私事ですみません

「すみれにとって、ツイッターがないと人生マイナスなの?」  夫によって投げかけられた言葉に、私は首を振る。 「でも、すみれの話を聞いてるとそう感じるよ」  心なしか、夫の眉が下がっているような気がする。私は罪悪感で胸が潰れそうな心地で彼を見つめる。 「世界中にはツイッターをやる人がいるけれど、それをコンテンツの一つとして楽しんでいるなら問題ないんだよ。その人にとって、ツイッターがなくなっても別のコンテンツがあるから問題はない。けど、すみれはそうじゃなくなってるよね。依存してるんだよ」  夫の言葉は今の私を的確に表現していた。仕事を辞め、妊娠や出産を経て、感染症の猛威に晒され、人との関わりが希薄になった今、私はツイッターというコンテンツに依存してしまっていたのだ。 「すみれが小説家になるのは応援するよ。目指すものがあって、熱心になれるのは素晴らしいことだからね」  夫は僅かに微笑む。 「小説家を目指そうと、作品の拡散とファン獲得のためにツイッターをやりたいというなら、僕は反対しないよ。そういう考えには賛成できるからね。でも、すみれがそういう使い方をしているようには俺は思えない」  その通りだ。夫の言葉は痛いほど胸に刺さる。 「家族がいるんだから、ツイッターよりも家族を見てほしい」 「……うん」  だから私は、ツイッターのアカウント削除をクリックした。さようなら、ツイッター。今まで繋がった人達と離れるのは悲しいけれど、全ての関係が切れるというわけではない。私の書く小説を通じて繋がっていけたらと思う。  ここまで読んでいただきありがとうございました。ほぼほぼノンフィクションでお送り致しました。今後も私の作品を読んでいただけたら嬉しいです。それでは。

ねえねえどうして、

あたしたちは決まりを守ってるのに、あの人は守ってないの? それはね、あの人は悪い人だからだよ 悪い人なの? そう、悪い人なの。 みんなと一緒のことができない、かわいそうな人なのよ そっかー、かわいそうだねー しかも、周りと一緒のことができない癖に偉そうに「俺は間違ってない!」って威張ってる残念な人たちなのよ その人は間違ってないの? その人のなかでは間違ってないかもしれないけど、周りから見たら間違ってるわ。でもね、自分の価値観のなかでしか生きられない、とってもかわいそうな人なの。 うーん?むずかしいよう 自分の中の基準を信じ切ってるから、周りの人のことも考えて優しくしたりとかできないのよ 優しくないの? そうね、自分の行動が周りにどう影響を及ぼすか、予想できない視野の狭い人たちなの。そういう人は周りから見放されてくから、結局自分の首を自分で締めるのよ んー?どういうこと? つまり、悪いことをすると自分に返ってくるのよ。 だから周りにやさしくしなきゃだめよ? わかった!やさしくする!! そうね、いい子いい子 優しくて、周りを思いやれる子に育つのよ

決して女性が読んではいけない物語

 男子トイレから出てきた男性に、リポーターが近寄ってマイクを向ける。   「すみません! プロログテレビの者ですが! 貴方、いまトイレから出てきましたよね? 見たところ、手が濡れておりませんが、ちゃんと手を洗いましたか?」    突然のことに、男性は困惑の表情を向ける。  そして、周囲のビデオカメラに自分が映されていることを知ると、さっと顔を青くして、目を泳がせ始めた。   「……あ、洗ったし」   「本当ですか? とてもさっきまで濡れてるようには見えませんが?」   「ふ、拭いたんだよ!」   「何で拭いたんでしょうか? ハンカチ? ハンカチですか? では、そのハンカチを見せてもらえませんか? 貴方の言葉が正しければ、湿ったハンカチを持ってるはずですよね? このトイレにペーパータオルがないことは確認済みですよ!」    男性の目が、いっそう泳ぐ。  早送りでもしているように。   「……風が出るやつあるだろ。それ使ったんだよ」   「ハンカチは言い間違いだと? ハンドドライヤーを使ったと? しかし、現在の時勢で、ハンドドライヤーは使えないようにされているはずですが、いったいどこのハンドドライヤーを使ったのですか? 自前ですか?」   「う……ぐ…‥う……うるせえええええ!!」    男性は、リポーターを突き飛ばして走り去っていった。   「あ、待ってください! 認めるんですね? トイレの後、手を洗ってないと認めるんですね?」        この日、男性の50%はトイレの後に手を洗わないというデータが地上波に流れ、世の女性全てが戦慄したという。

ウィズ・エッグ 4

※これは4話目です。これまでの話を呼んだほうがわかりやすくなっています。 (ミラ……皐月……どこに行った!?) 授業の開始を告げるチャイムが頭にガンガン鳴り響き、いても立ってもいられなくなる。何の考えもなく周りの空き教室の中を探す。 光輝の考えることはミラが分かっても、ミラの考えることは誰にも分からない。 (どこに居るんだ、二人共…!) まだ会って間もないのに二人には何があったというのか。一度も授業をサボらなかった皐月が、授業をほっぽりだしてミラとどこに行くというのだ。 焦りばかりが先行して、頭が回らない。教室を一つ一つ探っていくのはあまりに非効率だ。 (何かないか…何か…) 昨日のミラの特徴を必死に思い出す、ヒントはないか、と考えを巡らす。 カタッ。 そのとき光輝がスリッパで何かを踏みつけた。とても小さな…何か。黒くて光を受けて輝いている。 (鱗だ…!そうだ、鱗を辿っていけば見つけられるかも!) 鱗は数メートルおきに階段へと続いている。光輝は目の前にぶらついている希望に食いつくように、勢いよくダッシュした。 * ガラガラガラ、ピシャ。 皐月は右腕でミラを抱えて、後手で調理室のドアを閉めた。ミラに引っ掻かれるのも気にせず、一つの椅子にミラを縛り付けた。 「何で儂にこんなことするんじゃ」 ミラはじたばたするが、太い縄はびくともしない。対して皐月はミラの前の椅子に座って今までにない真剣な目でミラを睨んでいた。 「何で戻ってきたの」 皐月は静かに、それだけを聞いた。ミラは突然のことにその言葉の意味を捉えられない。 「……といいますと?」 「あんなことをしておいてよく私の前に戻ってこれたね、って言いたいの。皮肉でも言いに来たわけ?」 あんなこと、それはミラにとって見に覚えのないことだ。 「落ち着いて話を聞かせてもらえますかな?」 「覚えてないの?事故のこと」 竜の種族は人間よりはるかに賢いため、その言葉で大抵のことを察した。 「なるほど。事故のことは光輝から聞いておるよ。その言い方は、さては……」 「そうよ。私が乗ってた車で光輝を轢きかけた。私が母さんを急かしたせいで光輝が死にかけたの。でも光輝はそのことに気づいてない…」 ミラは「やはりな」としきりに頷いた。しかし、ミラに冷や汗が垂れるのを皐月は見逃さなかった。 「賢いあなたのことだから、もう分かってるはずよ。竜の世界の裁判で事故の記憶を消されたのかは知らないけど、既に理解してるでしょ」 ここで皐月は深く息を吸った。それから吐き出すように言葉を口に出した。 「あなたが光輝の背中を押したってことを」 ミラの背筋に悪寒が走る。気づきたくないことを言われてしまった。そして一気に記憶が蘇ってくる。ミラの脳内には竜の世界での裁判の光景が映し出される。 紫色の大地の上で、数多の巨大な竜が集まって話し合いをしている。その中央に、ミラが立っている。この時のミラは、竜らしく大きかった。 「貴様は、不法に人間界に侵入した上、一人の少年を傷つけている!」 ミラは黙りこくったままだ。俯いて、背中を丸めて縮こまっている。 「卵願の刑に処す!」 ミラの体がどんどん小さくなり、黒い殻が彼を包む。ミラは覚悟を決めて目を瞑った。 ガタッ。 皐月が椅子から立ち上がった音でミラは目を開けた。 「思い出したよ。全て」 ミラの顔付きが変わり、低い声でそう言った。ミラの口調が変わったことに皐月は驚いたが、すぐにいつものすました顔に戻った。 「俺は間違って人間界に降りてしまって、そこで少年が車に轢かれそうになっていたから、助けてやった。それだけなんだがな」 「それはそうとして。あなた、万が一にでも光輝に私の車だってことを言わないでね。私との関係が崩れてしまうかもしれない…!」 困ったことになった、とミラは唸った。自分が竜の世界へ戻るには光輝に真実を打ち明けるしかないが、そうすれば光輝と皐月の関係を崩すことになる。だが、言わなければ自分はずっと人間界にいることになる。 そのとき、ミラの脳内に光輝の声が流れてきた。 (鱗だ!そうだ、鱗を辿っていけば見つけられるかも!) 光輝が竜の残したヒントに気づいた。もうすぐ光輝が調理室に来てしまう。そのときまでに、決心をしなければならない。 裏切りか、共存か。

大人はなんでコーヒーを飲むの?

「大人はなんでコーヒーを飲むの?」    私が日課のモーニングコーヒータイムを満喫していると、我が息子が不思議そうに聞いてきた。  息子はつい先日、私の飲んでいるコーヒーを飲んでみたいと言っきたので、一口飲ませたばかりだ。  結果、ブラックコーヒーはおこちゃまの舌には刺激が強かったらしく、息子は即座に洗面所へと走り、ゲーゲーとコーヒーを吐いていた。  大人な私は、その様子を微笑ましく眺め、悠然とブラックコーヒーを飲み続けたんだったな。    大人な私は、コーヒーカップをテーブルに置いて、息子に向き直る。   「私がコーヒーを飲む理由、それはな」   「大人にはこれが美味しいの? オレンジジュースの方が美味しいよ?」    そして次の息子の言葉で、私は口が動かなくなった。    ブラックコーヒーは美味し……美味しい?  オレンジジュースと比べたら、私もコーヒーよりオレンジジュースの方が美味しいと答えるだろう。  ブラックならばなおさらだ。  仮に美味しさを求めて飲んでいるのであれば、私は何故オレンジジュースでなく、ブラックコーヒーを飲んでいるのだ?    私はううむと頭をひねる。    思えば、私がコーヒーを飲むようになったのはいつだったか。  大学生になり、授業中に飲料を飲むことが解禁された頃からか。  眠気を誘うつまらない授業であっても、きちんと全部聞こうと、苦くて飲みたくなかったブラックコーヒーを流し込み、無理やり目を覚まさせていた記憶がある。    なるほど。  つまり私がコーヒーを飲む理由は……。   「コーヒーを飲むと、眠気覚ましになるんだよ!」    私の完璧な回答に、息子は首をひねる。   「今、朝だよ? 起きたばっかりだよ? もう眠いの?」    私の全身に、雷を受けたような衝撃が走った。  確かに。  全然眠くない。  たっぷり八時間睡眠をとり終えたところで、今から寝ろと言われても絶対寝られない自信さえある。    あれ、じゃあ眠気覚ましも違うのか?    私はその後も考えた。  脳みそをぞうきんのように絞り、記憶の一滴までを出し尽くす。        惰性。        ポチャンと、そんな言葉が垂れてきた。    うん、惰性だ。  最初は眠気覚ましだったのかもしれない。  しかし、眠気覚ましのために、授業のある日は毎日毎日飲むようになり、気が付けば休日も飲んでいた。  コーヒーを飲むという行為が習慣化し、目的なく飲んでいた自分に気づいた。   「……惰性、だな」   「惰性?」   「ええっと……特に理由はなくて、なんとなく飲んでる、って感じだ」   「ふーん」    息子はそう一言放ち――。        したり顔で笑った。       「じゃあ、パパがなんとなくコーヒー飲んでもいいんなら、ぼくもなんとなくゲームしてもいいよね!」   「え?」   「パパいつも、ゲームなんて無駄だ、理由なくだらだらやるなんて時間の無駄だって言ってたけど、パパも理由なくだらだらコーヒー飲んでるってことだもんね!」   「え?」   「今日から、いっぱいゲームするから! 理由はなんとなくで! じゃ!」    そう言って、リビングに走っていった。  手にゲーム機をもって。    私は、目の前に置かれたコーヒーを一気に飲み干した。       「IQテスト……受けさせてみようかなぁ……」    コーヒーカップから、温かい湯気が立ち上る。

ひとりのよる

時々、自分が世界から見放されたような感覚に陥る どうしてわたしってこうなの ネガティブで、何にも信じられなくて 自分の嫌なとこばっか目について 誰もわたしのこんな面気づかなくて いつもニコニコ笑ってるわたしがみんなにとってのわたしで こうやって、膝をかかえてひとり泣きそうになってるわたしなんか、誰ひとり知らなくって こんなわたし、いなくなったって誰も困りはしない 学校のみんなは心配するかもしれないけど、きっとすぐ元通りだよ わたしなんかいなくてもみんなやっていけるよ 別にそこまで必要とされてないのわかるもん そこにいるのは、わたしじゃなくたっていいんだからさ そこまで馴染めてないのわたしわかるよ わたしがいないほうが楽しそうにしてるじゃん 別にいなくなったっていいじゃん いっそどこか遠くへ、誰も知らないところまで行ってしまおうか 目的もなくアテもなく、ただ気の向くまま旅に出たりさ そんなことできるわけないのに やれる勇気もないのに 現実逃避するくらいしかできないんだ 結局わたしなんて、何もできないまま ただ生きてるだけで周りに迷惑かけちゃうんだ どれだけ考えても、結局不安ばかり そうやって何もできずにただ夜を過ごすんだ

赤信号を渡るとき

 赤信号が変わるとき、走って渡るようになったのはいつからだろう。 「次まで待とうか」  この一言が、どれほど嬉しかったか。  赤信号が青に変わるまでの時間が、好きだった。  その時間を言い訳に、まわりに人がいないことを確認してマスクをずらしキスをしたこと。せっかくだから食べちゃおうか、と買ったばかりのアイスを開けたこと。そうしているうちに信号が青に変わって、あわてて手をつないで渡ったこと。途中でアイスのかけらが落ちて「また買えばいいよ」と笑い合ったこと。  今ではそんな出来事を、信号を走りながら渡るときに思い出す。まるで走馬灯のように、もう経験することのない思い出として。足を踏み込むたびに、私の記憶からするりとこぼれ落ちる。  手すらつながなくなってしまった私たちの終わりは、きっともう近い。 「引っ越そうと思うんだよね」  金曜日の22時、彼はミックスナッツを食べながらそう言った。  毎週金曜日の夜は、お互いを労る日だった。  17時に退勤してすぐに缶ビールやアイスなど、好きなものを買う。それが1年間の恒例行事だった。  リモートワークが推奨されているなかで、私たちの部署では業務上、出社義務がなされていた。会社での私語はほとんどなし。飲み会もできないし、せめて一緒に暮らしている者同士で労りあおうじゃないか、ということで決めた行事だった。  彼はミックスナッツが、私はピザポテトが好きだった。  基本的には自分が食べたいものではなく、相手が好きなものを買うことが多かったけれど、とくに疲れた日には、それに加えて自分の好きなものも買っていたものだから、つまみがかぶることもあった。そういうものは溜めて、翌週にまわしていた。  ストックされた箱を見つめながら、私は返した。 「契約、更新したばかりだけど」  彼は視線を落としたまま、 「そうだけど」 とつぶやいた。  彼が「引っ越さない?」と問いかけるのではなく、「引っ越そうと思うんだよね」と、まるで自分ひとりの問題として言い放つものだから、だけれど、それを指摘してしまうと運命は決まってしまうから、私はこの運命をどう回避しようか考えた。そして、ビールをひと口飲んで言った。 「それだったら、更新する前に言ってほしかったなあ。そしたらさ、引っ越し費用に充てられたじゃない?」 「そうだけど……」  彼はうつむいたまま、何も話さない。  運命にはもう、抗えない。  毎週金曜日の楽しみのために買った3000円のビールグラスはいつの間にか使わなくなり、私たちは缶ビールをそのまま飲むようになっていた。  儀式を簡略化していくと、こうなるのだろう。私はそう感じていたけれど、彼はそれに無自覚だったと思う。  交際することになって4年、一緒に暮らし始めて2年。就職活動を終えた大学4年生だった私たちは、27才を間近に控えていた。 * 「俺、きっと落ちてるんだろうなあ」  最終面接の帰り、彼は会社を出て少しするとそう言った。大学は違うけれど同じサークルに属していた私たちは、志望する企業が近く、ときどき顔を合わせていた。本命だった企業が同じだったので、お互い最終面接まで進んだら、帰りはどんな結果が待っていようともお互いを労わろうと決めていた。 「私もそう思うけど。今日はさ、とりあえずお疲れ様会しようよ。できることは全部やったし」 「まあ、気にしても仕方ないよな。銀だこ、したい」 「ハイボール、しよっか」  そのとき、信号が赤に変わる合図を出した。私は走って渡ろうとした、彼は私の手を引いた。そして言った。 「こういう時間も、大切じゃん」 * 「引っ越すとしたら、どこがいいの?」 「んー、西荻かな。それか高円寺」 「ああ、会社行きやすいし、いいね」  彼は缶ビールを持つと、私を見つめた。  何かを切り出そうとするとき。彼は何かをお守りのように持ちながら私を見つめる癖があった。  これ以上は何も聞きたくない。  私は「いいよ」と返した。  彼はその言葉を待っていたのか、ほっとした表情で「ありがとう」と言った。  テーブルに散らばったナッツの皮やピザポテトをウェットティッシュで拭き取ながら、私たちの心も、こうやって拭き取られていくのだろうと考えた。思い出は薄れて、ゴミ箱に捨てられる。  拭き始めるその瞬間は、もしかしたら、赤信号を走って渡るようになってから始まっていたのかもしれない、とも思った。 *  その日が最後の「お互いを労る会」になった。  あれから3ヶ月、溜まったお菓子はまだ食べ切れていない。私ひとりで消費するにはあまりにも多すぎる。 27才になった私は、今日もひとりで「自分を労る会」をする。赤信号はひとりで待つ。そうして、新しい日常が積み重なってゆく。

入居免許

「免許? 入居するのにですか?」  訪れた不動産屋で、俺は思わず素っ頓狂な声が出た。 「え、ご存知なかったんですか? この春に正式に施行されたんですよ?」  知るかよ。この春なんて仕事がやばくてニュースを見る余裕もなかった。 「ご家族の一人でも取得していれば入居可能なんです。三年毎に更新で、学科と実地の試験があります。無免許では、大家さんによっては解約事由にもなり得ますね……」 「いやいやいや。こっちは一人暮らしなんですよ? 今年の春からの制度を条件にされても……」  不動産屋は困ったような表情を作る。 「まあ礼金を多めに払えば、免許は後でもいいという大家さんもいるとは思いますが……」  免許はマストなのか。俺はため息を吐いた。  俺は入居免許試験場に来ていた。免許をざっと調べたところ、近年増加する近所トラブルに対して家主などの声を受け、政府が制度化したものらしい。  俺は今までトラブルなんか起こしたことがないし、勉強するまでもないな。  学科は一人暮らし用と家族用に別れているらしい。  試験は飲酒、喫煙に関する質問から始まった。喫煙者としては辛いが、賃貸は禁煙も多いからな……。もちろん、試験で本当の事を書くまでもないだろう。酒も毎晩飲むけど、一人で家飲みだ。騒音トラブルになんかならないからな。全てに「いいえ」と回答する。  次に友人知人などと連絡回数や、家族と電話などをするかという事だ。これも騒音問題だな。まあ、電話なんて仕事以外で滅多にしないし、そもそも俺は成人してから上京した口だから、友人もあまりいない。この辺はクリアだろう。  自炊や家事に対しての質問が始まった。自炊なんかやらないが、逆に言えば火事の危険もない。自炊はしないを選択した。すると今度は外食派かコンビニか、馴染みの店に行くか、チェーン店に行くかなど、やたらと細かい質問が出てきた。仕事や運動、趣味についても非常に細かいことまで聞いてきて、個人情報を取られているのでは、と胡散臭いものを感じ始めた。 「そこまで」  試験管の声に筆を置き、肩を回した。一体何が試験だったのか。悪徳商法にでも引っかかった気分だが、どういう基準で落ちるかさっぱり分からない。  しかし、次の実地は明確に不味いと感じた。  実地会場には木製の四畳の部屋に二畳の台所、小さなベランダが付いた仮設の部屋が幾つも並んでいた。畳と簡素な家具がついている。ここで家事をやるらしい。 「では、これより掃除、洗濯、ゴミ出し、料理と片付けをやっていただきます」  料理!? 俺は狼狽えた。というか、料理が出来なきゃ一人暮らしできないなんて可笑しいだろう! 「すいません、僕は普段、料理しないんですが……」 「レトルトを使っても結構ですし、カップ麺もありますよ。ただ、ご自身で召し上がっていただくので、ご自身が食べられる物を作ってください」  それがいいならまだマシか。それでも掃除、洗濯、ゴミ出し、料理? 家庭科の試験より面倒じゃないか。一日仕事だ。  まず洗濯をする事にした。洗濯籠にはシャツニ枚と靴下一組だけだった。しかもベランダの洗濯機はミニ洗濯機だった。十分で洗い終わるそうだ。  洗濯機を回しながら掃除機を取り出す。コードレスだし、部屋は四畳。楽勝だ。カップ麺を選んだのでお湯を沸かすだけ。麺を啜っていると洗濯が終わったようだが、さすがにラーメンを置いてベランダに行くのはおかしいだろう。食べてからベランダに洗濯物を干した。一人暮らしだし、洗濯くらいはできるさ。  ゴミ出しもプラスチックと可燃ゴミに分けてゴミ捨て場に持って行って終了だ。なんだ、楽勝だったな。  その日中に試験結果と免許証をくれるらしい。一人ずつ呼び出されて結果を聞くそうだ。 「は? 不合格……? なんでですか? 料理出来ないから?」  そんな理由だったら洒落にならない。俺は苛立ちを込めて質問した。 「まず学科の結果ですが、結論から言って、孤独死の危険性が高すぎます。それは貸主が最も嫌う事なので」  こ……孤独死。騒音じゃなかったのか!  しかし実際、友達らしい友達もいないし、急に不安が煽られる。 「そして実地ですが、あなた、足音全く気にせず歩いてましたね? 数値で測っているのですが、遠慮が全くありませんでした。更にゴミ出しの時、今日捨てていいのか、教官に確認もしませんでしたよね? 掃除も洗濯も雑で、家を労って暮らす人とは思えません。  気遣いの出来ない人を、貸主は嫌うんです」  ……俺は舐めていた。言われてみればその通りだし、今まで気にもしていなかった。 「……ありがとうございました」  俺は席を立った。そしてその足で向かった。  結婚相談所へ。もちろん条件は入居免許を持ってる人だ。

ファザーシッター

「では、よろしくお願いします」   「かしこまりました」    私は、依頼したファザーシッターさんに料金を支払う。  半日で四万円と非常に高額なサービスではあるが、背に腹は代えられない。   「確かに。では、失礼いたしますね」    ファザーシッターさんは、靴を脱いで我が家にあがる。  同時に、二階から旦那が下りてきた。  よれよれのパジャマズボンに手を突っ込んで、お尻をぼりぼりとかきながら。  そのうえ、大あくびしながらというおまけつきだ。   「おーい、朝飯……誰その人?」   「貴方が作ってください」    状況を飲み込めない旦那に、ファザーシッターさんは笑顔で鋭く言い放った。   「え、な、なんだあんた……? おい、これどういう……おい!」   「まずそのだらしない恰好を何とかしましょうか」    そしてそのまま、旦那はファザーシッターさんに引きずられていった。    ファザーシッター。  つまり、父親のお世話係だ。        よし、今日一日は、大きな赤ちゃんがいない。  存分に、我が子のお世話に集中できる。   「なんですこのシャツ! ちゃんとアイロンがけなさい! ……アイロンのかけ方がわからない? あなた今までどうやって生きてきたんですか!!」    叱られる旦那の声を聴きながら、私は愛する我が子の眠る部屋へと向かった。

朝のわちゃわちゃ

目覚ましにかけている携帯電話のバイブがウンウンと音を立てた。 私は寝ぼけながら手を伸ばす。 その手は携帯に届く前にガシッと掴まれた。 何?と思って顔をあげると、旦那がちょいちょいと手招きしている。 そのままゴロゴロと転がるように旦那の横にいくと、布団に引きずり込まれ後ろからぎゅうぎゅうと抱きしめられた。 んー、あったかいしこのまま寝たいなぁ。 旦那は私を抱き枕かのように抱きながら、髪の毛を撫でたり頬を触ったり。 微睡みの中、アラームのスヌーズ機能が働きまたウンウンと音を立て始める。 そこで私ようやく覚醒。 今日も仕事なのに何やってんだ! 旦那を振り払いガバッと起き上がる。いつも私が起きる前に家を出ていく旦那がまだ布団に転がっている。 「……仕事は?」 「頭痛と眩暈で今安静にしてるとこ」 はあ???? それなのに私を布団に引き入れるとはアホなのか?! その後、私の雷が落ちたのは言うまでもない。

