汽笛が聞こえる

「汽笛が聞こえる」  ふと、そう言って彼女は僕から目を逸らし、遠くを見た。  世界が一瞬止まった。  薄暗くなった街のビルの隙間。まばらだがどこか派手なイルミネーションのなかで、ぶわっと吹いたビル風にその長い黒髪を靡かせる。世界で彼女だけが生きていて、そして死んでいて……彼女の大きな目は瞬きもせず、僕の知らない景色を見つめていた。  さっき美術館で並んで見た絵画のような力強い美しさと、ネジがぽろっと外れたようなおかしな発言。  酷くちぐはぐでじっと観察するしかなかった僕の意識を、まばらな雑踏が浚い現実へ引き戻す。 「汽笛……」  まだぼんやりとした頭で僕は確認するように呟いた。  視線のほう、近くに海があるかといえばこんな都心の真ん中、そうではないだろう。でも、もしかしたら路地を入ったところに細い運河か何かがあって、そこから少し伸びたところに東京湾があって、そこに停泊している船の汽笛が風で渡ってきているのかもしれない。  そんなの可能性は低いと思うのだが、僕は海から遠いところで育ったので、汽笛にはもしかしたらそれくらいの力があるのかも、とそう思ったのだ。  それに何より……僕は彼女に溺れるほど惚れているから、言うこと全て正しいと信じたい。 「ど、どんな感じ?」  ぐん、と世界の離れてしまった――学内での距離みたいな今の僕たちからさっきまでの隣に並んで話をする親密な関係に戻るために、僕はデートに誘ったあのときみたいに勇気を出して口を開く。彼女はちいちゃな顔の横に、耳に添えるように挙げていた手をたらんと下ろし、再び僕を見た。その顔からすん、と表情は消えていた。 「僕には聞こえないんだ。雑踏がうるさくて」  それでもめげずに、僕は何とか彼女の興味を引きたくて苦笑しながら話しかけた。彼女は僕に向き直り、まったくの他人を見るように、ざっと視線を下から上へと動かして、小さく口を動かした。 「え?」  分からなかった。僕は何とか聞き返そうと彼女に一歩近づいた。 「ぼうーーーーって鳴るの。知らせてるのよ」  友人とお喋りしているときとは全く違う、か細い声だった。 「ぼう……」  口に出してみたところであまりイメージが湧かない。音も、鳴らす船も。  僕らの横を、怪訝な表情をした若者の群れが早足で通り過ぎた。彼女に向かって何かぼそぼそ言った奴がいて、そいつはいやらしい笑みを浮かべた。すごく嫌な感じがして、僕は彼女の肩を掴みぐい、と胸に寄せた。 「どこか入ろう、ここ、あんまり治安良くないから」 「そうね」  彼女は僕の腕の中で即答した。柔らかなぬくもりとくぐもった声が、彼女を抱いている実感となって、心が擽ったい。 「汽笛が鳴っていたものね」  そう言った彼女の声ははっきりと空に放たれて。はっとした。顔を上げた彼女は僕の腕をぶん、と振り解いて勢いよく飛び出した。 「ちょっと!」  彼女は走る、見つめていた方へ。人波をものともせず、ざぷざぷ掻き分けて、一直線に。 「危ないよ、ねえ!」  追いかけながら呼びかける声は叫びに近いのにちっとも届いていないようだ。少しだけ気取ったおろしたての革靴が僕の足を遅くしたのはともかく、彼女はハイヒールを履いていると思えないほど早かった。波を跳ねるように、まっすぐ何かを――恐らく船を見つめて。 「どういうことだよ……」  じんじん痛む踵を軽く押さえる。靴下から滲んだ血が指先を汚した。冬の寒空の下、あっという間に乾いて、茶色くかぴかぴした汚れになる。僕は顔を拉げる。  カフェへ寄ろうと言っただけなのに……彼女は何か勘違いしたのだろうか。だから、あんなおかしなことを言いだしたのか。逃げたのは絶対に通りすがりの男のせいだ。一瞬でいやらしい言葉を吐いたに違いない。だから逃げ出したんだ。僕はあいつとは違う。ずっと見ていたんだ、大学で。だからじっくり準備を重ね、折角デートに誘ってOKを貰ったのに、使おうとしていたモノも無駄になるじゃないか――  僕はポケットに手を突っ込んだ。眠れないからと分けてもらった睡眠導入剤を隠した、メタルのタブレットケース。それを弄べば、から、と軽薄な音がした。  ぼうーーーーーー 「な、なんだ!?」  はっと顔を上げた。聞いたことのない、不思議な太い音。 「汽笛……?」  正気に返る。彼女が聞いたのはこれだったのか? 本当に鳴っているんだ、だとしたらどこで……。  僕は彼女に会えるかもしれないという期待を抱きながら痛んだ足を引きずりふらふら歩き出す。どか、と音を立て何かにぶつかった。瞬間、奥から人の気配と声がわっと現れ、一瞬で散った。 「何……」  暗闇に目を凝らすと、彼女ではなく……あられもない姿の女性が残されていた。  こちらを見、震え、声も出ないほどの彼女をかき消すように大きく汽笛が鳴った。 (了)

転居

終活の一行為として転居があるが、その際すすめられる事として試し住みがある、又、三度訪れよ、と言ったりもする。いずれもそのとうりであり行わないより行った方がいいのは間違いない。冗談まじりに不動産屋ににそのような事を言うと、不動産屋は買わせたい一心なので買うのを二の足ふむような事は法で決められている事以外では言う筈もない。真に受けて契約するのも間が抜けてるようで返事をぐずっていると、既に下見した人がいてその人から連絡が束たら終わりですよ、と言ったりする。そこで見た目、知り得た範囲内での判断を自分につきつめて迫り、「手付けを打ちたい」と言う.不動産屋は形相を変えとんとん拍子で話が進み翌日銀行でお金をおろし手付を支払って70km北の我が家へと帰った。 2週間後に本契約であり、その2週間で不安を解消する為のできるだけの対処をした。そして結局大きな問題無い事確認し本契約をすませた。 よしこれで新しい家と環境で良い老後が送れる筈。その予感から胸ときめき心躍動した。ただ、ただよく考えてみると、ある大きな問題が全く片付いてない事に気づき、愕然とした。 それは自分の人格の修正だ!(大笑)

「沈丁花」(伝奇BL)

 降りしきる雪の中、男は道に迷った。日が暮れたが、進むしかない。  向こうに灯りが見えた。辿りついた家の老夫婦は、驚きつつも男を迎えてくれた。聞けばここの村長だという。風呂と食事、酒が供された。  三月の大雪は珍しいと村長が言った。 「お客人はなぜここへ?」  村長の酌を受ける。 「隣町で、沈丁花が咲く山があると聞きまして」 「沈丁花如きでこんな辺鄙な村においでとは」  村長の顔に呆れと自嘲が見えた。男は膝を進める。 「では、こちらに?」 「裏山です。今が盛りですが、雪で見えますまい」  男は肩を落とした。せっかく来たのに。  酒肴も尽き、離れへ通された。  一人になると、リュックを開けた。風呂の間に中を見られてはいないようだ。  男は強盗だった。足が付かないように旅をしてきて、偶然、沈丁花の話を聞いた。生家で嗅いだ香りが懐かしく、つい足を延ばし、このざまだ。  まあ、ここで仕事をすることはあるまい。  男は敷かれた布団に横になり、眠りに就いた。  翌朝、村長に隣町へ降りると告げたが、首を振られた。 「今日は雪で無理です。明日、車で送ります。ゆっくりしてください」  男は廊下から外を眺めた。竹垣の上に大勢の頭が見え隠れする。  母屋に戻り、村長の妻に尋ねた。 「表の人達はいったい何を?」 「雪かきです。今夜、神事があるもので」  更に問おうしたが、夫に訊けとあしらわれた。 「村長はどちらに」 「お社に行きました」  場所を教わり、男は表へ出た。強風に髪が乱される。  門を出ると、村人達の視線が一斉に向いた。会釈して通る。  社はすぐにわかった。中で村長と十五、六歳の少年が話をしていた。  男は、少年の上品で端正な顔立ちに息を飲んだ。ただ、その両の瞼は閉ざされている。 「お客人、何の御用ですかな?」  村長の声には険があった。 「今夜、神事があると聞きまして」  間があった。 「占いです、今年の収穫の」 「どのように占うんです?」  無言の村長に代わり、少年が淡々と答えた。 「くじで選ばれた家の門に沈丁花の枝を縛り付け、私が花の香りを頼りにその家を探します。私は目が見えませんので。一番鶏までに見つけられれば豊作、見つけられなければ――」 「凶作です」  村長が言葉を引き取った。 「豊作ならば、神子様はその家に幸いを授けてくださり、凶作ならば村の邪気を祓ってくださる。そういう神事です」  男は身を乗り出した。 「見学できますか?」 「神事を穢すおつもりか!」  村長の眦がつりあがった。 「神子様の妨げになるので、今宵は誰も外に出ぬが決まり。見学などとんでもない!」  あまりの剣幕に社を退散した。  離れに戻った男は寝転がる。  面白くない。  頭に、神子の少年の顔が浮かんだ。彼には悲哀を帯びた色気があった。  あれが欲しい。  準備は日暮れ前に終わったらしい。村長が帰ってきた。  村長とは夕食で目も合わず、話も弾まない。男は早々に離れに入った、玄関から靴を持って。  母屋の灯が消えた一時間後の午後十時、男はリュックを背負い、細身のライトとガムテープを手に、離れから直接外へ出た。  村内を巡ると、沈丁花の花枝が括りつけられた門を見つけた。甘酸っぱい香りだ。縄から枝を引き抜いた。  更に夜道をライトで照らしながら歩く。その灯りの中に人影が現れた。  あの少年だ。白い着物を纏い、杖をつきつつ近づいてくる。強風で香りが散り、まだ花の家に辿りつけていなかったのだ。  男は少年の眼前に、ライトと枝をかざす。  香りに気づいたらしい。少年の頬がほっと緩む。  その口をガムテープで塞いで、腹に拳を叩きこんだ。呻く体を担ぐと、社へ向かう。  社は無人だった。  男は花枝を投げ捨て、抗う少年の手首を留め、着物をはだけた。甘酸っぱい香りの中、すすり泣く少年の肌を、身内を劣情で汚す。  絶頂を迎えるその瞬間、睡魔とともに全身の力が抜けた。  なんだ、これ、は?  闇に堕ちるように、何もかもわからなくなった。  どこかで鶏が鳴いた。  はっと男の目が開いた。体の下で少年が涙を零している。  その時、社の戸が開いた。入ってきた男達の手で少年から引き離される。木材で全身を滅多打ちにされ、男は気絶した。  冷たさと痛みで意識が戻った。裸に目隠しをされ、口も塞がれ、手足も縛られ、土の上に横たえられている。湿った土の香りがきつい。 「お客人、今年は凶作だ」  村長の声が上から降ってきた。顔に何かが降りかかり、沈丁花の香りが鼻腔に満ちた。 「どうか花の下で村の邪気を祓ってくだされ。神子様の代わりに」  言葉と同時に、土がどっと体に降りそそいだ。  翌年の春、一年前裏山に植えられた沈丁花の花は、ひときわ強く甘酸っぱい芳香を放ったという。

