私は臨終医、仕事は単純だ。 静かな部屋に入り、相手を見て、時刻を告げる。 「御臨終です」 家族が泣きながら遺体にすがる。 そこに、家族に寄り添う気持ちなど必要ない。 それで、終わり。 父も医者だった。 臨終医になろうとしたが、なれなかった。 枠は少なく、選ばれたのは別の人間だった。 それでも父は言った。 「いい仕事だぞ」 理由は語らなかったが、その声が妙に耳に残った。 私は名門の医学部を出て、海外にも行き、博士号も取った。 回り道は多かったが、今はここにいる。 だからこそ、この一言は完璧でなくてはならない。 私は週に一度、ボイストレーナーに通っている。 発声練習の合間、鏡の前で無表情を確認する。 一度だけミスをしたことがある。 ペンライトを忘れた。 とっさに胸元の万年筆を取り出し、目の上で上下左右に振った。 近くにいた看護師も気づかなかっただろう。 最近、臨終医をモデルにしたドラマが放送され、志望する医学生が増えたらしい。 彼らは「御臨終です」の後に何か一言つけたがる。 私は何も言わない。 それが美学だ。 ある日、私は突然めまいがして倒れた。 目を開けると、ベッドの横で、若い臨終医が立っている。 「御臨終です。ご主人様は良い人生だったのでしょう。安らかな表情をされています」 私は思った。 まだ若いな──だが、悪くない。
大きな霊園の近くに住んでるとか言ってた気がしたな。誰だったか忘れたけど有名な人のお墓もあるとか。「ウチに来れば案内してあげるよ。遠慮せずいらっしゃい」そう笑顔で話す先生に、私たちは苦笑いを浮かべるだけだった。その先生も大きな霊園のどこかで眠っているのかもしれない。「まだそこまで老いぼれていないぞ」またあのときみたいに、怒られてしまいそうだ。
俺はオセロが大好きだ。オセロをこよなく愛している。今日もスマホでオセロをしている。授業中だろうが気にしない。なぜなら俺はオセロが好きだから。 「おい。お前、何時間やってんだよ。」 俺の友人が隣で囁く。 「は?いいだろ。好きなんだよ。」 そして俺は順調に角を取る。 「はいっ勝ち〜」 俺はここのところ毎回勝っていた。 俺はオセロからも愛されているのだろう。オセロで俺に敵うものは誰もいない。 授業はいつのまにか終わっていた。 「は?お前それ1番強いAIのやつだろ?すご。いや、やり過ぎだろ。」 友人に凄いと言われ、調子が良くなる。 「あーあ。なんか弱過ぎてつまんないかも。もっと強いAIないかなぁ。」 そして俺はそう呟いていた。今思えば、そんなこと呟かなきゃよかったのに。 「あの…。急に話しかけてごめんなさい。オセロ、良かったら対戦してくれませんか。」 俺は思わず肩をあげる。声の先にはクラスで静かな女子がおずおずと後ろに立っていた。 「あ、いいっすよ。」 俺に対戦を挑むとはいい度胸じゃんと思った。どうせ俺が勝つんだ。俺が勝ったらお前は泣くんだろ。やめとけばいいのに。 そうして俺はその女子と勝負した。俺は黒。そいつが白だった。 だが、始まると共に、俺は焦り始めていた。 そう。勝ち目は最初からなかったんだ。 そいつの思い通りに俺はまんまと嵌められる。 ついには角を取られてしまう。 へ〜すごい。という友人の声は、俺にではなく、そいつに向けられる。 俺は焦る。焦るほど駒は白く染まる。 正義は必ず勝つと言うのか。 いつのまにか黒なんて初めからなかったかのように、白だけになった。 「…まじか。」 俺は呆気に取られてしまった。泣きたいのは俺の方だった。どうせ馬鹿にされるんだ。そう思ってそいつの顔を見る。だが、そいつは俺を煽りもせず、満足そうな顔をした。 思わず俺の心が跳ねた。 なんだ今の。 まるで、角に駒を置かれたかのようだった。 「…また、やってもいい?」 その子、いや、そいつはそう言ったんだ。 「…ああ。まぁ、今回は手加減しただけだから。勝たせてやっただけ。次は勝つから。」 俺はそんなこと思ってもいないのに、強がって口走ってしまった。だが、その子は微笑んだだけだった。
君が小学校教諭に向いていて僕が養護教諭に向いている。 君は万能、僕は落ちこぼれ。 何かの因果。 あるいは君はスーパーウーマン。 僕は地下鉄のロビンフッド。 恋は何歳からでも出来ると言うが僕は筋肉注射を切り身体を回復させるのに精一杯。 あなたは私にとってのナイチンゲールなのね、と君は言う。 あるいは追い詰められると掃除をし出す僕はそうなのかもしれない。 衛生学。 看護も手一杯。 民間の闇医者に知り合いが欲しい。 眠れるようになれば寿命は10年くれてやる。 能力のブースト。 精神力。 煙草が欠かせないのはヒロポンが無いからだ。 脳の分析。 酒。 理数的能力。 機能。 愛。
『キュイキュイ。一目惚れです。キュイキュイキュイ。一目惚れです。キュイキュイキュイ。一目惚れです』 私のスマホから、アラートが鳴り響く。 私はすぐにスマホを取り出して、アラートの停止ボタンを押すが、時すでに遅し。 私の周りを歩いていた人たちは、皆私に注目している。 私がそっと顔を上げて振り返ると、さっき私とすれ違ったばかりのイケメンと目が合った。 あー、ばれた。 これで、誰が誰に一目惚れしたのか、完全にばれました。 「えーっと」 強制的に発生した告白イベント。 「ごめんなさい。ぼく、彼女いるんです」 結果は、完全な惨敗だ。 「い、いえ! こちらこそ、すいませんでしたー!」 私はいたたまれない気持ちになって。その場から逃走した。 さっきのイケメンは、当然追ってこない。 一人か二人、スマホのカメラが私の方に向いてた気はする。 でも、止めろと言ってる余裕はない。 ああ、国を恨む。 若者の恋愛離れを食い止めるためだか何だか知らないけど、一目惚れしたら即座に相手に伝えることで恋愛に繋げようとするなんて、原始人の発想だ。 私は憎々しげに、腕に巻かれたブレスレットを睨みつける。 この脈を測る機械、何度破壊してやろうと思っただろう。 「はあ」 路地に隠れて一息を突く。 一目惚れと、それがバレた恥ずかしさ。 ついでに全力疾走したせいで、私の顔はまっかっかだ。 「あー、やっぱ引きこもり絶対ジャスティス」 私は体力が回復したら、さっさと家に帰ろうと決めた。 外は、目に毒なものが多すぎる。 手で自分をパタパタと仰ぐ。 顔がほんの少しだけ冷えて、気持ちが落ち着いてくる。 『キュイキュイ。一目惚れです。キュイキュイキュイ。一目惚れです。キュイキュイキュイ。一目惚れです』 その瞬間、近くでアラートがなった。 「お? お? なんだなんだ! パーティーか!?」 私は路地を飛び出して、音のする方へと走り出した。 ああ、これだから、国にアラートを失くせと要望出せないし、外に出るのをやめられないんだ。
「またね」 君とした口約束。覚えているかい? 学校まで歩いた、あの朝。 他愛もない事を言い合った、あの頃。 でも僕は君に酷いことを言ってしまった。今でも後悔しているよ。 花々が咲き乱れ、茜色に染まった夕焼け。 こんな事を思う。 「もう一度やり直せたら......」 でも、こんな事も思う。 「僕らの人生は、間違えも、正解もない、これが人生で、これも青春なんだ」 この瞬間だって僕にとっての青春。 そしてこの瞬間も明日へ、未来を作ってくれる思い出なのだ。 君が許してくれるなら、もう一度、口約束をしてくれないか。 「 またね」って。
