買いものへの気持ちの躊躇 夏の気配は、あとどれくらいか 戸惑いとともに夜の街へ 近づいていくと止む虫の声は 彼らなりのゆずれないところか 姿なく流れるやさしい風に こころのなかだけで感謝 ふう、いい気持ち さんまの季節が、やって来るなあ 残り少ない夏の気配に さみしさがつのる
六角形の凧を作るには 竹を凧の骨にする 竹の端に小刀を差し込み トントンと刃を入れていけば パキッと竹が切れる 割れるに近い 骨にする竹を割り切ったら 角を削り仕上げる この時に小刀を掌に差し込み 刀の刃が刺さった場所から大量の血液が流れ出てきた 学童の先生、子供好きな主婦の人は 僕の手を水道の蛇口に当てて水で血を流していた あの時の先生の真剣な顔が忘れられない 特にそれについて感情があるわけではないのだけれど その傷跡は未だに残っている 今思えば母と学童側で連絡がなされたろうに 家で一人でいた時に母が帰ってきた場面もよく覚えている
ある日の夕方。 テレビのローカルニュース。 アナウンサーが原稿に視線を向けた。 「今日の午後、17歳の高校生が民家に忍び込み、現金3,000円を盗んだ容疑で逮捕されました」 画面に、口元だけの女が映った。 『挨拶もきちんとできるいい子よ。 そこの公園で、いつも一人でサッカーボールを壁にぶつけてたわ』 モニターを見るアナウンサーが、小さくうなずいた。 「次のニュースです。 今日の午後、17歳の高校生が地元サッカークラブへの入団を決めました。契約金は3,000万円だそうです」 画面に、笑顔の女が映った。 『挨拶もきちんとできるいい子よ。 そこの公園で、いつも一人でサッカーボールを壁にぶつけてたわ』 モニターを見るアナウンサーが、小さくうなずいた。
「我が国の代表は極悪人だ! 国を滅ぼそうとしている!」 一人のリーダーがステージ上で高らかに宣言すると、集まった者どもから大きな拍手が沸き起こる。 リーダーは、その強大な一体感を前に、思わず目に涙をためた。 「そうだそうだ! 俺たちは国を守らなきゃならねえ!」 「この国に、代表の継続を望んでいる人なんて一人もいねえ!」 「今すぐ、代表の交代を! リーダーこそが真の代表だ!」 皆は、共に叫び、共に泣き、共に杯を交わした。 今この場に、リーダーの言葉に反対するものなど、誰もいない。 「これが民意だ! 必ず、この国をあるべき姿に取り戻す!」 「おおおおー!」 夜になり、皆は解散する。 建物を出て、窓ガラスにスモークの入ったタクシーに乗り込み、それぞれが家に帰る。 「代表!」 「代表!」 「代表!」 「代表!」 建物の外では、大型スクリーンに手をフル代表が映し出され、国民たちはそこへ向かった笑顔で旗を振っている。 支持率九十パーセントの、絶対的な代表に。 タクシーは、外部の景色も音も遮断して、夜の道路を走っていった。
俺が学生時代、アメリカに住んでたときの話なんだけどさ。俺が住んでたところは、それぞれに個室があって、キッチンとか風呂は共用。 シェアハウスって言えばイメージしやすいと思う。すっげぇ古い家を何度もリノベーションして使ってて、煙突と暖炉のある立派な家だった。歴史を感じられる、いい家だったよ――ただひとつを除いて。 俺は、この家のランドリールームが嫌いだった。 玄関から入って右の扉を開けると、地下に続く暗い階段がある。そこを降りると、例のランドリールームだ。コンクリート打ちっぱなしで、年中ひんやりしてて、どこか湿っぽい。裸電球がひとつ、部屋の真ん中にぶら下がっているだけだから、端のほうはいつも薄暗くてよく見えない。昔の住人が使っていたのかもわからない工具が、床にいくつも転がっていた。 洗濯機と乾燥機が一台ずつあって、誰かが使ってたら少し待たなきゃいけない。三十分以上かかるなら一度部屋に戻るけど、十分くらいなら他のやつに取られたくないし、そのまま地下で待つことが多かった。 その日もそうだった。真夏なのに、ランドリールームは相変わらず肌寒い。俺はイヤホンから流れるヘビメタの音量を上げて、ぼんやりと洗濯機の回転を眺めていた。 ドラム式の洗濯機がゴウンゴウンとうなりを上げ、右上に表示された赤い残り時間が、五分ごとに減っていく。 そのとき、視界の端で何かが動いた気がした。 反射的にそっちを振り向く。 床には何もない。 ゆっくりと視線を上へ上げていくと……脚があった。 白い脚が二本、何もない空間で、ゆらゆらと揺れている。 膝から下だけの、裸足の脚。 暗闇の中で、自ら発光しているみたいに白く、静かに揺れていた。 俺は声も出せずに、階段へ駆け上がった。 そして、家にいたやつら全員を引き連れて地下に戻った。けど、そこにはいつも通りの、ひんやりとしたランドリールームがあるだけだった。洗濯が終わったことを示す赤い「0」が点灯している洗濯機と、俺の洗濯物が入ったカゴがぽつんと置かれているだけ。 ハウスメイトたちには「ビビリ」だなんだとバカにされたけど、俺はこの目で、確かに見たんだ。 その日からアメリカを去るまで、俺は地下に行く前に階段の上から洗濯機の音を確認してから降りるようになった。ゴウンゴウンと聞こえれば、地下に降りずに音が止まる、つまり洗濯が終わるまで地上で待った。 ランドリールームにいる時間はできるだけ短く。 そして…あの脚があった場所だけは、絶対に視界に入れないようにした。
バスが五分ほど遅れていた。 休日の昼を少し過ぎた時間。 公園のベンチに腰を掛け、ポケットから煙草を一本抜き出した。 くわえたあとで、周りを見回す。 今は煙草を吸うにも気を使う。 これから、携帯ショップに行かなければならない。 スマホに入れたアプリのせいだ。 先日から画面に、更新しろだの、紐付け直せだのと通知が続けて出た。 言われるままに触っていたら、最後はエラー画面のままフリーズした。 煙草はやめられない。 スマホは使えないと困る。 面倒なことだ。 気づけば煙草が短くなっていた。 バスに人が乗りはじめたようだ。 私は仕方なく腰を上げた。
