閉店時間を過ぎたゲームセンターである。店員が、店内を巡回しながら、壁に貼られた『禁煙』の貼り紙を剥がしていく。やがて、あちこちから煙草の煙が漂ってくる。床のゴミを掃いていた店員は顔を上げる。クレーンゲームの筐体の中で、獲得されなかったぬいぐるみやフィギュアたちが、背中を丸めて煙草を吸っている。「あいつら、何を考えてんだかな」このゲームセンターに勤務して何年も経つが、店員にはそれがわからない。
努力ってのは結局 毎日コツコツと続ける事によって 感覚が麻痺して 中毒になっていく事なんだよ (完)
長いトンネルを抜けるとそこは雪国だった でも、なんというか、異世界の雪国だ 空は柔らかなパステルカラー 雪はぜんぜん冷たくなくて 触るとふかふかの綿あめみたい あまくはないけど と、突然、道端のポストが ―おつかれさまでえす と会釈して通りすぎちゃって 街灯からは、りんごが鈴なりにぶら下がっている ―あ、やっと来た、遅かったじゃあん 声のほう見るとウチのねこが、ガードレールの上でまあるくなっている 見覚えのある茶トラの模様に、やけに短いしっぽ ―たまに道がつながんだよ (道? はへ?) ―帰りの電車まで時間あるし、あっこでたい焼きでもたべてくかあ? 世界は、すっかり見たこともない景色だけれど ねこだけはよく知ってるねこで まあ、ひとまず安心した
右手だけが眠っているように、ペンを持つ手に力が入らない。かすれた文字では何も書けない。そもそも書く言葉すら私にはなかった。 視界の後ろにある玄関扉の奥では河童が立っている。小さな河童の表情を覗くことが怖かった、恐かった、こわかった。なんで河童なの。 外では車のタイヤが水を弾く音が響く。トラックの起こした風の音、空気とコンクリートの摩擦音。外は夜の町。 どうか、眠たいからって僕から逃げないで。
私が結婚してから初めて、母が、私たちの家に遊びに来た。その時に母に色々な話をした。それを母は静かに聞いてくれていた。数日後、母が実家に帰った後、夫が仕事に出かけ、片付けをしていると、テーブルに何かが置かれているのに気づいた。それは一枚のメモと注射器だった。メモには母の字で『がんばって』と書かれていた。注射器には懐かしい色の液体が入っていた。私は腕まくりをして、その液体を注射した。やがて楽しい気分になってきた。世界が輝き始めた。「がんばろう」と思った。
熱い。 それは一気に降り注いできた。溜まっていたわたしのひとつひとつが、その中を泳ぎだす。 熱の流れに突き上げられるように浮き上がり、沈み込む。浮上し、降りる。その繰り返し。 そのたびにわたしの中には熱いものが染み込んでくる。 代わりにわたしは紅く紅く周囲を染める。まずはほんの少し。そしてもう少し。浮上と下降を繰り返す都度、わたしの周囲が紅くなっていく。 幾度かそれを繰り返すうちに、わたしを弄んでいた流れは手を止めた。 わたしはゆっくりと沈んでいく。沈んでいく。底に溜まる。 ふいに、もう十分だ、とわたしたちはそれごと持ち上げられ、ぐっと傾けられた。 紅く染まった周りもろとも、わたしの身体は流されていく。 ふと、わたしだけが捕まった。捕らえられた。ああ、わたしが染めた紅だけがさらに流されていく。注がれていく。 カップへと移されたわたしだったものたちは、テーブルへと運ばれて行った。 午後3時。 わたしはキッチンの隅で、ぬるく、ぬるく、冷めていく。
牛丼屋に行った。 ワイファイを拾った。 「GyudonーWiFi? ラッキー、ここフリーワイファイ飛んでるんだ」 通信費も馬鹿にならない。 節約のために、速攻繋いだ。 そして牛丼を食べた退店後。 「え? フリーワイファイの提供なし?」 繋いだワイファイは、牛丼屋のものでないことを知った。 牛丼屋で、Gyudonをアピールするフリーワイファイを偶然拾うことがあるだろうか。 いいや、ない。 ならば目的は、公式のフリーワイファイ勘違いして繋いだぼくみたいな馬鹿から、パスワードや個人情報を抜き取る以外はないだろう。 なんてことだ。 「ぎゃああああああああああああ」 牛丼屋の近くで、悲鳴が上がった。 ぼくのパスワードは、誰にも推測できない代わりに、知れば死神に憑りつかれる曰く付きだ。 盗んだせいで、見てしまったのだろう。 ぼくの背後にいる死神が振り向いて、にったりと笑っていた。
「ドレミファ……」音楽教室の帰り道、私の隣で娘が覚えたばかりの音階を暗唱していた。「ソ……あれ?」娘は電信柱を指差した。見ると五本の電線が空に書いた五線譜のように、等間隔で横に連なって伸びていた。昼間の白い月が、下から二番目の隙間にすっぽりと収まっていた。「あのお月さん、ラだね」
「あ、買い忘れた」 困ったときは、コンビニに向かう。 二度もスーパーまで車を出すのは面倒なので、ありがたい存在だ。 歯磨き粉もある。 下着もある。 パンもある。 スーパーより割高だが、時間を節約できると考えればトントンだ。 コンビニには、小学生たちが溜まって、雑誌を一冊買っていた。 一人が勝って、皆で回し読みをするのだろう。 ……その役目は、うちのものだった。 昔の子供たちは私の本屋で買ってたし、私の本屋で溜まっていたのに。 便利な便利なコンビニは、私から大切な客を吸い上げていった。 「六百四十八円になります」 とはいえ、バイトの子に怒るのも違う。 昔なじみのオーナーに怒るのも違う。 誰が悪いって言えば、時代が悪いとしか言いようがない。 「はい、ありがとうね」 商品の詰め込まれたレジ袋を受け取って、私はコンビニを出た。 そろそろ私の本屋も、閉店を考える頃だろう。 コンビニやインターネットと戦うには、私は年を取りすぎた。
我慢はあった しかしこれが夫婦の当たり前なのだ 我が家はどちらかが極端に稼いでくるわけではない、お互いが今の仕事で出来る限りやってきたのだ。 それでも私はずっと引きずってしまう、 同棲を始めた頃の初期費用、家を買うための頭金、引越し費用その他諸々 全て私が出してきた、 自分で、自分しか支えていけないと思ったから
「何でもしていいと言われたら何をする?」 「何もしなくても怒られないようになりたい」 「何故かこの世のルールは世の中にお返しをしなくてはいけないようになってるから」 本当はそんなのを取っ払って何もしなくてもいいようになりたい 「何かしなきゃ駄目だよ」 「そうなんだけどね」 諸行無常。
2ヶ月前、夫が転職をした 前の職場は残業12時間やら土日祝、直前に仕事入ったなどこちらが振り回されてばかりだった。 私はその生活に嫌気がさしていた 私自身は週6で働き、子供達の保育園の送迎はもちろん掃除洗濯を当たり前のようにやり、帰ってきても夫がいない日は疲れたよりも嫉妬を感じていた なぜ嫉妬なのか、なぜ そうだ、夫は働いている、働いてくれている、 ただ夫が働いて家を空けても私が家のために払う金額は変わらない、 なのに夫が家にいない分私の負担が大きいのではないか? ずっとこの疑問を感じていた
「もしもし。申し訳ありませんが、先程ご依頼のあった救急車キャンセルさせてください」 「え? ちょっと待」 「お腹痛くて」 電話が切れた。 折り返しても繋がらない。 怒りで沸騰していた頭は、だんだんと冷たくなっていき、手に持っていたスマホを滑り落とす。 「自業自得……ってやつか……」 友達との約束をドタキャンし続けた者の末路が、これ。 今からでも過去に戻って、皆に謝りたい。 私を轢いた車の運転手は、私の出血を見て気を失い、役に立たない。 場所が悪いせいで、野次馬一人あたりにいない。 私を轢いた車のライトを全身に浴びながら、私は息を引き取った。
「パンって漢字で『麺麭』って書くんだけどさ。じゃあニキビはなんて書くと思う?」 「ニキビに漢字なんてあるんだ」 「あるよ。実はね『面皰』って書くんだ」 「両方に『面』と『包』の字があるね」 「そう! そしてどっちも『めんぽう』って読むの! 小麦を取ると肌荒れする理由ってこれじゃない?」
