「これは、人類を救う万能薬になり得ます!」 種を見つけた科学者たちは大騒ぎ。 医者も政治家も巻き込んで、種を開花させる一大プロジェクトを開始した。 専用の部屋を作って、必要な物を運び込む。 綺麗な空気。 綺麗な土。 部屋に入れる人間は最小限。 種にストレスを与えないように、大切に大切に育てられた。 種はすくすくと育っていき、ついに開花した。 後は花びらを使って万能薬を作るだけ。 科学者は、いそいそと花を部屋の外へと持って出た。 その瞬間、花は枯れた。 大切に育てすぎたのだろう。 部屋の外のストレスに耐えきれなかったのだ。 科学者も医者も政治家もがっくりと落ち込んで、すっかり老け込んでしまった。
戸を引く もう少しだけと網戸を引いた 寒いと冴えて 暖かいと眠くなる 一人とはそういうものか。
「たこ焼き下さい」 「はいよ。どれにする?」 メニューを見ると、並んでいるのはたこ以外の具材。 いか。 わかめ。 マグロ。 イワシ。 マシュマロ。 チョコ。 グミ。 アメ。 たこ焼き器は熱を帯びている。 たこ焼きだけど、たこ以外を小麦粉で包んで焼くらしい。 「え? これ、たこ焼きなんですか?」 「おうよ。立派なたこ焼きよ。牛丼屋だって、豚肉を丼に乗せてるだろ」 納得はできなかったが、一度注文した以上、断る勇気もなかった。 一番たこに近そうな以下を頼んだ。 「はふはふ。うまっ」 たこ焼きではなかった。 味が違う。 弾力が違う。 それでも、不景気ってこんなものかと、意外と美味しく食べられた。
『大事なものは手の届くところに置いておくのが良い』 良く書店に並べられているような本の雑踏の中に紛れているような格言の皮を被った戯言。僕は、そんな虚飾に塗れた上辺だけの言葉にどこか惹かれていた。 それのせいだろうか。気付けば、生活に必要なものは常に手の届くところに置くようになっていた。 大きめの机を買った。その上にパソコンや参考書などは勿論、飲み物や食べ物なんかを沢山置くようになっていた。自分の腕が長くてよかったと、このときになって始めて感じた。 置ききれない分は、すぐそばの棚の上に置く。そこには、あの言葉が書かれた陳腐な本も並べられていた。 立ち上がるのは、トイレに行くときと出かけるときだけ。必要な物全てが、手の届く場所に置いてあった。これでもう、何も失わなくて済む。それの繰り返しで。 そうしているうちに、僕にも彼女が出来た。小さくて愛嬌のある、可愛らしい女性だった。 僕は彼女も、同じように手の届く範囲に居て欲しいと願った。まずすることは、彼女が僕の家に来ること。そしてひとときも逃すことなく、同じ空間にいること。 僕がこれを初めて言ったとき、彼女は戸惑っていた。大切なものはすぐそばに置いておくべきなんじゃないかと、僕は彼女のことが理解できなかった。 机に並べられたカトラリー。それが音を立てる度に、僕は目の前に広がるそれの無意味さを感じる。そして次に思うのは、何も無い彼女の奥の空間への不安だった。 彼女は、大切なものを失うのが怖くないのか。全てを手元に置いてしまわないのか。何も無い空っぽの空間を眺めて、僕は次第に彼女を失うのが怖くなっていった。 『ごめんなさい』 残ったのはメッセージだけ。もう目の前に、彼女はいなかった。 物で溢れた僕の席。その真ん中に佇んでいるのは自分だけ。どうしてか、酷く惨めに感じた。 手に取った、真っ白な表紙。パラパラとページを捲って辿り着いたのは、あのページ。 『大事なものは手の届くところに置いておくのが良い』 一番大切なものは、自分から離れていってしまった。もう何も残らない、残す物はないと。言い去ったのは、僕でもないのに。 僕は一息、深呼吸を置いたあと、その本を投げ捨てた。音と振動が、ひとりぼっちの部屋に響く。 我に返った僕は、その本を拾おうと手を伸ばした。 手が、届くことはなかった。 大切な人の手も掴めないような僕に、もう過去に縋るだけの力も残っていないのだ。 そうして僕は、力ない脚で立ち上がる。一歩、二歩。進んでいく。 それでも、もう本は拾わなかった。手は届くけど、もう伸ばさなかった。
「おーい、論点すり替えないでもらっていいですかー?」 まただ。 こいつは、論点のすり替えという指摘を、口癖のように言うようになった。 正直、自分の中では論点がすり替わってなどいないので、こいつの言葉の意味が分からない。 だから、聞いてみることにした。 「ごめん、自分ではすり替えたつもりがないからわからない。すり替える前の論点と、すり替えた後の論点を言語化してくれない?」 「え?」 そいつは腕を組んで悩み始めた。 あーでもない、こーでもないとうめいた挙句、最後には俺をにらみつけてきた。 「論点をずらすな!」 そして、走って逃げていった。 きっと、自分でも論点がわかっていなくて、ふわっと何かが違うと思ったから、反射的に口癖が出たのだろう。 理由が分かってすっきりした。 俺はすがすがしい気持ちで家に帰り始めた。 せっかくだ、途中でカフェにでも寄って帰ろう。
変わらず 視界は内側に手を伸ばして、 天秤を保とうとした。 伸ばして、ほどけた。 ふと 雲も、鳥の声も、風の匂いも 流れていた。 目を閉じても呼吸ができる。 体温が分かる。 凪いでいる。 一月の半ば、昼の陽光。 春を想像する。
また一人、友達が道を誤った。 「彼って、すごいんだよ? 若いけど社長やってるらしくて。車は外車だし、年末年始は毎年ハワイで過ごすんだってー」 「へー」 「来週、付き合って一か月記念なんだけどね。あの高級ホテルのレストラン予約してくれたんだってー」 何人も見てきた。 嬉しそうな顔をして、地獄への道を歩く人間を。 私は彼女たちを止めはしない。 だって、天国への道を歩いているつもりの彼女たちにとって、ここで引き止めてくる人間は自分に嫉妬している悪魔にしか見えないから。 「見て見てー! これ、欲しいって言ったら買ってくれてー」 「えー、羨ましいー」 だから、私は貴方を肯定してあげる。 貴方の欲しい言葉を上げる。 私が嫌われないように。 「彼の友達も、彼女欲しいらしくてさ。紹介しようか? 彼と同じ、超超ハイスペックらしいよー」 「うーん、ありがとう。でも、今は恋人いいかなって」 貴方がぼろ雑巾みたいになって帰ってきた時、私が抱きしめてあげるから。 いってらっしゃい。 私の友達。 地獄だとわかったら、戻って来てね。
ねがうなら海にいきたいいますぐに 休みをもたずあなたまかせで 会いたい人がまたひとり減った 休日を無駄にする贅沢
夫は配達の仕事をしている。 その配達先のひとつに、いつも穏やかに笑うとても感じのいい男性がいた。 坂野と名乗るその男は、初対面の頃から妙に話しやすかった。 その配達先を担当して約二年。 世間話から始まった会話は、次第に私的な領域へと踏み込んでいった。 家族構成、育った町、学生時代のこと。 最近では、妻の職場のことや彼女の些細な癖まで尋ねてくるようになっていた。 悪意は感じられない。 だが、距離の詰め方だけがどこかおかしかった。 ある日の食事中、夫は坂野のことを妻に話した。 妻は露骨に顔を曇らせ、言った。 「気持ち悪い。そんなに個人的なこと、話さないほうがいいよ。」 その翌日から、家の周囲で奇妙なことが起こり始めた。 夜中、廊下に人の気配がする。 インターホンが鳴り、モニターを確認してもそこには誰も映っていない。 理由のわからない恐怖に、夫は怯えていた。 妻もまた、同じように眠れなくなっていった。 そんなある日、妻は職場で上司に呼び止められた。 深刻な表情の上司は低い声で言った。 「最近、あなたの周りに“黒い人影”がある。薄っすらと。 ご主人のほうも……あまり良くない気を感じる。」 上司はそれ以上説明しなかった。 ただ、静かに助言するように言った。 「詳しいことは分からないけどね。 ……自分のことは、あまり話さないほうがいいと思う。」 数日後、夫は衝撃的な事実を知る。 いつものように配達先へ向かい、坂野がいるはずの場所を覗いた。 しかし、そこに彼の姿はなかった。 夫は、近くの従業員に声をかけた。 「すみません。坂野さん、今日はお休みですか?」 「坂野……ですか?」 従業員は怪訝そうに眉を寄せ、近くの同僚と何やら小声で話した後言った。 「いえ。うちに、坂野という人はいませんよ。」 配達を終え、駐車場で夫は立ち尽くしていた。 二年間、自分は誰と話していたのか。 その時、トラックのドアをノックする音がした。 「あ、さっきの運転手さんですよね。」 ドアを開けると先ほどの従業員の姿があった。 「坂野が“いない”と言いましたが……正しくは、“今はいない”と言ったほうがいいかもしれません。」 従業員は周囲を気にするように視線を走らせ、声を潜めた。 「坂野は……三年前に亡くなっています。ここの引き取り窓口のすぐ横で、配送トラックに巻き込まれて。 人当たりが良くて、誰とでも話す人だったから皆よく覚えているんです。」 夫がこの配達先を担当するようになったのは、二年前だった。 「じゃあ……俺が話していたのは……。」 「あなたが会っていた“坂野”は、どんな顔をしていましたか?」 従業員にそう言われて夫は思い出そうとする。 穏やかな笑顔。柔らかな口調。 ――だが、顔だけがはっきりと思い出せなかった。 「事故の後に坂野さんを訪ねた方が、家に“何かいる”気配がすると言っていました。」 夜中の廊下の気配。誰も映らないインターホン。 夫には思い当たる現象があった。 「坂野は、生きていた頃から“人の話を聞くのが好き”でした。 自分のことは話さず、相手のことばかり……亡くなってからも、同じなんでしょう。」 その夜、夫はすべてを妻に話そうと帰宅した。 玄関の電気をつけた瞬間、背後から声がした。 「今日はお話ししてくれないんですか?」 振り返ると、そこに坂野が立っていた。 穏やかな笑顔。 足元は廊下の影と溶け合い、輪郭が曖昧だった。 「知ることで、私が存在できるんです。 あなたの家も、奥さんも……とても居心地が良さそうだ。」 表情を変えずに坂野は言った。 震える声で、夫は言った。 「……もう、何も話せない。」 坂野は、ほんの少しだけ寂しそうに微笑んだ。 「それは困りました。もう少しで、あなたになれたのに……」 次の瞬間、廊下の影が一斉に伸び坂野の姿は闇に溶けた。 それからしばらくして、妻は上司に再び声をかけられた。 上司は、以前よりも穏やかな表情で言った。 「黒い人影は、見えなくなったね。」 妻は、胸をなで下ろした。 だが、上司は少し言い淀んでから、続けた。 「正確には……“一つ”減っただけかもしれない」 「……一つ?」 妻は不思議に思って問いかけた。 「人影って増えるのも減るのも理由がある。 近づく場所がなくなれば薄くなるだけ」 上司はそれ以上何も言わなかった。 その夜、妻は何気なく廊下を見た。 電気の消えた壁に、影が落ちている。 そこにあるのは自分の影だけなはずだが、一瞬だけ多く見えた気がした。 しかし、目を凝らすと影はすぐに元に戻っていた。 「自分の事を、あまり話さないほうがいい」 その言葉の意味を、妻は今も考えている。
