私が結婚してから初めて、母が、私たちの家に遊びに来た。その時に母に色々な話をした。それを母は静かに聞いてくれていた。数日後、母が実家に帰った後、夫が仕事に出かけ、片付けをしていると、テーブルに何かが置かれているのに気づいた。それは一枚のメモと注射器だった。メモには母の字で『がんばって』と書かれていた。注射器には懐かしい色の液体が入っていた。私は腕まくりをして、その液体を注射した。やがて楽しい気分になってきた。世界が輝き始めた。「がんばろう」と思った。
早朝の吉野家で牛丼を待っている ウォーリーとユウ 昨晩は朝まで呑んでいて、今はその帰りである 先週、お笑いコンテストがあり、初めて二回戦にのし上がった二人は、客を入れての審査会場に圧倒され、大きく振りかぶって、スベった。審査結果を聞くまでもなく、クスリともしない五分間を会場の皆と耐えた事実が「もうええわ!」と言っていた。 ただ、舞台をハケた後、一緒に出場していた芸人達が 「面白かったよ」 「あんなにスベってる芸人初めて見たぜ」 「客の好みが違っただけだから。たまたま全員」 「声は出てたで」 とウォーリーとユウの事を気に入ったらしく、そのまま居酒屋へ行く運びとなった。どうやら彼等は万年予選落ち仲間らしく、「おや、あそこに仲間がいるぞ」とウォーリーとユウを誘ったようだった。 そして、今は朝の八時、家の近くの吉野家で牛丼を待っている。カウンターに二人で並んで。 「あいつら…」 「えっ?」 「あの芸人たち、面白えな」 「うん、楽しかった」 「売れない芸人も色んなやつがいるんだな」 「うん。そうだね」 青い湯呑みに入ったお茶をすする 温かいお茶が体に染み渡っていく 「僕のネタは面白くないのかな」 「いや、ユウのネタは面白いと思うけどな。ただ、なんていうか…」 「経験かな」 「それだ。それだと思うよ。俺たちには経験が足らない」 朝の吉野家は半分くらい席が埋まっている。ほとんどがこれから一日の仕事が始まる人たちだ。スーツや作業着を着た人、女性も少しいる。 ウォーリーとユウは社会から弾き出されている気がして、不安で気が狂いそうになるが、二人はお互いの事を思って不安を口には出さないでいた。 二人は客席から目を逸らすためスタッフの様子を眺める 店内にスタッフは女性二人だけ。フロアと厨房に各一人。 流れるような動きで次々に作業をこなしていき、客席の皆は上手い飯を食べ、満足して帰っていく。 その様子はプロの漫才師が舞台の上でボケる度に確実に客席を沸かしていく姿と重なって見えた。 ウォーリーは店員に目を向けたまま言う 「いつか俺たちも、あの二人みたいにさ…」 ウォーリーは不安そうな顔でユウの方に振り向く。 「牛丼作れるかな?」 「知らねえよ!」
たまに、(自分はちゃんと生きられているのか)と不安になる。勿論、ちゃんとなんか生きられてはいないのだが、そうではなく、そういう事ではなく、人として、大人として、親として、夫として、最低限の行動が出来ているのかと不安になる。 法に触れることはしていない。いや、たまに信号無視や、横断歩道を渡らない、女性が泣いていても声をかけない、なんて事はたまにある。が、無闇矢鱈に自分の不機嫌を外に出さないとか、挨拶をするとか、愛想笑いをするとか。日々、少しでも、善良に生きる事を実行しているのかと自分に問いかけてしまう。そんな日がある。 街を歩いていると、肩で風を切って歩く若者を見たりするが、彼が一生あのままでいられないことを私は知っている。彼が結婚し子供を持つ頃にはもう少し普通になっている。また、自分を変えられないのなら、家族から弾き出されるだけである。もう少し言えば、町内からも弾き出される。妻や子供を持てば自分という存在は家族というチームの中の一人になる。周りはそんな目で彼を見て、自分達の過去と比較し、正常か異常かを判断するのだ。 誰でも若いうちは世間に対して自分のズレは気が付かない。社会に放り出され莫大な情報に圧倒されるからだ。転生と言っても良いほどに。だがラジオのチューナーが徐々に合わさり声が明瞭になるように、歳を重ねれば重ねるほど世界が見えてくる。自分の足元から延びている光の道が見えてくる。 近所の道路脇にさりげなく梅が咲いている。ほのかに良い香りが記憶に残る。通りをスクーターが孵化しながら通っていく。ハンドルを細かく捻り、ガゾリンを非効率に爆発させ、大きな音を自分の威厳と同化して楽しんでいる。何十年も前から変わらぬ作業だ。そして梅もおそらく何千年も前から変わらぬ作業で花を咲かせるのであろう。 私も梅のようにさりげなく咲き、ほのかに良い記憶を残していきたい。
人間の細胞は、絶えず変わり続けているらしい。 そして、七年でほとんどすべての細胞が入れ替わる。 ほとんどすべての細胞が入れ替わるなら別人じゃないかと思うけど、私の意識は連続しているので、そう単純な話でもないらしい。 実際、周りの人も私が誰かわからなくなったりはしない。 「SNSの名前とアイコン変更っと」 なら、きっとSNSでも同じこと。 ドットをほとんど全部入れ替えたけど、皆私を見つけてくれるはずだ。 垂れ流した投稿は変わらない。 私という中の人は変わらない。 『誰かと思ったw』 さっそく、私が私として認識された。
彼は私の永い生の中に現れた唯一のひとでした。 暗い夜道に突如空に昇った星でありました。あてどなく歩く道を、もしやもう違えてしまったのではと不安に震える道中に、そこを目指せば良いのだと私を駆け出させる希望の火でありました。 実際には彼は隣にいて、いつでも私の手を引いてくれたので、旅人の星に喩えるよりは、掲げるランタンの方がいいのでしょうか。 ああ、遠すぎて温度の分からない星よりは、ランタンの方がうってつけかもしれない。彼の隣は温かかったのです。どんなに寒い冬の雪の日も、普段と変わらずに。 私は彼から多くを学びました。気遣いやら、笑わせ方やら、愛し方を。彼と同じにはできはしませんでしたが、彼のその様はたいへん、うつくしかったのです。全部、彼の言う愛によるものでありましたから、それを持たぬ私は、彼から見るこの世界はどれほど輝いているのだろうといつも不思議に思っておりました。 我々はどうやら同じものを見ることはできないのだ、と知ったのは、彼はとうに気付いていたのかもしれませんが、少なくとも私が知ってしまったのは、もう戻ることが叶わぬほど歩いた後でした。 歩き始めた地点はおろか、一度一人分が途切れた足跡の痕跡も見ることが叶わぬほど遠くまで来てからでした。 彼は変わらず私の手元にありました。この先どうしよう、と彼は決して言いませんでした。振り返る素振りすら私の見ている前ではしませんでした。 不安とともに私の手を握る掌に、ここに来てようやく、彼も私と同じくして、道を知らなかったのだと気付いたのです。 二人して道を失いましたが、私は別段悪い気はしませんでした。思えばここまで既に散々迷い、何故この彷徨い歩いた果てに、私の望む場所に、彼が連れて行ってくれるのだと疑うことなく信じていたのだろうと今更おかしくなったのです。 悪い気はしませんでしたが、悪いことをした気にはなりました。何故同じになれないのだろうと、苦しむ彼をずっと、隣で見てきたからです。彼は星でなくランタンでした。 連れ歩いたのは私です。
