人間の細胞は、絶えず変わり続けているらしい。 そして、七年でほとんどすべての細胞が入れ替わる。 ほとんどすべての細胞が入れ替わるなら別人じゃないかと思うけど、私の意識は連続しているので、そう単純な話でもないらしい。 実際、周りの人も私が誰かわからなくなったりはしない。 「SNSの名前とアイコン変更っと」 なら、きっとSNSでも同じこと。 ドットをほとんど全部入れ替えたけど、皆私を見つけてくれるはずだ。 垂れ流した投稿は変わらない。 私という中の人は変わらない。 『誰かと思ったw』 さっそく、私が私として認識された。
田中アキラ、41歳、独身。 高校で歴史を担当している。つまり学校の先生だ。 年期の入ったアパート「アメリカ」の101号室が先生の部屋である。 無駄なものは何もなく畳の部屋に畳んだ布団、電子ジャー、充電中のタブレットがあるだけだ。 押し入れにも服が数セットあるだけである。 隙間風で目を覚ます冬の朝 「おはよう。先生」 田中先生が茶碗にお米をよそっていると、半同居人のジョージが窓から入ってくる 田中先生は慣れた様子でお絞りでジョージの足を拭く 「今朝は一段と冷える」 田中先生に慣れた様子で足を拭かれているジョージ 先生は食卓に乗った焼き鮭を半分千切ってジョージに渡す 「鮭か、まぁ頂くとしよう」 田中先生はジョージのため息は聞こえないことにして朝食を食べていく 「先生。今日の授業は」 「猫に言っても分かんないでしょ」 「分からない者に教えるのが教師ではないのか」 「まぁ確かに。今週はフランス革命ですね」 田中先生は食器を洗いながら、猫の質問に答えていく。後30分したら家を出なければ間に合わない。今朝は曇っているので洗濯は帰ってきてからランドリーに行くことにする。 田中先生は「コインランドリー」とマジックで書いたジップロックに300円を入れ洗濯籠の上に置く トイレに入ってスタブレットでニュースを見てると、ドアの向こうでジョージが言う 「フランス革命とは何か」 「王様に怒った人達が王様を倒したんです」 「王様は偉いんじゃなかったのか」 「悪い王様もいるんですよ」 「そうか、そういうものか」 「そういうものです」 「人間はよく分からんな」 「猫の様に可愛くないのでね」 「聞いて損したな」 「言って損しました」 タブレットの時間は30分を過ぎている 「ヤバイ!」 トイレを済ませ、身支度を急ぐ 田中先生は寝癖のまま玄関を出ていく 「行ってきます」 「うむ。達者でな」 「外出るとき窓閉めてくださいね。じゃあ」 ジョージは畳んだ布団の上に飛び乗りそこで丸くなる。目を閉じたその奥で言葉が浮かぶ 「悪い王様とはどんな王様のことなのか…」 ジョージはその日、ライオンになった夢を見た
早朝の吉野家で牛丼を待っている ウォーリーとユウ 昨晩は朝まで呑んでいて、今はその帰りである 先週、お笑いコンテストがあり、初めて二回戦にのし上がった二人は、客を入れての審査会場に圧倒され、大きく振りかぶって、スベった。審査結果を聞くまでもなく、クスリともしない五分間を会場の皆と耐えた事実が「もうええわ!」と言っていた。 ただ、舞台をハケた後、一緒に出場していた芸人達が 「面白かったよ」 「あんなにスベってる芸人初めて見たぜ」 「客の好みが違っただけだから。たまたま全員」 「声は出てたで」 とウォーリーとユウの事を気に入ったらしく、そのまま居酒屋へ行く運びとなった。どうやら彼等は万年予選落ち仲間らしく、「おや、あそこに仲間がいるぞ」とウォーリーとユウを誘ったようだった。 そして、今は朝の八時、家の近くの吉野家で牛丼を待っている。カウンターに二人で並んで。 「あいつら…」 「えっ?」 「あの芸人たち、面白えな」 「うん、楽しかった」 「売れない芸人も色んなやつがいるんだな」 「うん。そうだね」 青い湯呑みに入ったお茶をすする 温かいお茶が体に染み渡っていく 「僕のネタは面白くないのかな」 「いや、ユウのネタは面白いと思うけどな。ただ、なんていうか…」 「経験かな」 「それだ。それだと思うよ。俺たちには経験が足らない」 朝の吉野家は半分くらい席が埋まっている。ほとんどがこれから一日の仕事が始まる人たちだ。スーツや作業着を着た人、女性も少しいる。 ウォーリーとユウは社会から弾き出されている気がして、不安で気が狂いそうになるが、二人はお互いの事を思って不安を口には出さないでいた。 二人は客席から目を逸らすためスタッフの様子を眺める 店内にスタッフは女性二人だけ。フロアと厨房に各一人。 流れるような動きで次々に作業をこなしていき、客席の皆は上手い飯を食べ、満足して帰っていく。 その様子はプロの漫才師が舞台の上でボケる度に確実に客席を沸かしていく姿と重なって見えた。 ウォーリーは店員に目を向けたまま言う 「いつか俺たちも、あの二人みたいにさ…」 ウォーリーは不安そうな顔でユウの方に振り向く。 「牛丼作れるかな?」 「知らねえよ!」
電車に乗っていた。吊革につかまって立っていた。目の前の席に女性が座っていた。スマホをいじっていた。スマホをいじる手の指に、指輪がはめられていた。その指輪には白い物が付いていた。最初は真珠かと思った。だがそれはよく見ると錠剤だった。さらによく見ると、精神安定剤だった。俺が服用しているのと同じ精神安定剤だった。「ふうん」と思っていた。そうしたら、女性が、スマホを見ながら、突然笑い出した。初めは小さな笑いだったが、だんだん大きくなっていった。周りの乗客たちがそれに気づき始めた。そのことに気づいた女性が、慌てて、指輪から精神安定剤を取り外し、それを飲み込んだ。女性の笑いは収まっていった。その一連の動きの中で、ちらりと女性のスマホの画面が見えた。動画が流れていた。外国の路上で、外国人が外国人に一方的に暴力を振るわれている動画だった。「ふうん」と思った。
彼は私の永い生の中に現れた唯一のひとでした。 暗い夜道に突如空に昇った星でありました。あてどなく歩く道を、もしやもう違えてしまったのではと不安に震える道中に、そこを目指せば良いのだと私を駆け出させる希望の火でありました。 実際には彼は隣にいて、いつでも私の手を引いてくれたので、旅人の星に喩えるよりは、掲げるランタンの方がいいのでしょうか。 ああ、遠すぎて温度の分からない星よりは、ランタンの方がうってつけかもしれない。彼の隣は温かかったのです。どんなに寒い冬の雪の日も、普段と変わらずに。 私は彼から多くを学びました。気遣いやら、笑わせ方やら、愛し方を。彼と同じにはできはしませんでしたが、彼のその様はたいへん、うつくしかったのです。全部、彼の言う愛によるものでありましたから、それを持たぬ私は、彼から見るこの世界はどれほど輝いているのだろうといつも不思議に思っておりました。 我々はどうやら同じものを見ることはできないのだ、と知ったのは、彼はとうに気付いていたのかもしれませんが、少なくとも私が知ってしまったのは、もう戻ることが叶わぬほど歩いた後でした。 歩き始めた地点はおろか、一度一人分が途切れた足跡の痕跡も見ることが叶わぬほど遠くまで来てからでした。 彼は変わらず私の手元にありました。この先どうしよう、と彼は決して言いませんでした。振り返る素振りすら私の見ている前ではしませんでした。 不安とともに私の手を握る掌に、ここに来てようやく、彼も私と同じくして、道を知らなかったのだと気付いたのです。 二人して道を失いましたが、私は別段悪い気はしませんでした。思えばここまで既に散々迷い、何故この彷徨い歩いた果てに、私の望む場所に、彼が連れて行ってくれるのだと疑うことなく信じていたのだろうと今更おかしくなったのです。 悪い気はしませんでしたが、悪いことをした気にはなりました。何故同じになれないのだろうと、苦しむ彼をずっと、隣で見てきたからです。彼は星でなくランタンでした。 連れ歩いたのは私です。
