別にいいんだけど

「課長、明日、休みを頂きたいのですが」 「どうしたの? 珍しいね」 「はい。急用ができまして」 男が、机を挟んで頭を下げた。 「じゃあ、引き継ぎお願いね」 「ご迷惑をおかけします」 ──次の日。 男は、集合場所に急いだ。 長靴を履き、スコップを握る。 「お兄ちゃん、ありがとね」 「いえ。大変だったでしょ」 「水がここまできたのよ」 年寄りの女が、柱を指した。 「泥がひどいですね」 「ボランティアさんが来てくれて、助かるわ」 男は、部屋の泥をかきだした。 額の汗を拭いながら、辺りを見回す。 「ここ、テレビとか来ました?」 「昨日、隣町にきてたわね」 「……そうですか」

喫茶店の珈琲

自宅の側の商店街に、行きつけの喫茶店がある、ロン毛の彼 彼は奥の席に座って、マスターに珈琲を一杯頼み、着ていたジャンバーを椅子に掛ける いつもの店のいつもの景色 昼前の商店街は通る人も少ない 店内は、彼以外には男性が一人。先ほどから小さなノートに何かを描いている カウンターに座るその客を、マスターは教え子を見るの様な眼差しで見ている 頼んだ珈琲が届くと彼は一口飲み フーと息を吐く 迷子の子のような表情で佇み、頭を掻く 彼の中に詰まっている 想いが出口を探している 今、自分が何を思っているのか 今、自分はどうしたいのか その想いを彼は自分で、知らない内に塞き止めている 珈琲が、想いの隙間に流れていく 彼が落とした、目線の先に 一つ一つ想いを置いていく 一つ一つゆっくりと 一つ一つ迷いながら カウンターの客は、まだ何かを描いている マスターが眼鏡を上げて何かを見ている ロン毛の彼は「それしかない」と呟いている

原風景

「お義母さん、テレビ見て」 女が画面を指さした。 レポーターがスマホを手に歩いている。 「私は今、ダムの巨大な壁のてっぺんに立ってます」 観光客にマイクを向けた。 「どうですか? ご覧になって」 「なんていうか、ノスタルジックですね」 「連日の猛暑の影響で、ダムの底に沈んでいた村が顔を出してます」 ワイプのタレントがモニターを覗き込んだ。 「鳥居が見えますね。奥にあるのは学校ですか」 「はい。今は統合されて、子どもたちは隣町に通ってます」 「お義母さん、懐かしいでしょ?」 女が湯呑みをテーブルに置いた。 「去年も見た」

秋の夜長に読む本は

 冒険の季節は、すぎてしまいましたね。秋の夜長に読む本は、恋愛もの? ミステリー? お月さまといっしょに読むのですか? それとも、雨の音をききながら?  秋風は、わたしには冷たすぎます。さみしさを内包するその風は、わたしの目から雫を落とさせることはするけれど、ほほがゆるむほどの楽しいお話をきかせてくれることはありません。  この季節、思い出すのは、あの人のことです。あの人は、まだ早いのではないかと思うくらいの時期にも、赤々と暖炉に火を入れます。その前で、いすに腰かけ、手をこすり合わせるのです。ひざの上には古くなった本。それは決まっていることです。  あの人のするほとんどのことには好意を感じているのに、読むのに疲れたときなど、鼻にかかったメガネを額にのせるそのことだけが、どうにもわたしの気持ちに波を立たせるのです。頭や髪についたほこりや汚れ。目にはわからないような呼び込んではいけない類の、つまりは霊的なそれら。はたまた、悲しみや苦しみや手放してしまいたいような感情のすべてが、メガネのレンズにこびりついてしまうようで嫌なのです。レンズについたそれらは、メガネをかけ直したとき、するりとレンズから転がり落ちます。鼻や口から体内に入り込んでしまうかもしれません。あの人にもしものことがあったらと、わたしの心は、ゆれてしまうのでしょう。  今日は、たくさん本を読みましたね。それだけ夜が、長くなったということなのですね。まだそこまでの寒さではありません。でもきっとあの人は、火をおこしていることでしょう。本を読むのに疲れた目を休めるため、メガネを鼻から離すこともあるでしょう。願うのは、メガネのその行き先が、額の上でないことを……

水面は光る

私の側頭部に、黒い柱が刺さった。 私の口ほどの大きさがあろうそいつには返しが付いている。 必死にもがいてみたが、私の内側を掻き回すだけだった。いつしか私の体は動かなくなり、息をすることしか能のない肉塊と化した。 私の体は黒い柱に貫かれたまま海面へと向かう。海面に私の体がぶつかる。いつもの想像よりもそれは柔らかく、簡単に割れた。 普段海面の反対側からものが海面を割って落ちてくるのは見たが、どれも動かない。 海面に勢いよく打ち上がった仲間は帰ってこなかった。他の奴らが言うことはわからない。 これはある種の特別な体験なのかもしれない。自分がいつか憧れていた海面、そこに自分で向かう勇気はなく、それに関する情報も無い。 この柱が私を突き刺したおかげで見れるとは、なんたる幸運であろうか。私はそう思うことにした。 あぁ、海面の向こうは海よりも薄い青だったのか。なら、そこまで変わらないのかもしれない。 私の体から水が落ちきった時、私は先程の考えを後悔した。 嗚呼!熱いっ!熱いっ!私の一生涯において、海底火山の吹き出す湯水に皮膚を掠めた時とは比にならない熱さを感じることになるとは!眼球が沸騰し、今にでも灰になりえるような熱が全身に刺さっている!海面の上はなんて辛く厳しいのだろう! 私はもうもたなさそうだ。 しかし、きっと他の奴らは私より大きかったこともあって、この辛く厳しい世界では生きていけるのだろう。 私の頭から柱が引き抜かれた。何が何だか分からない私は、体の表面に冷たい水を感じて、ハッとした。 私は海中に戻ってこれたのだ。私はこの経験を活かし、これから生まれるちびっ子達に伝えていこうと思う。 この世界は無理をしない方が良いと。 私は精一杯に動こうとするが、私の体は言うことを聞くようにはならなかった。

ネタ切れなのでNTRものを書いてみた。

週末の午後、広場に小さなステージが用意された。 「みなさん、お待たせしました。只今より開演いたします」 大勢の観客の前で、男が両手を広げた。 その声を合図に、脇で待機していた女が、一組の夫婦を連れてきた。 「やめろ。手を離せ」 男は暴れる夫の首をつかむと、着ていた服を剥ぎ取った。 「おぉ…」 会場が沸いた。 すると今度は、妻に手を伸ばした。 「やめてくれ。私の大切な妻に触らないで…」 夫は涙を浮かべ、見上げた。 男は観客を見渡すと、腕をつかみ引き寄せた。 観客から拍手が起こる。 足をバタつかせて暴れる妻。 そして、夫を見つめながら、大声で叫んだ。 「メェ〜」

君に聞こえないひとりごと

君に振られた今日は僕にとって忘れられない日になるだろう。君は他に好きな人ができて、あっさりとそっちに行ってしまったね。でもね、君を責めるつもりはないんだ。だって僕よりその人の方が魅力的に見えたんでしょ。だったら仕方ないよ。それに君がその人のことを考えながら僕と付き合い続ける方が僕にとって辛かっただろうからむしろ振られて嬉しいまであるよ。 君は僕に謝ったね。一回だけ、冷たく。君が持っていた僕への気持ちはもうとっくに冷めてしまってたんだね。ピロンと僕のスマホが鳴った。君からだ。君だけ着信音を変えていたからすぐにわかる。 「ブロックしておくから。そっちもしておいて」 文面まで冷たいなぁ。結構、スパンと切る方なんだね。君の今の彼氏は浮気の心配しなくていいね。よかった。 君はもう26歳だ、僕と同じ。君は年齢も年齢だからそのままその人と結婚して幸せな家庭でも築くのかな。僕は君と結婚する予定だったから残念だ。僕はもう結婚は諦めようかな。 別に結婚だけが幸せじゃないんだし。趣味でも見つけてさ、一人静かに暮らすのも魅力的だよね。園芸でも始めてみようかな。君が好きだったネモフィラでも植えてみようかな。その度に僕は君を思い出すんだろうね。それはそれで君を忘れられなくて良さそうだ。でも君はきっと、僕になんか思い出して欲しくないだろうから園芸はやめておこうかな。 ねぇ、君はいつまで僕が好きだった?

