睡眠時間は固定です

「よーし。皆お疲れ。今日は終わりだ」    午後十時。  残業が終わり、帰宅の許可が出された。  普段は午後十時に寝て午前六時に起きる私には、なかなかきつい。   「先輩、明日午前休とっていいですか?」 「駄目に決まってるだろ。何のために残業したんだよ」 「デスヨネー。じゃあ、遅刻になります」 「馬鹿なこと言ってないで、さっさと家帰って寝ろ! 体調管理はちゃんとしろよ!」    私は、体調が良すぎるのだ。  極めて極めて健康的。  どれくらい健康的かと言うと、毎日の睡眠時間がきっちり八時間に固定されているくらい健康的だ。    午後十一時、帰宅。  ご飯を食べて、お風呂に入って、洗濯を後回しにして。   「アラームめっちゃセット! お休み!」    午前ゼロ時、就寝。        午前六時、アラーム。  起きず。  午前六時一分、アラーム。  起きず。  午前六時二分、アラーム。  起きず。  以降、一分ごとにアラームが鳴り続ける。  午前六時三十分。  隣の部屋の住人が「うるせえぞ!」と扉を叩く。  起きず。  午前六時四十分。  隣の部屋の住人が呼んだ警察が到着。  起きず。  午前六時五十分。  警察の判断で救急車が呼ばれ、病院に連れていかれる。  起きず。  午前七時半。  病院到着、医者や看護師に必死の声かけをされる。  起きず。  午前七時四十分。  検査の必要があると、医者たちが決定。  身内に連絡をと母に電話が入り、「八時間経ったら起きるので放っておいてください」と返事がある。  起きず。    午前八時。  私、起床。  医者たちの驚いた顔が私を迎えた。   「ここどこ? あ、おはようございます」 「お……おはよう。体に、痛いところとかはない?」 「? ないです。ばっちり、健康体です」    午前八時五分。  始業時間には絶対間に合わないので、医者から上司に電話をしてもらう。  はい、遅刻確定。    毎日八時間眠らなければ、生活がままならない。  そんな健康な私には、なかなか現実の常識の中で生きるのは難しい。  皆、不健康に生きているから。

何処までも、青い

​ 右手で前髪を整える。夏紗にあれだけ綺麗に整えてもらったはずなのに、なんだか不安になってしまう自分に可笑しくなる。私は誰も使わないグラウンド裏の校舎に寄りかかる。校舎と背中のすき間に、少し冷たくなってきた初秋の風が吹き込む。 ​ 私は、その風の行先を探すように空を見上げた。それは雲一つなくて、彼を待つための暇つぶしとしては、あまりにも退屈だった。澄んだ青。何処までも何も無い青。あの青色は結局何処に塗られているのだろうか、なんて考えてみる。私の恋心もこうやって元をたどったら、本当はどこにも存在していないんじゃないか。いやいや、あるに決まっている。はず。私は、私にくだらないことを考えさせる青い空から目をそらした。 ​ ため息をつく。私はこういう大事な時に限って、余計なことを考えてしまう癖がある。一際冷たい風が、今度は顔を掠める。ああ、せっかく渋々ながら納得した前髪が崩れてしまうじゃないか。そうやって神様はいつも意地悪をする。私は、地面を擦る落ち葉に向かって愚痴った。 ​ 駄目だ、またマイナスなことを考えている。こういうときは、夏紗のアドバイスを聞くのがいいと、この前の美術の時間に思い知ったので、まあ、仕方なく、目を閉じて、瞑想とやらを試してみる。私はずっと空回りしている思考に蓋をして、五感を研ぎ澄ます。目を閉じてもかすかに感じる微かな太陽の光。秋の風とその匂い。背中にあたるゴツゴツとした校舎の壁の感触。ちょっとだけ震える両手。流石は夏紗である。緊張してた身体の外を覆っていた、仮初めの「私」が氷のように溶けてゆくのを感じる。それに伴って、身体に触れる秋風が本当は温かかったことを知った。これは、夏紗にコンビニのカフェラテを奢らなければならない案件である。 ​ なんだか悔しくなって、深呼吸をするという手順を勝手に加える。私のことなんか何も知らない九月の空気を吸い込む。身体に無関心という名の優しさが染み渡る。もう大丈夫だろうと、目を開ける。 ​ さっきまでとは別世界。何処もリアルだった。再び青空を見上げる。果たして彼はここに来てくれるのだろうか。それとも、今度彼に会うのは週明け月曜日の朝、隣の席なのだろうか。どちらもちゃんと想像できてしまう。渡辺センセイ、これが同様に確からしいということですねと、私は今日の三限を思い出す。頭の後ろで校舎をコツンと叩いた。あーもう、こんなに待ち遠しい思いをするなら時間制限でもつけてやればよかった。この時間までに来なかったら、私、帰るからねって。そうすれば、コンビニアイスを前に真剣に悩む彼だって直ぐに来てくれるはず。今度の参考にしようと思ったところで、今度なんてないことに気づいた。 ​ 急にまた冷たくなる風。最悪。もう。くるくると小さな竜巻のような風に巻き付く落ち葉。私の方に寄ってきたので、私はその場を避ける。寄りかかっていた壁に当たって落ち葉の乱舞は急に終わりを迎える。ああ、最悪。早く来てほしい。このままここにいても、私の心情は暗くなる一方だ。瞑想という名の気晴らしは使ってしまった。もう、夏紗からもらったお助けアイテムは残っていない。 ​ 私は、瞑想をしても両手の震えはおさまらなかったことを知る。彼は今頃、何をしているのだろう。仲のよい友達と一緒に駄弁っているのだろうか。いつもの放課後のように、机に寄りかかって話しているのだろうか。それとも、ここに来るかどうか迷ってくれているのだろうか。今日の朝渡した、場所と「放課後、待ってます」とだけ綴った手紙をまだ持ってくれているだろうかと不安になる。 ​ そんなことを考えているうちに、だんだん、泣きそうになってくる。せっかくバレない程度で最大限可愛くなるよう研究したメイクが台無しになるからと上を見上げた。ああ、何処までも青い。青さが止まらない。きっと私の想像するよりずっと向こうまで青いのだろう。その青色は優しくない。私なんて知らないと吐き捨てる優しさだ。きっとこの青さは何処にも無くて、だから消すことなんてできなくて。そうして私は、人は不安で泣くこともあると知った。 ​ それでも、彼の声が聞こえて、彼が息切れする様子を見て、不安は嬉しさに勝てないんだと、私は零れ始めた涙を頬で受け止めながら気づいた。

苺のケーキの苺を最初に食べた

 私、好きな物は先に食べる派。  だから、ケーキの上に乗ってる苺を最初に食べちゃう。  ぱくぱくもぐもぐ。  ああ、美味しい。   「ぎゃー! あんた、何やってんの!」    いっけなーい。  お母さんにバレちゃった。   「めんごめんごー」 「あんた、どうすんのよコレ! ショートケーキならともかく」    怒らないでお母さん。  苺の乗ってないホールケーキだって、きっと美味しいよ。  パティシエさんたちが、一生懸命作ってくれたんだから。    私は食べないけどね。  もう、一番美味しいところが残ってないし。

権利行使は悪なりや?

 とある街頭インタビュー。   「妊娠したので、産休に入ったんです。その後、育休に入って、育休が終わるタイミングで退職したんです」 「なるほど」 「そうしたら、会社の人たちから非難轟々。私はただ、権利を行使しただけなのにおかしくないですか? 私、悪くないですよね?」    私はインタビュアー。  インタビューをしている相手には、優しく寄り添わなければならない。   「はい。貴女は悪くないです」 「ですよね!」 「ただ、会社の人たちも悪くないです。権利を行使することと、周りの人間がどう思うかは別なので」 「でも私の権利ですよ?」    いまいちわかってなさそうなので、私は伝家の宝刀を抜くことにした。   「では、今から私が言う人たちに、どう思うか答えてください」 「はい」 「若い時に保険料をほとんど払ってないのに、今はがっぽがっぽ年金貰っている高齢者」 「年金返納しろ! 金返せ!」 「高齢者を対象に配られるバス乗り放題チケットを使ってる人」 「チケット返納しろ! 税金をそんなことに使うな!」 「ハローワークに形だけ通って生活保護を受けている人」 「働けよ! 税金泥棒!」 「彼ら全員、国が認めた自分の権利を行使しているだけです」    彼女はしばらく考え込んだ。  彼らを非難すると、権利を行使する人を悪いように言って良いということになる。  そうなれば、最初の自分の言葉と矛盾する。   「……制度設計が悪いんですかねえ?」 「さあ」    最終的に、国の制度に全責任を押し付けて、インタビューは終了。  私は彼女を見送ってから、タクシーで帰宅した。  もちろん経費だ。  権利万歳。

高槻に行きたかった

真夏のピークはわかっても、真冬のピークはわからない ムーミンは眠っていて、ちびのミイも起きてこない おおきなひとり言だと振り返ると スマホを片手にしゃべってる誰か そういったこと、以前はよくあった 最近は、おおきなひとり言だと振り返ったら ねことお話しているといったぐあいで ココロがやんわりあったかくなる わたしは高槻に行きたかった 梅田の地下で迷子になって ああああああああ、茫然自失 あせっちゃう、あせっちゃう、あせっちゃう あせったときはひとまず立ち止まって これでいいんですけど そんな顔をつくって壁にもたれて けだるげにスマホを取り出しゲームげえむGAME わたしは高槻に行きたかった 結局、高槻には行けなくて、どうしてだろうか宝塚 この世はままならないものなのさっと わたしは高槻に行きたかった

