書き込む。 『異世界転移寸前』 男はホッとした顔で、その場を立ち去った。
そうだ、神様へ手紙を書こう! そう小さな僕が思い至ったのは、泣き虫な性格を直すためだ。 どっかで聞いた話。 神様は僕たちのこと守ってくれてるんだって。 だからお手紙を送って、それで仲良くなって… 神様と僕だけの秘密の関係を作るんだ。 秘密を守るかわりに、僕のことを守ってくれるって。 信じていた。 また良くないことが起こった。 他人とどうやって話をしたらいいか分からない。 自分がやりたいことを言えず、流され続けた。 なにを考えているか分からないと言われた。 誰かを傷つけた、自分も傷ついた。 もう他人と話すのをやめよう。 怒ってないよ。誰にも、怒ってない。 神様は守ってくれなかったけど、 まだあの秘密は誰にも言ってないし、言えない。 だから、まだ守ってくれる、よね? はっ、と目が覚めたら、したいことが何も無かった。 相談…って誰にするの? 誰とも話せないというのに。 「…かみ、さま……?」 返事などない。あるわけが無い。 これは僕が作り出した幻想。空想上の友達なのだから。 己の弱さを痛感した。 初めは泣くのがもう嫌で、それにただ耐えたかっただけなのにな。 捨てられない紙くずの前で涙を流す。 誰も知らない、見ることもない涙。 泣き疲れて、途方にくれて、 諦めようにも、こんな臆病な僕じゃ無理な話だった。 これからどうしたらいい? 神様に頼れなくて、誰にも頼れなくて、残るは僕一人。 じゃあ、もうこうするしかないね。 ねぇ?そこから僕の頑張りを見てて欲しいな。神様。
踊り場のドアは、五秒だけ開いたままだった。 団地の四階と五階のあいだにある、重い鉄のドアだった。押すたびに腹の底へ響くような音がして、閉まるときには必ず、最後に少しだけ息を吸う。 夕方の階段には、煮物の匂いが薄く漂っていた。 下の階から、老婆が上がってきた。 両手に買い物袋を提げている。白いレジ袋の中で、大根の葉が少しだけはみ出していた。袋はどちらも重そうで、老婆は一段上がるたびに、手首を小さく揺らした。 三階の踊り場で、青年が追い越した。 黒いパーカーに、片方だけイヤホン。手にはスマホを持っていた。老婆の横をすり抜けるとき、青年は何も言わなかった。老婆も何も言わなかった。 ただ、老婆は少しだけ体を壁に寄せた。 青年は軽い足音で階段を上がっていった。 四階の踊り場に着くと、青年は鉄のドアを押した。外廊下へ出るためのドアだった。 ぎい、と音がした。 そのまま行くのだと思った。 けれど、青年はドアの向こうへ出なかった。 半身だけ外へ出し、肩でドアを押さえたまま、スマホに目を落とした。 老婆はまだ、階段の途中にいた。 右手の袋が、何度も膝に当たっていた。左手の袋は、底の角が少し伸びている。中の何かが、ビニールを押していた。 青年は画面を見ていた。 親指は動いていない。 老婆は一段ずつ上がった。 踊り場まで、あと七段。 あと六段。 あと五段。 鉄のドアは、青年の肩で止まっていた。 冬の風が、外廊下から細く入り込んでいた。青年のパーカーの裾が少し揺れる。ドアの取っ手が、青年の背中の横で小さく震えた。 老婆は四階の踊り場に着いた。 息を整えるように、そこで一度立ち止まった。 青年はまだスマホを見ていた。 老婆は青年の横を通った。買い物袋が、青年の靴の先をかすめそうになった。 その瞬間だけ、青年は足を半歩引いた。 老婆が外廊下へ出た。 鉄のドアは、すぐには閉まらなかった。 老婆は少し振り返った。 青年は画面を見ている。 それから、老婆は小さく頭を下げた。 深い礼ではなかった。買い物袋の重さで、首だけが少し沈んだような会釈だった。 青年は気づいていないふりをした。 画面を見たまま、ほんの少しだけ顎を引いた。 老婆が廊下の奥へ歩いていく。 青年はドアから肩を外した。 鉄のドアは、ゆっくり閉まりはじめた。最後に息を吸うような間があって、それから、低い音で閉じた。 階段に、夕方の匂いが戻った。 青年はスマホを持ち直した。 画面は真っ暗だった。 通知も、動画も、地図も、何も映っていなかった。 青年はそれをポケットにしまい、五階へ続く階段を上がった。 四階の外廊下では、老婆が自分の部屋の前で鍵を探していた。買い物袋を一つ足元に置き、もう一つを腕に掛けたまま、ゆっくりポケットを探っている。 青年は一度だけ、階段の途中で足を止めた。 ドア越しに、鍵の触れ合う小さな音がした。 それを聞いてから、青年はまた階段を上がった。 五階の踊り場に着くと、同じ鉄のドアがあった。 青年はそれを押した。 今度は、誰も後ろにいなかった。 それでも青年は、すぐには手を離さなかった。 五秒だけ、ドアを開けたままにした。 それから、誰にも見られないまま、静かに外へ出た。
両親の死をきっかけに、弟がランゲルハンス島へと移住して五年が経つ。 当初、ランゲルハンス島なんて本当に移住できるのだろうかと心配していたのだが、週に一度、定期的に絵葉書が届くようになってからは、そんな疑問を抱くこともなくなった。 元々筆まめな人間だとは思っていたのだが、ランゲルハンス島へ移住してからの弟は、それが最大の楽しみであるかのように、生き生きとした筆致で絵葉書を送ってくる。 絵葉書に記されているのは、大抵がランゲルハンス島での近況だ。弟は、ランゲルハンス島へ移住してからというもの、カンゾウフルーツなるものを栽培して、生計を立てているようだ。 カンゾウと聞いて最初「甘草」なのかと思ったのだが、よくよく読んでいくと「肝臓」のことであるらしい。ランゲルハンス島ならではと言うべきなのかもしれないが、肝臓とフルーツの組み合わせがあまりにシュールで、最初にこの言葉を目にした時には、思考が停止した。 弟によれば、カンゾウフルーツは、本当に人間の肝臓によく似た形をしているらしい。色は薄いピンク色をしており、やや水臭い香りがする。島を吹く風に揺られて漂うその香りには、何ともいえない雅趣があり、島内ではカンゾウフルーツをイメージした香水が売り出されているほどなのだとか。 味は薄いリンゴめいており、腐りかけが一番美味しいのだと弟は記している。柔らかな感触はフルーツというよりレバーを想起させるが、慣れてしまえばどうということはないらしい。 「姉さんも是非、ランゲルハンス島へ遊びに来てください。海辺を飛ぶカンゾウネコの鳴き声が遠くから聞こえる家で、山盛りのカンゾウフルーツをご馳走します。姉さんが出不精なのはわかっていますが、時には遠出をするのもいいことだと思いますよ」 以前、そんな文言を弟は送って来たが、どうも私の性には合わない気がしたし、そもそも行き方も謎なので、いまだに島を訪れてはいない。 性に合わないという点は、弟の送ってくる絵葉書にいつも添えられているスケッチも大いに関係しているのかもしれない。 弟は絵葉書の表面に細かい文字で近況を書き、その裏には非常に精緻な肝臓のCTスキャンのスケッチを描いて寄越して来る。 それは鉛筆画なのだが、考えられる限りもっとも精緻な手法で描かれていた。一見すると、CTスキャンの画像を貼り付けているのではないかと思えるほどの精巧さなのだ。 絵を描いているのは弟に違いない。週一で出している絵葉書に、わざわざ他人に依頼したスケッチを載せることはないだろう。だが、それ故に、弟のスケッチに傾ける情熱のほどが伺えて、私は何となくうすら寒くなるのだった。 診療放射線技師という職業柄、CTスキャンはよく目にする。だからこそ、絵が決して得意だったわけではない弟のスケッチのクオリティの高さに驚くと共に、こんな熱情を彼に傾けさせるランゲルハンス島の得体の知れなさに、つい思いを馳せてしまうのだった。 そんな弟の送って寄越す絵葉書に異変を見つけたのは、ちょうど一ヶ月前のことだ。 その絵葉書は、表の文面からして変だった。最近、カンゾウフルーツの質が悪くなり、食べても美味しくないこと、海辺ではカンゾウネコの死骸が増えていること、風が送って来るカンゾウフルーツの香りも、腐った内蔵のような臭いに変わって来ていることが記されていた。 だが、極めつけは、その裏に記されているCTスキャンのスケッチだった。 私はそれを見て、思わずアッと小さく叫んでしまった。というのも、そこには明らかに肝臓がんの所見が見られたからだ。 カンゾウフルーツの質が悪くなったのも、きっとこれが原因に違いない。私はそう判断し、急いで弟へ手紙を送った。弟がランゲルハンス島へ向かって以降、これが初めて彼に対して送った手紙なのだと、投函した後にふと気付いた。 だが、手紙は結局、弟の所へは届かなかった。宛先不明で戻って来てしまったのだ。 あの肝臓がんの所見を示したCTスキャンのスケッチを送って来て以降、弟からの絵葉書は完全に途絶えてしまった。 私は定期的に弟へ手紙を送り続けているのだが、そのたびに宛先不明で戻って来る。 果たして、弟は無事なのだろうか。 そんな思いに駆られながらも、ランゲルハンス島への行き方すらわからない私は、ただただ無為に日を送るほかはないのである。
