二人は狭いアパートの居間でテーブルを挟んで正座している。二人ともテーブルの上を凝視している 「初めてだな」とウォーリー 「そうだね」とユウ 二人はアパートに帰って来た時、直ぐに郵便受けを確認した。数枚のチラシと一枚の通知。チラシは捨て、通知をテーブルの上に置いて手も洗わず、そのまま何度も通知を読み直す二人 【厳正なる審査の結果、お笑いコンビ「ラペ」を二回戦進出といたします。】 「あのネタ受けたんだな」 「そうだね、受けたんだね」 「お前は落ち込んでたよな」 「あぁそうだ。僕あの時焦っちゃってツッコミがボケに被って、上手く伝わらないと思ったんだ」 「受けたんだな」 「受けたんだね」 「受けてたっけ?」 「いや、覚えてない」 「でも、よかったな」 「そうだね」 この間、二人はお笑いコンテストに出て一次審査を受けていた 二人はまだボーとしている ピンポン 宅配便が届いた。玄関の外は夜になっていた。 出会って二年 コンビを組んで一年 ライブでそんなに受けたことは無く バイトをしながらボロアパートに二人で暮らすウォーリーとユウ 段ボールの中は二人のスーツが入っている オーダーメイドで作ったスーツを着て二人は並んでみる。窓に薄く映る姿は漫才師に見えなくもない 「このスーツ作ったけどさ」 「うん」 「俺らはコントはやらないの?」 「何だってやるよ」 ウォーリーが通知を取り、壁に貼りつけた後、振り向いてユウに言う 「ラペってなに?」 「コンビ名だろ!」
雨の日靴が濡れると、小学校の昇降口が頭に浮かぶ。 通っていた小学校は全校生徒五十人もいない小さな木造校舎だった。毎年のように代わる校長先生はみんな優しい表情と話し方をしていた気がする。顔はぼんやりとしか覚えていないし、名前なんて一文字も覚えていない。 そんな校長先生方の中で、一人だけ印象に残っている先生がいる。六年間の中で唯一の女性の校長先生。 その先生は、雨の日は生徒の靴の中に新聞紙を入れてくれていた。みんなが授業を受けている時間、静かな昇降口で一人一人の下駄箱にある靴に、丸めた新聞紙を入れていた。その姿を私は見たことがない。他の先生が教えてくれたのだ。それが誰なのか、どの時間に教えてくれたのかは記憶からさっぱり消えている。 靴が濡れる度に、その校長先生を思い出す。 授業中の静かな昇降口。冷たく重い靴。校庭の泥だらけで、匂いは手につく。子どもの小さな靴に合わせて新聞紙を千切り丸める。 雨の日靴が濡れると、私は靴の匂いとぐじゅぐじゅとした足の感覚に顔を歪めながらすぐに新聞紙を手に取る。
旧校舎の一室。 お化けでも出そうな雰囲気から、普段は誰も近寄らないこの部屋に、三人の男子生徒が集まっていた。 佐藤、鈴木、そして高橋である。 「テーマはさっき話した通り。どうすれば、俺たちにラッキースケベが起こるか、ということだ」 真剣な目つきで、佐藤が言う。 同意をするように、鈴木と高橋が頷く。 三人はしばし頭をひねり、その理由を考える。 しばらくすると、鈴木が挙手し、口を開く。 「漫画やアニメだと、登校中に可愛い女の子とぶつかって、その勢いでラッキースケベが起こる、というのがセオリーだ。登校の回数を増やしてみる、というのはどうだ?例えば、学校が休みの日も、学校に登校するとか」 「鈴木!お前は天才か!?」 「いやまて佐藤。鈴木の提案には、致命的な欠点がある!」 拍手をする佐藤に、高橋が待ったをかける。 「休みの日はな、可愛い女の子が登校していないということだ。だから、ぶつかることができない!」 「「た、確かに!!」」 議論は白熱する。 次々と現れる、漫画やアニメのセオリー。 そして、現実に当てはめた瞬間、実現不可能だという残酷な現実にぶつかる。 有益な案が出ないまま、一時間が経過した。 「馬鹿な……ここまで考えても……駄目なのか……」 突風でスカートが捲りあがる。 女の子が転んでスカートの中が見える。 階段を見上げたらスカートの中が見える。 制服が水にぬれてスケスケになる。 あらゆる状況が、所詮は漫画やアニメのことだと切り捨てられていく。 「なあ、おかしくないか?」 高橋が、神妙な表情でつぶやく。 佐藤と鈴木は、そのただならない様子に、ごくりと唾を飲み込む。 「あまりにも、完璧に防がれすぎている。何か……俺たちにラッキースケベをさせない、大いなる力が働いているのではないか?」 あまりにも突拍子もない想像。 だが、佐藤も鈴木も、それを笑い飛ばすことはできなかった。 大いなる力など信じないが、大いなる力が働いているとしか考えられないほどの、ラッキースケベの防止力が現実として働いているのだから。 「いったい……」 「どんな力が……」 「女子の純粋な努力だよ!!あんたらみたいなやつがいるからな!!」 叫び声と共に、部屋の扉が乱暴に開かれた。 逆光によって三人から顔は見えないが、そのセーラー服から、女子生徒であることはわかった。 その女子生徒は、間髪入れずに三人のところへ走り、その顔面に蹴りを喰らわせる。 「げふっ」 「がふっ」 「見え……ない……」 漫画やアニメならば、蹴られた瞬間にスカートの中が見えただろう。 だが、ここは現実。 大いなる力によって……否、スカートを抑えながら蹴りを繰り出すという女子生徒の純粋な努力によって、ラッキースケベは回避された。 「んっとに、この変態どもは!!」 罵声一つ残し、女子生徒は去っていった。
スーパーマンが死んだらしい。 朝の電車でそれを知った。 ニュースアプリの通知が、天気予報の下に挟まっていた。 「第一号執行者、死亡」 理由は未発表。調査中。 正式名称は「超法規的治安執行者法」。通称、スーパーマン制度。 治安悪化を受けて成立した、ほとんど非常事態みたいな法律だ。 警察権を一人に集約する。令状の即時発行。発砲判断の自己決定。必要とあれば、自衛隊の一部部隊を直接指揮できる。国家が一人に圧縮されたような存在。 成立時の支持率は七八パーセント。 反対派もいた。「独裁だ」「民主主義の終わりだ」とデモが起きていた。 けれどテロや無差別事件が続いていた時期だったから、反対の声はうるさく聞こえただけだった。 犯罪発生率は三年で過去最低を更新した。 夜道は静かになった。 ニュースの赤いテロップも減った。 一度、大きな炎上があった。 立てこもり事件。 爆発物を抱えた男が、商業施設で子供を人質に取った。 スーパーマンは現場到着から二分で男を射殺した。 子供は助かった。 映像は繰り返し流された。 男が撃たれる瞬間は編集されていたが、血痕は映った。 後日、その男に精神疾患の既往があったことが報じられた。 家族が泣きながら会見を開いた。 「殺す必要はなかった」 反対派が再燃した。 #処刑ではないか #国家が人を殺した日 支持率は四二パーセントまで落ちた。 僕はそのときも、動画を見ながら思った。 仕方ないだろ。このおかげで僕たちが安全なんだから。 でも同時に、少しだけ物足りなかった。 今回の死は、少し期待した。 殉職では弱い。 事故ではつまらない。 僕はすぐに彼の死因を空想した。 反対派の中には、「アンチヒーロー」という活動家がいて、彼の自宅に押し掛けたりするヤバイ集団がいるらしい。もしかしたら、そいつらが裏社会の人と手を組んで暗殺したんじゃないか。 いや、でも最近スーパーマンは国際治安の悪化に伴って自衛隊を軍隊にして安保理条約の破棄を目指してた。もしかしたら、アメリカに目を付けられて狙撃されたとか。狙撃ではなく誘拐で今もどこかで拷問みたいなものを受けてるんじゃないか。 いやいや、彼がスーパーマンたる理由はその超人的な能力だった。日本中の事件を一人でやるわけだから肉体的にも精神的にもなにか改造とかドーピングとかを国家にされてたはず。この機密情報の漏洩阻止で暗殺とかもありそうだ。 だけど個人的に一番ありそうだったのは、粛清説だ。 支持率が落ちた彼を、政府が切り捨て、英雄として神格化するために、計画的に消した。 完璧だ。 悲劇性もあるし、政治的含みもある。 物語として筋が通っている。 海外フォーラムではさらに派手だった。 AI監視網が自律進化し、彼を「非効率」と判断して排除したとか。 実は彼は二代目で、本物はすでに死亡していたとか。 数日後、遺書が公開された。 「本制度は機能した。社会は安定した。 ただし、人間は変化しなかった。」 全文だった。 暗号もなければ、告発もなかった。 名前も署名もない。 自殺。 公式発表はそれだけだった。 コメント欄は一瞬止まり、すぐに方向転換した。 SNSはすぐに騒がしくなった。 #ありがとう守護者 #ごめんなさいスーパーマン 支持率は九六パーセント。 僕はスマホを閉じた。 なんだ、自殺か。 国家に消されたわけでもなく、 敵に撃たれたわけでもない。 自分で終わらせただけ。 正義のわりに、ずいぶん地味だ。 数日後、政府は発表した。 「第二号執行者選抜手続き開始」 反対派はまた騒いでいるらしい。 でも街は変わらない。 コンビニは明るいし、終電も走る。 治安は良いほうがいい。 新作ゲームの配信通知が来た。 スーパーマンが死んだらしい。 でも、今日も街は静かだった。
しばらく連絡のなかった兄の現状を知ったのは、警察からの電話だった。 人を殺したらしい。 何人も。 ぼくたちはただの家族から一変し、人殺しの家族になった。 「今のお気持ちは?」 「遺族の方に申し訳ないという気持ちはありますか?」 「実の家族が犯罪者になって、何か感じることは?」 連日、家に押し掛けるマスコミ。 マスコミの音と光は、殺人鬼の家がどこなのかを世間に教える、いい目印になってしまった。 マスコミが飽きた後、待っていたのは近所の人と他人からの攻撃だ。 「いつまでいるのかしら?」 「早く引っ越してくれればいいのに」 「やっぱり殺人鬼の家族だからかしらねえ」 両親は、日に日に衰弱していった。 父は目にクマを作って会社に向かい、生活費を持って帰って来る。 母は頬もごっそりコケてやつれ、夏だというのに炬燵に潜って眠っている。 ぼくは、学校に行って帰った。 冷たい視線が刺さって来る。 時には暴言が飛んでくる。 石を投げつけられて、額から血を流すこともあった。 「引っ越し先が決まった。来週の夜、この町を出よう」 父は、母とぼくに言った。 ずっと、引っ越しと転職を考えていたらしい。 「でも、この家がないと、あの子の帰ってくる場所が」 「……もう、住むことはできないよ」 母は最後まで抵抗していたが、父が押し通した。 既に母の通う病院も目星をつけたらしい。 「もう少し時間をくれない?」 ぼくは、引っ越しに賛成しつつ、時期をずらして欲しいと頼んだ。 「なにかあるのか?」 「殺人鬼の弟らしいから、殺人鬼の家族らしいことをやって来る。後、ずっと溜めてくれたお年玉、今全部もらえない?」 溜めに溜めた暴力の証拠を持って弁護士事務所に向かって、被害届というやつを出す手伝いをお願いした。 ぼくを殺人鬼の家族だと、犯罪者の家族と嘲笑った皆様。 おめでとうございます。 今日からあなたたちは、犯罪者の家族ではなく、犯罪者張本人です。 受理されたのは僅かだったけど、一瞬でも恐怖を与えることができたから、ぼくは満足だった。 新天地で、被害届を取り下げて欲しいという訴えが来たと、弁護士から聞いた。 当然断った。 だって、君たちも石を投げるのをやめなかったから。 電話を終えると、自然と涙が出てきた。 そんなぼくを、父が後ろから抱きしめてくれた。 この涙は、嬉し涙か、それとも悲し涙か。 殺人鬼の家族であるぼくには、人間の血なんて流れていないからわからない。
ワイングラス・ラックは、コウモリの物でもあるみたい 逆立ちするのにピッタリだと思わない? (完)
『折り紙で、鶴を作ってみましょう。画面をタップしてね』 「はーい!」 息子がにこにこしながら、タブレットをタップしている。 タップする度、画面に映る紙が折られていき、鶴の形に近づいていく。 「それ、面白い?」 「うん!」 あまりに不気味だったので思わず声をかけたが、息子は何の違和感も感じてないのか元気な返事を返してきた。 「そう、なら、いいんだけど」 「うん!」 私は息子を見ながらソファに座り、サイドテーブルに置いてあった折り紙を手に取り、鶴を折った。 「時代だなあ」 折り紙は、ちゃんと折ったつもりがぐしゃぐしゃになって、角と角がぴったり一致するようになる過程が面白いというのに。 果たしてタップするだけのデジタル折り紙で、何が手に入るというのだろう。 私が折り鶴を完成させて掴んだ時、息子もデジタル折り紙を完成させたらしく、嬉々としてタブレットを見せに来た。
今日も疲れた。1日かけて、家族と遊びに出ていた。子どもは楽しそうで、妻はその子どもの様子を見て、これまた幸せそうだった。 家族との時間は楽しくもあり、仕事のことや面倒事を忘れることができる。 だが、これで良いのか。 少なくとも子どもが成人するまでは、恐らくはこんな感じの日常が続き、自分の時間など望むべくもない。 平日の日中は仕事、 夜になって家事と子どもの相手をしたら、ようやく1日が終わり。 土日の日中は、家族との時間や買い出し、夜になったら家事こなして、ようやく1日が終わり。 一体全体、「自分の時間」とやらはどこにいってしまったのだろうか。 古今東西のお父さんは、これを連綿と続けてきたのだろうか。 寄せては返す波のような自問自答で、眠りにつく。 さて、明日から仕事だ。