今日は同じクラスの宮下さんとマックに来ている 僕は十七歳にして初めて女子と二人きりで出かけている どうしてこうなったのか。 あれは昨日の話である 二時間目と三時間目の間の休憩時間、トイレに行こうと席を立とうとしたら前の席の宮下から話しかけられた。 「千知くんはインスタやってる?」 僕はSNSは苦手なんだと言うと私もなんだと答えてきた。 詳しく聞くと、友達にインスタのストーリーを上げたから見てみて、と言われたがインスタをやっていない宮下は何のことか分からず、空返事をした。 どうにかアプリを入れずストーリーを見ようと試みたが、上手く行かず、困ってしまって僕に聞いたらしい そこから、なぜか僕が趣味で書いている小説に話が流れ、宮下が思いのほか興味を持った。もともと本が好きなようで、知り合いが書いている小説とくれば興味津々らしいのだ。 その日の夕方、ラインで小説を送ると「この小説について詳しく聞きたい」と返信があった。どう返したものだろうかと考えていたら「明日会える?」と短い文。 無意識に「いいよ」と送っていた 今、目の前に宮下がいる 宮下はテリヤキバーガーのセットを頼んでいた。テリヤキバーガーを食べる度に口の端に焦げ茶のテリヤキソースがくっついて、それを宮下は丁寧に拭く。制服姿とは違い、黒いワンピース姿でワンピースのアチコチに黒いレースがあしらわれている。少し大人びて見える宮下は美人だ。薄く化粧もしている。 肩までの髪は緩くパーマがかかっているようでその様子が僕の知っている宮下とは別人に見えた。僕だけしか知らない宮下を見ているようで、頭が熱かった。 「千知くんはいつ小説書いてるの?」 「えっと、いつ?いつ?…暇な時とか」 「そうなんだね。すっごく面白いと思う。このミステリー」 「あ、ありがと」 バーガーを食べ終え、ポテトと飲み物を交互に口に入れていく。宮下はポテトを一本ずつ摘み、丁寧に食べていく。僕がバカみたいに見とれていると、宮下も気がついたらしく、ニコリと微笑み返す。 その時宮下が持っていたポテトが手からすり抜け床に落ちた 宮下は申し訳なさそうに前かがみになりポテトを拾う 宮下の黒いレースのワンピースの胸元が大きく開き宮下の胸の谷間が見えた 薄暗い服のなかで白い肌が陰っていて、その先の深い谷間が強烈に脳裏に焼きつく。直ぐに目を反らして、今見たことは忘れようとしてみる 「み、宮下も本好きだったんだな」 「遥でいいよ。うん、うちはお母さんがいないから小さい頃からずっと本読んでたかな」 「うちは父親がいないよ。片親だとそういうものなのかな?ハハハ」 宮下は何か言おうとしていたがやめたようだった。宮下は拾ったポテトをティッシュに包む。 宮下はアイスコーヒーを飲み、僕はコーラを飲み干す。 「千知くんのお母さん美人だよね」 「そうかな?って何で知ってんの?」 「この間車で送ってもらってたでしょ。私、たまたま見かけて千知くんに手を振ってたけど気が付かなかったみたいで、恥ずかしかった。フフフ」 「ごめん。気が付かなかった。たまにうちの母親そういう事をするんだよね。歩いて十分で着くのにさ。ハハハ」 宮下のテリヤキバーガーセットは食べ終え、コーヒーも飲み終わったようだ。僕のビッグマックセットはとっくに空である。 そろそろ帰る?と言いたくなかった だけど、どうしていいかも分からず、気が付けば「そろそろ帰る?」と言っていた。 店を出て、別れる 「千知くん話しやすいね。私ばっかり話しちゃってごめんね」 「あっ全然大丈夫だよ。楽しかったね」 僕は宮下が何を話していたか全く覚えていない。宮下と二人の時間を緊張で過ごしていた 「またマック行こうよ」 「うん。またマック行こう」 「あと、あんまり女子の胸元見ちゃダメだよ。フフフ」 「えっ、いや、僕はただ…」 「大丈夫だよ。私そういうの慣れてるから。じゃあね」 「あ、うん、じゃあね」 宮下は歩いて帰っていく。 宮下は胸元を僕が見たのを気が付いていた。めっちゃ恥ずかしい。 私そういうの慣れてるからってなんだ? 気にしないってことか? 僕の意思とは別に勝手に宮下の胸元がよみがえる 家に着くまで全速力で走って帰った。
たまにお守りが欲しいなって思う 何もかも上手く行っているときに。 こちらから望んだ幸せではないのだけれど 何だか皆が優しくて皆が声をかけてくれて そんな時に不安になる 僕は何も出来ないから 僕は何も持ってないから たまにお守りが欲しいなって思う 曇り時々雨の一日 夕方には空の向こうに青空が見えていた 夕飯を食べていると左目の奥が痛くなった。いつもの頭痛で痛むとこ。 妻が薬を飲むか聞いてくる 僕は何も言わず左目を押さえて何も言わない。考えている。寝る前に飲むか今飲むか。 「もう飲んじゃおうかな」と答えると 妻がお酒を出してくれた 夕飯が出来たので2階から1階に降りる前 2人きりで部屋で 一度だけ 少しの間 ぎゅっと そんな時間があった 1階に降りる階段で妻の後ろを見ながら お守りが欲しいなと呟くと後ろを振り向いた妻が 「たまに言うね。それ」と笑った
穴に落ちた。 すっごい深い穴に落ちた。 どれくらい深いかと言うと、両手を伸ばしてジャンプしても、脱出できないくらい深い穴だ。 「だ、誰かー!」 穴の外に向かって思いっきり叫んだ。 何人かは穴を覗いてくれて、私と目が合った。 しかし、言うことは皆同じ。 「まあ、多様性の時代だしね」 「穴の中で生きる人がいてもいいよね」 「人は人、私は私」 誰も手を差し伸べてくれない。 私は一生穴の中にいるしかないんだと気づいたとき、私は現状を個性と呼ぶ覚悟を決めた。
緊急脱出用小型宇宙船に乗って操縦席に座っている 宇宙船にテロが起こり制御コンピューターを破壊されてしまった 宇宙船は宇宙のゴミとなり永遠に漂う 酸素供給が停止するアラームが鳴り、近くにいた子供と急いでエスケープしたのだ 操縦席に座って座標を確認すると、巨大な恒星の重力圏内に向かう起動だ パネルを叩きどの設定にしてもエラーになってしまう 子供は今まで自分の住んでいた宇宙船を窓から眺めてはしゃいでいる 焦りと困惑で汗が止まらない 過度な緊張のせいかあくびが出る 後五分もすれば恒星に引きずり込まれる 手動運転に切り替えたいが画面がフリーズして動かない 強烈な眠気が襲う。子供は既に眠っている 目が覚める 頭が重く意識が朦朧とする どうやら夢を見ていたようだ この惑星に着いてジープに乗って森に来たところまでは覚えているが、そこから記憶がない。 「お目覚めですか?デイズさん」 ジープのコンピューターが話しかける 「この森には有毒ガスがあるようです。かなり強烈な」 「俺は直ぐに死ぬのか?」 「いえいえ、調べたところ幻覚や意識障害といった程度で直ぐに死ぬほどではありません。数分はもちます」 「数分は直ぐだろ!…とにかく今直ぐに引き返そう。サンプル採っとといてくれ」 ジープが有毒ガスを吸引しながら宇宙船へ引き返す これは後で医療班に聞いたのだか、後、五分もすれば致死量に達していたらしい。調査隊としては実験体として良い仕事をしたが、やっぱりあのジープはどうかしてる。俺があそこで死んでいても「デイズさーん、心肺停止してますけど死んでますかー?」と聞かれそうだ。なぜ誰も文句を言わないのか。まぁ俺もそうだけど。面倒を起こして肉体労働に回されでもしたら、それこそ地獄だ。 有毒ガスの事を嫌味たらたらと環境調査部に説明をしたが、ロボ隊の調査の時はそんなガスは検知されなかったと言う。 「そんなはずはない。俺は死にかけたんだぞ」と言っても、寝不足気味のメガネくんは気の毒そうな顔をするだけだった。 デイズはガスで眠っている間に見ていた夢の話をこのメガネくんにしようとしたが、思いとどまり、言わずに環境調査部を後にした。あの子供は誰だったのだろう
