初夢

 物心ついた時から、私は変な夢を見る子どもだった。それは桃色の遊園地だったり、延々と続く海だったり、しゃべる鳥の群衆だったり、ポツンと置かれたコタツの中だったりした。  覚えている夢の記憶でいちばん古いのは、小学一年生の頃。まだ入学してまもない私は、気づくと公園のベンチに座っていた。隣には、若い女がいた。とても人の良さそうな女で、耳に響く柔らかい声で私の名前を呼び、「一緒に遊ぼう」と誘ってきた。  当時の私は、なんとなくうなずいて、女と飽きるまで公園で遊び尽くしたものだった。夢の中では、何十回も日が暮れては昇るを繰り返していた。けれど、私も、あの女も、そのことをみじんも気に留めてはいなかった。今に思えば、不思議である。  女と遊んでいたら、いつのまにか、病院のベッドの上にいた。看護師があわてて医者を呼びに病室を出て、その後から涙目の父親が抱きしめてくれたことを、よく覚えている。どうやら私は一ヶ月以上も眠っていたらしい。そう聞いた時、私はこれまたなんとなく、「夢の中で過ごした時間の分のだけ、現実世界の時間も経過するのだ」と気づいていた。  この出来事が起きた後も、私は定期的に変な夢を見ていた。そのたびに、私は現実の世界で眠り姫となった。ありがたいことに父親も友達も、私の奇妙な習慣に理解を示してくれてはいた。変な夢を見るからといって、私自身のことを拒絶されなかったのは、本当に不幸中のさいわいだった。私は皆の支えもあって、無事に小学生、さらに中学生を卒業することができた。  ただ、いつまでも変な夢を見ているわけにはいかなかったらしい。私の奇妙な習慣は、高校入学と共に終わりを迎えた。なんの前触れもなく。あまりにも唐突だったから、その事実を理解するまでに半年を要した。  ある日、友人の一人から唐突に言われた。 「将来の夢ってある?」  ――思いっきり、金づちで頭をなぐられた。そんな感覚。とっさのことに、私は何も答えられなかった。  夢なんて、ない。そんなもの思いつかない。てか、そもそも将来の夢って、なんだっけか。  昔は夢の中に閉じこめられて、いつ現実に戻ってこれるかも分からない日々を過ごしていた。それが私にとっての当たり前だった。今の眠りに閉じこめられて、未来など見る余裕はない。  そんなだから、進路のことを考えるのは苦手なのか。なんて、自分に対し、ちょっと自覚的になったりした。  夢が見たい。あの奇妙な日々を、また送りたい。  いつしか私は、そう願うようになっていた。  めぐりめぐって、20回目の新年を迎えた夜。私は夢を見た。  天高くそびえたつ富士山と、空を翔ぶ二羽のタカのみに焦点を当てるなら、ただ縁起の良い初夢にすぎない。けれど、私の本能は、またしても明晰な事実をたたき出していた。  ひさしぶり、元気にしてた? 私は遠く離れた故郷へと戻ってきた気持ちになって、目前の富士山に「やっほー」と叫んでみたり。  ぽんぽん。後ろから肩をたたかれて。ふり返れば、麦わら帽子をかぶったオバサンと目があった。彼女の手には、三本のなすび。  ああ、本当に素敵な年を迎えられそうだ。なんて、のんきに思ったりして……。ふと、どこか童心をくすぐられるような感じがして、思わず口を開いていた。 「私のこと、覚えてますか」  どうして、そんなこと、口にできたのだろう。べつに私は、なすびオバサンに対して見覚えの一つも抱きはしなかったのに。  でも、オバサンは屈託なく、にこっと笑って、「そうですね」と言うものだから。私は少々、オーバーに驚いてしまった。 「もう遊びつくしたでしょ。いいから、これ持って帰んなさい」  そう言って、なすびを押しつけるオバサン。私の胸にぎゅっと押しあてる、その重みがやけにリアルで。私は思わず、オバサンの腕ごと握りしめていた。しっかり、しっかりと。  次に目を覚ましたのは、夜明け前。  私は私の家で、私のベッドの上で、はっと両の目を開いた。そっとスマホをつけると、ホーム画面に「1月1日」の文字が浮かびあがる。  ほっと安心して、つかの間。脳裏にオバサンの笑顔がよぎった。  あれは、きっと母だ。若くして亡くなった。生来からの持病だったらしい。もしも生きていたら、ちょうど今年で50歳になるだろうか。  自分の胸元を抱いていた私の腕から、ほのかに香るなすび。窓から見えるは、ぼんやりと輪郭を描いていく朝日。  夢、見つけたいな。  私はなんとなく、けれどもしっかりと、そう思った。

噂のクラス

「二人の学校、有名だね」  ラジオの止まった喫茶店。カウンターに並ぶ二人の青年に、赤い髪の店主がカップを拭きながら訊いた。黒いカーディガンを羽織った青年は小さく首を傾け、白いセーターを着た男は「ああ」と呟いて店主を見た。 「俺にも取材させてくれって電話があったよ。断ったけど」  白いセーターの青年はため息交じりに言った。 「なになに、僕は知らないんだけど。ホズミに電話がきたってことは俺も知ってること?」  カーディガンの青年はホズミに体を向けた。 「ナキには電話こなかったんだ」と店主が言うと「高校に友達いなかったから。僕の連絡先知っている人なんていないよ」と拗ねたようにカウンターに腕をついた。 「それで、何が有名なの」 「ただの噂だけどさ、俺らのクラスが呪われていたって話だよ。誰かがネットに書き込んで、それが拡散されたみたい。内容は詳しく知らないけど、「イマキ」っていうクラスメイトに、俺らのクラスの人間が呪われているらしい」  ナキはわざとらしく眉をひそめて「イマキ」と呟き、「そんなクラスメイトいたっけ」とホズミをみた。ホズミは「俺も記憶にないんだよ」と首を振る。 「伊東君は何でその話を知ったの?」  ナキが店主に丸い目を向ける。店主も首を振り「俺もお客さんから聞いただけで詳しくは知らない」と苦笑した。 「誰だよイマキって。そもそも呪われているようなことあったかな。高校時代の記憶がないんだよね」  ナキは後ろに伸びながら、投げやりに言う。 「俺もすべてが曖昧だよ。不可解なことがあったかもしれないけれど、思い出せない」 「卒業アルバムを見れば思い出すんじゃない?」  店主の言葉に二人は目を合わせ、首を振った。 「俺はすぐに捨てたよ。大きくて場所とるし」 「僕は卒業式に出てないからね。家に届いたのかもしれないけど見ていない」  店主が「二人らしいね」と笑った。 「でもなんで呪われてるんだろう。うちのクラス、誰か死んだの」  ナキが頬杖をつき横目でホズミを見る。 「さあ。でも、在学中に誰かが死んだ気がするんだよ。誰なのかは全く思い出せないけれど。もしかしたら、転校しただけかもしれない。なんでだろう、なんでこんなに覚えてないんだろう」 「クラスメイトが一人いなくなったら、普通記憶に残るもんじゃない?」  ナキの問いに「でもナキは何も覚えてないんでしょ」と店主が呆れたように言う。ホズミは二人の会話が耳に入っていないようで、考え込んだ表情のまま珈琲の入ったグラスを睨んでいる。 「そういえば、前にもこんなことなかった?ホズミの修学旅行の記憶に僕がいたこと。僕は修学旅行にいってないのに」  ナキは考えることに飽き、ふざけた様子で口を尖らせた。 「そうなんだよ。高校の記憶はほとんど曖昧なんだ」  ホズミは沈んだ声で言う。その時、店主が「もしかして」と呟いた。二人の視線が同時に店主に向く。 「俺の想像だけどさ、イマキってナキのことじゃない?」  店主は申し訳なさそうにナキを見た。 「ナキの漢字って「今」と「帰る」でしょ。今帰って、初めて見るとみんな「イマキ」って読むんじゃないかな。しかもナキは修学旅行も卒業式も参加していないんでしょ。だから記憶に残りにくかったのかも」  ナキは目を丸くしたまま「だからって死んだことにしないでよ。しかも呪いだなんて」と大げさに声に抑揚をつけ「確かにクラス写真を撮る日も休んだけどさ」と笑いながら付け足した。 「確かに、イマキはナキかもしれない」  ナキと対照的にホズミの声は沈んだままだった。 「でも、確かに誰かがいたんだ。何かがあった。どうして思い出せないんだろう」  ナキは宙を見上げながらどうでもよさそうに言った。 「その誰かさんが、自分のことを思い出してほしくて僕の名前を使ったんじゃない?」

PV0小説の使い方

 小説投稿を始めて一ヶ月。  いまだにPVはゼロである。  もはや笑っちゃう。  どれくらい笑っちゃうかというと、草津温泉に行こうとして滋賀県草津市に着いちゃった人を見た時くらい笑っちゃう。    だが、物は考えようだ。  PVがゼロということは、誰も見ないプライベート空間が誕生したと言っていい。  つまり、登場人物の会話で、こんなこともできちゃう。   『ハルカのどこが好きなの?』 『うーんと、可愛くて優しくて話をよく聞いてくれて歴史好きな趣味も合うところかな』 『えーいいじゃん』 『そんな会話が聞こえてきた』    どうだ。  道ですれ違ったモブキャラに、唐突にリアルの好きな人ハルカさんを褒め殺しさせる。  名付けて、パブリックプライベート告白。    世界広しといえど、こんな安全なスリリングを楽しんでいるのは自分だけだろう。    テンションが上がってきた。  なんだか楽しくなってきた。    先輩への愚痴。  家族への感謝。  政治家への不満。  スーパーの可愛い店員さんへのラブコール。  何でもかんでも書き放題。  人に聞いてもらいたいけどプライドが邪魔して話せなかった言葉が、するする書き起こせていく。    すごい、これはすごいぞ。  ぼくは一晩中書き続け、気づいた時には寝落ちしていた。        翌日。  目を覚ますと、ぼくは人生初のバズを経験していた。  なんと一日で十万PV超えの大バズり。  感想の数も、ひい、ふう、みい、……数えたくもない。    スマホを見れば、通知がたくさん。  そのうちの一つに『ハルカさん』。    終わった。    ぼくはパソコンの電源を落とし、スマホの電源を落とし、全人類の癒し空間であるお布団へと逃げ込んだ。  そう、これは夢だ。  悪い夢なんだ。  悪ふざけなんてなかったんや。

いちごちゃん

 赤い飴が手のひらに乗せられた。表面がざらついている平たい飴だった。 「あげる」  薄い二重が笑うとどうにも可愛らしい印象に写った。顔の造形が端正で滑らかだからか、体格の割に警戒心を抱かせない雰囲気がある。  居酒屋の外で、植木の花壇に寄りかかっていたツギは貰った飴を口に入れると、タバコを吸い殻入れにしまった。 「これって普通、ひもついてるやつじゃない?」  駄菓子の糸引き飴を思い出す味だった。香料がうすくて、やわらかい砂糖の味がする。舌に感じるざらつきも似ていた。 「おいしい? もう一つあげようか。いちご味の」 「いま食べてるのもいちご味だよ」  ツギに飴をくれた男はそうか、と言うように頷いて、飴が入った透明なポリ袋を揺らした。 「もう一つあげたい。ゆっくり食べて」  視線は相変わらずツギに向いている。  長い睫毛の間からのぞく、きらめくような瞳はツギにくすぐったさを感じさせたが、どこか鈍くも浮ついた気配は、アルコールに酔ったひと特有のものだった。 「よく笑うね。お酒たくさん飲んだ?」 「うん……そんなに飲んでない」  そんなはずはないだろう。ツギは思わず笑った。  サークルのメンバーにかわるがわる話しかけられて、勧められるまま次々に杯を空けていた男の姿は記憶に新しい。  珍しく集まりに参加した男は特に目立っていたし、仲良くしたい人は大勢いた。ツギも声をかけたが、すぐ別の卓に引っ張られてしまい大した会話はしていなかった。  今までも特に接点はなく、こうやって並んでいるのが不思議なくらいだった。 「ツギは……お酒すき? 混ぜたのを飲んでたね」 「飲みやすいからね、酔うのは好きだよ。トウセもいま気持ちいいでしょ?」  トウセは「ふふ」と静かに笑った。やはり可愛らしい印象の残る男だった。  中の連中はこの男を放っておかないだろうに。 「そういえば、チキン追加したって。もうそろそろ出るんじゃないかな」  思い出すままツギが外に漏れた店内の照明に目を向けると、トウセはツギの視線を遮るように体を傾けた。また目が合うと、トウセは困ったように眉を下げていた。 「でもあの、飴をあげるよ? いちご味の」 「ん?」 「だから……飴をあげるから……」 「うん?」 「まだ戻らないで……」 「……あ」  あは。と、思わず呆れたような笑い声がもれた。  飴の意味がよく分かった。  もう一つあげたがるのも、ゆっくり食べろと言っていたのも、ここに二人でいる理由を作るためだったらしい。  ツギはふと気分が良くなって、トウセをからかいたくなった。 「さっき貰ったの、まだ食べてるのに? 二つも食べたら口を開けれないのに」  そう言って笑うと、トウセは慌てたように飴の袋をポケットにしまいこんだ。 「ううん、一つずつあげるから」  だから、と酔っ払った舌足らずな口調で、トウセはツギを引き留めようとした。  ツギも満更でもなかった。  トウセと友だちになれそうで、自然と声が甘くなった。 「飴はもういいけど。アイスでも買いに行こうか」 「ん……」 「買ってあげるよ。飴のお礼に」 「……うん」  いいよ、と照れたような、小さな返事が耳に届いた。

