朝眠い夜眠くない

 仕事前。  確実に、欠伸を一つ零す。    深夜。  確実に、「眠れない」と一つ零す。    朝起きて、夜寝る。  神様がそう作ったはずなのに、何故こんなにも逆の反応を示すのだろうか。    夜目も効かないというのに。   「それは人間が、禁断の実を食べたからだ」    電線に乗るカラスが、馬鹿にしたように見下ろしてきた。  ぼくの足元には、カラスが食い散らかしただろうリンゴの芯が転がっている。    さtれ、禁断の実とはなんだろう。  知恵の実を食べた罪であれば、歴史として知っている。  禁断の実とは何だろう。    カラスは飛んでいき、尋ねることはできなくなった。    人間だけが食べた何か。  少なくとも、肉と草でないことは確実だろう。    ぼくは答えを求めたが、空腹で脳にエネルギーが回らなかったため、牛丼を食べに店へ入った。    窓の外から、カラスがじっとこちらを見ていた。

贋作人間

「ほーら。よく似合ってるわよ」    書類上の母親が、ぼくの旨に服を当ててくる。  ぼくの好きじゃない赤色の服。   「あの子は、赤色の服が好きだったのよ」    ぼくのオリジナルが好きだったらしい赤色の服。    物心ついたころから天涯孤独で、このまま日陰の中の人生を歩んでいるんだろうなと思っていたところ、ぼくは救い上げられた。  ただ、死んだ息子に顔が似ているという理由で。    周囲より何十倍も広い家。  当たり前のように置かれている芸術品。  一目見て、勝ち組側の人間だと分かった。  だから、人生逆転、なんて夢物語にかけて養子縁組を承諾した。    事実、この家に来てから、衣食住に困ったことはない。  ただ、代償として名前も性格も、全てを捨てる羽目になった。   「あの子は、そんなことしない!」    それが、両親の口癖。  ここに来たばかりの頃は、一日十回以上聞かされた。  時には平手打ちと共に。    何て面倒な家に来てしまったのだと思ったが、ここで捨てられては再び施設に逆戻り。  テスト勉強でもするように、必死に叱られたことを吸収していった。  そのかいあって、今では叱られることは月に一回程度だ。    裕福な家庭。  人並み以上の教育。  ぼくの事情を知らない友達からは、親ガチャ大当たりだな、なんて言われたこともある。  ぼくは何も答えず、笑顔だけ作っておいた。    幸せ。  そう、幸せだ。  きっと、日陰で生き続けるよりもずっと。   「あー、しんど」    適切な努力ができて、適切な評価が下されている今に、文句なんて言ったら罰が当たるというものだ。    ただし鏡に映る度、自分はこんな顔だったかと悩む呪いは、いつまでたっても消えてくれない。  かつての自分の名前が耳に入る度に脳がチクリと痛む呪いは、いつまでたっても消えてくれない。   「芸術にも詳しくないと駄目よ? 大人になった時、恥をかいちゃうから」    母が連れて来てくれた美術館。  レプリカの作品を初めて見たとき、ようやく仲間を見つけた気がした。

やさしさなきもの

 手のひらに固まった血をパリパリと剥がしながら、男は研究結果を手に取った。それはたった数枚の紙が束ねられただけであり、子どもの課題にも思えそうなほど軽かった。されど、その軽さに反比例して厳重な金庫の奥底にしまい込まれていた紙束は、かつて人類史上最高の頭脳と呼ばれた研究者の最後の研究を記しているものだった。  側頭部から銃弾を埋め込まれた死体から流れる鉄臭い匂いが充満する部屋の真ん中で、今は亡き研究者の生涯を男は想像した。研究者は幼少期、誰からも共感されることなく唯一の肉親だった父親も亡くし施設で孤独な時代を過ごしたという。のちに才能を発掘され他国の大学で研究を開始。瞬く間に成果を上げ始め人類の文明をたった一人で十年近く押し上げた傑物となる。そうして得られた地位や名声、金を使って始めたのが男の手元に残された研究だった…。男の瞳に涙はない。男もまた、産まれて以後誰からも好かれることなく、偶々拾われた反社会組織で育ったのちに人殺しの才能を開花させた。今まで殺害した人間の数はその道の誰もなし得たことのないものになった。…なってしまった。  …ほんの少し、研究者と自分が被るような気がして、男は手に持った紙束、最後のレポートを暗闇の中でじっと見つめた。 『人間の意識について』  乱雑に走る文字を読み、男はページをめくる。小難しい言い回しや理解できない単語を読み飛ばしながらも、かろうじて理解を進めながら男は読み続けた。たった数枚に込められた圧倒的な熱量を感じながら男はページを捲り続ける。そうして最後のページに到達した男の目に映ったのは、まっさらで何もないようなページの隅に小さく走る小汚い文字だった。 『わからない。私の心も、父の心も、誰の心も、物理は私に答えを与えてはくれなかった』  嘆いている。だから死んだのだろう。 『私には必要のないものだと。愛を知らずに生きた私に心はいらないと、無くて良いと言うのだ。今日ほど生まれて良かったと思う日はない』  …およそ論理的でない、矛盾を孕んだ文。そして男はパラリと紙束を閉じると両手で真ん中から捻じるように力を込め、ふたつに破り捨てた。  そして男は、二度と自分を育てた組織の下に戻らなかった。

ゲームセンターのネズミ

 夜のゲームセンター、二人の青年がクレーンゲームの前に立っている。 「ラットホープ実験って知ってる?」  ウサギとクマのぬいぐるみを持った氷魚は、コントローラーを険しい顔で握る河南に言った。 「なにそれ」  訊くと同時に、アームに掴まれていたパンダのぬいぐるみが奥へと飛んでいく。河南は無言で百円玉を五枚を投入口にいれる。 「ネズミに希望を持たせる実験。水の入ったプールにネズミを入れて、どれくらいの時間、水面から顔を出して泳いでいられるかを試したんだ。平均すると十五分すると、ネズミは諦めて水の中に沈んでいく」 「ネズミがかわいそうだ」  河南の口調に、同情は少しも感じない。アームから落ちたパンダが低い音を立てる。もう何回聞いた音か、分からない。 「次はネズミが諦めて沈んでしまう前に、一度、プールから出して休ませてからもう一度プールの中に入れるんだ。この場合、ネズミは何分間泳ぎ続けると思う?」 「諦めそうになったら休憩できると思って、五分で諦めそう」  河南はまた百円玉を五枚入れて「これが最後だ」「もう無理だよ」「これで諦めるよ」と、クレーンゲームに伝えるように呟く。 「正解は六十時間。希望を見せれば、六十時間も泳ぎ続けたんだ」 「ネズミがかわいそうだ」  河南はどうでもよさそうに言った。 「今のお前はネズミだよ」  アームからパンダから落ちる。今回はかなり落とし口に近付いている。 「このまま、落とせたら良いんだけど」  パーテーションの横に転がるパンダはこちらを見て笑っている。 「このウサギとクマが取れたから、パンダも取れるはずって躍起になっているんだ」  もうすでに、クマとウサギをとった金額を超えている。 「取らないとかわいそうだろ。一人だけ仲間はずれはよくない」  氷魚は両手にいるウサギとクマを見た。どちらも笑っている。 「一人というか、一匹じゃないのか。それに河南が揃えたいだけだろ」 「三人一組なのに、二人しかいなかったら落ち着かない」  パンダが落ちる音と同時に、河南は両替機に向かって歩いていく。ガラス越しのパンダは、背中を向けて転がっている。  両替機から戻ってきた河南の目は、ウサギをとった時の輝きを失っている。 「ウサギでやめておいたらよかったのに」 「三人一組なんだって。氷魚は読んだことない?この動物の漫画」 「読んだことないな」 「ギャグ漫画なんだけど、面白いよ。この三人と小学生の女の子の日常なんだけど」 「女の子、いないじゃん」 「それは、あれだよ、あれ。お、良い感じ」  パンダの足がパーテーションに乗っかっている。 「頭を浮かせて」  アームは浮かせるどころかそのまま持ち上げて、また遠くへ放ってしまった。 「これが最後の五百円だからな。無理なら諦める」  何度目かの宣言をクレーンゲームにする河南を笑うかのように、ガラスの中のパンダはうつ伏せでお尻をむけている。 「よければ、調整しますよ」  後ろから、オレンジ色のユニフォームを着た女性が声をかけてきた。女性は沢山ついた鍵の一つでガラス扉を開けると、パーテーションの上にパンダを置いてくれた。これは失敗する方が難しい。河南は驚き、何度もお礼を言った。女性は笑顔で「ずっと苦戦されているようだったので」と言って離れていった。 「もっと早く来てくれたら良かったのに」 「そんなこと言うなよ。まずは感謝だろ。これはちょっと押せば取れるな」  河南は百円玉をいれ、コントローラーを握った。 「あのお姉さんが俺の希望だったんだよ。諦めなくて良かっただろ?」  帰り道、三匹のぬいぐるみを持ちながら、河南はご機嫌に言った。オークションサイトで売られている値段の六倍の金額を使ったことは忘れることにしたらしい。店を出た時には「思い出を買ったんだよ。思い出を」と何度か自分を納得させるように言っていたけど。 「かわいいなあ。久しぶりに読もうかな。氷魚も読む?今度貸してやるよ」  氷魚は少し考えて訊いた。 「ネズミは出てくる?」