風俗店。 それは出会いに飢えた獣が目を赤くして入店する恐ろしい店である。そのような風俗店にいま私はいる。 別に特段いきたかったわけではない。人並みに性欲はある方だと思う。別にシたいこともあれば、1人ですることも多々ある。しかし、今回に限っては同調圧力に流されただけなのである。獣が我の周りに蔓延って、あたかも常人であるように振る舞っていたのだ。 店員だ。私のもしかのノートと記された注文票を無言で取り、こちらには目もくれず黙々と入力している。これはご飯の準備なのだ。獣が行く店は店員も獣なのだろう。私は覚悟を決め始めた。 すると突如、もしかのノートがテーブルに置かれた。開かれた扉から新たな店員がそのもしもカードをそとに持ち出した。ああ、神よ。なぜそれほど酷いことを私にするのだろう。私は餌として認められたのだ。心臓が大地を揺らしているように揺れる。終わった。 番号が呼ばれた。私は食われるのである。重りをつけられたような重い腰をあげ前店の奥へ進んだ。 本当に最高であった
今夜はやけに月が明るい。雲ひとつない空に浮かぶ満月を見上げながら、俺は村の中を歩いていた。窓を開けて眠りにつこうと思ったのだが、どうにも落ち着かない。冷たい風が入ってくるたび、何かを探すように鼻を鳴らしてしまう。妙な癖だ。子どもの頃はこんな癖なんてなかったはずなのに。最近は気がつくと、すんっと音を立てて空気を吸い込んでしまう。村では数日前から、家畜が襲われる騒ぎが多発している。危険だからと皆、夜の外出を避けるようになった。馬鹿馬鹿しい話だ。そう思いながら歩いていると、視界の端で何かが動いた。俺と同じく、満月に誘われた人間らしい。声をかけようと口を開いた、その瞬間。 視界が暗転した。 誰かの叫び声で目を覚ました。いつものベッド。開いた窓。差し込む朝日。首をひねる。……夜の散歩は、夢だったのか?すんっと鼻を鳴らす。開け放った窓から、酸っぱくてうまそうなにおいがする。不思議なことに、俺の服からも同じにおいがした。 まだ、腹が減っている。
週の始まり。 こみ上げてくる怒りを抑えている。 「人のこと、バカにしやがって」 駅を出て、会社への道すがら、すれ違う。 「……」 いつも上から、見下してくる。 男は腹をくくった。 「明日だ。あいつの顔に泥を塗ってやる。待ってろよ」 ──翌日。 駅前のビルに向かった。 階段を上り、扉を開けると、一斉に鳩が飛び立った。 「くそっ……鳩の糞。これも、お前のせいだ」 見上げた先、にやけた中年男の大きな看板。 どこかのクリニックの院長。 脚立を立て、バケツの中の泥を顔に塗った。 「俺は、お前の顔が嫌いなんだ。理由? そんなものはない」
シュークリームを、口のまわりを汚さずきれいに食べられたとき、ではなかった。ひとりで初めての場所にお使いに行ったときは、少し思った。高校生になって電車通学になってその帰り、駅のホームで立ち食いそばを食べたとき、強く感じた。大人になったんだなあ、って。でも手に持った器のそばは、自分で稼いだ金で食べていたのではなかった。大きな勘違い。それでも、思ったことは思った。大人になったんだな、と。 きつねそばだった気がする。うどんだったかもしれない。立ち食いそばというくらいだからそばだったのかな。それくらいにしか思ってなかった。自分がそばとうどん、どっちが好きなんて考えたことなかったんだ。何も考えてなかった、あのころは。いまはちゃんと考えてるみたいに言ってしまったけど、たいして変わってない、いまだって。 寝ていたような寝ていないような。この喉の渇きぐあいと頭の回らなさ加減、きっと寝ていたんだろう、少しだけうつらうつらまどろんで、そんなふうに。意識だけがつかの間の旅に出てカラダだけはしばしお休みで。 台所に立ってお湯を沸かす。温かい飲み物は僕を救ってはくれない。心を温めてはくれるけど。それでいい。目の前にあらわれたと思ったらすぐいなくなってしまうんだ。誰のせい? 僕のせいだけど。そこまで深い関係でもないんだ。それでいい。 昨日の残りの肉じゃがを卵でとじて、ごはんのおかずとした。入れるだけでごちそうへと変化させる卵はすごいと思った。肉じゃが、ごはんの順に口に入れ、目を閉じて口を動かす。女の尻のアップが浮かんできた。この前、ジムで見た女性の大きなお尻。卵はすごい、その「すごい」にアタマが反応したのだろうか。しかしなんだってこのタイミング。制御できないこのアタマは、不思議と思っても、確実に僕のものなんだ。 もっとドライな関係ならね。ふうん。また余計なこと考えちゃってさ。それくらいに思えたらね。誰のせい? 僕のせいだけどさ。
商店街の端に、小さな時計屋があった。 店主の名前は誰も知らない。みんな「時計屋のじいさん」と呼んでいた。店の看板はとうに色あせて、文字もほとんど読めなくなっている。それでも店はずっとそこにあった。 僕がその店に初めて入ったのは、中学二年の夏だった。祖父の形見の腕時計が止まってしまい、母に「あそこなら直してくれるよ」と言われて持ち込んだのだ。 店の中は薄暗くて、時計の音で満ちていた。壁一面の古い時計、棚に並んだ懐中時計、修理待ちの腕時計たち。それぞれが違う時を刻んでいて、まるで店全体がひとつの生き物みたいに小さく呼吸しているようだった。 「これは、いい時計だね」 じいさんは祖父の時計を手に取り、ルーペ越しにじっと見つめてそう言った。 「おじいちゃんの形見なんです。動かなくなっちゃって」 「うん。中の油が切れてるだけだ。すぐ直る」 「すぐって、どのくらいですか」 じいさんは少し笑って、僕の顔を見た。 「時計はね、急いで直すと、また止まる。ゆっくり、正しい順番で診てやらないと」 一週間後に取りに来るように言われた。僕は少し不満だったが、仕方なく帰った。 一週間後、店を訪ねると、時計はきちんと動いていた。秒針が静かに、確かに時を刻んでいる。じいさんはそれを僕の手のひらに乗せながら言った。 「時計はね、壊れたんじゃない。ただ、休んでただけなんだ。誰かがちゃんと中を見て、汚れを落として、油を差してやれば、また動き出す。人間もそうだろう?」 僕はその言葉の意味を、そのときはよくわからなかった。ただ、時計の秒針の音が、なんだか温かく感じられた。 それから何年か経って、僕は大学に進学し、その街を離れた。忙しい毎日の中で、いつしか祖父の時計をつけることも減っていった。 久しぶりに実家に帰ったとき、商店街を歩いてみると、あの時計屋はもうなかった。シャッターが下りたままの店に、貼り紙があった。 「長らくのご愛顧、ありがとうございました。店主、体調により閉店いたします」 日付を見ると、半年以上前のものだった。 僕は胸のあたりが締めつけられるような気持ちになって、しばらくその場に立っていた。あのとき聞いた言葉が、頭の中でよみがえった。 ——時計はね、壊れたんじゃない。ただ、休んでただけなんだ。 僕はポケットから祖父の時計を取り出した。電池はとうに切れていて、針は止まったままだった。それでも捨てずに持ち歩いていたのは、たぶん、あの店とじいさんのことを覚えていたかったからだと思う。 家に帰ってから、僕はその時計を修理に出すことにした。じいさんのようにはいかないかもしれない。でも、誰かがまた油を差してくれれば、きっと動き出す。 時計だけじゃない。止まってしまったように見えるものも、本当はただ休んでいるだけなのかもしれない——そう思いながら、僕は時計をそっと箱にしまった。 いつかまた、針が動き出す日を待ちながら。