論点をすり替えるな

「おーい、論点すり替えないでもらっていいですかー?」    まただ。  こいつは、論点のすり替えという指摘を、口癖のように言うようになった。  正直、自分の中では論点がすり替わってなどいないので、こいつの言葉の意味が分からない。  だから、聞いてみることにした。   「ごめん、自分ではすり替えたつもりがないからわからない。すり替える前の論点と、すり替えた後の論点を言語化してくれない?」 「え?」    そいつは腕を組んで悩み始めた。  あーでもない、こーでもないとうめいた挙句、最後には俺をにらみつけてきた。   「論点をずらすな!」    そして、走って逃げていった。  きっと、自分でも論点がわかっていなくて、ふわっと何かが違うと思ったから、反射的に口癖が出たのだろう。  理由が分かってすっきりした。    俺はすがすがしい気持ちで家に帰り始めた。  せっかくだ、途中でカフェにでも寄って帰ろう。

田園

 朝の薄暗い空気の中を電車は誰にも気づかれぬように走っている。車内には走行音ばかりが響き、およそ世界からこの音以外を削いでしまったのではないかと思えるほど、不気味に静寂だ。  その中で乗客は不自然に散らばっている。空いている席もあるのに、座らずに携帯をいじっている。  私は車両の連結部分にある引き戸にもたれた。通路を塞ぐような形になってしまい、頬がちくちくと痺れる。  目の前にはお婆さんが座っている。目を瞑って定期的に身体をくねらせていた。  そこから逃げるように私は本を開いた。しばらくは書かれてある文字の一つ一つが微小に震えていたが、少し経つと空気を含んだ毛布のようにそれは私一帯を包み込んだ。  途中駅で乗ってきた見ず知らずの人が、わざわざ私の近くにやって来る。そのことが、言葉の上に立っている私を引きずり降ろそうとしてくる。だが、私を柔和に包む言葉の毛皮が外界からの一切を拒んだ。私はその暗いとも明るいとも言えない空間に守られていた。  低い山の頂から、橙色の陽の光が矢のように電車の窓を貫く。  あまりの眩しさに読んでいた本から顔を上げる。圧迫感のある色の抜けた無機質なビル壁の代わりに、そこには田畑が目の前に広がっていた。すでに役目を終えた稲を見ているとわずかに手足が冷える気もする。だが、そこは黄金(きん)に揉まれたようにやわらかくも見える。  腿から脹脛にかけて百足が這うような疼きが走る。その疼きはやがて真夏の砂浜のように熱を帯び、胸の奥を焼く。  けれどそれもすぐに冷めてしまい、途端に身体が重くなる。  その重さが何なのかわからない。  私は窓の外をじっと見続けている。 令和八年一月一五日

私ではない筆跡

 起きたら、全てが変わっていた。  母も父も別人で、家も身の回りのものまで全部が私の知らないものになっていた。  けれど、昨日まで生活をしていた痕跡があって、カレンダーには今日や明日の予定が書いてある。私ではない筆跡で。  もしかして、知らない人の家で寝ていた?  そんな訳はない、父も母も私の名を呼ぶ。まるで元から私の母と父であるように、下の名前を軽々と呼ぶ。  ならば何故、私には昨日までの記憶がごっそりないんだ?  四年前の七月までの記憶はハッキリとあるのに。    ……ねぇ夜入(よいり)。    え? 誰?    ……詩人(しじん)よ。覚えてる? というか、あなた自分の病気を忘れたの?    え?    遡ること、四年前。私は酷い虐待を受けていた。ご飯はなくて、風呂は春も夏も秋も冬も全て冷水で入らなければならなかった。父からは性的暴行を受けたし、母からは純粋な暴力を受けていた。  心も体もボロボロで、何もかもが嫌になって、死ぬつもりだった。けど、包丁を手にした途端意識が消えた。    ……そう、アタシが阻止してあげたのよ。まだ幼い子が自分自身に刃物を突き立てるなんて、見てられなかったの。  …僕も怖かった。死ぬのが。    詩人の声が聞こえ始めてから、多くの声が聞こえるようになった。まるで、教室みたいに騒がしくて、昔に戻ったみたいで、嬉しかった。    ……そうだ、今まであなたの体をずいぶん好き勝手しちゃったわ。ごめんなさいね。  アタシ、このままあなたが目を覚さないと思っちゃってね、前のお父さんとお母さん捨ててきちゃったの。全部を新しくしてしまった事、本当に申し訳なく思うわ。    いいんだよ詩人。  そう、今思い出した。  解離性同一性障害。俗に多重人格症とも言われる病気を私が患っているということ。    詩人、詩葉(うたは)、陸、海、空、陽入(ひいり)、冫(ひょう)。    もっともっと私の中には沢山の人格がいる。  基本人格の私を含めて、主人格の陽入、未就学人格の冫(ひょう)丶(てん)もいる。    私はまだ十四歳。まだまだ生きなきゃいけない。詩人やみんなが繋いでくれた命。皆んなが共有しているこの命を消すわけにはいかない。

背中を追う、隣を歩く【7】

怒りが収まらないまま床を踏み抜く勢いで廊下を歩く。 視界の端に先を歩く誰かの背中が映ったが、今の私にはどうでもよかった。どけどけ私はこれからラーメンを食べてこのモヤモヤを全部飲み込んで帰るんだ。 つかつかと横を通り過ぎ、校舎の玄関を出ようとしたその時。 「あの、」 背後からひどく落ち着いたトーンの声に呼び止められた。 「はい!?」 誰かも確かめずに苛立った声のままグワッと振り返り、気持ちが更にぐちゃぐちゃになる。そこにはリュックを背負った朝が立っていた。 よりによってこのタイミングで?もうなんなの本当に、今の私は頭も心も限界なんだけど。 「え何、なにか用?」 「用っていうか……」 朝がぺこりと小さく頭を下げた。 「ありがとう。でもああいうの慣れてるから別に大丈夫だよ」 ――あ。 どうやら、さっきの私の八つ当たりに近い大演説を聞いていたらしい。わざわざ呼び止めてお礼を言うような人だったんだ。少しだけ私の中の『齋藤朝』という印象が書き換えられる。けれど私はまだ膨れている子供のままだった。 「あぁ、そう! 別に助けたくて言ったわけじゃないし! ただ実力不足を人のせいにする馬鹿どもが気に食わなかっただけなんで!」 勢いのまま捲し立てても朝の表情は相変わらず凪いでいる。おいアンタ目を開けたまま寝てんのかよ! 「んじゃ、私は行くから!」 「うん」 スンとしている朝に背を向け、踵を返して校門へと歩き出す。 しばらく歩いてから、ふと気になって後ろを振り返った。だいぶ離れた先に一人で歩く朝の背中が見える。夕闇に溶け込みそうな、どこか浮世離れした静かな後ろ姿。 しばらく見つめ、少し悩む。ある事が思いつく。でもなんでこんなことを思いついたのか分からない。頭から消そうとしても消えてくれない。   「ん゛ぐぅ」 自分でも正体の分からない呻き声を喉から絞り出すと、気づいた時にはその後ろ姿に向かって全力でダッシュしていた。 「おぉぉい!! 齋藤さぁぁん!!!」 大声で名前を呼びながら突っ込んでいく私に対しても、朝はやはり、まばたき一つ変えずに無表情だった。 「どうかした?」 「あのさぁ、今から暇?」 朝は、ほんの少しだけ考えてから答えた。 「……暇だよ」 「んじゃさ、ラーメン食べにいこう」 「え、何で」 「いーから! ついてきてって!」 困惑を隠せない顔の朝を半ば強引に引きずりながら、私は駅前へと歩き出した。

小説を書きたいけど書かかない人へ送るデブからのありがたい言葉

「安西先生。小説が、書きたいんです」 「書けばいいじゃん」    至極当たり前のアドバイスをしたはずなのに、目の前の人間は渋い顔をした。   「それは、そうなんですけど」 「うん」 「書けないんです」 「なんで? 腕にマヒがあるとか、激務で起きている間ずっと仕事してるとか?」 「そうじゃないんですけど」 「じゃあ、書けばよくない?」 「……酷い! パワハラだ!」 「えぇ……」    私は真摯にアドバイスをしたはずなのに、目の前の人間は泣きながら走り去っていった。  泣きたいのはこっちだ。   「意味わかんね」    書きたいなら、書けばいい。  もしかして、目をつむっていたら妖精さんが勝手に小説を書いてくれるとでも思っているのだろうか。  もしかして、AI様が頭の中をスキャンして代わりに小説を書いてくれると思っているのだろうか。  小説を書くのは、人間だ。  書きたい小説があるのなら、それを書くのは他でもない自分なのだ。  ならば、書くしかない。  書けないなんて言う暇があったら、書くしかないのだ。   「まあいいか。人のことを気にしている場合じゃない。書こ」    そんな人間もいるんだなあと、私は一つの学びを得て、パソコンに向かった。  パソコンの隣にお菓子に、自然と手が伸びる。  美味い、高カロリー最高。  これは頭が回復する。   「はー、瘦せたいなあ」    さ、書くか。

 前髪の毛先から、透明な飴玉が集まっていくのを、濡れた帰りに見た。そして、街中にある飴玉の大きさに届かず、地面で弾けた。  窓にも飴玉たちが張り付いている。触れても形にならないのに、助けて欲しそうに窓にくっついては、瞬きを終えた後、すぐに居なくなる。 「本当に雨は嫌いだよ」  バッグを片手に父が帰宅した。ソファの端に寄りかかる私は、銀色の線たちを窓越しに眺めていた。彼らは飴玉にならず、ねり飴に姿を変えるのだろう。  もしくは、誰かの知らぬ涙を共にしてくれているのかもしれない。