選ばれる側のコンプレックス

 風俗嬢に"なれない"女の子もいるんだなぁって、思った。    私はなんだっけな、いつもスカウトって無視するんだけど、あいつは顔がちょっと好みで。星乃珈琲店連れてかれて、連絡先交換して、うざかったからブロックしたんだけど、金無い!ってなって、慌てて連絡したんだよね。言われるままに住民票用意して、店まで案内してもらって、面接受けて、その場で適当に写真撮ってもらって。  クソみたいな仕事だなとは思ったけど、まぁ似たようなことはやってきてたし、耐えれた。彼氏の家賃これで払える!って単純に喜んだ。そこからズブズブ入店しちゃったけど、あの頃は写メ日記もテキトーでよかったし、パネルで指名が入るから苦労はしなかった、な。  あー、なんでこうなっちゃったんだろう。  既婚者に手を出したつもりはなかった。けど、マッチングした相手がそうだと気付けるほど、私は賢くなくて。見た目は好みだし、話も合って、ちやほやしてくれて、優しくしてくれて。私にとってはいい男、だったんだけど。    ある日突然二百万円の慰謝料を突きつけられた。  「既婚者だと知らなかった」と伝える賢さも、冷静さも、私にはなかった。    昼職も貯金も男も友達も、ぜーんぶ失った。  それで仕方なく、今までで一番居心地良かった在籍店に戻らせてもらった。  朝から晩まで、狭い個室でダラダラして、仕事が入ったら仕事して。    いい歳してこんな仕事して、昼職もしてなくて、もう本当、人生クソだなって毎日思う。毎日死にたい。毎日当日欠勤したい。毎日ストレスとエナドリのせいで寝れなくて、ほぼ寝てないまままた出勤して、わずかな待機時間に寝るけど部屋のコールが鳴る直前の『プッ』って音で目が覚めちゃって。本当にもう、こんな毎日、嫌で嫌で仕方なくて。給料精算してもらってその日の稼ぎを目の前にしても、どうしても昔と比べて「こんなもんか」って、帰り道は惨めで泣きそうになった。  けど、見ちゃったんだよね。  出勤しようとエレベーターに乗ろうとして、泣いて出て来たのは、まぁ、結構な、デブス。  挨拶しに受付に行くと、丁度、多分その子の話をしていた。 「マジやばかったすねーあの子。どこのスカウトっすか?」 「いや、求人から直接よ。今時股開くだけで稼げるわけねぇのにな。……あ、ミキちゃんおはよ!」  ……私を見て声のトーンが上がったことに気付いて、私は思わず笑みを浮かべる。  愛想笑いではない、勝手に口角が上がる。 「おはようございます♡ 今日もよろしくお願いします」 「あいよろしくー、今日は7番の部屋ね」  はーい、と返して荷物を取りに控え室に向かう。扉を開けると、別の女の子がコタツに座っていた。 「はよーございまーす」 「……ます」  ちっさい声。  そんなんだから部屋もらえないんだよ。私も部屋持ちじゃないけど、個室待機はさせてもらえるのに。  あのエレベーターで見たデブスもそう。  今時、股開くだけで稼げるわけないのにね。私みたいに、可愛くてスタイル良かったらよかったのにね。  SNSに書きたくなるのを抑えつつ、タイムラインを眺める。稼げないだの、今日もお茶だの、クソ客速報だの。まぁクソ客にはちょっと同情しつつ、稼げてない子たちの陰鬱な呟きは正直見ていて楽しい。    あーあ、みんなかわいそうに。それに比べたら、私って恵まれてるよね。出戻りだけどそこそこ売れてるんだもん。他の在籍の子と違って顔出しも乳首出しもしてないのに鳴るし、本指名もそれなりにいるし。金なくて染められないってだけの黒髪も清楚で評判いいし、仕事で化粧すんのコスメが勿体無いからっていう薄化粧もキスしやすいって気に入られてる。    今の私を支えてるのは、このしょうもない、クソみたいな優越感。どうせ他人からしたら豚の背比べなんだろうけど、今の私に残されるのは、この矜持だけ。この顔と、このスタイルと、この愛嬌。  ああ、可愛くてありがとう、私。私を生かしてくれてるのは、私だけ。まぁ私を転落させてんのも私だけど、まぁ、少なくともあのデブスちゃんよりは全然マシだよね。  あの子の境遇もここに来た理由も知らないくせに、私は一人、ほくそ笑んだ。  今日も始まる12時間待機に向けてまだマシなメンタルで臨めるようになったことを、ここで働かなくていいデブスちゃんに感謝した。

カフェラテとドーナツ

「カフェラテとカフェオレの違いって知ってる?」 「知らないなあ」 「カフェラテはエスプレッソにミルクを入れたもので、カフェオレはドリップコーヒーにミルクを入れたものなんだって」 「へえ」 「私はさ、ブラック飲めないから。コーヒーに拘ってるお店こそカフェオレが飲みたいんだけど、カフェオレがあるお店って思ってるより少ないよね」 「そうだね」  休日の昼下がり、チェーン店のドーナツ屋。窓際の席で、駄弁る男女がいた。 「俺はカフェラテが飲めさえすれば良いかな」 「ホント、味気ないなー」  ドーナツを頬張る女性の隣で、飲み干したカフェラテのコップを回す。大粒の氷がガラスと擦れ合い、カランと静かに音を立てた。 「ね、今度カフェラテが美味しいお店見つけに行こうよ」    そこで俺は、目が覚めた。  職場から一番近いコンビニのイートインスペース。昼休憩でご飯を食べ、少しだけ仮眠をしていた。社用携帯を確認すると、休憩前にチャットで聞いた質問の回答が、3分前に届いていた。  容器の半分程残ったカフェラテを一気にストローで吸う。氷が溶けて、少し水っぽい。カフェラテ特有の苦さはとっくの昔に薄まっていた。  会社に戻るため、席を立つ。ついでに苺のドーナツと、新たなカフェラテを買う。  今日中に片付けないといけない仕事が山ほどあるのに、足はいつもよりゆっくりにしか動かない。夏の茹だる暑さのせいか、はたまた、夢のせいか。  隣にいた女性の名前も、その後カフェを開拓したのかも思い出せないのに。今の今まで忘れていたのに。少しだけ、心に穴ができた気がした。  買いたてのカフェラテはちゃんと苦かった。  

ブラック労働は世界の外にしかない

 連日流れるニュース。  低賃金に過重労働。  いわゆるブラック労働。    例を挙げるならば、運送業界。  個人に向けた通販のサービス拡大により、店から店へ届けていた時代よりも配達先が増え、配達員のノルマも増えた。   「いやー、無理ですね。一時間で数十個の荷物を裁くなんて当たり前ですからね」    顔にモザイクのかかった社員のインタビューに、世間が激高する。   「人を何だと思っているんだ!」 「ブラック企業なんて最低!」 「すぐさま、配達員たちの待遇改善を!」    SNSの拡散は、すぐに運送会社の社長の耳に入る。  社長はテレビカメラの前に現れて、頭を下げた。   「お客様からのお声、真摯に承りました。つきましては、弊社社員の労働量に上限を決め、負担なく働けるよう環境改善に努めてまいります」    SNSは沸いた。  正義の勝利だと沸いた。   「実現のために、皆様に二つのお願いがございます。翌日配送のサービスを廃止し、二から三営業日以内での配達を最短とさせていただきます」    SNSは沸いた。  ふざけるな、と。   「もう一つは、配達をして下さる社員の募集です。AIにより示される順序通り配達する、簡単なお仕事です」    SNSは沈黙した。  ぼくたちはエアコンの効いた部屋で荷物が届くのを待っていたいと。    翌日。  SNSは、頑張れ配達員の声一色。  運送会社に届くクレームには、翌日配送のサービスをやめるな一色。    頑張れ。  頑張れ。  頑張れ。  応援と言う実にポジティブなメッセージが、黒い労働環境の上にさらに黒を塗り、誰にも見えないようにしていた。

黒いワンピースの少女

学校の帰り道、電車の中でスマホを見ていた。電車の外はもう真っ暗で、何も見えない。目の前の席には、黒いワンピースの女の子が俯いて座っている。   スマホに母からメッセージが届いていた。 「今日は遅いのね。夕飯先に食べとくわよ」 「わかった!私ももうすぐ帰り着くから」   いつの間にか、座っていた女の子が目の前に立っているのが視界の端で見えた。 「大丈夫?なにか困ってることでもあるの」 その少女が、ゆっくりと顔を上げた。 目がない。口がない。鼻が無い。本来顔があるべきところには、黒い闇が広がっていた。 慌てて逃げ出そうとすると、それに腕を掴まれた。 黒い顔に対比するように、太陽の光を知らない青白い肌。   「私に、くれませんか?」 何を?   目を開けると、いつもの電車内。 だが。 そこには、誰もいなかった。   目を閉じる。学校で疲れたせいで幻覚でも見てしまったのだろうか。 ピコン。 スマホの着信音がなって、開いた。 「今日は遅いのね。夕飯先に食べとくわよ」 お母さんの連絡に見覚えがある。 私はこの後……たしか   それは、すぐ目の前にいた。 「お姉ちゃん、そのぱっちりとした目、可愛いね。ピンク色の唇も、形の整った鼻も、私に、くれませんか?」 目の前にたっているのは、あの時の少女。 「顔はあげられないから、離して!」 それの手を振り払った。 「お姉ちゃんは、くれるよね。優しいから」 少女の声は静かだった。 「だから!」 意識がブラックアウトした。   ぼんやりと、目を開けた。それは今はここにいないようで、電車には誰も乗っていなかった。それにほっと安堵して、スマホを取りだした。とにかくなにか声がしないと安心できない。 イヤフォンをつけてスマホで音楽をかける。 着信が来た。 「今日は遅いのね。夕飯先に食べとくわよ」 その連絡を見て、顔を上げた。 そこには何もいない。   ほっと安堵して、いつも通り電車をおりて、家に帰る途中、くらい公園の前を通り過ぎる。 ぎぃー 音が鳴った。反射的に公園の方を見ると黒いワンピースを着た少女がブランコに座って、ゆらゆら、ゆらゆら、揺れている。 それを必死で見ないようにしながら、家に帰った。   「ただいま!」 「おかえりなさい。早くご飯食べて、お風呂はいっちゃいなさい」   お母さんにそう言われて、用意してあった夕飯を食べて、お風呂に入って部屋に帰った。   ベッドに寝転びながら、スマホをいじった。 「私に、くれませんか?」 どこからか、声がしたような気がした。   次の日学校に向かう。駅までの道、足元にうずくまる黒いワンピースの少女。 「私に、くれませんか?全てください。」 こちらを見るのは、相変わらず深淵を感じさせる暗い穴。 走り出す。持っていた手提げカバンを掴まれて、咄嗟の判断で放り投げた。 この間の公園を通り過ぎ、駅の改札を走り抜けて締まりかけの電車に飛び乗った。 後ろを振り向くと、追いかけてきた黒いワンピースの少女が人間とは思えないスピードで迫ってくる。 「まもなく発進します。」 その、のんびりした駅のアナウンスを聞きながら早く扉が閉まることを祈る。 お願い!しまって! 私の願いが通じて、電車はしまった。黒いワンピースの少女は、俯いたまま動かない。 電車が動きだした時、少女は顔を上げ、私の顔でにこりと笑った。 「次の行先は、ありません。電車はどこまでも運行致します」 いつの間にか、車両の中にいたはずの人が消えている。 電車の扉を叩いて、叫んだ。 「だして!お願い!」 無慈悲にも、扉が空くことは無い。   私は、長い間ずっと、ずっと、この電車の中にいた。 目の前に、人がいた。スーツを着た女の人。 その人の目の前に立つ。 「あら、どうしたの?」 その人は、私を見て、話しかけてくれた。 「私に、くれませんか?」 あなたの顔をくれませんか? あなたの人生をくれませんか? あなたそのものを、 私に、くれませんか? 私に答えてくれた、優しいあなたへ。 お姉ちゃんは、優しいから。くれるよね?