大人って何ですか 何をもって大人になるんですか 社会の中でいう大人の区分になりました …が、イマイチ実感がありません 年齢としての大人なのか 精神としての大人なのか 何が養われたら大人になるのか 私が思うに、本当の大人って存在しなくて ・みんな子供でしかいられないんじゃないか ・大人という役を演じているだけなんじゃないか と、思うんです だから、ずっと無邪気で純粋な心と頭を維持し続けられる人間になれると幸せなんだと思うんです (完)
電車に乗るには、クレジットカード。 自動販売機でジュースを買うには、クレジットカード。 コンビニでご飯を買うには、クレジットカード。 色んなキャッシュレス決済の方法が駆逐され、今ではクレジットカード一択だ。 現金なんて、もはやコレクターの産物。 しかし、クレジットカードには欠点がある。 未成年は作ることができないことだ。 親が家族カードを作ってくれなければ、私はクレジットカードを持つことができない。 「遊びに行こー! 隣の駅集合で!」 「オッケー!」 だから私は、何もできない。 電車に乗ることができないから、友達と遊びに行くこともできやしない。 「ねえ、私もクレジットカード欲しい」 「まだ早いよ」 ねえ、お父さん。 ねえ、お母さん。 もう、お父さんとお母さんが子供だった時代じゃないんだよ。 「はい、お小遣い」 こんな現金貰ったって、おはじきか折り紙にしか使えないんだよ。
私の書くキスシーンはきっと、陳腐で幼稚なものだと思う。 というか、キスシーンをあまり書くのが得意ではない。それ以上も然り。 端的に言うと、経験がないのだ。 経験がないなりに、色々考えて書いているのだが、現実味がない。 そりゃそうだ、経験がないんだから。 彼らは何を思ってキスをするんだろうか。というか、キスはどういった心理効果をもたらしているのだろう。 私は生まれも育ちも日本故、恋人関係以外とはそういうことはしないんだろうなぁ、という漠然とした良識を心得ているくらいで、もっと言えば、チークキスのようなフランクなキスを一体どういう気持ちで行っているかなんて最早、ファンタジー小説と同じような位置付けに当たるだろう。 私は雰囲気でキスシーンを書いている。 これが雰囲気じゃなくなる日が来ればいいとは思うんだが、イマイチ己のキスシーンは想像できない。 私は、どんなふうに呼吸をして、どんなふうに見つめ合うのだろう。 蜜の味を知らなければそれを欲さないように、私もきっとキスの味というものを知らないから大して欲していないのかもしれない。 あー、キスしたい。
一般向けじゃ無いものに惹かれるお年頃 マイノリティのその先へ アングラ世界のグロさに吐き気を覚えて アングラ世界の珍美に心を奪われて 大衆に認められたアングラは穢れて廃れていく いや、それで良い 良さが伝わらないから良いんだ 一般向けなんて、クソ食らえ 抱えきらなかった感情をアングラで掬って 癖の強い表現をこの身で肯定して リアリティのその先へ 共感を投げ打ってでも、この世界に残したくて 絶版を作家根性の絶景にして 一般向けじゃ無いものに惹かれるお年頃 アングラ世界のグロさに吐き気を覚えて アングラ世界の珍美に心を奪われて (完)
病院で会った娘にサドル盗んでいい?と聞く。 サドル?と怪訝な顔をされる。 サドルを持っていくポーズをすると少し笑う。 このさいだから僕は変質者と思われてもいい。 隣の元カノと仲良さそうに話しているのを見て気が抜ける。 別のおじさんと音楽の話を楽しそうにしていて心が嫉妬する。 しかし僕はあの娘の何者でもない。 心は盗めないものだな、と考える。 僕は誰の心を盗めばいいのだろう? 恋泥棒は唯一許される泥棒らしい。 世界の理。 夜中ポテチとノンアルを飲みながら明日買い物行かなきゃと考える。 何かやること無いと食ってばかりになる。 体重が3年前より5~6kg増えた。 痩せっぽちのあの娘にちゃんと食べれる?と聞いたら「平気です」と言われる。 痩せてる子は太らせたくなる。 いや強制はよくないが。 まずは僕が痩せて少しでも良い指導者にならねば。 セクハラ教師の夜は長い。
エンドロールが終わって、劇場の外へと歩みを進める。先ほどまで見ていた映画がどうだったとか、この後に彼女と話す内容を考えておく。 そうだな……まあ面白い映画だった。僕は評論家でもなんでもないし、あまり大したことも言えない。それでもただ一つ言えるのは、物語の中に入り込んでしまったことだ。そんな没入感さえあれば、あの映画は面白かったと言えるだろう。 丁度良いテンポも勿論、終盤の急展開は何度でも思い出せる。目まぐるしく変わる場面の一つ一つが、僕を飽きさせなかった。 「面白かったね」 彼女が口を開けて放った第一声。映画を見た人の多くは真っ先にその言葉を口にするだろうが。 「うん、そうだね。終盤とか、予想外の展開過ぎて」 「わかる。次から次に情報が押し寄せてくるっていうか、とにかく飽きが来なかったみたいな感じ?」 よかった。彼女も同じ感想だ。このまま、幾分かは話を続けられそうだ。 そうして僕らは、近くのレストランで食事をしながら映画について語り合った。 _ 「じゃあ、僕はこっちだから」 「うん」 未だ冷たい空気が肌を撫でる。熱を纏っていた頬も、風に当てられて気付けば冷たくなっている。やっぱり、いつになっても別れは惜しい。 少し離れた背を見つめながら、僕は何かを思い出す。 それは、何も変わらない友人関係のはず。 同じ一室で同じ映画を見る。それはもう何回も、繰り返しているはずだった。ただの部活仲間のはず。それなのに、何か変な気持ちがつっかえて僕の声を離さない。 去って行く君の背に、僕は 「あ、あの」 ……引き留めてしまった。このあとにどうすればいいのかは、どうしたいのかは、僕が一番わかっている。それなのに、上手く言葉が出ない。 目の前の彼女に、伝えるんだ。 その気持ちのまま、僕は口を開こうとした。 ヒュッ、と何かが風を切る音が聞こえる。 「な、何だ!?」 音のした方を見ると、何かが飛んできて金属製の手すりに当たった。よく見てみればそれは、手裏剣のような形をしている。 シュバババババババッ そんな擬音で表せそうな感じの素早い動きで、人影が僕の前に現れる。その人は、真っ黒い布で全身を覆っていた。 「誰だお前は!?」 待っていたかのように大きく息を吸って、その人は話し出した。 「拙者は忍者!忍び忍んで、闇に隠れる者!」 そして再び素早く動き、気付いたころには息を切らしながら僕の背後に立っていた。 「はあ……はあ……はあ、どうだ、はあ……俺、じゃないや、拙者の動きは!」 「お、おお、す、凄いです……ね?」 「は、はははは……そうだろう」 「全然忍んでなくないですか……?」 彼女がすかさず口を開いた。 「……」 そのまま何も言わずに、忍者は去って行ってしまった。 一体、何だったのだろうか。
