薄暗闇から

 この薄暗い部屋に閉じ込められて、一月が経った。部屋の中は質素な造りだが、ベッドは意外にも上質なマットレスで、シャワーとトイレも完備してあり、生活するには申し分ない。食事は野菜などの彩は無いが、三食差し入れられる。  堪えがたいことは、娯楽が少ないことだ。テレビやパソコンが無いのは勿論、所持していたスマートフォンも取り上げられている。何故かカバーを外された本だけは差し入れられるが、異常な状況では読む気力も湧かない。言わば、生きる楽しみを見いだせない空間。  犯人はわかっている。目の前にいる女だ。 「どうしてこんなことをするんだ」  鉄格子の向こうにそう詰問すれば、女はいつも困った様な表情をするばかりだった。   彼女のかつての交際相手に相談を受けたのが、出会いのきっかけだった。曰く、彼女は相手に尽くすタイプの女性で、しかしそれに際限が無い。ノイローゼになった彼が逃げ出し、身近にいた自分が次の寄生先として選ばれた。  意外にも彼女との生活は悪くはなかった。容姿は華美ではなく、常に地味な服装だったが、むしろ奥ゆかしく好感が持てる。流行の話題には疎いが、古文や歴史に造詣が深く、博識深い。聞いていた異常性を置いておけば、所謂大和撫子そのものだったのだ。  うまくいっていたはずだった。この場所に監禁されるまでは。  あの日は雪が降っていた。寒さに身を震わせ、数か月後に来る春を思い、道すがら在原業平や西行が詠んだ句について語った。 「和歌に詠まれる桜は、どうしてこうも魅力的なんだろう」 「昔は、今よりも目に入る色が少なかったですから、桜の初心な色ですら、貴重な彩、だったのでしょう」 「成程。そもそも現代とは環境が異なるか。僕もいつか全身で感激するような桜を見てみたいものだ」 「ええ、そうですね」  そんな些細な夢も語って、彼女も微笑んでいたというのに。  当夜、勧められるまま深酒をしてその後の記憶がない。目が覚めたらこの部屋にいた。初めは激昂して、それから諭すように、ある時は懇願に近い声色で、どんな言葉で尋ねても、彼女の答えは無いか、曖昧なものばかりだった。  彼女は、僕の思いを試しているのか? 監禁という行為が生み出す歪んだ関係性。被害者からの依存性を期待しているのだろうか。彼女の目的は、ただこうして廃れていく僕を、籠の外から眺めて居たいだけなのかもしれない。  薄暗い部屋で、食事と睡眠の数を数え、もう二月も経った。ひたすら薄暗闇の日々が続いたのだ。段々と、自分の中の何かがすり減っていくのを感じる。 「なあ、今日でもう二月だ。あんたはいつまでこんなことをするつもりなんだ?」  辛うじて、まだ忘れていなかった声と言葉で問いかける。どうせ返事は無い。宛てのない言葉は、壁の中に消えていってしまうのだろう。ただの独白だ。  そう自嘲しながらも、久々にあの困った顔つきを拝んでやろうと、俯いていた顔を上げた。彼女の唇が動いた。 「あと、二週間、くらい?」  食い下がるべきだったろうが、驚き、言葉が出ない。明確に期限を口にしたのはこれが初めてだった。彼女に何の変化があったのか。  その日を皮切りに、彼女は、毎日私の言葉に返事をするようになった。 「もうちょっと、今日は、まだ」 「まだ早いの、だめ」 「きょ、今日は、雨が降ったから」  ある日、聞きなれない金属音と共に、いつもとは異なる微妙な風の流れを感じた。ひた、ひた、と足音が近づく。顔を上げると、鉄格子の向こうの彼女が傍にいた。 「あの、これ」  差し出されたものは、黒いアイマスクだった。付けろというのだろうか。視線で問いかけても、困った表情をするだけだから、望まれるままに装着した。手を引かれ、立ち上がる様促される。僕は彼女のするまま、素直に従った。 「どこに向かっているんだ」  答えのないまま、歩いた。あの仄暗闇から解放されるのならば、どこでもいい。僕はあの薄暗い部屋を出たのだ。  途中から、足の裏に感じていたものが、コンクリートよりも柔らかい感触に変わった。風にのって、土と草の匂いがする。 「取ります、ね」  もう随分歩いたと疲労を感じ始めた頃、ふと立ち止まって彼女は言った。  髪が巻き込まれ頭皮が引っ張られたが、些細な問題だった。  流れ込む光の束に、すぐには目を開けなかった。ゆっくりと瞼の裏に馴染ませ、恐る恐る開いていく。  色の洪水だった。失くしていた色、求めていた色、知っていたはずのものが、未知のものに見えた。背丈を優に超える幹は、大地の色を吸い込んでいる。風に舞い散る花びらには、一枚一枚色があった。全て、異なる色なのだ。  言葉にならない僕に、彼女は嬉しそうに笑った。久しぶりに見た笑顔だ。僕は、彼女が僕を閉じ込めた理由を悟った。後はただ、手を握り締めて、桜を眺めた。

秋桜

カラダのほうは 思ったより細いけれど アタマがおおきいのも ときどきみかけるけれど 強い風にその身が傾いでも 子どもらにぺしぺしとはたかれても 桃色の秋桜が好きなんだがねえ あの人がいって ええ わたしが短く応じて

水を1杯ください

いつも通る道にいるホームレスがそう言ってきた こうゆう時、皆はどうするだろう 俺はあげる一択だ  「ちょっと待っててください」 そう言って俺は近くにあった自動販売機で、水を1本買った  「はい、熱中症に気を付けてくださいね」  「ありがとう、君は優しいね」 ニタニタと気持ち悪く笑うホームレスを後にして、俺はその場を去った なぜ、俺はあのホームレスに水をあげたのか 多分、大抵の人は無視する一択だろう 俺は見てしまったんだ つい昨日の夕方、そのホームレスが遠くの方で誰かと揉めているところを 見間違いかと思って昨日はそのまま帰った 今日気になって昨日揉めたであろう場所を見に行ったら、草影に血塗れの包丁があった 辺りに死体らしきものはなかったが、まさかと思い先程のホームレスに会ってみた そのホームレスは見かける度いつも同じ服を着ていて、洗濯もできてなさそうで臭いがやばかったが 今日は別の服を着ていた 服には血がついていた 赤のチェック柄で少し紛らわしいが、アレは間違いなくそうだ そしてホームレスは俺に言ったのだ  「水を1杯ください」と 勝手な憶測だが、多分同じ様に問いかけたのだろう そしてそれを無視したか、罵声を浴びせたかを誰かはしたのだろう… チラッと後ろを見た ホームレスがニタニタとコチラを見ている 断っていたらどうなっていたことやら… 背筋がゾッとした、俺はその足で警察署に向かった