憧れの旅館生活だったが もうすっかり慣れてしまった 浴衣での生活は数日で億劫になり 窓から見える青く輝いた海も 空の青さと大差なく感じて 最近はカーテンを閉めっぱなしだ ただこの大鎌原市には 観光に来たわけではないのだから それでいいようにも思う 私は終わらせにきたのだから 一発屋の小説家として稼いだ金 それを使い切る為の旅館暮らしだ 金が底をついたらいよいよその時 そう思ってこの田舎町へやってきた ただ一週間ほどこの町に滞在して いくつか気になったことがある どうにもこの町は変だ 例えば泊まっている海辺の旅館だが まだ一度も他の客を見ていない 食事は朝と夜部屋に運ばれるのだが 大浴場も売店もいつ行っても伽藍堂 観光シーズンではないのかもしれないが 経営が成り立っているのかと不安になる 例えばよく海辺を散歩するのだけれど 船が一隻も見当たらないのだ 大きい船も小さい船も 漁船らしきものすら見当たらない けれども宿の食事にも近くの定食屋にも 当たり前のように刺身が出てくるのだ わざわざ取り寄せているのだろうか 中居さんに尋ねてみたこともあるが 「魚は空も泳ぎますから」と 適当にはぐらかされてしまった こういう違和感が大鎌原には 至る所に存在している ただまぁ、どうでもいいか 金が尽きるその時まで 飽きない町というのは結構だ けれどその謎解きをしようとか そんな面倒なことまではしたくない 謎とか伏線とかトリックとか そういうものは飽き飽きしている 現実はそう一本道に解釈できるほど 整合性の取れた世界ではないのだ だからこそ物語に夢見るのだろうが しかし夢物語を作る側になれば 裏から見えるのはハリボテの虚構 だからもういいのだ 外を出歩くのも億劫になり 私は部屋にこもるようになった 風呂も部屋にあるものを使った 日々溶けていく時間と金に 焦りと諦めが同時にこみ上げる これでいいのだと自分に言い聞かせて 言い聞かせ続けてーー 「ほら、魚ですよ」 フロントからの電話に出ると 中居さんはそう言って 窓の外を見るよう私に告げた 閉め切っていたカーテンに手をかける そんなバカなと思いながらも 頭の中ではもうすでに 溶け合う空と海を想像していた
ふと、目を止めた。何これ、誤字? そう思った。 周りを見渡せば、づかん、づつう、チーヅ、ヅッキーニ、づんだもち、づうづうしい…… ふと、胸元の名札を見た。 「つづり」 ……ああ。この名前で良かった。今さらだけど、そう思った。
「本日、『病み』の原因が悪霊の憑依だと判明いたしました」 衝撃的なニュースが全国にとどろいた。 闇に苦しんでいた俺は、テレビのリモコンを持ったまま固まった。 何年も精神科に通って治らなかった病気が、まさか悪霊の仕業だったとは。 俺の目はテレビにくぎ付けとなって、テレビの続きを食い入るように見つめた。 「では、病まない人間は、悪霊への耐性が強いと?」 「いえ。人間には、悪霊の憑依に対する耐性がありません」 「つまり?」 「病まない人間は、人間に化けた悪霊の可能性が高いということです」 「バレた」 「バレた」 背後で、両親が呟く声が聞こえた。 俺は背後を見ずに立ち上がり、玄関に向かって急いで走った。
午前0時。 小高い山の頂に、30人ほどの男女が集まった。 「さぁ、皆さん。始めましょう」 銀色の三角帽子を被った男が、声を上げた。 男女は円を作ると、その中心に男が立った。 「ウィーン、ウィーン、ウィーン」 両手を挙げ、立てた人さし指をクルクルと回した。 「皆さんも、私と同じように」 夜空を見上げ、人さし指を回す。 「声を出して、願いを込めるのです」 「ウィーン、ウィーン、ウィーン」 「もう、すぐそこまで来てますよ」 山頂に、冷たい風が通り抜けた。 地球の遥か上空に、1機のUFOが止まった。 「艦長、呼んでますけど……」 モニターを覗き込んだ。 「そうだね」 「コンタクト取りますか?」 艦長は、苦笑いしながらモニターを消した。 「金貸せって言われてもね」
親父が死んだ。 残された遺産は、家と、貯金と、感情。 「相続されますか?」 弁護士からの質問に、俺は即答できなかった。 「考えさせてください」 親父の残した家は、良い場所にあるから普通に住みたい。 親父の残した貯金も、当然欲しい。 問題は、感情だ。 親父は優秀な経営者だったが、その分ストレスの量も尋常ではなかったらしい。 自死を考えるくらいに追い詰められた親父は、感情を閉じ込めることで自死を回避し、大成功を収めた。 しかし、この閉じ込めた感情は、財産扱いとなる。 遺産を放棄しなければ、俺の物になってしまう。 そして、感情はいつまでも閉じ込めておくことができない。 いつかどこかで決壊し、持ち主へと返ってくる。 相続した場合、俺に返ってくる。 死にたいという強烈な感情が。 「くそ親父。面倒なもの残しやがって」 家と金が手に入っても、死んでしまっては意味がない。 俺なら死なないという自信もあるが、あの親父が死にたくなるほどの感情となれば、俺の想像以上に大きな感情なのだろう。 「いいじゃない! 感情なんて! あの豪邸と財産を手放すの?」 感情が返ってこない妻は、無関係と言わんばかりの顔をして、俺をせっついてくる。 もしかしたら、金が手に入った上に、俺が死ねばラッキーとでも思っているのかもしれない。 「なら、お前が相続するか?」 「無理に決まってるでしょ? お義父さんと血が繋がってるわけじゃないんだから!」 「なら、俺たちの子供に」 「子供が死んでもいいって言うの? 人殺し! 最低!」 その言葉、そっくりお前に返してやろうか。 「ちょっと煙草」 騒ぐ妻から逃げて、ベランダで一服する。 冷たい風が、俺の脳を冷やしてくれる。 もしかしたら、妻の本性を暴くために感情を残してくれたんじゃないだろうか、親父ならやりそうだ。 なんて楽観的な予想をしながら、俺は引き続き、悩み事に頭を抱えた。
都会の明るい夜に慣れ過ぎて 深夜に散歩することが 習慣みたいになっていた でもやっちゃダメだったんだ 男だからと油断していたんだよ もしもこうなると知っていたら 外なんか出なかったのに その日は盆休みで帰省していた 夜遅くまで両親と酒を酌み交わす 二人は先に寝てしまったけれど 俺はどうにも寝付けなくて 酔い覚ましも兼ねて 深夜散歩に出かけることにした 一歩外に出て玄関を閉めると 辺りは途端に黒の陰影だけになり ポツポツと立ち並ぶ街頭だけが 黒い田んぼ道を照らしていた その光景に少し息を飲んだが スマホのライトを付ければ なんてことはなかった スマホのライトを頼りに歩く もう日付が変わる頃だったので 他に歩いている人はおらず たまに車が横切るだけだった 近づく車の音だけには注意しながら 夜風を感じながら歩く さてそろそろ帰ろうかと 来た道を戻ろうとしたときだった 振り返った先の黒い景色が 揺れているのに気づいた 直接ライトを向けるわけにもいかず 遠くてハッキリとは見えなかったが どうやら人影らしかった ライトも付けずに歩くなんてと思ったが 慣れていればそんなものかとも思えた 人影らしきものが近づくにつれて