【うつ病】

とても美しい女性が、隣町から自分のアパートの横に引っ越してきた。 噂によると、うつ病を患っているらしい。 せっかく近くに住んでいるのだからと、挨拶に伺った。 「こんにちは!」 「あら、こんにちは。今日はいい天気ですね!」 とても快活で朗らかな女性だ。 隣町で8年間務めて、ここへ来たらしい。 眩しい笑顔、品のある佇まいとユーモア。 彼女の引っ越しを手伝い、仲良くなった。 僕は彼女が好きになった。 好きな人が出来た事を友人に相談した。 「お前、うつ病の人と居ると命がいくつあっても足りないぞ。やめておけ。」 誰に聞いても、決まって同じ答えが返ってきた。 分かっているさ。 でもかまうものか、僕は彼女が好きなんだ。 季節は夏で、花火大会がいくつか開催されていた。 僕は意を決し、河川敷で行われる花火大会へ、彼女を誘った。 「ありがとうございます!花火の余韻と香りが好きなの。楽しみにしていますね。」 やった! 花火が終わったら、僕は彼女に気持ちを伝えるぞ。 そして、その日はやってきた。 僕と彼女ははぐれないよう、自然と手をつなぎ、色とりどりの打ち上げ花火を眺めた。 彼女はうっとりとしており、感極まって鼻が小刻みに震えていた。 「ねぇ、今日は私の手をずっと繋いでいてね。私を抑えてほしいの。」 彼女は頬を赤らめて僕に言った。 これはもう、僕の事を確実に好きなんじゃないかな。 花火が終わり、帰路についた。 二人きりになっても、ずっと手を握り歩いていた。 男として、告白はしなければ。 僕は彼女の手を放し、正面から向き合った。 距離にして2メートルといったところだ。 「どうか、僕と付き合ってください。」 僕は頭を下げた。 彼女は言った。 「そんな事されたら…、私、もう自分の気持ちに勝てないわ。」 よしよしよし! 僕はまだ顔を上げなかったが、彼女に気持ちが通じたのは確実だ。 僕は、彼女が手を取ってくれるのを待った。 チラッ…彼女が胸側に右手を当てたのが分かった。 その時だった。 ドンッ!!!!!!!!!! 鈍い破裂音が響いた。 ん、まだ打ち上げ花火が残っていたのかな…? そう思った瞬間、意思とは反して、僕は前のめりに膝をついて倒れた。 自分の胸から液体が噴出していた。血だ…。 彼女を見ると、手には黒いシャープな塊を持っていた。 - 銃だった。 「どうして…?」 僕は苦しみに悶えながら、声を絞り出した。 彼女は恍惚とした表情で、僕に応えた。 「あなたが悪いの、火薬の匂いのある場所に連れ出すから。」 「あなたが悪いの、私の両手を自由にするから。」 「あなたが悪いの、死刑囚みたいに無防備な姿勢を取るから。」 彼女はキャハハハと、狂ったように笑い出した。 「あーあ、今度はどれくらいお務めしなきゃいけないのかしら…まだ聞ける?もしもーし。」 彼女はクルクルと指でそれを回転させている。 薄れゆく意識の中で僕は思った。 ああ、やっぱり【撃つ病】の人とお付き合いするのは無理だったんだなぁ…。

Wednesday✕たまに来る彼

朝日が登る前の浜辺で加え煙草でギターを弾いている、たまに来る彼 ゆったりとしたメロディーが彼の世界を見せてくれる 擦れたジーンズに押し込まれた手紙は、いつも彼が持ち歩いているもの もう叶える必要のない約束を忘れない為 たまに来る彼はギターを止め、ハイネケンの瓶を手に取る 酔とシラフの間を彼は生き続けていく

人生ログ

「ご臨終です」    医者の言葉とともに、私の意識が鮮明に戻ってきた。  下を見れば、眠る私と、私に縋りつく家族たち。  いや、現状を考えれば、眠るという表現は適切でないのかもしれない。   「そうか。死んだのか、私は」    家族の側に向かおうとも、体を自由に動かせない。  私は棒立ちのまま、天へ天へと向かっていく。  私の体がどんどん小さくなっていき、私はそれを見下ろすことしかできなかった。   「まあ、いい人生だったんじゃないかな」    健康に気を使っていたわけではないが、平均寿命を超えての老衰。  大往生だ。  心残りは、最後の一・二年間、私は私の記憶が薄かったことだろうか。  思い出せなくなっていく言葉と経験に、これが老化かと感じたものだ。   「今までありがとう。さよならだ。もし来世があるなら、また家族になりたいものだね」    病院の天井を突き抜け、空へ。  私の住んでいた町を見下ろしながら、私の体が雲を突き抜けていく。  視界が真っ白に染まった後、急に私の体が動きを止めて、視界一面に文字が並んだ。   「ん? なんだ?」    よくよく見てみれば、そこには日時と時刻と出来事が並んでいた。  人生のログとでも呼べばいいのだろうか。  ログは、私が生まれた日から始まっており、徐々にスクロールされて私の人生を追っていった。   「はは、こんなこともあったなあ。そうそう、高校生の頃に初めて告白して、見ごとに振られたんだった。その肘は、一日中ベッドに籠って泣いたなあ。ああ、懐かしい。就職で初めて東京に行ったんだっけ。人が多くて、腰を抜かした記憶があるなあ」    思わず目が潤むが、涙は落ちてこなかった。  いや、既に目という器官さえ、消滅している印象を受けた。  鏡がないからわからないが。   「子供ができた時は嬉しかったなあ。餓鬼の頃から、くそ生意気なやつだった。そんなやつが、『結婚しようと思うんだ』なんて大人の顔していってきた時は、ソファーからずり落ちそうになったな」    人生が後半に進むにつれて、ログの流れる速さは増していく。  体感時間と連動をしているのかもしれない。   「そう、孫が生まれて、孫が受験に受かって、そのころから段々と頭がぼんやりとし始めて」    新幹線に乗った日を思い出すほど、ログが高速に流れていく。  既に目で追うことが難しくなっているが、必死に全て読もうと気合いを入れる。  しかし、まだ読めていないログも、情け容赦なく流れていく。    そして、最後の一行で、文字が止まった。   『八十三歳。家族に見守られながら死亡。幸せな人生が幕を下ろす』   「はは」    思わず笑いがこぼれた。  このログは、私の内心だろうか、それとも神様とやらの客観的な事実なのか。  なんにせよ、幸せな人生と最期に評価されたのは、嬉しい限りだ。    楽しいことも辛いこともあった人生。  その幕引きとしては、上々どころか最高だ。    ログの文字が薄くなり、消えていく。  司会が完全に白く染まる。    ああ、いい人生だった。    最後に出そうとした言葉は、声に乗ることはなかった。  ただ頭の中にだけ響き、私の意識に溶け込んでいった。