妥協と言う選択

「お疲れ様です」 「お疲れ様」 プルタブを上げ二人は同時にコーヒーを飲む あ〜とCM並みの溜息が出る 「昨日の帰り雨降ってたじゃないですか」 「あぁ、丁度降り始めたところだったよな」 先輩が煙草を加え火をつける 後輩がコーヒーをもう一口飲む 「僕の家、川の側で、道がかなり浸水していて、一面池みたいになってて」 「そんなに降ってたか」 「はい、こっちはヤバかったですよ」 先輩の口から黙々と紫煙が昇っていく 後輩からは先輩が煙の中にいるように見える 「公園を越えたら家なんですけど、公園の側のマンホールがズレて水が溢れちゃてて。こう噴水みたいに。こんな感じで」 「マジか」 先輩は後輩が噴水の真似をしているのを見て、それはよく分からないけど、と思う 後輩は額に汗を流しながら噴水の様を真似している 「スゲーなって見てたらマンホールからにゅーって、出てきたんですよ」 「えっ?出てきたって何が」 「あれ河童だと思うんですよね」 「河童?…あぁ怖い話してんのね」 「え?知りません?河童、緑色の体と頭に皿があって」 「いや知ってるよ。河童は。河童なんかいるわけないだろ」 「いや、いたんすよ。噴水がこうあって、シャワーみたいに凄い水で」 「いや噴水の話はもう分かったから。河童が本当にいたの?」 「はぁい」 「…はい。って。…じゃあその後、河童はどうしたの?」 「何か僕が見てたのに気がついちゃったみたいで、コソコソしてどこかに行っちゃいました」 「…あぁそぅなの」 「はぁぃ」 その日の帰り先輩が家に着くと、料理をしながら妻が七歳になったばかりの娘と笑いながら話している 「ただいま」 「おかえりなさい。あなた聞いてよ娘がね…」 「パパ!私ね。河童をみたよ。コンビニにいたの」 先輩は驚いて鞄を床におとす 「あなた、笑っちゃうでしょ」 「本当だよ。パパ」 「か、河童はコンビニで、な、何をしてんだ」 「たくあんを持ってレジにならんでた」 妻が大笑いをしている 娘は本当だよと言うが、妻の笑い声につられて笑っている 「たくあんかぁ…妥協したんだな…」

無駄なテレパシー

「俺実はさ、動物の心の声が聞こえるんだよね」 「まじで?ってことはお前の飼い犬の声も聞こえるってことか?」 「うん。だからお留守番させるのが本当にしんどくてさー」 「でもいいこともあるだろ?」 「いや無いね。だって心の声もワンワンとしか聞こえないからさ」

弥栄弦義のとある朝

苦しい。覚えているのは苦しかったこと。 走って走って、転びそうになって、それでも走って走って。腕の中で泣いている弟の声を聞きすぎて耳がおかしい。音が遠い。違う、弟のせいじゃない。あいつらのせいだ。もしかしたら耳を失くしているのかも。さっきの剣先は避けたと思っていたのに。走って。どこまで。分からない。どこかへ。 「弦義くん!」  その声に目を開けると、見慣れた天井だった。10年、いや20年以上見ている天井。 「最近、よく夢にみるな」 そう寝起きの掠れた声で呟けば枕元のスマートフォンが起床時刻を知らせてきた。手探りで止めて、ゆっくりと起き上がる。なんだか脚が怠い。あんな夢をみたせいだ。 「起きないと」 深呼吸をひとつして無理矢理にベッドから立ち上がる。 「今朝は何にするかな」  弥栄弦義の朝は早い。  冷水で顔を洗い、台所に立つ。昨日は米だったから、今日はパンにするか。そう思いたちトースターで食パンを焼く。その間に挟む具材を調理していく。毎日こなしているだけあって手際がいい。今日は義父も居るから三人分だ。仕事でアメリカに行くことも多く、忙しい人だから居ないことが多い。なので、言葉にはしないが彼が在宅の日は嬉しいと思っている。弟には「言えばいいのに」と言われたが、なんだかな。弟がそういうことをよく言うので、自分の言うタイミングをなかなか掴めずにズルズルと来てしまっている。父の日とか、きっかけがあれば言えるかもしれない。 「おはよう、弦義くん。今朝も早いな」 「おはようございます、一条さん」  そんないつもの挨拶を交わし、義父である一条は席につく。既にスーツに着替え身支度が済んでいるので、彼も自分と同じぐらいの時間に起きていたのではないだろうか。 焼き上がったトーストに具材とソースを挟み、更にもう少し表面に焦げ目がつくように焼く。完成したホットサンドをテーブルに置けば、一条は「美味しそうだ」と言ってくれる。 「ありがとうございます。弦護を起こしてきますね」 「なら俺はコーヒーを淹れておこう」  早い二人の分まで眠るかのように、弟である弥栄弦護は朝に弱かった。大人になって手がかからなくなっても、ここだけは変わらない。 「弦護、朝だぞ」  んんー、と生返事をしつつもぞもぞと上体を起こす。まだ半分夢の中なのか、頭がふらふらと揺れている。 「ほら、早く起きないと朝飯が冷めるし、一条さん仕事に行っちまうぞ」 「それは……やだ……」  大きな欠伸をひとつすれば漸く目が開いた。  まだ眠そうな弦護を引き連れてリビングに戻れば、淹れたてのコーヒーのいい香りがした。 「おはよう、弦護くん」 「……おはようございます」  差し出されたコーヒーを一口飲んで、少しは目が覚めたようだ。ふわりと笑って言葉を交わしている。  こういう朝の日常というものは嫌いではない。どうしても殺伐となる仕事をしている身だ。こういう時間を過ごせている自分たちはとても恵まれているのだと思う。それもこれも、あの時見つけてくれたのがこの人だったからだろう。もし、他の誰かだったなら。もし、見つけてもらえずに犬死していたなら。考えて、容易に想像できることに嫌悪する。 「なぁ、二人とも。今度の長期明けにはなるんだが、よかったら久々に出掛けないか。やっと休みがとれそうでな」  この人から普段聞きなれない休みという単語が出たことに驚いた。少し間を要したが隣に座る弟の顔を見れば、弦護もこちらを見ていた。そうだな、と思い口を開く。 「行きます」 「行きたい」 二人揃った回答と声に一条さんは笑った。

若い二人の会話

お昼と夕方の間の時間 川沿いのランニングロードには ジョギングする人や自転車に乗っている人、犬の散歩をする人などが行き交っていた 川に降りるコンクリートの階段に 若い男性が二人の座っている 「仕事はどうよ?」 「え?う〜ん、あんまり…だな」 二人とも就職して初めての夏、どちらかともなく連絡をして会うことになった 「あんまりってどういうことだよ」 「いや、、何かキツイ」 「板金の製造だっけ?」 「めちゃくちゃ重いしさ、その癖ミリ単位で仕上げなきゃならないし、めっちゃやり直すし」 「そうか…でも最初はそんなもんだろ」 いつの間にか蝉が鳴き止みコオロギの輪唱が始まっている 川からたぷんと返事があった 「そっちはどうなんだよ。仕事」 「ん?普通かな。まだ単純作業だし」 「物流じゃ、体きついだろ?」 「そうだよ、毎日湿布貼ってるよ。…でも、大変なのはそのくらいだね。いい人ばっかだし」 小学生の兄弟が流行りのギャグを言いながら通り過ぎる 「板金辞めようかな」 「かなり来てんじゃん」 「来てる来てる。マジ辞めたいもん」 「ヤベーな」 「…どう思う?」 「そりゃ…ちょっ待って」 友達はスマホに着信があったらしく 直ぐに電話に出る。少し会話をして直ぐに電話を切った 「ゴメン。彼女からだった」 「何だって?」 「今日は付き合った記念日らしいよ」 「らしいよって、ヤバいじゃん。会わなくていいの?」 「会いに行ってくる。わりぃな」 川の側で勢いよく生えている草たちが聞き耳を立てているように見える 友達は立ち上がり直ぐに言った 「良いと思うよ。俺は」 「何が?」 「その仕事やめて良いと思うよ。俺の親父が言ってたけど、自分に合う仕事をすれば良いんだってよ。合わなかったら、合うヤツに譲ってやって、皆が自分に合う仕事をしていれば良いんだと」 じゃあな。と手を上げて去っていく友達を見て、そうなのかもなと独り言ちする たぷんと川も返事をしている