// 大丈夫。 泣くのは弱さじゃない。 泣けないのも脆さじゃない。 私は泣けるようになったんだ。 私は自分を守れるようになるんだ。 // 傷跡は残る物。 残ってしまっているから傷跡なのだ。)) 私の脳には、体には、指先には 記憶も、体験も、想いも 、 ーー (( 消えない。 拒絶も違う。 糧だから。)) ▼( 途方もなく見えた。 その無数の中、 私が(刻んで)いけるのは、癒せるのは、ーー 君▼私) 綺麗事というのは案外理に叶っていると思う。 昔は好きじゃなかった。 飾るための押し付けに見えた。 今なら言葉を発した人間と、その想いを君はもう見抜けるはずだ。 もう知っている。 【使い古された言い回し よくある問いかけ あるいは、(たった一言。) 】 君の(心に(届く言葉は、(その表面(なんか割と関係なかったと(思うんだ。 思いやり(だよ。 紙の上のように時間があるわけじゃない。 【君の目の前にいて、その瞬間対話している。】 【否定され、苛まれた。 それでも優しくありたい。】 優しさも誠実も愛情も全て(違うもの)→←だと知っている。 「「大丈夫、前より少し歩ける。」」
悪縁を断ち切れる神社があるという。 ある者はパワハラ上司がいなくなったと、 ある者は友達との縁が切れたと、 またある者は邪魔者が自殺したと、 そして口々に彼らは言う。 「冗談で行くもんじゃない」 かくいう私もその1人だ。 先日、友達と縁切り神社に行ってきた。 彼氏がDV気味なこと、職場で苦手な部下がいること、今年厄年なこと。 友達も似たようなものらしい。ともかく私たちは、救いを求めてやってきた。 「冗談で行くわけじゃないもんね」 「そうそう、ガチだから、私たち」 そう言い聞かせながらついた先には私たちのような、いわゆる『ガチ』な奴らが列をなしていた。 もれなく私たちも後方に並び、少しずつ自分たちの番が来ることを待つ。 自分の番は、思ったより早かった。 そしてまあるい穴をくぐるだけで、あっさりとしたものだった。 「これでいいの?」 「ずいぶん簡単に縁が切れる…」 そのあとは呑気に立ち飲み屋に寄って、新幹線で寝て、明日早いし新幹線の駅で解散。 私たちも、あっさりした関係だ。 とぼとぼ家路まで歩く間、ふと、疑問がよぎる。 「…これでいいのか?今後の人生」 かと言って、過ぎた出来事。もうどうすることもできない。 「まあ、いいか」 私の独り言は、暗闇の電柱の光に吸い寄せられて消え去った。 友達が言っていたDV気味な彼氏とは、これが初対面だった。 憔悴しきっているのか、やつれているように見えた。腫れぼったいまぶたを隠さずに、ハンカチで口をおさえている。 礼儀作法も知らないままお辞儀をし、たどたどしく口を開く。 「まさかこんなことになるなんて」 「ええ、真由美は常にはつらつとしてましたから。僕もこんなことになるなんて夢にも思わなくて」 2人で黒縁に飾られた写真を眺める。まさか、その下の白い棺桶にこの前まで生きていた友達がいるなんて、夢のようで信じられなかった。 事故、だった。 真由美が新しく趣味として始めた登山。その日も朝早くから出かけて、帰ってこなかった。崖から転落した、と聞いた。 (…そう、これは事故) 自分に、言い聞かせる。 (願ったけど、ここまで望んだわけじゃない) (これは、俺(私)のせいじゃない)
何となく眠りたくなかったある真夜中、俺は近所を散歩することにした。初秋の涼しい風を肌に感じながら、ぶらぶらとそこらを歩いていた。普段は行かない道を歩いていると、工事現場に行き当たった。何かの建物が解体されている。よく目をこらすと、解体されているのは小さな映画館だった。こんな場所に映画館があったのか。俺は驚きとともに、工事現場に足を踏み入れた。その古い建物のデザインは古臭かったが、なかなか味のあるたたずまいをしていた。まぁ、こんな小さな映画館がやっていけるような時代ではないよな。でも、一回くらい入ってみたかったな。初めて見た映画館にそんな勝手な感傷を感じていると、突然、背後から物音が聞こえてきた。耳慣れない、しかし聞き覚えのある物音。ああ、これは、馬の蹄鉄の音だ。そう気づき、恐る恐る振り返ると、そこには、立派な馬に乗ったカウボーイがいた。カウボーイはじっと映画館を見つめていた。きっとこのカウボーイは、この映画館で上映されていた映画の登場人物なんじゃないか。俺はそう直感した。カウボーイは俺のことなんか見えていないみたいに、工事現場に入ってきて、馬から降り、映画館の建物の前にそいつを繋ぐと、タバコに火をつけ、建物の中に入っていった。俺は彼の邪魔をしないように、そっと工事現場を出た。すると突然、建物の中から、一発の銃声が聞こえてきた。俺は後ろを振り向かないようにしながら、走って、家に帰った。馬のいななきが、真夜中の街に、鋭く響いていた。
「安西先生。小説が、書きたいんです」 「書けばいいじゃん」 至極当たり前のアドバイスをしたはずなのに、目の前の人間は渋い顔をした。 「それは、そうなんですけど」 「うん」 「書けないんです」 「なんで? 腕にマヒがあるとか、激務で起きている間ずっと仕事してるとか?」 「そうじゃないんですけど」 「じゃあ、書けばよくない?」 「……酷い! パワハラだ!」 「えぇ……」 私は真摯にアドバイスをしたはずなのに、目の前の人間は泣きながら走り去っていった。 泣きたいのはこっちだ。 「意味わかんね」 書きたいなら、書けばいい。 もしかして、目をつむっていたら妖精さんが勝手に小説を書いてくれるとでも思っているのだろうか。 もしかして、AI様が頭の中をスキャンして代わりに小説を書いてくれると思っているのだろうか。 小説を書くのは、人間だ。 書きたい小説があるのなら、それを書くのは他でもない自分なのだ。 ならば、書くしかない。 書けないなんて言う暇があったら、書くしかないのだ。 「まあいいか。人のことを気にしている場合じゃない。書こ」 そんな人間もいるんだなあと、私は一つの学びを得て、パソコンに向かった。 パソコンの隣にお菓子に、自然と手が伸びる。 美味い、高カロリー最高。 これは頭が回復する。 「はー、瘦せたいなあ」 さ、書くか。
一頭のユニコーンが、人間の女に恋をした。 ユニコーンは、女の懐へと顔を擦りつる。 女もまた、ユニコーンを受け入れ、頭部を撫でた。 しかし、女のそれは、恋とは違う。 自分にじゃれつく獣への愛情表現でしかなかった。 ユニコーンは嘆き悲しんだ。 人間と獣。 種族の壁は、一角でさえ崩せぬほどに分厚いことに。 愛を貫くには、ユニコーンである自分が邪魔であった。 「汝、角を捧げよ。さすれば、人の体を与えよう」 嘆くユニコーンに、神が手を差し伸べた。 ユニコーンは、喜んで神の手をとった。 かつて、その神の子を一角で串刺しにしたことなど忘れて。 ユニコーンは、獣の体を捨てて人間となった。 神の餞別か、それはそれは美しい姿だった。 人間となったユニコーンを見た女は、すぐさま恋に落ちた。 ユニコーンと女は、すぐさま恋仲となった。 ユニコーンは家を持たぬ故、女の家に招かれた。 すぐに新しい生活が始まって、すぐに床を共にした。 しかし、女の柔肌に触れながら、ユニコーンは気づいてしまった。 女が純潔を失えば、自分は女と離れなくてはならないことを。 ユニコーンは、処女の前にしか現れることができぬ獣。 処女以外に出くわせば、ユニコーンは目の前の全てを傷つける暴れ馬となってしまう。 それは、ユニコーンの元来の性質。 ユニコーンを人間へと変えた神が、唯一残したユニコーンとしての機能。 裸の女を押し倒した瞬間、ユニコーンは涙を流した。 このまま身をゆだねれば、ユニコーンは女を手に入れられる。 しかし、ユニコーンは女の前で二度と理性がたもてなくなる。 畜生のそれへと堕ちてしまう。 涙を流すユニコーンの頬を、女は優しく撫でる。 女には、ユニコーンの涙の理由がわからない。 ただただ、苦しそうな愛する者を癒さんとするがため。 「辛いの? 寂しいの? 大丈夫。全部、受け止めてあげる」 女の甘言は、ユニコーンの理性を人間のまま狂わせえるには十分だった。 ユニコーンは本能のまま女を襲い、女もそれを受け入れた。 ユニコーンと人間の愛と言う奇妙はものは、たった今、完結を果たした。 翌日。 ユニコーンは女の元から消えていた。 残された手紙には、ユニコーンの業がしたためられていた。 ユニコーンの涙の意味を理解した女は、涙を零した。 たった一回交わることしか許されない互いの運命を嘆き悲しんだ。 女はその後、子を宿した。 人間とユニコーンの子が歓迎されるわけもなく、女は集落から追い出された。 一人孤独に娘を生み、一人孤独に娘を育てた。 ユニコーンが現れることはなかった。 娘は、女から子守歌のように、ユニコーンの話を聞いて育った。 自分の父との思い出話を。 娘が成人する頃には、女は息を引き取った。 娘を育てるために、無理な労働をしたことが災いした。 生涯の相手をユニコーン一人と決め、再婚を選ばなかった女の末路。 その死に顔は、満足そうなものだった。 「もう一度、あの人に会いたかったわ」 後悔は、ただ一つ。 女がいなくなってしばらくの日。 一人の男が、娘の元へとやってきた。 娘は、その男が自分の父であると理解した。 ユニコーンであった男は娘への謝罪から始まり、女のことを聞いてきた。 女は幸せに過ごせていたか、他に男は作らなかったか。 口にするのは、男の聞きたいことばかり。 娘は、無性に腹を立てた。 そんな男を父と認めることができず、小刀を男の胸へ突き刺した。 女と娘の人生を狂わせた畜生へ、生まれて今までの恨みを込めて。 「俺は、いつも選択を間違えてばっかりだ」 男はそう言い残し、息を引き取った。 男の死体は角のないユニコーンへと変わった。 娘はユニコーンの皮を全てはぎ取って、商人へとうっぱらった。 手にした金で事業を起こし、そこそこの財を手に入れた。 その後、女とユニコーンのために大きな墓を一つこしらえ、母の骨とユニコーンの骨を埋葬した。 娘は母が嫌いだった。 父を求めて泣いた姿が、余りにも惨めで。 娘は父が嫌いだった。 母を求めて行った全てが、余りにも我儘で。 娘は両親が好きだった。 自分をこの世界に生み落としてくれたから。 「義理は果たしたからね」 娘は両親の墓に手を合わせた後、二度と墓の前に現れることはなかった。 遠い遠いどこかの国で、母とも父とも違う人生を求めて生きている。
この街には一つだけルールがある 日が沈んだ後に外を出歩いてはいけないというものだ その日、俺は帰りがいつもより遅くなってしまっていた 仕事の区切りをつけるため、いつもより長く会社に残っていたのだ いつもは夕暮れ前には自宅に着いていたから、今日はその夕暮れが目に痛い とにかく早く帰らないと ウーーーーーーー ダメだ、間に合わなかった 日没の合図が鳴ってしまった 世界が、暗くなっていく 赤から紫に、そして黒に染まっていく 俺はこれからどうなるのかも分からず、硬直してしまった 徐々に、徐々に影が染み出していく 夕暮れに伸ばされた影たちが俺の元から、そして周囲の建物からも離れていく ついには俺の足元から、影が完全に切り離された ああ、日没前に帰らないと、こうなるのか 俺はただ茫然と見つめているしかなかった 俺から離れた影は、立ち上がり、フラフラとしている 人から離れられて嬉しいのだろうか 俺はその影にバレないよう、立ち尽くすしかなかった 影は近くにあったコンビニに入っていった 何をするつもりだろうと思っていたら、突然棚を倒し始めた 影のくせに実体があるのだろうか そいつは、とても楽しそうに棚を倒し、商品をぐちゃぐちゃんにし、好きなように暴れている …もしかして もしかして、あれは俺の本心なんじゃないか 何度も考えたことがある 何もかもをぐちゃぐちゃにしたいと それを、あの影は実行しているのではないか そんな風に思えてきている そんな影の暴走を眺めていたら、視界に異物が入ってきた 影じゃない 実体がある、普通の人間だ そこら辺にいる、サラリーマンだ 何かに追われて逃げてきたんだろう 焦りと、恐怖と、絶望に満ちた顔をしている サラリーマンの背後から、影が追い付いてきた あのサラリーマンの影なのだろう 追い付かれたサラリーマンは、影に取り込まれていった ズチュ…グチュ… 気色の悪い音が響き渡る サラリーマンは、影に取り込まれるように全身を黒に染め上げていった 倒れていたサラリーマンだったが、完全に黒に覆われた瞬間立ち上がった 俺を見ている その目はまるでくり抜かれたように真っ白で、瞳孔も何も無く、ただただ空白だった 俺を見て、何を思ったのだろうか そいつは俺に興味が無かったのか、そのままどこかへ歩いて行ってしまった ふと気づくと、俺の影は暴れまわることに満足したのか、俺の方に歩いてきている その目は、さっきの影と同じように空白だった 一つだけ、違うところがある 口元が、まるで今日の三日月のように、綺麗に笑っていた ああ、そうか、俺も…きっと…