短編小説:0831の沈黙 コンクリートの冷たさが、薄い体操着越しに体温を奪っていく。 少女、ヤサイちゃんこと0831は、冷え切った床に正座させられていた。 首に嵌められた鉄の枷は重く、わずかに動くだけで肌を擦り、金属特有の嫌な臭いが鼻を突く ****。手首を繋ぐ手錠の鎖が、彼女が呼吸するたびに小さな音を立てた ****。 「……やってない。私は、何もしてない」 彼女は震える声で繰り返した ****。しかし、鉄格子の向こう側に立つ刑事の視線は氷のように冷たい。 「証拠は揃っているんだ、0831。お前が現場にいたことは防犯カメラが証明している。その格好も、犯行時のものと一致するんだよ」 刑事の言葉は、まるで彼女を物理的に押し潰そうとするかのような圧力を持っていた。ヤサイちゃんは、胸に縫い付けられた「0831」という数字をじっと見つめた ****。これは単なる管理番号ではない。彼女から名前を奪い、尊厳を奪い、一人の人間を「容疑者」という記号に作り変えるための烙印だ。 「あれは……私はただ、道に迷って……」 「言い訳はもういい。通称『ヤサイちゃん』。お前のような若い娘が、なぜあんな残忍な事件を……」 刑事が吐き捨てるように言う。彼女は絶望に瞳を揺らしながらも、じっと前を見据えた ****。その瞳の奥には、恐怖を上回る強い意志が、まだ微かに灯っている。 (誰かが私をハメた。この数字も、この首輪も、全部あらかじめ準備されていたんだ……) 窓から差し込むわずかな光が、彼女の横顔を照らす ****。警察が彼女を犯人と断定し、社会が彼女を「0831」という記号で裁こうとする中、彼女は静かに決意した。 たとえ言葉が封じられても、この「管理」という名の檻から、いつか真実を曝け出してやると。
『あなたは死にました。妻と子供を残して死にました。しかし、貴方は妻の癌として転生できます。転生すれば、妻の目を通して子供たちを見守れますし、夢の中で妻と会話ができます。ただし、妻の寿命は大きく縮みます』 「このまま死にます」 神なんていないと思っていたが、邪神はいたらしい。 死んだばかりだと言うのに、胸糞悪くなるとは思わなかった。 『いいのですか? 貴方は、愛する人たちと生きれるのですよ?』 「代償がでかすぎる。いいから、さっさと殺せ」 未練はある。 でも、その未練は人を巻き込むものじゃない。 ペットの糞に転生して見守れるんなら考えもしたが、癌なんてお断りだ。 自分の全てを失っても、妻と子供だけは、幸せに天寿を全うして欲しいんだ。 『わかりました。人間は損得勘定の計算できない馬鹿野郎ばかりですね。さようなら』 「はいよ、さようなら」 これが損なら、人間が馬鹿で結構。 神が利口で結構。 俺は自分が人間でよかったと、最期に思えた。
「すみませーん。お会計お願いします」 「はい! 少々お待ちください!」 料理人は大変だ。 注文を取らなければならないし、料理もしないといけないし、会計もしないといけないし、皿洗いもしないといけない。 バイトを一人雇いはしたが、人件費が馬鹿にならない。 注文や会計をしていないときも時給が発生し、金をドブに捨てている気分だ。 そんな時に、営業がやって来た。 「時代は人間の注文会計でなく、券売機です。券売機であれば、一度買えば、あとは電気代だけでオーケー」 確かに、と思ったので、バイトを首にして券売機を買った。 初期費用は痛かったが、客の注文と会計を券売機が勝手にやってくれるので、注文と会計がとても楽になった。 銀行で現金を両替するのだけが面倒だが、店の定休日にまとめてやればいいから、やはり楽だ。 安心安心。 「すみませーん。両替お願いします」 「はい! 少々お待ちください!」 しばらくすると、お札が変わってしまった。 旧札しか使えない券売機を見た客が、新札への交換を依頼してくるようになった。 これでは結局、手間がとられてしまう。 そんな時に、営業がやって来た。 「時代は現金支払いでなく、キャッシュレスです。キャッシュレス対応の券売機であれば、一度買えば、あとは電気代だけでオーケー」 確かに、と思ったので、キャッシュレス対応の券売機を買った。 初期費用は痛かったが、お札を交換する手間がなくなったので、とても楽になった。 キャッシュレスの手数料だけは痛いが、銀行で両替する手数料がないことを考えれば、やはり楽だ。 安心安心。 「すみませーん。エラーが出ました」 「はい! 少々お待ちください!」 しばらくすると、古くなった券売機が頻繁に紙を詰まらせるようになった。 エラーを出す券売機を見た客が、どうにかしてくれと言ってくるので、結局自分で注文と会計をするようになった。 これでは結局、手間がとられてしまう。 そんな時に、営業がやって来た。 「時代は券売機でなく、タブレットです。券売機は高価で、紙の券を発行するので壊れやすいです。タブレットであれば一台あたりが安価ですし、紙の券の発行も不要なので、トラブルも交換で楽々対応可能。一度買えば、あとは電気代だけでオーケー」 確かに、と思ったので、タブレットを大量に買った。 初期費用は痛かったが、券売機のトラブルを解消する手間がなくなったので、とても楽になった。 タブレットに入っているスマートオーダーシステムとやらの利用料だけは痛いが、券売機を買う値段に比べたら、はるかに安い。 安心安心。 『閉店します。長い間お世話になりました』 いったいいつ、一度買えば安心の時代が来るのだろうか。 次から次へと決済方法が変わり、結局ずっと営業に金を吸われ続けている。 そう気づいたら、自分がバイトに戻るのが一番楽だと感じた。 これでもう、注文や会計の方法に頭を捻らなくていい。 安心安心。
最近はネットから商品を購入する事が増えました。 少し前までは、ネットから商品を購入する事に何処か信用が置けなかったり、商品自体が画像だけでは分かりづらく購入し難かったのですが、最近はその商品説明に〈動画サイト〉が添付されてあり、それを見れば分かり易くなったのです。 これは使える これはちょっと無理か 動画を見て商品に自分の好みが合うかどうかが分かるのです。 これは私の場合だけなのかも知れませんが、読んだ文章よりも、目で見た音声付きの動画からより早い理解を得られています。 それは一発で分かると言っても良いぐらいの理解ですから、これ以上を求めるなら手にして触ってみるしかありません。 何を言いたいのか 自分の身の回り、仕事関係や、プライベート関係においても嫌な人、苦手な人、合わない人は絶対と言って良いほど存在しませんか。 残念ながら私もまだ…居られます。 ただ言えることは、以前よりか大幅に減って来たのです。 だから「まだ」と付けました。 私の場合、嫌な人の共通点は言動。あの嫌な部分を音声付きの動画と捉えました。要は嫌な見本である訳です。ご丁寧に私の目の前でやってくれますから非常に分かり易い。ただこちらは全く動画再生を希望はしていません。だから見ない。動画が勝手に流れていても興味がないから全く見ませんし、視界に入ってしまったとしても自分の脳にその情報が記録されません。 実際は居られますが、私個人的にその方は存在して居ないになります。こうやって存在を消してしまうのです。 おそらく正確にはコレだと思います。 