彼の部屋

 コンタクトを外して周りを見る時間は短い。私の顔が朧げに映る鏡から視線を外すと、少しの間だけ、私は世界の本当の姿を知る。  文字がふやけて、輪郭がボケて、細かいニュアンスは潰れている。水中にいるみたい。私はそこで、一人だけ溺れている。  固く締められた蛇口に手をかけ、グッと力を込めて回す。  一息に飛び出した飛沫が、手のひらから跳ね返って頬にまで散る。お湯に切り替わる途端にその勢いが弱まるので、いつも蛇口をいっぱいまで回してしまう。  バシャバシャという音が徐々に弱まって、温かいお湯が手の平に溜まりはじめた。強ばっていた身体が緩む。  まだ水の名残のある、いくらかぬるいお湯に背中を屈めて顔を浸す。そして、空気を吹き出さないように気をつけながら静かに息を止めた。  十秒、二十秒、三十秒。時間を追って耳に響く鼓動がどんどん大きくなる。お湯は、指からすり抜けて無くなってしまっているけれど、関係ない。一分、一分半。  やがて観念して口を開けてやる。肺が求めるのに任せて大きく息を吸う。  溺死する人間は、人生で最も過酷な苦痛を味わうらしい。時々、意味もなく呼吸を殺してはその苦しみを想像する。  数秒でも痛みを知れば今を耐えることもできると、そう信じている。  洗面台や浴槽、ベランダ。一人きりになれる場所で使う時間が以前よりもずっと増えた。  「世界一の愛情の裏返しは殺したいほどの憎しみ」近頃、ドラマで聞くようなセリフがずっと頭の中にある。それなら、レスになって久しい私たちの関係は、裏返しても程度の知れたものにしかならないのだろう。  リビングに戻っても彼と顔を合わせる事はない。2人で借りている部屋。だけど今、ここには私の居場所はない。 「お昼、家で食べるの? 何か買って来ようか」 「外で食べてくるから俺は良いよ。カナの分だけ買ってきな」  一緒にいる時間が減って、彼は私のことなど見てはいないことを知った。  「つれないね、今から会う子とは楽しい?」  静かにスマホを見ていた彼の指が止まる。 「なに勝手に見てんだよ、関係ないだろ」  ぶっきらぼうな口調で脅かしてくる彼が、いつから浮気をしていたかは分からない。でも、私たちがギクシャクしてきた時期を境に、彼の態度は露骨に変わった。  今ではもう、お互いに繕うこともしなくなった。これまで積み上げた引っ掛かりだけが、辛うじて私たちを繋ぎ止めている。 「私たち、仮にも付き合ってるじゃない。それだとマナーが良くないって話をしてるだけ」  人前であまり愛想良くできない私が、彼と付き合いはじめたのは就職する少し前。  社会に出るといつも小言をもらって帰っては、ダメな自分に落ち込んでいた。職場で肩身が狭い私の居場所はこの家で、彼が慰めてくれる時間が救いになっていた。  「大変だったね」「気にしなくていいよ」「よく頑張ってる」彼は親身になって話を聞いてくれて、何度も何度も私のことを支えてくれた。  でも、彼にとっては他の女の子にもしてきたことで。隣でニコニコとしているなら、それ以上の区別なんてない。 「なんで俺に口答えしてるんだよ」  彼はスマホを置いて、私の方に顔を向けた。だらしない彼の伸び放題の髪から、見たことのない怖い目がのぞく。 「お前は俺の言葉に逐一、はいはい頷いて大人しく従っていればいいんだ」  パン。甲高い音が響く。遅れて左頬に鈍い痛みが追ってくる。  殴られたんだと気づくのに少しのラグがあった。  イライラする、と呟いて彼は部屋を出ていった。二人で出かける時は鍵も財布も持たないのに、そのどちらも律儀に持って出ている。今夜は帰ってくるつもりがないのだろう。  彼と作ってきた私だけの居場所は、いつか他の誰かに奪われていた。  彼は元より、細々とした小物で飾ったこの部屋も、そこで過ごした時間も、私の人間性までも持ち去られた。そんな、空っぽな気持ちだった。  もう一度、洗面台へ向かう。何遍も水をかけては患部を冷やした。 「痛い」  口を開くと、赤色の混じった唾液が鏡に映る。舐めて、鉄の味を感じ取ると、コップから含んだ水で洗い流す。  それなのに悲しい私は、ジリジリと流れてくる血を、その度に丹念に舐め取ってしまう。だって私がこれを受け入れてしまうのなら、あまりに都合が良い。  けれど、新しく居場所を作っていけるだけの強さが、もう私にない。誰だか分からない一人になって、彼に取りすがるしかないんだ。  私は、ヒヤリとした洗面所の板間にうずくまる。外から庇うように頭を抱き込んで、滑らかな指の腹で撫でる。  痛む左頬が、チクチクと優しい感覚になって、私の中に馴染んでいった。

石を投げるとすっきりする

 崖の上に立って、そこらへんに転がっている石を海に向かって投げる。    石は、弧を描いて、海に落ちた。  ポチャンと言う音は、波の音にかき消されて聞こえない。   「ああ、地球って重力があるんだなぁ」    ポチャンと言う音を聞くため、さっきよりも大きい石を投げる。    石は、弧を描いて、海に落ちた。  ポチャンと言う音は、波の音にかき消されて聞こえない。   「ニュートンってスゲー」    ポチャンと言う音を聞くため、さっきよりも大きい石を投げる。    石は、弧を描いて、海に落ちた。  ポチャンと言う音は、波の音にかき消されて聞こえない。   「音とは波。波が並の音にかき消されている。くそわろ」    ポチャンと言う音を聞くため、さっきよりも大きいぼくを投げる。    ぼくは、弧を描いて、海に落ちた。  ポチャンと言う音は、波の音にかき消されず耳に届いた。   「そういえば、深海ってまだ未知の部分が多いんだっけ」  ぼくは沈んだ。

似て非なり

 ひらひら舞い落ちる桜が綺麗な春だった。  中一、初めて知り合う者同士交流をはじめたクラスメイトたちをよそめに。  自分から誰かに話しかける勇気のない、人見知り人間がすることといったら、こんな風にノートの端っこに絵を描いて休み時間を潰すくらいだ。  消しゴムでゴシゴシと余分な線を削ぎ落していたら、机の上に置いていたシャーペンに肘がぶつかり、コロコロと床に転げ落ちた。  斜め前に落ちたそれを拾おうとしたら、前の席の子が拾い上げてくれて私の方を振り返る。 「見て? 私も同じの持ってる~!」  ホラと筆箱から取り出して彼女が見せてくれたのは、私が落とした水色のと色違い、迷って止めたピンク色のシャーペンだ。 「これ、キラキラしてめっちゃ可愛いよね」  え? 可愛い?  彼女は言うなり、窓の方に二本のシャーペンを掲げて陽に透かす。  中がクリアなそれは、サンキャッチャーのように陽を集め、キラキラと虹色の光を壁や天井に乱反射させている。 「ね、可愛いでしょ?」 「あ、うん」  可愛いというかキレイだなって思ったけれど、彼女――後にクラスで一番仲良くなった千尋の笑顔に釣られて私も笑ってた。    不思議な感じだった。  いつも、いつだって、私と千尋の趣味は被ってしまう。持ち物やイイなって思う男の子まで。 「桜井くんって、可愛いよね」 「え? かっこよくない?」 「もしかして、朱音ちゃんも?」 「もしかして、またなの?」  互いの顔を見て噴き出した。もう彼女のいる人だし、ミーハーにキャッキャと騒いでいるだけで失恋には程遠いからこそ、笑えるけれど。それ以上に、好みの男子まで似てしまう自分たちの気の合うことに、もうそれほどの驚きはなく笑い転げるだけだ。  まるで双子みたいだね、と周りの子達は私たちのことをそう呼ぶ。一つにまとめたポニーテール、身長や体型、肌の色、後ろから見たらどっちがどっちかわからないよね、と笑われる。  示し合わせたわけでもないのに、妙に似ている持ち物たち。ただそんな中でも好みはあって、暖色好きな千尋と寒色ばかり選ぶ私。 「こっちの方が可愛くない?」  小首を傾げてカバンについたオレンジ色のクマのキーホルダーを見せる千尋に。 「いや、どう見てもパープルクマのがクールでかっこいいでしょ」 「かっこいいって、朱音ちゃんの感覚っていつも不思議よね? クマちゃんは可愛いものだと思うけど」  わけがわからないと困ったような笑いを浮かべた千尋に対して、初めて心の奥に生まれた灰色めいた感情をなんて呼ぶのだろうか。  そもそも、可愛いだけが正義なの? 確かにピンク色のお家に住むネコちゃんキャラは、そう言っていたけれど。  かっこいいって思って選んじゃダメなの?  選んだものを、選んだ理由を、千尋に否定されるたびに、灰色は少しずつ少しずつ墨汁を混ぜ込むみたいに黒くなる。 「朱音ちゃんと同じ高校に行きたい、絶対そうする!」  中二までそう意気込んでいた千尋を、曖昧に笑っておきながら出し抜いた。  千尋が気付いた時には、もう追いつけないところに私はいて、最初に希望していたとこよりも二ランク上の高校を受けることにした。  高校生になったら一緒にライブに行こうね、と約束をしていた、二人が大好きなバンド。音のかっこよさに惚れた私と、ボーカルくんの可愛い顔が好きだという千尋。やっぱり噛み合わない。一個ずつイヤホンを分け合いながら、その音源を聞いている間中、千尋は泣き出しそうな顔をしていた。 「やだな、朱音ちゃんと離れるの」  唇を尖らして私がランクを下げて、同じ高校にしてほしいとおねだりする千尋の頭を撫でた。 「大丈夫だよ、千尋ならすぐに友達ができる」  微笑んだ私を一瞬睨むようにして唇を噛んだ千尋とは、卒業まで側にいながらも、お互いどこか違う方を向いていることを感じ取っていたと思う。  じゃあ、またね、と卒業式はお互いに笑顔で別れた。そのまたねがいつになるかはわからないし、もうないかもしれない。  予感は的中で、お互いに連絡を取り合うことはなかった。あんなにも毎日一緒にいたというのに。  二年後、ショートカットになった私は、視線を感じて周囲を見渡した。  小路の向こう、ロングヘアで彼氏と腕を組み甘えたように歩く女の子の背中は千尋に似ていた。  私の持つ紺色のリュック。その色違いの白いリュックを背負った彼女に、懐かしさとほんの少しの痛みを感じて、あの日千尋がしていたみたいに唇を噛みしめる。  黒ではなく、白に近い、ツンとした切ない感情を寂しいというならば、今がそうだ――。

崖の上から僕と女の子は石を投げる

 ある朝、僕が崖の上に瞑想しに行くと、見知らぬ女の子がいた。  いつもは誰もいないのに。  僕しか知らないと思っていた。この場所。  海浜公園と繋がっている森を抜けると出れるこの場所は、海に面した崖だ。  落ちたら多分やばい。  ていうか、女の子……落ちに来たりは……してないよな。  とりあえず目を離さずに、僕はいつもの定位置に向かった。  といっても定位置が女の子のいる位置とほぼ同じなのだが。  丸太が置いてあって、その上に腰掛けるのが常なのだ。  まああの丸太に関しては、僕の方が古参なので、堂々とお隣に座らせてもらうことにしよう。  というわけでどっしり隣に座ったら、めちゃくちゃ驚かれた。 「うえええ」 「気にしないでくれ。いつもここに座りに来る者だ。今日もそれをしに来ただけだ」  随分と図々しい言い方になってしまった。  さらに引かれる恐れあるぞこれは。 「……飛び降りる勇気ないの?」  いや全然引いてなかった!  ていうかなんてこというんだこの女の子は。 「あのな、まず僕は飛び降りるために来てるんじゃなくて、考えごとするために来てるんだよ」 「あ、そうなの? 私もそれだわ」 「そうなのな」  よかった。女の子も飛び降りたりはしないらしい。  とはいえ油断はしないぞ。  突然なんか動き出した時に止められるようにせねば。 「……お兄さんって」 「おお」 「なんか辛いことあんの?」 「まああるさ。会社とかな」 「あ、ブラック企業ってやつか!」  そう言って女の子は笑った。え、言葉の響きからして笑う要素ないじゃん。 「まあな。暗黒だ」  とりあえずそう答えといた。ほんとだし。 「……」   「……君はなんか辛いことあるの?」 「そう! そう訊き返してくれなくちゃ」 「はあ」  なんだこの女の子結構偉そうだな。 「でね、辛いことはあるよ。ていうか辛いことがないのにここ来る人いるの? こんなただ崖から海を見下ろすだけの場所に」 「たしかに、それはある」 「でしょ」  そして沈黙した。波の音だけが、沈黙せずにちゃんと岩を削っていた。 「……」 「ねえ、辛いこと言い合う大会しない?」 「お、いいよ」 「ちゃんと競いますから」 「ガチな勝負なの?」 「うん」  女の子はうなずいて、立ち上がった。  そして石をたくさん拾ってくる。 「はい、十個ずつ」 「ありがとう」  たくさんの石は、女の子に十個、僕に十個配分された。 「ルールは簡単。相手の話を聞いて、つらいと共感したら石を海に投げる。先に手持ちの石が無くなったら負け」 「そういうルールなのか」 「そう」 「なるほど」 「じゃあやるよ。先手どうする?」 「譲る」 「うお優しい。ありがと。じゃあ……」  女の子は考えた。 「今朝食べようと思ってたパンが妹に取られてた」 「あー、うん」  思ったよりも可愛めなつらいことでびっくりした。  この崖とあまりにもマッチしない。  それとも、食に困っているのだろうか。  そうは見えない。髪が整えられていて洋服も高そうだ。お金持ちに見えるまである。  しかしなあ。準備運動的な扱いで緩めのことから言ったのかもしれないし、朝食べようと思ってたパンがないのはつらいよな。  ぐっ。  僕は手元の石を一つ握りしめて、海に投げた。 「え? まじ? 共感したの?」 「した」 「さてはあなた幸せね?」 「さっき石を投げたのは気を遣ってなんだよなあ」 「そうなの?」 「そう」 「なら、あなたさぞかし辛いことがあるでしょうね」  女の子はそう言う。  なので僕は一手目を繰り出した。 「この前会社クビになった」 「え? え? ちょっと! 始めからマックスに近いほどの辛さのこと言わないでよ」  女の子はそう言うと石を一つぶん投げた。  ふふ。同点だぜ。 「あのー、大丈夫なんですか? 会社クビになって」 「もともと正社員じゃなかったからな。ていうか優しすぎだな。勝負中だぞ」 「あ、いえ勝負はしてますが。私も、不登校になって出席日数不足で自主退学ですので、似たようなもんかもしれません」  僕は石をぶん投げた。 「おい、さっきのパンの話との落差がおかしいよ」 「ですね」  女の子が笑った。  可愛いけど、よく見たら寝不足そうだ。  詳しいことを聞き出す雰囲気では決してない。  だから……そうか。だから。 「このままだと延長戦になりそうだな。石追加するぞ」 「はい。望むところです」  人生の底にいるかもしれない不器用な僕と女の子は、きっと、石を投げながら少しずつ話すのに向いているんだ。  僕はそう思った。  だから……  このままいつまでも勝負しててもいいぞ。  何日もかけて勝負したっていいぞ。  僕がそう思っているのが伝わったのか、女の子は、ダントツに親しみを見せて、笑った。

星の数は君の涙の数

君が泣くと、夜空の星の数が増える。 だから、星の数が多いと君が泣いたのか分かる。隣のクラスの七瀬花緒星(ななせかおぼし) 密かに片思いをしているんだ。 実は幼馴染でもある。その彼女の秘密を知ったのは、ある昼間。 いつもどおり一緒に話していた。すると花緒星が、 「実はね、私が泣いた夜の星は、いつもより 星の数が増えるの。なんの能力なのかはわからないけど…。」 「ふーーん、じゃあ君がないた時は、飛んでいくよ。」 そう笑ったんだ。でも花緒星は悲しそうな顔をしていたんだ。変だなって思ってると。 「私には、泣く回数が決まってるの。 その回数に到達したら、星になって消える。 だから、会えなくなっちゃうなぁ〜」 せつなそうに、少し笑っていた。そんなの、冗談じゃない。泣く限界がある?星になって消える?どうして、そういう能力が。そして僕は聞いた。 「あと、何回泣いて良いんだ?」 「あと……」 彼女は指をおって数えた。そして… 「4回くらいかな?」 4…4回?今高3の夏。90歳まで何年ある。 その中で4回。キツすぎるだろ。 彼女はすでに泣きそうでいた。 「ちょっと、泣いちゃダメだよ。 泣いたら、消えちゃうじゃん。」 僕は言った。 「仕方ないじゃん。泣きたいんだもん。 でも、今は我慢しておくよ」 だが、彼女が消えていく時が来てしまった。 それも、全て花緒星の親友のアイツのせいで。 花緒星と花緒星の親友、長島亜紀が喧嘩をした。亜紀が急に花緒星をイジメ始めたのだ。 「アンタ、目障りなんだよ。ずっと私の事親友だとか思っていたのかもしれないけど、 私は一度も貴方を親友だとは思ったことない」 そう言ったことがきっかけで始まった。 残り一回の時、俺はブチギレた。 亜紀の所へ行き、胸ぐらをつかんだ。 「テメェ、花緒星をもて遊びやがって! 花緒星の事情も知らないのにヒドい事言ってんじゃねぇ!今すぐ謝れ。」 「っ!な、何よ。あんたに、か、関係ないでしょ。」 亜紀の声は震えていた。 「ちょっと、何してる!?」 教室に花緒星が入ってきた。彼女は涙目。 マズいこのままでは泣かせてしまう。 「花緒星、泣くな。絶対に泣いちゃダメだ!」 亜紀を離し、花緒星の肩を掴んだ。 「もう、良いよ。仕方ない。我慢できない。」 彼女は、涙を一粒落とした。 「っ!」 僕は花緒星を人気のない所に連れて行った。 「ダメだ。行っちゃダメだ!僕は花緒星がいないとダメだ!世の中が楽しいと思ったのも、 全て君のおかげだ。君がいなくなったら、 僕は・・・」 そう言ってると、花緒星は 「大丈夫よ。私がいなくても、君はできる。」 体が少しすけている。キラキラしながら、 薄くなっていってる。 「から、だが。薄くなってる。ねぇ、ダメだよ。阻止できる方法はないの?ねぇってば!」 「ないよ、でも、消えても生まれ変わって君を見つけ出す。だから、その時に改めて言わせて、私は、君が好き。」 そう言って、彼女、花緒星は消えていった。 〜3年後〜 あの出来事から3年がたって、大学3年生になった俺は、いつもどおり通学路を歩いていた。 幸い近くに大学があったんだ。 今日はたまたま遅刻をしてしまった。 急いでいると、曲がり角で誰かとぶつかった。 「キャっ!」 「うおっ!すいません。大丈夫です…か」 そう言いかけた。顔に見覚えがある。 「いえ、すいませ…ん。あ、君は。」 「花緒星…?」 「えぇ、花緒星です。」 その彼女は、七瀬花緒星と言った。     END

最低限度の生活

 今日もずっとスマホを触っている。  だいぶ前からスマホは発熱し、それを握りしめた左手には汗が滲む。それでも俺はスマホを離すことなく、やれネットニュースだ動画配信サイトだと、広大なネット空間を一心不乱に漂う。それ以外にやることもない。  時折、実家からの着信に画面を奪われる。きっと会社を辞めた俺を心配した母親によるものだろう。実家の番号を着信拒否に設定した。俺はもう子どもじゃない。一人にしておいて欲しい。  それから更なる長時間のネットサーフィンにも疲れ、何か飲み物でも飲もうとしたとき、俺はある異変に気付くことになった。 ――スマホが左手から離れない。  左手の甲を上にし、指を開いても、スマホが落下することはない。それどころか、スマホを右手で引っ張っても、微動だにしない。まるで初めから左手とスマホが一体化していたかのようであった。  見たことも聞いたことのない事態に遭遇した俺は、左手のスマホを操作し、「スマホ 手 離れない」と検索してみる。しかし、結果はスマホ依存症に言及するものばかりで、当然のことながら、この事態の解決策は見当たらなかった。  あいにく今日は土曜日であり、この近くの病院は空いていない。体調には何も影響がないので、119番通報もやりすぎだろう。月曜日まで様子を見て、変わりがなければ受診することに決めた。  その日は眠れず、一晩中スマホを触り続けた。こんな状況でも良いこともあった。ベッドの上に仰向けになり操作しても、左手のスマホが落下することはなく、その意味でネットサーフィンを快適に行うことができたのだ。  左手のスマホが離れなくなって、はじめは自分と似たような事態に陥っている例がないかを検索した。しかし、そんなものは存在しないことが分かってくると、俺は気を紛らわすために動画配信サイトのアニメを立て続けに見まくった。  昼になった頃、スマホの充電が切れてしまい、充電ケーブルを持って来ようとしたそのときだった。俺は、またもや、そして先ほどよりも大きな異変に気付くことになった。 ――ベッドから離れられない。  正確には、俺の背中がベッドにぴったり接着しているかのように、寸分たりとも動かなくなっていた。スマホに続き、ベッドにも俺の身体が接着した。引き続き訳が分からない事態であるが、より深刻化している。流石に救急車を呼びたいが、ちょうどスマホの充電が切れてしまっているのだ。もうどうすることもできない。  何故こんなことになってしまったのだろう。俺は部屋の天井を見つめながら思考を巡らせる。  俺にとっての社会は、いつでも鋭く、そして冷たい。そんな空間を離れて、できれば孤独であり続けたいとは思っていた。生活空間は小さければ小さい方が良く、ずっとベッドの上で生活しても良いとさえ思ったこともあった。他方、アンビバレントな感情かもしれないが、社会とのつながり自体を断つことは望んでなかった。好奇心をそそるネットニュースや動画があってこそ、俺はここまで生きてこられたのだ。スマホのない生活など考えられない。  あぁ、この状況は、俺が求めていた最低限度の生活だったんじゃないか。俺が不要と思っていた、使っていないものがどんどん無くなっている。  誰に、何故こんな仕打ちを受けているのかは知る由もないが、せめて食料と充電器を望んでおくべきだった。想像を絶する不条理を経験している最中の俺は、そう小さく笑うしかなかった。  それから何時間が経っただろう、俺の精神力も限界を迎えたときのことであった。  インターホンが数回鳴る。そして、その後に、玄関ドアを叩く音が聞こえた。 「修司、いるんでしょう? 早く出てきてちょうだい!」  母親の声だ。それが室内に大きく響く。電話に出ない俺を心配して上京してきたのであろう。そこで助けてくれと叫ぼうとして、やっと声も出なくなっていることに気付いた。 「日高さん、大家です! 返答がないので鍵を開けますね!」  大家を名乗った男性の声が続く。ガチャガチャという音が部屋にこだまし、やがて止まる。 「あれ? おかしいな、全然開かない」 ――大家さん、多分そのドア、一番初めに動かなくなってますよ。  俺は心の中でそう呟き、目を閉じることにした。スマホも使えなくなってしまった。もう目が開くことはないだろう。あとはただただ眠るだけだ。おやすみなさい。

木蓮

澄んだ青い空がよく似合う君は、 木陰に眠る可憐な花のようであり、 風に身を任せて美しい長髪をなびかせ、 鈴を転がしたようなカラコロとした声で、 嬉しそうに笑うのだ。

水槽と、歪んだ鏡と僕

僕はこの世界から抜け出せずにいる。 目の前に置かれた水槽の中で、ぐるぐると同じ場所を回っているだけの金魚を眺める。僕は金魚と同じだった。延々と変わらない悩みを抱えたまま、表面上は解決したような体裁で乗り越えながらも根本的に何も解決することなく、ずっと同じ場所でぐるぐると回り続けている。 同じ毎日を繰り返しては、同じ問題提起へと戻っていく。 「お前、何がやりたいんだよ」 質問の意図を測りかねて、荒波を立てない為にへらりと笑えば、あきれたようなため息が返ってくる。「何がやりたいか」そんなこと、僕が訊きたい。僕自身のこともわからない、答えられないのだから、呆れられるのは仕方がない。けれど、僕が何をしたいのか、何を求めているのか、彼らは、彼女らは本当に知りたいのだろうか。 グッと押し付けた鏡がぴしりと嫌な音を立てた。 「あ」 ヒビの入った鏡の筋を眺める。まるで僕のような劣化した鏡から目を逸した。やりたいことはないのかと言われ、夢を持とうとする。でも実際に夢を語れば、まだそんな夢を見ているのかと笑うではないか。現実を見ろと嗤うのは僕ではない誰かだ。その蔑むような嘲笑に耐えられるほど僕は強くなどないのだ。 だから僕は、必死に勉強した。どんな人間が周りから高い評価を得て、好まれるのかを。どんな人間が疎まれ、嘲笑の標的にされるのかを。 現実を見れていない夢物語は馬鹿にされる。笑われて一蹴されて、最後に「お前には無理だ」と否定される。だから僕はへらへらと笑うだけの仮面を見につけた。標的にされないように、周りに合わせて濁して、ヒトに話を振る役目。自我がないといわれようが、これが僕が僕を守る為の自衛の術。ひらりひらりと尾ひれを揺らす金魚のように、僕は話を振っては見栄えを気にする。  カポリとエアポンプが音を立てた。 「……うるさい」 思わず耳を塞いだ。実際にはそんな大きな音ではなかったのに、何故かそう言葉が零れた。 目の前に泳いでいる金魚の尾ひれはひらりひらりと上品にゆれている。我儘のような振る舞いが許される同期のあの子が妬ましく、そう感じる僕自身がいやになる。出来る事ならば僕だって我儘に生きていたかった。でもそれが許されるのは可愛らしいあの子のような人でなければいけない。僕には似合わない。 「つかれたな……」 肘をついてもたれかかる。「イイコ」の仮面に作り笑顔を貼り付けて、過ごす世界。僕を制御して、誰かの捌け口にされないことだけを考えて過ごす。そういえば、こないだため息をついていた我儘のようなあの子も同じだったのだろうか。金魚の尻尾のようにゆらりゆらりとその人の目を惹く優美な残像はまるであの子のようだと思った。 うとうとと眠りにつくまどろみの間だけは、自由でいられるようなそんな気がした。壊れたラジオからノイズ交じりの声が聞こえてくる。 「褒められたいって思うのは悪いことなの?」 今日も人にいい顔しながらへらへらと笑顔を「貼り付けては、そんな僕自身に反吐が出そうだ。それでも、変えられないのは、ヒトは一人では生きていけないと知ってしまっているから。全部をぶち壊したいと願いながら、ヒトの顔色を窺っている。 むくりと起き上がる。今日もまた、僕の嫌いな僕が鏡に映っていた。

溶けない初雪

伏せられた双眸からぽたぽたと滴る液体は、味気ないコンクリートをまだら模様に彩った。 煌めく涙の美しさに目を奪われ、この恍惚を言葉に現したい。 まず込み上げたのは、欲求。 遅れて、感情に蓋をした理性が、状況を把握する。 「私が何気なく放った言葉が、彼女の心の傷を抉った」そんな単純な人間の心象を理解するまで、たっぷり3秒は掛かった。 両親や友人に「人間としての感性が欠落している」と言われるのも尤もだ。 このまま立ち去るのも、言葉を重ねるのもバツが悪い。 何も言わず、何もせず。私はただ、彼女の隣に座っていた。 自分の意思ではない。 欲求と共に胸の奥に蟠る「モヤモヤした何か」が、私にそうさせたのだ。 初めて感じた、名前の付けようのない感情が。 と。北風に乗せられ、ひらひらと舞う白い物体が目に入る。 あれは、雪だ。初雪だ。 大きな氷の結晶は、私の肌に降り立つなり水に戻る。 けれども。 その儚さとは裏腹に、雪の冷たさは「モヤモヤ」と共鳴して、私の心にしぶとく生き続けている。 彼女と創り上げた脆い世界に春が訪れるまで、きっと雪は溶けないだろう。 私は、いつの間にか泣き止んだ彼女と雪を眺めながら、ぼんやりとそう思うのだった。

姉のいない世界で

「じゃあ、行ってくるね」 「うん、いってらっしゃい」  それが、姉との最後の会話になるとは、私は思っていなかった。  姉のことは、ずっと大好きだった。姉妹だから少し恥ずかしさもあって、直接 好きだって口にして伝えられなかったけれど、こんなことなら、伝えておくべきだった。    5つ年上の姉は、優しくてカッコよくて面白くて、すべて完璧だった。私を助手席に乗せて買い物に連れていってくれたり、ケチャップを、たっぷり使ったオムライスを作ってくれたり、彼氏に浮気されて泣いている私のことを励ましてくれたり。    姉がいなかったら、私はこれだけ大きくならなかった、強くならなかった。それもこれもすべて姉が強い人だったから。  きっと、姉も辛いことや悲しいことはあっただろうけど、姉が泣いている姿を見たことは、物心ついてからは一度もない。  そんな姉と、ずっと一緒にいられると思っていた。これからもずっと。お互いがおばあちゃんになるまでずっと一緒だと思ってた。もし、どちらかが結婚したとしても、同じ世界では生きていけるものだと思った。    だけど、私は、これからは姉のいない世界で生きていかなければならない。  嫌だと言おうが、拒否しようがこの事実は変わらない。黙って受け入れるしか私たちにはできないのだ。 「ごめんねお姉ちゃん……」 「本当は笑ってお別れするべきだけど、やっぱり無理だよ。我慢できないよ。ずっと大好きなお姉ちゃんとのお別れなのに、笑うことなんてできない」  我慢しても我慢しても、涙が溢れ出てきた。  私は、強い姉の妹なのに、まだまだ弱かった。  強くなったつもりだったけれど、弱かった。涙が、止まらない。 「ごめんねお姉ちゃん……」   ※※※  姉が家を出て、数時間後、私は近所のコンビニまで歩いて向かっている途中、車に轢かれて、死んだ。ひき逃げってやつで、通り掛かった人が見つけてくれた時にはもう、私は死んでいた。  もっと気をつけるべきだった。周りをよく見て、車が来ていないか確認するべきだった。  急ぎの用ではなかったから、姉が帰ってくるのを待っていればよかった。一人で行かず、姉に車で連れて行ってもらえばよかった。いつもみたいに、助手席に乗せてもらって。 「お姉ちゃん、好きだよ。大好きだよ」  どんなに大きな声を出しても、私の声は姉には聞こえない。歌を歌っても姉には届かない。  どんなに見つめても、姉と目が合うことはない。姉には私の姿は見えない。  どんなに強く握ろうとしても、姉の手を握ることはできない。姉の手から温もりを感じることもできない。  私は、落としたマグカップのように修復はできない。残酷だけど、これは普通のこと。だって私は、人間だから。  私が死んでもなお、姉は泣くのを我慢している。強い人間であろうとしている。 「お姉ちゃん、もういいよ。我慢しなくていいよ、泣いてもいいから」    私は、21歳の若さでこの世を去った。 ――これからは、姉のいない世界で生きていく。      お姉ちゃん、私は強くなるよ。