男は顔を赤くしながら浮わつく気分で車を走らせていた。 普段人気の少ないこの道は、真夜中だからか、他に人も車もなかった。 男は前方の信号を確認する。 信号の正面は学校があり、曲がり角になっている。 信号は青から黄色へと変わり、ブレーキを踏むなんて考えずとも、反射的に足はブレーキを踏む。 しかし、男は力が入らなかった。 ブレーキから足が滑る。 止まらないことに男は焦った。 男が上目で確認すると、信号は黄色から赤に切り替わった。 こんな状況にも関わらず、男は何故か、その赤い光を食い入るように見つめた。 男の意識がハッキリした時、自分の体が固定化されてることを第一に認識した。 体、腕、足、それぞれが縛られている感覚。 手首やらを小さく動かせはするけど、起き上がったりは出来ない。 更に目に映るのは木の板。 それは、首をその板にはめられているという事実を認識させた。 混乱したまま周りを見回す。 その光景は、フランスとかの、勝手なイメージのある王朝、その王座の間だった。 それだけでも異常なのは明白だが、更に異常なのは、そこに座る、厳かな、女王が着るようなドレスを着た、顔が信号機のそれだった。 人間の体に信号機の頭がくっついている。 その信号は青く光って、椅子に座り、正に女王が座るように両手を膝に置いている。 周りには執事服を着た、様々な形の街灯の頭を持つ人達が並んでいた。 更に男は酷く混乱する。 「貴方は何故、危険を省みないの」 聞き取れるくらいの耳障りの悪い、濁った機会音声のような声。 男は口をパクパクさせるだけで何も喋れない。 「混乱してるの?発言の自由は許しているわ」 その信号機は男の顔の近くまで歩いて、男を見下ろしたまま、沈黙を続けた。 その後、信号の色が黄色に変わる。 「顔が赤いから飲酒ね。臭いはわからないけど飲酒」 決めつけると男の反応を待たず、先程まで座っていた席に戻る。 「今まで見てきたからわかるもの。間違いはない」 信号機は手で合図をすると、一人の街灯が動き出す。 男の隣まで行き、備え付けられた紐を手に取った。 「私が傷つくわけでもないし、正直どうでもいいのだけど」 淡々と話す信号機。 この状況の異常、そして危険の察知が男の頭の中でぐちゃぐちゃに混ざる。 男の汗が床に滴り落ち、赤かった顔は青ざめていく。 信号機は話す。 「何か言いたいことはある?」 男は目が泳いだまま、叫んだ。 「お、俺は!」 「やだ、部屋が臭くなりそう」 信号機が合図した。 瞬間、男の意識は飛んだ。 男の頭が前方に飛びながら、最後に目に映したのは、そこに座る信号機が赤色に切り替わっていたことだった。 「…で正面の学校にドーンした男は、酒気帯び運転のはずが意識喪失の運転の形跡有りで、その顔は青一色だったと」 頭を軽く掻きながら、彼女は電話越しの上司に話す。 「へー、中々に現実離れした話っスね」 警視庁、異常現象秘匿課、春木夏奈。 スーツを着て、身嗜みを整えているのに対し、やる気のなさげな三白眼で、彼女は軽く上を見上げた。 「これがその信号機だと?」 信号機は変わらず、青から黄色、黄色から赤色へと一定の間隔で点滅していく。 「そうだ」 「でも主任ー。その証明の仕方も糞もないっスよー?」 ポケットに左手を突っ込みながら答える。 「ほんとお前態度舐めてんな」 「へーい、恐縮でーす」 「褒めてない」 電話越しに呆れ声が聞こえた。 「いいか?不可解な事故、その中身を分解し理解、特定し、それが人の身に余るものなら一般から秘匿するのが我々の仕事だ。市民を混乱させない為の重要な仕事なんだ、理解してるのか?」 「でもそういって行かされた現場、大概何らかの要因が重なった事故じゃないっスか、大体何もないっスもん」 背を電信柱にもたれかかりながら、信号機の様子を見つつ、ぼやいた。 沈黙が続く。 「…何もない方がいい、でもな」 「だから何もないっスて、そんな心配ならこの信号機ぶち壊せばいいんスよ」 地面から引っこ抜く手振りをしながら春木はそう言った。 信号機は青色で、行き交う車を通している。 「そんな簡単な話でもないんだ」 「まー主任。そこをなんと…か…」 春木の言葉が濁る。 その様子に主任と呼ばれる男は電話越しに疑問を持つ。 「ん?どうした」 「あー、いや。案外今回はアタリかもしんないっス」 真剣な声色で春木は話した。 その目には先程まで青色だった信号が黄色を飛ばして赤に変わったまま、切り替わらず、車をせき止めていた。 一番前の一台が止まったまま動かず、後ろの車が次々クラクションを鳴らす。その音の中で生唾を飲む音がした。
エンドロールが終わって、劇場の外へと歩みを進める。先ほどまで見ていた映画がどうだったとか、この後に彼女と話す内容を考えておく。 そうだな……まあ面白い映画だった。僕は評論家でもなんでもないし、あまり大したことも言えない。それでもただ一つ言えるのは、物語の中に入り込んでしまったことだ。そんな没入感さえあれば、あの映画は面白かったと言えるだろう。 丁度良いテンポも勿論、終盤の急展開は何度でも思い出せる。目まぐるしく変わる場面の一つ一つが、僕を飽きさせなかった。 「面白かったね」 彼女が口を開けて放った第一声。映画を見た人の多くは真っ先にその言葉を口にするだろうが。 「うん、そうだね。終盤とか、予想外の展開過ぎて」 「わかる。次から次に情報が押し寄せてくるっていうか、とにかく飽きが来なかったみたいな感じ?」 よかった。彼女も同じ感想だ。このまま、幾分かは話を続けられそうだ。 そうして僕らは、近くのレストランで食事をしながら映画について語り合った。 _ 「じゃあ、僕はこっちだから」 「うん」 未だ冷たい空気が肌を撫でる。熱を纏っていた頬も、風に当てられて気付けば冷たくなっている。やっぱり、いつになっても別れは惜しい。 少し離れた背を見つめながら、僕は何かを思い出す。 それは、何も変わらない友人関係のはず。 同じ一室で同じ映画を見る。それはもう何回も、繰り返しているはずだった。ただの部活仲間のはず。それなのに、何か変な気持ちがつっかえて僕の声を離さない。 去って行く君の背に、僕は 「あ、あの」 ……引き留めてしまった。このあとにどうすればいいのかは、どうしたいのかは、僕が一番わかっている。それなのに、上手く言葉が出ない。 目の前の彼女に、伝えるんだ。 その気持ちのまま、僕は口を開こうとした。 ヒュッ、と何かが風を切る音が聞こえる。 「な、何だ!?」 音のした方を見ると、何かが飛んできて金属製の手すりに当たった。よく見てみればそれは、手裏剣のような形をしている。 シュバババババババッ そんな擬音で表せそうな感じの素早い動きで、人影が僕の前に現れる。その人は、真っ黒い布で全身を覆っていた。 「誰だお前は!?」 待っていたかのように大きく息を吸って、その人は話し出した。 「拙者は忍者!忍び忍んで、闇に隠れる者!」 そして再び素早く動き、気付いたころには息を切らしながら僕の背後に立っていた。 「はあ……はあ……はあ、どうだ、はあ……俺、じゃないや、拙者の動きは!」 「お、おお、す、凄いです……ね?」 「は、はははは……そうだろう」 「全然忍んでなくないですか……?」 彼女がすかさず口を開いた。 「……」 そのまま何も言わずに、忍者は去って行ってしまった。 一体、何だったのだろうか。