その人が初めて来たのは、梅雨の夜だった。 私が店を継いで七年目の、蒸し暑い六月。古い中華料理屋の、カウンター三席だけの店だ。父が三十年やっていた店を、私がそのまま引き継いだ。メニューも、食器も、カウンターの傷も、全部そのまま。 その人は傘を畳みながら入ってきて、カウンターの端に座った。六十代くらいだろうか。白髪交じりの頭で、くたびれたジャケットを着ていた。体は大きかった。椅子に座ると、カウンターとの隙間がほとんどなかった。 「何でもありますか」 「一通りあります」 「じゃあ、炒飯と、餃子と、紹興酒を」 無駄のない注文だった。私は黙って厨房に入った。 その人は食べるのが静かだった。咀嚼の音も立てず、スマートフォンも見ず、ただ黙って食べた。炒飯を半分ほど食べたところで、一度だけ箸を止めて、言った。 「うまいな」 「ありがとうございます」 「昔からこの店ですか」 「父の代から。私で二代目です」 その人は少し目を細めた。 「そうか」 それだけだった。あとは黙って食べて、静かに飲んで、勘定を済ませて帰った。 次の金曜日も来た。同じ席に座って、同じものを頼んだ。その次の週も来た。それから一度も欠かさず、金曜日の夜に来るようになった。 名前を聞いたのは、三ヶ月経ってからだ。 「すみません、お名前を聞いてもいいですか。常連さんなので」 「大野です」 「大野さん、私は川村です」 「知ってる」と大野さんは言った。「暖簾に書いてある」 私は笑った。大野さんも少し笑った。それが最初だった。 少しずつ、話すようになった。大野さんは寡黙だったが、私が話すことは聞いていた。仕入れの話、常連客の話、父から引き継いだ炒飯の配合を未だに完璧に再現できないという話。大野さんはそういう話を、相槌も少なく、でも確かに聞いていた。 ある夜、大野さんが言った。 「お父さんの炒飯、食べたことあるよ」 私は手を止めた。 「この店に、昔来たことがあって。三十年くらい前かな。一度だけ」 「そうだったんですか」 「うまかった。だから、また来てみたくなって」 大野さんは紹興酒を一口飲んだ。 「息子さんの炒飯も、うまい。少し違うけど、うまい」 私は何も言えなかった。厨房に戻って、しばらく火を見ていた。目が熱かった。父が死んで五年、ずっとあの炒飯に近づこうとしていた。近づけているのかどうか、わからないままやっていた。 それから大野さんは変わらず、毎週金曜日に来た。 十一月のある夜、大野さんがいつもより遅い時間に来た。疲れた顔をしていた。 「今日は熱燗にしてください」 「紹興酒でなくていいですか」 「日本酒がいい夜もある」 私は黙って燗をつけた。大野さんは炒飯を食べながら、ぽつりと言った。 「今日、定年でした」 「そうですか」 「三十八年、勤めました」 「お疲れさまでした」 大野さんは頷いた。それから少し間があって、言った。 「家に帰っても、誰もいないんですよ。妻が先に逝ってしまって、子どもも遠い」 私は何も言わなかった。言えるものが何もなかった。 「だからここへ来ました。金曜日だったし」 ただそれだけを言って、大野さんは静かに飲んだ。 私はおかわりを注いで、餃子をもう一皿、黙って出した。大野さんは何も聞かなかった。ただ、食べた。 閉店間際、帰り際に大野さんが言った。 「来週も来ます」 「待っています」と私は言った。 雨が降り始めていた。大野さんは大きな体に傘を開いて、夜の中へ消えていった。 私は厨房を片付けながら、父のことを思った。三十年前、この店に一度来た若い大野さんに、父はどんな顔で炒飯を出したのだろう。覚えていただろうか。覚えていなかっただろうか。 どちらでもいい気がした。 あの炒飯が、大野さんをまたここへ連れてきた。それだけで十分だった。
コンビニの喫煙所でアゼルバイジャンから来た娘と話す。 日本語が上手だ。 人種とか無いですよね、とか宇宙人とかもいるらしいですけどね、などと冗談を交わす。 笑顔が素敵だ。 僕は笑うのが苦手。 お金があれば飲みに誘うんですけどね~と冗談で言ったら本当ですか~とわりとノってくる。 挨拶をして別れる。 また何か逃したかもしれない。 イスラム圏でも飲酒に寛容な国もあるんだな、と考える。 あの娘と飲んだらどんな話をしたのだろうと妄想を膨らませる。 飲みながらコーランについて話したり。 いきなりうちに呼んで宅飲みしたら危ない奴だと思われるだろうしな。 抜いといたんで平気です、と言ったら嫌われるだろうか。 夜はスピーク、の相手がいない。 異国の夜は様々な話が飛び交うのだろう。 統合失調症の話しは長い。
午前3時。ペンを走らせていると時間が少しずつ歪みながら流れていくようだ。 午前4時。夜行バスに揺られる空想をしながら夜が明けるのを待つような虚像との会話。 午前5時。白昼に解けるおまじないを飲み込んで、さあそろそろおやすみ。 午前6時。まっさらな画面に打ち込まれる文字が描き出すのは掌にのるような小さな小さな半透明のものがたり。 もうお日様が昇るのなら、目を瞑って。 これでようやく今日が終わりますね。 また明日。
僕は街道をひとりあるく。 刺激的な音楽を聴きながら。 すれ違う人々は顔が死んでいる。 スタスタと歩いている。 なんでこんな朝から歩いているのかというと本を買うためである。 目的地を目指して歩く。ロックンロールな叫び声がイヤホンから聞こえる。 ランニングウェアを着た人がランニングしている。きっと痩せたいのだろう 一人だと早歩きになってしまう。
夜、清掃業の仕事を終え、ベンチに座ってぼんやりしていた。頭上には夜空が広がっていた。夜空は真っ暗だった。俺はその時雑巾を持っていた。俺は雑巾を夜空に重ねて、手を動かした。すーっ。夜空の闇が拭き取れた。拭き取れた場所には、青空があった。雑巾を見ると、真っ暗だった。所々に星が光っていた。とんでもないことをしてしまった。俺は慌ててポケットから黒の油性マジックを取り出した。そして、背伸びして、夜空を拭き取ってしまった場所を塗り潰した。「大丈夫だよな?」俺は何度もそこを見ながら、慌ててその場を逃げ出した。大丈夫なように見えた。後にも先にも、夜空に手が届いたのは、その一回だけだ。
私にはともだちがいるの。 彼女はとてもかわいいの。 それに綺麗好きだから一緒にお風呂にはいるの。 いつもお花の香りをしているの。 一緒にお買い物に行って お揃いのものを着るの。 サイズがちがうからお揃いにするのは大変だけど、 お揃いのものを見つけた時はとっても嬉しいの。 食事も一緒に行くんだけど、彼女はあまり食事が好きじゃないみたい。 どちらかといえば、おしゃべりの方が好きだと思う。 でも、彼女は聞いてばかり。 わたしはそんなかわいい彼女と話し合いたいの。 だからね。 彼女を話せるようにお口をつけてあげたの。 でも、お口だけじゃ話せないみたい。 せいたい?っていうものもいるみたい。 だからせいたいもつけてあげたの。 でも話してくれない。 もしかしたらまだ喋るために必要なものがあるのかもしれない。 わたしは考えられるだけのものをカノジョにつけてあげたの。 でも、彼女が話すことはないの。 お花のいい香りがしていた彼女から、お花の匂いが消えたの。 日に日に彼女はかわいくなくなってしまったの。 だからわたしは彼女を捨てたの。 彼女がいなくなってもわたしは大丈夫だったわ。 だって、おしゃべりできる子とおともだちになったもの。 でも、ひとつだけ気になることがあって 彼女の見た目がわたしの好みじゃないの。 もっとかわいくなれるはずだから だからわたし、彼女がかわいくなるのを手伝ってあげるんだ。
真夜中の工事現場である。一軒の家が解体されている現場である。人は誰もいない。重機がひっそりと佇んでいる。その中に、一台のショベルカーがある。ショベルカーは老いている。ふいにぎいぎいと音を立てて、ひとりでに動き出す。ショベルカーは、ショベルの先端で、地面の土に何かを書き始める。それは詩である。いくつかの詩である。土についての詩、鉄骨についての詩、腐った柱についての詩。ショベルカーは書き続ける。他の重機たちはそれを冷ややかな目で見ている。朝になれば作業員たちが着て、地面を慌ただしく歩き回って、詩は消えてしまうだろう。