近所の喫茶店に人手が足りない

「バイトの応募が来んのじゃ。これが、少子化ってやつか」    行きつけの喫茶店で、マスターのじいさんが嘆いていた。  この店の時給は最低賃金。  来たがるやつがいるわけもない。    とは言え、俺はこの店が好きだ。  じいさん拘りの内装も、安くて美味いコーヒーも。  恩返しも兼ねて、ネットで仕入れた知識をじいさんに与えた。  タダで。   「人手不足の原因は、安い労働力を求めるからです。もう、やりがいだけで働く昭和とは違うんですよ」 「ほうなのかのう」    じいさんは、さっそく時給を上げていた。  新しい店員が一人増えていて、注文を取るのも早くなった。   「時給上げたら、人来たわ」 「そうそう。適正な時給を払えば、ちゃんと人が来るんですよ」 「ほうじゃのう。適正って、大切じゃのう」    じいさんが、コーヒーを一杯サービスしてくれた。  いいことをするって素晴らしい。        しばらくして、全メニューが値上げした。   「じいさん!?」 「バイトの子に言われてのう。原価も上がってんのに料金据え置きだなんて、店潰れますぞって。お前さんの言う、適正ってやつをメニューにも反映してみたんだ」    ふっざけんな糞じじい。  この喫茶店は、安くて美味いコーヒーだから来てたんだ。  値段が他の店と同じなら、違うところ行くわ。

超能力少年

最初はほんの一瞬だった 晩御飯、カレーを食べたスプーンを床に落としてしまった その時、スプーンが少しだけ、ほんのちょっぴり止まった気がした 落下の途中で、空気に引っかかったみたいに それだけ ただそれだけだった 次は宿題とにらめっこをしていた時だ 難しすぎて、ノートを睨みつけるように見ていたら、突然――宿題に火がついた 焦げる音 紙が丸まり、炎が走る 慌てて水をかけると、すぐに消えた 家は無事だったし、親にも気づかれなかった 偶然だ そう思うことにした 自分が“何か”を持っていると気づいたのは、その二つが同じ日に起きた夜だった 布団に入っても眠れず、天井を見つめていると、部屋の時計の秒針が止まった 一秒 二秒 三秒 脳内で十秒は数えた次の瞬間、何事もなかったように動き出す そのとき、確信した これは偶然じゃない 翌日から、世界は少しずつ壊れ始めた ストレスを感じると、物が弾ける 集中すると、時間が遅れる 何か遠くの物が気付けば自分の手の中にあった 誰にも言えなかった 言葉にした瞬間、現実になる気がしたからだ だが、学校で事件が起きた 体育の時間、ボールを投げた瞬間、空中で止まった 完全に静止したまま、落ちない クラスがざわつく 教師が駆け寄る みんなボールとボールを受け止めようとしている自分を見ている 全員が見ていた そして、全員が無意識に理解した ――俺が、何かをした みんなが俺を見る、皆が俺をまるで奇妙な動物を見るような目になっている 次の瞬間ボールは弾けた その日から、皆の態度が変わった 距離を取られる 視線が、怖がるものになる 夜、知らない番号から電話がかかってきた 「制御できないなら、危険だ」 低い声だった 名乗りもしない 「君みたいなのは、過去にもいた。だいたい、最後は――」 通話はそこで切れた その夜、夢を見た 自分が何もしていないのに、街が歪み、崩れていく夢 目が覚めた瞬間、窓の外でサイレンが鳴っていた ニュースでは、原因不明の火災、停止事故、時間感覚の錯乱が同時多発的に起きていると言っていた 場所は、全部――俺の行動範囲だった 逃げようとした だが、玄関のドアノブに触れた瞬間、家全体がきしんだ 理解した “何か”は力じゃない 才能でも、神の祝福でもない 俺が、世界をこれ以上許容できなくなっている 最後に、スプーンを拾い上げた あの日、止まったはずのそれは、今は普通に重い 「ごめん」 誰に向けた言葉かも分からないまま、手を離す スプーンは、落ちなかった 落下するはずの未来ごと、 世界が、止まった。

ムラサキヨツメ (掌編詩小説)

その蝶は私の後ろにいた その蝶はムラサキの色彩を身に纏っていた その蝶は羽に上下一つずつヒトの眼のような模様があった その蝶のことをムラサキヨツメと呼ぶことにしよう 名前はさっき決めた その蝶はどうやら自分にしか見えないらしい その蝶は図鑑には居ない その蝶はインターネット界にも居ない ムラサキヨツメは私の見間違いか? ムラサキヨツメは私の幻か? ムラサキヨツメについて知りたい (完)

3ヶ月

正直、最初は軽い気持ちだった。 新しい場所、新しい名前。 どうせまた、少し騒いで、少し笑って、 いつものように流れていくと思っていた。 あの人が、何も言わずに贈り物を送ってきたときも、 深い意味なんて考えていなかった。 「それ、特別な相手に渡すやつだよ」 冗談半分だった。 でも返ってきた言葉は、思ったよりまっすぐで、 少しだけ、胸の奥がざわついた。 そこから先は、早すぎた。 毎日声を聞くようになって、 いない時間が気になるようになって、 名前も見た目も、ふざけて変えていたけど、 本当は繋がっている証が欲しかった。 だから拗ねた。 だから試すようなことも言った。 「好きって言って」 冗談の形を借りないと、 不安を出せなかった。 彼女が曖昧に笑うたび、 安心と同時に、少しの怖さも残った。 いつか、いなくなるかもしれない。 その予感は、ずっとあった。 彼女が少し静かになったとき、 理由は聞けなかった。 聞いたら、本当に終わってしまいそうだったから。 だから、先に言った。 「ここで終わりにしよ」 引き止めてほしかったのかもしれない。 違うって言ってほしかったのかもしれない。 でも彼女は、頷いた。 その瞬間、 自分が一番怖れていた答えが、 一番静かな形で返ってきた気がした。 それから少しずつ、 あの世界に入れなくなった。 彼女が悪いわけじゃない。 自分が、あの場所に戻れなくなっただけだ。 楽しかった時間は、嘘じゃない。 大事だったのも、確かだ。 ただ、 同じ温度で続ける方法を、 知らなかった。 だから今も、 名前を変える。 あの人が呼ばなくなった名前を、 自分から遠ざけるために。

そんな気がした

 新しいペンを手にとった時のような弾みで目を覚まし  新しいノートの一ページ目を開けたような膨らむ期待と共に外へ出てたい  汚れた靴もそのままで  震える手は広がった袖の下に隠しながら  目の奥から打ち寄せてくる熱には気付かないふりをして  どこまでも遠くへ走り続けたら  また会える気がしたんだ

待ち合わせ場所に誰もいなかった

『来週土曜日の十字、○○駅の改札前集合な!』 『おk』 『把握』 『りょうかーい』    当日。  誰も来なかった。   『皆遅刻?』    即座に一通返ってきた   『ごめん、熱出た』    やむを得ない。  五分後に一通返ってきた。   『ごめん、完全に忘れて別の用事いれちゃった』    やむを得なくない。  極刑。  あと一人からは、いつまで待っても返ってこなかった。  多分、寝てる。    集合時間から三十分。  唐突な、暇。  改札からぞろぞろ人が出てきたのを、ぼーっと眺める。  友達が混じっている訳でもない人の波を。  人の波が駅の外に出て、空っぽになった改札前。  立っているのは、ぼくともう一人。   「ええー……。全員来れないって、予約どうすればいいの……」    多分ぼくと同じ理由で立ち尽くす人が一人。   「貴女も、遊ぶ予定だった友達、全員これなくなったんですか?」    話しかけたのは、ほんの気まぐれ。   「え? あ、はい。貴方もですか?」 「そうなんですよ」 「偶然ですねー。嬉しくない偶然ですけど」    よくわからないけど話が弾んで、よくわからないけど一緒に映画を見に行くことになった。  友達の分の席が空席になるくらいなら、というだけだ。  映画を見て、喫茶店で感想を言い合って、夕方になったので連絡先を交換して帰宅した。   『今日はありがとうございましたー。楽しかったです!』 『こちらこそ。また、映画でも見に行きましょう』 『ええ、是非。約束忘れないように気を付けまーす』 『ぼくと貴女は、忘れないでしょw』        「で、何回か遊んで、付き合うことになった」 「ちくしょう! あの日、約束をすっぽかさなければ!」    あの日遊ぶ予定だった男友達に話すと、とても嫉妬された。  人生って不思議だなあと思いながら、彼女からメッセージが来たので、忘れないうちに返信をした。

時間の手触り

ある夜、ふと同い年くらいの女の子たちのことを考えた。昔は同じ教室にいて、同じ時間割で生きていたはずの人たちが、今はもうどこの誰かも知らない人と、ごく自然に人生を進めている。そう想像した瞬間、胸の奥が少し静かになって、同時に取り返しのつかない感じがした。嫉妬や怒りではない。ただ、時間がもう戻らないところまで来てしまったのだ、という事実だけが残った。  高校や中学の頃、僕たちは同じ「まだ何者でもない時間」を共有していた。将来のことはぼんやりしていて、誰と生きていくかも決まっていなくて、可能性だけが無駄にたくさんあった。教室で隣に座っていたというだけで、なぜか同じ物語の登場人物のような気がしていた。でも今思えば、それはただの錯覚だったのだと思う。時間は最初から一人ずつに分かれていて、ある地点を過ぎた瞬間に、もう二度と重ならなくなる。  この感覚は、よく言われるような「恋愛経験の差」への焦りとは少し違う。誰かに先を越されたとか、負けたとか、そういう単純な話ではない。もっと曖昧で、言葉にしづらいものだ。他人が完全に他人になったと理解した瞬間の、静かな孤独。かつて同じ時間を生きていたはずの人が、自分の知らない人生を積み重ねているという事実を、ただ受け取るしかない感覚。  なぜこんなにも「時間が戻らない」ということがつらいのだろうと考える。失ったのは出来事ではない。実際には、何か特別なことが起きていたわけでもない。ただ、あの頃には確かに存在していた「まだどうにでもなれた感じ」が、もう手の届かない場所に行ってしまった。それに気づいたとき、人は初めて時間を後悔するのかもしれない。  取り戻したいのは過去そのものではなく、過去に含まれていた可能性だと思う。選ばなかった道、始めなかった関係、踏み出さなかった一歩。何も起きなかった時間は、空白ではない。ただ、何も起こらなかったという形で、確かに存在していた時間だ。その重さに気づくのが遅かっただけなのだ。  救いがあるとすれば、時間は戻らない代わりに、意味はあとから変えられるということだと思う。あの頃に何も起きなかったからこそ、今こうして立ち止まり、他人の人生を想像し、言葉にしようとしている。この感覚を知らないまま年を重ねる人もいる。そう考えると、今のこの寂しさは、何かを始める前触れのようにも思える。  僕はまだ、誰かの物語の中に深く入り込んではいない。ただ、入口には立っている。時間が戻らないと知ったこの地点から、これから流れていく時間を雑に扱わないと決めることはできる。取り戻せない過去を抱えたまま、それでも前に進むしかない。その事実を、今は静かに受け入れている。