自分は何を基準に人を見てるのだろう。見た目、行動、雰囲気というのかオーラ、年齢、男女、実績? 自分は何を基準にその人と関わりたいと思うのだろう。見返りが欲しいから、その人に何かをしてあげたいから、心配だから、異性だから、自分を知って欲しいから? 自分は何を求めて喋るのだろう。いずれご飯行きたいから、その場の暇つぶし、昨日の豆知識の披露、相手に詳しくなるため、悩みを聞いて欲しい、嫌々? 自分はその後どうしたいのだろう。友達になる、付き合う、さらに上の結婚する、連絡を取り合う、仕事の愚痴を言う、ストレス解消? 初めからここまで考えられる頭の回転数はない。 でも、今近くにいてくれてる人には最初からそんな言い訳じみたことはしてなかったかな。 最近どうしても人と仲良くなりきれない。
小説投稿を始めて一ヶ月。 いまだにPVはゼロである。 もはや笑っちゃう。 どれくらい笑っちゃうかというと、草津温泉に行こうとして滋賀県草津市に着いちゃった人を見た時くらい笑っちゃう。 だが、物は考えようだ。 PVがゼロということは、誰も見ないプライベート空間が誕生したと言っていい。 つまり、登場人物の会話で、こんなこともできちゃう。 『ハルカのどこが好きなの?』 『うーんと、可愛くて優しくて話をよく聞いてくれて歴史好きな趣味も合うところかな』 『えーいいじゃん』 『そんな会話が聞こえてきた』 どうだ。 道ですれ違ったモブキャラに、唐突にリアルの好きな人ハルカさんを褒め殺しさせる。 名付けて、パブリックプライベート告白。 世界広しといえど、こんな安全なスリリングを楽しんでいるのは自分だけだろう。 テンションが上がってきた。 なんだか楽しくなってきた。 先輩への愚痴。 家族への感謝。 政治家への不満。 スーパーの可愛い店員さんへのラブコール。 何でもかんでも書き放題。 人に聞いてもらいたいけどプライドが邪魔して話せなかった言葉が、するする書き起こせていく。 すごい、これはすごいぞ。 ぼくは一晩中書き続け、気づいた時には寝落ちしていた。 翌日。 目を覚ますと、ぼくは人生初のバズを経験していた。 なんと一日で十万PV超えの大バズり。 感想の数も、ひい、ふう、みい、……数えたくもない。 スマホを見れば、通知がたくさん。 そのうちの一つに『ハルカさん』。 終わった。 ぼくはパソコンの電源を落とし、スマホの電源を落とし、全人類の癒し空間であるお布団へと逃げ込んだ。 そう、これは夢だ。 悪い夢なんだ。 悪ふざけなんてなかったんや。
人と被るのが嫌いで真似をされると自分が身を引いたりする。好きな音楽、口癖、仕草など数え出したらきりがない。 同じものを共有して楽しむのは好きだ。推しは誰だ、ラーメンの味好み、映画の考察などこちらも数え出したらきりがない。 中学生の頃、勧めたわけでもなく自分が聞いている音楽を真似された上に詳しそうに説明してきたことがあった。今思えば子供の暇つぶしに過ぎないがそれが少し引っ掛かっているのだろうか。 高校生の頃、今までとは違う本気の恋をした。好きな食べ物を一緒に食べ、勧めた音楽を一緒に聴き、同じ絶景を見て感動した。価値観が合うとはこういうことなのかと子供ながらに思った。 一人一人個性があっていい、ただ自分と同じ人間も好けると思う。
最初はほんの一瞬だった 晩御飯、カレーを食べたスプーンを床に落としてしまった その時、スプーンが少しだけ、ほんのちょっぴり止まった気がした 落下の途中で、空気に引っかかったみたいに それだけ ただそれだけだった 次は宿題とにらめっこをしていた時だ 難しすぎて、ノートを睨みつけるように見ていたら、突然――宿題に火がついた 焦げる音 紙が丸まり、炎が走る 慌てて水をかけると、すぐに消えた 家は無事だったし、親にも気づかれなかった 偶然だ そう思うことにした 自分が“何か”を持っていると気づいたのは、その二つが同じ日に起きた夜だった 布団に入っても眠れず、天井を見つめていると、部屋の時計の秒針が止まった 一秒 二秒 三秒 脳内で十秒は数えた次の瞬間、何事もなかったように動き出す そのとき、確信した これは偶然じゃない 翌日から、世界は少しずつ壊れ始めた ストレスを感じると、物が弾ける 集中すると、時間が遅れる 何か遠くの物が気付けば自分の手の中にあった 誰にも言えなかった 言葉にした瞬間、現実になる気がしたからだ だが、学校で事件が起きた 体育の時間、ボールを投げた瞬間、空中で止まった 完全に静止したまま、落ちない クラスがざわつく 教師が駆け寄る みんなボールとボールを受け止めようとしている自分を見ている 全員が見ていた そして、全員が無意識に理解した ――俺が、何かをした みんなが俺を見る、皆が俺をまるで奇妙な動物を見るような目になっている 次の瞬間ボールは弾けた その日から、皆の態度が変わった 距離を取られる 視線が、怖がるものになる 夜、知らない番号から電話がかかってきた 「制御できないなら、危険だ」 低い声だった 名乗りもしない 「君みたいなのは、過去にもいた。だいたい、最後は――」 通話はそこで切れた その夜、夢を見た 自分が何もしていないのに、街が歪み、崩れていく夢 目が覚めた瞬間、窓の外でサイレンが鳴っていた ニュースでは、原因不明の火災、停止事故、時間感覚の錯乱が同時多発的に起きていると言っていた 場所は、全部――俺の行動範囲だった 逃げようとした だが、玄関のドアノブに触れた瞬間、家全体がきしんだ 理解した “何か”は力じゃない 才能でも、神の祝福でもない 俺が、世界をこれ以上許容できなくなっている 最後に、スプーンを拾い上げた あの日、止まったはずのそれは、今は普通に重い 「ごめん」 誰に向けた言葉かも分からないまま、手を離す スプーンは、落ちなかった 落下するはずの未来ごと、 世界が、止まった。
霧島「ちょっと授業中よ!何寝てんの!」 黒崎「ん、いいじゃんちょっとぐらい」 霧島「良くないわよ!!このままだとまた赤点になるじゃない!」 黒崎「まあそん時はそん時じゃね〜」 霧島「ダメに決まってるわよ!!万が一あんたに留年なんかされたら困るのよ!」 黒崎「ああそうか俺がいないと寂しいもんな〜可愛いやつだな委員長は」 霧島「そ、そういう事じゃないわよ!!!委員長としてクラスから留年する人を出させる訳にはいかないだけよ!!」 黒崎「優しいんだな〜霧島は」 霧島「う、うるさい!!!」 不良の黒崎君と委員長の霧島さん2 霧島「あら?今日は放課後残って勉強してるのね」 黒崎「ああ、テスト前だしな」 霧島「どうしたの?急に真面目になっちゃって、そんなに私の言葉が響いたかしら?」 黒崎「ん、赤点取るとウチの可愛い委員長が悲しんじゃうんでな」 霧島「か、可愛い!?じゃなくて!別にか、悲しんだりしないわよ!変なこと言わないで!!」 黒崎「あっそ、じゃあ勉強するからどっか行って」 霧島「あらいいのかしら?せっかく学年1位のこの私が教えてあげようと思ったのに」 黒崎「とか言って一緒に勉強したいんだろ?ほら、椅子持ってこいよ」 霧島「ち、違うわよ!」 不良の黒崎君と委員長の霧島さん3 黒崎「はあ〜もう疲れたわ...何で勉強ってこんなつまんねんだよ」 霧島「早いわよ...まだ1時間しか経ってないじゃない」 黒崎「すげえな〜委員長は、真面目で勉強めっちゃできるし、しっかりしてるし」 霧島「ふん、当たり前よ。まあただこの性格のせいで友達全然いないけど...」 黒崎「みんな見る目ねえなあ〜委員長良い奴なのにな〜」 霧島「そ、そうかしら?てっきり黒崎くんは私の事嫌いなのかと思ってたのだけれど」 黒崎「ん、なんで?別に嫌いじゃないけど」 霧島「だっていつもあなたに色々注意とか文句言ってるし...てっきり嫌われてるかと...」 黒崎「そんなしょうもないこと気にしてたの?笑笑やっぱ委員長はおもろいやつだな!」 霧島「う、うるさいわよ!!!」 不良の黒崎君と委員長の霧島さん4 委員長と捨て猫 猫「にゃ〜」 霧島「にゃ〜、にゃ〜にゃにゃにゃ〜?」 黒崎「委員長こんな所でなにしてんの?」 霧島「うわびっくりした!急に出てこないでよ!!」 黒崎「すまん、ってかなんかにゃんにゃん言ってたけどどうしたん」 霧島「な、何もしてないわよ!!」 黒崎「ああ!猫とじゃれてたのか!!にゃんにゃん言ってたからついに頭おかしくなったのかと思ったけどそれなら良かった!」 霧島「う、うるさい!忘れなさいよ!!」 黒崎「あんまり大きい声出すと猫ちゃん怖がっちゃうよ」 猫「シャーッ!!!」 黒崎「よしよ〜しいい子いい子」 猫「シャーッ」 黒崎「痛っ!!」 霧島「どうやらあんたに怒ってたようね」 黒崎「クソ、そこまで分かち合えるほど仲がいいとは...」 霧島「私もあんたを引っ掻くわよ」
初日の出を見るために、山へ登った。 山と言っても、獣道なんてけったいな道がある場所でなく、幼稚園児たちのお散歩にも使える遊歩道のある低山だ。 ぼくと友達は暗い時間から歩き始め、息が上がることなく到着した。 多少体が温まったが、寒空には負けてしまう。 山頂には、同じことを考えている人が集まっていた。 ぼくと友達は、海の見える場所に立って、日の出を待った。 こういうとき、身長が高くてありがたい。 「寒いね」 「ねー」 息を吐いて手を温めること数十分。 黒が暖色を帯びて来て、海から太陽が顔を出した。 「初日の出だ!」 ぼくは光りの出る場所を指差した。 「豊栄登(とよさかのぼり)だ」 友達は、未知の言葉を口にした。 「豊栄登?」 「あ、ごめん。朝日が昇ることを、そう言うんだ」 「へえー。初めて聞いた」 「ぼくも、最近知ったんだ」 「なんて書くの?」 「豊かに、栄える」 周囲では、スマホを取り出して初日の出を写真に収める人ばかり。 実に現代的だ。 でも、ぼくと友達の周りだけは、古い貴族の家にタイムスリップしたような感じがした。 太陽の光。 豊かな光。 栄の光。 初日の出の光を浴びていると、神聖な気分になった。 ぼくは二回手を叩き、太陽に向かって一礼した。 二礼二拍一礼の方が良かったかなと思ったが、手を叩くことから始めてしまった手前、そのままでいく。 友達はぼくを見て笑い、ぼくといっしょに二拍一礼をした。 「なんか、いい年になる気がする」 「ぼくも」 そのまま太陽全部が顔を出すのを見届けた後、家に向かって歩き始めた。 豊栄登。 毎年見ている初日の出が、言葉一つでこんなに変わるとは思わなかった。 家に帰ったら、親の辞書でも引っ張り出してみようかと、なんとなく思った。