ある日の夕方、男が改札を出た。 一瞬、足を止める。 駅のホールに、小学生の声が響く。 「募金お願いします」 両手で箱を抱え、頭を下げた。 小さな女の子が駆け寄り、小銭を入れた。 杖をついた老人が、財布を開いた。 車椅子の青年が、片手で車輪を回しながら、箱に手を伸ばす。 「ありがとうございます」 取材のカメラが、小学生の笑顔を映した。 男は、大きく息を吐いた。 そして、両脇に並ぶ小学生の真ん中を歩き、駅を出た。 「募金お願いします」 背中に視線を感じる。 少しずつ、声が遠くなる。 男は、街のネオンを眺めながら呟いた。 「勝った」
八月のカレンダーをめくる いままでの青っぽい絵から 黄色や茶色が目立つようになる それが、なんかヤだ 海とか、空とか 青い絵がよかったのに 新学期がはじまる朝 そんなことで気持ちが沈んでしまう そんな自分が、なんかヤだ
近所のスーパーが進化した。 昨日までスーパーだったのに、なぜかハイパーと名乗っていた。 「なにこれおもしろそう」 好奇心で入ってみた。 店内は、昨日とは比べ物にならない程ピカピカになっており、店員たちも高そうな制服に身を包んで立っている。 「我がスーパーは、より良い物をお客様に届けたい想いで、変わりました!」 スーパー……いや、ハイパーの店長さんらしい人が、メガホンを持って客へアピールをしている。 そこはアナログなのか。 それはさておき、ぼくは昼食を調達するため、いつものお総菜コーナーに向かった。 ぼくが好きなのは、中華弁当だ。 チャーハンと八宝菜の組み合わせが、このスーパーのお惣菜の中で、ベストマリアージュなのだ。 「あれ?」 だが、お総菜コーナーに、中華弁当の姿はなく、代わりにに北京ダック弁当が置かれていた。 お値段は、中華弁当が十個は買える値段だ。 他のお惣菜を見ても、どれも内容とお値段がハイパーになっていた。 ぼくは無言で、お総菜コーナーを後にした。 ハイパーを出る途中、ハイパーに出店しているお店を見てみれば、どれもこれもお高い物ばかり。 庶民の財布では、ちょっと手が出ない。 「普段の日常に、良い物を取り入れましょう! ハイパーな日常にしましょう!」 必死な店長の顔をチラ見して、ぼくはハイパーを出た。 「店長がお客さんなら、買うのかな?」 いったい、なぜこんなことになったのか。 答え合わせが完了するより先に、しばらくするとハイパーは潰れていた。 建物が取り壊され、新しく何かが建つのを見ながら、ぼくなら何を建てるだろうと物思いにふけっていた。
──フラッシュフィクションとは、数百語程度の極めて短い超短編小説のこと。 『ただいま』 深夜、玄関から「ただいま」と妻の声がした。 俺はベッドから飛び起きた。 隣で眠っていた妻も、同時に目を覚ました。 「今の、私の声だよね?」 『初対面』 「初めまして」と彼女は笑った。 僕も笑って、握手をした。 これで妻と初対面をするのは、七回目だった。 『犯人』 「犯人の顔を覚えていますか?」 私は首を振った。 刑事は安心したように笑った。 その顔なら、覚えていた。 『留守電』 「今夜は遅くなるから、先に寝てて」 妻からの留守電を聞いて、安心して眠った。 その日は、妻の葬式から帰ってきた夜だった。 『娘』 「パパ!」 少女が駆け寄ってきたので、慌てて抱きとめた。 「人違いだよ」と笑おうとして、やめた。 十年前に埋めた娘と、同じ顔だった。 『防犯カメラ』 一人暮らしなので、玄関に防犯カメラを取り付けた。 翌朝、録画には午前二時に帰宅する私が映っていた。 私はその夜、一度も外出していない。 『合鍵』 別れた彼女から「合鍵は捨てた」と連絡が来た。 念のため鍵を交換し、その夜は安心して眠った。 朝、枕元に古い鍵が置いてあった。 『似顔絵』 刑事に頼まれ、昨日見た男の顔を描いた。 完成した似顔絵を見て、刑事の表情が変わった。 「あなた、自分の顔を見たことがありますか?」 『足音』 毎晩、二階から子供の走る音がする。 古い家だから、と自分に言い聞かせて眠っている。 この家に二階はない。 『隙間』 眠る前、カーテンの隙間から誰かがこちらを見ている気がした。 怖くなって、隙間を閉じた。 「見つかった」と、カーテンの内側から聞こえた。 『面会』 「今日は調子がいいみたいですね」 白衣の男が笑った。 私はベッドの上で身体を起こした。 「もう帰ってもいいですか?」 「焦らないで。まず、お名前を言えますか?」 「佐藤健一です」 「年齢は?」 「三十二歳」 「ご家族は?」 「妻と、五歳の娘がいます」 男は手元の紙に何かを書いた。 「娘さんのお名前は?」 「美咲」 「最後に会ったのは?」 「昨日です。ここに見舞いに来てくれました」 男はしばらく黙っていた。 そして、私の肩に手を置いた。 「今日はここまでにしましょう」 「待ってください。退院はいつですか?」 男は答えず、部屋を出ていった。 廊下では看護師が待っていた。 「先生、どうでした?」 男はカルテを閉じた。 「駄目だ。今日も自分を父親だと思っている」
むかしむかし、あるところに、とても巧い小説を書く作家がいました。 作家は、自分の書く作品こそ世界一で、自分の書く作品はすべての人類を感動させることができると思っていました。 しかし、意気揚々と小説投稿サイトに登録したところ、作家の作品を読む人はいませんでした。 一話が読まれても、二話目は読まれない。 誰にも読まれることがない日もありました。 作家は、首を傾げました。 ある日、作家の作品にコメントがつきました。 『難しすぎてわからない』 作家は、怒りました。 何故なら、自分の作品は巧いからです。 しかし、作家の想いに反して、そのコメントは多くの読者に共感されていました。 『難しい言葉が使われている』 『伏線が細かすぎて気づけない』 『文章量多すぎ』 「なんだ、この浅い読者どもは! こんな浅いやつらに、私の作品がわかるわけがなかろう!」 作家は、大いに怒りました。 馬鹿しかいないところに作品を置いていても仕方ないと、別の場所へ作品を投稿しました。 しかし、いつ投稿しようと、どこへ投稿しようと、作品への評価は変わりませんでした。 作家は、大いに悔しがりました。 「今の時代には、浅い読者しかいない。本当に面白い作品は、手に取られることもないのだ」 作家は、悔しい思いのまま、ランキング一位の作品を読みました。 その内容は、わかりやすい言葉とわかりやすい展開が詰め込まれた、作家にとって『巧い』とはとても呼べぬ代物でした。 「ああ、時代が悪かった。浅い読者しかいない時代では、私の作品などどうやっても評価されない」 作家は、ペンを置きました。 身に着けたタイピングの速さをもって、デスクワークの仕事へと就職しました。 入ってくる小金を見つめながら、作家はもう、作品を書かぬと決意したのです。