不起症

 真夜中の零時。  それは、人々が眠り、妖怪たちが目覚める時刻。  江戸時代には、昼に人々が往来していた通りが妖怪たちで埋め尽くされていたという。   「そのはずだったのに!」    しかし現代、妖怪は姿を現さない。  否、現せない。  人間によって作られた灯りが、通りを夜通し輝かせ、妖怪が起きるには不向きな環境を作り出していた。   「よう、隣の一つ目小僧、田舎に引っ越したってよ」 「マジ? あいつ、生まれながらの江戸っ子だっただろ」 「田舎は虫が多くて嫌だけど、東京の光よりはマシだってさ」 「はー、せちがれえ」    深夜に目覚めた妖怪たちは、しかし外を歩くこともなく、カーテンで遮光された部屋の中でひっそりと過ごす。  口を開けば、現代社会の愚痴ばかり。   「俺たちも引っ越すか?」 「んだなあ。童のことを考えるとなあ」    小鬼と唐傘は、うんざりとした表情で窓を見た後、足ともで眠りこける座敷童に視線を移した。    座敷童は、今日も眠っている。  不眠症ならぬ不起症。  光が多すぎる現代社会で、目を覚ます時間が極端に減るという、妖怪たちの現代病だ。   「今日も置きそうにねえな」 「薬買ってくっか。起床薬」 「また、灯りの下を歩くのか」 「しゃーなし、しゃーなし」    小鬼と唐傘は、座敷童に布団をかけ直した後、部屋を出た、  唐傘は目を瞑り、傘を広げる。  小鬼は唐傘の足をもって、外を歩く。  周囲から見れば、雨も降っていない夜道で傘を差して歩く、不審な人影だ。   「唐傘、大丈夫か?」 「……暑い」    小鬼が心配そうに聞くと、唐傘から汗が一滴、落ちてきた。  唐傘は閉じた目を、時々歪ませている。   「急ぐか」    小鬼は小走りに通りを進んで、妖怪専用の薬局へと向かった。   「いらっしゃい」 「いつもの」    そして、薬局で起床薬を受け取ると、部屋へと急いだ。  唐傘から落ちてくる汗が増え、小鬼も走った疲労で汗を垂らす。   「ただいまー」    小鬼と唐傘が部屋に戻る。  当然、返事はない。  唐傘は傘を閉じ、疲れた顔で傘立てに頭を突っ込んだ。   「ちょっと休んでから行くわ」 「おう」    小鬼は扉の鍵を閉め、玄関を上がる。  そして、眠っている座敷童の元へ行くと、その口に起床薬を入れた。  起床薬は、座敷童の口の中で、コロコロと転がった後、座敷童の喉の奥へと入っていった。   「ううーん」    しばらくすると、座敷童は目を覚ました。   「おはよう?」 「もう二時だ。寝坊助め」 「あちゃー」    座敷童は時計を確認すると、照れ笑いしながら、自分の頭を小突いた。  小鬼は、そんな振る舞いがおかしかったのだろう、ぷっと噴き出して笑った。  しかしすぐに、真剣な表情で座敷童を見る。   「なあ、座敷童。隣の一つ目小僧、田舎へ引っ越したらしい」 「そうなんだ。彼の作る目玉焼き、大好きだったんだけどなあ」 「俺たちも、東京から離れないか?」    小鬼からの提案に、座敷童は困ったように笑った。  ほっぺたを掻きながら、謝るような視線で、小鬼を見た。   「二人は引っ越しなよ。ぼくは、ここに残る」 「馬鹿! それじゃずっと、お前の病気が治んねえ!」    小鬼は声を荒げながら、座敷童を指差した。  座敷童は、やはり困ったように笑っている。   「東京に住む座敷童の数は、年々減って行ってる。これ以上減ると、東京にする人間たちが不幸になっちゃうから」 「いいじゃねえか! その人間たちのせいで、お前は病気になってんだから!」 「うん。でも、ごめんね。ぼくの役割は、人間たちを幸せにすることだから」    小鬼は、しばらく座敷童の説得を続けた。  しかし、座敷童は、決して首を立てには降らなかった。  数十分の後、小鬼は両手を床について、項垂れた。   「あ、ごめん! でも、君たちは本当に、引っ越していいんだよ! ぼくのことなんて気にせずに」 「……お前ひとり、置いて行けるわけねえだろ。なげえ付き合いなんだから」    廊下から、足音がした。  唐傘が部屋の中に入って来て、二人の様子を見た後、すぐに状況を察したのだろう。  小鬼の横に立って、小鬼の頭を撫でた。   「交渉失敗か」 「知ってるだろ。こいつは頑固者だ」    小鬼と唐草が、座敷童を見る。  座敷童は照れくさそうに笑った後、突然目を細めた。  頭が左右に揺れて、足元がおぼつかなくなる。   「やべえ、時間だ」    眠って倒れる座敷童を、小鬼は咄嗟に抱きかかえる。  そして、床へと寝かせ、布団をかけた。   「ずいぶん、寝るの早くなっちまったな」 「態勢がついたんだろうな」    小鬼と唐傘は、哀しそうな表情で座敷童を見ていた。

Wednesday✕今日の匂い

雨の上がった濡れた朝に、コンビニの袋をぶら下げて、交差点に佇む人 キャップの彼は空を見上げている。 さっきまで雨を降らせていた空の向こうに、雲の端を見つけたから 街は、都会の匂いがしている 煙草の吸い殻が、いくつか落ちている排水口の入口 スプレーの上から、シールが貼られている白いポール まだ、動きそうもない、雲の裾 彼は白いイヤホンをして、階段を登っていく 今日を背にして、昨日に歩いていく コンビニの袋をぶら下げて

愛を確かめ合った瞬間を何度でも

「お前たち二人の、どちらか一方だけを生き返らせてやろう」    恋人同士の男と女は、悪魔にそう告げられた。  悪魔は不気味に笑っており、信用を置くには些か心もとない。  しかし、男と女の体は消えかかっており、悪魔に信用を置く以上に、生存が心もとない。    男は女を指差した。   「彼女を生き返らせて欲しい! 彼女はとても優しい人なんだ!」    女じゃ男を指差した。   「彼を生き返らせて欲しい! 彼はとても優しい人なんです」    男と女は、互いに驚いたよう見つめ合い、消えかかる体で抱きしめ合った。  悪魔は、二人の様子を眺めながら、クックックと笑いを零す。   「その願い、叶えてしんぜよう」    男と女は、同時に悪魔を見た。   「え? どっちを?」        これが百万回目。  どちらか片方しか生き返ることのできない願いに対し、二人が生き返る願いをした罰。  男と女は生き返った瞬間、どちらかしか生き返ることができないというルールに違反する。  そして再び、地獄へ落ちる。  かつて生き返ったという記憶を失ったまま。   「お前たち二人の、どちらか一方だけを生き返らせてやろう」    悪魔は同じことを口にする。   「彼女を生き返らせて欲しい! 彼女はとても優しい人なんだ!」  「彼を生き返らせて欲しい! 彼はとても優しい人なんです」    男と女は同じことを口にする。  そして生き返り、再び地獄に落ちる。    笑う悪魔。  呆れる天使。   「これから、どうするんだ?」    天使がたまらず尋ねると、悪魔は大声で笑った。   「どうもしない。このまま消えるのを待つだけだ」 「生き返ったり死んだりを繰り返すのが?」 「お前、人間界のパソコンって触ったことあるか? 再起動をするたびに、データを整理するために中で機械がガリガリ動く。そうすれば、パソコンの寿命もガリガリ削れていくんだよ」 「つまり?」    悪魔は親指と人差し指を広げ、無視を潰すようにプチっと閉じた。   「何度も記憶の再起動が置き続けるから、ほっときゃ魂という機械が削れて、魂ごとお陀仏さ」    天使は溜息をついて、悩んだように口を開く。   「それはそうなんだけど、そうじゃなくて」 「お、いよいよだ!」    悪魔は手を広げ、天使の言葉を静止する。  そして、男と女の最期に釘付けとなる。   「彼女を生き返らせて欲しい! 彼女はとても優しい人なんだ!」  「彼を生き返らせて欲しい! 彼はとても優しい人なんです」    次の瞬間、男と女の体が消滅した。  徐々に薄くなっていった体は、あっと言う間に消え去った。  後には何も残らない。  悪魔は両手を叩いて、ゲラゲラと笑う。   「あーっはっはっは! 消えた消えた消え」    ついでに悪魔も消え去った。    取り残された天使は、自身の頭に手を置いて、やれやれといった表情で首を左右に振った。   「どうして、そのルールが君には適用されないと思ったんだい。どうも悪魔ってやつは、目の前の快楽に弱すぎる」    悪魔のいた場所に、悪魔の魂の残骸が落ちてきた。  天使はそれを掌で掬い、ぐびりと飲みほした。