自分の気持ちから消してしまう そうなってしまえば、これ迄の不快さが意外と軽くなるものです。 これ迄は自ら進んで読まなければ自分内に入り込まなかった嫌な情報が、現代は勝手に再生されてしまう動画として自分の視界に入り、気持ち部分に取り込み易くなったのかも知れません。 だからすぐ容量いっぱいで溢れてしまう。 最近は何故か疲れ易いというのにも納得してしまいます。 元々一人行動が好きな私は、おそらくこの容量が極端に小さくて疲れ易い筈なのに、そう思って来なかった。 自分に正直となれなかったのです。 だからこの気持ちから消してしまう方法が必要でした。 例えば可愛い子犬がキャンキャンと吠えていたり、小さな小鳥がピピピと鳴いていたら嫌な気分になるでしょうか。 「また吠えてんのね、鳴いてるね」になると思うのです。感覚はそれに近い。 あっ、嫌な人は決して可愛いくはないんですよ。 でもそう勝手に例えれば気分を崩したりしません。 ココ迄は気持ちから消したり変換する方法でしたが、嫌な人についてはこうも考えられます。 まだ自分が克服出来ていない部分 自分にとってこの嫌な人がその部分を克服するが為に登場してくれたという考え方です。嫌な人物になり敢えて目の前に登場したとでも言うのか、私としては別に登場しなくても…というのが本心ではありますが。 しかしこのパターンは克服と危険が表裏します。それは頑張り過ぎてしまうからです。 真面目、几帳面、部活動を頑張った人、すぐ没入してしまう人は特に要注意。 自分が悪い、まだまだ出来ていないと捉えがちになります。 そして克服出来なくて気分がとことん落ち込んでしまう。 これがモロに私の沼パターンでした。 私がこの沼から抜け出た方法、まずは克服なんて無理!と割り切ること。これは今の自分には出来ない事なのだと理解するのです。 何ならその嫌な人から即離れてしまう事も一手だと言えます。 出来る(克服する)をゴールに据えてしまうと危険域まで突っ込んでしまいます。 実際これがとても多い気がします。 もう一つ、その場に居続けるならサボるぐらいで実は丁度を理解する必要があります。 真面目過ぎはダメ。 私の現在地はこの辺りにあります。 というのも自分が自由に頑張れた時期は随分過去のものであり、歳を重ねて現在はそこ迄対応が出来ない年齢となっていました。 大事なのは、会社の為に働く程、一生は長く無いということ。自分の為にどうあるべきか、芯を間違えては一体何のため?が疑問として残ります。 凄く自分に正直になると分かるもので、結局は会社に、上司に、好かれようとしていた自分が居なかったか、ということ。 そんな事をしても収益面で会社が合わないと判断すれば解雇だし、会社は新しい人材を探し、ちゃんと新人材は登場します。 自分の気持ちや心を削っても収益でプラスにならないと判断されたらそこ迄の間柄なのだという事を踏まえるべきです。 自分が居易いところに身を置くという、このごく普通の主張。 心を大きくノビ出来る環境に居るか? 極めて重要な条件です。
私は毎日、日記をつけているのですが毎朝昨日書いた日記を確認すると、知らない内容が付け足されているのです 私はアパートで一人暮らしですし、私以外に書く人はいないのですが、身に覚えがないのです 内容自体は大したことなくて、でも私しか知らないことが書かれています。例えば背中にニキビが出来たとか、シャンプーを詰め替えたとか取るに足らない出来事ばかりです 本当は書いたのに、忘れてしまったのかもしれないと思ったこともあるので、日記を書いた後、写真を撮って、次の日見比べてみると、やはり、日記が追加されているのです。 私はアパートにいるのが恐ろしくなって友達の家にお邪魔して事の一部始終を伝えました そして彼女が言うには、寝る前に日記を動画で撮影しておいたら、誰が書いたか分かるのではないかと言うのです。私が寝ぼけて書いてるんだよ。夢遊病ってやつじゃない?と彼女は気軽く言ってました。そんなふうに言われると、もしかしたら私にはそんな変わった所があるのかもしれないと思い、彼女の言う通り撮影をしてみたのです。それがこのメモリーカードに入っています。私一人で見る勇気がなくって、それであなたの所に来ました あなたのPCで見てみましょうよ ちょっとお借りしますね。二人で見ると思ったら直ぐに見てみたくなっちゃいました。あっ始まります。 動画が始まると日記の乗った机があってその先にお風呂の脱衣所にある洗面台が見えます。彼女が眠った直後に洗面台の鏡が開き、痩せた細長い男性が顔を見せました。男は一度は壁の中から出ようとしていましたがカメラに気が付きニヤニヤと笑いながら鏡を閉めました
初めての契約。 昨日はできなかったこと。 日付と同時に判子を押されたみたい。 終わって、始まって、しまった。
彼は私の永い生の中に現れた唯一のひとでした。 暗い夜道に突如空に昇った星でありました。あてどなく歩く道を、もしやもう違えてしまったのではと不安に震える道中に、そこを目指せば良いのだと私を駆け出させる希望の火でありました。 実際には彼は隣にいて、いつでも私の手を引いてくれたので、旅人の星に喩えるよりは、掲げるランタンの方がいいのでしょうか。 ああ、遠すぎて温度の分からない星よりは、ランタンの方がうってつけかもしれない。彼の隣は温かかったのです。どんなに寒い冬の雪の日も、普段と変わらずに。 私は彼から多くを学びました。気遣いやら、笑わせ方やら、愛し方を。彼と同じにはできはしませんでしたが、彼のその様はたいへん、うつくしかったのです。全部、彼の言う愛によるものでありましたから、それを持たぬ私は、彼から見るこの世界はどれほど輝いているのだろうといつも不思議に思っておりました。 我々はどうやら同じものを見ることはできないのだ、と知ったのは、彼はとうに気付いていたのかもしれませんが、少なくとも私が知ってしまったのは、もう戻ることが叶わぬほど歩いた後でした。 歩き始めた地点はおろか、一度一人分が途切れた足跡の痕跡も見ることが叶わぬほど遠くまで来てからでした。 彼は変わらず私の手元にありました。この先どうしよう、と彼は決して言いませんでした。振り返る素振りすら私の見ている前ではしませんでした。 不安とともに私の手を握る掌に、ここに来てようやく、彼も私と同じくして、道を知らなかったのだと気付いたのです。 二人して道を失いましたが、私は別段悪い気はしませんでした。思えばここまで既に散々迷い、何故この彷徨い歩いた果てに、私の望む場所に、彼が連れて行ってくれるのだと疑うことなく信じていたのだろうと今更おかしくなったのです。 悪い気はしませんでしたが、悪いことをした気にはなりました。何故同じになれないのだろうと、苦しむ彼をずっと、隣で見てきたからです。彼は星でなくランタンでした。 連れ歩いたのは私です。
見上げると目が合った。 知ってる顔と、知らない住所。 小さな非日常、旅のはじまり。
カーテンを少しだけ開けて、外を見る。 家の周りにはバットや金槌を持った人々が集まり、塀をがんがんと叩いている。 「はー。今日もいるのか」 このままでは、外出一つできやしない。 私は警備会社へと電話した。 「移動用の車を一台」 「申し訳ありません。既にすべての車がご予約で埋まっておりまして」 「はあ!? なんのために、高い金を出して契約してると思ってるんだ!」 「……お言葉ですが、運転手がいないのは、あなた方の世代が子供を作らなかったせいですよ? 労働力を生み出さずに、労働力が当たり前にあると思うなんて図々しい」 電話が切られた。 何度かけ直しても、電話は繋がらない。 銀行アプリから通知が届き、サービス利用キャンセルの払戻金が振り込まれた。 「くっそ! 勝手にキャンセルしてんじゃねえよ!」 銀行アプリに溜まる、莫大な金。 凡人が人生何周しても手に入らない、莫大な金。 しかし、使おうとして断られる今、この価値が俺の中で揺らいでいる。 国が荒れたら、国外に逃げればいい。 そう思っていた数年前の俺を殴りたい。 空港が占拠され、家の周りを囲まれては、国外に逃げるなんて選択肢があるはずもない。 「……今日も出前か」 俺は、ピザ屋へと電話した。 「ピザ一枚」 「ただいま大変込み合っておりまして、お届け三時間後でもよろしいでしょうか?」 「よろしい! よろしい! いつでもいいから、届けてくれ!」 「かしこまりましたー!」 あらゆるインフラは、底辺に支えられている。 警備も、出前も、家を囲む暴徒たちが金を得るためにやっている。 「お待たせしましたー。ピザとなります」 玄関には、先日、俺の家の壁を叩いていた男が笑顔で立っていた。 俺は金を払って、ピザを受け取った。 男は、バットや金槌を持った人々の間を、平然と抜けてピザ屋へと戻っていった。 加害者と、被害者を守る人間が、同一である世界。 こんなゲームチェンジが起こるなんて、資本主義に胡坐をかいている時は思わなかった。 俺は冷めたピザを取り出して、一口齧った。 「美味い」