人と関わる時に、実力派俳優たちの中で、私という素人が独り演技をしてるように感じる。 上手く伝わっているか不安だけど、自分一人だけが浮いているように感じる。 【ペルソナ】という概念を知って、より感じるようになった。 みんな上手く『人間』をしていて、上手く馴染めない。 上手く『人間』を演じようとすると、本来の自分が離れていきそうで、見失いそうで、怖くなる。 それでも、今日という日が流れ込んでくる…。 さて、今日の演目も『猿芝居』といこうかな。 (完)
注意 これは私が経験した事が書いてあるので… 気をつけて読んでください 今日は、彼に会うのが最後の日 彼は、元気いっぱいでギャップがある人だった 私は最後の日だから告白をした、最後の日には、公園に行く道中に、手を繋いだりしたら、彼は、顔を避けていた、でも最後の最後にハグをしてくれた…またどこかで会える時には、また会いたいと思う私だった…… 桜が満開の時期 桜を見ると何故か、彼を思い出した…心は、ボロボロになった、私にとって彼と遊んだ日々が…幸せの時間だったと思う…また会えたら、笑顔にしてくれるか考えてしまう… また会えたら、笑えますように……
あなたの端末に、忘れられない音楽が流れてきたことはありますか。 私はただ、誰かが聞くそれになりたいと願っています。 物心ついたころの香住千明にとって、世界はにぃちゃんとそれ以外でした。 隣で手を握ってくれるにぃちゃんは、ずっと私の王子さまでした。 にぃちゃんの後ろにいれば、ずっと守ってもらえました。 ずっと、友達と遊ぶことが怖い私でした。 どろんこ遊びをするのも、お絵描きやおままごとをするのも、自分が汚れてしまいそうでいやだったのです。 私は私の小さな世界から、一歩も動きたくありませんでした。 にぃちゃんは人気者でした。 男の子も女の子も、みんなにぃちゃんに集まりました。 「バレンタイン、何個もらったの?」 「百個」 「うそつき」 「ばれたか。でも、たくさんもらったぞ。少し食うか?」 「うん」 私はにぃちゃんとお菓子を食べるのに夢中で、その後ろにあるたくさんの思いに気づきませんでした。 「チアキちゃんのひきょうもの」 とうとう、言われてしまいました。 リボンと声が大きい、かわいい子でした。 にぃちゃんに、これからは二人きりで遊ぼうって言ったら、みんなで遊んでるのが楽しいからと断られたそうです。 「隣の家に住んでるってだけで、ワタルくんを独り占めして。おうちで二人っきりで遊んでるんでしょ」 何もしないことは、何かをすることより汚いだなんて初めて知りました。 私は「ごめんなさい」といったけど、ぶたれてしまいました。 にぃちゃんは、私だけの王子さまではなかったのです。 大人は転勤なんてあっさりした理由で、私とにぃちゃんを引きはがしました。 心配するにぃちゃんを、私は最後だからって美術館にデートに誘ってしまいました。ずるい子です。 にぃちゃんは退屈そうに、天井をぼんやりと見ていました。きっと、私がいなくなってもにぃちゃんの世界はなにも変わらないのでしょう。 好きな人と手を繋いで好きな絵を見ている時間は、汚いけど忘れられないくらいきれいでした。 引っ越した先のお隣さんは、私をぶった子に良く似たリボンをしたセナちゃんという女の子でした。前の年に転校してきて、まだいまいち馴染めないんだと笑いました。 セナちゃんは帰り道に、良く鼻唄を歌っていました。 「一緒に歌おう」 すごく恥ずかしかったです。だけどもうにぃちゃんはいなかったから、私は思いきって汚れてみることにしました。 「千明ちゃん、歌うまいね。ていうか、声がきれい。透き通ってるっていうか」 透明人間みたいにクラスに馴染めないもの同士、お似合いだったのかもしれません。 音楽の時間に、一人で歌う課題がありました。 先生に誉められて、みんなも「香住さんすごい」っていってくれました。 私はちょっぴり人気者になれました。 でもセナちゃんは、まだ一人でした。 守ってくれる場所を見つけて、私はどんどん汚くなっていきました。 セナちゃんと二人で帰ることは、だんだん少なくなっていきました。 私はずるい子です。にぃちゃんなら、一緒に遊ぼうってセナちゃんの手を引いてあげる。部屋で二人で遊んであげる。 でも、私は王子さまではありませんでした。 「あたし、レイくんのこと好きなんだ」 久しぶりにセナちゃんと二人になったとき、落ち込んだ顔で言われました。 レイくんはちょっとにぃちゃんに似ていて、最近良く話していました。 でも、ドキドキはしませんでした。なんだか、にぃちゃんの偽物に見えてしまうのです。 「こんなあたしにも、やさしくしてくれるの」 「いいね」 「いいわけない。あたしが千明だったら良かったのに」 どうして私は、大事なときに透明になれないのでしょう。 それから少しして、セナちゃんはまたどこかに転校してしまいました。 帰り道、一人で歌を歌いました。 セナちゃんのいない私の声は、寂しいくらいに空に通っていました。 それからも、私は歌が大好きでした。 カスミという名前で、小さな歌の動画を流しました。 絵はレイくんが描いてくれたけれど、それは私がずるい女の子だったからです。 もしかしたらこれがにぃちゃんに届くかもしれないなんて、浮わついた気持ちもありました。 すぐに、ピコンとコメントがつきました。 「きれいだね」「すごいね」の声を期待しました。 「調子に乗るな。へたくそ@SENA」 私は、無防備にひっぱたかれました。 にぃちゃんのことでずるいって言われたときより、ずっと苦しかったです。 だって、そのコメントは偶然かもしれないけど…私の初めての友達と、同じ名前をしていました。 もう、透明にはなれないのかもしれません。 ずるくて汚い私に、王子さまは来ないのかもしれません。 それでも、数十秒で流される他の音楽たちのように。 名前も覚えられないまま、少しだけきれいと思ってほしいのです。
コンビニの棚に並んでいたおにぎりの中に、具が『思い出』と書かれたおにぎりがあった。一つ買って、公園のベンチで食べた。おにぎりをかじると、かじった所から、赤いものが見えた。シャケかな。だがそれは、赤い風船だった。赤い風船が一つ、出てきた。そして、浮かんで、晴れた空に消えていった。あれが『思い出』か。赤い風船が見えなくなるまで空を見つめた後、米だけになったおにぎりを平らげた。
若かりし僕らはよく笑っていた 君の髪は夜風に揺れ 僕の声は君の中へ 窓辺から川をながめる夜は長く 僕らは時計の針の様に重なっては離れて あの頃から月は変わらない 優しい光も涼しい声も 今でもあの頃の僕らは笑っている あの月の光の中で
このノートには、嘘しか書けない。正確には、「本当のことを書こうとすると、文字が滲んで消えてしまう」という、なんとも不思議な代物だ。 私は気持ちを吐き出すことがとても苦手だ。頭の中ではたくさんの罵詈雑言を吐き散らかしているのに、それを表に出せないでいる。 胸の中に溜まったこのもやもやを吐き出してしまいたい。そう思った私は、手始めに日記でも書き始めてみようと思い立ち、文房具店で一冊のごく普通のノートを購入した。 それがどうだろう。このノートに自分の正直な気持ちを書いても文字がどんどん消えていってしまうのだ。 悩んだ私は「今日は楽しかった」と書いてみた。文字は滲まず、きれいに残った。実際のところ、楽しいどころか胸の奥がずっとざらついていた一日だったのだけれど。 こうして、私とノートの付き合いが始まった。 それから私は、ノートに「書けること」だけを書くようになった。「今日は平気だった」「あの言葉は気にならなかった」「ちゃんと眠れた」。嘘を書くと、文字は残る。残った文字を眺めていると不思議と安心した。そう書いたという事実だけがそこに残り、そうでなかった感情は、なかったことになるような気がした。 ノートとの付き合い方に慣れた私は、毎晩自分の気持ちを委ねるようになった。この感情は嘘として成立するのか。本当なのか。ノートは何も答えない。ただ、消えるか、残るか。それだけだ。 大学で同じ講義を受けている彼とよく話すようになったのはその頃からだ。 「無理してない?」 彼は私によくこう尋ねてきた。 「全然してないよ。心配してくれてありがとう。」 私は笑ってそう答えた。 「そっか。ならいいんだ。」 そう言って彼は少し困ったように笑った。そして、何事もなかったかのように他愛のない話をしてくれた。 彼と話した日の夜、ノートに決まって「大丈夫。毎日楽しい。無理なんて全然していない」と書いた。文字は消えなかった。私はその言葉をただ受け入れて、眠りについた。 彼と過ごす時間は穏やかだった。講義のあとにおしゃべりをして、学食で同じメニューを頼み、帰り道が途中まで一緒になる。それだけのことで、私の一日は形を保っていた。 それでも、別れたあとの胸の奥には、いつも微かなざらつきが残った。理由はよくわからない。私は、いつものようにノートを開く。「今日は満たされている」少し震えたその文字は、滲むことなくきれいに残った。 程なくして、私は彼と恋人同士になった。彼が告白してくれたとき、胸がきゅっと縮んだのを覚えている。私は笑って頷いた。 その夜、ノートに「私は彼のことが好きだ」と書いた。少し右肩上がりのその文字はきれいに残り、それを見た私はうっとりした気持ちで眠りについた。 ある日、彼と喧嘩をした。彼の何気ない一言がどうにも引っかかり、しかし、やはり、私の言葉はうまく出てこなかった。 「……なんでもない。気にしないで。」 そう伝えると、彼は言った。 「お願いだから、本当のことを言ってよ。」 帰宅してすぐノートを開いた。 乱雑に書き殴られた「ちゃんと話し合えた。分かり合えたと思う」という文字は、やはり消えなかった。 残ったのだから、きっとそうなのだ。そう思うことにして眠りについた。 翌日、彼はいつもと変わらない様子で隣に座った。 講義中、昨夜の言葉がよみがえる。――本当のことを言ってよ。 胸の中にもやが広がる。私は思考を止めた。もう書いた。ノートに残った。それで十分だ。そう思うのに、じわりと額に汗が滲む。 「どうした?」 彼が私の顔を覗き込む。 「どうもしないよ。」 私が笑うと、彼はまた尋ねた。 「無理してない?」 彼の問いに、私はうまく答えられず黙り込む。 しばらくの沈黙のあと、彼はまた困ったように笑った。 「そっか。」 それだけ言って、彼は視線を前に戻した。その仕草は、いつもと同じで、だけど、いつもより少しだけ慎重に見えた。 帰り道、彼は歩く速度をほんの少し落とした。 「君ってさ」 少し間を置いて、彼は続ける。 「残る言葉と、残らない言葉を、丁寧に分けてるよね。」 その言葉を聞いて、ドキリ、と胸が鳴る。 「でも、消えちゃうほうを無かったことにしなくてもいいと思うよ。」 そう言った彼の少し長い前髪が、彼の大きな瞳に濃い影を落とした。 「……残ってるほうだけを信じなくても、いいから。」 そう小さくつぶやくと、彼はやはり、困ったように笑った。 その夜、ノートを開いたまま、私は何も書けずにいた。ペン先が紙に触れそうで、触れない。 白いページを見つめながら、ふと彼の目を思い出す。もう残っていない言葉を知っているかのような、あの目。するとまた胸がドキリ、と動いた。 まだページは白いまま、私はそっと眠りについた。
出会った時から息を吸うように 嘘をつく貴女 何を説明しても嘘をつくのを止めなかったね その度の涙が信じることができなくなった 信じて欲しいと言い、信じて貰えないのは苦しいとよく言ったね 僕にはできなかった ただ、彼女なりにも苦しかったのだろうと 最近思うようになった 許したい気持ちがあるのも勿論 それ以上にやめたくてもやめれないこともあると思えるようになった 嘘もつき続けていれば本当になる ただ、私は貴女の生きる時間を輝かせたかった 例え傷ついたとしても苦しんだとしても ずっと味方でいたかった 君にとってはどうだったのかな 味方になれていたのかな 優しさで包めていただろうか 変わらなくていいから これからの時間 生きることが優しさで溢れますように
