母が死んだ翌月、私は十五キロ太った。 正確には、太ったというより、戻った。高校二年の夏にバドミントン部へ入るまで、私はずっとデブだった。小学校の身体測定では毎年こっそり目を伏せたし、プールの授業が憂鬱で、体育祭の騎馬戦では土台に回された。それが部活をはじめて一年ほどで十二キロ落ち、そのまま大人になって、三十四歳の秋に母が逝って、二ヶ月もしないうちにまた元の体に戻った。 不思議なことに、苦しくなかった。 久しぶりに触る自分の腹の肉は、柔らかくて、温かくて、どこか懐かしかった。風呂場で鏡を見るたびに、中学生のころの自分が重なった。あのころ、母はよく言っていた。「ぽちゃっとしてるほうが、かわいいよ」と。もちろん慰めだとわかっていた。でも私はその言葉が嫌いじゃなかった。痩せろとも、頑張れとも言わずに、ただそう言う母が好きだった。 一度だけ、泣いて帰ったことがある。中学二年の冬、同じクラスの男子に「デブ」と呼ばれた。廊下で、大勢の前で、名前ではなくそう呼ばれた。家に帰って、玄関で靴を脱ぎながら、こらえていたものが崩れた。母は台所にいたのに、すぐに気づいて、何も聞かずに隣に座った。しばらく背中をさすって、それから言った。「お腹、すいてるやろ。ごはんにしよ」と。夕飯はカレーだった。私は泣きながら食べた。それでも食べた。母はおかわりをよそいながら、「おいしい?」とだけ聞いた。 あの夜のことを、今でも思い出す。泣きながら食べたカレーの味を。 葬儀が終わり、四十九日が過ぎて、母の部屋を片付けはじめた。タンスの引き出し、押し入れの奥、鴨居の上の埃まで。几帳面な人だったから、ものは少なく、整理は早かった。ただ、押し入れの段ボールの一番下から出てきた古いアルバムだけは、手が止まった。 七五三の写真があった。丸々とした子どもが、赤い着物を着て、帯をきつそうに巻かれて、それでも笑っている。隣に若い母がいた。髪を結い上げて、薄く口紅をさして、今より二十キロは軽い体で、私の手をしっかり握っている。 その写真に、小さな付箋が貼ってあった。 色褪せた黄色い付箋に、母の筆跡で、一言。 まんまるで、よかった。 日付はなかった。いつ書いたのかわからない。私が痩せた後なのか、ずっと前からなのか。でもそれは関係ないと思った。母はずっとそう思っていたのだ。あの丸い子どもを、余分だとは思っていなかった。恥ずかしいとも、直してやらなければとも、思っていなかった。 私はしばらくその付箋を見ていた。泣かなかった。泣けなかったのではなく、ただその言葉が、腑に落ちていた。 あの脂肪は、母に愛されていた時間でできていたのかもしれない。細胞のひとつひとつに、母が作った夕飯が、膝の上で眠った夜が、「かわいいよ」という声が、溶け込んでいたのかもしれない。だから私は痩せるときに、何かを手放していた。そして今また、取り戻している。 悲しみで太ったのではないと、今は思う。 ただ体が、母のそばにいた頃の形を、憶えていただけだ。 私は立ち上がって、台所へ行った。冷蔵庫の中に、母が最後に来たときの作り置きがまだ残っていた。きんぴらごぼう。蓋を開けると、甘辛い匂いが広がった。少し濃い味付けは、母の癖だった。何度かうすくしてと頼んだけれど、最後まで直らなかった。今となっては、直らなくてよかったと思う。 私は冷たいまま口に運んだ。 甘くて、濃くて、母の味がした。 窓の外では、風が落ち葉を転がしていた。私はそれを見ながら、もう一口食べた。体の中に、温かいものが積もっていく気がした。泣きながら食べたカレーも、こうして積もって、今の私になっているのだと思った。 デブで、よかったのかもしれない。 あの頃の私が、今の私を、中から支えている。
「若い人材獲得のため、弊社でも新卒社員の初任給を増額することとする」 社長からの言葉に場が静まり返った後、待っていたのは強烈なバッシングだ。 「ふざけるな!」 「実力主義じゃなかったのか! 新人のどこに実力があるんだ!」 「つーか、新人の方が給料高くなってませんか?」 特に反発したのは、二年目や三年目。 突然、部下の方が高い給料だと言われれば、納得もできないだろう。 「もちろん、三年目までの社員の基本給も、増額することとする」 とはいえ、二年目や三年目の不満を、社長は織り込み済みだった。 社長の一言で、三年目までの社員の不満は収まった。 「ふざけるな!」 「実力主義じゃなかったのか! こいつらが俺たちより実力あるってことっすか?」 「つーか、三年目の方が給料高くなってませんか?」 次に反発したのは、四年目や五年目。 突然、部下の方が高い給料だと言われれば、納得もできないだろう。 「まさか全員の給料を上げる訳にもいかないだろう。どこかで線引きは必要なんだ。社会人なら理解してくれ」 四年目や五年目の不満も、社長は織り込み済みだった。 織り込んだうえで、跳ね除けた。 「もう決まったことだ」 なお不満を続ける社員から逃げるように、社長は会社を後にして、最近買い替えたらしい車に乗ってどこかへ行った。 会社内は、不満たらたら、 とくに、四年目や五年目はすごかった。 十年目を超えた社員も、若いだけで羨ましいなあと、うっかり嫌味を零す始末。 「はー、やれやれ」 俺はと言えば、興味がないのでスマホをいじっていた。 決まったことは仕方ない、どうにもならない。 実際、給料だけを見れば不公平感は否めないが、不公平だからと初任給を上げず、新人が来ないほうが恐い。 喜ぶ部下も、不満を言う部下も、おじさん社員たちよりずっと少ない。 目の前の金だけ意識すれば、会社に未来がないのは確実だ。 「かー、転職だ転職」 「やってらんねー」 しかし、大半の人間は目の前の金を見る。 いや、組織でなく個人だけを見ると言うべきか。 日本が少子化対策に大きく税金を注ぎ込めない理由を、なんだか垣間見た気がした。 会社組織は、まるで社会の縮図だ。
寒いね、まだまだ夜は、寒いよね 風が強く窓をたたき、声を上げる 弱虫さんね わたしのつぶやきなんて、風は耳に入れようとしない 春の香りは桃色で、えらくうっとり 夜になるとその桃色に暗黒が混ざりあって よりしっとりと 風がその香りをぐるぐるにかきまぜ めちゃくちゃでごちゃごちゃを呼び込む 香りに惑わされて、気持ちがぺちゃんこ そう、なら 読みたくなったらね 気持ちの高まり? あんまり、その高まりに 期待しないほうがいいかもしれない 読むのかな 読まないのかな 春になったら、読むかもね 読まないかもね