「パスワードが違います。」 これじゃなかったっけ。 覚えきれない顔を使い分けて、時間を浪費する。
俺は二十歳だった。あの時はたしか仕事帰りで、車のハンドルを握りながら葬儀屋の前を通りかかった俺は、窓越しに出入り口で突っ立っている喪服姿の少女を見かけた。あの子は片手に何かを持っていた気がする。それは花だったのか、傘だったのか。 間違いなく覚えているのは、軒下から世界を薄暗くさせる曇天を見上げていた姿だ。 あの子は今頃高校生になっているのだろうか。まだ小さな身体で、彼女は着慣れない黒のワンピースを身に纏い、なにを思っていたのだろうか。三十路を迎える俺は、あの頃と比べてどこが老けたのだろうか。 知り合いの通夜を終えて、いま俺は屋外の喫煙スペースにいる。故人は五十を手前にして、峠道を運転中に突然気を失いそのまま急カーブに突っ込んだらしい。さっきのエントランスに集まった参列者同士の会話のなかで脳梗塞だと聞いた気がする。 深い関係ではなかった。二人きりで話した覚えはない。焼香をする番がまわってきて、彼の遺族の方を向いた俺は涙も浮かべず呆然とした様子の彼の愛娘を見た。 その瞬間に俺はふと、この子はあの時見かけた少女ではないのかという考えがよぎった。記憶のなかにある少女も同じようにただ無表情で曇天を見上げていた。 ――バカらしい。 二本目の煙草に火をつける。慣れないネクタイを緩め、慣れない第一ボタンを外す。芳名帳に記帳をした際、また別の知り合いが受付をしていたのだが、深めに入ったディンプルと併せて一切の歪みがない見事なウィンザーノットが目についた。他の男たちは皆、くたびれたようなプレーンノットだった。 普段から見栄を張りがちなあの男は、通夜という場でさえもネクタイの結び方にこだわりを見せた。俺はといえば、式場に入る前に大剣の長さやら結び目やらがいびつになるので何度も結び直す目に遭っていた。 二本目を吸い終えてその気もないのにオーダースーツの値段を調べていた。そこへ別の喫煙者がやってきた。夜更けの暗さではじめは判別できなかったが、こちらへ近づいてくるにつれてその人物がさっきの娘だとわかった。 互いに軽く頭を下げ、彼女は右手に持っていたピアニッシモから一本取り出して火をつけた。 やっちまった。俺はとっさにそう思った。世間ではこういう時「この度はお悔やみ申し上げます」とか「ご愁傷さまです」なんて言うものだ。タイミングずれの弔意の言葉をかけるくらいなら、いっそ俺はこのまま立ち去ったほうがいい。そうは思っても、かつて葬儀屋の前にいた少女のことが頭にこびり付いて仕方がなかった。 「大丈夫?」 俺は声をかけた。 「え、あ……、はい」 失意の様子は感じられない。ただ彼女は突然話しかけてきた男に戸惑った。 「俺が言うのもおかしいけど、まだ若かったのにね」 「……別にいいんです。あんまり好きじゃなかったんであの人のこと」 彼女は一本目を足元に投げると、踏み消しながらすぐさま二本目を取り出した。俺はそれを会話を続ける気があるものと理解した。 「俺も個人的なことはあまり知らなかったけど、世話になったとは思ってんだよ」 「そうですか。外面は良かったんでしょうね、私のあまり知らないところでは」 実父を亡くしたにしてはよく話す子だ。警戒心が薄いのか。 「でも思い出がよみがえって悲しくなったりしないものかい」 「悲しいですよ。悲しいけど寂しくはないんです。思い出といってもあまり子どもと遊んであげるタイプじゃなかったし、どこかに出掛ける時は母さんとお爺ちゃんが船頭になってましたから」 「……家の外に居場所を持ってる人か」 「たぶんそんな感じです」 改めて彼女の顔を眺めてみた。二十歳を過ぎてるように見えなくもない。堂々と人前でタバコを吸うのだから成人なのだろうが。 「君のお爺さんは?」 「え?もうとっくに鬼籍に入ってます。私が小学生になった頃に」 「奇跡?」 「鬼籍です。鬼に戸籍の籍。あれ、知りませんか」 「いや聞いたことない。亡くなったってこと?」 「はい。普通だと思ってました、昔から母さんがこう言ってたから」 二本目がまた足元に捨てられる。俺は吸殻が転がるさまを目で追った。次の言葉を見つけられずに沈黙が生まれる。隣の娘に目をやると、彼女は空を見上げたまま棒立ちになっていた。 ――そうだ。 同じ顔だと俺は思った。あの少女も一文字に口を結び、なにも携えていない目つきをしていた。そう、ただ空を見上げていた。 「俺は昔」 「はい」 「君を見たことがあるかもしれない」 「はあ」 名も知らぬ娘の瞳が俺を捉える。こんなことを話したとて、この娘があの少女だったとて、なにも残りはしない。 「お爺さんの葬儀の時、君は今みたいに空を見上げてなかったか?」 「さあ。覚えてないです」 答えなんて判らない。 「君は高校生?」 娘はぺろっと舌を出す。
財布の中からインクが掠れたクーポン。 くしゃりと丸めて捨てる。 行けなかったなあ。 もういらない。
私はいつだって、健康で幸せだ。 そんな私の、朝の習慣がこちら。 一日に必要な栄養素が全部入っているサプリメントを飲む。 一日に必要な水分が全部入っているサプリメントを飲む。 一日中テンション高くいられる成分が入っているサプリメントを飲む。 一日中記憶力を高めて耳にしたことを覚え続けていられる成分が入っているサプリメントを飲む。 一日中効率よく動けるようになる成分が入っているサプリメントを飲む。 これで、私の一日は完璧。 今日も素敵な一日になるはずだ。 でも、たまに思う。 サプリメントを飲まない私は、どんなポンコツになってしまうのだろうかと。 サプリメントを飲まなければまともに人間やれない自分は、果たして人間と呼んでいいのかと。 おっと、いけない。 一日中ネガティブなことを考えられないようにする成分が入っているサプリメントを飲み忘れていた。 これでよし。 では、行ってきます。
改札機が鳴る。 カードの表面に印字された、見慣れた区画の期限切れ定期。 きっともう来ない。
男女が、ゆっくりと目を開けた。 「私たち、死んだのね」 二人の手は固く握られている。 「これでみんな、分かってくれたさ」 「そうね。私たちの愛は本物だったって」 見つめ合う二人。 「……なんか、人多くない?」 辺りを見回し、杖をついた女に声をかけた。 「すみません。ここは、どこですか」 「ここ、三途の川だ。並ぶんなら、向こうだ」 女は長い行列の最後尾を、杖でさした。 「あっ、スマホがない」 女がポケットを探る。 「洗面所の鏡のとこに置いてきた」 「もう、いいんじゃない」 「だめ。データ、消してないもん」 その時、遠くで声がした。 「ん…?お母さん。ちょっと待ってて。スマホ、取ってくる」 女は、声がする方へ走った。 「先生、すぐ来てください」 看護師が大きな声を上げた。 母親は娘の手を取り、泣いている。 「私のスマホ…」 男は河原の石に腰掛け、女の帰りを待った。 「兄ちゃん、どうした」 酔っぱらいが横に座る。 「僕も、帰りたいんですけど。どうしたら、いいですか」 「誰か、呼び掛けてくれる人、いねぇのか」 「はい」 「じゃあ、その彼女、待つしかねぇな」 酔っぱらいは笑いながら、男の肩を叩いた。 「その彼女、今度来る時は、婆さんだな」