灰色の世界

僕には姉がいる というか、僕には姉しかいない 僕の記憶はここに来てからの1年程しか無い 所謂記憶喪失というやつだ それに加えて…盲目だ 僕の世界には光が無い そんな僕を支えてくれたのは姉だけだった 「今日はね、外はとても良い天気で、空が青かったわ」 「今日は庭のバラがとても綺麗だったのよ」 「今日は村の人にたくさんお野菜を貰ったわ」 「今日はね…」 僕の世界は、姉によって形作られていた 姉の語る世界だけが、僕の世界だった 今日までは 僕の目は、今日の朝、霞んだように世界が見えるようになっていた 僕の世界は反転した 僕が寝ていたベッドだけは、とても綺麗だった けれど、視界に映る世界は灰色で、くすんでいた 「おはよう、今日はとても良い天気ね」 姉は言う けど今日の天気は…どう見ても曇りだ このぼやけた世界でもそれくらい分かる 「今日はなんだか元気が無いわね?」 その通りだ 僕はこの世界がこんなにも灰色に満ちていたなんて、知りたくなかった 優しい言葉をかけてくれる姉ですら、ボロボロの衣服で、とても見ていられないほどだった 窓の外を見ても、庭なんて大層な物は無かった 小さな雑草がほうぼうに生えているだけ とてもバラなんて植えられていない、枯れた土地だ 姉は、嘘をついていたんだ ずっと、ずっと 優しい嘘で、僕を生きさせてくれていたんだ 「今日はシチューを作るから、楽しみにしていてね」 姉は僕の部屋を出ていく 僕の目が回復したことを知らずに …きっとこのままで良い そうすればきっと、ずっと幸せだ 目の見えない僕と、優しい姉と、生きていける それでも、僕は… 数か月後 僕の目は完全に見えるようになっていた そんな目が最初に見たのは、姉の死体だった 首筋に、包丁が突き刺さっている とても、綺麗だと思った まるで、一輪の生け花のようで これで僕は解放される 外の世界に行くことが出来る どんな世界が待っているんだろう とても、とても楽しみだ そういえばあの日のシチューの味、まだ覚えているな 何のお肉を使ったんだろう

赤ちゃん

「オギャー、オギャー」 「オギャー、オギャー」 こんにちは赤ちゃん。 ずっとこの日を待っていたんだよ。 今はよく顔が見える。嬉しい。 やっぱり目とか鼻とか、私そっくりだ。 きっと性格も似ちゃうのかも。 これからよろしくね。いっぱい遊ぼうね。 お洋服とかもお揃いにしちゃったり。 あなたが幸せなら、私も幸せ。 あなたが泣いたら、私も一緒に泣くんだろう。 赤ちゃんと私は今日、同じ誕生日を迎えた。

白線以外全部マグマ

「はい、お前死んだー! 白線の上以外は、全部マグマでーす」    子供が笑いながら言いました。  それを聞いた神様は、老眼鏡をかけました。   「ほうかほうか。ここは地面じゃなくてマグマだったのか。近頃、物忘れが悪くていかん。直しておこう」    神様は、白線の上以外を全てマグマにしました。        ベビーカーが白線の上を通ります。   「すみませーん、通りまーす」 「あ、すいません」    正面から来た歩行者は、スマホから目を話し、逆方向へと歩き始めます。  なにせ、白線は細いです。  すれ違いなんてとてもできません。   「あ」 「あ、落ちた」    高齢者がこけました。  そして、白線の外、マグマの中に落ちました。    ジュジュジュジュジュ。  肉と骨が焦げる音がして、マグマの中に消えました。    それを見ていた周りの人は、急いで写真を撮って、警察署へと送りました。  マグマは何も残しません。  よって、誰が落ちたか記録しないと、死亡したのか行方不明なのかわかりません。    サーファーがマグマの上でサーフィンします。  マンホールからマグマが吹き上がると、いい波が起きるのです。   「いよいしょー!」 「キャー! かっこいいー!」    格好良く波に乗ることのできる人は大人気です。  命がけのエンターテイメントは、若者を中心にムーブメントを起こしました。    神様の孫は、困り果てました。  なにせ、祖父の間違いを直そうと急いで駆けつけてみれば、人間たちが思いのほか順応していたからです。  社会システムも作り替えられ、今マグマでなくせば、逆に混乱する危険性があったからです。   「人間ってすごいなあ」    神様の孫は世界を眺めた後、人間に化けて、最近の流行と言うマグマで焼いたハンバーグを食べに向かいました。

Re-play

右手の人差し指の爪の両脇に トゲのような皮膚がある 手袋をつけるときに引っ掛かるので 困っている 右手の親指でトゲを擦る いつの間に出来たのやら どういう訳であるのやら 昨日、仕事で後輩に言った言葉が引っ掛かっている 言って、別れた後で、彼女を傷付けてはいないかと さっきのシーンがリプレイされる 再生回数が増えていく

配達先シリーズ ~聞く人~

夫は配達の仕事をしている。 その配達先のひとつに、いつも穏やかに笑うとても感じのいい男性がいた。 坂野と名乗るその男は、初対面の頃から妙に話しやすかった。 その配達先を担当して約二年。 世間話から始まった会話は、次第に私的な領域へと踏み込んでいった。 家族構成、育った町、学生時代のこと。 最近では、妻の職場のことや彼女の些細な癖まで尋ねてくるようになっていた。 悪意は感じられない。 だが、距離の詰め方だけがどこかおかしかった。 ある日の食事中、夫は坂野のことを妻に話した。 妻は露骨に顔を曇らせ、言った。 「気持ち悪い。そんなに個人的なこと、話さないほうがいいよ。」 その翌日から、家の周囲で奇妙なことが起こり始めた。 夜中、廊下に人の気配がする。 インターホンが鳴り、モニターを確認してもそこには誰も映っていない。 理由のわからない恐怖に、夫は怯えていた。 妻もまた、同じように眠れなくなっていった。 そんなある日、妻は職場で上司に呼び止められた。 深刻な表情の上司は低い声で言った。 「最近、あなたの周りに“黒い人影”がある。薄っすらと。 ご主人のほうも……あまり良くない気を感じる。」 上司はそれ以上説明しなかった。 ただ、静かに助言するように言った。 「詳しいことは分からないけどね。 ……自分のことは、あまり話さないほうがいいと思う。」 数日後、夫は衝撃的な事実を知る。 いつものように配達先へ向かい、坂野がいるはずの場所を覗いた。 しかし、そこに彼の姿はなかった。 夫は、近くの従業員に声をかけた。 「すみません。坂野さん、今日はお休みですか?」 「坂野……ですか?」 従業員は怪訝そうに眉を寄せ、近くの同僚と何やら小声で話した後言った。 「いえ。うちに、坂野という人はいませんよ。」 配達を終え、駐車場で夫は立ち尽くしていた。 二年間、自分は誰と話していたのか。 その時、トラックのドアをノックする音がした。 「あ、さっきの運転手さんですよね。」 ドアを開けると先ほどの従業員の姿があった。 「坂野が“いない”と言いましたが……正しくは、“今はいない”と言ったほうがいいかもしれません。」 従業員は周囲を気にするように視線を走らせ、声を潜めた。 「坂野は……三年前に亡くなっています。ここの引き取り窓口のすぐ横で、配送トラックに巻き込まれて。 人当たりが良くて、誰とでも話す人だったから皆よく覚えているんです。」 夫がこの配達先を担当するようになったのは、二年前だった。 「じゃあ……俺が話していたのは……。」 「あなたが会っていた“坂野”は、どんな顔をしていましたか?」 従業員にそう言われて夫は思い出そうとする。 穏やかな笑顔。柔らかな口調。 ――だが、顔だけがはっきりと思い出せなかった。 「事故の後に坂野さんを訪ねた方が、家に“何かいる”気配がすると言っていました。」 夜中の廊下の気配。誰も映らないインターホン。 夫には思い当たる現象があった。 「坂野は、生きていた頃から“人の話を聞くのが好き”でした。 自分のことは話さず、相手のことばかり……亡くなってからも、同じなんでしょう。」 その夜、夫はすべてを妻に話そうと帰宅した。 玄関の電気をつけた瞬間、背後から声がした。 「今日はお話ししてくれないんですか?」 振り返ると、そこに坂野が立っていた。 穏やかな笑顔。 足元は廊下の影と溶け合い、輪郭が曖昧だった。 「知ることで、私が存在できるんです。 あなたの家も、奥さんも……とても居心地が良さそうだ。」 表情を変えずに坂野は言った。 震える声で、夫は言った。 「……もう、何も話せない。」 坂野は、ほんの少しだけ寂しそうに微笑んだ。 「それは困りました。もう少しで、あなたになれたのに……」 次の瞬間、廊下の影が一斉に伸び坂野の姿は闇に溶けた。 それからしばらくして、妻は上司に再び声をかけられた。 上司は、以前よりも穏やかな表情で言った。 「黒い人影は、見えなくなったね。」 妻は、胸をなで下ろした。 だが、上司は少し言い淀んでから、続けた。 「正確には……“一つ”減っただけかもしれない」 「……一つ?」 妻は不思議に思って問いかけた。 「人影って増えるのも減るのも理由がある。 近づく場所がなくなれば薄くなるだけ」 上司はそれ以上何も言わなかった。 その夜、妻は何気なく廊下を見た。 電気の消えた壁に、影が落ちている。 そこにあるのは自分の影だけなはずだが、一瞬だけ多く見えた気がした。 しかし、目を凝らすと影はすぐに元に戻っていた。 「自分の事を、あまり話さないほうがいい」 その言葉の意味を、妻は今も考えている。

心配性は母親ゆずり

先を考えてもわからない 強く思いすぎてもどうなのよ 無理しないのがいいんだね まずやってみて やれそうならもすこし 無理をしないでもうすこし すこしずつの積み重ね あんまりあせらずあせらない あせるとは思うけどあせらない 困ったんなら現状維持 害がないなら ひどく損がないなら むやみにさわらず現状維持 偉い人たちの言っていそうなこと 理解したような気になって あせる必要はないのにあせって よくないと思っても 続けてるんなら いいんじゃないの 雪だった めちゃくちゃ寒くて たぶんそれで からだも心もおかしくなった 心配性は母親ゆずり そのせいか おなかが弱くて よくこわす そんなことじゃあ 試験のときにたいへんねえ 元凶の母親から言われた そのようなことにはならなくて かわりに精神に異常が異常が そのときも だから 雪が降っていたっけ

配達先シリーズ ~満たされた棚~

夫は配達の仕事をしている。 その配達先のひとつに、毎回やけに多くの商品を注文する男性がいるらしい。 吉田という名のその男は、 「在庫を切らすのが嫌でね。」 と笑いながら、必要以上の数を注文することで業界内ではちょっとした有名人だった。 夫の会社にとっては、ありがたい得意先だ。 だが、実際に配達に行く夫の感想は少し違っていた。 「この棚に補充してください。」 そう言ってから、吉田は一度棚を眺め、 付け足すようにこう言った。 「前回と、同じで大丈夫です。」 吉田に案内された棚は、いつもぎゅうぎゅうに詰め込まれている。 商品同士が押し合い、今にも崩れそうな状態で並んでいる。空きはほとんどない。 それでも夫は言われた通りに箱を開け、 入るだけ商品を棚に押し込む。 もちろん、毎回必ず余る。 「入らなかった分は、どうしたらいいですか。」 夫がそう尋ねると、吉田は棚を見つめたまま、 ぽつりと答えた。 「減ってないと、安心するんですよね。」 それから、はっとしたように夫の方を見て、 「……とりあえず、そこに置いておいてください。」 と、棚の下あたりを曖昧に指さした。 床に積まれていく段ボールは、次の配達の日にもほとんど手つかずのままだった。 その日の夜、夫は食事をしながら妻にその話をした。 「別に嫌な人じゃないんだけどさ。  なんていうか……無駄が多いんだよ。  商品を頼むときに在庫確認とか普通するでしょ。  なのに、毎回同じ量を同じペースで頼むんだよ。棚に入りきらないのに。」 妻は相槌を打ちながら聞いていたが、どこか引っかかるものがあった。 翌日、職場でその話を上司にすると、 上司は少し考え込むようにしてからこう言った。 「物に執着する人ってね、  物そのものを愛してるわけじゃないんだよ」 「じゃあ、何を……?」 妻は上司の言葉の意味が理解できなかった。 「“減る”のが怖い。  足りなくなることより、失うことの方がずっと怖いんだよ。きっと。」 そう言って、上司は湯呑みを持ち上げた。 「注文数を変えるということは、棚を商品で埋め尽くすことができないでしょ。  だから注文数を変えない。  毎回同じ数の商品が届けば、棚は常に商品で満たされたまま。」 妻は、夫の話していた吉田の話しを思い出していた。 棚から溢れそうな商品。 床に積まれたままの段ボール。 そして、夫が最後に言っていた、"いつもどこか不安そうに揺れる目"。 上司は、机の上に置かれた書類をきちんと揃えながら言った。 「“そこに在り続ける状態”。  数も、位置も、順番も、変わらないこと。  減らないこと。  動かないこと。」 その時は、妻はまだよく分からなかった。 数日後、夫の配達ルートが変更になった。 吉田の元へ行くのは、しばらく別の配達員になるという。 「別に問題ないだろ。商品は同じなんだから」 夫はそう言ったが、どこか落ち着きがない様子。 その日の夕方、夫の会社に一本の電話が入った。 吉田からだった。 「今日、商品が届いていません。」 事務員が説明すると、吉田は静かにこう言ったという。 「商品じゃなくて、  “置かれ方”が違うんです。」 後日、夫が聞いた話だ。 別の配達員が行ったところ、 吉田は受け取りの際、何度も棚を確認していたらしい。 「前は、この箱がここでしたよね。」 「順番、違いませんか。」 「床に置く向き、逆じゃないですか。」 そして、ぽつりとこう言った。 「前の人は、ちゃんと分かってた。」 その夜、妻は上司の言葉を思い出していた。 在り続ける状態。 変わらないこと。 吉田にとって、 商品は「使うもの」ではなかったのだ。 棚が常に満たされていること。 同じ人が、同じ手順で、同じ時間に置くこと。 それが崩れることが、 “失われる”ということだった。 それから数日後、夫が言った。 「……吉田さん、 “元に戻るなら、問題ないんです”って。」 「何が、元に?」 妻がそう聞くと、夫は少し黙ってから答えた。 「物の場所が、って。」 妻は、その言葉で全てを理解してしまった。 吉田が溜め込んでいたのは、 商品ではない。 “同じ状態が、永遠に続くという感覚”だった。 そしてそれを守るためなら、 物と同じように、 人もまた―― 元の場所に、 戻されるだけなのだ。