どうも皆さんこんばんは メデューサ・メデュ子のお悩み相談室 どうぞ今夜も楽しんでお聴きください この番組は短編作品限定の小説投稿サイト『Prologue -プロローグ-』の提供でお送り致します この番組のナビゲーターを務めるのは私メドューサ・メドュ子です。皆さん、どうぞよろしくね 最近皆様はどのようにお過ごしでしょうか 少し暖かくなってきましたね 私は外に出てショッピングやお気に入りのカフェ巡り、早咲きの梅の花にとまる小鳥を見たり…ではなく家の中で過ごしています。フフフ 衣替えとか冬のコートをクリーニングにお願いしたりとか 出来る限り寝ている日もありますw はい、今日は、スペシャルなゲストが来ています。ピーチ姫さんです 「こんばんは。ピーチです。よろしくお願いします」 よろしくお願いします。 ピーチ姫さんは春と言うと何を思い浮かべますか 「うーんそうですね。やっぱり桜ですね。桜の木に登ってジャンプした時、隠しブロックがあったりすると、なんか上がる気がします。フフフ。ほら私ピンクだしw」 そうですよね。よく高い所から華麗にジャンプされていますよね。ふわりふわりと降りてくるところも素敵ですよね 「ありがとうございます。全然、姫ぽくないですよねw。昔はこんなに活発じゃなかったんですけど、なんかマリオたち見てたら楽しそうだななんて思って」 ピーチ姫さんに憧れる人は多いと思いますよ。今日もピンクのドレスがとっても素敵です はい、ではお悩み相談に参ります ペンネーム、スキビディトレインさんよりお便りをいただきました。ありがとうございます 「ぼくは小学三年生です。ぼくには好きな人がいます。それは担任の藤川先生です。先生はとてもかわいらしく優しい先生です。騒いでいる子がいるとしっかり注意するし、片付けをちゃんとすると褒めてくれます。先生に褒めてもらうととてもうれしいです。ぼくにはお母さんがいません。先生がぼくと結婚したら先生をとても大切にします。でも、先生には家族がいます。だんなさんと赤ちゃんがいます。だからぼくと先生は結婚できません。だから、だんなさんと赤ちゃんを石にしてもらえませんか。よろしくお願いします」 「かわいいー!先生が大好きなんだね。初恋かな?」 ここにも花が咲いてますね 素敵な先生なんでしょうね 「満開だねw先生には自分の気持ちを伝えたのかな?でもこの子はそれが先生を困らせることが分かりそうな感じよね」 そうですね。ちゃんと先生や友達の事を見てる男の子な気がするな 「石にしてくださいとお願いされてますがどうしましょうw」 フフフ、そうですね。スキビディトレインさんはお母さんがいなくて、寂しい時があると思います。辛くて泣いてしまう日もあると思います。また、周りにはスキビディトレインさんをここまで育ててくれた人がいるようですね。その人達全てがあなたの家族です。あなたの事を大切に思っている家族です 藤川先生にもそんな大切な家族がいます。藤川先生の事が好きで大切にしたいと思うのならば、スキビディトレインさんは藤川先生ではない運命の人と結婚しましょう。必ず運命の人があなたの前に訪れます。いつか、運命の人と結婚したら先生に報告して上げてください。先生はきっと喜ぶと思うわ 「…あれ?今日は【石化アイ】発動しないの。そんな回もあるんだw」 フフフ。はい、今日は発動しませんでしたwなんか素敵だなと思って。 ではここで一曲 はなのなまえで「春風ドライバー」 ♪ もしも明日、死んでしまうとしたら 僕は君を道連れにするだろうか 何にもない僕の心は 君をがっかりさせてしまう それでも君が僕の隣で 笑って車に乗ってくれたら、くれたら 春風にのって、どこまでも ひこうき雲追越して、どこまでも 北極星めざして、どこまでも、どこまでも 君とならば、どこまでも ♪ ではそろそろお時間です。本日はゲストのピーチ姫さんに来て頂きました。ありがとうございました。 「ありがとうございました。あーまだキュンキュンしてるんですけどw楽しかったです。ありがとうございました」 本当にありがとうございました 皆様に素敵な春が訪れますように ではまたお会いしましょう。シャー
ウェブ漫画の作り出した功績は、休載イラストの概念だろう。 毎週毎週、機械のように原稿を出し続ける。 そんな過労の負担を減らし、連載の休暇期間を設けることができるようになった。 ぼくは、好きな漫画の休載イラストが掲載されていることを確認し、アプリを閉じた。 「はー、仕事」 そして、鞄を手に取った。 漫画に休載イラストがあっても、ぼくの人生に休載イラストはない。 月曜日から金曜日は、ひたすら労働労働。 土曜日と日曜日の休日ですら、家事だの付き合いだので連載継続だ。 「週末、温泉でも行くかなあ」 せめて、ほのぼの日常パートを挟まなければ体が持たない。 満員電車に伸びる長い列に立ちながら、手早く近くの日帰り温泉宿を検索した。
死のうと思った。 電車の線路に飛び降りて……。 飛び降りる前にふと気になった。 賠償金っていくらかかるんだろう。僕は死ぬんだから賠償金払えないよな。もしかして親とか家族が払うんかな。 どうやら僕では、到底払えない額のお金を払わなきゃならないらしい。そして、賠償責任は遺族に行くらしい。 死ねなかった。 親にはもう迷惑はかけられない
線路沿いの空き地に勝手に入り込み 煙草を吸う 雨太郎は霧のような雨に濡れながら、傘もささずに煙草を吸う フェンス越しの線路を見ながら冷たい冬の雨の中で煙草を吸う 「わるくないね…」 雨太郎は何も考えていないが、感じてはいる。彼はそういう男である 彼は先程まで馴染みの喫茶店にいて、コーヒーを飲んでいた。自宅から持ってきたウィスキーをコーヒーに垂らし、それを飲みながら煙草を吸っていた。 その時も彼は何も考えず、感じていた。 煙草に雨の染みがポツリポツリと出来て、赤い輪郭を残して消えていく 「わるくない…」 雨太郎は笑っていた 「雨太郎さん」 雨太郎が振り向くと七十歳くらいの女性が空き地の外で手を振っている 「濡れるよー。風邪引くよー」 雨太郎は笑っていた 雨太郎が家に帰る道程には、怪獣との戦いで倒壊したビルや陥没したアスファルトがあり、バリケードの中で雨に濡れながら作業をしている人達がいる そんな所があちらこちらにある 「ウルトラマン達は怪獣を倒してくれるかもしれないが壊した街を直してはくれない」 新聞、テレビニュース、ネットニュース、SNSでよく聞く言葉だ そして雨太郎はウルトラマンである 雨太郎は何も考えてはいないが感じている 雨太郎は決して見本となる大人ではないが、ウルトラマンの一人として突然の襲来に全力で戦っている 雨太郎の住んでいる年季の入った団地に着いた。夜入りの月を見上げ、いつの間にか雨は上がっていることに気が付く 「雨太郎さん」 振り向くと買い物帰りのカモメが手を振っている。彼もウルトラマンである 「何してんすか?ずぶぬれで」 雨太郎は断りもなくカモメの買い物袋から缶チューハイを取り出し勝手に飲む 「街がボロボロだな…」 「…そうですね」 二人は団地の階段から外を見ている 「…お前のせいで」 「雨太郎さんもでしょ!」 二人はいつも共に怪獣と戦う カモメは若く、雨太郎は若くない カモメはハンサムで、雨太郎は無精ひげで汚れた作業着のオジサンだ 「どうすりゃ良いのかな」 「どうすれば良いんですかね」 雨太郎は煙草の煙を長く吐く 息が白くなる程の夜に 家をなくした人々はどれくらいいるのだろうか 「皆が可哀想だ」 「…可哀想ですね」 「…お前のせいで」 「雨さんもでしょー!」 カモメのツッコミが都営団地にこだまする 雨太郎は笑っていた 月と 夜と 水たまり カモメと 煙草と 缶チューハイ 「わるくないね…」 「え?今なんて言ったんですか?」 「…いやね、お前の頭がVAUNDYみたいだなって思ってね」 「いや、ぜんぜん違うでしょ!パーマかけてないし!」
後ろから声をかけられ振り返ると無表情の男が立っていた。男はどうでもよさそうに紙を手渡すと、こちらの存在など初めから無かったように視線を外し足音なく歩き去っていく。 残された二つ折りの紙を開ける。そこには何も書かれていなかった。 紙にまで突き放されたような痛みを誤魔化すように、左手で握りつぶした。握ったまま、どうすることもできなかった。