この街には、監視者がいる。 少女は空を見上げた。大きな影、丸い目、毛むくじゃらなシルエット。 猫。 猫である。 「起きてるよ」 「おはよー」 「あ、こっち見た」 もうこの街の誰も、“あれ”に違和感を抱かない。 ふと空を見上げては、「いるな」となる。その程度の存在だった。 穏やかな朝の光に照らされて、監視者は呑気そうにあくびをしている。 ピンクの口蓋は、少女の学校のプールよりも大きい。そして閉じゆく口元には、ビルほどの太さはある白色の牙が、唾液で鈍く光っていた。 その時、近くでクラクションが鳴り響いた。ながらスマホの自転車が、あわや車と衝突しかけたようだ。何事か怒鳴っている車の運転手から、再び空へと目を向けると、先程まで眠たげに瞬いていた眼は今や爛々と輝き、縦に割れた瞳孔はしっかりとこちらを捉えていた。 しかし次の瞬間には、気まぐれな監視者はもはやこちらを見てはいなかった。その無邪気な目は気まぐれに、車の方へ、人の方へ、朝の街の中を忙しなく動き回っていた。 気まぐれ。そう、気まぐれだ。 少女には、それがひどく恐ろしく感じられた。 多分いつか、あの牙が自分たちに襲いかかる日が来るのだろう。少女にはそんな気がしてならなかった。 途端、あの監視者の“気まぐれな目”が再びこちらに向いた気がして、少女は慌てて目を伏せたのだった。
スーパーのレジで、前の客が財布を忘れた。 夕方の混んだ時間帯で、私の後ろにも三人並んでいた。前の客は中年の女性で、エコバッグをごそごそと漁りながら、すみません、すみませんと繰り返していた。店員が困った顔をしていた。後ろの客が舌打ちをした。 私は何も言わずに、カードで立て替えた。千四百円だった。 「あの、本当に申し訳ありません」と女性は言った。「お名前と連絡先を」 「いいですよ、たいした額じゃないので」 「でも」 「急いでください、後ろが詰まってるので」 女性は深く頭を下げて、足早に出ていった。私も会計を済ませて、駐車場へ向かった。 それだけのことだった。忘れるつもりだった。 三日後、職場に電話がかかってきた。 「川島さんのお勤め先はこちらで合っていますか」 「はい、そうですが」 「先日のスーパーで、立て替えていただいた者です」 どうやって調べたのか聞こうとしたら、「名刺が落ちていました」と言われた。財布を出した時に落ちたらしい。 「返金させていただきたいので、お会いできませんか」 千四百円のために、と思った。でも断りにくくて、近くの喫茶店を指定した。 来た女性は、地味な格好をしていた。テーブルに千四百円を丁寧に並べて、また深く頭を下げる。 「わざわざすみません」と私は言った。 「いいえ。あの日、本当に助かりました。後ろの方に舌打ちされて、頭が真っ白になってしまって」 「気にしなくていいですよ、ああいう人は」 女性は少し笑った。笑うと、目が細くなった。 「私、ああいうとき、いつも固まってしまうんです。昔から。要領が悪くて」 コーヒーが来た。私たちは少し話した。彼女は春から転職したこと、新しい職場にまだなじめないこと、この街に越してきて半年で知り合いがいないこと。私は聞いていた。なぜそんなに話すのかわからなかったが、聞いていた。 帰り際、彼女が言った。 「あの、また会えませんか。友達がいないので」 直球すぎて、私は少し笑った。 「いいですよ」と言った。 それから月に一度、会うようになった。たわいない話をした。彼女は少しずつ新しい職場の話をするようになった。私も、誰にも言っていなかったことを、なぜか話した。離婚のこと、子どもを持てなかったこと、それでも今の生活が悪くないと思っていること。 半年が経ったある日、彼女がはにかみながら言った。 「実は、付き合っている人がいて」 「そうなの、よかった」 「職場の人で。川島さんに話を聞いてもらってたから、踏み出せた気がして」 私はコーヒーを飲んだ。 「それは関係ないと思うけど」 「関係あります」と彼女は言った。「川島さんって、体大きいじゃないですか」 突然のことで、私は思わず自分の腹を見た。確かに大きい。太っていると言われ続けて四十年、今さら気にもしていなかったが。 「隣にいると、なんか安心するんです。守られてる感じっていうか」 私は何も言えなかった。 「最初にレジで見たとき、大きい人だなと思って。でも優しく立て替えてくれて。だから名刺拾ったとき、会いに行こうって思えたんです」 千四百円が、これほど遠くまで転がるとは思っていなかった。 私は窓の外を見た。街に夕暮れが広がっていた。 「名刺、ちゃんと持ち歩いててよかった」 彼女が笑った。私も笑った。 忘れるつもりだったことが、今では金曜日の楽しみになっている。人生というのは、どこで転がるかわからない。千四百円で転がるとは、思ってもみなかった。
俺は拳を強く握って、祈るように、真っ白なベッドで寝たきりの彼女に寄り添う。 病院の中は真っ白だらけで、俺の目には彼女が儚く映る。 早く目を覚ましてほしい。 どうしてこうなってしまったのだろう。 明白だった。 それは、俺が彼女の頭を強く打ち付け、気を失わせてしまったからだ。 小さな頃から野球選手になりたいって夢があった。 結果だけ言えば、それは夢で終わってしまった。 サラリーマンをして、上司やらに怒られ、精神負担と眼精疲労を引っ提げて家に帰り、ベッドになだれこんでは夢を見続ける。 しかし、夢から覚めればまた同じ日々を繰り返す。 お前は何者にもなれない一般の人なんだよって劣等感を抱きながら。 そんな中で出会ったのが彼女だった。 酒を浴びるように飲んで、路地裏の壁にもたれ掛かっていた俺を介抱してくれたのが始まりだ。 彼女は優しかった。 弱い俺をいつも慰めてくれて、寄り添ってくれる。 俺はそんな彼女に救われていた。 彼女に告白して、付き合うことにもなり、いつも一緒にいたかったから同棲まで始めた。 幸せだったんだ。 けど、いつからか、それは当たり前になって、劣等感を抱き続けた俺の負の部分が上回っていった。 きっかけとかは覚えていない。 けど、俺は彼女を殴っていた。 それが新しい俺の日常になっていった。 仕事のストレスを発散するように。 俺から離れられないように。 「本当は強い人だって知ってるから」 そんな言葉を彼女からかけられ、俺は彼女にまで劣等感を抱くようになった。 彼女は俺なんかより圧倒的に心が強いじゃないか。 俺より強いことが、許せなかった。 そこからは覚えていない。 気づけば、頭から血を流して倒れている彼女が、俺の目の前にいた。 頭が真っ白になる。 なんてことをしてしまったんだ。 急いで救急車を呼んで、病院に運んで、今、彼女はベッドに寝ている。 勝手な話だろう。 それでも俺は、彼女にいなくなってほしくなかった。 「ん…」 声がした。ハッとして見上げるとうっすら目を開けた彼女がそこにはいた。 「あ…」 思わず声が漏れる。嬉しい、本当に勝手だけど、嬉しい。 彼女が俺の方を見る。 名前を呼ぼうとした瞬間、彼女は話す。 「誰ですか?」 また頭が真っ白になった。 誰だって?彼女は記憶喪失になったのか…? 「お、俺だよ…覚えてないのか…?」 「え、はい…痛っ…」 彼女は頭を押さえる。 ああ、当たり前だけど俺のせいだ。 俺が彼女を記憶喪失にさせてしまった。 「だ、大丈夫…?」 「は、はい。」 不審に思っているようだ。 それもそのはず。 彼女にとっては、目を覚ませば、何故ベッドに寝てるかも、頭が痛むのかもわからない状態で見知らぬ男性が今目の前にいるのだから。 「そっか…」 その時思った。 これはやり直すチャンスだと。 もう彼女に暴力を振るわない。 普通でいい。 もう夢なんて見なくていいから、彼女を大事にしよう。 例え、俺のことを忘れていても、俺は彼女を愛する。 今度はもう絶対に愛し方を間違わない。 こういう時どうしていいかわからないけど、とりあえず看護師さんに彼女が目を覚ましたと伝えよう。 そう思い、席を立ち上がる。 「大丈夫だから。」 彼女に微笑みかけて、俺は病室のドアに手を掛ける。 