バッカみたい

パンを焦がしてしまったとか 鳥のフンが頭に落っこちてきたとか そんなことがあったわけじゃない でも、その日は、朝からわけもなく嫌な予感があった 突然、私たちの前にあらわれた転校生の女の子は タキのとなりの席 それを私は、なんとも思わず受け止めた、そのときは けど、前を向けば、どうしたってタキとその転校生の姿が飛び込んでくる ふたりが話をする姿に、まったく集中できなくなる ああ、だったら窓の外でも見ればいいんじゃん なんの解決にもならない、先生から怒られた タキが悪いんじゃない 転校生だって、それは同じこと わかってるんだけど わかってるよ わかってるから こんなこと、タキには言えないよ バッカみたい でも、いつか、ちゃんと前を向かないと いけないんだよね わかってるんだけど

募金お願いします

ある日の夕方、男が改札を出た。 一瞬、足を止める。 駅のホールに、小学生の声が響く。 「募金お願いします」 両手で箱を抱え、頭を下げた。 小さな女の子が駆け寄り、小銭を入れた。 杖をついた老人が、財布を開いた。 車椅子の青年が、片手で車輪を回しながら、箱に手を伸ばす。 「ありがとうございます」 取材のカメラが、小学生の笑顔を映した。 男は、大きく息を吐いた。 そして、両脇に並ぶ小学生の真ん中を歩き、駅を出た。 「募金お願いします」 背中に視線を感じる。 少しずつ、声が遠くなる。 男は、街のネオンを眺めながら呟いた。 「勝った」

消える滑り台

 あの滑り台は、滑った人間が百回に一回くらいの確率で消えてしまう。  滑り台の途中にあるトンネルに入ったと思えば、二度と出てこないのだ。  上から見ていた子供たちは、口をそろえて「消えちゃった」という。    だから、大人は使用を禁止している。  しかし、子供は大人の目を盗んで滑る。  そのリスクを楽しむように。   「羨ましいなあ」    仕事が終わって帰宅中のぼくは、スマホで見ていた転職サイトを閉じた。  結局今日も、何もできなかった。

環境の違い

ある日の夕方。 テレビのローカルニュース。 アナウンサーが原稿に視線を向けた。 「今日の午後、17歳の高校生が民家に忍び込み、現金3,000円を盗んだ容疑で逮捕されました」 画面に、口元だけの女が映った。 『挨拶もきちんとできるいい子よ。 そこの公園で、いつも一人でサッカーボールを壁にぶつけてたわ』 モニターを見るアナウンサーが、小さくうなずいた。 「次のニュースです。 今日の午後、17歳の高校生が地元サッカークラブへの入団を決めました。契約金は3,000万円だそうです」 画面に、笑顔の女が映った。 『挨拶もきちんとできるいい子よ。 そこの公園で、いつも一人でサッカーボールを壁にぶつけてたわ』 モニターを見るアナウンサーが、小さくうなずいた。

『これを読んでる時、僕はこの世にはいないと思う

突然こんな事になってごめんね でも、僕はもう疲れたんだ 毎日酷いイジメばかり受けて、家でも誰も味方してくれなくて 唯一、君だけが僕の救いだったんだ けど、申し訳なくなってきて ずっとこのままでいいのかなって、考えたら耐えられなくなった 僕は弱いから、多分、この先もずっとこうだと思う こんな僕と友達でいてくれて、ありがとう』  「……………なんだよ、これ」 学校の靴箱に手紙が入っていた 最初は遂に俺にも春がと浮足立ったが、一気にどん底に落ちた  「……まじかよ」 何も言葉が浮かばない…アイツが………俺が、助けられなかったから?こんな事になったのか? ………分からない なあ、おい……辛かったよな、苦しかったよな………ごめんな……ごめん……… 一人、誰もいない靴箱の前で嗚咽が漏れる 持っていた手紙は勢いのあまり、グシャグシャになった その日、朝のHRでアイツの訃報を聞いた 教室はザワついてて、ある奴は真っ青な表情、ある奴は泣いていて、ある奴は無関心な顔………  「まさか死ぬなんて」 アイツをイジメてた奴が一言 気付くと俺はソイツの上に跨がっていた ソイツは俺に怯えて、顔がパンパンに腫れていて、口から血を流している 俺が殴ったんだ 先生が止めに入り、その場は収められた こんな今更……アイツが生きてるうちにやればよかった 俺はその日から登校しなくなった

臨終医

私は臨終医、仕事は単純だ。 静かな部屋に入り、相手を見て、時刻を告げる。 「御臨終です」 家族が泣きながら遺体にすがる。 そこに、家族に寄り添う気持ちなど必要ない。 それで、終わり。 父も医者だった。 臨終医になろうとしたが、なれなかった。 枠は少なく、選ばれたのは別の人間だった。 それでも父は言った。 「いい仕事だぞ」 理由は語らなかったが、その声が妙に耳に残った。 私は名門の医学部を出て、海外にも行き、博士号も取った。 回り道は多かったが、今はここにいる。 だからこそ、この一言は完璧でなくてはならない。 私は週に一度、ボイストレーナーに通っている。 発声練習の合間、鏡の前で無表情を確認する。 一度だけミスをしたことがある。 ペンライトを忘れた。 とっさに胸元の万年筆を取り出し、目の上で上下左右に振った。 近くにいた看護師も気づかなかっただろう。 最近、臨終医をモデルにしたドラマが放送され、志望する医学生が増えたらしい。 彼らは「御臨終です」の後に何か一言つけたがる。 私は何も言わない。 それが美学だ。 ある日、私は突然めまいがして倒れた。 目を開けると、ベッドの横で、若い臨終医が立っている。 「御臨終です。ご主人様は良い人生だったのでしょう。安らかな表情をされています」 私は思った。 まだ若いな──だが、悪くない。

言葉の味

 「ねぇ、望月くんって共感覚を持ってるんでしょ?」  学校からの帰り道。私はたまたま見かけた隣のクラスに在籍している望月くんに声をかけた。  望月くんは女子の間でも密かに人気の男子で、よく話題になっている。  ルックスは中の上で、背は大体170センチ超えている。スラっとした身体つきと、大人びた雰囲気は最近のアイドルのようで、確かにカッコいい。  その上、とても珍しい共感覚なる能力を持っているらしい。  私は別にお近づきになりたい訳ではないが、どんな能力かとても気になり、つい声をかけてしまった。  「うん。でもそんなにいいもんじゃないよ」  望月くんはちょっと苦笑した。慣れた態度から察するに、どうやら散々この手の質問をされてきたらしい。  「えっと、言葉を見たり聞いたりしたら味がするんだよね?じゃあ、りんごって言ったらりんごの味がするの?」  「うーん。どう表現したらいいかな。結局のところ、言葉から連想されたものを脳が誤認して、舌が刺激されるって感じだと思う。要は僕の想像しだいかな」  「じゃあ、ネズミって聞いたらどんな味がする?」  望月くんは、ちょっとだけ沈黙した。  「チーズに似た味がする。ちょっとだけ匂いがきついけどね」  「凄い!匂いもするの!」  「まぁ、脳が誤認してるだけだから、記憶からそれっぽいものを引っ張ってきてるんだよ」  「授業の時とか大変でしょ」  「うん。意識しないようにしてるけど、生物学だけは具合が悪くなるよ。節足動物の話なんて、思い出したくもない。今でも吐き気がしてくる」  望月くんと私は同時に笑った。言葉のせいで苦しい思いをしている望月くん。でも、こうやって笑い合えるのは、紛れもなく言葉のお陰。  まったく難儀な話である。でも、この会話に味を感じるとしたら、ぜひ味わってみたいものだ。私は恥ずかしながら、そう思った。  そんな風に思っていると、ふと上から何かの声がした。  「うあああああああああああああ!」  びちゃっと、何かが押し潰れた。ひと?多分ひとである。上から降ってきたそれは、もう人の原型を留めていない。地面にゆっくりと赤いものが広がっていって、私は気づいたら悲鳴を上げていた。  そんな私のことはお構いなしに、望月くんは落ちてきた人を見つめている。 「……甘い」  望月くんは唇についた何かを味わうように、舌でなぞってこう言った。  「ハチミツみたいだ」