「もしもし。申し訳ありませんが、先程ご依頼のあった救急車キャンセルさせてください」 「え? ちょっと待」 「お腹痛くて」 電話が切れた。 折り返しても繋がらない。 怒りで沸騰していた頭は、だんだんと冷たくなっていき、手に持っていたスマホを滑り落とす。 「自業自得……ってやつか……」 友達との約束をドタキャンし続けた者の末路が、これ。 今からでも過去に戻って、皆に謝りたい。 私を轢いた車の運転手は、私の出血を見て気を失い、役に立たない。 場所が悪いせいで、野次馬一人あたりにいない。 私を轢いた車のライトを全身に浴びながら、私は息を引き取った。
「あれが夏の大三角形なんだ」 凛月さんの指差す先に目を向けてみる。揺らいでいる星の光を少し眠たい僕の目が捉える。凛月さんの示した星を頑張って探してみる。けれども、どうにもそれらしい星は見当たらない。目を凝らしてみるけれど、今度はどの星も、繋げてみると違和感のない三角形をつくるように見える。 凛月さんの説明は続いたが、夏の大三角形はどうしても見つからない。 難しい顔で夜空を見上げる僕を、凛月さんは少し笑った。 「ああ、やはり」 凛月さんは再び星空へと視線を移してから、君は面白い顔をする、と続ける。その言葉を連れて、夏の風が僕と凛月さんの間を通り過ぎていく。僕は口をつむんだまま、不貞腐れたことが凛月さんに伝わるよう、口をへの字に結んで、抱えた両足に顔を埋めてみる。しかし、凛月さんは気にしていないようだ。そういう人だ。 屋台に群がる子どもたちの声。射的屋の乾いた弾丸の音が微かに聞こえた。 年に一度、僕の住む地域で行われる祭りは、街の規模に似合わないほど盛大に行われる。街の中央に走る田舎特有の大きな道路に所狭しと並ぶ屋台。どのぐらいの距離だろうか。ざっと百メートルは続いているのだろう。道路に面している公園には盆踊りで叩く大太鼓を掲げる櫓が置かれている。周りの仮設テントで屋台飯を食べるカップル。談笑する親達の周囲を走り回る子供。 大がかりな祭りはこの辺りでは珍しいから、近隣の地域から足を運ぶ人も多い。 少し離れた街に住む凛月さんもその一人である。 「ねえ、ミサキくんは織姫と彦星の物語を知っている?」 知らないはずがない。日本人であれば誰もが知っている有名な話だろう。 凛月さんは右手で横髪を耳にそっとかき上げて、僕の方を見る。 「なんか、私とミサキくんって、織姫と彦星みたいだよね」 「そうかな」と小さな声で返事する。賑わう屋台を眺める凛月さんは、同じくらい小さな声で言う。 「年に一度しか会えないじゃない。ほら、雨が降ったら祭りが中止になるでしょう。そうしたら会えなくなるところも似ているよね」 僕は再び「そうかな」と小さな声で返事する。気づかれないように横目で凛月さんを見てみるが、ばっちり目が合ってしまい恥ずかしくなる。顔をひざに埋める。クスクスと笑い出した凛月さんは、次第に肩を揺らして笑い始める。いつもの僕なら不貞腐れるふりをしてみるところだけれど、凛月さんにつられて笑ってしまう。 「やはり君は……」 再び風が二人の間を通り過ぎて行った。風の冷たさが、二人の時間が残り少ないことを知らせた。 僕はそう感じた。 凛月さんはどう感じたのだろうか。 僕は仰向けになる。背中に当たる名前の知らない夏の草の温かさに包まれる。 あと何回、こうして凛月さんと話せるのだろうか。夏祭りが開催される間は何度でも凛月さんに会えることを願ってしまうけれど、それはきっと叶わない。 僕は凛月さんの年齢を知らない。尋ねてみたことはあるが、「乙女に年齢なんて聞いちゃだめなんだよ」と、はぐらかされてしまった。 それでも、すでに凛月さんは田舎を出て都会へ出ていくような年齢であることを理解している。 「どうしたの? 眉間にしわを寄せちゃって」 「……何でもありません」 「へえ、嘘なんかついちゃって。大きくなったもんだねえ」 「……嘘なんかついていませんよ」 「それは、どうだか」 寂しさとか、悲しさとか、悔しさとか、そういったことが重なって、居た堪れなくなって、会話から逃げるように、目線を上に逸らす。 きっと僕と凛月さんは、織姫と彦星なんかじゃない。何度でも会うことができるわけではないのだから。 「……あ、あった」 「嘘、見つけたの? 夏の大三角形」 「……多分。下の方が少し尖っている三角形を作っていますよね」 「そう、それよ! さすがだね、ミサキくん」 見つけた星は、周りのどの星よりも強く光っていた。どうして今の今まで見つけられなかったのだろうか。 「見つけた三角形の左上の頂点に当たる星から時計回りに、デネブ、ベガ、アルタイル。織姫に当たるのがベガ。そして、彦星に当たるのがアルタイル。二つの星は、十五光年も離れているの。つまり、光の速さで進んでも、十五年かかる距離」 次の夏祭りで、凛月さんと星空を見上げることができる確証はない。それでも、僕は、願っている。また来年、同じ丘の上で凛月さんに会えることを。 ああ、それなら僕は……。 「似ていますね。僕と彦星は」 凛月さんはとても驚いた顔で僕を見る。そうして、満面の笑みを僕に向ける。 ばさっと勢いよく地面に背中をつけて仰向けになる凛月さん。そのまま、体を横にむけて、僕の目を見て、呟く。 「ようやくわかってくれた」 そのとき、僕がどんな顔をしていたのか、覚えていないが。 「やはり、君は、面白い顔をする」
「お名前を教えていただけませんか?」 「ウルセーバカです」 「は?」 相手の顔がひくっとひきつったので、ぼくは急いで訂正に入る。 「ご、誤解です! 名前が!」 「誤解?」 「ウルセー」 「五月蠅い?」 「バカなんです」 「……誰が馬鹿だって? ちょっと話しかけたくらいで、馬鹿呼ばわりされる筋合いねえよ!」 相手の表情はひきつりから怒りに変わったので、ぼくは誤解を解くのを諦めた。 どうせ路上の勧誘。 二度と会うことはないだろう。 麗世(うるせ)葉佳(ばか)。 ぼくの名前。 いつだってトラブルを運んでくる、やっかいなやつだ。
あの娘(こ)とブランコに乗る… 続けてあの娘(こ)は僕に言った 私の好きな色を当ててごらん 『ヒントはよりどりみどり』だよ それって緑の事だよね? (よりどりみどり…言葉の中に【みどり】っていう色があるもの) 正解っ!よく解ったね これね、絵本に載ってたんだー もしかして、読んだの? まぁね、読んだよ キツネが主役の絵本でしょ? そうだよ。私もね、緑色が好きなんだぁ 緑色のドレスで、緑色の指輪で、好きな人のお嫁さんになるのが夢なんだぁ… 後日、あの娘(こ)に向けて内緒で折り紙を使い指輪を折った もちろん、宝石の色は緑色 でも、実際にはドキドキして渡せなかった …どれだけ時間が経った今でも、その指輪は机の引き出しに入っている あの娘(こ)は、きっと忘れているのに (完)
少子高齢化時代において、人間とは資源である。 故に、犯罪を犯した人間であっても、再利用することが不可欠である。 「判決。被告人を、更生刑に処す」 とはいえ、刑の執行を終えた人間に対し、人権の保障も必要である。 過去に犯罪を犯したという理由で、以降の人生全てを制限することもまた、国ぐるみの犯罪と言えるだろう。 そんな矛盾を解決するために、更生刑は作られた。 更生刑は、金属で作られた床と壁から成る、無機質な部屋の中で行われる。 部屋の中央に設置された機械に人間の体をぶちこんで、スイッチを押せば終わり。 「ああああああああああああああ」 脳に電気を流し込み、人格を変える。 記憶も買える。 全身に熱を流し込み、外見を変える。 人間という資源を、別人として再利用する。 「あのー、すみません。私は誰で、ここはどこなんでしょう?」 「ここは警察署です。貴方は道端で倒れていたのですが、記憶がないのですか?」 「……はい。名前を、私が誰かも、思い出せないのです」 再利用された人間に求められることは一つ。 別人として、かつての才能を世間のために行使し、稼いで納税をすることである。