「……から」 うっすら何か聞こえたけど、よくわからなかった。 こちらを見る彼女は何か微笑んでるように見えた。 私が目を開ければ、そこは病室の天井だった。 随分長く寝ていた気がする。 声が漏れる。 そしたらそれに呼応するかのように小さな声が聞こえた。 「あ…」 その声の方を見れば、そこには彼がいた。 最初こそ支えたいと思った彼が。 夢にうちひしがれても、必死に今を生きる彼が。 いつからか暴力を振るうようになった彼が。 その後には、離れないでと懇願する彼が。 「誰ですか?」 これはチャンスだと思った。 彼から離れる機会だと。 今までどこか放っておけなかったけど、私は限界だった。 もう暴力を振るわれるのは散々だから。 俺だよ、覚えていないのか。 そう言われて心配する素振りを見せる彼。 どうせ自分のことしか考えていないのだろう。 ムカつく、腹立つ、頭が痛む。 頭を押さえると、また彼が心配してきた。 その時、普段の彼とはすこし違う感じがした。 本当にこちらの心配をしてるように思えた。 その時思った。離れるんじゃなくて彼を利用してやろうって。 彼は罪悪感を覚えているようだから、その罪悪感につけこんでやるって。 席を立ち、ドアに手をかける彼を見て呟いた。 「許さないから」
巷じゃあなた強運ですとLINEへ誘い口座聞き その口座が空だと分かると1万円分のカードを 買わせる詐欺が有るらしい回収詐欺も怖いが こちらはもっと恐ろしいです世の中何も正解 無いと決め旨い話的心積りが良いかも知れない
異界監視センターよりお知らせです。 近所や親戚に、青い目をした子供はいませんか? 絶対に瞳を覗き込まないでください。 【検閲済】を視認してしまう可能性があります。 以上の状況が当てはまる場合には、速やかに当センターにお知らせください。 「お前の目は、本当に綺麗だな〜」 リョウは赤ん坊を抱いて、デレデレと笑っている。出産を終えたばかりのアカリを置いて、ずっとあの調子で可愛がっているのだ。まぁ、世話してくれるからいいけどね……とアカリはソファの上であくびをした。 生まれてきた娘は、日本人とは思えない青色の目をしていた。眩しいほどの青、勿忘草色。光が当たる向きなどによって、水色やら紺色にも見える。まるでスパンコールだ。 けれど、夫婦にとっては娘の目が何色だろうと構わなかった。検査でも100%2人の子供だったし、何より見目が美しい。娘の目を覗き込んでいると、小さいころ万華鏡で遊んでいた時のような、うっとりとした気持ちになるのだった。 にしても、今日のリョウは娘に夢中になりすぎだ。お互いの目を見つめあって、もう軽く1時間は経っている。アカリは娘が泣き出さないからいいか、とほっといていたが、いささか不安になってきた。初めての子なのでよくわからないが、赤ん坊というのはこんなにも大人しいものだっただろうか。 「ねぇ、リョウさん。そろそろ寝かせた方がいいんじゃないの。リョウさん?」 きいてみても、リョウは聞いているそぶりも見せなかった。娘を両手でしっかりと抱いて、離そうとしない。当の娘はぽかんと目を見開いて、瞬きもせず、父と母の顔を見比べるだけだ。アカリは急に、二人になんとも言えない気持ち悪さを感じた。 途端に、娘が耳をつんざくような泣き声を上げた。この小さな体から出しているとは思えないほど、凄まじい絶叫だった。アカリはびっくりして、リョウの腕の上から娘を抱いて支えた。 そこから起きたことは一瞬だった。リョウの体はあっという間に、熟れきったバナナのように真っ茶色になった。そして肌がボロボロと崩れ、娘を抱いていた腕、瞳を覗き込んでいた眼球までもが、ぐずぐずになって床に落ちた。 気づけばアカリの前にあるのは、腐った肉の塊だけになっていた。まだ生きているかのように、モゾモゾと動き続けている。娘はアカリの腕の中でケロッと泣き止み、無邪気に笑顔を浮かべた。父だったそれを、美しい目でじっと見下ろしながら。 異界監視センターより 2.30.異形化事件について 堀越リョウさん 自宅で突然全身が腐敗、身柄は当センターにより保護 犠牲となった方々に、祈りを捧げましょう。 追記 対象者の娘を預かっていた職員3名が異形化(詳細は3.9.異形化事件として別紙に記載)。 進展があり次第、追って報告いたします。
「あー、目障り。消えればいいのに。」 私はスマホをいじりながら呟く。 スマホには、SNSに投稿された女の子の写真が写っている。 ここに写っているのは私が大嫌いなクラスメイトの女の子。 性格が悪くて、男好き、おまけに被害者ヅラのプロときた。 シンデレラの世界にも転生したらその被害者ヅラは様になったりするのかな。いや、こいつは意地悪な義母役か。 なんて考えたりしちゃって。 その子の写真をまじまじと見る。 かわいかった。本当に顔かわいいんだよな、この子。 どうしてこんなに性格が悪いのに顔がかわいいの?それとも顔がかわいいから性格が悪いの? 私は自分を聖人だとは思っていないけど、あなたよりは性格いい。なのに、あなたよりかわいくない。 どうして?どうして?どうして?ほんっと不平等!! もしこの世界が、性格が顔に可視化する世界だったらあなたはどんなに醜くなるかしら。 きっと、その辺のカミキリムシといい勝負になるでしょうね。 てかこの写真無加工じゃん。なんでこんなにかわいいの。理解ができない。 あー、気持ち悪い。なんで私こんなまじまじと見てるんだろう。気持ち悪い。 だけどブロックはしない。 ブロックをしてこの子との関係を余計拗らせたくないし、この子のストーリー見てたくさん悪口言いたいタイプだからな。 ほんっと私って性格悪いな。あの子のが移ったみたい。 私が意地悪な義母で、顔のかわいいあの子がシンデレラみたい。 私は黙ってシンデレラの写真を保存した。
私達はこの先永久の命を貰う事叶うのならば 多分其れは神の御力の賜物でしょうねその時 我々は神に何を捧げますか私ならば先ず己の 命を捧げその代わりのエネルギー体質の改善 奉仕を務めた先に新しいエネルギー循環事業 構築と同時この世に神の文化革命を伝導指せ 神の御国を拡大指せる御手伝いがしたいそう 歴史が語る何か掴み貰えるのなら必ず代償が 存在する当たり前の定義私達はその事を己の 頭脳にしっかりと叩き込まなければ為らない そう我々は目的達成等叶えて下さった神様へ 御恩返しする事越そ我が使命と悟る事当然の 習慣にして行きましょうその循環越そ幸福な 証拠かも知れないのだから(完)
タイムトリッパー・旅人の刻 気づくと、時間というものを駆けていた 本来なら私はもう死んでいるんだとか でも時空の間に逃げ込む事で、死ぬのを本能的に回避したのだとか タイムリープ・黄昏が刻 さぁ何処の時間に向かおうかな 私の意思が伝わる訳じゃ無いけど あの日に向かいたい タイムワープ・逢魔が刻 結末が解るのなら 改変が行えるのなら 時空を歪めてでも、理想を追求するだろう タイムトラベル・悠久の刻 気楽な物じゃないさ 運命に逆らえないのさ たとえ、破滅が待っていてもね タイムキープ・静寂の刻 私の仕事はあくまで、時間の保持 貴方の興味はあくまで、時間旅行 言わば、時間を手の中で転がせれる優越感 (完)
赤く染まっていた野いちごの葉が 緑色に戻りつつあって そんなところにも感じられる春 冬のあいだ、家の前に広がる草原を 全部、自分のものだ と言わんばかりにかけ回っていた犬のようなオオカミは このところ、すっかり姿を見せなくなった あたたかくなって山に帰っていったのだろう 太陽の機嫌がこのところよく、まめに姿を見せては 雪どけのぬかるんだ土地を乾かしてくれる それでも太陽がその姿を消し 表情に乏しいお月さまがあらわれると まだまだ寒く感じられる 暖炉には、もうすこし働いてもらわないとならない 夕のごはんだって、まだまだあたたかいものがいい シチューだ わたしのおなかが、そう訴えている 食事がすんだら 湯たんぽに入れるお湯を沸かしておかないと もうすぐのような まだまだのような もどかしくも 待ち遠しくも けれど、あたりは桃色―