幾千

「あのお、すみません。お参りしても……?」「ええ、はい。構いませんよ」返ってきた声はまだ若く、男ほど高い背に似合わず女のようだった。日が陰ってこようと、まだ蝉は鳴き止まない。墓参り用の手桶を片手にその顔ばせを見やると、黄金の瞳を携えた柔和な笑みがこちらを向く。その美しさに気圧され、すみませんともう一度声を掛けた。 柄杓に水を汲んで、墓石に水をかける。既に誰かが来たようで、周りは草ひとつないほど綺麗で。花だって置かれていた。「……お線香、あげますか?」男らしき人物は見たところ何も持ってきていない。“折角なら”と、側に立つ長身をしゃがんだまま見上げた。ひとつに結われた、長い髪がさらさらと揺れて背から覗いている。「私には合いませんので。お気持ちだけ」「……そうですか」何が、とは聞けなかった。蝋燭に火をつけて、そっと線香に火を移す。ふ、と無意識に息を吹きかけそうになって。怒られたことを思い出して、手で扇ぎ消した。線香を供えて、ゆっくりと手を合わせた。 「……では。自分はこれで」「ええ、はい。」 その答えを聞き届けた最中。ざああと木の葉が音を立てて、麦わら帽子が舞う。自身の前髪で視界が遮られた頃には、手前に落ちたそれを長い躯が器用に拾い上げて。美しい顔ばせの口許だけを笑みのかたちにして手渡してくるのだ。 「ああ、よく似ている」

からあげの季節

スマホのなかに住む男の子は、わたしにめっぽうやさしい やさしすぎて、ときどき、いじめてしまう でも、どんなに冷たく当たっても 最後に負けてしまうのは、わたしのほう 夏の終わりゆく時期が好きと言うわりに、その短いときを わたしはきちんとつかまえられなくて ついつい、一番いい表情を逃してしまう 下ばかり見てるのがいけないんじゃないの 元彼に言われた言葉は、けれど、たしかに… 甘いものだけをたべて暮らしていきたいなあ、ときどき思う かと思えば、無性にすき焼きがたべたくなったりもする 天丼をたべないと、どうにもおさまらない夜だって それでも、からあげがあればそれだけでよかった季節は すぎてしまった もう、とっくに

公平の唄

「リモートワークだけ出勤時間がないのは不公平だ! 出勤組は、移動の二時間を業務時間にして、一日六時間労働にすべきだ!」 「そうだそうだ!」    自由を得た人々は、平等と公平を叫んだ。  それが正義であるかのように。   「我々は社員のため、あらゆる公平を実現することを約束しよう」    世間の人々を客とする企業は、その流れに逆らうことなどできなかった。  社員からあらゆる不公平を集め、あらゆる公平と実現していった。       「え、なんですかこれ?」 「身長百六十五センチメートルの男性社員から要望があった。マッチングアプリでは百七十センチメートル未満の人間が選択肢から外れがちで、不公平だとな。だから、全男性社員の身長を百六十五センチメートルにして公平にすることにした」    医学の進歩は目覚ましい。  体に害なく、骨を切って人間の身長を縮めることができるのだから。    社長はにっこりと微笑んで、周囲の医者に指示をした。  ベッドに固定された社員たちには、どうすることもできなかった。   「嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ!」 「ちなみに、一部の女性社員からも胸が大きいのは不公平という要望が出ているため、全員を小さくする予定だ」 「嫌だ嫌だ嫌だ! そんなの公平にしなくていい! 誰か! 誰かー!」        世界一の公平を目指した企業は、しばらくしてから警報という公正なルールによって裁かれた。

羞恥に晒される

それは1冊の電子書籍だった 普段僕は恋愛漫画など読まないが、ふと、気になる1冊の悪役令嬢モノに目がついた そこにはよくあるこういったモノの導入と、婚約者が知らない女性を連れてきて、悪役令嬢を断罪して婚約破棄する、よくある… そう………この婚約破棄を言い渡した相手は…僕だ… 突然と脳内に記憶が入り込む それはこの漫画の導入と同じとこから始まる、僕の前世の記憶と言うべきだろうか それが一気に押し寄せてきた とても量が多かったからか、吐き気と眩暈がする フラフラとその場に座り込む ……この婚約破棄したあとは最悪だった 再度婚約した女に騙され、国に裏切られ、そのまま処刑された ふと、この元婚約者は今後どのようなストーリーに行くのかが気になった なにせ、前世はそんな暇もなく死んだから 続きを読み進めて行くと、僕の元婚約者はどうやら隣国の第一王子と婚約して、幸せの展開で漫画は終わっていた  「そうか…幸せでいてくれたのか」 きっと僕じゃ彼女をこんな笑顔にしてやれなかっただろう 今更安堵のため息をついたとこで、過去のしでかしは無くならない こうやって世に出て回り、羞恥に晒される  「今世は、前世よりかはまともに生きよう」 そして僕はスマホの画面を閉じた

待ちぼうけ

男女が、ゆっくりと目を開けた。 「私たち、死んだのね」 二人の手は固く握られている。 「これでみんな、分かってくれたさ」 「そうね。私たちの愛は本物だったって」 見つめ合う二人。 「……なんか、人多くない?」 辺りを見回し、杖をついた女に声をかけた。 「すみません。ここは、どこですか」 「ここ、三途の川だ。並ぶんなら、向こうだ」 女は長い行列の最後尾を、杖でさした。 「あっ、スマホがない」 女がポケットを探る。 「洗面所の鏡のとこに置いてきた」 「もう、いいんじゃない」 「だめ。データ、消してないもん」 その時、遠くで声がした。 「ん…?お母さん。ちょっと待ってて。スマホ、取ってくる」 女は、声がする方へ走った。 「先生、すぐ来てください」 看護師が大きな声を上げた。 母親は娘の手を握り、泣いている。 「私のスマホ…」 男は河原の石に腰掛け、女の帰りを待った。 「兄ちゃん、どうした」 酔っぱらいが横に座る。 「僕も、帰りたいんですけど。どうしたら、いいですか」 「誰か、呼び掛けてくれる人、いねぇのか」 「はい」 「じゃあ、その彼女、待つしかねぇな」 酔っぱらいは笑いながら、男の肩を叩いた。 「その彼女、今度来る時は、婆さんだな」

あめのむこう

値段を気にせず 本を買いたい 仕事をする 思い立って 布団から出て カーテンを開ける すっかり晴れわたった空は 幸先いい予感 などと思っていたら 急な雨 雨は 夜になっても やむことがなく 明け方くらいまで 降るらしい 仕事は またにした 本は 買っていない 雨は まだ降っている