通行本

 通行人の顔を見ることはあるだろうか。  私は見ない。    とんでもなく高身長の人や、どんてもなく体が大きい人なら、目に入ってしまうかもしれない。  でも、基本は見ない。  すれ違う他人なんて、ぶつからないように避けるべき障害物Aでしかない。    どうしてこんな話をしているかと言うと、最近本屋に行ったのだ。  SNSで新刊の発売情報をチェックして、新刊を買いにいったのだ。  無事に新刊は変えたのだけど、あれっと思ったことがあった。  私は、新刊以外の本を見た記憶がないのだ。    新刊を探すために、いくつかの陳列棚を見た。  いくつかの本の表紙やタイトルを見たはずだ。  なのに、記憶に残っていない。  そこで気づいた。  私は、本屋に並ぶ本を、通行人としか見ていないのだと。  新刊を探す際にノイズになる、ただの通行人。    子供の頃を思い返した。  とりあえず、漫画や小説が置かれているコーナーに立ち寄って、一冊一冊眺めていた。  その中に、買ってるシリーズ物があれば手に取り、興味のある表紙やタイトルを見つけても手に取った。  いうなれば、全ての本が買う可能性のある候補だった。  通行人なんかじゃなかった。    スマホのアプリに通知をいれれば、欲しい本の発売日を知らせてくれる。  本を探す必要もない。  お会計はキャッシュレスで。  現金を探す必要もない。    合理化を進めた世界では、こんなにも本と出会うのが難しいのだと感じた。    家に帰る途中にすれ違った通行人の顔も、私はまったく覚えていない。

ワンシーン 2

あたしはひとつ所に長く居られない。 あたしの時間は15歳で止まってる。 あたしが死んで、蘇った15歳。 そこから歳をとることはない。ついでに死なない。 「久しぶり! 全然変わらないね!」 にも限度があるってもんで、最初の同級生が30を超えた頃にあたしは生まれ育った街から逃げた。 いろんな街を巡り、偶然昔の知り合いに会っても、 「娘なんです」 が通用する程の年月が過ぎた。 何が本当で嘘かわからないくらい生きてきた。 そんなあたしがやっと見つけた居場所。 「ただいまー」 声と同時にドアが開く。 声の主ではない方の男、Aが入ってきて、担いでいた男を乱暴に室内に放り込んだ。 ドアを開けた方の男、Kは跳ねるように室内に入ってきて来客用のソファに勢いよく座る。 「あんたたちはまた…」 放り込まれた男に近寄り、あたしは手元の写真と照合する。 「かろうじて本人と認められるわね」 KとAに捜索を任せた対象者であるのは間違いなさそう。 しかしボコボコにされている。 「だってムカついちゃってさー」 そう言ってKはテーブルの上に用意してあるチョコレートをひとつ頬張った。 だからそれ来客用の高いやつだっつーの。 「生きてるから大丈夫だよ」 Aがおっとりと言う。 まぁKが対象者に怒りを覚えないはずがないのは最初からわかってたんだけど。 「お疲れ様。クライアントに引き取りに来てもらうわ」 軽く2人を労って、あたしはスマホを手に取る。 「あ、お世話になりますぅ。こちら…」 よそ行きの声、とクスクス笑う2人をひと睨みして、あたしは先方に用件を伝えた。 「すぐに引き取りに来るって」 「じゃその後メシだな」 焼肉焼肉〜とKがご機嫌に言い、肉かぁ…とちょっと困り顔のA。 まったく、聞いたことないわよ…ニンニクたっぷりのタレで焼肉食べる吸血鬼とベジタリアンの狼男なんてさ。

食のasmr (掌編詩小説)

咀嚼音のasmrとかもあるし、食材の音による幸福感の向上効果ってのがありそう。 あと調理音とかね。 特に揚げ物が上がる音、野菜を千切りする音って、聞いていて心地良く感じる。 (完)

可惜夜

 今俺の目の前にいるのは、一年前に別れた彼女。  喧嘩別れというか、すれ違いで嫌われて碌に話すこともできないまま当分顔も見ないでいた。  ここは夕暮れの教室で、窓の外には瓦礫の街が広がっている。  今日、突然怪獣が現れて街はみるみる崩壊した。  空の色はなんと言うか、茜色などと言う月並みなものでは表現しがたく、まるで黄金に輝いていた。  きっと目の前にいる人物が俺にそう錯覚させているのだ。  彼女は黙って窓の外を眺めている。  俺に気づいているかもわからない。  そう言えば彼女は雲を眺めるのが好きだといっていた。  俺は黙って彼女の隣に立ち、同じ景色を眺める。  お互いに何も言わぬまま。  瓦礫の街はやけに静かで、でもそこは確かに非日常ではあるのだが、とてもとても綺麗だった。  忘れようと努め、忘れかけていた彼女のその姿の隅々までよく見える。  彼女は黙って俺の腕と自分の腕とを絡めた。  その時俺は思い出した。  当時気づきもしなかった感覚。  人は好きな人と二人でいる時、この世界で自分だけが特別であるかのように感じるらしい。  まるで自分たちしか存在していないかのように、自分たち以外の時が止まっているかのように錯覚させるこの感覚。  きっとこれが幸せと言うのだろう。  確かにあの時は、周りが黄金のように見えていた。    俺と彼女の物語。  夢落ちのような酷い物語。  君は突然俺の前から姿を消した。  こんな話誰が好き好んで読むのだろう。  いや、俺だけが読んでいればいいのだ。  少し寂しいが、誰にも理解されなくてもいい。  きっと誰も理解できはしない。  この物語には、月並みな言葉の一つも相応しくない。  どれだけ彼女が俺にとって特別な存在だったか。  いずれ俺も読めないほどにインクは掠れ、ページはクタクタになっていくのだろう。  それなのに、俺は忘れようと努めた。  隣にいる彼女に温度はない。  ああ、どうやらここは、可惜夜のようだ。

スイソウ

 太陽が昇り始めた海岸。冬のキンとした潮風に吹かれながら、鼻と頬を赤くした男がコートの左ポケットから硬くなったハムスターを取り出した。冷たい手が熱を感じるが、それはハムスターから生まれた熱ではなく、男の体温と布によってできた温度だ。  男は波打ち際にしゃがみこみ、その手を波に近づけたが波の動きを見てすぐに手を戻した。左手はもう冷えきっていた。ハムスターと左手を潮風から守るように右手が覆う。  男は水槽のようなケージの中にいたハムスターを広い海へと逃したかった。それでも、生きている間に手放す勇気も優しさもなかった。  男が思い出すハムスターの姿はどれも惨めなものだった。回し車で走れば一蹴もしないうちに転げ落ち、いつもハウスの中でじっとしていた。こんなハムスターのことだ。海へ放ったとしても上手く泳げず溺れるか、魚を恐れて岩の影に隠れ怯えたまま一生を終えるのだろう。このハムスターはどこへ行っても変わることはできないのだ。男と同じように。  男の両手は青白く、震えながら千切れそうな痛みに耐えている。 「せっかくだから、火星まで逃げようか」  男の赤い耳に無邪気な声が入っていく。  男はしゃがみ込んだまま、凍ったように動かなくなった。

私はやってない。

「みなさんに大変言いにくいことがあります」  壇上に立つ先生が、今から発する言葉は、このクラスにいる全員がすでに知っているようだった。  三つの机に置かれた一輪の花と、啜り泣く女子生徒の声。教室には、無言とは少し違う、重たい気配が広がっていたからだ。 「えー、田辺さん、高塚さん、沢嶋さんの三名が、この三連休の間に亡くなるという、大変痛ましいことが起こりました」  先生は続けて、この三名の死は連日ニュースで報道されているが、生徒である私たちは取材を受けても何も話さなくていい、と言った。  ホームルームが終わり、先生が教室を出て行った直後だった。  誰が言い出したのか分からないまま、クラスは「誰が三人を殺したのか」という話題で一気に騒がしくなった。 「佐々木! あなたが田辺を殺したんでしょ!」 「ふざけんなよ! なんで私のせいにされなきゃいけないわけ? 田辺とニコイチだったのは渡辺のほうでしょ!」  第一ラウンドは佐々木と渡辺だった。田辺との仲の良さはどちらも五分五分といったところだが、佐々木の語気の強さに、渡辺は少し引き気味だった。 「沢嶋は三好と仲良かったよね? 土曜日に二人で遊びに行ってるの、ストーリーに載ってたよ」 「あ、それ私も見た! 三好、あんた夜に殺したんじゃないの?」 「私じゃないよ!」  第二ラウンドは三好と、数人の女子たち。三好の弱気な否定に、女子たちはますます感情的になっていった。 「でも待って……あんた、高塚にパシられてたよね? 恨みがあって殺したんじゃない?」 「あいつ、外面だけは良かったしね」  そうして、クラスメイトたちの矛先が向けられたのは鈴木だった。  鈴木は、高塚にパシられたり、前借りを頼まれたり、掃除の当番を押しつけられたりしていた。好き放題されていたのは事実だ。 「私はやってない! 高塚さんは色々されてたけど、お金はちゃんと返してくれてたし、ありがとうも言ってくれる人だった! そんな人を……私がするわけないじゃん!」  鈴木の大声と同時に、授業のチャイムが鳴った。論争は一時休戦となったが、休み時間になっても鈴木への罵声は止まらなかった。  それでも佐々木と三好は、鈴木を庇うように、その日から三人で過ごすようになった。  事件から一か月後、鈴木は家の都合で引っ越した。  その翌日、ニュースはこう報じていた。 『佐々木と三好の遺体が発見され、どちらも自殺に近い内容の遺書が残されていたとして、警察は引き続き捜査を進めています――』 「報道、すんごいことになってるね」  スマホに映る学校の映像を眺めながら、私はキッチンで、ふふふん、と陽気に鼻歌を奏でる彼女を見た。 「それは、カナデちゃんのおかげだよ。わざわざやらせてごめんね」 「“やらせて”ってやめてよ。私は学校では死人だよ? ちゃんと、やりたいことはできたんでしょ?」 「もちろん! 三年分の思いが、やっと晴れたって感じ。最後まで、あの二人もクソだったし。清々する」  彼女が差し出した紅茶に映る自分の顔を見て、私は少しだけ怖くなった。  あの時、彼女たちをそう仕向けたのは、私だ。他の誰でもない。 「……逮捕されないよね?」  私がそう聞くと、彼女は高笑いした。 「なに言ってんのよ……」 『私たちは、やってない。』  その言葉を聞いて、私は安心してスマホを閉じた。