極悪。 その言葉が自分にはしっくり来る。 別にヤクザに所属しているわけではない。 戦争の武器商人な訳でもない。 ただの一般人、ただの人間。 だが極悪だ。 いや、悪という概念すら覆しているかもしれない。 害悪、諸悪、必要悪。 どのカテゴリーにも属しているようで属していない。 形容するなら極悪。 何かを極めているわけでもないのに。 関連する事象全てに作用して何かを起こしてしまう。 なにもしていないのに。 誰かが言う。 「お前迷惑だよ。」 極悪で迷惑。 実に不名誉な称号。 今日も暇潰しで人に迷惑をかける。
灰猫はよくいる野良猫でした。ひとり気ままに虫や鳥を食らい人の残飯を漁って生きる。そんな猫です。しかし猫の井戸端会議に参加することさえ稀で、仲間内にはたまに居る奴という立ち位置に置かれていました。 ひとり陽の下で眠り、散歩中の飼い犬に威嚇して、子供らが可愛いと近づけば一目散に逃げ出していました。 灰猫がまだ若い頃、彼を可愛がる一人の婦人がいました。いってらっしゃい、おかえりと欠かさず子供らに声をかけ、側溝の掃除をして自治会行事にも楽しげに参加する婦人でした。 そんな人間なもので、婦人の庭に行けば何かは貰えると仲間内では有名でした。噂を聞いた灰猫も、婦人の家の様子を塀の隅から伺ったりしました。 「あんたはそうやってウチを見てるばっかりだね」 ある日、庭で三匹の猫に柿の実を与えながら婦人は言いました。 「欲しいならまた後で来ればいい。どうせ有り余ってるんだから」 婦人は無理に愛玩することも、気を引こうともせず、夜中に柿の実をひとつ庭に投げるだけでした。 それからは、気まぐれに婦人の家に行っては食べ物を貰いました。そんな暮らしが続いたある日、 「あの人ガキ猫を引き取ったらしい」 仲間内では噂が広まりました。 「誰の子供だ」「知ったことか」「やれやれだな」 灰猫は訊ねました。 「そんじゃもう食い物貰えなくなるのか?」 「別にそんなことはないだろう」 灰猫は夜更け前、婦人の家に行きました。窓のなかで、なるほど彼女は生まれて間もない猫と愛しげに遊んでいます。彼女はふと窓の外の灰猫に気がつきました。 「この子が怖がるからさ、もうなにもあげられないよ」 そう言ってピシャリと窓を閉じました。 灰猫は婦人の家が好きでした。しかし訪問は叶わなくなり、彼はまたひとりで気ままに虫や鳥や残飯を漁る暮らしに戻りました。 それから歳月が過ぎ、灰猫の昼寝場だった用水路の隣に家が建ちました。その家には学生がいました。学校帰りによく顔を合わせるその子は、灰猫を知らんふりをします。灰猫もそうします。 昼寝場からは二階にある学生の部屋が見えます。二人は窓越しに時折目を合わせてはどちらともなく顔を背けるのです。 「おい」 その日は違いました。 「これやるよ」と二階から放られたのはニボシでした。 「嫌いなんだ」 灰猫はそのニボシを一瞥してどういうつもりかと思いました。 「いらないのか、猫なら好きだと思ったんだけど」 以来学生は知らんふりを辞めました。とはいっても二階からたまにピーナッツやカルパスを投げる程度です。 「あんたはそうやって私を見てるばっかりだね」 いつかと同じ言葉が灰猫に降ってきました。 学生は用水路に降りてきて、灰猫と並んで座りました。そして煙草に火をつけました。 別の日には、灰猫よりも先に学生が陣取っていることもありました。 またしばらくの時間が経ち、 「進学するから家を出るんだ。あんたとも会えなくなっちゃうな」 とその子は言いました。 最後に灰猫を一撫でして学生は消えていきました。 灰猫は二人の時間が心地よかったです。 それからも彼は変わらず用水路での昼寝を続けましたが、学生が姿を現すことはなくなりました。 すっかり大人びた灰猫はある時前足を怪我しました。 痛みに耐えかね道端でうずくまる灰猫のもとに、一人の人間が通り掛かりました。怪我に気がつくと灰猫を保護して獣医に診せました。 保護活動をするその人の家には他の猫達もいました。灰猫は居心地が悪く、怪我が治ると家から逃げ出しました。 気ままに虫や鳥を食らい残飯を漁っては昼寝をする暮らし。 ――死んでもよかったんだがなあ。 灰猫はすっかり良くなった前足で顔を掻きながら思いました。 灰猫はもう散歩中の飼い犬に威嚇することもなくなりました。子供らが可愛いと近づいても逃げなくなりました。 婦人の家に灯る明かりを横目に、学生の家の窓を仰ぎ、灰猫はひとつの夢を見ました。婦人の家で昼寝をして仲間たちと毛繕いをし、学生に撫でられながらニボシを貰う夢です。 灰猫は甘え方を知らない猫でした。ただ『良い時間』に身を置いて、それが終わると一抹の寂しさを覚えてはまた生きるのでした。きっとその目が濁り始めても同じ事を繰り返すばかりかもしれません。 あんたはそうやって見てるばかりだね。 灰猫がこの言葉の意味を理解できる日が訪れると良いでしょう。
最近、読書にハマった。 よくある二つの視点からの物語。 それを読むと同じ物語でも世界が変わる。 一方のほうから見ると悪役と見えていたやつが、もう一方のほうから見ると一番人間味があったりする。 きっと、いいや絶対、現実でもそうだ。 私が、悪だと思っている人。あちら側から見たら私が悪なんだろうなって思う。 人にはそれぞれ考え方や感じ方、それぞれの正義や世界観がある。 その各々の世界観でみると、悪も味方も相棒も恋人も全く異なる。 まあ、そんなものだろうな。 だから人はぶつかるし、ケンカもする。 だけどその世界観の中で、共通を見つけて分かりあう。 みんなが相手を知り、自分を相手に知らせて、笑い合えば、きっといい世界になるのにな。 まあ、本当に合わない人とかいるしそんなの無理か。 永遠にいい世界なんて実現できないんだろうな。