毛根尽き果てるまで

ワタシがキラクに勝てるのは、この毛の黒さだけでした。 なんと言っても、胸毛がへそまで繋がっているのです。 背の高さも筋肉も、主の覚えも女性の受けも、キラクにはかなわないけれど。 ワタシは、つるぴかのキラクには手に入らないものを持っています。 「イガメ。いい加減毛を剃れ。見苦しい」 主は、ワタシの黒さを評価しませんでした。 しかし、ワタシの身を削れなどと、主の言葉にしても行き過ぎだと考えました。 しぶしぶ、少しだけ毛を剃ってみせたら、洗い場の水が流れなくなりました。 次の日になったら、ワタシの毛はすぐに生えてきました。 「また明日も剃れば良いですか」 「迷惑だ。少し考えろ」 考えろ? ならばあなたは、剃られたワタシの毛のことを考えてくれたというのですか。 ワタシは屋敷を追い出されてから、ずっと毛を評価する主を探していました。 それなのに世の中は、もじゃもじゃでもつるぴかでもどっちでもいい、というばかりでした。 ワタシの毛は、命です。 今はワタシを捨てた主も、小さい頃はこの毛を面白いと言ってくれました。 「イガメの毛、あったかーい」 それなのに、キラクが来てから、主の寵愛はあのつるぴかに移ってしまいました。 ふと、思い立ちました。 寒い冬の街なら、この暖かい毛が役に立つのではないか。 なにより、ワタシは主とキラクの情報を持っている。 もしも、取り立てていただけるなら、ワタシを裏切り見下した彼らのすべてを奪うため、いくらでも手引きをしてやろう。 寒い街へ向かいました。 寒い、寒い、街へ。 ✱✱✱ 「失礼。キラクという騎士はこちらにおるか」 「おれだが」 「あの妙な男、イガメとかいったか。あのような生き物、どうやって育てるのだ?」 「イガメ? あの迷惑者が、何かそちらに無礼をしたのか」 「いや。最初は人間らしく扱おうとしたが、貴様とその主に対する恨み言がやかましくてな。恩も身の程もわからないこれはもう、商品とするしかないだろうと。こちらでは、黒い羊と呼ばれている。質は悪いが、珍奇さから一部の好事家に奴の毛は評判だ。剃るたびに叫び声が煩いのが玉に瑕だが、それも見世物にはなる」 「……すまないが、返してもらえないか。あれでも元は、おれの先輩なのだ」 「近々みな飽きると思うので、返すのは構わない。あれは、それを望まないと思うがね」 「どういうことだ?」 「この暖かい城は、獣が暮らすには上品すぎる」

ネタ切れなので恋愛ものを書いてみた。

ある日の午後。 若い男女が手を繋いで歩いていた。 「見て見て。あそこ」 「……なに?」 高齢の男女が手を繋いで歩いている。 「なんか、可愛いよね」 「僕たちも、あんな風になりたいね」 二人が、見つめ合った。 「見て。あの人たち」 「……どこ?」 中年の男女が手を繋いで歩いている。 「なんか、気持ち悪い」 「生々しいな」

夜伽(あるいは彼女の生命力のために)

 夜。 彼女が死にたい、と言ってきた。 僕は物理的に死にそうなのだが(別にそれでもいいのだが、そして皆ふーんそうなんだ、ということになるのは目に見えている、まあいいや)。 世の中の法則。 僕はどうしても生き物を生かす方向に動いてしまう傾向があるので(まあ気に入らない奴はぶっ潰す傾向もあるが、結構危険だろうか?)。 まあようは悪魔なのである。 フヘヘ。 カッコつけても銃には敵わないので僕の銃口からはお花が飛び出す。 あるいは頭が吹っ飛ばされようが心臓が止まろうが僕の体からは植物の香りがする。 花を操る悪魔というのも結構厄介だ。 あるいはこんな奴はむしり取っておかなければと枯れ葉剤を撒かれたり放射能を食らわされたりするが僕は基本的に植物なので虫以外は敵ではない気がする。 何かの物語。 おまえ人間じゃねえ、と昔言われた(合っている)。 人を人たらしめるものはなんだという永久議題になるのだが(やたらスマホの調子が悪い僕の趣味まで邪魔されるような気がする、被害妄想)今日は二酸化炭素を吐いていたのでその罰かもしれない(人間サイドにいるんじゃねーよ人もどきが、と言われている気がする)。 あるいは同族殺し。 基本的に嫌な奴である。 つるんでいる人からも苛められる(教育的指導かな?そうだろう)オメーそうしねーと死ぬぞ、まあ死ぬのはテメーの勝手だけどな、と言われている気もする。 厳しい世の中だ(あるいは完璧に管理されれば楽かもしれないが)僕の回りの人は永久追放してあげようか?と脅してくる、これが結構キツイ。 あるいは外野でヤジ飛ばしてれば楽かもしれないが。 ファーストゴロを処理出来たときは自信がついたのだがサッカーでゴールを決めたときは皆に無視された。 僕の役目では無いのだろう。 あるいは僕は基本的にストライカーでは無い(確信) 背の低い電柱役かもしれない(そこにいると何かしそうで警戒されるという意味では)。 あるいは二重スパイ、システムの因子。 あるいはかすみ草になって歌舞伎町の薔薇たちの補佐をしていればいいのかも知れない(怖くて出来ないが)。 少女漫画に描かれている百合の花でもいいかもしれない(どっちなんだ) 体力が尽きてきたので夢で核燃料に腐葉土を混ぜる(テロの準備)。 彼女の生命力のために。

今日も酸素を吐いていた

 植物のようになってしまう。 酸素を吐いてしまう。 二酸化炭素を吐いていた方が皆と一緒に共存できるのに。 あるいは植物の管理をしながら。 それならイーブンだ。 知り合いがお休みなさいと言ってきたので僕は奴のうちにテロで二酸化炭素を送る。 気付いていないので夜のうちに酸素を吐いて貰おう。 僕は生物学は苦手である。 とりあえず税金分酸素を吐いて貰おう。 近くの場所の緑化である。 寝ていても稼げる(あるいは皆こぞって続いてやるのですぐ価値のなくなってしまう仕事である)。 南極に酸素を集めて(あるいは氷床は二酸化炭素だったか?はて?)もう一回南極の氷を増やす。 あるいは北極でもいいかもしれない。 北極熊の保護も兼ねているのでこれはいくらかお給料が環境保護団体から出るかも知れない(希望的観測)。 犬は架空のアルバイトで治験を終えまた動き出す。