ライトがその足元を照らしていく サンダルとスカートの端が見える この人とすれ違ったら遠回りして帰ろう そんなことを考えていたときに 気づいた 恐らくは女が手に持っているのが 刃物だということに アルコールなんて吹き飛んで 全身から冷たい汗が吹き出した 呼吸は思わず止めてしまったが しかし足を止めるわけにはいかない 女を刺激しないようにライトを下げて ただただ祈りながら震える足を前に出す 女の足音がどんどん大きくなっていく 女の足元がライトの円の中に入り そうして通り過ぎていった 女の足音が徐々に小さくなっていく 俺はしばらく早歩きで進み続けてから ゆっくりと速度を落とし立ち止まった 辺りはしんと静かになった 俺の足音はもう聞こえない 女の足音も聞こえなかった ずずずと後ろを振り返る 黒い陰は立ち止まって その場でゆらめいていた 女がどちらを向いていたかはわからない だが俺は迷わずまた歩き出していた できるだけ遠くへ行かなければ 静かな夜に俺の足音が響いていく するとそれにもう一つの音が重なっていく 見たくなかったが見るしかなかった 足は止めないまま振り返ると ライトの先ではさっきの女が 小走りで追いかけてくるのが見えた そこからは無我夢中だった とにかく走って走って走りまくった そうして現在地もわからなくなった頃 ふと足を止めると足音が聞こえない 振り返って辺りを照らしたが もうあの女の姿は見当たらなかった まだどこかにいるかもしれない そう考えライトで周囲を照らし 警戒しながら家へと帰ることにした 結局のところ何事もなく 実家へ帰ることができた もしかしたら何かしら 俺の勘違いだったのかもしれない そんな風にすら思いながら 部屋に直行した俺はそのまま ベッドに倒れ込んで眠った 「朝ごはんいらないのー?」 母の声に目が覚めてリビングへと向かう 父はもう仕事へ向かったらしく 母は食器洗いをしていた 用意された朝食をすぐに食べ終えると キッチンに立つ母の元へ皿を運ぶ 「自分で片付けるなんて成長したわねー」 「それ毎年言ってるけどな」 そんな会話を交わしながら皿をシンクへ入れる ちょうどそのとき入れ替わりで 母がシンクから包丁を取り出して洗い始めた
止む気のない雨の中、スーパーの横を通っていたら、いくつか並んだ、まだ蕾も無い金木犀の一つが人となって歩き出した。 それはスマートな紳士の様で、背広にステッキを持ち、ハットを被っている。よく見えはしないけど、きっと顔もハンサムなんだろう。 彼は傘も差さずに、雨を気にする素振りもなく僕の前を歩いていく。 僕は今日、祝日だって言うのに台風の最中、出勤するために足元を濡らしながら駅に向かうところだ。 階段を降りて線路を地下道で越えていく、階段を登って地上に出る。 こちらの行き方のほうが近いんだ。金木犀男爵もそれを知っているようだ。僕は彼の事を金木犀男爵と呼ぶことにした。 道には人通りは無い。こんな日に出勤する人も珍しいのだろ 線路沿いの道には金木犀男爵と僕しか見えない 男爵が、もし電車に乗るとしたなら、改札はどうやって通るのだろう スイカでも持っているのか? 切符を買うのか? そもそもお金を持っているのか?身なりはしっかりしているけど。 駅に入ると、迷うことなく自動改札機へ向かっていく。 僕は遠くからどうなるのか見ていた。 駅にはそれなりに人がいて、皆、改札に足が向いている。金木犀男爵が改札のレーンに入った。彼は右手にステッキ、左手には何も持っていない。 金木犀男爵が通ると、改札機は当たり前のように開放し男爵はスマートに通り過ぎて行く。 誰も自然に開いた改札の事には気づいていない様だ。 僕は急いで後を追う。 鞄の中のスマホがなかなか見つからずに改札の前でオロオロしてしまったが急いで降りて、来ていた電車に乗れた。 車内は平日のそれとは違い、かなり空いている。皆、間隔を持って座れている。これは休日出勤の良いところだ。 男爵も同じ車両にいた。座っている。 僕は車両の端に行って遠目から観察することにした。 相変わらず車窓からは雨が絶え間なく降り続いている。あの暑かった夏は、別れの挨拶も無しに秋と交代してしまったようだ。 寒い秋。冬と何が違うのか。 金木犀男爵はステッキの頭を両手で押さえ、静かに座っている。その様子もスマートで美しい。まるで金木犀が咲いているように
ボーイズラブのチラシではない。 バスケットリーグのチラシが入っていた。 しかし男と男の戦いという意味では一緒だろう。 何を言っているのだろう?
今日も良いことがなかった。白馬の王子様は迎えに来ないし、十二時に解けるような魔法にも、そもそもかかっていなかったらしい。 もしかしたらささいなオマジナイくらいは私にだってあるかもしれないと、ちょっといつもより運のよかった今日、日付けの進むまで起きてみてけれど、特に変わった様子もない。なるほど、電車で隣だった人が格好よかったくらいのことは魔法がなくてもあるという訳だ。 明日は、何か特別なことがあるだろうか。きっといつものようにないだろうけど。 まあ明日になってみたらきっと分かる。
自分をブスだと思い始めたのは中学生の時かな。 祖父母からも両親からもかわいいって言って育てられた。 だから私はかわいいって思っていた。 テレビに映るアイドルやプリンセスに本当になれると思っていた。だって私はかわいいから。 今、アイドルを見たら劣等感で潰されてしまう。プリンセスを見ても同じ理由で潰れる。 それにプリンセスは性格もいい。 自分より醜いものを好いて自分を引き立たせる。それが私の生き方。 どうしてブスだって思い始めたか、教えてあげる。 中学生は美容に興味を持ち始める時期だ。私にもその時期はやってきて、そこで気づいてしまった。 かわいい人と比べたら、違いは一目瞭然。目も鼻も肌から骨格まで全て違う。同じ生き物なのかを疑うレベルで。 それに気づいた時から親や祖父母の言葉を素直に受け取れなくなった。褒め言葉を素直に受け取れなかった私は壊れていった。 人間にとって褒め言葉が必要な栄養なんだとしたら私は栄養失調で倒れてしまう。 下手な同情が悪口よりも尖って、鋭く心に刺さる。 そこから私は自虐をしだした。自分で自分をかわいいって言ったら否定をされる。もしくは苦笑いで空気が凍る。 それが嫌だから自分で自分を否定する。そうすれば他人からは傷つけられることはない。 そうして私は今日も自虐をする。自分を守るために。 でも最近、辛くなってしまう。私のキャラ的に誰にも助けを求めれなくてどうすればいいかわからない。 気づいたら私は泣いていた。汚い涙が頬を伝う。肌が余計に荒れてしまいそう。 「ねぇ、大丈夫?」 後ろから声がした。すごく綺麗な声。声の方を振り返った。 目を疑った。声以上に綺麗な顔をしていた。まるで西洋の絵画から出てきたみたいに。 「うん」 私は答えた。私の声は汚いって思った。声にもブスの成分が含まれている。 「嘘つかないでよ、泣いてるじゃん」 「え?」 私は泣いていたことを再確認させられる。ただでさえ小さい目が腫れてさらに小さくなってしまう。でも、私の目が多少小さくなったところで誰も気づかないよね。 彼女はハンカチを差し出してくれた。 偶然、そのハンカチは私と同じものだった。けれどなんだか私のより綺麗だった。ハンカチにまで美人の成分が含まれている。 