眩しくて、自然と瞼が開く。 カーテンの隙間から朝日が漏れ出て、ちょうど私の顔にかかっていた。 まだ寝ていたかったのに、と、唸りながら羽毛布団を頭に被り、身体を縮こませる。暗闇のなかでしばらく息を潜めていたが、苦しくなって結局、布団から顔を出した。 起きたくない。眠い。やだ。ぎゅっと目を瞑り、ゆるく呼吸を繰り返す。しかし睡魔は私を見放したのか、いっこうに手を引いてくれる気配は訪れない。 仕方なしに一息で起き上がる。もうそれだけで疲れた。私はあくびをかみ殺しながら、キッチンへ向かう。 寝起きで食欲がない。とりあえずマグカップに水を汲み、レンジにかける。でも後々腹が減るだろうことは(数十年来の付き合いである身体のため)分かっているので、割引だった千切りキャベツをボウルにうつし、トースターにパンを放り込んで焼く。 スマホでsnsを眺めながら、温めた白湯とキャベツを交互に口に入れる。美味しいかどうかなど、どうでもいい。ただ学生の頃よりかは健康に気をつけなきゃいけないという意識があるので、野菜から摂るようにしているだけだ。去年の今頃に受けた会社負担の健康診断ではオールAだったが、今年はどうだろう。 適当にテレビをつけ、登録しているsnsなんかにざっと目を通していると、推しているバンドのライブが秋に開催される旨の投稿が目に入る。次いで、フォローしているフォトグラファーの夜空を写した美しい写真や、好みの美術家が描き途中の画を載せたものが、スクロールするたび目に入る。 会える日を楽しみにしているとバンドのメンバーが個人のアカウントで投稿していて、そこには私と同じファンが“私たちも楽しみ”というリプライを送っている。美術家には、完成が楽しみだという期待の声が多く寄せられていた。 とりあえず、ライブのチケット争奪戦は気合を入れなければならない。そのためならうざったい上司や御局の機嫌を取り、有給を抑えられるように尽力し、残業も厭わず金を稼いで、どんなことでも屈せず折れずに成し遂げる気合がある。 今年の生きがいはこれだな。と思いながらたふたふ指を動かす。ファンの歓喜の声、遠い地に住んでる者の嘆きの声、全国ツアーでないと、イベントごとは賛のみよりもむしろ、常に悲喜交々といった風になる。 私はそれを見るともなしに見ていたが、ふと、言語の異なる投稿が目に入った。 動画が添付されている。薄青い空に、飛行機雲のような線が斜めに走っていた。 なんとなくそれを翻訳して、目を通し、そして、あ、と緩んでいた口元が強張った。 そうして、ため息に似た音のない吐息が、木目調のテーブルの上を滑る。 リアルタイムで、国を超えてあらゆる人と繋がれる――その恩恵を有難いものだと思っていた。 確かにそうだ。そう思う。情報源が新聞やテレビのみに限られていたひと昔前と比べたら、私たちはメディアに翻弄されることなく、己の意思で全てを取捨選択できる。だとしても当たり前に民意は存在するが、その大波のうねりに飲み込まれるかは、検閲も情報統制もすり抜ける生々しい悲鳴を聞く全ての人々に委ねられる。 「――次のニュースです」 テレビでは、今し方見たような映像が画面に映し出されている。あれだってきっと、ネットのどこかから引っ張ってきたものなんだろう。 手元で更新される投稿も、アナウンサーの読み上げる原稿も、そう内容は変わらない。戦争、物価高騰、内政事情、諸々。 私はそれをぼうっと聞いていた。レースカーテンから差し込む陽光がフローリングを白々しく照らすのを「今日は洗濯一気に片付けちゃおうかな」と眺めながら。 チン、とトースターが鳴る。 こんがりと焼けた5枚切りのパンは、休日用の特別な山型食パンだ。 私はとっておきのバターをこんがりときつね色に焼けた表面に塗る。席に着くまでに待ちきれず、端に齧り付いた。 香ばしい小麦の香り。バターの芳醇であまい味わい。 自然、目尻が緩む。 「おいしい」 別の所でテーマ「平穏な日常」として投稿したもの
エスカレーターに乗りながら思った。 人生は、まるでエスカレーターみたいじゃないかと。 ボーっと立っていようが、本を読みながら立っていようが、辿り着く場所は皆同じ。 等しく上に向かって、等しく終わりに辿り着く。 人生を楽しくするとは、エスカレーターで突っ立っている時間を如何に有意義に過ごすかに等しい。 私は本を読むためにスマートフォンを取り出して、バッテリーが少なかったのでモバイルバッテリーを取り出す。 「あ」 モバイルバッテリーを取り出したら、ひっかかって出てきたハンカチが、ひらりと宙を舞った。 舞った先は、運悪く手すりの外。 私が顔を覗かせて下を見る中、ハンカチはひらひらと舞って、下の階へと落ちていく。 もう私では、どうにもならない。 下を歩く人々は、音もなく落ちていくハンカチに気付かない。 いや、落ちていく場所も悪かった。 昔店舗があった場所で、今は空っぽ。 そこを歩く人など誰も居ない。 どれだけ手を伸ばしても届かない。 まるで、夢を叶えられなかった日みたいだ。 ただただ失敗したということだけがわかって、周りを見ても誰も手を差し伸べてくれなかった。 いや、私が失敗したのだということにさえ、気づいてはいなかった。 だって、そのあと私は、就職できてしまったから。 上の階に到着した私は、すぐに下りのエスカレーターに乗り帰り、Uターンする。 私の後ろに乗っていた人が怪訝な目で私を見るが、すぐに興味なさそうにスマートフォンへ視線を落としていた。 下の階に到着し、空っぽの一角へお邪魔する。 寂しそうにハンカチが待っていたので、私は丁寧に拾い上げる。 少々埃がついているが、はたけば問題なし。 なんだか夢と再会した気分だった。 上にでも下にでも移動ができるエスカレーター。 でも、人生の時間は上にしか進まない。 落とせば終わり。 下の階の人が拾えば夢は続くが、それはもはや私の人生ではない。 私の後続の誰か、私の夢を拾った人のものだ。 「次は落とさないようにしよ」 スマートフォンのバッテリーのパーセントが増えていた。 私はハンカチを鞄にしまって、再びエスカレーターを上り始めた。
空中を漂って 肺に侵入するマイクロプラスチック どこまで浸透するのだろうか 海中を漂って 生態系に侵入するマイクロプラスチック どこまで浸透するのだろうか 日常を漂って 私の体内に侵入するマイクロプラスチック どこまで浸透するのだろうか (完)
その男は、毎日「死にたい」と考えていた。男は毎年、自分の誕生日と、最愛だった亡母の誕生日に、自身の身体に、タトゥーを増やしていた。それは、ハエのタトゥーだった。大きさも見た目も、リアルなハエにそっくりなタトゥーだった。男はそれを増やしていった。男は「死にたい」と考えていたから、自分が死体になることをいつも想像していた。だからハエのタトゥーを増やしていった。わかるようなわからないような話だ。結局、その男は、十数年後に、全裸で首を吊って死んだ。その死体には、ハエのタトゥーがびっしり彫られていた。だから、本物のハエたちは、その死体の前で、しばらく呆然としていたという。
意外と出来てない。 コンプレックスだろうか? 環境だろうか? 性質だろうか? 眠い💤
あなたを殺す、夢を見た。憎くて堪らない、あなたを。 あなたの喉を裂いて、目を潰した。心臓を突き刺して、鮮血の行く末を見届ける。 手にあったナイフの刃渡りが、脳裏に焼き付くほど。妙に鮮明な、夢を見た。 気持ちが良かった。だから、目覚めて夢だと悟ったときは、心底がっかりした。 「侑ちゃん、おはよ」 目覚めた日も、いつものようにあなたは着いて回る。そんなあなたが、私は嫌いだった。あの夢のように殺してしまいたかった。 「だったら、殺しちゃえばいい」 夢が、意思を持ったように私に微笑みかける。その一言が、変に私を駆り立てた。 そして私は、あなたを殺した。 持っていったのは、たったひとつのナイフ。手触りが伝える感触はあの夢のようで、なんだか現実から切り離されているような感じがした。今ならなんでもできると、そう錯覚したように。気が付けば私はその身体を刺して、裂いて、斬っていた。 広がる鮮血、酷い臭い。 実際の五感がその光景を見る間に、私は一言を口にした。 気持ちが悪い。 ちっとも、良い気なんてしない。夢の中で殺したときのあの快感もない。ただあるのは赤に塗れたあなたと、終わった後に残ったほんの少しの罪悪感。今更になって押し寄せてくる感覚に、私は口を塞いだ。 気持ちが悪くて、俯く。 その瞬間、吐いてしまった。吐いて、吐きまくった。何も出なくなっても、嗚咽が響いた。 やっとの思いで吐き気が治まり、ゆっくりと顔を上げる。 ほんの少しの善性が吐いたカス溜りを見ないようにして、その奥の死体に一言。 「ごめんね」 それだけ呟いて、私はそこを後にした。 結局、殺したって何も嬉しくなんてなかった。あなたが生きていても、私には迷惑でしかなかったのに。 そう。生きていたって、死んだって迷惑。私は、あなたのことが憎くて仕方がない。 結局、私はどうすることもできないまま―― はっ、とヒグラシの鳴き声に呼び戻される。顔を上げて奥の景色を見れば、そこには真っ赤な夕焼け。燃えるようで、綺麗で、思わず見惚れてしまう。 言い表せないような、よくわからない感情が奥底から湧き上がる。 私は、あなたを殺して。 殺して、殺したのに。こんな赤に照らされるだけで、こうも感情を説明できなくなる。 わけもわからぬまま涙が溢れそうになるのを堪えて、 そっと、喉元にナイフを添えた。 そして、 私はまた、笑顔になる。