起きたら世界が滅んでいた。 いや、わたしの家の中だけが限定的に滅んでいる可能性はまだ否定できない。 出来ないけど、ベッドの足下にはクラゲがくつろいでるし、窓は特大スイカに塞がれて光が入ってこない。 わたしが布団だと思っているものはいつの間にかベージュの砂に変わっているし、手のひらサイズのヤドカリがシーグラスが突いている。 キッチンで蛇口をひねると、ぬるいかき氷のシロップが出た。 「氷ほしいな」 残念ながら氷のストックはない。買わねばならない。 外に出ると、空一面に花火が上がっていた。 大き過ぎる入道雲を貫いて、空の色を塗り潰す勢いで放たれる打ち上げ花火。 よく見れば人間も打ち上げられている。昨日のコンビニで会計をしてくれた店員さん。週に何度か朝の電車で遭遇する女の子。わたしの嫌いなわたしの姉。 皆落ち着いていて、この状況を受け入れた顔をして打ち上げられている。置いて行かれるのはなんだか嫌な気分だ。 「仲間外れにしないでよ。混ぜて」 花火の欠片が隕石に姿を変え、路面に、民家に、電柱に次々ブチ当たっていく。 きっと世界は終わりに向かっているのだろう。 それでもわたしは、打ち上がる皆の方へ歩き出した。
山間部にある限界集落。 集会所に年寄りたちが集まった。 「だいたい集まったな」 村長が、長机を挟んで座った。 「今日は、村の今後のことを話そうと思ってな」 「どうした、急に」 「昔みたいな、賑やかな村に戻りたいだろ」 ──ガラガラガラ。 玄関の扉が開いた。 「遅くなりました」 スーツ姿の男が入ってきた。 「おぉ、待ってたよ。この人、ホラープランナー」 年寄りたちが、視線を向けた。 「村長、あんた何考えてんだ」 「この村、空き家多いだろ。それ使って、お化け屋敷作る」 男が、声をあげた。 「私は、お化け屋敷の企画から立ち上げ……」 「ちょっと待て。村に、お化け屋敷作るってか」 村長が立ち上がり、窓の向こうを指さした。 「若い奴らって、心霊好きだろ? しかも、没入型だ」 「なんだ、それ」 男が一枚の紙を取り出した。 そして、年寄りたちを見渡すと、大きくうなずいた。 「まぁ、開業は二、三年後ってとこですかね」 ──契約書。 『死後はキャストとして勤務すること』
「はい、始まりましたドキドキ滅亡クッキング。先生、よろしくお願いします」 「よろしくお願いします」 「今日のメニューは何でしょうか」 「『滅亡パフェ 〜晩夏のかほりを添えて〜』を作っていきます」 「先生、まだ毎日暑いですが」 「世界の暦は晩夏と主張しています。異議は認めません」 わたし達二人を捉えるカメラは、しかし誰も動かしていない。 さっき滅んでしまった世界の住人だからだ。 「えー、まず、人類の欲望をジュレにしたものを一層目に入れます」 「欲望ジュレ、三〇〇グラムです」 うっすら紫に着色されたゲル状のものがパフェグラスに入れられた。ドロリとしていて、健康面への配慮はなさそうに見える。 「二層目、工事の終わらない建築物を砕いてフレーク状にしたものになります」 「終わりのない建築物のフレーク、二〇〇グラムです」 暗いトーンのカラフルなフレークが、うっすら紫のゲルの上に雪のように積もる。 見かけよりも重量がありそうだ。 「ジュレとフレークをもう一層ずつ重ねたら、暑い季節らしくサッパリとした海水のアイスを飾って完成です。滅亡戦犯のサブレで掬って食べるといいと思います」 「海水アイス五〇グラムです」 アイスは無色透明で、中で小魚が泳いでいる。 「それでは実食しましょう」 「先生、このアイス固まってないんじゃないですか? 魚泳いでますけど」 「そう見えるだけでしょう。錯覚です」 錯覚な訳はない。私の視力はニ.〇だ。 先生が、アイスとフレークとジュレを絶妙なバランスでサブレに盛り差し出してきた。 食べたくない。 「お先にどうぞ」 「これも仕事ですよ。食べたらまた創るんですから」 鼻をつまみ、全部を一口で収めてみた。サクサクとろりとした食感に口が支配される。 「どうですか?」 「人類には早すぎる味がします……絶妙に不味くないのがなんとも」 「母なる海が全てを包み込んでくれている証拠ですね。それではドキドキ滅亡クッキング、また次回お会いしましょう」 「さようなら」 誰も動かしていないカメラに向かって、わたし達は頭を下げた。