そのハンカチで涙を拭ったら視界がはっきりした。 ハンカチに染み込んだ水分がすごく汚く見えた。色鮮やかな花畑に季節外れの枯れた花が一輪咲いている。 まるで白い絵の具に黒を落としたみたいだった。 彼女の顔をよく見ると、アイドルをやっていると有名な北野みなだった。 「えっ、みなちゃん?」 「私のこと知ってるの?」 「う、うん。有名だよ」 「あのさ、はっきり言わせてもらうんだけど、私の名前、そんな軽々しく呼ばないでくれない?」 みなの態度が変わった。どこで怒ったのか、気に障ったのかわからない。美人の気持ちはわからない。私はブスだから。 「え?」 「あんたみたいなブスに呼ばれて、私の名前汚れたんだけど。」 「えぇ」 「私とあんたじゃ、目も鼻も肌から骨格まで全て違うのよ。」 「わかってるよ」 私は小さな声でつぶやいた。勝手に口から出ていた。 「え?なんて?まぁいいや。そのハンカチあげるから。」 そう言ってみなは去っていった。 ハンカチが私のものになった瞬間、急に汚く見えた。 アイドルは性格が悪い。わたしがなるならプリンセスになろう。 どちらにもなれるわけないのにそう思った。 また、視界がぼやけていった。 たった今私のものになったハンカチで拭った。 花畑が全部枯れて、白い絵の具が真っ黒になった。
塾の帰り道、僕はいつもより早足だった。 「お前んち、新聞配達なんだってな」 さっきの授業終わり、先生がそう言った。悪気なんてなかったのかもしれない。ただの世間話のつもりだったのかもしれない。でも、その後に続いた小さな笑いが、僕の胸の奥に小石みたいに残った。 「大変な仕事だなあ、あれは」 その言い方には、たしかに軽蔑が混じっていた。僕はその場では何も言い返せなかった。ただ「はい」とうなずいて、テキストをかばんに詰め込んで、逃げるように塾を出た。 家までの道を歩きながら、僕は父の朝を思い出していた。 父は毎朝、僕がまだ布団の中にいる時間に家を出る。まだ空も薄暗い、四時とか五時とか、そのくらいの時間だ。自転車の後ろに新聞を山ほど積んで、住宅街をひとつひとつ回る。雨の日も、雪の日も、真夏の蒸し暑い朝も休まない。僕が小学校に上がる前からずっとそうだった。 一度だけ、父の配達についていったことがある。小学四年生の冬休みだった。真っ暗な中、父の自転車のライトだけが道を照らしていた。息が白かった。父の手はかじかんで、それでも一軒一軒、丁寧に新聞受けに新聞を差し込んでいく。音を立てないように、その家の人を起こさないように。 「なんで音立てないようにするの」と僕が聞くと、父は笑って言った。 「みんな、まだ寝てるからな。気持ちよく寝てる人の朝を、俺が壊しちゃいけない」 そのとき僕はまだ子どもで、その言葉の意味がよくわからなかった。ただ、父の背中が大きく見えたことだけ覚えている。 家に着くと、母が夕飯の支度をしていた。妹と弟がテレビを見て笑っている。三人の子どもを育てるというのは、簡単なことじゃない。学費も、給食費も、靴も、自転車も、修学旅行の積立も、全部お金がかかる。父はその全部を、朝の暗闇の中で自転車をこぐことで払ってきたのだ。 僕は塾でのことを、その夜父には言わなかった。言えば、父が悲しむとわかっていたから。 でも僕は思う。あの塾の先生は、朝の街を歩いたことがあるんだろうか。誰も見ていない時間に、誰かのために体を動かしたことがあるんだろうか。先生の仕事は立派だ。それは間違いない。でも、立派な仕事とそうでない仕事を分ける線なんて、本当はどこにもないんじゃないか。 仕事というのは、たぶん、誰かの一日を支えるものだ。先生が生徒に知識を渡すように、父は毎朝、誰かの玄関先に「今日という日」を届けている。新聞を待っている人がいる。それを配る人がいる。そのつながりに、上も下もないはずだ。 次の日、僕はいつもより少し早く起きた。まだ外は暗かった。玄関の鍵を静かに開けて、外に出ると、少し先に父の自転車のライトが見えた。 「どうした、こんな時間に」 父が驚いた顔で振り返る。 「ちょっとだけ、ついていっていい?」 父は少し戸惑った後、笑った。 「寒いから、ちゃんと着込んでこいよ」 僕らは並んで、まだ眠っている街を歩いた。誰も見ていない朝の中で、僕の父は今日も、静かに誰かの一日を運んでいた。 僕はその背中を見ながら、心の中で塾の先生に言った。 ——これが、僕の父の仕事です。
朝の五時、まだ空が藍色をしているうちから、健太の父は家を出る。作業着に着替え、長靴を履き、自転車の荷台に道具箱を括りつける。父の仕事は、街のビルの共用部やトイレを掃除することだった。 健太は中学二年生になったころから、父の仕事を人に言うのが嫌になっていた。友人の父親は会社員だったり、医者だったり、公務員だったりする。「お前の親父、何やってんの」と聞かれるたび、健太は「普通の会社員だよ」と曖昧にごまかしていた。 ある土曜日、健太は駅前のショッピングビルで友人と待ち合わせをしていた。約束の時間より早く着いたので、トイレに寄った。個室から出て手を洗っていると、清掃用のワゴンを押した男が入ってきた。振り返った瞬間、健太は息が止まりそうになった。父だった。 「あ……」 父も驚いた顔をしたが、すぐに柔らかく笑った。 「健太、友達と遊びに来たのか」 健太は何も言えず、ただ小さく頷いた。そこへ、友人たちがトイレの入り口から顔を覗かせた。 「健太、こんなとこで何して……あ、清掃のおじさんと知り合い?」 健太の心臓が跳ねた。ここで「違う」と言ってしまえば楽だ。そう思った瞬間、父の手が視界に入った。荒れて、ひび割れて、絆創膏が何枚も貼られた手。その手が、鏡や床をどれだけ丁寧に磨いてきたか、健太は誰よりも知っていた。 「……お父さんだよ」 健太は言った。声が震えていたが、はっきりと。 友人たちは一瞬きょとんとした後、「そうなんだ、よろしくお願いします」と頭を下げた。父も「息子がお世話になってます」と笑って返した。それだけのやり取りだった。世界が終わるようなことは、何も起きなかった。 その夜、夕食の席で父はいつものように味噌汁をすすっていた。健太はずっと考えていたことを、思い切って口にした。 「お父さん、今日はごめん。今まで、友達に本当の仕事のこと言ってなかった」 父は箸を置き、少し間を置いてから言った。 「謝ることじゃない。恥ずかしかったんだろう。それは仕方ないことだ」 「でも……」 「健太、お父さんはな、この仕事を三十年やってきた。毎朝同じビルを磨いていると、そこで働く人たちが気持ちよく一日を始められる。それだけで十分な仕事だと思ってる。誰かが見ていないところで手を抜けば、すぐ分かる。逆に丁寧にやれば、誰かが必ず気づいてくれる。名刺の肩書きじゃなくて、そういうところに仕事の値打ちはあるんじゃないかな」 母が横で頷きながら付け加えた。 「お父さんが担当してるビルはね、テナントの人たちがみんな『あの掃除の人が来ると気持ちいい』って言ってくれるんだって。名前も知らないのに、感謝されてる」 健太は俯いた。恥ずかしかったのは父の仕事ではなく、それを恥じてしまう自分の狭い心だったのだと、ようやく分かった気がした。 数日後、健太は学校の作文で「わたしの尊敬する人」という課題が出た。健太は迷わず父のことを書いた。三十年間、誰かのために場所を整え続けてきた手のこと。肩書きは掃除員でも、その仕事に誇りを持って向き合う姿のこと。 作文は学年で紹介されることになった。健太は壇上で少し緊張しながら、最後にこう締めくくった。 「仕事に貴賎はないと、父から教わりました。大切なのは、何をしているかではなく、それにどう向き合っているかだと思います」 教室の隅で、担任の先生が小さく拍手をした。健太は初めて、父の仕事を誰かに堂々と話せたことが、少しだけ誇らしかった。