しあわせだったりするのかな

わたしに対して 悪さをしたり わたしのことを ぞんざいにあつかったり そういった者には 天罰が下る そういった者たちの あわれな姿を この目で しっかり見た そういったことではない けれど おそらく そういうことなんだ わたしは 自分自身のことを だいぶ いいかげんにしている 自分にやさしくないし いろいろと 不健康だ わたしのことを ぞんざいにあつかった者 つまり わたしには 天罰が下る わたしが いまいち しあわせというものに 手をふれられずにいるのは そういったことが 関係しているのかもしれない わたしは ねこに対して やさしく接している ねこも わたしに対して やさしい ように思う ねこがどう思っているのかは わからないのだけど ねこのそばにいれば わたしは しあわせになれるかな わたしが 気づいていないだけで もうすでに しあわせだったりするのかな

水に濡れた善意

 遠い昔に見た父の姿が浮かぶ。  晃の父は、彼が小五の時に突如として家を出た。  昔から多忙であった父だが、ある日、突然夜中に出かけてくると言い、それ以来なんの音沙汰もなく、晃の前に姿を現すことはなかった。  その後は母との二人での生活が続いた。以前からもそれほど家にはいなかった父であったが、それでもやはり二人での生活は困窮を余儀なくされた。家事をするのにも母一人で、何もすることができない自分の無力さに胸を痛めた。 「お母さんは大丈夫だから、自分のことを全力で頑張ってね、それが母さんの生きる希望だから」 そう言う母の顔は酷く悲しそうだった。期待に応えなければという使命感に囚われながら、自分には何ができるのか、と考えを巡らせても、結局何もしてあげることが出来なかった。  自分が呑気に学校に行き、帰ってくると仕事に家事に様々なことに追われている母を見るとものすごく罪悪感を感じた。 「手伝うよ」 「いや、母さんは大丈夫だから。それより勉強、ちゃんとおやりなさい」 その言葉は更に涙を促進させた。  そうして時は過ぎ、晃は大学に進学することになった。「大学に進学する金はなんとかするから」と、母の強い押しにより必死になり勉強し、ついに掴み取った栄光。喜ぶ母の姿を見て顔を天気雨のように濡らした。  しかし本当に金銭的な問題が頭から離れなかった。絶対に自分と母からだけは解決することができない。  そんな中で一つの連絡があった。匿名メールからだった。そこにはある飲食店の住所と時間だけが書かれていた。  どうしようと思いながら、何故かそのことが気になってしまっていた。なにか強いものに引き寄せられるような、そんな信じがたいようなものを心のなかに感じた。  そこは至って普通のファミレス店のようだった。 「一名様ですか」 「一応、待ち合わせをしてます」 「では、お好きな席にどうぞ」 店内をぐるりと見回した後、辿々しく適当な席に着いた。 「ごゆっくりどうぞ」 水が机の上に置かれていた。会えなかったら会えなくてもいいや。そう思いながら、呆然と窓を見つめた。  見間違いだろうか。  向こうの道路に見慣れていたようなシルエットがあった。しかしその影はすっかり小さく見えた。自分の記憶のものとは差異があるようだった。  気のせいだろうと思いながら、机のお冷に手をかけた。生ぬるい水の味は満足ならない心を表しているようだった。  前方に、人影があった。スーツ姿のその男は晃に対面するように腰をかけた。 息を呑んだ。確かにそうだ。 「大きくなったな」 紛れもない父だった。威厳のある顔つきは昔見たものそのままだった。 「どうして……」 「すまない。ただ、どうしても言いたいことがあって」 晃は話の調子を父に委ね、自分は喋らぬまま父の目を見ていた。 「……合格おめでとう。そして、成人おめでとう」 そうして父は内ポケットから封筒を取り出した。 「これでもう、大丈夫だ」 晃の心を見透かしたかのようだった。封筒の口からはみ出した部分を見ると、大量の一万円札の束だった。  そうして父は腰を上げ、颯爽と店を出ていこうとした。  これまでのことが脳裏に浮かぶ。一人で大変そうにしていても笑顔を絶やさなかった母の姿。そして、呑気に自分の前に現れ、ただ金だけを置いて帰ろうとする父の姿が記憶の中で重なった。  晃は満足いかないように近くにあったグラスを机に叩きこんだ。ガシャンという音と共に、机の上には水が散乱した。封筒に水が染み込んでいく。 「待てよ……」 父が申し訳なさそうに晃の方に振り向く。 「こんなことしか出来なくて、ごめんな」 店内の皆がこっちを注目していた。 晃はただ下を見つめた。水に染み込んだ封筒が目に映る。 「それ……また、持ってくるよ……」  父のかすかな声に目を向けると、そこに父の姿はもうなかった。 無意識に大きな舌打ちをしていた。 「なんでだよ……」  今まで我慢してきたものが込み上げてきた。それは次第に形となり机の上を汚した。  厚い封筒の周りにできた水溜まりの上に、ポタポタと水滴が落ちた。次第にその水打ちは激しくなり、止まる気配はなかった。

それでも私はまだ

ーーこの電車は16:25分発、通勤特急、大阪梅田ゆきです。停車駅は、池田、石橋阪大前、豊中… まだ通勤通学のピークの時間でもなく、お年寄りが持つビニール袋からは夕飯の買い物の名残が見え隠れし、ベビーカーを押す母親の声はどこか穏やかだった。 人がまばらにいる川口能勢口駅で、私は放心していた …好きな人に振られた 相手は同じサークルの同期。大学に入ってから2回目の夏だった。合宿で知り合い直感で何かあるかもと感じた私はばかだったのだろうか。 昨日、4回目の食事に行き、帰り彼の車の中で告白した。その時は心臓の高鳴りが頭にまで響いて、生きた心地さえしなかった。 「ありがとう」 しん、と静まり返った車内にこだましたその一言で、私は一世一代の賭けに敗れた。 もちろん振られた直後は友達の家に行ってヤケ酒した。化粧崩れの泣きじゃくった私の酷い顔に何も言わずにうん、うんと話を聞いてくれた友達には感謝している。と同時に、一抹の申し訳なさも感じている。しかし昨日くらいは許して欲しい、そして構って欲しいのである。 夏風が少しだけ軽くなった夜分、最後に友達から、「いけると思ったんだけどねえ」と言われた。 私もいけると思ってたのになぁ… 黄昏時だからだろうか、夕焼け色に染められたアスファルトが少し滲んで見えた。 「ありがとう」 昨日の彼の声だ。冷たい響きがまだ心に残っている ーー負けるか。 無理やり頭を空へと上げた。 紫がかった空をキャンバスに、天にまで登る入道雲。 ゆっくりと動いている揺蕩う小さな雲たち。 ざぁっと、ぬるい風が髪を撫でる。 それらの刹那を感じながら、イヤホンをつけた。 心の声が大きくなったような気がした。 「こんな日でも、それでも私はまだ、生きている。」 ただ、夕焼けのホームで、残り数分の黄昏を堪能しながら、私はまた一歩を踏み出すのだ。

レモネード

男は喫茶店で、恋人が来るのを待っていた。先に注文したレモネードが運ばれて来たので、一口飲んで男は言った。「なんて美味しいレモネードなんだ」すぐに一杯目を飲み干し、二杯目を注文した。三杯目、四杯目と飲み続け、遂には店のレモネードを飲み尽くしたが、恋人は来なかった。

喫茶・ズル休み

男は酷い罪悪感と共に、朝の通勤ラッシュを逆行した。途中、路地の奥に見慣れない建物があるのに気付いた。自家焙煎と書かれた札が掛かるドアを開けると、中はこぢんまりとした純喫茶だった。男は飲み干したティーカップの底に文字を見つけた。『自分を責めないで。また明日頑張ろう。喫茶・ズル休み』

希望の立つ所

 あの人は凍えるほどの真白で包まれていた。  あの人が夢に出るようになったのは、一月前からだっただろうか。  深い森の中、果てしなく続く砂漠、底の見えない海。そう言った彷徨う夢の中に、彼だか彼女だかはいつもポツリと現れた。  視界の端で揺らめくように佇んで、ただじっとこちらを覗くばかり。頭らしい丸みには表情のためのパーツがなく、手足はあれど微動だにしない。  ひたすらに白く立つばかりのその人が現れると、途端に夢は終わりを迎える。当て所なく迷い体力も気力も使い果たし投げやりになったところに現れては、私の夢を終わらせて消えてしまう。  しばらく同じように見るものだから、私は夜ごとあの人を探し歩くようになった。  昨日にしても、やたらと煌めく星空に埋め尽くされたコンクリートジャングルのそこら中を駆け回って星々にも負けない白を探し回したけれど、尻尾の先すら見えることは無かった。いつも通り、疲れ果てた私は真っ黒なコンクリートに横たわって満天を見上げる私を嘲笑うように、あの人は近くのマンションの一室から卵のような顔を覗かせてじっとするばかりだった。  初めて出会った頃から随分と近付いたものだと、不意に感心してしまった。  今日は一体どんな夢になるだろう。  月明かりと街灯に照らされ、我ながら幼い発想に笑いが出てしまいそうになるが、仕事の疲れか表情筋の一つでさえ動かすことはできそうにない。  強張った肌を冷え込んだ夜風がひゅるると撫でていく。 「────」  風に織り交ぜられた声のような、何かが聞こえた。  視界の端で白い何かが揺れる。  つい目をやってしまえば、そこには居るはずのないあの人がカーブミラーの下で揺らめいている。  いつの間にか、夢を見ているのだろうか。冗談にすらならないが、確かにあの人は浮いた白で佇んでいる。  穴が空くほど、あの人を見つめていた。すると、普段動かない腕が冷気をゆるりと切り裂くように持ち上がり、上下にたわむ。まるで私を誘うように。  不思議と、恐れはない。夜に浮かぶ純白の人影に誘われるままカーブミラーが目前に迫る。  澄み切った白い腕が私に触れた途端、爆発にも似た破壊音が轟く。  丸いだけだった彼の顔に一本、煌めく夜空のような線が走る。口のように引かれた線がぱっくりと開けば、いやに整った歯並びが露呈した。  「いこうか」  もたつく唇がそう唱えると、私と白い人は迷うことなく空へと昇る。  見下げればカーブミラーと乗用車に挟まれた、フォーマルな衣装に身を包んだ小汚い死体が一つ転がっているばかりだった。