昔、フラットアースなんて考え方があったらしい。 要するに、地球は平らで、端っこまで行ったら落ちるってことだ。 もっとも、宇宙から地球を観測できる時代になった今、そんな眉唾を信じている人間はほとんどいないが。 俺だって、信じちゃいない。 「えー、今月で契約解除となります」 「は?」 でも、人生に端っこはあるらしい。 AIによる業務効率化。 何年も働き続けた職場は、あっさりと俺を首にした。 「は!? 首? 結婚式はすぐなんだよ!? どうするの!?」 「うるせー! 俺だって言われたばっかで、どうすりゃいいか……」 「ああ、もう! 無職のやつと結婚してどうなるのよ! 出産費用は? 育児にかかるお金は? マイホームは?」 俺の首を聞いた婚約者は、あっさりと俺に別れを告げた。 何週間も話し合ったが、結局は喧嘩両成敗という、馬鹿馬鹿しい言葉で片付けられた。 婚約破棄の慰謝料もとれないどころか、彼女から慰謝料をとれないことに文句を言われた。 「たった数ヶ月で、人生ってここまで変わるんだな」 二人暮らし用のマンションから、一人暮らし用のアパートへ引っ越した。 丁度引っ越しのオフシーズン。 そこそこの部屋を手ごろな値段で借りられたのは、不幸中の幸いだった。 畳に寝っ転がって、天井を見る。 古い木の天井には、すでに小さな蜘蛛の巣ができており、家賃の安さを感じられた。 引っ越し当日からピンポンと訪問営業がインターフォンを鳴らし、引っ越しの疲れを癒す暇さえくれなかった。 「あー。これが底辺か」 一人暮らしなのをいいことに、周囲から顰蹙を買いそうな言葉を、堂々と呟く。 壁が薄いので、隣の住人に聞こえないかとも思ったが、幸い壁を叩かれたりはしなかった。 「これから、どうすっかなー」 暗転した未来を想像しながらだらだらとしていると、ふいにスマホに通知が届いた。 『久しぶりー。飲みに行かね?』 中学生からの友人だ。 俺は薄くなった財布を確認して、すぐに返事をした。 『いいぞ』 どうせ、すぐになくなるはした金。 今日使い果たすも、来週使い果たすも、変わらない。 「まじか! お前、失業したの?」 「声がでけえ!」 騒がしいとは、誰が聞いているかわからない居酒屋だ。 大きな声で言う友人の口を、俺はすぐに塞ぎにかかる。 「わり、わり、でも、どうせ誰も聞いてねーよ」 「まあ、そうだろうけど」 友人の言葉に納得しつつ、やはりもやもやとしたものが残った。 どうやらこの底辺にも、小さな小さなプライドというやつは残っているらしい。 「人生に、端っこってあるんだな」 「なんだよ、それ?」 酔いも回った俺は、友人に持論を展開した。 人生という世界は、まるでフラットアースのように端っこがあり、端っこまで来てしまうと後は落ちるだけなのだと。 友人は、ビールをぐびぐびと飲みながら俺の話を聞いた後、唐突に手を上げた。 「すみません、お会計で!」 「はあ?」 そして、飲みを突然打ち切って、俺の手を引いて外に出た。 「おいおいおい。突然どうした?」 「いいから来い!」 訳も分からず引っ張られ、わけもわからずついていく。 連れていかれたのは、川にかかった橋。 どこぞの野球チームが勝ったとき、飛び込む馬鹿が出るところだ。 俺が怪訝な表情で友人を見ると、友人の顔はキラキラ輝いていた。 「飛ぶぞ!」 「は?」 古い服を着た俺と、高そうなアクセサリーを付けた友人。 そんな二人が、なぜだか手を握って、橋の柵から身を乗り出そうとしている。 「いやいやいやいや! なんでそうなるんだ!」 「え?」 「だいたい、飛んでどうなる? それに、怪我したら危ないし」 俺が焦ったように叫んでも、友人はにんまりとした表情を崩さない。 「端っこが怖いんだろ?」 「あん?」 「だから、飛ぶんだよ! 大丈夫! 失業も婚約破棄も、全然恐くねえよ! それよか、橋から飛び降りる方が、よっぽど恐えだろ!」 「力強っ!」 浮遊する足。 近づいてくる川。 走馬灯が頭の中をめぐり、走馬灯の中で川に飛び込む馬鹿の顔が見えた。 「殺す気か!」 「生きてる生きてる! あーっはっはっは!」 水に落ちた後、俺たちは泳いで川辺へと避難した。 友人を睨むと、友人は豪快に笑い転げていた。 「どうだった? 端っこから落ちた感想は?」 呆れて物も言えなかったが、なぜだか気分はすっきりとしていた。 「意外と、大したことねえな」 俺たちはずぶ濡れのまま、二人で夜空を見上げていた。
「残業が憎い……」 釘を打ち付ける。 「楽しめる趣味のあるやつが憎い……」 階段を降りて、登って、また打ち込む。 「思わせ振りに笑いかけたりしたくせに、私の純情を弄んだアイツが憎いっ!」 降りて登って、またトンカチを釘に叩きつける。 この世界は私に優しくない。だからこんな世界壊れてほしい。 思い立った私は、具体的な手順について考えた。 今の時期は夏。夏といえば丑の刻参りが鉄板中の鉄板だろう。 しかし対象は特定の個人ではない。世界そのものだ。 思案する私に神は語りかけてきた。お百度参りをすれば良いと。ネットの世界に降臨する神を信じることに多少の抵抗はあったが、信じてみるのも悪くないと思った。 人の寄り付かない寂れた神社。そこで一番大きく太い木に世界地図を貼り付け、恨み言をぶつけながら、一度釘を打っては階段を降りてまた登るを繰り返す。 「世界が……憎いっ!!!!」 一〇〇個目の恨み叩き込んだ瞬間、視界に映る世界のすべてが崩れだした。 星なんてロクに見えない真っ暗な夜空も、地面を這いまわる小さな蟻たちも、人工的に生み出された美しい夜景も。 何もかもが細かく崩れ、粒子となって何処かへ飛ばされていく。 「あは……ははははははぁはははぁはっ……」 見ていた私も、いつの間にか口が消え、最後に残った目も消えーー……。
こちらからすれば パンの中の柔らかい所を隠して、飾っているつもりなのだけど 彼女からすれば、何故それがあなたなのかと思うでしょうよ 好きとか嫌いとか、そういうのではなく ただ、僕らは相性が良いから それも僕が言っているわけではなく そう言った意見をよく聞くのさ だから、僕が君を美味しくしているわけでもないし 君が僕を美味しくしているわけでもない ただ、ただ、相性が良いだけなんだ 僕はさっき、好きとか嫌いとかじゃなくて、とは言ったけど、僕は自身は君にメルティさ。少し焦げているけどね…