夏祭りというのは 時折開催されては 一過性の盛り上がりを僕たちに見せつけ 無責任なほどあっという間に終わっていく 8月31日 21歳の夏 待ちに待ったこの日 屋台は片付けられ始め、夏祭りが終わろうとしている 夏の醍醐味を一通り楽しみ終えた 周りの人達は 刺激的な非日常の終わりを 各々の心地よいやり方で楽しんでいる 一夜限りの活気に満ちていた街が 徐々に元の姿に戻っていくのを感じる そんな中 道路の中央を親友「ユウ」と歩きながら 僕は呟いてしまった 僕「僕たちの好きな時間も こんな風に終わっちゃうのかな」 ユウ「そんなことないんじゃない?」 ユウが前向きな言葉を返してくれるが その日の僕は少し弱っていたみたいで その後も訥々と言葉を綴った 「夏祭りってさ、普段はそれぞれの事情を抱えて それぞれの日常を過ごしてる人達がさ 皆で同じ空間の同じ空気を なんの理由もなくなんとなく味わってさ 今この時だけは 全部忘れて楽しんでるって感じがして 好きなんだ だけどさ、そんな時間なんてどうせすぐに終わって また地獄みたいな日常に戻る そんなの余計に辛くなるだけじゃないか」 ここまで言った辺りで、僕はやってしまったと思った ある約束を破ってしまったからだ 僕とユウは、共通の持病を持っている それは苦しい時間が長いものだ だから一緒にいる時くらいはそんなことを忘れて 世の中の楽しい部分だけを満喫してやろうって 二人で決めていた だが今日は、それと夏祭りの様子が重なったんだろうか 夏祭りの情緒的な空気のせいだろうか 胸に溜まっていたもの 弱音というには力強いもの 普段はお互いを思い隠していた気持ちが溢れてしまった だが不幸中の幸いか ユウも似たものを抱えていたようだった 当人らにしか認識できないほど一瞬の沈黙が過ぎた後 僕らは、お互いの寂しさを感じ それを埋められないか試みた その結果今日は、普段見えないふりをしていたこの事について話してしまうことにした 僕「この世の中ってさ 楽しい時間っていうのが 苦しい時間に対して短すぎないか?」 ユウ「うん、このお祭りもあっという間だったね」 僕「この一瞬を支えに つまらない日常を生きていけっていうのは ちょっと酷だと思うんだ」 ユウ「やっぱりそうだよね、その"楽しい時間"って やつが、これからも生きてみようかなって思える くらいのものじゃないと割に合わない気がする」 僕「これからも生きてみようか、あー それって、例えばどんな時間なんだろうな」 ユウ「うーん、よく分かんないけど きっと 大したことじゃないんだろうなって予感がしてる」 僕「大したことじゃない?何か凄いことを成し遂げるとかじゃないんだな」 ユウ「うん、もちろんそういう時にもとても大きな感情があるんだろうけどさ "これからも生きてみようかな" と思える時っていうのは 特別なことをしていなくても 確かな幸せを感じられた時なんじゃないかなって思うんだ」 僕「うーん、特別なことをしていない時っていうのが大事なのか?」 ユウ「そうだと思う 何か特別なことって言うのはさ、やっぱり長くは続かないじゃん?だからその時がいくら幸せでも "いつ終わるか分からない" "次も出来るか分からない" "また日常に戻ってしまう" みたいな不安が付き纏うんじゃないかなって」 僕「なるほどな、確かにそういう時っていうのは 心から安心できないかもしれない」 ユウ「そうなんだ、だけど大したことじゃない、日常的なことから確かな幸せを感じられたらさ "何もできてない自分でもいいんだ" "またいつでも こんな気持ちになれるのかな" って感じてさ 安心感と一緒に心から これからも大丈夫かも って思える気がしてるんだよ "楽しい時間"っていうのにこういうのもあるならさ、なんとか生きていけるかもって気がしないかな」 確かになと得心し、僕は自分なりの "日常的な確かな幸せ"というのを考えてみた "確かな"という部分に関しては 今までの自分がやってきたことを肯定できてかつ これからも続くと、どこか確信めいたものを感じられること とかがいいんじゃないかと思う それはなんだってよくて 人によって違うはずだ 自転車を押している時に青春を感じる とか 相手との間に確かな信頼関係を感じる時 とか 自分なりに納得できればそれでいい そういった瞬間のことを想像すると、どこか暖かい気持ちになれそうな予感がした そういうものを、これからもユウと共に探していけるとしたら この先の人生、ちょっとだけだけど、いいかもなと思った 少しだけ気持ちを楽にした後 僕はユウに応える 僕「ああ、僕たちは生きていくしかないんだ」 ユウ「うん、悲しいことに」
バリッと海苔が裂けるいい音が、静かな職場に響く。その一瞬、私は何故か気まずくなる。 お昼休みだからおにぎりを食べるのは全然変なことじゃない。普通に昼食を食べているだけなのだから。 ただ、ものすごく「バリッ」といい音がするのだ。最近のコンビニのおにぎりは、こんなにも海苔の質が良くなっていたのだろうかと思うくらいに。 もし、私が隣に座ってる同僚で、その音を聞いたら。 「あ、こいつ。おにぎり食べてる」 ただそれだけ。でも確かに、おにぎりを食べていることは匂いではなく音で分かってしまう。 明日のお昼休み、私がティッシュを手に取ってデスクに広げだしたら。 「こいつ、おにぎり食べるんだろうな」 まだ鞄から取り出していないのに、そう思われそう。 自宅で食べるおにぎりは音なんて全く気にならない。テーブルにタブレットを置いて、YouTubeを垂れ流しているから。 でも、私の職場のお昼休みはとても静か。遠くで誰かが電気ポットからお湯を注いでいる音、向かいのデスクに座っている人がスープをかき混ぜている時のステンレスと箸が擦れる音。 それくらい静かな空間で、バリッとおにぎりの海苔が裂ける音。 それは私にとって、今からおにぎり食べます!と宣言しているような気持ちだ。まぁ、だから何なんだという話ではあるのだけれど。ただ私が気にしすぎているだけ。 昨日と今日、きっと明日も。職場のとあるデスクから、バリッといい音がする。 そうだ。今度の休みの日、同居人とコンビニのおにぎりを食べてみよう。きっと彼女は笑うだろう。