先生、わたしね

中学2年生の春、初めてあなたの名前を知った。 大きな口を開けて笑う人だなと思った。 整った顔でシュッとしたスタイルで、全てがスローモーションに見えるあの現象は、ドラマの中だけの演出ではなくどうやら本当に存在していて、風は大きくカーテンを揺らしていた。 これが一目惚れってやつなんだと思った。 毎日が鮮やかに暖かくなっていった。 窓から見えると名前を叫びたくなった。 提出物はどの教科よりも綺麗な字でまとめて出した。 プリントを渡される時に手が触れた、その一瞬を宝物にしていた。 何気ない会話の中で言われた「可愛いじゃん」って言葉を何度も思い出した。 平日が楽しみで土日は好きじゃなかった。 黒板に向かう後ろ姿とたまに見える横顔と、すらっとした綺麗な手が好きだった。 何も無い、ただの片想い。 特別でもない、ただの生徒と教師。 それでもいつか、もしかしたら、私が大人になったら、先生の手を堂々と握れるようになるのかもしれない、なんて思っていたりして。 ゆらゆらと、ぽつぽつと、毎日がすぎていく あなたを1番に見つけられるから、廊下が好きだった。 見つけては名前を呼んで何気ない会話をした。 その30秒が一生続けばいいのになんて思っていた。 2年生が終わる頃に、来年もあなたが担任でありますようにと、ネットで調べたおまじないをした。 人生で初めての神頼み。 中学3年生の春、またあなたは私の教室の教壇に立っていた。 私を見つけて「今年もよろしく」と笑った。 小さな偶然を私は運命だなんて思っていた。 去年と同じように毎日は鮮やかで暖かいものになるのだと信じていた。 夏、先生は結婚した。 全てがスローモーションになる現象は、一目惚れだけでなく絶望の時も同じなんだと知った。 周りの音が消えて暗い闇に沈んでいくような感覚。 あの綺麗な指には銀色の魔法がかかって、どうも解けそうにない。 その魔法は、昨日まであんなに鮮やかだった世界から一瞬で鮮やかさを奪って、まるで現実では無いような、モノクロの世界にした。 振り絞ったおめでとうございますの声は震えていなかっただろうか。 上手く笑えていただろうか。 暑い夏の帰り道、少し遠回りをして帰った。 ぽつぽつと日は進む それでも私は土日が嫌いだった。 私の押し殺した感情は誰にも気づかれないまま 枯れて腐って、いつまでも自分の中で片付けられないまま存在し続ける気がした。 卒業の日が近づくにつれ、私の感情は大きく、でも綺麗にまとまって私の鼓動を鳴らしていた。 あっという間に私の青春のページは埋まって、気づいたらまた春が来ていた。 長い式典が終わって片付いた教室の前の誰もいない廊下で、あなたが現れたら最後に潔く伝えようなんて思った。 胸に付けたコサージュは白とピンクと緑で、窓の外には桜が見えた。 今日で終わりだ。 足音と私を呼ぶ声がする。 私はとてもついていて、最期にこの声と笑顔を独り占めできるなんて。 「先生、私ずっと好きだったよ、元気でね」 ちゃんと私は笑っていた。 重たくならないように、すぐに忘れ去られるぐらい軽く、まるで本気じゃない素振りで きっと何年経ってもこの2年間の片思いを思い出して懐かしむんだろう。 巡りめく季節にあなたの片鱗を見ては集めて、大切に仕舞っておくんだろう。 卒業してからしばらく経って、友達ずてに先生が転勤したことを知った。 あれから数年が経って、それなりに恋愛をして、気づけばあの頃のあなたの歳になっていた。 私にはもったいないぐらいの愛をくれる人と結婚した。私の指にも銀色の魔法がかかった。 忘れた訳では無いけれど、蓋をした恋だった。 同窓会が開かれて、そこで数年ぶりにあなたと会った。 何も変わらない。 大きな口を開けて笑うところも、すらっとしている所も声も。 とても悲しくなった。 大人になって先生に会ったら倫理観とか不倫とかそんなの関係なく、私はあなたへの想いを溢れさせてしまうと思っていた。 あの2年間の片思いはそれほどまでに私の中に強く残っていて、色褪せない大切なものだった。 あの気持ちや思い出は全て色褪せずにずっと大切にしていきたいと思っていたのに、 私自身が色褪せてしまった。 先生、わたしね 学校にいたあの先生と私が好きだったみたい。 私、先生の手がとても好きだったよ だけど気づいたら私も先生みたいな手になっていて、守るべき大切なものができていた。 その守るべきものを壊せるほどの愛だと盲信していた。 そうでは無いのだと知ってしまった。 私が今まで大切にしまっていたあの綺麗な宝物達が、ただの思い出になった。 会わなければ、私はあの頃の私の気持ちを大切に出来たはずなのにな。 もう、巡りめく季節は私だけのものになった。

となりの席の女の子

私ってさあ 人がつくった料理 好きなんだよねえ って言われたんだけど それって、外食が好きだから こんど一緒に行こう ってことなのかな それとも、私の家に来て 何かつくってくんない ってことなのかな ねえねえ、どう思う? 一度も話したことのない となりの席の女の子に 突然、話しかけられた あ、え、え、と…… わたしは、あわててしまい 結局、答えられなかった ごめん、いきなりで その女の子は、言ったのだけど わたしのほうは、なんだか 情けない気持ちになってしまい それで、涙が流れてきちゃった となりの席の女の子が わたしの涙に気がついて その涙を指ですくって テロッてなめた どきっとした あまりにどきっとして 涙は、瞬時に、とまった すごいなって思った 一瞬でわたしを 好きにさせちゃうなんて となりの席の女の子 すごいなって思った

【超短編小説】「社長の意向」

 大学生の就職活動のシーズンが訪れ、殺虫剤を製造している我が社にも応募者が来た。  我が社は社長の意向で、履歴書選考はなく、全員一次面接に来てもらうことになっていた。履歴書はその時に初めて目を通す。  学生たちを面接していると、一人、目が異常に輝いている男子学生がやってきた。  履歴書を見ると「前世」の欄に「蝿」と書かれていた。 「前世は蝿だったんですか」 「はい」  学生は元気よく返事をした。 「うちは殺虫剤を作っているんですが」  冗談まじりにそう言うと学生は、 「はい、御社の殺虫剤で死にました」  と答えた。我々が顔を見合わせていると学生は、 「それがすごく気持ちよかったんです」  と言った。その瞳はますます輝いていた。  彼は社長の意向で、二次面接に進んだ。

君は何故嫌われに行くのか

「私は不思議でしょうがない。何故、男と言う生物は、わざわざ嫌われに向かうのか?」   「ん?」    女の問いかけに、男はミックスジュースを啜るのを止める。   「先日、ナンパをされたのだ」   「うん」   「私が急いでいると言っても、ゴミムシを見るような目で見ても、あいつらは私を開放してくれなかった」   「だろうな」   「私は精一杯、嫌悪感をアピールしたつもりなのだが、何故やつらは引き下がらん? 人から嫌われるのが恐くないのか? この集団生活前提の人間社会において」   「んー」    男はミックスジュースを置いて、代わりにキセルに火をつけた。  もくもくと上がる煙に、女は顔をしかめる。   「……煙草は嫌いなんだ」   「キセルだよ」   「おんなじじゃないか」   「別物だよ」    ふうっと、男の口から煙が溢れる。  女はますます嫌そうな表情を作る。   「で、なんで男が引き下がらないのか、だっけ?」   「そう、その通り。何故嫌われるのを恐れない?」   「んー。それは、前提に認識の違いがあるな」   「何?」   「男ってのはさあ、嫌われている状態がデフォなのさ」    男はキセルをひっくり返して、軽くたたく。  灰をサラサラと下へ落とし、役目を終えたキセルで道行く人々を差す。   「あそこで歩いてる若い女、どう思う」   「とても可愛くて良いな。柔らかそうで、抱きしめたくなる」   「あそこで歩いてる若い男、どう思う」   「別に何も。もう少し、別の服がなかったのかとは思うが」   「それよそれ」   「どれだい?」   「女は基本、女が好きだし、男が嫌いなんだよ。たとえ、自分と無関係な奴であってもな」   「無意識かつ個人への評価ではあったが、過去に心当たりがない……訳ではないな」    男はキセルをテーブルに置き、ふたたびミックスジュースを啜り始める。  灰と甘みの混じった濁流が、男の喉に流し込まれる。   「ちなみに、俺も女の方が好きだ」   「知ってるよ」   「男のケツは見たくもねえが、女のケツは是非見たいねえ」   「今の発言で、少なくとも私は私の指先だってお前に見せたくなくなったよ」   「はっはっは。まあ、こういう嫌われてなんぼの発言ができるほど、男は嫌われている状態がデフォなのさ。だから、女が自覚的に出す嫌悪感なんざ、普段浴びてる嫌悪感からしたら屁でもねえのさ。納得したか?」   「すべてに納得したわけではないが、否定しきれないところもあったな」   「はっはっは。まあ、分かり合えねえよ。結局な」    空っぽになったミックスジュースのグラスがテーブルに置かれる。  グラス越しに見える互いの顔は、本心が分からないほどに歪んでいた。    最後に一つ、女が口を開く。   「だが」   「んん?」   「女の、お前の言葉に合わせて言うと、好かれるのがデフォの状態が、良いことばかりじゃないというのは言っておくぞ」   「それも、知ってるよ。自慢じゃねえが、俺ぁ生まれてこの方、ナンパされたことがねえ」    分かり合えない二人の話。  指先程度の歩み寄りが見えたところで、宴もたけなわ。    いざ、終幕。

白い思慕

 わたしは教室の黒板とチョークが奏でる音で、その人がどんな人なのかを想像するのが好きだった。例えば、数学の中年男性教師は、壁画に絵文字を刻むようにチョークを黒板に当てていた。無骨な手に似合わない神経質な文字を、一つ一つ丁寧にカツカツと埋め込んでいく。Σの上と下に書く文字だけはとても下手で、その刻む音も彼のよれたシャツのように情けなかった。わたしは、この人は自分の情けなさを権威という形で補う人なんだろうなと、勝手に結論づけていた。三十前半の英文法の男性教師は、大雑把な文字をゴリゴリと打ち付けるように書いていた。授業の半ばになると、何故かチョークを滑らせるようにして、投げやりな文字を書いていく。時折、キーという身体が震える音を出して、わたしたち生徒の静かな顰蹙を買った。無論、彼はそんなことはお構いなく、無意識にWを強調させながら黒板を引っ掻いていった。彼の結婚生活もおそらく相手を不愉快にさせるだけの荒れたものなのだろうと思い、わたしは彼を勝手に軽蔑していた。  二十代後半の現代文の教師は、真っ黒なひっつめ髪で冴えない眼鏡をかけた、いかにも自信の無なそうな女性で、書く文字はとてもか細く、カッ、カッ、と小さな音を短い周期で出しながら文字を書いていた。多くの女子生徒から半ば見下されていることを自覚しているのか、身体もチョークを握る手にも落ちつきがなく、黒板に齧りつくように書いていた。彼女の筆圧は強くないはずなのに、良くチョークを折っていた。それは折れたというよりも、欠けたという方が正確かもしれない。愛という文字を書くときに二度チョークを欠けさせていたのを見て、わたしは彼女が今まで誰からも愛されたことがないのではと想像して、一人哀れんでいた。  その日の彼女の授業でも、使い道のない白い欠片がポロポロと下に落ちていた。高い所から欠けたものは彼女の頭に降りかかっていた。わたしは板書することよりも、それを見ることに集中していた。彼女の震える音が静かに教室を満たす中、白く小さい破片が荒めの粉雪のようにハラハラと床に舞い落ちるの見て、わたしは一体誰がそれを掃除するのだろうかと心配になった。  授業が終わると、日直が黒板を消すことになっていた。当番はわたしの右隣りの男子で、先程までいた彼女のように、どこか自信と落ち着きのない人だった。わたしがなんとなく彼を眺めていると、彼が床をじっと見つめていることに気がついた。やがて彼は腰を屈めると、小さく散らばった白い粉をとても、本当にとても大事そうに掬い上げ、自分のハンカチに乗せてそっと包み込んだ。そしてまた立ち上がると、消しすぎてしまった日直欄に自分の文字をそっと書き直した。彼の書く音は、彼が思いを寄せている人と同じものだった。  その密やかな時間を立ち会ったのは、わたしだけだった。つまりそれは、わたしだけが、彼を好きになる権利が与えられたということを意味するのだと、わたしには思えた。――わたしなら、君にもっと良い音を聴かせられる。君のハンカチのように優しく包み込んであげられる――。そう思ったら、自分では制御できない切ない想いが密度の高いマグマのようにわたしを襲ってきた。やがてそれは彼への愛おしさに生まれ変わり、わたしの身体の中のあらゆる場所を駆け巡って、焼き焦がしていった。わたしが想像する彼女のように、彼もまた今まで誰からも愛されたことがないのであれば、わたしこそが彼への愛を満たしたいと思うくらいに、彼のポケットの中にいる彼女を捨て去りたいという強烈な想いを、わたしは彼に抱いてしまったのだった。

どこまでが嘘だ?