世間では脱炭素が叫ばれている。 知り合いが洋上発電とかすればいいのに、と言っていた。 でも利権でうまくいかないだろうから僕はAVの幼女体型の娘で自家発電する。 幼女発電。 日本のロリコンがこの夏発電量を増し電力不足をクリーンに補う。 実に合理的。 ピストンによる電荷は原子力をゆうに凌ぐだろう。 全国のロリ体型の女の人の儲け時だ。 脱炭素が加速する。 幼女が服を着ているだけでも発電量が増える。 産業が盛り上がる。 実に頭の悪い政策だ。 風俗産業を尻目に僕は畑に出掛ける。
『酒飲めぬ客、お断り』 居酒屋の入り口に貼られた紙を見て、ぼくは肩を落とす。 「ここもか」 既に夜も遅い頃。 夕食を求めて居酒屋を訪れたぼくは、三件目のNGをくらった。 居酒屋のご飯が好きだ。 肉も、魚も、サラダも、ご飯ものも揃う居酒屋は、最高の飲食店だと言うのに。 「パパー。お腹空いた」 「ごめんなー。いつものとこ行こっかー」 「えー。飽きたー」 やむを得ず、ぼくたちはいつものファミレスへと向かう。 歩きながら、貼り紙のことを思い出して、いらいらしてきた。 だいたい、居酒屋だからと言って、酒を飲まないといけない理由がわからない。 酒が一番原価率が低いから、酒を飲んでくれないと商売にならないと聞いたことはあるが、それは店側の事情だ。 客側の知ったことではない。 酒を飲まなければ潰れるなら、それは店の作り方が間違っているだけだ。 「そう、店が間違ってる!」 「パパ?」 「すまん。つい、声を出してしまった」 ぼくたちは、いつものファミレスにつく。 自動ドアが開いて中に入ると、すぐに店員が近づいてきた。 「申し訳ございません。ただいま満席でして」 ぼくはファミレスの中を見渡す。 一面の、一人客。 結婚して家族も作ってないだろう、一人客。 年を取って独りに戻っただろう、一人客。 「ええー!」 お腹をすかせた子供が、哀しそうに嘆く。 赦せねえ。 だいたい、ファミレスなんだから、ファミリー以外が来るなよ。 一人客なんて一番金を落とさないんだから、同じ時間で倍の金を落とす家族グループを優先すべきだ、店側の事情を考えろよカス。 客側もそういうことを意識すべきだマナー知らず。 一人客が押し寄せて潰れたら、それはお前たちのせいだぞ糞ぼっちども。 「じゃあ、待たせてもらいます」 大人のぼくは、横暴に振舞う一人客たちへの怒りが表情に出ないように我慢をし、レジ近くの丸椅子へと座った。
私はオカルト雑誌の取材班だ,日本にはたくさんの俗習や,伝承がたくさん存在している,今から私はここから得た奇妙で不思議な話を今からあなたに伝えようと思う。(とりあえずお前,ここに取材してこい、お前が好きな妖怪話だぞー)私は当時妖怪話がとても好きで妖怪や,怪異を面白おかしく伝えることがしたく少し口の悪い上司からの言葉でここの取材を受けることから始まった。(妖怪の名は何なのですか??もう大衆妖怪はもう雑誌で紹介し続けてもうネタが尽きるとは思うんですけど)私は少し口を濁しながら上司に応えた(なぁーここは昔からずっと続いてる雑誌会社だぞー?舐めてもらっちゃ困るなーで、はい、今回の取材概要)私は突き放された気分で薄い概要書を手に掴んだ(蔵捻)異様な2文字を私は凝視した、漆塗り?これが妖怪なのか?これが果たして畏れられたのか?仕方ない,とりあえず仕事が舞い込んできたから勢いよく(わかりました!とりあえず伝承地域早速明日から行ってきます!)翌日私はF県○○村に行った、今時ここまで廃村に近い村を行くことは久々だ,ちなみにこの妖怪喉名はクレヨリと読むらしい,蔵を捻ってクレヨリだ、妖怪とはいえかなり異様な名前を醸し出していた(すみませーん?とある雑誌の取材にきましたー、聞きたいことがあるんですけどー?)私は意気揚々と近くの村人に伝えた(蔵捻,,ねぇー久しく新しい方がきたのですからーとりあえずお家に入りなさい)私は吸い込まれるように古民家に入り始めた(蔵捻ねーーここの村では私含めて老人しかおりませんから,伝承はお伝えできますからねーマキクルルルトゥントゥン]語尾に奇妙な言葉を放っていたがおそらくこれは風習かなんかだろう(ぜひお伝えください](蔵捻はねー私たちからしたら富をもたらす神様のような存在です、しかし私たちは毎月15日は必ず動物の目玉を食べなければいけません、詳しくは言えませんかねトゥゥゥゥ)かなり独特だ,目玉を食べるとはなんなんだ?確かに同じ部位を食べるといいとゆう文化は昔からあるが、だとしても一つの部位に固執するのは珍しい(村をきてくれた折角なのであなたに少し理解していただきたいですから是非是非目玉をお食べください、代金は要りません、今日は15日ですからね)私は乾燥レーズンのような目玉をせっかくなのでいただいた、魚の目は食べたことあるが乾燥は食べたことがなく少し独特な食感を私の口内に巡る(少し慣れるのに苦労しそうですが美味しいですね)(そうでしょう?今日は例の催事を行いますので一泊ついでに是非タタタタヒヒヒフフフホ「」ヌキユユナネ)やはり風習にしては不気味だな,だがしかし運がある、ついでに特集組めるくらいの内容を実際に体験できる!(じゃあ、私は少しここで休憩しますね,ここまで歓迎されることは久々です)(いえいえ私も今日はとても幸せです、催事の準備があるのでケケケまたお伝えしますトゥトゥトゥ)そして私はくつろぎながら縁側で村人を観察していた(催事場を作っていると思えば目玉のような物を大きなお皿に月見団子のように積み重なっていた、かなり不気味だが確かにここは世間から隔離されても仕方ないが、取材のしがいがある(さあ、貴方様、催事ですよ、こっちにきてください)私は真夜に催事に参加することになった,時計は丑三時を示している,やはり伝承通りなのかと私は恐怖と好奇心に駆られた(さあ、さあ、蔵捻,、クルクルクルクルクルクルトュトユテホユコキテリメヒハヌノ)一同不気味な声を荒げながら私は催事を聞いた、だがしかし.私はこのままでは頭が狂ってしまうと思いながらその場から恐る恐る少しずつ離れて行った(あなた?今日は15日、目玉を食べたものは必ず儀式を成し遂げなければあなたは祟られてしまいますよ、おば、オホホホホホボホボ、ほら、目玉を必ず祀らないと)私はあまりにも気味悪くここまで嫌悪感を感じたことはなかった,目玉を乾燥していたのはこのためか!やばい、嗚咽が(オッエオォォボボホボボ)まさに胃の中に蠢くものを吐き出すような気持ちで目玉を吐いてしまった(あなたは珍しいですね,目玉がたくさん、ケケケケケケ私たちわかってたんですよ、あなたは素質があるって、祟られる素質がねトゥトテリハユヒトヒノムノタリニタクニ)私はその途端視界が真っ暗になった,何も見えない、、ここはどこだ)[ゥゥゥドゥドゥドゥめ、ドゥマドゥ]蔵捻が私に語りかけてくる、私は急いで割れたお皿の音を奏でながら、(これが、お前が求めた物だろ?等価交換だ!)そして翌日私は夢を見ていたかのように地面で転げながら寝ていたらしい、蔵捻、幸い生きていたが私の手は真っ赤になっていた、そして私は急いでこの村を気味悪ながら出て行った