夜のスーパーマーケットに、中年の女性の客がいた。彼女はお惣菜のコーナーで立ち止まった。彼女の目の前にはパックに入った焼き鳥が置かれていた。彼女はスマホを取り出した。スマホには、小鳥の写真が表示されていた。彼女のペットの小鳥らしかった。彼女はその小鳥の写真と、目の前の焼き鳥を交互に見始めた。しばらくそうしていた。そこへ、店員がやってきた。店員は、彼女の目の前の焼き鳥に、半額シールを貼った。次の瞬間、彼女がその店員をビンタした。
たまに、(自分はちゃんと生きられているのか)と不安になる。勿論、ちゃんとなんか生きられてはいないのだが、そうではなく、そういう事ではなく、人として、大人として、親として、夫として、最低限の行動が出来ているのかと不安になる。 法に触れることはしていない。いや、たまに信号無視や、横断歩道を渡らない、女性が泣いていても声をかけない、なんて事はたまにある。が、無闇矢鱈に自分の不機嫌を外に出さないとか、挨拶をするとか、愛想笑いをするとか。日々、少しでも、善良に生きる事を実行しているのかと自分に問いかけてしまう。そんな日がある。 街を歩いていると、肩で風を切って歩く若者を見たりするが、彼が一生あのままでいられないことを私は知っている。彼が結婚し子供を持つ頃にはもう少し普通になっている。また、自分を変えられないのなら、家族から弾き出されるだけである。もう少し言えば、町内からも弾き出される。妻や子供を持てば自分という存在は家族というチームの中の一人になる。周りはそんな目で彼を見て、自分達の過去と比較し、正常か異常かを判断するのだ。 誰でも若いうちは世間に対して自分のズレは気が付かない。社会に放り出され莫大な情報に圧倒されるからだ。転生と言っても良いほどに。だがラジオのチューナーが徐々に合わさり声が明瞭になるように、歳を重ねれば重ねるほど世界が見えてくる。自分の足元から延びている光の道が見えてくる。 近所の道路脇にさりげなく梅が咲いている。ほのかに良い香りが記憶に残る。通りをスクーターが孵化しながら通っていく。ハンドルを細かく捻り、ガゾリンを非効率に爆発させ、大きな音を自分の威厳と同化して楽しんでいる。何十年も前から変わらぬ作業だ。そして梅もおそらく何千年も前から変わらぬ作業で花を咲かせるのであろう。 私も梅のようにさりげなく咲き、ほのかに良い記憶を残していきたい。
高校の通学の為に、僕は学生と社会人の列に並び、電車を待っている最中。 ボーッとしていると、目の前で楽しげに、スマホ片手に通話する女性の声が耳に入ってくる。 小さく手振りしながら、大きな声で談笑する笑顔と、某小さくて可愛い感じのマスコットをあしらったスマホカバーが良く目立つ。 ふと僕は、女性の立つホームの黄色い線の内側、女性の足元に踏まれた、思いやりゾーンと書かれるそれに目を落とした。 思いやりゾーン、言葉の意味が曖昧だったので、スマホ片手に調べてみる。 「交通安全の確保、または公共施設での快適な利用を目的として、高齢者、障害者、妊産婦、子供連れなどの優先スペースとして設定される区域やエリアの呼称」 ふむ。 大体想像通りの意味合いだった。 けど僕は思う。 この女性は思いやりゾーンにいる資格があるのか? 今のところ、子連れや高齢者がいるわけでもないから別に何の問題もないこと自体は理解してるつもりだ。 けど思いやりという言葉は、簡単に言えば、他者への気遣いをする、と言う意味だと思ってる。 人の列の中で、軽く唾を飛ばしながら談笑する彼女に、他の人への思いやりはあるのか? 思いやりゾーンなのだから思いやりをする区域なんだろう? 勿論このゾーンにそういう意味合いは持っていなければ、単語をそのまま受け取りすぎ、と言われてもその通りとしか言葉が出ない。 そもそもそんなことを思うなら、思いやりゾーンにいる僕だって、この女性の会話をそれとなく注意することが他者への思いやりなのかも知れない。 結局、提唱した僕でさえ、この考え方で言えばこの思いやりゾーンにいる資格なんてないんだ。 うん、余計なことを考えちゃったな。くだらない。 そう思いに耽っていたらアナウンスを聞き逃したらしい。 もう目の前には既に電車が来ていた。 次々に僕を抜かして電車の中に人が入っていく。 僕へ怪訝そうな顔を浮かべる人も横目に映った。 すいません。 内心謝りながら、僕は思いやりゾーンを離れ、電車に身を移す。 電車に乗った僕は、スマホのボリュームを何段階か下げ、最近お気に入りの音楽を聞き始めた。 思いやりゾーンにはいないもんね。
私が結婚してから初めて、母が、私たちの家に遊びに来た。その時に母に色々な話をした。それを母は静かに聞いてくれていた。数日後、母が実家に帰った後、夫が仕事に出かけ、片付けをしていると、テーブルに何かが置かれているのに気づいた。それは一枚のメモと注射器だった。メモには母の字で『がんばって』と書かれていた。注射器には懐かしい色の液体が入っていた。私は腕まくりをして、その液体を注射した。やがて楽しい気分になってきた。世界が輝き始めた。「がんばろう」と思った。
年に一度、それはやってくる。 とってもめでたい日であり、生まれてきてくれてありがとうと心から思う日。 でもその日は、私をひどく落ち着かなくさせる。 誰と何を共有し、誰のためにその「生まれた日」を使うのだろう。 わかっているし、推測もできてしまうのに、 ソワソワと一日中、心が居場所を失う。 この日さえなければ、こんなに取り乱すこともないのに。 答え合わせをするまでは、あらゆる可能性を反芻する。 直視したくない現実だとしても、ここは「自分が選んだ座」なのだからと。 そう自分に言い聞かせなくては納得ができなくて、折り合いがつけられそうにないから、私は拒否されない座に居座った。 本当は、無条件に守られる座に座りたいと願いながら、 ただ近くに居られる理由だけを探して、その座に着いたのだ。 それでもやっぱりこの日ばかりは無条件にその時間を、当たり前に共有できる存在が、羨ましくて、仕方ないのだ。
「すんません。なんか、レジ故障してるっぽいっす」 「え?」 「七百七十円に千円出して、お釣り二百三十円っておかしいっすよね。ちょっと上に確認して来ます」 「え?」 何がおかしいのかわからなさすぎて、ぼくはしばらく固まった。 若い店員はコンビニの奥へと引っ込んでいき、店長を呼んできた。 レジに映る数字を見た店長は、うんざりとした表情で若い店員を見た。 「いや、間違ってないよ」 「ええ? だって、二百三十円っすよ?」 「千引く七百七十は、二百三十。ただの引き算だよ」 「店長、計算間違ってます! 十から七ひくんだから、三百三十っすよ!」 最近、こんなことが増えた。 公立の学校なんていらないと人々が私立を選び続けた結果、公立の学校が軒並み閉校。 残された私立の学校は、全ての生徒の平均点を挙げるより、勉強ができる生徒をどれだけ良い学校へ進学させるかに終始した。 結果、義務教育で学ぶ内容がわからない大人が、大量生産された。 「だーかーらー! 二百三十でいいんだって!」 「絶対違うっす! 三百三十っす!」 そのしわ寄せは、ぼくたちの日常にやってきた。 千引く七百七十の正しい答えを教える方法を、ぼくたちは習っていない。 学歴社会の成功側に行くことができたぼくは、説得する言葉を持たず、ただ無意味な時間を眺めて過ごした。