僕には姉がいる というか、僕には姉しかいない 僕の記憶はここに来てからの1年程しか無い 所謂記憶喪失というやつだ それに加えて…盲目だ 僕の世界には光が無い そんな僕を支えてくれたのは姉だけだった 「今日はね、外はとても良い天気で、空が青かったわ」 「今日は庭のバラがとても綺麗だったのよ」 「今日は村の人にたくさんお野菜を貰ったわ」 「今日はね…」 僕の世界は、姉によって形作られていた 姉の語る世界だけが、僕の世界だった 今日までは 僕の目は、今日の朝、霞んだように世界が見えるようになっていた 僕の世界は反転した 僕が寝ていたベッドだけは、とても綺麗だった けれど、視界に映る世界は灰色で、くすんでいた 「おはよう、今日はとても良い天気ね」 姉は言う けど今日の天気は…どう見ても曇りだ このぼやけた世界でもそれくらい分かる 「今日はなんだか元気が無いわね?」 その通りだ 僕はこの世界がこんなにも灰色に満ちていたなんて、知りたくなかった 優しい言葉をかけてくれる姉ですら、ボロボロの衣服で、とても見ていられないほどだった 窓の外を見ても、庭なんて大層な物は無かった 小さな雑草がほうぼうに生えているだけ とてもバラなんて植えられていない、枯れた土地だ 姉は、嘘をついていたんだ ずっと、ずっと 優しい嘘で、僕を生きさせてくれていたんだ 「今日はシチューを作るから、楽しみにしていてね」 姉は僕の部屋を出ていく 僕の目が回復したことを知らずに …きっとこのままで良い そうすればきっと、ずっと幸せだ 目の見えない僕と、優しい姉と、生きていける それでも、僕は… 数か月後 僕の目は完全に見えるようになっていた そんな目が最初に見たのは、姉の死体だった 首筋に、包丁が突き刺さっている とても、綺麗だと思った まるで、一輪の生け花のようで これで僕は解放される 外の世界に行くことが出来る どんな世界が待っているんだろう とても、とても楽しみだ そういえばあの日のシチューの味、まだ覚えているな 何のお肉を使ったんだろう
丸みを帯びた優しい風が、頰を撫で、肩を撫で、いつしか落ち葉を運んでいく。 運ばれた葉はどこかに落ちて、小さな子が拾って帰る。 拾われた葉は、母親に窓から捨てられて、また旅に出る。山を越えたかもしれないし、越えずに公園へ戻ったかもしれない。 地面へ着地した木の葉は風に急かされ、休む間もなく乗り換えを余儀なくされる。 そしてまた、肩を撫でようと触れた風が、そっと置いて帰るのだ。 その時、私は自分で肩を払うだろう。砂利を踏む音、リュックのキーホルダーがぶつかり合う音。あゝ、今私は一人で帰っている。こうも孤独を確認させてくれるとは、通学路とは非情なものだ。 隣で君が取ってくれれば、きっと幸せなのに、まったく君ってやつは、今日に限って私を一人にするんだから。
待ち合わせ場所に着いたとき、私は思わず深呼吸をした。 高校生の頃みたいに、制服じゃない。 でも、緊張の仕方だけは、あの頃と同じだった。 彰人は、先に来ていた。 スマートフォンを見ながら、時々周囲を気にしている。 その姿を見た瞬間、少しだけ安心する。 「おはよう」 「……おはよう」 ぎこちない挨拶。 でも、それが嫌じゃなかった。 今日は特別な場所に行くわけじゃない。 駅前を歩いて、カフェに入って、映画を観る。 それだけなのに、心臓は落ち着く気配がない。 「その服、似合ってる」 突然、彰人が言った。 目は合わない。 「……ありがとう」 褒められるなんて思っていなかったから、返事が遅れた。 カフェで向かい合って座ると、妙に距離を意識してしまう。 テーブル一枚分の間隔が、こんなに遠かっただろうか。 「緊張してる?」 私が聞くと、彰人は苦笑した。 「ばれてたか」 「うん。昔から」 その一言で、二人とも少し笑った。 笑うと、不思議と肩の力が抜ける。 映画館を出たあと、夕方の風が心地よかった。 何気なく歩いているはずなのに、手と手の距離が気になる。 信号待ち。 彰人が、少しだけ私の方に寄る。 「……手、つなぐ?」 その声は小さくて、でも逃げなかった。 「うん」 答えると同時に、指先が触れた。 ぎこちなく、でも確かにつながる。 懐かしいはずなのに、初めてみたいだった。 「なんかさ」 彰人が言う。 「今のほうが、ちゃんと好きって言える気がする」 私は、少しだけ強く手を握った。 「私も」 夕焼けの中を歩きながら思う。 遠回りした分、今はちゃんと向き合えている。 これは、青春のやり直しじゃない。 あの頃の続きを、大人になった私たちで歩いているだけ。 信号が青に変わる。 つないだ手を離さずに、私たちは一歩踏み出した。
みの屋のみの吉? ああ、あのいつも みの虫みたいに布団にくるまって本ばっか読んでた奴かい。 一丁前に哲学なんかしちゃってさ。 布団が空の時はどっかの店で飲んだっくれて、いつもおんなじ鼻歌うたってたよ。 いいご身分だってみんな呆れてたけど、 ちょいとばかり頭が回るし、何より暇そうだからさ。 なにか問題ごとが起こると、 あいつに相談を持ちかけに行くやつが多かった。 あいつもまんざらでもなさそうに、 布団にくるまったまま天井を見上げて なんぞゴニョゴニョと呟いたかと思うと、 急に跳ね起きて枕元の紙にバーーーッと文字を書き殴ってさ。 しばし沈黙ののち今度は「パーっ!!」と顔を輝かせて、 「それはコレコレこういう因果で起きた出来事だよ。心当たりあるかい?」 ってな具合に戯言を垂れんのさ。 しかしその戯言がまんざら外れたもんじゃなくてね、 中にはその場でワッと泣き出しながら、 仏でも拝むように手をこすあわせて帰る者がほとんどで。 そのあと褒美の酒だったり銭だったりを貰ったりするもんだから、 本を買う金と飲んだくれる酒だけは、 常に尽きることが無かったってわけさ。 奴の所に案内してくれって? いやそれが、いつの間にやら家がもぬけの殻でね。 もぬけの布団もそのままに、どっか旅に出ちまったようでさ。 今ごろ他所の町で新しい鼻歌を歌いながら、哲学つまみに飲んだくれてんだろうよ。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 みの屋のみの吉? ああ、恵比寿屋のみの吉のことか! もちろん知ってらぁよ。 昭和からタイムスリップでもしてきたかのような、絵に描いたような流しでね。 即興でそこらの客の歌ぁ作って唄うってんで、そいつが来ると店はいつも大盛り上がりさぁ。 店からただビール三杯ごちそうになって、客からもツマミやらチップやら振る舞われて、 ニッコニコで歌うもんだから、 恵比寿屋ってあだ名がついたんだよ。 飲むのは決まってアサヒなんだけどね。 哲学?さぁ…、スルメかじってるとこしか見たことねぇけど、 言われてみればいつも、何だか良く分かんないけど分かるようなこと言って笑わせてたな。 今夜も店に来るかって? いやそれが、1週間くらい前から姿を見せなくなってね。 住んでた家を知ってる者がいねぇから詳細は不明だけど、住んでた家があったかどうかも不明でさ。 今ごろ流れ着いた他所の町で、ニッコニコで新しい即興ソングでも歌ってんだろうよ。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 恵比寿屋のみの吉? ああ、恵比寿屋じゃなくて大黒屋ね。 あの、修理が得意のみの吉だろ? 大工道具が入った白い布袋背負っててさ、頼まれたもの何でも直しちまうんだからビックリよ。 特にこの町は古い家が多くてね。 住んでる者も独居の年寄りばかりだから、それはそれは重宝されてたよ。 腕もいいけど声もまた良くってね。 トンカチのリズムに合わせて、知ってるような知らない歌を歌いつつ神業で修理しちまうんだから、 みんな大黒様と呼んでたよ。 お礼のお神酒が入ると、これまた気分が良うなってね。 分からないようで分かる話をしだすんだけど、空気に溶けてしまうような話ばかりだから、内容はいつも覚えてないんだよ。 何となく心地よさだけが残る、そんな話さ。 今日はどこでトンカチしてるかって? あいにく、近頃はトント見かけなくなってね。 ほとんどの家を修理してしまったんで、 別の町に移ったんじゃないかって噂だよ。 今ごろ腕と喉をふるわせながら、どこか別の古い町に溶け込んでいるんだろうよ。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 そのあと辿り着いた町にも、みの吉はいなかった。 みの吉が描いたらしき似顔絵を持った少年が、絵と同じ笑顔で不在を教えてくれた。 そのあとの町にも居なかった。 みの吉が掘った動物の彫刻たちが、 彼が去ってからの年月を教えてくれた。 その後の町にもその後の町にも居なかった。 金木犀が香る風に吹かれながら、私はふと考えた。 「そう言えば私は、何故にみの吉を探しているのだろう。 そもそも、みの吉って誰だ?」 考えても考えても答えが出ない。 答えが出ない代わりに鼻歌が出た。 知らないようで知ってるメロディだった。 何かの思いに駆られ、私は私を見た。 私は何も持っていない。 本も、楽器も、トンカチも、絵筆も、刀も、何一つ手にしていない。 私から放たれるのは、 どこから湧くとも知れないメロディだけ。 あ、みの吉は私だった。 目を覚ますと見慣れた天井があった。 私はくるまっていた布団を投げ捨て、 そこにあった紙にわーーっと文字をかいた。 そしてわずかな停止のあと、顔にパーーッと光が宿った。
テレビから楽しげな音楽が聞こえてやけにうざったい 明日が今日になり今日が昨日になること繰り返す 希望をちらつかせ笑顔がうるさく未来が眩しくて それでも嫌いなことは好きなことより先に浮かんでる てめえらが押し付けるほどこの毎日がきれいだったなら この痛みは痛みとしてすら認めてやれないじゃないか あの頃はよかったと笑うくらいなら 過ぎた喉元の熱にまた焼かれてやけどして来い ネットには苦しげな言葉が満ちて無性に気が滅入る 明日も明後日も似たようなこと愚痴っているんだろ 未来は楽しくないなんてずっとつぶやいてるから 結局嫌いなことが好きなことより先に浮かんでる てめえらが押し付けるほどこの毎日に意味がないのなら この痛みは痛みとしてすら愛してやれないじゃないか この先すべてがバカらしいなんて嘲笑う前にさ 焼けた喉元の熱に飛び込んでやけどしてこい 青春は奇麗なところだなんて大人の妄想だ 大人はずるくて汚いなんて負け犬の遠吠えだ 眠くて痛くて届かなくてもうどうしようもなくて でもまた楽しげな音楽を背にして朝の支度 電車に揺られて端末を見て嫌いとどうでもいいを繰り返して それでも目的の駅に着く 何年もしてもう泣くことも笑うこともできなくなったら やっぱりあの頃はよかっただなんて思ってしまうんだろうな そんな想像できる未来に向けて泣き叫んだ歌は きっときれいな思い出として優しく響くんだろうな いやだな てめえらが押し付けるほどこの毎日が優しく残ったなら もしかしたら世界にはまだ意味があるのかもしれないけど 痛くて恥ずかしくて間違って取り返しのつかないこの声を どうか受け取って掃除しないでそこにそのまま飾っておいてくれないか それでも目的の駅に着く