母が死んだ翌月、私は十五キロ太った。 正確には、太ったというより、戻った。高校二年の夏にバドミントン部へ入るまで、私はずっとデブだった。小学校の身体測定では毎年こっそり目を伏せたし、プールの授業が憂鬱で、体育祭の騎馬戦では土台に回された。それが部活をはじめて一年ほどで十二キロ落ち、そのまま大人になって、三十四歳の秋に母が逝って、二ヶ月もしないうちにまた元の体に戻った。 不思議なことに、苦しくなかった。 久しぶりに触る自分の腹の肉は、柔らかくて、温かくて、どこか懐かしかった。風呂場で鏡を見るたびに、中学生のころの自分が重なった。あのころ、母はよく言っていた。「ぽちゃっとしてるほうが、かわいいよ」と。もちろん慰めだとわかっていた。でも私はその言葉が嫌いじゃなかった。痩せろとも、頑張れとも言わずに、ただそう言う母が好きだった。 一度だけ、泣いて帰ったことがある。中学二年の冬、同じクラスの男子に「デブ」と呼ばれた。廊下で、大勢の前で、名前ではなくそう呼ばれた。家に帰って、玄関で靴を脱ぎながら、こらえていたものが崩れた。母は台所にいたのに、すぐに気づいて、何も聞かずに隣に座った。しばらく背中をさすって、それから言った。「お腹、すいてるやろ。ごはんにしよ」と。夕飯はカレーだった。私は泣きながら食べた。それでも食べた。母はおかわりをよそいながら、「おいしい?」とだけ聞いた。 あの夜のことを、今でも思い出す。泣きながら食べたカレーの味を。 葬儀が終わり、四十九日が過ぎて、母の部屋を片付けはじめた。タンスの引き出し、押し入れの奥、鴨居の上の埃まで。几帳面な人だったから、ものは少なく、整理は早かった。ただ、押し入れの段ボールの一番下から出てきた古いアルバムだけは、手が止まった。 七五三の写真があった。丸々とした子どもが、赤い着物を着て、帯をきつそうに巻かれて、それでも笑っている。隣に若い母がいた。髪を結い上げて、薄く口紅をさして、今より二十キロは軽い体で、私の手をしっかり握っている。 その写真に、小さな付箋が貼ってあった。 色褪せた黄色い付箋に、母の筆跡で、一言。 まんまるで、よかった。 日付はなかった。いつ書いたのかわからない。私が痩せた後なのか、ずっと前からなのか。でもそれは関係ないと思った。母はずっとそう思っていたのだ。あの丸い子どもを、余分だとは思っていなかった。恥ずかしいとも、直してやらなければとも、思っていなかった。 私はしばらくその付箋を見ていた。泣かなかった。泣けなかったのではなく、ただその言葉が、腑に落ちていた。 あの脂肪は、母に愛されていた時間でできていたのかもしれない。細胞のひとつひとつに、母が作った夕飯が、膝の上で眠った夜が、「かわいいよ」という声が、溶け込んでいたのかもしれない。だから私は痩せるときに、何かを手放していた。そして今また、取り戻している。 悲しみで太ったのではないと、今は思う。 ただ体が、母のそばにいた頃の形を、憶えていただけだ。 私は立ち上がって、台所へ行った。冷蔵庫の中に、母が最後に来たときの作り置きがまだ残っていた。きんぴらごぼう。蓋を開けると、甘辛い匂いが広がった。少し濃い味付けは、母の癖だった。何度かうすくしてと頼んだけれど、最後まで直らなかった。今となっては、直らなくてよかったと思う。 私は冷たいまま口に運んだ。 甘くて、濃くて、母の味がした。 窓の外では、風が落ち葉を転がしていた。私はそれを見ながら、もう一口食べた。体の中に、温かいものが積もっていく気がした。泣きながら食べたカレーも、こうして積もって、今の私になっているのだと思った。 デブで、よかったのかもしれない。 あの頃の私が、今の私を、中から支えている。
日本に生まれた人間の平均寿命は、およそ八十年。 日数にして、二万九千二百二十日。 私が生まれた日から、親が剥がし始めた日捲りカレンダー。 今では私が剥がしていて、剥がしたカレンダーは今日で一万九千二百二十と一枚目になる。 五十二歳にして、ついに寿命が五桁を終えた。 「なっが」 残りの人生、九千九百九十九日。 八十歳で死ぬ前提での数字だから、多少の誤差はあるだろうが、概ねずれてもないだろう。 私が長いと言ったのは、残りの寿命ではない。 未だ老後がやってこないことに対してだ。 定年六十五歳と言われていた時代は終わり、今では七十歳が当たり前だ。 つまり私は、後十八年分働かなくてはならないということだ。 生まれてきた赤ちゃんが高校三年生になるまでの時間。 残りの人生が四桁しかないというのに、自由に使える時間が少なすぎる。 「お母さーん! ご飯ご飯!」 「炊飯器からよそうくらい、自分でやれやあ!」 計算などしなければよかった。 まったく思わないと言えばうそになる。 時々数字を思い出して、色んな感情がぐちゃぐちゃになって吐きそうになる。 でも、結局なんだかんだ忙しいので、すぐに感情ごと忘れてしまう。 そう考えれば、暇がまだまだ来ないのはありがたいのかもしれない。 「ばばー! ご飯!」 私は息子をぶん殴りに、炊飯器のある方へと向かった。
創作家は、なんでもできる。 空想の世界でファンタジーの街を歩ける。 魔法を使って奇跡も起こせる。 人間だけでなく、エルフやゴブリンとも友達になれる。 最も世界を旅している職業と言っていいだろう。 「あ、もう昼か」 執筆に疲れたので、腰を上げる。 しゃっとカーテンを開くと、外は快晴。 知らなかった。 「腹減った。カップラーメンあったかな」 棚を開くも、備蓄なし。 ぼくは渋々、外に行く準備を始めた。 創作家は世界を旅している。 しかし、歩き回るのは空想の世界。 現実の世界を歩くには、体というものが重すぎる。
実に興味深い 何ともなしにそう呟く 最近ドラマに嵌っている ミステリーで主演は某アーティスト 原作小説ももちろんよんでいる。 最近映画も予定されている。 トリックも凝っている 実に興味深い
晩冬の夜である。公園に設置されている電話ボックスの中に、一体の雪だるまがいた。雪だるまはどこかに電話をかけていた。雪だるまの手には一枚のメモが握られていた。木の実でできた目の周りがうっすら濡れていた。翌朝、公園の管理人が、電話ボックスの床に、木の実とマフラーが落ちているのを見つけた。床には水たまりが出来ていた。電話機の横には一枚のメモが落ちていた。管理人はメモを見た。メモには『春ガ来ル』とだけ書かれていた。
黒猫が横切った時、朝に霊柩車を見たことを思い出した。 いつも通り俯きイヤフォンで音楽を流しながら駅に向かう通りを歩いていると、「チーン」と高い金の音が聞こえた。その音は耳元のイヤフォンをも通り抜けて、脳内に「チーン」という擬音語をそのまま置いた。無意識のうちに顔を上げると、車道を挟んだ向こう側にある葬儀場で、棺が霊柩車に乗るところだった。和尚さんが「チーン」と鳴らし、喪服の人々が棺を囲っている。一人が持っている写真の中では老人が笑っていた。 視線を道に戻すと、前からは服を着た犬がリードをつけられて颯爽と歩いていた。学生らしき青年が駅に向かって走り、スーツを着た男性が電話をしながら足早に通り過ぎていった。 少し離れてから、霊柩車を見たときは親指を隠せという習慣を思い出し親指を握ろうとしたが、写真の中にいた笑顔の老人に申し訳ない気がしてうまく握ることができなかった。 「黒猫が横切るなんて不吉だね」 運転席に座る先輩がどうでもよさそうに言ったことで、現に戻った。 「何も起こらなければいいんですけど」 後ろからかけた私の小さな声は情けないほど高く早口で掠れていた。 黒猫は一度だけこちらを見て、ふいと前を向き左から右へと足音を立てるように道路を渡っていった。 今日は不吉なことは何も起こらなかった。不安なことばかりで、いつもは実際起こらない不安なことが今回は現実になってしまうのではないかと不吉なほどに思い込み、呪いのように頭の中に巻き付いている。 朝の私は親指を隠さなければ不幸があるという言い伝えを信じていたための行動だったが、改めて調べてみると、敬意を表すための礼法であることも知り、結局申し訳ない気持ちと自分の知識の偏りに呆れてしまった。