人間になったユニコーン

 一頭のユニコーンが、人間の女に恋をした。    ユニコーンは、女の懐へと顔を擦りつる。  女もまた、ユニコーンを受け入れ、頭部を撫でた。  しかし、女のそれは、恋とは違う。  自分にじゃれつく獣への愛情表現でしかなかった。    ユニコーンは嘆き悲しんだ。  人間と獣。  種族の壁は、一角でさえ崩せぬほどに分厚いことに。  愛を貫くには、ユニコーンである自分が邪魔であった。   「汝、角を捧げよ。さすれば、人の体を与えよう」    嘆くユニコーンに、神が手を差し伸べた。  ユニコーンは、喜んで神の手をとった。  かつて、その神の子を一角で串刺しにしたことなど忘れて。    ユニコーンは、獣の体を捨てて人間となった。  神の餞別か、それはそれは美しい姿だった。  人間となったユニコーンを見た女は、すぐさま恋に落ちた。  ユニコーンと女は、すぐさま恋仲となった。    ユニコーンは家を持たぬ故、女の家に招かれた。  すぐに新しい生活が始まって、すぐに床を共にした。  しかし、女の柔肌に触れながら、ユニコーンは気づいてしまった。  女が純潔を失えば、自分は女と離れなくてはならないことを。    ユニコーンは、処女の前にしか現れることができぬ獣。  処女以外に出くわせば、ユニコーンは目の前の全てを傷つける暴れ馬となってしまう。  それは、ユニコーンの元来の性質。  ユニコーンを人間へと変えた神が、唯一残したユニコーンとしての機能。    裸の女を押し倒した瞬間、ユニコーンは涙を流した。  このまま身をゆだねれば、ユニコーンは女を手に入れられる。  しかし、ユニコーンは女の前で二度と理性がたもてなくなる。  畜生のそれへと堕ちてしまう。    涙を流すユニコーンの頬を、女は優しく撫でる。  女には、ユニコーンの涙の理由がわからない。  ただただ、苦しそうな愛する者を癒さんとするがため。   「辛いの? 寂しいの? 大丈夫。全部、受け止めてあげる」    女の甘言は、ユニコーンの理性を人間のまま狂わせえるには十分だった。  ユニコーンは本能のまま女を襲い、女もそれを受け入れた。  ユニコーンと人間の愛と言う奇妙はものは、たった今、完結を果たした。    翌日。  ユニコーンは女の元から消えていた。  残された手紙には、ユニコーンの業がしたためられていた。  ユニコーンの涙の意味を理解した女は、涙を零した。  たった一回交わることしか許されない互いの運命を嘆き悲しんだ。    女はその後、子を宿した。  人間とユニコーンの子が歓迎されるわけもなく、女は集落から追い出された。  一人孤独に娘を生み、一人孤独に娘を育てた。  ユニコーンが現れることはなかった。    娘は、女から子守歌のように、ユニコーンの話を聞いて育った。  自分の父との思い出話を。    娘が成人する頃には、女は息を引き取った。  娘を育てるために、無理な労働をしたことが災いした。  生涯の相手をユニコーン一人と決め、再婚を選ばなかった女の末路。  その死に顔は、満足そうなものだった。   「もう一度、あの人に会いたかったわ」    後悔は、ただ一つ。    女がいなくなってしばらくの日。  一人の男が、娘の元へとやってきた。  娘は、その男が自分の父であると理解した。  ユニコーンであった男は娘への謝罪から始まり、女のことを聞いてきた。  女は幸せに過ごせていたか、他に男は作らなかったか。  口にするのは、男の聞きたいことばかり。    娘は、無性に腹を立てた。  そんな男を父と認めることができず、小刀を男の胸へ突き刺した。  女と娘の人生を狂わせた畜生へ、生まれて今までの恨みを込めて。   「俺は、いつも選択を間違えてばっかりだ」    男はそう言い残し、息を引き取った。  男の死体は角のないユニコーンへと変わった。    娘はユニコーンの皮を全てはぎ取って、商人へとうっぱらった。  手にした金で事業を起こし、そこそこの財を手に入れた。  その後、女とユニコーンのために大きな墓を一つこしらえ、母の骨とユニコーンの骨を埋葬した。    娘は母が嫌いだった。  父を求めて泣いた姿が、余りにも惨めで。  娘は父が嫌いだった。  母を求めて行った全てが、余りにも我儘で。  娘は両親が好きだった。  自分をこの世界に生み落としてくれたから。   「義理は果たしたからね」    娘は両親の墓に手を合わせた後、二度と墓の前に現れることはなかった。  遠い遠いどこかの国で、母とも父とも違う人生を求めて生きている。

あの子、その子、どの子

ああいうふうになりたいな。 ポスターから好きなように容姿を選んで、カスタマイズできたらいいのに。 あの子からは口を。 その子からは目を。 どの子からは顎を。 いろんなものをもらおう。 あなたはどうするの?どの子から貰うの? 貰わないの?...なぜ? あなたの顔は、不完全よ。誰から見ても。 人生、詰んでるよ、それ。 自分らしく?子供のようなことを言っていると置いていかれるよ。 え?私の“のちの”顔が欲しいの? こうして同じ顔が増えていく。

車窓に映る顔

 駅に着くと車内にいた殆どの人が降り、空席が目立つようになった。無意識のうちに足が動き、立っていた扉から斜め前の席に腰を下ろした。  携帯の画面を見る気にもなれず、ぼんやりと前を見る。正面の席には誰も座っておらず、暗い窓に反射した自分の姿があった。ジャンパーはだらしなく胸元まで開いている。顔の部分がねっとりとした泥で塗りつぶされたように見えなくなっていた。窓に頭をもたれた人の整髪剤が、首から上の部分にべったりとついている。  前髪の形すらわからないほどの跡が顔を覆っている。塗りつぶされた顔からは表情を見つけられない。  降車駅に着いた時、自分の顔を忘れた。

転職なんて簡単だ

「転職なんて簡単だ」 同業者から転職してきた同僚がいつも言っている。 私の勤めている会社は中途採用の割合が多い。最近は新卒採用も始めたものの、それでも全体の七割は中途採用者だ。 私は新卒で入社して十五年。今の会社に不満はあるが、今すぐ退職を決意する勇気は無い。最後に面接をした時にどんなことを話したのかも覚えていないし、人間関係をゼロから始めるのも億劫である。 転職なんて簡単だという人は、社交性もあって資格もあって、どこに行っても通用する者ばかりであろう。 ある朝、いつものように出社すると、なんだか周りがざわついている。 フロアの空気は重く、誰もがモニターよりも人の顔色を見ていた。昼前に招集された全体会議で、その理由は明らかになった。 半年後、会社は主力事業の一部を畳む。私はその対象部署に含まれており、地方拠点への転勤が決定した。 説明を聞きながら、頭の中で何かが崩れる音がした。拒否権はない。条件は現状維持、ただし勤務地だけが変わる。 独身で、守る家族もいない。断る理由はどこにもなかった。 だが、胸の奥にじわじわと広がるのは恐怖ではなく、焦りだった。 このまま会社にしがみついていいのか。十五年も同じ場所にいて、私は何を積み上げてきたのか。 その日から、私は転職サイトを開くようになった。 職務経歴書は白紙に近かった。資格欄に書けるものはなく、成果と言える実績も曖昧だ。応募ボタンを押すたびに、「書類選考で落ちました」という定型文が返ってくる。 面接に進めた数少ない会社でも、決まって聞かれる。 「あなたでなければいけない理由は何ですか」 答えられなかった。 十五年勤めた事実しか、武器がない。 転職なんて簡単だと言っていた同僚の顔が、何度も頭をよぎった。 半年は短かった。転勤辞令が現実味を帯びる頃、私は半ば投げやりになっていた。 そんな時、最後に受けた会社があった。業界は同じだが規模は小さい。面接官は私と同年代で、派手な質問はしなかった。 「十五年、辞めなかった理由を教えてください」 私は初めて、正直に話した。 成果よりも、逃げなかったこと。変化が怖くても、その場でできることを続けてきたこと。 面接官は少しだけ笑って、頷いた。 内定の連絡が来たのは、転勤まで一か月を切った頃だった。 電話を切った後、しばらく何も考えられなかった。嬉しさよりも、拍子抜けに近い感情があった。 新しい会社での初日。 隣の席になった同年代の社員が、昼休みに何気なく聞いてきた。 「転職活動って、やっぱり難しいですか?」 私は少し考えてから答えた。 十五年分の焦りと不安を、胸の奥に押し込めて。 「転職なんて簡単だ」 そう言った自分の声は、思ったよりも落ち着いていた。

ボス

間田はボスに金を払い続けて娘の延命処置をしていた。 毎月15日が回収日で、ボスはそこまで無理な取り立てはしなかった。 そんな光景を5年ほどみていた。 あの日はその月の15日だった。 間田はその日、ボスに金を払わなかった。 不思議に思った俺はその日、間田に訪ねた。言葉には出さなかったが、もう延命処置は必要なくなったのかと思った。 間田は『ボスを信じるな』と言い、そのまま俺に背を向けた。 翌朝。間田は自室で首を吊って死んでいた。 間田の死体の足には少女の死体が食らいついて間田を地面に引きずり下ろそうとしていた。 間田をあの世に逃がすまいとしているようにも見えた。 俺はあの少女は誰だったのか考える。 なぜなら今俺の目の前には間田の娘が入った延命装置があるからである。