久しぶりの女子会で、私と佳奈は時間を忘れて呑みまくった。私と違って、家庭のある佳奈にとっては、羽を伸ばせるひと時なのだ。「今、何時?」と、唐突に佳奈が聞いた。「十二時過ぎ」「え、嘘、やだもう帰らないと」言うや否や、飲みかけのグラスビールを残して走り去った。「あんたはシンデレラか」
電車に女が乗っていた。女は大きな人形と手をつないでいた。人形の顔はのっぺらぼうだった。その顔には、油性ペンで『子ども』と書かれていた。周りの乗客が、女を哀れな目で見ていた。やがて女は、その哀れな目線に気づいた。女はジーンズのポケットから油性ペンを取り出した。そして、人形の顔の『子ども』の文字の上に『かわいい』と書き足した。『かわいい子ども』周りの乗客たちは女から目をそらした。女は誇らしげな表情をしていた。
グサっ という感じだと思っていた。 わたしの住んでいる部屋へと向かう階段は、2日に1回しか夕食を食べていないわたしにすら、ステップを踏むごとにギッギッと文句だか悲鳴だかを聞かせてくれるたいへん意地悪な階段だった。部屋のドアは当然オートロックなどという上等なものであるはずもなく、手荒れの酷いわたしの手に力をいっぱい込めて、ひんやりと冷たいドアノブさんに回ってもらわなければならなかった。この部屋の主人が入りたいだけだと言うのに、あなたまでそんなに嫌がらなくてもいいのに。 そんなわたしの部屋だから、空腹に苛まれながら瞼を閉じていたこんな時間に、誰かが入ってくるなんて、到底考えられなかった。 ギイッギイッと、階段が歌っていた。ドアノブは小さな声でカチャリ、と一言添えた。 そして、のそり、と知らない気配が部屋に入ってくるのがわかった。 呼吸の音だろうか。衣擦れかな。静かに、でも確かに、それは近づいてきている。確かめたい。けれど、瞼を開けるのは憚られた。身体の中が冬の日のドアノブよりも冷たい気がする。しまったなあ、2食くらい抜いて、鍵くらい買い換えたら良かった。 ふいに、身体に衝撃が走った。殴られた?蹴られた?いや、そうじゃない。 だって、気配だけだったそれが、今はわたしの身体の上にある。重たい。温かい。動けない。 驚いたのは相手も同じようで、もぞもぞと起き上がろうとしている。 カランッと、何かが落ちた。 わたしは瞼を開いた。 鈍色の光を反射しているものが、目の前に落ちていた。 わたしの頭上、少し高いところから息を飲む音がする。 わたしはとっさに鈍色のそれを手に取った。 ぬぷり わたしの身体の上にまた重み。動かない。動けない。 ああ、グサって感じじゃないんだなあ、と思った。 温かい。液体が落ちてきている。 少し遅れて、相手からのものだとわかった。どうやらまた倒れたらしい。そして、その下で、ちょうどわたしがそれ持っていた。わたしが言うのもなんだが、こういうの、向いてなかったんじゃないかなあ。 なぜだろう、数年は1日3食食べられるうえに、他の人と一緒に過ごせる気がする。 重たさとか、熱さとか、目の前に広がっていく赤色とか、そんなことよりも、何故かそんなことを思いついた。
輝いている気もするし 曇っている気もする うまくいっているような気もするし ぜんぜんつまらない未来の入り口に立っているような気もする いいこと。 なのかもしれないし。 よくないこと。 なのかもしれない、し。 よくもわるくもないことを ただ、見つめようとしているだけ なのかもしれない。 それでも 輝いているんだろうな。って 想いこめるなら 誰かに バカだっていわれても それでも 輝いてるって思いこんだこの世界に 私は 立っていたい。
「ずっと騙していたことがあるの……満月の夜、私は化け物になる」 その日、雲ひとつ浮かばない夜空には満月が浮かんでいた。 目の前には、僕が知っている彼女ではない何かがいた。 『化け物』 なのだろうか…… <図書室> 陽光が差し込む図書室、古臭い本の香りが唯一の僕に残された居場所。 目元には三本の傷跡と共に、火傷で赤黒く変色した肌の色が顔を見せていた。鏡を見るたびに、その醜さが無性に腹を立ててしまう。 『化け物』 この顔のせいで、周りからそう言われていた。 誰もいない図書室。 奥の棚から一冊の本を取り出し、僕の定位置へ足を運んだ。陽の光に誘われ、窓を開けると肌を擽る微風が心地いい。 (……やっぱり、寂しいな) 孤独は慣れるのに、寂しさだけは心から離れてくれない。 気を紛らわすよう、活字を目に通すと誰かの声が耳へ運ばれた。 「なぁ、裏庭の幽霊って聞いたことあるか?」 無意識に耳を傾けると、遠くから小言が聞こえてくる。 「満月になると現れる幽霊のこと?」 「そうそう。実はあれ、幽霊じゃなくて『化け物』なんじゃないかって噂があってな」 会話が止まり、顔を向けると入り口に数人の人影が見えた。 「噂をすれば……」 「やめろって、ほら、いくぞ!」 「え〜せっかく図書室に来たのに?」 遠ざかる姿に、小さな溜め息が込み上げた。 「最初から来るなよ……」 吐き捨てた言葉と共に、まだひとつだけ人影が残されていた。 顔を上げると、入り口で少女がじっと見つめていた。 青く凛々しい瞳をじっとこちらに向け、黒く艶めく髪が隙間風に吹かれている。何か言いたいのか、目線を泳がせ口元を小さく動かしている。 「なんすか」 声を掛けると、少女もまた駆け足にその場を離れてしまった。 「……なんなんだよ」 気分が落ち込み、本を読む気力すら失ってしまった。 棚へ本を終い、虚な瞳で入り口へ向かうと駆け足に誰かが飛び込んだ。 咄嗟に顔を向けると、息を切らしてノートを握りしめながら膝へ手をつく少女が飛び込んだ。青い瞳を向けると、前髪を優しく触った。 ほんのり見せた微笑みが、胸の奥へ染み込む。 「あ、あの……」 声を掛けると、息を吸い込み、握りしめたノートを顔の近くで広げた。 『初めまして』 ポカンと見つめると、少女は慣れた様子で一枚ページを捲った。 『よかったら、私とお話ししませんか?』 「なんで喋らないんだ」 また一枚捲ると、少し震えた文字が顔を見せた。 『喋れないんです』 心臓を抉られた感覚が走った。 「……あ、ちょっと待ってて!」 駆け足に向かった先は、誰も居ない貸し出しカウンター。 引き出しを開けると、数本の鉛筆と共に置きわすれた自分のノートが顔を見せた。二つを取り出し、慌てて彼女の元へ戻った。 ノートを開き、少し歪な文字を白紙に刻んだ。 静かな図書室へ、書き込む鉛筆の音が響いていく。 書き終えると、彼女へノートを向けた。 『ごめん……』 あまりにも子供っぽく、デリカシーのない言葉に彼女は優しく微笑んだ。 ゆっくりと指先を向け、真っ直ぐに手元の鉛筆を指差した。 「えっと……あ、使う?」 頷く彼女へ渡すと、淡々と書き進めた。 書き終えると、そっと彼女は文字を見せてきた。 『謝らないで!』 また一枚、捲ると次の言葉を見せてきた。 『耳は聞こえますよ(笑)』 「そっか……でも、ノートの方が良くない?」 首を傾げる彼女を見て、無意識に目元の傷へ触れた。 (周りが怖いなんて……言えるわけないな) 隙間風が肌をくすぐると、何かに気付いたのか、ハッとしたような表情と共に、ノートへ再び何かを書き始めた。 書き終えると、白紙に刻まれた言葉に目を見開いた。 『私は怖くないですよ!』 だが、次のページを捲ると彼女は微笑んだ。 『でも。こっちの方が交換日記みたいでいいね!』 彼女の顔を見ると、やっぱり愛らしい笑顔を浮かべていた。 日差しのせいだろうか、さっきよりも鮮明に輝きを放っている。同時に、唇の隙間から見える犬歯がほんの少し光っていた。 (……変な人だな) 今日、僕は奇妙な人と遭遇した。 その人の名前は 『御上光希』 と言うらしい。 また、白紙に文字を刻むと奇妙な文章を見せてきた。 『明日って満月ですね!』 鉛筆を差し出されたので、答えるように自分も書き進めた。 『そうですね』 『よければ、化け物探しに出かけませんか?』 首を傾げ、微笑む姿に何かが突っかかった。 チリン…… 図書室に響く時計の秒針。そこへ混じるように、風鈴の音色が耳へ運ばれた。