君がいる事が当たり前だと思ってしまった。 君と迎える朝、君と共に過ごす夜……結婚してから直ぐの頃はそれが掛け替えのない日々に思えていたのに、1年……2年と過ごしていく内に、その日々が当たり前に思えてしまった。 馬鹿だよ……本当に馬鹿だよ俺。 君を幸せにすると約束したのに、君と結婚して5年経つと俺は君を泣かせてばかりだ。 メソメソ泣く君が面倒に思えて、家に帰るのが遅くなる日が続いた。 君が愛情込めて作ってくれた料理にもケチつけて、本当に殴りたくなるくらい馬鹿なことをしてた。 君の大きな目から零れ落ちる涙に薄汚い愉悦が湧き上がって、君を悲しませる日々が続いた。 死ねばいいのに……こんな俺なんか。 君はやっと掴んだ幸せそのものだったのに、俺は宝石の様な君を曇らせてばかり。 働いて疲れてる俺に暖かいお茶を淹れてそっと寄り添ってくれたあの暖かさは決して当たり前じゃなかったのに、君からの愛を俺は搾取するだけ搾取してその甘美に酔いしれてた。 本当に馬鹿野郎だよ……義父に殴られて当たり前だ。義母に罵られて当然の事をした。 君という幸せがあったのに、俺は君とは別の女性と遊んでしまった。 家に帰っても最近は表情一つ変えやしない君に会いたくなくて、俺はつい魔が刺して……いや、これはみっともない言い訳だ。俺は君からの愛が不変であると勘違いしていた。 だから、あんな愚行ができた。 だから………君はあんな事をした。 俺が家に帰った時には全てが遅かった。 玄関を開けたらいつもどんな時でも、お帰りなさいと言ってくれていた君の声が聞こえなくて、リビングに行ったら君は……ブラブラと天井から吊られていた。 「は?」 素っ頓狂な声しか出なかった。 口から泡を吹き君は虚な目で俺を見ていた。 何故私を裏切ったの? 何も言わないその口が俺に問いかけてるような気がした。 俺は……自分の過ちを悟った。 たくさん彼女を苦しめてたくさん彼女を悲しませて狂わせてしまった。 優しくて純粋だった彼女の最期はこんな風に迎えていいはずがなかったのに……その選択を俺がさせてしまった。 葬儀は滞りなく終わった。 義父に殴られた頬はまだ痛む。 義母に罵られた言葉が脳裏から離れない。 実父と実母にも迷惑をかけてしまった……生きていて意味なんてないや。 俺は遺書を書いて住んでいた高層マンションのベランダから飛び降りた。 ぐちゃり、と身体が地面に叩きつけられる激しい痛みを感じて、俺は……そこで終わるはずだった。 「ねぇ!?大丈夫!?」 心配そうに俺に声を掛けて肩を揺すり起こしてくれたのは、虚な目じゃない優しい君だった。 気が付いたら俺は君に抱きついていた。 温かかった。 柔らかくて君の優しい香りがした。 「ちょ、ちょっと……どうしたの??」 「君がいる……」 「え?」 「君が、生きてる……」 それが嬉しかった。君がいるというだけで喜びを感じた。 「嫌な夢見たみたいねぇ……どうする?今日のお出かけやめる?」 心配そうな眼差しで俺を見る君の後ろのデジタル時計を見ると、君と結婚したてのあの頃に戻っていた。 (そうだ……結婚して3ヶ月目に君と遊園地に行ったのだっけ) 忘れてしまっていた君との優しい思い出。 それを思い出して俺は「大丈夫だよ行こう」と返した。 君がふわふわのクマのぬいぐるみを抱きしめるあの姿をもう一度見たかった。 心配そうに俺を見つめる君とやってきた遊園地。広い売店で君はやはりあのふわふわのクマのぬいぐるみを見つめて目を輝かせていた。 それが可愛らしくて俺はあの時みたいに君に内緒でクマのぬいぐるみを買ってプレゼント用に包んで貰った。 可愛らしい見た目とは裏腹に絶叫系が好きで、ジェットコースターで楽しそうにキャーキャーはしゃぐ君。 その姿を俺は目に焼き付けた。 掛け替えのない物だから、大事にしたかった。 「ねぇ、楽しかった?」 帰り際君にそう聞かれた。 俺は勿論と答えたけど君はすぐに「嘘」と否定した。 「貴方ずっと私を見てた……朝から変よ?」 問い詰めるような視線に俺は耐えきれなくなって、遊園地のベンチに2人で座り悪夢の内容を少しずつ話した。 「嫌な夢ね……でも妙に現実味がある」 「……」 「でも、その夢を見た貴方はもうそんな事しないでしょ?」 「し、しない!してたまるか!」 「それなら私はそんな道には進まないわ……だって貴方の事を愛してるもの」 「俺も君を愛してる」 夕焼けが君の顔を優しく照らす。 陰るその前髪の下の目が一瞬だけ虚に見えて、その目に映る俺が血塗れに見えた様な気がしたが、俺は気のせいだと思い込んで君とキスをした。 全部、全部、夢じゃなかったのに。 男は優しい夢の世界に彼女と共に向かった。 夢の世界ではもう間違えるなよ……と誰かに背を押された。
日記を書く習慣が、母にはあった。 押し入れの奥から、段ボール一箱分が出てきた。一九八〇年代から書き続けた日記帳が、年ごとにきちんと並んでいた。几帳面な人だったから、日付も欠かさず、筆跡も乱れていなかった。私は相続の整理をしながら、一冊だけ手に取った。私が生まれた年のものだった。 母の日記は淡々としていた。天気、食事、夫の帰宅時間。感情の起伏はほとんど書かれていなかった。それでも読み進めると、ところどころに私のことが出てきた。 七月十四日。恵が笑った。 八月三日。恵が立った。 短い記録だったが、その短さがかえって愛おしかった。私は次の箱から翌年の日記を取り出した。私が二歳になった年。それも同じ調子で、淡々と日常が記されていた。 十冊ほど読み進めたところで、私が小学五年生の年の日記を開いた。あのころ私は太り始めていた。クラスで一番体が大きくて、それを気にしていた時期だった。 六月のページに、こんな一文があった。 恵のこと、先生から電話があった。クラスの男子に叩かれているらしい。恵は何も言わなかった。 読んで、胸が痛んだ。覚えていた。あの頃、太っているというだけで、何人かの男子にからかわれていた。叩かれたことも、あった。母に言えなかった。心配させたくなかった。 でも母は知っていたのだ。 続きを読んだ。 担任は注意すると言っていた。様子を見る。恵には何も言わないでおく。 私は日記を閉じなかった。その先を読んだ。七月、八月。私へのいじめに関する記述は続いていた。担任との電話のやりとり、父と話し合ったこと、このまま転校させるべきか迷ったこと。私がまったく知らない場所で、母はずっと動いていた。 九月のページに、こう書いてあった。 恵、最近よく食べる。よかった。 私は笑った。そういう人だった。 冬のページをめくった。いじめの記述は少しずつ減っていた。代わりに、私の体重の記録が始まっていた。 十二月。恵、また少し増えた。六十二キロ。 几帳面な母らしかった。月ごとに、私の体重が記録されていた。私自身、自分の体重をそんなに正確に把握していなかったのに、母は知っていた。測っていたのではなく、おそらく私が無頓着に口にしていた数字を、書き留めていたのだと思った。 中学、高校と、体重の記録は続いていた。増えた年も、少し減った年も、すべて書いてあった。 私は二十年分の日記を一気に繰った。就職、結婚、離婚。私の人生の出来事が、母の視点から淡々と記されていた。感想はほとんどなかった。ただ事実だけが並んでいた。 最後の日記帳を開いた。母が倒れる前の年のものだった。 最後のページに、こう書いてあった。 十一月。恵が電話してきた。元気そうだった。体重のことは聞かなかった。もう関係ないと思って。 私はそこで手が止まった。 もう関係ない。 その言葉が、妙に引っかかった。体重がもう関係ない、という意味だと思った。娘が中年になって、体重など気にしなくていい年になった、そういうことだと思った。 でも次のページを見て、私は息が止まった。 日付は同じ十一月。走り書きで、一行だけ。 先生に言われた。年内かもしれない、と。恵には言わない。 私が母の死の知らせを受けたのは、翌年の二月だった。 突然だった、と思っていた。 ずっと、突然だったと思っていた。