断ちフェス

「みんな元気ーーーー??」 『いえーい!!!』 「元気だねえ(笑)  みんなちゃんとたってきたかなー?」 『いえーい!!!』 「お酒はたったー?」 『いえーい!!!』 「タバコはたったー?」 『いえーい!!!』 「無駄遣いはたったー?」 『いえーい!!!』 「暴力はたったー?」 『いえーい!!!』 「暴言はたったー?」 『いえーい!!!』 「苛立ちはたったー?」 『いえーい!!!』 「『あいつのせいだ』はたったー?」 『いえーい!!!』 「あれれれれ? 声が小さいぞー?」 『いえええええーーーい!!!』 「Oh! yeah,good!!!  間食はたったー?」 『いえええええーーーい!!!』 「夜食はたったー?」 『いえええええーーーい!!!』 「ぶっちゃけ食事はたったー!?」 『いえええええーーーい!!!』 「睡眠はたったー!?」 『いえええええーーーい!!!』 「性欲はたったー!?」 『いえええええーーーい!!!』 「願望はたったー!?」 『いえええええーーーい!!!』 「己はたったかあーーー!?」 『いえええええぇぇぇぇーーーい!!!』 「OK, everyone!!!  じゃあみんな断ちフェス歓迎だあぁぁぁぁ!!!」 『うおぉぉおぉぉぉぉぉぉお!!!』 みんな叫んだ。僕らはめっちゃ興奮した。 誰もが声にならない声で。 生贄台の僕らは全てをたってここにいる。 己の煩悩全て断ち、今聖なる願いが成就するのだ。 「災い、疫病、全ての不幸を断ち、地上の真なる幸福のため、我々はこの身を神に捧げます!!!」 『うおおぉぉおぉぉおぉぉぉおおぉをををををヲヲヲヲォォぉおヲぉおぉおおおーーーー!!!!』 僕らは全てを断つのだ。 災いの全てを。 この命と共に。

勇気ある恩返し

 ぼくは、ひょんなことから知り合った、アフリカのある国の出身の男性と、喫茶店で向かい合って座っていた。夏の陽は、窓際の席の半分を照らしていた。そのせいで、ぼくたちは、通路側に追いやられてしまった。  そんな夏の日に、この男性――カカくんは、彼の家で代々語り継がれてきた、ある話を聴かせてくれた。その内容は、以下のようなものであった。    ――――――  時は、非西洋の国々が、列強により落日を迎えていたころ。カカくんの祖国も、例に漏れずヨーロッパの強国に植民地化されていた。そして、カカくんの先祖は、宗主国からきた農場主のもとで、毎日、強制的に働かされていた。  賃金は安く、やっとのことで生活できるくらいだった。もし、家族のだれかが大病にでもかかったとしたら、見殺しにしなければならなくなる。のみならず、朝から夕方までのあいだに、休憩時間は三十分ほどしかなく、頭が溶け落ちてしまいそうな暑さのなか、だだっ広いコーヒー農場で、自分たちが飲むことはないそれを栽培させられていた。  そんなある日、カカくんの先祖は、コーヒー農場の間近の道で、この国のひとではない女性が、尻餅をついて動けずにいるのを発見した。しかし、農場から少しでも離れれば、どんな懲罰が待っているかわからない。だがこのとき、この農場の監視役は、休憩と称して、日陰で休んでいるところだった。  その隙に、カカくんの先祖は、その女性に応急処置をほどこし、のみならず、少し先にあるという家まで彼女を送り届けた。その女性は、カカくんの先祖がいままで経験したことのないくらいの丁寧な態度で、お礼を言い続けた。この暑さのなか、あのまま道に放置されていたとしたら、死んでいたかもしれないのだ。だからこそ、その女性は、目に涙を浮かべて、感謝の言葉をのべ続けたのである。  しかし、もちろんのこと、カカくんの先祖は鞭で何度も撲たれ、その日から数週間は、ただ働きをすることになった。  そんな絶望のなかで働き、三日が経ったころ、杖をついた女性が、コーヒー農場の横の道をゆっくり歩きながら、農場主の住む邸宅に入っていくのを目撃した。もちろん、その女性というのは、カカくんの先祖が助けた女性だった。そのため、ふたりの共犯を疑うのも無理はないことだった。自分を懲らしめるための筋書きだったのではないかと。  その女性と農場主は、一緒にどこかへと出かけていった。この国に元からいた住民がひく人力車に乗りながら。  ある日、カカくんの先祖は、あまりの腹立たしさに、自棄をおこしてしまい、監視役が手洗いに行っている隙に、帽子にかぶせて隠してあった銃を盗み、ふたりを射殺しようと決めた。あの女性は、ほぼ毎日のように、農場主の邸宅へ来るようになっていたから、まとめて倒すのに苦労はしないと思われた。  カカくんの先祖は、ふたりの声が聞こえてくる部屋の外に忍び、突入の隙を待っていた。日々の扱いに鬱憤がたまっていた他の農場労働者たちは、様々な手段を使って、監視役の注意を引いてくれていた。  しかし、いざ実行に移すとなると、なかなか決心がつかない。窓の下にしゃがんでからしばらく経った。すると、どんどん耳が冴えてきて、ふたりの会話がはっきりと聞こえるようになってきた。 「ねえ。あのひとたちを、もっとよく扱ってあげられないの」  その女性の言葉を耳にしたカカくんの先祖は、先の話をよく聞くために、ふたりの会話にのみ意識を集中するように努めた。 「またその話か。何度も言うが、ほかの農場主だって、同じような扱いをしているのだから、うちだけ特別なことをすれば、彼らからどう思われるかわからない。それに、あちこちで待遇改善を訴える暴動が起きてしまえば、大迷惑だ」 「でも、そこをお願いできないかしら」  しばらくの沈黙のあと、農場主は、「なんできみは、彼らに同情的なんだ」と、少し苛立たしげに女性に尋ねた。  すると、女性は、迷うことなくはっきりとこう言った。 「もし、これからもひどい扱いをするようでしたら、わたしはあなたと別れます。もう、会うことはないでしょう」    ――――――  カカくんはここまで話すと、アイスコーヒーを一口飲んだ。 「扱う、という言葉から分かるとおり、彼女もまた、農場主と変わらない立場だよ」と、前置きをしたあと、窓の向こうの駐車場を見ながら、「でも、なかなかの勇気じゃないか」と、カカくんは、複雑そうな笑みを浮かべた。  ぼくはもちろん、その女性が農場主に対して、物怖じせずに交渉したことを言っているのだろうと思った。しかし、カカくんの答えは、それとは違っていた。 「彼女は、大変だよ。もし、ぼくの先祖を守り続けようとするならば、農場主から嫌われないように、ずっと自分の魅力を見せ続けないといけないのだから。別れを切りだされないようにね」

アナグマのミチロー

午前零時。ミチローが起きてくる。 ミチローは毎日三十分間しか起きないのだ。 ミチローを初めて見つけたのは、大きな仕事が片付いた後の休日。昼までぐっすり寝た後に、ぶらぶらと出掛けた街の雑貨屋のぬいぐるみコーナーで、たくさんのぬいぐるみの中に一匹だけアナグマのぬいぐるみがいた。それがミチローだった。 私は、それまでぬいぐるみという物に興味が無かったのだが、なぜかミチローの事はひと目見て気に入ってしまい、そのまま購入して帰ってきて、ミチローという名前もその日のうちにつけた。 そのミチローが、毎夜零時になると起きて話し出すのだ。 しかし、今夜の私はとても眠かった。 ベッドの上でうとうとしていると 「紗綾くん、おはよう」 ミチローは、いつもの調子で話し始めた。 「ごめん、ミチロー今夜は仕事が忙しかったから、眠くて駄目」 「せっかくボクが起きたのに紗綾くんは寝てしまうのかい?ボクが起きていられるのは三十分間だけなんだぞ!」 ミチローが耳元で話すが、眠さには勝てない。 「寝ながら聞くから勝手に話していて」 私が、そう言うと「しかたないな」とミチローは言った。 ミチローは、ミチローが私と出会う前に世界各国を旅してきたという話しを、いつも私に聞かせてくれる。 パリの凱旋門の階段は二八四段、それでも登った方が絶景が見られるとか、ルーブル美術館はモナ・リザよりもミロのヴィーナスの方がミチローの好みだったとか、モルディブのミールアイランドに宿泊した時のきれいな青い海とか、中国桂林の水墨画のような景色は一度は見たほうがいいよとか。 ミチローが《ぬいぐるみ》のミチローがどうやって世界各国を旅したのかなどは聞いてはいけない気がして、そこは黙って聞いているが、各国で会った人や、美味しい食べ物の話しもしてくれるのでミチローの話しは面白いのだ。 今日はイタリア、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツェ教会の最後の晩餐は素晴らしかったと話していた。 私は眠い頭で、最後の晩餐ってダ・ヴィンチだっけ?と思いながら聞いていた。 「ミラノのサンタンブローズのコーヒーは美味しかった。老舗のカフェだぞ」と、私の横でうっとりとした表情になっている。 私は眠いけれど、うんうんと返事をした。 「コーヒーが飲みたくなってきたぞ!美味しいコーヒーが!」 ミチローが私に嬉しそうに言うが、私は眠くて動けない。 「明日の朝に淹れてあげるよ」 そう言って私は眠ってしまった。 翌朝起きるとミチローはいつものように、ぬいぐるみに戻っていた。 私はミチローに申し訳ないことをしたと思い、ミチローをダイニングテーブルの椅子に座らせて、淹れたてのコーヒーを目の前に置いた。 しかしミチローはぬいぐるみのまま。 「起きるなら今だぞ」 そう言って指先でミチローの頭を突っついたけれどミチローは動かない。 私はそれを見ながら美味しいコーヒーとトーストを食べて、着替えて支度をした。 さて今日も頑張って仕事してくるか。 ミチローに「行ってきます」と言った。 ドアを閉める時にミチローの鼻が少し動いた気がしたが、気にしないようにドアを閉めた。 帰ってきたらミチローの目の前に置いたコーヒー無くなってたら面白いのになと、思いながら会社に向かった。

【百合】ピアスの穴と好きなひと

 好きなひとがいる。  年上で、美人で、カッコよくて、かわいいひと。高校生になったばかりの私に腕時計をプレゼントしてくれたひと。高校を卒業したときに、スーツを選んでくれたひと。  ──姉さんの、恋人。 「ね、真琴さん。お願いがあるの」 「ん? どうしたの」  話しかけると、首を少し傾けるしぐさが好き。私を見つめる瞳に、長めの前髪がさらっとかかるのが好き。  ソファで寛いでいる彼女の隣に座って、私はその肩に寄りかかる。ふわりと香水が香った。ライラックというらしい。真琴さんが好んでつけているから、覚えてしまった。  今日は姉さんとデートに出かけるらしい。いまは準備中の姉さん待ち。真琴さんはいつも少し早く来て、姉さんは少しだけ寝坊する。これは真琴さんと姉さんがまだ友達だった頃からそうだった。  私だったら、絶対に寝坊なんかしないのに。そう思いながらも、真琴さんが姉さんを待つ時間を、私は彼女と交流できる唯一の時間として楽しんでいた。  真琴さんは暇つぶしに読んでいた分厚い本を閉じると、改めて私に「なにさ」と尋ねた。 「ピアス、あけて」  囁くようにお願いを伝えると、真琴さんはぎゅっと顔をしかめた。しばらく黙っていた彼女は、やがて片手で私の頭をぽんぽんと撫でる。 「どうしたの、いきなりピアスなんか」 「別に。前からあけたかったの。でも、いざやってみようと思うと怖くって」  自分でピアッサーを耳にあてたときのことを思い出す。少し情けないけど、耳に冷たいものが触れる、あのなんともいえない感覚はやっぱり恐ろしかった。  ちらりと真琴さんを見る。彼女はぱちりと瞬いて、照れくさそうに笑った。 「アハハ。そうだね……実は、私も奏にあけてもらったんだ」 「姉さんに? そうなんだ」 「うん」  真琴さんの明るい茶髪が揺れる。きれいに波打つ髪の隙間に、ブルーのピアスがちらついた。  チリ、と。胸の焼ける音がする。面白くない気持ちを抑えて、彼女の白い手にピアッサーを握らせる。 「じゃあ、今度は私にあけてよ」 「お母さんは知ってるの?」 「子ども扱いしないで。もう私、大学生なんだから」 「答えになってないよ」  そう言いつつも、真琴さんは素直にピアッサーを握ってくれた。  白くて細い指が私の耳たぶをくすぐる。じっと、長いまつ毛に縁取られた黒目が私を見つめる。 「どこらへんがいいの? 真ん中?」 「うん。どこがいいとかわかんないから、真琴さんの好きなところにあけて」 「……後で文句を言われても、謝らないからね」 「言わないから、いいよ」  目を閉じながら、髪をかきあげて耳を晒した。 「消毒は?」 「そこの袋の中」  ガサガサとビニール袋をさぐる音の後に、耳に湿ったコットンがあてられる。耳たぶを念入りに拭いた後、あの嫌な冷たい感触がそこに触れた。  カチャ、とプラスチックを動かす音がする。  私はこっそりと脈打つ胸を抑えた。ひとりであけようとしたときとは違う感じがする。恐ろしいとはまた違う感覚。  これはきっと──興奮しているんだ。 「開けるよ」  囁く少し低い声。  堪らず目を開けた瞬間、バチンと耳元でバネが弾けるような音がした。 「……痛い?」  心配そうにこちらを見つめてくる黒目に笑う。 「じんじんする」 「もう片方もしたい?」  曖昧に笑う顔。こういうときの彼女はかわいいと思う。 「……して」  囁いた声は掠れていた。  真琴さんがごくりと喉を鳴らす。 「その顔、なんかエロいね」 「ふふ。姉さんに似てた?」 「とんでもない。さ、もう片方も出して」  茶化すように笑ってやれば、真琴さんは気まずそうに目を逸らした。  バチン。派手な音の後に、じんわりと耳に広がる熱。  耳たぶに触れようとした手を、真琴さんが掴む。手首を強く握るのにどきりとした。 「触っちゃだめ」 「……うん」 「しばらくは触れないように気をつけて。お風呂に入ったら石けんで洗うんだよ。痛みがあるなら泡を乗せるくらいでいいから」 「うん、わかった」  早口にまくし立てる真琴さんに頷いたところで、がちゃりとドアの開く音がした  振り向くと、めいっぱいオシャレした姉さんが立っている。 「ごめん、お待たせ」 「いつものことでしょ。いいよ。じゃあね、響ちゃん」  ひらりと手を振る真琴さんに、同じように手を振り返す。 「あ、真琴さん」 「なに?」  呼びかければ、彼女は振り返って首を傾げてくれる。ああ、やっぱり好きよ。 「ありがとね」  右手で髪をかきあげる。ブルーのピアスが見えただろうか。  真琴さんは曖昧に笑った。  耳たぶはじんじんと熱をもっている。真琴さんのつけた傷。ずっと塞がらないように、大事にしなくちゃ。 「誕生日プレゼントは、ピアスがいいな」  出かけて行った二人を見送った後、私は呟いた。

異世界転移!?

「東京都から来ました。若田賢人と言います。よろしくお願いします!」 パチパチパチとクラス中から拍手が聞こえる。三回目の転校のスタートダッシュも上手くきれたと賢人は安堵した。 「じゃあ若田くんは窓際の1番後ろの席に座ってくださいね、みんな仲良くしてあげてね。」 はーいとあちこちから聞こえる。席に着く僕の方をチラチラ見たりする子もいれば、ガン見してきたりちゃんと前を向いてる子もいる。 今回の転校場所も当たりかもしれないと思う。 でも、転勤族だからいつまでいられるかは分からないけれど。 そうこう考えているうちに朝の会が終わったようだった。クラスのみんなは一斉に僕の方に向き、色んなところから僕の周りに集まってくる。 「ねえねえ、なんでこんな田舎に来たん?」 僕よりも少し小さそうな女の子が机に両手をついて前のめりになって聞いてくる。 「ね、ねえ、ちょっと近いよ……」 そんな僕の声は聞こえていないだろう。周りで沢山のクラスメイトが話し出す。 「あ!あおちゃんやしじゃ!じゃんけんで勝った人からってなっちょったじゃん!」 「けんとくん!今日ぶち暑いね。ひやい水ちゃんと持ってきた?」 「あ、あおちゃんがはぶてた!かんくんわやっちゃ!」 「別にはぶてちょらんし!」 「そういえば今日ぶち転けたけ、きっぽが出来たんよ!朝からもうせんないしえらいわー」 僕の周りで知らない言葉があちこちから聞こえる。 何も分からない。脳がキャパオーバーをしていてなんだかフラフラしてきた。 「もう!みんなしろしいよ!」 「みさきちゃん!」 みさきちゃんと言われる女の子の一声でなんとか辺りは静かになった。ところでしろしいってなんだろう。 「今、しろしいってなんだろうって思ったでしょ」 「え!なんで分かったの!?」 「私も去年転校してきたからだよ。三ヶ月もすればきっとけんとくんも普通に方言で話してるはずよ」 全く言葉が通じないこの場所で僕はこの言葉を三ヶ月後には使っているところが想像できない。 僕の三回目の転校はまるで異世界に来たみたいに、初っ端から大波乱になりそうだ。 ところで頭が働かなくなってきた。バターンと大きい音が近くから聞こえる。けんとくん!?とあおちゃんと呼ばれていた女の子に叫ばれ、僕が倒れたのだと気付く。 ああ、僕はきっとこの世界には慣れないだろう。 ところでしろしいって何なんだ? ここで僕は意識を手放してしまった。

愛してるの言葉は

「彼女のこと、どう思ってるんだ?」 友人に問われた言葉。 その問いに僕の心臓がどきりと跳ねる。でも、それを出さないようにしながら、僕は言葉を紡いだ。 「愛してるよ、恋人だしね」 「……愛してる、ね」 「何だよ。その間は。その言い方じゃ、まるで僕が彼女を愛してないみたいじゃないか」 「いや、そういう訳じゃないんだけど。何て言うか、辛辣に感じるというか、んー」 煮え切らない友人を見ながら、言葉を選びながら僕は口に出した。 「……好き過ぎて。彼女に素直になれないんだよ」 言わせるなよ。恥ずかしいと言えば、友人は合点がいったようで「なるほど」と頷いた。 そんな様子を見て、俺は内心安堵しながら毒づく。 ――あんな女好きな訳ないだろ。あいつは俺達家族を不幸に陥れた男の娘なんだから俺は復讐の為だけに、あの女に近づいたのだから。 朝「おはよう」と会話を交わした両親と妹。だが、俺が大学で講義を受けている最中に事故に遭い、帰らぬ人となった。 亡くなったという連絡が病院が入り、その瞬間、俺の体は指先から冷えていき、心まで冷えていく心地がした。 相手から謝罪の言葉があったなら、復讐なんて思いもしなかったろう。でも、あいつらは金を積んで揉み消したんだ。 悲しみは怒りへと変わり、俺は復讐の鬼と化す。 復讐を果たすならば「愛してる」と嘘を吐くのも易いものだ。 心の奥で歯車が軋むような音がした気がしたが、俺は知らない振りをして、俺は僕の仮面を被り直した。

ババ活

 スマホに表示される掲示板には、誘い文句がずらりと並んでいた。    心を惹かれる誘い文句があれば、さっそくプロフィールに目を通す。  ハンドルネーム。  年齢。  大雑把な居住地。  そして料金。   「よし、この人にしよう」    掲示板に返信をすると、すぐに応答があった。  数回のやり取りの後、現金を握りしめて、指定された場所へと向かう。        そこは、広い一軒家だった。  家と庭が塀で囲まれた平屋。  いかにも、昭和生まれの威厳を出して建っていた  手入れが行き届いておらず、庭の草は人が通れる場所だけ抜かれ、その他は生えっぱなしだ。  俺はホコリを被ったインターフォンを押す。    ピンポーン。   「すいませーん」    しばらく待つも、一向に出てくる気配はない。  約束の日時を間違えたかとスマホを確認するも、そんなことはない。  悪いと思いつつ、庭の方へとまわってみる。   「おや、いらっしゃい」    すると、縁側に座っているおばあさんが俺を見つけて、話しかけてきた。   「あ、トヨ子さんですか?」   「ええ。ええ。そうですよ」   「私、ババ活サイトから連絡しましたタクです」   「ああ。ああ。それは遠いところ、わざわざ」    ババ活相手のトヨ子さんは、自分の右側の縁側をトントンと叩く。  隣に座れ、という意味だと判断し、俺は隣に失礼する。   「すみませんねぇ、ベル、鳴らしてくれたんですよねぇ? 最近耳が遠くて、聞こえないことが多くて……」   「いえ、全然大丈夫です」   「ありがとうねぇ。いい子だねぇ」    トヨ子さんは優しく微笑む。  俺も微笑み返す。  きっとこの人は、優しい女性なのだろう。  しかし、ここはババ活の場。  あくまでも、利害関係の上で成立することを忘れてはいけない。   「これ、料金です」   「あら、ありがとうねぇ」    俺は封筒に入った現金を差し出す。  クレジットカードのオンライン決済ばかりを使っている俺には、久々の現金だ。  相手が相手だけに、ババ活は現金が基本。   「ペ○ペイでもよかったんだけどねぇ」   「使えるの!?」    支払いを済ませば、契約開始。  俺はトヨ子さんを見つめ、両手をワキワキと動かす。    フィーバータイムの始まりだ。             「おばあちゃああああああああああああああん!!」   「はいはい、どうしたの?」   「上司が……会社の上司がね……ぼくにいじわるしてくるの!!」   「おやまぁ。それは可愛そうに」   「お前は仕事が遅いって……向いてないって……。毎日……毎日……!!」   「あらあら、それは辛かったわねぇ。たっくんは、こんなに頑張ってるのにねぇ。大丈夫、おばあちゃんは、たっくんのこと、ちゃんとわかってるから」   「お、おばあちゃああああああああああああん!!」    俺は思いっきり泣きついた。        現代社会。  子どもが実家を離れる生活スタイルが増加し、孤独な老人が増えた。  単身世帯が増加し、祖父母の温かさに飢える若者が増えた。  ババ活は、そんな二人の持つ、心の隙間を埋める。    孤独な老人と孤独な若者。  二人をマッチングさせ、疑似的な祖父母と孫の関係を作り出す。    新しい家族の在り方。

真っ黒な紫陽花

店長として店に立っておくべきだとは思うが、子供の万引きをバイトに任せられるとは思えず、レジは任せて、奥の部屋で万引き犯の子と向き合って座る。 身長に合わないだぼだぼな服を着ている少女は、怯えた小動物のような瞳で私を見る。 身長もかなり低いが、そのボサボサの頭髪が私がこの少女を小動物と結びつけた所以だろう。 恐怖か、罪悪感か、よく見れば、少女の身体も小刻みに震えているようだ。 私はできる限り優しい声で少女に話しかけた。 「盗ったものを出しなさい」 少女は恐る恐るといった様子で、ポケットからそれを取り出した。 半額シールが付いた菓子パンだった。 「お金払わないと持っていっちゃダメって知ってるよね?なんで盗ったのかな」 暫しの沈黙ののち、少女は口を開いた。 「もう3日くらいごはん食べてないから…」 「そうですか…」 その見た目からも大体察していたが、この少女はネグレクトや虐待に近いものを受けているのだろう。 「家にお母さんいますか?」 少女はふるふると首を振った。 此処で適切な対応をしなければ私は永遠に後悔し続けることになる。そう、思った。 …子供の心はまるで、土の成分で色が変わって仕舞う紫陽花だ。 生まれた環境の所為で、その無垢な心を黒く染めて仕舞った子供は、数えるほどだが見た事ある。 今度こそ、真っ黒に染まり切って仕舞う前に救いたい。 189番に電話するか。いや、一度電話したことはあるが、大した事はしてくれなかった。 独り暮らしをずっと続けていた所為か、人恋しいという気持ちが私の中にあった。 「…なら、一緒に暮らします?」 …我ながら、狂った判断を下したと思う。 少女は、こくりと頷いた。 業務が終わりがけだったのが幸いして、30分もしないうちに仕事を終わらせ、家に帰り着いた。 いつもと違うのは、隣に少女がいることだけだ。 「ご飯作るから、待っててね」 簡単に作れるスパゲッティーにしよう。 2人分の麺を鍋に投入して茹でながら、少女に大切なことを聞いていないことに気がついた。 「そういえば、君の名前を聞いていませんでしたね。名前、なんですか」 「紫月…。むらさきに、月で紫月です」 「紫月ちゃん。…よろしくね」 癖となってしまった敬語を抜いて、そう言うことができた。 ―――その後、ただのスパゲッティーを食べて「美味しい」と笑っていた紫月の表情は、子供らしくて、すごく可愛かった。 明日からも、紫月が一緒に居ると考えるだけで気分が高揚する。 紫月は、料理も洗濯も私なんかより全然上手にできた。 遅くに帰ってきても家が綺麗で美味しいご飯が用意されているのは正直かなりうれしい。 服は適当に買ってきたものを着て貰っているが、そろそろ夏になるし夏服もきちんと吟味しなければならない。 …この、売れないライトノベルみたいな幸せが長続きするものではないと分かっていた。 わかっていたが。 こんな風に終わるとは思っていなかった。 チャイムと共に扉を開けた瞬間。 後頭部に鈍い痛みが走り、目の前にすごい迫力の女の顔があった。 一瞬何が起きたかわからなかったが、なんとか、この女に押し倒されたと理解する。 「私の紫月を返しなさいよ!」 血走った目、耳を劈かんばかりの大声、力。 その女の要素全てが私の恐怖を煽るが、人間はあまりの恐怖にさらされると動けなくなるようだ。 金縛りにあったように女の顔と、女の手に握られるものを凝視することしかできない。 女の手には、包丁が握られていた。 おもちゃではないのは、その鋭さから一目瞭然だ。 恐怖の中で、理性は考える。 女の台詞的に、多分彼女は紫月の母なのだろう。 私は誘拐犯としてみられても当然のことをしたわけだから、そりゃこうなるか。 「私のおもちゃを返しなさい!」 紫月のことをおもちゃと言うな。それは母親失格というものだろう。 振り下ろされる包丁。銀の軌跡が妙に美しく見える。 と、視界の隅を影が横切って。 女が私に倒れ込んだ。 「お母さん…わたし、あなたのおもちゃじゃないから」 なんとか起きあがってみると、女の背には包丁が深々と突き刺さっていた。 紫陽花の花は、土の成分で色が変わる。 歪んだ正義を併せ持った真っ黒な花が、今、私の前でひとつ咲いた。