その日の空は雲ひとつなく、青と白を混ぜて均一に塗られた天井のようだった。林の中の舗装された道の中心には、背の高い姿勢の良い木が行儀良く真っ直ぐに道の先へと並んでいる。林の中にはぽつぽつと別荘が静かに隠れている。奇妙なほど綺麗なそれらは異国の町から抜け出したような装いで、シャッターを下ろして眠っているようにも見える。しかし僕には、家の主でない僕に無関心を装いながらも警戒し軽蔑しているように感じてさっと視線を外した。 僕は俯きながら人気のないその道を歩いていく。かつて鉄道が走っていた道は、線路の跡もなくその名残は感じられない。 いつの間にか舗装された道は終わり、僕は枯れ葉の上をざくざくと音を響かせて歩いていた。別荘との距離が近くなり、庭に入っているのではないかと心配になった。時々木の枝を踏み、ぱちっと音を立てた。その度に僕は後ろめたい気持ちになった。 時々、鳥の鳴き声が頭上から聞こえた。これはカラスだろうか、そんなことを考えながら足下のどんぐりに目をとられていた。割れていない、穴もあいていない綺麗な形を保ったままのどんぐりを見たのはいつぶりだろうか。それを拾ってみようと、足を止めた。 足音は消え、周囲の音が一気に耳への覆い被さる。枯れ葉の上にポツポツと何かが落ちる音、鳥の羽ばたく音、木を何かが駆ける音、電車が線路を走る音。はっとして辺りを見回す。見えるのは木と別荘と青い天井。 遠くで風が走っている。木々の間を目的地もなく、通り過ぎていく。僕は木になりすまし、目を閉じて風の走る方向を探してみる。 日が暮れるまでそうしてみたが風が僕に触れることはなかった。
彼は、小説を書いていた。それは、水のおいしさについて。 「水ってさ、無味無臭で、しかも透明じゃん。でも、なんか他のドリンクよりもおいしい気がするんだよね」 嬉々としてしゃべる彼に対して「そんなの錯覚でしょ」と言い返したことを、いまだに覚えている。 あの時は卑屈だった。べつに水がおいしいとか、おいしくないとか、今になって考えたらどうでもいい。でも、彼は水がおいしいと感じて、その気持ちを文章にしてみたいと思った。この行いには、きっと価値があったのだと思う。 結局、彼の小説は完成しなかった。それは、私の卑屈な返事で彼の胸をえぐったからなのかもしれない。水のおいしさを言語化するのは、たんに難しいからだったのかもしれない。 べつに完成しなかったからといって悲しむわけでもなく、完成したところで「だから、どうした」程度の話になっていたと思う。 それでも、おもむろに水道水をひねって出す時。透かした先がよく見えたり、ぼやけて見えなかったりする。そんな液体に心と手を動かされた者がいる。ただそれだけのことを、今後も覚えていたい。
毎朝、通勤時の電車に乗るために、駅の地下道を通っている。その地下道にはたくさんのホームレスたちが寝ている。最初はぎょっとしたが、いつしかそれが当たり前の光景になっていた。ある朝、出張のため、始発電車に乗る必要があった。いつもの地下道をかなり早い時間に通った。そこには、ホームレスは一人もいなかった。「あれっ、彼らはどうしたんだろう」そう思っていたら、向こうから駅員が歩いてきた。そして駅員は壁の隅にあったスイッチを押した。すると、地下道に、ホームレスたちの姿が浮かび上がった。そこで初めて気が付いた。この地下道にいたホームレスたちは、立体映像であることに。俺は彼らから目をそらし、地下道を歩いた。そして、会社を辞め、本物のホームレスになって、この地下道に住み着く妄想をし始めた。
チョコレートひとかけらだけでも 口のなかはしあわせ 過去に戻りたいと思ったことは何度もあるけれど またあれをやらないといけないのかあ となって なら、いまのまま やり直したいできごとなんて、あげたらキリがない そう思っていたけど どうでもよくなった もっと上へ上へって、高く高くって でも、過去に戻っても、きっと あの人が、こっちを向くような行動だって、結局 チョコレートひとかけらだけでも しあわせにはなれる ちいさいけどね ひとかけらだけでも それが、チョコレートなら
夕方、散歩に行った。川に行った。近所に住む伯父さんがいて、川の水で、月を洗っていた。「伯父さーん」「おお」「また月洗ってるの?」「ああ、落ちないね、これ」伯父さんは月の模様を指さして、困ったような顔をした。「がんばってね」「おお」家に帰った。夜だった。空を見上げた。月が浮かんでいた。月の模様はいつも通りそこにあった。僕は安心した。でも、少し、伯父さんにもがんばってもらいたかった。
返却された本を抱え、一冊ずつ丁寧に棚へと戻していく。 ゆっくりと、図書室のドアが開く音。目の端にちらりと移る少女の姿。 セーラー服のスカーフの色で下級生とわかる。ここ最近、図書室をよく利用している子だ。 控えめな足音は琴巳のいる棚の向こう側へと進む。 この辺りの棚に彼女の好む本はないはずなのに、と、少し不思議に思いながらも本の整理を続けていると、 「先輩、萱島先輩」 棚を挟んで呼び掛けてくる声。彼女のおっとりとした性格を現すような、柔らかく穏やかな声だ。 「そのまま聞いてくれますか」 数冊の本を持ったまま回り込もうとしていた琴巳は、素直に足を止めた。 「私、初めのうちは本当に勉強のためにここへ来てたんです。でも、今は目的が変わってしまいました」 「それで? 言いたいことがあるならハッキリ言ってほしいな」 琴巳には彼女のようにたおやかな美声は出せない。なるべく穏やかに話したいのだが、言葉遣いも声音もキツくなってしまいがちだった。悪い癖なのは自覚している。 「すみません……」 「謝らなくていいから、さ」 しばらく無言の時が流れた。 琴巳は彼女の言葉をじっと待った。 「私……、先輩のことが、好きです」 「それは、どういう“好き”?」 「いつも先輩のことばかり考えるようになって、いつの間にか、先輩に会えるのを期待して図書室に通うようになっていました。私は……、恋、だと思っています」 琴巳は黙って手にしていた本を棚にしまい始めた。向こうも黙っている。琴巳の返事を待っているのだろう。 「ねえ」 本をしまい終えたところで、琴巳のほうから呼び掛けた。 「私の話も聞いてくれる?」 「はい……」 「昼休みの放送でね、ちょっと変な子がいるの。しゃべり方がのんびりしすぎて、いっつも時間が足りなくなっちゃうんだ。バカにして笑ってる子も多いけど、でも、とってもきれいな声なの。聞き惚れて本も読めなくなるくらい」 「あの……それ……」 本棚越しに彼女の表情を想像して、くすりと笑う。 目の前の本の背に軽く額を当て、琴巳は言葉を続けた。 「いったいどんな子なんだろうって気になり始めたときに、本を借りにきた子の声を聞いてビックリしたわ。『あっ、あの子だ!』ってね。声から想像してたのよりも、もっとずっと可愛くてお人形さんみたいで……、気が付くと、その子が来るのを何よりも楽しみにしてて、来てくれるといつも目で追ってた。これって、恋だと思わない?」 一呼吸おいて気持ちを落ち着かせ、琴巳は向こう側へと囁きかけた。 「私も、貴女が好きよ、牧野志帆さん」 途端に、パタパタと忙しなく駆け寄ってくる足音。 「先輩!」 「図書室ではお静かに」 琴巳は人差し指を唇にあて、本棚の陰から現れた少女――牧野志帆に微笑んだ。