水に浮かぶ脳

 白い部屋に無数の水槽。  水に浮かぶは、人間の脳。  水槽一つにつき脳一つ。  脳には無数の管がつながっている。  まるで水族館。  まるで実験室。    事実は、人間の新しい世界。    老化、病気、事故。  あらゆる死から身を守るため、一部の富裕層は自分の脳だけを活かし、意識を電子世界と同期した。  水槽に貼り付いているディスプレイには、電子世界の様子が移されていた。  大切な友人と、食事を楽しむ一人の人間の姿。    視覚。  聴覚。  嗅覚。  触角。  味覚。  あらゆる感覚は、脳さえあれば再現できる。  意識さえあれば再現できる。    人間らしくない佇まいにて、人間らしい生活を送り続けている。    そんな水槽が、拳によって軽く殴りつけられる。    同時にディスプレイの中の人間は、甘そうなショートケーキを口に入れた瞬間、「辛い」と叫んでひっくり返った。   「やめろ馬鹿」    水槽を叩いた男を、別の男がたしなめる。   「やー、羨ましくて……つい」   「気持はわかるが……。ああほら、面倒なことになるだろ?」    ディスプレイの中の人間は、すぐに起き上がると同時に、家の中を駆けて小さな部屋に入り、部屋の真ん中に設置されたボタンを力いっぱい押した。  いや、殴りつけた。    二人の男がいる部屋のライトが赤く光り、ビービーと音がする。  クレームだ。  しばらくすると、二人の男の上司がすっ飛んできて、コンコンと説教される未来が確定した。   「ったく。やるなら、一人の時にやれっての。俺を巻き込むなよ……」    訪れるだろう未来に、男は半ばあきらめた状態で文句を言う。   「気持がわかるんなら同罪だ」    一方の男は、悪びれる様子もなく、言い放った。  どころか、別の水槽も順に、ゴンゴンと殴り始めた。    脳への振動は、想定しない感覚となって電子世界に再現される。  ある人間はとつぜんの暑さに驚き、ある人間は恐怖で失禁した。    男の行動は、行ってしまえば電子世界を生きる人間たちへの暴力だ。  つまりは、やつあたりだ。  電子世界へ入れない、下級国民の。   「はー、俺たちも、いつかは向こうへ行きてえなあ」   「そう思うんなら、水槽を殴りつけたりせず、真面目に管理しろよ。はー、お前のせいで、また順番後回しにされんだろ」   「順番って……。後回しにされようがされまいが、俺たちが生きてる間に回ってきたりしねえよ」   「わかんねーぞ? 突然大災害が起きて、中央の上級国民たちが軒並みお陀仏するかもしれねえじゃねえか」   「えっぐ……」    現実と電子世界の境界は薄れた現代。  歩くことをやめ、電車や飛行機と言う物体に移動を任せた時代のように。  現実の器官を使うのをやめ、電子世界というデータに感覚を任せた時代が来た。    世界は、真っ二つに分断された。  金を持つ人間は電子世界を享受し、金を持たない人間は管理をすることで生きている。    人間たちは幸福を求めて、電子世界を渇望する。

くだらない話をきいてくれ

 私を殺してくれる人を探していたことがある。いや、正確には自殺以外の死因で死なせてくれる人、と言った方が正しいか。事件でも事故死でも病死でも何でもよかった。とにかく自殺じゃなければなんでもいいと思っていた。こういう話をするとお優しい人たちはきっと何かあったの、などと言って話を聞いてくれようとするのだろう。 『そのまま生きていればいいことがあるよ』 だとか 『もっと苦しい人もいるからその人たちよりましだよ』 だとか言うわけだ。まあ言うのは個人の自由だし私自身その意見を否定するつもりはない。しかしこういった慰めが通用するのはあくまで困ったことがある人だけなわけで私はそうではない。ただ漠然と死んでみたいなあと思ったのだ。いじめられてないし、友達もいるし、家族もまあ一応恵まれてはいる。ただ私は日常を生きていく中でなんとなくふわふわとしているような、筋書きをなぞっているような、そんな感覚に陥ることが多かったのだ。自分の一挙手一投足すべてが自分の物ではないような。そこで考えたのだ。 「死ぬ瞬間なら自分の存在に確信を持てるのではないか」 別に今までのそういった感覚に嫌気がさしたわけではない。しいて言うならただの興味本位である。死ぬ瞬間にしかわからない自分があるんじゃないか、みたいな。 周りの人に言えば説得されるなり心配されるなりなるのはわかりきっていたから言うことはなかった。とりあえずこっそり調べた。まずはバレない死に方。残念ながら怪しいサイトが多かったのでこれは検索を諦めた。ていうかほぼ自殺を止める内容だった。 ちなみに私が一番嫌いな言葉は 「生きたくても生きられない人もいるのに死んではいけない」 である。申し訳ないが見知らぬ人を思うほどのやさしさは持ち合わせていないし、おそらくそういった言葉は心のきれいな人にだけ通用するので私には理解がしがたい。勝手に死なせてほしい。私が自殺を避ける理由は周りの人が悲しむからとかではなく色々と面倒だからだ。やれ何かあったのかなどと死んだ後まで根掘り葉掘り探そうとするやつが絶対出てくる。そして私の黒歴史も出てくる。やめてほしい。だから私は自殺以外の方法で死にたいと思ったのだ。つまりある意味世界で一番自分の意思がかかわらない死に方を望んでいた。まあ過去形で話しているということからお察しの通り今は別にそこまで考えているわけではない。別に改心したとかいうわけではなく、いちいちそんな方法を考える時間が面倒だと思っただけの話だ。 こんな話をしていると不謹慎だという人も少なからずいるのだろう。しかし似たようなことを考えたことがある人は多少いるはずだ。人間だいたいそんなもんだろう。 まあこれからもこんなくだらないことを考えながらふわふわと生きていくのだろう。

幼なじみ

蝉が鳴き、向日葵が咲き誇る季節。 太陽が地面を照り返し、とても暑い日。 今日は、幼なじみに会った。 久しぶりに会う彼は、とても大人びていた。 「久しぶり!一年ぶりだったかな、元気だった?」 「僕は元気だよ、そっちはどう?」 背も大きくなり、追い越されて悔しがったのはいつの事だったか。 声も高かったがいつの間にか低い男の人の声に変わっていた。 「よかった。私も元気でやってるよ!」 しばらく見つめ合う私達。 久しぶりで、何を話そうか考えていたとき。 彼がこれ、と言って差し出したのは、私の大好物の飴玉。 「これ、私の好きな飴だー!さすが幼馴染。よく分かってるね、ありがとう!」 「この飴、本当に好きだよなーお前。」 子どもの頃はよく彼と一緒に食べていた。 楽しかったとき、怒られたとき、色んな時に食べた。 私達の思い出の味。 「それで、今日はどうしたのかな?」 正直、私に会いに来たことに驚いていたが、彼の表情を見ると納得がいった。 彼の斜め下を見つめ、僅かに口が尖った表情。 それは、何か言いたい事があるときや隠し事をしているときにする彼の癖。 「来年から大学生になるんだけど、医者を目指そうと思うんだ。」 「すごい、お医者さんなんてかっこいい!」 病気で苦しんでいるたくさんの人を助けたいんだと恥ずかしながら語る彼。 でも、本当に自分に向いているのか、医者になれるのか不安な事、色々なことを話してくれた。 その姿にあの泣き虫だった彼が、こんなに立派になるなんて、思ってもなかった。 いつも私の後ろを着いてきていた彼だった。 何かあるとすぐに泣いていた小さかった彼が、なんだか今はとても大きく見えた。 「それで、ここを離れるんだ。」 「…え、遠くにいくの?この街からはなれちゃうのか」 彼は進学するにあたって、この街を離れる事を選んだようだ。 しかし、そんな彼に対して寂しさを感じつつも、誇らしさも感じていた。 そんな彼に、私は努めて明るく言う。 「たまには会いにきてよ!じゃないと、怒るからね。まぁ、どこで何をしていても私は応援しているから、後悔しない生き方をしてね。」 彼は色々と吐き出せて心の整理がついたのか、来た時とは違い晴れ晴れとした表情だ。 「どうなるか分かんないけど、何とか頑張ってみるよ。……じゃあ、また来年。」 そう言って背中を向けて歩き出す彼。 どんどん遠ざかっていく背中に向けて私は大きな声で言う。 「私はいつでも君を待ってるから。また会いに来てね!」 彼が足を止め、こちらを振り向く。 しばらくこちらを見つめていたが、再び歩き出した。 今度は彼がどんな成長をしているのか楽しみだ。 彼の未来を想像しながら、私は彼が見えなくなるまで手を振った。 「って聞こえてないか。じゃあ、また来年…大好きだよ」 彼が去った後。 そこには、初めから誰もいなかったかのように、一つのお墓があるだけだった。

サヨナラをし続ける君

僕のクラスには変わった女子がいた。 あまり気にしない人が多いと思うが、僕はずっと気になっていた。 「月乃、また明日ね!」 「サヨナラ、睦!」 ほらまた、やっぱり彼女は変わってる。 友達同士の帰りの挨拶は“またね”とか“じゃあね”とかじゃないのか。 先生に対しては“さよなら”だと思うけど… 「川島、帰らないの?」 彼女は、僕の顔を覗き込むようにして声をかける。 「あー、うん帰る。月乃は?」 「帰るよー。」 「途中まで一緒に帰ろ。」 僕の誘いに彼女はOKサインを手で作った。 そして、別れ際彼女は言った。 「川島、サヨナラ!」 ほら、やっぱりだ。 「ねぇ、気になってた事聞いていい?」 「んー?なに。」 ーーー。 ある朝、少し早く学校に着いた。 教室に入ると、彼女はまだ来ていない。 HRが始まっても彼女の姿はなかった。 先生は、深刻そうな顔をしてゆっくり話し始めた。 「昨日の交通事故のニュース観ましたか。」 確か、ここ近くで起きた事故だ。 女子高生が小学生を守った。そのあと、女子高生は意識不明の重体だったはず。…え。 女子高生…今日来てない月乃…ま、まさかね。 「月乃さんが、昨日の交通事故に巻き込まれて昨日の夜、亡くなりました。」 クラスの空気が変わる。 クラスメイトは、泣いたり、話し始めたり、固まってる子もいた。 でも、僕はすぐにあの時の彼女の言葉を思い出した。 『なんで、月乃はいつも“サヨナラ”なの?』 彼女は、満面の笑みで言っていた。 『絶対に明日会えるとは限らないから!』 彼女は“サヨナラ”の意味をしっかり持って言っていた。 そう思ったら、“サヨナラ”はあまり辛い言葉ではないのかもしれない。 僕は空を見上げる。 「サヨナラ、月乃。」

ふたりのためのオルゴール

 それは中学二年の夏。一学期の最後に席替えをして偶然隣になった彼女は、とても不思議な雰囲気の女の子だった。  彼女はクラスで浮いていて、一部の生徒は彼女の事を気味悪がって近づこうともしなかった。酷い時は菊の花が生けられた花瓶が置かれていることすらあった。  そんな様子だったので、人見知りする私も始めは話しかけなかったのだが、ある時魔が差したのか、ふと声をかけてみた。  「ねえ、学校嫌じゃない?」  すると、彼女は花瓶に生けられた菊の花を優しい目で見つめながら。  「何で?」  とだけ答えた。  私は彼女に興味を抱いた。憧れた、といっても良いかもしれない。 私はその日から、休み時間や放課後の僅かな合間に彼女に話しかけた。趣味は?好きな教科は?好きな人はいる?  彼女は始めは軽く相槌を打つばかりだったが、少しずつ会話を返してくれる様になった。そして彼女と私は、いつしか友人……いや、それ以上とも呼べる関係になっていった。  ある日彼女から、友情の証としてお揃いのオルゴールを作らないかと言われた。私はもちろん了承し、その日の放課後に早速アンティークショップに向かった。  町中にある小さなアンティークショップでは、オルゴール製作のサービスをやっていた。私たちはそこで、花の意匠で飾られたオルゴールを作ってもらうことにした。  「約束よ。私たちは、ずっと一緒」  「うん。もちろん」  その日から、そのお揃いのオルゴールは二人にとっての約束になった。  時が経ち、私たちは高校生になった。彼女は難関の女子高へ、私は地元にあった私立高校へそれぞれ進学した。彼女には一緒の高校にしないかと誘われていたが、私の学力ではとても入れるようなところでは無かったし、女子高というのも何となく気が引けた。  高校生になってから会う頻度は少しずつ減っていたものの、ひと月に一度は直接会い、毎日ラインでやり取りもした。彼女と知り合って内気な部分が少しだけ解消された私は高校に入ってから友達も増えた。だか一番の親友は彼女のままだった。  それから更に時が経ち高校二年の夏。私は初めて男の人に告白された。  その人はクラスでも結構な人気があり、私も人知れず憧れていた。そんな先輩が、信じられないくらい辿々しく、それでもとても真剣に告白してくれた。私はそんな経験などなかったからとても嬉しくなって、その告白を受け入れた。  その日の夜、この喜びを真っ先に伝えたい相手へ連絡した。直接話したかったから、わざわざ翌日に待ち合わせまでして。  彼女は急な連絡にも関わらず、きちんと来てくれた。彼女は訝しんで私に問いかけた。  「どうしたの?わざわざ呼び出しまでして」  「ごめんね?急に呼び出して。でも、あなたには直接話したかったんだ。私、お付き合いすることになったの!」  逸る気持ちを抑えきれず、少し早口になる。彼女は祝福してくれるだろうか。会う時間が減ってしまうとむくれてしまうだろうか。それでも微笑みを浮かべて、よかったねなんて言いながら祝福してくれるだろうなんて、勝手に思っていた。  私の言葉を聞いた彼女は、今まで見たこともないような青ざめた顔をしていた。そして。 「なんで?」  とてもか細く、締め付けられるかのように、彼女は小さな声でそう呟いた。  いつもの大人びた雰囲気からは考えられないほど泣きじゃくった彼女から、ぽつりぽつりと言葉が溢れた。私のことを恋愛対象として見ていたこと、高校を卒業したら告白しようと思っていたこと、中学生の頃は異性を私から意図的に遠ざけていたこと。  「私じゃ嫌?私じゃだめ?ずっと一緒だって約束したじゃない!」  それはきっと、彼女がずっと抱えていたオルゴール。美しい旋律を奏でるための、二人のための約束の箱。それが今初めて蓋を開いていた。  「…ごめん。私は、そんな風には考えてなかった。遊びだと思ってたんだ」  「やだ!やだよ!私は、貴女のことが好きよ!愛してるの…」  彼女の激情的な愛の告白を受け止めきれず、私の心は罪悪感でずたずたに引き裂かれるようだった。  「ごめん。本当にごめん」  泣きじゃくる親友の顔を、私はもう見ていることが出来なくて、私は彼女から逃げ出した。  ごめんね。私は遊びだと思ってたんだ。本気なんて知らなかったんだ。ずっと一緒だよなんて約束、子供のごっこ遊びだと思ってたんだよ。  好きだった。友人として。  尊敬していた。女性として。  それでも、私は貴女のことを本当の意味で愛することはできなかった。  それから、彼女と連絡をとることは殆ど無くなり、たまに会っても彼女はあの時のことをまるで無かったかのように振る舞った。  私は手元にある思い出さえもう見たくなくて、彼女との約束のオルゴールをダンボールに雑に押し込んだ。

記憶を失った殺人鬼ーお知らせ(本編はなし)ー

どもども、さくしゃのゆいにゃんです! えー、今回は、「記憶を失った殺人鬼」シリーズでの二次創作作品を作ってくれる方を募集します!  読み切りでも連載でもよし。  オリキャラも交えていいけど、本家のキャラ設定は崩さないで。  詳しく聞きたい人はご自由に聞いてくださいな! ※公式での二次創作作品は私が必ずコメントさせていただきますので、作ったら報告をお願いします。これで。

薄暗闇から

 この薄暗い部屋に閉じ込められて、一月が経った。部屋の中は質素な造りだが、ベッドは意外にも上質なマットレスで、シャワーとトイレも完備してあり、生活するには申し分ない。食事は野菜などの彩は無いが、三食差し入れられる。  堪えがたいことは、娯楽が少ないことだ。テレビやパソコンが無いのは勿論、所持していたスマートフォンも取り上げられている。何故かカバーを外された本だけは差し入れられるが、異常な状況では読む気力も湧かない。言わば、生きる楽しみを見いだせない空間。  犯人はわかっている。目の前にいる女だ。 「どうしてこんなことをするんだ」  鉄格子の向こうにそう詰問すれば、女はいつも困った様な表情をするばかりだった。   彼女のかつての交際相手に相談を受けたのが、出会いのきっかけだった。曰く、彼女は相手に尽くすタイプの女性で、しかしそれに際限が無い。ノイローゼになった彼が逃げ出し、身近にいた自分が次の寄生先として選ばれた。  意外にも彼女との生活は悪くはなかった。容姿は華美ではなく、常に地味な服装だったが、むしろ奥ゆかしく好感が持てる。流行の話題には疎いが、古文や歴史に造詣が深く、博識深い。聞いていた異常性を置いておけば、所謂大和撫子そのものだったのだ。  うまくいっていたはずだった。この場所に監禁されるまでは。  あの日は雪が降っていた。寒さに身を震わせ、数か月後に来る春を思い、道すがら在原業平や西行が詠んだ句について語った。 「和歌に詠まれる桜は、どうしてこうも魅力的なんだろう」 「昔は、今よりも目に入る色が少なかったですから、桜の初心な色ですら、貴重な彩、だったのでしょう」 「成程。そもそも現代とは環境が異なるか。僕もいつか全身で感激するような桜を見てみたいものだ」 「ええ、そうですね」  そんな些細な夢も語って、彼女も微笑んでいたというのに。  当夜、勧められるまま深酒をしてその後の記憶がない。目が覚めたらこの部屋にいた。初めは激昂して、それから諭すように、ある時は懇願に近い声色で、どんな言葉で尋ねても、彼女の答えは無いか、曖昧なものばかりだった。  彼女は、僕の思いを試しているのか? 監禁という行為が生み出す歪んだ関係性。被害者からの依存性を期待しているのだろうか。彼女の目的は、ただこうして廃れていく僕を、籠の外から眺めて居たいだけなのかもしれない。  薄暗い部屋で、食事と睡眠の数を数え、もう二月も経った。ひたすら薄暗闇の日々が続いたのだ。段々と、自分の中の何かがすり減っていくのを感じる。 「なあ、今日でもう二月だ。あんたはいつまでこんなことをするつもりなんだ?」  辛うじて、まだ忘れていなかった声と言葉で問いかける。どうせ返事は無い。宛てのない言葉は、壁の中に消えていってしまうのだろう。ただの独白だ。  そう自嘲しながらも、久々にあの困った顔つきを拝んでやろうと、俯いていた顔を上げた。彼女の唇が動いた。 「あと、二週間、くらい?」  食い下がるべきだったろうが、驚き、言葉が出ない。明確に期限を口にしたのはこれが初めてだった。彼女に何の変化があったのか。  その日を皮切りに、彼女は、毎日私の言葉に返事をするようになった。 「もうちょっと、今日は、まだ」 「まだ早いの、だめ」 「きょ、今日は、雨が降ったから」  ある日、聞きなれない金属音と共に、いつもとは異なる微妙な風の流れを感じた。ひた、ひた、と足音が近づく。顔を上げると、鉄格子の向こうの彼女が傍にいた。 「あの、これ」  差し出されたものは、黒いアイマスクだった。付けろというのだろうか。視線で問いかけても、困った表情をするだけだから、望まれるままに装着した。手を引かれ、立ち上がる様促される。僕は彼女のするまま、素直に従った。 「どこに向かっているんだ」  答えのないまま、歩いた。あの仄暗闇から解放されるのならば、どこでもいい。僕はあの薄暗い部屋を出たのだ。  途中から、足の裏に感じていたものが、コンクリートよりも柔らかい感触に変わった。風にのって、土と草の匂いがする。 「取ります、ね」  もう随分歩いたと疲労を感じ始めた頃、ふと立ち止まって彼女は言った。  髪が巻き込まれ頭皮が引っ張られたが、些細な問題だった。  流れ込む光の束に、すぐには目を開けなかった。ゆっくりと瞼の裏に馴染ませ、恐る恐る開いていく。  色の洪水だった。失くしていた色、求めていた色、知っていたはずのものが、未知のものに見えた。背丈を優に超える幹は、大地の色を吸い込んでいる。風に舞い散る花びらには、一枚一枚色があった。全て、異なる色なのだ。  言葉にならない僕に、彼女は嬉しそうに笑った。久しぶりに見た笑顔だ。僕は、彼女が僕を閉じ込めた理由を悟った。後はただ、手を握り締めて、桜を眺めた。

つまらない私が、学校をサボってみた

 人生があまりにつまらないので、人生で初めて学校をサボってみたんだけど、本当に何も特になかった。  ただゲームセンターで暇をつぶした後、本屋で漫画を買って、それを読みながら喫茶店で夕方まで過ごして、それで家に帰った。  恐ろしいほど何も無くて、それでいてお金は消えた。  でも、一つだけ言えるのは、なんか客観的に世界を見れた気がする。  学校だとどうしても自分がその環境に溶け込んでいるのが当たり前で、溶け込んでないのならそれは良くないことだという発想に至ってしまう。  けれど、平日のお昼にぶらつく高校生はきっと浮いていて、だけどそんな浮いている人がいることを、誰も気にしないし声もかけない。  それがとても良かった。  だからなんかお金を払った甲斐はあった気がして、色々な絶望を放り投げた気分だ。多分ヨーヨーみたいにまた戻ってくるけど。切り離せない糸があるので。  私の両親は、過度なほど教育熱心であり、それを誇りに思う人であった。  それは私に対してだけでなく、私の二人の姉に対してもそうだ。  そしてその教育熱心さに、二人の姉はうまくはまった。  だから二人の姉は、才色兼備を大学生になった今でも貫いているようである。  しかし私は逆で、ハマらないどころか反発した。  だけどその反発は心の中に留めておいていた。だから今までは皆勤賞だった。  ただ、勉強のことを考えない時間を持っている人がうらやましかった。  無駄な時間を過ごしてみたかった。  そんなわけで私は、皆勤賞を捨てたのである。  というか別に皆勤賞ってなんの価値があるのかよくわかんないし。  とにかく私の人生を本にしたりするなら、何もつまらない状態だ。  それが嫌だと思ってあがいた結果、今日のつまらない一日ができあがったというわけだ。  勉強は二人の姉ほどできないのに、心だけはひねくれている。  そんな私が一日だけ解放されても、絶望感を感じながらだらだらと過ごすしかなかったってことだ。  私はベッドに寝た。  親には学校にもいき、完璧に塾と学校の課題を済ませたことにしてある。  なんもしてないけど。  でも今日のところはバレないならいいのだ。  ふと、スマホを見ると、唯一の親友からメッセージが来ていた。 今日学校に来なかったことを心配してくれていたようである。  ああ、私の唯一の親友は優しい。  しかし問題は、優しいし可愛いし、自由な家庭であるが故に、とても楽しそうな人生を過ごしているということである。  放課後は部活とは別に入っているダンスクラブに明け暮れ、学校では学校生活を楽しみ、彼氏だっている。  そんな中で、「時々勉強を一緒にするタイプの親友」が私なだけなのだ。  親友のほんの一面が、私と全面と対等であるに過ぎない。  この構図が、私は非常に嫌いだ。  そして何だか疲れてしまって、物事を嫌うことにも体力がいるんだな、と新発見をしたのである。  自慢する先がないけど。  ☆ ○ ☆    そのまま寝て、目覚めたら朝だった。  今日は学校に行くかどうか。  今日も行かなかったら、開放感よりも罪悪感の方が主張してくる気がするので行こうかな。  昨日だけなら、休んだところで、特に問題はないでしょ。  そう思い、私は今日はいつも通り学校に行くことにした。  テストの話を延々とする母親を完全無視して家を飛び出す。  朝から自習室に行くんだというと、ご機嫌になったりするもんだから、相当扱いやすいと思う、私の親。それが救いかな。  そして学校の門の前までやってきた。  親友が歩いていた。  声をかけようとしたが……親友は他の友達と話すのに夢中で気づかなかった。  のではない。  たしかに一瞬目があった。  けど、そのまま行ってしまったのだ。    まあそんなもんだよなあ……と思う。  私は学校の敷地にぎりぎり入らないところで立ち止まった。  今日、私が学校に行く原動力はなんだ?  つまらない。  でもどこの場所に行ってもつまらない。  そんなつまらないことしか起こり得ないことに、私は悲しみを覚えた。  そしてそれはなによりも、つまらない自分が原因であるということをわかっていた。  だから……どこに行ってもつまらないとわかっているのに、歯ぎしりしながら、私は校門をくぐるしかなかったのだった。

青い遠雷

「柊木夏美、売りやってるんだって」  効きの悪いクーラーにうんざりしながら、いつも一人で食べているとも知らずに母さんが作ってくれたお弁当を平らげ、イヤフォンを耳にした時だった。 「売りってぇ、パパ活? 援助交際?」 「どっちも同じでしょ。……で、誰に聞いたの」 「裏垢がバレたらしいよ、クラスメイトに」  私は動揺を抑えながら、無音のイヤフォンを着けたまま窓の外へ顔を向け、机をくっつけて食事している三人の会話に聞き耳を立てた。  見上げた青空の向こうから、灰色の分厚い雲が迫っているのに気付く。雨になるの? 朝はあんなに晴れてたのに。 「うちにもそんなことする子いるんだぁ。なんかショック〜」 「私達が知らないだけで、案外一杯いるんじゃないの。……けど、それだけで売りをやってる証拠になるのかな」 「あの子去年の暮れ辺りからやけに身なりが派手になったでしょ。つるむ同級生のタイプもガラッと変わったし」  心が、ズキリと痛む。  確かに夏美はある日から私に見向きもしなくなり、日進月歩でそれはそれは綺麗になっていった。 「今じゃ有名人だもんねぇ。同級生どころか一年も三年も教室にちょっかいかけに来るんだってぇ」 「そういうのは一切相手にしてないらしいけど。……裏ではオヤジどものお世話してるとなると、ファンが減るか、むしろ増えちゃうか、見ものだね」 「さあ。どっちにしろ、軽蔑しちゃうわ」  三人はそう話しながらようやくお昼を食べ終え、別の話題に移っていった。  夏美とはもう関わりが無い。自分には関係の無い話だ。  頭ではそう考えようとしていたけど、胸の中が何か複雑なモヤモヤとした黒い感情に覆われるの感じた昼休みだった。  自分には取り柄が無い。だから、自分に自信が無い。そんな私は可哀想なオーラでも出ているのか、人から同情されやすく、誰かしらに手を差し伸べられてきた。そして、信用して掴んだその手を、すぐに離されてもきた。 「傘、持って来なかったの?」  放課後、校門近くの喫茶店の軒先で雨宿りをしていると、待ち焦がれていた人が声をかけてきた。 「……天気予報、見てなくて」 「そっか。俺は別にいいけど、そっちは嫌だよな。相合い傘、なんてさ」  照れ臭そうに言う彼に、私は勢いよく首を振って答えた。 「嫌じゃない。……いいの?」 「まぁその、たまにはそういうのもありじゃないか。なぁ?」  私は彼の肩まで届かないおでこごと、体を腕にくっつけた。 「うん。あり!」  学校に友達がいなくても。私には彼がいる。いつか、今までみたいに彼がその手を離す時がくるとしても。今彼は、私だけのもの。  喫茶店を後にして、傘に叩きつけられる雨音すら心地良く感じながら、私達は駅へと歩き出した。  しばらく行くと、雑貨屋の前に人影が見えた。  あれは……夏美!  私は思わず彼の影に身を隠した。 「あら。お二人さん」  夏美の両肩は濡れていて、手に傘は持っていなかった。 「柊木。……お前も傘、忘れたの?」 「今朝あんなに天気良かったから。まさかこんなにどしゃ降りになるなんて思わなくてね」  彼の言葉に夏美は笑みを浮かべて見せた。 「待ってろ、そこのコンビニでビニール傘買ってきてやる」 「え、い、いいよ! ちょっと!」  夏美の制止も聞かず、彼は私に傘を預けると豪雨の中を走り出した。 「相変わらず、良い奴だね。彼」  二人でその後ろ姿を見送りながら、夏美は半分呆れたように言った。 「……夏美。売りしてるって、本当なの?」  私が意を決してそう言うと、空がピカッと光ったと同時に、夏美はバカにしたように高らかに笑った。 「アッハハハハハ! 久しぶりに会った第一声がそれ?あんたらしいよ、友梨。……くたばれ」  そう吐き捨てるなり、彼女は私の顔を見ることなく、雨の中を飛び出して行った。  蒸し暑さを洗い流すような激しい雨に打たれながら遠ざかる夏美の背中を見送る私の耳に、さっき光った遠くの雷の音が響いてきた。 「杉咲友梨、二股かけてるんだって」 「えー、うっそぉ! そんな風に見えない〜」 「私も聞いたよ。彼氏がいるらしいけど、昨日別の男と相合い傘で帰ってるの見た子がいるんだって」 「そう言えばさ、柊木夏美とあの子、仲良かったのに友達辞めたの、男が原因らしいよ」 「なになに〜。どういうこと?」 「柊木、ずっと好きな男がいたんだって。杉咲が間を取り持ってたらしいんだけど、その男が杉咲に惚れちゃって告白したら、杉咲はまさかのOKしちゃって柊木大激怒、ってわけ」 「うーわ、最悪。柊木が売りとかやりだしたのって、そのショックが原因じゃないの?」 「え〜。信じらんなぁい」 「柊木を応援するふりして色目使ってたわけだ。いやー、女って怖いね。……あ。また雷鳴った。くわばらくわばら……」