隠伏

俺は目を皿のようにした。 潜み隠そうとするそれを、全て見つけ出せるように。 皿の上、スープ皿の中、小鉢の中……。 明白な意図を持って隠されて、俺の口へ入れさせようと言う、恐ろしい企みを阻止するために……。 いた!!! にんじんだ!! 細切りにされた人参を発見した。 コンソメスープの中、キャベツともやしと卵に隠れて、ひっそりと浮かんでいる! あ、ピーマンまで!! 俺は素早く取り除いていく。 万が一、口の中へ入ってしまったらと思うと、非常に恐ろしいぜ! こんなに巧妙に隠そうなど、おのれ、ママめ!! 「こら! にんじんもピーマンもちゃんと食べなさい!!」 嫌だね。 絶対に食べるものか! まずい野菜なんて食べる価値がないもんね!! ママのお小言に、俺は悠然と嫌いな野菜を抜いたご飯を食べたした。 ミートボールは最高だな!! カラフルパンも美味い!! 小言を言いつつ、私は内心にやりとする。 かかったな!! それは囮だ!!! 子供が嫌いな野菜を避けるのは想定済み。 私の本命はこのミートボールとパンだ。 ミートボールには米粒の半分のサイズに刻まれた人参とピーマンを、飴色になるまで炒めて混ぜ込んでいる。 そしてソースはトマトを裏漉ししてデミグラスソースと煮立てた。 カラフルパンもほうれん草と人参を使った野菜パンだ。 本当は子供に納得して食べてもらいたい。 しかし一度嫌いだと思い込むと、うちの子はそれはそれは頑固だ。 全く、誰に似たのやら…… まだミルクだけの時代から便秘の酷い息子のため、今日も私は野菜を忍ばせる。

円舞曲の鳴る場所で

 がらんどうな広間に、コツリコツリと歩く靴音だけが響いている。閑散としたその場所は、昨晩の余韻がまだ残っているようにも感じた。 薄暗い広間のど真ん中で、ふわりとドレスの裾を靡かせる。ふわりと花の香りが鼻腔を突いた。脳裏に焼き付いている光景が、あの熱気が明瞭に眼前に広がった。 スッと瞳を閉じると、時が止まったような感覚に襲われる。まるで、曲が始まる直前にも似た静寂。 足元から体に響くような重低音から、踊るような高音の旋律が耳の奥にこびりついている。 自然と足が動き出す。緊張で重かったはずの身体なんて嘘のよう。くるりを回った身体に引き寄せられてドレスがふわりと浮き上がっては広間の絨毯を彩るように揺れた。 キラキラと輝くシャンデリアが視界を過る。輝く宝石を散りばめたようなその輝きに思わず口の端が緩むのを感じた。ふわりと微笑みを浮かべれば、目の前の相手も安堵したように笑みを浮かべる。 花びらが舞うかのような香りに思わず伸ばした手を掴まえられる。 終わりに向かったその曲を耳にしながら、終わりたくないと心が騒ぐ。変えられない終わりの合図に、ふわりと身体が浮かんだ。 驚いて目を見開けば、目の前には悪戯に成功した少年のような笑顔。思わず笑って地に足を付けると、フッと静寂に包まれた。 数瞬の静寂の後、ワァと湧き上がる周囲と拍手に囲まれて嬉しくなる。 ふわりと相手への礼を取れば輝いていた広間は徐々に灯りを失っていく。最後の明りがフツりと途絶えて目を開けば、そこには先ほどと変わりのない静寂の広間があった。 カツン、コツッ。 はしたないと叱る人はいない。 足を踏み鳴らしてリズムを刻む。足音は広間に響いて続いていく。ドレスの裾を少しだけ持ち上げてくるりと回れば足音のリズムの合間にふわりと靡いたドレスの裾が花の香りを運ぶようだった。 カツ、タンッッ! ピタリと止まったその足音に少しだけ笑ってから広間を出ていく。 バタンと小さな音を立てて閉じられた扉。その残響が広間に響いた。残された静寂の広間では、窓から差し込む月明かりが、窓辺の花瓶を照らし出した。

「自我がなくなる薬?」

時刻は深夜0時、今日も今日とて上司からのパワハラや残業地獄を乗り越えた私は終電を待っていた。 K博士と名乗る黒いスーツを着た不審者が、得体の知れない薬を勧めてきたのはそんな時だった。 「Sさん……貴方の心は上司からのパワーハラスメントや終わらない残業などのせいでキツ〜く痛めつけられているでしょう。この薬を飲めば貴方の心は全ての苦しみから逃れることができるのです。」 赤い液体で満たされた小瓶を差し出しながら、不審者は流暢に語った。 「なぜ私の名前を……。そんな都合の良い薬なんか聞いたことありません。どうせ、毒か何かが入ってるか、ただの色の付いた水でしょう?」 私は警戒心を隠さず無愛想に聞き返した。 「フッフッフ……。では仕組みをお教えいたしましょう。自我がなくなる薬。効能は読んで字のごとく、貴方の心の電源を落とし、貴方は何も感じることがなくなります。熟睡しているときにもし悪口を言われたとしても、何も感じないでしょう。それと似たようなものです。」 調子づいた様子のK博士は饒舌に続ける。 「そして、これはこの薬の特筆すべき点ですが、この薬を飲んで心の電源を落としたままでも、普段どおりの言動をとることができるのです。要は寝ながら会社に行き、寝ながら仕事をして、寝ながら帰宅する事ができるようなものです。この薬を飲めば貴方は必ずやストレスフリーの世界を体験できるでしょう。」 私に口を挟む隙も与えずに、不審者は営業トークを終えた。 要約すると、この薬の効果はストレスを感じなくなるもの、といったところだろうか。 聞けば聞くほど胡散臭い。しかし――「無料なら飲んでみても良いですよ。」薬への印象と裏腹に脳の片隅に芽生えた好奇心は、私にこの薬を飲む事を考え始めさせた。 「無料ですとも!さぁグイッとどうぞ!さぁさぁ!」 薬を受け取った私はK博士の煽りに乗せられ小瓶の中の液体を流し込んだ。 「…………何も起こらないじゃありませんか。やはりただの色水だったんですね?」 Sは怒った顔を浮かべてK博士に詰め寄った。 K博士はどこ吹く風といった様子で、「おめでとう。これで貴方もストレスフリー世界の仲間入りだ。……もっとも、"本来のSサン"にはもう聞こえないのでしょうけど。」と、意味ありげに呟いた。 「K博士のいっている事はよくわかりません。私はもう立ち去らせてもらいます。」 Sは語気を強めて言い残し、ちょうど来た電車に乗ってその場を後にした。 深夜1時半頃、Sは家に着いた。 Sは風呂に入り、コンビニ弁当を流し込み、ベッドに潜り込み、寝た。

Baby

「あなたって本当、つまらないわね」 だって周りと違うんだもの。女性はうんざりした顔でコーヒーを置いた。周りの客は二人の険悪なムードにちっとも気づいていない。広いカフェの一角で、静かに別れ話が進んでいた。 外のよく見える、広い窓際のソファー席。デート中のカップルは、普通ここに通される。店員は邪魔にならないようさりげなく注文を聞きにきて、途中で会話を切らないようそっとドリンクを置いていく。普通はそう。 「これまでどんな教育を受けてきたの?別にあなたのお母さまとお父さまを否定するわけじゃないけれど、普通はそんな考え方しないのよ」 女性は「普通の人と付き合いたかった」と大きく息を吐く。カバンから財布を出して、千円札をテーブルに置いた。 「普通じゃない人と付き合ってたら、私頭がおかしくなりそう。別れましょう」 男は千円札を見つめて、不思議そうな顔をする。 「このお金は何?君のアイスコーヒーは六百五十円だったよ」 「はあ?」 「僕のクリームソーダ分も奢ってくれるんだとするなら、あと四百円足りない」 「あなたって、ほんと最低」 女性は水の入ったコップを手に取って、男の顔にぶっかけた。ぽたぽたと、顔から水滴が落ちる。手で防ごうとしたが間に合わなかったようだ。前髪からもぽたぽたと雫が垂れていた。 「さよなら」 女性は千円札を残したままカフェを後にする。さっきまで別れ話になんて気づいていなかった他の客は、男の動向をじっと見ている。しかし男が周りを見渡そうと顔を上げると、すぐに知らんぷりをした。スマホで何かを入力する者、目の前の友人とこそこそ話す者、顔だけ前を見て視線は男を見つめる者。 「そうか、別れ話を見たら普通は知らんぷりをするのか」 男はクリームソーダの上の、もうすでに溶け切ったアイスクリームをスプーンですくう。 「デートで男がクリームソーダを頼むのも、普通はダメって言ってたな」 ぶつぶつと、思い出したように口にして、天井を見つめる。 「女が出て行ったら追っかけるのが普通だって父さんが言ってたな」 普通は、そのようだ。と男は頷く。普通は、「普通」に過ごせるのだ。しかし俺は、普通に過ごせない。 おしぼりでテーブルを拭き、千円札を伝票の上に置く。残ったメロンソーダを一気にストローで吸い上げて、男は席を立った。 カフェを出て、すぐ近くの並木路を歩く。真っ黄色に色づいたイチョウの木がズラリと整列し、まるで軍隊みたいだった。もう少し適当に並んでもいいのに。普通は、整列するのが当然なのか。男は木を見上げて立ち止まる。 「ちょっと!うるさいから泣き止ませてよ!」 すぐ近くで年配の女の声がした。そのあと、ふにゃふにゃと小さな赤ちゃんの泣き声、そしてごめんなさいと謝る母親の声。 「普通は赤ちゃんが泣いたらすぐ抱っこして、あやすのよ?あなた母親なのにそんなことも知らないの?それに、普通はこんな寒い夕方に散歩なんてしないのよ!」 おばさんは捲し立てる。通行人は、その様子を見て知らんぷりをする。イチョウの木、綺麗だねえと、普通に会話をする。すぐ隣で繰り広げられている普通の押し付けには目もくれず。 ひと通り母親を怒鳴りつけた気が済んだのか、おばさんは歩き出した。 「何見てるのよ!」 男はおばさんに怒られる。すみません、と頭を下げる。普通は、見てはいけないらしい。 「あの、大丈夫ですか」 母親に近づくと、泣いているのが見えた。男はどうしていいか分からず、頭をぽりぽりとかく。赤ちゃんは相変わらず泣いていた。 「ごめんなさい、すぐ泣き止ませますから」 母親は一生懸命赤ちゃんをあやしていた。 「なんでですか」 男は不思議だった。赤ちゃんに「普通外では静かにすること」なんで常識が通じるはずない。むしろ「赤ちゃんは泣いてて当たり前」じゃないのか。なのにどうして、泣き止ませようと頑張らねばならないのだと。 「赤ちゃんは、泣くのが仕事ですよ」 男は赤ちゃんの顔をじっと見る。おどけた顔をして見せると、キャッキャと声を上げた。 「かわいいね、何ヶ月かな?」 ニコニコと笑って問いかけると、さっきまで泣いていた母親が血相を変えて叫び出した。 「うちの子に何の用ですか!」 はぁ?と、口をあんぐり開けた。 「普通はこんな状況を見て、女性が声をかけるんです!男性が声をかけるってことは、普通ないんですよ!母親はこうして可哀想なポジションを演じるんです!普通がわからないんですか?!」 嘘だろ。男は大きくため息をついて、母親を無視して歩き出した。普通は、良心さえも殺すのか。 すれ違いざま、まだ普通を知らない赤ちゃんの顔を見る。君も、そのうち普通の人間になってしまうのか。

素敵な夜に愛を伝えたかった (プロット:はの様)

 はのさんからプロットを頂きました!本当にありがとうございました! 「また駄目だった…」  私のBarで一人の男がカクテル片手に泣き言を言っている。黒髪短髪の、一見どこにでもいる優男だけれど、その正体は世界有数の殺し屋ときた。私のBarにはそういう裏稼業の人間が集まる。 「今回はどのくらいもったの?」 「……二時間半」  男がカランと氷を鳴らした。 「最短記録だね」  裏稼業に属す人間に、まともな奴はいない。どいつもこいつも、頭のねじが数本とれている。 この殺し屋もまた特殊な癖を持っていて、惚れっぽいうえに、惚れた相手を殺したくなってしまうらしい変態だ。  以前、なぜ殺したくなるのかと聞いたら、愛情表現のためと返ってきた。私みたいな凡人には、理解できなかった。 「はあ…。俺、恋人作れんのかなぁ……」 「さあね」  私が肩を竦めると、ドアベルの音とともに軽快な足音が聞こえた。 「…あら、先客がいたの。平気?」  肩に届く黒髪と、惹き込まれる猫目。平坦な声は彼は一般人か、と説いているのだろう。 「彼も同じだよ、君と」 「そう。ならいつものを」  女は男と一人分空けて座った。仕事終わりなのか、微かに笑みが浮かんでいる。 「…機嫌がいいね。仕事は順調?」 「ええ、順調よ。最近は仕事の幅も広がったから、やりがいがあるわ」 「それは何よりだ」  満足げな女の隣には、変わらず暗い表情の男が俯いている。よく見ると男は女のことを伏目で窺っていた。全く、どうしたものか。 「時間は?」  優秀な彼女は、いつも仕事に追われている。このBarに立ち寄った後に仕事に向かうことも少なくなかった。 「長居はしないわ。今日は早めに休もうと思って」 「忙しいのに寄ってくれてありがたいね」  グラスを傾けて、真っ赤な舌を覗かせる。彼女の美貌はどんなセキュリティーでも突破できるほどらしい。 女の武器の正しい使い方だな。女をとっくに捨てた私には、少し羨ましかった。 「…ご馳走様。それじゃあ、またいつか」  女はそう言って、千円札二枚をカウンターに置いた。 「またのお越しを」  深々と、私ができる精一杯の願いを込めて。  カランと、ドアベルが静かになった。 「彼女は?」  ずっと黙っていた男が顔を上げた。その瞳は先程と違い、輝いている。 「…聞いてなかったの? 凄腕の同業さんだ」 「ふうん」  男は楽しそうに笑った。 「ご馳走様」  千円札を二枚残して、男は足早に去っていった。私はため息をつきながら、頭を下げた。   * 「ねえ」  男は彼女に追い付くと、落ち着いた声で引き留めた。 「こんばんは。よかったら、ちょっとお茶でも」 「…本当にお茶だけなのかしら?」  彼女の薄く赤い唇が、そっと弧を描く。男は彼女の肩に腕を回した。 「お楽しみも一緒だよ」  高級ホテルに、二人の姿は消えていった。   * 「付き合おうよ」  薄暗い部屋で、男が囁く。女は呆れたように火照った頬で微笑んだ。 「そんな言葉、聞き飽きているわ」 「俺はずっと恋人がいないんだ。寂しいんだよ」 「私も恋人はいないけれど、寂しくはないわ」  女は眠たげに目を擦り、瞼を閉じた。男が静かに女の喉に手を伸ばし、女は静かにその手を止める。流れるような動作だった。 「貴方に私が殺せると思って?」 「…君が好きだから」  男と女は、ベッドの中で向き合った。互いに、楽しそうな笑みを浮かべていた。 「馬鹿にしないで。私はそんな甘い女じゃないんだから」  女はそっと男の首に手を添えた。女の長い爪が、男の首に食い込む。男が少し、苦しそうな表情を浮かべた。止めようと持ち上がった男の腕は、途中で諦めたように降ろされた。 「貴方の彼女になるわ」 「え……」  男の首に手をかけたまま、女は笑った。 「私も貴方が好きよ。だから付き合いましょう」 「本当に?」 「ええ、本当。貴方の恋人は、きっと楽しいわ」  女は男の首に指を滑らせて、名残惜しそうに離れる。男はくすぐったそうな顔をした。 「貴方、髪を伸ばしてみたら? 私、短髪ってタイプじゃないの」 「…君がそう言うなら、そうしてみるのも良いかもね」  どこにでもいるような穏やかな笑みを浮かべて、男は髪をいじった。 「貴方の髪が貴方の目を隠すくらいになったら、貴方を殺してあげる。貴方も私を殺していいわ」  女は言葉を続けた。  見える世界が変わったら、貴方も変わるかもしれないわね。  女は恥じらいもなく肌をあらわにさせると、ベッドから抜け出した。床に落ちている服を拾い、気怠げに服をまとった。 「また会いましょう」  女が振り返る直前、男はナイフを投げた。空中で止められたそれは、男の髪を一房切り落とし、後ろの壁に刺さった。  くすくすと笑う声が、部屋に残る。 「良い夜をありがとう」

言葉の刃

「言葉は見えない刃だ」 誰かが言った。 その言葉を思い出したのは、女子高生が苛めを苦に自殺したというニュースが流れていたから。 苛めは初め、自分が好きになった人が彼女を好きだったことだったらしい。 嫉妬から「あの子って淫乱で人の彼氏を寝盗ったらしいよ」という根も葉もない噂が流れ、その噂は色々な尾ひれがつき、次第に噂は人々の中で『事実』になってしまった。 噂は彼女の心を蝕んで、笑顔を奪い、終いには命を奪った。 初め噂を流した少女は「冗談のつもりだった。まさか死ぬなんて思ってなかった」と言っていた。 ――ふざけるなと思った。 彼女をよく知る俺からすれば、彼女はそんなことをする子ではないと解っていたから。 手を繋ぐだけで、白い肌を赤く染める。唇を重ねただけで、瞳を潤ませながら耳まで赤くなってしまう。淫乱とは正反対の純情な子だった。 明るくて可愛い子だった。 噂が広がるにつれて、彼女から笑顔が徐々に消えていった。 消そうとしても消せない。消そうとしても、悔しいことに言葉ない噂が広がる速度の方が早かった。 俺が噂の根源にたどり着いたときには、彼女は疲弊しきっていた。 「……ねえ、千早。何で……何で、こんな目に遭わなきゃいけないんだろ。何で、こんな思いしなきゃいけないんだろ。私が付き合ったことあるの千早だけで。私が恋したのも千早だけなのに……」 ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ彼女の声に力はなく。俺の胸は締め付けられる。 「っ……夏奈は悪くない。何も悪くない。悪いのは根も葉もない噂を流した下衆だ」 俺はそう言って、震えた声で言葉を紡いだ夏奈を。大粒の涙を溢す彼女をただ、ただ抱き締めることしか出来なかった。 それが彼女と話した最後だった。 俺は夏奈に嫉妬して淫乱とほざいた女を許せなかった。面白可笑しく噂を広めた奴等を許せなかった。 でも、一番夏奈を守れなかった自分自身を許せなかった。 ――夏奈が自殺したというニュースに、俺の頬に雫が伝った。

夜の人形劇

 穏やかなクラシックサウンドが食事を盛り上げる夜のリストランテ。 名の知れた店である為か席は満席で、店内は奇抜すぎない華やかな装飾が施されており、ドレスコードでもって身嗜みを整えた紳士淑女が皆それぞれマナーを守って和やかに食事を楽しんでいた。  ポーン、ポーン、ポーン………。 アンティークの一種として店内に置かれた大きな振り子時計が10回音を奏でた。  そしてその音は惨劇の始まりを告げた。 今が夜の10時だという事を知らせる最中、フィアンセと共に楽しく食事を取っていた1人の青年がステーキナイフを片手に徐に立ち上がり、隣の席で長年連れ添った妻と食事をしていた初老の男性の腕を切りつけた。  「うぐっ!!」 切れ味の良いステーキナイフによって男性の右腕から鮮血が飛び散り男性の向かいに座っていた妻の悲鳴が店内に広がる。 楽しかったはずの場所がいきなり恐怖の現場に変わった瞬間であった。  唐突の事に痛みに呻きながら椅子から転げ落ちる男性に彼の妻が駆け寄った。 そして、青年のフィアンセである女性も男性の元に駆け寄った。  「い、いきなり何をするのだね!!君は!!」 「あ、あなた!!」 「奥様この方の腕を押さえてて!リュナス!一体どうしたというの!?」 怒り心頭に怒鳴る男性、切りつけられた箇所を顔を青褪めさせながらお気に入りのハンカチを当てる彼の妻。 しかし、深く抉られた傷からはドバドバと鮮血が止めどなく溢れ出て、男性の袖口から見える真っ白なシャツは見る見る内に真っ赤に染まっていった。 医療従事者である青年のフィアンセはあまりの出血量に急を要する事をいち早く理解していた。  「………こ、ろす………」 青年の口からボソリと呟かれた声に感情はなかった。 よく見れば青年のアーバングレーの瞳に生気が宿っておらず、明らかに正気ではない。 初老の男性に向けて尚もステーキナイフを振り上げる青年にフィアンセは彼等を守る様にその前に立ち塞がった。  「やめて!リュナス!」 結婚の約束をし自分を愛してくれている彼は自分の事を傷つけないと、彼女はそう慢心してしまった。  「ぇ・・・?」 しかし、正気ではない青年は躊躇いなく自身のフィアンセの首をそのナイフで掻き切った。 頸動脈を深く切りつけられた彼女は首から鮮血を噴き出しながら倒れ己の血で上質なカーペットを赤く濡らしていく。そして、首を抑えてはいたものの大量の出血量に成す術もなく彼女は数分後に絶命した。  自身のフィアンセを殺害した青年は初老の男性を殺すのに邪魔になる彼の妻の髪の毛を鷲掴み、恐怖に震える彼女の右目をナイフで刺した。  「ぎぇあああああああ!!!」 「ネディアァァァアアアアア!!!」 痛みに叫び声を上げる妻に男性は腕の傷を抑えることも忘れ、彼女を解放しようと奮闘した。 しかし、フォークで青年の腕を突き刺しても、ナイフでその背中を斬りつけても男性の奮闘虚しく青年の体はびくともせず、青年は女性の目を何度も何度も突き刺した。 痛みに叫び声を上げながらも青年の拘束に抗おうとしていた彼女であったが、抵抗虚しくその体から力が失われた。  男性の妻が絶命したことを確認した青年は興味を失ったようにその体を床へと放り投げる。 ぐちゃぐちゃになった右目から真っ赤な血が溢れ出て青年のフィアンセ同様にカーペットを赤く染めていくその光景を見た男性は狂ったように天に向かって吠えた。  何故、幸せだった日常がこんな事になったのか。 明日は何処か旅行に行こうと約束していたのに、当たり前のようにそこにあった彼女の笑顔も声も永久に失ってしまった事に、男性は絶望した。  何の抵抗もしない男性のこめかみに向けて青年はステーキナイフ一突きで初老の男性を絶命させた。 それでも青年はこめかみに突き刺したステーキナイフを抜き、何度も何度もナイフを突き刺していった。  ポーン、ポーン、ポーン………。 振り子時計が12時を知らせ……青年に掛けられた暗示は解かれた。 正気に戻った青年は目の前の惨事に何が起きたのか分からず助けを求めて店の外に出た。  しかし、店の外に待ち受けていた武装警察部隊の銃撃によって彼はその命を散らしたのであった。  「…………ヴェンドット・ルーコット、リュナス・フェブリス両名の絶命を確認。また両者を最大限に絶望させよというオーダーもクリア……クライアントに宜しくお伝えください」 騒動のあったリストランテに野次馬が集まる中で、1人の少女はそこから少し離れた公衆電話を使って何者かに報告する。  「……えぇ分かりましたこのぱぺったーにお任せください。えぇ、では」 受話器を置いた少女はリストランテを一瞥して「呆気なかったわね」と呟くとボロボロになった操り人形を操りながら夜の街に消えていくのであった。