ちいさかったころ ぬいぐるみで よく遊んでいた いま思い返してみて あのときの ぬいぐるみたちは みいんな お口のまわりが よごれていた はて さて 当時は それでいいと 思っていた はて さて ああ ああ そういうことか ぬいぐるみに ごはんを たべさせていたから お口ちゃんと ふいてあげていたのに やれやれ
夜道のあちこちが街灯に照らされて煌めいていた。それが雨の痕跡だと気がつくのに時間はそれほど必要ではなかった。 タクシー乗り場には長い列ができている。もう最終バスも無いのだろう。並んでいる人は女性も男性も若い人も中年の人もいるようだが、暗くてよく見えない。「回送」と橙色に表示されたタクシーが停車した。ドアが開くと、先頭の女性は不自然さなく飲み込まれてしまった。 鈴虫の鳴き声がTシャツの袖から服の中へ入った。肌の熱が奪われた。そのまま耳の辺りまで来ると、ふわっと消えてしまう。それが幾度も反復される。 道を右に曲がったところで、自販機が白く光っていた。なんとなく飲み物を見遣ると、赤い帯状のものがディスプレイされていた。 温かい飲み物だった。 私は、歩くのを止められてしまった。あったか〜いという文字から目が離せなかった。未だ真っ青な冷たい飲み物は残っている。赤いそれは、何か、膨張している風に見えた。 写真に収めようとスマホを取り出す。しかし、ポケットから半分ほど抜いたところで、やめた。掌には炎天下に地面を触れた時の熱が広がっていた。 その場が少し明るんだ。車が行ってしまうと、また自販機の光だけになった。 私の影が、遠く後ろにまで伸びている。
学校が終わって、バスに乗り込む。そしていつもの席に座ってワイヤレスイヤホンを耳にはめる。スマホを操作して曲を流す。 少しだけ切ないイントロが流れてきて、歌詞が流れてくる。それは今の心にすごく刺さる。切り傷に塩を塗るのに似ている。 目から垂れた雫が頬を伝う。でも、それを拭う気にもなれずに窓の外を眺める。いつも見ている景色なのに今日はなんだか色が薄い気がした。 音楽に浸っていると、急に通知音がきてびっくりする。友達からだ。なんて名前だったっけ。 「りの、落ち込むなよ」 その文章を素直に受け取れなかった。落ち込むに決まってる。こんなの送ってきてただ人助けした気になりたいだけでしょ。 「うん、大丈夫だよ。わざわざありがと」 私は返信をした。不自然じゃないように、違和感がないように。嘘つきが殺される世界なら私は今すぐに殺される。 再び、窓の外を見る。さっきより色が薄くなっている。ポツポツと降っている雨は私の目を濡らす。 君は多分私が好きだった。私も君が好きだった。何度もニ人っきりで出かけたし、手だって繋いだ。君は笑っていて、私の顔は真っ赤で。 今日、君に気持ちを伝えた。あんなにいろんなことをしたんだからOKもらえるに決まってる、そう甘く見ていた。 君は一回だけ眉毛を下げて頬を掻きながら言った。 「ごめん、えーと。そういう目では見たことないかな」 私の頭の中が真っ白になった。あんなにニ人で遊びにいったし、花火だってニ人きりで見たのに。 「そっか、ごめんね」 でもびっくりはしなかった。心のどこかではわかっていた。叶わないって。 ねぇ、もし私が男の子だったら君は私のこと好きになった? 雨がさっきより強くなった。曲がラスサビにはいる。涙はもう出ない。
「結構、顔でかいよな」 彼女に何の気なしにいったら、彼女は読んでいた本を置いて、拳を振り上げた。 「オラ」 「痛い!」 「ゴラ」 「痛い!」 「シネ」 「すみませんでしたー!」 ようやく殴られるのが終わったので、俺は洗面所へと駆けこんだ。 鏡を見たら、顔全体が腫れ上がっていて、いつもより一回り大きな顔になっていた。 背後に立った鏡に映る彼女が、俺の方を見てにっこり微笑んだ。 「これで私の方が小顔ね。嬉しい?」
商店街の端、シャッター街に埋もれるように「柳質店」はあった。曇りガラスの引き戸には金の文字が半分剥げていて、それでも常連客だけは迷わず戸を開けた。 店主の柳伊佐夫は七十を過ぎても背筋が伸びていた。カウンターの向こうで新聞を畳み、来た客の顔よりも先に持ち込まれる品物を見る。長年の癖だった。品物には嘘がないが、人の顔には嘘があるからだ。 ある雨の夕方、若い女が戸を開けた。傘の雫を店の土間に落としながら、彼女は震える手で古びた腕時計を差し出した。 「これを、お願いします」 伊佐夫はルーペを取り、文字盤を覗き込んだ。スイス製の年代物で、裏蓋には小さく「К.T.へ 一九六八」と彫られていた。 「お父様の形見か」 女は驚いた顔をした。「なぜ分かるんですか」 「時計は嘘をつかない。針は止まっていても、彫られた言葉は動かない」 女は目を伏せた。父が入院していて、手術費が足りないのだという。伊佐夫は時計をもう一度眺め、査定額を紙に書いて見せた。相場よりいくらか高い数字だった。 「本当は、もっと安いはずですよね」 「品物の値打ちは、市場だけが決めるものじゃない。この時計には、あんたの父親が誰かを想った時間が詰まっている。わしはそれを預かるだけだ。売るわけじゃない」 女は深く頭を下げ、金を受け取って帰っていった。 質屋という商売は、誤解されやすい。人の弱みにつけこむ商売だと思われがちだが、伊佐夫にとっては違った。質草とは、いつか取り戻すという約束の証だ。流れて他人の手に渡る品物もあるが、それすらも「次の誰かの物語」の始まりに過ぎない。伊佐夫は棚に並んだ指輪や着物、古い万年筆を見るたび、そこに眠る無数の人生を思った。 三ヶ月後、あの女がまた店を訪れた。今度は晴れた昼下がりで、彼女の顔には以前の翳りがなかった。 「父の手術、成功しました。おかげさまで、退院もできて」 彼女は流質期限ぎりぎりで、利息を添えて時計を受け出しに来たのだった。伊佐夫は奥の金庫から丁寧に時計を取り出し、布で拭ってから渡した。 「大事にしなさい。時間は取り戻せても、想いは取り戻せんこともある。だが、あんたはちゃんと取り戻した」 女は時計を胸に抱き、何度も頭を下げて店を出た。戸の鈴が鳴り、雨上がりの光が土間に差し込む。 伊佐夫はカウンターに座り直し、また新聞を広げた。だが目は文字を追わず、窓の外を歩いていく女の後ろ姿をしばらく眺めていた。 質屋の仕事とは、物を預かることではない。人が人生のどん底で、それでも何かを信じようとする瞬間に、静かに寄り添うことなのだと、伊佐夫はいつも思っている。今日もまた、誰かが何かを抱えて、あの曇りガラスの戸を開けるのだろう。