「私って生きるの下手だなー」 椅子に猫背に腰掛けた先輩が言った。 「どうしてですか?」 先輩はいつも笑顔だったので、どうしてそんなことを言うのかわからなかった。 「だって、みてこの顔」 「顔ですか?」 先輩は自分の顔を指さし、言ってきた。 「一重で目が小さくて、おまけに団子鼻」 先輩はそう言いながら、窓から見える桜を眺めていた。 長いまつ毛が光に照らされ、美しかった。 もう三月で、三年生の先輩は卒業してしまう。 こんな会話ももうできなくなる。少しだけ悲しい。 「世の中はルッキズム、この世は顔が全てなんだよ。こんな顔じゃ、損して生きるに決まってる」 「そうですか?先輩の顔、好きですよ」 つい、本音が漏れてしまった。でも本当に先輩の顔は綺麗だ。 「ふーん、そう?じゃあ私とキスできる?」 先輩は綺麗な目元を細めて言った。悪戯な目だ。 「はい」 先輩を困らせてやろうと思って言った。 「え」 先輩はうつむき、顔を赤くした。その顔はなんとも美しかった。 先輩のその反応を見て、自分の発言を重さを自覚した。 「ま、まじ?」 真っ赤な顔で少しはにかみながら先輩がたずねてくる。 「冗談です」 目を見て言えなかったのは、それが嘘だったからかな。 「あっそ」 先輩は少しだけ悲しそうな目をして、再び笑う。本当に綺麗な人だ。 先輩は明日卒業する。全てが今日までだ。 「てか先輩、なんでここにいるんですか?」 「なんでって、私はここの部長だよ」 「二人しかいない部活に部長って。てか三年は引退ですよ」 この部活の部員は先輩と自分の二人だけ。 ほぼ廃部で、先輩が卒業する今となっても正式に部活として認められていない。 「まあ、いいじゃん。てか私が卒業したら君、一人だよ?」 「そうですね」 「私が卒業したらどうするの?」 「帰宅部ですかね」 「まじか。君がこの部活に入部した時、私めっちゃうれしかったんだ」 「なんですか、急に」 「別に〜」 先輩がそう言うと同時にチャイムがなってしまった。 「また明日」 手を振りながら、先輩が言う。 次の日。卒業式の最中、私はずっと先輩を見つめていた。 先輩は泣きもせず、笑いもせず、いつも通りの落ち着いた表情だった。 「卒業おめでとうございます」 卒業式が終わった時、先輩に勇気を出して言った。 「ありがとう」 先輩の顔はいつもよりずっと美しかった。 先輩が卒業してしまった。まあ、卒業しちゃうものか。 思い返すと先輩の連絡先も、住んでいるところも、行く大学すら知らないな。 もう二度と会えないのかな。 いつも先輩が座っていた席に座り、桜を眺めた。 先輩は散ったらどこかへ行ってしまう桜の花びらみたい。 校庭に咲く桜を眺めながら思った。その間にも花びらは一枚、また一枚と散っていた。 部活、新一年生がくるまで続けよ。
先輩の「実演」と沈黙のあと 翌日、先輩は本当に女の子を連れてきた。 寿喜荘のギシギシ鳴る階段を、見知らぬ女子大生が上っていく。俺と田中は隣の部屋で、壁に耳を押し当てた。 最初は快活な笑い声が聞こえていた。先輩の弁舌は、俺たちに向ける凶器のような言葉とは違い、滑らかで、どこか艶っぽかった。 だが、ある瞬間から音が消えた。 重苦しい、粘りつくような静寂。 どのくらい時間が経っただろうか。玄関の引き戸がガラリと開き、彼女が帰っていく音がした。その足取りはどこか、魂を抜かれたように頼りなかった。
大病院の近くに定食屋がある。ある日の昼休み、その店に入ったら『海の幸定食』というメニューがあった。注文した。食べた。旨かった。貝みたいなのが旨かった。別の日の昼休み、その店に入ったら『山の幸定食』というメニューがあった。注文した。食べた。旨かった。山菜みたいなのが旨かった。別の日の昼休み、その店に入ったら『病院の幸定食』というメニューがあった。注文した。食べた。旨かった。肉みたいなのが旨かった。
先輩の「実演」と沈黙のあと 翌日、先輩は本当に女の子を連れてきた。 寿喜荘のギシギシ鳴る階段を、見知らぬ女子大生が上っていく。俺と田中は隣の部屋で、壁に耳を押し当てた。 最初は快活な笑い声が聞こえていた。先輩の弁舌は、俺たちに向ける凶器のような言葉とは違い、滑らかで、どこか艶っぽかった。 だが、ある瞬間から音が消えた。 重苦しい、粘りつくような静寂。 どのくらい時間が経っただろうか。玄関の引き戸がガラリと開き、彼女が帰っていく音がした。その足取りはどこか、魂を抜かれたように頼りなかった。
たこ焼き屋の親爺は、ある日たこ焼きを持って、病院を訪れた。「診てくれませんか」たこ焼き屋の親爺は医者の前にたこ焼きを差し出した。医者は黙って聴診器をたこ焼きに当てた。そして医者はゆっくり首を横に振った。たこ焼き屋の親爺は泣きながら病院を出た。そして帰宅し、たこ焼きにかつお節をかけた。わずかにたこ焼きは熱を発していて、かつお節はかすかに踊った。それがたこ焼き屋の親爺には悲しかった。
聖なるミッション:大講堂の誘惑 ある朝、クマの酷い俺に向かって、先輩が神託を下した。 「明日の大講堂、一般教養の講義で、女の子を引っ掛けてこい。これは『実践』という名の課題だ」 俺と同居人の田中は、必死に動いた。使い古されたナンパの文句を、昨夜叩き込まれた「寿喜荘理論」で補強して挑んだ。 「君の歩き方は、ハイデッガー的転回を予感させるね。茶でもどう?」 結果は惨敗。女子学生たちの冷ややかな視線は、冬のシベリアよりも鋭かった。 夜、報告に戻った俺たちを待っていたのは、先輩の烈火のごとき怒号だった。「貴様らのアプローチには『実存』が足りん! 明日、俺が見本を見せてやる」
その街の珈琲は、墨のように黒く、焼けた鉄のように苦い。大人は皆、顔をしかめ、それを飲み干す。そのことが「立派である」と信じている。 けれど少年は、初めての一口で理性がおかしくなりそうだった。 「無理です」 隣で真っ黒な液体を口に流し込んでいる老人が、重々しく口を開いた。 「ミルクを入れてみたらいい」 「ミルク?」 「入れればその黒いのが天国の飲みものに変わる」 「それは、なんですか?」 「んん… 言ってはみたものの、正直、知らんのだ。見たこともない」 けれど、古い本にはそう書いてある。苦みをやさしさに変える魔法の白だと。その老人は言い残した。 それから少年は、その魔法の白を探す旅に出た。ある賢者は「それは真珠の粉だ」と言い、ある旅人は「それは一番高い山の雪のことだろう」と言った。道中、さまざまな白いものに出会った。美しい白をいくつも試してみたけれど、どれも珈琲との相性はよくなかった。 あきらめかけていた旅の終わり、少年は国境に近い小さな牧場にたどり着いた。そこには、のんびりと草を食む、見たこともない大きな獣がいた。少年は恐々と小屋に近づいていった。そこで女主人が、少年に白い液体が満ちた木の桶を見せてきた。 「これがミルクですか?」 「ええ、そうよ」 少年は、大切に持っていた水筒の珈琲に、その白い液体をひとさじ落とした。水筒のなかの黒い闇が、一瞬でやわらかな色へと溶けていった。 恐る恐る口をつけると、驚くほどまろやかで、春の陽だまりのような味がした。 少年は街へ帰り、あの老人の前に置かれたカップに、ミルクをひとさじ落とした。老人は目を丸くし、一口含むと、生まれてはじめての味に、穏やかに微笑んだのだった。
昭和の香りが色濃く残る、木造二階建ての下宿「寿喜荘(ことぶきそう)」。その薄暗い廊下の突き当たりにある主(ぬし)、佐伯先輩の部屋に足を踏み入れたのが、すべての間違いだった。 寿喜荘の夜、あるいは「不眠の哲学」 「おい、君。真理とは何か、一分以内で述べてみろ」 それが毎夜の恒例行事だった。六畳一間の万年床。茶箪笥の上には読み古された実存主義の本と、なぜか空のコーラ瓶が乱雑に並んでいる。 先輩は「対話」を重んじる。だがその実態は、自分の歪んだ自説を俺が飲み込むまで解放してくれない、精神的な籠城戦だ。 「……それは、個人の主観における……」 「甘い! 糖度100パーセントの甘茶だ! やり直し!」 三ヶ月が過ぎる頃には、俺の脳もすっかり変質していた。食堂で味噌汁を啜りながら、「このワカメの浮遊は、社会における疎外のメタファーではないか」などと、自分でも訳のわからない理論をぶつようになっていた。無理が通れば道理が引っ込む。寿喜荘は、そんな「無理」が支配する異界だった。