クロックバード

全ての立派な時計の中には、ハトが住んでいる。 そう思い込むようになったのは、小さい頃隣に住んでいた千明のせいだ。 一つ下の女の子で、一緒に遊んで面倒を見るように言われていた。 兄妹ではなかったけど、にぃちゃんと呼んでくれていた。 千明の家には、古い鳩時計があった。 ちくたく、ちくたく、ぽーん。 ちくたく、ちくたく、ぽーん。 「ねえ、どうして時計の中にハトがいるか知ってる?」 「なんで?」 「ハトはクルックーって鳴くでしょ。時計って、英語でクロックっていうの。だから」 「へー」 「うそだよ」 「なんだよ」 「ふふ」 千明は、オレにだけ笑った。 「にぃちゃんは、ともだちいっぱいだね」 「千明も隠れてないで、一緒に遊べばいいのに」 「こわいからやだ」 「そっか」 ぴったりとくっついてこられるのが、面倒くさいけど嫌いじゃなかった。 千明は、オレが友達と遊んでいる間いつも本を読んだり、ぼんやりと遠くを見ていた。 あいつがほかの誰かといるところを、オレは一度も見たことがなかった。 「いじめられてないか?」 「だいじょうぶ」 なんだか、大丈夫じゃない気がした。 「オレがやっつけてやるから」 「うん。でも、いい。にぃちゃんがいなきゃダメな私が、いやなんだ」 その時だけ、いつもつなぐ手が痛かった。 「ねえ、にぃちゃん。ともだちのともだちのともだちの…って、7回つなぐと世界中とつながるんだって」 「へー」 「うそだよ」 「なんだよ」 「ふふ。だってさ。私のともだち、にぃちゃんだけだから」 ちくたく、ちくたく、ぽーん。 ちくたく、ちくたく、ぽーん。 ハトが顔をだす。 「そこのハトは?」 「きらい。ハトが出ると、にぃちゃんがもうすぐ帰っちゃう」 きょうはまだ、うちの親は迎えに来ない。 「もう少しあそぼうか」 「うん」 ※※※ 千明は、オレが小学校3年生の時に引っ越すことになった。 最後に遊びに行きたいところはないか。そう聞かれて、千明は美術館に行きたいといった。 本で見た奇麗な絵を、オレと見たいって。 こいつらは見られる側のくせに、ずいぶんと偉そうな顔をしている。 オレには、この偉そうな絵の何がすごいのかわからない。 「なあ、こないだテレビで、ずっと大事にしてた茶碗がガラクタだってわかった話、やってたんだ」 「うん、私も見たよ」 「この額縁の中にオレの落書きを入れてもさ、誰も気づかねえんじゃねえか」 何千回も言われたことだと思う。 「そうだね。にぃちゃんの絵なら、価値があるかも」 ニコニコと返された。 千明は、ひとつの絵から動かなかった。 せっかくなんだから、たくさん見ればいいのに。 でも、頑張って全部見て明日には忘れてしまうくらいなら、 一つの絵をちゃんと思い出にしたほうが正しい過ごし方なのかも。 静かで、千明もハトもしゃべらない場所は眠かった。 天井は、吸い込まれるくらい高かった。 大きな時計のオブジェを見上げて、ハトが出てくる妄想をした。 ちくたく、ちくたく、ぽーん。 「にぃちゃん、おねがいがあるの。私のこと、忘れないでくれる?」 「当たり前だろ」 「あたりまえじゃ、ないよ」 彼女は、初めて泣いていた。 「仕方なくじゃなく、ともだちでいてくれた。にぃちゃんは、なかよしの天才だね」 オレは外で遊びまわるのが好きなのに、千明といるのも嫌じゃなかった。 放っておけなかっただけじゃなく、一緒にいるのが楽しかった。 「にぃちゃんなら、もしかしたら世界中につながるのもウソじゃないかも」 妹みたいに、千明はオレの手を握った。 ※※※ オレは、難しいことや柔らかいものはあまり分からない。 だけど、千明との時間が教えてくれた。 知らない世界で生きているやつとも、話してみると意外に楽しくやれるってこと。 あいつ、向こうで友達出来たかな。 少なくとも、友達の友達はたくさんいるぞ。 なんたって、オレはなかよしの天才だから。 授業は面倒くさいけど、最近仲良くなったクラスメイトに教えてもらってる。 うじうじしてるけど、フツーに面白いしリスペクトできる奴だ。 また会ったときに、紹介してやるよ。 チャイムが鳴っている。 機械仕掛けのハトを思い浮かべ、教室に戻った。 ちくたく、ちくたく、ぽーん。

天然と合成と

「合成ダイヤの普及で、天然ダイヤが大幅値崩れだって」 「マジかよ。給料三か月神話はどこいった?」    写真で見る天然ダイヤと合成ダイヤ。  見た目の違いは判らない。  合成ダイヤは偽物と言う人もいるが、見た目が同じならどちらも本物と言って差し支えないのではなかろうか。   「私は天然がいいな」 「え?」 「だって天然じゃないってことは偽物じゃん」    そう思ったのに、まさか隣に逆の意見のやつがいようとは。   「偽物じゃないと思うよ」 「ええ?」 「魚だって、天然も養殖も同じじゃん。美味しい魚」 「魚の養殖は、人間の手で住む場所を決めてるだけで、天然と同じ方法で産まれてるじゃん。合成ダイヤみたいに、化学のいろいろ混ぜてるわけじゃないんだし」    例えが悪かったかもしれない。  天然ダイヤと合成ダイヤ。  天然の魚と養殖の魚。  共通しているのは天然と言う言葉だけ。    やはり人工的に作って、それっぽく作る物を例に挙げたほうがいいか。  正直、あんまち使いたくない例えだった。   「何?」    ぼくの視線が、下へと落ちる。   「天然以外が嫌なら、なんで豊胸し」 「死ね!」    案の定殴られた。  だから言いたくなかったんだ。  でも、天然じゃないから偽物だって考えを、なんとか否定しようと躍起になってしまったんだ。   「大丈夫。ぼくは差別しな」 「死ね!」 「ヒアルロン酸だろうが、胸はむ」 「死ね!」 「ほとんどの男は、天然かどうかわからな」 「死ねええええええええ!」    しこたまなぐられ、ぼくはその場に倒れた。  ドスドスと足音を立てて、友達は去って行く。    とりあえず、天然だろうがそうでなかろうが、本物だということは納得してくれただろうか。  体が痛くて追いかける元気はなかったので、倒れたまま休憩することにした。

真顔の国

 さて。今日の授業は、とある国の歴史について、です。  そこは小さな島国でした。けっして裕福ではありませんでしたが、島民たちは手を取り合い、幸せに暮らしていました。  しかし、島民たちには一つだけ悩みがありました。彼らは表情筋、特に口の周りにある筋肉が萎縮していたのです。そのため、島民たちは複雑な表情をつくることができませんでした。悲しみや困り顔は、かろうじて表現できるものの、笑うには口角をつり上げる必要があり、実に困難なものでした。その島は頻繁に海外と交易をしていたこともあってか、外部の者が「島民たちは少しも笑顔を見せない」と不気味がることも多々ありました。  このままでは外部との交流に支障をきたしてしまう。島民たちは、とある外国から優秀な研究者の男を招来し、どうにかならないものかと頼み込みました。彼は、島民たちの願いを二つ返事で了承すると、単身で島に引っ越し調査をすすめました。  丸一年をかけた調査の結果、男は島民たちが共通する特殊なDNAを持っており、この形質が表情筋の発達に影響していることを突き止めました。それから、これまた長い歳月をついやし、彼は特殊な遺伝形質を抑制する特効薬を開発したのです。  錠剤を島民たちに配りながら、男は言いました。 「この薬を毎日一つ、のみなさい。それをニヶ月半、続けなさい。のみすぎはいけませんよ」  島民たちが男から渡された薬を服用すると、たちまち凝り固まっていた頬の、眉の、口の筋肉が動くではありませんか。どういう原理なのかは分かりませんでしたが、島民たちは嬉々とした笑顔で、男に礼を言ったのでした。  男が島を立ち去って、実に半月が経過した頃、島は世界でも有数の観光地となっていました。島民たちが皆、いつも笑顔で和気あいあいと暮らしている様子が人から人へと伝わり、各国から称賛されたのです。島の人口は一気に増加し、経済も豊かになり、立派な島国としての地位を確立しました。しかし、島民たちの間では、少しずつ異変が進行していたのです。  日々の生活の中で、ときに卑屈な顔の者を見かける時、島民たちはもれなく竹取りの姫が月を見上げるようなノスタルジーを感じるものの、ふと以前のむっつりとした真顔になってみようとしてもうまく再現することができません。  今や、島民たちは様々な表情をつくれるようになりました。この恩恵を得ることができたのは、ある一人の男の研究成果であり、医療テクノロジーの結果であり、特別な薬物の効果であり、その全てであって、そのどれでもないのです。  私があの島へ再訪した時、島民の一人が話をしてくれました。 「俺たちは皆、感謝してるんですよ。おかげで、こんなに笑えるようになりました。嬉しさを、楽しさを、皆が当たり前のように表現することができるのですから。けれどね、だからこそ私達は許せないんですよ。もとから自在に表情を操れる者たちが、感情の宿らない顔をしていると。まるで昔の俺たちを見ているようで、苦しくなるんです。これはもう取り戻せないあの頃への嫉妬だし、罰でもあるんでしょう。俺はね、今になって思うんですよ。私たち島の人間の、本当の素顔とは一体なんだろうかと。今さらながらに考えてみたいと思うんです」

ブルーノイズ

 筆を手に取る。灼けるような青を手に真っ白なキャンバスを前にしたところで、描けるのは海と空だけであった。  ただ目に見えているものを描き写しただけで。  それなのに未だに、誰かの姿が消えない。風に揺られただ風を竢つ、誰かの背が。本当はいたはずなのに。 「っ……」  また、耳鳴りが僕を襲った。波の音にも似た、あの夏の音だ。煩くて、煩わしい。  そのノイズに掻き消されるまま、そこに視ていた誰かの背は消え失せてしまった。  この音がする度に僕は、  ――   「ねえ、██」    ――  また、誰かを思い出す。  ―― 「ねえってば。聞こえてる?」 「あ、あぁ。ごめん」  またいつもの耳鳴り。最近特にひどくなってきたと感じる。 「また耳鳴り?そろそろ病院行ったら?」 「行ったさ。でも何にもないんだって。ストレス性かも、とか言われるけど」  波打ち際、いつも通り君と他愛もない話を駄弁りながら歩く。サンダルの奥に入り込んだ砂の温度を確かめながら、一歩、また一歩と、どこを目指すわけでもなく歩き続ける。  このままどこへ行くのかなんて、僕も彼女も知らなかった。ただそこにあるのは、終わらないとさえ感じてしまっている時間だけ。永遠にも近いその一瞬の連なった一縷を、ただ必死に紡いでいた。 「ねえ、来年もさ。来れるといいね」 「……うん」  そう。これは最初から、君の言い出したこと。   「海に行きたい」  だなんて、最初は冗談だと思っていた。  無機質な白い部屋で天井を見つめる君の口から、そんな言葉が出るなんて思っていなかったから。  やっと、冗談が言えるくらいに気力が戻ったのかとほっとしていた。でもどうやら、彼女は本気だったらしい。 「今の状態なら、外出も許可できます」  信じられなかった。少し前までは食事も難しかったのに。今こうして、笑顔で僕の隣を歩いている。何もなかったように。僕が、そうであってほしいと願っていた通りに。 「そうだね。来年も、一緒に」  その言葉が妙に心残りで、奥歯で強く噛み締めた。思えばもうこの時には、僕は無理だとわかっていたのかもしれない。      その報せを聞いたのは、潮風に凪いだあの日からほんの少し。たった一月先だった。 「はぁっ、はぁっ」  バタン、と廊下中に音が響く。  何かを引き戻すように扉を勢いよく開けた。  その奥に広がる、見慣れた無機質な光景。でもその中で一人、もう僕の識らない誰かになっていた。  受け入れたくない現実を直視する度に、何かが爆ぜる。それはゆっくりと、やがて僕の心を包んでいった。  消えない、あの日の波の音が。僕の記憶を鮮やかに掻き消した。  ――  目を閉じれば思い出すのは、いつもあの日のこと。退屈を再演した、あの夏の記憶。  もう何回繰り返して、今僕はここに居るのだろう。  あと何回繰り返して、僕は君を忘れられるだろう。  そう、もうずっと前に気付いていた。  耳鳴りなんかない。この音は、嫌に僕を蝕む、あの忌々しい音は。    二度と戻らないと知った、あの夏の音。  君の声を掻き消した、あの波の音。  今もそこで一人泣いている。  失ってしまったあの夏を。咽せ返る程に苦しい、あの黒い夏を。思い出す度に、酷い眩暈が僕を襲う。    誰もいないキャンバスに描いたのは、黒塗りになった君の顔。思い出したくないと、波に掻き消させたあの笑顔。たった一つ、思い出すことさえできれば。  涙も出ないまま、胸の奥に引っかかった言葉を押し戻した。誰にも届かないと知っていたから。  これはそう。  思い出したくもない、最悪の思い出。