忘れないために 1

彼に初めて会ったのはまだ肌寒い桜の季節の頃だった。玄関先でうっぷして泣いた彼は知らない家の香りに不安を感じたのだろう。大きな声をあげて泣いた。担当の職員に抱き上げられ、奥のリビングに進んだ。まだ90センチそこそこの小さな身体に可愛くクリクリとした目。特徴的な癖っ毛は私の心を鷲掴みにした。彼は2歳4ヶ月。ネグレクトにより保護された小さな命だった。 私は養育里親だ。ある一定の期間、児童相談所で保護された子どもを養育する。実子である2人の男の子の子育てが落ち着いた事もあるが、毎日起きる悲しいニュースを見て私たち夫婦にも何か出来ることがあるのではないか。そんな気持ちで1年間の研修を受け里親の認定をうけた。 彼は、私が初めて委託された里子である。

【BL】月がきれいですね

 今日も定時上がりなんて夢のまた夢で、時計の針はとうに八時を過ぎている。特別俺の要領が悪いというわけではない。たぶん業務量が多すぎるんだ。  隣の課はそろそろ目処がたったと見えて、一人また一人と帰ってゆく。  ああ、あいつも帰ってゆく。    一年後輩のあいつとはなかなか距離が縮まない。たかが一年、されど一年。同期か先輩かでは、心の距離間は雲泥の差だ。入社してきた時一目惚れしたあいつは、正直どんなやつかよく知らない。だけどなんにも知らないのに惚れ込んでしまうだけの容姿で、要するに見た目が非常にタイプだった。  二年経っても奴については何もわからず、距離が縮まる様子もない。行き帰りが一緒になりでもすれば、奴も喫煙者だったなら、話すチャンスもあったろうに。  ようやく帰れる。  仕事が終わったわけではない。今日中に片付けることを諦めただけだ。明日は早朝から出社しないと。  ロッカーで荷物をとり、カードキーをかざして門を出た。当然とっぷりと日は暮れて、綺麗な夜空が広がっている。そういえば、もう秋の気配だ。月がいちばん綺麗に見える頃なんだっけ。  いつも駅に続く商店街を通る。といっても、俺が通る頃にはとっくに全店シャッターが下りているけど。それでも派手な街灯が等間隔で並び、防犯面でその道を選んでいる。ひったくりに遭ったりしたくないし。  だけど今夜はほんのきまぐれで、商店街の一本裏の道を通ってみようと思いたった。本当になんとなく、だ。強いていえば、明るい道よりも暗い道の方が、月明かりや星空がより映えると思ったから、だろうか。  ふと立ち止まって、空を見上げる。  なんだかいいことないなあ。  残業三昧の日々、の割に報われない仕事…… 「月がきれいですね」  その声に我に返った。振り返ると、奴だ。 「お、おう、おつかれ」  いくらか狼狽えながら答えると、奴は人懐こい笑顔を浮かべた。 「秋って感じですよねえ」  気づくと俺の横に立っている。 「腹減ったな。一杯付き合えよ」 「ご馳走になります」  駅前の焼き鳥屋で酒を酌み交わした。俺にとっては祝杯ものだ。奴とついにはじめて、まともな会話を交わした。注文する焼き鳥から酒から、休みの日の過ごし方、近代文学が好きなところまで、俺たちは何もかも似ていた。当然話は弾み、小さな騒がしい居酒屋にはおよそ似つかわしくない文学論を戦わせたりもした。 「ご馳走様でした」 「ああ、また明日な」  残念ながら電車は互いに反対方向なので、改札を抜けたところで別れることに。  ホームに着いたら向かいのホームにあいつがいて、目のやり場に困る。所在なく突っ立っていたら、にっこり笑って手を振ってきた。  電車に乗ってからも、降りてからも、その笑顔が忘れられなくて。  この夜間違いなく、俺の中であいつは『気になる後輩』から『片思いの相手』に昇格した。ようやく念願の会話ができて、距離が縮まって、この上ない贅沢だったはずなのに、もっともっと知りたい、話したいと思うようになってしまった。人間の欲とは底なしだ。  もう一度、月を見上げる。  今夜のとびきりの偶然は、この月のおかげだ。俺が月の美しさに魅せられて、気まぐれを起こしていつもと違う道を通ったから起こった奇跡、というとちょっとオーバーか。  「月がきれいですね」  あいつの声がまた頭の中で響く。月はずっときれいだったけど、あいつと見上げた月はもっときれいだった気がする。  この夜に、月が傾く前のあのタイミングで、出会えてよかった。

シェアハウス四方山話 #25 テレポート

 とある秋の日。  私芥川愛花は、漫画のネタ出しに苦戦を強いられていた。  軸となる設定は、超能力を使える主人公。  主人公は、超能力を使用して、巻き起こるトラブルを解決していく、というのが思いついた。  そう、思いつきはしたのだ。  設定自体はすぐに思いついたのだが、その先が出てこない。  どんな事件が起こり、どんな超能力で事件を解決するのか。  なかなか超能力を利用するような、特別な事件が思いつかない。 「……きゅうけーい」  誰に聞かせるわけでもなく、独り言を呟き、大きく伸びをする。  いいアイデアが思いつかないときは、思い切って休憩する。  これがなかなか効くのだ。  とりあえず、飲み物でも飲もうと思い、私はシェアハウスの共用スペースに移動する。  共有スペースの扉を開けると、ソファーに座る二つの人影がこちらを向く。 「あら、愛花ちゃん。なんだかお疲れかしら?」 「本当ですね、ぐったりしている感じがします」  二つの影は、同じシェアハウスの住人である十六夜撫子と花咲福乃だった。 「……もしかして、顔に出てる?」  私は今、確かに少しだけ疲れている。二人が瞬時に見抜いたあたり、目に見えて疲労が分かるのだろう。 「うーん、初対面の人には分からないかもしれないけど、長い付き合いだと分かるって感じですね」  なるほど、と私は福乃ちゃんの言葉に納得する。  自分では、そこまで疲れていないと思っていたので、見抜かれたとき疑問に思ったが、そういうことか。 「それで? 何かあったの? 愛花ちゃん」  撫子に言われて、事の顛末を話す。  とは、言うもののそこまで大それたことではないのだが。  私の話を一通り聞くと、福乃ちゃんは申し訳なさそうに言う。 「やっぱり創作活動は大変ですよね。私もお手伝いしたいですが、どうすればいいのか……」 「そこまで気にしないでいいのよ、福乃ちゃん。ありがとうね」  福乃ちゃんは、優しいなぁ……。きっといいお嫁さんになれる。  そんなことを思っていると、 「超能力と言えば、テレポートよね」  と、唐突に撫子が言った。 「撫子?」 「いえ、思いつた超能力についてに日常生活でどうするかを深掘りすれば、何かつかめるかもしれないと思ったのよ。どうかしら?」 「……いいわね。やってみましょう」  今回の作品は、超能力バトルではない。超能力を使った日常ものだ。  知略を巡らせた使い方ではなく、自分なりの日常での使い方を考えれば突破口は見つかるかもしれない。 「で、撫子さんが思いついたのは、テレポートでしたっけ? 撫子さんは、どうテレポートを使いたいんですか?」 「全国各地の酒蔵巡り」  ……うん、知ってた。  半ば呆れつつ、私は福乃ちゃんに話を振る。 「福乃ちゃんは、テレポートできるならどこに行きたいの?」 「私は、月並みですけど海外にいきたいですね。愛花さんはどうですか?」  私か。私は……。 「うーん、いろんな美術館とか美しい風景を見に行きたいわね」  自分で言っておいてなんだが、これもかなり月並みだ。  なかなかいい使い方が思いつかない。  三人寄れば文殊の知恵とは言うが、難しいものだ。  なんて考えを巡らせていると、福乃ちゃんが口を開いた。 「愛花さん、私思ったんですけど……」 「何、福乃ちゃん?」 「テレポートで観光地巡りとか一通りしてしまうと、結局学校に遅刻しないためとか、くだらない使い方するんだろうなーって思ってしまって……」 「……それだ!」  私の言葉に疑問符を浮かべている二人を置いて、私は興奮していた。  テレポートは、結局はくだらないことに使ってしまう。  そうだ、日常での使い方ならそれでいいのだ。  日常で、ヒーローが死闘を繰り広げるような大事件など、滅多に起こることなどないのだ。  もっと小さくて、もっとありふれた事件でいいのだ。  学校に遅刻する。家に忘れ物をする。電車で寝過ごしてしまう。  そんな時にこそ、テレポートの出番だ。  特別なものも慣れてしまうと、日常になるように。  テレポートのような力も、日常になっていくのだろう。 「なんだか分からないけど、解決したの? 愛花ちゃん」 「ええ。ありがとう、撫子に福乃ちゃん」  日常で起きるようなありふれているような事件を超能力で解決する、という方向性で行ってみよう。  漫画の方向性も無事に決まった。  今までの疲労感が噓のように活力が湧いてくる。  そんな私をよそに、福乃ちゃんが撫子に尋ねる。 「そういえば、撫子さんは、テレポートで海外のお酒を飲みに行かないんですか? ウオッカとか」 「私、ウオッカってあんまり好きじゃないのよね」 「あら、そうなの?」 「だって、度数強くてすぐ酔っちゃうから、他のお酒が楽しめなくなるじゃない」 「「……あー」」

ワクチン摂取ラブ・ストーリー

『ワクチン接種の予約はこちらから』 20代でワクチンの接種がいつから出来るのかを確認するために検索し、すぐにたどり着いたのがこのページ。 カーソルを合わせてクリックする。 『20代はこちら』 『独身の方はこちら』 『摂取可能な日程を選択してください』 次へ次へとページを進めていく。 その先のページに目を疑った。 『あなたの趣味をお答えください』 「なんだこれは。趣味?ゲームだけど…趣味なんて関係ないだろ…」 冗談半分に回答をすると次の質問がきた。 『職業は?』 『年収は?』 『ペットは好き?犬派?猫派?』 『好きな食べ物は?』 『無人島に持っていくとしたら何を持ち込む?』 答えてもキリがないほど次々に質問ページに飛ばされる。 『最後に、次の写真・プロフィールから好みの相手を選択してください』  そこには女性の写真とプロフィールが一覧で並んでいた。 俺は直前の行動を振り返る。先程までワクチン接種をしようとしていた…筈だ。どこからこんな事になったのだ。 そもそも最初の方の『独身の方はこちら』ってそういうことか…? ただ、目の前に写っている画面にタイプな子がいた。 気づいたらその子にカーソルを合わせ、クリックしていた。 『予約が完了致しました。〇月〇日11:00に会場へお越しください。詳細は下記URLより』 URLを開くと、ワクチン接種会場と書かれた案内図が載っていた。 時間通り会場へ行くと、例の子が待っていた。 「はじめまして、11時に予約の木村さんですね?」 実物で見ると写真で見るよりも何倍も綺麗な人だった。透明感というのだろうか。全身から漂うオーラのようなものが眩しくて目を合わせられない。こんな形容をしても大袈裟にならないほど彼女は美しかった。 「はい、そうです。ところで今日のこれって何なんでしょうか?」 「え?ワクチン接種の予約ページから予約されたんですよね?ワクチン接種ですよ?」 「え?でも、これって…」 理解が追いつかなかった。 そこには向かい合わせの椅子とテーブル、飲み物やフードのメニュー… 「ふふっ、木村さん面白い方ですね!さ、お飲み物頼みましょう。私はアイスコーヒーにします!」 「あ、えっと、じゃあウーロン茶と、海老ドリアで」 「お腹すいてるんですね!頼みましょう頼みましょう」 彼女は呼び出しボタンを押すと、店員さんと思われる人が奥から現れ、注文を済ませた。 「ここは…カフェですか?」 「ふふっ、そうですよ!木村さん、面白いですね。会ってすぐでこんなに楽しいなんて、素敵です」 そんなに面白い事を言った覚えは無いが、悪い気分はしなかった。いや、むしろ嬉しい。 心音が早くなっているのを感じた。 ―それからたわいもない会話を繰り返した。何度も何度も繰り返された会話から、彼女のことをもっともっと知りたくなった。 そんな時、予想外なことに彼女から誘われた。 「次回も会いたいです…。来月の5日とかどうですか?」 答えはYESだ。YESに決まっている。仕事だろうがなんだろうがすべてキャンセル、休みを取ってYESだ。 「良いのですか?こんな男で」 「はい!私でよければ来月、ここで同じ時間にどうでしょうか」 「喜んで!」 ―その日は程々にお別れをして、次回まで心を躍らせた日々が続いた。 そして、2回目のご飯。いや、デートか? 持っている中で1番高い服を着て、待ち合わせ場所へ。 「こんにちは!早いですね」 「こんにちは!木村さんこそ!まだ時間より15分も早いですよー?」 前回のようにたわいもない会話をひたすら繰り返した。 その一つ一つの会話が心地よく、最短距離で恋の湖に落ちていく。そんな感覚だった。 全てが一瞬のようであり、それでいて濃密だった。 「そろそろお別れの時間です。木村さん」 「あ、もうそんな時間ですか。良ければまた、来月もお会い出来ませんか?」 「ごめんなさい、本日で終わりなんです」 「え…?」 何がダメだった?どこで間違えた?様々な思考が頭の中をそれぞれ駆け巡っていた。 「ワクチン接種2回目の終了です」 「え、ワクチン?」 今の今まで忘れていた。ワクチン接種の予約。それが全ての始まりだったというのに。 「そうです。"恋の病"、のワクチンですよ!木村さん!楽しかったです。これからはもっと自分に自信を持って!」 「えっと、恋の病……ってなんじゃそりゃーーーーー!」 ―『恋の病のワクチン接種』 この事業を始めてからこの町では劇的に未婚率が減り、引き籠もりの減少、少子化問題の解決、ひいては性犯罪についても減少傾向の一途をたどっていったという。

慈しみの女王アイリスができるまで

 魔王を倒した勇者のためにもよおされたその日の宴は、すばらしいものだった。あまたの蝋燭をかかげたシャンデリアの下には、よだれを誘う料理がズラリとならんでいる。 ほどよい色に焼けた七面鳥はナイフを入れれば肉汁がジュッ……とあふれてきたし、黄金色の芋がまるっと入ったポトフは、芋の甘みとコンソメのひかえめな旨みがからみあって、胃に染みてくるほどだった。 ほかにも虹鮭のムニエル、白桃のゼリー、マリア地方のブドウ酒。勇者は今までの人生で感じた「おいしい」をはるかに凌ぐ「旨い」を体験した。 しかしその夜、勇者の腹の調子はどうにもすぐれなかった。いくつもの針で胃の壁を内側からつつかれているみたいな痛みをおぼえた。いいや、それだけではない。 指先は震え、体の芯からぬくもりがズルッと抜けていく。 困惑と恐怖のなか、まずは隣室の仲間に助けを求めにいこうと、体を起こしたときだった。 だれかが部屋のドアをノックもなしに開けて、勇者のもとまでやってきた。その手もとにある燭台の火が照らしたのは、この国のたったひとりの姫君、アイリスの面(おもて)だった。 「アイリス、さま? どうされたのですか。いやそれよりも、あの、医者を」 勇者の体はもう限界に近かった。体の芯は氷よりも冷たく、指の震えはもはや痙攣と言うほうが正確なくらいだ。 アイリスは、あわれな勇者に優しげな瞳を向けて、言った。 「おまえはこのまま死ぬのです。ほかならぬ、わたしの手によって」 「は……い?」 表情とはうらはらの、冷徹なせりふに勇者の思考が固まる。だが、彼のとまどいなど知らんふりで、アイリスはつづけた。 「わたしのひそかな想い人エリック・ディーンは五年前、馬車馬に蹴られて召された。この悲劇を、おまえは本当の意味で知っているでしょう? だって、ほかならぬおまえが仕組んだ悲劇なのだから。馬に薬を打ち、エリックをあの通りにおびきよせたこと。覚えがないとは言わせない」 アイリスの細くしなやかな指が、勇者のあごを捉えた。 「まぁもう、毒が回りすぎてなにも言えないか。ねぇ、わたしはやさしいでしょう? 毒といっしょにおいしいものも食べさせてやったのですから。では、さようなら、勇者。いいえ魔王。エリックを屠った魔王よ。おまえがいなくなることでわたしの心は平和になるのです」 アイリスの指があごより離れて、勇者の体から力が抜けた。彼の目はもう、恐怖もとまどいも浮かべられない。 アイリスは静かに息を吸って、さけんだ。 「あぁったいへん! だれか、きてください! 勇者さまが……!」 翌日、勇者の葬儀はすみやかにおこなわれた。アイリス姫が「見つけた」遺書にはこう書かれていたらしい。『僕はおおくの魔物を屠ってきた。魔物といえども命であることには変わりない。おおくの命を屠ってきた事実など、僕には耐えられない』 高潔な勇者の死に、国中のものが涙した。もちろん、この国たったひとりの姫君アイリスも例外ではない。 「わたしの世界に平和をもたらしてくれて、ありがとう。魔王(ゆうしゃ)マイク・ディーン」 アイリス姫の涙は、国中のだれよりも清らかだった。のちに国民はそう語り、アイリスが女王となってからは、その為政もあいまって彼女はこう呼ばれた。 慈しみの女王、アイリス。

ロックンロール

大都会、地下室のようなライブハウス。 そこでその日はライブがあり、 近いうちになくなってしまう、伝説のハコでもあった。   10年以上前、あるバンドマンと出逢った。 その青年はロックバンドのTシャツに、 その時はおそらくジーンズを履き(僕の記憶はいつも曖昧だ)、 知り合いのライブを観にきていた。 僕の友人が紹介してくれた時、 この長髪の青年は只者ではないオーラを放っていた。 少し会話をして、その予感を深めた。 優しい瞳には、憂いと、秘めた情熱が宿っていた。 それから数日後、友人はそのバンドマンの音源をくれた。 そのデモ音源を聴いて僕は、度肝を抜かれた。 こんな音楽、初めてだったから。 そこには僕の世界を変えるだけのチカラがあった。 何故なら、そのバンドのファンになり、 新宿まで足を運びライブを観るなんて、 インドアの僕にはあり得ないことだったから。 ライブハウスのある街は、異国のようだった。 怪しく煌めくネオンサイン、 客引きの男、 ピンクの宣伝カー。 これが東京かぁ。 田舎者の僕は、ただただ、驚くしかなかった。 その日のライブは、一生忘れられないシーンが幾つもあり、 爆音が、歓声が、耳鳴りのように残った。 それは貴重な非日常。 そのバンドマンは 優しい言葉で歌を紡いでいた。 だがそこには芯の強さ、決意のようなものがあった。 彼は全国を旅して、そのメロディーを朗々と響かせている。 10年前と変わらない。 或いは変わらない様に思っているのは、 僕の方だけかもしれない。 夢を追い続けるその背中に、幸あれ

僕と彼のはなし。

「アイヤッサ……」  カランカランと耳障りな音が空間に響き渡る。銀皿が転がるのを足で踏みつけて、ワンさんはブツブツと洗い場へ持って行った。 「いって……!」  カンカランと小気味よい音が鳴る。ペティーナイフの刃が欠ける瞬間を見た。まだ包丁を入れてもないのに、「血が付いた」なんて理由だけで、そのキャベツはゴミ箱に捨てられた。ワンさんは生ゴミに成ったキャベツを見つめていた。  これは君だと、言われてる気がした。  いや僕はこっちだよと、欠けたナイフを見せた。  ワンさんは、ふんと笑ってから手元のピーマンを細切りにし始めた。  彼がもっと日本語が上手かったらこんな変な空気にならないと思う。 「アナタ、ナイ、ニク、ナニ?クダサイ、ワタシ、イウ(何故肉を持ってないんだ、俺はさっき持ってこいと言ったぞ)」  二年経ってもワンさん語は半分も分からない。結局二人だけの厨房では、言語なんて存在しない概念のまま、時間と音だけが過ぎていく。  西日に輝くなか、子どもたちがわいわいと帰っている。無意味に大声を張り上げて、たくさんの言葉を紡いでいる。  ピーマンを切り終えたワンさんは、急にエプロンを外すと厨房を出て、事務所へと向かった。しばらくして裏口が開く音が聞こえ、また勝手にタバコ吸いに行ったなと思った。  蒸し器と換気扇と、スープが煮立つ音しか聞こえない。僕は生の餃子を一つ摘んで、油の中へと放り込んだ。  揚餃子に仕上がる頃、ワンさんが帰って来たので、今度は僕がタバコを吸いに行こうと口をハフハフ言わせながら外に出た――。  厨房の蒸し暑さから開放されて気分が良くなる。室外機の上にポツンと居座る銀色の灰皿の中にまだ新しい吸い殻と、まだ火の点けられていないタバコがあった。  両方とも中南海だ。  ――粋なことしやがって。  初めて吸う中南海は臭かった。  目の前ではボロボロのダスターやら脂ぎったエプロンたちが風に揺れていた。  ――今度から揚餃子もう一個作ろう。  僕はそう思った。  勤務中の喫煙も食材の私用もバレたらアウトだ。そもそも僕は高校生なのだ。  だけど一々そんなことを心配するような僕ら二人組でもなかった。

両親からの愛

 親が厳しく叱る。  親が優しく褒めて子を信じてくれる。  人間の成長というのはこの二つが成り立って生まれると思う。この二つを交互にバランスよく繰り返してこそ立派な人間に育つ。  叱りすぎてしまうと子どもに恐怖とストレスしか与えない。そのまま子どもは優しさを知らない非行少年になる。  逆に信じすぎて甘やかしてしまうと子どもに甘えとゆとりしか与えない。そのまま子どもは何がダメかも分からないクズ人間になる。  どっちかが多いのはダメなんだ。  ちょうどいい塩梅が必要だと思う。  僕の父は極端に厳しかった。テストの点が低いと思いっきり殴られた。門限が過ぎたら家に入れてくれなかった。学校で友人と喧嘩をして呼び出された。そこに父親が迎えに来た時は絶望すらも感じた。 「人様に迷惑だけはかけんじゃねーよ! 同じ人間なら嫌がることぐらい分かんだろ! 自分が嫌だなって思う事を人にはするな!」 「……」 「……でもまぁ、長い人生。必ずお前は人に迷惑をかけてしまう事があるだろう。そんな時はお前の言い分なんて関係ない。まず全力でその人に謝れ。相手が許してくれるまで謝れ。そして信じて待ってくれた人にも全力で謝れ。そこでようやくお前は自分の言い分を話すことができるんだ」  車の中で長々と父はそう叱ってくれた。  あぁ……まためんどくさい説教が始まったよ……。この時はそう思っていた。  僕の母は極端に優しかった。三十九点の答案用紙を見てものすごく褒めてくれた。百点満点なのに……。  門限を余裕で過ぎていても許してくれた。学校の成績が一気に落ちて呼び出された。そこに母親が迎えに来た時は最高な気分である。 「まーくんを怒ってた先生。あれズラでしょ」  車の中でそんな事言って笑ってしまっている始末である。  根本的に怒るのに向いていない人間なんだと思う。人を疑うのが苦手な人間なんだと思う。でも僕はこんな母親が大好きだった。 「なんでそんな事したの!」 「……」 「答えないと分かんないよ!」 「……母親の誕生日でカランコエという綺麗な花を渡そうと思って……まだ中学生の僕にはお金が足りなかったんです」 「たく……母親はそこまでしてまでこんな花欲しくないよ」  父は今の僕をどう思っているのだろうか……。花屋で花を盗んだ僕を……。  もう居なくなった父の分まで母親を守ると約束したのに……。  自分の情けなさに涙が出た。 「父さん……」 「泣いて許してもらえると思ったら大間違いだよ!」 「……申し訳ありませんでした!」  こんな最中、思い出したのはあの日の父の言葉だった。  僕は父から叱られて。母から褒められて。両方手に出来たんだ。もう子どもでいるのは止めよう。父の代わりに一人になった母を守るんだ。  