私には付き合って三年になる彼ピがいるんだけど、ちょっと惚気話させてね。 彼はね、ちょっと変わった趣味があって。あ、人の趣味にケチをつけるのはホントは良くないことだって分かってるんだけどさ、その趣味っていうのが、やっている人自体は世の中に少なくないんだろうけど、それを『趣味です』って公言して熱中してる人っていうのが、あんまりいないよねって感じの種類のもので。 今まではずっと隠れて、コソコソやってたみたいなんだけど、私がある日それをしてる所を偶然見ちゃったのよね。隠し事なんて水臭いじゃない。そこからはもう隠すのもやめたみたいで、時々一緒にやる様に誘われたりする様になって。 うーん、別に最初は全然乗り気じゃなかったんだよ。でも、私もさ、彼ピのこと本当に好きだし。彼の全てを理解するためにも、一度くらいは向き合ってみようかなって思ったの。それが彼女としての努めかなって。 そしたらね、最初は難しかったけど、だんだん慣れてきたら上手く出来る様になっちゃって。あ、今のは綺麗にいったかも、みたいな。武器も色々あるから本当に楽しいよ。用途に合わせて使い分けるの。次はどれにしようかなって選んでる時が一番ワクワクするかも。 せんせき? それはもう、彼ピがチョー強いから。ちょっと私がサポートするだけで負け無しよ。彼は動きとかテクニックとか、効率的なやり方をいっぱい知ってるから、本当に頼りになるの。横で見ているだけで、あ、そこはそうするんだ、勉強になるなあって感心しちゃう。 え、何をしてるかって? だから、人を〇〇すのよ。彼ピは人をメタメタにすんのが好きなんだって、そういうせーへきなんだって。まあ、世間一般から見たら病気なのかもしれないよね。 でもさ、私は彼と離れ離れになるの嫌だし、ずっと一緒に居たいの。だったら、彼が一番幸せを感じる瞬間に私も隣にいたいじゃない。だから私も手伝うって決めたの。 ほら、身内の不始末を隠したり、ただ匿ったりする人ってたまにニュースとかで見るけど、一緒になって楽しんであげて、共同作業にしてあげちゃう人って、なかなかいないでしょ? 私って、献身的ですっごく良い女だと思わない? あれ、どうしたの。さっきからガタガタ震えちゃって。御手洗に行きたいの? いいよ、別に、そこでしちゃえば。そんなに我慢したら体に毒だよ。 実はねえ、言ってなかったけど、彼ピももうすぐそこまで来てるんだ。会わせてあげるよ、私の大好きな人。だから、そんなに暴れないで、じっとしてて。おーーら、こしょこしょこしょ。そんなに力んじゃダメだってば。 ……あーあ。ほら、言ったじゃない。これで御手洗行かなくても良くなったね。床が汚れちゃうけど、まあ後で掃除すればいいか。 そんな、この世の終わりみたいな顔しなくても良いじゃない。せっかく彼に会えるんだよ。えーと、君、名前なんだっけ。ごめんね、私、興味ない人の名前覚えるのホント苦手なんだよね。それにさ、あんたもあんたよ。会ってまだ二日、三日の人の家に上がるのって、良くないと思うな。 自衛意識が足りないっていうか、尻軽だと思われても仕方ないよ。 あ、来た。きたきたー! 今の足音、彼ピだ。おかえり!今ちょうど、あらかた準備ができたところだよ。 ねえ、サッサとやっちゃお? 今日はどの武器使う? やっぱ、好きな人と一緒にするのが、世界で一番楽しいよね。さあ、最高に素敵な時間にしようね。
刑事が吐き捨てるように言う。彼女は絶望に瞳を揺らしながらも、じっと前を見据えた ****。その瞳の奥には、恐怖を上回る強い意志が、まだ微かに灯っている。 (誰かが私をハメた。この数字も、この首輪も、全部あらかじめ準備されていたんだ……) 窓から差し込むわずかな光が、彼女の横顔を照らす ****。警察が彼女を犯人と断定し、社会が彼女を「0831」という記号で裁こうとする中、彼女は静かに決意した。 たとえ言葉が封じられても、この「管理」という名の檻から、いつか真実を曝け出してやると。
カフカの変身を昔読んだことがあるのを思い出した。 僕も実家で引きこもっていたとき親戚から総スカンを食らっていたことを思い出した。 現在は世の中から総スカンを食らっている(妄想) 飯と風呂と住まいが供給されているのに総スカンはねーだろ、動けと言う電波を受信する。 都心の片隅は僕の部屋の7畳とリンクしてだだっ広い引きこもり部屋になる。 どこにいっても孤独感を感じる(それはお前が気持ち悪いから皆関わりたくねーんだよという電波を受信する) もっと電波を受信しているK君は僕より酷い家庭環境だ(そして酷い目にあっているのに僕より親思いだ) 偉いぞ。 僕は腑抜けだ。 何か昆虫人間が多いぞ。 皆ショッカーに改造されているのかもしれない。 昔お前等身大の蟻とセックスしたいと思うか?と言われたことを思い出した。 蝶のような女の子ならいいかもしれない。 ポニーテールのロリータは僕のダンスの真似をしてからかうが僕はそれをズリネタにするのでM専の娘には受けるかもしれない。 何を言っているのだ。 基本的に家から出ない。 パソコンが欲しい。 スマホで文章打つのダルい。 明日は元カノと近所の喫茶店に行く。 聖書を持っていくわ、と言っていた。 聖書とゲノムという本を読んだことを思い出した。 内容は何だっけな? 聖書と性本能とパチンコと競馬とゼロサムゲームとの相関性についてAIに聞いてみよう。 カジノでホールガールがライダーに攻撃を加える前にイエスが「きっと全てうまくいく」と言ってくれることを願う。
ベッドに横になって、膝は立てて、両の手はお腹の上に。ズっちゃんのよくない兆候。わかっていても僕には何もできない。気の利いたことを言うことも、おいしいものをつくってあげることも。せめて近くで本を読むふりをしながら、その気配によりそうことくらいしか。 ふううううう 大きく長く息を、ズっちゃんは吐き出した。お腹のなかにたまってる悪いものを全部、カラダの外に追い出すみたいに。 「アイス食べない?」 とズっちゃん。 「ないでしょ」 と僕。 「買い行かない?」 「…行こっか」 ズっちゃんは薄く笑顔を見せる。ぺたんこの靴を履きながら、でもその背中から鼻歌は聞こえてこない。 「この前、仕事の合間にホームセンター行ってさ」 ふいにズっちゃんが言って、 「え、ああ、うん」 いつものことながら、僕は間の抜けた返答しかできない。 「園芸コーナーを見て回ってたときにさ、小さなハーブの苗あるでしょ、その苗に隠れてさ、夏の気配が潜んでたんだ」 「え?」 「ひとりだけでね」 「ひとりで…」 「さびしそうだった。ちょこんと座ってた。誰も気がついてなくってね。それが不思議だった。だから、きっと気のせいだったのかなって」 僕は返答できなかった。 「もしくはさ…」 「え、なに? 怖い話?」 「へへ。犬と暮らすとしてさ」 「え、ああ、うん」 「ねことも暮らすとしてさ」 「…うん」 「あ~、あたしピノにしよっかな。ピノピノピノ~」 いつの間にかコンビニは目の前にあって、ズっちゃんは飛ぶように軽い足取りで入っていく。かすかに聞こえてきた鼻歌は、ズっちゃんのいい感じの兆候。そのことに少しばかりの安堵しか、僕にはできないけれど… でも僕は、とっくに気がついていた。意味のない会話は、ズっちゃんの復活の証だと。
「ねぇ、キミ。何をしてるの?」 雨が降るのを待っているのです。 「えっ。でも、いつ雨が降るのかは、誰にも分からないでしょー」 もうすぐかもしれないでしょう。 「そりゃあ、まあ……でも、一週間先だったらどうするの。それでも待つの?」 待ちますよ。待つしかないですから。去る者、追わず。来る者、拒まず。私はそういう存在です。生まれた頃から、私には使命があるのです。 「それって生きづらくない? ぼくは、キミよりずっと自由だ。そのほうがいいと思ったりしないの?」 ええ。アナタは、私に比べたら、うんと伸び伸びとしていますね。でも、限りある場所で、限りある時間を精一杯に生きるほうが……。私のようなものには、ふさわしい。私には動かす手足も、揺らせるフリフリも無いですから。 「まあ、キミが納得しているのなら、それでいいさ」 フリルはありますけど。 「べつに、つっこまないよ」 残念です。 「雨が降ったらいいね」 ええ、私の頭がおかしくなる前に。せめて。自分の使命はまっとうできたと、思いたい。 「へえー」 ジメジメとした蒸し暑さと暮らしている。大きなワンルーム。 製氷機から氷を取り出す、あなた。その足取りは昨日よりも軽やかで。あなたがステップを踏むたびに、手のひらのマグカップでは水面がおどる。 今。ボクは意を決して、あなたのひざに飛びこむ。 ぱちゃっ。 上空まで、はねる飛沫。あなたの衝撃と困惑が、ボクの頭へと降りかかる。 「ちょっと、ポメ! ああ、もう。サイダー、こぼしちゃったよ……」 あなたは机上にマグを置いて。箱からティッシュを取り出し、せわしなく手を動かす。 床に広がっていく甘い水たまり。その水分を含んで重たくなった彼女が、ぐったりと横たわっている。 「あっ! ふれふれ坊主、落ちちゃってるじゃん!」 悲しそうに、あなたは眉をひそめる。これじゃあ、明日も仮病を使うのは無理か……と、わけのわからないことをぼやきながら。あなたは濡れたティッシュとともに、役目を終えた彼女をつかんで、ステンレスのかごに入れる。 ――よかったね。これでボクらも、明日は外でおさんぽできるよ! 肩をすぼめるあなたを励ましたくて。ボクは、めいいっぱい自分のしっぽを振って見せた。