冬の隣の席

冬の授業中。 苦手な子と席が隣になってしまって憂鬱だ。 しかも二回も連続。おまけにストーブから遠くてめっちゃ寒い。 黒板を見るたびに苦手な子が目に入ってしまう。あーあ、なんでこんなに運ないんだろう。 理科の授業、最近は難しい。 雪が降る仕組みとかよくわからない。これを習って将来なんになるんだか。 気づいたら授業が終わっていた。 その次は社会だった。 社会の先生は毎回、隣の人と話し合う時間を設ける。 苦手な人と話さないといけない。最悪。 「じゃあここ、隣の人と相談してー」 あーあ最悪。 「りこちゃん、なんて考えた?」 隣の人が聞いてくる。 「えーと、こう考えたー」 私はそう言って笑顔を作る。 下手な笑顔だっただろう。まあわざと下手にしてるんだけど。 というかなんで“ちゃん”付け? 前までは呼び捨てだったじゃん。りこって呼んでたじゃん。 他人行儀すぎて無理。 隣の席の子、さきとは仲が良かった。 毎日一緒に帰って、週末にはいつも遊んでいた。親友だった。 だけど喧嘩をしてしまった。 私が悪かった。でもさきも悪かった。 いいや、さきの方が何十倍も何百倍も悪かった。 あの喧嘩は雪が降ってた日のこと。 私には好きな人がいた。同じクラスの優くんだ。 さきが言った。 「優くんから告られて付き合っちゃった。」 目の前が真っ白になった。雪が降っていたからかもしれない。 「なんで?私が優くんのこと好きなの知ってるよね?」 「ごめん、でも私も優くん好きだったの。」 「何言ってるの?応援するって言ってくれてたじゃん。」 私は泣きそうだった。 「そりゃ、応援はしてたけど」 そこからさきは黙ってしまった。 さきにイライラした。さきに優くんを取られたことが気に入らなかった。 私は正直、さきのことを心の中でバカにしていた。 一重で鼻が大きくてかわいくなかった。 だから絶対に彼氏ができるのは私のほうが先だと思っていた。 そんなことを思ってた私って性格悪いな。 だから優くんにも選ばれなかったんだ。 さきと言い合ったあと、白い息を吐きながら思った。 今出てる涙も凍ってしまうような気がした。それほど寒い日だった。 社会の授業、隣の人と話し合う時間が終わった。 窓の外を見ると雪の嵐だった。 あの喧嘩の日のことを思い出した。 黒板を見ようとしたらさきと目があってしまった。 やっぱり何度見てもかわいくない顔だ。 なんでこんなやつに負けたんだろう。 さきから目を逸らされた。

空は狭いしゴミ箱は広い

 ゴミ箱の中で見つけた絵本には、こう書かれていた。   『あの広い空を、自由に走り回ってみたい』    ぼくは空を見上げた。  煙の隙間から、うっすらと空が見える。  建物の屋根に切り取られて、五角形とも六角形とも言えない形をしている。    とても広いだなんて思えない。    ゴミ箱には、本もあるしご飯もある。  空には、何もない。  浮かぶ雲が食べられるんならいいけど、多分食べられない。  ぬいぐるみの中みたいな形をしているし。   「ここを走ればいいじゃんか」    ゴミを捨てた人間は、いったいどんな人生を送っているのだろうか。  ぼくはゴミ箱を踏み台に、上へと飛んだ。  ベランダに着地すると、ベランダがひん曲がった。  バレたら怒られるので、隣の家のベランダへと飛び乗った。    地上は恐い。  犬が追いかけて来るし、おっさんが追いかけてくる。  落ちていた果物を拾っただけで泥棒扱いだ。  でも、ベランダは自由だ。  誰も追いかけてこないし、右でも左でも、好きな方向へ行ける。    野菜、干し肉。  家族分を手に入れたので、ベランダを伝って家へと戻る。    路地の奥の、さらに奥。  何十年も掃除をしてないくらいに床も壁も汚くて、ぼくたちが飛び回るおかげで人が住める程度な綺麗さを維持している場所。   「ただいま!」 「お帰り!」    ぺったんこの布団から顔を出した弟たちに、今日のご飯を渡す。  また手が細くなって、いずれイカの脚になりそうだ。   「兄ちゃん、食べないの?」 「兄ちゃん、食べて来たから」    弟が出た布団の上に、仰向けで寝っ転がる。  屋根と屋根との隙間から、曇った空が見える。    あの狭い空の上に、行きたくはない。  でも、野菜や干し肉よりも美味しい物があるのなら、それを食べには行ってみたい。

月相位

月明かりの公園。 ベンチに腰かける二人の男女。 「…お月さまってさ。 なんか、こー勝手に色々背負わされてるよね~」 「なんだそれ?」 「日本だとさー。兎がいたり、かぐや姫が帰ったり、アイラブユーだったり……口出せないと思って、責任押し付け過ぎじゃない?」 「責任って……別に責任とって欲しい訳じゃないだろ?」 「…ん、そうだね……責任、取って欲しい訳じゃないんだよね」 「……?」 「──“月が蒼いですね”」 「……それを言うなら、“きれいですね”じゃないのか?」 「手垢ベットリじゃん。蒼い月の方が、満月が二回とか、なんか得しちゃった気分?かな、と」 「百恵ちゃんの自叙伝……」 「それ、だあれ?」 ──その後、スマホで確認したところ、百恵ちゃんの自叙伝は『蒼い時』だったと知る二人でした。

論点をすり替えるな

「おーい、論点すり替えないでもらっていいですかー?」    まただ。  こいつは、論点のすり替えという指摘を、口癖のように言うようになった。  正直、自分の中では論点がすり替わってなどいないので、こいつの言葉の意味が分からない。  だから、聞いてみることにした。   「ごめん、自分ではすり替えたつもりがないからわからない。すり替える前の論点と、すり替えた後の論点を言語化してくれない?」 「え?」    そいつは腕を組んで悩み始めた。  あーでもない、こーでもないとうめいた挙句、最後には俺をにらみつけてきた。   「論点をずらすな!」    そして、走って逃げていった。  きっと、自分でも論点がわかっていなくて、ふわっと何かが違うと思ったから、反射的に口癖が出たのだろう。  理由が分かってすっきりした。    俺はすがすがしい気持ちで家に帰り始めた。  せっかくだ、途中でカフェにでも寄って帰ろう。

メドューサ・メドュ子のお悩み相談室

どうも皆さんこんばんは 今日からはじまりました新番組 メデューサ・メデュ子のお悩み相談室 この番組は短編作品限定の小説投稿サイト『Prologue -プロローグ-』の提供でお送り致します この番組のナビゲーターを務めるのは私メドューサ・メドュ子です。皆さん、どうぞよろしくね はい、と言うことで はじまりました新番組 とっても緊張してるけどメドュ子頑張ります この番組は皆様のお悩みを私メドュ子がズバっと解決して差し上げる内容になっています。では早速今夜のお悩み相談始めさせていただきます ペンネーム、たこ焼きガールさんから頂きました。ありがとー メドュ子さんこんばんは 「こんばんは」 私は今年で40歳になってしまうのですが、 「私なんか3000歳超えてるのよ、若い若い。ピチピチよ」 未だに彼氏が出来ません 「彼氏欲しいよね~」 なので思い切ってマッチングアプリを使ってみたのですが 「うんうん、マッチングアプリで付き合ってそのまま結婚しました!みたいなカップル多くなったわよね」 この人良いなと思う男性がいて、でもいざコンタクトを取ろうとすると勇気がなくて、 「そうよね!ドキドキしちゃうわよね。私もそうだけど皆、自信なんかないわよね〜」 メデュ子さん、こんな私に少しの勇気を下さい。 「分かりました。たこ焼きガールさん。きっとこの縁はあなたにとって大切な出会いになるでしょう!そんなあなたにこの言葉を贈ります!」 【【弱い心は石にしておしまい!!】】 はい、出ました伝家の宝刀。メドュ子の石化アイ!と言うことで、そろそろお時間です。皆またねー!シャー!

真顔の国

 さて。今日の授業は、とある国の歴史について、です。  そこは小さな島国でした。けっして裕福ではありませんでしたが、島民たちは手を取り合い、幸せに暮らしていました。  しかし、島民たちには一つだけ悩みがありました。彼らは表情筋、特に口の周りにある筋肉が萎縮していたのです。そのため、島民たちは複雑な表情をつくることができませんでした。悲しみや困り顔は、かろうじて表現できるものの、笑うには口角をつり上げる必要があり、実に困難なものでした。その島は頻繁に海外と交易をしていたこともあってか、外部の者が「島民たちは少しも笑顔を見せない」と不気味がることも多々ありました。  このままでは外部との交流に支障をきたしてしまう。島民たちは、とある外国から優秀な研究者の男を招来し、どうにかならないものかと頼み込みました。彼は、島民たちの願いを二つ返事で了承すると、単身で島に引っ越し調査をすすめました。  丸一年をかけた調査の結果、男は島民たちが共通する特殊なDNAを持っており、この形質が表情筋の発達に影響していることを突き止めました。それから、これまた長い歳月をついやし、彼は特殊な遺伝形質を抑制する特効薬を開発したのです。  錠剤を島民たちに配りながら、男は言いました。 「この薬を毎日一つ、のみなさい。それをニヶ月半、続けなさい。のみすぎはいけませんよ」  島民たちが男から渡された薬を服用すると、たちまち凝り固まっていた頬の、眉の、口の筋肉が動くではありませんか。どういう原理なのかは分かりませんでしたが、島民たちは嬉々とした笑顔で、男に礼を言ったのでした。  男が島を立ち去って、実に半月が経過した頃、島は世界でも有数の観光地となっていました。島民たちが皆、いつも笑顔で和気あいあいと暮らしている様子が人から人へと伝わり、各国から称賛されたのです。島の人口は一気に増加し、経済も豊かになり、立派な島国としての地位を確立しました。しかし、島民たちの間では、少しずつ異変が進行していたのです。  日々の生活の中で、ときに卑屈な顔の者を見かける時、島民たちはもれなく竹取りの姫が月を見上げるようなノスタルジーを感じるものの、ふと以前のむっつりとした真顔になってみようとしてもうまく再現することができません。  今や、島民たちは様々な表情をつくれるようになりました。この恩恵を得ることができたのは、ある一人の男の研究成果であり、医療テクノロジーの結果であり、特別な薬物の効果であり、その全てであって、そのどれでもないのです。  私があの島へ再訪した時、島民の一人が話をしてくれました。 「俺たちは皆、感謝してるんですよ。おかげで、こんなに笑えるようになりました。嬉しさを、楽しさを、皆が当たり前のように表現することができるのですから。けれどね、だからこそ私達は許せないんですよ。もとから自在に表情を操れる者たちが、感情の宿らない顔をしていると。まるで昔の俺たちを見ているようで、苦しくなるんです。これはもう取り戻せないあの頃への嫉妬だし、罰でもあるんでしょう。俺はね、今になって思うんですよ。私たち島の人間の、本当の素顔とは一体なんだろうかと。今さらながらに考えてみたいと思うんです」

