ディスプレイは変わらないし中身は死ぬし

『おはよー』 『おはようございます』    SNSでできた友達が、ある日を境にそっけなくなった。  嫌われている訳ではなさそうだが、なんと言えばいいのだろう。  返事が淡泊になった。   『私、何かした?』 『何もしてないよ。なんで?』    ああ、いや。  言語化できた。  冗談が抜け落ちているのだ。  ちょっと笑うような冗談が消えて、ただただ用件を消化するボットみたいになっている。   『中の人、変わった?』 『もうバレたんだ。うん。中の人は死んで、今はAIが自動返信してる』 『なんでそんなことを?』 『寂しがらないように』    機械的な文章からは、友達の最後の気遣いが感じられた。  でも、違う。  やっぱり、違う。  そんな気遣いの方向は間違っている。   『もう大丈夫だよ。友達の真似しなくて』 『わかった』    返信は止まった。  二度と友達からの発信はなかった。    私は泣いた。  ベッドに突っ伏して、涙が枯れるまで泣いた。    どうせなら、友達が死んだときに泣きたかった。  気遣いへの嬉しさと、訃報を知ることのできなかった悲しさで、涙がまじりあった。

ベースのオジサン

その人は、よく街で見かける ひょろ長く、 痩せていて、 黒々と日に焼けている 髪は長く、おへそ辺りまでありますが 何故かいつも髭は剃ってある 夏でも冬でもランニングTシャツを着ていて、カラフルなボーダー柄が汚れて、灰色に色あせている 下は、オレンジのハーフパンツに 黒い長靴を履いている その人はいつも歩いていた。街を。道を。ベースを肩に掛けながら。 彼は「ベース男」とか「ベースのオジサン」とか呼ばれていた。普通に「やばい人」と呼ばれることも多い 彼はぼーと前を見てゆっくり歩く 人にすれ違う時はベースを傾け、当たらないようにする 彼は歩いている。ただそれだけ。 ベースを肩に掛けて歩いているだけ 叫んだり、暴れたりはしない 彼は、これから、ステージに上がるバンドマンのように ベースを肩に掛け、左手はネックを握り、右手はそっと弦の上に乗せてある 彼は、たまに、ベースを弾いている 歩きながら、ぼーと前を見たまま、ベースを弾いている ベースはエレキベースなので、周りにはパチパチした音しか聞こえない 彼は夜になるとどこかに消えてしまう その黒い肌が夜に溶けるように、空が暗くなると彼を見ることは出来ない 朝日が昇り、鳩が鳴く頃、彼は、街を歩いている。道を歩いている。 以前、住宅街の中にある公園でお祭りがあり、町内会でステージを作りライブをした時があった たまたま、彼が公園を通ったとき、彼は足を止めた。 彼は、ステージを見て、ベースアンプを確認した。 彼は暫くの間そのまま、止まったままステージを見ていた。 彼の、足が、ステージに向うとしたその時、 リハーサルの為、バンドマンたちがステージに登場すると、彼は、また歩き出した あのステージではないどこかに 彼は、今日も、歩いている。街を。道を。 ベースを肩に掛け、左手はネックを握り、右手はそっと弦の上に乗せて 時々、ベースを弾きながら。