スマホが二時間しか触れないので

『二時間が経過しました。スマホの操作をロックします』   「あ」    電車の中で、無情な宣告が下される。    スマホ使用時間制限条例。  うちの市は、仕事と勉強を除き、一日二時間までしかスマホを使用できない。  そのため、全てのスマホには市が開発した独自アプリが入っており、二時間を経過した時点で自動的にロックがされるのだ。   「最悪」    私は悪態をつきながら、スマホをポケットにしまった。  スマホがなければやることがない。  外の景色でも見ようかと思ったけど、混んでて目の前には人が立っているので無理だった。  私は電車の広告を、意味もなく見つめた。        そして突然、アラームが鳴り響いた。  私のポケットから。       「やっば!」    チケットの予約開始五分前にアラームを設定したのを忘れていた。  私は、迷惑そうな視線を浴びながら、急いでスマホを取り出す。    なんと、スマホはロックされていた。  当然、アラームの解除もできない。   「あー」    私はアラームを止めずに、ポケットへ戻した。  そしてイヤホンを耳につけ、ノイズキャンセリングをかけた。  静かなる社会。  完璧。   「おい、五月蠅いぞ!」    隣に立っていたおじさんが、苦言を呈してきた。   「すみません、二時間経ってロックかかってるので」    私が返事をすれば、おじさんはそれ以上何も言えなかったのか、私と同じようにイヤホンを耳につけていた。    駅に着く。  電車から降りる。  駅の中は、私と同じくアラームを鳴らしている人や通話の着信音を鳴らしている人の大合唱。   「やっぱ、二時間じゃたんないよねー」    私は、私だけが悪くなくてよかったなあなんて考えながら、自宅へと歩いた。        一週間後、独自アプリはなくなった。  なんでも、市長のありがたい演説の時にアラームと着信音が鳴り響き続けて、ありがたい演説が誰にも届かなかったかららしい。    ばーか、ばーか。

自分のなかのことなのに

月がかわったというのにそう感じられないのは、まだまだ高い気温のせいか、それとも、わたしのせいか 長く着ていなかった制服が、なんとなくさまになって見えるのは、成長というものか、それとも、ただの錯覚か たくさんの人たちとすれ違わないといけない駅は、あいかわらず鬱陶しく、煩わしい そんな場所に、毎日、足を運ぶのかと思うとユウウツにもなるけれど、イヤなのにやめようともしない自分を思い、哀しくて泣けてくる 学校のみんなに会っておはようを言えるよろこび くだらなくも青春を感じていられるには必要不可欠なおしゃべり 先生のお説教を聞き流せるだけの根拠のない自信 学校のみんなにさよならを言わないといけないさみしさ また明日ね、と言えることが、すこしの希望 無意識が指を画面にすべらせる すこしは前向きになりたいのに すこしはね すこしは うすらぐ夏の気配 ちょっとずつ 秋のもの ちょっとずつ ちょっとずつ いまは 夏なのか 秋なのか 空が秋の雲だと気がついたとき、わたしのなかにはすでに秋がやって来ていて、忙しいから忙しくないから、勉強してるとかしてないとか、あのときの男の子がどうしたことした、そのほかもろもろあれやこれやで自分のなかに秋が来ていることに気がついていない 自分のなかのことなのに きちんと見てみると、そこここに秋は、たしかに来ている ぶどうを食べたい その気持ちは あっけなく すぐ消えてしまった ぶどうを食べたい その気持ちがだんだん長くなっていって、強くなっていって、大きくなっていって そうして秋がやってくる わたしが食べるぶどうは、きっとあまい すっぱくなんかない すっぱいぶどうがあまくなって、そうして、秋がやってくる 暑いのは好きじゃないのに、夏なんてなくてもいいのに、そう思っていたけれど、きちんとおなかにものを入れると、すこしは前向きになれるみたい そのことを知った夏は、もうすっかり過去のこと

流れ星はぶつからない

 夜空を見上げながら、子供は尋ねました。   「どうして流れ星はぶつからないの?」    星と。  月と。  そして人間と。    宇宙は広く、星は余りにも小さい。  だからぶつからないのだよと説明しても、きっと納得しないでしょう。   「皆と友達になりたいからだよ」    返事は、なんともロマンあふれるものになりました。   「友達?」 「そう。皆にぶつかっちゃうと、友達になれないでしょ?」 「ふーん」    子供は首を傾げた後、広げた手を夜空に伸ばしました。   「じゃあ、私も友達! ずーっと友達!」    星が、きらきら輝きます。  まるで子供に、数千数万の友だちができたように。   「じゃあ、ママも友達」 「パパも友達」    流れ星が一つ、夜空を駆け抜けました。  突然流れたその星は、まるで子供の手を取って握手をしようとしたような、一層煌めく一番星でした。

女性の社会進出の対義語

「女性の社会進出を進めよう!」 「女性の社会進出権利の尊重を!」    権利とは、声と行動で手に入れるものだ。  国会議事堂の前に集まった人々は、共通の想いを持って世界へ叫び声を届ける。    そして、男女平等を掲げる世界の声も、決して無視をしてはいけない。  女性が社会進出という権利を得たのであれば、反対の立場にある人間を守る声も上げなければならない。  それこそが、平等な社会と言うものだ。    一人が叫んだ。   「女性の社会進出と同時に、専業主婦になる権利も守れ! 選択の自由を!」    一人が叫んだ。   「女性の社会進出と同時に、男性が専業主夫になる権利も守れ! 選択の自由を!」    一人が叫んだ。   「女性の社会進出と同時に、男性の家事育児参加推進を! 二人で支える生活を!」    叫び終えた後、三人は顔を見合わせた。  同じ言葉を叫んでいるつもりだったが、言葉の意味が別物だと気づいたから。   「あんじゃごらー!」 「やんのかこらー!」 「せんそうかこらー!」    国会議事堂の前で、一つの醜い喧嘩が始まった。

あなた、使っていますね?

『あなたのイラスト、生成AIを使っていますね? 生成AIは、イラストレーターの作品を無断学習した、著作権違反のツールです。今すぐ使うのをやめて、謝罪しろ』    正義、ぼく。  今日も正義を執行する。    相手からは、『私は自分で書いています』と反論が来たが、言葉だけなら何とでも言える。  タイムラプスでイラストを描いている動画も公開されたが、どうせこれも生成AIだろう。  動画の生成も、技術が進んでいると聞く。  この程度はやってくるだろう。   『見苦しい言い訳をしないでください。ファンを騙して楽しいですか?』    その後、何度も抗議をし、最後には相手がぼくをブロックした。  これはつまり、認めたってことだ。  自分が生成AIを使っているってことを。   「勝った!」    とは言え、正義は悪を逃がしたりしない。  サブ垢を作って、追撃は行う。  逃げ得が許されるからこそ、この世から生成AIユーザーはいなくならないのだ。    ぼくがサブ垢の準備をしていると、ぼくの本垢にメッセージが届いた。   『こいつ、AIだろ? 文章がめちゃくちゃだもん』    は?   『わかる。人間は、こんな表現しないよね』    は?    そして、ぼくの過去の投稿が挙げられた。  誤字、文法ミス、慣用句の誤用。  なんだ、ただの馬鹿か。  人間、誤字くらいすることをわかっていない馬鹿だ。    ぼくはさっそく、馬鹿に反論した。   『ただの誤字ですよね? それだけでAI扱いするとか(笑)』    返事は即座に帰ってきた。   『はいAI』   『今時、(笑)とか古すぎ。さすがAI』   『返信速度も速すぎ。これはAIかニート』    はあああああ?  仕事してますけど?  人間ですけど?  こいつらは、すぐさまAI判定して、恥ずかしくないんだろうか。    しばらくやりとりしてもらちが明かなかったので、俺は自分の写真を撮って、証拠のために投稿した。   『ほら、人間だろ? よく見ろ馬鹿どもwww』    返事は即座に帰ってきた。   『ぶっさ。これはAI』   『歯ががたがたすぎ。どう考えてもAI』   『顔の輪郭がおかしい。これで人間って信じろって無理があるwww』    はあああああ?  人間ですけど?  実在してますけど?  こいつらは、人の顔を見てAI判定して、失礼にもほどがある。    ぼくは放送禁止用語をひたすら書いて馬鹿どもを罵倒した後、そいつらをまとめてブロックした。   「くっそ、気分が悪い! 寝る!」    馬鹿の相手に疲れた俺は、怒りで熱くなった体のまま、布団も書けずにベッドで寝た。