私の初恋は叶わない

初恋をした。 それは突然。高校帰りの帰り道。 徒歩通学の私に起こった一目惚れ。一目惚れって体に稲妻が走った感覚だって聞いていたけれど、本当にそうだった。ビリビリっと痺れた。痺れすぎた……スラっとしたスタイルの整った体。綺麗な水晶玉みたいに煌めく瞳。あぁ、本当に綺麗。いつまでも見てられる…… 触れたいなぁ……って……おっと、失礼。 うん?告白はしないのかって?? 出来るわけない!振られるのはもう確定済み。 振られるの分かってて告白なんてしないよ。 え?なんで分かるのかって?? 「だって、近所で飼われてる猫ですもの。」

どんなに遠くても

 この世のものとは思えないほど赤く染まった夕暮れの空は、今にもこの河川敷へ落ちてきてしまいそうに映った。父さんの転勤で転校になるかもしれない、と母さんに告げられた次の日。帰り道で彼女にそれを伝えると、思わぬ言葉が返ってきた。 「会いに行くから」 「え?」 「どんなに遠くても。だから、元気出して」  彼女が、屈託なく笑う。不安を抱えていた私は、その笑顔に救われた気がした。  堤防の階段に差し掛かると、秋風に乗ってキンモクセイの匂いが漂ってくる。私は、思いっきりそれを吸い込みながら言った。 「ありがとう!じゃあ、また明日ね」 「うん!また明日」  階段を駆け降り、すぐ側の自宅を目指しながら私は思った。彼女とは、一生の友達だと。  結局、父さんの単身赴任が決まり、転校の話は無くなった。やがて年が明け、春になり、五年生のクラス替えで私達は別々のクラスになった。  そしてある時から、彼女は私と一緒に帰らなくなり、学校で話しかけても素っ気ない態度を取られるようになった。  もっと仲の良い友達ができちゃったのかな。  私はとても寂しい気持ちになり、そんな想像をして彼女から離れていった。  六年生になった私は、卒業を控え、どこか憂鬱な日々を送っていた。大人に近づくのがなんだか嫌だったからだ。  放課後、晴れていた朝に母さんが言った通り、激しい雨が降っていた。秋の天気は本当に変わりやすいんだな、と納得しながら傘を差して校門を出る。  少し歩いて河川敷の階段を登ろうとした時、見覚えのある後ろ姿を見つけた。  彼女だ。  傘も差さずにずぶ濡れになっている。私は一瞬ためらったが、考えるより先に体が動いた。階段を急いで駆け上がり、堤防を歩く彼女に追いつく。 「ねぇ、大丈夫!?」 「……別に、平気」  驚いた様子の彼女だったけど、すぐに冷たい表情を取り戻して歩き出す。 「おうち、まだ遠いじゃない。傘貸すから、うちに寄って」 「いいよ」 「よくないって。風邪ひくよ」 「ほっといて」  聞く耳を持たず歩き出す彼女に、私はとうとう大声で叫んだ。 「ほっとけないよ!友達なんだもん!」  ピタリ、と彼女の足が止まる。久しぶりに間近で見る彼女は、えらくやつれているように映った。 「お願い。体も拭かなきゃ」  立ち止まる二人に、容赦ない豪雨が降り注ぐ。このままこの雨が、私達の空白の時間ごと、離れた距離を洗い流してくれたらいいのに、と私は思った。  彼女を無理矢理家に上げた私が、バスタオルと替えの服を手にリビングへ戻ると、彼女はゆっくりと室内を見回していた。 「……懐かしい?」  私の問いに、コクリとうなずく。  私がバスタオルを渡すと、彼女はそれを見つめたまま微動だにしない。 「さ、早く」  私が促すと、彼女はようやくためらいがちに洋服を脱ぎ始めた。その時。 「……!」  私は、言葉を失った。彼女の素肌のそこら中に、痛々しく、青く腫れ上がった打ち身があったのだ。 「……何も、言わないで」  彼女はそう言いながら髪と体を拭くと、ランドセルから体操服を取り出しそれに着替え始めた。私は早くなる鼓動に呼吸が苦しくなりながら、その様子を眺めていた。 「返さなくて、いいから」  玄関でビニール傘を渡しながら言うと、彼女はうなずいて答えた。 「……ありがとう。それと」ドアを開けながら、彼女が振り返る。「私、引っ越すの。最後に話せてよかった」  私は突然の言葉に驚き、絶句した。 「じゃあ」  ドアが閉まる。訪れた静寂とは裏腹に、消化しきれない様々な感情が激しく胸に渦巻いた。  私の知らぬ間に、彼女に何が起こっていたのか。離れていく彼女の異変の真実に、どうして気付けなかったのか。私にも言えない、とてつもない何かが彼女を苦しめていたんだ。  私はゆっくり深呼吸をしてから、震える手でドアハンドルを握りしめた。  外に出ると、さっきまでの勢いが嘘のように雨はすっかり止んでいた。どうやら通り雨だったらしい。雲の切れ間から、眩しい光がわずかに顔を覗かせている。  私は走って河川敷までやって来ると、勢いよく堤防の階段を駆け上がった。そして、心の底から振り絞るように、遠のく彼女の背中に叫んだ。 「会いにいくから!」  一瞬、足を止めかけたように見えたけれど、彼女はこちらを振り返ることなく、そのまま歩いて行ってしまった。 「どんなに遠くても!」  カラスの鳴き声と、遠くで泣きじゃくる赤ん坊の声が聞こえてくる。下唇を強く噛んで堪えたけど、胸の痛みと、無力さで、溢れ出す涙を止められなかった。  私は、美しく複雑な色をした雨上がりの秋空の下、いつまでも、いつまでも彼女の後ろ姿を見つめ続けた。  それは、ずっと子供のままでいられるような気がしていた自分との、別れの光景でもあるように思えた。

火事と喧嘩はネットの華

 ピー。録音されたメッセージがあります。 「もしもし流川先生、編集の矢部です。今どこですか? これ聞いたら折り返しください」 「流川先生、もしかして寝てます? ネットで先生の『夜空に泳ぐ熱帯魚』がすごい話題になってます。……悪い意味でですけど。折り返しください」 「先生、埒が明かないんでお話だけしますけど、今週発表した先生の最新話が盗作じゃないかとネットで炎上してます。最新話の二ページ目から六ページ目まで、先月SNSに誰かがアップした漫画とコマ割りも構図も全く同じだって。これ聞いたら電話ください」 「先生……あの、一応確認なんですけど、この前俺が『参考にしてください』って言ったネットの作品、そのままパクっちゃったって事はないですよね? この……そう「ジョバンニ」さんのやつ。俺、別に『真似しろ』とは言ってないっすよね? ただ、最近『夜熱』の話のテンポが悪いって感想が多かったんで、読者の目を引くストーリーにしたらどうかなあって思ってアドバイスのつもりだったんですよね。俺、間違ったこと言ってないっすよね?」 「先生、矢部です。先生がヘソ曲げてる間に、ネットの騒ぎはどんどん広がってますよ。先生の過去の漫画まで粗探しみたいな事されて。編集部では『どっちみち『夜空に』は人気も落ち気味だったし、潮時じゃない?』とか言われて。悔しくないんすか? 俺は悔しいっすよ! 新しいキャラクターだって登場させたばっかりなのに! あのキャラクターは絶対人気出ると思うんでもったいないですよ。今なら間に合うんで世間に何とか言ってください」 「先生、俺のことも無視ですか?」 「先生、今日の編集会議で『夜空に泳ぐ熱帯魚』の打ち切りが決まりました。とりあえず、最後の情けで打ち切り理由はアンケート結果を考慮したって事にしておきますから。あとは先生のアカウントからそれっぽい謝罪文出してもらえれば大丈夫だと思うんで。よろしくお願いしますね」  《打ち切りが決定しました自作『夜空に泳ぐ熱帯魚』について》  この度、編集部の決定により連載中の『夜空に泳ぐ熱帯魚』の打ち切りが決定しました。公式ページの案内では、打ち切りの理由は人気低下のためとされています。しかし、ご存知の方もおられるかと思いますが、真相は先日からお騒がせしている盗作疑惑が原因です。本作が、画像投稿サイトのとあるアカウントの作品と酷似しているとされたものです。  私は、皆様にお詫びしなくてはなりません。  盗作の被害者とされるアカウント「ジョバンニ」は、私、流川昂の私的なアカウントでした。  皆様に応援されてきた『夜空に泳ぐ熱帯魚』ですが、担当編集と意見を擦り合わせる内にどんどん自分のイメージしていた漫画とは別物になってしまっている感覚が拭えず、ガス抜きのような気持ちで、編集者の意見の及ばない自分の好きな気持ちだけを漫画にしてジョバンニとして投稿していました。  私の力不足でこのような結果になってしまい、申し訳ありません。今後は、ジョバンニ名義で投稿を続けていこうと思います。応援のほど、よろしくお願いします。  流川昂  ピー。録音されたメッセージがあります。 「先生! 話が違うじゃないですか! ねえ! ちょっと今からそっちに行きますから絶た……」  メッセージはまだ途中だが、これ以上は聞く気になれず指先をちょいと動かして全て消去した。悪いけど、これからは自分の好きなものを描くよ。  人の意見に邪魔されてる場合じゃない。やりたい事がたくさんあるんだ。

元親友からのメッセージ

愛ちゃん、久しぶり。仁美です。 知り合いかも? に愛ちゃんが表示されたから、おもいきって連絡してみました。 愛ちゃん、昔は私と仲良くしてくれて、本当にありがとう。 愛ちゃんが仲良くしてくれて、輪に入れてくれたおかげで、私にはたくさん友達ができたよね。 いじめられっ子だった私にとっては、学校生活の中で、愛ちゃんたちとすごす時間が、唯一の楽しい時間だったよ。 愛ちゃんはすごく絵が上手だったよね。きっと今も、絵を描いてるんだろうな。 私もまたいつか、愛ちゃんの絵が見たいな。 私が愛ちゃんのおかげで、学校に通えていたように……愛ちゃんの絵で、たくさんの人を励ましてあげてください! 長くなってごめんね。親友の仁美より。 ―― 「このメッセージ、重った! 誰これ、愛のストーカー?」  私は大学の友人に、昨日の夜届いたメッセージアプリのメッセージを見せて、笑いものにしていた。 「中学のときにちょっと仲良くしてだけの相手なんだけど、キモいよね」 「ほんとにこんなのと親友だったの?」 「まさか! この子を親友だと思ったことなんて一度もないよ。いつもひとりぼっちでかわいそうだったから、声をかけてあげただけ」  友人の問に、慌てて返す。実を言うと、仁美とは実際に親しい頃もあったのだが、そんなことを言ったら、私のイメージが崩れてしまう。 「愛ってやさしいじゃん〜。陰キャに勘違いされたってことね」 「そうそう、そんな感じ」 「今この子、何やってるの?」 「中二の途中で不登校になったことは覚えてるんだけど。そのあとは、高校も行かないで引きこもりだって噂で聞いた」  まあ、仁美が不登校になったのは、私のグループがハブにしたせいなんだけど……とはさすがに言わないでおいた。 「へー、なんか、かわいそうだね。うちらはよかったよね、自分たちの実力とはいえ、そこそこの美術大学の現役学生になれたんだから」  自信過剰気味の友人の発言だが、私たちが有名美術大学の現役学生であることは事実だ。 「自分たちで言うのもアレだけど、差がつきすぎだよね」  だから、私も自信過剰気味の言葉を返す。 「で、この子に返事はしたの?」  興味津々、という様子で友人が聞いてくる。 「するわけないけど、面白そうだから、ブロックはしないでおくつもり」 「愛も悪いやつだね〜」  そう言う友人に、私はおどけて答えた。 「……えっ、私、何も悪いことなんてしてないよね?」 ―― 仁美ちゃん、久しぶり! 愛だよ♪ 自分の経験を元にした本を出せることになったって噂で聞いたんだけど、ほんとにすごいね☆彡 私、大学卒業してから、フリーでイラストレーターをやってるんだけど、よかったらその本の表紙、私に描かせてくれない? 会って謝りたいこともあるし、ぜひ連絡ください。 私はずっと実家暮らしで、彼氏もいなくて暇だから、全部仁美ちゃんの都合に合わせるよ。 親友の愛より♡ 愛さんへ 本のカバーイラストはプロの方に頼んであります。 「元」親友より ――  ……既読はついたけれど、三日間、愛から返事はない。ほんの少し前までの私だったら、愛からの連絡を心から喜んだことだろう。でも今は、最愛の夫と子どもがいる。そんな幸福に比べたら、結局は自分のことを裏切った相手のことなど、過去の存在でしかない。 「あっそうだ、せっかくだから、愛に家族三人で撮った写メでも送っておこうっと」  そう独り言を言ってから、でも逆恨みされても困るな、と思ってやめておいた。愛のことは、また連絡が来たとしても、無視するのが一番のやさしさだろう。  ……えっ、私、何も悪いことなんてしてないよね?

ココア味の吹雪

強風に煽られた大粒の雪が、硝子を隔てた夜の闇を真っ白に染め上げている。 昼間で機嫌が良さそうに晴れ渡っていた空は、今になってひどく吹雪いていた。 この分では、電車も車も止まってしまうだろう。 つくづく、運が無い。 私は壁に掛けられた簡素なカレンダーを見遣り、一つ溜息をついた。 日付の部分に一日一つずつ刻まれる真っ赤なバツ印は、私に希望を見せてくれていたのに。 「待ち焦がれた瞬間」は、もう少し先になりそうだ。 ワクワクも胸の高鳴りも一気に消え失せ、代わりに別な感情が台頭する。 ………今日は、ココアでも飲もう。 貴方との出会いを象徴した香りは、きっとこの想いを紛らわせてくれるから。 * 人のことを数字でしか判断しない両親や先生たちとのギスギスした関係、伸び悩む成績、見通しが効かない未来。その全てに嫌気が差した私は、あの日、学校を飛び出したんだっけ。 走って。走って。 全く知らない公園で蹲っていたら、同級生の貴方が温かいココアを差し出してくれたんだ。 「どうして此処に?」って聞くと、「気になったから、追いかけて来ちゃった」 なんて。息を切らせながら、無邪気に微笑んでくれたよね。 あの微笑みに惚れた私から、告白して─── こうして、貴方の帰りを待つもどかしい日々を送っている。 * ヤカンから吹き出す蒸気の音で、短い回想から引き戻された。 もう、湯が沸いたらしい。 完成したココアは、記憶よりもずっと甘かった。甘すぎて、口に合わない。 けれど同時に、ひとつ思い出したことがある。 あの日も、雪が降っていた。 * 一夜が明けて吹雪は止んでいたが、それでもちろちろと雪は降り続けていた。 中途半端にアスファルトで舗装された道路や街行く車に降り積もった白銀は、案外、絵になる。 私は久しぶりの雪景色を網膜に刻み付けつつ、そろそろ買い出しに行かなければならないな、なんて、決して切り離せない日々の雑事に思考を向ける。 と ピーンポーン、と単調な電子音が家中に響いた。チャイムだ。 期待してはいけない。 仕切りにそう繰り返す理性と相反して、胸はどくどくと高鳴っている。 顔の温度が上がるのを感じる。 私は、薄い鉄の扉を押し開けた。 「ただいま」 貴方の声。紛れもない、貴方の香り。 待ち望んだ、この瞬間。 彼の肩に積もる雪が、あの日の記憶と重なり、溶けて、混じり合った。 「………おかえり」 押し寄せる様々な感情を抑え、それでも精一杯の返事をして。 私は、貴方を抱き締めた。 雪雲は、彼方に去ったのだろう。 弱々しく、けれども確かに存在する冬の陽光が、私と貴方の世界を照らし出すのだった。

因果応報

 ……おかしい。どうしてことごとく俺の作品が選ばれないんだ。俺は激しい怒りを感じていた。  SNSでは頻繁にお題付きの小説のコンテストが行われている。  俺はコンテストを見つけては、自分でも傑作だと思える作品を投稿してきた。  結果発表の日時には毎回ドキドキするが、絶対自分の作品が選ばれると信じていた。  しかし、どのコンテストでも、大賞どころか、特別賞にすら選ばれない。  別に賞金があるコンテストばかりではないが、だからこそ、そんなものにすら選ばれないことが悔しかった。    あまりの悔しさに、俺はコンテストの運営者や、作品が選ばれた人間のアカウントをことごとく荒らしてやった。  そうしているうちに、コンテストのアカウントがなくなったり、作品を書かなくなったりする人間もいた。  ざまあみろ。これも俺の実力を認めないからだ。    そのうち俺はSNSでの投稿に飽きて、地道に小説の公募に投稿するようになった。すると、そのうちの作品の一つが審査員特別賞に選ばれたのだ。 「おめでとうございます。ただ、自主的に辞退したほうがよろしいかと」  ところが、とんでもないことを運営の人間から言われた。なぜだと聞く俺に、運営の人間は冷静に言った。 「あなたの過去のSNSでの書き込みを見たからです」

君が好きだと伝えた日

「君が好きだ!付き合ってほしい!」 「っ…。私で良ければ!」 そう、彼女に伝えたのはいつだったかな。 その後、彼女は交通事故で亡くなったんだ。 ひき逃げだったらしい。俺と彼女がデートの日、帰り道は正反対だったため、家に送るといったのだが、「大丈夫だよ。またね」そう言っていた。そして、ひき逃げにあった。 病院に搬送され時はもう手遅れで、彼女はそのまま亡くなった。 ただ、自分を憎んだ。どうして無理にでも送っていかなかったんだろう。 どうしてもう少し一緒にいてあげられなかったのだろう。だが一番憎いのは彼女をひき逃げた犯人だ。 怒りが込み上げてくる。 許せない、何故彼女がひき逃げにあわなければいけなかったんだろう。辛かっただろう。 痛かっただろう。そう考えれば考えるほどに、 犯人への憎しみと、彼女への想いが溢れてとまらない。このさき俺はどう生きていけば良いのだ。彼女なしでどう過ごせば良いのだろうか。 彼女の葬式が終わり、家へ帰った。 ゆっくりと、重い足取りで家へ向かった。 そんな日々が続いて一ヶ月がたった。 今日は月命日。彼女の墓に手をあわせた。 すると温かいぬくもりのある風が吹いた。 彼女のあの手のような温かい風が。 それと同時に、彼女の声が聞こえたような気がしたんだ。 「元気だして!私がいなくても大丈夫よ。 私のために笑って。貴方のためにも笑って。 貴方が悲しむと、私まで悲しくなる。だから、 私のために笑ってよ!私は貴方の幸せを一番に願っているわ。」 「っ!わかった。君のために笑うよ。 君のために幸せになるよ。 今までありがとう。永遠。(とわ)」 彼はそう言って立ち去った

ハツコイソワレ

 拝啓、大好きだった先輩へ。  田舎から上京し、慣れない街で一人っきりから始まった大学生活。授業は難しいし、課題は多いし。掃除も、洗濯も、食事の準備も自分でしなくちゃいけない。  高校生活から一変した毎日を、頑張って乗り越え続けて来れたのは、先輩のおかげなんですよ?  先輩と初めて会ったのは新入生ガイダンスの帰り道。小難しい話を聞いてこれからの学生生活に一抹の不安を抱きながら、大講義室から校門へ向けて歩いていたところでした。  賑やかな部活勧誘の花道で次々と手渡されるチラシに埋もれていた私を、「君、なんかいいもの描きそう」と捕まえたのが先輩でした。正直、あの時の先輩は不審者スレスレでしたよ?  先輩の誘いを断りきれずにいた私はズルズルとそのまま、空き教室を使って開かれていた新入生歓迎パーティーへと引っ張っていかれて、結局アパートに帰りついたのは夜も更けた頃。  未成年だからアルコールは飲めなくて、口にしたのは先輩たちの奢りだというオードブルの数々とノンアルコールのお茶やジュース。だと言うのに、買ったばかりのまだ慣れない匂いのベッドへ倒れ込んだ時には、からだ中に酔いが回っているみたいに、ふわふわしていました。 「絵が好きなんだ。上手くはないけどね」  先輩は初対面とは思えないくらいあれこれ話をしてくれて、私も絵が好きだったのかも、なんて思えてきちゃって。恋人なんていたことない私は、あんな気持ち初めてで。  たぶん、きっと、その時には、もう。  それからキャンパスで出会う度に先輩は「今日はサークル来る?」なんて声をかけてくれましたよね。私、まだ入るって言ってなかったのに。  結局、楽しそうな先輩に憧れて、私は絵画サークルへ入ることを決めました。こんなのは予定していなかったけど、運命の悪戯? 巡り合わせ? そんな言葉を使いたくなってしまうくらい、私にとって大切で幸せな毎日が始まりました。  先輩が実は同じ学科の三年生だったというのも、嬉しい誤算でした。課題を手伝ってくれたり、定期試験の過去問を譲ってくれたり。時にはアドバイスとか言って注文だけつけて教えてくれないこともあったりして。  サークルでも、油絵なんて初めてだったけど、絵の具の使い方、構図の決め方、道具の手入れ。ゼロから十まで教えてくれたのは、先輩でしたね。  絵画サークルなんて言っても、真面目に活動していたのは先輩くらいで。時々……というか活動日のほとんど、イーゼルやキャンバスが壁際にごちゃっと立てかけられた小さなサークル室にいるのは私と先輩の二人だけ。  ストーブみたいな匂いがする画材の匂いが充満する室内。サッ、サッと回り続ける換気扇の音。歪んだブラインドから漏れ入る夕日のオレンジに照らされる先輩の横顔。  毎日が、楽しかったなぁ。  本当はもっと話も相談もしたかったけれど、先輩のいたあの空間を壊したくなくて、結局聞きそびれちゃったことがいっぱいあるんですよ?  なんて、今更ですよね。  一度だけ、私が静を破って声をかけたこと、覚えてますか? もう夏がすぐそこまで来ていて、そろそろエアコン付けないとダメだねって話し始めた頃でした。 「先輩」って私が呼びかけたら、「どうしたー?」って応えてくれて。  あの時「好きです」って言えてたら、何か違ったのかな。もっと違う未来がありましたか?  なんて、これも今更ですね。  夏の終わり。そろそろ本当に学祭の作品に取りかからないとという頃。  先輩の隣には素敵な彼女さんが並んでいましたね。学科の四年生で、私が入った時にはもう引退していた絵画サークルの先輩。気づけなかったわけだ〜って、妙に納得しちゃいましたよ。  すごく大人で、綺麗で、いい香りがする人。敵わないなって、思っちゃった。  だから私は、最後に一枚だけ、先輩に向けた絵を描いて、終わりにしようと思います。  これまでの「ありがとうございます」と「好きでした」を込めて。  ◇◇◇  アパートのドアをくぐる。  靴も上着も脱がす、鞄さえ肩から掛けたまま、私は狭い玄関にしゃがみ込んだ。  ――やっぱり。いい絵だね。  大学祭の展示へ出品した私の絵を見た先輩の言葉が頭の中に響く。声もなく、一筋、涙が零れた。  しばらくしてやっと動けるようになった私は、机の引き出しに三ヶ月程入ったままになっていた手紙を取り出し、キッチンへ向かう。  ガスコンロへ火を灯し手紙の先を近づけると、オレンジの炎が簡単に乗り移る。それをポイッっとステンレスの流しへ放り込んだ。  大学祭を区切りに先輩は引退する。よかった、と思った。この気持ちに気付かれずに済むから。これ以上、傷つかずに済むから。  私はひたすら、夕焼け色の炎が炭になるまでぼうっと見送った。  ばいばい。始まらなかった私の初恋。

〈テスト〉

This is my story. Ah,I'm Japanese. I don't use translation,so this sentence may be strange. Sorry,My mother is coming into my room. (修正。) Bye! これでも英検3級は取得済み。 ・・・レベルひっく! 間違えてるかもだから、誰か指摘してくれると嬉しい。

お国のために、死ねなかった

 俺は愛国者だった。  第二次世界大戦と、のちに呼ばれることになる戦争では、徴兵制度に真っ先に志願した。  ”お国のために死ぬ“それこそが、日本人として生まれた自分の宿命だと考えていたのだ。  俺が愛国者になったのは、皮肉なことに、家族がいわゆる非国民だったからだ。 「日本が外国に勝てるわけがない。こんなことを言ったら捕まるから、大きな声では言えないが、戦争なんて何もいいことがないよ」  とくに、父親はいつもそんなことを言っては、ため息をついていた。  俺の育った家庭は比較的裕福だったので、衣食住に困ることもなかった。だからこそ、今思えば、そんな余裕のある考え方を父親はしていたのかもしれない。  そんなことを理解できなかった当時の若い俺は、父親に徹底的に反発した。 「この非国民が。徴兵されたら、真っ先にお前の首を切ってやる」  そこまで言ったこともある。父親は、そんな俺を見て、母と、俺の二歳下の弟と一緒に苦笑いしていた。  弟はまるで愛国心のかけらもなく、戦争には行きたくないと常々言っている、軟弱者だった。  俺はその分、愛国者として立派に生き、死んでいこう……そう改めて決意した。  ところが、徴兵制度に志願した結果、俺は、絶望を味わうこととなった。 「心臓に雑音がある。これでは兵隊にはなれない」  出兵前の検査で、医者にそう言われてしまったのだ。  ――自分は、愛国者だと誇りを持っていたのに、愛国者として死ぬことすら許されないのか――  目の前が真っ暗になり、それから俺は、ふさぎ込むようになった。 「兄ちゃん、戦争に行かなくてよくなったなら、死ななくてすんだじゃないか!」  弟が、のんきにそう言ってきて、俺は弟のことを本気でぶん殴った。確かに、結果的には弟の言うとおりだった。  だが、そのときはそんなふうには、とてもじゃないが思えなかったのだ。  どんどん戦況が悪化しているということは、愛国者の俺にも伝わってきた。ラジオや新聞の報道は嘘で、実は日本は負けているのだと。  ……自分さえ、兵隊になれていれば。自分一人が戦争に行ったところで何も変わらないことは明白だったのだが、どうしてもそう思ってしまった。  そんなある日、赤紙が届いた。俺は狂喜したが、それは弟宛のものだった。 「兄ちゃん、俺、死にたくないよ」  そう言って泣く弟のことを、俺はまたぶん殴った。 「お国のために死ねることの、何がつらいのだ」  俺はお国のために死にたくても、その資格すらないんだぞ、とは言えなかった。  弟は、泣きながら、同じく泣いている両親に見送られ、戦地に向かっていった。  弟の戦死を伝えられたのは、もう終戦してからだった。  終戦してからの日本は、百八十度変わっていた。 「戦争はよくないことだった」「戦死した若者の命は無駄になった」  そんなことを、平気で新聞もラジオも、身近な人間も言うようになっていた。  俺の両親に至っては、当たり前のように、弟を返せと泣きわめいていた。 「どうして俺を殺してくれなかったんですか」  徴兵制度に志願した際の医者に、終戦してから言いに行ったことがある。熱心な愛国者であったはずの俺は、戦争に行くことは、殺されるのと同義だと思うようにまでなった。  医者は困った表情をするだけだった。 ―― 「でも、そのおかげで、私たちが生まれたってことだよね、おじいちゃん」  まだ小学生になったばかりの孫娘に、戦争の話をしてとせがまれたので、俺は昔話をしていたのだ。聞いていて難しいところもあったと思うが、よく理解できたものだと感心する。 「ああ、そうだな……」 「あのさ、もしそのときにおじいちゃんが健康で、戦争に行けたんだったら、今でも行きたい?」  孫娘が、無邪気に聞いてくる。俺は、一瞬言葉に詰まってしまった。 「戦争は、起きないのが一番だよ」  そう答えるのが、精一杯だった。