ウィズ・エッグ 3

※これは3話目です。1 , 2話を読んだほうがわかりやすいです。 3年前に起こった事故。青信号を渡ろうとした光輝の真横から法定速度を大幅にオーバーした車が突っ込んでくる。誰かが光輝の背中を押して、光輝を救った。その人の姿を、光輝は知らない。 その3日後に光輝が声を出すことはなくなった。光輝はぼんやりとその時の光景を思い出すが、ミラが小さく咳払いして、光輝を現実に引き戻す。 (僕は、この小さな竜に何を願えば良いんだろう) ミラの小さな黄色い目を見つめた。ミラは全く動かずに光輝を見つめ返している。 (そうだな。事故………僕を救った人を知りたい。お礼を言いたいな) 「それがお主の願いじゃな?よし、その決意、受け取った」 ミラは背中から生えている2つの翼をばたつかせて床へ舞い降りた。 (でも…どうやって見つけるの…?) 「そうさな。まずは事故の真相を突き止めるのじゃ。任せておけ、儂に」 こうして、光輝とミラの冒険(仮)が始まった。その夜、光輝は父と母にミラの存在を明かした。3時間の口論のあと、その存在を認めてくれた。そして、正式に光輝の家族となった。 次の日、光輝は学校に行くのが憂鬱だった。どうしてもミラがついて来ると言うからだ。先生やクラスメイトがどんな反応するのか考えると、昨日の3時間の口論が思い出される。 (ペット連れてきてるようなものだよね…?) いつも登校している道を歩いていると、周りの人達からの視線がミラに痛いほど注がれる。 「儂はペットのような下等生物ではない。ちゃんと自立しておる」 喋る竜が中学生の隣を飛んでいる、というのはとても奇妙な光景だった。 「光輝!おっはよー!」 皐月の声だ。遠くの方から聞こえてくる。どうやらそこからは全長30センチの竜は見えていないらしい。皐月が光輝の側まで走ってくると、予想通りミラの方に目をやった。そしてミラは「どうだ!」と言わんばかりに空中で胸をはった。 「りゅ……竜…!?」 とてもまともな反応で助かった、と光輝は一瞬安堵した。昨日の光輝と全く同じ反応である。 (訳あって光輝と共に登校してる竜ことミラです、と言って…) 「ゔ、ゔゔ…ごほん。あー、儂は訳あって光輝と共に登校してる竜ことミラじゃ」 皐月はまだ固まっている。無理もない。今まで仮想の生き物だった竜に自己紹介されてもすぐに落ち着くには厳しいだろう。 それから光輝はミラを介して皐月にミラについての出来事を伝えた。証拠が目の前にあるのだから皐月もなんとか納得してくれた。 「よ……よろしくね。ミラさん」 「おお。光輝に挨拶したときの元気はどこいったのかのぉ」 あと3分でチャイムが鳴るという遅刻の瀬戸際で、光輝は教室に入る決心がなかなかつかなかった。 (入るべきか……どうか…うーん) 「ここまで来たんじゃから入る以外ないじゃろ」 「そうだよ、どっちにしろ置いてくならミラさんだけね」 「えー!?儂残るの?」 光輝は既に馴れ合っているミラと皐月を疎ましい目で睨んで、頭を抱えた。 そうこうしてるうちに、後ろから先生がやってきた。聞き分けの良い、生徒思いの先生だ。 「おい、磯原。何ドアの前で立ち止まってるんだ?早く入れよ。チャイム鳴るぞ」 光輝の陰に隠れていたミラがひょいと顔を出すと先生は硬直した。 (このくだり何回するんだ…!?まてよ……先生に説明してもらえば…!) * 「え〜、ということで磯原の周りには常にこいつが付き纏っていると思っていてくれ。じゃっ………プリント配るぞ〜」 朝の15分間は先生によるミラの説明に使われた。みんながどよめいている中、教卓の前に立たされていたのは嫌な思い出だった。もっとも、ミラがどうかは知らないが。 一時間目が始まる10分間の休憩のときに、光輝の机の周り……主にミラの周りには大勢の人が集まった。中には噂を早くも聞きつけた他クラスの人もいる。 「名前は〜?」 「可愛い〜!」 「火吐ける?」 などなど質問が飛び交うが、どのようにして手に入れたか、という経緯は誰も聞いてくれないので、光輝は少しふてくされていた。 「光輝、大変だね。色々と」 皐月が光輝に声をかけた。光輝は長めの溜め息を返事代わりにして、教科書をロッカーに取りに行った。 (そういえば、皐月はミラについて何も質問してないな…) ロッカーから教科書を取り出すと、急に教室の喧騒がなくなったことに気づいた。ハッとして振り返るとそこにはミラの姿はなかった。 急いで自分の席に駆けつけると、数人の生徒が状況を説明してくれた。 「柳田がミラ捕まえてどっか走ってったぜ」 (もうすぐ授業が始まるぞ…皐月…?何をしてる…?) 光輝は廊下に出て皐月とミラを探しに、走っていった。

我が愛しの殺人鬼

 帰宅して玄関を開けると、彼が見知らぬ男を殺したところだった。 「千加……俺、やっちまった」  ああ、やっぱり。  いずれこうなると思ってたんだ。  前から、気になっていた。  彼は普段はとても優しいけれど、一度頭に血が上ると、衝動的な行動に出ることがちょくちょくあった。 「急にベランダから、部屋に入ってきて・・・誰だって言ったら、お前こそ誰だ、千加はどこだなんて言うから」  部屋はだいぶ荒れていた。取っ組み合った末に相手を押し倒したら、後頭部にテーブルの角がぶつかったらしかった。 「千加の部屋だと知って侵入してきたんだって考えたら、つい、カッとなっちまって……」  そうだ。  彼は、私のことになると、特に沸点が下がるのだ。  私が道ですれ違いざまにぶつかってよろめいたら、相手に殴り掛かりそうになって、必死で止めたこともあったっけ。 「ごめん。ごめんな、千加。ずっとキレやすいところ直せって言われていたのに。こんなことになっちまって……」 「惇也」  膝をついて打ち震える彼に、私は声をかける。 「いいの、惇也」  私のため。  彼が罪を犯したのは、結果的にそうしてしまったのは、私に危険が迫ると思ってのことだ。 「ごめんね。ありがとう」  私は、放心しかけている惇也に寄り添い、その身体を強く、抱きしめた。  ★  これは、夢じゃないのか。  留守番を頼まれた千加の部屋に、突然男が侵入してきたのも。  その怪しい男ともみ合いになり、自分が手にかけてしまったのも。  いくら不法侵入だったとはいえ、取り返しのつかないことをしてしまった俺を、千加が受け入れてくれたのも。  全部が全部、突然のこと過ぎて、整理がつかない。  ……目の前で今、千加が手際よく、証拠隠滅に励んでいることも。 「あっ、惇也は座ってていいよ。ごめんね、疲れちゃったでしょ、ゆっくり休んでてね」  千加はひとしきり俺のことを抱きしめた後、すたすたとウォークインクローゼットを開け、その奥の一見何もない壁を、ぎい、と開けた。  その隠しスペースには、ナイフ、ノコギリ、ピストルと銃弾、何かの薬品、その他もろもろのありとあらゆる凶器が、ゴロゴロと詰めこまれていた。 「このままだと大きすぎるから、まずは適度な大きさにバラして、それから●●したあとに●●して、あっ、その際●●しておくとね、臭いも抑えられるからさ。これが素人には真似できないポイントなんだなっ」  まるで料理の手ほどきをしているみたいに、千加は淀みもためらいもなく喋りながら、常人では腰が引ける作業を、てきぱきと進めていく。 「千加、お前……」 「うん、実はさ、私の職業今まで言ってなかったけど、殺し屋なんだよね」  殺し屋。  うん、初耳だな。 「私、人殺すの好きだし、それでお金もらえるなんて天職だなーって思ってたんだけど」  そんな、『花が好きだから花屋になった』みたいなノリで言われても。 「最近、うっかり仕事を楽しみすぎて、つい、必要以上に殺しすぎちゃってさ。頭に血が上っちゃうと、ダメなんだよねー」  そうか、ある意味似た者同士だったんだな俺たち。 「だからたぶん、組織から警告するために来たんだと思う、この人」  ほら、ここに黒い蝶のタトゥーがあるでしょと、千加はひょいと切り離した左腕を持ち上げて、手首を指さしてみせる。ああ、うん、そうなんだ。へえー。 「よかった。惇也にずっと隠してたから、罪悪感があったの。……本当のことを話したら、嫌われちゃうんじゃないか、って、さ」  少し言葉を詰まらせながら、千加は、寂し気に目を伏せてみせる。  あー、ごめん、ちょっと俺まだ混乱してて、その感傷についていけてないんだけど。 「だから、嬉しいんだ。惇也が、秘密を共有できる人になったから。こっちの世界に足を踏み入れてくれたから」  ああ、そうだね、俺も人殺しの仲間入りだもんね。  踏み入れようとして踏み入れたんじゃないんだけどね。 「それに、私のことを想って殺ってくれたなんて。……改めて、惚れ直しちゃったよ?」  手に真っ赤に染まったノコギリを持って言うセリフじゃないよ、とは、とても言えない。 「たぶん追手が来ると思うから、手早く処理を終えて、身を隠さないとね。大丈夫、惇也はまだ初心者だから、私が尾行のまき方、気配の消し方、暗殺の手管、いろいろ一から仕込んであげるからね」  ……これは、夢じゃないのか。  鼻歌を歌いつつ張り切って証拠隠滅に精を出す恋人の姿を見ながら、俺は、急に目の前に広がりつつあるアクション&バイオレンスな未来と、千加が初めからこういう展開になることを見越して俺に留守番を頼んだ可能性について、ぼんやりと思いを巡らせるのだった。

Prologue

私が物心着いた時にはいつも片手には絵本を持っていた。必ず外出する時にはお気に入りのリュックに一冊、たまに二冊入れていた。 小学校に上がると図書室に入り浸るようになり、卒業までにはほぼ全ての本を読み終えていた。 中学生に上がるとお小遣いが増え、そのほとんどを本に充てた。家には小さな図書室が出来た。 そして高校生となった今、小説を書くようになった。 しかしどうしても話がまとまらない。ネタはたくさん思いつくのに何故か物語にならない。 どうしても長文を書こうとすれば話の辻褄が合わなくなり何度も筆を置いた。 そんな中、小説を書くことと並行して行っていたのは、小説サイトを漁ることだった。 私と同じ趣味で書いている人がどういった作品を書いていたのか気になっていたからだ。 「うぅ、……グス、」 どれも良い作品ばかりで涙脆い私は、色んな人の小説を読んで何度もスマホ画面が涙で見えなくなるほど感動する小説もあった。 私はたくさんの作者に嫉妬もしてきたし、何度も才能の無さに諦めようと思ってた。 そんな中たまたま見つけたのは上限二千字の投稿サイト、『Prologue』だった。 これなら話もまとまるし、辻褄が合わないことだってないかもしれないと思って早速投稿してみた。 何度も読み返して辻褄が合っているか確認したし、おかしな文章だって使わないように気を使った。 物語の描写が繊細に、且つ鮮やかに想像できるように出来るだけカタカナも使わずに書いたつもりだった。 それでも投稿した後に何も通知が来ないのが怖かった。もしかしたら、誰も読んでくれないのかもしれない、駄作だったのかもしれない。そんな不安が心を蝕んだ。 今のこの時間が、とても怖くって何度も作品を消そうと考えたりしていた。 そんな時に通知が来た。なんと先程投稿した作品にいいねが付いたようだった。 思わず部屋のベッドに飛び込んだ。ニヤニヤしながらお知らせのページを見ていたら、また通知が来た。 先程いいねをしてくれた人がコメントをしてくれたみたいだった。 『これが初投稿だなんてビックリしました!小説の中の物語に入っていたみたいに繊細に描写が浮かんできました!応援してます!』 その人にフォローもして頂いた。 本当に嬉しかった。自分が満足できて、読んでくれた人にも認めてもらえて、心が満たされた。 「次も投稿してみよっかな、」 私の背中を押してくれたのは、私の小説人生を変えてくれたのはPrologueだった。

ぼくの心には穴があいている

 違和感を感じたのは小学生の頃。  皆が夢中でカードゲームにとびつく中、ぼくは一切の興味を引かれなかったとき。  その時は、まあ好きなものは人それぞれだしなーと思いつつ、クラスの話題がカードゲーム一色になったので、しぶしぶぼくも始めた。  勝敗を競うのに、なぜわざわざカードを使うのか、勝敗を決めたいならじゃんけんでいいだろうという思いはぬぐえなかった。   「男子何やってんのー?」   「ああ、ごめんね。今は――」    ぼくと同じく、男子のカードゲームへの熱中を理解できない女子への対応の方が、なんなら楽しかったくらいだ。    確信したのは高校生の頃。  男子も女子も、話題の中心を恋愛話に移す。  誰が格好良くて、誰が可愛くて、恋人にするなら誰がいいか。    ありがたいことに、ぼくは恋人にしたい男子のトップ5に入っていた。   「お前、めっちゃ気ー使えるもんなー」    同級生の男子は、ぼくのトップ5入りをこう評価した。  それについては同感だ。  小学生の頃から仲間はずれにならないために、相手の話題に乗る技術だけを高めてきた。  相手は何を求めているのか、何を言えば喜ぶか。  結果それは、恋愛というフィールドにおいて、有効な武器となっていた。   「ずっと好きでした! 私と付き合ってください!」    高校三年生の卒業式。  小学生からずっと一緒の女子に告白された。  呼び出された校舎裏は、ぼくと目の前の女子、そして女子の友達だろう複数人からの視線だけがある。  静寂がぼくの言葉を待っていた。    ぼくは、目の前の女子に対して恋愛感情はない。  カードゲームへの熱中が理解できなかったように、恋愛感情も理解できなかった。  全員平等に、人間にしか見えない。  だから、ぼくの答えは決まっていた。   「実はぼくも、ずっと好きでした」    実は子供のころから両想いだったという、目の前の女子が思い描く最高の結末を与えること。  目の前の女子は顔を赤くしてボロボロと泣き、数人の女子が駆け寄ってきた。   「よかったねー!」   「ずっと好きだって言ってたもんねー!」   「絶対うまくいくと思ってたー!」   「おめでとう!」    さて、付き合うとは何をすればいいのだろうか。  ぼくは抱き合う女子たちを見ながら、そんなことを考えていた。        大学生になった。  ぼくの彼女の恋人生活もスタートした。  ぼくと彼女の通う大学は違ったが、幸い距離が離れていなかった。  少しでも会う時間を増やしたいという理由で、彼女はぼくの大学の近くにアパートを借りた。  彼女の通学時間が増えていたが、彼女は気にしてなさそうだった。  むしろ、ぼくと会える時間が増えて幸せそうだった。    ぼくもやることはわかっている。  彼女の好きな場所も、好きなことも、ちゃんと知っている。  公園デートをして、喫茶店デートをして、水族館デートをして、おうちデートをして、彼女のニーズを満たしてきた。    彼女も喜んでいたし、ぼくの気を使う能力は恋人相手にもいかんなく発揮された。  そう思っていた。   「ねえ、私といて……楽しい?」    だから、ベッドの中で、そういわれた時には驚いた。   「どうして?」   「だって……私、あなたが心から楽しそうに笑っているところ……見たことがないもん」   「へ?」    そんなことを言われたのは初めてで、ぼくは混乱した。  ちゃんと笑うべき時には笑っていたはずだ。  ちゃんと喜ぶべき時には喜んでいたはずだ。  朝も昼も夜も、ちゃんと。   「さっきの質問……答えて?」   「…………」    ぼくの無言を彼女はどう受け取ったのか。  彼女は無言で立ち上がって服を着る。  そしてそのまま部屋を出ていった。       『しばらく、一人で考えさせて』        彼女から届いたメッセージに、分かった以外の回答はできなかった。    ぼくの心には穴があいている。  ぼくには熱中も夢中もない。  好きだ嫌いだの世界ではバレなかった。  しかし、恋愛という複雑な世界では、ぼくの穴がバレたのだろう。    そう言われても、わからないものはわからないのだ。    この穴を埋めて、ぼくの心に感情を溜める方法が。        初見のバーでカクテルを飲みながら、たまたま居合わせた女性客からのアプローチを受けている時、彼女からのメッセージが届いた。

本が泉の中に落ちたー!

 男女二人が道を歩いていた。  男はこけた。  こけた拍子に、手に持っていた本を放してしまった。   「大変だ! 高価な本が!」   「大変よ! 高価な本が!」    本は近くにあった泉の中へドボンと落ちた。   「大変だ! 高価な本が泉に落ちてしまった!」   「大変よ! このまま高価な本が沈んじゃうと、高価な本を買いなおさなくちゃいけなくなるわ! 貴方のお小遣い三か月分カットして!」   「え?」    本はブクブクと泉の底へと沈んでいく。  男女は本がブクブクと沈んでいく泉を見つめる。  すると泉は突然光り、泉の中から女神様が現れた。   「泉の中から私の妻より美しい女神様が現れた!」   「泉の中から私より美しい女神さまが現れ……おいてめぇそこになおれや!!」    泉の中から現れた女神様は、右手にとても高価な本を持っていた。  泉の中から現れた女神様は、左手にとてもとても高価な本を持っていた。  泉の中から現れた女神様は、口に高価な本を咥えていた。   「待って、私たちの高価な本を咥えてない?」   「待って、私たちの高価な本を咥えてない?」   「ふぁふぁふぁふぁふぁふぁふぉふぉふぃふぁふぉふぁ」   「聞き取れません女神様」   「聞き取れません女神様」    女神様は口を開く。  女神様の開いた口から本は落ちず、ふわりと浮かんで女神様の頭上に移動する。   「あなた方が落としたのは、こちらのとても高価な本ですか? それともこちらのとてもとても高価な本ですか?」   「いいえどちらでもありません。私が落としたのは、女神様の頭上に浮かぶ本です」   「いいえどちらでもありません。この馬鹿が落としたのは、女神様の頭上に浮かぶ本です」    男女は正直に答えた。  女神様はニコリと微笑んだ。   「あなた方は正直な人ですね。正直なあなた方には、あなた方の落とした『夫の浮気の証拠写真が挟まった高価な本』だけでなく、とても高価な本ととてもとても高価な本を差し上げましょう」   「ありがとうございま……女神様あああ!?」   「ありがとうございま……すみません女神様、詳しくお願いします」    男女は無事に、高価な本と、とても高価な本と、とてもとても高価な本を手に入れた。       「このクズやろー!!」   「ぎゃあああ!?」    女は男を蹴り飛ばした。    男は近くにあった泉の中へドボンと落ちた。    男はブクブクと泉の底へと沈んで……いかなかった。   「助けてくれー!?」    男は必死に手足をばたつかせた。  男は必死に沈まないようにした。  女はその場を立ち去った。   「誰かー!?」   「反省してるー!!」   「もう二度と浮気なんてしないからー!!」    泉の底で、女神様は男の全身が沈む時を、今か今かと待っていた。  泉の底にいる女神様は、右手に絶対浮気をしない男を持っていた。  泉の底にいる女神様は、左手に絶対絶対浮気をしない男を持っていた。  泉の底にいる女神様は、口をあんぐり開けていた。

ある家族

張り込み中の車内。 若い刑事が相棒の、老齢の刑事に退屈しのぎをお願いした。初めは気が進まない様子の老刑事も、「その熱意はよそで使え」と言うほどに諦めない若い刑事に根負けした。 「……ある家族の話をしよう」 監視対象の一室から目を離さずに、老刑事は口を開いた。その声色に混じる『苦さ』を、この若い刑事は感じ取れただろうか。 「一家は両親と長男、次男の四人家族。祖父母との同居は無し。近所付き合いも悪くなかった」 前置きとして情報を並べていく。 「子供二人は年齢差が八年と、比較的大きいが、それが逆に良い方に作用したんだろうな。長男は次男を猫可愛がりしてたそうだ」 老刑事は自らの顎をさする。じょり、と伸びた無精髭が、乾いた指先をこすった。 「両親は兄弟両方を大切にしていたが、やはり末の息子はとりわけ可愛いらしく、長男も混ざって次男を取り合いするくらいだったそうだ」 老刑事はそこで言葉を止めた。喉が乾いて、咳払いを一つ。聞き入っていた若い刑事が、すかさずペットボトル入りの飲み物を差し出す。黙って一口飲んだ老刑事だったが、顔をしかめた。 「なんだこのくそ甘いのは。コーヒーはねぇのか、コーヒーは」 「いや、コーヒーはトイレが近くなるって言われたので。それに先輩もそろそろ……」 突っ返された飲料をドリンクホルダーに立てながら、若い刑事が反論する。 「おい、若造。人のシモの絞まりの心配する前に、『社会の窓』を閉じな」 老刑事が年寄り扱いされた事に舌打ちして、お返しとばかりに相棒の股間を指差す。若い刑事は『社会の窓』という言葉にピンとこなかったが、指を差されて気づき、ジッパーを閉めた。これがジェネレーションギャップというやつか。 「どこまで話したっけな。……ああ、家族仲が良かったってとこか」 自らのこめかみを指先で、とんとん、と叩いてから話の軌道を戻す。 「長男が大学へ進学して、初めての夏休みに事は起こった。次男が行方不明になったんだ」 若い刑事が息を飲んだ。さきほどのふざけたやり取りとは明らかに違う、老刑事の低められた声と、語る出来事に。 「帰省していた長男も、両親も半狂乱で探したよ。我々も動いた。事件事故両面から、ってやつだ」 よく聞くだろ、と付け加え、顔をしかめつつも甘い飲み物で喉と舌を潤す。 「一週間後だ。見つかった。……遺体でな」 若い刑事はわずかに後悔した。暇潰しに聞くには重すぎる。 老刑事は相変わらず対象に目を向けながら、一本いいか、と断りを入れてから煙草に火をつけた。窓も開けて。ふぅ、と煙を窓の外に吐く。 「こう言っちゃなんだが、事故ならまだ、家族も諦めがついたと思う。だが……」 ちりり、と煙草が燃える。 若い刑事にも察しがついた。他殺。 「今度は犯人探しだ。俺はこの目で初めて見た。善良な市民の目が、憎しみに濁る、その瞬間を」 ごくり、と若い刑事が固くなった唾を飲み込む。 「再三の、我々に任せてくれという言葉にも彼らは耳を貸さなかった。まあ、気持ちは解る」 老刑事は煙草を持つ手を、窓の外に突き出して続ける。 「しかし遺族一家が急に姿をくらました。住居を引き払って。信じられるか? 犯人と一緒に遺族一家を探す羽目になったんだ」 小さく首を横に振って、自嘲めいた薄笑いを浮かべた。 「で、だ。一報が入る。捜査本部に、ある男の情報がたれこまれた、と」 老刑事が根本まで燃え尽きた煙草を灰皿に押し付けた。 「顔写真、年齢、住所、凶器など無数の証拠品。あとボイスレコーダーが送られても来た。一人の中年男の自供だ。悲鳴混じりの。次男を誘拐して殺した、という、な」 若い刑事はいよいよ強く後悔し始めた。だがもう引き返せない。 「当然遺族一家が疑われた。まあ、こっちはすぐに見つかったよ」 今度は断りを入れずに二本目に火をつけた。 「新しい住所に令状を持って踏み込んだ」 ここで初めて老刑事は若い刑事に視線をやった。 「そこで、見つけたんですか? その……死体を」 言いよどみながらも、若い刑事は尋ねた。今やすっかりこちらの喉がカラカラだった。 「ああ。見つけた」 老刑事はあっさり頷いた。 「一家は逮捕された。殺人で」 若い刑事の片眉が跳ねた。 「傷害致死ではなく?」 この二つは大きな違いがある。若い刑事は首をひねる。 「良いぞ。よく気づいた」 煙草をことさら強く吸い、長く煙を吐いた。 「そこで見つかったのが中年男の死体なら良かったんだ」 「え?」 意味が急に解らなくなって、若い刑事が反射的に聞き返す。 「男の死体は別の場所で見つかった。執拗な拷問を受けて」 くしゃり、と煙草が灰皿で潰れる。 「家で見つかったのは近所の奥方だった」 若い刑事の背筋に寒いものが走る。 「きっと『クセになった』のさ」

私は生きる。どんなに苦しくても

「いらっしゃいませー」   「ありがとうございましたー」      今日も一人コンビニにてお酒とおつまみを買い帰路につく。私はこの時間がお酒と戯れる時間の次に大好きだ。家と会社の時間は片道徒歩で一時間。近いという訳ではない。行きはバスで向かうほどだから。しかし、帰りは雨の日でも歩いて帰る。これが私のルーティンのようなものだ。その理由はいくつもある。疲れているのに人が多い覆われたものに乗りたくたい、ダイエットなどなど。しかし、一番はやっぱり夜の美しい景色を眺めながら涼しい風にあたり歩いたことによって疲れた体に氷を入れたコップに注いだお酒を飲む。それが至福の時間だから。何もかも忘れることができ、嫌なことがどうにでもよくなり、明日からの憂鬱なことを考えることもなくなる。お酒に身を任せることでそんないいことがある。だからお酒と関係は変えることができない。  こんなことを思っている時点であまり良くないことは分かっている。もっと、色々な人と社会と交わったことが良いことも分かっている。母親にだって電話のたびに 「人との関わりは大事だよ。」  と言われる。そんなことは私でも分かっている。しかし、  人間が怖い。  怖いんだよ。   だから関わろうと思ってもなかなかそれを行動に起こせない。けどそれを後悔はしない。一人でも十分だから。逆に一人の時間がないと窮屈だとすら思ってしまう。  これを人に言ってしまえばそれは自分に言い聞かせてるだけだよとか言われそうだけど、そんなことはない。    仕事で    人間関係で    嫌なことがあっても  苦しくて    悲しくて    キツくて    死にたくて    それでも私は一人で生きる    月夜に照らされながら。    お酒に身を任せ    涙を流しても    強く  強く