おそらく、この雪が最後になる。 それまでより、わずかばかり水分を含んだ白い結晶。 あらかた降り終われば、雲ひとつない青い空がそこには。 窓から差し込む光の角度が、なめらかに変わった。 毎日通る道には、人知れず名もなき花。 半径500メートル。近所の春を新発見。 日常が桃色に染まっていくグラデーション。遠くに行くばかりが旅ではない。 ここぞとばかりに声を大きく。と、本音ですよ。 言い訳ではなく、言い訳ではなく。 無数の香るものをしたがえ、地下からは緑の芽吹きをいざなう。 寒々しい青みが弾かれ、景色にも色が。 キミと会える季節まで、あと少し。
もう増えることのない思い出に浸りながら 2人でみた景色、2人で過ごした時間を思い出して 僕は涙した。 何気ない日常でいい。 キミとの日常が戻ってきてほしい。 キミと過ごした日常は 毎日がバタバタで毎日が賑やかだった。 キミと行った近所の公園…… 何をするにもどこに行くにもキミとの思い出が溢れている。 きっとキミはこの公園で楽しそうに遊ぶ子どもたちを見るんだろうな… たくさん喧嘩してたくさん抱きしめ合ったこの部屋のなかは今は何よりも苦しい場所。 この部屋の中には思い出がたくさんありすぎる。 なのにもっと欲しいと思ってしまう僕は欲張りなのかな。 キミとの思い出がもっともっとたくさん抱えきれないくらいたくさん欲しい。 これから先僕は、キミと歩んできたこの道を 1人で進まないといけない。 僕はキミなしで生きられるのかな。 きっとキミは〝何言ってるんだろう〟って顔で こっちをみるんだ。 『会いたい…』 『そばに居たい……』 『キミを抱きしめたい…』 そう思ったときにはもう遅かった。 もう会えないしそばに居られない、抱きしめられない。 キミにしてあげられることがもう何もない… ねぇ、今幸せ? この問いかけに答えが返ってくることはない。 大好きだよ。 いくら声に出して言っても伝わらない。 キミの好きな食べ物をたくさん買ってきても キミは食べられない。 あぁ、キミに会いたいな… 僕は真っ暗な部屋の中でつぶやいた。
道を歩いていてふと気づく。影の色が薄くなってきた。お母さんに相談した。お母さんは僕の影の口元に、野菜屑を投げた。影はそれを食べた。影の色が元に戻った。数か月後、再び影の色が薄いことに気づいた。お母さんに相談した。お母さんは僕の影の口元に、林檎を投げた。影はそれを食べて、色が元に戻った。数か月後、影はハエの死骸を食べた。その数か月後、影は生肉を食べた。その数か月後、影はカラスを食べた。そしてその数か月後、僕の影を見て、お母さんはにやりと笑った。そして、病気で入院しているお祖母ちゃんのところへ、僕を連れていった。
午後、いつものように近所の美術館に行く。着くと、美術館の裏口の方から、中華料理屋の出前のバイクが走ってきて、去っていった。受付で年間パスを見せ、中に入る。そして、いつものように、その貴婦人の肖像画の前に立つ。貴婦人は額縁の中で、こちらに微笑んでいる。いつも美しい歯を見せているはずのその口はしっかりと閉じられている。ということは、この貴婦人は、今日はギョーザを食べたらしい。
繋がる想い、宇宙を漂う海月 連鎖するキテレツな睡魔たちの群行 文字が螺旋階段を形成する 挿絵さえ、まるで意味がない 片足を貧乏ゆすりするも、リズムを刻むだけ まだ半分も終わっていない授業中 繋がる世界、戯曲を書いては捨てて 月光がこちらを見つめる 電柱に集まる蛾のフォークダンス アルデバランと共に写す、進むしかない旅人 ネオンと信号機の光源対決 夢うつつ、まぶたを接着しつつ 繋がる瞑想、崩壊するメメントモリ 決別する世界、教本の文字が暴れる 集約される状況、閃光が走る 正面の視線、誰の視線 (完)
「筋トレが趣味なんだよね」 「かっこいい!」 「素敵!」 男Aが力こぶを作りながら言った。 評価は上々。 「食べるのが趣味なんだよね」 「痩せろ」 「デブが」 男Bが丸い腹をさすりながら言った。 評価は下々。 「趣味の副産物に評価が下されるこんな世の中じゃ……」 男Cがつまらない現実を憂いた。
宇宙服を着た男女数人が、動物園で、クマの檻を見つめている。そこには一頭の仔グマがいる。仔グマは、楽しそうに、青いボールで遊んでいる。その青いボールは、地球である。宇宙服を着た男女たちが、それをじっと見つめている。彼らは地球からこの動物園にやってきた。仔グマが地球で遊んでいるということは、彼らが帰る故郷はもうなくなってしまった。仔グマは楽しそうに、少しずつ、地球を破壊していく。でも、その姿は本当に楽しそうだ。宇宙服を着た男女たちは、ヘルメットの中で微笑む。仔グマはかわいい。
「では、選考結果は後日メールにてお送りいたします」 私がオンラインミーティングを終えると、部かが近づいてきた。 余程私に疲れが見えたのだろう、部下は私にお茶を差し出してきた。 「お茶くみは、部下の仕事じゃないんじゃなかったっけ?」 「何年前の話ですか。忘れてください」 入社早々、「多様性の時代だから部下にお茶くみさせるのが当たり前とか思わないでください」なんて頼んでもないのに宣言していたのが懐かしい。 思わず、同僚たちと吹き出したものだ。 部下は私の手元にある履歴書を持って、眉を顰める。 名前なし。 性別なし。 年齢なし。 住所なし。 わかることと言えば、ITの資格をいくつか持っていることくらいだ。 「外国人だったんですか?」 「多分」 「多分って」 「国籍なんて聞いちゃ駄目なんだよ。差別になるから。ま、日本語は上手く喋れてなかったけど」 「ええ……」 「ついでだ。それ、シュレッダーにかけといて」 私は早速メールを作る。 と言っても、事前に用意された文章を送るだけだが。 選考をしたという建前を守るために、メールの発信は数時間後。 自動送信での対応だ。 「日本語が下手だから採用しないってのも、差別に当たるのかねえ」 昔の癖で、左胸に手を伸ばす。 胸ポケットに煙草の箱が入っていないことを思い出し、その場で煙草を一服する振りをした。