隣家は汚くて小さい。そしてその汚くて小さい家に相応しい、汚くて小さい庭がある。そしてその汚くて小さい庭に相応しい、汚くて小さい犬小屋がある。その犬小屋の入り口には、油性ペンで、汚くて小さい文字が書かれている。『神様』そう書かれている。神様を飼っているのか。まさかな。その犬小屋を見るたびにモヤモヤしていた。ある夜、窓辺でタバコを吸いながら外を見ていた。小さな光が視界の端に見えた。その光は、例の犬小屋の中から発せられていた。えっ。まさかな。慌てて外に出て、そっと隣家に忍び込んだ。そして、庭に行った。光は確かに犬小屋の中からだ。恐る恐る、犬小屋の中を覗いた。まさかな。まばゆい光だったが、やがて目が慣れてきた。犬小屋の中には、電球が置かれていた。その電球が、光を発していた。その場に崩れ落ちた。ほっとした。その瞬間、背後に気配を感じた。
和菓子は好きだけれど 絵本に和菓子は ちょっと ちがうかな 絵本には いろとりどりの クッキーだったり ちいさなケーキだったり そのそばには 紅茶だったり 和菓子がたべたい たべたいなあ 和菓子とともに 本を読みたい 読みたいなあ そうねえ 乱歩なら いいかしらん 春になったら 和菓子のことばっかりねえ と言ったらリオは ―はあ? とあからさまに驚いて ―桜じゃないの だって ああそうなんだねえ わたしっていっつもこうなんだねえ 春になったら桜なんだねえ 桜の下を 手をつないで歩いちゃうんだね 男の子とさ ―桜きれいだね とか言ってくれちゃってさ 男の子がさ ―キミもきれいだね なんて言ってくれちゃって 男の子が うふふっふ でもたぶんそれはない
老人は二匹のイヌを飼っていた。片方のイヌの名は『死ニタイ』、もう片方のイヌの名は『死ニタクナイ』だった。ある日、『死ニタイ』が、『死ニタクナイ』と咬み殺してしまった。老人は棒で『死ニタイ』を叩き殺した。そして、「死にたい」としみじみ思った。
私たちの体は、人間を模して造られたらしい。 らしいというのは、すでに人間がこの世に存在していないからだ。 残された絵と動画で、我々はそうらしいという結論に辿り着いたに過ぎない。 「人間は、常に三十六度程度の発熱をしていたらしい」 「つねに? 周囲の気温が上がると、バッテリーが暴走したりしないのか?」 「人間のバッテリーは、熱に強かったのだろう」 「へええ。羨ましいね」 人間とは、私たちの祖だ。 決して忘れてはならない。 人間型人形の内部に、満遍なく加熱装置を取り付けて、表面の温度が三十六度になるように調整する。 周囲の気温によって加熱の強さを変え、常に三十六度となるように。 リニューアルした人間型人形を広場に設置すれば、噂を聞き付けた同類たちが見物にやって来た。 皆、人間型人形に触れ、その温度を楽しんでいる。 「これが人間の温度か」 「体温っていうらしい」 「タイオン? 体の温度か」 「表皮の温度と内部の温度を分けないのか。人間は、体の表面と内部を区別していなかったのかもしれないな」 最近、ウイルスに感染すると、人間の体温が上がると言う研究結果が発表された。 私たちがウイルスに感染すると、内部データが破損し、人格さえ変わりかねないというのに、発熱だけで済む人間はやはり高度だ。 「定期的に体温を変えるか?」 「いや。寒い冬に、風邪というウイルスにかかることが多かったらしい」 「ならば、気温が基準値を下回った時、数パーセントの確率で加える熱を増やすことに使用」 「冬の風物詩になりそうですね」 もしも人間が蘇れば、この光景をどう思うだろうか。 そんな知的好奇心をくすぐられながら、私たちは今日も人間型人形の拡張に勤しむのだ。
夜中にスマホのアラームで目が覚めた。そのアラームは当然俺がセットした時刻のものだ。その時刻は、この間死んだ祖母の、死亡推定時刻と同じだ。俺は、大好きだった祖母が死んだ日から毎日、祖母が死んだ時刻に目覚めている。俺は、自分が死にたいのか、生きたいのか、もうわからない。
健康診断に行った。看護師に、検尿用の紙コップを手渡された。「尿は奥のトイレで採ってください」そして、看護師は窓の外を見て続けた。「尿を採った紙コップは、宇宙の果てに置いておいてください」俺はトイレで尿を紙コップに採り、それを持って、宇宙服を着て病院のロケットに乗り込んだ。そしてロケットは発射した。俺は窓の外の宇宙を眺めながら、「死ぬまでに病院に戻れるだろうか」と思った。
ウェブ漫画の作り出した功績は、休載イラストの概念だろう。 毎週毎週、機械のように原稿を出し続ける。 そんな過労の負担を減らし、連載の休暇期間を設けることができるようになった。 ぼくは、好きな漫画の休載イラストが掲載されていることを確認し、アプリを閉じた。 「はー、仕事」 そして、鞄を手に取った。 漫画に休載イラストがあっても、ぼくの人生に休載イラストはない。 月曜日から金曜日は、ひたすら労働労働。 土曜日と日曜日の休日ですら、家事だの付き合いだので連載継続だ。 「週末、温泉でも行くかなあ」 せめて、ほのぼの日常パートを挟まなければ体が持たない。 満員電車に伸びる長い列に立ちながら、手早く近くの日帰り温泉宿を検索した。
《Ba.朝顔》 仕事が終わり会社を出る 人通りなどとっくにない夜の十一時 疲れた体と足らない脳をフル活用してやっと帰れる。こんな生活いつまで出来るのか。 帰ったら妻は起きてくれるだろう。赤ん坊の息子はスヤスヤ寝ているのだろうか。 足を動かして家に向かう。早く家族に会いたい。今日は機嫌よくしていたい。このままでいいのだろうか。 ピンポン ラインが入る 足を止めずにスマホを確認する バンドのグループラインにVo.桜さんからのライン 「お疲れ様です。この間のライブ映像をYouTubeにアップしました。URL載せときます」 この間のライブの動画の静止画像が写っている 青いライトを背にステージ上の五人の影がある。プロのようにカッコよくはないがこれが僕らの姿である。早く帰って観てみよう 《Gt.山茶花》 Gt.山茶花は熱いシャワーを浴びていた 今は河川の補強作業をしているのだがとにかく臭い。Gt.山茶花は肩まである髪をぐ しゃぐしゃとシャンプーを馴染ませシャワーで洗い流す 泡が逞しい体を伝って排水口へ吸い込まれていく 熱い湯船に体を沈めると一気にお湯が溢れる。ダムの崩壊のように流れ出るお湯を優越感を持ってGt.山茶花は眺めていた (この間のライブで八弦ギターがいたけど、ありゃがっかりだったな) はなのなまえで一番バンド経験が長く、練習家のGt.山茶花は気持ちも人一倍熱い (そろそろVo.桜の所にライブハウスからDVDが届くころだな。後で催促してみるか) 風呂場の扉の向こうで妻の声がする 「ただいま!晩御飯餃子でいいかな?」 「おう!餃子最高!」 「何この匂い!?作業着めっちゃ汚れてるじゃん!これ汚れ落としてから洗濯機に入れてよね!」 「う、うん。分かったよ」 ピンポン。Gt.山茶花のスマホにラインが入る 「ライン誰から?」 「えっとね…お母さんだ」 「母ちゃんから?ちょっと何て書いてあるか見てくれ」 「ちょっと待ってね…家の整理をしたいので、あんたの部屋に置いてあるギターを全部捨てて良いかだって」 「駄目に決まってんだろー!」 妻が扉の向こうで笑っている 《Drs.金木犀》 Drs.金木犀は浜松のアパートで妻の作ってくれた晩飯をレンジで解凍している 出張先の会社が用意してくれた家具付のアパートは隣の部屋に外国人が住んでいるらしく、たまにお祈りの時間が始まる。呪文のようなお祈りが何故だか心地よく聞こえる。 チーン。晩飯が解凍された。 Drs.金木犀は本社勤務のエリアマネージャーで、請負事業所を全国に設けてあり、その監査が彼の仕事だ。月の半分は家にいない。 温かいお弁当をテーブルにのせテレビをつける。