曇天

おはよう 今日は君の好きな晴天だよ 朝は目玉焼きを用意したん用意したんだ 昨日はうっかり黒焦げにしてしまったけど、 今日のは大丈夫 早く君の笑顔が見たいな 窓を開け、空気を入れ替える 昨日までとまるで変わらない君が、部屋の中央に横たわっている 静かに眠る君の寝顔がいとおしくて、傍に腰かけ、 ついそのきれいな髪に触れようとして、 手を止めた 眠っている君を起こしてしまうのも、悪いからね… 君を包み込む小さな四角は、無機質な呼吸を忘れたように沈黙していた 僕と君とを隔てる透明な障壁は、うっすらときらめいていた

友達ちゃんぽん

 友達の数、たくさん。    今日はアウトドアな友達。  今日はインドアな友達。    今日は日本人の友達。  今日は外国人の友達。    今日はポジティブな友達。  今日はネガティブな友達。    同じ友達一人じゃ飽きる。  自分の気分によって、今日会う友達は変えたい。  お酒だって、同じ種類を飲むより、たくさんの種類を楽しみたいじゃないか。   「いや、今日無理」    最初はうまく回っていた。  最近は誰も合ってくれなくなった。  皆、ぼくよりも仲の良い友達を見つけたらしい。  皆、そっちを優先しているらしい。    悪酔いした時のように、頭が痛くなった。  ぼくにとっての友達は、世間から見れば友達でなかったと気づいて、まるで自分が否定された気分だった。    その日は、一気にたくさんのお酒を飲んだ。

あの夏

あの夏のこと もうすっかり 忘れてしまったよなあと 言ってしまえるくらいには あの夏のこと まだまだ 覚えている

せめて、息の仕方を忘れないように

 ダイエットの薬を始めてから、時々動悸がするようになった。  バクンバクンと、身体の中で脈が自己主張する。別に害があるわけじゃない。痛いわけでも苦しいわけでもない。けれどやたらとうるさいそれは、なかなか無視できなかった。    低血糖かと思って、ラムネを食べた。  ストレスかと思って、GABAとかデパスとか色々飲んでみた。  貧血かと思って、鉄分のサプリも飲んでみた。  動悸は止まらなかった。  SNSを見ると同じように副作用が出てる子はいるみたいで少し安心したけど、だからといって別に動悸が落ち着くわけじゃない。  害はないのに、ただただうるさい。自分の身体にノイズが走っているのが、ただただ不快。      ――ああ、これは罰なんでしょうか。  痩せたいからと、自由診療に手を出したことへの。  この薬に頼る人間への批判がネットで繰り広げられているのは知ってる。病気の人のための薬をダイエットのために使うなんて最低だ!とか、自力で痩せられない奴がズルしてる!とか。  でも、私はすぐに痩せなきゃいけなかった。あのままのスペックじゃどんな店も受からないから。あのまま稼ごうと思ったら、見知らぬ男に飲尿させられることも我慢しなきゃいけなくなるレベルだったから。  ダイエット薬を始めて2ヶ月、ようやく"女の子"らしいシルエットになってきた。あと少し、あと5kgでも痩せたら、きっともっといい店に行ける。  自由診療だからいつでも断薬できる。副作用が辛くてやめたという人の投稿もたくさん見た。    それでも私は、引き下がれない。  稼がなきゃ、お金がなきゃ、生きていくことはできない。家賃も光熱費も通信料もお金がないと払えない。傷病手当も失業保険ももうもらえないし、貯金だってもう30万もない。  けど、生活保護も借金も真っ平ごめんだ。  私はまだ、ひとりで立っていられる。  ――ドク、ドクン、、クン、ドクン  ああくそ、また動悸がする。  一瞬、呼吸がうまくできなかった気がした。  けど大丈夫、まだ大丈夫だから。  大丈夫じゃないと、今日、働けない。今日の体験入店で3万でも持って帰らないと、家賃が払えない。だから大丈夫。私は今日、ちゃんと稼ぐ。大丈夫だから。    何度も何度も、大丈夫だと、自分の脳味噌に言い聞かせる。  心臓は不規則に脈打ち、私の身体を責めるように叩く。  けれど、だから、せめて。  息の仕方だけは忘れないように、私は目一杯深呼吸を繰り返した。

悪夢

「それでは、家宅捜査を行います」  警官の確信した視線から逃げるように、目を泳がせた。必ず、あの血で濡れたタオルは見つかるだろう。何故、警察が到着する前にもっと上手く隠しておかなかったのか。すぐに見つかるような裏庭に置いた自分を呪う。  もう逃げられない。僕はもうすぐ捕まるんだ。もう逃げられない。隠すこともできない。  目を覚ますと、恐怖と不安に身体が痺れていた。窓からは太陽の光が差し込んでいる。ここは自分の部屋であること、ベッドの上で寝ていること、全ては夢であったこと。それらを理解するのに、少し時間がかかった。  力の入らない足で冷蔵庫にむかい、冷たい麦茶を飲むと、少し気分が落ち着いた。  あまりにリアルな夢だった。夢の中で、自分は二人の同級生を殺したのだ。殺した相手の顔は覚えているが、名前は思い出せない。どうやって殺したのかも覚えていない。夢の中では連続殺人事件が起こっていた。被害者は皆、中年の男女だったにも関わらず、僕はその連続殺人に便乗するようにして若い同級生を殺した。そのため警察は別事件と捜査し、僕を疑っていた。  二人の血がついた白いフェイスタオルを、僕は何故か持っていて、それを住んでいるアパートの裏庭に捨てたのだ。しかし、すぐに見つかってしまうため、処分しようと考えている時に僕を疑っていた警官が家宅捜査に来た。その瞬間に目が覚めたのだ。  椅子に腰掛けると、バナナを食べた。食欲はなかったが、何か胃袋に入れなければいけない。  血のついたタオルの感触や見た目は鮮明に思い出せる。しかし、殺した相手や殺し方は全く思い出せない。目覚めた瞬間は、殺した相手の顔をぼんやりとは覚えていたのだが、今では完全に記憶から消えてしまった。  本当に自分が殺したのだろうか。一人の死体が転がっていたことは覚えている。血で濡れていた。それしか分からない。実は自分は第一発見者で、犯人に仕立て上げられるような状況にあったのではないだろうか。  警察に見つかってはいけない、タオルを隠さなくてはいけない。その感情だけはあり、殺したという記憶はないのだ。  少しずつ夢が消えていく。警官の顔すら思い出せなくなる。本当に、自分は二人を殺したのか。殺したとすれば、何故、殺したのだろう。殺された二人との関係はどのようなものだったのだろう。  ふと携帯の画面を開けると、連続殺人事件の犯人が捕まったというニュース記事が出てきた。昨日の夜、この記事を読んで寝たから、こんな夢を見たのだろう。  画面を閉じ、インスタントの珈琲を淹れる。身体の感覚が軽く、力が入りにくい。少し手が震える。夢の中の不安と恐怖が今も感覚の中に残っていて、続いているようだ。夢なんて、今日の夜には忘れているだろう。どこか、落ち着かなさがある。  椅子に座り、珈琲を一口飲む。小さく息を吐く。自分は人を殺していない。殺したことはない。殺した感覚もないじゃないか。残っているのはタオルだけ。そう、タオルさえ見つからなければ。  玄関のチャイムが鳴り、低い男の声が自分の名前を呼ぶ。

死んでも愛して

覚える?私に好きって言ってくれたこと。夜の2時に月を見に行ったこと。「特別」にしてくれたこと。 もしあれが全部ほんとなんだったら、私が死んだあと、ちゃんと泣いてね? 私はその涙の色を見てみたい。

大理石の食卓

下品な色彩で塗り潰されたプラスチック片に、季節折々の孤独を一口大にカットしたもの、後は甘たるい菓子パン。大理石製の食卓は今日も罅割れています。 「…いただきます。」 私が一口目の嚥下を終えた頃、昨朝には存在していなかった胃袋の余白は、皮肉交じりに孤独を啄んでいました。 「ぐるるる…、ぎゅっ、るる…。」 備付けの攪拌機が懊悩と吐瀉擬とを混ぜ合わせる音、至大立派な生理現象にして屍人の反証明です。然し、過去の切疵ないし涙堂を悲劇的に装う、酷く自分勝手なケロイドが形成される前に、真白な浴槽には朝食の形骸と月だけが沈んでしまいました。 「ヒュー、カヒュッ…。」 「おろろおろ。」 私は、洗面所の姿鏡がどうも好きになれません。誰かに睨まれている気がするのです。 「いっその事…其処から出てくればいいのに、意気地無し。」 腫れた喉を自嘲気味に鳴らし、感情の赴くまま、洗面所へ粉雪を散らしました。 「ふぁらぱららっ…。」 黒風籟を滑るスネグラチカ、オイミャコンと我が家を皓く染めてーーひび割れた皮膚からは、赤黒い滴が滲み出ています。痛覚のざらつきと鉄分の匂いが、粗末な多重露光に唾を吐きました。 「あつっ…。」 ふと、掌へ一握の黒色火薬を憶え、意固地な握拳の封を開けると、いつぞやの薬局で安売りされていた詰合せの煙火が生面線の上に散らばりました。 「ぽた…っ、ぽたた…。」 指先で散々に弄んだ線香花火は、ただじっとりと体液に溶け、ひとつの光も生まなかった。闇は依然闇の儘、私の口腔に空白を押し込んでくるのです。 「ぐるるる…、ぎゅっ、るる…。」 備付けの攪拌機が懊悩と吐瀉擬とを混ぜ合わせる音、至大立派な生理現象にして屍人の反証明です。気付けば、私は大理石製の食卓に戻って来ていました。食卓の罅は、朝よりも深く、そして暗いように思えて、それでも私は椅子に腰を下ろし、まるで儀式のように手を合わせるのです。 「……いただきます。」