洞窟の奥の書物

 小さい頃、入った洞窟の奥で書物を見つけた。何て書いてあるかは読めなかった。  それから年月が経ち再び洞窟に入り、書物を読むと、意外なことが分かった。 『これに書いてあることは口外してはならない。さもなくば……』  さて、何が書いてあったのか?  書いてあったのは、洞窟についてのことだった。昔、その洞窟は禁じられた空間であったこと。誰も立ち入ることが出来なかったこと。偶然立ち入ってしまった貴族が呪われてしまったこと。その貴族が悲惨な最期を遂げてしまったこと。  というような内容だった。一冒険者であった少年ランドはその事実を知ってしまった。 『口外してはならない』  もし、口外すれば、命はない。ランドは恐ろしくなった。それから数年後。  町の一流冒険者のストワットが森で洞窟を見つけたと言った。ランドが入った洞窟だろう。  しかし、洞窟の真実を知っている者は町にはいない。洞窟に入ったストワットは戻ってこなかった。調査隊が調べると、変わり果てたストワットの姿を見つけた。ストワットは奥の書物を読む姿勢で体に何ヵ所も剣で刺され、血を流していた。  地面に何か書いてある。 『掟破りしもの、その血をもって償わん』  書物はストワットの血で赤く染まっていた。だが、それは恐怖の始まりだった。洞窟を封鎖しようとした魔法使いが洞窟の魔の手に掛かり、命を落とす。奥の書物は赤黒くなっていた。それから洞窟は破壊され、中からおぞましい瘴気が溢れ、森は枯れ町の人も瘴気で命を失う。  残ったのはランドただ一人。しかも、ランドは闘う力はない。たくさんの人を死に追いやった瘴気に対抗する手段はない。だが、ランドは不思議な声を聞く。 『約束を守りしものに、この地の幸を受けん』  崩れた洞窟から書物が現れ、姿を変える。それは血の色をした魔剣だった。 『その剣、幾多の災いをはね除けん』  ランドに力が湧いてくる。ランドは町を出て魔物を倒し、ついには魔王を倒して英雄になった。

臨終看護師

私は臨終看護師。仕事は単純だ。 臨終医の後ろをついて歩き、遺族の待つ部屋に入る。 そして、臨終医が「御臨終です」と告げたあと、 目を伏せ、軽く頭を下げる。 これが私の仕事。 そこに、ご遺体への敬意など必要ない。 それで、終わり。 母も看護師だった。 臨終看護師にはなるなと言われた。 なぜなら、それは過酷で、辛い仕事だから。 私は以前、手術室の看護師だった。 しかし、やりがいを見いだせず、異動を申し出た。 今はこの仕事に満足している。 先日、臨終医がペンライトを忘れた。 とっさに彼は胸元から万年筆を取り出し、目の上で振り、ごまかした。 私は気づいていないふりをした。 臨終看護師としてのたしなみだ。 この仕事は女優に似ている。 病室は舞台。 何も書いていないバインダーは小道具。 セリフはなくても、存在感だけで観客 ──ここでは遺族だが──を魅了する。 最近、臨終医をモデルにしたドラマが放送された。 しかし、臨終看護師の姿はなかった。 残念な気持ちはない。 その方がいい。 ある日、目の前で臨終医が倒れた。 私は慌てない。 何もしない。 それが美学だ。 そして彼は、そのまま旅立った。

夕焼け空の恐竜

バスロータリーの列。 ハンディファンとスマホを握る女子学生が、銀の筆で器用に顔を直している。 耳の後ろから首筋へ、汗が流れた。 喫煙所から視線を上げると、マンションの屋上にクレーンがあった。 夕焼けの空へ首を突き立てた姿は、まるで恐竜に見える。 乾いた人々の列を、恐竜が黙って見下ろしていた。

レストラン「ロングバケーション」

家族がたまたま殺し屋を営んでいて、だから自分も殺し屋になった 何も思う事なく、自然に 親は一人息子の自分を愛してくれたし、自分もそれが嬉しかった am4:02 潮風が入る窓辺のテーブルの上に 夜を残したままの銃が一ついる ベレッタ92 父が使っていた物と同じ 色々試したが結局ここに行き着く 依頼人から話を聞き 裏付け調査を行い 殺すに値すると判断すれば 仕事を引き受ける 死んだほうが良い人間は沢山いる どんな世界にも 自分が世界に必要だとは思わない だから家族はいない 自分で終わりにするつもりなんだ ただ子供の頃に育ってきた環境の中で 学んだことは死ぬまで取り外せない 太陽が上がる 今日もレストランを開ける 自分は出来ることをするだけだ 飯と殺しを頼む人に

きみ、即ち。

布団が衣擦れの音を立てる。目を向ける先は暗闇で。「ねえ」と呼びかけひとつ。「……おりますよ」ギ、と微かに椅子が軋む音と共に少し遠くから返事が来る。短く相槌を打って、暗闇に背を向けて、瞼を閉じて。また眠る準備をする。 そうして、しばらく。酷く甘やかな香りと共に、さらりと滑らかな絹糸が肩へ降ってきた。「眠れませんか」天蓋のように落とす長い髪と、落ち着いた声色。頭上へ視線を向ければ、じっとこちらを窺う切れ長の瞳と目が合う。光を受けて僅かに反射する金色。それを、月のようだと反射的に口にした。──のが、間違いで。低く、喉を鳴らすような笑い声が降ってくる。肩を揺らしてひとしきり笑った大きな人影が、寝台を掌で軋ませた。「では、おまえは星ですか」 ─ 「ああ、アレ。ええ、私より矮小ですものねえ?」 さんさんと日差しが降り注ぐ白昼のもと、片眉を上げて口許を弧に歪める彼の人のなんと意地悪いことか!

祝福

もうすぐ、陽が地平線に姿を晦ます。この身は、それだけを知っている。ずるりとボロ切れが畳を引き摺る。長い影が、横たえる人の身を覆った。 コロコロと鳴く虫の声に囲まれて、歪な人型が床に垂らしていた片腕を持ち上げる。人の身の、口角に刻まれた皺。それをゆっくりと枝のような細長い指で撫でゆいてやった。くつくつ。ひんやりとした夕刻の風に溶けるのは、ただの耳障りな音。こんな時になっても。染み付いたその顔ばせは、ほどけないことを知ったようで。 膝をついて、大きな身を折った先。縮くれた小さな手へ散っていた黒糸が、濡れ羽色のなだらかな髪へと変わった。口許へ滑らせていた指先は、青く彩られた“人のもの”に。その手で額に散った白い髪を柔らかく避けて。ぺたり、と大きな掌で額を覆ってみる。ひんやりとした感覚に、美しい顔貌の眉頭が僅かに寄った。そうして、体を乗り出して。物言わぬ身へ睫毛を伏せた。柔らかく、どこまでも穏やかに。その冷たい額へ唇を寄せてやった。 鴉だけが鳴いている。