「急に呼び出して何の用だ橋本」 「親友のお前には言っておかないとかなって思ってさ。俺、余命あと1年なんだ」 「...冗談だろ」 「本当だよ。だから俺、せっかくだし死ぬまでにやりたい100の悪事を書いてきたんだ!」 橋本が自慢げに1冊のノートを見せる。 「...は?」 「記念すべき『死ぬまでにやりたい100の悪事1つ目!道端にガムを吐き捨てる!』ってな訳で動画を撮れ田口!」 田口が混乱しながらカメラを構えると、橋本は意気揚々とガムを口に放り投げ、吐き捨てた。 「どうだ!撮れたか?」 「撮れたけど、ちょっと待て頭が追いつかない。まずなんで『やりたいこと』じゃなくて『やりたい悪事』なんだよ」 「ほらさ、俺って品行方正に生きてきただろ?」 「そんなに真面目じゃなかっただろ」 「だから絶対死ぬときに『なんで悪人じゃなくて俺が死ななきゃいけないんだ』って思うことになる」 「...」 「だからもういっそのこと死ぬまでに悪事をやり尽くして、死ぬときには『俺は死んで当然の人間だった!』って思いたいんだよ」 「...。でもガムを吐き捨てるだなんてこと一人で出来るだろ。なんで俺を呼んだんだよ」 「馬鹿だな田口。俺は母親似だぜ?母さんも俺が死ぬときに『どうして悪人じゃなくて私の息子が!』ってことになる。そんなときにこの動画を見れば『こんな息子死んで当然!』って思考になるはずだ」 「...ならないだろ」 田口が重たい顔で俯いていると、橋本が田口の腕を引く。ベチャっと残酷な音が響いた。 「お前何やってんだよ!気持ち悪!」 「ガム踏むと本当にこんな感じになるんだ...」 「観察してんじゃねえよ!最悪だわまじで」 ぶつくさと文句を言い続ける田口の横で橋本がガサゴソと荷物をあさる。 「そんな田口くんにプレゼントでーす」 「お前これ俺が欲しいって言ってたスニーカー!」 「協力料だ。安いもんだこれくらい。んじゃ!今日はもう帰るわ!また連絡する」 橋本は病人とは思えない軽快なステップで歩き始める。 「我ながら良いアイデアだなー。悪事を重ねていけば、何したってみんな俺が悪いって思うし」 〈死ぬまでにやりたい100の悪事〉 1:道端にガムを吐き捨てる 2:道端にポイ捨てする 3:ファミレスで長時間居座る 4:夜11時以降も出歩く 5:未成年飲酒 6:パチンコに行ってみる 7:自転車に二人乗り 8:夜の学校に忍び込む 9:だれもいない赤信号を渡る 10:電車で大声で話す 11:試食コーナーを周回 12:エスカレーターを走る 13:街中にスプレー缶で落書き 14:コンビニでトイレだけ借りる 15:ピンポンダッシュ 16:滑り台逆走 17:ブランコを絡ませる 18:花火禁止のところで花火 19:スケボー禁止のところでスケボー 20:祭りでゴミを置いていく 21:道路でキャッチボール 22:電車のドアを塞ぐ 23:コンビニ前でたむろ 24:花壇を踏む 25:エスカレーター逆走 (省略) 96:公園のベンチ占領 97:歩道の縁石を歩く 98:店内で鬼ごっこ 99:家出 100:父親を殺す
ある日の午後。 身体社会学の女性教授が、マイクの前に立った。 「みなさん、ルッキズムって聞いたことありますか?」 「人のこと、外見で特別扱いしたり、差別したりすることですか?」 「はい。外見至上主義と呼ばれてます」 背後のスクリーンを指さした。 「今から写真をお見せしますね」 マスクの女が、写し出された。 「この女性、みなさんはどのような印象を受けますか?」 「清楚な、お金持ちのお嬢様って感じに見えます」 「そうですか。では、次の写真です」 「えっ」 最前列の学生が、目を伏せた。 「マスクを取った、先ほどの女性です」 「口が……」 「口裂け女です」 しばらく、沈黙が続いた。 「マスクしてると、見えてるところだけでイメージしてしまいますね」 授業の終わりのチャイムが鳴った。 「感染症が流行ったあと、マスクを外せない人が増えましたよね」 「先生もですか?」 「楽ですからね。目の周りだけ念入りに化粧してます」 目元を指でさした。 「おキレイですよね」 「それもルッキズムですよ」 教授は笑いながら、マスクに手を掛けた。 「私、キレイ?」 視線が集まる。 「鼻が……」
品性も知性もないタイトルだ。 昨日畑で貰った野菜を食べたからか物凄く臭いウンチが出た。 デトックスされたのだろうか? そしてコーラを飲む。 胃腸は僕の小宇宙。 見たこともない細菌で埋め尽くされている。 下水道で細菌をサンプル入手する科学者たちはそれを何に使うのだろうが? 何かの化学兵器だろうか? 僕の胃腸は兵器工場。 明日も日が昇る。 臭い臭い。 クサーイ。
「総理。議事堂の前に、UFO来てますが」 「何しに?」 「さあ……」 金曜の午後、夕陽に照らされた円盤が、静かに着陸した。 「私たちは、あなた方と友好関係を築きたく、やってきました」 「それはそれは。では今夜、この国流の歓迎会をしましょう。大いに楽しんでください」 総理と宇宙人一行は、夜の街に繰り出した。 ──次の日。 「昨夜は、楽しんでいただけましたか?」 「私たち、帰ります。こんな暮らしをしてたら……」 そう言い放つと、UFOは高く飛び立った。 「総理。行っちゃいましたね」 「いいんじゃない。あの程度で音を上げるようじゃ、この国じゃ無理よ」 総理はドリンク剤を飲みながら、空を見上げた。
カヤクグリが電線に止まっている 鷹の凧が舞う 人の家の屋根のアンテナに満員の雀 夏休みの思い出でも話しているのだろうか 曇り空です 素敵なエプロン 知らない素顔 中指の内側が切れている 無数の擦り傷 子供の声 残り数百円の使い道 人の家の屋根のアンテナにいた満員の雀がいなくなっている サビが移ったガラ 目の前を人が通り過ぎて、良い香りが後からすると良い気分になる AIのポスター プチ遠距離恋愛になった知り合いを心配する 絶対に買わない車の色 帰りに財布の中身を全て使って、お酒を買うか一日中迷っている 汗を飲みに来る虫 片足をつま先立ちする彼氏 剥がれかけの靴底 28歳年下の方との会話 小学生の時の手の平の傷跡 保育園の時のおでこの傷跡 三十代の時の腕の傷跡 おでこの傷跡は未だに痛くなる 今年は七月ってありましたっけ? 32896歩 SEXすら、したいとも思わなくなっている 陰毛としての一生とは かみをいじる人 異国の会話 人の考えを伺いたい 人の生態を知りたい 何を思うのか、私と、どの辺が違うのか知りたい 息子の歯の出方 まだ続く異国の会話 最近毎日「落ち着け、落ち着け」と唱えながら作業をしている 感情のセンサーに異物が付着している 本当はノートに鉛筆で文字を書きたい。