泣かない娘

「赤ちゃん、産まれましたよ……あれ?泣きませんね。」  普通の赤ちゃんなら外の世界に初めて出た時、声を上げてなくだろう。しかし、私の娘は全く泣かなくて、何か体に異常があるのじゃないかって、先生を困らせてた。私もとても心配した。  最後に先生が 「大丈夫でした。とてつもなく肝が据わっているだけです。」  と言ったときは、腰抜かすかと思ったわ。    それからも、娘は全く泣かなかった。 小さい頃、頭から転んじゃったときも、立ち上がって何事もなかったのかのように立ち去っていった。  テレビで怖いのをみた時も、少しビクッとはしたものの泣くことはなかった。   ちなみに怒られて泣いたこともない……というより、怒られたことがない。この子、完璧なのだ。言われたことは守るし、大体なんでもできる。鈍臭い旦那とポンコツな私の間に生まれたとは思えないくらいしっかりしている。  いつもポーカーフェイスで何でもこなしてしまう娘……こんな感じで娘が泣いたところを私は一度たりとも見たことはない。    だから、絶対泣けると言う映画をレンタルショップで借りて見せたこともある。  見終わって顔を梅干しくらいクシャクシャにして泣く私の横で、スンとした顔の娘が 「面白かった、ありがとう」  と立ち去っていった。  ここまで泣かないとは……泣かれるところを見られたくなくて影でこっそり泣いているのではないか、涙腺に関する病気を患っているのではないか、心配になってきた。  数年後に娘は結婚した。  いよいよ泣くのではないかと思ったが、泣いたのは私と旦那で、娘は泣かなかった。  しかし、幸せそうな笑みを浮かべていた。  その時から私は娘の涙を詮索しなくなった。  そうだ。泣かなくったって、この子が幸せでいてくれたらそれでいいのだ。今までだって、泣きはしなかったが娘はたくさんの幸せな顔を見せてくれた。  この子の笑顔が見られたらそれでいい。 ……それから何年かたって、私は医者に余命を告げられた。末期がんらしい。  たくさん泣いた。もっと生きたかった。もっと生きて旦那、娘、家族と一緒に過ごしたかったな。  はじめは絶望で立ち直れないかと思ってたけど、たくさんの人がお見舞いに来てくれた。旦那なんか、私よりも泣いて、死ぬのは私だっちゅーの。……そういうところがあなたの好きなところだけどー。  あー、私幸せだったな。  多分、もうすぐ私は死ぬだろう。自分でわかる。だって、私の身体だもの。  あれ?誰かが私の手を握っている。 「………さん、お母さん」  娘の声だ。 私は声にならないくらいの声を振り絞っていう。   「……私にたくさんの幸せを見せてくれて……ありがと……う。幸せになっ……てね。」  その時、私の手に冷たい何かが落ちてきた。  娘の涙だった。  大粒の雫が私の手に何回も落ちてくる。   ……私、こんなにも愛されていたんだな。 ……泣かない子で、心配したけど、あなたは世界一優しい子なんだよね。  あー、ほんとうにいい人生だったなぁ。  娘よ 「……大好きだよ」    

人生にも二度書きがあれば

習字に良い想い出は無い。 アレのせいで僕は炎のような人生を歩む事になったのだから。 アレは自身を高めるような、そんな素晴らしいモノでは無い。 競技だった。スポーツだった。何よりも社会の縮図だった。 義務教育における習字の授業を『秀字』と直しても良いのではないかと僕は思う。 コンクールという催しが最たる例だ。 習字は僕の時代ではポピュラーな習い事であったからして、 クラスの半分、少なくとも三分の一が有段者だった。 だというのに、賞を取る作品の大半は学年の成績優秀者で埋められる。 これが何を意味するのかを幼い心では理解できなかったのだ。 悔しかった。結果だけを求め、義務教育を終えた。 全てのカラクリを知った時、僕は習字をやめた。 未だにあの日の炎は消えず、行く先々でボヤ騒ぎを起こしている。 もし万が一にも習字を始めたいのであれば、学校を出てからを強くおすすめしたい。 やり直しというのは、案外と大人の方が利きやすいものだからだ。