琴の詠唱

 明るい星が、その夜は絶えなかった。  晩夕離ユレイは、雪渓に塗れた山の頂から、降りしきる泡沫を見つめていた。まるで一つの屑のように、雪は舞い落ちる。その彼方に、ユレイは、星座を一つ見出した。  「…あれは、こと座かな。」  こと座。  その呟きが、胸に落ちてきた途端、ユレイは苦しみで溜め息を吐く。  「リラ、か……。」  こと座の元となった楽器、リラを、彼は全く弾けない。特段、その音色が好きというわけでもない。けれど、リラという名前の人なら、ユレイは深く愛していた。  「今宵は、来てくれるかな?」  そろそろ行こうと思い立って、ユレイは〝翼〟を取り出した。  雪を蹴る。風を切る。滑空の道具である〝翼〟は、背中に括ることで、意志を介して操作できる代物だった。あくまで滑空用なので、風を使わずに上昇はできないが。  「ユレイ様の飛行だ!」  地上から、微かに声が聞こえてくる。彼をしきりに誉めそやす声だ。不快に思って、彼はそこから距離を取るように、上昇気流を掴む。が、  「ユレイっ——」  そのとき、地上から、一際大きな声が響いた。  「り、リラ!?」  急旋回して、地上への着陸を試みるユレイ。しかし、翼にかかる抵抗が大きすぎる。彼は、激しい痛みに顔を歪めた。空気中に、羽根が数枚抜けて、自由に羽ばたいていった。  「リラっ!」  とうとう、地に降り立つユレイ。しかし二人の間には、もう大衆が入り込んで、すっかり両者を囲んでしまった。  「ユレイ様!」  と謳う声。  「リラ様!」  と拝む声。  「リラ…。」  秘かに、ユレイは呟き、唇をかむ。  その時。  「翼、かっこいいなぁ!」  人々の合間をすり抜けて、声が響いた。  「…、リラ。やめろ、〝風上〟は。」  その返事に、顔を綻ばせるリラ。  「ユレイだって答えるには、〝風下〟が要るのに。」  言いながらも、彼女は人を押し分けて、ユレイの方へと一歩一歩進んだ。二人の言う、〝風上〟と〝風下〟は、通信手段だ。使えない者には、聞こえない。  「逢いに行くね!」  「あぁ、僕も早く逢いたいよ、リラ!」  二人の声だけが、群れの合間を掻い潜って、交わる。  ——はずだった。  「リラハっ!何してんだ!」  大声が、群衆をざわつかせる。  「な、嘘だ!ムイル!?」  リラは答えようとしたが、上手くいかない。〝木立〟に遮られている。  「…ムイル様。」   くずおれるリラ。  「あぁ、リラハ。お前の星が、今宵は綺麗だね。」  ムイルという男は、その肩に手を当てて告げた。  「う、そだ。それはユレイの言葉——」  「言葉に、所有権なんてないだろ?リラハ。」  冷たい声色で、彼は続ける。震えるリラの体と、猫なで声のムイル。悍ましいほど、愛というものを分かっていない。分かっていない物質の膜を、表層に貼って笑っている。  「リラハ。誰と話していた?誰と逢いたがっていた?」  詮索する瞳が怖い。リラは怯えて後退る。でも今は、誰も守ってくれない。  「お前のことを、リラなんて捻くれた名前で呼び捨てるのは、ユレイだけだ!」  怒号が走る。群衆は喧嘩から逃げようと、上を下に返す大騒ぎで、止めに入ってはくれない。ユレイも流れに巻き込まれて、抗うどころではなかった。  (誰か…っ。)  リラは星を見上げる。  天空には、夏の大三角が瞬いていた。  その三角形が、一瞬、ねじ曲がった気がした。  「…リラ!!」  空に刻まれた鋭角の隅。端の端から、〝雪〟が降り出し、積もりゆく。  「は、何だって?」  ムイルは当惑して、辺りを見回した。ちらちら、ちらちら。薄汚いほど純粋な白だけが、視野の奥を掠めとる。  「まさか、そんなはずは…これは世界を、終わらせかねない兵器じゃないか?なんでそんなに、軽々しく使えるんだ!」  「それはね、ムイル様。」  無邪気に、ユレイの声が響く。  「〝芽〟が、やっとできるんだ。」  天空には、助走をつけて風下から舞う、ユレイの姿が映っていた。  「なんで…あれには、莫大な力が必要なのに…。」  ユレイはリラの元へ舞い降りながら、そっと告げた。  「ふたりでつくるんだよ。〝芽〟は、すぐには用意できない。でも〝雪〟さえ凌げれば、あとは時間の問題なんだ。これが始まってから、少ししないと、条件が揃わないんだよ。」  ムイルは必死になって足掻く。  「どうやるんだ、どうやって逃れるんだ!これを被れば、世界が凍ってしまう、そんな力を使ったんだぞ!お前はっ!」  けれどユレイは、リラの隣に立って、彼女の手をもう握っていた。  「ムイル。二人でいれば、この〝雪〟は、普通の雪と同じなんだ。」  「さよなら。」  凍てた世界に二人は長い事、抱き合っていた。  それから、一緒にはしゃいで、雪遊びでもしたのだろう。

戦った夜の成功(性交)

 関わりたくない。 でもしているだろう。 今日も邁進したのよ!褒めて!そして熱く抱いて! 学校で1軍に憧れてなれなかった奴らは今日もドーパミンセックスをする。 耳を澄ます。 虫の交尾の音がする。 虫に失礼か。 あるいは1軍はゲームに忙しい。 俺は忙しくない。 ゴムを1京円で売る。 穴空きのゴムだ。 これをしてするのが今世界で一番いかしてますぜ。 その後首を絞められて窒息死したら後世に名が残りますぜ。 スターになれるぜ。 願ってもないチャンスだな。 役立たずの卵子に(あるいは機械で代用できるかもしれない)罪は無いが。 精子は枯れ葉剤まみれだ。 誰も悪くない。 強いて言うなら攻撃性を昇華出来ない知能の低さが悪い。 俺も知能が低い。 憂さ晴らしの文章を書いて眠る。 まずいな、関わっちまった。 まあいいか。

システムが分からない幽霊

部屋を引っ越した。 幽霊が居た。 白い布を頭から被ったような、いわゆるところの、あの幽霊。 それが当たり前のように、そこにいた。 『わたし、何霊なんでしょう?』 その幽霊に、そう言われたのだった。 「地縛霊、怨霊、それとも生霊?自分でも分からないんですよ」 自分のシステムが分からないんです。 だそうだ。 言われても困るのだが。 居てもらわれても、困るのだが。 「…出ていってほしいんだけど」 借りたの俺だし、俺の部屋だし。 「あぁ…いえ、でも私の方が先に居ましたし…所有権は私にあるのでは?」 …権利を主張してきやがった。 「金を払うのは俺なんだから、権利も当然、俺にあるだろう」 「…うーん……まぁ、いいでしょう。使用を許可します」 あくまで権利は譲らないつもりだな、これ。 まぁ、でもいいか、幽霊と同居。 一人は寂しいし。 そんな生活にも慣れた、ある日のことだった。 仕事から帰ると、郵便受けに見慣れない封筒が入っていた。 宛名は俺。 差出人は、このアパートの管理会社。 嫌な予感がしながら、封を切る。 『賃料改定のお知らせ』 「……値上げ?」 横から幽霊が覗き込んできた。 「世知辛いですねぇ」 「お前は一円も払ってねえだろ」 紙には、来月からの家賃と、その内訳が記載されていた。 賃料、六万五千円。 共益費、三千円。 駐車場代――これは関係ない。 そして、その下。 『霊障管理費 月額五千円』 「…………」 「…………」 「お前、これ何?」 「いやぁ……」 幽霊は困ったように首を傾げた。 「自分のシステムが分からないんですよ」 翌日、管理会社に電話した。 「すみません。霊障管理費って何ですか?」 『ああ、そちらのお部屋ですね』 妙にあっさりした返事だった。 「これ、払わなきゃ駄目なんですか?」 『はい。ご入居時から発生しておりますので』 「いやぁ、でも…」 俺、部屋の所有者奪われてるし。 『……では、現在の所有者様にお支払いいただく形になります』 俺は幽霊を見た。 幽霊も俺を見た。 「だって」 「…………」 「所有者さん?」 「……やっぱり、所有権そちらに譲ってもいいですか?」 「いらねえよ」

読むこと

大きくつながりが悪く感じた いささか程度ではあるが 過去を振り返ってみた ああ、一巻飛ばして 買ってたかあ と、そこでやっと気がついた それでもかまわず 漫画をみている家人は 漫画本をぱらぱらやる行為を 読書と言い張って憚らない 「せめて、読むと言ってほしい」 「ん……そうなの?」 「それでも私には強い引っかかりなんだよね」 「んん……そうなの?」 これ以上の会話は 苦痛になりそうだ いや もう苦痛だ 漫画を下にみているのではないと思う 適切な言葉をあてているのだと思う 考えすぎなのだろう 漫画のことも 家人のことも 自分のことも これ以上、考えるのは 苦痛になりそうだ いや もう苦痛だ