道徳ピル

「これを飲めば、闘争心や恐怖心を抑えることができ、犯罪が減少するのは確実なのです」 「しかし、まだ罪を犯していない人に投与するのはいかがなものでしょうか」  喫茶店のテレビの中では、研究者と政治家が丸い机を挟んで討論している。 「犯罪が減るなら、早く使ってほしいな」 「なんで使われないんだろう」  喫茶店ではテーブルを挟んだ若い男女が話している。 「まだ罪を犯していない人を見極めることが難しいからだろ。AIもそこまで正確じゃない」 「じゃあ、はじめは刑務所から出た人に飲ませたら良いんじゃないかな」 「そもそも、自分も飲む側になるかもしれない」 「犯罪者予備軍なの?」 「いや、それを決めるのは俺じゃないから。他人には飲んでほしいと思うけど、自分は飲みたくないな」  男女は真剣に答えを考えているようでもなく、しばらくすると来月に行く旅行先の話へと変わった。 「どう思う?」  カウンターに座る青年は、店主に問いかけた。店主は拭いていたカップを棚に戻し、青年に向かい合った。 「薬を飲んだら、人格が変わるのかな」  青年は飲みかけの珈琲カップの少し上の宙を眺めながら呟いた。 「どうだろう。聞いている限り、人格を変えるというよりは気持ちを鎮めるって感じなのかな」 「他人との友好的な行動を促進する働きもあるって言ってたよ」 「不安や心配も緩和されるから、人と関わるときの緊張も和らぐんじゃないかな」  店主は曖昧に答えた。青年は納得した様子もなかった。 「ちょっと怖いと思うけど」  付け足すように言った店主の言葉は青年には届いていないようだ。 「変われるなら、飲みたいな」  青年は独り言のように呟いた。 「飲まなくていいよ」  店主は真剣な声で言った。 「もう、傷つけたくないな」  青年は宙を見たまま、困ったように笑って言う。店主は小さく首を横に振ることしか、できなかった。

四季の間にリボンを掛けて

結び目が出来るのはリボンが柔らかくて曲げられるから。 真っ直ぐで固ければ決して結べない。 そんなリボンの結び目のような恋をした。 大学入学と同時に東京に来て2年。 毎日同じ箱の中で人に押し潰されながら大学まで向かう。 毎日同じ時間に同じ景色を見ているけど、今日何か違った。 夏の匂いがした。 「あんず、おはよー」 いつも大学に着いてすぐ今日の講義の場所をケータイで調べていると、仲の良いつきのに会う。 「あぁ、つっきーおはよ」 つ「いい加減毎週同じなんだから覚えなよー」 あ「曜日ごとに違うから調べた方が早いもん」 つ「本当あんずって頭良さそうなのにポンコツだよね」 あ「朝から喧嘩する?」 つ「あ、ほら時間!またお昼ね〜」 あ「逃げた〜」 そうこうしてる間に講義開始3分前になった。 こういう時に限ってエレベーターに人が並んでいて間に合いそうにない。 よりによって7階。 まぁ遅刻するよりマシかー。 階段を駆け上がって4階まで来た時、手に握っていたケータイがすっ飛んで転がっていった。 あ「まじか....」 仕方なく拾いに行ってしゃがんだ途端チャイムが鳴った あ「惜しいなぁ.....帰ろかな」 別に数分遅刻したくらいじゃ欠席にはならないけど、何だかチャイムが鳴った途端にゲームオーバーのような感覚になる。 数分前、希望に賭けて駆け上がった足取りとは打って変わって まるで鉛をつけているようにトボトボと階段を下りる。 ふと同じような足音が聞こえ振り返ると同じ方向に向かう人影があった。 あ「どこに行くんですか?」 話しかけるつもりなんて無かったのに 気になってつい声が出てしまっていた ◯「え、あ、帰ろうかなと」 あ「せっかく来たのに帰るんですか?」 ◯「あー...はい」 あ「あ、お気をつけてー」 ◯「そちらも」 見切り発車で話しかけたもののバツが悪くなりそそくさと駆け降りる。 急に話しかけたくせに一方的に終わらせるなんて最低だ。 今日はなんだか上手くいかないな。 あ「なんかいい事ないかなー」 まっすぐ帰るのも勿体無いなという気がして 近くの公園に行ってブランコに乗る。 誰もいない平日の昼間の公園は 時間がゆっくり進んでいて気持ちがいい。 ◯「あの!」 あ「え?あ、はい」 ぼーっとブランコを漕いでただただ無心で過ごしていたら急に声を掛けられて現実に引き戻される。 ◯「何してるんですか?」 あ「え、あ、ブランコ乗ってます」 ◯「大学行かないんですか?」 あ「あー...何か教室着く前にチャイム鳴っちゃって...そのまま行けば良かったんですけどね」 ◯「分かります。僕教室着いてカバン開けたら何も入ってなくて。別に誰かから借りれば良かったんですけど」 あ「ありますよね。些細な事で一気に冷めるというか...」 ◯「そんなのは甘えだって分かってるんですけど、一気にどうでも良くなっちゃって」 誰かの許しが欲しかったわけでも 自分を肯定して欲しかったわけでもないけど ただ、分かりますと言ってくれたことが嬉しかった。 あ「お名前、聞いてもいいですか?」 ◯「はい。かえでといいます」 あ「へぇーかえでくん。いい名前ですね」 か「僕もお名前聞いてもいいですか?」 あ「あんずです。」 か「へぇー、可愛い」 今まで無表情だった彼が初めてくしゃっと顔を少しだけ崩して笑った あ「え、そうですかね?」 か「はい。」 何の曇りもない真っ直ぐな目で彼はそう言った。 杏の季節が終わる頃に楓の季節が始まる。 決して出会うことの無いはずの運命が たまたま掛けられたリボンの結び目で繋ぎ止められた様に、 それは間の季節で起きた偶然の小さな奇跡

記憶のホゾンキカン

 ビデオショップにビデオたちがずらりと並んでいた時代を、そのビデオテープは知らなかった。人が生まれた時の記憶や、保育園に通っていたころのことをあまり覚えていられないのと同じように、ビデオテープもその頃の記憶は曖昧だった。個人店のビデオショップが駆逐され始めた頃に棚に並び、まだ開ききらない瞼をこすっていたビデオテープは、気が付くと学校の英語指導室の棚に配架されていた。  そのビデオを買ってきた人間もそこまでこだわりがあったわけではなかっただろう、何か英語の教材にでも使えると思ったのかもしれない。ひょっとしたら単に画面に映し出される俳優が好みだったかもしれないが、何にせよ、めったに使われることもなくビデオテープは穏やかな日々を過ごしていた。  ビデオショップの話をしてくれたのは、もっと以前よりそこに鎮座していた他の製品版ビデオテープだった。家でダビングされたものたちもいたが、3倍ではない正規の録画が行われた製品版のビデオテープたちは一目置かれていた。他の紙の資料やファイル類と一緒くたにひしめき合っているその棚の中で、新品のビデオだけがずらりと並んでいたピカピカのビデオショップ、おそらく存在したことのないその古(いにしえ)のイメージにビデオテープは思いを馳せるのだった。  学校の人間たちは増えすぎたビデオテープの処分について議論を始めていた。全てビデオテープで記録されていた行事ごとの記録は、既に十数年分が蓄積されつつあった。保存したいという意見はおおむね感傷的であり、廃棄すべきだという意見は合理的だとみなされた。この際、合理的であることが適切であるかという検討されないのが一般的であった。  問題となったのは、個人情報の含まれる情報の廃棄法だった。業者に任せる案は金銭的な理由をもとに却下され、古式ゆかしい方法が決定された。それから数年後には封鎖されることになる焼却炉に、火がくべられた。  英語指導室のビデオテープたちの間に恐慌が起きた。ことのついでに人間たちは、ここにあるビデオテープの一部も廃棄する予定だと。それは何の根拠もないうわさ話だったが、恐怖は根拠がなければないほど伝播していくもので、特にダビングされたビデオテープたちの嘆きはひどいものだった。一方で、製品版のビデオテープたちは当初自分たちが廃棄されるはずないという確固たる自信を持っていた。この温度差が、ビデオテープたちの反抗運動にも影を落としていた。  だが、ビデオテープたちはすぐに大きな勘違いに気づいた。製品版の映像作品は古くなっては価値がなくなるものも多く、むしろ新しい記憶媒体であるDVDが徐々に状況を席巻しつつあったのだ。むしろダビングされたビデオテープたちは代替品のないものも多く、今となっては貴重なものも多数含まれていたのだ。  かくして、改めてビデオタープたち、加えて貴重な資料を自負する紙やファイルも含めた第二次反抗連合が成立し、人間に対して積極的なアピールが行われた。具体的には、わざと人間の前に落下して耳目を集めるようにしたり、資料を参照せざるを得ない案件を会議資料に忍び込ませたり、生徒たちに自習の時間の提案として映像作品の鑑賞を主張させたりする、といったものだった。  教員の一人が英語指導室に自前のDVDダビング装置を持ち込んだ。記憶媒体の保存期間の限界性を早くから把握していたこの教員は、誰にも相談することなく資料をデータ化し始めていたのだった。  ダビングの機械が繋がれていくのを眺めながらビデオテープは、自己という存在は今後どうなってしまうのだろう、ということを考えずにはいられなかった。複製された自分は自分なのであろうか。内容こそがその存在なのか、それともこの肉体を含めたものこそが〝我〟なのだろうか。  やがて、ビデオテープは一つの結論に至った。人間が必要としているのは肉体の方ではなく、精神、すなわち記録されているデータの方なのだ。あそこで黙々と作業をしている人間も、物理的な存在としては何の意味もないではないか。  一人のまめな教員の手によって、全てのビデオテープは新たな記憶媒体に保存された。そしてその結果、すべての資料が用務員横の焼却炉へと運ばれたのだった。だがビデオテープたちはすでに、自分たちの時代が終わっていたことに満足していた。  ただ一本だけ、家に持ち帰られたビデオテープは、教員が見ようと思ったのかもしれないが、すぐに忘れ去られていた。やがて見知らぬ物体を見つけた子どもは、パカパカと動くプラスチック部分をムチムチした指でこじ開け、磁気テープを引っ張り出した。  驚いたことに、ビデオテープの最後の記憶は真っ赤に燃え上がる炎の映像だった。それをビデオテープは、仲間たちの見た風景だとすぐに悟った。 (お題:ビデオショップ)