昔告白した娘にノーマネーでフィニッシュ

 すごくひどい男だ。 所謂やり捨てだ。 僕は馬役。 運転が下手だったので場末のキャバ嬢になる予定だった僕はそのアッシー君と一緒に自転車で新宿署に行きストーカー禁止法を施行してそのアッシー君を区外へ出して貰う。 馬のいなくなった女流騎手は新しい男を見つけるだろう。 まだギリギリ間に合う年齢だ。

ファミレスが終わらない

宿題が終わらない。 三角形の面積も、登場人物の気持ちも求められたけれど。 「やっぱり、日記を夏休み初日に終わらせるのは無理あるって」 「文句言わないでよ。スッキリして過ごしたいでしょ?」 なんだか、未来を決めつけるような気がしてかったるい。 シャープペンシルの芯が、また折れた。 掃除が終わらない。 どうせ汚れるんだから、放っておけばいいのに。 「あんた、自分の家を掃除しなよ」 「無責任だから、綺麗にできるんだよ」 人を付き合わせてまで、することなのだろうか。 埃をどれだけ掃いても、チリトリに沿った線が残る。 ミーティングが終わらない。 どうせ二人なんだから、適当に決めてくれればいいのに。 「学校は民主主義の基礎。委員会は社会の基礎」 「また変な本読んだんでしょ」 黒板を好き勝手に使えるのは、ちょっと楽しい。 チョークはうまく消えなくて、袖に煙っぽさが残った。 ファミレスが終わらない。 ドリンクバーなんて置いてあるほうが悪い。 「ぶっちゃけ、もう話すことなんてないよね」 「あんたが言うんだ」 お金は、一応もう払った。 「ね」 「ん」 「ごめん」 「ううん、こっちこそ」 「……ごめん」 「ありがとね、いつも付き合ってくれて」 「ううん、一緒にいて楽しかったよ」 私たちは嘘つきだ。 嘘つき同士だから、よくわかる。 テーブルを立つとき、携帯が鳴った。 あの子が知らない友達から、明日の旅行のメッセージ。 「またね」 ファミレスを出るとき、そう言った。 あの子の顔は、もう見ないようにした。

夏の終わりに

「まだ暑いね」って、春に着ていたシャツの袖を捲る彼女との最後は、夏

【カシオ様】

これは2011年頃の思い出。 私は、スペインの小都市にある大学へ、1年間の留学をしていた。 真面目に勉強して単位を取れば、国がお金を負担してくれる国費留学だった。 私の学習の傍らには、常に電子辞書があった。 不明な単語や表現、文化背景や歴史まで、それで素早く調べられた。 もう紙の辞書には戻れなかった。 ヨーロッパ建築の優雅な、小奇麗なスペインの小都市の生活に少しずつ馴染んでいった。 3か月ほどして、スペイン人のホセという素敵な彼ができた。 日焼けして、サッカー好きで髭の似合う、日本の漫画が好きなスペイン人だった。 私たちは、バーでお酒を飲んでお互いの文化について話し合った。 アンダルシア地方へ旅行にも行ったし、サッカー観戦もした。 スペインの夕焼けを見ながら、身を寄せ合った。 「日本人の女性は本当に思慮深くて素敵だ。礼儀正しく、チャーミングで、理知的で、儚げで…」 彼のお決まりの情熱的なフレーズと、新調したフレーズが混ざり合う。 分からない言葉があれば、電子辞書で調べた。 彼の情熱と試みに備えた。とても心地よかった。 分からない単語や表現が出る度に、私の視線は彼と電子辞書の画面を行き来する事になった。 滞在して11か月が過ぎ、大学の単位も無事に取れて、帰国の時期が近づいてきた。 「ホセ君と私は…」 今後について考えていると、彼から先に連絡があった。 約束の場所へいくと、ホセ君がいくぶん神妙な顔で待っていた。 「バーに行こうか。」 そう言って、ホセ君が私の頬に2度のキスをした。 おかしい。 スペインでは、男女の友人が会った時、男性が女性の右と左の頬に2回のキスをする。 別れ際には、女性が男性の頬に2回のキスをする。 でも、恋人同士だと、会った時も離れる時も、1回のキスになる。 ホセ君とバーに行き、お互いビールを飲みながら話し始めると、案の定、別れ話を切り出された。 「君は、バケーションでここにいる。」 彼は私と過ごした時間が、いかに素晴らしかったを話したが、結局はスペインと日本で離れ離れになる以上、一緒にはやっていけないという論法であり、別れる事で決着した。 仕方ないという気持ちはあったが、やはりショックだった。 バケーションと言われた事も、遊びの関係を強調されているようで嫌だった。 それでも、彼と過ごした思い出を考えると、その場から動けなくなった。 ホセ君が「さようなら」と言い、バーを去った後も、私はしばらく机に突っ伏して、傍から見れば酔っ払いの様相で、しばらく時間を過ごした。 「続きは帰ってから泣こう。」 そう奮い立ち、バーを出て、借りていたアパートまでの道のりを、ふらふらと30分ほど、放心しながら歩いた。 「ああ、ホセ、なんという事、ホセ」 声の出ないオペラ歌手のように、悲しみに暮れ、悲壮なスペイン語でブツブツと言いながら道を歩いた。 「………あれ?」 ふと、悲しみの中で気づいた。 自分のカバンが軽い。何か、重要な物がない。分かる。 カバンの中を見ると、電子辞書が入っていない事を確認した。 あのバーに忘れたのだ。 別れ話であれ、私は電子辞書を挟んでホセ君と会話をしていた。 「やばい、やばい、ヤバい!」 私は、奇声を発し、踵を返し、どう歩いたか覚えていない道を、とてつもない速さで走って戻った。 すさまじい焦り、アドレナリンが血管をめぐる。 「どうか盗まれずに無事でいて…!」 30分フラフラと歩いた道を、8分で駆け戻った。 あのバーだ! 熊のようにガッチリした店員がいた。汗にまみれ、息も絶え絶えに叫びかける。 「私の電子辞書、電子辞書、見ませんでしたか!?」 店員は、電子辞書自体が何か分からなかったが、思い出したようにカウンターの中を調べ、銀色のものを差し出した。 「これの事かい?さっきテーブル席で見つけたよ。」 そう言って、スペインの滞在で最もお世話になった、知識の宝庫とも言えるモノを、大きなてのひらに載せて返してくれた。 「ああ、ありがとう!ありがとう…!!」 私は、それが無事であり、再度巡り合えた事で、そのツールの有り難さに感激した。 そして、ホセ君の事は頭からすっぽ抜けて消えていた。 ホセ君は優しかった。終わりを見据えていたから。 文化や生活を教えてくれた。彼自身の不正確なフィルターを通して。 その点、電子辞書は、常に的確であり、正確さの点で誠実なのだ。 異文化であっても、異言語であっても、これ以上の安定感はなかった。 こちらが忘れなければ、別れられる事もない。 なんてありがたい存在…。 「ああ、カシオ様、カシオ様、これからも私にたくさんの知恵と知識を授けてください!」 …私は、強い女だ。

ハロウィンの思い出のようなもの

 大きなかぼちゃの中身をくりぬいて、ナイフで目や鼻や口をつくっていく。不器用なわたしは、ジャックの顔かたちをうまく表現できず、あげく、自分の手にキズをつくってしまう。 「あらあら」  そばでみていた魔法使いでもあるわたしのおばあさんが、慣れた手つきでさっとキズができる前まで時間を戻してくれる。 「もう一度。ゆっくりね」  おばあさんは、いつもわたしにやさしい。それでいて、ちゃんときびしい。ある男性とお別れしたとき、そのことの前まで時間を戻してはくれなかった。きちんと受け止めなさい。そう教えてくれたのだろう。それでなければ、何度やっても同じことになってしまうと。  やり直しの末に、キズをつくることなくランタンは完成した。ゆっくりでも、慎重にやれば、できるものなのだな。そのことをわたしは知っている。あのとき心にできたキズだって、時間を戻さなくても、もと通りにすることができたのだし。