この文も ただ文字を鉛筆で書いてしまうと、気持ちを写すのではなく、文章を書いてしまう なつかしい映像 ぎりぎりの人の表情 さつまいもの使い道が今ひとつ分からない 全て夢だった場合も考えておく 違うグループの異国の会話 笑顔は人の警戒心を失くす 知り合いの耳の聞こえない人達は笑顔が多い気がする 樹海と言う文字に魅了されてしまう 混み合う車内 誰にも分からないと思うが玄関を開けることのできる尊さ 一生療養中 美しい女性と美しい人の違い タイミングの合う人 タイミングの悪い人 理攻めには、自分が自由に使える時間が必要になる 疲れていない 家族に息子に何も買ってやれない悔しさ その癖お酒を欲しがる体 死ねばいい、と勝手に口から言葉が出てくる 腹いっぱい食べたいなと自然に思うと、笑けてくる 貧乏は楽しまないと救いがない 幸せはここにある事を忘れないように 悲しみの果てに何があるかなんて 俺は知らない見たこともない ただ、あなたの顔が浮かんで消えるだろう マジックの跡 ルールは過去の努力の結晶
その結婚式は、テレビカメラを通して大々的に放送された。 「ご覧ください! 新郎新婦が出てまいりました!」 宇宙服を着た二人の男女が、宇宙船から外に出た。 腰に固定された機械によって、無重力空間ながらも決められた場所まで体を移動し、宇宙空間で向かい合った。 そして、互いの体を近づけ、メットとメットをコツンとぶつけた。 「誓いの口づけです! フィナーレを飾る、誓いの口づけです! 皆様、盛大な拍手を!」 テレビを見ていた人々は、名前しか知らない二人の男女に、盛大な拍手を送った。 この結婚式は、二人の男女の結婚式でしかない。 しかし、人類発となる宇宙空間での挙式という、人類にとって大きな一歩でもあった。 結婚式を終えた二人の男女は、地球へと帰還し、タワーマンションの最上階でソファに座る。 「はー、なんとかキス回避できたな」 「ほんとほんと。人にキスするとか、汚すぎてマジで無理」 二人は、身体接触を避けたまま結婚式を終えるという一大プロジェクトの完了を祝い、ワイングラスで乾杯した。
シロップをつくった。梅で仕込んだシロップ。いつになくおいしくできた。おいしくできて、でもしかたないと思った。こんなにおいしくできちゃったんなら、あともう少し、生きることにするか、と。二年前の、夏のことだった。 かつ丼を無心でかきこむきみに恋をした。ぼくは悠長に、こんど子豚でも飼おうかなあ、なんて、的外れなことをちょっとばかり考えたけれど、それできみとの仲が発展的な進歩をとげるとはとうてい思えず、引き続きひとりで暮らすことにしようか、と。去年の、夏のことだった。 その後いろいろあって、かんたんに言ってしまうと、ぼくは消えてしまった。煙のように、あるいはシャボン玉のように、あるいは人々の安易な思考のように、ふっと立ちのぼっては、みえなくなってしまった。 ぼくが消えてしまったことが、世界に変化をもたらすことはなかった。あたりまえだ。それでいい。そういうものだ。理解だってしていた。それくらいのこと。 きみだけだった。名残惜しさというものを教えてくれるように、きみは歌ってくれた。きみだけが、みえるはずのないぼくに、歌ってくれた。きみが歌うにはぴったりの、ぼくにはいささか不釣り合いの、ちょっとはずむ曲だった。 歌ったあときみは、サイダーを差し出してきた。あのとき、ぼくが拒んだ口うつしのサイダーは、夏の日の、雲のまにまに。
この夏は きみから教えてもらったあの曲しか きかないことにしてるんだ そう あの曲だよ 指先を わずか五センチ 動かしただけ それだけで僕のこと 送りオオカミにしてしまう きみは小悪魔だね 悪くないものだよ めったに他人を褒めないきみも そのことに強がるきみも 不謹慎にも それでも気持ちは高まるのさ 騒がしいサイレンの音にね やかましさの数だけ 不幸があるわけだけど もう 夏が終わるねえ
水に浮かぶ物体の質量 新聞でブリの養殖についての記事を読んでいると、魚の体重を測ってどうこうというくだりがあり、「秤の上に水を張った水槽を置いて、そこに魚を入れるのかな」と想像した。しかしこの方法で秤の針は動くのかと疑問に思った。 水に触れている物体には浮力が働く。浮力が質量を相殺してゼロにするので針は動かない、と直感した。 同時に、質量はゼロになってるわけじゃなく、水に触れている面積分分散されているだけなので、秤の針は動くはずとも思った。てか物体の質量をゼロにするって字面からして無理そうだし。 気になったので実験した。デジタルスケールに水を入れたコップを置き、氷をいれてみた。 結果、針は動いた。 そりゃそうだ。
「ここ、行ってみないか」 京都大学の前に、学生がよく集まる有名な定食屋があるらしい。テレビには、うまそうなチキンカツが映っていた。 「学生向けだから、そんなに高くないだろう。ついでに何か買い物して帰ろうよ」 「朝いちばんに子どもの自転車置き場の延長手続きをしたら、そのあとなら大丈夫よ」 朝になると、妻は早々に用事を済ませ、先日買ったサマーセーターに着替えていた。 「これじゃ、ちょっと暑いかしら」 「たぶんね」 「こっちにするわ」 妻は軽い足取りで奥の部屋に消えていった。 途中の駅で電車を待つあいだ、何気なくスマホを開いてみた。今日は、その定食屋は休みだった。 「すまん。今日は休みらしい。これからどうしようか」 「チキンカツはまた今度にしたらええやん。せっかくやし、行くだけ行ってみようや」 祇園四条で降りて、四条通りに出た。アスファルトの照り返しが強い。ふいに、少し癖のある香水の匂いが鼻の奥をくすぐった。行き交う人の半分以上は外国人に見える。見慣れたはずのニュースの映像が、そのまま目の前にひろがっているようだった。私たちは、その中をゆっくり歩いた。 「ここ、行ってみようか」 グーグルマップで見つけたラーメン屋の店内を覗くと、酒場のバーのようなつくりで、カウンターの中も客も外国人ばかりだった。看板にはラーメンバーと書いてある。 「しょうがないな」 私たちは、また別のラーメン屋を探して歩き始めた。ようやく普通のラーメンにありつき、店を出てアーケードに入った。 「ハンバーガーが二千円もするよ」 妻が声を上げた。 暑さにたまらず、私たちは大きな本屋に逃げ込んだ。私は伊集院静の初期の作品を二冊買った。妻を探すと、文房具売場でボールペンを手に取っている。 「これ、使いやすそう」 「いいんじゃない」 帰りの電車の中では、私たちは黙ったまま窓の外を眺めていた。 京大前の定食屋の代わりに歩いた京都の街。土産は、どこの量販店にも置いてありそうな本二冊と、ボールペン一本だった。