僕が中学校に入学したとき、知っている人はほとんどいなかった。 それまでとは違う環境。周りには、すでに仲の良い友達同士の輪がいくつもあった。 そんな中で、僕が入ったのが吹奏楽部だった。 そこで出会ったのが、四人の女子だった。 最初から特別な関係だったわけじゃない。 ただ、同じ部活で、同じ学年で、毎日のように顔を合わせる。 でも、その「毎日」が、とんでもなく濃かった。 朝早くから部活の朝練があって学校へ行き、授業が終わればまた夜まで部活。休みはほとんどなかった。 演奏会があり、コンクールがあり、失敗すれば一緒に怒られ、うまくいけば一緒に喜んだ。 気づけば、家族と過ごす時間より長いんじゃないかと思うほど、僕たちは一緒にいた。 そうして、僕たちは五人になっていった。 ⸻ そして、最後の大きなコンクールが終わった。 結果は、振るわなかった。 その後、顧問から厳しく叱られた。 それまで積み重ねてきたものが、全部嫌になった。 「もう辞めたい。」 そう思った僕は家に帰り、次の日の部活を休んだ。 もう戻らなくてもいい。 そう思っていた。 その日の夕方、突然、家のチャイムが鳴った。 玄関を開けると、そこには四人がいた。 僕を連れ戻しに来たのだ。 「辞めないで。」 「最後まで一緒にやろう。」 そんな言葉を何度も聞いた。 気づけば、何時間も経っていた。 完全に納得していたわけじゃない。 それでも、もう一度部活へ戻ることにした。 翌日、反省文を書き、また厳しく叱られた。 それでも戻った。 そして僕たちは、五人で最後までやり切った。 ⸻ 今思えば、あの日が僕たちの関係を決定的に変えた日だったのかもしれない。 もし本当に辞めていたら、学校で気まずくなり、卒業後に連絡を取らなくなっていたかもしれない。 でも、僕は辞めなかった。 四人が、辞めさせてくれなかった。 だから僕たちは、五人で最後の日を迎えることができた。 ⸻ それから時間が流れ、僕たちは卒業し、それぞれ違う道へ進んだ。 いつの間にか、みんな社会人になった。 仕事も、それぞれの生活もある。 五人全員の予定を合わせるのは、昔よりずっと難しくなった。 会えない年もあった。 それでも、不思議と仲は変わらなかった。 「またみんなでご飯行こう。」 その言葉は、何年経っても変わらなかった。 大人になった今でも、僕たちは昔から暮らしてきた同じ街にいる。 みんなずっと実家暮らしで、一人だけ恋人と暮らし始めた友達もいる。でも、それも実家のすぐ近くだった。 僕自身も、もうすぐ一人暮らしを始めようと思っている。 少しずつ生活は変わっていく。 それでも、五人の関係まで変わる気はしなかった。 ⸻ 成人式の日にも、僕は大勢の同窓生が集まる場所より、あの四人と過ごすことを選んだ。 大勢の中にいるより、五人でいるほうが自然だった。 くだらない話をして、笑って、昔のことを思い出す。 あれから何年経っても、五人でいるときだけは、時間の流れが少し違う。 ⸻ そして今年も、五人で集まることになった。 今回も日程を合わせるのは簡単ではなかった。 それでも少しずつ予定を合わせ、ようやく五人で集まれる日が決まった。 駅の近くの焼き鳥屋で、また五人で飲む。 それだけのことなのに、なんだか嬉しかった。 ⸻ 考えてみれば、僕たちは特別なことをしてきたわけじゃない。 毎日一緒に部活をして。 一緒に怒られて。 一緒に笑って。 一度は離れかけて。 それでも、また五人で戻った。 大人になってからは、会えないこともあった。 それでも、誰かがまた声をかければ、五人の時間が戻ってくる。 ただ、それだけだ。 でも僕にとっては、それが何より大切なことだった。 あのとき、四人が家まで来てくれなかったら。 今の僕たちは、きっと存在していない。 だから今でも思う。 あの日、僕が部活を辞めなくてよかった。 そして―― あの日、四人が家まで来てくれて、本当によかった。 五人の音は、あの日からまだ止まっていない。
公園のベンチに、男が座っている。 「はぁ……金が」 スマホ画面を親指で弾きながら、ため息をついた。 『高額報酬』 #叩く #運ぶ #埋める 高額報酬に目が止まった。 「これは……」 ボタンをタップした。 「お前が最後だ。早く乗れ」 指定された駅のロータリー。 隅に停まっていた黒のワンボックスに乗り込んだ。 中には、二人の若い男が座っている。 街から、少しずつ離れていく。 民家が消え、アスファルトが砂利に変わった。 「着いたぞ」 運転手の声に、ヘルメットをかぶった大男が近づいてきた。 「いいか、お前ら。今から、そこの穴に入って岩を砕け」 穴の奥深くへ連れて行かれた。 「これ使え」 大男が、ノミと金づちを足元に投げた。 三人は、ヘルメットのライトを頼りに、硬い岩を砕いていく。 狭い穴の中、金づちを叩く音がリズムよく響いた。 「砕いた岩を運んで、向こうの穴に埋めろ」 大男の監視のなか、何日も掘り続けた。 「よし。もういい。終わりだ」 大男が叫んだ。 その声に、男たちが座り込む。 「よく頑張ったな。これ、持ってけ」 渡された封筒には、お金が入っていた。 「あの、ここは何の工事現場ですか?」 「ここは工事現場じゃないぞ」 「なんですか、それ」 「お前らが、悪い道に行かないように……まぁ、リハビリ施設だな」 穴の入口から、あの時の運転手が入ってきた。 「所長。次の三人、連れてきました」
昔から、ろくでもない人生だったように思う。 他人と自分を比較しても、何も変わらないのに。 叶わないことばかりを夢見てしまう。気が付けばそんな大人になっていた。 そんな日々の中で、自分にしかない何かを探した。他人と比較して、自分がより優れてるように見える、そんなものを求めた。 しかし、そんなことですら、自分より輝く人間はいくらでもいた。中途半端で終わらせた自分へと罰みたいに、その事実が思考を支配する。認めたくはなかった。認めるしかなかった。 昔から、雨でも晴れでもなく、曇りが好きだった。大した理由もなかったが、中途半端なわたしらしい。潔く降り頻る豪雨の方がきっとわたしよりもずっと素直だ。それも認めたくなくて、目を逸らした。 こんな中途半端でどうしようもない人間が何を残せるのだろうか、何を書けるのだろうか。今でもわからない。ふわふわ、ただ今を漂うように生きて、足掻いている。 生きたい理由も特別無いけど、死にたい理由も浮かばないから。今日も明日も、来るかわからない未来を生きる。透明なまま。
引っ越しの日、隣の部屋から出てきた老人が、段ボールを運ぶ私に声をかけてきた。 「一人かい」 「はい」 それだけの会話だった。名前も知らないまま、私たちは三年間、同じ廊下ですれ違い続けた。会えば会釈をする。それ以上でも以下でもない関係だった。 変化が起きたのは、四年目の冬だった。仕事で三日間、家を空けることになった夜、私は郵便受けから溢れそうな新聞を見て、隣の部屋のドアをノックした。 「すみません、旅行に行くので、新聞だけ止めておいてもらえますか」 老人は少し驚いた顔をした後、静かに頷いた。 「いいよ。鍵は」 「え?」 「郵便受けの鍵だよ。中に溜まったら外から丸見えだ。留守だと分かる」 私は少し迷ってから、郵便受けの小さな鍵を差し出した。渡した瞬間、妙な感覚があった。他人に鍵を預けるということが、こんなにも心もとないことだとは思わなかった。 三日後、帰宅すると、郵便受けは空だった。新聞はまとめて、私の部屋のドアの前に、雨に濡れないようビニール袋に入れて置かれていた。鍵はドアの隙間から、几帳面に返されていた。 「ありがとうございました」 翌朝、礼を言うと、老人は少し照れたように笑った。 