無駄死に。

「お前の願いを叶えてやる。その代わり──」 僕がこの物語を通して君たちに伝えたい教訓は、たった一つだけ。改めて、虫のいい話なんてのは全くの嘘である事が大半で、そんなものには、決して騙されないで欲しいということ。それだけだ。もし、仮にそんな虫のいい話があったとしても、人間が人生に得る運なんてのは皆横並びに平等なのだから、得を重ね続けた人間は比較的近いうちに朽ち果てるに違いない。この事を踏まえ、何か決断する時には、一度冷静になって考え直して欲しい。 命の契約に冷却期間なんて、当然ないのだから。 「いい加減にしてくれよ。もう我慢ならないから、クビね。明日から来なくていいよ」 人生を振り返ると、こうもまた虚しい気持ちになるのは何故なのか。大学受験に失敗し、特に宛もなく親の脛だけを齧って生きていたものだから、当然両親には勘当され、為す術もなく、フリーターとしてアルバイトに勤しみ、何とか食い繋いできた。 しかし、それも今日をもって終わり。 「早く楽になろう」 気付けば目下には飛沫を上げて流れる川。まるで三途の川を表しているかの如く荒々しい。渡し賃と言える程の金はもう既に持ち合わせていないが、果たして地獄まで渡らせて貰えるのだろうか。いや、何も舟で行かずとも、泳いで行けば良いではないか。今までの人生から見たら、肉体的苦痛など大分楽なものだろう。 「いいや、泳ぐのはお勧めしないぜ。飲みでもしたら、何もかも忘却しちまうらしいからよ」 ふと思いがけず、見知らぬ男にそう諭され、一度は驚いたものの、なぜか冷静さを保ったままこう応えた。 「良いんです。こんな記憶、葬り去ってしまった方が来世を楽しめますから」 「おいおい、こんな所で無駄死にするなよ。な、兄ちゃん。良い話があるんだ、死ぬ前に聞かねぇか?」 死人に口なし。生きている間に人と話すことができるのであれば、例えそれが誰であったとしても、今の僕には嬉しかった。 「いいですよ。冥土の土産に」 「俺はな、悪魔なんだ。悪魔だから何でもできるぜ、兄ちゃん何か欲しいものあるかい?」 己の命を擲つような奴は子供騙しに引っかかる、とでも思われているのだろうか。そう考えると無性に腹が立ったが、それも全て無駄だ。今の僕には、彼の言うことを聞くより他に選択肢はない。 「はぁ、そうですね。やはり泳ぐのは嫌ですから、銭貨を六枚頂けますか?」 「お易い御用」 そう言って音が指を鳴らすと、次の瞬間、彼の右手にはしっかりと六枚の小銭が握られていた。 「なかなか凄いマジックですね。死ぬ前に良いものを見ました」 「あぁーもう、わかったわかった。わかったって。単刀直入に言う。お前の願いを何でも叶えてやるから、死ぬなんて言うなよ」 「はぁ。自殺志願者を騙して悦に浸るのはどうかと思います。『何でも』と仰いましたね?それは、今すぐに僕が生活に困らないだけのお金を用意して欲しい、と言って、それも可能ということですか?」 「もちろんさ。口座、確認してくるか?」 そう言われるや否や、僕は橋の上を後にした。嘘に決まっていると思いながらも、死ぬ間際に藁にもすがってしまった自分が恥ずかしい。 「あぁ、あと。お前が無駄だと思ったもの、全部代わりに貰っといてやるから!」 走り去る僕に、男はそう言い放った。すぐさま先程まで勤めていたコンビニへと駆け込み、ATMで残高を確認した。クビにされたばかりの場所に戻るという行為に気が引けるなどと考える理性は既になかった。 「なっ、一億...」 そこには確かに、そう記されていた。先刻まで六銭などという端金を所望していた自分が愚かだと思えてしまうような、膨大な額が、そこにはあった。 それからは早かった。欲しいと思うだけで、好きな額が手に入る。豪遊に豪遊を重ねた。今までの労苦が報われたのだと思った。彼の言うように、無駄だと思ったものはすぐに消える。これを利用し、紛争、差別、汚染、諸悪の根源を全て無駄だと思った。すると次の日には、それらは跡形もなく消えている。誰も僕の影響だとは知らないものの、一人、英雄として優越に浸るのもなかなか悪くない。 しかし、僕はすっかり忘れていた。彼が何を隠そう、悪魔であったということを。 世界の全てを手に入れた僕に、もう欲しいものなどなかった。刹那、自らの財産を無駄だ、と無意識下に思った時にはもう手遅れだった。手元には、一銭の金も残っていない。跡形もなく消えてしまった。数日前、悪魔と出会った日と何一つ変わらぬ状況に引き戻されたのだ。 あぁ、騙された。復讐しようにも、彼の所在は分からない。その上、対抗し得る手段など、もう持ち合わせてなどいない。 僕は心底絶望した。 ──そして、己の人生を無駄だと思った。

小説を読んでもらうことにしました

 椅子に腰かける私と、人をだめにするソファーで横になる夫。今日は金曜日の夜です。夫は身体をソファーに預けて、まったりと横になっています。私は試しに、夫に自分の書いた『鈍感な君に送るラブレター』を読んでもらうことにしました。読むこと数分……。夫が目線を上げました。 「どうだった?」  私の問いに、夫はうーん、とはっきりしない返事をよこしました。 「ハッキリ言っていいよ」 「……いや、すみれがこんな文章書けるなんて思わなくて感動した」 「そこなの?いいよ、ハッキリ言って」 「じゃあ……まず、情景が見えてこないんだよね。男の子が小説を書いてるのは分かるんだけど、具体的な描写がないから分かりづらい」 「確かに」 「それから、女の子と男の子について言及があまりないから、どんな人間かが分からないよね。幼馴染で、女の子の方はモテるって書いてあるけど、どこが魅力的なのかがよく分からない。男の子だって、あまりいけてないのか、それともそこそこのイケメンなのかも分からない」 「ふむふむ」 「男の子が女の子のどこが好きなのかも分からなかったな」 「なるほど……」 「ラブレターの冊数が増えたとかじゃなくて、二人の馴れ初めを書いた方が良かったんじゃない?」 「確かに……!」 「全体的に淡々としていたよね」 「あー、それはよく分かる。私も感じてた」 「二人の他に引き立て役がいるといいんだけど」 「二千字で書ききれなかったのよ」 「そこを入れるのが実力でしょ」 「うう……確かに……」 「淡々としていると読者は飽きちゃうよね」 「そうだね」 「展開を早く持って行った方が読者は飽きないよね」 「うん」 「最後に視点が切り替わるけど、不自然すぎて読み返しちゃった」 「なるほど……」 「……タイトルと一行目にインパクトがあるといいんだけどね」 「うん、それは……そうだね……」 「最初の三十秒で読者を引き込むようにすればいいんじゃない?」 「仰る通りです……」 「膨らみや深みを持たせる設定を考えるように意識するのが大切じゃない?」 「そうなんですよね……分かります……」  夫は一通り喋った後に、私に笑いかける。 「俺は小説読まない人だから。参考にならなくてごめんね」 「いや、十分すぎるほど参考になるんだけど?!」  課題は山盛りなのだと理解しました。応援しているよ、と言う夫に私は口角を引き攣らせながら、ありがとうと返します。頑張ろう、私。まずは基本に立ち返って小説をどうやって書いたらいいのか、ハウツー本を読んでみることにしました。

毒に侵される

 幼馴染の此奴は、昔から声だけは良かった。 「ねえ、どこ行くの」  鼓膜を嘗め回すような低く粘着質な声に、ゾワリと鳥肌が立つ。  目が隠れてしまうほど長く重苦しい前髪。隙間から覗く目はこちらを強く睨んでいる。非難するような眼差しに、私は苛立ちを隠すことなく言い放つ。 「どこへ行こうと私の勝手でしょ」  横を通り過ぎようとすると、手首を掴まれる。そのヒョロい身体のどこにそんな力があるのだろうか。此奴は腕を引き寄せた。強い力に抗えず、私は此奴の胸に収まってしまった。まるで檻のように、此奴の両腕が私を囲う。 「ダメだよ。今日は僕と一緒にいなきゃ」  耳元で囁かれる声は毒のようだ。じわりじわりと身体が火照ってゆくような気分に陥る。此奴の手がくびれをゆっくりと撫でる。幾度となく『躾』と称して痛めつけられた身体は、それだけでも快感を拾い上げてしまう。私は悔しくて、俯いて快感をやり過ごそうとする。けれど此奴の手が私の顎を掴み、上へと向けられる。晒された私の上気した顔。此奴は満足そうに口元を吊り上げた。 「可愛いね。僕のゆりな」  もっと僕に可愛い顔を見せて。  耳元で囁かれる毒。既に毒の回った身体では抗うことなど出来ない。私は此奴の部屋で、今日も毒に縛られ動けずにいる。

最近の若者は

「最近の若者は」  何だろう。最近やたらと言われる。  じゃあ言わせてもらうけど、最近の年寄りは何なのよ。 「はああぁ」  思わず、盛大なため息をつく。  自分が電車を降りたばかりだということもつい頭から抜け落ちていて、あわててあたりを見回す。  大学生らしきおしゃれな男の子とすれ違いざまに目が合う。相手は気まずげにさっと視線をそらすと、ホームの階段を駆け下りていく人波へと消える。  ちょっとかっこよかった男の子だっただけに、聞こえたであろう自分の大きなため息を思い出し、またため息をつきそうになる。何ならため息どころか、うなり声が出そうだ。  何で、わたしばっかり。  理不尽じゃない!  ここに空き缶でも転がっていたら、人目も、履いているヒールもかまわず、蹴り上げてやっただろう。  この苛立ちの原因は、つい先ほど乗っていた電車の中での出来事にある。  車内では、わたしと同じ二十代前半と思われる女の子たちが、盛大にしゃべっていた。話しがだんだん盛り上がるにつれ、ボリュームが上がる彼女らの声に、乗り合わせた乗客たちは眉をひそめ、ちらちらと不快感をにじませた視線を送る。でも彼女たちはまったく気づく素振りもなく、たっぷり五駅分はおしゃべりをして、何事もなかったかのように降りていった。  やれやれ、と思ったのもつかの間、彼女たちとわたしの近くにいた初老の男性が、キッとわたしをにらみつけると、 「最近の若いもんはなっとらん!」  と吐き捨て、閉まりかけたドアから降りていった。  あっけに取られながら、はっとあたりを見回したときには、先ほどの騒ぎの原因はわたしだと勘違いされたような空気になっていた。  いたたまれず、逃げるように隣の車両へ移動し、次の駅である会社最寄り駅に電車が停まると急いで降りた。  そして盛大なため息を吐けば、すれ違いのざまのイケメンに白い目で見られるという、踏んだり蹴ったりだった。  苛立っている気持ちを無理やり切り替えると、わたしは、駅の改札を抜けた。  本当なら休日のはずの土曜日。  しかし今朝方、会社の大口の取引先でトラブルがあったらしく、急きょ部内全員に呼び出しがかかり、対応に当たることになったのだ。今年入社したばかりのわたしが即戦力になれるわけもないが、商品を運ぶ人手が必要になるかもしれないと言われれば、承知しました、と答える以外にない。  最近の土日は、遊びに出かけることも少なくなった。平日の仕事で疲れ切ってしまうためだ。  ほぼ毎日、夜遅くの帰宅になるので、社会人スタートとともにはじめたひとり暮らしの家事は、まとめて休日に片付けるしかない。それだけで疲れてしまい、土日にどこかへ遊びにいくような元気は出るはずもなかった。  だから親友からの誘いも断ってばかり。それがまたもうしわけなくて、自己嫌悪になる。   街中を見回せば、それぞれの休日を楽しげに過ごす人たちの笑顔ばかりが目につく。  その人波をかき分けながら、わたしは小走りで会社へと向かった。 「やっと帰れた」  へとへとになりながら、夜遅く家に着いたわたしは、倒れ込むようにベッドへダイブする。  朝からひどい一日だった。  思い出すと、よけいにムカムカしてきた。  とくに今朝の電車で八つ当たりをしてきたじいさんの顔が、まっ先に浮かぶ。 「そうだ!」  わたしは起き上がると、バッグからスマホを取り出す。 「ツイートすればいいじゃん」  このイライラは、ツイートで解消してしまおうと思った。  同じように理不尽を感じている人も大勢いるはず。  ついさっきまでの疲労は忘れて、わたしはいそいそとスマホを操作しはじめる。  と、ふいに手が止まる。  ちょうど投稿されたばかりの一件のツイートが目に入った。 『最近の若者は……』  ではじまるツイートに、思わず、どきりとする。  いままさに、自分は『最近の年寄りは……』という愚痴をツイートしようと思っていたところだったからだ。  投稿されたツイートの続きを読むと、 『最近の若者は、こんな素敵なお洋服を勧めてくれました♪  思い切って買ってよかった! 同窓会ではたくさん褒められました』   添付された画像に映っていたのは、同窓会と思われるホテルの会場をバックにした、五十代くらいの穏やかそうな女性だった。  女性が着ていたのは、淡いグレー地にほのかにラベンダー色の濃淡がミックスされた上品なワンピースだった。襟元は、パールを花柄にあしらったブローチで飾られていて、女性の顔まわりを明るく見せていた。  華やかさもありながら、かわいらしさもあるその装いは、女性にとても似合っていた。  しばらく眺めたあと、わたしはツイートを取りやめ、別のメッセージアプリを立ち上げて、親友にメッセージを送った。 『明日、買い物に行かない?』

千の訣れ。さらば

 芒を掻き分け、するり、するすると一匹の蛇が這う。するり、するする。  もうすぐだ。ああ、あの石を過ぎればもうすぐだ。逸る思いで這い急ぎながら、天空の満月を仰いだ。  突如として芒野原を越えブワッとひらけた空間には、広々と湖が敷かれていた。まだ居ないのか。ああ、早く来ないものか。  落ち着きなく岸を行ったり来たりしつつ、水面に割れる満月を見て、まるで自分のようだと蛇が思った時、凪いでいた湖の中心でぷくりと一つ、泡が立った。  いた。目ざとく蛇はそれを見逃さなかった。やっとまた逢える。  ぷくり、ぷくり。いくつもの波紋が生まれる水面が大きくうねりをあげた。夜の湖畔に水が破られた轟音が響き渡る。  蛇は恍惚と見上げた。雫を滴らせる老樹のような影。「ここだ。ここにいるぞ」小さな蛇は力の限り自分の居場所を告げた。  湖をゆったりとこちらへ向かってくるのは、大きく立派な竜である。 「お前はどこにいるんだい、よく見えないよ」 「いつもの石の上だ」 「……ああ、いた。見えたぞ」  岸辺に着いた竜は墜落させるようにその巨頭を蛇の石の横へと降ろした。 「先の満月は曇りでお前がよく見えなかったが、今夜はよく晴れているね。見事な月よ」  側で鳴る竜の声はまるで地鳴りを彷彿とさせる。蛇の全身にはいつも圧迫感が襲う。 「俺はいつだってアンタがよく見える」  それはそうだ。クスクスと竜が笑えば、芒野原の音がする。  竜の言う通り、今夜の月は白く美しい。  月明かりはしっとり濡れた竜の毛並みを艶めかしく光らせ、豊かな眉毛の奥に隠れる瞳を輝かせる。そんな竜の姿を眺めれば、いつも蛇は思う。 「俺もアンタのようになれたらなぁ」 「詮無いことを言っても仕方がないよ。お前は蛇なのだから」  竜は優しく答えた。 「せめてうわばみにでもなって、アンタと並びたいものだ……」  すると、眉毛の向こうから慈しみの籠もる瞳で見つめられた。その視線だけで、今夜の全てを得た心地になる。 「あんなものになっては、お前のその綺麗な白い鱗がなくなってしまうよ」  私はお前の白さが好きだ。  羨望、失意、誉れ。白蛇は胸いっぱいになる。 「そうかい。アンタが言うのなら、この体も悪くないな」 「そうとも。竜でいるのも考えものだよ」  ――永い時間をかけ鮮麗され続ける美しさの中で唯一、綻びの浮かぶ二本の角だけが、竜と共に悠久の流れを生きていた。 「お前と逢う夜は、いつでも月が出ていればいいのにね」  竜の独り言を蛇は怪訝に思った。 「アンタは竜だ。雲を操ることもできるだろう」 「私に出来るのは雲を呼び込むことだよ。そして雨を降らせ嵐を起こす。最も、久しくそんなことをしてないがね」 「どうしてだい」 「歳のせいかね。『雨を司ることを忘れた時、竜は翔ぶことも忘れる』と昔教わったよ」  芒が風に鳴く。 「翔べないのかい」 「ああ……」  直に冬が訪れる。 「そういえば、お前ももうすぐ土に潜る頃だろう。支度は済んでいるのかい」 「そんなものいつだって出来るとも。心配することはない」 「冬を侮るのは感心しないね」 「アンタこそ、氷が張れば顔も出せまいて」 「私は大丈夫さ。いざとなればこの角で叩き割ればいいのだからね」  何度もそんなことをしてきたよ。この湖でね。水面に写る満月は、昔から変わることなくそこにある。  ―― 「さて、そろそろ暁月だよ」 「そのようだな」 「おやすみよ、白蛇」 「ああ。おやすみ水竜」  再び水の底へと潜っていく竜の後ろ姿を見送る。  月だけが残った湖を、波紋が止むまで蛇は眺めていた。  ――長い冬の夜を、竜は独り過ごす。  卯月の満月。  蛇は現れなかった。  次の満月に、不審と確信を抱きながら竜は通りがかりの夜鷹を引き止めた。 「おい夜鷹」 「あら?」  夜鷹は旋回を始めた。 「水竜が話しかけるとは珍しいですね」  角の先に降りた夜鷹へ尋ねる。 「白蛇を、見てはおらんか」  沈黙の後、夜鷹は言った。 「水竜。白蛇は死んだと聞きましたよ」 「……そうかい」 「あたしもこっちに帰ったばかりでね。ごめんなさい」 「構わん。行きな……」  竜は独りになった。  月だけが言葉もなくそこにいるばかりだった。  ――俺もアンタのようになれたらなぁ。  白蛇よ、私は知っていた。お前が私を想っていたことを。私は何度もこんな訣れを越えてきた。でもね、お前ほど美しいものに想われたことはなかったよ。  竜は吠えた。  生きとし生けるもの全てを畏れさせる咆哮が、湖を駆け巡った。  竜に呼ばれて、雷鳴を響かせながら雲がやって来た。月は隠れ風が吹く。闇夜に稲妻が走り豪雨が襲う。嵐が巻き起こった。  全てを洗い流す暴風雨のなか、竜は泣いていた。そして、力の限りに翔んだのだ。

充電器の幸せ

「ねぇコンセント引っ張らないでよ」 「あ? 悪ぃな。でも俺もスマホの充電したいんだ」 「充電する時はソファーにいないでよ! 引っ張らないで!」 「うるせぇなぁ……」  コンセントがギリギリ届くソファーに寝ている俺とコンセントの近くでスマホを触っている彼女は小さな喧嘩をしていた。  こんなくだらない喧嘩を毎日と言っていいほど繰り返している。  最初のうちにはこんな喧嘩にも愛があった思う。  いつからだろうか。彼女にイラつきしか感じなくなってしまったのは……。  いつからだろうか。喧嘩の後に心に残った物が罪悪感ではなく憎悪になったのは……。  昨日までは三個穴のコンセントの一つは扇風機。後の二つは俺と彼女のスマホの充電器が埋めていた。  しかし、今は三つのうち一つだけポッカリと空いている。  多分明日も明後日もこの状態が続くだろう。彼女は戻ってこない。  なんでこれを見て寂しいなんて感情が湧いてしまうんだ……。 「たく……。これで誰にも言われずソファーで寝ながら充電が出来るな……」  二つの充電器が隣り合わせに埋まるという事は隣にもう一人の幸せがあるという証明なんだって……。 「……充電する時ぐらいはソファーから離れてやるか」  まだ隣にいた時に言ってやりたかった言葉がこぼれる。  何故だろう。あの時は憎悪でいっぱいだったはずなのに……今の俺の心は後悔でいっぱいなのは……何故だろう。

月世界競争

 中秋の名月。  雲一つない夜空を見上げると、宇宙飛行士は染み染みと呟いた。 「あともうちょっと、あともちょっとだ」  視線の先には、光り輝く満月。  そこには、どうしても会わなくてはいけない相手がいるのである。  その相手とは、彼が上京する前、まだ無垢な時代、田舎の野山を共に走り回っていた頃の友人のことだった。  彼の感覚では友人というか、腐れ縁、ライバルと言った方がピッタリかも知れない。 「アイツはあの頃からサボり癖のある奴だった。だのに僕よりも、運動も勉強も上だった」  その相手は彼にとって今も昔も手の届かない存在で、いつも一歩も二歩も先にいるのだ。  それでもその相手は「お前は俺のライバルなんだからな」と小さい頃、彼が偶々勝った駆けっこを引き合いに出しては持ち上げてくる。  真に受けた彼は、いつも気がつけばその相手の背中を追っていた。   それでも差は開く一方で、その相手は彼よりも早く、宇宙飛行士の訓練を受けて、一足先に月に辿り着いたのだ。 『お前は本当にノロマだな。でも……絶対に来るって信じているから待ってるぞ』  彼はその言葉を支えに、来る日も来る日も厳しい訓練に耐え抜いてきたのだった。  満月にその相手の影が見えた気がした。  地べたに寝転がったような影帽子。 「ウサギどん、僕はきっと追いつくよ」    ノシノシと四肢を動かすと、宇宙飛行士はロケットに乗り込んだ。  3・2・1とカウントが減っていくと、0と同時にロケットエンジンが火を噴く。  宇宙飛行士は行く、月で待つライバルの元へ。  そしてこう告げるのだ。 「僕、ここまで、死に物狂いの努力をして、やっと、やっと君に追いついたよ」と。  頑張れカメ!  負けるなカメ!   ウサギが寝ている今がチャンスだ!!