暗がりの公園で

 良く晴れた空の青がいやに目にしみる。夏の濃い影が前方の歩道を黒く塗り固めていた。  こんな日は、いつだってあの子のことを思い出す。  高校前のバス停から少し歩いたところにある公園だった。良く晴れた夏の日。雲ひとつない快晴。平日のお昼前。日当たりが悪く、ブランコと滑り台しか置いていない小さな公園には誰もいない。 「あたし、努力ってできないんだよね」  大きく軋むブランコにそれぞれ乗っていたとき、あの子はなんてことないようにそう言った。私が返事をする間もなく「努力するのが苦手なんだわ」と続ける。ギイと錆びた金具の軋む音。赤茶けた鎖に絡む彼女の細い指が日陰の中で眩いほどの白さを見せてくる。 「本人が自覚してない努力って、あると思うんだよね。だから、アンタは努力ができないわけじゃないと思う」 「どういうこと?」 「ほら、アンタ、美容にはめちゃくちゃ気を使うじゃない。肌とかきれいだし。そのためにバイトしてるし。それって努力じゃないの?」 「好きだからやってるんだよ。バイトも好き」 「私にしてみれば、それは努力だと思うよ。うーん、なんて言えばいいのかな。努力って、つらいことだけじゃないじゃん? はは、わかんねーや」 「あはは、なにそれ。でも、いーね。その考え方、好きだよ」  思えば、もうあの頃には私たちの心は離れ始めていたのだと思う。「好きだよ」と良いながらも、あの子の眼は笑っていなかった。  あの子とはクラスメイトではなかった。同学年ではあったけれど、三年間の高校生活でクラスが一緒になったことはない。ただ、サボりに使っていた公園がたまたま一緒だった。それだけの関係で、あの頃の私たちは繋がっていた。  夏の影のような子だった。ぎらぎら照りつける日差しの裏に色濃く落とされる黒。輝かしい外見とは裏腹に、その心根はひどく暗澹としていた。だからこそ、私はあの子の傍にいたかったのだろう。あの子の先を捉えない真っ黒な瞳を恋しがったのだろう。あの子とならば、先が見えない恐怖を共有できる気がしていた。 「ねえ、あたしらさ」  蝉の大合唱の中、あの子の甘えたような声だけは良く聞こえる。 「オバサンになっても、こうして一緒につるんでよーね」 「……いーね」  そう答えた私の眼も、笑っていなかったのだろうか。  あの子はそれに、気づいていたのだろうか。  私が日向を見つめ始めたのは高二の春の終わりだった。  進路希望調査を白紙で出した私に、新任の教師が話しかけてきたのがきっかけだったのだろう。彼は私を責めず、ただ「キツいときは寄りかかって来い」とだけ言った。  目標になる大人なんて、今まで私の周りにはいなかった。それなのに、突然現れたその人はいつの間にかそこに立っていた。あんな大人になりたいと初めて思った。トンネルの出口から差し込む光ような、暗がりを照らす太陽のような。その人は、暗がりから私を見つけ出す陽光だった。大人の触り心地が思いのほか良いことを、私は知ってしまったのだ。  大人になることを拒むのはやめた。大人になる方が楽だと、子どものままでいる方がよっぽど苦しいのだと、知ってしまった。何よりも、このまま暗闇に身を置き続けるのは恐ろしかった。  日向への道に焦がれていた私は、がむしゃらになりながらそれに飛びついた。  あの子を日陰に置き去りにして。  夏は知らぬ間に過ぎていて、秋になっていた。実りの季節。頭を深く垂れた稲穂が風に揺れるのを、あの公園へ続く道とは逆方向を歩きながら見ていた。黄金色の銀杏並木がどこか輝かしく思えた。  気づけば、私はあの公園に行くのをやめていた。昼間でも仄暗い公園よりも、いつだって蛍光灯が白く照らす教室に身を置くようになった。あんなにも心地よかったあの子の影。それが日に日に、私には恐ろしく見えてしまうようになったのだ。それから、私があの子に会うことはなかった。  あの子のクラスすら私は知らなかったのだと気づいたのは、卒業式で彼女の姿を探したときだった。  よく晴れた夏の日、私はふとあの子の姿を探す。あの子はいまも、暗澹とした影を心に潜ませているのだろうか。  あの暗がりの公園で、果たせない約束を抱えながら私を待っているのだろうか。

私の初恋はこうでした。

 私は、高校生の美波。皆から「みーな」と呼ばれている。そんな私には、彼氏がいる。名前は、「中村レオン」。レオンは、モテてるのにこんな私を受け入れてくれた。多分、つきまとってる女子を振り払うためなのだろう。  でも、それだけでOKするんじゃ、最低のクズ。関わったらすぐにわかる。だから恐らく別の理由も存在しているはずだ。 私はそれが気になって、聞いてみることにした。 「ねぇ、レオン」 「何?みーな」  少し、言うのが怖い。レオンを攻めたいわけじゃないけど、いきなり言うとそう捉えられてしまうかもしれない。そんな私を察してくれたのか、レオンは「言ってごらん」と優しく言ってくれた。 ―もう、言ってしまおう・・・! 「レオン、どうして私を受け入れてくれたの?他の女子を振り払うためなの?それとも、別の理由?」  レオンは黙ってる。そりゃそうだ、困惑しちゃうよね。嫌な気分になってしまうと思って「あのね、」と発言を取り消そうとした時。 「・・・みーなに告白される前から、みーなの事が気になってたんだ・・・」 ―え? 意外な回答に、私は思わず凍りついたように固まってしまった。 ―嘘、だよね?いつ、会ったっけ?接点なんて、あった? 「いつ初めてあったの?」その言葉は喉まで来ていたが、ごくりと飲み込んでしまった。 「・・・実は、一回ナンパを助けたんだ。」  ナンパ。一回だけやられた。たしかに、助けられたけどレオンみたいなスラリとした容姿で、整ったショートじゃなかった。ボサボサで、太ってて、ヲタクで・・・。 「それ、俺なんだよね。」 えっ、整形した⁉ 「してないよ。」 まじかぁ・・・ 「・・・こんな整形を疑われるほど変わってるけど、みーなの事が好きなのは変わりない。」 へ? 「・・・結婚を前提に、これからも付き合ってくれますか?」 ―はいっ・・・!  これが、私の初恋でした。

鳥かごの中で

 鳥は本当に自由なんだろうか。 ――  ごく平凡な中学二年生の僕は、今日も一人で中学校に登校し、一人で過ごし、一人で下校する。  下校途中、鳩の集団を見かけた。鳩同士は餌の取り合いで、暴力的な争いをする。鳩は平和の象徴だというが、どこが……と思ってしまうのは早計だ。  少なくとも、僕の所属するクラスのように、表面上は平和で、なのに大勢で一人の人間を陰湿に攻撃して成り立っているより、よっぽど素晴らしい。  攻撃されている”彼“は、いわゆるいじめられっ子。なんでも、小学校のころからずっといじめられているとの話を、誰かがしていた。  そんな彼が先日突然目立ったのは、区か何かの作文コンクールの賞を受賞したことだった。題名は『鳥かごの中で』。  ”学校とはまるで、鳥かごの中のようだ。一見、守られているようで、ひとりひとりが幸せかどうかは、誰にも判断できない。“というフレーズが、審査員の胸を打ったらしい。  その彼は、いつの間にかあだ名が”バードマン“になっていた。 「お前、鳥なんだろ? なんで人間の学校に来てるんだよ。バードマン、そこから飛んでみろよ」  毎日のように当たり前に繰り返される彼に対するいじめ。 「ほら、バードマン、飛べ!」  そう言って、教室の窓から、彼を落とす”フリ“をする。教室は三階。落ちたら死ぬとは限らないが、怪我をすることは間違いないだろう。  それをわかっているからこそ、いじめっ子のほうも”フリ“でとどめているのだ。 「やめてよぅ」  彼の、そんな情けない声が聞こえてくる。情けないとはあんまりな表現かもしれないが、実際にそういう声だったのだから、仕方がない。僕はいじめっ子よりも、ここまでされて何も反撃しない彼に腹が立った。  あんなに素晴らしい文章を書ける彼ですら、ただの迫害されるだけの存在なのだ。  そう、学校は彼にとって、本当に鳥かごの中なのだろう。どんなにいたぶられても、抜け出すことのできない……。  それは果たして、他人事なのだろうか?       今、誰も僕に興味がない。僕も誰にも興味がない。  いや、僕は彼に対して興味はある。だが、それを表現する勇気もない。ない。ない。ない。ないことだらけ。今後の、高校、大学、社会、結婚、すべて鳥かごの中で構築されているかのように思える。  ああ、それなら今、鳥かごの中で耐え続けている意味は、何かあるのだろうか。僕は、頭の中で何かが壊れる音がした。 「こっちを見ろ!」  僕は、窓際から大声を出した。普段、まったく目立たない僕の突然の奇行に、クラス中がシーンとなった。彼も、僕を見ていた。 「ひと足お先に。こんな鳥かごなら、逃げ出したほうがいいから」  飛び降りは、一瞬で終わった。ものすごい衝撃だったが、僕はなんと、足から着地した。  だから生きていたし、意識を失うことすらしていなかった。だが、とにかく、全身が痛くてたまらなかった。  それは、今まで生きてきて、感じたことのないような痛みだった。おもわず、その場に崩れ落ちた。  そのあとの経緯は記憶があいまいなのだが、僕は救急車に乗せられ、気が付けば病院のベッドの上で、ぐるぐる巻きにされていた。  結局、僕は足の複雑骨折が主な原因で、全治二ヶ月という、なんとも微妙な結果での”自殺未遂“となった。  入院中、医者――精神科医だろう――が飛び降りた際の気持ちをさり気なく聞いてきた。  鳥かごの中から出たかったから、などと言ったら違う意味で入院が長引いてしまいそうだったから、適当に答えた。  両親や担任に対しても、同様だった。ひとまず、いじめが原因ではないということで、担任は安堵したようだった。  退院しても、僕の日常は何も変わらない。ただ、さらに人から避けられるようになっただけだ。学校という鳥かごも、何も変わらない。  僕は今日も、一人で中学校に登校し、一人で過ごし、一人で下校する。  ふと、彼――バードマン――は僕のことをどう思っているのだろう、と考える。  もし、飛び降りるなどという、くだらないやり方で鳥かごからの脱出を目指さず。彼と正面から話していたら、何か違っていたのだろうか。  そんなことを考えながら歩いていた下校途中、鳩たちが餌の取り合いで争っていた。 「バカヤロー!」  突然僕が大声を出すと、鳩は一斉に飛び去っていった。僕は何もおかしくないのに、それを見て、ひたすら笑った。  いつの間にか、僕は泣いてもいた。笑いながら泣く僕を、通行人は露骨に避けて通った。  ”学校とはまるで、鳥かごの中のようだ。一見、守られているようで、ひとりひとりが幸せかどうかは、誰にも判断できない。“  少なくとも、僕は幸せじゃないみたいだよ、バードマン。

別れ

 ある日、彼氏と駅のホームで待ち合わせしていた日のことだった。 彼氏と、別れてしまった。 ―「別レル」。一般的には、「またね。」「さようなら」の、また会うことを前提での「別れ」。  でも彼氏と私がした別れはそうではなくもう二度と会えない別れである。 ・・・そう、彼氏は交通事故に合ってしまいこの世から去ってしまった。  私は、もう彼の腕のもとに行くことは出来ない。「待って。」といえば、待ってくれる人はもういない。そんな私を置いて人の群れや時間はどんどん進み、電車はどんどん来て、どんどん発車していく。  結局私は昼頃の9時にここにいたのに、日が暮れるまではずっと座ってじっとしていた。 ―私と一緒に街を歩いたり、「好きだよ」と言葉を交わし、口も交わせる相手はいない。 いたけど、あの世に引っ越してしまった。  あぁ、神様よ。仏様よ。私の願いが、 ―とどいているのならば、 もう一度、「恋」をさせてください・・・。

初恋

 私が正直な気持ちを口にすると、誰もが鬱陶しそうな顔をする。学校でだって、家でだって。昔から、私の居場所はどこにも無かった。  その時も、お姉ちゃんの偏屈な話に調子を合わせて両親が大笑いするもんだから、否定的な意見をした。すると、三人とも表情を曇らせて冷たい目で私を見た。  ……ああ、またか。私は思ったことを言っちゃいけないんだ。  そう思っていると、初対面のケイが口を開いた。 「ミキは素直ないいコだな」  そう言って、私の頭を撫でてくれたんだ。  彼はそれから、よくウチへ遊びに来るようになった。大学へは行かず、社会人として働くケイは、一つしか違わないお姉ちゃんより随分大人っぽい印象だった。 「ははは。ミキらしいな」  酔ったケイが私の言葉で笑う。私はどこにいたって除け者にされる。なのに、彼だけは私を認めてくれている気がした。 「甘やかさないで」  お姉ちゃんは決まって、そのやりとりを不満そうに遮った。 「……私も飲む!」  私はそれが面白くなくて、半ばヤケクソでテーブルの上のチューハイを手に取ろうとしたら、誰よりも先にケイが声を張り上げた。 「ダメだ!ミキ!……ハタチになったら、一緒に飲んでやるから」 「……本当?」 「ああ」 「じゃあ、我慢する」 「うん。素直ないいコだ」  彼はそう言って、初めて会った日と同じように私の頭を撫でた。私は私のままでいいんだ。そう、思えた。  お姉ちゃんが三回生になり、私が高校に入学した頃、ケイが一人暮らしを始めた。 「ミキもおいでよ」  彼の言葉にお姉ちゃんは最後まで渋っていたが、結局私もついていくことになった。  家の車以外に乗るのが初めてだった私は、ドキドキとワクワクを存分に味わった。上手くいきそうにない高校生活を思い憂鬱だった気持ちも、あっけなく吹き飛んでいった。後部座席から見た知らない街の桜並木はまだ満開で、とてもとても美しかったのを覚えている。  そうして夏が過ぎ、秋も終わり、十二月に入ったある日の夜。めっきり家にやって来ることがなくなったケイの車が、家の前に停まっているのを偶然二階の窓から見つけた私は、急いで玄関に駆け降りた。  すると、お姉ちゃんが頬を抑えながら家の中に入って来て、勢いよくドアを閉めて鍵をかけた。お姉ちゃんは、泣いていた。 「どうしたの!」  母さんが、ドアの閉まる音を聞きつけてやってきた。 「母さん、ケイが……ケイが……」  彼が、お姉ちゃんをぶったようだ。お姉ちゃんはわんわん声を上げた。 「何だ、何事だ!」  泣き声に驚いて、父さんも玄関に現れた。  その時、私はゾッとした。お姉ちゃんが被害者になって、ケイだけが悪者になる未来が見えたから。  私は知っていたんだ。お姉ちゃんが最近、ケイ以外の男とよく会うようになっていたことを。 (悪いのはお姉ちゃんなのに)  私の心の奥で、何かが弾ける音がした。   「確か、この先ね」  それから数日後の日曜。私は並木道をひた歩いていた。桜の木には、散っていった花や葉の代わりに、淡雪が積もっていた。  アパートまでやって来ると、白い息を吐きながらインターフォンを押す。ほどなくして扉が開き、ケイは私を見て驚いて言った。 「ミキ、なんで……」 「一緒に飲もう」  私はコンビニの袋を見せた。 「バカ、お前……」 「私はノンアル」  それを聞くと、観念したように彼は私を部屋に招き入れた。    部屋の中のテーブルの上には、ビールの空き缶が乱雑に転がっていた。私はそれを気にも留めず腰を下ろすと、ノンアルのプルタブを開けてゴクリと喉に流し込んだ。 「軽蔑してるだろ。俺のこと」 「全然」 「女に手を上げた男だぜ」 「彼氏以外の男と遊び回る女の方がひどい」 「……知ってたのか」 「私は」残ったノンアルを一気に飲み干して、私は続けた。「私はたったひとつの出来事で全部を否定しない。例えケイが私をぶっても」 「バカ言うな。……そんなの、ダメだ」  私はベッドに腰掛けて俯くケイの隣に行くと、彼の頭を抱き寄せた。 「ダメじゃないよ。私は何があっても、ケイの味方だから。私がケイを守ってあげる。そう、決めたんだから」  彼はそれを聞くと、黙ったままギュウと私を抱きしめ返して来た。弱りきった彼が、一層愛おしく思えた。 「ミキは素直ないいコだね、って。言ってくれないの?」  彼が、私の胸の中で潤んだ瞳をこちらに向ける。私は髪を耳にかけると、清廉な少女が優しく花を摘むかのように、ケイにそっと口づけをした。戸惑いを伴ってわずかに震えた彼の温度が、唇から伝わってくる。全身の血液がじんわりと熱くなり、頭の中がぼうっとする。  ああ。どうやら私は酔ってしまっているらしい。ノンアルに?キスに?彼に?ううん。きっと、これが恋だと知った自分自身に。

イイ子は真似しないでね

「やっぱりそれ彼氏の影響なの?」 「え?」  和也の目線の向かう先が、自らの手元であることに実花は気がついた。あぁこれのことか、と質問の意味がわかる。  タバコから灰がポツリと落ちた。  ただ、実花は意図がわからない。あまりにもデリカシーに欠けるんじゃないだろうかという考えで頭が支配されて、次の言葉が出てこなかった。 「ごめん、ごめん。雰囲気悪くなっちゃうね」  彼はベッドを抜け出して、椅子でタバコを吸う実花の隣に歩み寄る。座ってその頭を撫でてから肩を抱いた。 「妬いちゃって、意地悪言っちゃった」 「別に……そんなんじゃないですけど」 「あ、そうなんだ。少し意外だね」  とっさに出た嘘だった。  日頃彼氏がタバコを口にする仕草を実花は目にしていて、あっさりと触発されたのだから。  好きな人間の影響を受けやすいのだと20年以上生きていれば、実花も自覚するようになってきていた。多くの男性と付き合ったことなんてない。ただ、服の色合いや髪型にはじまり、味の違いがわからないビールの銘柄まで、そうした過去の恋人の影響を受けていることは、実花自身が一番わかっていた。 「そう言えば、妬くってどういう意味ですか?」と実花は訊ねた。 「口では悪く言ってても、彼氏いるんだなぁってこと」 「…え?……それは…そうですね」とあまり納得できないながらに実花は応じた。とっさの嘘が和也はわかったのかもしれない。  いつからか帰りが遅くなった彼氏に対しては、社会人だしコミュニティや付き合いもあるだろうと実花は自分なりに勝手に納得していた。 『出来心で』  共通の友人から彼氏が浮気してるらしいことを教えられ、実花が問い詰めた夜。  必死に謝る彼の様子を実花は見ながら、学生時代の思い出や心の中の色んな感情がしぼんでいくような気がした。  だからこそ、会社の先輩である和也から飲みに行くことを誘われたとき、アルコールの勢いそのままに浮気してやる、という気持ちがあったのかもしれない。  でも、いざ、こうしてホテルで、男女の間合いを過ごしてしまったこと対して、実花の中では、期待したほどの感情の高まりはなかった。  どちらがホテルに誘ってこういう流れになったのか、今となってはともに覚えていない。確かに社内でも人気がある和也は、実花にとって元々魅力的な男性ではあった。  ただ、まさか本当にこうなるとも思っておらず、先輩に対して一種の申し訳なさを感じていた。 ―勢いというのは厄介なもので、時間が経てば経つほど、熱がわからなくなる。  ただ、誰とでもそうなればよかったわけでなく、和也が乗せて来たようにも感じていた。押し黙りながら実花はそんなことを考えていた。 「先輩、訊いていいですか?」 「んーなに?」 「あの……彼女とか……いらっしゃるんですか?」 「えっ、今訊くそれ?デリカシーないね」  アンタがそれを言うのかと実花は内心ツッコミをいれつつも、時折見せるクシャッとした笑顔を先輩ながらに可愛いなと思った。 「いないよ」 「そうですか」  淡白な相槌とは裏腹に、少しだけ実花は安心して、灰皿の吸いかけのタバコに目を落とす。  勢いとはいえ肌をあわせてしまった男女の関係。なかったことにはできない。間違いなくセックスという選択肢が、二人の間にはまぎれこんでしまうだろう。 “一度寝たことがある相手”という意識が二人の間から消えることは、ない。  先輩の事情はすべてわかりやしないけれど、都合のイイ女になってしまったのかもしれない。元通りになんてのはならない、それくらいは実花もわかっていた。  ただ、謝るだけ謝って、明日からは少しでも元の先輩後輩に近づけるようにしたい。  そう実花は決めた。  その決意に水をさすような一言が和也の口から飛び出た。  「安心したかったんでしょ。自分のせいで浮気させてないか」  顔から優しい笑みは消えていた。 「え?」 「俺は本気だよ。こういう文脈で言いたくはないけれど。あ、酔ってないよ」  彼はそう言いながら、実花がさっきまで吸っていたタバコを手に取って咥えた。 「けほっ」  すぐに渇いた咳が部屋に響いた。 「なっ!」  実花は次の言葉が出てこなかった。また意図がわからない。 「な、なに考えてるんですか!き、汚いですよ……!」 「そうかな? 間接キスしちゃった」と笑いながら和也は応じた。 「やっぱり酔ってますって先輩!」 「お酒より回るね。勢いって」  そう言い終わるやいなや実花の唇に、自らの唇を重ねる。目を閉じる直前に映ったのは、あの笑顔だった。  出来心の勢いに安心を求めていいのかもしれない、実花は振り回されながらもそう感じ始めた。 「安心したままでいいよ。大丈夫だから」  これも、きっと悪い影響。

それぞれの五分間

 僕には好きな人がいる。  好きな人とは、昼間はレストランで、夜はバーになるという、ちょっと変わった店で、夜にデートをしている。  ⋯⋯のではなく、仕事の関係上、日付が変わるまで打ち合わせをするだけの関係だ。  それでも、好きな人も、きっと僕のことを好きだと信じている。 ――  私には嫌いな人がいる。  嫌いな人とは、バーで仕事の打ち合わせをしなければならない関係だ。  だから、せめてもの気晴らしにと、バーのマスターにこっそり言って、バーに飾ってある時計の針を、五分間だけ早く進めてもらった。  そのおかげか、今日は時間が過ぎるのが早い気がした。もうすぐ、日付が変わる。 ――  二十歳になった瞬間に、私は死にたかった。  理由はいろいろとある。でも、ただ単に、自分の心が弱いというだけの話だ。  レストランとしては風変わりな、夜はバーになるという行きつけのお店。この場所を、最期の場所に選んだ。  バーの時計に目をやると、日付が変わるところだった。 「死にます」  そう誰かに聞こえるか聞こえないかぐらいの声で、私はナイフを首に……。 ―― 「ハッピーバースデー!」  バーのマスターが、ケーキを死のうとしている女に差し出した。  その声に驚き、女はおもわずナイフを落とした。 「あの時計は、実は五分間遅れているんだ。君、確か今日が誕生日だっただろう? せっかく二十歳になったんだ。死ぬ必要はないさ」  女は、泣き出した。 ―― 「あれは一体……テレビのドッキリか何かでしょうか?」  二人連れの客の女のほうが、男に聞く。 「詳しくはわかりませんが、あんな粋なサプライズを、僕は好きな人にしてみたいです。時計が五分間遅れていただなんて、気が付きませんでしたね」  男がそう言うと、女は複雑な表情になった。 『時計は五分間進んでいたんじゃなくて、五分間遅れていた? それなのに、時間が過ぎるのが早く感じたっていうことは……』 ――  時計は、それぞれの思いを知ってか知らずか、五分間遅れて、黙って時を刻んでいった。

告白

「好きです付き合って下さ「ごめんなさい」

「今夜、俺とデートしよう」

「あなたは幸せ? きっと、悩みとかも無いんだろうね」 そんな事はない。 俺にだって悩みはある。 だって、叶わない恋をしているから。 「いつも、ありがとう」 君は街並みに向かって歩き出す。俺はその後ろ姿を、ただ眺める事しかできない。 黄昏時。君はまた、俺の前へとやってくる。 その笑顔は儚げで、夕空へと消えてしまいそうだ。 「彼に振られちゃったの。仕事でも大きなミスをしちゃった……」 大好きって言っていた彼に振られたの? 大きな瞳から零れる大粒の涙。 その涙を拭ってあげたい。 でも、できない。 「今夜は流星群が来るんだって。流れ星に願いを込めると叶うんだよ。知ってた?」 願いが叶うの? 君の願いは何だろう。彼とよりを戻すこと? 「毎日ありがとう。あなたに会えて良かった。 さようなら」 今までにない悲しみを帯びた瞳の奥。 「さようなら」? もう、会いに来てくれないって事? 胡桃色の髪が遠ざかっていく。 もう会えないの? いやだ。いやだ。 腕を伸ばそうとしても、俺は動けない。 君と俺の間には一枚のガラス窓。 俺は君に近づく事すらできない。 君を追いかけたいのに! 夜空に、一筋の煌めきが放物線を描く。 君が言っていた流れ星? 願い事を言わなくちゃ! 〝人間になって、彼女を追いかけたい!〟 ピカッ✳︎ 銀色の光がガラス窓に反射する。 冷たい体の真ん中に命が宿る感覚がする。 体が一気にあったまって、骨格が音を軋ませる。 動ける。 顔を上げると、ショーウィンドウに映ったのは人間の男。背が高く、鼻筋が通った堀が深い顔。 人間になれた! 彼女を追いかけなくちゃ! 周りを見渡すと同じ顔の人形があり、色々なポーズをして静止している。 いつもの俺の姿だ。 椅子を両手で持ち、ガラスに向けて振り下ろす。 そのひび割れた隙間から、俺はやっと外の世界へ飛び出した。 初めて感じた空気は冷たい。 動く事ない手足が動く。 そして、胸には鼓動を感じる。 彼女を探さなくちゃ。 このまま、さようならなんていやだ。 胡桃色の髪色。 菫色のパンプス。 それを必死に探す。 青から赤に点滅するライト。 そこに踏み出す菫色のパンプス。 「危ない!!!」 細い腕を掴んで引き寄せると、すごい勢いで走り去っていく車と吹き荒れる風。 「あ、ありがとう!」 泣き崩れた顔は、やっぱり彼女だった。 「死んじゃだめだ」 「え、あなたは?」 「俺は……」 「あれっ? まさか、あのショーウィンドウのマネキンさん?!」 気付いてくれた。嬉しい。 テンションが上がって、不意に出た言葉。 「今夜、俺とデートしよう」 君の手を握りしめて雑踏の中を走り出す。 「どこに行きたいですか?」 「じゃあ、夜の海に行きたい!」 「うわーー!!星が綺麗!!!」 満天の星空の下、手を繋ぎ合ったまま、俺たちは静寂の海岸を並んで歩く。 星が降り注ぐ夢のような時間。 繋がれた手は柔らかくて温かい。 人間のぬくもりって、こんなにも心地いいんだ。 「助けてくれてありがとう。マネキンさん」 「死んじゃだめだよ」 「ごめんなさい。ちょっと思い詰めてて。でも、世の中には星の数程の人がいる。また、いい人に巡り会えるよね?」 君にとってのいい人が、俺であって欲しい。 「うん。巡り会えるよ」 でも、君は人間。俺はただのマネキンで。 この恋が、実を結ぶ事はない。 でも、今夜だけは夢を見させてほしい。 頭上を流星群が通り過ぎていく。 「ありがとう。マネキンさん。私、頑張って生きるから」 「うん。君なら大丈夫」 もうそろそろ、時間なのか。 鼓動が弱くなっていく…… 今、言わなくちゃ、一生言えないままだ。 「俺は、君の事が好き」 そして、流れ星に願いを込める。 君が幸せになれますように……。 その瞬間、銀色の光が体中をぶわっと包み込む。 君のぬくもりが 遠ざかっていく…… 意識が遠のいていく…… ハッと目覚めると、俺はいつものショーウィンドウの中にいた。 いつもの一日が始まる。 あれから君に会えていない。 何年過ぎただろうか。 俺は薄汚れ、体の付け根が音を軋ませた。 「もうそろそろ、替え時かな」 俺はひとパーツごとに解体させられる。 せめて最後に、君に会いたい。 横たわる景色に、胡桃色の髪が映り込んだ。 それは、幸せそうな3人家族。 俺の心は至福で満たされた。 ありがとう。 君に会えて良かった。 俺は世界一、幸せなマネキン。 end ✳︎

年収8000万円のラノベ作家目指してみた!