アイコノクラズム

僕の祖父は、不思議な人だった。彼は”アイコノクラズム”というみょうちきりんな名前の神様を崇拝していた。 「アイコノクラズムってなんなの?」 僕がそう聞くと、祖父はいつも僕をこう叱りつけた。 「こら、その名前の意味を軽々しく聞くな」 そのせいか、僕の”アイコノクラズム”への興味は段々と膨らんで行った。しかし、祖父は、僕がインターネットや辞書でそれについて調べることを強く禁じた。 「アイコノクラズムってなんなんだ?」 僕がその意味についてぐるぐると頭を巡らせている間にも、祖父の"アイコノクラズム"への信仰心は日に日にひどくなっていき、終いには親戚中に"アイコノクラズム”様の教えを布教しようとするようになった。父をはじめとする親戚一同は、これに腹を立て、彼と縁を切ってしまった。もちろん僕も祖父とはそれっきりだ。それからというもの、孤独となってしまった祖父は次第に生きる気力を失い、今から半年前に孤独死した。僕は彼の葬式の夜に、こっそり"アイコノクラズム”について調べた。その意味は”偶像破壊”。今考えると、ある言葉を偶像として崇拝した結果、自分の人生を壊してしまった祖父にとって皮肉な言葉になってしまったなと思う。

【プレゼント】

今日は僕の誕生日。  彼女はきっと僕にプレゼントを用意している。 前の彼女の誕生日、僕は彼女にシャネルのバッグをプレゼントした。 彼女は頬を赤らめ、「そんな…何をお返しすればよいのかしら。」と言った。 僕は優しく、「君に触れたものであれば、何でも嬉しいのさ。」なんて、カッコつけて言った。 きっと今日まで、彼女は僕に渡すプレゼントで悩んだに違いない。 何をもらっても嬉しいけれど、一番嬉しいのは、彼女自身が僕のプレゼントになってくれる事だ、なんてね。 …さてさて、その男は有頂天で待ち合わせ場所へ向かった。 きれいな夜景が見える場所だ。 彼女はすでにいた。 ゴージャスで見栄えのよい服、きれいなロングヘアーをなびかせていた。 男は彼女に駆け寄り、「今日も素敵だね。」と彼女を称えた。 彼女は、「ありがとう」と、万人が恋をするような笑顔で言った。 「あなたに素敵なプレゼントがあるの。受け取ってくれる?」 上目遣いでそう続けた。 男の心は踊り、もしかすると、彼女が自分のものに…そう夢見心地になった。 彼女は男の手に自らの手をゆっくりと重ね、一枚の何かを手渡した。 男は、それを見た。 銀紙、何かのフタの裏側だった。 「これは何だい?」、男は尋ねた。 「3個入りのヨーグルトのフタよ。」 「どうしてこれを?」 「君に触れたものであれば何でも嬉しいと言ったから。」 「どこに君が触れた要素があるんだい?」 女は、フフッと笑い、舌を見せた。 「裏側は、私が舐めとったのよ。」 よく見ると、舌にヨーグルトの白色がついている。 男はまじまじと裏側を見た。 「もちろんそれで終わりじゃないわ。あなたへの大切なメッセージがあるの。」 男は、それもそうかと安堵した。シャネルのバッグまで買ったのだ。 「表を見て。」 男がフタの表を見ると、乳房の大きい牛のイラストがあった。 小さな文字で、何かが書かれているようだった。 男は、愛の言葉が小さく書かれており、その後に本当のプレゼントが待っているのだと、思った。 男は文字を読んだ。 「モォー、モォー、限界なんですぅ…♪」 男が読み終わると、女はキャッキャと笑い、彼の腕を掴んだ。 「まさか、これで終わり?」 男は愕然として言った。 女は真剣な面持ちになり、彼の鼻に指を立て、なだめるように言った。 「あなたの限界はどこにあるのかしら。今のあなた、とっても素敵よ。」 男は、吐き出しかけた失望と怒りを、すすすっと飲み込み、必死で作った笑顔でこう言った。 「限界なんて、あるはずないじゃないか…。」 その後、大事にヨーグルトのフタの銀紙をしまい、彼女の店でドンペリを入れる事になった。

【舟】

ある男は舟を漕ぐ。 その舟は男に応え、男が漕ぐと、その動きに合わせて彼を進ませた。 男は、舟を扱う事で満足をしていたが、少しずつ舟が古くなり、自らの漕ぐ力を増す必要がある事に不満を抱くようになった。 ある時、疲労感の限界か、もしくは退屈か、彼の中に限界が訪れた。 「もういい」 彼はオールを投げ出し、湖の真ん中で目を閉じ、寝そべってしまった。 彼には十分な食料があったが、何をする気も無くなってしまったのだ。 どれくらいの間だろうか。 うっすらと目を開けると、彼は周囲を見回し、目に映るものにハッとした。 月が優しく照らしていた。 また、両岸に豊かな花をつけた、木々が目に入った。 「なんと豪華で美しい。』 また、身を乗り出し、静かな水面を見て、力強く泳ぐ魚が目に入った。 「なんと優雅で、活き活きとしているのだろう。」 彼は、それらに心を奪われて、すっかりと舟を漕ぐ事を止めてしまった。 夜には月を見上げ、両岸の木々花々の見せる四季折々の佇まいが、彼を飽きさせなかった。 昼の太陽の眩しさも、夜を待つ楽しさに置き換えられた。 水は彼の傍らにあった。彼を潤し、呼吸を整えてくれた。 男は食料を魚たちへ与え、魚たちは男の周囲へ押し寄せた。 それらに囲まれ、かつての心を取り戻したかのように幸せであった。 しかし、ある時、突然の出来事が起こった。 舟に穴が空いたのだ。 修復しようとも、水を掻き出そうとも試みたが、水の侵入は止まらず、少しずつ舟は沈み始めた。 「助けてほしい。」 男は誰ともなく懇願した。 月は優雅に、両岸の美しい木々は、佇むのみであった。 沈んでいく中で、男は気づく。 舟のお陰でこれらの楽しみを享受出来ていたのだ。 男は、なんとか対岸まで泳げないか試みたが、優しかった水は、淡々と男の力を奪い、ついに男は溺れてしまった。 光が少しずつ届かなくなり、息も絶え絶えというところ、魚が彼の肉に食い込んだ。 鈍い痛みを感じた後、さらに数匹、数十匹と魚が同様に男に食いつき、男の臓腑を食い破った。男は悲鳴にならない悲鳴を上げた。 意識が消え、自然に還った後は、何も残らなかった。 水の上では、彼の残した食料を、別の魚たちが、食い、奪い合う事となった。 役割のなくなった舟の残骸、木片は、静かに、あてもなく水の上をただよった。 男が居なくなった事で、木片は【舟】という役割から解放されたのだった。

初冬

ずいぶん寒い日だった おまけに風も強かった 最後のメッセージには いつまでも既読がつかない 下ばかり見ていた よく人とぶつかった 小銭は落ちていない たばこの吸い殻が目障りだ 久しぶりに空を見上げたら あのときと同じ雲だった 静止しているのは わたしの時間か それとも 思考か 世界だけが やけにうるさい