この世界に新しいルールができた。それは、嘘をつくと鼻が伸びるというものだ。 いつからか現れたこの奇妙な現象は、ニュースで、ネットで、日常会話で。瞬く間に定着した。嘘をつくのが当たり前の世界は、この不可解なルールによって大きく変化した。専門学界隈にも激震が走る。人類の根源に関わる突然変異なのだから慌てるのも無理はない。 しかし、時が経つにつれて、人々はこの「嘘の代償」に慣れ始めていた。 「で、いつ俺のゲームは帰ってくるんだ?」 「あ、あれ?なんか借りてたっけ?…あーあれか、今度返そうと思ってたんだよ」 私の友人、神城がそう言うと彼の鼻が面白いほどによく伸びる。 「…無くしたな、部屋の中よく探せよ」 「わり、記憶にねえわ。ごめんなぁ」 性懲りもなく人の物を借りては無くす神城は、今までのらりくらりと嘘をつきその場をやり過ごしていた。私にだけでなく、どんな些細なことでも平然と嘘をつく、生粋の法螺吹きだ。しかし、この「嘘がバレる」世界になったことで、彼の嘘は一目でわかるようになった。いや、正確には「見えるようになった」だけだ。 役目を終えた神城の鼻がすっと元の形に戻るのを眺めながら、私は道を進む。 「クソォ、この鼻ほんと不便だよなあ」 「そうか?嘘がつけなくなるならいい機能だと思うけどな」 「『嘘がつけない』じゃなくて、バレることが面倒なんだってば。は〜あ、誰がこんなルール作ったんだろうな」 しかし、この奇妙な世界が始まってからも、神城が嘘をつかなくなることはなかった。むしろ嘘がバレる前提で話すことが増えたように感じる。気のせいかと横目で鼻を見る。…伸びていない。となると、本当に不便だと思っているのは正しいようだが。 「不便だと思ってるなら、なんでわざわざ嘘をつくんだ?」 せっかく嘘がわかるのだ。直接聞いたほうが早い。すると、神城はじっと考えた後、少し困った顔をして言った。 「今の世界って、人間は誰も自分から嘘をつかないだろ?」 当たり前だ。隠したいことを誤魔化したり、誰かを傷つけないために、嘘をつく。その嘘を真実だと思わせて、初めて嘘が成立するのだ。初めからタネが割れている妄言など、誰も好き好んで使わないのは自明だ。 「…」 「嘘ってさ。なんていうか……生きるのに必要なんだよ、俺にとっては」 「必要?」 「そうだよ。みんなもさ、ちょっとくらいの嘘なら使うだろ?嘘があれば、面倒なことから逃げられるし、嫌なことだってごまかせる。そうやって自分を守るんだ」 「…自分のために、嘘をつく」 言われてみればそうだ。他人の顔色ばかり気にしていたが、結局は自分のために嘘をついていた。何かを誤魔化すのも、バレたら自分が不利益になるから。誰かを傷つけないのも、関係を良好にしたいという自分のエゴに過ぎない。 神城は静かに続けた。 「嘘ってのはつき続けると真実になったりもする。マイナスとマイナスを掛け合わせるみたいに、真実に成り変わる嘘が、どうしようもなく綺麗に感じたんだ。だから、嘘は俺の人生そのものなんだよ」 「そっか」 昔から神城は適当で、その場しのぎが得意なやつだ。率直に言えば、深く考えるタイプではない。だからこそ、今の彼が語る言葉が少し不気味に思えて、私は曖昧な返事しかできなかった。 神城は薄く笑いながら続ける。 「それがどうだ、今やついた嘘が、鼻を見るだけで即バレだ。まるで奇跡だよな。こんな愉快なことって、他にあるか?」 神城が話すのを見て、私はつい彼の鼻に目をやる。けれども彼の鼻は伸びていない。つまり、本気で「嘘がばれること」を楽しんでいるのだろう。普通なら「嘘が即バレする」なんて彼にとっては嫌なだけのはずだが、むしろそれを歓迎しているようにも見える。 きっと、彼にとって嘘は単なる逃げ道や言い訳ではなく、何か特別な意味を持っているのだろう。この奇妙な世界の中でも、嘘をつき続けることに、彼なりの理由があるのかもしれない。 もう一度神城の話を思い返す。 嘘が生きるのに必要、真実に成り変わる嘘、その嘘がバレる世界が愉快。 もし彼が、いやあるいは。 「なあ神城」 「ん?」 嘘をつくと鼻が伸びる。このルールは変わらない。 「突然こんなこと言われても困ると思うけどさ」 「…?」 この世界のルールに抜け穴があるとしたら。それは。 「…どこまでが嘘だ?」 「何のことかな?」 神城が言葉を濁したのは、初めてのことだった。 彼の鼻は、ひくりとも動かなかった。

月と共に心が欠ける

「満ち欠け病ですね」   「なんですかそれ?」    真剣な表情で言う医者に、ぼくは質問を投げ返す。  医者はモニターに月の満ち欠けの映像を映し、指を刺す。   「月の満ち欠けによって、心も満ち欠けしてしまう病気です。具体的に言うと、満月に近いほど気分が上がり、新月に近いほど気分が下がる病気です」   「なんか、昔スピリチュアルで見たような」   「ありえますね。昔からある、学者からの否定が多い仮説だったのですが、最新の研究で真実だったとわかりまして」   「気分が上がると、どうなるんですか?」   「別に何も。好きなことをするときは気分が上がり、前向きに行動的に取り組むことができるでしょう? その気持ちが、常時起きると思ってください」   「……ちなみに今日って」   「半月です。お大事に」    ぼくは病院を後にする。  適度なショックを受けつつも、命に別状がないので適度に安心をする。  極めてフラットな心境だ。  これも半月のせいなのだろうか。    半信半疑ではあるが、いつのまにか気分の上がり下がりが大きくなった自覚はあった。  両親からすれば、成長と共に性格が変わったのか程度の認識だったらしく、叱られもしなかった。   「満月の日はいいとして、新月の日はどうしようかなあ」    思い返せば、失敗するのはいつも新月だ。  縁起を担いで大安の日に告白しようと思ったときは、当日が近づくにつれてだんだんと告白することが億劫になり、約束をブッチしてやろうかとさえ考えた。  あんなに好きだった相手が、他の人間と同じに見えた。  結局呼び出すまではよかったが、最後の最後で「これからも友達でいてくれると」なんで振ったような言葉を発して終わった。    その時、相手の視線が来たいから失望へ、そして怒りへと変わった光景は今でもトラウマだ。   「そうだ、フリーランスになろう」    手始めにぼくは、仕事を辞めた。  重要な会議と新月が重なった日は、会議が上手く行った試しがない。  会社員である以上、決められたスケジュールからは逃れられないので、やめた。  病院に行ってから二週間後。  満月の日のことだった。    その後はフリーランスとして仕事を探し、月の七割に仕事を詰め込む生活に切り替えた。  自分の体調と月の大きさを見比べた結果、新月に近づいても、月が三割残っていればどうにか仕事をこなせると気づいたからだ。    月と共に生きているような、不思議な感覚を味わっていた。  これはこれで、悪くない。  最近不便を感じているとすれば、満月の時にとってきた仕事は、かなり難易度が高いことくらいだろうか。  どうしてこんな仕事を引き受けてしまったんだと頭を抱えながら、半月のぼくが手を動かす。    どうにかこうにか、人生は回っていた。       「臨時ニュースをお伝えします。隕石が衝突し、月が破壊される確率が高いとのことです。なお、月が破壊された後は隕石と月の破片がひっついて新たな衛星となり、地球の重力に影響はない見込みとのことです」        世間の人たちは、お月見ができなくなるのではないか、月の美しい黄金色が二度と見れなくなるのではないかと、風情に涙を流していた。  しかし、ぼくにとっては気が気じゃない。  月が無くなってしまえば、ぼくの心はどうなってしまうのだろうか。    医者に聞いても、前例がないと言うばかり。    静かに時を待つしかできなかった。   「さあ、月の見納めの瞬間です」    アナウンサーの声と共に、月が砕けた。       「よお」    ぼくの心に、誰かが話しかけてきた。   「誰?」   「今できたばっかで、名前はねえ。ま、これからよろしくな、兄弟」    月と隕石が混じった、新たな月。  人々が新しい月を賛否をもって歓迎する中、ぼくは前例のない心を前に頭を抱えた。   「多重人格の人と、会ってみようかな。付き合い方とか、わかるかも」    自然が不自然になろうとも、不自然が自然になろうとも、人生は進んでいく。  世界は続いていく。

あと少し

 僕にとっての生きるということはこの言葉と共にあった。  あと少しで繁忙期を乗り越えられる。  あと少し我慢すれば好(よ)いことが起きる。    もちろん、いい結果だったことなんて数えられるくらいだ。  あと少し時間があれば、に始まって、あと少し粘っていれば、あと少し冷静な判断ができていたら。  後悔先に立たず、残念な結果に終わったことの方が両手で足りない数を経験してきた。  人生経験、なんて大層な言葉を並べられるほど生きてもいない。  でも僕はいつだって、諦めなかった。  挑戦し続けた、挑戦することがとても楽しかった。マ◯なのか、と自身を疑ったこともある。もちろん違ったさ。  僕はただ、最後の瞬間までヒトとして生きて居たかったのだと思う。 「おめでとう。君は、ゴールまで走り切ったよ」  菊の花束を僕へ向けて差し出した男はニヒルな笑みを浮かべた。  そうか。僕は完走したのか。最後の挑戦はなんだったかな。だめだ、記憶に靄がかかって思い出せそうにない。 「最期の挑戦は、山で遭難したお前が無事に生還できるかどうか」  男のセリフで思い出せた僕は、大した感動もなくそっか。とだけ呟いて自身の掌を見つめる。  掌の上に男は、ポスッと花束を乗せると僕の肩に腕を回した。 「あと少し、だったんだけどなぁ」 「ハハハッ、最期まであと少し、なんだね」  男に言われてからようやく僕は初めて、悔し涙を流した。 「本当に、あと少し、だったのに……!」  