浅い呼吸と弾んだ心臓が落ち着かないまま震える手で木の扉を押した。中からは温かい空気と珈琲の香り、橙色の優しい照明が流れてきた。 カウンターに立つ赤い髪の若い男と目が合った。男はすぐに笑顔を作り「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」と手をひらりと店内に向けた。後ろで青い顔をしている津田に視線だけ向けると、津田は小さく頷いた。店内はカウンター席とテーブル席があり、カウンターには女性が一人腰かけている。普段であればテーブル席に向かうが、今は自分たち以外の人を求めてカウンター席に向かった。津田も何も言わずに着いてきた。 カウンターに座ると店主が温かいおしぼりを渡してくれた。歪な形に巻かれたおしぼりは温かく白い花の香りがした。おしぼりの熱が冷えた指先から全身に回り、緊張が少しずつ溶けていった。それは津田も同じだったのか、こころなしか表情が柔らかくなっていた。 「肝試しですか?」 笑顔で訊く店主に、素直に「そうです」と答えた。津田は隣で小さく頷いている。 「道の先の廃ホテルですよね。あそこからうちまで一本道じゃないですか。だから肝試し帰りの方がよく来られるんですよ」 店主の低く落ち着いた声が、より気分を落ち着かせた。 「車で走っていたら、ここの看板が見えて。他に明かりがついている場所がなかったので」 いざ話始めると声は少し上ずり、早口になる。 「この地域はコンビニも日付が回る前に閉めちゃうんですよね。そのおかげで深夜は駐車場を借りれるんですけど」 看板の隣にかけられた紙に「お車でお越しの方は隣のコンビニの駐車場をご利用ください」と書かれていたことを思い出した。それを読んで隣の暗い駐車場に車を停めたのだ。 「ホットココアでお願いします」 津田が突然声を上げたので、驚いて隣を見ると無言でメニューを渡してきた。 慌ててメニューを見たが文字がうまく頭に入らず「俺もホットココアでお願いします」と掠れた声で注文した。 店主は手を動かしながらもこちらを気にかけてくれた。それに甘えて胸騒ぎを落ち着かせるように、自分たちの話をした。津田とは大学の同級生であること、自分が先週車の免許を取り、二人でドライブをしていたこと、近くに有名な廃ホテルがあること津田が教えてくれて二人で行ったこと。 「あの廃ホテルって、玄関でオーナーが焼身自殺したんだっけ」 隣で携帯を触っていた女性が突然声を出した。 「そう、らしいですね」と確認するように津田を見ると、津田は水の入ったグラスをじっと見つめながら頷いていた。 店主はホットココアを二つ出し「これはサービスね」と言って一口サイズのチョコクッキーが盛られた小皿をココアの間に置いた。 「ありがとうございます」ここに来て、初めて口角が自然に上がった。 「私にはないの?」 「朝熊さんは焼き立てを食べたでしょ。勝手に」 二人の軽い言い合いを隣で聞きながらココアを飲む。優しい甘さが口の中に広がり、小さくため息をついた。隣を見ると津田のカップを握っている手は小刻みに震えていた。 「まだ怖いのか?」 声をかけると、津田は一瞬こちらを見てからすぐに目を逸らして顔を歪めた。 「何か見たの?二人とも怯えた感じで来たけど」 朝熊さんが軽い調子で訊いてきた。津田を見ると顔を歪めたままグラスを睨んでいる。 「多分、見たんです。玄関あたりに行ったとき、人影が見えて、驚いてすぐに引き返したからよく見えなかったんですけど、若い男の人に見えたんです。僕らと同世代の。でも僕ら以外に肝試しをしているような車もなかったですし」 話しながら当時の光景と感覚が蘇り、足に緊張が走る。 「オーナー以外にも、あそこで亡くなった方がいるんですよね。廃ホテルに行った学生がその後自殺したって。その人の霊だったんじゃないかって」 「それはないんじゃないかな」 店主の低い声が冷たく響いた。 「あそこに行って自殺した人は誰もいないよ。俺はずっとこの町にいるけれど、そんな人はいない。ですよね、朝熊さん」 店主の声は柔らかさを取り戻し、朝熊さんも頷いた。 「だから、きっとそれは見間違いですよ。木か何かの影が風に揺れて人影に見えただけかも」 「違う」 店主の話を遮るように津田が震える声で呟いた。津田はこちらを一切見ようとせず、何もない空間を睨みつけていた。まるで俺を視界に入れないように。 「あれは、人だった。俺とあいつが驚いてその場で固まっていると、その影が近づいてきて俺の手を掴んで走り出したんだ。そのまま車に向かって、その影は運転席に座ったんだ。それで、あいつの顔をして言うんだよ。「何してるんだ、早く乗れ」って。後ろからは黒い影が走って来て、俺、もう怖くて、車に乗ったんだよ」 津田の震える声が温かい空気の中に沈んでいく。 「なあ、おまえ誰なんだよ」
時計のない喫茶店。海の見える窓際の席で二人の青年が向かい合って座っている。一人は黙々とカレーライスを食べ、もう一人はクリームソーダを前に、光を反射しながら揺れる海を眺めている。店内の照明が暗いせいか外がやけに眩しく感じ、無意識に目を細める。 「ここに来るまで、バイトに行きたくないなあって考えていたんだけどさ」 溶けかけたアイスをスプーンで掬いながら鹿江が話し出した。左柄は一瞬視線を上げたが、すぐにカレーライスに視線を向けた。 「左柄と話していたら、そんなこと忘れていたよ」 アイスを一口食べると再び窓をみた。左柄は何も言わずに水を飲み「今、思い出してるみたいだけど」と涼しい顔で言った。 「バイトに行きたくないって思っていたことを思い出したんだよ。今は思っていない」 言い訳をするように早口で話す鹿江を見て左柄は首を傾げて、カレーを掬った。 「僕の現実がずっとここなら良いのに」 鹿江の声には幼さが残っていた。 「バイトに行って、家に帰ると一人で売れもしない原稿用紙に向かうだけの生活。原稿用紙に向かえる日は良いよ。たまに凄く疲れて何もできない日もある。誰かと話したくても話せる相手もいない。それでも人と話した日なんかは、別れてから会話を思い出し自己嫌悪で思考が埋め尽くされる。それで、なにもできない」 「大変そうだね」 左柄はどうでも良さそうに言い、空になった皿にスプーンを置いた。 「本当、大変だよ。何もしていないのに大変」 鹿江は自嘲を浮かべて笑うと溶けたアイスを掬い、左柄は教科書サイズのスケッチブックと青い鉛筆を取り出した。 「どうしようもない現実だよ。どこにいても惨めな現実。どこまで逃げても、自分からは逃げられないって気付いたんだよ」 左柄はスケッチブックを開き、迷うことなく手を動かしている。その世界には鹿江の声は存在しない。 「でも、君と一緒にいる時の自分は好きなんだよ。ここが逃避場じゃなくて、現実ならいいのに」 鹿江の声はすぐに消え、二人の間には鉛筆が紙を滑る音だけが響いていた。 クリームソーダのグラスが空になると、左柄はスケッチブックを閉じて顔を上げた。 「アトリエに行く前に画材屋に寄ってもいい?」 鹿江は笑って頷き「せっかく良い天気だから、外で描こうよ」と提案した。左柄は窓の外を眺め、眩しそうに目を細めてから「それが良いね」と少し口角を上げた。
今日は、小さい頃からの友人の結婚式だった 友人の方のスピーチとして私は参加した 友人は白の衣装を身に包んで とても眩しくて幸せそうに婚約相手と笑っていた 少し逃げたくなってしまいたかったけど これでもう終わりなんだと諦めたくて 友人からの「ありがとう」が、どうも嬉しくて 私はここに留まることしか出来なかった。 ただ恋人にも何にもなれずに私はずっとただの友人なんだと そう悟って虚しくは少しなった。 友人からの結婚式の帰り自宅 二次会にはどうもいけなくて早々に帰ってしまった。 お腹はあまり空いてなかったが 何か食べないと明日の仕事で痛い目を見るので 友人からのもらったバウムクーヘンを食べた よく昔、友人と食べていたことのある味で 美味しいはずなのに、これで諦められたはずなのに その味は少ししょっぱかった ただ食べた時にぼそっと呟いてしまった 「私の方がずっと前から好きだったのに」
「夜だから星が見える訳じゃないんだよ。見えていないだけでそこには確かにいるんだよ。」 そう言った君を思い出す。 あの時、僕は少し救われた気がした。 社宅のワンルーム 聞きたくもないアラーム音で目を覚ます。 天井の白がやけに明るく見える。 憎たらしいくらいに外の光が顔を撫でる。 人や街の喧騒は苦手だ。 本当の自分が分からなくなる。 そこに確かに存在しているのに 見えないこともある。 そんな話をする彼女が好きだった。 「私は死ぬよ」「やりたいことが死ぬことなんだ」 口癖のように呟いていた。 いつも笑って話してくれる君。 否定しない僕を君は好きだと言った。 僕に時間をくれると言った。 初めて誰かに必要とされたと思えた。 「もっと色んなことを知りたい」 「もっと色んな人と触れ合いたい」 そう僕に別れを告げた君。 もう君にとって僕は 見えない星になってしまっていたんだね。 君にとっての光はもう見えない光。 そう、僕にとってももう見えない光。
太陽は未だ昇っていない。 眠りは浅かった。嘔吐する夢を見た。えづく感覚が妙に生々しく、本当に吐いてしまったのではないかと慌てて口元に手を遣るが、唾液で濡れているだけだった。ぬるぬるとして蛞蝓が這ったあとのような手触りだ。 次は愛車が事故に巻き込まれ廃車になる夢だった。橋の上から灰色の乗用車が落下してきて、その下に停車していた私の車を押し潰した。私以外の車も何台か犠牲になった。道路は渋滞していたが、私はぺしゃんこになった赤色の愛車を見ていることしかできなかった。 おじさんが「これは修理に出すより新しいのを買った方がいいかもしれない」と助言をくれた。私は未だ買ったばかりだと告げたが、どうすることもできないと言っておじさんは立ち去った。真冬の早朝のような親切を投げられ、私はよろめく。 潰れた愛車を再び見る。凹んだ運転席。光沢のある赤い色。私の愛車は赤色だっただろうか。途端にこれは夢ではないかと悟った。祈りにも近い感情だった。 念じるとそこはベッドの上だった。外は黒ずんだ暁の空になっている。 しばらく悶えていたが、どうやっても眠りにつけない。目元には前に突き出したような浮腫がある。 ようやく朝陽が空を青に染め始めた。私は何年ぶりかの散歩へ行くことにした。 ○ 薄手で外へ出たがそこまで寒くはない。水風呂にお湯を混ぜたような生ぬるさがある。 私は澄んだ空気に地面の塵を舞い上げながら歩いた。 以前パチンコ店だったところに新しくジムができるようだ。中では梯子に乗って作業している人がいる。ヘルメットを深く被っていて顔は見えない。 これからは家の近くにジムがないとの言い訳は使えない。 「三月オープン!」と書かれた赤い幕が入り口の内側にかけられている。私はそれを見ながら、ガラスに映った自分の方をうっすら見ていた。 大学生のころによく歩いた散歩道をなぞるように進んでいく。数年ぶりのはずなのに、建っている家やマンションも、植えられている街路樹も、何も変わっていない。名も知らない木がじきに枯れてしまうその瞬間を切り取ったような雰囲気がある。 向かいから犬を連れたお爺さんが歩いてくる。犬は舌を垂らしながら、はっはっと息づいている。 徐々に日のあたる部分が広がって来た。胃のあたりに湯たんぽのような熱の塊を感じる。血の流れが手足の先を温めようとして、じんじん痛む。 整備された新水緑道はかつてほど木々に覆われてはいなかった。寒空が細く流れる川を覗いている。あのころより水位が低く流れはゆっくりだ。濁って底は見えず、二羽の鴨がつがいでそこを泳いでいる。ときおり頭を突っ込んで岩の下を突いている。 私は流れとは反対に歩いていた。 前方にはお爺さんとお婆さんが歩いていた。足元には抱き抱えられるくらいの子犬が居る。お爺さんはその子犬を引っ張るように歩いていた。 向かいから同じ犬連れの夫婦がやってきた。彼らは挨拶を交わすと、互いの犬を可愛いとか何とか言って褒め合った。 狭い道を塞ぐようにする身勝手さに私は周りの景色が一瞬見えなくなる。ぶつからないように抜こうとする。追い抜き様に息が詰まった。声は漏れていなかったと思うが、わからない。 「元気だねえ」 「かわいいねえ〜」 お婆さんらの朗らかな声が遠ざっていく。耳を澄ませばやや聞こえるあたりで、私は急に後ろを振り返りたくなった。あの笑い声はきっと私に向けられたものだ。 私はイヤホンの音量を上げた。 大太鼓を叩いているような振動から逃げるように、私は左手に流れる川に縋った。川はいっそう緩く澱んでいる。 私は歩くしかなかった。 上流に行くに連れ次第に流れが速くなって来た。 なぜか水位も上がっていた。 さっきとは別の、三羽の鴨が泳いでいた。うち一匹の鴨がじっと私を見ている。 私は動けなかった。 鴨の後ろを落ちる水は、束ねられた白い糸のようだった。 少し上の方まで来すぎてしまった気がする。 日はだんだん高く登り私を正面から照らす。 私は力いっぱい足を引いた。だが私の背後に真っ黒な壁がある気がして駄目だった。 いや私は足を引いたと思い込みたい。ただそれだけのことかもしれなかった。 令和八年一月十八日