その人が初めて来たのは、梅雨の夜だった。 私が店を継いで七年目の、蒸し暑い六月。古い中華料理屋の、カウンター三席だけの店だ。父が三十年やっていた店を、私がそのまま引き継いだ。メニューも、食器も、カウンターの傷も、全部そのまま。 その人は傘を畳みながら入ってきて、カウンターの端に座った。六十代くらいだろうか。白髪交じりの頭で、くたびれたジャケットを着ていた。体は大きかった。椅子に座ると、カウンターとの隙間がほとんどなかった。 「何でもありますか」 「一通りあります」 「じゃあ、炒飯と、餃子と、紹興酒を」 無駄のない注文だった。私は黙って厨房に入った。 その人は食べるのが静かだった。咀嚼の音も立てず、スマートフォンも見ず、ただ黙って食べた。炒飯を半分ほど食べたところで、一度だけ箸を止めて、言った。 「うまいな」 「ありがとうございます」 「昔からこの店ですか」 「父の代から。私で二代目です」 その人は少し目を細めた。 「そうか」 それだけだった。あとは黙って食べて、静かに飲んで、勘定を済ませて帰った。 次の金曜日も来た。同じ席に座って、同じものを頼んだ。その次の週も来た。それから一度も欠かさず、金曜日の夜に来るようになった。 名前を聞いたのは、三ヶ月経ってからだ。 「すみません、お名前を聞いてもいいですか。常連さんなので」 「大野です」 「大野さん、私は川村です」 「知ってる」と大野さんは言った。「暖簾に書いてある」 私は笑った。大野さんも少し笑った。それが最初だった。 少しずつ、話すようになった。大野さんは寡黙だったが、私が話すことは聞いていた。仕入れの話、常連客の話、父から引き継いだ炒飯の配合を未だに完璧に再現できないという話。大野さんはそういう話を、相槌も少なく、でも確かに聞いていた。 ある夜、大野さんが言った。 「お父さんの炒飯、食べたことあるよ」 私は手を止めた。 「この店に、昔来たことがあって。三十年くらい前かな。一度だけ」 「そうだったんですか」 「うまかった。だから、また来てみたくなって」 大野さんは紹興酒を一口飲んだ。 「息子さんの炒飯も、うまい。少し違うけど、うまい」 私は何も言えなかった。厨房に戻って、しばらく火を見ていた。目が熱かった。父が死んで五年、ずっとあの炒飯に近づこうとしていた。近づけているのかどうか、わからないままやっていた。 それから大野さんは変わらず、毎週金曜日に来た。 十一月のある夜、大野さんがいつもより遅い時間に来た。疲れた顔をしていた。 「今日は熱燗にしてください」 「紹興酒でなくていいですか」 「日本酒がいい夜もある」 私は黙って燗をつけた。大野さんは炒飯を食べながら、ぽつりと言った。 「今日、定年でした」 「そうですか」 「三十八年、勤めました」 「お疲れさまでした」 大野さんは頷いた。それから少し間があって、言った。 「家に帰っても、誰もいないんですよ。妻が先に逝ってしまって、子どもも遠い」 私は何も言わなかった。言えるものが何もなかった。 「だからここへ来ました。金曜日だったし」 ただそれだけを言って、大野さんは静かに飲んだ。 私はおかわりを注いで、餃子をもう一皿、黙って出した。大野さんは何も聞かなかった。ただ、食べた。 閉店間際、帰り際に大野さんが言った。 「来週も来ます」 「待っています」と私は言った。 雨が降り始めていた。大野さんは大きな体に傘を開いて、夜の中へ消えていった。 私は厨房を片付けながら、父のことを思った。三十年前、この店に一度来た若い大野さんに、父はどんな顔で炒飯を出したのだろう。覚えていただろうか。覚えていなかっただろうか。 どちらでもいい気がした。 あの炒飯が、大野さんをまたここへ連れてきた。それだけで十分だった。
ひどい湿疹が出るようになってしまった。「日光湿疹ですね」と医者には言われた。「薬を塗っておけば大丈夫です」 そんな大丈夫な湿疹には見えないのだが。首から耳の後ろにかけて、皮膚が赤く、うろこ状になっていた。 昼間、湿疹が出ることはなかった。不思議なもので、朝になるとすっかり消えているのだ。ところが昼を過ぎると、首のあたりがまずは痒くなってくる。そしてそのまま、痒みが頭の方にまで広がってくる。 退社するくらいの時間だともう地獄だ。忙しくないのが救いで、残業などあればこの痒みと仕事とはとても両立などできない。こうも痒いと早く一人になりたくなって、終業後は飲み会にも参加しなくなった。それでも職場で孤立しないのはありがたかったが。 痒みは日増しにひどくなり、本当に日光湿疹と言えるのかさえちょっと怪しく思いはじめた。医者には症状についてかなり細かく伝えたのだが、首をひねり、「症状的には日光湿疹なんですよねえ」と言うだけだった。「まあ、様子を見ましょう」 痒くないからそんなことが言える、と私は医者をにらみつけたが、医者は気づかないようにふるまっていた。それは明らかに後天的に身に着けた職業的な鈍感さだったので、それ以上深入りすることはできなかった。ただでさえ激務に疲れ果てた医者に食い下がるなんて、どうしても人情が許さない。 二か月が経った。首のあたりから皮膚が荒れ続けているので、髪も切ることができない。髪の量は多い方で、いざ放置してみると、伸びる速さもなかなかのものだった。あっというまに、襟足は肩に届くくらいになったし、もみあげはうっとおしいぐらいに長くなっていた。だけどこれは案外都合がいいのかもしれなかった。髪の毛はまるで湿疹を保護するように、うろこ状の周囲に沿うように伸びている。 最近では残業することも少しずつ増えてきて、痒さで仕事がはかどらないことに苛立つことも少なくなかった。しかし「疲れすぎ」ということで、周りには事実がばれずにすんでいた。 そしてある時、私は飲み会に誘われた。ずっと誘いの声掛けすらなかったのだが、疲れている私の顔を見て、リフレッシュが必要と思われたのだろう。私たちは五時きっかりに退社した。そして電車に乗り込んだ。まだ、陽は赤くなってもいなかった。わずかに傾いただけの、さわやかな、夏の日差し―― 人、という字は。支え。あって。できている。人と人が並びあい、人人。隣の人と手を、たたき合うイメージだ。このように人がたくさん集まって、人の、波。ができる。こんな風に。人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人痒人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人という鱗状の湿疹がうずいていた。真っ赤な夕日を浴びて、じわじわとうずいていた。痒くてどうしようもない。痒い。歩くのもままならないぐらいだ。どうにもならないのか。かゆい。ガチでかゆい。痒いという字、羊が病む。病ダレに羊。病んだ羊が苦しんでいる。だけど羊は無表情。一頭ごとに区別もつかない。どれも同じ顔をしている。羊の世界は平等だ。人は羊を神にささげる。平等を神にささげる。宗教の本質。いやいや。あまりに痒くて痛々しい時代が蘇る。哲学。神学。中二病。顔から火が出そうだ。痒みはますます存在感を増す。羊は痒そうな顔をしていない。痒そうな顔は、人にすらない。伝わらない。 人間は互いに同情することができない。 本当に? 私は人の列に遅れ、夕日に向けて、ほとんど一人で立ち尽くしていた。気が付けば。 赤い夕陽に縁どられた、長髪の男のシルエット―― 私は通りの注目を集めていた。髪は異様に長かったし、伸ばしっぱなしだったのでなおさらだ。私は往来に不自然に立ち止まっていた。通行を邪魔してもいた。「おっさんどけよ」と怒鳴られてもおかしくなかった。私は痒みをこらえていた。はた目にも異様な雰囲気だったのだろう。何かの演技で、何かのロケをしていたのだと思われたのかもしれない。その証拠に、おばあちゃんが私を指さす。「懐かしい、あの人、武田鉄矢の若いころみたい」 私は首筋にすっと手をやった。なぜなら痒かったからだ。手はそのまま、髪の毛をかきあげるようにして、湿疹の出た皮膚の上をなぞっていく。髪がそれに持ち上げられ、風を受けて、なびく。なんのてらいも、不自然さもなく。私は武田鉄矢だった。 「三年B組~」という声がどこかから上がる。私は目を閉じた。これでいい。これでいいのだ。 宙に舞いながら夕陽を見て涙する。これでいいのだ。これでいい。 いいのか?