【超短編小説】「再起動」

《再起動しています》  空一面にそんな文字が浮かんでいて、世界が静かに再起動している。僕はそれをベランダから眺めている。  背後でドアが開く。恋人が星空遊泳から帰ってきた。 「ただいま」  恋人のまつげに星屑がくっついている。 「おかえり」  僕は恋人を抱きしめようとする。 「シャワー浴びてくる」  恋人はそう言って僕の腕の中をするりと抜け浴室に向かう。  僕は乾いたバスタオルを用意し、ソファに座る。そしてシャワーの音を聞きながら、ラジオをつける。 「世界の再起動中につき放送を休止しております」  低い男の声が聞こえてくる。僕はその声に耳を傾ける。  シャワーの音が止み、恋人の鼻歌が聞こえてくる。  僕はラジオを消す。どこかで猫が鳴く。

月が綺麗でした。

 「月が」  と言って、文芸部の部長の言葉が止まる。それを合 図にふたりの足も止まった。  部活帰り。文化祭の準備でいつもより遅くなり、満 月の光がうっすら照らすここは部長が帰る方向との別 れ道だ。 「月が?」 「月が······」 「綺麗ですね?」  そう言うと、なぜだか部長は頬を染めて俯いた。鞄 を持った手とは反対側の手で、頻りに肩から垂らした 髪の先を捻っていた。 「客観的事実だよ? 他意はないの」 「じゃあ、いいじゃないですか、言ったら」  いじわる。と部長がこぼすのを聞きながら、僕は宵 の空を見上げた。少し霞がかる夜空に月は淡く光る。  暫く見ていると、吸い込まれるような感覚がして月 との距離感が曖昧になった。  今夜の月は、約千年前に藤原道長が見たその月とほ とんど同じなんだとか。 「月、綺麗ですね」  思わずそう言ってしまい僕は赤面。  隣で部長が「ほらー」と言ってくすくす笑った。余 りにも、完成された愛の言葉。完成され過ぎて今やネ タにまでされてしまう。それでも、月は綺麗なのだ。 「月が綺麗で何が悪いんでしょうね」 「悪くはないけど頼り過ぎたのかな」 「なるほど。仮にも文芸部ですからね。何かオリジナ ルの表現はないかなぁ」 「そうだね、じゃあ······」  部長は腕組みして、んー、と唸る。そしてぱっと顔 を上げると、頭の上に小さい月が光ったみたいに見え た。 「同じ月を見ています」 「そういうタイトルの漫画ありましたね」 「えー、じゃあ次はキミの番」  部長と同じように腕を組み考える。そうしていると 後ろから来た自転車が追い越し際、ベルをリンリンと 『綺麗』に鳴らした。  これはなかなか厄介なゲームだな、と思う。いつ生 まれたのか詳しくはないが、軽く百年以上は愛の言葉 界隈のチャンピオンなのだ。  僕はなんとか苦し紛れ、言葉にしてみた。 「月が······丸いですね?」 「そうですね。で?」 「えーと、貴方も丸いですね?」 「それ、どういう意味かな?」  いやはや。部長は満月のようにまんまると頬を膨ら ましている。 「じゃあ、月の満ち欠けを右往左往して見ています」 「うーん。長いし、美しくない」  部長はバッサリ辛口批評。  なんてやりとりが、とても気安く感じ束の間、文 化祭準備の気忙しさを忘れさせてくれた。  同じように思ったのか、部長の目がにぃっと三日月 のように形を変えて淡く光った。そんな目を見ている と、吸い込まれるような感覚がして、部長との距離感 が曖昧になった。 「三日月も······良いですよね」 「あ、ちょっと良いかも。解説をお願い」 「えーと。部長が笑う時、いつも下瞼が、にいって盛 り上がって三日月みたいになるんですよ。それがすご く良いな、と常々」  そう言うと、今度は満月みたいに部長の目が丸くな り、そんな急な満ち欠けに右往左往してしまう。 「それは? えっと?」 「ああ、客観的事実です。他意はありませんよ」 「つまり、すごく良いなと常々思っているという事の 他に意はないと?」 「あれ?」  こんな他愛もないゲームがいつまでも続いているの は、なんとなく離れ難いから。そうであれば良い。そ れがちゃんと、お互い、だったら尚更良い。僕はそう 思った。  それでも、夜空の月が同じ位置にあるように見えて 少しずつその場所を変えるように、別れる時間はやっ て来る。    別れ際、思い出したように部長が振り返り言った。 「月って一年で38ミリくらいずつ地球から離れて行 くんだって」  そう言われて、僕は改めて月を見上げるがピンと来 ない。そのまま見上げている僕に、部長の言葉が続い た。 「わたしはもっと速く離れちゃうからね。キミの重力 でちゃんと捕まえていてね」  そう言う残し、部長はあっという間に道の角に消え て行った。去り際にちょっとだけ振り向いた、部長の 目にはいつもの三日月。    全く。結局今夜も、月が綺麗だった。  了

透明な薬

 致死量手前の愛情。彼女がわたしの口を押さえつけて注ぎ込むそれはいつも一瞬だけ苦くてすぐに甘くなっていった。そのまやかしの甘味料がわたしの判断能力を奪っていき、このままで良いかという安堵と諦め、あるいは彼女への依存という感情をわたしから引き出していった。大学生の身であるわたしの言葉で例えるなら、単位を落とす寸前に感じるような切迫感。落としてはいけないという恐怖感。その懼おそれを無視したらどうなるのだろうという破滅的な好奇心。最悪を超えてしまった後の快楽を含んだ寂寥感――恍惚感。本来は感じるべきでない感情を彼女はわたしに劇薬としてピコグラム単位の量で与えていった。わたしが死なないように、生きないように、投薬を続けて、彼女はわたしを無垢な赤子にしていったのだった。  同棲して三ヶ月くらい経った。わたしは彼女の唾の匂いで意識が眠りの底から起き上がるのを感じるが、瞼に乗っかているそれのせいで目を開けることができない。もし勢い良く開けてしまえば、わたしの瞳の中に溶け込むように入ってくるだろう。今が何時かわからないが、早朝までの睦み合いの果てに意識を失った事を考えると、どうせ午前中の講義には間に合わない。このまま乾くまで寝てしまおうかと考えるが、自分でもわかるくらいに頬と眉を動かしてしまったので、彼女に起きてしまったことを観測され、その量を増やされてしまう。わたしはこのどうしようもない彼女の愚かさを受け入れる為に右眼だけ開けてみる。案の定、体温に近い粘性のものが瞳を侵していく。前日にコンタクトを外さずに寝た罰のような歪んだ像が現れる。腹部に感じる重さから彼女が馬乗りになっているのだろう。左眼も強制的にこじ開けてくる。鼻から彼女が噛んでいるだろうミントガムの香りを感じる。目を拭おうにも両手を押さえ込まれていているようで、わたしは為すがままになっている。  彼女は起きなよと楽しそうに言うが、わたしに出来るのは目にじっとりとしたものを感じ続けるだけ。わたしは待つ。何もせずに待っていると、焦点が段々と定まるのと引き換えに、目に痛みを覚えていく。  どいて欲しい。わたしはそう口を開くと、彼女の身体が離れてわたしは自由になるが、独りになると急に不安が襲ってきて、わたしは彼女の手を引いて自分の元に寄せる。わたしには見えない楔くさびが打ち込まれていて、彼女が少しでも遠くに行くと恐怖を覚えるようになってしまっている。彼女がわたしに与えたものに含まれた成分の一部なのだろう。自分でも異常だと理解はしていても身体と心がついてこない。わたしにはそういった類のものが沢山注入されていて、その解毒や寛解ようかいは最早期待できそうもない。そもそも、わたしの奥底にある停滞を欲する感情がそれを望んでいないようで、これで良いかという、現状を是とする感情に変性したものが薄い膜のようになって理性を包み込んで、わたし自身の更生を阻んでいるのだった。  彼女を抱きしめながら目をこすり、視界を正常化していく。目の痛みが三角波のような正確な強弱の繰り返しをつけてやって来る。  彼女はおはようと罪の意識など枕に入っている羽毛のような軽さすら感じていない声で言う。わたしは無言でそれを受け入れて、彼女の唇に寄せて自ら毒だとわかっていながら透明な薬を摂取しにいく。彼女が出す唾液を吸い込むように受け取っていく。それを僅かでも零こぼしてはいけないと植えつけられた情念に従ってキスで吸い上げていく。恥ずかしい音が部屋の壁に跳ね返っても、わたしは続けていく。彼女はわたしの生の欲望など感じる余裕もなく、ただ唾液を生産し続ける器械になっている。それでいい。それでいいからと、わたしは彼女の頭を抱きしめて離さない。彼女が苦しそうに呻うめき声を上げても許さない。彼女は耐え切れずにガムを舌で投げつけるようにわたしに送り込む。わたしはそれを押し返す。彼女にはわたしを"こうした"瑕疵かしを担保する責任がある。だからわたしには彼女を縛り付ける権利がある。わたしはわたしの信念に従って続けていく。  彼女がわたしにした愛情表現のせいで、わたしは乳飲み子のように与えられないと何も生きてはいけない存在へと還ってしまっている。それは彼女が犯した罪であり、わたしはただそれを受け入れただけで、その誤謬ごびゅうを正す責任などはない。明日という現実がどうなるかなんて心配は乳児には必要の無いもので、生きる為の栄養と愛情を彼女の唾液に求める今だけがわたしには大切な瞬間なのであって、それ以外の事は彼女が背負って生きていけば良い事なのだと、わたしは透明な薬を貪りながら思っているのだった。

首をかしげて

考えごとをしていると ねこが わたしの横に来て 一緒に考えごとをする わたしが うーん と 考えながら首をかしげると ねこも 首をかしげる わたしが考えていることなんて せいぜい 晩ごはん 何にするかなあ なんて その程度のことなんだけど わたしの横で ねこも ごはん まだかなあ とか思いながら 首をかしげているのかもしれない

無邪気な笑顔(BL)