 仕事が嫌いだ。    コンビニのバイトは俺がやるべき仕事じゃない。  一日中机に座ってパソコンカタカタなんて人間のやることじゃない。  だからと言って、肉体労働なんて絶対嫌だ。だるい。    常に世界にアンテナを張って、適職を探してきた俺。    そしてついに、ひっかかった。        ――ラクして稼げる職業ランキング。    ――1位 ライトノベル作家(平均年収八〇八五万円)        直感した。  これだ。  これこそ、俺の適職だ。    俺はすぐにテレビを消して、パソコンを開いた。    一流の条件は、行動力。  自分の直感を信じて、すぐに手を動かす行動力だ。    二流以下の凡人たちは、今頃テレビを見ながら、「ラノベ作家って儲かるんだー、いいなー」と指をくわえていることだろう。  馬鹿め。  だからお前らは凡人なのだ。  その加えている指をキーボードに叩きつければ、お前らでも十分の一の年収八百万円にたどり着けるだろうに。  結局手を動かすことなく、年収〇円に落ち着くのだ。    馬鹿。  馬鹿。  圧倒的馬鹿。    俺は、既に手を動かした。  つまり、ラノベ作家のカーストの上位になれることは確定的に明らか。  これは平均の二倍……いや五倍くらいはいけるのではないだろうか……?    年収四億円。    ははははは!  一年働いただけで、一生遊んで苦られる額の金が手に入るではないか。  最高だ。  悪いな凡人ども。  労働を強いられる社畜奴隷社会から、俺は一抜けさせてもらうぜ。    そのまま指をくわえて俺を見てな!    明るい未来を創造しながら、俺は指を動かす。                      あれ?    おかしい。  一時間もやったのに、数百文字しか書けていない。  おかしい。  一万文字や二万文字、さくっと行くつもりが。    そうか、タイピング速度が落ちているからだ。  最近はパソコンに触れてなかったから、そのせいだ。  なあに。  しばらくすれば戻る。  戻れば一時間で一万文字なんて余裕だ。  そうすれば、一日四時間書いても四万文字。    ググったところ、ラノベ一冊の文字数は五万から十万文字らしい。  つまり、頑張れば一日で一冊、最悪でも三日で一冊は出せる。  三日で一冊という事は……一年間で百冊以上!    ははは!    明るい!!    俺の未来は明るいぞおおおおお!!                     「あんた、突然パソコンで遊び始めたと思ったら、もうやめたの?」    うるせえ。  ラノベ作家なんて、俺がやるべき仕事じゃねえんだよ。    断じて、書くことができなかったとかじゃねえ。  俺がやるべき仕事じゃねえから、俺が書くのをやめたんだ。

充電はお早めに

 ドアを開けた瞬間、柔らかな空気が流れてきた。真っ暗で冷え切っていると思っていたのに、自分の部屋とは思えないほど暖かい。  ――あ、来てるのか。  仕事で酷使した頭は回転が鈍くなっている。部屋に明かりがついていて、すでに暖房がつけられているからこそのこの状態。すべてが朝の自分の消し忘れでない限り、「誰か」のおかげだろう。  玄関に揃えられているのは自分のパンプスよりもひとまわり大きなスニーカー。小さな傷はついているけれど、汚れは少なく大切に履いてくれているのがわかる。  ――これは去年の誕生日にあげたものだ。 「梨花ちゃん? 帰ったの?」  電話越しではない声とともに廊下の先の扉が開く。明るさの増した室内。流れてくる美味しそうな香り。パタパタと鳴るスリッパの音。 「おかえりなさい」  自分とあまり変わらない背丈。まっすぐ繋がった視線の先、きゅっと目が細まる。わたしの大好きな表情だ。 「……ただいま」  そう返して初めて自分の声を認識する。掠れた震え声。ぎゅっと押し込めてきたものが迫り上がってくる。 「梨花ちゃん」  ――ああ、だから嫌だったのに。  鼻の奥がツンと痛みを訴え、両目に熱が溜まっていく。 「お仕事お疲れさま」  聴き慣れた温かな声が耳から落ちて、体の中を駆け巡る。  社会にも出ていない年下の彼氏。ずっとずっと自分が先に立っていないといけない気がしていた。弱っている姿をあまり見られたくなくて「会いに行ってもいい?」と聞かれても「忙しいから」と断っていた。それなのに。 「お腹空いてる? ごはん作ったんだけど……梨花ちゃん?」  玄関に突っ立ったまま、何も言えなくなる。本当は手を伸ばして思い切り抱きつきたかった。いっぱいいっぱい甘えて泣いてしまいたかった。だけど僅かに残ったちっぽけなプライドが邪魔をする。  律くんの前ではかっこいい年上の彼女でいたい。可愛いのはいつだって律くんでわたしではない。ずっと言われてきたし、わたし自身もそう思ってきた。  女の子とあまり変わらない身長。丸くて大きな目。華奢な体つき。ふたりで並んでいると「どっちが彼女かわからないね」とよく言われた。年下で自分よりも可愛らしい見た目をしている律くんはわたしが守らないといけない。いつのまにかそう思っていた。でも、本当は……。  律くんの腕が伸びてくる。ふわりと揺れた空気がきゅっと締められる。柔らかくて優しい匂い。大好きな大好きな温かさ。固くなっていた心がほどかれていく。 「……り、つ、くん」  名前を呼べば「うん」と甘い声が降ってくる。大きな手に頭を撫でられ、たちまち堰き止めていたものが消えてしまう。 「うぅ……ぅ」  一度溢れ出した熱は簡単にはおさまらない。ポロポロと頬を伝ってこぼれていく。  嫌なことがあったわけではない。仕事は好きだし、周りにも恵まれている。文句を言いたいわけではない。忙しすぎると言ってもこの時期だけだ。繁忙期さえ乗り切ってしまえば、またいつもどおりになる。  それでもこの数週間が確実にわたしの心を固くしていて、わたしから何かを削っていった。  簡単に言ってしまえば「ストレス」なのだろう。でもそれはわたしだけが感じているものではない。大変なのはみんな同じ。苦しいのは同じ。それがわかっているから言葉を飲み込み続けた。 「梨花ちゃんは頑張ってるよ」 「……知らない、くせに」  洟をすすりながら意地悪を言ってみれば 「職場の梨花ちゃんは見てないけど、でも、僕にはわかるよ」  と小さく笑われ、顔を押し当てている胸がくすぐったそうに揺れる。 「ここはもう会社じゃないよ。だから好きなだけ甘えてよ」  自分が求めていたものを先に差し出され、体の内側からぶわりと熱が広がる。愛おしくて愛おしくてたまらない。 「今日だけなんだからね」  年下の恋人に甘えるような弱くて頼りないわたしは今日だけ。明日からはまたいつもどおりのわたしになる。今はそのための時間だ。 「……そっか」  小さな息とともに笑われて熱が上がる。なんか、すごく、すごく悔しい。 「いっぱい充電してやる」  両腕を律くんの背中へと回し、包み込まれている倍の力で抱きしめ返す。ぎゅーっと力を込めてみるが律くんはくすぐったそうに笑うだけだった。小さな振動。触れ合う熱。溶け合う香り。全部この腕の中に閉じ込めてしまいたい。 「梨花ちゃん」  名前を呼ばれて顔を上げる。 「僕も充電したいんだけど」  わずかに緩んだ力の隙間、頬を少しだけ赤くした律くんが眉を下げた。 「ねぇ、ちゅーしてくれないの?」  え、と答えを出す前に顔が近づいてくる。 「僕、もう充電切れそ……」  途切れた一文字は、音ではなく息となって唇に触れた。

自らの罪は赦した

 実家の母から届く野菜は、大抵は半分以上がどろどろに腐る。  野菜を調理することができない。肉と違って野菜は包丁や火を入れる直前までずっと生きている気がして、だから私は暗い段ボールの中の、息の根が止まるのをじっと待つ。静かになった頃にはどろどろに腐っていて汚臭が漂う。果物も同じ。  生きているものは苦手だ。ちゃんと死んだ安心感が欲しい。  たぶん誰にも理解されないだろうから、裏の空き地にこっそり段ボールを埋葬して、野菜ごときに手を合わせる。そうでもしないと誰も私の墓に手を合わせてくれなそうだから。 「えぇ、いいよぉ。モンブランとか供えよっかぁ?」  ひとりだけいた。肉親以外で手を合わせてくれそうな人。緊張感の無い声色は最近は耳に入ってくると少しイラつく。でもそれは顔に出さないで「モンブランは無いよ。蛆が湧く」と曖昧に笑って返す。  大人になるにつれ着実に死に近づいているのに、それを口に出すのは本当に罪深い人間か頭がおかしいやつという空気が漂うようになった。  幸いにも私はそれを早めに察知して、以来人前で死生観を語ることは無い。彼女の前を除いて。  彼女のことだからきっとマジで墓の前にモンブランを供えるだろう。しかも「食べやすいように」とか言って包装すら解いて、剥き出しのまま。どうしたって虫や鼠が群がる未来しか見えない。 「えぇ、やったじゃん。墓の前にぎやかになるよ」 「マジやめてね。あんた絶対掃除とかしないでしょ」 「てかさぁ、そっちが墓の中にいるんだったらぁ、多分あたしも墓の中じゃん?」 「いくら小中高大一緒だからって、死ぬまで一緒は無いって」 「そういうの、腐れ縁っていうんだよぉ。死なばもろとも?」  へらりと崩される相貌に、本当に腐るまで縁が切れない気がしてぞわりと粟立つ。  子供の頃、大人のふりをした契約ごっこで「死んでもいっしょね」なんて指切りした。その時と全く変わらない笑顔だった。  最初っから、あの指切りの日から、彼女だけは「死ぬとき」まで見据えていた。私にとってはあんなの、ただの遊びのひとつだったのに。  ちゃんと成長した友達というのは、「死にたい」って言えば「死んじゃダメだよ」と理由を添えて止めてくれる存在のことだ。別に本気で止めて欲しいわけでは無いけれど、そういう駆け引きをするのが大人だ。私は死に近づいている。つまり私は大人になっていた。  彼女だけが変わらないまま。「死ぬ」って言えば「わかった」って頷いてくれる。  でも変わらないってことは結局、彼女だけずっとあの日のまま生きているってことだ。腐らないものがいつまでも目の前にあるのは耐え難い。 「大体、私もうモンブランとか好きじゃない」  じゃあ何が好き? と彼女は尋ねるだろう。 「じゃあ何が好き?」  少し考えてから指さした。 「あんた」  死んで、天国か地獄か知らないけど死後の世界に行くには自分の罪と見つめあう必要があるらしい。でも彼女は子供のままだから自分の罪をまだ知らない。つまり同じタイミングで死んだって、一緒には腐らなくて、腐れ縁てのも結局は腐る前までしか通用しないわけだ。 「やっぱ何も供えないでいいよ。どうせ腐ったら同じだし」  ばいばい、と手を振った時に限って、指切りをした日と同じ青空だった。それを懐かしいと振り返ってしまう、私はやっぱり大人になっていた。  腐り出す前に段ボールの中に体を押し込んで目を瞑り、静かになるその時を待つ。そうやって私は自らの罪を赦した。

ファミレスに久々にきた私

 中学の頃、私たちの住処はファミレスだった。  変な組み合わせなのも気にせずに安くてたくさん食べられるやつを頼んで、ドリンクバーを使い込んで、とにかくしゃべっていた。    店員さんにもおそらく顔は覚えられていただろう。  なんでそんなにファミレスにいたかったのか、今考えても、全くわからない。  勉強するにも微妙で、話すだけならお金を払わずに話せるところはある。お腹が空いていたわけでもない。  だけどなんとなく、ファミレスがよかったのだ。  そのなんとなくを具体的ななんとなくとして思い出せないあたり、中学生時代は昔のことってことなんだろう。悲しい。    よくファミレスに一緒に行く人は、色々いたけど、中でも親友の実咲だった。  実咲となら二人でも行くくらいだった。  毎日おんなじファミレスでも飽きない。  二人でいくら話しても飽きない。  それは世界が狭かったからなのかもしれないけど、多分それは主な理由ではなくて、きっと、私たちは幼くて、幸せ者だったんだと思う。  とてもいい意味で。  しかし、それから五年経った今は、そんな時の感情は引き継がれていない。  高校が別になった実咲とは疎遠になり、一人、医者への道を進むために、浪人してまで、医学部に行った。  ファミレスと違って似たような人しかいない場所だな、とは思う。  医療系の道に進む人しか利用しない見た目はとても立派な図書館で勉強していると、時々何か疲れてしまうのだ。  正直、勉強についていけてるかと言われれば、かなり怪しかった。  私はもともと勉強が好きでもないのに、なぜこんな道を志したのだろうか。  ほんとによくわからない。  けど今更何か方向を変える勇気もないから、お尻が痛いローラー滑り台を我慢して滑るみたいに、私は毎日勉強を大学の図書館でしていた。  そんなある日。  三つの追試を抱えた私は、ふらふらと街を歩いていた。  そろそろ留年の心配までしなくてはいけなくなった。  私は、何にも気にせず生きてきた時を羨んだ。  そんな自分もいたな、と。  そしてその時の親友を超えるほど親しい人が、一切できていないことにも気がついた。    ふと、ファミレスが目に入った。  ああ。久々に行ってみるか。  なんだか勇気が必要そうだ。  ファミレスに入るのに勇気がいるのってほんとによくわかんないけど、度合いだけでいえば、留年しそうな中追試を受けに行くのと同じくらいの勇気がいると思った。  ファミレスの重い扉を開けた。  こんなに重かったのか。  中学生のときは重いと感じたことが本当に一切なかった。  なぜだろうか。貧弱さが際立っている。  空いていて、どこの席でもいいと言われたので、店内を軽く歩き回る。  そしたら……たくさんの中学生がいた。  懐かしい。  いやそれだけじゃない。いろんな人がいた。  まさに老若男女である。  そして……実咲がいた。  友達と笑っていた。  いや、同じ街に住んでて今まで再会しなかった方を驚くべきなのかな。  しかし私は今、実咲と再会したことに驚いた。  いや、再会ではないか。私が見かけただけ。    あんまり中学生の時と変わらない実咲。  ファミレスであんなに子供っぽく笑えるのは、実咲が中学生の時のままなところがあるからに違いない。  私なんて今ファミレスでできることと言ったら、眠そうな顔をしながら料理とコーヒーをさっさといただくことくらいだ。  声をかけ……たくない。  私は今、ふらふらモードなのだ。  かつての親友のように、中学生の精神でこの空間を楽しむことはできない。  でも、今までで一番親友って言ってもいいくらいの実咲に話しかけらない私って……なんなんだ?  実咲は今日も友達と笑っている。  私が最後に笑ったのはどんな時だ?  追試が決まって苦笑いした時か?  それとも寝落ちして久々にしあわせな夢を見た時か?  わからない。  わからないほど、私は中学の時の無邪気さは捨てていた。  でもそんなもんだと思う。実咲が変わっなくて、びびるでしょ逆に。  そんなふうに自分一人で結論づけた私は、静かに実咲から離れたところの小さな席に、一人で座った。

隣のこの子

高3の桜が咲き乱れる季節、クラス替え。 早速見つけた。可愛いのが2人。 1人、お嬢様気質。(以後ユウハ) 1人、元気な女の子という感じ。(以後ミズキ)  ユウハの方を気になっていたけど隣の席になったのはミズキだった。 少し残念とは思いつつ軽く挨拶を済ませ、ユウハをガン見していた。  するとミズキが 「気になってんの?」 今でもあの時の可愛い顔は忘れられない。 その時からだろうか、ミズキを妙に気になり出したのは。  以降授業が始まり、友達も出来てそれなりに良い新生活が始まった。 ただ、その生活の中心は基本的にミズキだった。  授業が始まっても俺はずっとミズキの方を見ているし、男友達と喋っている時も相槌を打ちながら他の男に喋りかけられているミズキをチラチラと見ていた。  今考えるとあれは確実に嫉妬していたのだ。  別に彼氏でもないのに嫉妬していたのだ。  確かに俺は他の女子と喋りたいと思わなかったし、喋りかけられても別に会話を続かせる努力もしなかった。 ただ、隣の席の子と会話が始まると俺は猛烈に頑張った。怒涛の質問攻めでなんとか会話が終わらないように、ミズキに笑って貰えるように、そんな気持ちだけでひたすら面白い事を言う努力をした。  その甲斐あってか、どうやらあちらも俺に少しは気が出てきたようだ。 「俺君って、彼女おるん?」 「まさか!おったらミズキとこんな仲良くなりたいとか思ったらあかんやろ〜w」 「確かに確かにw」 「え、じゃあ今までに彼女おった事ある?」 やはりミズキも俺との会話を終わらせたくないようだw 「まあ1年前まで居たかなー」 「じゃあ逆にミズキは?元彼何人おるん!」 「モッテモテやねんけどいまいちどの人もピンと来なくて元彼は0やねんな〜w」  こんな会話が一生続いたら良いと思うぐらい至福のひとときだった。人生のボーナスタイムだった。  数日後、面白くない授業でミズキが眠たそうにしていた。いつもとは違う可愛さだった。 「眠たいん?もしかして昨日夜更かししたんやろ!w」 ミズキは何も言わなかった。 返事もせず、ただ、頭を俺の肩に乗せてきた。 あの柔らかく暖かい頬が俺の肩に乗った時の感触は今でも忘れられない。  俺は授業そっちのけで彼女の頭を撫でた。 幸いにも席は後ろの方だった。  そして10分ぐらい撫でただろうか。板書を写さなくてはと思い、手を離してペンを持とうとした瞬間、 「続けて、もっと、、、」 という声が俺の耳に流れ込んだ。 俺はもう板書は要らないと確信し、授業が終わるまで頭を撫で続けた。  休み時間、やっとミズキは起きた。 「おはよう!むっちゃ寝てたで!w」 「撫でるん上手すぎてほんまに寝てもうたやんか!w」  この子と付き合って一生撫でていたい。  あれから数週間でLINEもインスタも交換して電話もするようになった。周りの友達は早く付き合えと急かしてき、ミズキの友達もその気だった。  そろそろ席替えもあるし、そうなると告白するタイミングが無くなってしまうかもしれない。ミズキの頭の中から俺も今までの彼氏候補と同じように消えてしまうかもしれない。それを考えて眠れなくなる夜も少なくなかった。  確かに俺の友達の言う通り早く告白した方が良いのかもしれない。しかし本当に自分はミズキの彼氏としてふさわしいのだろうか。ミズキのストーリーハイライトに残っている友達(彼氏候補だった人たち)は、皆んな俺より遥かにカッコ良くてスタイルも良かった。俺は自分に自信が持てなかったのだ。  席替え前日、席のくじを引いた。残念ながらミズキとは席が真反対に離れてしまったし、次の俺の席の隣はユウハだった。  ミズキは俺の方を見て、 「ユウハと隣やん!これ、ユウハと仲良くなれるチャンスかもよ〜?」 と呟いてきた。笑っていたけど、寂しそうな、俺を待っているような、そんな気がした。  いくしかない。そう強く自分に言い聞かせた。 「ミズキ、席離れる前に最後言っときたい事があるねんけど今言って良い?」 「え、なになに!感謝の挨拶とか?w」  分かっているくせに最後まで俺をからかってきたのだ。 「俺と付き合って欲しい。」 言えた。 「口臭い!w」 なんだと?しばかれたいのかこの娘は。振り絞った勇気を今すぐ返してくれ。 「良いけど、うちで我慢してくれるん?」 俺は理解出来なかった。告白をOKして貰えた嬉しさと、訳の分からない言葉とが頭の中に渦巻いていた。我慢するも何もミズキ以外誰も欲しくなかったからだ。 「いや、なんか、ユウハの事初日で見てたりして、ユウハの事が好きなんかなーと思ってw」 「あれはまあ、一時の気の迷いってやつやw」  安心したかのように彼女は赤らめた頬を俺の肩に押し付けてきた。 そして俺はまた頭を撫で始めた。

帰郷

「命の始まりは海らしいね。」 君はそう言いながら、屋上のフェンス越しに地平線を覆い隠す海を見つめていた。 こちらには一切視線を向けず、ただ。 君と海のふたつだけが存在する世界があるように、 こちらの世界と剥離されたように。 なんだか、消えてしまいそうな気がして。 いやに冷えた君の手首を握りしめた。 漸くこちらを向いたかと思えば、胡乱げな目で見つめてくる。 でも離す気にはなれなくて。 まだ冬の名残を感じる春、別れと出会いを祝福する春、君と初めて会った春の日。 あと何度、君と春を迎えられるだろうかと考えていた。 海を見つめていた君は、春が過ぎ、周りが衣替えを始めるのを見て、 「まだ寒いよ」 と言っていた初夏の頃。 盛夏を待たずに姿を消した。 君は、狭く深い付き合いをしていたようだから、随分と傷心している君の友人の姿があった。 自分のことを捨ておいて、うんと人に優しくする君が。誰にも、何も言わず消えていった。 ところがある日、その友人は晴れやかな顔をしていた。 君から手紙が届いたのだと言う。 なんでも、 田舎に憧れていたので引っ越すことにした、と。 落ち着いたらまた手紙を出すよ、と。 ははァ。 君は嘘が嫌いだと言っていたのに。 分かるよ、君は、海に帰ったんだろうに。

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雨音が歩いているようだった。 行く手を阻むように、空から穿たんとする槍が降り注ぐように鋭い雨が降っていた。 努力が実らないように、地面に叩きつけられた雨水は跳ねて行場を失くした。 人間が感情の奥深くにある泥濘に溺れるように、動けなくなった雨水はコンクリートに染み込んでいった。 雨がポリエステルに当たって、軽やかな音を奏でる。 地面から跳ねた雨が靴を濡らす。 雨は嫌いだ。 雨は好きだ。 正しくは、 外出の予定がある日の雨は嫌いだ。 外に出れば雨に濡れるから。自然に翻弄される人間がめんどうくさいから。 外出の予定がない日の雨は好きだ。 外に出れば雨に濡れないから。自然の作る雨音だけを聞いていられるから。 誰しもが、自分の都合の良いように生きている。 雨が降っているのなら、自分が濡れないようにと傘を差すように。 誰かが、自分のすべきことをわからなくなっている。雨に濡れたまま立ち尽くしている。 傘を差せばいいのに、傘を持っていなくてどうしたらいいのか分からないから。 周りの人は傘を持って歩いている。身を守るためのもの。 でも、身を守るためのものを持っていないからどうしたらいいのか分からない。 もし、周りを見たときにふと自分の持っている折り畳み傘に気付けたら、それを持って雨の中を歩き出せる。 それすら分からない誰か。 誰かが誰かを待っている。 誰かその持っている傘に入れてくれる人を。 あなたは本当は折り畳み傘を持っているよと教えてくれる人を。 大丈夫だよと慰めてくれる人を。 君は頑張ったんだよと褒めてくれる人を。 もう少し進もうと励ましてくれる人を。 甘えるなよと叱ってくれる人を。 出来損ないだと貶してくれる人を。 自分に都合の良い言葉をくれる人を。 もういいんだよと止めてくれる人を。 もし、傘を持っていようがいまいが必ず雨は止む。 曇天を掻き分けて太陽が顔を覗かせる。 その太陽の熱で、濡れた場所は乾いて消えていく。 雨の匂いを残して。雨が降ったという記憶を残して。自分が惨めであったと再認識させて消えていく。 そうしてまた、雨は匂いを漂わせながら現れる。 強く降ることもあれば、目を逸らした一瞬で消えることもある。 傘を持たないまま雨に打たれに行くのも、傘を持ったまま打たれに行かないのも、それは誰しもが与えられた自由。 人間は選べる。 辛い道も楽な道も選べる。 雨音に耽りながら、情けないことばかり考える。 何もかもぐちゃぐちゃでかき乱れて、ぶち壊して、ガラスの破片を握りしめているような感情を吐露して、無かったことにしたがる。 一瞬でも心に浮かんだ情は永遠に残る。 忘れようとも忘れられず、ただ、火の煙が途切れることなく天へ天へ昇るよう、残り続ける。 人として生きたくない。 人として生きていたい。 考えが思考を支配する。 まだ雨は止みそうにない。 それでも、いつか雨は止む。 いつか、自分と向き合える日が来ると信じて。

君の隣は僕じゃない

「おめでとう」  精一杯の笑顔でお祝いの言葉を告げた。目の前に居る君は、この世で一番輝いている。純白のウェディングドレスに身を包み、頭にはティアラが載せられてキラキラと輝いている。 「ありがとう」  君は幸せそうに笑った。君の隣は、僕じゃない。  君との出会いは、小学1年生だった。小学1年生の入学式。隣の席に座ったのが、君だった。 「よろしくね」 「こちらこそ、よろしく」  それが、僕らの初めての会話。名前を教え合い、下の名前で呼ぶようになった。  上の名前で呼ぶようになったのは、中学生になってから。でも、二人っきりになるときは、下の名前で呼びあった。  中学2年のとき、友達伝いから、君が僕のことを好きだと言うことを知る。両思いだと知って、告白しろと言われたりしたけれど、僕は告白しなかった。勇気が出なかったのだ。ずっと、好きだったのに。  二人で出掛けるときはよくあった。下の名前で呼び合って、手を繋いだときもある。僕は君のことが好きで、君は僕のことが好き。でも、言葉にはしなかった。そのままでいいと思っていた。  高校生になると、学校は別になったものの、二人で会うのはやめず、休みの日には二人でデートしに出かけていた。いつも、手を繋いでいた。  大学生になっても、それは続いた。  しかし、社会人1年目のある日だった。冬の雪がしんしんと降る寒い日だったことを覚えている。 「話があるんだ」 「話?」 「そう」  君が僕の手を離すと、目の前に立った。そして、彼女はマフラーに顔を埋めた。 「この関係、終わりにしたいんだ」  もしかして、君から言ってくれるのかな、と淡い期待を抱いた。 「どうして?」 「私、告白されたの。すごい、いい人でね。好きだって言ってくれてる」  期待は砕けた。まるでガラス窓をトンカチで殴って割れたような感覚だった。期待がパリンと割れて、破片が地面へと落ちていく。絶望へと変わり、己の弱さを悔やんだ。 「……そっか」 「今まで、ありがとね」 「うん」 「じゃ、ここで。またね」  彼女が立ち去っていく。僕はその後ろ姿を見つめることしかできなかった。  それから、4年後。君は結婚した。僕ではない人と。幸せそうな顔をして笑っている君を見ていると、やっぱり、幸せにさせてあげることができるのは、僕じゃなかったのだと、心底思う。  今日、君への思いと決別しよう。君の幸せを願って、さようならをしよう。 「僕さ」 「ん?」 「君のことが好きだった」 「私も好きだったよ。あの頃は」 「……ありがと」  あの頃は、両思いだった。でも、動かない僕を見て、君は僕を選ぶことをやめた。正しい選択だったと思う。今、こうやって幸せになっているのだから。 「幸せかい?」 「幸せよ」  彼女は、ほんのり頬を赤らめ、照れたように笑った。 「だから、あなたも幸せになってね」 「ありがとう」  心からのありがとうを君に告げた。出会ってくれてありがとう。好きでいてくれてありがとう。君には感謝してもしきれない。  きっと、これから、君はもっと幸せになるのだろう。もう二度と、君の隣には立てない。それでいい。君が幸せならば、それでいいのだ。  どうか、君が幸せでありますように。永遠に幸せが続きますように。そう願って、僕は彼女の元から立ち去った。  さようなら、僕の好きな人。

泣いてもいいから

  欠けてゆく。溶けてゆく。  寄せては返すさざなみが、砂浜を滑り消してゆくみたいに幾度も。  あなたはどうして、泣いているの? 「……っ!」  ガチャン、と大きな破壊音が小さく聞こえて、僕は思わず後ずさった。 「…わ!ソウくん、大丈夫!?」  真っ黒な水溜まりが出来た床に、視線を落とす。ぽたりぽたりと、時計の針が刻まれるみたいにテーブルからはコーヒーが滴り落ちていく。僕は、マグカップを掴んでいたはずの掌を隠すようにしてしゃがみ込み、割れて散らばったカケラを拾い始めた。 「大丈夫?熱かったでしょう?火傷は?」  エプロンをつけたスズちゃんが慌てたようにキッチンから駆け寄ってくる。カケラを拾い上げる僕の掌を包み込んで、確かめるようにまじまじと見つめた。  ああ、コーヒーは熱かったんだ。  ぼんやりとそう考えて、心配そうに目尻を下げるスズちゃんを見た。  僕の掌は痛みも熱さも、感じない。それなのに、僕のどこかが確かに、ギリギリと張り裂けそうにひどく痛む。 「どこか切ったりしてない?」 「……ああ、うん。大丈夫だよ、ごめんね」 「ううん、ケガしてないなら良かった」  ホッとしたように、スズちゃんが笑う。明るい茶色に染められた髪の毛、二重の大きな瞳。その名の通り、鈴が鳴るような可愛らしい声。 「それにしても、びっくりしたー。珍しいね、ソウくんがカップを落とすなんて。そんなに熱かった?」  スズちゃんが布巾で床を拭きながら僕を見つめる。猫のように丸い瞳が僕に真っ直ぐに向けられている。  真っ白な布巾がコーヒーを吸って、黒く染められてゆく。  もう、限界だ。  壁に掛けられた時計の針が、カチリと間違いなく時を刻んだ。 「……」 「…ソウくん?どうかしたの?」  何も言えないでいる僕に、スズちゃんの声色が不穏な空気を孕む。 「……あの、さ、スズちゃん」  僕はゆっくりと立ち上がった。それに釣られるように、スズちゃんも布巾を持ったまま立ち上がる。少し下がった視線の先には、瞳の揺れるスズちゃんが僕を見上げていた。  僕は、目を閉じて視界を塞ぐ。そんなことしなくても、僕の視野はとても狭いけれど。  そんな言葉が自嘲気味に頭をよぎって、おもむろに僕は目を開いた。  ふう、と細く長く、息を吐く。 「僕たち、もう会うのは終わりにしよう」  スズちゃんのただでさえ大きな瞳が、今にも溢れてしまいそうなほどに見開かれる。視力の乏しい僕の目にも、スズちゃんの目にじわりと、涙が浮かぶのが分かった。 「……ど、どうして……?」  スズちゃんの唇は微かに震えていて、かろうじて出てきた声も今にも消えてしまいそうだった。 「……もしかして、少し前の、検査の結果が良くなかったの……?」  途切れ途切れに紡がれたスズちゃんの音が、とても遠くに聞こえる。 『まずは、記憶。次に、光、音、香り…。つまり、脳、視力、聴力、嗅覚。他の機能も少しずつ、体の生体機能が衰えていく病です』  無機質な真っ白いその部屋で、僕は丸椅子に座っていた。白衣を着たその医師は、淡々と事実を述べた。  そう言われて真っ先に浮かんだのは、他の誰でもないスズちゃんだった。「ソウくん、好きだよ」鈴を転がしたような綺麗な声で、僕の名前を呼んで好きだと笑ってくれたスズちゃん。  いつも笑っていたスズちゃんは、僕の目の前で今にも泣きそうな顔をしている。そんな顔にさせてしまっているのは、間違いなく僕だ。  医師に告げられてから、何度もスズちゃんと別れようとした。スズちゃんのことを思うのなら、離れるべきだと何度も思った。  それなのに、出来なかった。  スズちゃんの名前を忘れるたびにポケットに隠し入れた小さな紙を盗み見て、味のない料理を一緒に食べた。形の曖昧な花を見に行き、音のない演奏会に出席した。 『ソウくん』  スズちゃんが僕の名前を呼んでくれるその時だけは、僕は生きているのだと実感できた。  でも、もう、それもお終いにしよう。  僕の記憶は、湿った砂浜のようにとても脆い。波に流されて、指の隙間をすり抜け落ちてゆく。 「…もう、限界なんだ。あなたの名前も、僕が誰かもすぐに忘れてしまう」 「…で、でも、それでもいいから、私は一緒に、居たい……!」 「……僕がまだ、あなたの顔を声を、香りを、覚えていられる間に、終わりにしたい。……だから、ごめん」  スズちゃんの大きな瞳から、ポロポロと透明な涙が流れる。僕はそっと、頬に手を添えてそれを拭った。 「スズちゃん、僕の名前を呼んでくれない?」 「……ソウくん。…ソウくん、好きだよ」  僕も好きだよ、そう言えたなら、どんなに良かっただろう。  ねえ、笑ってほしい。  口を開いてみても、声は出ない。あなたの声も聞こえない。  冷たい掌の中には、もう戻らないカケラがあるだけ。