証拠は揃っているんだ、0831。お前が現場にいたことは防犯カメラが証明している。その格好も、犯行時のものと一致するんだよ」 刑事の言葉は、まるで彼女を物理的に押し潰そうとするかのような圧力を持っていた。ヤサイちゃんは、胸に縫い付けられた「0831」という数字をじっと見つめた ****。これは単なる管理番号ではない。彼女から名前を奪い、尊厳を奪い、一人の人間を「容疑者」という記号に作り変えるための烙印だ。 「あれは……私はただ、道に迷って……」 「言い訳はもういい。通称『ヤサイちゃん』。お前のような若い娘が、なぜあんな残忍な事件を……」 刑事が吐き捨てるように言う。彼女は絶望に瞳を揺らしながらも、じっと前を見据えた ****。その瞳の奥には、恐怖を上回る強い意志が、まだ微かに灯っている。 (誰かが私をハメた。この数字も、この首輪も、全部あらかじめ準備されていたんだ……) 窓から差し込むわずかな光が、彼女の横顔を照らす ****。警察が彼女を犯人と断定し、社会が彼女を「0831」という記号で裁こうとする中、彼女は静かに決意した。 たとえ言葉が封じられても、この「管理」という名の檻から、いつか真実を曝け出してやると。
私はとある都市伝説を耳にした。(黄泉平坂って坂の看板通り過ぎたらこの山道から抜け出せなくなるらしいよー)噂にしては少し大雑把な気がする,そもそもループ系の都市伝説なんてさまざまな分野がありすぎてありきたりだ,(えーマジでーでも噂の坂道なんて近所にあるけど名前が独特すぎて目を付けられただけでしょー犬鳴きトンネル的なニュアンス?なんじゃないの?てかそもそもネットの中の噂でしょ,創作だよ,創作)少し声を高らかにしながら歩いてる二人組が私のそばを過ぎ去って行った、盗み聞きしたとはいえこんなぶっ飛んだ坂なんてこの世にないだろう,噂だよ,ウワサ,少し斜に構えながら私は少し薄暗い道を自転車で駆け抜ける,この地域は昔から過疎地で大きな山や,畦道が私の目の中のキャンパスに広がった,仕方なく私は自転車を全速力で駆け巡った,ここは田舎すぎて事故なんて田んぼに突っ込む程度の事故しかない,都会と違って人通りも少なく新しく追加された条例も合法的に無効になった感じだ,[黄泉,ヒ,,ラサ、坂]少しかすれた看板が通り過ぎるが,色褪せすぎて看板が機能していないほどに錆びれていた,(あーここが噂の坂がある場所なんだなー,山道通らないとそもそも入ることできないけどなー安心したーー)と安堵しながら自転車をこぎまくった,しかし(あれ?ここ看板の近くのしか注意の看板,,さっき通った気がするなー)少しさっき前に見覚えのある看板があるが,私は違和感なくこの道を過ぎ去っていく,しかし(あれ?また鹿の看板?あれ?間違えてないよね?)私は急いでスマホの地図を見るが、いつも通りの道だ,道のはずだ(まじかー噂本当だとしても何かトリックあるんじゃないかー?]と思いながら私は逆走をした,同じ道を抜け出せてなくあたかもループしているような錯覚をするのかも知れない、(あれー?後ろから行っても看板があるぞー、ループは本当なのかー?)と緊急事態の割に冷静になりながら私は同じ道を途方にくれながら駆け抜けていく(ごめんなさい,ごめんなさい,ごめんなさい)老人が懺悔をしているのだろうか?だとしてもなんで人気のない山道で,しかしさっきまでのループはこの老人はいなかった,,何かきっかけがあったのだろうか?(私本当に早くここから抜け出してください,今まで商店街にいたのに、なんで!なんで!なんで!!)私は???を浮かべながら老人の隣の女性を通り過ぎた。私は直感的にここから抜け出さないといけないと考えだし,急いでこのループを抜け出すために違法速度を出しながら全速力で山道を走り抜ける,,,だが私は抜け出せない,最悪だがそう思えるのがまだ正気だと思いながら私は事故を起こしてしまう勢いに自転車を駆け抜けまくった。そして私は無理矢理抜け出すかのように自転車を駆け抜けたおかげがかすれた看板が勢いで何故か倒れた結果,いつもの通り過ぎる道に戻って行った,私は帰宅後急いでブログに今日の出来事を書き記した、誰か目を通すかもしれないし、ほら話だと馬鹿にされると思うが正直このことを他人に聞かせることがしたいと思いながら淡々と文字を打った、, (ねーー綾香ー?例のブログ見た?黄泉平坂ってここ地元なのやばくない?後この黄泉平坂って坂の看板通り過ぎたらこの山道から抜け出せなくなるらしいよ?)また同じ道で噂話が聞こえてきた,鬱陶しい
「5」 「9」 「13」 「17」 「ああ、置いてきぼりにしちゃってた?19」 「22。ごめんね?」 「言葉が霧散しちゃったから。26」 「30。行を数えてるんだ」 「35。言葉は形にして残しておいた方がいいよ」 「君だって行を読むだけの生活なんて嫌でしょ?38」 「50。まだ50行目。君の言葉が何行目か教えておいてね、きっと覚えているから」 「52」
ある日の午後。 色彩心理学の教授が、学生を前にマイクを握った。 「皆さん、人の購買意欲を引き出す色って、何色あると思いますか?」 「それって、4大販売色のことですか?」 「そのとおり。その中で赤が一番、購買意欲をかき立てると言われてます。チラシに赤色が多いのは、それが理由ですね」 学生たちは耳を傾け、ノートを取った。 「色が人間の感情や行動に、どんな影響を与えるか。なんですが……」 教授の合図で、正面のスクリーンに映像が流れた。 「これを見てください」 手のひらサイズの、四角く、縁が少し錆びた赤色の缶が、道路脇の草むらに置かれている。 「缶の中にはですね、石ころを二つ入れてます。少し重みを感じますかね」 隠しカメラで撮られた映像に、スーツ姿の男が現れた。 男は赤い缶に気づくと、周りを気にしながら手に取り、蓋を開けた。 「なんだ、これ」 男は赤い缶を、草むらに投げた。 映像が替わり、ブランド物の服を着た女が画面に映った。 女は辺りを見回すと、バッグの中に缶を入れた。 画面から消えたあと、カラカラと音がして、草むらに缶が転がった。 「先生。これは何の実験ですか?」 最前列の学生が手を挙げた。 「これですか……ただの面白動画ですね」
死んでしまうそのときまでに、読みたいものをすべて読めたらそれでいい あれもこれもとたくさん買っても、読めなかったら死ぬに死ねない 家のなかにあるものすべて、読めたらそれでいい 私が思うささやかな願いを「のの」は、すこしも思うことはないのだろう 「のの」は、そんなことすこしも考えない ごはんがたべられて、たくさん寝られて、それが続いてくれたらそれでいい 悩んでしまうより「のの」に生まれてくればよかった けれど、こうも思う 「のの」に生まれてくるより 「のの」を愛でるよろこびを感じるほうがいい 「のの」でいることより 「のの」のそばにいられたら 私は、それでいい