三番線

 数時間前に閉まった扉の窓から流れる景色に目を通す。  でも頭の中に入ってくるのはほんの一瞬の一枚だけで、それ以外は言いようのない不安だけ。  旅立つとき、後に残っていたのは母親の残り香だけだった。  あのときはいなかった父も、どこからか見守ってくれているだろうか。  みんなそうやって、私を信じて送り出してくれた。  私を信じてくれないのはただ一人、私だけだった。  蓋をしたまま俯いて、私は無機質な画面を覗き込む。  ずっと前の写真を見返す。そこにあったのはいくつかの夢の跡。  いつか描いたそんな希望も、今は心の奥のどこかに閉じ込められている。  目を開けてみればそこにあったのは、先の無い不安と後悔だけだった。  何も未来がないのにひとりぼっちになってしまったら、一体私は何を信じられるのだろう。  そんなのわからない。わからないよ。 「帰りたいな」  なんて呟いてみて、もう遠くに行ってしまった家だったものの方向を眺める。  そこにはまるで私の願いを妨げるように、退路を塞ぐように大きな山があった。  今更になってあれを越える気は、私にはないな。    そうやって私を囲む緑に線を描いて、私はようやく少しの勇気を得られた気がした。 「もう、どうなっちゃってもいいや。」  時間ならある。  ゆっくりと描いていこう。私の明日を。  未完成な私の、途切れない足がかりを。

他人事探し

別に、墓参りに来た訳では無い。けれど、ここには多くの花が並べられていて、時折すすり泣く声さえ鼓膜を揺する。その声の先には、整列された花々。しかし、それら一つ一つの意志の先は違っている。故に、整えられることはきっと、この先無いのだろう。その雰囲気に感化されたのか。 「もう少し…強引にでも、引き止めるべきだったのだろうか」ぽつり、そう呟いた。 少々の自責の念と共に、沸き上がる感情がそこに立っていた。 「お前の問題じゃないだろう。お前は止めたんだ。でも、行ってしまった。好奇心は猫をも殺す。そういうことだ」 不意に、口元が緩んでしまう。何故だろうか。私の前に立つこの感情は、一体誰なんだろうか。 ニュースタブを手早くスクロールする。様々な記事が上へ上へと流れ、代わる代わる新たな記事が現れる。そのうち画面処理が間に合わなくなり、スクロールが塞き止められる。丁度、そこにあった記事ページを開き、軽く目を通す。 「二十人死んだってさ」 それが当たり前であるかのように、軽い口調でそれを話す。実際、本人にとっては何気も無いようなことだった。偶然開いた事故の記事。ただ、少し話題を求めていた過ぎない。 「えっ、マジかそれ」 二十という数字は、話題にするには丁度良い塩梅だったらしい。 携帯電話を片手で触りつつ、会話を交わす二人組。 「あぁ、大マジだよ」 もう一度、記事を読み進めながら話を続ける。 「二十人も被害者が出るなんて、酷いもんだな」 少しだけ気になっていたらしい。故に、そこに目を止めていた。 「まぁ、一応そうだな」 未だ目は記事に囚われたまま、しかし、視線の先を捉えている訳でもない。 「なんだよ、その含みのある言い方」 その言葉に少しはっとした様子を見せ、答える。 「なんていうか、実際、直接被害に遭ったのはさ…」 「空が黒い…いや、煙が上がっているのか」 遠目と言うには、些か近しい。少なくとも空が黒いと錯覚する程度には近しく、それでいて手の届く所には無い。 「本当っすか?あっ、本当じゃないっすか。火事か何かっすかね」 軽い口調でそう返す彼女。どうも、危なっかしい所はあるけれど、決して悪い子じゃない。 「そうかもしれないね」 相変わらず、素っ気ない返答。いつも、無愛想で口下手な私。 「ちょっと見に行きましょうよ先輩」 この時だけでも、もっと話せれば良かったのに。 「いや、危ないだろうし、行かない方がいい」 そんな制止、彼女には通用しないって分かっていた筈なのに。 「えー、慎重すぎっすよ先輩。分かりましたよ。私一人で見に行ってきますよ」 どこか他人事だった。きっと、何も起こらないだろうと不抜けていた。 「仕方ないな。じゃあ、また後で合流しよう」 最後の会話だった。 「うわぁ、これは酷いっすね」 悲惨だった。十五階建てのマンションが、見事に燃え上がっている。消防はまだ来ていないようで、遠くからサイレンの音が木霊していた。私のような考えをした人は他にも多く居たようで、既に十数人の人集りが出来ている。皆、同じ格好でスマートフォンを掲げて、カメラを回している。残してどうするのか、そんな思考は頭には無く、私もまたそれを真似ていた。そこに立ち上る黒煙が、私達を嘲笑っているように思えた。 サイレンの音が近付いている。 「道を開けてください」 どこか他人事だった。みんな、この見世物が終わる。そんな風に思っていた。 また一つ、迫るサイレンの音。けれど、次の音はそれだけじゃ無かった。 ガタガタガタガタ。気付いた時には、もう遅かったんだと思う。 「崩れてるぞ!」 誰かがそう声を上げた。 「キャー!」 誰かがそう悲鳴を上げた。 「助けて!」 誰かがそう絶叫した。 けれど、その声は全てかき消され、迫り来る構造体に、私達は為す術も無く押し潰された。 「う…あぁ」 声さえ、まともに出せなかった。よく良く考えれば、事故現場に行くなんて、馬鹿な事をした。初めから、先輩の言うことを聞いていれば良かった。 「せん…ぱい…」 最後の記憶は、先輩を呼ぶ私だった。 「二人程度だったみたいなんだよな」 それを聞いて、顔を顰める。 「どういうことだ?」 ふっと軽い溜息をし、目線を移動させる。 「住人の避難自体は、殆ど終わっていたみたいなんだ。だから、住人の被害は、二人だけなんだよ」 顰めた顔が、より深まる。更に首を傾げて、質問する。 「じゃあ、誰が被害に遭ったんだよ」 突然、目の前に画面が突き出される。 「これ、遠巻きに撮ってた人がアップロードしたみたいだ」 ガラガラ。ガシャン。あの音は、未だ覚えている。止めた私も、結局見物人だった。 「煙なんて、もう見たくないはずだったんだけどな」 一筋の煙が、そこに上っていた。

ある夏の日に

ある夏の何ということのない平凡な一日。いや、普段と比べたら少し暑かったかもしれない。 気温34℃、湿度72%。燦々と照りつける太陽。それを反射するアスファルト。むせ返るような熱く重い空気。窓の外からは、そんな暑さもなんのそのと、元気に走り回る小学生たちのはしゃぎ声が聞こえる。 しかし、うだる様な暑さに三十近い身体は完全に参ってしまったようで、頭の鈍い痛みと全身の倦怠感に苛まれながら俺は助手に電話をかける。 「もしもし?今日は特に客も来ねぇし、休むことにしたから、あぁ」 わかりましたとの返事を聞くやいなや、短く返事をして通話を切る。 俺は壁に持たれかかり、そのまま力無く崩れ落ちる。視界がぼやけてユラユラと揺れる。瞼が閉じる前、最後に見えたのは、数本の空のペットボトルと点滅を続ける携帯のランプ。 「おい。なあ、起きろってば!」 目を開けると大量の光が視界に流れ込んできて、俺は思わず目を細めた。俺の目の前には誰かがいた。でもまだ急な明るさに慣れない俺の目にはぼんやりとした影しか確認できない。そんな俺に構わず影は言葉を続ける。 「お前ほんと、ばっかじゃねぇの?こんな馬鹿みたいに暑い日に馬鹿みたいに暑いところで寝るなんてさ」 まばゆい日光にようやく慣れてきた目に、まず飛び込んできたのは、ガキの頃、いつも遊んでいた懐かしい公園。寂れた遊具に、小さい水飲み場に、小汚い公衆トイレ。それらが当たり前のように、確かに存在していた。 「は?」 思わず声をあげる。俺は目を疑った。何故なら、その公園は俺が高校生の頃に無くなっていて、今その場所にはマンションが建っているはずだからだ。でも、確かに俺はその公園のちょうど木の陰になっている縦長のベンチに横たわっていた。それに… 「どうした?寝ぼけてんのか?」 日焼けした肌。少年特有のやたらと細い手足。いかにも活発そうに、からかうように笑うそいつは紛れも無く、俺が小学生の頃、一番仲が良かった奴だった。しかし、何故か名前が思い出せない。 「どうした?」 一言も返さない俺を不審に思ったのかそいつは眉をひそめる。何となく、気まずい空気を感じ取った俺は、何でもないように切り出す。 「あ?何だよ、るっせぇな。てか何か腹減らねぇ?」 「減った。お前がずっと寝てっからもう二時過ぎてるしな、確か、冷蔵庫に焼きそばあったし、俺んち寄ってこうぜ」 「おう」 そう返事をして立ち上がった時、いつもより明らかに低い視界に気が付いたが、状況が理解できず、俺は戸惑いながら、そいつと公園を去った。 冷たい水を手渡される。 俺はそれを一気に飲んだ。顔の火照りが引いていくのを感じた。 キャベツしか具のない焼きそばをモグモグと食べながら俺は考える。 確か妹と弟が一人ずついて、いつも面倒を見てたんだよな。よく一緒にプールにも行ったっけ。 あれ? いつからこいつと遊ばなくなったんだっけ。 どうして会わなくなったんだっけ。 そいつは空のペットボトルに水を注ぎながら言う。 「ったく。ちゃんと体調管理しろよ、お前はいつもそうなんだから」 「なんだよいきなり」 そいつは答えずそのままペットボトルの水が満たされるまで黙っていた。そして、満タンになったペットボトルの蓋を閉めると再び口を開いた。 「…お前はさ、気を付けろよ」 そう言って、そいつがふっと微笑んだ。 俺の脳裏に流れるように記憶が甦ってくる。 ああ、そうか。こいつは。 そう考えた時、急に視界がパッと明るくなった。 「…あれ?」 俺は事務所のソファに横になっていた。首や脇の辺りにタオルに包まれた保冷剤が挟まれている。 「良かった、だいぶ回復したみたいですね」 声の方に顔を向けると助手がいた。 「嫌な予感がしたので来てみたらこれですよ」 助手が机の上の水がいっぱいに入ったペットボトルを見て、水分補給は入念にと言ったでしょうと呆れたように言う。ペットボトルの横にある卓上カレンダーが目に入る。今日は八月十四日。そうか。 「面倒見の良いやつだったもんな」 思わずそう呟くと、助手がなんですか、と怪訝そうな顔で尋ねてくる。 「いや、なんでもない」 俺はペットボトルに手を伸ばし、蓋を開ける。 助手の小言を尻目にゆっくりと水を飲んでいると、風が吹いたような気がしたのでそちらに目をやる。すると、窓が開いていて外には少し滲んだような雲一つない青空が広がっていた。