山登りおじさんが怒った。 寿命が縮んだ。 本当は今年まで生きる筈だったのに。 全て計算で何とかなると奢っていたからだ。 僕と口論すべきではなかった。 僕の宇宙人成分が気にさわらなかったのだろう。 狩るものは狩られる。 生き返らせて寿命を全うさせるのも一苦労だ。 僕は万能の器でも願いを叶える玉でもない。 謝れと言ってきた。 何処かの誰かと同じことを言っている。 自分が絶対正しいと思っているアレだ。 修正するのだろうか? 同じ穴の狢。 期待するだけ無駄だった。 僕もそろそろかもしれない。 冗談がなかった。 眠い。 自分だけ助かろうとかダサくなりたくないとか。 だから臭いと言われる。 だから傲慢と言われる。 ハリボテの国ばかり。 悲しくなる。 楽しくない。 機械か何かで心を読んでいる。 自分の心を使わない。 臆病なのか傲慢なのか。 冗談がない。 全て虚構。 障がい者が溢れて金のない人から死体になっていく。 何を目指しているのかわからない。 利用される。 また金のためだ。
旅行計画のない一人旅などするものじゃない。 そう思いながら、降りしきる雨の中で、リュックを傘に、彼は走っていた。 急に降ってきた雨に、心の中で不幸を嘆きながら。 Tシャツに短パンなのが、体温を奪うことに拍車をかける。 雨宿りをしようにも、ここは田舎で、周りにあるのは田んぼに次ぎ田んぼ。 旅行先の細かい地形など、彼はてんでわからなかった。 そうして段々走るのも疲れて、息が上がってきたところだった。 「あんなところに、カフェ…?」 この田舎の風景には似つかわしくない、黒基調のちょっと洒落てるような、こじんまりとしたカフェが見えてきた。 ほの暗いけど灯りもついてるし、きっと営業はしてるのか。 とりあえず雨宿りがしたかったからちょうどよかった。 そう思い、彼は側まで行き、そのまま入店した。 ドアを開ければチリンチリンと、鈴の音が鳴る。 入店して、最初に彼の目に映ったのは、ほの暗い灯りの中でバーカウンターの前に座る、女性の後ろ姿だった。 黒の革ジャンに手を突っ込んだまま、女性は音の鳴る方を振り向く。 目付きは鋭くて、気怠そう、恐らく20代だろうか。 しかし美人には間違いない、彼の目にはそう映った。 何より特徴的だったのは、灯りを反射するような腰まで伸びた綺麗な白髪だった。 「珍し」 彼女は小声でそれだけ言うと、またカウンターに向き戻り、側にあるカップを口に運んだ。 彼はとりあえず、彼女と一席分離し、カウンターの前に座る。 ずぶ濡れのまま座るのが申し訳なく思う。 そのまま体感3分近く待ったが、店員さんも、マスターのような人が来ることも無い。 彼は先ほどの女性に声をかけた。 「えっと、ここって店員さんとか」 「いないよ」 遮るように彼女は言う。 「えっと」 彼は戸惑うしかなかった。 彼女は無言のまま、またカップを手に持ち飲んでいる。 カップを口から離すと彼女は呟いた。 「これも縁かなあ」 彼が不思議に思っていると、彼女は続けた。 「君、ここら辺の人じゃないよね?」 「え、あ、はい」 そう答えると、彼女は嘗めるように上から下まで彼の体を見る。 「傷心で一人旅、そんなとこかな?」 「えっ」 彼は驚いた。 正にその通りだったからだ。 大学の時に付き合った彼女から、急に別れを切り出され、心を痛めた彼は、なんとなく田舎の風景が見たい。 そんな漠然とした思いでこの一人旅をしに来たのだった。 初めての彼女だったから、中々に傷は大きかった。 「それで今は、雨に降られながら痛々しい自分に酔ってる、的な?」 こちらの顔を覗き込むように、無表情の彼女は体を前のめりに屈めながら問いかけた。 少しだけ彼は頭に来る。 「いやそんなこと…」 姿勢を戻し、カウンターに彼女は向き直る。 「冗談」 彼女は薄く笑った。 結構嫌な冗談でもそこまで頭に来ないのは美人効果か。 そんなことを思っていると、また彼女は問いかける。 「それで、彼女とはどうなりたいの」 もう彼女の中で、彼は傷心中の男と定義付けられた。 しかし本当のこと、今更そこに反論はない。 少しの沈黙の後、彼は口を開く。 「わからないです。僕はまだ好きなんですけどね、でも彼女が別れたいと言うなら僕にとやかく言う権利もないだろうし、でもだからといってすぐ諦められるってわけでもないからズルズル引きずって…」 「長」 諌められてしまった。 「でも、ならさ、ここに来たのはそーゆーことだよね」 「何がですか?」 「いや、菊理媛神。それで縁結び祈願」 ククリヒメ?そんな単語は彼は初耳だった。 顔で察したらしい。 「縁結びの神。知らないで来たの?なら結構運命力あんね」 「はは…縁結びですか」 乾いた笑いしか彼はできなかった。 縁結び、彼は神に対して信じてないわけではない。 実際おみくじに一喜一憂するタイプだ。 「まあそうですね…ある意味縁結びよりも、縁が切れた方がお互いのためなのかもですけど」 実際自分がどうなりたいのか、彼はわからなかった。 もうそれについて考えることをやめたいのも一つの事実だ。 「ふーん」 彼女は興味なさそうに言う。 自分から聞いたのになんて冷めてるのか。 すると、突然彼女は耳元で呟いた。 「」 それを言われ、彼は思った。 確かにそうだ。 どうして僕は。 なんか、どうでも良くなっちゃった。 彼の目は虚ろになる。 彼を知らない人が、今の彼を廃人、と表現してもおかしくなかった。 突然電話がかかってきた。 彼に別れを切り出した彼女。 瞬間、彼は着信を拒否した。 「効果絶大だなあ」 彼女はまるで女神のように微笑んだ。 「良かったね、縁切れて」
「最近ずっとさ、心に雨が降ってる感じ」今の私の憂鬱な気持ちを友人に伝えると、彼女は笑ってこう言った。「晴れの日だけじゃ、心も干からびちゃうよ。雨の日があるから、花も咲くんじゃないの」「あんた、意外と詩人だね」なんて私は茶化したけど、それ以来、雨も悪くないなって思えるようになった。
冬の夜中である。おでんの屋台が出ている。そこは、動物園の裏である。店主は客を待っている。すると、動物園から、一人の男が出てくる。彼は動物園の飼育員である。男はおでんの屋台の椅子に座る。「何にしやしょう」店主が尋ねる。「えーっと……」男は店主の背後のお品書きを見る。そのお品書きには、『キリン』、『ゴリラ』、『サイ』等と書かれている。