やけくその風呂場

 ストレスがMAXになっているので風呂場で意味不明な歌を歌う。 「パスタなんかパエリアなんか二郎の前には勝てね~よ!!♪」 我ながら意味不明だ。 ルサンチマン。 酸っぱい葡萄。 思えば彼女と別れてから某少女アニメのイベント代を酒に変えてかっくらった時から歯車は狂いだした気がする。 「美少女アニメに出てくるような女の子なんんてそうそういねーよ!!♪」 「生身の女は臭いもんだ!!♪その臭さが愛おしい!!♪」 僕の口から放たれるドブの匂いのする歌。 今宵もお姫様を不快にさせるだろう。 「楽師のようにはいかねえがゲロを吐いても様になる!!♪」 楊貴妃やクレオパトラが聴いたら即刻処刑されるだろう歌を歌う。 「俺を勝手に評価すりゃ世界はすべて あなたの思いどおり!!♪」 これ以上歌うと警察を呼ばれそうだ。 「寝よう!♪供養!♪君が思うよう!♪世界は理想郷!!♪」 意味の分からん韻を踏んだりする。 明日は散歩しよう。 「歩こう!!歩こう!!私は非元気!!♪」 マイナスにマイナスを重ねて無理やりプラスに持っていく。 「煙草も切れて酒も飲まない、クスリにも手を出さないんだからこうでもしなきゃやってらんねーよ!!♪」 あまり調子に乗ってると近所のヤクザにシバかれるのでこの辺にしておこう。 警察(アメリカ)ヤクザ(中国)に睨まれる日々は続く。

期間限定商品結婚相談所篇

『年収五千万円以上』 『身長百七十五センチメートル以上』 『年齢二十代後半』 『芸能人○○似』    ポストに突っ込まれていた、結婚相談所のチラシ。  今週の土曜日までに入会すれば、チラシに書かれているハイスペ男と確実にお見合いができるらしい。    汚い。  なんて汚い戦略だ。  目の前にニンジンを垂らしたあげく、高い入会金を払う価値があるか否か考える時間も与えてくれないなんて。    私は怒りのままに、結婚相談所に電話した。   「もしもし! 入会します! チラシの人とアポ組んでください!」    でも、こんなハイスペ、私の人生じゃあ二度と出会えない。  それに、期間限定だし。    我に返った私は、部屋のベッドに座って、昼からチューハイを飲んだ。  冬限定の味。  美味しい。

ナカナオリ

「アカリちゃん、おはよう。今日もかわいいね。」 「…。」  反応がない。昨日からずっとこの調子だ。懸命に彼女の気を引こうと試みるが、僕のことが視界に入っていないみたいだ。彼女を怒らせたのだろうか。 「ねぇ、何か嫌なことがあったの?そろそろ話してごらんよ。ちゃんと聞くから。」 「…。」  どうしたらまた笑ってくれるんだろう。 「今日はおやすみでしょ?外にでも行かない?」 「…。」  そろそろ僕も限界だ。 「無視なんてひどいじゃん。僕のこと好きなんだったら何か言ってよ!」 「…ちょっとだまって!」  やっと反応してくれたと思ったら。やっぱり怒ってるんだ。 「そんな怒鳴らなくたっていいじゃん。ねぇ、アカリちゃん!アカリちゃん!」 「もううるさい。うるさい!嫌い!あっちいけ!」  キライ。言われてしまった。悲しい。  ピピピピピピピピ!  アカリちゃんのケータイがなった。 「…サキ?うん、大丈夫。」  電話の相手はよくウチに来るサキだ。 「…うん。でも私、もう無理。別れると思う。」  ワカレルってなに…?意味がわからない。アカリちゃんの無表情だった顔面はだんだんぐちゃぐちゃになっていった。 「ありがとうサキ。ごめん、もう切るね…。」  アカリちゃんはケータイをおいて、深く息を吸った。 「…あんなにかわいいって言っときながら、ふざけんなよ!うそつき!」  そう言うと、アカリちゃんは布団を引っ張ったり枕を投げたり声を出して暴れた。  アカリちゃんがこんなに凶暴だったとは知らなかった。  僕はしばらくして静かになったアカリちゃんに近づいて頭を下げた。  アカリちゃんはやっと僕をじっと見た。  アカリちゃんは目と鼻と口からぼたぼたと水が垂れている。だけど、僕からは水が出ない。 「…ごめん、ハル。怖かったよね。イライラして…ごめん。ごめんね。」  アカリちゃんが僕の頭を撫でた。僕はアカリちゃんの顔をじっと見つめ返した。 「…嫌いって言ってごめんね。本当は大好きだよ。」  アカリちゃんは僕の顔をわしゃわしゃした。アカリちゃん…。僕もアカリちゃんが大好きだよ。 「ハル。ごめんね、ありがとう。」  アカリちゃんは少し笑ってまた顔がぐちゃぐちゃになった。  アカリちゃん。  僕はいつもそばにいるよ。  ぎゅっと抱きしめたらあたたかいよ。  僕のふわふわな毛で涙をふくといいよ。  僕は君の笑顔が見たいだけなんだ。

桜の咲く時 彼を思い出す

注意 これは私が経験した事が書いてあるので… 気をつけて読んでください 今日は、彼に会うのが最後の日 彼は、元気いっぱいでギャップがある人だった 私は最後の日だから告白をした、最後の日には、公園に行く道中に、手を繋いだりしたら、彼は、顔を避けていた、でも最後の最後にハグをしてくれた…またどこかで会える時には、また会いたいと思う私だった…… 桜が満開の時期 桜を見ると何故か、彼を思い出した…心は、ボロボロになった、私にとって彼と遊んだ日々が…幸せの時間だったと思う…また会えたら、笑顔にしてくれるか考えてしまう… また会えたら、笑えますように……

カスのひゃくとうばん

加水町(カスちょう)は、緊急ダイヤルが3つある。 110 (警察)、119(救急、消防)、111(カス)である。 111に電話をかける...繋がった。 「カスですね」「カス値を測定するので、そのまま動かないで」程なく、 「係数、オーバー300」「急行します」 すぐにカス消防車が来た。ショッキングピンクで塗りたくった悪趣味なハイエースの上に、ビニールパイプがついてる。左には赤、右には青、ペンキを塗って...嘘だろ? 5年目くらいの黒ずんだホースが、車窓から覗く。 牛乳が飛んできた。 奴らが、全身くまなく牛乳だらけになった俺に、紙切れを投げて帰っていく。「カス酌量 品のない記者」って書いてある。 俺は、今日、今年でいちばん気分がいいかもしれない。 俺もカスだから。 あなたもね。

0321

朝焼けくゆるあなたの火 一人散らすそれを それでも、幸せを願っています。 敬具

背中を追う、隣を歩く【6】

私は思いっきりドアをガラララと開き、背後で「ガン!」と凄まじい音が響くのも構わず腹の底から叫んだ。 「あのぉぉぉぉお!!」 室内にいたのは同じクラスの女子二人だった。名前は…なんだっけ。まぁ今はどうでもいい。突然乱入してきた私の剣幕にあからさまにたじろぎ、呆然と口を開けている。 「あのいいですか!? 負けてんのは自分の実力が足りねえからであって勝ってる奴のせいでも何でもねぇんで!!んな他所様に責任転嫁して傷舐め合ってる暇があんなら一歩でも追いつく努力が必要だと思うんですよぉ!!」 自分でも何を言ってるのか分からないまま怒りに任せて丁寧語と暴言をごちゃ混ぜにした言葉を叩きつける。一息に喋ったせいで呼吸が苦しい。 「あとそこ! アンタらが駄弁ってるのは私のロッカーの前だから! 荷物取るから散りな!!」 有無を言わさぬ勢いで二人をどかし、ロッカーから荷物をひったくる。 石像のように固まった二人を置き去りにしたまま私は再び更衣室のドアを思い切り開き、風を切って廊下へと飛び出した。 これは余談だが、当時の私にも現在の私にも、特に親しく無い人間相手に何かをまくし立てるなんて度胸は全くもって備わっていない。陰口を言うような連中と同じ思考回路だったのが嫌だったのか、ただでさえ苛立っていた時に気分の悪い会話を聞かされたことへの八つ当たりだったのか。 このときのブチ切れのハッキリとした理由は今現在もよく分かっていない。

ふふっ

ひどく 寒い 厚着だ 強くなった気が ほんとはまったく 強くなんて   ・ 服をたくさん 身にまとう ほんものの自分 おうおうにして よわい自分のこと そのほんものの自分を 見せないように できる 見えないようにも できる   ・ ちがう ちがう 調子こいてんじゃねえぞ 言われて なにも 言い返さなかったのは 調子こいてんじゃねえぞ 言ったその本人が 一番に 調子こいてたから こらえるのに 必死だった   ふふっ 強いって? そう思うのは ただの カンチガイ 強くなんて なってない でも いいのか あたたかくは なった

蜘蛛の糸

 昼か夜かもわからない地下鉄の駅は、所々鉄骨が剥き出しになっている。圧縮され狭くなった通路には背中をやや丸めた人が集り、歩く音と定期券をかざす音がその上に溜まっている。  きっと今は朝なのだろう。  壁に貼られた路線図が蜘蛛の巣のように見える。大都市の地中に張り巡らされた営巣。至る所に伸びるこの糸を伝っていけば、きっとどこまでも行ける。  点字のような目がついている蜘蛛の顔を思い出す。どの糸の後ろにも蜘蛛は居て、どこまで行っても、わずかな振動を頼りにこちらを追いかけて来る。  路線図の空白ばかりがやけに目立つ。  この世界に未だ糸が張られていない所もあるだろう。しかし私はこの糸を伝っていくことしかできない。  少しずつ、この空白に巣が張られて行って、やがてはそこへも行けるようになるだろう。  だが私は、その場所に糸が垂れる前に行きたいのである。  人の雑踏を遮るように路線図の前に立つ。幾許かの人間は眉を顰め舌打ちぶつかってゆく。  そんなことに私は少しも頓着せず、路線図の空白に居る一匹の地蜘蛛を見ていた。その蜘蛛は空白をすすっと動き回り、時折り銀のような糸を宙へ吐き出している。  その糸は黒い色をした川のような流れの上でゆらゆら揺れている。  今日は未だ始まったばかりである。 令和八年一月一四日