路上に看板が立っている。『ワンちゃんのフンの始末は飼い主が責任を持って行ってください。』そこへ、一匹のイヌを連れたご婦人が現れる。イヌは看板の前で立ち止まり、踏ん張り始める。ご婦人は何もせず、ぼんやりと看板を見つめている。やがて、イヌのお尻から、一人の小さなおじさんが出てくる。おじさんはフンで出来ている。おじさんはイヌとご婦人に頭を下げ、どこかへ走り去っていく。ご婦人とイヌはそれを見送り、散歩を再開する。ご婦人はイヌを動物病院に連れていくべきかどうか迷っている。現在の状況は、異常だが、面倒くさくないからだ。
学生の頃、好きだった漫画家さんの新刊が出ていた。あらすじも帯も読まずに救いを求めるように手に取り、迷わずレジに向かった。 本を包んだビニール袋も破らないまま、机に置く。 これで当分は生きていける。
夏、雲一つない青空の下を、数台の軽トラックが走っていく。荷台には雲が無造作に積まれている。廃雲回収の軽トラだ。廃棄になった雲たちは、昨日の空に浮かび、影で俺たちを束の間涼しくさせてくれた雲たちだ。昨日は昨日で、今日は今日だから、仕方がないことだ。俺は病院の屋上でタバコを吸いながら、それを眺めている。ああ、あの雲は、昨日俺が病室から見た雲だ。何となく形を覚えている。雲の形なんて昔は覚えたことなかったのに。入院してからだな。暇なんだな、俺。雲を積んだトラックたちが去っていく。廃棄になったあの雲たちはどこへ行くのだろう。天国に積まれているといいな、と何となく思う。天国に行きたいとは思わないが。
私には『推し』がいる。 いつも舞台上で鮮やかな衣装をまとい凛としている姿を見ると惚れ惚れしてしまう。 どれだけ遠くから見ても、どれだけ周囲に他がいたとしても、彼だと一目で気づくことができる。 「彩花もそんなに好きならツーショット撮ってもらいなよ」 「わかってないな〜、私なんかと写ったら彼のビジュが台無しじゃん」 正直いうと、私はいつも積極的な美咲が羨ましい。初めて彼を見つけたのも彼女である。 彼に初めて出会ったのは、大学に入学して十月に開かれた文化祭の日だった。 その日はあいにくの天気で小雨が降っていたが、大学主催のミスターコンは広場で開催された。 司会者は 「水も滴るいい男たちが揃っています!」 などと上手いこと言った感を出していたが、出演者からしたらセットした髪の毛やらメイクやらが崩れて最悪でしかなかった。 そんなミスターコンは学年別で進行し、最後の四年生が登壇し始めている時だった。 「えっ、彩花!あれ、見て!」 「どの人?」 「ステージ脇のところ」 「人なんかいないじゃん…あぁ〜」 「私ツーショット撮ってくる!」 ステージの直ぐ脇で、小雨が降る中でも彼は凛と立っていた。 その時の姿は深く落ち着きのある様子で、今ほどの魅了は感じられなかったが、その日から私と美咲は彼の推しになった。 今では鮮やかな衣装が端正な佇まいを一際立たせて魅力的になった一方で、私はまだ一枚もツーショットを撮れていなかった。 季節が移り変わり三月が近づくにつれて、私は彼が卒業してしまうかもしれないという焦りを感じ始めていた。 「ビジュアルが台無しなんて思わないよ。一緒に写真を撮ってくれるなら、誰だって嬉しいと思うけどな」 そんな美咲の言葉に後押しされ、彼にツーショットをお願いする決心がついた。 一緒に写真を撮ろうとスマホを出した、その瞬間だった。 「ポトッ」 あまりにも唐突だった。 あんなに誇らしげに佇んでいた彼が、重力に逆らわずに真下へと倒れた。 「えっ……?」 時が止まった気がした。 私の目の前で、彼は一瞬にしてその場所からいなくなった。 視線を落とすと、真っ白な雪が少し残る地面の上に、彼は真紅をまとって横たわっていた。 「そんな……嘘でしょ? どうして……」 絶望して立ち尽くす私に、美咲がそっと近づいてきた。彼女は悲しむ風でもなく、地面に横たわった『彼』を愛おしそうに見つめている。 「……彩花、そんなに落ち込まないで。彼はね、最期に『彼らしく』卒業していったんだよ」 「どういうこと?」 「彩花は『花』の枯れ方にそれぞれ表現が異なる言葉があるって知ってる?例えば、桜なら散る、牡丹なら崩れると言った感じで表現が異なるの」 そんな表現があるなんて私は知らなかった。たしかに、桜は散ると言うが牡丹が散るとは聞かない。 「なら、『椿』はなんて言うの?」 「花びらが散らずに、首ごと地面に落ちる様子から『落ちる』って表現するの。私は、そんな表現を大切にして最期の様子も残してあげたい」 私はもう一度、足元の彼を見た。 花壇という舞台上で華々しく落ちた彼を。 その姿は、バラバラになることなく、まるでまだ生きているかのように凛々しく見えた。 華々しく咲いている時だけでなく、その最期にも美しさを感じようとする。そんな素敵な考え方を知り、私は彼との初めてのツーショットを撮った。
随分と遠くまで来てしまったようだ。私は不安になって、居間の窓から夕陽が沈みかけた空を見上げた。 空はハッとするほど鮮やかなピンク色だった。若干紫がかったこの色は、フューシャピンクというのではなかったか。その眩しいほどの色彩とは反対に、山々は異常に暗い影を落としている。まるで真っ黒な巨人が麓にうずくまっているみたいだ……。そんな不気味な連想をしてしまい、私は思わずぶるっと体を震わせた。 私が元いた世界と今いる世界は、パラレルワールドらしい。元いた方が〈ウラ〉で、今いる方が〈オモテ〉と呼ばれている。私は未だに、信じることも疑うこともできていない。 パラレルワールドが実際に存在していることにはもちろん驚きだが、自分が生まれ育った世界が〈ウラ〉だったことにも強い違和感を覚えた。もちろん、それは便宜上の名前であって、どちらに優劣がある訳ではない。だが、今まで唯一無二だと信じてきた世界が、隠しステージのような扱いを受けているのには、どうにも慣れなかった。 私はスマホを置くと、読めない字が書かれた青い紙箱を開けた。中には、手のひらほどの茶色いものが入っていた。板チョコかカレールーに似ている。けれど、匂いはチャイのような、甘くてスパイスっぽい香りがした。 それを切れ目に沿って4つに割ると、一つをマグカップに入れ、ポットのお湯を注いだ。ふぅ、と息を吹きかけると、湯気で眼鏡のレンズが曇った。同時に、シナモン、オレンジ、バニラなどの匂いが忙しく鼻腔を通り抜ける。私はそれを嗅いで、料理に酒を入れすぎた時のような、くらっとする感覚に襲われた。 (これ、アルコール入ってるのかな。原材料は……読めないし。まぁ大丈夫だと思うけど……) もう十八だもんね、と私は一口啜った。甘くてスパイシーな、紅茶のような味がした。