蛇口をひねる 水が出る あわてて グラスを用意する けれども そのまま 水を飲みたいのか 水にふれたいのか 水の音で 満足してしまうとは そういうことも あるのだなあ 水の音が 心地よくつづく
時は元禄、今は令和 今宵は、気流 このような 言葉があるのは それは、誰もが知っている 流れる それからどうした アルゴリズムを 目的に書くのなら 上昇気流と なるでしょう アップダウン これたけは 避けることなど 無理難題 そのあとどうした 気流や下降 人のながれに まかせて 書くことだけは おやめ下さい。 こんなの どうでしょう 書けるもんなら 書いてくれ
もちろん、蚊に刺されるのは、好きになれない。 夏の終わり、ちょっと気温が下がってから活発に動きはじめる蚊は、よりいっそう好きになれない。いままで鈍っていた動きを取り戻すみたいに、あるいは、達成までだいぶあるノルマを少しでも減らそうとするみたいに。あたかも、八月の最後に、まだ山のように残っている学校の宿題に取り組んでいる自分を、鏡映しで見せつけられてもいるようで、だから…… なのかもしれない。 ちょっと休憩を言い訳に台所へ。もどってみても、宿題は少しも進んでいない。あたり前だ。それでもガリガリ君は、どんどん溶けていく。途方に暮れて、宙を見つめ、明日を思うことくらいしか、できなくなる。
私は、今まで宿題を早めに終わらせずとも、夏休みの終わる数日前になんとか終わらせる程度だった。 そんな私は、今年初めて夏休みの脅威と対面する。 「やあ」 宿題が、最終日になっても終わらない。 そんな体験は初めてだった。 「明日学校だよ?」 夏休みの脅威が話しかけてくる。 「もう諦めた」 「君は今年受験生じゃないか!」 義務教育最終学年。 そういえばカッコいいのだろうが、私にとってはただの、ニートが否かの選別だ。 …あぁ、ニートにならない人もいるのか。 「早く僕を終わらせないと、成績が…!!」 「どーでもいい」 そもそも、生きる事に興味のない人間に、勉強やら高校やらを押し付けた、大人たちが悪いのだ。 別に私はいつ死んだって構わないが、気持ち悪い大人の為に死んであげるほど寛容でもないので、自分勝手に生きている。 「行きたかった高校にだって行けない!第一志望に落ちてしまうよ!」 「へー」 第一志望は、第二志望は、なんのためにあるのだろうか。 交通網が便利で、近くて、そこそこの成績を貫ける高校であれば、どこだっていい。 校舎が汚いのは嫌だけど、不良が多いのもめんどいけど、入れるだけマシなんでしょ? 「ほら早く!!ノートを開いて!ペンを持って!」 なんの為に人は勉強するのだろうか。 行きたくもない学校に通い続け、それが終われば、また行きたくもない会社に通い続け、娯楽はこの世のつまらない情報を脳に入れること。 そんな生きたくもない世界で、どうして勉強をしなければいけないのだろうか。 勉強が私をすればいいのに。 「どうして動かないの!?行きたかった高校に落ちるんだよ!?」 親の決めた志望校。第一志望だから、第二志望だからといって、行きたい訳では決してない。 どうしてこの世に固定概念はあるのだろうか。 自分のされた洗脳が、相手に害をなすとは思わないのだろうか。 「ねぇもう早く!聞いてる!?聞いてってば!!」 「あー、はいはい。」 シャーペンを手に取り、ノートを広げ、宿題の範囲をチェックする。 どうせ私は、この社会でつまらない人生を歩むのだから。 頭のぼーっとする夏の部屋、 脳のうるさい叫び声に応え、 私は終わらない宿題と向き合った。
「ねえ、あいちゃん。私たちって周りからどう見えてるのかな」 私の問いかけにあいちゃんは前髪をいじりながら答える。 「変な風に見えてるんじゃない?」 あいちゃんの声は驚くほどに冷たい。きっとあいちゃんは周りの目なんて気にしてない。 「そうだよね」 私はそう言って花壇に植えられているスズランを見る。小さな白い鈴が風に揺れても音は出ない。偽物の鈴だ。私たちと同じ。私はそう思いながら頭の上の黄色い輪っかに触れる。 「ねえ、あいちゃん。もう戻ろうよ」 あいちゃんは黒いツノをいじっている。私たちは天使と悪魔だ。見た目だけ。私は白い羽を持っているけど飛べないし、あいちゃんは黒い尻尾を持っているけど動かせない。 「どこに帰るの?」 あいちゃんはそう言って私を睨む。その目だけが本当の悪魔みたい。 私たちに帰るところはなかった。昨日、家を追い出されてしまったから。私たちはごく普通の家庭に生まれた。お母さんもお父さんも人間。でもそこに生まれた双子の女の子は人間じゃなかった。見た目だけ天使と悪魔だった。中身は普通の人間。両親も親戚も友達もみんな私たちを気味悪がった。そして昨日、ついに追い出されてしまった。 「帰れないか」 あいちゃんは黙っている。沈黙が流れる。公園のベンチに座っている私たちに視線が集まっている。ひそひそと何かを囁かれている。悪口のようなものがかすかに聞こえてくる。 「いっそのこと本物になれたらいいのに」 私は空を見上げながらそう思う。あの雲の上に私たちの本当の居場所があるんじゃないか。 「なれないよ。見た目だけだよ」 あいちゃんは冷たく言う。 「ねぇ、人間ってなんだと思う?」 私の言葉にあいちゃんは嫌そうな顔をする。 「羽もツノも黄色い輪っかも長いしっぽも持ってない人たち」 あいちゃんは皮肉ぽく言う。 「じゃあさ、それを全部取ったら私たち人間になれるかな」 「なんか、なれない気がする。問題は見た目じゃない気がする」 あいちゃんはそう言って自分の尻尾を触る。動かせないそれはだらんと垂れるだけ。 もしスズランが揺れた時に音が出てもそれを鈴とは思わないだろう。そんな感じだと思った。 「ねぇ、あいちゃん。アイスでも食べに行こうよ」 私はそう言ってベンチを立った。何も言わずにあいちゃんもベンチを立つ。