スカート

 性別に負い目を感じながら履くスカートだ。それはまるで世界の裏側に迷い込んだ感がある。裾は長く、下方に行くに従いふんわり広がっているほど良い。ネットショッピングで購入した無地でネイビーのマキシスカートは僕のお気に入りだった。(というよりこの一着しか持っていない)  正直オシャレはまだよく分からない。雑誌やスマホで調べて、カジュアルなコーデが今の自分に合っていて再現性もある気がした。オーバーサイズの白いロゴTシャツにナイロンの黒いブルゾンを合わせてみる。身長はあるが華奢な方なので顔さえ何とかすれば、いける。鏡の中の自分を見ては何度も確信した。いやほんとかよ。鏡の中の世界ほど巧妙な虚構はない。ブルゾンから覗くTシャツのロゴの一部が目に入った。左右反転したLIVE。  セミロングのかつらにマスク、厚底の白スニーカー。武装完了。息をついて立ち上がる。玄関扉のドアノブに手を掛けた時、胸が高鳴っていた。相反する不安も沈めていた底から舞い上がってくる。これから僕は何の変哲もない日常に溶け込まなければならなかった。意識的にそれを実行しなければならなかった。ひとまず近所の公園まで行く。ただの散歩である。扉を開け、敷居を跨いだとき、空気が痛いほど澄んでいた。剥き出しの世界が呼吸している。この姿で外に出るのは初めてだった。  平日の午前10時。忙しない朝も落ち着き、ご近所さんもほとんど見かけない時間帯である。誰にも会いませんように。深い海の底を歩いているようだった。太陽が青い布地を破いた穴のようだ。それにしても住宅地の立ち並ぶ一軒一軒、屋根や外壁に形や色の違いはあれど、皆一様に見えるのはなぜだろう。人ん家の中を覗いてみたい。この通りには小さな庭が前に突き出た家がある。真っ白で清潔な家だ。芝生もいつも刈り込まれている。その庭の奥から綺麗な毛並みのラブラドールレトリバーが駆けてくる。こいつはいつも庭の前を通る者を見逃さない。柵に身を乗り出しては、舌を出してこちらを見つめてくる。よし撫でてやろう。頭を垂れて目を細めてやがる。どうだ今日の僕は。やっぱ変?変態?ここの家の主人を僕は見たことがない。  というより、誰もいない。誰にもすれ違わない。平日の午前ってこんなものか?もしや僕以外の全ての人類が神隠しにあったんか?家庭菜園のトマトはこんなにつやつやしてるのに。街に出れば同じサボりと出くわすだろうか。  あれこれ思考を巡らせているうちに公園に着いてしまった。小さなちいさな開発公園です。端っこのベンチに座って、ここに至るまでの平凡な道中を思い、へぇぁ、と気の抜けた声が出た。何かが起こると思ってたのかしら。誰かとすれ違ったり、声をかけられたときのスリルを期待してたのかしら。いや違う、そんなんじゃない。まだ言葉には出来ないけれど。まあみんなアトランタにでも避難したのだろう。もういいから襲ってこいよゾンビ。ミラーワールドに迷い込んだ可能性もある。恐る恐るTシャツのロゴを覗き見る。上下反転してるだけの、LIVE。

手向け

 後悔ではなく事実だ。ハロウィンというものを通ってこなかった。そういう人生だった。仮装も、パーティも、オレンジ系の飾りつけのそれぞれにしても、わたしの前には登場してこなかった。あらわれてくれるな、わたしが仕向けていたともいえる。いずれにしても、でもそれは、たぶんに都合がよかった。誰もわたしの部屋のドアをたたく者はなく、だから、お菓子をあげることも、いたずらをされることもなかった。平穏に生きていられた。  タイムマシンである地点に戻って、あるいは、すごろくでふりだしにまで戻されて、もう一度、人生をやり直してみたい気持ちに、なることはすくない。またあれをやらないといけないのか、そういった心持ちになってしまうのだ。だから、寝て、起きて、お砂糖のように真っ白で、心根にしても欠けているところのない無垢な子どもの姿になっていたとして、それでもきっとわたしは、ハロウィンの上を歩いていかない気がする。  お菓子をねだられるのは嫌だ。自分ですべてたべてしまいたい。いたずらをされるのはもっと嫌だ。お菓子をたべながらいたずらっ子たちが去っていくのを待つしかなくなる。かぼちゃの中身をくりぬいてしまうのも、ドレスを着るのも、頭に飾りをつけるのも、みんなとワイワイさわぐのだって、きっと、わたしはしないのだ。ほっぺにドクロを描いている女の子を、うらやましい目でみる必要に迫られないのは、だから、幸福なことだ。  嫉妬かもしれない。いや、それはない。不遜だ。はなはだ不遜だ。ああいうふうに生きたいわけじゃない。ほかの世界のデキゴトだ。 「せいぜい別の世界でがんばってくれたまえ」  と、これは、自分への手向けの言葉だ。

裏ドラフト会議

都心の貸会議室に、スーツ姿の男たちが集まった。 「だいたい揃いましたね」 司会の声に、それぞれが椅子を引いた。 「では、始めたいと思います」 「すみません」 資料を見ていた男が手を上げた。 「これって……?」 「はい。今日はテレビ中継と、球団のイメージ戦略についての会議です」 小さな笑いが起こる。 「局側が、もう少しドラマが欲しいと……」 「どういうことですか?」 「今年は、なかなか難しいそうです」 ため息と、資料をめくる音が続いた。 ──ガチャン。 「いました」 額の汗を拭いながら、スカウトが入ってきた。 「母親がパートを掛け持ちして、五人の子どもを育ててます。その長男ですね」 「いいじゃない。で、野球の実力はどう?」 「まぁ、何とかなるでしょう」 「局には、この子で時間をつないでもらうとして……」 すると、腕を組んで座っていた年配のスカウトが手を上げた。 「こういう子はいいね」 その言葉を合図に、スタッフが抽選箱を机に置いた。

Wednesday✕メガネの彼

駅のホームで、遠くの山を静かに見つめるメガネの彼 今、彼は何も考えていない 流れ行く暗い雲と、夜と太陽に青を奪われていく空を眺めながら、時間を潰している 感情は動かず。それが彼を落ち着かせている ホームで響く誰かの足音が8ビートに聞こえる 無意識でスティックを探してしまうメガネの彼 風が冬を乗せてきても、彼はソレを、ただ眺めている 柱のように立って、微動だにしない。 アナウンスが入り、電車がホームに入ってくる間近、列から出てきた子供が線路に近づく、楽しそうに、笑いながら。 彼は、メガネのフレームに遮られながら子供の気配を感じ、咄嗟に体が動く 同時に、母親が強く子の手を引き、危ないと叱っている 心が一瞬、時間で言えば点の所で激しく動いた。 電車が川のように流れてくる。 車内は時間が止まったままの人々が座っている メガネの彼はまた前を向き、ただ電車が止まるのを待っている。時間が止まったように

不用意な、あるいは、お昼休みの天使の話

 わたしが悪かったんだと思う。わたしが不用意に「天使の使い」と口にしたら、 「え?天使の使い?天の使いじゃなくて?」  ひとりが言って、 「天使の使いでいいんじゃない」  またひとりが言って。 「天使って天というか神さまの使いってことでしょ。使いの使いってこと?」 「子分の子分みたいな?」  わたしのアタマはこんがらがってしまった。そもそもどういった経路をたどって天使の話になったのかを、いまのわたしは思い出せない。思い出す必要はないようで、だから思い出さない。  お昼休みにお弁当を食べながらする会話なんてそんなものだ。駅に行く途中のさ、パン屋あるでしょ。ああ「すずベーカリー」だっけ。あのお店でたまに見かけるんだけどさ、青い服のさ。大学生とか。わかんないけど、なんかいいなって。出たっ、その、なんかいいなって。そんなに言ってるかな。言ってるよ。青い服の人に気持ちもってかれるの多いよなあ。青じゃない服の人いいなって思うこともあるでしょ。えええ、これまであったかなあ。これまではなくてもこの先はあるでしょ。でもそれってきっと気のせいかもね。わたしがウインナーとポテトサラダとレンコンのきんぴら?みたいのとプチトマトとごま塩のふられたごはん、それらとしずかなやり取りをくり広げているときに流れていた会話は、でもやっぱり、もう思い出せない。  思い出すことも、おぼえていることも、しなくていい。天使の使いについては、だから、永遠に、よくわからないままになるのかな。