「大したことじゃない」 それから、私たちの関係は少しずつ変わっていった。旅行のたびに新聞を頼むようになり、老人が体調を崩したときには、私が代わりに買い物を頼まれるようになった。合鍵を渡すようなことは、その後も何度かあった。 ある日、老人がぽつりと言った。 「昔、息子に鍵を預けたことがあってね」 初めて聞く話だった。 「息子は、勝手に部屋に入って、金を持っていった。それからしばらく、誰にも鍵を渡せなくなった」 私は何と言えばいいか分からず、黙って話を聞いていた。 「でも、あんたに新聞を頼まれたとき、思ったんだ。この人になら、渡してもいいかもしれないって」 その言葉に、私は少し驚いた。信頼というものは、大きな出来事によって生まれるものだと思っていた。けれど実際は違う。新聞を止めてほしいという、ただそれだけの小さな頼みごとの積み重ねが、いつの間にか、何かを預けてもいいという感覚に変わっていたのだ。 信頼とは、証明するものではなく、積み重ねていくものなのかもしれない。大きな約束をひとつ交わすことよりも、小さな頼みごとを何度も交換し合うことのほうが、よほど確かな絆になる。 老人が亡くなったのは、それから二年後のことだった。 葬儀の後、老人の親族から、一本の鍵を渡された。 「叔父が、あなたに渡してほしいと言っていました。何かあったときのために、と」 私はその鍵を、しばらく握りしめていた。 人と人は、大きな言葉や誓いで繋がるのではない。新聞を止めてほしいという頼みごとや、鍵を預け合うという小さな行為の積み重ねが、少しずつ信頼というものを形づくっていく。 その鍵は今も、私の部屋の引き出しの奥にしまってある。使うことのない鍵だが、捨てることは、これからもないと思う。
祖母の家の裏には、小さな畑があった。 子どもの頃、私はその畑が嫌いだった。夏休みのたびに、汗だくになって草をむしらされる。虫に刺され、腰は痛み、収穫できるのはたった数本のきゅうりやトマトだった。 「スーパーで買えばいいのに」 ある日、そう言った私に、祖母は笑いながらこう返した。 「買えるよ。でも、育てたことは買えない」 当時の私には、その言葉の意味がまったく分からなかった。きゅうりはきゅうりだ。スーパーのものも、畑のものも、味は多少違うかもしれないが、結局は同じ野菜じゃないか。そう思っていた。 大人になって、いくつかの仕事を経験し、いくつかの失敗を重ねるうちに、あの言葉の意味が少しずつ分かるようになった。 世の中には、お金さえ出せば、時間をかけずに手に入るものがたくさんある。知識も、道具も、資格でさえも、お金で買える部分は確かにある。けれど、買えるのはいつも「結果の入れ物」だけで、その中身、つまり「なぜそれが手に入ったのか」という過程は、決してお金では買えない。 私は一時期、近道ばかり探していた時期がある。効率のいい勉強法、手っ取り早く成果が出る方法、少ない努力で評価される立ち回り方。そういうものを探すたびに、確かに一時的にはうまくいった。けれど、不思議なことに、そうやって手に入れたものは、驚くほど早く色あせた。 評価は長続きせず、身につけたはずの知識はすぐに抜け落ち、手にした自信もどこか薄っぺらいものだった。まるで、根を張らずに植えた花のように、少し風が吹いただけで倒れてしまう。 一方で、時間をかけて、失敗しながら積み上げたものは違った。習得するまでに何年もかかった技術、何度も書き直した文章、何十回も断られてから成立した信頼関係。そうしたものは、簡単には崩れなかった。壊れそうになっても、根がしっかりしているから、また立て直すことができた。 祖母の畑のきゅうりも、きっとそうだったのだと思う。味の違いの問題ではない。土を耕し、種をまき、水をやり、虫と戦い、天候に一喜一憂した時間そのものが、あのきゅうりの価値をつくっていた。スーパーで買うきゅうりには、その過程がまるごと抜け落ちている。だから軽い。だから、すぐに忘れてしまう。 楽をすること自体は、悪いことではない。効率化できる部分は効率化すればいい。けれど、本当に価値のあるものだけは、いつの時代も、近道を許してくれない。 草をむしり、虫に刺され、それでも育てた者にしか分からない味がある。 楽して手に入るものなんて、本当に、一つもないのだと思う。
「視察だよ」 それだけを言って出てきた。見学でも、見物でもなく、視察。 ―視察って? 「のの」は、そんな顔をしていた。 「その場所に直接行き、その状況を自らの目で注意深く確認すること、です」 AIに教えてもらったのがバレバレみたいなことを「のの」に言ってみる。言い終わらないうちに「のの」は、ひゅるんと窓際に行ってしまう。その背中に「行ってくるね」と言って私は出てきたのだった。 ネット上の情報によると、おそらくもう少し行ったとこ。ココ? ああ違う? このあたりのはずなんだけど。あ、ココ、ココ。 ひとり、ふたり、さんにん… 木の陰に隠れて見ていると、さらにもうひとりが塀を飛び越えてやって来た。初めて目にする光景に、興奮が抑えきれなかった。 部屋に戻って「のの」に報告する。 ―ねこの集会は初めてだったのかい? 「うん。初めて、初めて」 ―ほう。それはそうと、ねこを、ひとり、ふたりと数えるのだなあ 「へん?」 ―いや。なんとも好感の持てる話じゃあないか そう言って「のの」は、むくっと立ち上がり、ニンゲンになったみたいな気で胸を張ってみせる。 ―まったく、キミといると飽きることがないよ 「のの」の、その視線の先には、まんまるのお月さま。黄色いまんまるに向かって「のの」は、小さく、けれど長く、にゃあ、と何かを訴える。振り向くと、わたしに対しても同じように。 「ごめん、ごめん。いまお水取りかえるから」 わたしも、キミといると飽きることがないんだよ。そのしあわせについては「のの」には伝えないでおくことにした。そんなこと「のの」はとっくに知っているはずだから。
八十歳の元夫が六十六歳の元妻を刺殺したらしい。八十と六十六。十四。〇歳と十四歳。 年齢が高いほど、二人の年齢に差があっても何の不自然さもないのに、年齢が下がるにつれて一歳差の存在感は強くなる。 歳をとるにつれ毎日が圧縮されていく。私が八十歳くらいになる頃には、今の一日は銅板のごとく薄くなってしまうのかもしれない。 不意に来年で小学三年生になる姪の顔が浮かんだ。今ごろは九九の計算に、右手の側面を黒く汚しているんだろうなと思う。姪と同じくらいのときは1日はとても長かった。なかでも一月と二月がずっと続いているように感じられた。黒板の右端に書かれた今日の日付を見て、まだか、と気が遠くなる思いがあった。何に対しての「まだか」だったのかはわからなかった。ただ漠然と、行かなければならない地点みたいなものがあって、そこへ向かって歩いてる感覚だけがあった。 今思えば、小学校は無限であり、中学校も無限であり、高校のときにようやく一日が縮み出した気がしないでもない。毎日思っていた「まだか」が次第に減っていった。気がつけば大学生になっていた。その頃にはすでに、あの頃に戻りたい、とむしろ考えていた。たちまちのうちに卒業してしまった。四年の歳月を絞ってみても滴ってくるものはほとんど何も無かった。 今私はここに居る。 七と二十七。二十。 私が八十になる頃、この二十の差はどれだけ縮んでいるのだろう。