夢を見た。1羽の鳥が羽ばたく夢。その鳥は勇敢で高貴だった。高く高く青空をとびかけていった。彼は人工のもの、ルールなど露しらず空高く飛んでいったそんな夢を見た 時計を確認。思ったよりよく寝たようだ、起きる 朝ごはんはハムエッグとブレッド 早々に食べ終え予定を確認する 3限に授業。 めんどくさいなぁと思いつつパジャマから私服に着替える 大学に到着友人に挨拶をする いつも通りの日常
「遅いじゃない」と彼女は錆びついたブランコに腰かけていた。電子タバコの赤い光が一瞬、鋭い顔を浮かび上がらせ、夜の銀座女のような冷静さを漂わせていた。 「今来ただろ。」ぼそりと呟き、サラリーマンは彼女から数歩離 れたところで立ち止まった。震える手で、黄色い封筒を胸に強く抱きしめる。疲れた目を近くの山の森に素早く泳がせ、彼女と目が合うと彼はすぐに地面へと視線を落とした。 「それ、私の?」彼女は封筒を見る。 「約束通りだ。ほら。」彼は封筒を握りしめながら見せた。「全部消せ」と弱々しく言うと、視線を下げた。 「消せ。消せ。消せ。」彼女は皮肉げに繰り返した。無造作に封筒をひったくると雑誌のように紙幣をパラパラと確かめ始める。 「もう終わりだ」と彼はつぶやく。まるで自分自身に語りかけているようだった。 彼女の指は数える途中で止まる。視線は森の方へ動き、それから彼の目を射抜いた。「もっと払うべきだったわね。」その言葉は彼の胸にねじ込まれた毒の短刀だった。ゆっくりと痛みを増していく。 「これで充分って言っただろう。」 「状況は変わるのよ。」彼女は舌打ちし、再び紙幣を数え始めた。 かすかな音が、遠くから一定のリズムで響いてくる。彼の体はこわばり、本能的に森の方を振り返った。「聞こえたか。」 「邪魔しないでよ。数が合わなくなるじゃない。」彼女は目も向けずに言った。 そのリズミカルな音は一段と大きくなり、意図的な響きが増してくる。肌をチクチクする不穏な節回しが響く。低く這うような拍子を刻む詠唱。「テン。ソウ。メツ。」 その時、彼は彼女が数えるのをやめているのに気づいた。彼女は森の影をじっと見つめている。目を見開き、顔には笑みが凍りついていた。「えっ、どうしたんだ。」彼の声が裏返った。 突然、彼女の体がガクッと倒れ痙攣する。次の瞬間動きの途中で固まり、頭が激しく揺れて、首が鋭い不自然な角度にねじれた。胸は大きく上下していたが、手足は硬直したままだった。 冷たい突風が公園を駆け抜け、ブランコは激しくぶつかり、ガチャンと音を立てる。森から、呪文が一語一語ごとに大きくなり響き渡った。「テン。ソウ。メツ。」 その言葉は不気味に脈動しながらこだましていた。街灯が点滅する。一瞬暗闇に沈んだ後、再び点灯した。その時、彼はそれを見た。 公園の端に、白く歪んで現れた。それはまるで歩くように、片足でゆっくりと彼女に近づいていく。その細長い手足は、不気味なリズムに捕らわれたかのように、揺れていた。だが、頭がない。二つの大きな瞬きしない目が、胸に埋め込まれている。その下には、ねじれた口が音もなく動き、耳をつんざくような轟音で呪文を唱え続けていた。「テン。ソウ。メツ。」 彼女の体が痙攣し、腕が激しく振り回され、再び硬直した。その視線は化け物の目に引き寄せられ、まるで縛り付けられたかのように離れなかった。彼女の唇が震えながら開く。「はいれはいれはいれ…」 彼はよろめきなから後ずさりする。耳の奥で脈が激しく打っていた。膝をつき手を合わせながら、必死に小声でつぶやいた。「ごめん。ごめん。ごめん。」 彼女の頭はグキグキねじれ、ゴキッという音がするまで首がピンと張った。低い声は壊れたレコードのように不気味に響いた。「はいれはいれはいれ…」 化け物はさらに近づき、胸の顔の笑みが一歩ごとに広がっていった。その唇が呪文を唱えるたび、彼女のつぶやきと一つに溶け合い、完全に一致していた。最後の詠唱が響き渡った瞬間、化け物は足を一歩踏み出したままピタリと止まった。そして、消えた。音もない。動きもない。ただ消えた。 彼女の震えもつぶやきも止まっていた。唇がゆっくり引かれ、笑みが広がる。あまりにも大きく、顔いっぱいに引き伸ばされていた。「ハイレタ。」
ああ、そろそろくるな。 「あんまり考えすぎんなよ」 ああ、やっぱり― 「願い」が種だとしたら「おまじない」はその種に水をやり、芽吹かせるための儀式。 こうなりたい、という強い願いだけでは、不安や迷いに押しつぶされてしまう。 そこにおまじないを加え、願いは「ただの思考」から「具体的な行動」へと昇華していく。 ―あんまり考えすぎんなよ いつもそう。この人はいつもそうだ。 お腹痛いと言った子どもに、おかあさんがぽんぽんさすってあげるみたいに言うんだ。この人は。 「先輩のこと、好きなんですよ」 「うん。なんかそんな気がしてた」 「知ってたんですか?」 「知ってたっていうか、わかっちゃった」 「わかってて、なんですね。なんにも」 「だってお前、何も言ってこなかったじゃないか」 「まあ、そうなんですけど」 「言われても、期待には応えられなかったけどな」 「そんな、さらっと」 「もう大学生になるんだ。大切なことほどさらっと言うくらい、嗜みとして身につけとかないとな」 「勝手だなあ」 「そうだな。勝手だな」 ああ、きっとくるな。 「あんまり考えすぎんなよ」 また、そうやって、この人は… この人にお腹をさすってもらえたら。 なんて、ちょっと考えてしまった。 私が甘えれば、この人は… なんて、しないけど。きっと、お互いに。
「お名前を教えていただけませんか?」 「ウルセーバカです」 「は?」 相手の顔がひくっとひきつったので、ぼくは急いで訂正に入る。 「ご、誤解です! 名前が!」 「誤解?」 「ウルセー」 「五月蠅い?」 「バカなんです」 「……誰が馬鹿だって? ちょっと話しかけたくらいで、馬鹿呼ばわりされる筋合いねえよ!」 相手の表情はひきつりから怒りに変わったので、ぼくは誤解を解くのを諦めた。 どうせ路上の勧誘。 二度と会うことはないだろう。 麗世(うるせ)葉佳(ばか)。 ぼくの名前。 いつだってトラブルを運んでくる、やっかいなやつだ。
カップラーメンにお湯を入れる。すると、死んだ母の幽霊が現れて、俺をにらむ。母は健康に気を遣う人だったから、俺がカップラーメンを食べるのを快く思っていないのだ。母の幽霊はじっと俺をにらみ続ける。俺は恐縮する。だが、母の幽霊は、三分経つと、消える。いつもきっかり三分で消える。何だかんだで、母は優しいのだ。