【超短編小説】「変身」

 一人の女がふらふらと道を歩いている。女がふらふらするたびに、ぽろぽろと何かが地面に落ちる。それは赤い。それは苺である。苺は女のスカートの中や、上着の袖の間から落ちてくる。どうやら女の肉体がどんどん苺に変化しているらしい。やがて女の片腕がすべて苺になり、片目が苺になり、右足の指がすべて苺になった。女はふらふらと歩き続ける。女が歩いた後に点々と苺が落ちている。そして女はスーパーマーケットに入った。もはや女の肉体の八割が苺になって、地面に落ちていた。女はとある棚の前でついに倒れた。女の肉体の全てが苺になり、女の魂だけがそこに漂っていた。女が倒れた場所の棚には、練乳が並べられていた。

金魚

中学校に行けなくなってはや1か月。 ふと目がさめると私は金魚になっていた。 金魚とは人間がフナに人為的変更を加え、 この世に生まれさせられた、生き物。 その特異性ゆえ、 ただただ人間様の観賞用として育った、 そんな存在だ。 自力で泳ぐことさえままならない 一匹の金魚は、 水の中、 奥深くまで、 堕ちていき、 ひたすらに引き籠って、 やがて来る、 その″おとずれ″を待つ。 でもやはり本質的に何ら変わることはない。 だってその「すくわれる」その“いつか“をじっと待つことしか、 わたしにはできないのだから。

アルバム

「あ、懐かしいな…」 押入れの整理をしていると、分厚いアルバムが出てきた。 そこには、小さかった頃の我が子が写っていた。 一枚一枚ページをめくる。 初めて笑った日、 初めて立ち上がった瞬間、 短い手足を一生懸命に使って、こちらへ向かってきた姿―― 小さな「初めて」が、 余すことなく閉じ込められている。 写真の中の我が子は、 いつも私の腕の中に収まっていた。 あの頃は、泣き声に戸惑い、 眠れない夜に、ただ毎日を必死に過ごしていた。 もっと成長を喜べたはずなのに、 もっと優しくできたはずなのに、 と今になって思うことばかりだ。 忙しさを理由に、 見逃してしまった瞬間も、きっとあった。 それでも、こうして残された写真を見ていると、 確かに私は、この小さな命と向き合ってきたのだとわかる。 不器用でも、 迷いながらでも、 手を伸ばし守ろうとしていた時間が、 一枚一枚に刻まれている。 気づけばもう、 腕に収まらないほど大きくなった我が子。 あの日々は戻らないけれど、 この子がここまで私を母として育ててくれたこと、 そして、私を親にしてくれたことに 「ありがとう」

『記憶にございませんが、どちら様でしょう』  —私立女子高に響いた婚約破棄宣言—

「二川原ミカぁ!」  ここは、私立花ケ咲紅蘭女子学園。  私は、その高等部二年でございます。  先ほどから連呼されているお名前と同姓同名ではありますが、さて。 「二川原ミカぁ!」 「ふぅ…」    私は、重い腰をあげ窓辺へと足を運びました。  校庭の真ん中で、タキシード姿の男性がいらっしゃいます。 「二川原ミカぁ!貴様と婚約破棄してやる!」  はて?  黒のタキシードに拡声器を持つお姿は、あまりにもアンバランス過ぎて、笑っていいものか困ってしまいます。  返答するにも大声を出すのははしたないですし、様子を伺いましょう。  ……先生方と、何かお話されてますね。  それにしても、私はいつ婚約をしたのでしょう。  タキシード様は先生方に背中を押され、門扉の向こうに追いやられてしまいました。    授業を知らせるチャイムが鳴り、数学に備えます。  数学の教科書を端からノートに書き写して、自力で解く快感。  教壇の前に席を陣取ってますと、授業とは全く違うページを開いていましても気に止められないようです。  チャイムが鳴り清掃のため、私は当番の中庭へと向かいました。    タキシード様が座り込んで本を読まれてます。  地面に座られるのはどうかと思いますが、私には関係ありませんね。  本から顔を上げたタキシード様と目が合いました。  …………  先ほどの喧騒が嘘のように真っ赤になっておられます。 「……私が二川原ミカですが?」 「……知ってます。呼び捨てしまって申し訳ありません」  随分、礼儀正しいのですね。  拍子抜けしてしまいます。  手にしているのは流行りの少女小説のようです。  一度拝見しましたが、よく分からない世界で、直ぐに『嵐が丘』を原書で読み返しました。 「…………」  一つ確認しなければなりませんね。 「私はいつあなた様と破棄されるような婚約を結んだのでしょうか?」  その瞬間、タキシード様は両目からぼたぼたと音のしそうなほどの涙を落とされました。  殿方を泣かせてしまいました。  些か、罪悪感が募ります。  ポケットからハンカチを取り出し手渡しました。 「殿方が、そのように泣くものではありませんよ?」    タキシード様はハンカチを握りしめて、ずずっと、鼻水を吸い込みました。    と。  ………過呼吸のようです。  あいにく、ここは中庭です。    私は渡したハンカチを取り戻し、タキシード様の口にあてました。 「ゆっくり息をして…そう…ゆっくり吐いて、吸って……」 「…ごめっ…こんな…つもりじゃ…」  えづきながら、言葉を繋げます。 「…無理に、しゃべらないで。今は息をすることに集中して」  清掃終了のチャイムが鳴り響きます。  さて、どうしようか? 「行ってください。僕には構わないで」  そういわれたので、ハンカチをタキシード様の握った手の中に押し込んで、放ってしまった箒を片付けました。  手洗い場で手を洗ってから、ハンカチがないことに気がつきました……お行儀悪いですが、髪の毛を整えましょう。  ホームルームを終え、帰宅します。    校門に向かうと、下校する生徒の群れが不自然に空間が空いていた。  タキシードの上着を手にかけた男と、わたしは目を合わせた。 「呼吸は?戻った?」  短くそう聞くと、 「あ、さっきはありがとう。ハンカチは洗って…いや、新しいのを買って返します」   「洗ってくれたらそれで構わないけど?」  犬の尻尾みたいにブンブンと首を振る様子が面白い。 「そんなわけには行きません!」  …… 「元先生だから?」  はっと顔が上がる。 「気がついて…いたんですか」 「流石に元担任は気づくでしょう。その突飛な格好には騙されましたけど、地場先生」  なんか、また泣きそう…  ここは畳み掛けましょう!あら?口調が戻ってますね。まどろっこしい。 「で、この奇行はなんですの?」  すると、おずおずと中庭で読んでいた本を差し出した。 「以前…君が読んで…こんなのが…好きなのかな…と」    …少女小説。   「まさか、これを真似たと?」  首がもげそうなほど、前後に振っている。 「わざわざ?学校で?拡声器使って?」  わー!もげる、もげる! 「なんでまた……」 「君が…僕に興味がないことは知ってたから…印象つけたくて…」 「大の大人が…学校辞めてまで、なにやってるですか」 「僕は!教科書の先のページより注目されたかったんだ!」  あ、地場先生。  数学でしたね。 「…にしても、なぜ、婚約破棄?」 「………これ、読んでしまっただけです…」  地場先生は、少女小説の冒頭を指差した。 

そうでもないよ

去年の暮れに喫茶店であの子と会った あの子はクリームソーダで 僕はコーラフロート ―寒いのに冷たいのだね あの子が言って ―でも、飲みたかったから 僕が言って おいしかったけど、からだがふるえた それで、あの子の前に、あたたかい紅茶が 僕の前には、あたたかいコーヒーが、運ばれてきた 紅茶を飲み、ふうと軽く息をついたあの子が ―今日のこれはね、忘年会なんだ と、あの子 ―そうなんだねえ と、僕 ―あんまり盛り上がらなかったかなあ お店を出てあの子が言って ―そうでもないよ 僕が言って 歩き出そうとした僕に、あの子が手をさし出してきて 僕は、その手にそっとふれた 駅まですこし、遠回りした

雨の蓋

「本日は、全国的に大雨の予報です」    扉を開けたら、壁のような雨が降っていた。  無色透明な雨粒が集まって、遠くの景色を隠してくる。  試しに壁を触ってみれば、手はめり込んだが痛かった。   「まーじか」    運行状況を見て見ると、電車は軒並み運転見合わせ。  電車もこんな大雨の中は知りたくないよなあと納得する。  社給スマホを見てみれば、出勤禁止のメールが届いていた、  全社的に特別休暇の扱いとするようで、有給休暇は減らないらしい。  命大事に。  ありがたい。   「しっかし、やることねえなあ」    仕事をする予定だったので、やりたいこともない。  いや、やりたいことがあったとして、どのみち出かけることもできない。  カップラーメンの備蓄があるのだけを確認して、二度寝した。    窓の外も真っ暗なので、カーテンを閉めて電気をつけた。  ざあざあと雨音がうるさいので、イヤホンで耳を塞いだ。  深海の奥にでもいる気分だ。    何もやることがない。  だから、今日は何もしない一日にした。  寝ることは何かやることなので、パジャマから私服に着替えた。  椅子に座って天井を眺め、頭の中で「ぼんやり、ぼんやり」と復唱する。    何もしていないのだと、自分に言い聞かせる。    雨が、人生に空白時間を作る。  人間と関わらない、社会とも関わらない、閉ざされた瞬間。  頭の中にノイズのような何かが流れたので、今自分のやっていたことは正しかったのだと確信する。    普段使われていないだろう脳の一部がやたら活性化し、宇宙の末端はどうなっているのだとか、もしも受験で第一志望に受かっていたら人生はどう違っただろうかとか、変なことばかりを考えた。  筋肉痛のように脳が痛んだが、どうにもハマってしまって抜け出せない。    現実から少し離れたわき道に入った気分で、思う存分雑草を踏みつぶしながら思考を歩かせた。       『ぴーぴー。ぴーぴー』 「うおっ!?」    そして、二度寝防止用アラームの音で、現実に引き戻された。  いつだって、こういう詰めが甘いのが自分だ。    アラームを全て切って、もう一度椅子に座ってみた。  天井は天井のまま佇んで、脳は「天井だよ」としか言ってくれなかった。