 今日もあいつは俺の前でキラキラと眩しいくらいの笑顔で全力で目の前のことを楽しんでいる。  下校途中の長い一本道をどちらがどれだけ早くこげるかといきなり競争が始まった。  最初は二人並んでのんびりと自転車をこぎながら俺の腕を軽く掴んだりして他愛もない話をしてケラケラ笑っていたのに――。  前を走りながら距離を確認するためになんども振り返る姿は、まるで小学生の男子生徒みたいだ。 「まだまだ!」「まだ俺の方が速い」「おい、近づいてくんなって」「ちょっと、待ってって。追い付いてくんなって」  笑ながらも真剣に勝負していることはわかっているから、俺も手を抜くことはしない。  必死になって自転車をこぎながら、あと少しというところまで追い付いていた。 「あと少し……」 「よしっ」  もうすぐゴールというところで、本当に僅差で俺の負け――。  思っていたよりも悔しいと感じている自分がいる。  勝った本人は、満足そうにふふんっと鼻を鳴らしながらこちらに向かってガッツポーズをして見せてきた。 「全力で喜んでんじゃん」 「いつだって全力で楽しまなきゃ。でしょ?」  ニカッと笑顔で覗き込んでくるから、ふいっと顔を逸らして自転車を走らせる。「ちょっと待ってよ」と追いかけてくるのを背中で感じながら、くすりと笑ってしまう。  あいつは何故か体育やスポーツ大会なんかで俺と同じチームになるのを嫌がる。  理由を聞いても「それだとつまんないじゃん」としか言わない。  つまんないってなんだよ。どうせだったら同じチームになって勝っても負けても同じ気持ちになった方が楽しいんじゃないのか?って思うのに、返ってくる答えは同じだろうから言えずにいる。  ついさっきもバスケのチームを決めるときに、自ら違うチームへと立候補していた。  別に構わないけれど、理由がわからずに毎回こんなことされてたら、正直胸くそ悪いのも事実な訳で――。 「こっち。パス」 「おっ、ナイス高尾。はい」  同じチームからのパスをしっかりと受け取ると、ドリブルしてゴールへと近づく。その目の前に、尚が立ちはだかる。 「行かせねえよ」 「いやっ、無理だから」  機転を利かせて体をくるりと回転させパスを出すと、ゴール前へと走る。  味方からのパスが再び戻ってくると、俺はゴールを決めた。 「よっし!」  思わずガッツポーズしてみたものの、ふいに目の端に映ったのは、今にも泣きそうな表情でセンターラインへと戻っていく尚の姿だった。  その顔が目に焼きついて離れなくて、バスケが終わっていつも通りに過ごしていた尚の腕を掴んで教室を出た。 「哲平、どうしたの?」 「それはこっちの台詞だっての」 「へっ?」  わかってないんかいって突っ込みたくなるのを、グッとこらえる。 「あのさ、何でそんなに俺と同じチームになんの嫌なわけ?」 「だから……」 「「つまんないから!」」  ほぼ同時にシンクロした言葉に、尚が驚いたように目を大きくしながら、次の瞬間に「ははっ」と笑った。 「いつも俺のチームが負けてるって気づいてる?」 「んっ? そうだっけ?」 「ほらっ、気づいてない」 「そんなん気にしたことなかったし……」 「そういうとこ……むかつく」 「はっ?」  笑ったかと思えば、ムスッと頬と唇を膨らませている。  いやだって、わざわざ勝ち負けを気にしながら体育やスポーツ大会なんて受けないし。 「俺にとっては、結構重要なことなんだよ」 「なんでそんな気にすんの?」 「そりゃ、一回でも勝てたらって願掛けしてたっていうか……」 「願掛けって、なにを?」 「だーっ、もういい! とにかく、これからも勝つまでは同じチームにはならんからな」  ドンッと拳を握りながら地面を踏み込んだかと思えば、ピシッと俺に指差して断言してくる。  やっぱ、答えはぶれないってわけだ。 「わかったよ」 「いいか、覚悟しとけよ。次は絶対に勝つんだから!」  そう言って、尚は眩しいくらい無邪気な顔をして笑った。  どくんと静かに胸の奥が音を鳴らした気がするけれど、「望むところだ」と歩き出した尚に駆け寄って肩を組むとぐっと自分へと引き寄せて髪をくしゃくしゃっとした。 「さっ、今日はどっか寄り道してく?」 「駄菓子屋でうまい棒買い食いするっていうのはどう?」 「よし、のった!」  二人でハイタッチしながら教室へと戻っていく。  放課後の駄菓子屋でうまい棒のめんたい味を買い食いしながら、変わらない姿が夕焼け空の地面に影を浮かばせていて、その影は寄り添うように顔を見合わせて微笑んでいるように見えていた。

夜道の散歩

 夜道を散歩するのが好きだ。  何も考えなくていい。自分の思う道を選んでいい。疲れたらやめていい。  良い散歩というものは時間を気にしていては出来ない。有意義な散歩をするならまず曜日を選ぶ。というより、翌日になにも予定がない日、これが最適だ。翌日のことを気にせず自由に歩いていると、そのうちにこのまま、どこまでも歩いていけるような気がしてくる。空と道はどこまでも繋がっているということに気付ける。  そんな誰かさんに教えてもらった夜道の散歩は、いつの間にか私の習慣になっていた。今日、と決めた日、仕事を終えたら電車を途中で降りる。なるべく知らない道を選ぶ。遅くまでやっている雰囲気の良いパン屋さんや、安いスーパーが見つかったりする。そうやって新しいものが見つかると心が満たされて、帰宅後すぐに眠りにつく事が出来るのだ。  たまに道に迷うこともある。知らない道を選んでいるのだから当然といえば当然かもしれないが、そんな時も焦ってはいけない。落ち着いて、周囲を見回してみるとほら。遠くにはスーパーの灯り。すぐ近くに公園の入り口も見えた。中に入ってみると明るさは十分。ブランコに鉄棒もある。今日は当たりのようだ。  早速二つ並んだブランコのうちの一つに腰を下ろす。子どもの頃は遊ぶといえば公園だった。特にブランコが大好きで、一度乗ったらなかなか降りない。次の子が待ってるよと急かされるとようやく降りて、また後ろに並んだ。あの頃は当然かもしれないけれど夜に公園に行くなんて考えはなかった。今ここに順番待ちをしている人はいない。大人だけの空間だ。  ひとしきりブランコを漕ぐと高ぶっていた気持ちも落ち着いてくる。  するとその時、視界の奥で何かが横切ったような気がして、慌ててブランコを止めた。こんなに暗かったかと思うほど周囲は真っ暗だった。その中で更に黒い影が動いている。  血の気が引いていくような感覚がしたが、その場から動くことはできなかった。影がゆっくりとこちらへ近づいてくる。一番近くの街灯の下にやってくることで、その影は正体を現した。黒猫だ。 「なんだ、おまえか。びっくりさせないでよ」  にゃ、と小さく鳴いてこちらを見る。その眼差しはどこか懐かしくて目頭を熱くさせた。しかし、おいで、と手を伸ばしてみたのも虚しく、すぐにどこかへ走って行ってしまった。──もし今手を伸ばさなければ近くに来てくれていたかも、とふと思った。いや、猫は気まぐれな生き物……考え過ぎだ。こんななんてことない出来事にも過去を重ねてしまう自分に嫌気がさした。  ブランコを降りて公園を出る。そろそろ帰ろう。  いつどこで間違えたんだろう。あの時も、あの時も、最善だと思う選択をしてきたはずなのに、結局私は今も一人で過去の面影を忘れられずに夜道を歩いている。これも今の私にとって最善だと思っているけれど、自分にとっては最善であってもそれが正解なのかどうかはわからない。  気がつくと希望だったスーパーの灯りが消えていて、道がわからなくなった。マップを開いてスマホをあっちこっちに向けてみるがうまくいかず、仕方なくそのまま歩き出すことにした。 「夜に散歩なんて危ないんじゃない?」 「いやいや、今の季節なんかぴったりなんだよ。風が気持ちよくて、運動にもなるし。女の子一人じゃ危ないだろうけど僕がいるし」 「いやいや、女の子って。私のこと何歳だと思ってるの?」  馬鹿らしい。もう随分日が経つのに、声も台詞も寸分違わず脳内で再生できてしまう。もう忘れなきゃいけないのに──。  その時、また猫の声が聞こえた。  今度はすぐに姿を見せない。黒い影も見えない。にゃあ、にゃあ、と、さっきとは違う鳴き声だけが小さく連続して聞こえている。まるでこっちだよ、と言われているような──。 「クロ?」  私の呼びかけに答えるように鳴き声が聞こえ続けている。何も考えることができず、ひたすらその方角へ向かって歩いた。ひたすら。歩いた。 「……あれ?」  さっきまでいた公園もスーパーもどこにも見えない。いつの間にか知っている道まで戻ってきていた。鳴き声も聞こえなくなってしまった。  ──懐かしい声だった。無理に忘れる必要なんてないと、言ってくれているような気さえした。  家路を歩きながら、また過去の記憶を呼び起こす。  今宵の散歩もまた新しい私の記憶として刻まれる。  やはりこれからも夜道の散歩は続けていこうと思う。それが今の私にとっての最善だと思えるうちは。

24時間365日開店するラーメン屋

 深夜。  田舎道に一軒だけ、煌々と輝く店があった。  時々見かける人影は。例外なく光の中へと吸い込まれていく。   「へい、らっしゃい!」    そこは、二十四時間三百六十五日の営業を掲げているラーメン屋。  飲食店の少ない田舎にとって、深夜唯一の飯処と呼んでもいい。    勉強合間の受験生。  昼夜逆転生活を送るニート。  不眠症に苦しむおじさん。  やたら早起きしてしまうおじいさん。  十人十色の理由で、人々は小さな店の椅子に座る。    飛び交う言葉は、いつも同じ。   「ラーメン一つ!」   「俺もラーメン!」    このラーメン屋のメニューは、ラーメンのみ。  かつては餃子屋チャーハンも提供していたが、店主が高齢のために手を引いた。  豊富なメニューはフードロスを招いて損失を増やすため、家計簿をつけていた店主の家内が怒ったという噂話もちらほらと。    深夜のラーメン屋の噂話を聞きつけたマスメディアが、ある日インタビューに訪れた。  休憩時間はないため、インタビューできる時間は予定が立たない。  店内にじっと待機して、たまたま客が全員はけたタイミングで行われた。   「どうしてラーメン屋を始めようと思ったのですか?」   「ここいらには、娯楽っちゅう娯楽がないもんでね。うめえラーメンの一杯でもあればなあって」   「どうして二十四時間三百六十五日営業に拘っているのですか?」   「まあ、色んな人がおるでな。今の言葉で言うと、多様性っちゅーんか? 夜に目を覚ますだけで、朝に目を覚ますやつらと違うもの食べにゃあならんって、そりゃあ可哀そうでしょう」   「調理場には、いつもご自身が立っているのですか?」   「基本は立つようにしてますが、何分俺も寝ないとあきませんので。俺が寝てる時は、家内か、弟子たちに任せてます。俺のラーメンには及びませんが、なかなかうめえラーメンを作るんですよ。これが」    新たな客が訪れたので、インタビューは強制打ち切り。  店主は何事もなかったかのようにラーメン作りを再開し、マスメディアの人たちは隅っこで大人しく待っていた。  とぎれとぎれのインタビューは無事に完了し、翌月には雑誌に小さく紹介された。   『二十四時間三百六十五日開店するラーメン屋』    小さな情報は、目ざとく見つけたインフルエンサーによって拡散される。   「えー、今回の企画はですね、二十四時間ラーメン生活!」    ラーメンを食べ続けるというおもしろ企画は若者の目を引き、田舎に似合わない車がラーメン屋に押し寄せた。  店の前には列ができ、店主はいままで以上の多忙をみせた。    商売繁盛。  本来であれば、嬉しい悲鳴のはずだった。  だが、翌月に店主はラーメン屋を閉めた。    公園でグランドゴルフを楽しんでいる元店主に、元常連たちは問いかける。   「なんで閉店したんですか?」    店主は笑って答えた。   「ちょっと、お客さんが増えすぎたねー。ラーメン作んのは全然いいんだけども、食べてえやつが食べてえときに食べられる店じゃなくなっちまったからね。ほんなら、もういいかなってね」    今、元店主のラーメン屋は姿形もなく、弟子たちが暖簾分けと言う形で別の場所に店を構えている。  掲げるのは、二十四時間三百六十五日開店。    とはいえ、元店主のラーメンはなくなっていない。  自分のため、家内のため、そして元店主の家を訪れる元常連と言う名の友人たちに、元店主は腕を奮っている。   「今日もラーメン? お医者さんから言われたでしょ。血圧が高いから、ラーメンは少し控えてくださいって」   「いやー、ついな」    BGMには、元店主と家内の微笑ましいやりとりが流れるとかなんとか。