テレビをつけた。歌番組が流れていた。「続いて歌っていただくのはこの方です」司会者が言った。すると、バンドが後方に控えるステージの奥から、巨大なマグロが、台車を取り付けた巨大なまな板に載せられた状態で運ばれてきた。マグロがステージの中央に着くと、スタッフがマグロの口元にマイクを立てた。マグロが口をぱくぱく動かし始めた。バンドが演奏を始めた。マグロは口をぱくぱく動かしている。しかし何も聞こえない。演奏は盛り上がっていく。間奏部分で、ステージの奥から、板前が現れた。包丁を持っている。間奏が終わった。すると、誰もが予想した通り、板前は歌っているマグロを解体し始めた。バンドは演奏を続ける。マグロは歌い続ける。何も聞こえないが。板前はマグロをどんどん解体していく。やがて、マグロの動きが鈍くなっていく。そして、とうとうマグロは動かなくなった。バンドはこの日一番の盛り上がりとともに、演奏を終えた。しんとしたスタジオで、板前がマグロで寿司を握り始めた。そしてその寿司がバンドのメンバーたちに振舞われた。バンドのメンバーたちは実に旨そうに寿司を食い始めた。そのもぐもぐ動く口元に、スタッフがマイクを近づけた。
毎日、決まった時刻にあの歩道橋を渡る。それがボクの日課。 見上げる空の色。頬をなでる風の温度。季節の移りかわりに合わせるように、足元に伸びる影の長さも、毎日、少しずつ変化して。 一段飛ばしで階段を駆け上がる。 それだって、静かで大切な独り占めの習慣だった。 ある日、その習慣に、ふいにキミがすべり込んできた。 一人きりだったアスファルトの上に、いまは、よりそうような黒い影がふたつ。 キミと歩幅を合わせて歩く時間は、いままでよりずっとゆっくりで、ずっと鮮やかだ。 「ねぇ、見て」 そう言って笑うキミの横顔を見ながら、ふと考えてしまう。 このふたつの影が、いつの日か― さらに小さな影が加わって、みっつ並んでこの橋を渡る未来。 そんな、くすぐったいしあわせを、夕暮れに染まる街を見下ろしながら、ちょっぴり想像してみたりした。
一般向けじゃ無いものに惹かれるお年頃 マイノリティのその先へ アングラ世界のグロさに吐き気を覚えて アングラ世界の珍美に心を奪われて 大衆に認められたアングラは穢れて廃れていく いや、それで良い 良さが伝わらないから良いんだ 一般向けなんて、クソ食らえ 抱えきらなかった感情をアングラで掬って 癖の強い表現をこの身で肯定して リアリティのその先へ 共感を投げ打ってでも、この世界に残したくて 絶版を作家根性の絶景にして 一般向けじゃ無いものに惹かれるお年頃 アングラ世界のグロさに吐き気を覚えて アングラ世界の珍美に心を奪われて (完)
時計を見た。後、三分で、地球が終わる。「終わるなあ」と思った。「死ぬのかあ」と思った。その時、部屋の隅のカップラーメンが目に入った。『熱湯三分』そう印刷されていた。俺は電気ポットを見た。湯が沸いていた。俺はカップラーメンの蓋を開けて、湯を入れ始めた。その湯気が顔に当たっている時、俺は「生きてる」と思った。
学年末テストまで一週間をきった頃、クラス内が少しピリつく。 なぜならこの二年三組には、学年一位を争う二人がいるからだ。 一人は天才の女の子。名前は北さん。どうやら理系らしい。 もう一人は秀才の男の子。名前は南くん。文系らしい。 先ほど、争うと言ったが訂正する。南くんが北さんを敵視していると言った方が正しい。 北さんは天才だからいつもノー勉で学年一位。 南くんはたくさん勉強してギリギリ学年二位。 その差を埋めるには相当な努力が必要だ。 南くんは昼休みまで勉強している。 付箋だらけのワーク、何周したんだろう。 角が欠けてる赤シート、どんだけ使ったんだろう。 下校中にすれ違った時も、ブツブツ英単語を唱えていた。すごいな。 北さんは昼休みは友達と話していた。 下校中も歌いながら帰っていた。すごいな。 テスト当日。 私は一番後ろの席だから、二人がよく見えた。 南くんはたくさん見直しをしている感じだった。それに対し、北さんはテスト二〇分前には終わらせ、窓の外を見ていた。 テスト返却日。 国語 北さん 九六点 南くん 九八点 数学 北さん 一〇〇点 南くん 九五点 英語 北さん 九七点 南くん 九八点 社会 北さん 九五点 南くん 九九点 理科 北さん 九九点 南くん 九六点 合計 北さん 四八七点 南くん 四八六点 一位 北さん 二位 南くん 一点差だった。 この結果を見て南くんが一言。 「惜しかったな」 今にも泣きそうな顔。本物には勝てないんだと悟った顔だった。 私は自分の十二点のテストを机の奥に押し込んだ。 少しだけ頑張ることにした。
もうすぐ、神様の夏休みが終わる。神様は夏休みの宿題を提出するだろう。神様は宿題の自由研究で、僕たちが生きているこの星を造った。これが先生に提出されたら、僕らはどうなるのだろう。神様が造った後、何度もこの星で戦争が繰り返された。もしかしたらそれは、自由研究のために、起こされた戦争だったのかもしれない。焼け野原で、体育座りをしながら、僕たちは「せめて神様が高評価をもらえればいいな」とぼんやり考えていた。
mouhotonihatiojinorikyojyanpustaiwa tamouutuwagekainanikonnawakewakaran aikisokunosekainakawatasigazenbusas itekowasiteyaruminawatasinoenerugin ookagedetousedekitaseijikatatizenin inkutibakarimousekyonkyonankadougad emozetaiminaitemeranojituryokudesen kyosirofuzakerunakusoseijikadomoy
「この路線の先にドッペルゲンガーが集まる町があるらしいよ。その町の人々は自分がドッペルゲンガーだと気付かずに日々を過ごしているらしい。でもね、たまに本物と入れ替わっちゃう時があるんだって。お互いがお互いの環境へ入れ替わる。その方法はね」 その言葉の途中で友人は消えた。スーツ姿の大人と学生で溢れるホームの上、風もなく塵も残さず電気を消したように。スイッチの音すら聞こえたような気がした。 次の日、駅員と口論している友人を見かけた。声をかけると泣きそうな声で知らない駅名を口にした。その口調はとても丁寧で他人行儀だった。 僕は改札を抜け、強張った足で階段を降りた。 どうやら僕のドッペルゲンガーはいないらしい。そんなことを思いながらいつものホームで電車の音を待っていた。
遊園地である。ピエロが風船を、子どもたちに配っていた。一人の男の子が、ピエロに近づいていった。男の子はガムを噛んでいた。ピエロは男の子に風船を渡そうとした。男の子は手を伸ばした。そして、手を伸ばしながら、噛んでいたガムに息を吹き込んで、フーセンにした。男の子が噛んでいたガムはフーセンガムだった。その瞬間、男の子に手渡されようとしていた風船が、突然割れた。その場にいた誰もが、その理由がわらかなかった。後にピエロが病院で医者から聞いた話によると、風船が割れた理由は、フーセンガムが膨らんだのを見たことによる心因性のショック死であるとのことだった。