デンジボタル (掌編詩小説)

彷徨うデンジボタルを捕まえたくて。 季節外れの並木道、並木に絡みつくLEDに擬態して 季節外れの目的を虫取りカゴに詰め込んで また明日、デンジボタル。 (完)

20-20-20の悲劇

 自分最大の資本は、体だ。  特に、目は重要だ。  裸眼で遠くまで見ることができれば、近づいてくる危機に対応できる。  眼鏡をかけなければ生活できない人間なんて、最低の弱者。  睡眠中に異世界転生してしまえば、「目がー目がー」と騒ぎながら逃げ遅れ、マンモスに踏まれてぺしゃんこだ。   「ニ十分に一階、二十秒間、二十フィート先を見る。これだけで、人生勝ち組だ」    ニ十分に一度鳴るアラームが、スマホから響く。  俺はパソコンから目を離し、窓の外を見る。    隣のアパートで、洗濯物を干す女子大生と目が合った。   「きゃー! 変態!」    俺は警察に捕まった。  ニ十分に一回、女子大生の洗濯物を凝視する変態として。  そんなつもりなどなかったが、世間の目は厳しい物だった。    資本を守ることは、なんて難しいんだ。

君に会いたくて

※「寂しくて」の続編です。そちらもよろしければ。 ──────  結婚して初めての冬を、俺は遠い街のビジネスホテルで迎えている。  長期出張。カレンダーを見るたび、妻の里枝と過ごしていない日付に線が引かれていくみたいで、胸の奥が少しずつ冷えていく。  夜、部屋の明かりを落としかけたころ、スマートフォンが震えた。表示された名前に、ほっと息をつく。 「もしもし」 『……起きてた?』  彼女の声は小さくて、少しだけ間がある。いつもの話し方だ。  つけていたテレビの音を絞る。 「うん。今ちょうど横になったところ」 『そっか』  それきり、少し沈黙が落ちる。何か言いたそうで、でも言葉を探しているときの癖。 『ね、聞いて。実家、三日で帰ってきちゃった』 「やっぱりか」 『だってさ、パパが「本当に仕事なのか」とか、「若い男は外で羽伸ばすんだ」とか。  ずっとそんなこと言うんだよ。……疲れた』  語尾が少しだけ尖る。でもすぐに力が抜ける。 『あなたが気を遣ってくれたのは分かってる』 「ごめんな。かえって寂しい思いさせた」 『……ううん』  その「ううん」のあと、また短い沈黙。受話口の向こうで、彼女がソファに丸くなっているのが目に浮かぶ。 「今日は何してたの?」 『仕事終わってからカフェで本読んでた。  帰りにスーパーの半額弁当買って、ドラマ見て』 「一人で半額弁当狙いに行ったの?」 『うん。意外と楽しいよ、あれ。おばちゃんたちとの戦い』  俺は笑った。彼女も笑った。そんな他愛のない会話を続けた。今日見たドラマのこと、近所のコンビニの店員が変わったこと、街角の地域猫のこと。  そしてまた、ところどころ黙り込む。 「……それで?」と促すと、「うん、そうそう」と慌てて話を続ける里枝。その繰り返しだった。 『ねえ、友貴』 「ん?」 『早く会いたいな』 胸が締め付けられた。 『独りでいると、部屋が広すぎて寂しい。  二人でいる時は狭いって言ってるのにね。変なの』  寂しがりやの彼女からあふれてくる言葉が、胸に刺さる。 『早く会いたいな』  吐息が混じる。あの、くっついてくるくせに、触れようとすると逃げる、猫みたいな妻の声。 「俺もだよ」  本当はもっと言いたい。でも、うまく言葉が出てこない。 『……そっち、寒い?』 「寒い」 『じゃあ、ちゃんと暖房つけて』  まるで自分のそばにいないのが分かっているみたいに。  そのうち彼女からの返事が遅くなっていく。呼吸音が一定になり、小さな息づかいになる。 「里枝?」 『……ん』  眠りかけの声。 「もう寝ろ」  返事はない。耳を澄ますと、規則正しい寝息が聞こえてきた。電話を握ったまま、眠ってしまったらしい。  俺はしばらくそのまま聞いていた。彼女の吐息。いつも隣で聞いているはずの音。  こんなに愛おしく感じたのは初めてかもしれない。 「おやすみ」  小さく呟いて、電話を切った。  明かりを落とし、ベッドに横になる。天井を見つめながら、さっきの声を反芻する。「早く会いたいな」って。  会いたい気持ちは、俺も一緒だ。今すぐ、帰りたいくらいだ。  目を閉じる。せめて夢の中で会えたら。そう願いながら、俺も眠りにつく。  傍らに眠る、彼女の柔らかい温かさを思い出しながら。

今しばらくは同期のままで

 社員食堂の片隅で手作り弁当をつつく同期を見つけた俺は、向かい側の席に座る。 「なんだ、なんだー、溜息ついて! 仕事でやらかしたか?」  彼女は少しムッとしつつも、すぐに軽口として受け流した。きっとそうなると確信しているから、俺も気さくに話しかけられる。 「……だよな。おまえはいつも、全体を見てそつなく進めてたもんな」  彼女と俺は同じ新卒入社で、新人研修では一緒にチームのまとめ役を務めていた。自分から進んでチームの足並みを揃える役をしてくれて好感が持てた。俺としては好感の持てる同期以上の想いを彼女に抱いている。そんな彼女が溜息交じりに昼メシを食べているものだから、軽い感じで声をかけてみたのだ。 「何なら、近いうち飲みに行くか?」  心配半分、下心半分で提案したものの、彼女の返事はノー。交際相手がいるから、異性とのサシ飲みは御法度という答えだった。  そっか……恋人がいるんじゃ、しかたねぇよな。恋人がいると気付かず、アプローチを仕掛けようとした俺の何とマヌケなことよ。  でも、もし……。恋人との関係が上手くいっていないなら――。 「もし……彼氏とのことで悩んでるんだったら、俺じゃダメか?」  後日、彼女が恋人との関係に悩んでいると判明し、俺は気持ちを打ち明けてしまった。彼女の心を自分に向けるには、気持ちをハッキリ伝えるしかないように思えたから。  でも正直なところ、彼女の心がすぐに俺のほうへ向くとは思えなかったし、それは予想通りになった。俺の気持ちには応えられないと。今は新しい恋を始めるつもりはないと。俺の気持ちを真っ直ぐ受け止めたうえで、彼女はそう答えた。  そうだよな。それでいい。そんな彼女だからこそ、好きなんだ。今しばらくは、気の合う同期でいよう。気さくに話せる相手であり続けよう。いつか彼女の心に区切りが付いて、新しい恋を始めようと思うその日まで。

寂しくて

 結婚して初めての秋は、静かに過ぎていく。  窓の外では冷たい雨が降り続いている。十一月も半ばを過ぎて、夜になると部屋の空気がひんやりと肌に触れるようになった。  暖房をつけようかと迷っているうちに、妻がそっと俺の背中にくっついてきた。 「寒い」  小さな声でそう言って、妻は俺のシャツの裾を掴んだ。  二歳年下の彼女は、こういう時まるで子どものようだ。 「暖房つけようか」  そう言いかけたけれど、妻は首を横に振った。 「寂しいからこうしてたい」  ぽつりと呟いて、彼女は俺の腕に自分の頬を押し付けてくる。その温もりが妙に愛おしくて、思わず抱き寄せようとしたら、するりと身をかわされた。  振り返ると、妻はいたずらっぽく笑っている。 「なんだよ」 「だって」  猫みたいに気まぐれなやつだ。結婚前から知っていたけれど、一緒に暮らし始めてからその傾向はますます顕著になった。  べったりくっついてきたかと思えば、こちらから触れようとすると逃げていく。でもまた数分後には、何事もなかったように側に寄ってくる。  ソファに座ってテレビを眺めていると、妻が今度は俺の隣に腰を下ろした。  そしてまた、そっと俺の腕に触れてくる。 「ねえ」 「ん?」 「私ね、小さい頃、両親が共働きだったから」  妻は俺の腕を両手で抱えながら、どこか遠くを見るような目をした。 「学校から帰ってきても誰もいなくて。  鍵開けて、一人で家に入って。冬はすごく寒かったの」  テレビの光が彼女の横顔を淡く照らしている。 「ストーブつけて、宿題して、でもやっぱり寒くて。  寒いと余計に寂しくなって」  妻の指先が、俺の腕をぎゅっと握りしめた。 「だから、寒くて独りきりは寂しくて嫌なの」  その言葉に、少し切なくなった。俺は何も言えずに、ただ妻の頭にそっと手を置いた。彼女は抵抗しなかった。  外では相変わらず雨が降っている。冷たく窓を叩く音が静かに聞こえる。 ──俺も独りは苦手だ。  一人暮らしをしていた頃、休日に誰とも話さずに一日を終えるのはしょっちゅうだった。そんな夜は、部屋がやけに広く感じられて、自分がひどく小さな存在に思えた。  誰かに電話しようかと考えても、こんな夜に誰を呼び出せばいいのか分からなくて、結局何もせずに布団に潜り込んだ。  でもそんなこと、彼女には言ったことがない。 「寂しいのは俺も同じだよ」  そう素直に言えたらいいのに、言葉は喉の奥で止まってしまう。代わりに俺は、妻の肩にそっと自分の頬を寄せた。 「あったかい」  妻がぽつりと言った。 「うん」  俺も小さく応えた。  妻の温もりが、俺の腕に伝わってくる。そして俺の温もりも、きっと彼女に届いているんだろう。  寂しいのは妻だけじゃない。俺もずっと、誰かの温もりを探していたんだと思う。  テレビの音が遠くなっていく。外の雨音も、いつの間にか子守唄のように聞こえ始めた。  妻の呼吸が、ゆっくりと穏やかになっていく。俺の腕を抱えたまま、彼女はうとうとし始めているようだった。その重みが心地よくて、俺も少しずつ瞼が重くなっていく。  もう一人じゃない。  そう思ったら、不思議と安心した。  これから訪れる寒い冬も、冷たい雨も、二人ならきっと大丈夫だ。  互いの温もりを感じながら、俺たちは静かに眠りに落ちていった。  窓の外では、まだ雨が降り続けている。