それはまるで火のように、

 夕暮れの空を背にして玄関のドアを開ける。部屋に入って、後ろでドアがバタンと閉まった瞬間、ぴんと伸びていた背筋がぐったりと曲がった。 ――今日の面接もだめだったかもしれない。  序盤はよかったんだ。志望動機も考えていた通りにちゃんと言えてたし、自己アピールもちゃんとできてた、気がする。でも周りの人たちがすごかった。志望動機だって私の何倍もちゃんとしてたし、自己アピールの時だって私以上にいろんな経験をしていて、私以上に伝え方を工夫していた。  脳内反省会を続けながらキッチンに向かう。こんな癖がついてしまったのは今年の三月からだ。それまでどうやって過ごしていたのか全く覚えていない。今週分の買い出しの食材を冷蔵庫にしまい終わった頃には、どんよりとした気持ちだけが残っていた。  買い物袋を畳んでテーブルに戻ると、乱雑に置いたバッグからちらりと書類が見えた。昨日書いた履歴書の残りだ。それを取り上げながらふと思った。 ――なんで就活なんてことをしなきゃいけないんだろう。  志望動機を書いて、自己アピールをする。『誰か』と比べられて、自然と『誰か』と競わされていく。『誰か』は知っている人であったり、知らない人であったり――とにかく大勢。その割に見た目は一緒を強いられる。志望者も面接官の人も同じ顔、同じスーツ。まるで奴隷みたい。もっと楽しく仕事を決められたらいいのに。  履歴書の私の顔は石像のようにこちらを見ている。その目に写しているのは本当はカメラのレンズなのだけれども。撮影者が人間だったのならもっと柔らかい印象になったのだろうか。  一つに結んだ髪を解き、ベランダの窓を開ける。オレンジ色の夕暮れは紺色の宵へと変わりつつあった。もうじき夜だ。初夏の少し肌寒い風が気持ちいい。 ――そういえばA子は決まったって言ってたな。  A子は夕暮れのような派手な色から落ち着いた黒色に染め直していた。まさか真面目な就職活動をするとは思っていなかったけど、同期の誰よりも早く内定をもらったことのほうが驚きだった。自分のことを上手く話せる人間はこういうことは得意なんだろうな。それに比べて私は話下手だし聞き上手でもない。……また気分が下がってきた。 ――もう嫌になっちゃうなぁ。  紅茶を入れようとポットに水を入れて火にかける。そういえば火を見ると落ち着くんだっけ。それは焚き火か。火を見るだけならちょっとした不審者になっちゃうよね。そんなことを考えていたらポットの口から白い湯気が立ち上り始めた。  ふと思った。こんな日常終わってしまえばいいのに。  気づいたら鞄の中の履歴書は手の中に。  そして気づいたらコンロの火で履歴書を炙っていた。 ――しまった!何をしてるんだろう!  慌てて履歴書をシンクに移動させて蛇口を捻る。水びだしになった紙は四分の一ほど燃えカスになっていた。顔写真なんて全て焼けてしまった。再利用すらできない。 ――また書き直しか……。  がっくりと肩を落とす。そして少しだけもやが消えた頭で明日のことを考え始めた。

リヴィング・プレイス

 夕暮れの美術室で、私はアクリル絵の具にまみれた筆をキャンバスに叩きつけた。  どうせこの絵は誰も見ない。  高校一年生の九月、私は美術部で孤立していた。  来月の文化祭のために描いているこの絵は、「誰かの不始末」で当日に紛失されてしまうのだろう。――夏の企画展でそうだったように。  今日だって誰も部に出ない、でもプライドだけは一丁前の、幽霊部員ばかりの美術部。  入部してから今日まで、毎日懸命に描いてきた。でも頑張れば頑張るほど、ここでは疎外されていく。 「……もうやめよっかな」  その時、美術室のドアが開いた。美術部員ではなく、同じクラスの織田くんだった。 「うわ凄いね、その絵。相田さんが描いたの? 忘れ物取りに来て得しちゃったな」  まともに絵を見て誉め言葉をもらうのは、久し振りだった。  今日までの美術部生活の反動で、ぐらりと心が揺れ、涙腺まで緩みそうになる。 「そ、そう。織田くんも絵が好きなの?」 「うん。絵筆は使ったことなくて、CG専門だけど」  織田くんはスマートフォンを取り出し、彼の絵を見せてくれた。  織田くんは、私より絵が上手かった。 「私、絵にも勝ち負けはあると思うの」 「ああ、それは分かる気がする」 「というわけで、私と勝負してください」 「え?」 「絵の投稿サイトで、今度コンテストがあるの。そこでどっちが勝つか」 「いや、なぜ僕と相田さんが」 「はっきり言って、私は織田くんに嫉妬してる。それに私はちんけなプライドが邪魔して、なかなか織田くんがしてくれたみたいには織田くんの絵を褒められない」 「ちんけって」 「つまり、人間性でも負けてる気がするの。情けないと自分でも思う。だから誇れる勝利が必要なのよ」 「相田さんは充分上手いと思」 「お願い。私はどこかで、美術部で一番描ければ、少なくとも学校の中では一番絵が上手いと思ってた。なのに全然違った。織田くんは凄いよ。私、尊敬できる人と戦いたいの」  織田くんは私の目を覗き込み、静かにうなずいた。  文化祭用の絵を早々に仕上げた私は、コンテスト用の絵に取り掛かった。  寝る間を惜しんで、必死に、織田くんに勝つために描いた。  そして完成した絵の写真を撮り、投稿を済ませて、いよいよ織田くんとの勝負の日が来た。  このサイトでは、閲覧者の投票の総数で順位を決める。日曜日の十八時までの得票数が、そのまま順位になる。  朝十時、投票が開始された。自室のパソコンでサイトを開く。  大丈夫。勝てるはず。  織田くんの絵を見てみた。  サムネイルの時点で嫌な予感がした。  開いてみると、その緻密さと鮮やかな色遣いに圧倒された。  あんなに自信のあった私の絵は、織田くんのそれと比べると、人目を引きつけようとした赤色や俯瞰の構図が、浅薄に感じられた。  浅い? 浅いかな、くそう。  実質、コンテストは私と織田くんの一騎打ちだった。  こわごわと得票数を見てみる。  あれ、と思った。意外にいい勝負をしている。いや、私の方が少し伸びている。  思わず両手を振り上げた。織田くんとの差は、さらに開いていく。  やった。勝てる。あんないい絵に。  ――けれど。  私はもう一度織田くんの絵を見た。やっぱり凄い。私より。絶対に。  作品ページには掲示板機能があり、投稿者はコメントを書ける。  気が付いた時には、私はキーボードを叩いていた。 『皆さんはORDER――織田くんのHNだ――さんの絵は見ましたか?』  見た、という返信がいくつもつく。私はなぜか苛立ちながら、続けて書いた。 『なのになんで、私の絵に投票したんですか?』  画面越しに人々のざわつきを感じた。こいつは何を言っているんだ? と。 『彼の絵は私より凄いですよ。見れば分かるでしょう』  やがて、私への苦言のコメントが返され始める。  でも私は止まらなかった。 『私に入れるなんておかしい』  私を非難するコメントと、織田くんの得票数が、目に見えて増え始めた。  その時、スマートフォンが鳴った。  織田くんからのビデオ通話だった。 「相田さん、何やってるの」 「私は織田くんに勝ちたい」 「相田さんの方がいい絵だよ、今回は」 「私は絵に勝ち負けはあると思う。でも他の誰かが決めた勝敗じゃ絶対納得できない勝負もあって、その時は、勝ちか負けかは自分で決めたい」  織田くんは何か言いかけて、一度やめ、それから告げてきた。 「じゃあ、僕と相田さん、勝ちだと思う方を同時に指差そう。いい?」 「いいよ」  いっせえの。  私たちは画面を通して、お互いを指差した。  私は泣くように笑った。  投票は続いている。  私たちは伸び続ける得票数に、通話で好きなことを言いながら、こっそりと笑い合った。  次の絵が早く描きたくてたまらなかった。 終

雪の部屋

 雪の部屋で過ごしていた。室内なのに分厚く雪が積もった部屋で、一人。  処理できていたと思った危険物が蘇ってやってきたので、ご丁寧にご帰宅いただいた。あんなものはこの世にあってはいけない。  時々、忘れたと思っていたものたちが黄泉からやってくる。本当は死んでいる。いや、どこか遠くで生きているのかもしれない。  正確なところはわからないが、俺にとっては死んだのと一緒なのだ。どこかわからない遠くにいて生きているのも、近くにいて死んでいるのも、どちらも同じ。  本当は違うというのも知っているがこの雪まみれの部屋では何もかもが凍り付き、同じになる。在ることも無いことも等しく、氷付けの虚無になってしまう。  それがいいことなのか悪いことなのかはわからない。わからないことだらけ。このままでいいのかどうかさえわからない。凍り付いているから。  足が冷えて指が冷えて身体が冷えて、頭の中だけがぐるぐる回り続けている。もうとっくに死んだのに。俺は生きてはいないのに。  本当は■■■いるのか?  呼びかけは聞こえない。凍結してしまったから。  叫び声も聞こえない。封殺してしまったから。  ずっとずっと、どこか遠くに行きたいと思っていた。けれどもそれは「ここにいたくない」の裏返しで、ここを出てもどこにも行くところなどないし、受け入れてくれる社会もない。  同じなのだ。何もかも冷え凍っていて、動くことはできない。  わかっている。何もかも。わかったふりをしているだけなのかもしれないけれど、俺はそれをわかっているということなのだと思っている。  詭弁だ。何もかも。真実はこの虚無だけ。  何がよくなかったのか、何が駄目だったのか。そんなことを考えても仕方がない。現実はのろのろとしていて俺の全てを凍らせてしまう。  ここから出ても無駄、何をしても無駄。纏わり付く無力感が頭の中をぐるぐる回して凍結させる。  群青が見える。大量の蝶。俺はきっとおかしくなってしまった。きっと逃げているんだ。蝶なら俺を許してくれると。俺を一番許していないのは俺であるのに。  知るはずもない。自分のことなど。  窓を開けようとして、凍り付いていることに気付く。  窓から見える世界は白く凍っている。  誰もいない。みんな■■■しまったから。  いつの間にか全てが終わっていた。いや、終わろうとしているのかも。  何もかも引きずったままここに来てしまった。終わろうとしている瞬間もそれは同じで。  けれど何もならない。なりはしない。雪の中で叫んでも声は吸収されてしまう。誰もいない、誰にも届かない。  終わってしまったのだ。  そう思って、窓にかけた手を下ろした。

いい子

ある夏の夜の日の事だった。 「もしも生まれ変わるなら何になりたい?」 彼女は僕に問いかける。 真っ黒い空を彩る星々。 そして、優しく2人を照らすのは月明かり。 まるでこの世界には僕らしか居ないと錯覚してしまう。 「どうしたの急に。」 僕は彼女の唐突な問いかけに戸惑う。 公園のブランコに座る君は空を見上げたまま続ける。 「ただ、なんとなく…。最近考えるんだよね。」 「なんだそれ、よく分からないんだけど。」 彼女の答えに僕は思わず苦笑してしまう。 そんな僕の反応も気にせず、彼女は続ける。 「私はね、星になりたいの。」 「え?」 彼女は夜空を指さし、星々をなぞる。 「だって、すごいと思わない?私たちが見ているあの光は何十年、何万も前の光だよ。自分たちはここだよって、一生懸命に生きた証。私もそんな風に生きてみたい。」 急にそんな事を言い出す彼女を不思議に思った。 何故かいつもと様子が違う気がする。 何かあったのかもしれないと考える僕。 それ程までに、彼女は消えてしまいそうな雰囲気を感じさせていた。 「本当にどうしたんだよ、何かあったのか?」 「なんだか、疲れちゃった。」 彼女は一瞬だけ僕を見つめると、下を向いてしまう。 前髪から僅かに覗く彼女の瞳は、先程とは違い、何処か諦めにも似た、悲しみを感じさせる様な表情だった。 「いい子でいる事に…。」 ポツリと彼女は呟く。 呟くと言うより、吐き出したという方が近いだろう。 二人の間にしばらくの沈黙が続く。 聴こえてくるのは、虫の鳴き声だけ。 その声を聴きながら、僕は彼女への答えを探す。 彼女が求めているのは同情や共感ではなく、答えだと感じたからだ。 しばらくして虫の声が静まると、辺りには静寂が訪れる。 二人の間に続く沈黙を破るように、僕は一度息を吸う。そして、僕は彼女へ僕なりの答えを告げる。 「そっか…でも、いい子である必要はないんじゃないのか?」 「えっ?」 彼女は驚いた表情で僕を見つめる。 「だって、いい子って誰かにとってのいい子って事だろ?そんな、自分を押し殺してまでするいい子だったらやめるべきだと思う。」 いい子なんて、他人の目や声を気にしすぎた評価に過ぎない。 それは、自分に嘘をついて生きているのと一緒だ。 それなら僕は、いい子でなくていい。 「いい子じゃなくていいの?」 彼女の声は震えて、目には涙が浮かんでいた。 涙は星の様にきらめき、僕は綺麗だと思った。 「もちろん。」 僕は彼女を抱きしめる。 彼女の体は僕より小さいが、今日は一際小さく見えた。 「ありがとう…。」 そう言うと、彼女も僕を抱きしめた。 次の日、一本の電話が届く。 それは、彼女が亡くなったという知らせだった。 死因は自殺。 遺体の近くには、遺書があったそうだ。 内容はたった一言だけ。 『悪い子になったよ。』 あの日から、夜空を見上げる度に考えてしまうのだ。 もしも、答えが違っていたのならば、何か変わったのだろうかと…。 僕は、あの輝きの一つが、彼女であることを願ってしまうのだ。 【終】

なにか #伏線

メモ ・《破れていたため解読不能》を暗殺せよ。 ・《インクをこぼしたあとがあり解読不能》 ・Code.3301を調べろ。ただし、【野原に一人、心にも一人、真実は沼の中あり】には厳密に。 ・《シミが所々あるため、一部だけ公開》「殺」、「せ」の二文字のみ解読可能だった。

うるせぇ、黙れ…からの恋物語

「なんでこういう事しかできないんだ!」 上司が言った。俺が少しミスったからって、 そんな怒らなくていいのに。 「うるせぇ、黙れ」 しまった!つい言ってしまった。 「何だって!?もう一度言ってみろ!」 あー!もう良い!言ってしまえ! 「うるせぇって言ったんだ!少しミスしたくらいで怒るな!黙って見てろ!」 そう叫んだ。さすがに言い過ぎたかも…。 「もう良い、お前はクビ…」 「ちょっとまってください!」 誰かが口を挟んだ。 「実際、少しミスしただけで、そんな言い方は、やっぱりないと思います!だから、 上司の貴方にも問題があると思います」 その子は上司のお気に入りの子だったため、 「っ!……すまない。だが、次そんな言い方をしたら、次こそクビだからな!フンッ」 と言って去って行った。 「どうもありがとうございます。」 俺をかばってくれた子に礼を言った。 「いえいえ。ここだけの話、私もあの人苦手です。」 ペロっとしたを出した子は、可愛く笑った。 ……って言うのが、俺とアイツが出会った時の話。現在俺の彼女だ! これからも、仲良くしような!

escape

〝おまじない、ちょうだい〟 私は雑踏の真ん中、真っ黒いマイクを握る。誰にも届く事のない透明人間の様に今日も謳う。私の背後には過去の残像がウジャウジャ。背中をギロリと睨んでいるだろう。そんな重い、重たい、私の過去たち。そんな呪われた、どんよりした夜の奥底を彷徨っている私の唄なんて……きっと誰の耳にも体にも心にも響きやしない。 壊れそうなギターを肩に掛け、深いため息と共に雑踏の中へと足を踏み出した。アイツらもズラズラと、大袈裟にくっ付いて追いかけて来る。 ピタ、足を止める。アイツらも止まる。 ザッザッ、足を早める。アイツらも足を早める。 コイツらは私が作り出したモノ。あの日から人数が随分と増えた。 憂鬱、暗鬱、未練、後悔…… もう逃れられない。 汚れた水滴が額から、背中から流れ落ちても、この世界の頭痛みたいなノイズからも、きっと逃げられない。 私は私が嫌いだから。あの日からずっと嫌いだから。 〝ずっと友達〟 白日のもと、あの屋上で交わした約束事。5分間だけの、たった一日のその僅かな時の中の友情。それでも私は楽しくて幸せ過ぎて、君が必要だと感じた。 君の為に謳った声も、美しいと褒めてくれたね。そう言ってくれたのは君だけだったよ。 私は私でいいんだよ、と教えてくれた人。 だから私も、君は君のままでいいんだよ、と伝えた。 伝えたのにね。どうしてなの? 重苦しい教室の片隅から見ているだけだった。見えないナイフ。見えない凶器。見えない殺傷。私は見て見ぬふり。だからアイツらと同類。共犯者と変わらない。 私は私が可愛いだけだった。君の事を好きだなんて、友達だなんて言ったのに嘘だったんだ。 ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい。 君の本当の苦痛、苦悩、重苦なんてきっと分からない。 自分の生を命を人生を、自分で幕を閉じる事にした君の気持ちなんて。 あの日からずっと縛られている呪い。その真っ黒い闇の心に棲みついた人格たちが顔を出したんだ。だからずっと背後から着いてくる。過去の残像たちが。 君を救えなかった。 君を助けたかったのに。 それを出来なかった自分。 自分が嫌い。あの日からずっと……。 私の幸せは君と居る事だったんだよ。 5分間だけの友情でも、あの吹き抜けた空間は幸福に満ち溢れていた。君が広げたお弁当も、君が真似した小鳥の鳴き声も、君が手を叩いて喜んでくれたあの可愛い微笑も。 君の幸せって何だったんだろうね? 私と居て幸せだったのかな? もう、今さら聞けない。 もう、その答え合わせは出来ない。 人混みを避けるようにふらふら歩いていると、ある言葉を見つけた。四角い板に書かれたそれを見た時、君が頭を巡ったよ。君が大好きだった食べ物。そして私も好きだった食べ物。二人でおまじないの様に食べた食べ物。 私は急いで財布を取り出し、チャリ銭を手のひらへと出す。1、2、3、4、5枚。人差し指でなぞる様に数える。 「カツサンド、一つ下さい!」 だいぶ暗くなった公園には街灯がボワッと灯されていた。 その灯りで頭上の煌めきなんてボヤけて見えない。 冷え切った青銅のベンチへと腰掛け、不透明な袋から白い箱を取り出した。膝の上へと乗せると、まだその温もりに頬が少し緩んだ。四角いひしめき合いの中にある白と茶色。香ばしいソースの匂いが鼻腔の奥を擽る。 一口含むと、懐かしい匂いと味が鼻の奥をすり抜ける。 すり抜けた空気が目を通り抜けて、水滴を溢れさせた。 「美味しいよ、美味しい」 君はあの場所でよく食べていたね。購買のカツサンド。人気ですぐ売れちゃうやつ。私は思わず「欲しい!」と言って一切れ盗み食べちゃったね。 君はこれを〝願掛けだよ〟って言ったね。 テストに〝勝つ〟為。 そして、いじめに〝勝つ〟為の。 勝ちたい事がある時は、二人で半分こして食べたカツサンド。おまじないの〝勝つサンド〟。 「おまじない、効かなかったじゃんか」 〝違うよ、私が負けちゃったんだ。  ごめんね!だから君が悪いんじゃない。  私と友達になってくれてありがとう。  君は頑張って生きてね。  君の歌は最高に素敵!  だから歌う事、辞めないで!  君は君に勝つんだよ!おまじないだよ〟 カツの肉汁がジュワッと口の中を生き返らせる。 味覚が、視覚が、感覚が、甦っていく。 背中が、体が、両足が、軽くなっていく。 身体全体から、縛られていた呪いがズズズッと逃げ出していく。 「ありがとう!」 立ち上がり、見上げた頭上にはキラキラ煌めいた星たち。 歩き出した歩幅はいつもより大きく、軽々しい。 振り向いた背後には、 もう……アイツらは居ない。 end

殺人

家に帰る途中変な音が聞こえた。 『ドシャッ、ドシャッ、バキィ』 これはさつ「お前も死にたいのかぁぁ!」かもしれ『バキィィ』…

人生を儚さで片付けないで

「人間は何故俺達をホイホイする?」 こんな知能の高いゴキブリは高値で売りつけた方が良いと思うかもしれないけれど、当時高校生だった私は混乱を極めていた。 「ごごごゴキブリが何故喋るの! 気持ち悪い! ただでさえ気持ち悪いのに! 話しかけないで!」 「何故喋るか。難しい問題だ。俺は物心ついた頃には人間の言葉を理解し覚えることが造作もなかった。突然変異が何故起こったかに言及するならば環境に起因するだろう推測は出来るが俺が生まれたとき同じ環境下にあった百体の兄弟は誰しも言語を理解する個体がおらず」「嫌! 生まれた時の話はしないで!」 泣きながら両耳を塞いだ。こんな日に限って両親は共働きで帰りが遅い。私には母親のようにスリッパで叩き落とす勇気も、父親のようにスプレーを振り撒く度胸もないのに。 「混乱させてしまって申し訳ない。突然飛びかかったりしないから安心してくれ。俺は梨乃と友達になりたいだけなんだ」 私は友達が少ないけれどゴキブリの友達は欲しくない。気持ちが悪いし。 「ゴキブリはゴキブリと仲良くしてよ。私は嫌」 「俺は言葉を喋るばかりにゴキブリとも馴染めない。だから何故人間が俺達を嫌うか話し合おうと言っているんだ。少なくとも俺だけでもひとつひとつ解決すれば共存の道はある筈だ。何故嫌うか。述べよ」 ゴキブリは踏ん反った。偉そうだ。 「存在が気持ち悪い」 「偏見と暴論だ」 ゴキブリを飼いたくない私と、人間と友達になりたいゴキブリの討論が始まった。 「お前は初対面で『存在が気持ち悪い』と本人に言うのか? 言われたゴキブリの気持ちを考えたことはあるのか」 ゴキブリの気持ちなんて考えたことはない。声のトーンが悲しそうね。じゃないのよ。 「人間は皆ゴキブリが気持ち悪いの! たぶん本能なの!」 「成る程。脳内で拒絶反応が起こっている訳だ。恐らくは遺伝子レベルで『ゴキブリが害である』と刷り込まれているんだろう。害である部分を俺が直せば良いだけの話だ。ひとつひとつ思い込みを外していこう」 あら前向き。って外すのは私じゃないの。 「種族の壁が越せる訳ないじゃない。人と虫よ」 「日本人は昔、鎖国をしていたらしいな。今は外国人と仲良しじゃないか。梨乃が出しっぱなしにしていた歴史の教科書に書いてあった」 どうやら文字も読めるらしい。教科書を捨てたい。 「全部言ってみろ。ゴキブリの嫌いな所は?」 「速くて気持ち悪い」 「偏見と暴論だ」 このやり取りは続く。 「お前はウサインボルトが気持ち悪いのか?」 「ウサインボルトさんは速いけど気持ち悪くない」 世界陸上のドキュメントをテレビで流したりしてたかな。 「『速くて気持ち悪い』っていうのは突然飛びかかるかもしれない恐怖だろ? 飛びかからないってさっき言ったじゃないか。お前が悪い」 私が悪いのかな。確かにさっき言っていた。私の偏見だったのかな。 「ごめんなさい」 「よし。他には?」 「汚い」 「傷つく」 ゴキブリがしゅん、として、くの字に曲がった。 「人間の体に良くない物質を保菌しているのは知っている。だから絶対に飛びかからないと約束する。それでは、ダメだろうか」 悲しそうな声で言われて少し同情してしまう。 「うーん。私は会話したから事情は分かってきたけど、虫嫌いの両親を説得できるかな……」 「最後の砦はそこか? 病原菌さえなくなれば俺は梨乃と梨乃の両親と友達になれる?」 目を輝かせて……いるかは分からないけれど私に頭を向けて言った。 「菌がなくなれば説得は出来るかもしれないけど」 「分かった」 突然ゴキブリがかさかさと高速で部屋を出て行く。 「きゃあああ」 本能的な叫び声を上げた。これは仕方ないじゃない。見失ってしまった。 『ぐわー』 遠くから叫び声が聴こえた。声を頼りに駆けつけてみると、洗面台に泡風呂のように水が貯められていてゴキブリが浮いていた。 「ゴキブリ! 何故こんなことを……」 「俺は生きていても居場所がない……梨乃と友達になれるなら……界面活性剤が体表を覆い腹部の気門(きもん)を塞ぎ窒息死することを解っていても……適応して突然変異することに賭けるしか……」 「もう、もう喋らないで」 私はゴキブリを手で掬った。嫌悪感を儚さが上回った瞬間だった。 「梨乃。ありがとう。俺が人間に生まれ変わったら……友達になろうな」 最期の言葉は、やっぱり虫らしくなかった。 あの経験をした私も大人になった。あのゴキブリが人間になっている事を願いながら、また会いたくなっている自分がいる。次に会ったら保菌したゴキブリでも友達になることだろう。 でも友達としてひとつだけ、こんなお願いをさせて欲しい。 『今度は死なせないようにするから、身体を少しだけ調べさせてくれないかな』 私は今、国立研究開発法人の生物多様性部門に所属している。

壊れたオルゴール

 保育園くらいの頃、僕にはすごく仲良くしている友達がいた。彼は同い年なのに僕よりずっと物知りで、僕から見たらまるでなんでも知ってるヒーローみたいな子だった。あまり周りと打ち解けることが苦手な僕はずっとその子といた。彼には色々教えてもらった。スライムや段ボールでできた秘密基地の作り方や、雨は誰かが泣くから降るなど。一番面白いと思ったのはオルゴールの仕組みを教えてくれたことだ。彼はちょっと古い感じのオルゴールを持っていて、それを僕に見せてくれた。オルゴールは音の一個一個に気持ちがあって、それのどれか一つがかけても壊れるらしい。当時オルゴールという存在すらちゃんと知らなかった僕はそれを聞いただけでわくわくした。このきれいな音にはどんな気持ちが詰まっているんだろう。よっぽどきらきらとした目で見ていたのだろう、「このオルゴールあげるよ、家にもう一個同じのあるから」そう言ってその古いオルゴールを僕にくれた。それ以来そのオルゴールは僕の宝物になった。  それから少し経って僕らは小学生になった。彼とは学区が一つ隣だったので学校も違っていた。そのため会う機会はかなり減っていたがたまにあっては色々と教えてもらっていた。それに加えて僕は学校で新たに友達が増えた。多分色々と教えてもらっていて自分に自信がついていたのだろう。誰と話す時も堂々といれるようになっていた。ある日、クラスメートがこんなことを言った。「なんで雨が降ると思う?俺この前父さんに教えてもらったんだ。」僕は教えてもらったぞ、と思って教えてもらった通りの答えを返した。そう、「誰かが泣いているから」クラスメートはそれを聞いた瞬間に爆笑である。なんで笑われたかもわからず戸惑う僕にクラスメートは「そんなの世界のどっかで誰かが泣いてるんだから一生雨じゃん、ありえねえわ。誰から聞いたのそんな嘘」僕はこの時初めて彼から教えてもらったことが事実とは違うことを知った。しかもそのせいで恥をかいてクラスの笑いものになったのだ。僕はひどく彼に対して怒りを感じた。嘘を教えられたせいで恥をかいた、きっとほかの事も嘘に違いない。もしこれで友達が減ったらどうしてくれるんだ。今にして思えば見当違いも甚だしい怒りである。保育園児と小学生が教えてもらえる内容に違いがあるのは当たり前の事なのだから。彼の家族は彼の幼いながらの考えや夢を壊さないようにそうやって教えてくれていただけなのだろう。  そんなことがあってからしばらくして、彼に会う機会があった。そこで彼はまた僕に色々教えてくれようとしたが僕はさえぎって言った。「君のせいで皆に笑われた。雨が降る理由も、オルゴールが鳴る理由も全部違うじゃないか。君の言うことなんて全部嘘っぱちだ。もう絶交だ」彼は何を言われているかわからないというような表情だった。きっと今でも空は誰かが泣くと雨が降るし、オルゴールは気持ちが詰まっていてきれいな音を出すと信じているのだろう。僕はそんな彼に対して軽蔑するような目を向けてその場を去り、自分から会うことをやめた。いつも眺めていた古いオルゴールは部屋の隅に押しやって見ないようにした。  さらに数年経ち、中学生になった。二つの学区からやってくるこの学校で僕は再び彼と会うことになった。彼は今でも昔知ったことを信じているようで、その話をしては周りの人にからかわれていた。彼と友達だったということを知られるのが嫌で僕は一切助けにも入らなかったし近づきもしなかった。やがてそのからかいがいじめに発展していっても無視をし続けた。僕は新たにできた友達とうまくやっていくのだ。彼のような無知なバカにはならない。成績も僕の方が上だった。僕は昔の彼のように友達から教えてとよく頼まれるようになった。そうやって新たな友達たちと過ごすうちに、彼が徐々に学校に来なくなったことも相まって彼の存在は僕の頭の中から薄れていった。  彼が学校に来なくなって数か月たったころ学年集会が開かれた。彼が自殺をしたので事情を知っているものはあとで名乗り出るようにというものだった。僕が把握していた以上にいじめがひどく、それが原因だったらしい。僕も昔から知っているということで先生に呼ばれたが何も知らないと答えた。実際最近の彼の事は何も知らなかったのだ。どうせ笑ってるだけだし何も知らないに違いないから平気だろう、と高をくくって気にせず放置していた。僕のヒーローだった友達との関係はこうして本当に終わりを迎えた。葬式に行った時彼の両親は泣いていた。僕がもっと関わって、教わるだけじゃなくて彼に本当のことを教えてあげられていたら何か変わったのだろうか。教えてほしくても写真の彼は笑うだけだった。土砂降りの中家に帰り、久々に古いオルゴールを開いてみたが壊れてしまったのか、もうあのきれいな音が鳴ることはなかった。