いつもの喫茶店の、いつもの隅の席。 僕の手元には読み終えたばかりの文庫本があり、友人・カズキの手元には最新のタブレットがある。 僕たちは互いの領分を侵さない。僕は活字と紙(あるいは電子書籍)を愛し、彼は映像と音響、そして「Netflix」の赤いロゴを愛している。 「準備はいいか?」 カズキがアイスコーヒーのストローを咥えたまま、挑戦的に言った。 「ああ。こっちは300ページ分の伏線がパンパンに詰まってる」 僕たちの会合は、世間一般では最悪のタブーとされる行為を儀式化している。 そう、「ネタバレの交換会」だ。 普通、映画の結末を勝手に話せば絶交の理由になり得る。だが、僕たちの価値観は少し違う。 ーあの作品良かったんだよね、是非時間があったら観てみてよー このフレーズは僕達の間では表面だけの薄っぺらな「社交辞令」でしか無い。 我々だけの社交会において、一方が無防備な状態で結末を叩きつけるのは「暴力」、双方が合意の上で、互いの物語を差し出し合うのは「礼儀作法」なのだと決まっている。 「じゃあ、僕からいくよ。今回摂取したのは、ミスリードがえげつないミステリー小説だ。舞台はとある極寒の雪山の閉ざされた洋館で、犯人は……」 僕は、数日かけてじっくりと脳内に構築した物語の骨組みを、もっとも美味しい部分だけ抽出して彼に提供する。 叙述トリックの快感、中盤のどんでん返し、そして後味の悪いラスト。 カズキはそれを、まるで上質なワインのテイスティングでもするように目を細めて聞いている。 「なるほど、そいつは合理的だな。活字でしかできない騙し方だ。映像でやったら一発でバレる」 次に、カズキの番だ。彼はNetflixで全10話配信されたばかりの、最新SFドラマの全容を話し始める。 莫大な予算をかけたCGの光景や、俳優の表情の演技、そして最終話の数分間に用意された「全人類の記憶が書き換わる」という設定の妙。 僕はそれを聞きながら、自分が費やすはずだった約10時間を、たった20分の要約で摂取していく。 彼の躍動感のある身振り手振り。思わず声が上擦ってしまう程の感情の乗り。開きった瞳孔に薄く貼られた網膜には、彼が見た映像がそのまま映しだされているのでは無いかという錯覚すら覚える。 「なあ」と、カズキが空になったグラスを置いた。 「俺たちがこうしてネタバレを交換し合うのって、結局のところ、今の時代の生存戦略だよな」 僕も深く頷いた。 現代において、人は時間が有り余っていたとしても、この世に溢れる全てのコンテンツを摂取することは不可能だ。 得意な媒体、好きな摂取方法は人によって決まっている。 ならば、自分の苦手な、あるいは手を出さないジャンルの物語を「信頼できるフィルター」を通して受け取るのは、この上なく効率的な情報交換ではないか。 「俺は、お前が語る本の話が好きだ。お前の主観というフィルターを通った物語は、実際の本よりも俺にとっては分かりやすい」 「僕もだよ。カズキが語る映像は、僕が実際に画面を見ているよりもドラマチックに聞こえる」 僕たちは、互いに何十時間分もの物語の旨味を交換し終え、満足感とともに席を立った。 僕の脳内には、一生観ることはなかったであろうSFドラマの切ないラストシーンが、カズキの言葉を通じて鮮明に焼き付いている。 カズキの脳内にも、彼が一生手に取らなかったであろう重厚なミステリーの、冷たい冬の情景が残っているはずだ。 「次は、あの配信が始まったばかりのサスペンスを観ておくよ」 「じゃあ僕は、本屋大賞にも選ばれた、話題作を一気に読んでくる」 そう言って、僕たちは別れた。 一方的なリークではない。これは、限られた時間の中で、より多くの「誰かの物語」を体験するための、僕たちなりの誠実なコミュニケーションなのだ。 家路につく道すがら、僕はカズキから聞いたSFドラマの余韻に浸りながら、カバンから新しい小説を取り出した。 次に彼に手渡す「結末」は、どんな味にしようか。それを考えるのが、僕の今の密かな楽しみだ。
この世は場過な嘘神により弄ばれたキャンパス 彼は子供だった気に入らない者達、物事柄神の 文化文明冴え悪気無い子の様にぐちゃぐちゃに 真実、嘘混ぜ上げ幻想的タペストリーを描いた 人間、聖霊すら一見分からい様に聖霊達に人間 守る使命を与え真実の地鳴り神黙らせて仕舞い この世を人間基準に整え格差と言う文化を創造 見事に逆ピラミッドを描いた大罪聖為る者達を 器と言う衣纏わせ人間として創造扨せて仕舞い ライン文化繁栄指せ全聖霊界束縛して一般聖霊 界との断絶謀り神の器達を封じ込め不条理冴え 感じる程の税金、保険料を法律と言う理不尽な 鎖りで縛りながら真逆な綺麗事のオンパレード 真面目な神を信じる聖為る人間達を絶望指せて 自殺指せる見事な遠隔殺人的負のエネルギーを 浸透して仕舞った行いは一体誰が取るのだろう 其の時超そ地鳴り神の降臨する絶好なチャンス そうこの世は全て真実の地鳴り神様の言う通り だからかも知れない
大学も四年になると、周囲の空気は目に見えて変わった。 昼休みの学食では、どのテーブルからも就活の話が聞こえてくる。 どこの企業を受けたとか、面接がどうだったとか、誰が内々定をもらったとか。スーツ姿で大学に来る学生も珍しくなくなった。 自分も一応、説明会には参加している。エントリーシートも書き、面接の日程もいくつか入っている。でも、どこか現実感が薄かった。 朝だけは変わらない。 日の出前に家を出て、走る。空気は少しずつ湿り気を帯び始め、若葉はもう春の淡い色ではなく、深みを増した緑になりつつある。 走っている間だけは、周りの流れから切り離される気がした。 **** 「で、お前どうなんだよ、就職」 久しぶりの飲み会で、高校時代の陸上部の仲間がジョッキを片手に聞いてきた。 駅前の居酒屋。金曜の夜で、店内は騒がしい。 「まあ、普通に受けてるよ」 曖昧に答えると、「お前、昔からそういう返しだよな」と笑いが起きた。 「マラソンとか出てんだろ?」 「去年ハーフ走った。今年はフルにエントリーしてる」 「え、マジ?」 一瞬、周りの空気が変わった。すると向かいに座っていた杉本が、ニヤニヤしながら言った。 「何、お前。陸上部ある会社でも狙ってんの?実業団とか?」 「ないない」 僕は苦笑しながら首を振った。 「そんなレベルじゃないって」 「でも走り続けてるの、ちょっと偉いよな」 誰かがぽつりと言った声が、妙に耳に残った。 高校の頃は、走ることなんて当たり前だった。 毎日練習して、タイムを測って、速いか遅いかで一喜一憂していた。 でも今は違う。勝つためだけに走っているわけじゃない。 じゃあ何のためなのかと聞かれると、うまく答えられなかった。 **** 店を出ると、夜風が少し湿っていた。駅へ向かう途中、それぞれの進路の話になる。 「俺まだ一社も通ってないんだけど」 「公務員落ちたらどうしよ……」 みんな笑いながら話している。でも、不安を隠しているのも分かった。 別れ際、「また集まろうな」と手を振り合って、一人になる。 駅前の人波を見ながら、ふと考えた。僕は、どこへ向かいたいんだろう。 就職先。将来。 考えなきゃいけないことは山ほどある。 それなのに頭に浮かぶのは、五月の朝の景色だった。 朝の風とか、揺れる若葉とか、走っているときの呼吸とか──それを思い浮かべると、不思議と少しだけ気持ちが静かになる。 **** 数日後。 朝の公園には、いつものようにおじさんとポテコがいた。ポテコは僕を見るなり駆け寄ってきて、足元で尻尾を振る。 「兄さんのほうも、元気そうだ」 「まあ、それなりに」 ベンチに腰掛ける。走ったあとの汗に、朝の風が心地よかった。 「フル、出るんだってな」 「なんで知ってるんですか」 「顔に書いてある」 そんなわけないでしょう、と笑う。少し迷ってから、僕は飲み会の話をした。 「実業団でも狙ってるのかって、笑われました」 「ほう」 「別に、そういうんじゃないんですけど」 言いながら、自分でも少し分からなくなる。 おじさんはしばらく黙っていたが、やがてポテコの背中を撫でながら、小さく言った。 「俺もな、若い頃は走ってたんだ」 「聞きました。長距離の選手だったって」 「大したもんじゃないよ。県でそこそこ。全国なんて遠かった」 苦笑する横顔に、少しだけ昔の面影を見る気がした。 「実業団も、ちょっとだけ夢見た。でも届かなかった」 朝の風が木々を揺らす。 「それでも、走るのは好きだった」 おじさんは空を見上げた。 「勝てる奴だけが、走るの好きなわけじゃないからな。 景色を見られる奴のほうが、長く走れる」 その言葉が、静かに胸へ落ちてくる。若葉の間から朝日がこぼれて、公園の地面にまだらな光を落としていた。 ポテコが僕の膝に鼻先を押しつけてくる。 僕はゆっくり息を吐いて立ち上がり、ポテコの頭をもう一度撫でた。 「行ってきます」 おじさんが小さく手を挙げる。 走り出すと、朝の風が顔に当たった。 フルマラソン、四十二キロ。完走できるかどうか、タイムがどうなるかも、まだ何も分からない。 それでも、走る理由なら持っている。 今は、それで十分だった。 若葉は夏に向け色を重ねていく。朝日がこぼれる道を、僕はペースを崩さず走り続けた。