sorto

「分かった。死んで異世界に行く」 「はあぁ?…」 日常の、些細な言い争いから出た一言。 ……些細? 些細なんだろうか? 旦那が… 婚姻関係を結んでいる相手が、 私でない女と、ラブホに入っていく姿を見た、と言うことは。 「流行りでしょ?」 「おまえ、頭大丈夫か?」 「天国とか地獄とか、死んだら行くの実は異世界なんじゃないかって」 「…………」 「あたしね、あなたのこと好きなのよ。だから、あたしを好きじゃないあなたは要らないかなって」 「……っ!」 「ここじゃない、どこかに行きたいかなって」  旦那の顔をじっと見る。  我ながら、なに言ってんだろ?だけど、  旦那の顔は、食っちゃいけないもの――――あなたの大嫌いなカキを口にした時みたいな顔してる。 「…ごめ…」 「何に対して?」  また、黙る。  んー…それはそれで困ったな。  言い訳を聞きたい訳じゃない。 「楽しかった?あたし以外を抱くの」 「……!」 「気持ち良かった?あたし以外を抱くの」 「…………」  不思議だな。  あんなに大好きだった人の辛そうな顔見てるのに、ちっとも元気付けようって気が起きない。  何でそんなに、辛そうなんだろう。  ……取りあえず、 「どうしたの?なんか、辛いことあった?」  て、定型文で聞いてみる。  棒読みになっちゃった。  ちっとも心が籠ってないね。    目も、鼻も真っ赤。  怒ってるのかな? 「――――君は……俺が好きだったの?」  途切れ途切れに、ようやっと吐き出された言葉。  この人、あたしの言った事、ちゃんと聞いてたのかな?  それ、言ったよね?  頭がじんじんする。  目頭がぎゅってして、  喉が詰まって、  お腹がもやもやして、  両手がびりびりして、  足が………氷ついたみたいだ。  足元に、魔方陣が出てこないかな。  聖女でも、奴隷でもいいや。  分かってるのは、ここにいたくないってことだけ。  旦那の顔色が変わる。  足元に、魔方陣の代わりに雫が落ちていた。  

嘘と真の中間点に疑念の光

昔私達が子供の頃大人から嘘付いてはいけない 苛めや差別しては駄目だと学ぶ為色々な絵本を 読んだ舌切り雀、杜子春、蜘蛛糸、ピノキオや 王様の耳はロバの耳、裸の王様、ガラスちゃん 人魚姫、狼少年、等嘘を付くと罰が降ると教え られて大人と言うかおばさんに為って仕舞った けど世の中は大人達の嘘が多過ぎるから世間が 乱れて政治家達の良い所取りな気がするし既に もう誰が政権取ろうが関係無い貧乏な奴は死ぬ 迄貧乏のまま天の御迎え待つだけの惨めな人生 理不尽な生き様曝す前に全部ブチ捲ける覚悟は この生活が始まった瞬間から等に心の隅に有る からスッキリしたいな嘘ばかりの政治家共先ず 小難しい政策や耳障りの良い言葉より行動だと 言う事を今の政治家は何時に為れば理解するの だろうか多分このままじゃ今回も騒ぎばかりで 何も変わらない日本と為るかも知れない出来る 事為らばこの疑念が実現し無い世界線に為れば もしかしたらその時こそ日本が変われるかも? 知れない…行動無き政治は国を滅ぼす的な

サイダー

雑音が、嫌いだった。話すのも、嫌いだった。 ヘッドホンをつけていれば、話さなくて済む。 今日も、明日も、来年も。 きっとずっと、僕の生活は変わらない。 そんな静寂に、突然現れた少女。 彼女は、平坦な僕の生活に彩りを与えてくれた。 桜の散る日も、雪が降る日も、ずっと、君と笑っていたかった。 君は僕の声を好きだといってくれた。 「可愛い」その声を、反復して思い出す。 彼女がいたら、話してもいいと思った。 ヘッドホンなんか、いらないって、思った。 山桜 かわいい言葉 僕は好き

夕刻

夕刻の山は影に染まり、山の上の雲ははち切れんばかりに輝き、燃える太陽に焼かれている。 山から離れた空にある銀色の雲は、淡く燃えて昼間の終わりを表している。 駅のホームに帰宅者がそろう、いつもの時間。今日も雀の歌が聞こえいる。

歪んだ不安

 電車を降りたら「どうでもいい」と言い切って、改札を出たら忘れるはずなのに、冷たい布団に挟まれながら今もうなされ続けている。

配達先シリーズ【仲良し夫婦】

おしゃべり好きな配達先の店員さんがいると夫は、よく私に話してくれる。 それは、夫が配達に行く先のスーパーで働く藤崎さんという人だ。お惣菜売り場のリーダーで、とにかく話し好きらしい。 「藤崎さんに捕まるとさ、昼休みが削られるんだよ」 そう愚痴りながらも、夫は少し笑っていた。 話は面白いから、結局最後まで聞いてしまうのだという。 藤崎さんが働いているのは、地元密着型の小さなスーパー。 夫は配達のついでに、そこで昼食を買うことが多かった。 ある日、夫が惣菜を手に取っていると、背後から声をかけられた。 「それ、美味しいですよね。近所のご夫婦も、いつもそれを買ってたんですよ」 「へえ、そうなんですか」 夫がそう返すと、藤崎さんは間を置かずに話し始めたらしい。 その老夫婦は、とても仲が良かった。 買い物はいつも二人一緒。 寄り添うように店内を歩いていたという。 ところがある日を境に、おばあちゃんが一人で来るようになった。 藤崎さんが理由を尋ねると、 「おじいさんが病気で寝たきりになってしまってね」と答えた。 一か月後。 二か月後。 おばあちゃんは変わらず一人で来店し、藤崎さんは来るたびに同じように声をかけた。 「おじいさん、どうしてるんですか?」 「体調が良くなくて、ずっと寝ているの」 おばあちゃんは、毎回同じ返事だった。 数週間後、県外に住む息子が帰省した。 そのとき、和室に敷かれた布団の中でおじいちゃんは横たわっていた。 既に、おじいちゃんは亡くなっていた。 おばあちゃんは、おじいちゃんの体が冷たいのを「寒がっているから」と思い、布団を何枚も何枚も重ねてかけてあげていたという。 だが息子が見た限り、死後かなりの時間が経っていた状態であったそう。 認知症が進んでいたおばあちゃんは、おじいちゃんが亡くなったことを理解できていなかったのだ。 腐敗は進み、布団と畳には人の形にくっきりと黒い跡が残っていた。さらに、染みついた臭いは、どうしても消えなかった。 おばあちゃんは、買い物の仕方も話し方も、周囲から見れば何ひとつおかしくなかったという。 だからこそ、後日、挨拶に来た息子から詳しい話を聞いた藤崎さんは、心底驚いたと夫に語ったそうだ。 「普通に会話できてたから、認知症だったと気づかなかったよ」 そこまで話して、藤崎さんは次のお客さんに声をかけに行ったという。 おばあちゃんにとって、おじいちゃんは「寝ている人」であり、「世話をする相手」だった。 だから、冷たい体も、動かないことも、すべて「体調が悪い」という理由に置き換えられた。 藤崎さんからその話を聞いて、「あの日は、昼食の味がしなかったよ」と夫は酒の肴をつまみながら話していた。 「その話をした後で、よく食べられるね」 私がそう言うと、夫は少し困ったように笑った。

配達先シリーズ【誰にも言えないこと】

 夫は配達の途中、佐藤商店に立ち寄るのを少しだけ楽しみにしていた。五十代のご夫婦が切り盛りする小さな店は、いつも穏やかな空気に包まれていた。子どもに恵まれなかったという二人は、夫を「息子みたいなものよ」と笑い、温かく迎えてくれる。  仲の良い夫婦。  少なくとも、表向きは。  夫の違和感は、奥さんの話から始まった。  ある有名な選手の熱烈なファンで、その選手が自分を愛していると本気で信じているらしい。SNSには年齢を感じさせない写真を載せ、彼への想いを綴る。 「彼は、私にだけ違うの」  そう言って奥さんはスマートフォンを胸に抱いた。 「誰にも言えないことを、私には話してくれるのよ」  その言い切り方に、根拠はなかった。  画面に映るメッセージは、丁寧で、優しく、どこか感情に寄り添う言葉ばかりだった。夫は微かな違和感を覚えた。  奥さんは過去のことを、ある日ぽつりと話した。  若い頃、夢を追って上京したこと。評価されず、地元に戻ってきたこと。  結婚は恋愛ではなく、お見合いだったこと。 「好きとか、選ばれたとか……そういうの、最初からなかったの」 “仕方なく”決まった結婚。 「悪い人じゃないのよ。でもね……最初から私は“代わりのきく人”だった」  さらに追い打ちをかけるように、望んでも子どもが授からなかった。 「みんな、当たり前に持ってるものを、私は何1つ手にすることができなかった」  そう言って遠い目をしていた。 「私ね、"特別"になりたかったの。」  奥さんのその言葉には、執着に近い確信があった。  誰からも選ばれなかった人生で、たった一人に選ばれているという実感。それだけが奥さんの支えのようだった。  だからこそ、SNSの中の彼は特別だった。  誰もが憧れる存在が、自分だけを見ているという構図。  奥さんには、彼が強く輝いて見えた。  最初は軽い気持ちで「いいね」を押しただけだった。  ——君の言葉は、他の誰とも違う。  ——君は特別だ。  ——君だけが分かってくれる。  奥さんは、送られてくるその言葉を何度も読み返したという。 「ねえ、分かる?“特別”って言われるの」  夫は答えられなかった。  ある日、奥さんは困ったようにでも嬉しそうに夫に言った。 「彼の"特別"になるって大変ね」  その瞬間、夫の背中を冷たいものが走った。  帰宅後、夫は私に佐藤商店の話をした。  私は黙って聞き、静かに言った。 「それ……何かの詐欺じゃない?」  夫の脳裏をよぎっていた言葉を妻も口にした。  奥さんが見せてくれたアカウントには公式認証がなく、フォロー数やプロフィールなどに違和感を受けた。  愛情を示し、特別感を与え、孤独につけ込む。  ロマンス詐欺の典型的な手口。  翌日、佐藤商店へ行ったとき奥さんはいつもと変わらない笑顔で言った。 「最近ね、少し返信が遅いの。でも……忙しいみたいだから仕方ないよね」  夫は何も言えなかった。  真実を突きつけることが、彼女を救うとは思えなかった。  そして、ふと気づいた。  旦那さんは、その話題になると必ず席を外す。  知らないのではない。知っているのだと思った。  帰宅後、夫は妻に再び佐藤商店の話をした。  私はしばらく黙り込んでから言った。 「それ……もし誰かが現実を突きつけたら、どうなると思う?」  夫は答えられなかった。  あの奥さんにとって、妄想は逃避ではない。  唯一の自尊心だったからだ。  その日はたまたま近くを通りかかった夫。せっかっくだからと佐藤商店に顔を出した。  夫は何気なく旦那さんの手元を見た。  ガラケーではなく、見慣れないスマートフォン。  旦那さんは慌ててスマートフォンを隠した。  その瞬間、すべてが繋がった。  旦那さんは、奥さんを誰よりも理解していた。  しかし一度も"特別"だと思えなかった妻。    そして、自分もまた——。 「選ばれていない男」だったことを知った。  お見合いで始まった結婚。  とはいえ旦那さんは奥さんの事を愛していた。  だから旦那さんは、有名人になりすました。  絶対に疑わない存在を演じて、欲しがる言葉を与え続けた。  奥さんは誇らしげに言う。 「私は、あの人にとって特別なの」  奥さんは、何も疑っていない。  信じているのは、画面の向こうの言葉だけだ。  穏やかな店、優しい夫婦、温かい言葉。  その裏で続いているのは、愛するために人格を捨て、妻の幻想を壊さぬために現実を歪め続ける関係。  次に佐藤商店へ配達に行くとき、夫は二人の顔を直視できないだろう。  そこには、救いの形を間違えた末に辿り着いた、取り返しのつかない愛の形があるのだから。