リピート

 たった一つ投じられた石によって生まれた波紋がやがて幾重にも広がり、誰にも収拾の付かない事態へと陥っていく。  どうして彼だったのか。どうして私だったのか。世界が壊れることを望んだその何者かが意図して私たちを選んだというのなら、それは私たち自身の罪なのだろうか。  そんなことをつらつらと考えていると、既に目的の駅に着いていたようで慌てて座席から立ち上がる。その拍子に膝に置いていた文庫本が滑り落ちて、どっとなだれ込もうとする人たちの足元に隠れてしまった。  このまま降りてしまうか、それとも本を回収するか。ほんの一瞬逡巡したものの、私は本を諦めて「すみません降ります」と荷物を胸に抱いて乗客を掻き分けた。ややあって無情にもドアは閉まった。  薄暗いホームの先は眩しい光で溢れている。線路はそこで進路を変えるのか、赤錆色をしたいくつかのレールが見える。ターミナル駅といえばそうなのだろう。地方都市にあるこの町はたしかにこの辺りでは大きい町ではあったけれど、一本電車を逃すと一時間後、というのはざらだった。一駅でも相当に距離があるし、折返してすぐに戻ってこれるほど本数はない。  それに、あの本はじきにまた私の手元に戻ってくる。それは確信だった。少しずつ読み進めていた本の内容を忘れてしまわないうちに、きっとまた世界は再構築する。彼を何度も殺し、生き返らせ、私はそのたびに本のページを進める。  抗えない運命だというのならそれも仕方がない。だけど私にはこれがそうだとは思えなかった。  もし私たちが前世かなにかでとんでもなく酷いことをして、その結果がこれだというのなら、罪の意識まで記憶に刻んでくれればいいのに。なにもわからないまま何度も別れを繰り返す。いっそ終わりにしてくれと身を投げ出すか、狂ってしまえたら。  そうしたら私は彼のことも自分のこともわからなくなって、このループを齎した張本人の楽しみを奪うのかもしれない。そいつはわかっているのだ。私が自ら命を絶つことなど出来やしないということを。 「中央病院までお願いします」  タクシーに乗り込むと気の良さそうな中年の運転手が「今朝は冷え込みが酷かったねぇ」と声をかけてきた。 「本当に寒いですね」と相槌を打ちながらダッシュボードの上にある乗務員証を眺めて、「ああ」と言葉には出さずに溜息を吐いた。彼のタクシーに乗るのは何回目だろう。このあとに起こるであろう出来事を予想して私は意識的に顔を窓の外へ向けた。  小さな丘陵を超えると田園地帯の真ん中にある病院の建物が見えてくる。タクシーの乗降場で精算を終えた私に運転手が「お気を付けて」とにこやかな笑顔を見せた。 「……運転手さんも腰、お大事にしてください」 「えっ?」  そそくさと会釈して私は病院の出入り口へと向かう。運転手は訝しむように私を見たあとドアを閉めて去っていった。 「ゆいちゃん、来てくれたんだ。こんなところまでごめん」 「実家に帰省してるときに入院するなんて、びっくりしたよ」 「やることなくて暇! 最初は検査だなんだっていろいろしてたけどさ、今はご飯しか楽しみない。あとずっとテレビ付けてるからワイドショーに詳しくなった」 「はい、うちに忘れていったスマホ。これがないと生きていけないでしょ」 「まじサンキュー! ありがとう」  朗らかに笑う彼の顔にはなんの陰りもなくて、私はそっと頬を緩めた。布団の上に出していた手に自分の手を重ねてその温もりを確かめる。私よりも少しだけ高い体温、滑らかで、だけどずっと大きなその手はいつだって私を守ってくれた。あのときも、そのあとも、身を挺して私を守ってくれた。  だから今の私がここにいるんだよ──。 「ゆいちゃん、どうしたの? 俺がいなくて寂しかった?」 「寂しいよ。ばか。早く元気になって、一緒に帰ろうよ」 「……ははっ、かわいいね。いつもそんなこと言ってくれないのに」 「言ってるよ、言ってるってば」 「えっ、なっ泣くなってぇ」  言いたかった言葉はたくさんあるんだよ。いつだって、感謝と愛と謝罪のどれをも全部伝えきれないまま終わってしまうんだよ。  会いたい。一緒にいたい。大好き。愛してる。  薄い雲の隙間からきらりと光る何かが見えた。あれはあっという間にこの地を地獄へと変えるだろう。私はただそれを知っているだけでどうすることも出来ない。雷がいくつも落ちたような、まさに爆撃といってもいいような爆音が轟いた。最後にお互いに伸ばした指が触れる。──大丈夫、また会える。  すべてが終わりに向かって流れていく中で、どうしてか場違いなことを思い出した。あの電車に置いてきてしまった文庫本、あれはなんてタイトルだったか。  もしあの本を最後まで読むことが出来たのなら、そのときに私たちの、否、私の罪は赦されるのだろうかと。

記憶を失った殺人鬼・正体編につながるお話

⚠Attention⚠ 〈読む前にかならずお読みください。〉 ①このお話はつながるお話ですが、本編への伏線は含まれております。 ②コメント欄での考察はご控えください。ネタバレが含まれる可能性がございます。他の方にも推理をしてほしいので、なるべく個人でおねがいします。 ③また、このお話はまだ未完成です。 完成次第、この③の注意を消去させていただきます。 ④毎日少しずつ追加していき、考察する時間を設けさせていただきます。勿論、他の作品の投稿を放棄するわけではありません。しかし、「早く完成しろ」、「コメントしてる暇があるなら『つながるお話』の続きを書けよ」などのコメントがあった場合、私はこの小説を完成させることをやめさせていただきます。 【ご了承いただいた方のみ、こちらを御覧ください。】  あれから半年。 相変わらずあの建物からは出れてない。  廊下をずっと歩いていると、食べ物が置いてある場所がありそこの硬いパンを毎日食べた。  業者さんがいるようだけど、一日張り込みしても来なかった。 「このパン、硬いし小さいし冷たいし・・・早く外に出て、温かい焼き立ての香ばしい匂いがする食パンとか、味のあるアンパンが食べたいね!」

我が愛しの殺人鬼

 帰宅して玄関を開けると、彼が見知らぬ男を殺したところだった。 「千加……俺、やっちまった」  ああ、やっぱり。  いずれこうなると思ってたんだ。  前から、気になっていた。  彼は普段はとても優しいけれど、一度頭に血が上ると、衝動的な行動に出ることがちょくちょくあった。 「急にベランダから、部屋に入ってきて……誰だって言ったら、お前こそ誰だ、千加はどこだなんて言うから」  部屋はだいぶ荒れていた。取っ組み合った末に相手を押し倒したら、後頭部にテーブルの角がぶつかったらしかった。 「千加の部屋だと知って侵入してきたんだって考えたら、つい、カッとなっちまって……」  そうだ。  彼は、私のことになると、特に沸点が下がるのだ。  私が道ですれ違いざまにぶつかってよろめいたら、相手に殴り掛かりそうになって、必死で止めたこともあったっけ。 「ごめん。ごめんな、千加。ずっとキレやすいところ直せって言われていたのに。こんなことになっちまって……」 「惇也」  膝をついて打ち震える彼に、私は声をかける。 「いいの、惇也」  私のため。  彼が罪を犯したのは、結果的にそうしてしまったのは、私に危険が迫ると思ってのことだ。 「ごめんね。ありがとう」  私は、放心しかけている惇也に寄り添い、その身体を強く、抱きしめた。  ★  これは、夢じゃないのか。  留守番を頼まれた千加の部屋に、突然男が侵入してきたのも。  その怪しい男ともみ合いになり、自分が手にかけてしまったのも。  いくら不法侵入だったとはいえ、取り返しのつかないことをしてしまった俺を、千加が受け入れてくれたのも。  全部が全部、突然のこと過ぎて、整理がつかない。  ……目の前で今、千加が手際よく、証拠隠滅に励んでいることも。 「あっ、惇也は座ってていいよ。ごめんね、疲れちゃったでしょ、ゆっくり休んでてね」  千加はひとしきり俺のことを抱きしめた後、すたすたとウォークインクローゼットを開け、その奥の一見何もない壁を、ぎい、と開けた。  その隠しスペースには、ナイフ、ノコギリ、ピストルと銃弾、何かの薬品、その他もろもろのありとあらゆる凶器が、ゴロゴロと詰めこまれていた。 「このままだと大きすぎるから、まずは適度な大きさにバラして、それから●●したあとに●●して、あっ、その際●●しておくとね、臭いも抑えられるからさ。これが素人には真似できないポイントなんだなっ」  まるで料理の手ほどきをしているみたいに、千加は淀みもためらいもなく喋りながら、常人では腰が引ける作業を、てきぱきと進めていく。 「千加、お前……」 「うん、実はさ、私の職業今まで言ってなかったけど、殺し屋なんだよね」  殺し屋。  うん、初耳だな。 「私、人殺すの好きだし、それでお金もらえるなんて天職だなーって思ってたんだけど」  そんな、『花が好きだから花屋になった』みたいなノリで言われても。 「最近、うっかり仕事を楽しみすぎて、つい、必要以上に殺しすぎちゃってさ。頭に血が上っちゃうと、ダメなんだよねー」  そうか、ある意味似た者同士だったんだな俺たち。 「だからたぶん、組織から警告するために来たんだと思う、この人」  ほら、ここに黒い蝶のタトゥーがあるでしょと、千加はひょいと切り離した左腕を持ち上げて、手首を指さしてみせる。ああ、うん、そうなんだ。へえー。 「よかった。惇也にずっと隠してたから、罪悪感があったの。……本当のことを話したら、嫌われちゃうんじゃないか、って、さ」  少し言葉を詰まらせながら、千加は、寂し気に目を伏せてみせる。  あー、ごめん、ちょっと俺まだ混乱してて、その感傷についていけてないんだけど。 「だから、嬉しいんだ。惇也が、秘密を共有できる人になったから。こっちの世界に足を踏み入れてくれたから」  ああ、そうだね、俺も人殺しの仲間入りだもんね。  踏み入れようとして踏み入れたんじゃないんだけどね。 「それに、私のことを想って殺ってくれたなんて。……改めて、惚れ直しちゃったよ?」  手に真っ赤に染まったノコギリを持って言うセリフじゃないよ、とは、とても言えない。 「たぶん追手が来ると思うから、手早く処理を終えて、身を隠さないとね。大丈夫、惇也はまだ初心者だから、私が尾行のまき方、気配の消し方、暗殺の手管、いろいろ一から仕込んであげるからね」  ……これは、夢じゃないのか。  鼻歌を歌いつつ張り切って証拠隠滅に精を出す恋人の姿を見ながら、俺は、急に目の前に広がりつつあるアクション&バイオレンスな未来と、千加が初めからこういう展開になることを見越して俺に留守番を頼んだ可能性について、ぼんやりと思いを巡らせるのだった。

告白の返事は復讐

 とある高校で、一人の少年が複数の生徒から暴力を受けていた。その光景はこの学校ではいつものことで、誰もが見て見ぬふりをしていた。  少年も、自分はそういう扱いをされることが当たり前だと諦めて、何も抵抗をしなかった。  ところが、その日は様子が違った。 「あんたたち、やめなさいよ!」  一人の少女が、いじめを止めたのである。 「あ? お前、女だと思って殴られないと思ってんのか?」 「殴れば? 今、先生呼んだから」 「このアマ、覚えてろよ!」  三流の悪役のような捨て台詞を吐いて、いじめっ子たちは去っていった。 「あ~、怖かった。先生なんて、ホントは呼んでないし」  少女は、その場にへたりこんだ。 「あの……」  と、少年は少女におずおずと話しかけた。 「あ、はじめまして。私、今日この学校に転校してきたの。よろしくね」  そう言って少女は、にっこりと笑った。 「ああいうことされると、次からよけいにいじめがひどくなるから、困るんだけど」  少年は、その笑顔に魅了されそうになったが、かばってもらった喜びよりも、本音を言う。 「だったら、その度に私がかばってあげる。そうやって諦めてるから、何も変わらないのよ」  少女は、力強く言った。  少女は、次の日から本当に毎日少年をかばった。ときには、少女も危険にさらされることもあった。それでも、少女は勇敢にいじめに立ち向かっていった。  いじめは徐々におさまっていき、少年は、平和な学校生活というものを取り戻した。 「ありがとう」  少年は、心から少女にお礼を言った。 「いいっていいって。私、実は前の学校でいじめを受けていたの」  少女の意外な発言に、少年は驚いた。 「だから、今度の学校では楽しい学校生活を送りたいと思ってた。でも、いじめを見て見ぬふりなんてできなかった」  少女が、自嘲気味に笑う。 「損な性格だよね」 「そんなことないよ!」  少年は、大きな声でそれを否定した。 「俺、実は、君のことが好きで……」  気が付けば、少年は少女に告白していた。  少女は、一瞬驚いた顔をした。 「ごめんなさい。そんなつもりで、あなたにやさしくしてたわけじゃないの」  だがすぐに、少年の告白を断った。 「わかっていたよ、気にしないで」  そう言って、少年は複雑な顔をしながらその場から逃げていった。  少女に振られてからの少年は、みるみるうちに変わっていった。  勉強、スポーツ、学校の授業に力を入れることはもちろん、社交的にもなった。  見た目も磨いたので、女子生徒たちからはカッコいいと言われるようになった。  一方、少女は、気の強さやお節介な性格が気に入らないと、一部の生徒からいじめを受けるようになっていた。 「お前ら、やめろよ!」  今度は、少年が少女のことをかばう番だった。  少年が少女をかばう度に、いじめはおさまっていった。  りりしくなった少年に、少女は恋をした。 「私、あなたのこと、好きになっちゃったんだけど……」  少女は、おもいきって少年に告白した。  少年は、驚きもしなかった。 「ごめんな。俺、そんなつもりでお前にやさしくしてたわけじゃないから」  そう言って、冷たい目で少女を見つめた。

仮面

 仮面を着けて外へ出た。夜の空気は冷たくて、街の灯りは遠くに見える。嬉しくなって、気づけば駆け出していた。  昔からずっと悪い意味で人と違っていた。何に対しても過敏で、生き苦しいまま身体を引きずって今日までやってきた。踏切や歩道橋を渡る度に楽になることが頭をよぎったけれど、敏感な魂が痛みを想像しただけで悲鳴を上げるから、怖くて踏ん切りがつかなかった。  パパとママはお仕事が忙しいから、迷惑をかけないお利口さんはキュッと口を閉じて首を縦に振るのが正しいんだよね、知ってるよ。おかしいね、私はいつだって正しくあろうと努力してきたのに、友達も仲間もできなかった。みんな関わりたくないから目を逸らした。なんでって聞いたら「ヨソモノ」だからだって。そのままあだ名になって、外を歩いているとヨソモノって呼ばれる。高校生になった今も。  仮面は中学生の自分が掘って、引き出しの奥にしまっていた。先生には理解出来ない、気持ち悪いと褒めてもらえなかったけど、初めて誰にも邪魔されずに作ったお気に入りだった。お医者さんからもらったお薬を入れようと開けたら目が合って、使ってよって喋りかけられたんだ。  だから仮面を着けて外へ出た。そうしたら騒がしい人の声も、眩しい街灯の明かりも、脂っこい食べ物の匂いもない世界が広がっていた。すうっと息を大きく吸い込んで、初めて生きているって思えた。  居場所を見つけた嬉しさで、私はどんどん走っていく。どこまでいっても空は暗くて、星が点々とまばらに散っている。朝が来るなんて嘘みたい。公園を横切って、駅を越えて、住宅街を抜けていく。  誰も私を責めたりしない、前を向けとかポジティブになれとか酷い言葉を並べ立てたり、毒にも薬にもならない上辺だけの優しい言葉をかけてくる人はここにはいない。私はやっと産声を上げたんだ、やっと世界に生まれたんだ。  けれども幸せはいつだって束の間。普段走ったりしないから、すぐにへとへとになって肩で息をしていたら裏切りの朝日が頭を出していた。私はやっぱり世界が優しい訳がなかったとため息をついて、家に帰ってベッドの中に丸まった。  早く次の夜が始まらないかな、あんなに素敵な世界を知ってしまったら、明るい世界なんて到底受け入れられない。信じられない。ぎゅっと目をつぶって、ただただ時間が過ぎるのを待った。  次の夜も、その次の夜も、昼間を耐えればやってきてくれた。ずっと夜が続けばいいのに、時間の神様は残酷だから必ず朝を連れてくる。私はベッドの中でも仮面を着けるようになった。理不尽ばかりが襲ってくる世界に対する、小さな小さな抵抗だ。  それだって、ママの前には無駄なんだ。夜な夜な外に出ているのが見つかって、仮面は燃えるゴミになった。私は刺し殺すような朝日と沢山の言葉を浴びせられた。どうしてパパとママを困らせるの、どうして変なことばかりするの、どうしてみんなと一緒が出来ないの、どうして言うことが聞けないの、どうしてわけのわからないことを言うの、どうして、どうして、どうして。最後の方は、もう聞き取れない動物の鳴き声だった。  私はどうしていいかわからない、わからないままゴミ捨て場にいた。仮面が泣いていると思ったから。探してあげなきゃいけないって思ったから。黒い袋を片っ端から破いて破いて、生ゴミの臭いが気持ち悪くなったら吐いて、仮面が私を呼んでいる声を必死に聞こうとした。どれだけ探しても、声は聞こえなかった。  涙で視界が滲んでいく。神様にお願いだから返してと祈っても、冷たい風を吹き付けられる。笑われてるんだ、クラスのみんなみたいに。私はヨソモノだから輪の中に永遠に入れない。いつまでも弾き出されたまま、いっそのことその方がお似合いだと吐き捨ててくれればまだ救われたのに。  もう許してよと叫んだら、酔っ払いに「うるせーぞクソガキめ」と空き缶を投げつけられた。黄色い汁が飛び散ってアスファルトを転がっていった先に、仮面が落ちていた。  私は息を飲んだ、奇跡が起きたのだから。空き缶と一緒に仮面をもう二度と離したりしないと泣きながら抱きしめた。仮面は喋らなかったけど、それが信頼してくれている証拠なんだって心でわかった。  今日も私は仮面を着けて外へ出る。逃げても逃げても袋小路の人生だけれども、終わらせられないから仕方ない。私は望んでいない世界に無理矢理生かされている。  いつか時が夜で止まってくれることを願いながら、心地の良い暗闇の中をどこまでも歩いていく。酒臭さがまだ残る空き缶を、カラカラ鳴らしながら。

イヤホンをする私、これからしないかもしれない私

 周りの人の声って気になるよね。  想像力に自信があり、被害妄想をしがちな私とかだと、ことあるごとに「あ、もしかしてこれ陰口言われてんのかな」と思う。  そんな私は、そもそも話し声の断片を受け取らなければいのではないかと考え、休み時間、イヤホンをさしていた。  音楽が全ての音を独占し、周りは無音に感じる。結構いいイヤホン使ってるからね。ほんとに周りの音は聞こえないよ。  しかしそんな私も、肩をたたかれたら反応せざるを得ない。  仕方なくイヤホンをはずして振り向けば、親友がいた。 「今日も音楽ですかい」 「そうだよ」  機械じゃなくて生の音が入ってくる。  創られた音ではなく、用意された音でもない。  とりあえず私は親友との会話に専念することにした。 「今日遊びに行かない? はい行くよね決まり!」 「まだなんも言ってないけど」  この親友、ほんとに何にも気にせず会話を進めてくる。クラス一ってレベルで可愛いから怒られないのかな。私も許しちゃうけど。でも嫉妬はするよね時々。  今だって、誘いを断られたらどうしようとか考えてないでしょ絶対。  私だって用事があることはあるのに。  まあでも今日は用事がないので、私は行くと言った。 「ほらあってた。ま、予知しただけですよー」  なんとも非科学的である。  非科学的で楽観的な親友は、ニコニコ笑って、 「どこ行く?」  と訊いてきた。 「カラオケとか……? どこでもいいけど」 「いいよカラオケで。音楽好きだねー」  そう微笑ましそうにしている親友は、私がなんでイヤホンをするのか、あんまりわからないんだろう。    カラオケは高校のすぐ近くにあるけど、そこより安いところを、私の親友は知っていた。  高校から駅と反対方向に歩いて行った大通り沿い。    そこに安いカラオケがある。  若干ボロいけど、問題なし。  受付を済ませ、ソファに親友と私は座った。  学校の硬い椅子に六時間目まで耐えた後だと、超柔らかく感じる。高級ソファなはずはないのに。 「はい、じゃあどんどん曲入れて歌っていきましょー」 「うん」  親友に私はうなずいた。  カラオケは、いいね。  だって部屋の外の音はあんまり聞こえないし、親友の歌声は綺麗だ。  声も可愛くて見た目も可愛いのだ。親友は。  だから周りの目も気にせずともどんどん行けちゃうんだね。  イヤホンを好む私とはだいぶ違うのだ。  今も、カラオケの部屋が音の遮断に優れていることを喜んでいるのは、私の方だけだろう。    親友も私も歌いまくった。  親友は相変わらず高音で歌うのがうまくて、大尊敬であった。 「はー、いいね、こんなに人目を気にせず叫べるの最高」  親友はそう言った。ちょっとだけがらがら声。 「人目気にしないタイプでしょあなたは」  私がそう返すと、親友は、 「え? いや私めっちゃ気にするタイプだよ?」  そう驚きつつ言う。  まじか。それなら私は一体どんぐらい気にするタイプなんだよ。強調する日本語全部並べても足りなそう。  いやそれとも……。 「私さ、色々ぐいぐい話を進めてるのって、結構、色々気にしちゃうからなんだよ。逆にその方が楽なの。自分勝手だなとは思ってるけど、直せなくて」  親友は言った。 「そうなの?」 「うん。今日も一緒に遊んでくれなかったらどうしよって考えてたし。ほんと小学生みたいでしょ」 「ううん」  私は、少し照れたようにしゃべる親友に、首を振った。だって私もそうだから。  でも私は親友と違って、行動をやめてしまう。  だから、やっぱりちゃんと行動に移せる君の方が偉い。イヤホンで聞こえないふりする私より、偉い。  だから、 「今日、誘ってくれて、嬉しかった」  それだけ言った。とりあえず、とても伝えたいこと。 「よかったっ。あそうだ。なんか食べよ」  親友は嬉しそうにメニューを開く。そういえばドリンクすら注文してなかった。ドリンク一杯は無料なのに。  私は思った。ちょっと勇気を出せば、嬉しい言葉だって聞こえてくるのかな。  その勇気を持ち合わせてるのをちょっと羨ましく思いながら、私はポテトを指さして笑う親友を眺めた。

君とタバコの方程式

「    」 君はそう言って微笑んだ。  出会いはほんの些細なひとこと。 「タバコある?」  喫煙所に現れた君は、多くの人の中から何故か俺に向かってそう言ってきた。  俺は少し戸惑いながらもタバコを一本差し出す。  君はとなりに腰掛け深く煙を吐き出した。  他愛ない会話。その中に見つけた共通点は、自然と二人をつなげていった。  それからというもの、俺は喫煙所へ行く度に君を探すようになっていた。  いつも少し遅れて現れる君は、当たり前にとなりに座る。  日に日に近づく二人の距離。  最初に見つけた『孤独』という共通点は、やがて『二人』へと変換され、心にそっとあたたかな火を灯した。  その日はいつもより少し遅い夕暮れ時。誰もいない喫煙所。  今日はさすがにいないか、と冷たいベンチに腰掛ける。  今は一人だけれど不思議と孤独ではない。  その時。不意に後ろから声がした。 「タバコある?」  いつもの声。俺は思わずふっと微笑んで振り返った。  突然塞がれる唇。  少しの驚きと、胸いっぱいのあたたかさに包まれる。  何だか泣きそうに見える君は、 「あの時ナンパしてよかった」  そう言って微笑んだ。  ほろ苦いタバコの味がした。

「はぁはぁ、おはようございますっ!」  宮島は駆け足で自席に着くと、周囲に挨拶した。息を切らしている。 「今日もギリギリね」  宮島の対面に座る加藤が皮肉交じりに声を掛ける。 「はぁはぁ、今日は特に大変でしたよ」  宮島はそんな皮肉を意にも介さない様子で、むしろ自慢げに話し始める。 「電車が遅れてまして、駅に着いた時には始業四分前だったんですよ。はぁはぁ、でも、全速力で走れば何とかなるもんですね」  彼の話を聞き、私は驚いた。  最寄駅から会社まで一キロメートル強もある。その距離を、宮島は四分かからずに走り切ったというのだ。  私の目は、隣で息を整えている部下を捉えたまま離さなかった。   ――宮島って、足速いんだ  そう知ってからは胸がどきどきして、仕事どころの騒ぎじゃなかった。五歳以上も年齢の離れた部下の一挙手一投足が気になってくる。  この感情は……。やっぱり、そういうことなのだろうか。私の胸の内にある不確かな感情が、静かに色付いた。 ――宮島って、かっこいい  足の速い男子って、かっこいい。  小学校低学年の頃までは、周りの女子もそう思っていたはずだった。日頃は特に意識していなかった男子でも、運動会の徒競走で一位になった途端、モテ始めることは珍しいことではなかった。  けれども、小学校でも学年が上がるにつれて、顔が整っているだとか、勉強ができるとか、リーダーシップがあるだとか、男子のモテる基準が変わってしまうのだ。これが社会人になってしまうと、高身長・高学歴・高収入な人物が求められ、更なる突然変異を遂げる。  運動神経が良いということがもてはやされることもあるが、ただ単に<足が速い>ということだけであっては女性の反応は微妙なものになろう。  だけど、私は、今でも変わらず、足の速い人が好きなのだ。実際にも、宮島の話を聞き、そうした感情を抱いた。これを否定することはできない。  宮島は五歳以上も年の離れた部下である。  今日の話を聞くまでは男性として彼を意識したことはないし、それは彼も同様であろう。彼にとっては、ただの上司であり、嫌われてすらいるかもしれない。彼に彼女がいるだとか、そんな話もしたことがない。  そんな部下のことを、今まで仕事の関係以上に気にしたことがなかった宮島のことを、好きになってしまった。しかも、彼の<足が速い>ということだけを理由として――。  この気持ちは隠さなければならない。私の理性がそう訴える。彼は部下にすぎないし、好きになった理由も普通じゃない。頭では理解できている。  ただ、上司と部下以上の関係になれなかったとしても――。 ――宮島が全速力で走る姿を見てみたい  その数日後、私と宮島は無機質な会議室に通されていた。  老朽化した空調設備を刷新したいと、近隣のデパートから会社に連絡があったためだ。私と宮島は先方の担当者が到着するのを待っていた。  宮島のことを意識していないと言えば嘘になる。だが、これは仕事、しかも大規模な案件である。今日は担当者の信頼を得て、後日の受注につなげるだけだと私が雑念を払った、そのときだ。 「ただ今、一階で火災が発生しました。すぐに避難してください」  会議室のスピーカーが割れそうなほど大音量の放送だった。これまで何回と聞かされてきた、避難訓練の放送とは明らかに違う声音に、私の脚はガクガク震え出す。逃げ出そうにも、上手く立ち上がれない。  宮島は、そんな私を無視し、一目散に会議室の扉を開け、廊下に飛び出して行った。私は彼に見捨てられたのだ。  次第に会議室にも白い煙が充満し始めた。徐々に足は動くようになってきたが、煙の影響か、意識が朦朧としてくる。廊下に這い出したところで、私はついに床に倒れ込んでしまった。  最期の瞬間なのに、私は宮島のことを思い出していた。火災発生の放送を聞き、全速力で逃げ出した彼のことを。彼の逃げ足は、確かに速かった。彼が全速力で走っている姿を見ることができた。でも、私が願っていたのは、こうじゃない。彼への好意が入っていたはずの胸は、すっかり空っぽになっていた。 ――足は速いけど、かっこよくなかった    なんて人生の終わりだと思い、私は目を閉じた。その瞬間のことだ。 「大丈夫ですか?」  廊下の突き当りの方から、誰かが駆け寄ってくる。目の前まで近付かれて、やっとそれが救助隊員だと分かった。私のように逃げ遅れた人々を救助しているのだろう。 「必ず助けますからね」  彼は私を背負いながら、そう声を掛けてくれる。 「あ、あの……」  朦朧とする意識の中、ほとんどブラックアウト寸前だったが、これだけは何としても伝えたかった。 「足速いですね」