無い

金がない。 稼ぐ手段もない。 ただそれだけだ。

かまって

休日の午後。リビングにて。 コタツでそれぞれ自分の時間を過ごしていた時のこと。 「おかーさん、ねぇ、ねぇって」 すぐ横から妹の声が聞こえてきた。目を向けると、妹が母の服の袖を引っ張って呼びかけている。おそらく妹の暇つぶしのちょっかいだろう、私自身も何度かやられたことがある。YouTubeを見ている等にされると非常に鬱陶しいため、何度かやめろと怒っているが未だに妹は聞いてくれない。 「ねぇー、ねぇーって」 相も変わらず呼び続けている。しかし母は最近ハマっている「羊たちの沈黙」に夢中になっているのか全く返事をしない。あんな羊要素が全くない映画の何がそんなに面白いのか(作者はスプラッター要素のあるホラー映画が苦手)。てかリビングで観るなよおっかねぇ。 しかし、あまりに無視され続けたからなのか、妹の中でただの暇つぶしがだんだんと本気になってしまっていたようだ。 「ねぇってば!!!」 妹が大きな声で呼んでも未だに母はレクター博士に夢中になっている。袖まで引っ張られてるのに逆に怖いわ。仕方ない、私も加戦してやろうかと思っていた矢先、 「こっち向けこのゴリラァァァァァァ!!」 妹が叫んだ。ゴリラァァァと叫んだ。かなりデカめの声量で思わずビクッとなる。ゴリラ、ゴリラか…久しぶりに聞いたなゴリラって悪口。 そう思っていると、母がスマホの映像を止めて妹の方を向いた。その顔はまさしく「キレたゴリラ」だった。うわすげぇ、めっちゃ面白い。 「母親に向かってゴリラとはなんだこのアホ!!」 「お母さんが返事しないのが悪いんじゃん!!」 アンタら2人していくつだよ。 2人が不毛な争いを始めたので、私はその横で毛布にくるまり昼寝を始めた。

「三丁目のあのヤブ医者、患者に手出してるって噂よ」「うそ。奥さんいるじゃない」「まったく、男って生き物はどうしてこうも浮気するんだろうね」「ほんとよ。ちょっと良い女がいれば尻尾振って付いてっちゃう。まるで犬ね」「やだ、犬だなんて」笑い合う二人の肩で、ランドセルがコトコト揺れた。

無知の鞭 〜ソクラテスは何を思う〜

いつからだろう、 この世界に希望が持てなくなったのは。 いつしかこの世界は怪物たちに支配されるようになっていたようだ。 奴らは僕らの仲間だと思っていたのに。 今は見えないところから僕らを苦しめる。 僕にとっての唯一の希望はシェルターでの仲間との会話だ。 ここには僕と話の合う人たちが集まってくる。 彼らがどこに住んでいるか、何を仕事にしているか、そんなことは知らない。 でも、ここには、ここにしかない温もりがある。 だから毎日欠かさずここに来る。 今日はなんだか様子が違う。 なるほど、この近くにのさばる怪物を倒そうと立ち上がった者がいるらしい。 珍しいやつもいるもんだ。 そして案の定、怪物たちにいじめられていると。 可哀想に。 彼に助け船を出してみる人もいるようだ。 減るものじゃないし、 皆がやるなら僕もいっちょやってみるか ------------- それから数日、何も変わらぬ日々が続いていたが、今日はなんだか騒がしい。 ふむふむ・・なに、 かの勇者が、 勝った・・・のか? 怪物との戦いに勝ったんだ・・。   僕らにもできるんだ。 あの醜い敵をやっつける力が僕らにはあるんだ。 奴らが具体的にどう僕らを苦しめているのかは別に 知らない けど、 見えないところで奴らが僕らを苦しめているんだ。 奴らを倒せば良いことがあるはずさ 次なる敵はもっと強大だ。 でも僕らならできるはずだ。 だって正義は必ず勝つだろう? もっと仲間を集めて応援するんだ。 さあ皆んなで戦おう -------------- 負けた・・・だと? やってきたことが間違いなはずはない。 クソっ、やっぱり奴らは一筋縄じゃいかないのか。 戦っている僕ら以外の罪のない人間が奴らにくるめられているようだ。 可哀想に。 奴らの性根を叩き直すには、僕らも声を上げるだけじゃなく目に見える行動を起こさないと 悪は報いを受けて成敗されるんだ 変わらないなら、めげずに戦い続ける。 僕らなら何でも変えられる。 そうだよね? うん、みんな頷いてる。 こうして見てみると、最近は見かける人がずいぶん変わったなぁ。 まぁ、もちろん皆がどこに住んでるか、普段何をしてるかなんて 知らない から、正直あんまり気にならないけど。 さあ、今こそ拳をあげる時。 皆と一緒に世界を変えるんだ 歴史を作るんだ そばにあった鞭を手に外へ飛び出す。 カウボーイじゃないんだから、いまどき鞭なんて時代遅れだって? そんなのどうだっていいだろう? 今が二十一世紀だなんて、そんなことは分かってるよ。 ただそばにあったから取っただけさ 正しい使い方なんて別に 知らない けど。 周りの目なんて気にならないさ  さあ、行こう。約束の地へ。 あの白い家を僕らの色に染めるんだ。

夜凪の音

 わたしたちが住む集合住宅から見える海に救われるようになって半年になった。わたしにとってはとても長く辛い永遠のような半年という単位の中で、わたしの娘はすくすくと育っていて、その時間の不均衡が生活リズムの乱れをよく表していているような期間であった。  娘の夜泣きにホトホト参っているとき、わたしは娘をなんとか落ち着かせようと、授乳でボロボロになったTシャツと短パン姿で部屋を出て、海までの徒歩数分の道を娘が泣き止んでくれないかと祈るように歩いていた。毎夜火のついたように泣き叫ぶ娘の面倒を一人で見ていたわたしの寝不足はピークであり、救いを求める気持ちでふらふらしながら海へと向かっていた。娘はその小さな身体からは似つかわしくない大きな声を出し、わたしの懐の中でこの世のすべてに逆らうかのように顔を紅潮させて泣いていた。  夜の海はとても静かで規則的な波の音をもってわたしたちを迎えてくれた。夜凪とささやかな風はわたしたちを優しく包み、このちっぽけな存在の叫びと彷徨いを何のためらいもなく受け止めてくれた。朦朧とした意識の中で月が浮かぶ水面を眺めながら娘の背中をトントンしてやると、指が娘に触れる度にささくれだった心が少しずつリラックスしていくような気持ちになれた。狭い寝室では感じられなかった心の安寧がじんわりと生まれ、ひそやかな夜の波音に同期するかように、わたしと娘は互いのそして二人のリズムを整えられていった。娘の刺々しい鳴き声は穏やかになりやがて無垢な眠りへと誘われていく。わたしは波の音なのか自分の耳鳴りなのかも判別できないくらいに疲労を重ねた身体を引きずりながら、自分の部屋へと戻ることにした。  月明りとわずかな電灯だけが頼りの闇夜にわたしはまた吸い込まれるような不思議な気持ちを抱えて部屋へと歩いていく。今度こそわずかでも寝られるのではないか。そんな自分のことしか考えられないような愚かな母親であることを自身で咎める力もなく、集合住宅の打ちっぱなしで無機質なコンクリートの階段をのぼっていった。娘はすうすうと眠りについている中、わたしは布団に置いた瞬間にまた泣き叫ばないでほしいということだけで頭がいっぱいになりながら、鍵を閉める余裕もなく開けっ放しだったドアをくぐり、そっと寝室に入った。そして娘専用の小さな布団に祈るようにそっと娘を寝かしてみると、ありがたいことに娘は起きることも泣くこともなく、そのまま寝り続けてくれた。  娘の表情を見ているとフッと意識が飛びそうになった。その瞬間に考えていたことは、この集合住宅のそばに海があって良かったということだけであった。だからだろうか。聴こえるはずもない夜凪の音がわたしの頭の中に入ってきた。わたしはすべてを許されたかのごとく気が緩み、また意識を深海へと沈降させていった。

【超短編小説】「果実を求めて」

 ある年、小学生の男の子が夏休みの自由研究で、悪人を食べる植物を造った。その植物のお陰で、男の子の住む市からは悪人がいなくなった。  その植物の花はとても綺麗で、それにとても良い匂いがした。しかも悪人を食べてくれるのだ。  男の子の植物は隣の市へ、その隣の市へと種が分けられ、やがて国中で栽培されることになった。  栽培が進むうち、その植物は悪人の中でも、特に極悪人を食べると、とてもジューシィで美味しい実をつけることがわかった。  その国の死刑は全てその植物によって行われることになった。死刑執行日には果実を求める人々が処刑場に列をなした。  男の子はその後、校内の自由研究コンテストで銀賞を獲った。

引き金に指をかけて

銃 簡単に人の命を奪うもの 人を守るものでもあり、殺すものでもある 平和を維持するのにこんなもの必要なのか 今私は敵軍の人質の頭に銃口を突きつけながら考える 自国の軍は終戦に近づくにつれて敗戦が多くなっていった 仲間が大勢死に、敵軍の人間も大勢死んだ 自国の軍は勝つためには何も惜しまなかった それがたとえ人道に反すものだとしても 今私は引き金に指をかける 人質を取るなんて行動、不本意ではあったがやるしかなかった 時間になった 敵軍は投降することなく攻撃を続けた 一息吸って私は銃を下ろした 仲間のほとんどがそうした 私も、みんなも限界だった そうして敵軍の彼らは私たちの頭に銃口を突きつけた

会心の一撃

私は⚪︎⚪︎区に住む高校2年生 そんな私には好きな人がいる 今まで色恋に微塵も興味がなかったのになぜだかひかれる そんな人 別にイケメンとかではなく 特段優しいとかじゃなくて 何か掴めなくて面白い そんな彼が席替えによって私の隣になった なんという幸運 アニメや漫画の世界にしかありえないと思っていたのに 心も顔もにやけてしまう と、とりあえずお隣さんとして挨拶をしよ そう思って声をかけようと彼の方を向くと、 彼もちょうどこちらを見たところだった 突然の目合わせで緊張している私に彼はふわっとした笑顔で 「よろしくね、橘さん」 だってさ 心臓が持たない気しかしないね、、、