潤い

喉が渇くが水すら買えない 三万三千歩以上を歩きながら、重量のある荷物を上げ下げした1日の後、僅かに残ったペットボトルの水を飲み干す 雨も上がり喉を潤すものがない ■それは何と呼べば良いのか 恋が終わる時はどんな時なんだろう 例えば相手に嫌いと言われたら 言われた方は悲しいけど、好きな気持ちは残っている。それは、まだ恋が続いていると言うことではないか。 例えばお互いすれ違いの生活で会話すら出来てなくて、次第に気持ちが冷めていく。この場合は恋が終わったのだろう。ただ、お互いが自分を譲ることなく、すれ違ったままにしていたとなると、初めから終わりは見えていたような気がする。 そもそも、恋とは何か 遺伝子を交配させたい相手のことか 一日中、心の中にいる人のことか それが終わるとはどういうことなのか 恋は本能側にいるようで 些細なきっかけで終わってしまう理性側にいるのだろうか 喉から手が出るほど欲しい存在 手に入れて、お互いをよく知り、隅から隅まで知り尽くしたら興味がなくなる ゲームをクリアするまでは楽しいが、クリアしたら次のゲームが欲しくなる きっと恋とはそんな感じなんだろう ただ、なんとなくだが、もっと尊い恋があるように思えてならない。言葉には出来ないが、終わることのない本能や理性ではない、神秘的なそれが。 深く、永く、静かに、相手を思う それは何と呼べば良いのだろうか

チャットゲームの噂話

 (某チャットゲーム内のログをここに記す。具体的な名前はアルファベット表記にし、個人の特定をさける。このログは有志のスクショを文字起こししたものであり、私が実際に体験したものではない) M: 半ば伝説となった「夜音事件」について情報求む。知らない人も多いと思うが、このゲームプレイ歴が長い人は覚えていると思う。 俺は同村したわけじゃないので、噂程度しか知らないんだけどさ。前身のRからやってる古参はさすがに居ないかな?あっちでも有名だったみたいだけど。 PンドラとかS奈とか色々あったけど、夜音を見たときの衝撃は越えられない。誰かアイツのログを保存している人はいないか? >Mが退室しました C: 突然なんだよ 言い逃げ? S: 荒らし?なんかのネタかな? F: 夜音の名前出すな S: なんで? F: 知らないなら知らないままでいい C: 古参だけどR時代の夜音なら知ってる ただ、あれを「事件」って呼ぶのは違うと思う S: 何が違うの? C: 夜音は何もしてない 何もしてないのに有名になった F: いや、何もしてないっていうのは違うだろ あいつと同村した奴なら分かる >Jが入室しました J: ログ持ってるよ 正確にはもらったスクショだけど S: え、見たい F: やめとけ C: 俺も昔持ってたけど消した 正確には消したというか、消えてた J: DMでなら送ってもいい S: ここにコピペして貼ってよ もしくはXに投稿とか 探しに行くから F: やめとけって ヤバいから J: ここには貼りたくない ログを読めば分かる S: だからそのログを読みたいんだってばw C: 俺が持ってたログはスタ村のだった 9スタな F: それ本物か? ガチ村にアイツがいるわけ J: 今何時? S: なう(20XX/0X/XX 2X:XX:X9) J: まだ大丈夫 S: 何?なんの話? >Jが退出しました S: はあ?なんだったの? ログくれるんじゃないの? F: もうやめようぜ >繝ウ繝?が入室しました 繝ウ繝?: こんばんは >屋敷が閉鎖されました >退出します  (短いやりとりだが、似たような事例がゲーム内で散見されており、このゲームを楽しむプレイヤーのひとりとしては真実を知りたい。アルファベット表記にしていても、このゲームを知る人なら特定できるはずだ。詳細を知るものは連絡してくれ)

豆腐

お豆腐って いつ飲み込んでいいのか わからなくて そういっていたのは どこの誰だったろう 飲み込みたいと思ったときが そのときなのかな そういっていたのは わたしだったかもしれない

雨の日の独り言

雨の日に、水溜まりの波紋が止まないように 我々の心もこのように目や耳からの情報に打たれ続けていると考える 先にも言ったが、雨の日の水溜まりを見ると絶え間ない波紋が延々と終わらない 確かにこれでは、間や、休と言ったものがなく落ち着かない そこで人が求めるのが、煙草やアルコール等によるフィルターで、実際は心の波紋は続いているが、それを伝わりにくくしてやり過ごす方法だ。 これは一時的に誤魔化せるが、後になって誤魔化した部分の痛みが一括で支払われる。故にとても苦しい時間を必要とする。それも誤魔化したいので、更に煙草やアルコールを煽ることになる。 もう一つは色恋事による強い衝撃を心に与え、その他の波紋を一掃する方法だ。 この場合、心にあるのはただ一つの衝撃だけで細かい波紋を無くす事が出来て、情報を一つに絞れるので煩わしさを消せる。 ただ、強い衝撃は心にも負担が大きいし、実際、直ぐに元に戻る。 このように考えて行くと、常にサンドバッグにされている心をどうすれば守れるかの答えが出てきたように思える。 私なりの解は、静かに目を閉じ「休もう」と自分自身に許すか、ただ目の前の景色を眺め過ごすか。後者はどの景色を自分の心が求めているかを聞く力が必要なため、落ち着くには時間が必要になる。 ただ筋肉や勉強、ゲームやスポーツ等と同じように、はじめは上手くいかなくとも、続けているといつの間にか出来ている物なのだ 心がこの世界を作っている だから 心が元気なのは良いことなのだ

夢蝋燭

 蠟燭に灯った火が、蝋燭の体を消していく。  感情が溢れ、熱く熱く燃えている時ほど、体の消える速度は速くなる。    文字通り、命を燃やしているのだと分かった。   「どうしてそんなに頑張るの?」    ぼくは訊いた。   「後悔したくないから」    相手は答えた。    なんとも教科書通りの回答に、ぼくは溜息を零した。    ぼくは、周りの蝋燭を見渡す。  激しい火が燃えている、短い蝋燭。  静かな火が燃えている、長い蝋燭。  ぼくの蝋燭は、当然長い蝋燭だ。   「夢に命を懸けて馬鹿みたい」    思わず零した本音を、馬鹿にする人間はいなかった。  皆、自分のことが馬鹿だと知っているのだろう。   「でも、羨ましい」    そんな馬鹿に、なりたいと思うこともある。  短い蝋燭の周りには、何個も何個も石が積まれていて、蠟燭の火を風から守っているからだ。  ぼくも自分の蝋燭の周りに石を積んではいるが、短い蝋燭ほどじゃない。  短い蝋燭には、蝋燭の持ち主だけでなく、いろんな人が石を積んでいる。  だから、ぼくの蝋燭なんかより、比べ物にならない程、石が積まれている。    勝手に燃えて勝手に短くなる蝋燭は、何故だか皆から愛される。   「あ」    風が吹く。  長い蝋燭が倒れて、その火が消えた。  蝋燭の持ち主も、当然消えた。    ぼくは倒れた長い蝋燭に近づいて、倒れた拍子に焦げただろう床の黒ずみを、指でなぞった。