自由刑

 鬱、という病気を「心の風邪」と最初に表現した人はおそらく、鬱を「誰でも罹る可能性がある」「時間がかかっても治る」病気なのだということを表したかったのだろう。その「心の風邪」とやらに罹るまでは、わたしもそう思っていた。けれど自分もそれに罹ってから気づいたのだ。きっと本当に言いたかったのはそういうことではなかった、と。  昔から「風邪は万病の元」と呼ばれてきたし、甘く見ていると痛い目に遭うのも、本物の風邪と同じだ。しかし、風邪とは比べ物にならないほど、鬱は毎日の生活に暗く重い影を落とす。起きてから眠るまでまとわりつく希死念慮に耐えながら薬を飲んでも、風邪のように数日間で回復することはない。中には、治す為であるはずの薬を故意に大量服用し、死に至る患者もいる。鬱が心の風邪だなんて、そんなに生易しいものではない。なにより一番悲しいことは、その苦しみは実際に罹った人間でなければ理解し難い領域にあることだ。  弱さ、あるいは、甘え、という二文字が絶えず付きまとう。自分が弱くて甘っちょろいから、心がおかしくなってしまった。誰にでもできることが、自分にはできない。普通の人と同じ生活を、自分は過ごせない。そう思うほどに内側から湧き出る惨めさと、健康に過ごすその他大勢の目線すべてが、わたしを串刺しにする。  こんなの、風邪なんかじゃない。  往来の真ん中で叫びたい衝動をこらえながら、服薬しつつ毎日を過ごす。変わり続ける世界。変われない自分。わたしに変わることを要求する世界。その要求に応えられないわたし。  もう一言、叫びたくなる。  これは刑罰だ、と。 *  診断書を提出して会社を辞めて以来、傷病手当をもらいながら日々を食いつないでいる。退職したことを親にすら言えなくて、わずかな貯金を取り崩す毎日。少しずつ、確実に目減りしていく通帳の数字が、わたしには自分の命のカウントダウンのように思えてならなかった。  このお金がなくなったら、もう本当に死ぬしかないかもしれない。あれだけ毎日(死にたい)と願っていたはずなのに、減り続ける残高を目にするたび、いずれ来るであろうその日を思って、恐ろしくてたまらなくなるようになった。  やったーもうすぐで理由をもって死ねるぞ、なんて気持ちは生まれてこない。  もう死ななきゃいけないの? こんな歳で? まだ何もしてないのに?  そんなふうに「今更出てくんな」と言いたくなるような気持ちが、代わりに頭をもたげてくる。  この瞬間にわたしの中では、治したい、という気持ちと、もう治らないだろう、という気持ちが戦っている。どっちがどっちをぶちのめしても、わたしに渡されるのは勝利の美酒ではなく、味のない炭酸水。一口含んだ瞬間から強く泡が弾けて、口の中の切れた傷が痛むだけだ。  この気持ちを理解できるのは患者や経験者だけだというのなら、世界中すべての人間がわたしと同じ病気に罹ればいい。甘えでも怠けでもないのだと誰にも理解されぬ苦しみを味わえばいい。誰よりも長く生きたいのに誰よりも早く死にたがる、そんな相対する欲求にストリングチーズの如く身体を引き裂かれるような痛みを知ればいい。  そして、誰でも構わない。  わたしと一緒に、ここから逃げ出してほしい。わたしもあなたと一緒に笑って、一緒に怒って、一緒に泣いてあげるから。逃げたあとは、あなたの好きにしてくれて構わないから。  だから、この冷たい場所にこれ以上、わたしを独りにしないで。  わたしを殺さないで。  誰にともなく、そうやって祈りを捧げようとした。しかし、後ろから何かが頭の上に振り下ろされた影に気づいたところで、記憶が寸断される。  最後まで言うことができなかったのが、心残りだった。 *  目を覚ましたら、既に真夜中だった。眠りに就いたのは昼で、何度か目を覚ました気もするけれど、ひどく曖昧で確信が持てない。久々に長い時間眠っていたが、その結果としてまた、二度と戻らない一日を棒に振った。  カーテンが開けっ放しの窓から、空を眺めてみる。夜空は漆黒というよりも、月の明かりに照らされて、どこか濃い青紫のような色をしていた。  夜は闇一色……という認識は、必ずしもすべての人間のそれと一致しない。明けない夜はない、どんな嫌なこともいずれは終わる、鬱は心の風邪。わたしにとって、これらの言葉が、全てあべこべに変換されてしまうのと同じだ。いずれ日は暮れるし、楽しい時間は終わって、鬱は心の開放骨折。それらを全て「感性の違い」という一言で片付けてしまう世界の片隅に、今日もわたしたちは生きている。  この世界に息づく生命すべてが、等しく幸せになれる日はきっと来ないけれど。  せめて指先程度だけでも、わたしの祈りが届くように。  夜空を見上げながら思いつつ、薬を二錠、口に放り込んだ。

壁ドン。【コメディ】

相川さんのことが好きで好きでたまらないッ。 もう朝から晩まで考えてる。 俺のそんな気持ちを知っているのは親友の高木だけ。 「そんな好きならコクっちゃえよ」 高木が煽る。 それができるなら、こんな風に悩んでない! 「やー、だから勢いだって。あれ、壁ドンっての? 最近流行ってるらしいし、やってみたら? お前結構かっこいいんだしよ?」 自分でいうのもなんだけど、自分の見た目はちょっと自信がある。 「こー、萌えるシーンっての? 夕方とかに呼び出して?」 俺はとうとう高木の悪魔のささやきに耳を傾けてしまった。 というか、高木が勝手に呼び出しのラブレターを相川さんの靴箱に忍ばせたのを後から知った。 そんなことされたら、後に引けないじゃないか! 糞っ高木め! バクバクと高鳴るを気持ちをおさえながら、オレンジ色の夕日が差し込む校舎の裏に足を向けた。 そしてそこには……相川さんがもじもじしながら待っていた。 足が震える、肩があがる、俺がもし汗っかきなら多分汗だくだ。 俺は相川さんの前に立つ。 顔を上げた相川さんと目が合う。 心なしか、照れているように、みえなくもない。 夕日で赤く染まった顔がとてもきれいだ。 よ、よし、壁ドンだな! 勢いだな!? ドンッ! その勢いで、俺の目玉が零れ落ちた。 相川さんは気絶して倒れた。 あ……。 俺はその日、教訓を得た。 『ゾンビは壁ドンをしてはならない』

アンサンブル アルモニオーソ

 学生オーケストラに入団して一年近く経つが、打ち上げの雰囲気にはまるで慣れない。  私みたいに他人とのコミュニケーションに積極的ではない人間にとっては、まず第一に人数が多すぎる。おまけに今日は、見慣れないOBOGが多数来てもいる。そもそも、無事に演奏会を終えて開放感があるのは理解できても、羽目を外したいという気持ちは正直言ってよくわからない。  早くここを離れて、今日の演奏の反省をしたい。静かな空間で振り返り、次により良い音楽を生み出すための糧としたい。 「あらっ、こんなところで何してるの、みのりちゃん?」 「……清香さん」  いつも通り、「自然すぎるのが逆に不自然」なんて称される微笑みを浮かべながら、セカンドバイオリンのパートリーダーである清香さんがそこに立っていた。 「トイレ待ちだった?」 「いえ。部屋が暑いので、それで」  もちろん嘘だ。自席にいたくなかっただけだ。 「ふーん」 「……なんですか?」 「どうだった?」 「え?」 「今日の演奏、どうだった? うちのパートは」  いつも通りの微笑み。でも清香さんに言わせると、別に笑ってるんじゃないよ、いつでも締まらない顔なだけだよと言うのだ。それを思い出しつつ、少し心拍数が上がりながらも、私は、本心を口にする。 「……私の思い描いていた音とは、全然、違いました」  二週間ほど前の練習でのことだ。 「もっと、鋭く弾くのは、どうでしょうか」  私は、練習を始めた頃からずっと抱いていた考えを、ついに吐露した。十人以上の大所帯の、パート全員の前で。 「緩徐楽章の美しい旋律の裏ですから、ファーストに合わせて柔らかく甘く弾く今の感じも間違ってはないと思います。でも、もっと輪郭をはっきりさせないと、全体がぼやけてしまいそうで」  戸惑いの視線が一斉に刺さる。わかっている、一年生、5プルト裏の人間が主張すべき意見ではないことくらい。でも、自分はどうしても、今のままでは納得がいかない。受け入れられないとしても、一言、言いたかった。 「なーるほど、ねえ」  私に向いていた視線が、今度は一斉に、清香さんへと向かう。誰よりも柔らかく甘い「和」を体現するような音を奏でるパートリーダーは、生まれつきだという少し垂れた細い目で、変わらずニコニコしている。一向に動じていないその様子は、パートの皆にとってはさざ波だった心を落ち着かせてくれる効果もあったことだろう。一方で私には、決心の末に投げた提言をあの微笑みで曖昧にごまかされやしないか、と疑念を抱かせるものに聞こえたため、次の発言をじっと注意深く身構えて待った。 「じゃ、みのりちゃんはそれでやってみたら?」 「……えっ」  微笑みのまま放たれたのは、意外な言葉だった。 「自分の思うようにやってみたらいいよ、うんうん」  まさかそんな結論を出されるとは想定外だった。きっと受け入れられないだけでしょ、とどこかで決めつけていた。主張はわかった、なら一人でやれ、なんて言われるなんて。戸惑いながら、自分の考えの甘さを浮き彫りにされたような感覚が、身体の芯をじわりと溶かす。 「……じゃあ、そう……します」  声が震えないように精一杯気を張って、私は返答した。 「全然違った、か。それはみのりちゃんにとっては、良かった? 悪かった?」  あくまで穏やかな調子を崩さずに、清香さんは私を覗き込んでくる。  この人はこういう人だ。私の答えなんて、わかってるくせに。 「……良かった、です。自分の考えよりも」  調和した。  全体は柔らかい音色のままで、輪郭を際立たせた私の音を放り込む。それで自己主張し合ったら収拾がつかないが、セカンドバイオリンは何より「調和」を目指すパートだ。弾き手は自然と、異なる種類の響きへ自然と寄り添い、ひとつに溶け合わせようとする。結果として、緩徐楽章ならではの柔らかく甘い雰囲気と、ぼやけない個の際立った音色を生み出すことができた。 「いやあ、試してみてよかったよね。みのりちゃんの提案のおかげだよ」 「そんなことはないです、清香さんが――」  私はただ、自分に酔っていただけだ。一人で高みを目指し、理想を追求する芸術家を気取っていただけ。「はっきり違う意見を言ってくれるのは、なかなかできないことだよ。それにさ、ちゃんと自分の出したい音をきっちり出して、きりっと締めてくれたんだし」 「……ありがとうございます」  どちらの弾き方が優れているかなどと、競うものではなかった。どんな表現も、全ては生かし方次第。以前の私だったら、平凡な結論だね、などとわかったように言ったかもしれない。 「じゃ、ちょっとお姉さんと語ろっか、音楽についてさ。好きでしょ? みのりちゃん、そういうの」  私が頷くと、清香さんは笑顔を見せた。いつもの微笑みじゃない、ひときわ、素敵な笑顔を。

追憶の雪

深緑の天蓋で覆われた森の奥地に、その石の塔は聳え立っていた。 いや、「石の塔」より「荊の塔」と形容した方が正確かもしれない。 人や動物を寄せ付ける気がないのか、塔の壁面には鋭い荊がびっしり張り付いているのだから。 そんな状態では碌な手入れだって出来るはずがないのに、垣間見える石煉瓦には一本のヒビだって走っていない。 成る程、麓の人々が「神が眠る場所」と言っていたのも頷ける圧倒感がある。 僕のような若造にとっては果てしない時の流れと、さぞ魅力的な物語が秘められているのだろう。 感慨深く眺めていると。 「そこの旅人殿。貴殿は、この塔の物語を知りに来たのかね?」 塔の管理者だろうか。 何処からともなく現れた老人が、僕にそう問うた。 「ええ。物語を集める旅をしておりまして」 「そうか……。なれば、ひとつ老人の長話を聞いて行ってくだされ」 蓄えた白髭が北風に揺れるのも構わず、老人は話し始めた。 * 遥か昔。麓の村に、一千年ぶりに雪が降った。 比較的温暖なこの村で「一千年に一度」というほど珍しい雪は、酷く恐れられておった。 実際、今でも残る様々な伝承にも、雪の日は不吉なことが起こるという旨が伝えられておる。 技術が発展していなかった手前、気候の変動を見定める役人もおらんかった時代じゃ。 物語に振り回された人々は、当然、混乱した。 女神様の啓示が告げられる。女神様が、愚かな人間たちに怒っていらっしゃる。 そうやって村人達は騒ぎ立て、村長へ直訴したんじゃ。 「女神様を祀る場所を作れ」とな。 その年豊作で、村に蓄えがあると判断した村長は立派な石造の塔を建てた。 女神様の敬虔な信者じゃった村長は、さらに、塔に祈祷師や詩人、芸人を呼び、供物も捧げた。 苦心が実を結んだと言えるのか、偶然の産物なのか。 ………兎に角、塔には人知れず神の力が宿った。 時は過ぎ去り、とある満月の日のこと。 女神様の信徒に排斥された人ならざる種族───吸血鬼が、塔の頂上に降り立った。 彼は愚かにも、街から攫った種族違いの想い人を眷属にしようと目論んでおったのじゃ。 塔に女神様の力が宿っている、なんて思いもよらなかったのだろう。 都合良く好条件が重なった場所で、彼は儀式の準備を行なった。 ……やがて満月が天頂に登り、時が満ちる。 彼は自身の血液を、想い人の身体に送り込んだ。 一途な恋心を叶えるべく……… 儀式は、無事に終了した。 (計画通りに進めば、彼女は直ぐに目覚めるはず………) じゃが、彼の意思と反して、待てども待てども想い人は目覚めることはなかった。 その上、神が不浄な血を嫌ったのじゃろうか。 人の子を守るように、鋭い荊が生えて来た。波打つ荊はみるみる育ち、あっという間に塔を包み込んだ。 彼は目覚めぬ想い人を置いて、立ち去るしかなかった。 なんせ、近寄れぬのだからな。 後悔に染まった長寿な吸血鬼は、今でも何処かで生きているという。 * 「吸血鬼に見染められた女は、今でも年老いず眠りについているという」 老人の物語は、そんな台詞で締めくくられた。 冷たい空気に晒され続けていたからだろうか。彼の瞳の淵は、涙で濡れている。 これ以上引き留めるのは悪いだろう。 メモを取り終えた僕は「ありがとうございました」と礼をして、老人と別れた。 空の低い位置に立ち込めた雲から、何か落ちて来た。 ………雪だ じわりと体温を奪って消えゆく儚い花弁は、物語を彩るように降り頻る。

SNSの愚痴

 最近のストレス解消方法。それはSNSに愚痴を書き込むことだった。 『さっきのコンビニ店員、態度悪すぎ』 『電車で子供が騒いでる。親、なんとかしろよ』 『隣のおっさんが寄りかかってきてうざい。臭いし最悪』  そんなことを吐き散らす。誰にも見られたくないので、アカウントには鍵をかけ、私にしか読めないようにしている。  私は大学では、いわゆる優等生だった。授業をサボったことはないし、ノートだって綺麗にとっていて、試験前にはノートを貸してほしいという人が順番待ちになる。内心軽蔑しながら、笑顔でノートを貸す。  先生や友達の前ではこういう愚痴は言えない。だからこれは私だけの秘密。 「ただいま」 「あ、おかえり」  大学には素敵な彼氏もいた。それが今帰ってきた彼だ。お互い一人暮らしだが、私の家の方が大学に近いということもあって、半同棲となっている。ちゃんと家事や掃除も手伝ってくれるし、我ながら良い彼氏を持ったと思う。  そう、私の人生はそれなりに順調だった。あの日までは。 『バイトの大里先輩むかつく。雑用ばっか押し付けて。仕事できないくせに』  その日も私はSNSに愚痴を吐いた。ふぅと重いため息をつきながら、家に入る。 「おかえり、バイトお疲れ。お風呂入れてあるよ、入る? ご飯はどうする?」 「ありがとう。うーん、疲れたからお風呂入ったらもう寝ようかな」  彼が笑顔でわかったと答える。こんなとき、お風呂を入れて待ってくれている彼氏がいてよかった、と思う。彼は私の癒しだった。  いつもは日付が変わる頃まで彼と他愛ないことを話しながら起きているのだが、その日はもう二十一時くらいにはお布団に入り、ぐっすり寝てしまった。  翌朝、アルバイト先の店長から「しばらくお休みでいい」と電話があった。理由を聞いても、花野さんは気にしなくて良いと言われる。電話口の店長は、慌てているというか焦っているというか、何かパニックになっているような落ち着かない雰囲気だった。 「他のアルバイト、探してもらってもいいから。ね。いつも助かってたよ、ありがとうね」  訳もわからないまま電話は切られてしまい、途方に暮れた。つまり、クビになったということだろうか? しかし仕事はきちんとこなしていたし、何も思い当たることはない。 「どうしたの?」  まだ寝ぼけた顔をした彼が、不思議そうな顔をして尋ねる。 「なんか、バイト、しばらく休んで良いって言われて」 「そうなんだ。最近いっぱい働いてたし、ゆっくりしたら? 貯金はあるしさ」 「んー、そうだね。とりあえず大学行ってくる」  大学に行くと、友達が駆け寄ってきた。 「あっ、マナちゃん。大丈夫!?」 「えっ、何が?」 「事件起きちゃったでしょ……マナちゃんのアルバイト先だよね? 大学生が殺されたって……ほら」  そう言ってスマホでニュース記事を見せられた。被害者として載っていたのは、私がSNSに愚痴を書いた例の先輩だった。アルバイトを終えて帰宅しようとしていたところを襲われたらしい。犯人は捜索中とのことだ。  唐突すぎて頭の整理が追いつかなかった。大里先輩が、殺された。だから今朝、あの電話があったのか。  その日は事件のことで頭がいっぱいで、授業はろくに頭に入らなかったし、夜もなかなか眠れなかった。彼は家にいなくて、一人で眠るのは心細かった。  翌日はその反動で、終日眠気が絶えなかった。そしてこちらが機嫌の悪いときに限って、男は声をかけてくる。 『ゼミの坂下がしつこい。彼氏持ちだっつーの』 『色々疲れた。今日は早く寝よ』  その夜私は、彼におやすみと言って、早めに眠りについた。  翌日、大学はざわつき、ゼミは急遽休講になった。  坂下が、殺されたのだ。  こんなことが身の回りで二度続くなんて、あるだろうか。しかも、私が嫌だと感じていた人ばかりだ。 (もしかして、もう一人の私がいる?)  寝ている間にもう一人の人格が現れて、殺してしまっているとか。アニメや小説では見るような話だ。現実にもそういう障害はある。でもまさか、私が。思い返してみればあの事件が起こった夜、私は普段より早く寝ていた。ネットで「多重人格 寝ている間」と検索していると、とても怖くなった。 『もう嫌だ。こんな私なんていなくなればいい』  こんなことを書いたら、もう一人の私が私を殺してしまうのだろうか。でももう、そうなってもどうでもよかった。 「ただいま」  しばらくすると、包丁を手にした彼が現れた。また思考が追いつかなくなる。 「な……なんで?」 「あいつらがいなくなれば、真面目なマナちゃんがストレスなく過ごせると思って」  彼は穏やかな笑顔のまま、にっこり笑う。 「マナちゃんを殺したら、マナちゃんは楽になるのかな?」  最後に見たのは、自分の真っ赤な血だった。

変わりゆく

 ただより高いものはない。その尤もたる例が人間関係だなんて、ろくでもない世の中だと改めて思う。  男女の友情は成立しないと誰かが言うたびに、私は叫びたくなる。じゃああなたは今まで家族以外の異性とどうやって接してきたのだ、と。そう話す私に「全員そういう対象として見てんじゃないの。その割には打率が軒並み低いけど」と笑う。それが千景だった。  私たちは仲良しだった。性別の垣根を超えて、と言うと同性でしか友情は成立しないという奴らの主張を肯定しているようで気が進まないが、性別とかのあらゆる壁を取っ払って、私たちは親友だった。  千景と出会ったのは中学三年の夏。塾で何度も会ううちに親しくなって、秋頃に志望校が一緒だということが判明した。千景はかなりの余裕を持って、私はなんとか滑り込んで、二人とも第一志望の高校に入学する。私たちは半年近く、戦友のように過ごした。入学式を迎えるころには、私たちの間には強固な絆が生まれていたことは言うまでもない。 「お前らって付き合ってんの?」  もう何十回とされた質問に、条件反射で眉間に皺が寄る。 「違うけど」  我ながらドスの効いた声だと思った。目の前の、名前すらも思い出せない男子がごめんと早足で去っていく。  異性と一緒にいるだけで騒ぎ立てられるような年齢。そう頭ではわかっていても、それだけで揶揄われるのは気分が悪い。 「相変わらず怖いな、清佳は」  にやっと笑う千景の足を蹴る。 「うっさい」 「痛っ! そんなんだからモテないんだよ」  くるぶしを抑えながら涙目で睨んでくる千景の視線を無視して、私はいちごミルクに口をつけた。  女子の友だちがいなかったわけではない。化学や体育のときの移動は、いつもクラスの女子と同じだった。最近流行りのメイクやドラマ、ときには恋について話すのはとても楽しかったし、彼女たちのことは大好きだった。  それでも私は、彼女たちを千景以上の存在に思うことがどうしてもできなかった。受験期という過酷な環境を共にしたからこその、千景への信頼。それを上回るものを他愛もない高校生活の中で生み出すなんて不可能に違いなかった。  結局千景とは二年生以降はクラスが被ることはなかったけれど、三ヶ月に一回くらいの頻度で遊んでいた。そうやって、大学生になった。  こうやっていま千景との記憶を遡っても、私はやっぱり自分たちが親友であるようにしか思えない。どこで何を間違えたのだろう。  家でゲームでもしようと言ってきたのは千景だった。大学生になってからも、私たちの仲は変わらなかった。不思議なことに、同じ学校にいた高校時代よりも大学生になり学校が違くなってしまってからの方が会う回数が多かったくらいだ。  中学の頃から、ゲームをするために千景の家にお邪魔したことは何回もある。私はスーパーで大袋のクッキーやチョコ、スナック菓子を買って千景の家に向かった。ここ数年ですっかり姿を変えた千景の最寄駅。お洒落なカフェが作られていて、大して使ったこともない駅なのに少しだけ寂しくなる。駅を出てから千景の家までの道は、さほど変化していなかった。  チャイムを鳴らす。記憶よりも少しだけ錆びついた音が千景を呼びだし、彼は玄関の扉を開けた。靴を脱いで出されたスリッパを履き、階段を登って彼の部屋に入った。買ってきたお菓子を渡すと、千景は袋の中を覗いて嬉しそうに「このクッキー好きなんだよね」と笑った。  お菓子を開けゲームをして、休憩がてらに雑談、再びゲーム機を手にする。そんな流れを三回は繰り返したときだっただろうか。  千景の手が私の肩に回る。その意味を理解するより先に、千景が私に顔を寄せた。途端に頭が真っ白になった。 「清佳」  私を呼ぶその声を、初めて気持ち悪いと感じた。千景は、私の中の千景は、そんなふうに生々しい声で私を呼ばない。  言いようのない寂しさと、しっかりと形作られた気持ち悪さに潰されそうになりながら帰路についた。  早くシャワーを浴びてすべてを洗い流したい。そう思っているのに、コートを脱ぐこともできずに身体はベッドへ吸い寄せられる。崩れ落ちるようにそこにうずくまった。身体が震えていた。きっと彼の家を出たときから、ずっと震えていたのだろう。  男女の友情は成立しない。それを馬鹿だと、とんだ暴論だと嘲笑った私たちだったのに。  私は深く息を吐く。これは彼に対してではなく、自分自身の弱さへだ。  弱さ。そう言葉にして、違和感を抱く。私の胸がいま抱えているもやもやじめじめとした何かはそんな言葉で済まされていいものなのだろうか。  力が抜けた指先から、ぼとっとスマホが落ちた。  誰が悪い? きっと誰も悪くない。ううん、あっちが悪い。本当に? わからない。何もかもがわからない。  私は膝を抱えて、目を閉じる。

深夜、雨音で目が冷める

 バチバチバチン。    無数の雨粒が窓に叩きつけられる音で目を覚ます。  時計を見れば、深夜〇時。  せっかく早めに寝たのに、深夜に目が覚めては意味がないじゃないかと心から落胆する。  二度寝をしようにも、雨音はますます強くなるばかり。  眠れそうにない。    仕方ないので寝るのを諦め、私はベッドから離れて机へ向かう。  ライトをつけないのは、眠気を自分の中に留めておくための、せめてもの抵抗だ。    椅子に座ると、ギシリと音が鳴る。   「ふう」    やることもなく部屋を見渡す。  いつもの私の部屋が、いつもと違う顔を覗かせる。  カーテンから入ってくる月の光しかないと思っていた私の予想は外れ、充電中のスマートフォンに、無線LANルーターに空気清浄機。  あらゆる家電が光を発している。    よくもまあ、こんな明るい部屋で寝られるものだと感心する。    子どもの頃は、ライトを前照灯するとお化けが来るのではないかと怯え、かといって常夜灯にすると明るすぎて眠れないと頭を抱えたものだが、時の流れとは恐ろしいものだ。  すっかり感覚が鈍くなり、周りが見えなくなってきているのだと実感する。  そして、今の今までそれに気づけていなかった自分と、気づいたところで何をするでもない自分にも驚いた。    いや、ライトだけの話ではない。  子どもの頃なら、夜の部屋を冒険したいという感情も浮かび、実行し、床に放置していたおもちゃを踏んではモンスターでも現れたかのように驚きと怒りと楽しみと、とにかくごちゃごちゃとした感情を纏ったものだ。  今は、冒険するまでもない狭さだ。   「……酒でも飲むか。少しくらいなら、明日の仕事にも差し支えまい」    何も考えることがなくなった。  何もすることがなくんなった。  結果、私は最もつまらない手段をとることにした。    目をつむったままでもたどり着ける距離の冷蔵庫からチューハイを取り出すと、ぐいっと飲み干した。  冷たい。    雨音は強いままだ。  しかし、私の耳は衰えていく。  雨音が、遠くへと去っていく。    私は布団に潜り込んで、そのまま意識を飛ばした。

Q.E.D.

男女の友情は成立するか。 使い古された題目だが、それだけ長い間答えが出てない題目であるという証左でもある。 就職先から帰って来たと電話を寄越した女友達。しかもガキの頃からつるんでた、もう一人の男友達と結婚するという報告付きだ。 少なくとも、こいつとあいつの間じゃ男女の友情は成立しなかったわけだ。 「おめでとうよ」 親友と貴重な女友達の祝い事だ。俺に祝う以外の選択肢は無い。 「ありがとう」 弾んだ明るい声。幸せそうで何よりだ。 他愛ない近況や、ムカつく上司の悪口とか話してたら、ふと会話に空白が生まれた。 迷う気配がする。数回言い淀んだ気配もあった。 「……このままでいいのかなって思ったりするって言ったら、おかしい……?」 バカ言ってんじゃねぇ、と一蹴するにはちと重い口調だ。マリッジブルーってやつか? 結婚に縁が無い俺にはよく解らないが、解る部分はある。 こいつは大雑把で適応力抜群に見えて、急激な変化を恐れる。クラス替えの前には顔面蒼白になるくらいだった。 「んじゃ、逃げるか」 軽率に、軽薄に、そう感じる様に声を整えた。 息を飲む気配が一瞬。迷いの気配が数秒。 「車出してやるよ。どこが良い?」 後押しする。俺から食い下がった形に、義理や罪悪感を感じにくくする形に、状況を作ってやる。 「……じゃあ、海行きたい」 海か。高校時分に三人で行ったっけな。鈍行電車で。 お前とあいつは頭を寄せ合って寝ちまって、俺は腕がぶつかったりしないように自分の肘を掴んでた。足も踏ん張って、直方体になったつもりで到着を待った。 「いいぜ。明日迎えにいく」 こいつの両親とも馴染みだ。変に勘ぐられる事も無いだろう。 時間を決めて電話を切った。 横になってまんじりともせず思い起こす。親友とあいつと俺の三人で遊んだ日々を。 アイスはチョコミントが好きで、生クリームよりカスタードが好きで、ラムネが好きで、小学生の時にもらったぬいぐるみが手放せない。 思い出すのはあいつの事ばかりだ。そのうち睡魔が意識をさらっていった。 翌日は晴れ。さすが晴れ女。 「よう」 まだローンが残るオープンカーから手を振る。相変わらず綺麗だな、なんて言ったら発熱を疑われるな。 「おう」 偉そうに応えて、車に乗り込む彼女の向こうに、玄関からおばさんが笑顔を覗かせた。よろしくね、なんて友達の俺にずいぶん信頼を寄せてくれている。応える様に笑顔で、やや大きく手を振ってみせた。 初夏のオープンカーは心地よい。豪快に飛ばしたくなるが、抑えて加速もギア切り替えも柔らかく。エスコート仕様だ。 あの電車の線路と平行し、だが比べ物にならない速度で進む。 あっけなく海岸に着いた。車を停める。 道中、大声で喋って渇いた喉を潤すために飲み物を自販機で買った。瓶じゃないのは残念だが、ラムネを二本。 一本を手渡す。 「ありがと」 短い言葉の後、すぐに視線を俺から波打ち際へと移す。一人にしておいて欲しい表情だ、とピンと来てしまう。 「俺は一服しとくわ。行ってこいよ」 ボンネットに腰かけて、彼女を見ないように煙草を探す……ふりをした。 「うん……」 返事が砂浜方向へ流れていった。煙草に火を着ける。 吸って、力強く吐いて顔を上げる。 あいつは波打ち際で膝を抱え込んで座っていた。 ぱしゅっ、とラムネを開けて一口。じゅわりと舌が炭酸に洗われ、強い甘味と独特の香りが残る。何がそんなに美味いかね? すぐに煙草の苦味と香りに置き換える。 陽光にちらつく波を前に、風で乱れた長い髪を手櫛で整える後ろ姿。華奢だな。ちゃんと飯食ってんのか。 なあ、マリッジブルーてよ、思い違いの『他の選択肢』と勘違いの『やり残し』じゃねぇのか? どっちも幻だよ。 蜃気楼じゃない。あれは元になる実体があるからな。 ラムネはとうの昔に空っぽで、吸殻は五本分で、俺はボンネットに寝そべってた。軽くうたた寝してもしていたようだ。 見上げる晴天にわずかに朱が混じっている。 上体を起こして見やれば、変わらぬ姿勢で座ったまま。そろそろか。 「もーいーかい?」 おどけた台詞を大声で。 びくっと肩を、毛先を跳ねさせて、振り向いた。あいつも軽く寝てたな。 「ありがと」 砂を払いながらゆっくり戻ってきて、笑顔で言った。大丈夫そうだな。 帰り道は幌をかけた。 「じゃあな」 彼女の家の前で止める。 「うん。またね」 シートベルトを外しながらの言葉に、俺は答えない。 車を降りて、玄関前で振り向く彼女に、しっしっと手を払う。 いつもの早さでギアを切り替えてアクセルを踏んだ。 男女の友情? ああ、くそ食らえだ。