工場勤務の早番を終えて、制服から私服に着替える。着替えても、地味なブラウスにカーディガン、タイトスカートという、また別の制服に着替えたのかと思うような恰好だ。 仕事中、ひっつめにしていた髪を下ろし、携帯用の櫛で梳かす。静電気で髪の毛が顔にまとわりつく。無香料のハンドクリームを手に塗り、残った分で浮いた髪を撫でつける。前髪はポンパドールにして小さなヘア・クリップで留め、後ろはシュシュでまとめなおし、トップの毛だけを少し引き出して膨らませる。ロッカーの扉の内側に付いた小さな鏡を覗きながら、横を向いてシルエットをなんとなく確かめる。 仕事用のスニーカーに脱湿用の炭が入ったスティックを入れ、ロッカーの下段にしまう。代わりに取り出したアレキサンダー・マックイーンのパンプスだけが、どこまでも地味なわたしのつま先で、尖りはじめる。 小さな、くたびれた鞄を肩からかけ、 「お先に失礼します。」 と言ってロッカールームを出た。 バス停でバスを待つ間、風に吹かれても揺れないレンギョウの花を眺める。同じ黄色でも、菜の花は風に揺れる。ぼんやりそんなことを思った。先々週までいっしょに花を咲かせていたソメイヨシノは、すでに葉桜になっている。 わたしは春が苦手だ。 空の色が、ほかの季節と違う。それはほかの季節と同じ、青と白とを足した色のはずなのに、どこか泣き出しそうな、透明な空気をまとっている。それを見ると、わたしは何だかたまらなくなる。 バスに乗って終点の駅まで行く。運転手のほうを見ずに、会釈だけしてバスを降りる。 屋根付きの通路を通って、デパートに入る。午後のデパートはのんびりとして、ディスプレイこそ季節感があるけれど、外の景色なんておかまいなしといった風情だ。 デパートの一階は空港の免税店に似ている。化粧品や香水の香りに満ち、日常と非日常のあわいにある場所。わたしはそこが好きだ。 店員の声掛けをかわしながら、ゆっくりといくつものブランドを、口紅の見本だけ見て回る。なかなか、これという色がない。 一度も買ったことのないブランドで、わたしはその色に出会う。ちっとも春らしくない、茶色いマットな口紅だ。わたしはそれを気に入る。 今度はこちらから店員に声を掛け、唇にそれをのせてもらう。自分で塗るのとは違う塗り方で、はじめて出会う色で、わたしの唇は真新しい装いになる。 わたしはそれを購入する。包装はなし。化粧品しか入らない特別な紙袋が、くたびれた鞄の隣で揺れる。
アディクション。 何処かのアーティストみたいなこと言ってる。 実際にはそんなかっこいいもんでもなくただのヤニ中毒。 うええ。 通りかかった女の子に歌って!と叫ばれたり。 声が出ない。 才能の無駄使い。 あの娘はなぜ僕が歌ったことを知っていたのだろう? 変な歌を道で歌う。 脳がユワンユワンする。 ただの歌うま芸人。 何となく過ぎる日常。 音楽の可能性。 才能。 環境。 実際には心は真っ黒。 あそこも真っ黒。 夜はスピーク。 したいが相手がいない。 知能。 格差。 勇気。 勝手。 自由。 たまに何言ってるか分からないと言われる。 高卒なのにあんたインテリ?と言われる。 バー。 酒飲まない。 馬鹿騒ぎ好きじゃない。 でもお囃子の音頭取り。 メールで送った内容が流行っている。 レインメーカーの知り合いは楽しそうだ。 バランスが取れない。 グランジで不幸気取ってたら本当に不幸になった。 周りはそんなこと気にせず動き続ける。 何故求めるのか? 何故求められるのか? かなり自分勝手。 税金。 畑。 ジャズにトラッシュトークがあるらしい。 技巧に依りすぎて楽しむ心を忘れちゃいないかい?(悪口) マイルスも後期はhip hopを取り入れていたらしい。 音楽。 その辺の雑音。 呼吸。 ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド🎵 ベースを弾いた。 ペースを欠いた。 生き急ぐつもりもなかったのに。 人を信用しすぎた。 信頼されていたい。 でも身体がついていかない。 暇が潰せた。 文章と音の羅列。 統合失調症の夜は長い。
声、顔色、空気。 相手が何を求め、何を演じてほしいのか。 物心ついた頃から、それらは容易に、なだれ込んできた。 不特定多数の顔色を読み続けた日の夜は、ひどく疲弊し、ぐるぐると考えてしまい眠れない。 その濁流に飲まれない処世術を身につけ、幾分か生きやすくなった。 ただそれでも、癖というものはなかなか抜けないもので、「相手の求める姿」を演じてしまう瞬間がある。 それは本心であり、同時に、精巧な模倣でもある。 提供し続けるつもりはない。 その場限りの、都合のいい言葉を放ち、また繰り返す。
晩冬の夜である。公園に設置されている電話ボックスの中に、一体の雪だるまがいた。雪だるまはどこかに電話をかけていた。雪だるまの手には一枚のメモが握られていた。木の実でできた目の周りがうっすら濡れていた。翌朝、公園の管理人が、電話ボックスの床に、木の実とマフラーが落ちているのを見つけた。床には水たまりが出来ていた。電話機の横には一枚のメモが落ちていた。管理人はメモを見た。メモには『春ガ来ル』とだけ書かれていた。
私は自殺志願者である。希死念慮を持っている。どうにかしてここからいなくなりたい。このぬるま湯な現実から逃げ出したい。 別にこれと言って不幸なことがあったわけではない。あるとするならば、半年前に恋人に振られたぐらいだ。今となっては別に気にしてはいないけれど、当時は少し動揺した。いや、もう死ぬ身であるので自分を偽る必要もないのだけれど、まだ微小なプライドは残存しているようで、ついそう言ってしまった。実は結構引きずっている。かといって別に死にたくなるほどではない。せいぜい何もしていないときに思い出す程度だ。これは本当だ。嘘じゃない。 すまない。話が逸れてしまった。不幸自慢をしたいわけではないのだ。冒頭言った通り、別に不幸なことがあったわけではない。小さな絶望が複数あっただけだ。本当にそれだけだ。きっと見ようとすればそれと同じ分だけの希望があったのかもしれない。けれどそんなものどこに落ちているか私には見当もつかなかった。眼鏡を付けて視力を矯正すれば見えるのだろうか。まぁもう意味はない。 そう。小さな絶望だ。本当に小さな絶望。自分の第一志望の就職先からお祈りメールをもらったこと。自分は自分の持つ夢を叶えることができるほどの実力がないと悟ったこと。自炊していたら指の先を少し切ってしまったこと。こんな世間からはくだらないと吹いて飛ばされる。そんな小さな絶望だ。実際SNSで少し呟いてみたら、やれ努力不足だ、他の大変な人と比べたら大したことじゃないだ、ありがたーいお言葉を沢山頂いた。誠にありがたいことだ。フォロワーも二人しかいないアカウントにそんなアドバイスをくれるなんて。 大学という一種のモラトリアム期間を抜けて無事社会人になってもこの小さな絶望は増えていった。むしろずっと駐在することになった。誰かが夢を叶えているのを見るたびに絶望した。それはもう簡単に。歌を歌っている人を見て絶望した。本を読んで絶望した。動画を見て絶望した。絵画を見て絶望した。世界は希望ではなく絶望で溢れているように見えた。他責したいわけではない。世界が悪いなんて少しも思っていない。夢を叶えられなかった私が厄介なやっかみをしているだけだ。とある星の王子様が肝心なことは目には見えないと言っていたが、絶望は目に見えた。ならこの絶望ですら肝心なことじゃないのだろう。価値がない。そんな大したことじゃない。 まぁ、というわけでそんなことが積みに積み重なって希死念慮を持つに至ったのだ。別に鬱になったわけじゃない。病院に行ったわけではないけれど精神的な病にかかったわけではない。こんなので病と言ってしまったら本当にしんどい人に顔向けができない。傍から見たら私はまぁぼちぼちの成功をしている人だと思う。ある程度の収入と、ある程度の貯金、健康な体を持っている。恥の多い生涯を送ってきたなんて腐っても言えない。むしろ恥のほとんどない人生を送ってきたのだ。恥を選ばず、平坦を選んだ。その結果が今の私である。選択を後悔しているわけではない。嘘だ。後悔はしている。けれどもし今、その時に戻ったとしても選択し直すことはできないだろう。私はそんな人間である。大したことを望むのに大したことはできない。挑戦すらしない。無安打無失点である。むしろバッターボックスに立っていないから三振すらしていない。昔は歌やアニメ、映画でどうにかやる気を出したものだけれど、賞味期限は三時間後だった。かといってその三時間で何かできたかというと答えはノーだ。 私には夢があったのだ。けれど夢だけじゃ何もできなかった。夢を叶えるには、夢とそれを叶える力が伴わないといけない。それがないと、夢を語ることすらままならない。 恥のない人生を送ってきました。自分には、幸せな生活というものが、見当つかないのです。というわけで、まぁこれから平均寿命まで生きて老衰で死んでも、今死んでも変わらないだろう。 私は紙を封筒に入れた。どうやって自殺するかは決めていなかった。ただただ書き付けただけだ。封筒に「遺書」と書くと現実身を帯びて少し興が覚めた。ここから一番高いビルに行って飛び降りてやろうか。でも痛いのは嫌だな。そういえば首吊りはすぐ気絶するからしんどくないって聞いたな。そうしようか。あぁ、でも首が伸びてしまうし、中身も尻からめちゃめちゃ飛び出してくるらしい。それはちょっと嫌だな。かといって電車は人様に迷惑がかかるし。まぁどうにかなるか。 さて、明日は私の人生最後の日だ。何をしてやろう。私は布団にもぐって、目を閉じた。