Wednesday✕ロン毛の彼

太宰の小説を一つ読む あまり手応えがないがもう二つ 家で朝を待つだけの時間に 水と本を飲んでいく 朝が来て窓の外で鳴く雀に 「ちょっと分かんなかったな」 と伝える 「気にするな」 と雀が言う 朝日が注ぐ部屋の中で飯も食わずに腕立てをする彼 汗もかけずに床に倒れる そのまま眠る 洗濯機のタイマーが作動してモーターが唸りを上げる 彼の中のモーターも馬力を上げていく 充血した自分の目を鏡に映しながら歯を磨いていくロン毛の彼 髭もサマになってきた 息を一吹き 白いノートに歌詞を書き上げていく ギターに合わせて雀も歌う

Wednesday✕キャップの彼

キャップの彼は歌を歌う 戦争が起こっているよ。 大変だと思わないかい? 皆はどう思う?と キャップの彼はカレー屋でカレーを食べている。 今の彼は美味しいカレーを追い求めている。緋色のスウェットに毛玉を携えて。 風が冬を乗せている 毛のない頭に冬を残す Jazzmasterが沈んでしまう 「それでもいい」とキャップの彼は歌を歌う

かぼちゃの馬車に乗れなくて

 かぼちゃとは、なかをくりぬいてランタンにするものではなく、馬車にして乗り込むものだと疑うことのなかったわたしは、十月の終わりにある奇妙で、本来のものとはかけ離れて広まったそのイベントを、ありのままに奇妙そのものと考えていました。  さわげればなんでもいいのですね。日常のなかに非日常をさがし求める労力。出会ったその非日常に疑いを向けることなく信じていられる方向のまちがった熱意。自分と同等程度の思考をもち合わせている友人。わたしにはそのどれもが欠落しているらしく、でもそれが、幸福なことのように思えてなりません。  人が乗れるまでに育ってくれなかった小さなかぼちゃは、スープにされてしまう運命です。人が履いた靴の裏でその身を汚されることと、ぐずぐずになるまですりつぶされ冷たいお皿にべちゃっと広げられるのと、どちらが不幸なことなのでしょうか。わたしには少しの見当もつきません。  オレンジ色が好きではないのかもしれません。オレンジ色の飾りから目を背けたいのかもしれません。お菓子は魅力的ですが、いたずらっ子や魔物たちに囲まれながら食べたいとまでは思いません。参加することは、ないと思います。かぼちゃの馬車に乗れるというのなら、気持ちはゆらいでしまうかもしれませんが。  暑さのすぎ去った秋の夜は、しずかに本を読むことにしています。人とかかわるよりも、お月さまにみまもられながら本を読んでいることが、わたしのこころにはひどくおさまりのいいものです。本の横にミルクティーがあればそれでよいのです。とっても熱いミルクティーでしたら、なおよいのですけれど。

年越しウォーズ2020

「たぬきだろ」 「きつねに決まってるわ」 「またやってるのかお前らは」  テレビのチャンネルは紅白にセット完了。熱湯の煮えたぎる鍋には蕎麦を投入済み。茹で上がるのは時間の問題だ。  のんびりこたつの中で蕎麦を啜りながらテレビを見る為には、そろそろ決着をつけさせないと時間がなくなってしまう。 「あのさ、もう間を取って鴨南蛮にしたらいいんじゃね? な?」 「鴨はすっこんでろ。燻製にするぞ」 「焼き鳥にしてやろうか?」 「無駄に息ピッタリなとこ見せやがって……!」  こちらに罵声を浴びせたあと、狸と狐は再び睨み合いに戻ってしまった。紅白開始までは、残り三〇分だ。 「いいか狐野郎。お前油揚げが好物って散々言われてきただろ。なのに年越し蕎麦できつね蕎麦を食べんとはどういう了見だ」 「お前こそなんだアホ狸? 狐が油揚げを好むなんて夢見てんじゃねぇぞ。大晦日に食べる蕎麦は揚げ玉をしっかり載せたたぬき蕎麦、他の選択肢なんてあり得てたまるか」  きつね蕎麦が食べたい狸とたぬき蕎麦が食べたい狐。話し合いは平行線のまま、紅白開始のカウントだけが進んでいく。残り時間はあと一〇分になってしまった。 「お前らほんともういい加減にしろよ……鴨南蛮の何がいけないんだよっ!」  鴨南蛮もめげずに推してみるが、これに対する反応も全く変化していない。  残り五分となったところで段々馬鹿らしくなり、仲裁を諦めることにした。鴨南蛮を手にこたつへ陣取り、更に買ってきた海老天を添える。ガサガサという音に反応して狸と狐がこちらを向いた。その瞬間、海老天を捉えた4つの瞳が大きさを増した。 「お、おい鴨野郎……お前が持ってるそいつはもしや……」 「まさかお前……一人で海老天を食うつもりじゃあるまいな…………?」  ギラギラと光る目玉達は、ジリジリと少しずつ海老天への距離を詰めてくる。先程言い争いをしていたときよりも更に目が血走っている。 「おっおおお落ち着けや、な? お前らにも一口ずつくらいはやるから……」  二〇二〇年の最後は、海老天(尻尾)のみが載った鴨南蛮で終わりを迎えた。

言葉の拾い集め

濡れた線路 頭の鈍い痛み 息子の踵 夜通しの充電 優しい花 白い空 切り途中の髪 人参の傷み 昨日の後悔 昨日の再会 スマホの重み 皮膚のカサつき 出費の項目 皆困っている 皆話を聞いて欲しがっている 皆優しくして欲しがっている そのくらいなら僕にも出来る 始まらない物語 掴めない詩 死んでもいい人 皆と別れの頃合 すれ違う電車 最後に会いたい人 向こうで会いたい人 幸せにいてほしい人 気軽に守れる人 雨の行方 あの日まではここにいる 手に残る感触 案山子を知らない案山子 低く丸いベース音 楽しいは自分のもの 上手いは相手のもの 買い食い欲を殺す 最初で最後の日

デジタル遺言書

「こちらが、お父様からの遺言で御座います」    男は、弁護士から送られてきたURLを受け取った。  それは、最近流行りのデジタル遺言書。  Webサイトからいつでも書けることと、暗号化されているのでURLを見つけてダウンロードされても内容を読まれる心配がないことから、最近流行のサービスだ。   「ありがとうございます」    弟は、集まった兄弟に視線を向けた後、URLをタップする。  更新される画面に、一同の視線は集中する。       『 【重要】当サイトの一時閲覧停止について 』        そして、皆で仲良くずっこけた。   「停止中!?」 「アイエエエナンデエエ!?」 「親父の遺言は?」    弁護士は、表示された画面を確認した後、「ああー」と諦めたような声を出し、眼鏡をかけ直す。   「これは、最近ニュースになったPHPの脆弱性対応ですね」 「脆弱性対応!?」 「遺言のお話は、脆弱性対応が直った後ということで」 「いつ? いつ直るんですか?」 「さあ。私は、システムの専門家ではありませんので」    弁護士が持って来ていた暗号を解除するプログラムも、ダウンロードできないのでは無用の長物。   「なんて日だ!」    男はスマートフォンを握りしめ、天を仰いで叫んだ。