緊急脱出用小型宇宙船に乗って操縦席に座っている 宇宙船にテロが起こり制御コンピューターを破壊されてしまった 宇宙船は宇宙のゴミとなり永遠に漂う 酸素供給が停止するアラームが鳴り、近くにいた子供と急いでエスケープしたのだ 操縦席に座って座標を確認すると、巨大な恒星の重力圏内に向かう起動だ パネルを叩きどの設定にしてもエラーになってしまう 子供は今まで自分の住んでいた宇宙船を窓から眺めてはしゃいでいる 焦りと困惑で汗が止まらない 過度な緊張のせいかあくびが出る 後五分もすれば恒星に引きずり込まれる 手動運転に切り替えたいが画面がフリーズして動かない 強烈な眠気が襲う。子供は既に眠っている 目が覚める 頭が重く意識が朦朧とする どうやら夢を見ていたようだ この惑星に着いてジープに乗って森に来たところまでは覚えているが、そこから記憶がない。 「お目覚めですか?デイズさん」 ジープのコンピューターが話しかける 「この森には有毒ガスがあるようです。かなり強烈な」 「俺は直ぐに死ぬのか?」 「いえいえ、調べたところ幻覚や意識障害といった程度で直ぐに死ぬほどではありません。数分はもちます」 「数分は直ぐだろ!…とにかく今直ぐに引き返そう。サンプル採っとといてくれ」 ジープが有毒ガスを吸引しながら宇宙船へ引き返す これは後で医療班に聞いたのだか、後、五分もすれば致死量に達していたらしい。調査隊としては実験体として良い仕事をしたが、やっぱりあのジープはどうかしてる。俺があそこで死んでいても「デイズさーん、心肺停止してますけど死んでますかー?」と聞かれそうだ。なぜ誰も文句を言わないのか。まぁ俺もそうだけど。面倒を起こして肉体労働に回されでもしたら、それこそ地獄だ。 有毒ガスの事を嫌味たらたらと環境調査部に説明をしたが、ロボ隊の調査の時はそんなガスは検知されなかったと言う。 「そんなはずはない。俺は死にかけたんだぞ」と言っても、寝不足気味のメガネくんは気の毒そうな顔をするだけだった。 デイズはガスで眠っている間に見ていた夢の話をこのメガネくんにしようとしたが、思いとどまり、言わずに環境調査部を後にした。あの子供は誰だったのだろう
汚くなりたいわけではないけれど せめて、本を読むのが遅いとは言われたくない でも、読み飛ばしてしまうくらいなら 本を読むのが遅くてもいいとも思う 春になるのだし 気持ちが向かないのではなくて 寒さで気持ちが固まっているだけだ 春になって、あたたかくなってくれば 自然と… 春になっていくのだし 「次の停車駅はペリカンでございます」 理解に苦しむアナウンスが けれど、それが真っ当であるかのように流れてきて 言われたペリカンは ちょっとガワガワしちゃった 春は来るのかもしれない 寝ているとき、往々にしてそれは昼寝をしているとき 呼吸をすると、鼻がちいさくピーと鳴る そのかすかな音を、耳が気にして起こされる ホントに春になるのかなあ そのバス停には、ねこだって並んじゃう そんな三月 あの女の子は、やけに活動的 手をつなぐ隙間すら見つけられない 「すこし休んだら」 女の子に声をかけてみる 「うん、うん、うん」 忙しそうに女の子はうなずく そのうなずきすらも活動的 「お水、ちょっと飲んでみる?」 「うん、うん、うん」 「ミルクのほうがいい?」 「うん、うん、うん」 「クッキーあるけど…」 「うん、うん、うん」 女の子のその姿に、確信できた やっぱり、春は来るのだなあと
『 ” … ( 年周、五十二ゝ千 ) 葱 玉 水・ぎねまたいす ( るしこにジ ) ﹆ のんせしほいだ 、んねうゅし (ごうゅじに〜チニせ) ‘ の … ” 』
間違ったことをしていても同じ学年の仲間だからと 全力で擁護する先輩たちの姿が理解できなくて わたしは部活をやめた わたしに続く人はいなくって かつての仲間たちは、まだあそこにいる ときどき、先輩やかつての仲間たちと校内ですれ違う わたしはすばやく目をそむける 向こうはわたしをいないものとして扱ってくれ そのことはひどく助かる はやく先輩たちがいなくなってくれればいいのにね かつての仲間たちに思うこともあるけれど それはそれ、今度はかつての仲間たちが 先輩たちと同じようになっていくんだ だから、やめたんだ この前、かつての仲間たちのうちのひとりが ―正義ってなんだろうね と、それだけをわたしに残し、わたしの前から音もなく消えた そんな、正義がどこかに転がってるみたいなこと言ってさ 正義? そんなもの、知らないよ
「私って生きるの下手だなー」 椅子に猫背に腰掛けた先輩が言った。 「どうしてですか?」 先輩はいつも笑顔だったので、どうしてそんなことを言うのかわからなかった。 「だって、みてこの顔」 「顔ですか?」 先輩は自分の顔を指さし、言ってきた。 「一重で目が小さくて、おまけに団子鼻」 先輩はそう言いながら、窓から見える桜を眺めていた。 長いまつ毛が光に照らされ、美しかった。 もう三月で、三年生の先輩は卒業してしまう。 こんな会話ももうできなくなる。少しだけ悲しい。 「世の中はルッキズム、この世は顔が全てなんだよ。こんな顔じゃ、損して生きるに決まってる」 「そうですか?先輩の顔、好きですよ」 つい、本音が漏れてしまった。でも本当に先輩の顔は綺麗だ。 「ふーん、そう?じゃあ私とキスできる?」 先輩は綺麗な目元を細めて言った。悪戯な目だ。 「はい」 先輩を困らせてやろうと思って言った。 「え」 先輩はうつむき、顔を赤くした。その顔はなんとも美しかった。 先輩のその反応を見て、自分の発言を重さを自覚した。 「ま、まじ?」 真っ赤な顔で少しはにかみながら先輩がたずねてくる。 「冗談です」 目を見て言えなかったのは、それが嘘だったからかな。 「あっそ」 先輩は少しだけ悲しそうな目をして、再び笑う。本当に綺麗な人だ。 先輩は明日卒業する。全てが今日までだ。 「てか先輩、なんでここにいるんですか?」 「なんでって、私はここの部長だよ」 「二人しかいない部活に部長って。てか三年は引退ですよ」 この部活の部員は先輩と自分の二人だけ。 ほぼ廃部で、先輩が卒業する今となっても正式に部活として認められていない。 「まあ、いいじゃん。てか私が卒業したら君、一人だよ?」 「そうですね」 「私が卒業したらどうするの?」 「帰宅部ですかね」 「まじか。君がこの部活に入部した時、私めっちゃうれしかったんだ」 「なんですか、急に」 「別に〜」 先輩がそう言うと同時にチャイムがなってしまった。 「また明日」 手を振りながら、先輩が言う。 次の日。卒業式の最中、私はずっと先輩を見つめていた。 先輩は泣きもせず、笑いもせず、いつも通りの落ち着いた表情だった。 「卒業おめでとうございます」 卒業式が終わった時、先輩に勇気を出して言った。 「ありがとう」 先輩の顔はいつもよりずっと美しかった。 先輩が卒業してしまった。まあ、卒業しちゃうものか。 思い返すと先輩の連絡先も、住んでいるところも、行く大学すら知らないな。 もう二度と会えないのかな。 いつも先輩が座っていた席に座り、桜を眺めた。 先輩は散ったらどこかへ行ってしまう桜の花びらみたい。 校庭に咲く桜を眺めながら思った。その間にも花びらは一枚、また一枚と散っていた。 部活、新一年生がくるまで続けよ。
『 “ んてず / ムスすうょひ(ウョヒ ,くイス )・めロくゆょし( リゼなジメピ一・こゆいコ ) ; からのコクピーんゃち(ヽ) るてっちもは、てとた ‘ ギネーね ’ てせょしげや ‘ の 。 ” 』 { めじは うそくさ }
ねぇこっち来てよ。 いや、、、、分かったよ、、 なんか違和感だねw前は断ってたのに それは、、ごめんって いやーほんとそうだよ。君ったらいつもそうなんだから。申し訳なさを感じてるなら少しは労わってくれてもいいんだよ? 十二分に労わってたつもりなんだけど、、 そう?じゃあ二十分ぐらい労わってもいいのよ? 君は変わらないね。 それが取り柄だもの、ねぇ親、居ないんでしょ? 、、、うん ヤル? 、、なぁ、君は、、怖く無いの? 怖い?そうね怖く無いってのは確かに違うかもだけど自信家なの知ってるでしょ? 僕は少し怖いや 怖い、、怖いねぇ。私が気にして無いのに君が怖がるのは傲慢ってやつじゃ無い? 傲慢?それは、、 さらに辛気臭い顔してどうすんのよ。せっかく誘ったんだからそっちを気にしてよ。 ごめん 謝るぐらいならベッドまで運んで