気を抜いている姿を見るのは何度目だろう。 ただそこに気だるそうに寄っかかりもたれかかっている。 彼が気を抜いている時ほど香りのように色気が立ち込めてきて、私を保てなくさせる。 ただ同じ映画を彼と見てる時だって私の右側は落ち着かない。 彼が手を伸ばし、私の肩を引き寄せる。 気づけば彼の腕の中にいて、足を絡められている。 私が向き直るとその気だるそうな顔が私の唇に近づき重なった。 彼はまた映画に視線を戻す。 私は彼の上に座ったまま、その頭を、ただ静かに撫でる。
今日の気分は、レタスを挟んだホットサンドとあたたかでちょっと甘めのコーヒー。 バラエティのような朝の情報番組では、ちょうど星占いのコーナーが。 ―う、最悪 ただし、ステキな出会いが今日を救ってくれる、とも言っている。 ―どういうこと? それは、何か出会いがあるということなのか、それともないのか。 あれこれくだらなく考えていても、ちゃあんと時間はすぎていく摩訶不思議。 朝、家で飲んできたというのに、出社前、コンビニに入ればコーヒーを買ってしまう。 フロアに入ってしまえば、自分のデスクまではすんなり。 となりの席では、目の赤い、マスク姿の後輩くんが、カップに口をつけたところ。 ―それ、ルイボスティーかな 胸のなかだけで、その選択肢を用意しておかなかった自分を少し後悔。 今日はまだ、マシなほうだけど、自分に言い聞かせる。 出会いがあるなら、このタイミングだと思っていたけれど、 ちょっとばかり期待していた朝礼では、別段、何もなく。 ―なら、このあと、今日は何もないかな ステキな出会いが今日を救ってくれる。 なかなか、そういうことにはならないらしい。 朝の星占いなんて、そんなもの。 コーヒーの香りが、私の気持ちをなぐさめてくれる。
「あ、買い忘れた」 困ったときは、コンビニに向かう。 二度もスーパーまで車を出すのは面倒なので、ありがたい存在だ。 歯磨き粉もある。 下着もある。 パンもある。 スーパーより割高だが、時間を節約できると考えればトントンだ。 コンビニには、小学生たちが溜まって、雑誌を一冊買っていた。 一人が勝って、皆で回し読みをするのだろう。 ……その役目は、うちのものだった。 昔の子供たちは私の本屋で買ってたし、私の本屋で溜まっていたのに。 便利な便利なコンビニは、私から大切な客を吸い上げていった。 「六百四十八円になります」 とはいえ、バイトの子に怒るのも違う。 昔なじみのオーナーに怒るのも違う。 誰が悪いって言えば、時代が悪いとしか言いようがない。 「はい、ありがとうね」 商品の詰め込まれたレジ袋を受け取って、私はコンビニを出た。 そろそろ私の本屋も、閉店を考える頃だろう。 コンビニやインターネットと戦うには、私は年を取りすぎた。
公園を散歩していた。太い木の前を通りかかった。太い枝に首吊り死体が揺れていた。「ああ、首吊り死体だな」と思った。よく見ると一枚の紙が貼られている。『ご自由にお持ちください。』と書かれていた。「どうしようかな」と思った。想像する。自宅のボロアパートの汚い小さな部屋に首吊り死体を持ち帰る。部屋は狭くなるが、寂しくはなくなるだろう。でも、腐るか。悩んでいたたら、背後に気配を感じた。振り返ると、俺と同じようなおじさんがやはり首吊り死体を見ていた。同じようなことを考えているのだろう。俺はおじさんのためにその場を立ち去った。他の公園に行ってみよう。
「筋トレが趣味なんだよね」 「かっこいい!」 「素敵!」 男Aが力こぶを作りながら言った。 評価は上々。 「食べるのが趣味なんだよね」 「痩せろ」 「デブが」 男Bが丸い腹をさすりながら言った。 評価は下々。 「趣味の副産物に評価が下されるこんな世の中じゃ……」 男Cがつまらない現実を憂いた。
私も誕生して既に半分以上過ぎた頃から段々と 疑心暗鬼的な無常と為るも時々こうして日々の ストレス捨てる為の妄想現実なコラム投稿して 己の気を整え再度不条理で理不尽な世界に戻り 時々ブチ切れ過ぎて敵じゃ無い者迄罵詈雑言を 言って仕舞う自分に反省して詫びたり毎日其れ 為りに思考は無駄な循環繰り返してますがその 中に笑いの光冴え有ればどんな最悪時も馬鹿な 私は爆笑して仕舞いその後何故か癒される状況 単純に呑気な無常者かも知れないエネルギーの 蓄電がお笑いと音楽に料理越そ我が燃料電池と 為り天変地異や震災時の嫌がらせも有る種無常 状態継続出来る生命の循環に為れば良いと例え 私が神の元へ旅立ても雲のクッションに腰かけ YouTubeの笑い動画爆笑しながらハンバーガー 食べてるかも知れないし呑気な馬鹿は死んでも 多分治らないだろう
自動ドアが開く。 客が結婚相談所に入る。 「イラッシャーシャセー」 「ちょwww婚活診断よろぴくwww」 「カシコマリー」 出力されるのは、相性九十七パーセント以上。 周囲と比較する手段の少なかった千年前なら六十パーセント以上で夫婦関係を続けられていたが、超情報公開社会においては不可能だ。 相性一致率九十九パーセント以上で確実に生涯添い遂げられる。 相性一致率九十五パーセント以上で七割添い遂げられる。 よって、九十七パーセント以上の相手を探して結婚するのが、現代の主流だ。 全てはAIが全世界の人口が登録されたデータベースにアクセスして算出する。 発見は容易なものだ。 「コレッス。ウィッシュ」 「あざまーすwww」 客は出力された名簿を見た後、握り潰してごみ箱に捨てた。 「かすしかいねえwww」 「オマエモナー」 「独身貴族楽しむ出ゴザルwwwコポォwww」 「タノシメナー」 人口の九十九パーセントが機械人間である、超高機械社会。 客は家に待つ機会の恋人に会うために、速足で結婚相談所を後にした。
深夜、家に帰った。「ただいま」「おかえり」もう寝ているだろうと思っていた妻の声がした。台所に行くと、妻が何かを食っていた。「夜食?」「うん、何かお腹空いちゃって」「何食べてんの?」「詩人」妻は口元を手で拭って、コップの水を飲み干した。「じゃ、おやすみー」「おやすみ」妻が去った後、三角コーナーを見た。指が入っていた。食べ残したのだ。詩人の指は不味いからな。きっとその指で詩を書いていたのだろうけど。まったく皮肉なものだ。
雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 短い三行を朗読した後、私はカーテンを開けて外を見た。 雨がしとしとと降っている。 風がそよそよと拭いている。 七十五度くらい傾いた雨は、きっと私の頭上に置いた傘を避けて、私の足元をしっとり濡らしてくることだろう。 ブーツを履けば足首までは守れるが、膝から下は無防備だ。 「こんな日は、自宅で読書に限りますねえ」 私はカーテンを閉めて、机の上に置いている本を手に取った。 ページをめくりながら、晴れの日は晴れの日で、日焼けをしたくないとほざいていた自分を思い出す。 雨にも負ける。 風にも負ける。 雪にも夏の暑さにも負ける。 果たして、私は何なのだろうか。 ちょっと弱すぎないか自分、なんて思ったけど、自由自在に本を読める私は、頭の中が昔の人よりも強くなっただけだと言い訳して、本の世界に戻った。
月が私を見放してから、幾つ経ったのだろう 月の記憶にも無い、私の記憶 今日もハイカラな街灯と共に徘徊するのだろう 月の香りで冷気を遮って、孤独をこの身で受け止めて 私が月を見放してから、幾つ経ったのだろう 私にしか無い、私の記憶 街の何処に置くにも明日には消えてる 私の香りで世界を遮って、誰にも近寄られなくて 月の気配がして、夜がやって来て 創作でしか私を残せないことに気づいて 永遠の命を求めるかのように、生きた証明を求めて 月の独奏を片耳に、言葉を組み合わせて幾つ経ったのだろう (完)