いつからだっただろうか。私の人生は、まるで靄がかかったかのように、薄暗く質素なものになってしまっていた。中高と華の学生時代を思い返すと、胸が痛くなるようでとても辛い。もう戻れないことが分かっているからこそ、こんなにも切なくなる。あの時は良かった。常に未来は希望に溢れていて、泣きたくなるほどに愛に守られていた。それなりに不安もあれば大変な思いもしたけれど、それすら今となっては輝いて見える。私はいつまで経っても、あの頃の自分に憑りつかれている。 だからといってもし、中高の学生時代をもう一度やり直すことができたとしても、私は絶対にあの場へ戻りたくない。一度目だからこそ、一度きりだからこそできることもあった。そういうものだ。 私がいま生きているこの瞬間だって一度きりのはずなのに、あの頃とまるで世界の見え方が違うのはなぜだろうか。「どうせ夢を見たところでもう遅い」「無謀な未来に労力を割くくらいなら、用意されたパターンの中にオリジナリティを見出す努力をした方が有意義なのではないか」そんな呟きが、頭の中で漏れる。あの頃と同じだ。私は何よりも私自身のことを、心の底から否定している。 物心ついたときから、私は夢を語るのが苦手だった。夢を持つことすら、自分に許してあげられなかった。どうしてそんなにも頑なだったのか。今思えば、私はもともと極端に心配性で、不安に思うことも多く、自分を疑うこと以外を知らなかったのだ。終わりのない一歩を踏み出すのはこんなにも怖いものなのだと、今となって実感する。 そして時間が経てば、こうしてつらつらと悩み耽っていることも懐かしむことができるのだろう。今この瞬間にはどんな力を持ってしても戻ることはできないから。人生において「もう一度」は存在しないから。そんなある種の安心感が、過去を綺麗に見せたがっているのかもしれない。どうにも無責任ではないか。私が今生きているこの世界は、なにも綺麗なものばかりではないというのに。 私は今日もあの日を思い出してしまう。あの時、あの場所、あの空間……思い耽っては懐かしむ。この感情の名前を、私は知っている。
「食べ過ぎた……うぅ、死ぬ……」 「だから言ったのに。無理はしない方がいいって」 数十分後。私たちは店を出て、街灯が灯り始めた少し暗い道を並んで歩いていた。 結局、あの大食い勝負は引き分け。私は胃袋の限界でぐったりしているというのに隣を歩く朝は相変わらず涼しい顔だ。本当になんなんだよこいつは。 「齋藤さんって本当に凄いよね。頭も良くて運動神経も抜群で、おまけに底なしの胃袋て……神様二物どころかバーゲンセール並に物与えすぎじゃない?」 「ありがとう」 お礼を言う割に、彼女の声に弾んだ様子はない。 今のところ私が分かっているのは、彼女が「意外とラーメンが好き」ということくらい。核心にはまだ指先すら触れられていない気がした。 ええい、ままよ。私は思い切って切り込んでみることにした。 「……ねえ、齋藤さん。ちょっと聞きたいんだけど」 「なに」 「齋藤さんはさ……何かに勝って『嬉しー!』とか『やったー!』とか、そういう風に思ったりしないの?」 朝は少し考え込むように藍色に染まり始めた空を見上げた。 「……あまり無くなったかも、そういうの」 「前まではあったの?」 「んー…昔はこういう、ちょっとした競い合いで勝ったら喜んでたし嬉しかったけど」 視線を、歩く先へと戻す。 「私が勝てば勝つほど周りからの当たりは強くなっていくし、かといって周りに合わせて手を抜くつもりなんてないし……」 歩く足が止まる。 「だから今はもう、つまらないかな。勝っても」 ぽつぽつと溢れる言葉は全く温度がなく、淡々としていた。
この薄暗い部屋に閉じ込められて、一月が経った。部屋の中は質素な造りだが、ベッドは意外にも上質なマットレスで、シャワーとトイレも完備してあり、生活するには申し分ない。食事は野菜などの彩は無いが、三食差し入れられる。 堪えがたいことは、娯楽が少ないことだ。テレビやパソコンが無いのは勿論、所持していたスマートフォンも取り上げられている。何故かカバーを外された本だけは差し入れられるが、異常な状況では読む気力も湧かない。言わば、生きる楽しみを見いだせない空間。 犯人はわかっている。目の前にいる女だ。 「どうしてこんなことをするんだ」 鉄格子の向こうにそう詰問すれば、女はいつも困った様な表情をするばかりだった。 彼女のかつての交際相手に相談を受けたのが、出会いのきっかけだった。曰く、彼女は相手に尽くすタイプの女性で、しかしそれに際限が無い。ノイローゼになった彼が逃げ出し、身近にいた自分が次の寄生先として選ばれた。 意外にも彼女との生活は悪くはなかった。容姿は華美ではなく、常に地味な服装だったが、むしろ奥ゆかしく好感が持てる。流行の話題には疎いが、古文や歴史に造詣が深く、博識深い。聞いていた異常性を置いておけば、所謂大和撫子そのものだったのだ。 うまくいっていたはずだった。この場所に監禁されるまでは。 あの日は雪が降っていた。寒さに身を震わせ、数か月後に来る春を思い、道すがら在原業平や西行が詠んだ句について語った。 「和歌に詠まれる桜は、どうしてこうも魅力的なんだろう」 「昔は、今よりも目に入る色が少なかったですから、桜の初心な色ですら、貴重な彩、だったのでしょう」 「成程。そもそも現代とは環境が異なるか。僕もいつか全身で感激するような桜を見てみたいものだ」 「ええ、そうですね」 そんな些細な夢も語って、彼女も微笑んでいたというのに。 当夜、勧められるまま深酒をしてその後の記憶がない。目が覚めたらこの部屋にいた。初めは激昂して、それから諭すように、ある時は懇願に近い声色で、どんな言葉で尋ねても、彼女の答えは無いか、曖昧なものばかりだった。 彼女は、僕の思いを試しているのか? 監禁という行為が生み出す歪んだ関係性。被害者からの依存性を期待しているのだろうか。彼女の目的は、ただこうして廃れていく僕を、籠の外から眺めて居たいだけなのかもしれない。 薄暗い部屋で、食事と睡眠の数を数え、もう二月も経った。ひたすら薄暗闇の日々が続いたのだ。段々と、自分の中の何かがすり減っていくのを感じる。 「なあ、今日でもう二月だ。あんたはいつまでこんなことをするつもりなんだ?」 辛うじて、まだ忘れていなかった声と言葉で問いかける。どうせ返事は無い。宛てのない言葉は、壁の中に消えていってしまうのだろう。ただの独白だ。 そう自嘲しながらも、久々にあの困った顔つきを拝んでやろうと、俯いていた顔を上げた。彼女の唇が動いた。 「あと、二週間、くらい?」 食い下がるべきだったろうが、驚き、言葉が出ない。明確に期限を口にしたのはこれが初めてだった。彼女に何の変化があったのか。 その日を皮切りに、彼女は、毎日私の言葉に返事をするようになった。 「もうちょっと、今日は、まだ」 「まだ早いの、だめ」 「きょ、今日は、雨が降ったから」 ある日、聞きなれない金属音と共に、いつもとは異なる微妙な風の流れを感じた。ひた、ひた、と足音が近づく。顔を上げると、鉄格子の向こうの彼女が傍にいた。 「あの、これ」 差し出されたものは、黒いアイマスクだった。付けろというのだろうか。視線で問いかけても、困った表情をするだけだから、望まれるままに装着した。手を引かれ、立ち上がる様促される。僕は彼女のするまま、素直に従った。 「どこに向かっているんだ」 答えのないまま、歩いた。あの仄暗闇から解放されるのならば、どこでもいい。僕はあの薄暗い部屋を出たのだ。 途中から、足の裏に感じていたものが、コンクリートよりも柔らかい感触に変わった。風にのって、土と草の匂いがする。 「取ります、ね」 もう随分歩いたと疲労を感じ始めた頃、ふと立ち止まって彼女は言った。 髪が巻き込まれ頭皮が引っ張られたが、些細な問題だった。 流れ込む光の束に、すぐには目を開けなかった。ゆっくりと瞼の裏に馴染ませ、恐る恐る開いていく。 色の洪水だった。失くしていた色、求めていた色、知っていたはずのものが、未知のものに見えた。背丈を優に超える幹は、大地の色を吸い込んでいる。風に舞い散る花びらには、一枚一枚色があった。全て、異なる色なのだ。 言葉にならない僕に、彼女は嬉しそうに笑った。久しぶりに見た笑顔だ。僕は、彼女が僕を閉じ込めた理由を悟った。後はただ、手を握り締めて、桜を眺めた。
ある昼下がりのことである。外回りの最中、休憩のために、公園に立ち寄った。気持ちの良い天気だった。ベンチで缶コーヒーを飲みながら、行き交う人々をぼんやり見ていた。イヌの散歩をしている人が多かった。ぬいぐるみみたいなイヌ、高そうなイヌ、不細工なイヌ、様々なイヌが目の前を通り過ぎていく。すると、突然、視界に、黒い物が現れた。それは霊柩車だった。見ると、喪服を着た上品そうなマダムが、ハーネスとリードをつけた霊柩車を散歩させていた。これは珍しい。じっと見ていたら、マダムとふと目が合った。「こんにちは」「こんにちは」マダムは微笑んだ。美しい人だ。喪服が似合う。こんな美しい人が、霊柩車を飼っているのか。何だかゾクゾクする。そんなことを思っていたら、霊柩車が草むらの前に停まった。そして、ぶるっと車体を震わせた。「あらあら」マダムが言った。マダムはしゃがみ込み、喪服のポケットからビニール袋を取り出した。そして、霊柩車の後部座席の扉を開け、その中にビニール袋を被せた手を突っ込み、再び取り出した。ビニール袋の中には、人間の形をした黒い塊が入っていた。「それは?」俺は尋ねた。「おほほ、ただのフンですよ」マダムは笑った。俺は感心した。そして、霊柩車と喪服のマダムは去っていった。俺は缶コーヒーを飲み干し、スマホのメモアプリに、『霊柩車のフンは人間の形をしている』と打ち込んだ。そのメモがどこでどう役に立つのかはわからなかったが。