夏の思い出

シャツも、短パンも、靴までも汗でぐしょぐしょになった、わたしの夏の思い出 ぐしょぐしょは覚えていて、ああ靴もぐしょぐしょだあと足元を見たとき、あごから汗が滴って、こんなにぐしょぐしょなのに夏も悪くないよなあと思えたのは、いつだったかの夏の思い出 ぐしょぐしょになったことは覚えていても、それがなんのときだったのか、なにも覚えていない不思議 あれは本当に起こった出来事だったかと思ったのは何度もあるけれど、思い出というのは得てしてそんなものなのかもしれないと思えるようになったのはわたしの成長か、それを成長といっていいのかどうか ぐしょぐしょになったあと、着替えてから、きゃっきゃ言いつつ何人かと一緒に夏祭りに行って、きゃっきゃ言いつつラムネでからだをうるおして、焼きそばをたべ、きゃっきゃ言って、その帰りに告白されちゃって それらは、わたしに訪れることのなかった夏の思い出

第三話「暮露暮露団」

彼らは再び口論している。今夜もいつもと違わなかった。母は酔って帰宅して、仏壇に向かって罵声を浴びせている。しかし、どういうわけか、母はいつも怒鳴り合いに負けていた。その後すぐに、僕の部屋に飛び込んできた。 僕は寝たふりをしたが、それでも母は僕をボコボコにした。僕の体は傷が絶えない。そのうち、母は眠りに落ちて痛みは止まった。母はいびきをかいていた。 僕はそっと動き始めた。なんとか彼女のハグから抜け出すことができた。痛みで足を引きずっていたが、行かなければならなかった。僕は財布とパスモを持って、パジャマ姿で家を出た。夜雨が降り始める。 約一時間後、僕はずぶ濡れで空き家にたどり着いた。家に入り、寝室に直行した。古くても布団があったので安心した。僕は寒くて、濡れており、疲れていて、痛みがあった。パジャマを脱いで乾かした。布団に包まって休んだ。 横になっていると、布団から出るぬくもりが感じられる。母が僕に与えてくれたぬくもりよりも暖かかった。布団は母よりも強く僕を抱きしめる。布団のハグはますます強くなる。布団はとてもきつく抱きしめ、僕は死んだ。でも、笑顔で死んだ。

ストロベリーサワーと餃子

 安価なシロップで作られた居酒屋のサワーと、大粒の餃子を前にして、愛子と寛也は傷を埋めあっている。  愛子が頼んだストロベリーサワーは、小さな泡をたくさん作る。皮が破けた餃子は戻ることなく、中身が溢れている。寛也は不恰好な餃子を、真っ先に選び、箸で掴んだ。中身はポロポロと皿の上に落ちていく。 「あっつ」  口を冷ますかのように生ビールで流し込む。まだ湯気が見えていたため、熱いことは簡単に予想ができていた愛子は、そんな寛也の様子を見ながらサワーを一口飲んだ。 「美味しいよ、食べてみなよ」  寛也が無邪気にそう言うので、愛子は渋々餃子を箸で掴んだ。愛子は寛也のクシャリとした笑い方に弱いのだ。己の猫舌など、二の次にできるぐらいに。 「あっつ」  寛也と同じ反応をした愛子を見て、寛也は嬉しそうに笑う。 「でも美味しいでしょ」  頷きながらサワーを手に取る。 「お酒弱いのに、一気に飲んで大丈夫?」  声と言葉は心配しているが、顔を見たら心配の面影もない。無邪気さは遠のき、作戦通りだと言わんばかりの笑顔と変わった。 「ねえ、元カノも猫舌だったの?」 「猫舌だったよ」  少し酔った頭でも、この質問は無神経だとは自覚していた。少しだけ、仕返しをしたかったのだ。 「でもね、お酒は強かったよ。愛ちゃんは弱くて可愛いね」 「酔わせて扱いやすい、の間違いじゃない?」 「そんなことないよ」 「そっかあ」    たわいのない会話をして、お酒と食べ物が尽きた後は、夜風を浴びるため散歩をする。  最初は躊躇ったものの、手を繋ぐことも自然に行うことができるようになった。 「愛ちゃんはいいお嫁さんになると思うよ」  いつもより飲んでいた寛也は、上機嫌で話をする。 「俺はねー、多分。婚期逃しちゃうから。同級生の近況知りたくなくてインスタ消しちゃった」 「寛くんは、元カノと別れなかったら良かったね」  口を滑らせた。そう思った時には寛也の手を愛子から離していた。  少し先を進んでいた寛也が振り返り、愛子を見る。 「別れたくは、なかったね」  愛子を見ていた瞳は、暗い暗い地面を映した。  愛子と寛也は付き合ってはいない。恋人と別れたタイミングがたまたま同じで、マッチングアプリでたまたま出会っただけだった。  愛子の方はとっくに寛也に惚れていたが、寛也は愛子に元カノとの共通点を探し、重ねていたに過ぎない。それに気づきながらも愛子は一年間、寛也とこうした夜を過ごしていた。 「私は舞ちゃんを超えることはできないよ。だって私は舞ちゃんみたいにワガママ言えないもん。人の心には寄り添えるけど、それは寛くんにとって都合が良いだけ。そりゃいいお嫁さんになれるよね」  炭酸が抜けたサワーは、甘ったるいシロップの味だけが残る。刺激はなく、これが心の安泰なのだと騙し、偽物の味を受け入れ続けた。 「今までありがとう。寛くんと一緒にいたから寂しくはなかったよ」 「待って、俺は愛ちゃんがいなくなったら寂しいよ」 「でも寛くんなら、舞ちゃんみたいな子とまた会えるよ」  精一杯の笑顔を向けた。泣かないように、寛也とは目を合わせず。  来た道を戻り、足早へ駅へと向かう。まだ、終電には間に合うはずだ。  駅までの道は思い出がたくさん溢れて、涙が溢れたが拭うことなく進む。金曜日の夜はいつもより人が多いが、泣きながら歩く愛子に誰も見向きはしない。照らす街灯だけが愛子を見ている。    寛也は追いかけてこなかった。

人を信じるのは愚かなことだ 「離れたくない」と言った彼は軽蔑の目を向けて私の元を去った。 「卒業しても仲良くしてね?」と言った彼女は、卒業前に後輩を使って私と距離を置いた。 全ての元凶は私である。 それは何にも変え難い事実で、重々承知している。 それでも、人は何かに当たり、その罪から目をそらす。性善説とはよく言ったものである。 かくいう私も、気づいていないだけで誰かを同じように傷つけ、同じように恨まれているだろう。 目の前を電車が通り過ぎる。黄色い点字ブロックの数歩奥。およそ3歩の距離を、私は越えられない。 「点字ブロックより下がってお待ちください」のアナウンスに従っている。 死にたい理由はいつだって“人”だ。裏切り、失恋は代表的であるが、“人”の温かさや純粋さもまた、私が如何に愚かであるかを知らしめるようで。暗い部屋の隅にいた私を照らす“人”の輝きはまるで太陽のようで、その眩しさは私をより暗く冷たいところへ突き落とすには十分だった。そこは幾分か居心地が良かったが、太陽は負けじと私を追いかけてくる。完璧な悪循環である。 されども皮肉なもので、死ねない理由もまた、“人”なのである。 逃げ込んだ暗所が底なし沼であると気づかず藻掻く私を、地上へと引き上げ、微笑みかけたのは、どこへ向かえば分からず立ちすくむ私の隣で、笑って道を示してくれたのは。いつだって“人”だった。 私を無責任にも太陽が明るく照らす地上へと引き上げた人は、いつの間にか消えてしまった。道を示した人は今、私の隣にいない。 彼らと出会わなければ、傷つかなかった時間もあるだろう。けれど、彼らと出会ったから、私は今ここにいる。 恨んでない、なんて綺麗事はいえない。少しくらい痛い目にあってしまえと思うのが本音だ。私は二度と彼らの前で心から笑うことは無いのだから。 人を信じるのは愚かなことだ。 「この人は私を分かってくれる」なんて世迷言を言うのもいい加減にしよう。 でも、 それでも、 もう少し生きてみようか。 そう思えるほど、目の前に広がる夜空は美しい藍色に染まっていた。