その男は、数字の『7』を激しく憎んでいた。男の住んでいる小さなアパートの部屋には、あらゆる物から『7』の数字が消されていた。時計、温度計、カレンダー、本、リモコン、食べ物の賞味期限。住所にも部屋番号にも『7』は入っていなかった。街を歩いていて、『7』の数字を目にすると、男は、暴力的な行為が発露する前に、慌ててその場を立ち去るのが常だった。男が『7』を激しく憎んでいる理由は、誰にもわからなかった。人々は理由を知りたがったが、男は口を閉ざしていた。様々な噂が流れた。やがて男は孤立した。そんな男に、唯一の友人が残った。友人は理由を詮索しなかった。「まぁ、そういうのって誰にでも何かあるよな」男はその友人にだけ心を許していた。そんな友人がある日、交通事故で急死した。葬式が開かれることになった。男は友人の両親から連絡を受けた。その葬式に出るためには、男は7時に目覚めなければならなかった。
布団に少し温度を残した君は、白い光の射すベランダで煙草を吸っていた。色褪せた背もたれのない椅子に腰掛け片膝をたて、ぼんやりと横を向いている。外に無関心な君の目には何も映っていない。 寝癖のついた黒髪が風に吹かれて小さく揺れる。窓で隔てられた室内には煙も風も流れない。 目を覚ました私に気付いた君は目を細め、白い月の光のように優しく笑った。 あの部屋はもう私たちのものではない。目覚めと同時に君を感じられる朝はもう来ない。 毎夜、冷たいキッチンの椅子の上で硬い背もたれに寄りかかりながらそんな朝を繰り返している。
学校の同じクラスのクラスメートに、春の神様の子がいる。友だちはいない。春の神様の子だ。何か付き合いづらい。いつもそのクラスメートは一人でいる。昼休み、いつも教室の隅で弁当を食っている。この間、そっとその弁当を覗いてみた。おにぎりを食っていた。そのおにぎりは、雪だるまの形をしていた。それを、春の神様の子は、つまらなそうな顔で黙々と食っていた。
夫が死んで、私は初めて冷蔵庫を開けた。 正確には、開けられるようになった。四十一年間、冷蔵庫は夫の領域だった。買い物も、献立も、味付けも、すべて夫がやった。私は食べる人だった。気づけばそういう夫婦になっていて、気づけば私は百キロを超えていた。 夫は細かった。結婚したときから細くて、死ぬまで細かった。入院している最後の三ヶ月、点滴だけで生きていた夫の腕は、私の半分もなかった。その腕で、私の手をよく握った。骨ばった、温かい手だった。 葬儀が終わって、親戚が帰って、家が静かになった夜、私はようやく台所に立った。七十二歳にして、初めてまともに包丁を持った。 冷蔵庫の中には、夫が最後に買ったものが残っていた。人参、大根、こんにゃく、鶏もも肉。私は夫が生前よく作っていた筑前煮を、見よう見まねで作ることにした。レシピは頭に入っていなかった。何十年も食べてきたのに、作り方を一度も聞いたことがなかった。 スマートフォンで調べながら、切って、炒めて、煮た。砂糖と醤油の分量を何度も確かめた。煮ている間、台所に匂いが広がった。夫の匂いがした。いや、正確には違う。夫の作る筑前煮の匂いに似ていたが、どこか薄かった。何かが足りなかった。 食べてみた。 まずくはなかった。でも、夫の味ではなかった。 私は箸を置いて、しばらくテーブルの前に座っていた。四人掛けのテーブルに、一人で座っていた。子どもたちが巣立ってからも、このテーブルで、ずっと二人で食べてきた。夫はいつも私の向かいに座って、私が食べる顔を見るのが好きだと言った。おいしそうに食べるから、作りがいがある、と。 私はそれが少し恥ずかしかった。自分がたくさん食べることを、どこかで引け目に感じていた。でも夫は一度も、食べすぎだとも、太りすぎだとも言わなかった。ただ、おいしそうだね、と言い続けた。四十一年間。 翌日、娘から電話があった。 「お母さん、ちゃんと食べてる?」 「食べてるよ」 「何食べたの」 「筑前煮」 少し間があった。 「お母さんが作ったの?」 「そう」 また間があった。今度は長かった。 「……お父さんの味に似てた?」 私は少し考えた。 「全然違った」 娘が泣いた。電話口で、声を殺して泣いた。私は泣かなかった。泣くには、まだ早い気がした。 電話を切って、私は残った筑前煮を温め直した。昨日より少し味が染みていた。それでもやはり、どこか薄かった。 何が違うのか、ずっと考えていた。そしてふと思った。夫はもしかしたら、私が食べるところを見ながら、味を足していたのではないか。私の顔を見て、首を傾けて、醤油をもう少し、だしをもう少し、と調整していたのではないか。 作る相手がいない料理は、完成しない。 そういうことかもしれなかった。 私は筑前煮を全部食べた。おいしくはなかったけれど、残すことができなかった。食べている間、向かいの椅子をなるべく見ないようにした。見たら、何かが終わる気がした。 夫の骨は、まだ手元にある。四十九日まで、そうすると決めていた。 夜、骨壺の前に座って、私は言った。 「まずかったよ」 返事はなかった。 来週また作ろうと思った。きっとまたまずい。でも作ろうと思った。いつかあの味に近づけるかどうかはわからない。でも近づこうとすることが、今の私にできる、唯一のことだった。
夏の明け方の公園を散歩していた。今夜も眠れなかったのだ。虫が飛んでいた。見たことのない虫だった。それはよく見ると、睡眠導入剤だった。睡眠導入剤に、虫の翅のようなものが生えていて、飛んでいるのだった。それを歩きながら追いかけた。翅の生えた睡眠導入剤はやがて、木の枝の間に張られていたクモの巣に引っかかった。というよりもそれは、自ら突っ込んだように見えた。すると、のろのろと一匹のクモが現れ、睡眠導入剤にかじりついた。そして再びのろのろと巣の奥に引っ込んでいった。あのクモは眠るのだろう。俺はそれをしばらく見つめた後、クモの巣を壊して、家に帰った。
「春って意外と寒いわね」 いま発見したみたいな口ぶりで、隣の家のあの子が言って、 (それ、去年も言ってたよ) それくらいの気持ちすらも、僕は伝えられない。 冬と春との境になった昨日の強い雨。 「あたたかくなったら藪にでも行って蛇でもつついてこようかと思ってるの」 (ああ、また、おかしなこと言いはじめた) さすがに、ちょっとどうかと思ったから、 「やめたほうがいいと思うよ」 言ったのだけど、 「行きたいんでしょ?ついてらっしゃいよ」 冒険心旺盛な赤毛のアンにでもなったような気でいるみたい。 でもアンって、そんなふうじゃなかったと思うけど。 「学校の裏あたりなら、いいんじゃないかしら」 あたたかくなってきたことで、何かしなきゃ、って 無意識に気持ちが働いてしまってるんだろう。 きっとそうだ。 「申し訳ないんだけど、ご期待にはそえないと思うよ」 「あら、そう。残念ね」 ちっとも残念そうじゃない顔で僕に言ってくる。 わかってるんだ、この子は。 僕がのこのこついてくるって、わかってるんだ。 「でも、もう少しあたたかくなってからがいいかしら?どう思う?」 「わかんないよ」 顔にかかる長い髪をおさえながら、隣の子が続ける。 「せめて、この強い風がおさまってからがいいかしらね」 「だから、わかんないってば」 青空を見上げることくらいしかできなくなってしまう。 でも、僕だってわかってる。 きっと、ついていっちゃうんだ。 そんなことくらい、僕にだって、わかってる。
ただ寒々と、つらいばかりの冬にも 家に帰れば、あたたかい と思うことができる慎ましさはある 寒くなると苦労する部屋のドアの開閉も いくらかましになってきた 無事にとは言い難いけれど なんとか冬を越せそうな草たちと 寒さの前に消え失せた草たち しかしまだ風は、春の香りをとどけてはくれない わずかばかり景色に色がついてきたけれど 遠くの山々は雪をかぶったまま その白く雪に染められた山々に 夏ほどの勢いがない太陽の視線が飛ぶ つい先ほど、遠くで汽笛が鳴った 汽車が多くの若者たちを乗せ、旅立って いま一度、汽笛が鳴る 春は、もう近い
ありがとう。が、うれしくて ありがとう。が、さみしくて ありがとう。を、心でさけんで さよなら。じゃなくて、 ありがとう。だった。 昨日まで着た制服も アタシの抜け殻みたい。 だけど、 なんか、ほこらしそうな、こいつ。 ありがとう。