電車に乗るには、クレジットカード。 自動販売機でジュースを買うには、クレジットカード。 コンビニでご飯を買うには、クレジットカード。 色んなキャッシュレス決済の方法が駆逐され、今ではクレジットカード一択だ。 現金なんて、もはやコレクターの産物。 しかし、クレジットカードには欠点がある。 未成年は作ることができないことだ。 親が家族カードを作ってくれなければ、私はクレジットカードを持つことができない。 「遊びに行こー! 隣の駅集合で!」 「オッケー!」 だから私は、何もできない。 電車に乗ることができないから、友達と遊びに行くこともできやしない。 「ねえ、私もクレジットカード欲しい」 「まだ早いよ」 ねえ、お父さん。 ねえ、お母さん。 もう、お父さんとお母さんが子供だった時代じゃないんだよ。 「はい、お小遣い」 こんな現金貰ったって、おはじきか折り紙にしか使えないんだよ。
右手だけが眠っているように、ペンを持つ手に力が入らない。かすれた文字では何も書けない。そもそも書く言葉すら私にはなかった。 視界の後ろにある玄関扉の奥では河童が立っている。小さな河童の表情を覗くことが怖かった、恐かった、こわかった。なんで河童なの。 外では車のタイヤが水を弾く音が響く。トラックの起こした風の音、空気とコンクリートの摩擦音。外は夜の町。 どうか、眠たいからって僕から逃げないで。
本当はずっとずっと何があっても あなたといれると言う、ラベルが欲しかったのかもしれない。 血縁関係でいれる人のことすら羨ましい。 無条件にあなたの時間をもらえるその立場がずっと羨ましかったのかもしれない。 何気ない、でも穏やかな日常を共に過ごせるということが、女としてしか求められない私には手にすることのできないもので、どんなに女として求められていても、無条件で日常を共有できる相手には敵わないのだと。 その場所が喉から手が出るほど欲しくても埋まっていては、座ることすらできないのだ。 だからこそ、空いてる場所でいいからと 今の場所に収まったと言うのに……。 近いからこそよく見えすぎてしまって、 どんなことがあっても日常に帰っていく姿を見て敵わないと思うと同時に、自分という存在がどこに置かれているのか、痛いほど痛感させられる。 満たされた気持ちとやるせない気持ちを抱え、 その背中が夜の闇に溶けきるまで、ただ、見つめていた。
どうやら私は生きるのが下手らしい。 いや、らしいという言い方はやめよう。別に誰かから言われたわけではないんだから。 私は生きるのが下手だ。 こう言った方がしっくりくる。 ほんの小さなことで傷つく。 本当に小さなこと。虫で表すとてんとう虫ぐらい小さなこと。 てんとう虫になんだか失礼だな。私と一緒みたいにするなんて本当に失礼。ごめんなさい。 普通の人。つまり一般的で平均的な人では気にしない些細なことを気にしてしまう。 例えば、怒った人を見た日だ。 怒りの感情の中にこめられている悲しみを勝手に想像してしまう。 そしてあの時本当は悲しかったんだろうなって思うだけだったらまだいい。それに加え、自分の心がその人の悲しみに染まっていく。勝手に悲しくなる。 本当に生きづらい。でもその原因を作っているのは間違いなくこの私。 自分で人生という名のゲームの難易度をMAXにしている。とんだポンコツ。 それと人間関係。 私は女の子だけど、女の子同士の複雑な関係が苦手。 陰で悪口を言いながらよく仲良くできるなって思う。それともできない私がおかしいのかな。 そこに男の子が絡むと余計ややこしくなるんだ。 好きな人が被ったり、男好きって陰口のネタが増えるから。 でも男好きって言ってる人に限って、大体男好き。普段から男子と関わりたい魂胆まる見え。見せてるのかな。 仲良し四人グループだったはずなのに、いつしか陰口が始まってしまうんだ。お互いに互いの悪口言ってさ。 私の耳にはグループの人の悪口が入ってくるんだ。どれを信じていいかわからないし、下手に共感できないから困ってしまう。 まぁ、私がいないところでは私も悪口の対象なんだろうな。 どうにもこういう関係が苦手。 男の子だったらもっと簡単なのかな。でも男の子には男の子なりの大変があるよね。 馴染むの下手だな。生きるのはもっと下手だな。 家に一人の方が幸せ。 気にしすぎってよく言われる。 そんなこととっくに知ってる。直そうとしても直らないんだ。 私は生きるのが下手だ。 いや違う。下手だと教えられたのは周りからだ。 周りの人間が教えてくれた。私は馴染めないと教えてくれた。 だからこう言おう。 どうやら私は生きるのが下手らしい。
公園の公衆トイレに入ろうとした。男子トイレに、一人のお婆さんが入っていった。そのお婆さんは手に何かを抱えていた。すぐにそのお婆さんが出てきた。そのトイレに入った。立ち並ぶ小便器の傍らに、小さな何かが置かれていた。それは骨壷だった。骨壷には貼り紙が貼ってあった。『ここにおしっこを入れてください』俺がそれを見て突っ立っていると、外から声がした。「息子は変態でした」老婆の声だった。そういうことなら。俺はズボンのファスナーをゆっくり下ろした。
学校の近くの横断歩道には毎朝、旗を持ったおじさんが立っていた。いつも笑顔で挨拶をしてくれて、優しくて頼もしいと僕は思った。ある時、一人のお爺さんが、赤なのに歩道を渡って行った。それを見たおじさんは「赤だぞ、おい、じじい」と怒鳴った。その時のおじさんの顔を、僕は一生忘れないだろう。
いつだって見ていてほしい。 あのね、って言いたい。 明日が怖い。 でも毎日が楽しい。 真夜中はひとりぼっち。 でも真夜中は自分だけの時間。 おやすみって言いたい。 でもまだ眠りたくない。 朝は眩しすぎる。 でも新しくなれる。 世界は嫌いだけど大好き。 あのね。 …聞こえてる?
私の中には「17歳」の「僕」がいる。 「僕」とは普段の私の意識とは少し離れた存在で、人間としてではなく「個」の命あるいは魂としてそこにいる。その「僕」は「17歳」のままで私の中にいる。いつも小さな物語を書いているのもこの「17歳」の「僕」だ。 ここでは「私」から見た「僕」について綴っていきたいと思う。 私の中の「僕」とは別人格ではなく、「私」とは少し違うものの見方をする"自分"だ。「僕」は非常に内向的で、内側の閉ざされた世界を好む。一方で、宇宙などといった途方もなく広い世界にも興味を持ち、空想が好きだ。また、言葉にもとても敏感で、特に透明度の高いものや、ほんの少しの影を含むものは「私」を通して「僕」へと深く浸透していく。それ故、「僕」の自己表現の手段が「言葉」になった。 私の中には、私が17歳であった時からずっと17歳のままの存在がいた。それが「僕」であった。思い返せば、17歳は私にとって精神的な転換点であった。その衝撃からずっと時間は止まったまま、あるいは敢えて止めているのかもしれない。17歳の「僕」はまだ子供であり、「私」の現実の目に映る不透明な世界を恐れている。その恐怖が一時的に大きくなることがあり、そうすると「私」まで引っ張られて意識が不安定になる。いつもは「私」が子供の「僕」を守っている状態なのかもしれない。 「僕」は子供と言ったが、私よりも物事の本質を見抜くのが得意だ。それは素直さ・純粋さから来るものなのか、あるいは単なる「子供」ではなくもっと深みのある存在だからなのか、今の私にはわからない。ただ、「私」が目の前の感情に囚われている時に絡まった糸を解くような思考へと促してくれたり、私が形を掴みきれないでいる感覚を的確に言語化してくれたりする。私が「僕」を守っているように、「僕」も私の意識を守ってくれているのだ。 これが、今の私が知っている「僕」という存在である。「僕」がいつから私の中にいたのか、「17歳」から成長していくことはあるのか、まだまだ謎が多いが、私の世界を広げてくれていることは確かであり、大切にしていきたい。