初めてじゃない、はじめて。

 待ち合わせ場所に着いたとき、私は思わず深呼吸をした。  高校生の頃みたいに、制服じゃない。  でも、緊張の仕方だけは、あの頃と同じだった。  彰人は、先に来ていた。  スマートフォンを見ながら、時々周囲を気にしている。  その姿を見た瞬間、少しだけ安心する。 「おはよう」 「……おはよう」  ぎこちない挨拶。  でも、それが嫌じゃなかった。  今日は特別な場所に行くわけじゃない。  駅前を歩いて、カフェに入って、映画を観る。  それだけなのに、心臓は落ち着く気配がない。 「その服、似合ってる」  突然、彰人が言った。  目は合わない。 「……ありがとう」  褒められるなんて思っていなかったから、返事が遅れた。  カフェで向かい合って座ると、妙に距離を意識してしまう。  テーブル一枚分の間隔が、こんなに遠かっただろうか。 「緊張してる?」  私が聞くと、彰人は苦笑した。 「ばれてたか」 「うん。昔から」  その一言で、二人とも少し笑った。  笑うと、不思議と肩の力が抜ける。  映画館を出たあと、夕方の風が心地よかった。  何気なく歩いているはずなのに、手と手の距離が気になる。  信号待ち。  彰人が、少しだけ私の方に寄る。 「……手、つなぐ?」  その声は小さくて、でも逃げなかった。 「うん」  答えると同時に、指先が触れた。  ぎこちなく、でも確かにつながる。  懐かしいはずなのに、初めてみたいだった。 「なんかさ」  彰人が言う。 「今のほうが、ちゃんと好きって言える気がする」  私は、少しだけ強く手を握った。 「私も」  夕焼けの中を歩きながら思う。  遠回りした分、今はちゃんと向き合えている。  これは、青春のやり直しじゃない。  あの頃の続きを、大人になった私たちで歩いているだけ。  信号が青に変わる。  つないだ手を離さずに、私たちは一歩踏み出した。

体調の悪い隊長

 隊長は、有能だ。  戦地においても、決して判断を誤らない。  右に行くべきか左に行くべきか。  隊長は正解の方向を選んでくれる。  以前、隊長に逆らい、隊長の選んだ方向と逆に進んだ兵隊は、敵に捕まり捕虜となった。   「げっほん、ごっほん」    そんな隊長が、今日体調を崩している。  右か左かの選択肢を前にして。   「まずいな。熱で頭が回らないし、目もボヤッとしてよく見えない」 「た、隊長!?」 「多分、右」    いつもなら、隊長が右と言ったのだから、右だ。  しかし、今日の隊長は体調が悪い。  この選択もあっているかわからない。  実際、隊長が酒を飲んで酔いが回っている時は、選択を誤りゲームに負けることもある。   「さあ、右に行くぞ。ついてこい」    いつもであれば軽快な兵士たちの足が、鈍い。  私も、鈍い。  果たして、隊長の選択はあっているのか。  仮に隊長の選択を疑うとして、でじは次に誰の選択を信じればいいと言うのか。  この隊の選択は、全て隊長に依存してきたのだから。    よろよろと歩く隊長の姿を見て、私は分かれ道を凝視した。

二人セゾン

数年前、同じアイドルの同じメンバーが好きというきっかけで、SNSで意気投合し、仲良くなった女性がいた。 彼女とは、アイドルをきっかけにお互いのプライベートな話をするようになった。 色々話すうちに、何となくお互いが気になっている感じがしていた。 でも今思えば、特別な出会いなんかではなく、ありきたりなネットの恋愛の始まり方だったと思う。 そうとも知らず、当時高校生だった俺たちは、互いに顔写真を送り合ったり、ビデオ通話なんかもした。 顔を知ったことで、お互いの相手への思いがより強くなったのか、それから間もなくして付き合うことになった。 その日から、とにかく毎日が楽しかった。 付き合って間もない頃、いつものように電話をしていると、電話から聞こえる彼女の声のテンションが、いつもより低いのはすぐに分かった。 訳を聞いても、歯切れの悪い返事ばかりだった。 その日は、そのまま電話を終えた。 様子のおかしい原因が気になっていたが、次の日の電話で、 「本当はもっと早く伝えるべきだった。ごめん」 と、今にも泣きそうな声で言われた。 状況が分からない俺は、とりあえず落ち着くよう言った。 数分の沈黙の後、彼女が震えた声で話し出した。 「中学の頃に、二つ上の先輩に片思いしていたことがあって。先輩は頭が良かったから、よく勉強を教えてもらってたの。いつもは図書館だったけど、その日は先輩の家で勉強することになって……。部屋に入ったら、ベッドに押し倒されて、乱暴されて、無理やり……」 そこまで話しきる頃には、彼女は泣いていた。 俺は、彼女からゆっくりと放たれる重い言葉に、ただ「うん」と相槌を打つことしかできなかった。 彼女は黙り込み、俺もかける言葉が見つからず、長い沈黙が続いた。 沈黙を破ったのは彼女だった。 「それから、男の人と話すのがすごく怖かった。でも君は違うの。些細なことでも心配してくれる。ちゃんと私のことも考えてくれる。だから君とは、ずっと一緒にいたい。自分勝手な私だけど、ごめん」 そこまで話し終えた彼女に、俺は「心配しないで。大丈夫だよ」としか言えなかった。 彼女の告白から半年くらい経った。 些細な喧嘩や言い合いもしたが、二人の気持ちだけは変わらなかった。 変わったのは、世界だった。 未知のウイルスが世界中で大流行した。 彼女の両親は同じ職場で、パンデミックの影響で二人とも自宅でのリモートワークとなり、一日中家にいる生活が続いた。 俺の両親は、田舎で人が少ないこともあってか、影響は受けつつも変わらず仕事をしていた。 彼女の父は、過去にあったこともあってか、娘が男の人と親しくすることを拒絶するというか、過度に心配していたという。 故に、俺との関係のことを言えるはずもなく、知っているのは彼女の母だけだった。 家にいる父の目を気にしてか、次第に電話をする回数も減っていった。 久しぶりの電話も、何となく彼女が冷たく感じた。 俺は、少しだけ不安に感じていた。 その募る不安をどこかに吐き出したくて、それっぽい文章と写真を、どうせ24時間で勝手に消えるからと思いつつ、SNSに投稿した。 投稿後も彼女は特別変わりなく、相変わらず少し冷たく感じるだけだった。 数日おきの電話も、週に一回程度になり、その後はほとんどしなくなった。 その間、メッセージのやり取りもほとんどなく、ただ時間だけが過ぎていった。 五月の初旬、彼女から「今夜、電話しない?」と言われた。 これから起こるであろうことに、俺は覚悟を決めた。 別れようと言われたら、素直にそうしようと。 最後に優先すべきは自分ではなく、相手の気持ちだと。 当時の自分では、カッコつけたつもりでいた。 電話をしてみると、別れ話ではなく、この前の俺のSNSの投稿についてとがめられた。 俺の不安を吐き出した投稿が彼女に伝わっていたらしく、その真意を問われた。 俺は、ありのままを話した。 一通り話し終えるまで、彼女は黙っていた。 俺が話し終えると、彼女から別れを告げられた。 理由は言われなかったと思う。 もしくは、ショックで覚えていないだけかもしれない。 覚悟を決めていたが、いざその場面になると動揺は隠せなかった。 でも、すぐに承諾したと思う。 それが最善だと思ったから。 あっさり身を引く方がカッコいいと思ったから。 こうして、俺たちは別れた。 二人が春に出会い、夏に結ばれ、そして春に別れた。 これまでに感じたことのない難しさと儚さ、そして、ときめきを感じたのは確かだと思う。 結局、一度も会えずに終わったから、大した思い出もなかった。 お互い、考えも行動も子供過ぎたのかもしれない。 まだ未熟だったから。 でも、ふとしたときに思い出すと思う。 死ぬまで忘れない。 だから、この出会いこそが思い出なのかもしれない。

quiet memory

落としたカップ焼きそばは、その月の残り少ない大事な食事だった。 たしか塩味の、昔から好きな味だった。 好きなのだと、私に言っていた。 電話越しに泣いている。 昔からこうなのだと。 あなたは何も悪くない。 ただ泣いている声が苦しい。 一人遊びが好きで、ぬいぐるみが好きで、弱いのに無理にでも意地を張らなければ生きて来れなかった。 あなたは言った。 「心の寿命が来たんやと思うねんな。」 苦しい。 こんな言葉が口から出て良いわけがなかった。 あなたが私の家に来た時、 私の言葉を覚えていたあなたが、持ってきたカップ焼きそばを取り出して、作って欲しいと言った時。 泣きそうだったのはバレていないだろうか。 お湯を入れて、流して、箸を入れて渡した。 それを一緒に食べて 横にはぬいぐるみを置いて ただそれだけで良かったのに。 ただ、私の頭を撫でてくれた貴方の手を覚えている。

メリーさんの最期

 メリーさん。  都市伝説の一つ。  突然電話がかかって来て、こう言われる。   「あたしメリーさん。今、○○駅にいるの」    電話は切られ、またかかって来る。   「あたしメリーさん。今、○○スーパーの前にいるの」 「あたしメリーさん。今、△△ってアパートの前にいるの」 「あたしメリーさん。今、×××号室の扉の前にいるの」    電話がかかってくるたびに、メリーさんは近づいてくる。  どこへ逃げようと。  どこへ隠れようと。    そして最後の電話で、こう言われる。   「あたしメリーさん。今、あなたの後ろにいるの」       「誰よ、その女!!」 「ギャー!」 「人がお風呂に入ってる間に、他の女を部屋に連れ込むとか信じられない! クズ! 死ね!」 「待て、誤解だ!」    背中を刺されたメリーさんは、そのまま倒れて動けなくなりました。   「あ、あたしメリーさん。至急、救急車を一台お願いするの。場所は」

待ち合わせ場所に誰もいなかった

『来週土曜日の十字、○○駅の改札前集合な!』 『おk』 『把握』 『りょうかーい』    当日。  誰も来なかった。   『皆遅刻?』    即座に一通返ってきた   『ごめん、熱出た』    やむを得ない。  五分後に一通返ってきた。   『ごめん、完全に忘れて別の用事いれちゃった』    やむを得なくない。  極刑。  あと一人からは、いつまで待っても返ってこなかった。  多分、寝てる。    集合時間から三十分。  唐突な、暇。  改札からぞろぞろ人が出てきたのを、ぼーっと眺める。  友達が混じっている訳でもない人の波を。  人の波が駅の外に出て、空っぽになった改札前。  立っているのは、ぼくともう一人。   「ええー……。全員来れないって、予約どうすればいいの……」    多分ぼくと同じ理由で立ち尽くす人が一人。   「貴女も、遊ぶ予定だった友達、全員これなくなったんですか?」    話しかけたのは、ほんの気まぐれ。   「え? あ、はい。貴方もですか?」 「そうなんですよ」 「偶然ですねー。嬉しくない偶然ですけど」    よくわからないけど話が弾んで、よくわからないけど一緒に映画を見に行くことになった。  友達の分の席が空席になるくらいなら、というだけだ。  映画を見て、喫茶店で感想を言い合って、夕方になったので連絡先を交換して帰宅した。   『今日はありがとうございましたー。楽しかったです!』 『こちらこそ。また、映画でも見に行きましょう』 『ええ、是非。約束忘れないように気を付けまーす』 『ぼくと貴女は、忘れないでしょw』        「で、何回か遊んで、付き合うことになった」 「ちくしょう! あの日、約束をすっぽかさなければ!」    あの日遊ぶ予定だった男友達に話すと、とても嫉妬された。  人生って不思議だなあと思いながら、彼女からメッセージが来たので、忘れないうちに返信をした。