あんまり覚えていないんですよね。いつから人の顔が見えなくなったのか。 人の顔にモザイクがかかったようにパーツが認識できないだけなら良かったんですけど、いや、それもよくないんですけどね。僕の場合、渦に見えるんですよ。顔の皮膚が無理やり引っ張られて渦を巻いている。それも人によっていろんな場所にあるんです。真ん中の人もいれば右上とか左下とか。渦の数も一つだけじゃなくて二つや三つの人もいる。六つほどある人もいて、あれは気持ち悪かったなあ。あ、人の顔に向かってこんなことを言うのはよくないですよね。すみません。とにかく、見たくないんですよね。人の顔が、こう、ぐちゃぐちゃになっているのを。だから人の顔、顔がある部分にも目を向けられないんです。 あ、そうそう、いつからこうなったのかって話でしたよね。さっきも言ったように記憶が曖昧なんですよ。何か強烈な事件が起きたとか、トラウマになるようなことを見たとかそういうこともなくて。しいて言うなら親指を隠さなかったことですね。 あれは保育園の帰りか、小学校の帰りだったかな。それくらいの年の時、夕方に祖母と二人で歩いてスーパーに向かっていたんです。途中、踏切があってそこの遮断機が降りて警報音が鳴って、おばあちゃんが「親指を隠しなさい」って言ったんです。でも僕は理解できずに親指を隠さなかった。 多分、その日から人の顔がぐちゃぐちゃに見えるようになったんです。多分、そう、記憶が曖昧で。 いろんな病院やお寺に行ったんですけどね。ダメみたいで。鏡に映る自分の顔だけは渦巻いていないので、それだけが救いです。 御杖と名乗った青年は一度も顔を上げることなく、カウンター越しにこちらの名札を見ながら話していた。 「写真とかもダメなんですか」宇井は真顔で尋ねた。 「ダメですねえ」御杖は間延びした声で苦笑した。 深夜のコンビニに、午前四時を知らせるラジオの声が響く。 「すみません、仕事中なのにこんな長話を聞いてもらって」 申し訳なさそうに笑う御杖に、宇井は胸元で手を振った。 「いえ、僕が訊いたことなので。ほら、前に顔が見えないって言ってたから少し気になって」 二人の頭の中に、先日二人が遭遇した女性の姿と声が浮かんだ。 「宇井さんのことを指名手配犯だって言っていた人ですよね」 御杖は笑い声を立てた。 「あれは参りましたよ。御杖君も違うって言ってくれないし」 「あれは名札をしていなかった宇井さんが悪いですよ」 宇井は帰り道、勤務中の御杖との会話を思い出していた。自分の顔にはいくつの渦がどんな場所にあるのか、流石に訊くことはできなかった。 このまままっすぐ行けば踏切がある。そういえば、彼の言っていた踏切はどこの踏切なのだろうか。少しずつ踏切が近づき、赤いランプの点滅とゆっくりと降りる遮断機が見えてくる。無意識のうちに両手の親指をぎゅっと握った。 早朝の静けさの中で警報音が異常なほどはっきりと聞き取れた。
初めて貴女の横顔を垣間見たとき、まるで桔梗のようだと感じた。背中にかかる髪ですらこの世のものとは思えないほどに艶やかで、私の世界に生まれて初めて色が乗った心地がした。貴女は物憂げに庭を眺めながら、紙に筆を走らせていた。 誰に文を書いていたのだろう。帰路につくなり、頭に浮かぶのは貴女のことばかりだった。もしその文を送る相手が貴女の想い人であったなら、私は早急に貴女のことを忘れ去らなければならなかった。しかしいくら貴女に想いを馳せたところで当然、貴女が誰を想っているのか、確かめる術もあるはずがなかった。 それからというもの、私は何を目にするにしても、貴女を想わずにはいられなくなってしまった。陽が落ちると、貴女も同じ景色を見ているだろうかと考える。夜に鳴く鳥の声を聴くと、貴女を忘れられない私のようだと心が苦しくなる。朝日が昇るとき、貴女と同じ世に生きていられることに感謝が溢れる。真昼の明かりが注がれた紫の桔梗を目にすると、どうしても貴女を想ってしまう。 その夜は冷たく霧雨が降り、やがて辺りは霧に包まれた。薄暗い靄の中に貴女の影を見た気がして、どうにも焦燥感に心を苛まれた。もう一度、貴女の姿を見ることはできないだろうか。逸る気持ちを収めることができなくて、私はあの日の記憶のみを頼りに、貴女の影を追っていた。 半刻ほど歩いた。やがて記憶の中と同じ香りがして、私はまたあの場所へ来てしまったのだと気が付いた。貴女の姿を一目この眼で見たいと、私の望みはそれだけだった。辿り着いたそこは間違いなく、私の世界が初めて色付いたあの場所だった。 そろりそろりと塀の隙間から中の様子を覗き見ると、何度も想い返したその景色が静かに佇んでいた。記憶の中と違うのはただ一つ、貴女の姿が見えないことだった。しばらく、そこに居たはずの記憶の中の貴女に想いを馳せていた。 夜も更け切ったころ、なにやら少し遠くに人の気配があるのを感じた。もしや、と、ありもしない想像に胸を高鳴らせ、私はよく目を凝らした。霧はもうすぐ晴れようとしていた。少し欠けた月がゆったりとその影を照らし出した。この眼に映ったそれは紛れもなく、一人の男の姿であった。 静かな風が吹く暗闇の中で、月明りだけが優雅に揺蕩っていた。それはどうしようもないほどに、美しい夜だった。
「風邪をひきましたな!」 「ひいたでゴザルな!」 「そんなときは!」 「酒でゴザル!」 二人の男がジョッキにビールを注いでいく。 そしてジョッキをぶつけて乾杯をし、美味しそうにゴクゴクと飲んでいく。 「キタキタキタ!」 「熱っぽかったのが嘘の様でゴザル!」 「もっと度数の高い酒なら、もっと治るのでは?」 「名案でゴザル!」 男はビールを飲み干した後、コンビニへと駆ける。 そして、ワインに、焼酎に、マッコリに。 飲みたいお酒を片っ端から買って、再び家に戻って来る。 「ママー。パパとおじさん、まだ飲むみたいだよ?」 「はあ……。風邪なんだから、安静にしておきなさいよ」 男の妻と娘は、二人の様子に冷ややかだ。 「何を言っている! 百薬の長だぞ!」 「その通り! 酒は万病に効くのでゴザルよ!」 二人の言い分に、妻と娘は諦めたように溜息をつき、寝室へと消えていった。 「さあ、乾杯!」 「どちらが遅くまで起きていられるか、競争でゴザルな!」 深夜の部屋の中。 男たちの熱い戦いが始まった。 そして翌日。 「ママー! パパとおじさん、起きないよー」 「あらホント。心臓止まってるじゃない」 熱い戦いを終えた二人の男は冷たくなっていた。 死因に病気あり。 死人に病気なし。 酒は、確かに二人から病気を取り除いた。 「ホントに万病に効くのね。これで我が家の赤字も、黒字に戻るわ。お葬式は……いらないよね?」
自分の作品が人の目に映るようになって、 『知って欲しいと知らないで欲しい』が乱立してきた。 この戸惑いは何処から生まれてきたんだろうか。 理解なんて望んじゃいないと思っても、 こうして人の目に触れる場所に書き溜めている…。 どうやら、私は人の目に触れることを求めているようだ。 そして、たった一人でも良いから私の作品たちを気に入って、 連想ゲームみたく考察を楽しんで欲しいと思っているようだ。 (完)
AIに小説を書かせると、綺麗にまとまりすぎた文章になる。テンプレートに沿った思考の登場人物しかいない小説なんて、何も面白くない。作者ですらどんな結末になるかわからない――そんな物語が読みたい。 自分の心の赴くまま、ただひたすらに言葉を連ねる。その重なりが物語となる。小説とはどこまでも創作物であるがゆえに、言葉には匿名性がある。一人称視点で語られる言葉だからといって、必ずしもそれが作者自身の言葉とは限らない。そういうものである。 だから私は今日も小説を書く。小説であることに意味がある。そこに正誤や優劣はない。自分の中で整合性がとれてさえいれば、他一切の事象を入れ込む必要はない。 つらりつらりと筆を動かしていると、日々どれだけ自己否定を積み重ねているかに気付く。誰かに読ませるための文章となってしまったとき、それは私の言葉ではなくなる。他の誰でもない私自身の言葉だから、この物語には価値がある。
鏡を見て言う。 「ぶっさ」 自分に言う。 いつも通りのブサイクな顔面。かわいいとお世辞でも言えない顔面。 鏡見るたびにモチベが下がる毎日を送っている。 トイレで鏡を見るだけで窓ガラスに反射した自分を見ただけでモチベが下がる。 どんなにかわいいって言われても嘘にしか思えない。 かわいくなりたい。 芸能人並みにかわいくなりたいとか贅沢は言わない。 少しだけ、少しだけでいいから平均に近づけてほしい。 顔だけで異性から恋愛対象になられないような顔、容姿いじりをされても傷つかないようなメンタルが欲しい。 もし私がかわいかったらきっと周りから人が寄ってきたんだろうな。 もし私がかわいかったらかわいい子に素直にかわいいって言えたんだろうな。 自分の醜さに気づいたのは中学二年生の頃。 一年生の頃は見た目に気を使う子が少なかった。だから醜くても浮かなかった。 二年生になって見た目に気を使う子が増えてきた。 みんな3000円もするハートのくしを持ち出し、話題はシャンプーの話で持ちきりだった。 素質が良かったのか周りの子はどんどん垢抜けていった。醜いのは私だけだった。 かわいいあの子の容姿いじりにいちいち傷つく。だけど事実だし受け入れるしかない。 そんな痛くて苦しい毎日を送っている。 ある日、メイクをしてみた。スクールメイクというものを覚えて、学校にしていった。 バカにされた。かわいいあの子にバカにされた。 「なにそれ笑!きもっ」 きも、きも、きも、その言葉が私の中で何度も流された。 「えー」 そう苦笑いする私にかわいい子はさらに言う。 「ブスはおとなしくブスでいろよー笑」 その瞬間、目の前にいたのが変わっていた。 かわいいあの子から化け物に変わっていた。 「やっぱそうだよねー。お姉ちゃんが勝手にメイクとかしてきてさー」 そう言って私は誤魔化す。 その日の夜、寝る前に泣いた。 小さく啜り泣いた。 次の日、ただでさえ小さい目が腫れてさらに小さくなっていた。
ほどなくして、立ち上る湯気と共にラーメンと餃子が運ばれてきた。美味しそうな豚骨の香りが限界を迎えていた空腹をこれでもかと刺激する。 「「いただきます」」 手を合わせた直後、私は無我夢中で麺を啜り始めた。選んだのは細麺、茹で加減はバリカタ。 (あー、やっぱここ正解だわ。最高すぎる……) 芯の残った歯ごたえがたまらない。バリカタでこれなら一番硬い『粉落とし』なんてどんだけ硬いんだろ。マジで粉落としただけなのかな。 「齋藤さん! 美味しい!?」 「美味しい」 ハイテンションのまま問いかけると、短いが確かな肯定が返ってきた。その答えに自分のことのようにニヤけてしまう。 「でしょ! あと餃子これマジで飛ぶから食べて早く食べて!!」 「分かったから少し落ち着きなよ」 箸で餃子を掴み、一口で頬張る。 次の瞬間、朝の目が驚いたように丸くなった。 「……っ、美味しい」 よっしゃあ。 思わず机の下でガッツポーズ。 「でしょ!? ここに来たら餃子は外せないだよね。私さ、ここに連れてくる人全員に食べさせてるから」 「へぇ、納得だね」 一皿六個。平和に三人ずつ分け合い、朝も最後の一つを愛おしそうに(と、私は解釈した)食べ終えた。だが、育ち盛りである私の胃袋がラーメン一杯と餃子三つ程度で満足するはずがない。 「替え玉しよっかなー、あと餃子も…」 店員を呼び、追加注文を告げようとしたとき。 「高橋さん、私も替え玉2つ頼みたい。あと餃子ももうひと皿」 「あ、そう……って、え!?!?」 二度見、三度見。私より痩せてるくせにそんなに食べるのかこの人は。その細い体のどこにそんなスペースがあるんだよ。 「あー……えっと、じゃあ! 替え玉4つと、餃子3皿で!」 「かしこまりましたー」 店員が厨房へ引っ込んだ後、私は朝に向かってニヤリと笑ってみせる。 「私も食べるからね。食べることでまで負けるのは、御免だもん」 (割引券持ってて良かった。じゃなきゃ財布が死んでたな……) 「そう。無理はしなくていいと思うけど」 朝は私の対抗意識をさらりと受け流しながらコップに水を注ぎ直した。