男は顔を赤くしながら浮わつく気分で車を走らせていた。 普段人気の少ないこの道は、真夜中だからか、他に人も車もなかった。 男は前方の信号を確認する。 信号の正面は学校があり、曲がり角になっている。 信号は青から黄色へと変わり、ブレーキを踏むなんて考えずとも、反射的に足はブレーキを踏む。 しかし、男は力が入らなかった。 ブレーキから足が滑る。 止まらないことに男は焦った。 男が上目で確認すると、信号は黄色から赤に切り替わった。 こんな状況にも関わらず、男は何故か、その赤い光を食い入るように見つめた。 男の意識がハッキリした時、自分の体が固定化されてることを第一に認識した。 体、腕、足、それぞれが縛られている感覚。 手首やらを小さく動かせはするけど、起き上がったりは出来ない。 更に目に映るのは木の板。 それは、首をその板にはめられているという事実を認識させた。 混乱したまま周りを見回す。 その光景は、フランスとかの、勝手なイメージのある王朝、その王座の間だった。 それだけでも異常なのは明白だが、更に異常なのは、そこに座る、厳かな、女王が着るようなドレスを着た、顔が信号機のそれだった。 人間の体に信号機の頭がくっついている。 その信号は青く光って、椅子に座り、正に女王が座るように両手を膝に置いている。 周りには執事服を着た、様々な形の街灯の頭を持つ人達が並んでいた。 更に男は酷く混乱する。 「貴方は何故、危険を省みないの」 聞き取れるくらいの耳障りの悪い、濁った機会音声のような声。 男は口をパクパクさせるだけで何も喋れない。 「混乱してるの?発言の自由は許しているわ」 その信号機は男の顔の近くまで歩いて、男を見下ろしたまま、沈黙を続けた。 その後、信号の色が黄色に変わる。 「顔が赤いから飲酒ね。臭いはわからないけど飲酒」 決めつけると男の反応を待たず、先程まで座っていた席に戻る。 「今まで見てきたからわかるもの。間違いはない」 信号機は手で合図をすると、一人の街灯が動き出す。 男の隣まで行き、備え付けられた紐を手に取った。 「私が傷つくわけでもないし、正直どうでもいいのだけど」 淡々と話す信号機。 この状況の異常、そして危険の察知が男の頭の中でぐちゃぐちゃに混ざる。 男の汗が床に滴り落ち、赤かった顔は青ざめていく。 信号機は話す。 「何か言いたいことはある?」 男は目が泳いだまま、叫んだ。 「お、俺は!」 「やだ、部屋が臭くなりそう」 信号機が合図した。 瞬間、男の意識は飛んだ。 男の頭が前方に飛びながら、最後に目に映したのは、そこに座る信号機が赤色に切り替わっていたことだった。 「…で正面の学校にドーンした男は、酒気帯び運転のはずが意識喪失の運転の形跡有りで、その顔は青一色だったと」 頭を軽く掻きながら、彼女は電話越しの上司に話す。 「へー、中々に現実離れした話っスね」 警視庁、異常現象秘匿課、春木夏奈。 スーツを着て、身嗜みを整えているのに対し、やる気のなさげな三白眼で、彼女は軽く上を見上げた。 「これがその信号機だと?」 信号機は変わらず、青から黄色、黄色から赤色へと一定の間隔で点滅していく。 「そうだ」 「でも主任ー。その証明の仕方も糞もないっスよー?」 ポケットに左手を突っ込みながら答える。 「ほんとお前態度舐めてんな」 「へーい、恐縮でーす」 「褒めてない」 電話越しに呆れ声が聞こえた。 「いいか?不可解な事故、その中身を分解し理解、特定し、それが人の身に余るものなら一般から秘匿するのが我々の仕事だ。市民を混乱させない為の重要な仕事なんだ、理解してるのか?」 「でもそういって行かされた現場、大概何らかの要因が重なった事故じゃないっスか、大体何もないっスもん」 背を電信柱にもたれかかりながら、信号機の様子を見つつ、ぼやいた。 沈黙が続く。 「…何もない方がいい、でもな」 「だから何もないっスて、そんな心配ならこの信号機ぶち壊せばいいんスよ」 地面から引っこ抜く手振りをしながら春木はそう言った。 信号機は青色で、行き交う車を通している。 「そんな簡単な話でもないんだ」 「まー主任。そこをなんと…か…」 春木の言葉が濁る。 その様子に主任と呼ばれる男は電話越しに疑問を持つ。 「ん?どうした」 「あー、いや。案外今回はアタリかもしんないっス」 真剣な声色で春木は話した。 その目には先程まで青色だった信号が黄色を飛ばして赤に変わったまま、切り替わらず、車をせき止めていた。 一番前の一台が止まったまま動かず、後ろの車が次々クラクションを鳴らす。その音の中で生唾を飲む音がした。
眩しくて、自然と瞼が開く。 カーテンの隙間から朝日が漏れ出て、ちょうど私の顔にかかっていた。 まだ寝ていたかったのに、と、唸りながら羽毛布団を頭に被り、身体を縮こませる。暗闇のなかでしばらく息を潜めていたが、苦しくなって結局、布団から顔を出した。 起きたくない。眠い。やだ。ぎゅっと目を瞑り、ゆるく呼吸を繰り返す。しかし睡魔は私を見放したのか、いっこうに手を引いてくれる気配は訪れない。 仕方なしに一息で起き上がる。もうそれだけで疲れた。私はあくびをかみ殺しながら、キッチンへ向かう。 寝起きで食欲がない。とりあえずマグカップに水を汲み、レンジにかける。でも後々腹が減るだろうことは(数十年来の付き合いである身体のため)分かっているので、割引だった千切りキャベツをボウルにうつし、トースターにパンを放り込んで焼く。 スマホでsnsを眺めながら、温めた白湯とキャベツを交互に口に入れる。美味しいかどうかなど、どうでもいい。ただ学生の頃よりかは健康に気をつけなきゃいけないという意識があるので、野菜から摂るようにしているだけだ。去年の今頃に受けた会社負担の健康診断ではオールAだったが、今年はどうだろう。 適当にテレビをつけ、登録しているsnsなんかにざっと目を通していると、推しているバンドのライブが秋に開催される旨の投稿が目に入る。次いで、フォローしているフォトグラファーの夜空を写した美しい写真や、好みの美術家が描き途中の画を載せたものが、スクロールするたび目に入る。 会える日を楽しみにしているとバンドのメンバーが個人のアカウントで投稿していて、そこには私と同じファンが“私たちも楽しみ”というリプライを送っている。美術家には、完成が楽しみだという期待の声が多く寄せられていた。 とりあえず、ライブのチケット争奪戦は気合を入れなければならない。そのためならうざったい上司や御局の機嫌を取り、有給を抑えられるように尽力し、残業も厭わず金を稼いで、どんなことでも屈せず折れずに成し遂げる気合がある。 今年の生きがいはこれだな。と思いながらたふたふ指を動かす。ファンの歓喜の声、遠い地に住んでる者の嘆きの声、全国ツアーでないと、イベントごとは賛のみよりもむしろ、常に悲喜交々といった風になる。 私はそれを見るともなしに見ていたが、ふと、言語の異なる投稿が目に入った。 動画が添付されている。薄青い空に、飛行機雲のような線が斜めに走っていた。 なんとなくそれを翻訳して、目を通し、そして、あ、と緩んでいた口元が強張った。 そうして、ため息に似た音のない吐息が、木目調のテーブルの上を滑る。 