中華スープがおいしくできた チャーハンはそんなに うまくはできなかったけれど 中華スープはおいしくできた それだけで
見上げれば、満天の星。冷え込んできた空気が、焚き火の熱をよりいっそう愛おしいものにしている。 タープの下、ランタンの灯りに照らされた手元。使い込まれた手挽きのミルに、深煎りに仕上げられたフレンチの粒を流し込む。ゆっくりとハンドルを回すと硬い塊が、ゴリッゴリッと音をさせ砕ける。振動が掌に伝わってきて、あたり一面に、深く、馥郁とした香りが広がっていく。 森の、湿った土や木の匂いに混ざり合いながら、それは確かな存在感を放っている。 本を読むためだけに、わざわざ森にテントを張って。 邪魔もなく、開放的ではある。でも、ここまでする必要、あったかな…… 自問自答も含め、マグカップに珈琲を注いでしまう。腹のなかに沈めてしまえば、煩わしいすべてはなくなる。そして、やさしく、安らぎを…… 「ふう」 悩むなんて、いつもしてるだろ。 後悔なんて、何度もしただろ。 まったく、やれやれだ。森のなかに来てまで、することじゃないよな。 ゆれる炎を見つめながら、最後のひと口を流し込む。ざわついていた思考が静かに消えていき、不思議と「どうでもいいか」と、ひとり言がこぼれた。 本を閉じ、夜空を見上げる。星たちの瞬きが、僕の考えを支持してくれているようだ。 本を読むため、というのは口実で、実際のところ、この香りに包まれ、何も考えない余白の時間を手に入れるためだった、と、やっとそのことに気づく。 わざわざ森にテントを張って。 来た甲斐は、あった。
夕方のおふとんは朝よりも熱がこもる。それに耐えかね、むっくりとベッドからはい出す。いつの間にか近くの工事の音は止んでいて、外を急ぎ足で行くその音さえも心地よくにぎやかしい。水分不足による軽い頭の痛さと空腹が、かろうじて生きていることを知らせてくれる。 いまのわたしを充たしてくれそうなものは。ひとまず、テーブルの上のお煎餅をひとかじり。買いもの行く?行かない?やりくりすればさ、行かなくても。でもあとあと困るよねえ。それはそのときじゃない。けど気持ちが少しでもあるんなら行ってもいいでしょ。行かないでもいいでしょ。うだうだしちゃってるんなら行っちゃったほうがいいと思うよ。自分に軽く言い聞かせ、お財布だけを持って部屋を出る。でも牛乳、だけでいいよね。 牛乳を買うときは財布だけ。ポケットに入るから手ぶらということ。スーパーに着いて目的は牛乳だけなのに、ひと通り見てまわる。いちおう念のため。ふうん、なかなかの品ぞろえですこと、なんて思ってもないこと頭に浮かべながら。 牛乳を買って、それだけを手に持ってスーパーを出る、明日の朝のぶんがなくってさあ、ちょっと寝る前にねえ、来てみたの、みたいなふうを漂わせながら。 道ばたの草のあたりから、虫の声が流れてくる。やさしい夜風と相まって、夏の終わりを感じさせる。どの声がなんの虫かわかったらいいのになあ、毎年、思っていて調べないのはそのときだけのことにしてる証拠。名前がわからなくてもステキなことにかわりない、オーケストラだって、昔の歌謡曲だって。 冷えた牛乳が手に心地いい。 ―だから牛乳買うときは手ぶらで行くようにしてんだあ 元彼のその習慣がいつの間にか自分のスタイルへと変わっている。アイツのために買っていた牛乳。そんなに好きじゃなかったけど、いまはないと困ってしまう。いまもわたしのなかにアイツが生きてるみたいで、それがわたしには、ひどく心地いい。 夏は終わるねえ。つぶやいてみても、その秋は駆けない。
時は元禄、今は令和 今宵は、たんたん このような 言葉があるのは それは、誰もが知っている 感情を出さない それからどうした ダンダンとならば 早くなる そのあとどうした タンタンメンを 食べるスピードも早くなり感情ムキダシで 食べることになる こんなの どうでしょう 書けるもんなら書いてくれ
奇談は書いたことがないとの相談に、指定の喫茶店に行くと友人はすでにショートケーキなんぞを食べていた。らしくない。この友人とケーキの取り合わせが。これからしようとしている奇談とやらとも。 「何にする?」 挨拶もそこそこなのはいつものこと。そのことに安堵するが、それはつかの間だった。 「最近、少年のころの心がよみがえってきてな」 「それでショートケーキか」 「そうだな」 「奇談もそれか?」 「たぶんな」 言って友人は、窓の外を見やる。 「あそこの看板な」 「どれ?」 「矢印のある」 「ああ、なんて読むんだ。モン……」 友人はその地名を教えてくれたが、僕はすぐに忘れてしまった。 「沈黙の音がきこえる村だとかなんとか。美しいところらしい」 「で?」 「なんかうずいちゃってな、カラダが」 ちらっと見せた友人の笑顔が少年のようで、僕は少しはっとした。 「吸い込まれるような感覚にな。あの看板見てると」 「見るなよ。おいっ、行くなよ」 笑い飛ばすわけでもなく友人から明確な返事はなかった。しかし、その数日後だ。その友人と連絡が取れなくなったと知らせが入ったのは。僕は、でも妙に納得した。きっとあの矢印の先を目指しているんだろう、と。友人のなかの少年の心がそうさせている。友人は、彼のなかの少年に喰われてしまった。もしかしたら、彼なりに奇談を書こうとしているのか。