全人類善人で悪人

 殴られた。  どつかれた。  いっぺーは、悪いやつだ。    ぼくのお母さんといっぺーのお母さんが学校に呼ばれて、教室の中で話し合い。  先生もいるから五人。  いっぺーのお母さんは、先生を睨んで大声を出した。   「うちの子は悪くありません!」    いっぺーを、悪いやつを庇った。   「いや、しかしですね」 「うちの子は被害者なんです!」 「たくさんの生徒が、いっぺー君がえいじ君を叩いたところを見ていまして」 「その子がいっぺーにちょっかいでもかけて、いっぺーを怒らせたんでしょ!」    いっぺーのお母さんは、今度はぼくを睨みつける。  ぼくのお母さんがぼくの前に立ったから、すぐにいっぺーのお母さんが見えなくなった。    ぎゃんぎゃんぎゃん。  ぼくのお母さんといっぺーのお母さんが、大声を出し合う。  余りにも五月蠅いので、耳を塞いだ。    耳を塞いだら、すごく変な感じだなって思えてきた。  いっぺーは、悪いやつだ。  だって、突然ぼくを殴って来たから。  でも、いっぺーのお母さんは、ぼくがいっぺーを怒らせたんだと言っていた。  ぼくを悪いやつだと言っていた。  悪いやつをかばっていた。    何でこんなことが起こるんだろう。  ぼくはぼーっと考えた。  いっぺーが本当はいいやつだからだろうか。  いっぺーのお母さんには、いっぺーはいいやつに見えるからだろうか。  それはどうして。   「わかった。いっぺーのお母さんも、悪いやつなんだ」    答えがわかったのがうれしくて、口に出した。  いっぺーといっぺーのお母さんが、ぼくの方を見た。  いっぺーのお母さんが、鬼のように恐い顔になった。    ほら、悪いやつだ。  結局、いっぺーから謝ってもらうこともなく、ぼくたちは家に帰ることになった。   「えいじ、ああいうこと言ったらあかんで」    帰り道。  ぼくのお母さんから叱られた。    悪いやつを悪いやつと言うことは駄目なことらしい。  誰がそんなこと決めたんだろう。  別の悪いやつが決めたのだろうか。    頭の中がぐるぐるして、いいやつも悪いやつも同じ場所にいるなんて、変な場所だなあと思った。

不満を共有して (掌編詩小説)

不幸を共有する事によって、自分の身に似たようなことが振り落ちないように対策する…というのが本来の人の癖だと思う。 現在ではどこかで自分じゃなくて良かったと安心したい気持ちが、不幸を共有したがる心境にさせているのだと思った。 (完)

今日も寒い

 駅からの帰り道。 障がい者マークを付けたおばあさんがネギをリュックに背負って歩いて帰っている。 ネギ買わなきゃ。 放射道路の歩道橋。 僕に魔法が使えれば家までおばあさんを送ってあげれるのに。 いや魔法は要らないか。 「お気をつけて。」 その言葉を今日は出せなかった。 今日も寒い。

間(ま)

 忙しない暮らしの空隙─たとえば人の少ない昼時の住宅街を歩いてるとき─に、ときどき駅のホームから飛び降りるところを想像する。それは別に深刻なものじゃなくて、宝くじに当たったところをイメージしたときの感覚に近い。だからその空想で飛び降りる私は、あどけない男の子が学校の帰り道にちょっと高い台からひょいと飛び降りるみたいに線路に飛び込んでみたくなる。  そんな想像をしていれば、あるとき何の躊躇いも無く突然これを試したくなる。死ぬとは何かを知らない子どもみたいに自分をぞんざいに扱ってみたくなる。  これはあれに近い。急に楽しくなって走り出すあの感情だ。  ホームの縁に立つ。線路の幅の広さが視界の奥行きを歪ませる。そんなに高くないじゃないか。飛び降りても、また、登って来れる。  向こうからやってくる電車をちらりと見遣る。  目線を戻せば、私の姿は、そこにはもう無い。  令和八年一月一三日

異国の少女は自然を求め僕たちの煙を見て悲しい顔をする

 都内の公園で知り合いと煙草を吸う。 多分公園内禁煙。 異国の少女は美しい日本の風景を見に来て僕たちに怪訝な顔を見せる。 ヤンキー絶滅種、と言った看板でも立てて僕たちを檻の中に閉じ込めて煙草を吸わせればいいのかもしれない。 デオドラント社会。 まあでも縄文の森には煙草はなかっただろうしな。 これは完全に僕たちが悪い。

ワンシーン 6

キンコーン インターホンが来客を告げた。居合わせた面々が一斉に扉の方を見やる。 「ど、どーぞー」 Cが若干裏返った声で応じた。 「やあ」 ひらりと片手をあげて入ってきたのはHだ。もう一方の手には少し大きめの紙袋を持っている。 「おや、珍しいね」 来客用ソファに座っている金髪の青年・Mの姿を見とめて声をかけた。 「久しぶりやな」 よっ、と手を上げてMが応える。 「ちょうどよかった。駅前に出店が出ていてね。エクレアを買って…」 「「「「エクレアーーー!!!」」」」 Hが言い終わる前に一同天を仰いだ。 「???」 話は1時間ほど前に遡る。 「久しぶりぃ」 すでに開けたドアをノックして、来客が言った。 「おー! Mじゃん!」 「どうしたの? 仕事?」 KとAが驚いた顔で迎え入れた。 数年前に仕事で知り合った、西方面に居を構える友人である。 サプライズ好きでよくこうして連絡なしで訪ねてくるのだ。 「そそ。時間あったんで寄せてもろたわ」 ひらひらと手持ちのケーキ箱を揺らし、 「前に食いたいって言うてたケーキ買うてきたでー」 とテーブルにポンと置いた。 「まじかっ! これ賞味期限短いやつだよな!」 Kが食いつく。 「ありがとう〜懐かしいなぁ」 西方面に住んでいたことのあるAがチラッと時計を見る。 「そろそろCさん帰ってくるからお茶にしよう」 「何? Cちゃん出かけとん?」 「ちょっとそこまで買い物にね」 と言うが早いか、 「ただいまー」 と可愛らしい声が響いた。 「おかえり」 すっと荷物を受け取ってMがニカッと笑う。 「あらMくんじゃないー! いつ来たの?!」 驚いた顔でCが言う。 「ついさっきな。土産あんで」 Mが言うと、 「え! 何々!」 とはしゃいで覗き込み、ほどなく「あ!」と言う顔になる。 「どうした?」 「…珈琲切れたから買いに行ったのに忘れちゃった…」 「なぁにやってんだよー!」 ばっとKがのけ反った。 「しかもね」 CがMの持つ買い物袋からパックのケーキを取り出し、 「美味しそうだったから買っちゃった。半額のケーキ…」 とバツの悪そうな笑顔で言った。 そこへ鳴り響くインターホン、である。 「それは…申し訳ない」 ちょっとしたスイーツバイキング然としたテーブルを見て、Hは何も悪いことはしていないのだがつい謝った。 「いや、Hさんは悪くない」 Aが慌てて取りなして、 「場違いかもしれないけど…待ってて」 と自室に戻って行った。 「ちょうど5袋だけ残ってたよ」 とドリップコーヒーを差し出した。 「でかした!」 「さすがAさん!」 「お白湯出そうかと思ったわ!」 「今度地元の喫茶店のやつ送るわ!」 四者四様絶賛し、拍手喝采。 そこへ、四度目のインターホンが鳴った。 「M来てる?」 Mの仕事仲間であり、共通の友人でもあるTが扉を開けた。 「いらっしゃい! こんなに揃うなんて嬉しいわ!」 「おー満員じゃん」 そう言ってTはテーブルの上を見て「げっ」という顔をした。 「何この血糖値上がりそうなラインナップは…」 この中で唯一、甘いものが好きではないTが顔を引き攣らせる。 「幸せで不幸せな偶然というやつだね…」 Aが笑う。 「そんなところに悪いんだが…」 Tはトン、と紙袋を仲間に加えた。 「赤福」 「「「「「赤福ーーーーーー!!!!!」」」」」 またそんな足の早いものを…と頭を抱える面々。 「もらったの昨日だから今日中に食わねぇとやべぇ」 それとは逆に淡々と事実を告げるT。 「…T、逃げられると思うなよ」 「へ?」 「あたしたち…明日から遠征なのよ…」 KとCがじっとりと言う。一欠片として残すわけにはいかない、と言うことだ。 TとMとHが顔を見合わせた。 「俺食えねぇから持ってきたんだけどぉ!!!」 何も言わず、Aがお茶の準備に向かった。 仲が良すぎる故、たまにこうした地獄のお茶会が催されることもある。

ワンシーン 5

「おや? これはCさん?」 雑貨に紛れて飾られている写真にふと気づき、Hが問うた。 「あらやだ、片付けるの忘れてたわ」 そう言ってCは写真立てを手に取った。 「見るの初めてだっけか?」 定位置になりつつある来客用ソファに寝転んでいたKがよっこいしょ、と身を起こす。 「可愛いでしょ? 成人式の写真。毎年お正月から成人の日の間だけ飾るようにしてるの」 す、と差し出され反射的に受け取り、Hはまじまじと見た。 写真立ては随分古ぼけており、アンティークと言ってもいい上等な品だ。いくらか退色しているが振袖を纏ったCの姿は今と全く変わらない。 少し照れくさそうな、それでいてどこか居心地の悪そうな顔をしている。 「ハタチになるはずだった年にママが用意してくれたの。いらないって思ったけど、撮っておいてよかったって今は思うわ」 本当は20歳ではない。産まれた年から20年経った年というだけ。 「式典にも参加してね、同級生から七五三みたいだなんて揶揄われて。失礼な!って言い返してみんなでケラケラ笑ったけど…」 切なそうな表情で語る様子に、Hは話題にしたことを後悔したが、 「やだ! しんみりしないでよー! この写真のおかげでいろいろ思い出せるんだから!」 すぐに察したCがHの肩をバシッと叩いた。 「さてと、成人の日も過ぎたことだし、片付けますか」 写真立てを受け取り、自分のデスクの引出しからこれまた古ぼけた布で丁寧に包んだ。 「お嫁に行けなくなっちゃうからね」 Aが見守りながらふわりと微笑んだ。 「Aさん、それは雛人形…」 「バーカ! それは雛人形だろ!」 HとKが口々に突っ込み、Cは高らかに笑った。 あの日、かつての仲間と笑った日が返ってきたような気がした。

背中を追う、隣を歩く【5】

(ア゛ア゛ア゛ア゛!! なんなんだよなんなんだよマジで!!あんなの人じゃないよ宇宙人だよ!!) 授業終了後、校庭の隅にある水道で文字通り頭を冷やしながら私は心の中で繰り返し毒づいた。 未だに朝とは会話らしい会話すら交わしたことがない。私から話しかける気になれなかったし、向こうから寄ってくる気配も皆無だった。というか、彼女が誰かと喋っているところ自体見た記憶がない。あの常に浮かべる無表情も相まって周囲を拒絶するような近寄り難いオーラを醸し出しているせいだろう。 ボコボコに叩きのめされたことにも腹が立つが、それ以上に齋藤朝という存在そのものが妙に気に入らなかった。 この世のすべてに興味がないような、勝敗さえもどうでもいいと突き放しているような。彼女の纏う「諦観」の空気が私は嫌だった。 (ムカつく……何が腹立つって、終わったことなのにいつまでも怒ってる自分に腹が立つ!!) 力任せに顔を上げようとして蛇口に後頭部を強打した。 「……いっ、た!!あ゛ぁー!!もう!!」 火花が散るような痛みが走り、抑え込んでいた苛立ちがさらに一段階跳ね上がった。 (あーあーあーもう! ろくなことがない……帰りにラーメン食べて全部忘れてやる) ズキズキと痛む後頭部をさすりながら、私は無理やり怒りをねじ伏せて更衣室へと向かった。 薄い扉の向こうから数人の声が漏れ聞こえてくる。不満げな声色から誰かの愚痴だろうと察し、特に気に留めることもなく取っ手に手をかけた。その時だった。 「齋藤さんちょっとヤバくない? あれ正直もう人間じゃないよ」 「あー、分かる。なんか同じ空間にいてキツいよね、なんかこう、しんどいっていうか」 「きっと私らみたいな連中のこと下に見てるんだろうね、やっぱり」 ピタリと、手が止まった。 嫉妬だ。その感情は痛いほど理解できた。だがそれ以上に自分の中で何かがパンと弾け飛ぶのが分かった。 大人ぶってカッコつけて感情をコントロールしようとしていた自分なんてどこかへ吹っ飛んだ。