リアルタイムで、国を超えてあらゆる人と繋がれる――その恩恵を有難いものだと思っていた。 確かにそうだ。そう思う。情報源が新聞やテレビのみに限られていたひと昔前と比べたら、私たちはメディアに翻弄されることなく、己の意思で全てを取捨選択できる。だとしても当たり前に民意は存在するが、その大波のうねりに飲み込まれるかは、検閲も情報統制もすり抜ける生々しい悲鳴を聞く全ての人々に委ねられる。 「――次のニュースです」 テレビでは、今し方見たような映像が画面に映し出されている。あれだってきっと、ネットのどこかから引っ張ってきたものなんだろう。 手元で更新される投稿も、アナウンサーの読み上げる原稿も、そう内容は変わらない。戦争、物価高騰、内政事情、諸々。 私はそれをぼうっと聞いていた。レースカーテンから差し込む陽光がフローリングを白々しく照らすのを「今日は洗濯一気に片付けちゃおうかな」と眺めながら。 チン、とトースターが鳴る。 こんがりと焼けた5枚切りのパンは、休日用の特別な山型食パンだ。 私はとっておきのバターをこんがりときつね色に焼けた表面に塗る。席に着くまでに待ちきれず、端に齧り付いた。 香ばしい小麦の香り。バターの芳醇であまい味わい。 自然、目尻が緩む。 「おいしい」 別の所でテーマ「平穏な日常」として投稿したもの
空中を漂って 肺に侵入するマイクロプラスチック どこまで浸透するのだろうか 海中を漂って 生態系に侵入するマイクロプラスチック どこまで浸透するのだろうか 日常を漂って 私の体内に侵入するマイクロプラスチック どこまで浸透するのだろうか (完)
意外と出来てない。 コンプレックスだろうか? 環境だろうか? 性質だろうか? 眠い💤
君がいる事が当たり前だと思ってしまった。 君と迎える朝、君と共に過ごす夜……結婚してから直ぐの頃はそれが掛け替えのない日々に思えていたのに、1年……2年と過ごしていく内に、その日々が当たり前に思えてしまった。 馬鹿だよ……本当に馬鹿だよ俺。 君を幸せにすると約束したのに、君と結婚して5年経つと俺は君を泣かせてばかりだ。 メソメソ泣く君が面倒に思えて、家に帰るのが遅くなる日が続いた。 君が愛情込めて作ってくれた料理にもケチつけて、本当に殴りたくなるくらい馬鹿なことをしてた。 君の大きな目から零れ落ちる涙に薄汚い愉悦が湧き上がって、君を悲しませる日々が続いた。 死ねばいいのに……こんな俺なんか。 君はやっと掴んだ幸せそのものだったのに、俺は宝石の様な君を曇らせてばかり。 働いて疲れてる俺に暖かいお茶を淹れてそっと寄り添ってくれたあの暖かさは決して当たり前じゃなかったのに、君からの愛を俺は搾取するだけ搾取してその甘美に酔いしれてた。 本当に馬鹿野郎だよ……義父に殴られて当たり前だ。義母に罵られて当然の事をした。 君という幸せがあったのに、俺は君とは別の女性と遊んでしまった。 家に帰っても最近は表情一つ変えやしない君に会いたくなくて、俺はつい魔が刺して……いや、これはみっともない言い訳だ。俺は君からの愛が不変であると勘違いしていた。 だから、あんな愚行ができた。 だから………君はあんな事をした。 俺が家に帰った時には全てが遅かった。 玄関を開けたらいつもどんな時でも、お帰りなさいと言ってくれていた君の声が聞こえなくて、リビングに行ったら君は……ブラブラと天井から吊られていた。 「は?」 素っ頓狂な声しか出なかった。 口から泡を吹き君は虚な目で俺を見ていた。 何故私を裏切ったの? 何も言わないその口が俺に問いかけてるような気がした。 俺は……自分の過ちを悟った。 たくさん彼女を苦しめてたくさん彼女を悲しませて狂わせてしまった。 優しくて純粋だった彼女の最期はこんな風に迎えていいはずがなかったのに……その選択を俺がさせてしまった。 葬儀は滞りなく終わった。 義父に殴られた頬はまだ痛む。 義母に罵られた言葉が脳裏から離れない。 実父と実母にも迷惑をかけてしまった……生きていて意味なんてないや。 俺は遺書を書いて住んでいた高層マンションのベランダから飛び降りた。 ぐちゃり、と身体が地面に叩きつけられる激しい痛みを感じて、俺は……そこで終わるはずだった。 「ねぇ!?大丈夫!?」 心配そうに俺に声を掛けて肩を揺すり起こしてくれたのは、虚な目じゃない優しい君だった。 気が付いたら俺は君に抱きついていた。 温かかった。 柔らかくて君の優しい香りがした。 「ちょ、ちょっと……どうしたの??」 「君がいる……」 「え?」 「君が、生きてる……」 それが嬉しかった。君がいるというだけで喜びを感じた。 「嫌な夢見たみたいねぇ……どうする?今日のお出かけやめる?」 心配そうな眼差しで俺を見る君の後ろのデジタル時計を見ると、君と結婚したてのあの頃に戻っていた。 (そうだ……結婚して3ヶ月目に君と遊園地に行ったのだっけ) 忘れてしまっていた君との優しい思い出。 それを思い出して俺は「大丈夫だよ行こう」と返した。 君がふわふわのクマのぬいぐるみを抱きしめるあの姿をもう一度見たかった。 心配そうに俺を見つめる君とやってきた遊園地。広い売店で君はやはりあのふわふわのクマのぬいぐるみを見つめて目を輝かせていた。 それが可愛らしくて俺はあの時みたいに君に内緒でクマのぬいぐるみを買ってプレゼント用に包んで貰った。 可愛らしい見た目とは裏腹に絶叫系が好きで、ジェットコースターで楽しそうにキャーキャーはしゃぐ君。 その姿を俺は目に焼き付けた。 掛け替えのない物だから、大事にしたかった。 「ねぇ、楽しかった?」 帰り際君にそう聞かれた。 俺は勿論と答えたけど君はすぐに「嘘」と否定した。 「貴方ずっと私を見てた……朝から変よ?」 問い詰めるような視線に俺は耐えきれなくなって、遊園地のベンチに2人で座り悪夢の内容を少しずつ話した。 「嫌な夢ね……でも妙に現実味がある」 「……」 「でも、その夢を見た貴方はもうそんな事しないでしょ?」 「し、しない!してたまるか!」 「それなら私はそんな道には進まないわ……だって貴方の事を愛してるもの」 「俺も君を愛してる」 夕焼けが君の顔を優しく照らす。 陰るその前髪の下の目が一瞬だけ虚に見えて、その目に映る俺が血塗れに見えた様な気がしたが、俺は気のせいだと思い込んで君とキスをした。 全部、全部、夢じゃなかったのに。 男は優しい夢の世界に彼女と共に向かった。 夢の世界ではもう間違えるなよ……と誰かに背を押された。
山登りおじさんが怒った。 寿命が縮んだ。 本当は今年まで生きる筈だったのに。 全て計算で何とかなると奢っていたからだ。 僕と口論すべきではなかった。 僕の宇宙人成分が気にさわらなかったのだろう。 狩るものは狩られる。 生き返らせて寿命を全うさせるのも一苦労だ。 僕は万能の器でも願いを叶える玉でもない。 謝れと言ってきた。 何処かの誰かと同じことを言っている。 自分が絶対正しいと思っているアレだ。 修正するのだろうか? 同じ穴の狢。 期待するだけ無駄だった。 僕もそろそろかもしれない。 冗談がなかった。 眠い。 自分だけ助かろうとかダサくなりたくないとか。 だから臭いと言われる。 だから傲慢と言われる。 ハリボテの国ばかり。 悲しくなる。 楽しくない。 機械か何かで心を読んでいる。 自分の心を使わない。 臆病なのか傲慢なのか。 冗談がない。 全て虚構。 障がい者が溢れて金のない人から死体になっていく。 何を目指しているのかわからない。 利用される。 また金のためだ。