ふとした瞬間の、この一枚。 レトロ趣味ですか。流行りのトレンドですか。 「映えますわね、私ってば」 計算なんて、これっぽちも。 なんて、そういうことにして。 自分で「映える」だなんて言葉にしちゃうとこ、自分でも、どうかと思う。 必死さを笑い飛ばすくらいの図太さ、私も欲しいよなあ。 ふとした仕草に物語を感じさせるそんな佇まい。 ただ新しいだけよりストーリー。 タイムラインでもパッと目をひく。 こだわらない部分に、ひたすらこだわって。 そうやって、疲れちゃって… 本音は、ため息とともに吐き出して、重たい気持ちは、そっと、深い腹の底に。 ウソホント その境界線を、今日も曖昧にしたまま。
心の傷を可視化する装置を開発した。 試しに自分に浸かってみた。 『二十九』 平均は百設定。 わしが、世界で一番不幸だと思っていた心の傷は、実はたいしたことないと可視化されてしまった。 たまに思い出して寝込み、世間から天才発明家ゆえの苦しみだと言われておったのに。 「助手君、助手君」 「博士、名前で読んで下さいよ」 「ちょっと、実験台になって」 「言い方ぁ!」 助手に使ってみた。 『百三十八』 余裕の平均越え。 子供の頃に親に殴られ続けていた助手。 表面上は「あんなの全然大したことないですよ」なんて言ってたから気にも留めなかったが。 そっか。 わしの五倍くらい痛いのか。 「博士、なんの機械ですかこれ?」 「……明日、転ぶ確率測定器」 「私、百パーセントオーバーしてるんですけどお!?」 「多分、ダイナミックな転び方するよ、空中で一回転とか」 「ひいっ。骨折したくなーい!」 わしは、心の傷を可視化する装置をお蔵入りにした。 わしは、ずっと強烈な心の傷を持った天才発明家でありたい。
あの子は昨日まで、人間だった。 醜い醜い、化け物になってしまった。 背骨は伸びて曲がり、四肢もまた同じように伸びた。足りない皮膚を突き破って関節に当たる部分から骨が飛び出している。 美しい顔はそのままに、身体だけが人間ではない「なにか」になってしまったんだ。 「いたい、いたい」と泣き喚きながら、彼女には少し狭い部屋の中で蹲っている。最も、蹲りでもしないと天井に頭がついてしまうんだろうけど。 大きくなった手のひらは私なんか潰してしまいそうで、少し、面白かった。 「大丈夫、私がなんとかしてあげるからね」 そういいながらなんとか彼女の首に腕を回す。 「だいすきだよ、美代ちゃん」 きっと私のせい。 私のせいで、美代ちゃんはこんな姿になっちゃったんだ。 私が美代ちゃんを独り占めしたいなんて、短冊に書いちゃったから。美しくて優しいからみんなに愛される美代ちゃんが許せなくて、魔が差しちゃったから。織姫と彦星、それかもっと邪悪な存在が気まぐれにそれを叶えてしまったんだ。 ごめんね、美代ちゃん。 私だけの、美代ちゃん。
「あ、買い忘れた」 困ったときは、コンビニに向かう。 二度もスーパーまで車を出すのは面倒なので、ありがたい存在だ。 歯磨き粉もある。 下着もある。 パンもある。 スーパーより割高だが、時間を節約できると考えればトントンだ。 コンビニには、小学生たちが溜まって、雑誌を一冊買っていた。 一人が勝って、皆で回し読みをするのだろう。 ……その役目は、うちのものだった。 昔の子供たちは私の本屋で買ってたし、私の本屋で溜まっていたのに。 便利な便利なコンビニは、私から大切な客を吸い上げていった。 「六百四十八円になります」 とはいえ、バイトの子に怒るのも違う。 昔なじみのオーナーに怒るのも違う。 誰が悪いって言えば、時代が悪いとしか言いようがない。 「はい、ありがとうね」 商品の詰め込まれたレジ袋を受け取って、私はコンビニを出た。 そろそろ私の本屋も、閉店を考える頃だろう。 コンビニやインターネットと戦うには、私は年を取りすぎた。
できるかじゃ無い…やるんだよっ! 弱音は昨日に置いて来たっ! 最善の策を講じろっ! 最良の結果をこの手で掴み取るんだっ! できるかじゃ無い…やるんだよっ! 愚痴は昨日に置いて来たっ! 起死回生の縄を巻き取れっ! 今更、結果なんてどうでも良いっ! できるかじゃ無い…やるんだよっ! 覚悟できるという事は、実力があるという事だっ! 曲げられない我儘な意志を顕現しろっ! (完)
道を歩いていた。冬の真夜中だ。俺はもう死にたかった。何もかも冗談じゃなかった。うつむいていた。道を歩いていた。街灯の下に何か落ちていた。箱だった。小さな箱だった。それは精神安定剤の箱だった。何気なく拾い上げた。その箱には、油性ペンで、女の字で、文字が書き込まれていた。『希望を捨てないで!』そう書かれていた。箱を振った。何も音がしなかった。箱を覗いた。中には何も入っていなかった。俺は箱を踏み潰した。『希望を捨てないで!』の文字がひしゃげた。俺は再び歩き始めた。死にたい気持ちは、さっきよりは少し消えていた。
夜中のテレビで通販番組が流れていた。洗剤の通販だった。どんな汚れも落ちるらしい。体験者の声が流れた後、スタジオで実演されることになった。囚人服を着た老人が現れた。壁のセットが組まれた。司会者が包丁を取り出し、老人を刺した。観客とゲストのタレントたちが歓声を上げた。壁のセットに血が飛び散った。洗剤のメーカーの担当者が、洗剤でその血を洗い始めた。しかし、血は落ちなかった。いつまでも落ちなかった。スタジオが不穏な空気に包まれた。番組は突然そこで終わり、放送休止の画面が映し出された。
終電の電車からホームへおりる。電車が閉じ次の駅へ向かう。ホームに人は自分ひとりでそれがまた私を憂鬱の気分へさせる。社会人5年目、ブラック企業に就職した私は今日も激務に追われている。 「このままでいいのか」 いつか終わりがくるとそう信じていた。だが現実はこの通り毎日残業続き。明日がくるのが憂鬱である。自動販売機の前にたつ ガラスの前に憔悴した自分がたっていた。
悪魔と契約するのを避ける。 死神と契約するのを避ける。 天使と契約するのを避ける。 怨霊と契約するのを避ける。 神と契約するのを避ける。 現人神と契約するのを避ける。 宇宙人と話す。 審議する。 やはり僕は人類と契約する。 ちょっとずつ改善するのが一番いい気がするから。
お隣の家の庭を覗く。雲小屋に雲がいない。空を見上げる。いくつもの雲が浮かんでいる。どの雲がお隣で飼っている雲かわからない。愛があれば見分けがつくのだろうか。午後、雨が降ってきた。お隣の雲のおしっこじゃありませんように。
公園の街灯で、首吊り死体が揺れている。首を吊っているのは一人の男で、その男は、頭部が巨大な電球である。その巨大な電球は、ヒューズが切れている。男の足元には、遺書が置かれている。その遺書には、たった一言、『節電』と書かれている。街灯は煌々と輝いている。