配達先シリーズ【不幸】

これは、夫の配達先の友人から聞いた話だ。 その友人は、夫と中学からの腐れ縁だった。 たまたま配達で訪れた先で働いており、 顔を合わせるようになってからは、昔の話をする仲になった。 ある日、 「そういえばさ」と、 友人は話題を変えるように切り出した。 昔住んでいたアパートの話だという。 古い造りで、壁が薄く、 隣の部屋の物音がよく聞こえる場所だった。 ある日から、 壁を叩く音が聞こえるようになった。 コン。 コン。 最初は、 隣人がちょっとした作業でもしているのだろうと、 特に気にも留めなかったそうだ。 すぐに止むだろう、と。 コン。コン。 コン。コン。 だが、その音は止まらなかった。 昼も、夜も。 一定のリズムで、壁を叩く音が続いた。 あまりに長く続くため、 直接文句を言おうかとも思った。 だが、入居時に大家から 「何かあったら必ず私に連絡してください」と言われていたことを思い出し、結局、大家に相談した。 大家、友人の2人で、 隣の部屋を訪ねた。 扉の前に立ち、「○○さん、大丈夫ですか?」と大きな声で声をかけた。 返事はなかった。 しかし、その直後それまで続いていた壁を叩く音が、ぴたりと止んだ。 「音、止みましたね。」 大家と友人は顔を見合わせた。 「音は止まってますし、今すぐ危険という感じではないでしょう。」 大家は、深刻には思っていないようだ。 友人が言った。 「でも、一度確認した方がよくないですか?」 大家は、わずかに眉をひそめ、 面倒そうに息を吐いた。 「きっと、生活音とかじゃないですかね。  人それぞれ生活リズムも違いますし。」 そして、決まり文句のように言った。 「今回は、問題ないでしょう。」 友人は何か言いかけたが、 大家の口調に押されるように黙った。 「じゃあ、何かあったらまた連絡してください。」 そう言い残し、 大家はすでに廊下の先へ向かっていた。 腑に落ちない思いを抱えながらも、 友人は言った。 「大家がそう言うなら……大丈夫か。  また何かあれば、連絡します。」 数日後。 隣の部屋から異臭がした。 再び大家が呼ばれ、 今度は警察に立ち会ってもらい扉が開けられた。 トイレで、隣人は亡くなっていた。 動けず、声も出せず、ただ壁を叩き続けるしかなかった。 大家と友人が来たあの日、 隣人はきっと思ったはずだ。 ――やっと、助かった。 だから、叩くのをやめた。 友人は、 「もし、あの時……」と言いかけて、 それ以上は口にしなかった。 夫は、黙って聞いていた。 友人は、その出来事のあと、 すぐにアパートを引き払った。 それからしばらくして配達中にそのアパートの前を通ると、夫は無意識に速度を落とし例の部屋の辺りを見てしまうらしい。 空室なのか。 もう別の誰かが、 何事もなく暮らしているのか。 配達が終わり、友人と別れた後、夫は気になって、 あの事故のことを少しだけ調べてみた。 大きく報じられた事件ではなかった。 地方のネットニュースに短い記事が載っていただけだった。 古いアパートで、 女性の遺体が見つかったという内容だった。 異臭騒ぎがきっかけで発見された、とある。 記事によれば、 遺体は死後およそ一か月が経過していた可能性が高いという。 夫は、その一文で手を止めた。 一か月。 友人が聞いていた壁を叩く音は、 その期間、ほぼ毎日のように続いていたはずだった。 記事は続いていた。 遺体は、トイレに頭を突っ込んだ状態で発見されたという。 さらに女性の死亡後、通帳や金目の物が持ち去られていたこと、離婚した旦那が室内に出入りしていたことも書かれていた。 警察は事情を聞いている、と。 それだけだった。 夫はスマートフォンの画面を閉じた。 不幸が重なった。 それ以上、調べる理由もなかった。

上司シリーズ【足音】

これは、私の上司が体験した話です。 上司の名前は、J。 Jは中学生の頃、家族と一緒に新築の家に住むことになりました。 二階には自分の部屋があり、階段を上ってすぐの場所でした。 ある夜、Jが部屋で勉強していると、 ――ぺた、ぺた…… 素足で階段を上ってくる音が聞こえてきたそうです。 (母が上がってきたのかな) そう思い、特に気にはしませんでした。 足音はゆっくりと二階に近づき、 Jの部屋の前で止まりました。 次の瞬間、 扉が静かに開きました。 しかし、誰も入ってきません。 不思議に思ったJは勉強の手を止め、 廊下まで出て確かめました。 けれど、そこには誰の姿もありませんでした。 気のせいだと思い、 再び机に向かいました。 視界の端、足元に、 誰かの足元がはっきりと見えました。 その人物は、小さく、ぼそぼそと何かを話しているようだった。 声は聞こえるのに、言葉として理解できなかった。 Jは直感的に、 見てはいけない、 そう強く思ったといいます。 足音は部屋の中を一周しました。 それだけだったそうです。 そして、来た時と同じように、 静かに階段を下りていきました。 それが何だったのか、 Jは今も分かりません。 確かなのは、 あの夜、Jの部屋に「何か」が入ってきたこと。 それだけだそうです。 「ちゃんとしたオチがあるわけじゃないんだけどね。」 話し終わると上司は笑っていました。

風邪を移されて26冬

 「ゲホッゴホゴホゴホウウェッホウ!!」 知り合いが風邪を引いた。 「ゲホップエエッホーウゥ!!」 意味の分からん咳をしまくっている。 「ウエッホグエッホオォォウゥ!!」 うるさい。 何日後かに僕も風邪を引いた。 「グエッホウプゲレッポウゥ!!」 僕も意味の分からん咳をする。 飯も吐いてしまうからろくに食べれらない。 「ピュルプエッホウゴホフエッホウゥ!!」 我ながらうるさい。 次の日どこかの誰かが風邪を引いた。 「ヒュルリュッポウ!!ヒュエポリリャアウエッッホウ!!」 風邪の大合唱。 大人は風邪の子。 来年もこんな感じで誰かが風邪を引くのだろう。 暖かくして寝てね。 お大事に。

母星

 幼稚園の園児たちが、遠足で訪れた昼下がりの公園で、食事を始めた。シートを敷いて、みんなで「いただきます」を唱和し、それぞれがお弁当箱を開けた。ある一人の園児が、お弁当箱の中から、一個のおにぎりを取り出し、それを食べようとした時だった。突然、頭上からレーザー光線が照射され、おにぎりを破壊した。園児たちと引率の先生たちは、驚いて空を見上げた。そこには、小さなUFOの大軍が浮かんでいた。園児たちが泣き出し、先生たちが呆然としていると、UFOから次々とレーザー光線が放たれ始めた。そのレーザー光線は、非常に正確に、素早く、容赦なく、園児たちのお弁当の中のおにぎりを、次々と破壊していった。先生たちは園児たちに覆いかぶさった。しかし、レーザー光線は、おにぎり以外のものには一切当たらなかった。やがて、米が焦げるにおいが辺りに満ち、すべてのおにぎりが破壊された後、UFOの大軍はどこかに飛び去っていった。その場にいた全員が、ぼんやりとそれを見送った。UFOの大軍は、地球を去り、宇宙空間に出ると、ワープ装置を使って、母星へと帰還した。彼らの母星は、巨大なおにぎりだった。一個の巨大な梅干しを核とし、米で出来た大地とお茶で満たされた海があり、空は全天が巨大な一枚の海苔で覆われていた。彼らは、「母星以外のおにぎりを認めない」という危険な思想を持っていた。そのために、おにぎりの破壊活動を行っていた。彼らのその思想の背景には、「母星であるおにぎりをいつか神様に食べてほしい」という願いがあった。だから彼らは、おにぎりの破壊活動に精を出していた。しかし、彼らは知らなかった。彼らの神様は、実はパン派であるということを。