最初の言葉は「水を飲んで」だった

「もう、限界です」  私は、名前も姿も知らない彼に助けを求めた。 「水を飲んでください」  彼を知ったのは、ほんの数日前だ。 「僕と晩酌しませんか?星をくれたら、夜、迎えに行きます」  私は、お酒は殆ど飲めない。しかし、この世界では関係のないことだ。  夜、迎えに来る?わざわざ?名前も姿も知らない人と飲むために?  心の隙間から、気紛れが顔を出した。試してみたい。  私は、星を掲げると、すっかり忘れてしまっていた。 「今晩は。迎えに参りました」  本当に、来た。 「本当に、来てくれた?ありがとう。晩酌の準備をするので、先に始めていてください」  する必要もないのに、私は晩酌の準備を始めた。 「今日は、楽しみにしていたんです。おかげで、一日がんばれました」 「そろそろ切り上げます。来てくれて嬉しかったです。ありがとうございました」  私は、慌てて画面に目を凝らした。文章が、ふたつ並んでいる。  また、記憶がない。  なんで、責めないんだ。  約束をすっぽかしたのに?  楽しみにしていたのに? 「本当にごめんなさい。体調を崩してしまい、連絡出来なくなってしまいました。せっかく誘ってくれたのに、申し訳ないです」 「謝らないでください。せっかくのご縁なのに、後味悪いですよ。名前の花言葉を信じてください」 「私も今日は来てくれて嬉しかったんです。貴方は花言葉のとおりの方だと思います。素敵なご縁だと思いました。今日という一日に感謝します」  人によって苦しんでいる私は、人によって救われるのか。  今日が何日の、何曜日の、何時何分なのか分からなかった。  私は正体を無くしたまま、画面を眺めていると、見覚えのある花の名前が目に飛び込んできた。 「大丈夫。僕は、最強だなら」  酔っている。どうしよう。  話しかけて、追いかけている気持ち悪い人だと思われないだろうか。  思考が行ったり来たりしていると、手が勝手に、星を投げてよこしていた。 「、、さん?」  投げたか否か、同じタイミングで花が飛んできた。  まるで、流星のようだ。  はっとして、私は画面を見つめた。 「こんな時間から飲んでいるんですか?」 「飲んでまふ、一緒飲みまぬは」  文章、打てていないな。 「なにか、ツライことでも、あったんですか?」 「僕、がんばったんです」  言わないか。それはそうだ。私だって、言えない。 「よく、がんばったね」 「うん!がんばった」 「私も、がんばった」 「よく!がんばりました」  小学生みたいな文章が続く。彼は、お酒で退化している。私は、お酒ではないが、似たようなものだ。 「飲みたいんですけど、熱があるんです。やっぱり飲んだらマズイですよね」 「失礼しまし、それはマズイれす。熱あるなら、今日は早めに寝ますよね」 「私、甘える人が居ないんです。今日だけ、甘えさせてください」  思考が停止しているときの私は、結構大胆なんだな。 「いいよ、人権はびょうどうでふから」 「びょうどうなら、そちらも甘えてくださいよ」 「いいと!?プロフィールの花の名前なん」 「せ」 「す」  方言が出ている。しかし、その質問は甘えているのだろうか。 「私の花の名前は、マイナーなんですよ」 「酔って文章を打ち損じてしまうなら、星が勿体ないです。別の場所に行きますか?」 「ID×××××」 「いつでもタイミングはお任せします」  酔っている人から、連絡先を貰ってしまったので、罪悪感がある。 「やっぱり、やめておきます。星が失くなって、途切れたら、後日にしましょう」 いつか、途切れるご縁だから。 「昨日は失礼しました」 「ううん、全然、失礼じゃないよ」 「昨日は醜態を晒してしまって、申し訳ないです」 「なにが悪いのか、私には分からないな」 「甘えてくれないと、甘えられないから、私は」  もう、敬語を使う余裕すら、ない。 「というか、僕、ID教えてる!」 「僕、甘えてますよ。でないと、IDは教えないです」  そうなのかな。私が、酔っているときに、聞いただけだ。  私の甘えると、彼の甘えるは、違うんだ。 「もう、限界です。都合の良い日に時間を作ってもらえませんか?私の事情は、長くなるので、たぶん言いません。声を聞いただけで、ラクになると思いますから」  それでも、生きているだけで、やっとなんだ。  もう、甘えさせて欲しい。 「泣いています」 「電話しますか?」 「します」 「水を飲んでください」  飲みますか?ではなくて、飲んでください、なんだね。

カミングアウト ノブデレ編

「今まで隠してたんだけど、実は私……ノブデレなんだ……」    彼女が突然カミングアウトをしてきた。  時々見せるそぶりに、うすうすそんな気はしていた。  というか、ノブデレって自分でカミングアウトするものだっけ。   「嫌われたくなくて黙ってたんだけど……もう……隠せなくなってきて……。ごめん……こんなこと突然……。嫌いに……なった……?」    彼女は不安そうに言ってくる。  まずは体の熱を冷まそうか。   「安心しろ。俺は、お前がノブデレだからって、嫌いになったりしないから」   「本当……?」   「もちろん」    だって。   「俺も実はノブデレなんだ」   「え?」   「俺もお前も、同じドアノブ。世にも珍しい、話したり、照れたりすることができるドアノブだ。世界で唯一、俺たち二人だけ」   「…………」   「だから、俺たちお似合いだと思うんだ」    俺のカミングアウトに、彼女は――。

ソラ

今僕はソラを見る 君が見ているであろうソラを 空、晴空、宇宙、天 僕等が見上げるあのソラは 一体どんな色だろうか 何万キロ先まで続くあのソラに 一体何を思うだろう 僕と君が見ているソラは きっと何処かで繋がっている 僕と君が見ているソラは それぞれ全く違うもの この果てしないソラの下 自分の色を見つけよう。 この果てしないソラの下 大切な仲間を見つけよう。

舞踏会、そして本の夢

「マリア様、そろそろ舞踏会の会場に到着いたします」 従者に声をかけられ、うつらうつらしていた私は目を覚ました。 馬車は既に検問所を通り抜けたようだ。整然と並ぶ煉瓦造りの建物群が、窓の外を流れてゆく。 もうじき、舞踏会の会場であるエーリス様の館に辿り着くだろう。 私は無事に、婚約者を見つけることはできるだろうか。 父の為にも、私は大きな権力を持つ男性と結婚しなければならない。 自分が家族の未来を背負っていると考えると、緊張で吐息が荒くなって仕舞う。 「大丈夫ですよ。マリア様はきちんと貴族の作法を弁えていらっしゃいますし、きっと良い方と結婚できますよ」 幼い頃から私に仕えていた従者は、私の心の声が聞こえたようにそう言ってくれる。 人からそう言われると、少し安心できるものだ。 私は「そうよね、大丈夫よね」と、自身を鼓舞するのだった。 下級貴族の私からしたら贅沢な食事が、品よく白いプレートに乗せられている。 巨大なシャンデリアは私たちを見下ろすように館内を照らし、オーケストラが交代しつつ絶え間なく耳に心地よいクラッシックを流し続ける。 「月」をモチーフにした、透明に近い水色の布を用いた私のドレスも、此処にいるとその美しさが霞んで仕舞う。 本当に、天国のような場所だ。 他の客人に倣って食事を楽しんでいると、午後九時の鐘と共にエーリス様のお声が館内に響いた。 近頃発明された集音器を用いているのだろう。 「午後九時から午前零時まで舞踏会があります。客人の皆様は、運命を共にする伴侶を見つけれると良いですね。では、舞踏会の始まり始まり!」 エーリス様の台詞が終わると共に、音楽は転調し、軽やかなものとなった。 皆、近くにいる異性に踊りを申し込みに行っている。 「私と一緒に踊っていただけませんか?」 声をかけられ、振り向くと。そこには、エーリス様の御子息がいた。多分三男のノア様、だ。 白銀の髪を丁寧に結っており、背は低く、他のご兄弟よりは見目麗しくは無いが、それでも綺麗だ。 「わ、私で良ければ、是非…!」 ノア様にリードされつ、学んだ通りにステップを踏む。 彼の優しい瞳を見て、私は彼と結婚したいと強く願った。 家柄や野心、家族の為ではなく、自分の為に。 幸福の時間はあっという間に過ぎ去り、あっと言う間に午前零時となって仕舞った。 「マリアさん、泊まっていかれて下さい。ガルシア領は此処から遠いでしょう?」 「で、では、お言葉に甘えて…」 皆が解散していく中、ノアと共に屋敷の奥へ進む。階段を登り、一室へ通された。 「では、ごゆるりとお寛ぎください」 重圧なドアを閉めると、室内は完全な無音となった。 先程までの舞踏会の喧騒や音楽が全て夢の出来事のように思えてくる。 ふと、書き物机に本が載っているのが目についた。 紅色のなめし革の表紙にタイトルは刻印されていない。 ちょっとした好奇心で、はしたないとは思いつつも私は項を捲ってみる。 《プロット》 1…下級貴族マリア、エーリス家の三男坊ノア(仮)と結婚(側室) 2…本妻のユアン(仮)に嫉妬、マリアは彼女を殺す 3…地下監獄送りとなったマリア、そこで一人の少年と出会う 4…少年と監獄を脱出、逃走劇(3〜4章の予定) 5…捕まる。ただ、少年だけが罪を被り死刑。マリアは自責の念を背負って生きる 6… 初めのページにはそう書かれていて、文字を読み進めていくごとに手が震えるのがわかった。 そうか、私は物語の中に生かされていただけの存在なのか。 何故かすんなり、納得できた。 「6」以降の展開は白紙だ。 けれどいつか、その先の未来も確定する時が来るのだろう。 …ああ、ノア様に恋した私が馬鹿みたいだ。 先程まで熱く燃えたぎっていた恋の炎が、急速に冷えていくのを感じる。 次の項に目を通すのが怖くて、私は本を読むのをやめる。 そして。 (こんな陰鬱な未来を受け入れるくらいなら、先にノア様を殺して仕舞えばいいじゃない) 物語の予定調和を乱す為、私は護身用の短刀を片手にノア様の姿を探す。 見つけた。 運命の分岐点、物語の決められた道から離脱する時だ。 私は思いっきり短刀をを振り上げ、ノア様を斬りつけた。 ノア様のうめき声と共に、真っ赤で暖かい返り血が私を染め上げる。 そして、目の前が真っ暗になった。 比喩表現ではない。本当に、意識を失うように目の前が暗くなったのだ。 「マリア様、そろそろ舞踏会の会場に到着いたします」 従者に声をかけられ、うつらうつらしていた私は目を覚ました。 …何か、嫌な夢を見ていた気がする。 そうだ、本の夢だ。 エーリス様のお屋敷で本は開いちゃいけない。 何故か、そう思った。 馬車は既に検問所を通り抜けたようだ。整然と並ぶ煉瓦造りの建物群が、窓の外を流れてゆく…

とある国の戦争

さあ皆の衆 戦争だ 我が国の名誉の為 自分自身のプライドの為 時には愛するものの為 有志達よ熱く燃えろ 敵は全力でなぎ倒せ 我等に勝利を 命の限り突き進め 勝って永劫を 我が国に栄光を さあ進め そして掴み取れ 我等に勝利を。

君を癒す処方箋

 漫画みたいだ。私は今、カップル誕生を目撃した。  目を上げた陽菜乃は、間抜けに突っ立った私に気付いてしまった。 「飛鳥!! ええ……!! ……みっ……見てた?」  茹で蛸よりも赤い顔を俯けて、陽菜乃は尻すぼみな疑問を投げかけた。陽菜乃の向かいに立っていた中本くんは一度私を振り返り、真っ赤になって下を向いてしまった。 「……いやーあ。せーーーしゅんっだなあ!!!」  私の腹の底からの声に二人は慌てて私の口を塞いだ。そのそっくりな慌て方に私は、こいつらお似合い! と、腹落ちした。  落ち込むなんて柄でもないし。  そんな風に思っても、さて、ポケットにはクシャクシャになった想いが一通。宛名も差出人も書けなかった臆病者の精一杯は、下駄箱に届く前に、階段の踊り場で敗れ散ってしまった。  傷つく事も、泣く事も、何もできなかった。  陽菜乃は面と向かって想いを伝えた。ポケットに隠してしまえる程度の、お手軽な想い方しか出来なかった私とは違うんだ。いい女って、ああ言うのを言うんだろう。  橋の上から流れる川を眺めた。後悔すらも出来る立場ではなくて、置いてけぼりになった気持ちに、どう蓋をすればいいのかもわからなかった。 「やめてよ! 返してよぉ!!」 「返してよぉ〜!!」  悪意ある物真似に下卑た笑い声が、私の耳に刺さった。眼下の河川敷を見ると、小学生四〜六年生の子供四人が駆け回っている。  一際小さい一人が囃し立られているようだ。  小さな子は紙をヒラヒラさせた一人を必死に追いかけている。 (人が落ち込んでるってのに……)  その内、一人が後ろからのし掛かり更にもう一人がその上にのし掛かって潰してしまった。 (え? あれやばいんじゃ……)  紙をわざとらしくゆっくりと広げた子供。 「松木くんやめてよ! お願い!!」  苦しそうにしながら懇願する少年。 「小塚みゆりちゃんへ 急にこんな手紙を書いてごめんなさい。ぼくは、加藤ヒロトです。小塚さんは……」 「やめて! やめてってばあ!!」  私は携帯で連写した。 「やっべぇーーー!!! イジメ現場ゲットォ!!! 絶対バズるヤツじゃん!!! 主犯がマツキだっけえ?」  わざとらしく携帯をいじりながら大声で言った。イジメっ子どもは青くなって手紙を捨てて逃げ去った。  私は手紙を拾って子供に渡すと、少年は慌てて引ったくり、胸に抱え込む。涙を裾で拭いながら、震える声を絞り出した。 「あ……ありがとうございました。助けてくれて」 「別にぃ……助けたってほどでもないけとさ」  私達は少し歩いた公園のベンチに腰を下ろした。 「あの、ジュース、ありがとうございます」 「どういたしまして」  パキッと小気味良い音を響かせて缶が開いた。林檎の甘い香りが鼻腔をくすぐる。 「……それ、ラブレター?」  びくりと震えて真っ赤になった少年。 「別にからかおうって訳じゃないよ。今日はラブレター絡み多くてさ」  私の方を不思議そうに見た少年に、私はニカっと笑った。 「実はさ、私も今日、好きな男の子にラブレター渡そうとしたんだ。でもウジウジしてたら別の子に取られちゃった」  私が先に言っても振られたろうけど。  でも、一生一人で抱え込むはずの苦しみを、人に話せた。なんだかすっと心が軽くなった気がした。  目を丸くした男の子がポツリと言った。 「お姉さんは強いんだね」 「強い? 私が?」  今度はこちらが目を見開く番だ。少年は深く頷いた。 「ぼくも今日、手紙を渡そうとしたら、松木くん達に見つかって、笑われて、小塚さん泣いちゃって……こんなの書かなきゃよかった!!」  自己嫌悪を吐き捨てる少年。 「……そっか。キツかったね」  少年は首をぶんぶんと振った。 「ああ、小塚さんに申し訳ないのか」  少年は俯く。  私は少年の手の中の握りつぶされた手紙を眺めた。意味を失ってしまった言葉たちを。  ――私と同じ。 「ねえ、それ頂戴」  少年はきょとんとした後、さっと顔を青くし、ブンブンと首を振った。 「お願い! 代わりに私のラブレターあげるからさ、ね?」  ギョッとする少年に、私は笑った。 「だってさあ結構苦労して書いたでしょう? これ。  私もさあ、丁寧な字で誤字脱字とか気をつけたし、すっごい悩みながら何回も書き直したんだよ?  さすがに捨てようと思ってたどさ、労力考えたらもったいないの! わかるでしょう!?」 「まあ、確かに……」  自分の割いた時間と労力を思い出したのだろう少年が、少し眉を顰めて言った。 「人の手紙なら持ってられるでしょ? だから、交換しようよ」  少年はちょっと笑った。  そして私達は互いの恋心を預けた。  届かなかった言葉達が、いつか私達を癒してくれると信じて。

僕はまだ、変われないままでいる

 何年も何年も、憧れ続けていた夢が今、目の前に転がっているというのに。僕はまだ、きっと決意ができないでいる。  頭でも心でも、進むことが正しいのはよくわかっている。決意を抱いたことにより大切なものが生まれたし、死ねない理由も生まれた。ただ、その一歩が踏み出せず足踏みをしている。臆病者だな。  周りは環境を整えようと、道のりを支えようとしてくれてる。のに、僕は迷惑をかけることを恐れている。変わりたい

合鍵にはお揃いのキーホルダーが付いていた

私の好きな物。 ドーナツ。レモン。空。ラッパ。幸せ。 私の嫌いな物。 みんな。ふぁいと。 自己紹介の欄を適当に埋める。午前三時。場所はネットカフェ。Free-WiFiに繋いだスマホには、今しがた再ダウンロードしたアプリ画面が写っている。同じアプリで出会った彼氏とホテルから出て、たった今別れ話が終わったところ。車で家まで送ると言ってくれた彼の申し出を断ってさよならを告げた。始発まであと2時間。新しい彼氏を探しながら、決して安全じゃないネカフェの個室を城に時間を潰す。長々と自己紹介を書くのは嫌いだから、適当に、変なことを。無難な誘い文句は面白くない。私は面白い人と会いたい。ろくでもなくてもいい。こうしてるとヤリモクの変な男は来ないし、無駄に沢山通知がなることもない。それでも20代女というスペックは男には一定の需要があるらしく、ぽんぽんとコピペのようなメッセージが飛んでくる。つまらない奴に興味なんてないのだから鬱陶しいことこの上ない。中身のないそれらに興味はない、私が好きなのは意味の無い、ことだ。 さっき別れた彼氏はまあ面白い人だった。デートは当たり障りない映画とか水族館とかが多いけど、お土産のキーホルダーを集めるのにハマっていて、どこか出かけると必ずひとつキーホルダーを買っていた。私にもいくつかくれた。ネカフェの個室に入って直ぐに紐ごと切った彼からのイルカのキーホルダーは出会って最初のデートで貰ったものだ。その日から二年、付き合って一年半ずっと肌身離さず持っていたのは我ながら健気だと思う。 彼は変な豆知識も持ってた。水族館に行けば魚の、映画に行けばその作品の。行くところ行くところで楽しそうに歯を見せて笑いながら話す。そんな彼が好きだった。 彼との日々は楽しかった。幸せだった。別れを告げたのは私だ。怖くなった。幸せになるのが。 男運が悪くって、ヤリ捨てなんて当たり前みたいな生き方をして、性病とかは運良く避けて来れたけど、愛してくれる人が欲しかった。出会い系にハマったのはそのせい。ただの性欲処理は嫌だったから、なるべく地味で堅物を演じて少しずつ詰めてきた。だから初回でホテルに誘導しようとする男や、付き合う前にキスしてくるやつなんかは徹底的に縁を切った。 出会い系でさえ人に恵まれない私、なんて諦めようとした時に出会ったのが彼だった。彼は、「ドレミの歌、昔よく歌いました」なんてメッセージを最初に入れてくるやつだった。変な話しかけ方に興味を持って、彼とだけ頻繁に連絡を交わした。意味の無い他愛ない会話がこの上なく楽しかった。 あまりに幸せだった。執拗に体を求めたりもせず、昼までのデートだってあって、どんな日も必ず家まで送ってくれた。手料理なんか作ってあげた日には泣いて喜んでくれた。記念日も覚えてて、その度にキーホルダーを送ってくれた。お揃いじゃない、付けやすい、可愛いやつ。 ホテルを出てから、彼に真面目な話があると言われた。別れ話だと思った。有頂天はいつだって当然のように事切れる。私は覚悟していたからいいよと微笑んだ。彼の口から出たのは同棲のお誘いだった。 幸せだった。だから、一気に恐怖を感じた。私がこんなに男との関係で幸せになっていいわけないのに、ぶわりと広がる喜びの感情を自分で拒絶した。 別れ際、なんて言ったか覚えてない。ただ、別れたいことと送らなくていいことは言った。走って逃げた。嫌われるのが目的。嫌なのに。 矛盾してると思う。幸せになるために始めた出会い系で幸せになった途端怯えるのだ。バカらしい。自分を嘲笑した。途端、手元の携帯が震える。 新着メッセージ、 「ドレミの歌、昔よく歌いました」 送った相手を震える指でタップする。アカウント作成日時がずっと前だった。 「そうなんですね」 何も考えられなくて薄い返事をする。きっと既読無視だと思った。だってあの人はもう。 「はい」 「今別れた彼女ともここから話を始めたんです」 「僕と付き合ってからすぐにアプリを消してくれてたみたいで、本当に可愛くて愛しいんです」 「でも僕はなんとなく出会い系アプリを消せませんでした」 「正直たまにやり取りもしてました」 「あなたが思うほど聖人君子じゃありません」 「こんな僕でもいいなら、会ってくれませんか」 「住所は ――――――――――」 「合鍵を持って待ってます」 「オールドファッションも買っておきます」 「みんなもふぁいとも何もいらないので、あなたと2人で空を見ながらドーナツを食べたいです」 私はつい通話ボタンを押してしまった。喉が引くつく。表情筋が操れない。数回のコール音の後、さっきサヨウナラをした彼の声が私の耳にノックをした。 「一緒に幸せになんて言ってごめん、一緒に不幸になってくれ」 ノックに応えた私の体が彼が好きだと叫んだ。

少年の独白

 兄が死んだ時、僕は悲しめなかった。  出来の良い弟を持った兄は辛い思いをする、とよく言われるが、うちはまさにそれだ。僕は進学校に通っていたが、成績は常に学年上位だったのだ。  一方、兄は勉強には才能を発揮できない人だった。しかし、その代わりなのか、運動の才は人一倍有していた。  そんな兄は勉学の努力は僕に任せ、適材適所と言わんばかりに、部活動に必死で取り組んでいた。  が、うちの父と母はそんなものは認めない。そのため、兄はいつも叱られていた。叱られるたびに兄の顔は下を向いていき、最後にはあんなに努力していた部活動も辞めてしまった。 「勉強は努力すればするほど自分のためになるわ。でも、それ以外の分野は周りを置き去りにするくらいの才能がないと無意味なの。あなたは世界一になれるのかしら?」  とは、母の言葉だ。  それに続いて父は、こう語る。 「そもそも頭が良くないと、自分の才能をプロデュースできない。才能はそれが世に認められて初めて価値を持つものだ」  そんな両親に育てられた兄がグレたことは、至極当然なことだと言えるだろう。この世の摂理。水を熱せば沸騰するのと同じだ。  そんな中でも僕がグレなかったのは、勉強ができたからというよりも、兄のグレ方が苛烈だったからだと言った方が正しい。  それが起きたのは兄が高校一年生の時、つまり僕が中学二年生だった時だ。  兄は夕方六時半頃、父と母を部活動で使っていたバットで殴りつけたのだ。理由は今も知らない。もしかすると、理由などないのかもしれない。  そしてその翌日、兄か施設に入れられることが決定した。僕はそれを母から聞いた。  あまりにもスムーズな展開に、僕は少なからず驚いた……はずだ。元から、いつかこうなる予定だったのではないかとすら思った。  しかし当時の僕は、一人の子どもが施設で暮らすという意味をあまり理解できていなかった。「住む場所が変わるんだな」程度にしか思っていなかったのだ。  今ならば言える。僕は悲しむべきだった。兄がいなければダメだ、と大声で駄々をこねるべきだった。母と父が心底迷惑な目を向けてきても、僕はそうすべきだった。  なぜなら、兄はこの家の中で唯一、健全な人間だったのだ。兄だけが、この寒々しい家庭の中で暖かい人間性を保てていた。  その証拠に、兄が施設に送られたことに大した感想を抱いていなかった僕だが、家の中が今までよりも寒くなるのは、確かに感じていた。スッと温度を無くした廊下は本当に寒かった。  それが原因なのかは分からないが、その日から僕の成績は急激に落ち始める。そのことで父と母の仲は険悪になり、両親に溜まったストレスは暴力という形をもって僕に注がれた。  僕は、毎日悪夢を見るようになった。  地獄のような日々、と言ってしまうと大袈裟だが、悪夢が覚めないことを願うくらいには日々は辛かった。  そんな、暴力と悪夢の生活を続けて一年ほどが経ったある日のことだ。  僕はいつものように親のストレスを身体で受け止めていたのだが、父が僕の髪を掴んで床に叩きつけた瞬間、僕の中の何かが割れた。音もなく、ただ何かが破壊されたのだ。  そのヒビから、蓄積されていたヘドロのような物体が溢れ出てきたのを自覚した。それは瞬く間に全身を覆い、僕は黒い人型の怨みに成り果てた。  その日の夜中、バットを借りようと兄の部屋に入ると、机の上に写真が置かれていることに気がついた。  小さい頃に兄と二人で野球をして遊んでいた時の写真があった。机の隣に大切そうに置かれているバットも、写真に写っている。 「──お前、それで何する気?」  突然声が聞こえ、僕は驚いて振り返る。そして、そこに立っている兄を見てさらに驚く。 「駄目だよ。そーゆーのはオレの仕事だから」  そう言って写真をポケットに突っ込み、バットを持って階段を降りていく兄の背中を僕は夢を見ているかのように見送った。  ◆ ◆ ◆  兄の死因は胸を刺されたことによる失血死。  大動脈がスッパリと切られていたらしい。兄を殺した父親は過剰防衛だと判断されたものの、情状酌量で執行猶予がついた。  あの写真とバットは兄と一緒に燃やしてしまったが、その日から両親はもう暴力を振るわなくなった。  そこからは大して語るべきこともない。  何でもない日常を崩さぬよう神経質に毎日を過ごし、僕は高校へ上がると同時に家を出た。  兄は元気だろうか?  ──ちなみに悪夢は、もう見ない。

ミュート

『他人の悪意ある言葉をミュートにするイアホン』。 テレビで大々的に宣伝されていたそれを、私は興味本位で買ってみた。 宅配で届いた文庫本大の小箱には、イアホンと、悪意を感知する加減を操作するスイッチが同封されていた。 これで九千円。高いのか安いのか、よくわからない値段設定だ。 とりあえず試験運用として、学校で、少しでも悪意が含まれている言葉を全てミュートにする設定にしてみようか。 がやがやとした喧騒に呑まれた、朝休みの教室。 てんでにグループを構成し、生産性もなく友人と喋るクラスメートたちの話し声の中には、どれほど悪意ある言葉が混じっているのだろう。 私はイアホンと操作スイッチをカバンから取り出して、早速装着してみた。 スイッチを入れる。 教室は、無音となった。