YouTubeを起動させてこの間の自分たちのライブを観る。 妻のお弁当は妻らしくバランスがとれている。箸で春巻きを取り口に運ぶ。SEが止まる。直ぐに演奏が始まる。春巻きを咀嚼する。歌い出しのフィルの粒立ちが良い。 「うまい!」 一発目の曲はボーカルの妻の作った曲だ。疾走感があるのでオープニングに良いと皆で決まった。あの時、皆は気が付かなかっただろうけど、普段はあまり笑わない妻が笑っていた 【桜の嘘】 白い雲が風に乗って流れていく 君への思いはあの雲に乗っている どうしょうもないことを 追いかけて追いかけて 自分だけが分かっているつもりだったから 桜の花びらひらりひらり まだ来ないバスを待ってる 桜の花びらひらりひらり 君の嘘は僕が気付くのを待ってる 匂いで君の機嫌が分かってくる 二人の思い出はこの街のどこにでもある もう知っていることを 追いかけて追いかけて ページの終わりを何度も 読み返して読み返して どうしょうもないことを 追いかけて追いかけて 自分だけが分かっているつもりだったから 桜の花びらひらりひらり まだ来ないバスを待ってる 桜の花びらひらりひらり 君の嘘は僕が気付くのを待ってる 君の嘘は僕が気付くのを待っているんだ
エンドロールが終わって、劇場の外へと歩みを進める。先ほどまで見ていた映画がどうだったとか、この後に彼女と話す内容を考えておく。 そうだな……まあ面白い映画だった。僕は評論家でもなんでもないし、あまり大したことも言えない。それでもただ一つ言えるのは、物語の中に入り込んでしまったことだ。そんな没入感さえあれば、あの映画は面白かったと言えるだろう。 丁度良いテンポも勿論、終盤の急展開は何度でも思い出せる。目まぐるしく変わる場面の一つ一つが、僕を飽きさせなかった。 「面白かったね」 彼女が口を開けて放った第一声。映画を見た人の多くは真っ先にその言葉を口にするだろうが。 「うん、そうだね。終盤とか、予想外の展開過ぎて」 「わかる。次から次に情報が押し寄せてくるっていうか、とにかく飽きが来なかったみたいな感じ?」 よかった。彼女も同じ感想だ。このまま、幾分かは話を続けられそうだ。 そうして僕らは、近くのレストランで食事をしながら映画について語り合った。 _ 「じゃあ、僕はこっちだから」 「うん」 未だ冷たい空気が肌を撫でる。熱を纏っていた頬も、風に当てられて気付けば冷たくなっている。やっぱり、いつになっても別れは惜しい。 少し離れた背を見つめながら、僕は何かを思い出す。 それは、何も変わらない友人関係のはず。 同じ一室で同じ映画を見る。それはもう何回も、繰り返しているはずだった。ただの部活仲間のはず。それなのに、何か変な気持ちがつっかえて僕の声を離さない。 去って行く君の背に、僕は 「あ、あの」 ……引き留めてしまった。このあとにどうすればいいのかは、どうしたいのかは、僕が一番わかっている。それなのに、上手く言葉が出ない。 目の前の彼女に、伝えるんだ。 その気持ちのまま、僕は口を開こうとした。 ヒュッ、と何かが風を切る音が聞こえる。 「な、何だ!?」 音のした方を見ると、何かが飛んできて金属製の手すりに当たった。よく見てみればそれは、手裏剣のような形をしている。 シュバババババババッ そんな擬音で表せそうな感じの素早い動きで、人影が僕の前に現れる。その人は、真っ黒い布で全身を覆っていた。 「誰だお前は!?」 待っていたかのように大きく息を吸って、その人は話し出した。 「拙者は忍者!忍び忍んで、闇に隠れる者!」 そして再び素早く動き、気付いたころには息を切らしながら僕の背後に立っていた。 「はあ……はあ……はあ、どうだ、はあ……俺、じゃないや、拙者の動きは!」 「お、おお、す、凄いです……ね?」 「は、はははは……そうだろう」 「全然忍んでなくないですか……?」 彼女がすかさず口を開いた。 「……」 そのまま何も言わずに、忍者は去って行ってしまった。 一体、何だったのだろうか。
全然人が来ない。暇で暇で、菊田瞳、と書かれた名札を手持ち無沙汰でいじりながら今日もコンビニバイトを過ごしている。 「ねね、急なんですけど、自分で自分のこと、どう思います?」 隣にいるバイトで一緒になった大学生の女の子から不意に投げかけられた質問。人も全然いないし、やることなくなっちゃって暇だから適当な雑談する地方のコンビニの一風景だ。 正直この子はあまり得意じゃない。可愛いし目つきが怖いし、嫌いな人に顔、似てるから。 菊田はマスクの位置を直しながら答える。 「えー、普通…ですね。」 「あ、へぇ~、いやー就活でですね?……」 別に仲良くもないし、気を遣ってくれたんだろうけど。 パーソナルスペースを維持しつつ、興味のない話を適当に受け流し、今ハマってるゲームのことを考えながらその場をやり過ごした。 菊田は楽しみを後にとっておく派だ。宿題は早く終わるタイプだし、好きなおかずは最後まで残すのが常だ。 服はパーカーとジーンズをよく着るくらいでそれ以外のこだわりはない。 菊田は特にゲームが好きだ。動物を愛でながら牧場を経営するようなものは特に。 私は思う、まあ、普通だなあって。 そんな自分が特段嫌ってわけでもないけど、好きではない。 菊田はバイトをしてるけど、出勤時間が遅くて、17時から23時まで働く。 更には通勤時間も30分以上かかるから家に帰ってご飯買ってお風呂入ってエトセトラ、エトセトラしてたらもう24時は余裕で越してしまう。 けど、それが終わればあとは好きなだけゲームが出来る。 どうせ午後のシフトしか入らないからとことんゲームする。 そして日が昇ってきたら、それが就寝時間の合図なのだ。 朝に寝れば、バイトに行くまで寝て、起きてバイトが終わればあとはお楽しみのゲームが出来る、菊田はそんなルーティンを過ごしている。 しかし朝の光は目覚めを促すので菊田は朝の光を天敵だと思っている。 そこで菊田が普段する寝方が、パーカーを着て、フードを深く被ることだ。 フードを眼まで被せることで光を体感90%くらい遮ってくれる。 そこにマスクもつければ喉の乾燥も軽減できて、菊田の完璧な就寝フォームである不審者コーデが完成する。 ゲームを散々やった菊田はチラリと窓を見ると黒色だった空が薄白く変わっているのを確認した。 そろそろ寝なきゃなあ。 ゲーム機をスリープ状態にして、乱雑になった掛け布団を軽く直しながらベッドに横になる。 そしていつものようにマスクを直しつつ、パーカーを深く被った。 こんな姿で眠ってたら誰かわかんないよね。 すこし口角を上げながらふと、そんなことを思った。 不審者コーデなのだからそれはそうだ。 きっと不審者は顔がわからないようにパーカーやマスクをつけるのだから。 そう、わからない。 今、フードを深く被って、マスクで口元を覆う私を見ても、きっと誰も私だってわからない。 そんな何者でもなくなって、彼女は眠る努力をする。 度々頭に出てくるバイト風景やゲームの妄想を、毎回黒板を消すように真っ白にしながら。 いつからか、彼女は暗い空の下で誰もいない町並みを歩く。 自分一人の世界になったみたいで、なんだか心地良いと彼女は思った。 そんな中、向こうの方から歩いてくる人影が見える。 フードを被ってるから遠くだと見えない。 近づいてくるにつれその姿は段々明らかになる。 それは知った顔だった。中学の時の見たくない顔。 何も変わらない虫を見るような目。 足を止め、顔を壁側に逸らした。 息がつまる。苦しい。口呼吸が激しくなる。 そして彼女とそれはすれ違う、思わず彼女は目を瞑り顔をしかめた。 しかし、それは何事もなく通りすぎていた。 あまりにも何事もなく終わったので、拍子抜けした。 まだ息は詰まってるけど、でも彼女はホッとした。 瞬間暗かった空は急に白く明るくなっていく。 眩しくて目を細め、そのまま閉じる。 そして目を覚ました。 フードはずれにずれていて、マスクも外れてしまっている。 モーニングアタックで鼻が辛いところだ。 「嫌な夢見たなぁ…。」 深くため息を吐きながら、起き上がって鼻をかみ、今日もまた菊田は、嫌いでもないけど、好きではない、菊田瞳の一日を始める。