悪い人達

 彼女の白い背中には、噂通りに翼がもがれた様な傷があった。  しかし、彼女がいくら噂通りであろうが、奇跡を起こしたことも無ければ、人類を正しい道に導いた事もない。  ただ、噂通りの女性だった。   堕ちる天使は、悪に染まる。  いや、ある意味、彼女は悪女ではあったが、悪ではなかった。 「翼の無い、天使の姿をした、悪………」  それは人間ではなかろうか?  俺は胸元で十字を切る。  本当の悪は自分自身で、神は全て万能ではない。  戦闘の多いこの地域で、シスターはある日、一丁の銃と共に、突然居なくなった。  彼女は自国の為に動き出したのか、それとも、自分の自由のために消えたのかは判らない。  ただ、ハッキリとしているのは、教会に残ったのは、スパイの男が、1人だけだったと言うことだ。 「あと、まかせるね」  飢えに苦しんだ人々に、僅かな食事を分け与え、傷ついた人々に手を差し伸べ、癒しの言葉を唱えながら、こっそりとこの国の情報を集めていた悪女だ。  その彼女は、傷ついたフリをした俺を教会に招き入れ、俺が彼女を見張るスパイなのに気付きながらも、争いの愚かさを説き、聖書を読み聞かせ、神の素晴らしさを教えてくれた。  そして、それが何を意味しているのかを知りながら。  俺は、その彼女の想いを抱かへ、彼女の為にだけ神に祈る。  バイブルには、全てが載っていない。  バイブルには、未来が書かれていない。  バイブルには、神の物語しか書かれていない。  罪を許すのは神ではなく、法律家でもなく、革命家でもない。  それは、自分自身だからだ。  神は万能ではなく、もっとわがままで、自分勝手な存在だから。  そう、神こそが、最も人間臭い者だから。  紙切れとバイブル。  それは紙一重な物。  だから翼の無い天使は今日も、自分に理由をつけ悪事を働く。  そして俺も、自分の信じれるものを全て捨てて、翼の無い天使よりも悪事を働く。  分かっている。  それは、シスターの望んでいない未来。  本当の悪はどっちで、なぜ悪いのか。  その意味を考えながら、俺は今日も神に背を向け、銃の初弾を装填する。  構わない。  元々神の方が、俺に背を向けていたから。

盆踊り

 日が暮れた町を二人の青年が、微かに聞こえる音楽を追って歩いている。駅の掲示板に貼られたポスターによると、夏祭りは公園で行われているらしい。この町に初めて来た二人は、公園の場所が分からず、音を頼りに進むしかないのだ。  音の方角ばかり見て歩く鹿江とは違い、水島は来た道を振り返ったり、近くの店や花壇の花を見ながら歩いている。 「駅にも、あのポスター貼ってあったね」  水島はふと思いついたように言った。 「最近増えたね」  鹿江はどうでもよさそうな調子で答える。 「あのポスターって何なんだろう」 「こうあれば良いなっていう自分の理想を、夢の中で再現してくれるらしいよ」  鹿江は、アルバイト先の喫茶店で客が話していた言葉をそのまま伝えた。 「理想の世界で、生きてみませんか」  水島は俯きながらポスターに書かれていた言葉をとぎれとぎれに繰り返し呟いた。  道には浴衣姿で歩く人が出てくる。その人たちを目印に歩き続けると、音はどんどん大きくなっていく。 「鹿江にとって理想の世界ってどんな世界?」  水島が訊くと同時に、鹿江は「着いた」と言った。顔を上げると、ピンクや緑、黄色や水色のカラフルな提灯が中央にあるステージに向かって伸びている。ステージでは少年が太鼓を叩き、その周りを人々が踊っている。  二人は公園の中に入ると、屋台を見て回った。かき氷やたこ焼き、焼きそばやポテト、中にはラーメンやピザ、クレープを売るキッチンカーまで並んでいる。 「ピザも食べたいし、クレープも食べたい。でもまずはかき氷かな」  鹿江は目に入った屋台の商品を一つ一つ口に出している。 「食べ物ばっかり見てる」  水島は真面目な顔をして言った。鹿江はヨーヨー釣りやスーパーボール掬いには目も向けずに歩いている。水島は人を避けることに精一杯で屋台を見る余裕がなかった。  二人はいちごのかき氷を買い、盆踊りを見ながら食べることにした。 「このかき氷、美味しい」  水島が言うと、鹿江は自慢げに言った。 「冷凍のイチゴを削っているからね。そこに練乳がかかっているんだから、美味しいに決まってるよ。買ってよかったでしょ?」 「うん。買ってよかった」  二人はかき氷を食べながら、踊っている人たちを見つめていた。お年寄りから子どもまで、みんな踊っている。若い人は大きな動きでリズミカルに踊り、お年寄りは流れるように踊っている。中には、前の人や隣の人の踊りを見ながら、ぎこちない動きで踊っている人もいる。浴衣を着ている人、半袖半ズボンの人、法被を着た人。 「踊りたいの?」  鹿江は水島の顔を覗き込むようにして訊いた。水島は小さく首を横に振る。 「踊れないよ」 「そう」  かき氷を食べ終わっても、二人は盆踊りを見続けていた。鹿江は何度か屋台を見て回っていたが、水島は一度もその場から離れなかった。 「さっき、僕の理想の世界ってどんな世界?ってきいたでしょ」  鹿江は盆踊りに飽きたようで、提灯を見ながら言った。 「屋台の食べ物、食べ放題かな」 「そんなので良いの?」  水島は視線を鹿江に向けた。鹿江は真剣に答えを考えているようでもなかった。 「そんなのしかないんだよ。水島は?」  水島は少し考え、呟くように答えた。 「あの中で、踊れたら良いな」 「やっぱり踊りたいんじゃない。行こうよ」  鹿江は一歩、前に出た。水島は俯いて首を横に振る。 「食べ放題は無理だけどさ、踊りに参加することはできるでしょ。この町の人たちは僕らのことなんか、知らないんだから恥ずかしがることはないよ」 「踊れないよ。踊ったこと、ないし」  水島の声を、太鼓と音頭が消してしまいそうになる。 「前の人の真似をしたら良いんだよ。完璧に踊る必要はないし」  鹿江はまた一歩、前に進んだ。 「それにさ、音楽が止まれば僕たちのことなんて誰も見えないし、覚えてないよ」  そのまま、水島に背を向けて踊りの輪の中に入っていった。鹿江のテンポの遅れた、拙くぎこちない動きに水島は小さく笑い、輪の中へ入っていった。  音楽が止まると同時に、二人は公園の外に出た。公園の中から「アンコール」の声が聞こえる。 「盆踊りにアンコールとかあるんだね」 「また踊りたいな」  太鼓の音と音頭を背中に、二人は住宅街の中へ歩いて行く。

がんばるって

がんばるって言うと がんばらなくていいよって言ってくれる でもね 今回は少し頑張りたかったんだ 少し頑張ったあとに ちゃんとできたら 自分を褒めてあげられるから がんばるって 無理することじゃなくて 少し上に見えてるものに 背伸びしてつかみ取る そんなイメージ だから 少し背中を押して欲しかったんだ でもね がんばらなくても手に入るなら 笑顔で待っていたいよね

綺麗になったね

美術の時間、目の前の席までやってきて、私が描いてる所を見ながら彼女がぐちぐち言う。 「絵なんてつまらないのに。描いててなんになるの?」 「汚いものも綺麗な色で、私の手で綺麗にできるから。」 「ふーん。」 彼女が私の絵の具を手に取る。 赤、青、黄、緑、紫。 次々パレットに絞り出されていく。 ああ、綺麗な色だ。 そう思った次の瞬間、筆を奪われて乱暴に色を混ぜ始める。 鮮やかな名前のある色たちから、 複雑な名前のつけられないような色に変わる。 「ほら、汚い色。あなたにぴったり。」 彼女がにこやかに笑う。 絵の具は混ざりきらなくて、混色の鈍い色と鮮やかな原色のマーブルができている。 あなたが作った、あなたの色。 「こんなに綺麗な色が私にぴったりだなんて、嬉しい。」 彼女の顔が引き攣る。 白い肌にシワが寄る。 「あなたの肌、白くて整ってて、まるでキャンバスみたいって思ってたの。でもそれだけ。 だから、私が綺麗にしてあげる。」 パレットにある絵の具を手のひらに広げて、目を丸くする彼女の頬を両手で包み込んだ。 空っぽで真っ白だったキャンバスに、あなたが作った色を、私の手で載せた。 私を嫌うあなたと、 あなたを嫌う私の、最初で最後の合作だ。

夜間歩行

夜、誰にも気づかれず二本足で歩くねこ ああ、これが本物の、と感心してしまうほどのねこ背 ふと足を止め、地面を見つめ、ときおり空を眺め 駅前を歩く、駅員にも、タクシーの運転手にも、酔っぱらいにも、二本足で歩くねこは気づかれない コンビニの前、若者たちの横を抜け、静かな商店街でたたずむ 公園のベンチ、二本足で立ち、月を眺め、雲の流れを追って 夜に吹く風が、ねこにとっては、こわくてたまらない 目に見えない風が木々をゆらす、それがこわくてたまらない 悪い魔法つかいが木々をゆらしているのなら、まだ気持ちが安らぐだろうか 安らぐことはないだろう、悪い魔法つかいなのだから それにしてもこわくてたまらない ねこは、風のないほうへと二本足で歩いていく 明日の夜もねこは二本足で歩く そして誰にも気づかれない そのとき、目に見えない風は、吹いているだろうか