雑な彼女

優梨は興味が薄いものに対して、区別がつきにくい。 アイドルや俳優を見ては、皆同じに見えるって言うし、野菜もあまり区別がつかない。 キャベツと白菜、レタスの違いは分からないし、小葱とニラは同じだと思ってるし、ズッキーニは大きく育った胡瓜だと思ってる。だから、あいつが料理すると何だか違うものが出来上がる。 いつだったか優梨が「克也、お好み焼き出来たよ」と俺に作ってくれたことがあった。気持ちは嬉しいし、味は美味しかったが、俺の知ってるお好み焼きじゃあなかった。 というのも、使われていたのがキャベツじゃなく、白菜だったんだ。そして、今日も優梨はお好み焼きを作ってくれたが今日も今日とて、お好み焼きに使われたのはキャベツじゃなかった。そう思ったのは妙に柔らかいから。 「……優梨、お前お好み焼きに何入れたんだ?」 もぐもぐと噛みながら、何を入れたのか考える。味は美味しいが、何とも言えない食感。 「キャベツとちくわ!」 自信満々に答える優梨を可愛いなと思うと同時に、絶対に違うとも思う。 「いや、絶対これキャベツじゃねえよ」 思わず食い気味に言えば、優梨はこてんと首を傾げた。 うん、可愛い。 「えー、でも前に作ったときに使ったやつより丸かったよ?」 優梨の言葉に俺はピンとくる。 「あー……なるほどな」 「何がなるほどな、なの?」 「さっき優梨、丸い野菜使って言ったろ?」 確認の為にと、訊き返せばこくりと優梨は頷く。 「そうそう。丸いの使ったの」 「だとしたら、優梨が使ったの多分レタスだぞ」 「れたす?」 「そ、レタス」 「え、嘘。今回はキャベツで出来たと思ったのに」 優梨はそう言って少しがっかりした様子を見せるも、それは一瞬で。次の瞬間「食べれるから問題なし!」と開き直ったかのように、ニコッと笑う。 切替早いなと思う反面雑だなと思う。その思いは口に出てたらしい。 「雑じゃないもん」と優梨からツッコミが入る。 「いや、何処がだよ」 どれだけ考えてみても、雑な所しか浮かばない。 「考えても雑じゃない要素が分からないんだが?アイドルやら俳優も目と口がついてるのは一緒だよねって言った口で言われてもなぁ」 説得力の欠片も何もない。やれやれと思いながら、レタスで作られただろうお好み焼きを口に運ぶ。 やっぱり食感が何だかコレジャナイ感が半端ねえ。そう思っていると「ねえ、克也」と言う優梨の声が。 俺はお好み焼きを咀嚼しながら、優梨を見やる。 すると、優梨の表情は何だか真剣で。 言い過ぎたか……?「悪い、言い過ぎた」と俺が言葉にするより早く、優梨の言葉が紡がれていく。 「アイドルや俳優は皆同じ顔に見えるのはね。私にとって一番かっこいいと思うのが、克也だからだよ」 予想だにしてなかった言葉。 今、優梨は何て言った? 俺が呆気にとられていると、優梨はふわりと花が咲いたような笑顔を浮かべる。 「ふふ、彼氏が一番に決まってるでしょ」 そう笑う優梨を見て、俺は口に運んだお好み焼きに負けないぐらい顔が熱くなっていくのを感じたのであった。

幻影でさえ魅せない

 寡黙な男ゆうちゃんは、今日も黙々と読書に勤しんでいる。構ってもらえず退屈になった私は堪られず、無視されるのを覚悟で話しかける。 「ねぇ、保険証の裏にさ、臓器提供の意思表示の欄あるじゃん」 「うん」 「それね、私ね、眼球と心臓以外に丸つけてんの」 「へぇ〜。····なんで眼球と心臓はダメなの?」  予想外にまともな返しがきた。 「だってね、目はずっとゆうちゃんとの思い出を見てきたでしょ。色んなゆうちゃんを見てきたんだよ。心臓はね、ゆうちゃんに沢山トキメいてきたんだよ」 「うん、だから?」 「臓器に記憶が宿るって話あるでしょ? 多分、私がゆうちゃんの事すごく愛してるから、余裕で臓器が覚えてると思うんだ」 「ふ〜ん、それで?」 「眼球と心臓に記憶が宿ったって話を聞いた事があるから、それだけはあげたくないなって思ったの。もし女の人に移植されて、ゆうちゃんに恋したら嫌だもん。私の記憶は、思い出はあげないの」 「そっか」 「それにね、もしおじさんに移植されて、ゆうちゃんに恋したら困るでしょ?」  ゆうちゃんは分厚い本をバタンと閉じた。そして、伸びをしながら言う。 「確かに。それじゃあ、俺も眼球と心臓だけは丸しないようにしないとな」  少し間を置いて意味が分かると、なんだか途端に恥ずかしくなった。そして、ゆうちゃんは勝手に話を締め括る。 「お前の何一つ、誰にもあげないから。それ以前に俺より先に死ぬなよな」  ゆうちゃんは私をギュッと抱きしめてそう囁くと、そそくさとトイレに逃げ込んだ。

夢で推しに会うのは罪でした

「みんなー!  今日もライブに来てくれてありがとー  今日も仕事に学校遅れないように頑張っね!  私たちはいつもみんなのことを応援してるからねー!」 ライブ会場に声が響く 「ふーん、ふふーーん♪」  いつもこれを言ってもらって朝を迎える。そして今日も社会の歯車として酷使されに会社に向かう。  しかし、今日はいつもよりテンションが高い。それはなんと・・・推しのあの子にウインクされたから。あれにはドキドキがとまらなかった。女の私から見てもあのこはほんとに可愛い、仕草・口調なにもかもが。それに、あの子に出会ってから人生が変わったとても大事な推しだから。 「今日は、いい日だから! 朝から・・・」 ん?あれなんだっけ。頭には思い浮かんでるんだけどなぁ。若い子が好きで?ふわふわしてて?あまくて・・・ 「ホットケーキだ!」  なんか最近出てこないことが増えてきたんだよなぁ・・・ 「ピピピピピピピピ」 「え?」 気が付くと家を出ないと行けない時間の五分前なっていた。 いい気持ちで起きれたのに! 早く着替えて家を出た。 「今日は新しい夢買ったから今日も頑張ろ」 心の中で自分に言い聞かせて今日も出勤、いや、歯車になりに行く。ミスをしない歯車に。 「はぁー!」 ベッドに倒れこむ。今日もどうにか終わった。今日はこのために同僚の食事の誘いもことわり、夜ご飯も帰ってきながらコンビニに立ち寄って買ったおにぎりを食べてきた。よし準備しよ。 ビリビリビリ  これを開けるのは毎回楽しみだ。流行りの病のせいでライブに行けないためこれしか楽しみがない。あいつらのせいで推しのライブに行けないなんて、考えるだけでイライラする。しかしこの夢も公式のサイトで売っているものだからお金を貢げているといっても過言でないため良しとしている。  準備を終えると私は早速夢に落ちることにする。 「みんなー  今日も来てくれてありがとー!  そして、早速新しい夢を見に来てくれてありがとね。  これ見てあしたもがんばってね!  おつかれさま!」 そして、夢の本番が始まった・・・ 気が付くと私はベッドの上でいろいろなものにつながれて横になっていた。 「大丈夫ですか?ここは病院ですよ。そして・・・」  先生は原因を語りだした。 私は夢を買ったせいで病院に来ることになってしまったらしい。最近思い出せないことが減ってきたのもこれが原因らしい。脳が耐えられなくなっていた時に新しく買った夢が追い打ちをかけたらしい。  夢なんて買わなければ良かった・・・  

8月に取り残された

8月32日 見間違えだと思って目をこすった。 しかしもう一度見てもデジタル時計のカレンダーは8月32日だった。 リビングには誰もいなかった。家のどこにも家族はいない。俺をおいて出勤したのだろうか。 やけに静かだと感じた。外からセミの鳴き声しかしない。 窓から外を覗いてみると、道には車1台、ひとっこひとりいない。 リビングやほかの部屋のデジタル時計の表示を見ても8月32日と表示されているし、カレンダーは新しいページで32日から61日まで表記されていた。 ほっぺたを摘んでみるが痛みを感じた。 確信した。 どうやら世界がおかしくなってしまったようだ。 自分の部屋に戻った。 終わっていない夏休み課題と攻略中のゲームの山からスマホを発掘し、起動する。 もちろん真っ白の「今日の予定」の表示を無視して、メールを開く。友達何人かにメッセージを送ったが、送信不可表示が出ていた。 つまり誰もいない8月に取り残されたわけだ。 8月33日 何も考えずに寝て起きたが世界は狂ったまま進んでいた。しかしこれはチャンスなのではないか。学校にも行かず、ゲームしてても咎められない。やりたいことを好きなだけやれる最高のパラダイスではないか、と思った。 8月34日 テレビをつけてもだいたいのチャンネルは砂嵐の状態で、写ったのは教育番組の再放送ぐらいだった。なんだか風邪をひいた時にしか見れない教育番組を見てる時と同じ独りの背徳感があった。 8月38日 32日からお腹も減らないし、喉もかわかない。トイレにも行きたくならない。眠くはならないが、夜に目をつぶれば自然と寝れている。自分も共におかしくなっているようだ。 8月45日 1週間のめり込んだゲームは全てクリアしてしまった。やることが無い。暇だ。ついでに孤独で死にそう。 8月61日 正常に進んでいれば十分に木の葉も色づき始める頃合だが、外では新緑が生い茂り、盛んにセミが鳴いていた。まるで自分を嘲笑うかのように聞こえた。 8月 87日 ただ何も無い日々が続いている。いつになったら8月から開放されるのか。 相変わらず昼に見る外の景色は、机の上に乗っている夏休み課題と同じぐらい白かった。 白昼夢を見ている気分だった。 8月396日 色々試した。本当に色々試した。マジで。けど、8月から逃れることは無かった。方法にまだ心当たりがない訳では無い。でもそれは最悪の事態での最終手段だ。 8月796日 あれから計算して2年経った。 最終手段をとるしか方法はないのは、自明だった。 視線の先は夏の積乱雲と同じ白色の夏休み課題だ。心の中は積乱雲の下で薄暗く土砂降りの嵐だ。 重い重いシャーペンを持ち上げた。 8月800日 少しずつ、課題は進んだ。勉強のやりたくなさと8月から逃げ出したい思いとで、早くもなく、かと言ってゆっくりでもない、そんなペースで進んだ。 8月807日 途中でプリントで左手を切ってしまったこと以外、全て順調に進んだ。 最後のプリントに手をつける。悠々と堂々と、フルマラソンでゴールに着く100メートル前のような気分で進めた。 最後の問題に丸を書き入れたときに、急激な脱力感に襲われた。だけど、気分は悪くはなかった。 9月1日 母親に叩き起された。懐かしさに涙が出たが、母親に気味悪そうに見られたのですぐ拭った。 朝の7時。カレンダーは9月1日を表示している。年も変わっていない。世界は8月32日以降がなかったように動いていた。 終わった課題を鞄に入れて、身だしなみも準備して家を出た。 外には通学、通勤する人達が通りを歩いていた。 「なー、俺夏休みを1年間過ごす夢みたんだよ」 「マジで?」 「必死こいて課題やって1年かかって終わったわ」 「現実は?」 「1ミリも終わってない」 なんて話し声が聞こえた。 学校に着いた。去年の(体感では3年前だが)自分なら憂鬱な気分でいっぱいだっただろうが、今日はいくばかりか安心感もあった。 午前中で全てが済み、帰ろうとした時に担任に話しかけられた。 「お前が宿題全部出すなんて珍しいこともあるもんだ。」 なんて失礼なヤツだ。 「子どもは夏休みで成長するって言うし、お前も変われたのか。背も伸びたし、なんというか、雰囲気も大人びたな。2歳ぐらい成長できたんじゃないか。」 冗談で言ったのだろうが自分には皮肉にしか聞こえなかった。 教室を出る。担任が「課題が終わってないやつは夏休みは終わらないからなー」と言うのをしりめに。 学校から出た。 昼間だか夏の終わりの涼しい気候が体を包む。 何も無かったように進む今日をみて全て夢だったのかと思う。気を失いながら全て宿題を終わらせたと考えればだいたい納得がいく。 痛む左手を気にしながら、来年の夏休みの課題は夏休みの間に終わらせようと誓った。

カットとトリートメントで。

「こちら、タブレット式になっていますので、お好きなようにどうぞ」 そこにはノンノではなく、今夜の献立。 デート特集ではなく、アンチエイジングのメイク雑誌。 ああ、私も歳取ったな…。 こんなことを、半年ぶりに訪れた美容院で感じるはめになった。 三十歳の誕生日を迎えたことは、かなりの事件だった。 二十代の終焉。 もう、甘えてられない。若さという武器はもう使えない。 止めることのできない時間が怖かった。 「ボブにするの初めてですかぁ?」 私はずっと、ロングの巻き髪だったし、それをハーフアップして、袖のひらひらしたブラウスにフレアスカートで、チヤホヤされてきた。 上司は若いだけで優しくしてくれたし、コピー間違えても、会議で居眠りしてても、何だかんだ多めに見てもらえてた。 三十代になり、若い子たちがどんどん入ってきて、私の居場所はあっさりと奪われた。 巻き髪にフレアスカートは、私のものではなくなり、パステルカラーのブラウスも何だか気がひけるようになった。 私はいつから、こうなってしまったのか。 意識すればするほど、その卑屈さが出てしまうだろう。そしたらますます痛々しいだけだ。 【大人女子発見!!本厄を乗り切る!!パワースポット特集】 本厄真っ只中。 三十代は三回も厄年に見舞われる散々な代。 正月に彼氏の浩樹に付き合ってもらい、厄払いに行ったが、果たして効果があるのかは分からない。 「厄年なんですか?」 記事に見入っていると、タイミングを見て美容師が声をかけてきた。 多分この子、私より全然年下なんだろうな。 「そうなんですよ。嫌になっちゃいますよね」 「うちの姉が厄年で、新年早々、階段で足を滑らせて骨折したんです。厄払いに行ってなかったからかな?」 「えー、それは大変でしたね」 「何かありました?厄年らしいこと」 「んー、特にないかな…」 いや、それは嘘だ。 今年、初めて婦人科系の病気が見つかったし、ケータイ落として壊したし、自律神経乱れまくりだし。 涙もろくなったし、浩樹とは喧嘩ばかり。 みんな結婚していくし。 数えたらキリがない。 私の人生って、もう自分の思い通りにはいかないのかな。 次のステージに上がっちゃったのかな。 私は何とも言えない焦りを飲み込んだ。 その時、美容師がハサミを鳴らした。 ハッとして鏡に目をやると、 「私、今から、お客さんの厄、落としていいですか?」 美容師がそう言った。 「え?」 「絶対、素敵にしてみせるので!」 彼女は見てな、とでも言うように笑い、鏡越しに私の目を見た。 何言ってるのこの子、と思ったが、突拍子もないこの発想がなぜか私の胸を突いた。 乗ってみるのもありかもしれないと思った。 それくらい、私は自分を変えたかったのだ。 「行きますよー」 胸が高鳴る。 今思えば何故か分からないまま、ずっと伸ばしていた長い髪に、周りに媚を売って巻き続けた髪に、キンッと音を立て、ハサミが入った。 床に舞い落ちた髪。 それは、私の中の悪い何かだった。 彼女の目を見る。 お互い自然と笑みが溢れた。 その後、どんどん施術が進んでいき、鏡には、顎のラインで切りそろえられたボブヘアの素敵な大人の女性がいた。 「どうでしょう?」 鏡で全体を確認する。 「すっごくお似合いです!」 似合ってるのかは分からないけど、私はこの私が好きだ、そう思った。 これから私は、私を好きでい続けられるだろうか? 不安はある。 でも、何か少しでも希望を見出すことができるのなら、諦めるには早すぎる。 会計を済ませ、美容院を出ると、待ち合わせしていた浩樹が待っていた。 「どう…?」 ちょっと照れ臭くなり、髪を触ると、 「なんかすっきりした顔してる」 浩樹は笑った。 「顔じゃなくて、髪切ったんだけど」 「似合ってるよ」 大丈夫、私はやっていける。

カミングアウト タックルデレ編

「今まで隠してたんだけど、実は私……タックルデレなんだ……」    彼女が突然カミングアウトをしてきた。  時々見せるそぶりに、うすうすそんな気はしていた。  というか、タックルデレって自分でカミングアウトするものだっけ。   「嫌われたくなくて黙ってたんだけど……もう……隠せなくなってきて……。ごめん……こんなこと突然……。嫌いに……なった……?」    彼女は不安そうに言ってくる。  まずはさっきのタックルで吹っ飛ばされた俺を起こして欲しい。   「安心しろ。俺は、お前がタックルデレだからって、嫌いになったりしないから」   「本当……?」   「もちろん」    だって。   「俺も実はタックルデレなんだ」   「え?」   「無視すんなやゴラァァァ!!」   「…………」   「だから、俺たちお似合いだと思うんだ」    俺のカミングアウトに、彼女は――。

お菓子

ある日幼馴染みがクラスメートにお菓子を配った。 「はい、これあげる」 そう言って彼女が陽キャな男子に渡したのはマシュマロ。 「はい、これあげる!」 そう言って彼女が隣の席の男子にあげたのはチョコチップ入のクッキー。 「はい、どーぞ」 そう言って彼女が委員長にあげたのはキャラメル。 「ねえ、これ受け取って」 そう言ってあまり話さない女子にあげたのはマドレーヌ。 「あげるね!」 そう言って友達にあげたのはバームクーヘン。 「……はい、これ」 そして、僕に渡してきたのはキャンディだった。 それを見て、彼女が何をしたかったのか理解した。 次の日、僕は彼女を校舎裏に呼び出して、お菓子をあげた。 「これやるよ」 あげたのはチョコレート。 それを見た彼女は泣きながら微笑んでいた。

20分以内に書きあげるだけを目的とした物語

「残り時間……後、二十分!!」    私は神にペンを走らせた。  二十分に区切った理由は特にないが、しいていえばノリだ。  唐突に、ニ十分で何をどこまで書けるのか試してみたくなったのだ。  もちろんプロットもアイデアもない。  今この瞬間も、頭の中に浮かぶ文字を、ひたすら紙に書きなぐっているだけだ。    だから、二行目で早々に、『紙』と『神』を間違えたのは、ぜひとも大目に見て欲しい。  私の挑戦の上にある、尊い犠牲と呼べるだろう。  いや、むしろ『間違えた』と明記することによって、ストーリーとしてつながったので、実は間違いでさえなくなっているのかもしれない。  いや、きっとそうに違いない。  私は間違ってなどいないのだ。    はっはっは。    おっと、無駄な話をしてしまった。  とにかく私には時間がない。  早く何を書くか決めなくては。    考えた末、今回はニ十分という制限時間ということで、二十にゆかりのある話を書くことに決めた。  二十と言えば二十歳。  つまり、成人、または大人をテーマにした話など良いではないだろうか。  ニ十分、が見事に伏線にもなるので、我ながら最適解だとは思う。    私は早速、タイトルに『大人』と書き、本文の執筆へと入る。        ◆          ◆        大人になった瞬間、私は世界に人間として認められた気がした。    未成年であっても、自我があり、人権は存在する。  それは理解しているし、理解していた。  しかし、大人でなかった私は、あくまでも世間に置いて、両親や学校に守られながら生きているという感覚に、どうにも気持ち悪さを感じていたのだ。  一人の大人であるはずなのに。  私の進路は、両親や学校の先生が決めようとする。  私の思想を、両親や学校の先生が変えようとする。  何かが欲しいと思っても、契約という親の署名が必要な謎の儀式を行う必要があり、結局私一人では何も成せなかった。    だから、嬉しいのだ。    晴れて誕生日を迎え、大人と呼ばれる年齢になった今が。    今の私は無敵だ。  進路も私が決める。  思想も私が決める。  契約も一人でできる。  完全な、自立した人間となったのだ。    大人な私はスキップでケーキ屋に向かい、ショートケーキを三つほど買って、家に戻った。  代金はお小遣いからだ。  これで私の財産はゼロ。  空っぽだ。  大人の門出を祝うケーキで、子ども時代のお小遣いは全て使い切った。  完全なるゼロからのスタート。   「乾杯!」    私は一人、グラスに注いだオレンジジュースを持ち上げ、世界と乾杯をする。   「新しい私に! 乾杯! 大人な私に! 乾杯!」    世界が明るい。  昨日までの、すりガラスがかかったような世界では、もうないのだ。    たらふく飲んで、たらふく食べて、私はさっそく、アルバイトの求人を探し始めた。  ビバ、自立!        ◆          ◆       「なんじゃこれ」    一通り書き終え、ペンを置いた私の目に飛び込んできたのは、起承転結さえ怪しい小説だ。  勢いで始まり、勢いで駆け抜け、勢いで終わっていた。    タイマーを見る。  残り、三分。   「ま、これも一つの作品……か」    思えば小説を書き始めた頃、九文字の小説をドヤ顔で出したのが私だ。  そんな私にかかれば、これも立派な小説だと、自分の作品だと、なんの恥も悪びれもなく出せる気がした。    というか出す。   「後一分、最後に見直しをしてっと」    さあ、完成だ。

私の存在に名前をつけて欲しい

…麦も豊作だったし、昨日は遠い街まで新しい冬用の洋服も取りに行った。 燃料は心許ないが、節制を心がければ今年の冬も越すことができるだろう。 具体的に何がどれぐらいあるかなどの確認を終えて倉庫を出てみれば、いつの間にかあたりは橙色の陽光に照らされていた。 日は大分傾いており、気の早い夜の闇が世界を包み始めている。 と、君の唄声が秋風に乗って耳に届いた。 きっといつもの場所で伸び伸び歌っているんだろう。 僕は君が歌っている場所へ、真っ直ぐ向かった。 「〜〜〜♪」 太陽の残滓のスポットライトの下、平たい岩の上を舞台に歌う君の姿は矢張り絵になる。 「そろそろ夜だよ」 僕が声をかけると、彼女は途端に歌うのをやめた。 昔から恥ずかしがり屋の君はいつもそうだから、僕は特に気にならない。 「そろそろ物語は完結したかい?」 僕がそう聞いても、君は首を振るばかり。 「お互いの作品を交換して題名をつけようって約束したじゃないか。物語は名前を与えられたときに意味が生まれるんだよ…なんて言っても、焦りすぎても駄作になるだけだよね、ごめん」 君はその切れ長な瞳を何故か寂しそうに細めると、岩から降りた。 森の中では慣れた道でも、完全な闇に包まれると道に迷って仕舞う。 「さあ、帰ろう」 君の手を取って、仄暗い帰路についたのだった。 「どんな名作でも、駄作でも、物語は名前を与えられたときに意味が生まれるんだよ。だからさ、お互いの作品を交換してタイトル付けてみない?意味を与え合っている感があってよくない?」 貴方が愛していた者が、そんな言葉を残して死んだ所為で私の存在が生まれた。 貴方の妄想が、過去への執着が、私を形作っている。 殆どの人間が死んでしまった世界で不運にも生き残って仕舞った貴方は、今日も妄想である私と共に独りぼっちで生きて行く。

二人だけの世界

 いつも一緒のひーちゃんとみーくん。二人は仲の良い双子の姉弟。彼らは母親の胎内に生を宿したその時から、生涯を共にしてきた。運命共同体だと錯覚するほどに、二人はどんな時でも隣にいた。 「みーくん、聞いて」  あまり感情の起伏の少ないひーちゃん。けれどみーくんには彼女が喜んでいることが手に取るように分かった。ひーちゃんが嬉しいとみーくんも嬉しくなる。彼は自然と笑顔になっていた。 「ひーちゃん、どうしたの?」  ひーちゃんは頬を赤くして目を泳がせる。 「あのね、……彼氏が、できたの」  ひーちゃんの言葉にみーくんは凍り付いた。ひーちゃんと感情が伴わないのはこれが初めてだった。照れているひーちゃんに対して、みーくんは冷や水を全身に浴びたような冷えた心地がした。 「そう、なんだ」  みーくんが絞り出した言葉に、ひーちゃんはニコニコとしながら話し出した。彼氏になった男のことを。みーくんには心当たりがあった。最近ひーちゃんと仲が良くなった男だ。ずっと二人で生きていくと信じて疑わなかったみーくんはひーちゃんが男と仲良くしていても何とも思わなかったのだ。  みーくんは考える。どうしてこうなったのかを。ひーちゃんがどうしたら自分の方に戻って来るのかを。 「……ひーちゃん、僕と彼奴、どっちが好き?」  みーくんの言葉に、ひーちゃんは目を丸くする。 「彼とは出会ったばかりだから、みーくんの方が好きよ」  ああ、良かった。みーくんは胸を撫で下ろし、ようやく笑顔を向けることができた。  ひーちゃんの口数が明らかに減っている。ひーちゃんが悲しんでいる。ひーちゃんが悲しいと、みーくんも悲しくなる。 「どうしたの、ひーちゃん」  みーくんが声をかけると、ひーちゃんは抱き着いてきた。みーくんは震える華奢な背中に腕を回す。 「ッ……あのね……。彼氏に、フラれちゃって……」 「そうだったんだね」  みーくんは優しく背中を擦る。促されるままに、ひーちゃんは泣き出した。  可哀想なひーちゃん。大丈夫だよ。僕がずっと一緒にいるからね。

鶴亀算

 あなたが海を見ながら道を歩いていると、遠くの方で何かが苦しそうに鳴く声が聞こえました。  何事かと思って声のする方を見ると、鶴が罠に足を挟まれて苦しそうにしていました。  これはいかんと、あなたは鶴を助けようとしました。    が、同時に、浜辺の方で何かが苦しそうに鳴く声が聞こえました。  何事かと思って声のする方を見ると、亀が子供たちに囲まれ、何度も蹴られて苦しそうにしていました。    あなたは迷いました。  どちらも、すぐに助けなければ、                    ところで、あなたはどっちを助けるの?