木曜日

一応私の信頼を得る為に、連絡先をスハラさんにお伝えしていたのですが まさかお電話を頂けるとは思っていませんでした。 『どうされたんですか?』 なんでもここ最近、目眩がして怖くなり仕事をお休みしたとのこと。 買い物にも行けず、困っているとお聞きしたので お手伝い出来る事があるかも知れないので住所を教えて下さいとお願いしましたら、 簡単に教えて下さいました。 私は足がそれ程良くはなく、そうは言ったものの駅からとんでも無く歩くパターンなら、 困ったなと思っていると、それ程でも無かったのです。 築何年だろう…な昔風の文化住宅。 長屋のような佇まい。 スハラさんの御自宅に到着しました。 昔、呼び鈴ブザーと言っていたインターホンを押すと、弱々しいスハラさんが ドアを開けて下さいました。 「がっぽ、ごめんな」 『何言ってるんですか、大丈夫ですよ』 一気に老けてしまったように見えるスハラさん。 とても可哀想に思えました。 『具合はどうですか』 「なんだろね、ホント情け無いよ」 『こんな時は甘えて貰わないと困りますよ』 「ありがとな」 行き道でスハラさんからお願いされていたものを購入し、一式をお渡ししました。 お断りしましたが、私が淹れるコーヒーでも飲んで行けと言われ、お言葉に甘えて お邪魔することにしたのです。 内心、スハラさんのお住まいを見てみたいという欲が勝った感じ。 推しが推しの住んでいるところに興味が無い訳がないのです。 お家の中に入りますと、それはザ・スハラ邸。 整然としている見本、そのものです。 置物ひとつにもスハラさんの愛着が染み付いた感じが、私には置物が羨ましく思えました。 「がっぽ、これはな…、」 おっこれは講談師スハラの登場のようです。 「モカとブルマン、そしてキリマンジャロを私ブレンドされたコーヒーなんだ。絶対に他じゃ味わえないよ〜。そこに少しだけ拘りの蜂蜜、これがな味噌なんだ。コーヒーなのに味噌、おっと兄ちゃん笑うならココなんだぜ」 スハラさんは意外と元気だと安心します。 スハラさん拘りのブレンドを頂きます。 少し甘い中にキリマンの香りが際立って香ります。 「がっぽが香りを味わって飲まないと頭引っ叩いたところだよ」 私は知らずに危ない橋を渡っていたようです。 『美味しい。ホントに美味しいです』 「だろ。わたしの自慢なんだ」 私はスハラさんの体調に気を配りながら、いつものように話しておりました。私にとっては至高の時間をスハラさんのお宅でお話させて頂いている訳ですから、パワースポットでマッサージを受けているかのよう、効き目しかありません。 「わたしがね、清掃を教わった人がいるんだ。そりゃもう何も言わないんだよ。怒りもしないし、褒めもしない。わたしがミスしていても黙って自分がやっておく、そんな感じかな。この人には清掃に対する姿勢を学ばせて貰ったんだ。考え方も仕事っぷりも素晴らしかった。仕事ってその人の姿勢が出るからね。キチンとしているならそういう結果だろうし、雑ならそんな結果が出てしまう。どちらにしてもそれを隠せないんだよな」 スハラさんは見事なまでに継承されていました。 「その何も話さないその方がお歳で退職される時にこう言われたんだ。清掃という仕事は、人から好んで選ばれる仕事じゃない。でも清掃する人が居ないと世の中大変だ。しかし人は蔑んで見る、何故だろうね。下周りの仕事を蔑んで見ると人は罰を受けると教わったよ。清掃というのは立派な仕事なんだ、自信持ってやって下さいよ」 師匠の師匠、その高貴なお言葉を聞けるとは思いませんでした。 スハラさんが何故私なんかの為にそのお話をされたのか聞いてみたんです。 「社員はみんなお金のためにやっているからな。無論わたしも無ければ困る、それは当たり前だけど、お金のための掃除になってるんだよ。なんだろな…がっぽなら分かるだろうと思ってさ」 同じ職場でもない、部外者の私なんかに とてつもなく有り難いお話とスハラさんの 寛大さに感謝したのです。 『もうそろそろ、帰りますね』 私がそういうと、スハラさんは寂しそうな顔をされました。 「また木曜日に来るんだろ。あの、、来いよな」 その言われた姿が何ともイジらしくて、可愛い子供のよう。 何とも言えない様子をされていました。 『来るなと言われても行きますよ』 そう言うと私の知っている笑顔に戻られます。 「ホントに助かった。ありがとな」 『お礼を言わないといけないのはこちらです。いつも有難うございます』 今日は木曜日。 来週の木曜日はスハラさんの居る方に、私は向かうことでしょう。           おわり

ひとしずく(前)

*** 散り急ぐ桜の並木道が僕の視界の端でコマ送りになって流れる。花びらが風に舞うように、やがて終わりゆく季節を追い越すかのように。キラリと光る汗を流して自分に言い聞かせる。 走れ。走れ。部活で鍛えた自慢の脚力も、ボロボロになるくらいに。信号の赤を無視して横断した僕に警官の怒声が飛ぶ。今は時間が惜しい。平謝りした僕は静止の声も聴かずに、目的の場所へと脚を走らす。 今日、彼女が目覚めたという連絡が来た。 ああ、ここで言う彼女はいわゆるガールフレンドではなく、女性を示す三人称の意であることは最初に断っておく。 そう、彼女。右京時雨さんは、僕の初恋の相手であり、余命があと少ししか無い少女だ。 目的地の病院に駆け込み、足早に受付を済ませる。 「右京さんの病室ですね、番号は…」 「あ、大丈夫です、知ってるので。ありがとうございます!」 右京さんの病室に入るのは今回が初めてではない。もはや何回来たかわからなくなるほどだ。それこそ受付の人が変わるくらいには通っている。 右京さんは綺麗な女性だが、何より笑顔が愛おしかった。ふわりとはにかむような笑みが僕の心を鷲掴みにした。人望も所作も、その全てが完璧で、文化祭の演劇では満場一致で姫役に選ばれるほどだ。その笑顔を守るためなら、僕はなんだってできる。そのくらいに彼女に首っ丈だった。 病室へ向かうエレベーターが待ちきれずに、僕は非常階段を登る。乳酸が溜まった脚が、体全体に重いダメージを与える。軟弱な自分の体に、黙りながらも悪態をついた。 右京さんが入院することになったのは、その文化祭で起こった事故によるものである。 文化祭の最終日、演劇の演目中に機材が落下し下敷きになった彼女は後遺症を患い、それが隠していた持病と重なり体を蝕んでいる。機材のチェックが甘かったり、演劇の為に締め切っていた空間で連絡が遅れたり。様々な偶然が重なって起こったものだ、誰も悪くないさ、と。そう言った友人の声も、先生の慰めも、僕には何にも聞こえなかった。 彼女の真隣にいた僕は、何もできないまま光景を眺めることしかできなかったのだから。 一分一秒が全て惜しい。彼女に残された時間は、もう数えられるほどになっているのだ。 やっとのことで階段を上り切った僕は、もう走り慣れた病院の道を駆けて、一つの病室の前に立つ。何度も来たことがあるはずなのに、言葉にできない緊張が走る。
 そして固唾を飲み込み、扉に手をかけて、開ける。 「あ、来たんだ。おはよう恭平くん」 「ああ、おはよう。今日も右京さんを笑わせにきたよ。」 相変わらず無表情の右京さんがひらひらと手を振るのを見て、ズキリと胸がいたむ。 --ゆっくりと身体から五感を失い、やがて死に至る「遅性総合失調症」 人知れずにすり減っていく体に、彼女が何を思うのかはもう誰にもわからない。なぜならば。 「うーん、もう笑えないんじゃないかなあ」 命の灯火が消えようとしている彼女から、運命はまず、感情を奪ったからだ。 *** 続かん

子供チェーン

「この国は狂っているのか?」    外国から来た男は、教育の様子を見て驚いた。    完璧な義務教育制度により、国民の識字率はほぼ百パーセント。  計算をする力や、科学や歴史の知識も高水準。  一言で言うと、優秀な頭脳を持っていた。    代償として、全員同じことしかできなかった。    男の国には、文字をほとんど読めないが計算が速い子供がいた。  歴史のことなんて全く知らないが昆虫図鑑一冊を暗記している子供がいた。    男の国の教育は、よく言えば個性を伸ばす、悪く言えば知識が凸凹だった。    男はゆるりと、外国の地を歩く。  同じ服装。  同じ行動。  兵を持っていないはずの国は、国民全員が兵の様に規律を持って動いていた。   「電車が分刻み。なるほど、これは真似できない」    まるで精密機械のような国を見て、一つでも教育大国の知識を得ようとした男の願望は打ち砕かれた。  自国では、決して不可能だと悟った体。  仮に、男の国で同様の教育方針を取り入れれば、三日も経たず国民が発狂するだろうと容易に想像ができた。   「やはり、時刻が一番だな。外国など、観光でしか来るもんじゃない」    ふらりとよったハンバーガーショップで売られていたハンバーガーは、男の母国で生まれたチェーン店。  異国の支店である小さな店は、母国の支店のどのハンバーガーよりも、一号店の味に近かった。

すっぱいリンゴの深い紅色 あるいは二人が口にした愛色と呼ばれるもの

すっぱいリンゴが好きです 甘いのも好きです スカスカのは 気持ちが スカスカになります あれは いけません リンゴは あの姿かたち あの大きさだから いいんだと思います あれより大きくては いけません あれより小さくても いけません

流木

 将斗は図工の授業で流木細工を作る事にした。以前、テレビで目にした時、自分でも作りたいと思ったのだ。  幸いな事に、祖父母の家から渓流までは子供の足でも行ける距離だった。  将斗は、学校から帰ってきて、意気揚々と渓流に出かけた。  渓流は、この間の大雨の影響で、流木が沢山流れ着いており、宝の山となっていた。  ――これは、蛇みたいな形だ。  ――こっちのは鳥の羽根みたい。  ――これは、まさしく龍だ!  将斗は目をキラキラさせながら、背負ってきたリュックサックに流木を詰める。  そんな将斗の耳に、子供たちの声が届いた。大きな岩の向こうからだ。 「こっちにも沢山あるよ!」「みてみてすごい形だよ!」  将斗は、自分と同じような子供たちがいる事に嬉しくなった。そして、さらなる素晴らしい流木を求めて声の方へ踏み出した。  瞬間。 「まさくん」  その声は耳元で聞こえた気がした。  将斗は、咄嗟に振り向いた。  すると、数メートル先に見知らぬ女性がいた。こちらを見ている様だった。  ――誰だろう。  その時だった。バリバリ!! と凄まじい音が将斗のすぐ後ろで轟いた。  跳び驚き振り返ると、折れた大木が横たわっていた。  将斗は突然の事態に怖くなり、すぐにその場から離れてそのまま帰る事にした。  渓流を離れる時、辺りを見渡したが、あの女性の姿はもうどこにも無かった。  将斗は大人になり、ふとその時の事を思い出す。あのまま子供達の方へ向かっていたら、俺は倒木に潰されていただろう。今思えばこちらを誘っていた様にも聞こえる子供達の声は一体何だったのか、それを考えると背筋が凍った。  しかし、子供たちの声に反し、あの時現れた女性には恐怖を感じなかった。  それが何故なのか、その答えは今、将斗の手の中にあった。  将斗は、持っていた写真に再び視線を向ける。  それは、初めて見る産みの母親の写真だった。  そこに映る女性は、紛れもなく、あの時渓流に現れた女性だった。  ――あの時、この人が俺を助けてくれたんだ。  写真の中の女性を見つめ、目頭が熱くなるを感じた。 「ありがとう。おかあさん……」  将斗は呟き、空を仰ぐのだった。

私、言ったよね

「大人になったら結婚しようね。」 私は中学2年生の夏奈(なな)だよ。 幼なじみの海斗(かいと)君がそういった。 『うん、いいよ』私はそう返した。 そして10年後私はみてしまった。 『なんで浮気したの』それは海斗の高級なホテルに他の女といっていた写真を見たのだ。 「それは違う写真だよ」 海斗は言ったが私は信じられなくなり離婚した。