続けて

「…天気、悪くなってきましたね」 「猫が顔を洗うと雨が降る、なんて言い伝えもありますから」 「ラジオでも、そんな話聞いたことあります」 「少し大仰な言い伝えだけどな」 「何か昔に、実例でもあったんでしょうか?」 「仮に実例があったとしても、こんな言い伝えにはならない」 「いやぁ、これには科学的な理由がありまして!」 「天気は科学でできているってよく言いますものね!」 「聞いたことねえよ」 「…猫と天気がどう繋がるんですか?」 「科学的に!証明!されて!いるのだ!」 「だからその理由を聞きたいのですが…?」 「頑として言わないですわ…」 「わたしは!知りません!」 「…私が思うに、顔ではなくヒゲを洗っているのでは、と思いました」 「確かに、その可能性はありますわね」 「猫のヒゲはセンサーになっていると聞いたことがあります、雨が近づいて増えた空気中の水分をセンサーであるヒゲが敏感にキャッチしてしまっているのではないかと」 「ほぇ〜なるほど」 「とても興味深い会話でした たかだか天気の話でこんなに盛り上がるとは 話の種というものは、どこに転がっているか分かりませんね 猫…よりも、私は犬派なんですが 外野からすれば、こんな話なんてゴミ箱へダストシュート… ……ところで、ずっと見ているんですよね? ねぇ、あなたに言っているんですよ? 四人をこんなところに閉じ込めたあなたに 人間を…弄んで、楽しいですか?」 「感服しました」 「…楽しんでいるんですか?」 「かなり」 「理解に苦しみます」 「少なくとも僕は楽しんでいる」 「類を見ない、悪趣味ですね」 「熱心ですねぇ…まだ続ける?」 「ルンバでも掃除しきれない汚れきった心をお持ちで!」 「できればもう飽きたし終わりにしたいんだけど…」 「道理で…わざとでしょう?」 「上手く返すものだから、つい」 「いい性格してるってよく言われませんか?」 「かなり、まぁ褒め言葉として受け取っておきますよ」 「よく言いますよ、ほんとに……それより、 あの、三人は、どうなったんですか?」 「彼らですか?あなたも気付いているんじゃありませんか? 彼らは死にましたよ」 「………」 「よく回る口だと感心したんですがね…ここらが限界ですか?」 「………」 「彼らが死んだ理由、聞きたいですか?聞きたいですよね?聞きたくない訳はないですよね?……だってさっき聞いてきたもの」 「………」 「残されたあなたには知る権利があるでしょうし、教えてあげましょうか」 「………」 「彼らと、あなたの違いなんて、“しりとり”を間違えたかどうか──ただ一つ」

渇き衣

 口から、鼻から、全身から水が滑り込んできて、息が詰まる。  何度も夢に見た光景だ。  重い。辛い。寒い。からだがしぬ………。  愛しさだけが、空っぽで埋もれるように、最期まで残っていた。  ◇◇◇  「起きて、起きて!」  真襤褸ウラは、誰かに耳元で叫ばれて、重い瞼を開ける。  「…はぁい。」  目の前には母親。彼女は渋々、布団から這い出して、着替えた。  「日曜か……。」  ウラは呟いて、欠伸を一つし、目元をこする。カレンダーの日付は、二十八日。丸で強調されている。  「あぁ、行かないとね。」  ウラは急いで髪を結い、靴を履いて、外へと飛び出した。  二月二十八日、想い人に殺されると、翌二十九日に飛べるという。ウラは淡い期待を抱いて、鞄の中身を何度も確かめながら、全速力で走った。  「…歩道橋、あった。」  息を切らして、彼女は階段の一段目でへたり込む。さっきまで足音と綺麗に重なっていた鼓動は、孤独に暴れていた。息を整えていると、向こう側から人影が見えた。  「あれー、ウラーっ?」  果天詩ツズ。彼は歩道橋の上から、ある程度大きな声を出して、叫んでくる。ウラはその声を聞くなり、まだ呼吸もうまくできないのに、階段を駆け上がっていった。  「つ、ツズ…っ。はぁ、はぁ…。」  「もう、走りすぎだよ。大丈夫?」  ツズはウラを心配して、そう話しかける。  「大丈、夫…。」  段々、彼女の息も落ち着いてきたようで、ウラは軽く笑みを浮かべた。  「階段の所に座ってるから、何かあったのかと思っちゃった。」  ツズは無邪気に笑い返す。苦しそうな顔をしているのは、走った余韻ではないだろうに、ウラは小さく項垂れた。  「…ここ、通ると思った。」  彼女の言葉に、ツズは瞬きする。  「え、俺が?」  頷いて、ウラは前を向く。  「二十八日だね。——二月の。」  ツズは顔色を少し変えた。が、そんな彼を気にもせず、ウラは指差す。  「あそこ、行こ。」  その指の先には、雑木林。ツズの指が震えている。  「そ、んな所で、どうするの。」  ウラは被りを振った。  「別に。早く、付いてきて!」  駆けていくウラ。追いかけるツズ。  「ま、待ってよ!」  雑木林は、風通しが悪い。落葉が地面に降り積もって、腐敗している。  「ツズ、来てくれてありがと。」  ウラは言うなり、彼の手を取った。  「ん、ウラ…え?」  困惑して立ち尽くす、ツズに向かって、ウラは命じた。  「私を殺して。誰も見てない。」  彼女の右手には、いつの間にか、包丁が握られている。  「え、ちょ、手……。」  鋏でもないのに、柄の方をツズに向けて、彼女は包丁を差し出した。切れ味が良いのか、刃を包んだウラの手からは、血が滴り落ちる。ツズは両目を瞑って、一歩後退った。  「…どこを刺しても良いよ、死ぬなら。」  どうやって殺せるというのだろう、それなのにウラは、ツズと向き合う。  ツズはウラを、怯えた目で見つめている。  「ねぇ、はい。」  執拗に突きだされる包丁の柄が、ツズの胸元を一突きした。  「ちょっと、ウラ……!」  逃げ出せれば良いのに、彼の両足は動かない。その代わりに、手ばかりが醜く蠢く。  「あぁ…なんで。」  ツズは観念して、ウラの手から、ナイフを勢いよく奪った。  「痛っ…!」  ウラが思わず叫ぶ。線が一筋残っていた。  「っごめん、つい…待って、手当するね——」  「やめて。殺してよ。」  そう言いながら。  ツズの胸元で、不格好に握られた包丁目掛け、ウラは飛び込んでくる。  「ウラっ!」  叫ぶばかりで、動けない体を、ツズは罵った。呪った。ウラが纏わりつく。温度が、全身を覆い隠す。  (そっか、ウラ、俺より小さいんだ…。)  後が懺に変わって。  胸の包丁は、ウラの首元を貫いていた。  「ウラ?ウラ…?」  ツズは力なく呼びかける。返答は——  グサッと鈍い音がした。  彼の首に熱が滲む。熱は迸り出ていく。ツズはウラに抱き着かれたまま、後ろ手に包丁で刺されていた。  「う、ぅ…。」  呻き声をあげて、彼は意識を手放した。  ◇◇◇  ウラは気が付いた。  宇宙と似た虚無に、一人。  手に触れたカレンダーの日付は、二月二十九日。  この世界線でなら、自分は死ねるだろうか。夢オチが捏造されるのはもう嫌だ。生きてという誰の願望にも逆らって、自分は命を絶てるだろうか。  ぐるりと見回して————  息を飲んだ。  そこに、ツズの姿があったから。  「ツズ!?」  彼の目が覚めて、大きく見開かれる。  「え。え、ウラ…、生きて——」  「両想いだったんだ。」  ウラがツズを遮った。  「え?」  「ここ、二月二十九日だよ。一昨年の潤年。でも私、死ねないままで良いや。」