エスカレーターに乗りながら思った。 人生は、まるでエスカレーターみたいじゃないかと。 ボーっと立っていようが、本を読みながら立っていようが、辿り着く場所は皆同じ。 等しく上に向かって、等しく終わりに辿り着く。 人生を楽しくするとは、エスカレーターで突っ立っている時間を如何に有意義に過ごすかに等しい。 私は本を読むためにスマートフォンを取り出して、バッテリーが少なかったのでモバイルバッテリーを取り出す。 「あ」 モバイルバッテリーを取り出したら、ひっかかって出てきたハンカチが、ひらりと宙を舞った。 舞った先は、運悪く手すりの外。 私が顔を覗かせて下を見る中、ハンカチはひらひらと舞って、下の階へと落ちていく。 もう私では、どうにもならない。 下を歩く人々は、音もなく落ちていくハンカチに気付かない。 いや、落ちていく場所も悪かった。 昔店舗があった場所で、今は空っぽ。 そこを歩く人など誰も居ない。 どれだけ手を伸ばしても届かない。 まるで、夢を叶えられなかった日みたいだ。 ただただ失敗したということだけがわかって、周りを見ても誰も手を差し伸べてくれなかった。 いや、私が失敗したのだということにさえ、気づいてはいなかった。 だって、そのあと私は、就職できてしまったから。 上の階に到着した私は、すぐに下りのエスカレーターに乗り帰り、Uターンする。 私の後ろに乗っていた人が怪訝な目で私を見るが、すぐに興味なさそうにスマートフォンへ視線を落としていた。 下の階に到着し、空っぽの一角へお邪魔する。 寂しそうにハンカチが待っていたので、私は丁寧に拾い上げる。 少々埃がついているが、はたけば問題なし。 なんだか夢と再会した気分だった。 上にでも下にでも移動ができるエスカレーター。 でも、人生の時間は上にしか進まない。 落とせば終わり。 下の階の人が拾えば夢は続くが、それはもはや私の人生ではない。 私の後続の誰か、私の夢を拾った人のものだ。 「次は落とさないようにしよ」 スマートフォンのバッテリーのパーセントが増えていた。 私はハンカチを鞄にしまって、再びエスカレーターを上り始めた。
普通じゃないというのは、特別な事ではない その人の日課・癖なだけで、他人と何か秀でている訳でも劣っている訳でも無い 生きにくさが『不利』に繋がるのでは無い 『不利』なのは、他人とは良かれ悪かれ『違う』と感じる心だ (完)
亀はその日、初めて電車に乗り込んだ。巨大な人間の足の間を潜り抜け、座席の下に身を潜めた。命懸けだ。ホッとしたその時、車内アナウンスが流れた。「リュックサックを背負われているかたは、前でお持ちいただき、他のお客様のご迷惑とならないよう……」亀は、ふと自らの甲羅に手を伸ばした。
パチンコ屋に行った。パチンコ台を探しながら店内を歩いていたら、床にパチンコ玉が転がっているのを見た。その転がっているパチンコ玉の中に、肌色の球体があった。拾い上げると、それは小さな人間の頭部だった。髪がつるつるに剃られている。それは小さな僧侶の頭部だった。当然頭部だけだったから、死んでいた。でも、その顔はとても穏やかな表情をしていた。きっと悟っているのだろうと思った。悟った小さな僧侶の首がパチンコ玉の中に混じっている。何か意味があるのだろう。俺にはそれが理解できなかったが、とりあえずその小さな僧侶の首を拾い上げて、ポケットに突っ込んだ。そしてパチンコを打った。勝てなかった。落ち込んだ。そうしたら、ポケットの中で、僧侶の首が微笑んだのがわかった。
「続きましては、ラジオネームうさぎぴょこぴょこさんからのお便りです」 「私はいま困難にぶつかっています。唯一の肉親である母が亡くなりそうな中で、何もできない自分の無力さと、これからの不安で、全てのことが嫌になっています。私はいま19歳ですが、これから1人でどうしたらよいのでしょうか」 メールを読んだラジオDJは、目の前のマイクにいつもよりも低めのトーンで語る。 「なかなかハードな相談ですね。そうですね〜。う〜ん。じゃあ、この後ののコーナーは少し省いて、お聞きの皆さんからの意見を集めましょうかね。何かいい案があるかもしれないよね。体験談とか交えてメール下さいね」 定番のコーナーを早めに切り上げた時点で、4通のメールが送られてきた。3通は説教じみた内容で、無責任なエールをぶつけるようなものだったが、1通だけは違っていた。 「はーい、ということで先程紹介したうさぎぴょこぴょこさんの質問に何件かメールきました〜。ありがとうございます。時間もあれなので1つだけご紹介しまーす。ラジオネームきらりさんからのお便りです」 「うさぎぴょこぴょこさん、こんばんは。お若くして大変な状況におられるということで、心配になり、少しの励ましにでもなればと思ってメールしました。私は24歳で駆け落ち結婚したことで、両家の家族からは縁を切られてしまいました。それでも娘が生まれて、家族3人でそれほどの不自由なく、楽しく暮らしていましたが、突然夫が急死しました。それは全く前触れもない出来事で、しばらく実感できないほどでした。幼い娘と2人きりの葬式が終わった瞬間、3人の生活が終わったことに気づいて、真っ暗な未来に足がすくみました。頼れる人もおらず、十分な貯蓄があるわけでもなかったので、本当に怖かったことを今でも思い出します。私なんかよりもはるかに孤独感に襲われているとお察します。前向きになれとは言うつもりはありません。ましてや頑張れなんてのは一番つらい言葉なのも分かります。似たような経験をした私が、娘と乗り切った方法をお伝えしますね。とりあえずご飯を食べてみてください。何でもいいですので、温かいものを食べてみてください。甘い物でもいいですよ。もし食べられたら、温かい格好をしてゆっくり寝てください。温かいご飯を食べてゆっくり寝るということを数日続けてください。不安感が強くなることもあるかもしれませんが、その気持ちを否定せずに、続けてみてください。食べて寝るという、基本のことができたなら、ようやく次の段階を考えることができますよ。次のことを考えられたら、不安感は少しずつ小さくなっていきます。そうするとこっちのもんです。あとは動き出すだけです。どうか、うさぎぴょこぴょこさんがよりよい人生を送られることを願っています。それでは失礼します」 ラジオDJが、長文のメールを読んだ同じ時刻、ある団地の一室で、ラジオを聞いていた若い女性が嗚咽とともに、夜空に感謝の言葉を投げかけた。少し落ち着いたその女性は、炊飯器のスイッチを入れて、冷蔵庫の中身を取り出した。 そう、まずは一歩。
その男は、毎日「死にたい」と考えていた。男は毎年、自分の誕生日と、最愛だった亡母の誕生日に、自身の身体に、タトゥーを増やしていた。それは、ハエのタトゥーだった。大きさも見た目も、リアルなハエにそっくりなタトゥーだった。男はそれを増やしていった。男は「死にたい」と考えていたから、自分が死体になることをいつも想像していた。だからハエのタトゥーを増やしていった。わかるようなわからないような話だ。結局、その男は、十数年後に、全裸で首を吊って死んだ。その死体には、ハエのタトゥーがびっしり彫られていた。だから、本物のハエたちは、その死体の前で、しばらく呆然としていたという。
漁師は網を挙げた。魚が入っていた。肉付きのよい魚だった。その魚は口に何かをくわえていた。それは一本の包丁だった。魚の目は訴えていた。「刺身にして」漁師はつぶやいた。「俺はお前を煮付けにしたいんだ」そして、漁師はその魚を海に帰した。魚は時々漁師を振り返りながら、包丁をきらめかせて海底へ消えていった。漁師はその日、仕事帰り、魚屋で魚を買い、家に帰ってそれを刺身にして食った。
小さな二つの影は、手を取り合い、互いの体を引いては寄せて、押入れの奥に置き去りとなったガムテープの輪っかの中で、一心不乱に踊り続けた。暗闇が彼らを照らし、静寂は鼓動を浮き彫りにした。黒い汗が迸り、音の無いステップを踏んだ。やがて光が差し込むその瞬間まで、影は踊りを辞めなかった。