家族日記

四月三日。 今日は娘の入学式だった。 新しい制服に袖を通して、照れくさそうに笑う顔がたまらなく可愛い。 妻は涙ぐんでいた。 俺はビデオを回しながら、「そんな泣くなよ」と笑った。 いい一日だった。 四月十五日。 最近、娘が日記をつけ始めたらしい。 「見せて」と言うと、「やだー」と笑って逃げる。 妻はキッチンで鼻歌を歌いながら弁当を作っている。 明日もきっと、いい日だ。 五月一日。 出張から帰ったら、家が少し静かだった。 妻は寝室で寝ていて、娘はもう夢の中らしい。 テーブルの上には、俺の好物の煮物が置いてあった。 温めなおして食べた。 やっぱり家の味は落ち着く。 五月十六日。 最近、妻の料理の味が少し変わった。 塩気が強くなったというか、なんというか。 でも文句を言うと怒られそうだから黙っている。 娘は元気だ。学校も楽しいみたいだ。 六月二日。 ビデオカメラの中身を整理していた。 あの日の入学式の映像を見返す。 妻が泣いている後ろに、俺が笑って映っている。 ……いや、違う。 俺が、カメラの前にいるのに、撮っているのは誰だ? 六月三日。 寝室のタンスから、妻の日記を見つけた。 気づいたら開いていた。 最初のページにこう書かれていた。 『あの日から、あの人の声がまだ聞こえる。 ご飯を作っていると、笑い声が聞こえる。 娘も同じ。 いないはずなのに、ちゃんとそこにいるの。』 ページをめくるごとに、文字が乱れていく。 “今日は話せた”“また一緒にご飯を食べた”“そろそろ行かなくちゃ” 最後のページに、赤いペンで一行。 『あなた、まだここにいるの?』

二次人間

 初めての出勤でやらされたのは、模倣だ。  私は雇い主と同じことを強いられた。   「口調が違う! そこは、『そうですね』じゃなくて『そうね』!」 「わかりま……わかってるわよ」    髪型。  服装。  性格。  思想。  本人から仕込まれる人間の情報。    雇い主は金持ちだ。  生まれたときから帝王学を学び、経営者としての人生を歩いてきた。  地位も金銭も手に入れた、輝かしい人生。    でも、ここにきて壁にぶつかったらしい。  会社員として生きる部下の無能さ。  言われたことしかやらず、向上心の欠片もない。  自分の所属する会社の株価も知らなければ、ヴィジョンも知らない。    一度怒鳴ったら、会社員じゃない貴女に何がわかるんだ、と言い返されたらしい。    会社員を経験したことない人間は、会社員の気持ちなんて分からない。  その事実を前に、雇い主は会社員として結果を出すことにしたらしい。  しかし、自身は経営している会社を抱えている。  そこで、私の出番だ。  外見が似ている私に、雇い主の全てを注ぎ込んで、私を会社員として働かせ、会社員としても有能であることを示すロードマップ。  一時創作ならぬ二次創作。  雇い主の歩んでいないパラレルワールドを歩くことが、私の仕事だ。   「うん。ようやく、いい感じになって来たわね」 「ええ。ま、私だから当然だけどね?」 「あら、生意気。私らしくていいわ」    雇い主が経営する会社の一つに入社した。  余りにも似すぎているから双子かと驚かれたが、経歴を見る限り全くの別人。  よく言われるのよね、と乗り切った。   「いやー、君が来てくれて助かったよ」    雇い主の教育は的確だった。  私が身に着けた能力は会社員としてもいかんなく発揮され、すぐに戦力として数えられた。  雇い主に報告したら、それはもうご満悦。  ほらみなさい、と鼻高々だった。   「証明できたし、もういいわよ」    そして私は、首を切られた。  いや、元々証明することまでが私の仕事だったので、予定通り契約が終了したというのが正しい。        彼女との接点は、もうない。  雇い主は社員の心を掴み直して、経営はさらに順調に拡大しているらしい。    私は彼女の姿を、テレビでしか見ていない。  彼女は一次創作。  私は二次創作。  似ていても、結局別物。   「次の仕事、どうしようかなあ」    再度彼女のグループ会社に中途採用で入ろうとしたら、もれなく落ちた。  私の経歴では、入社と言う門さえ潜り抜けられなかった。  やっぱり貴女は会社員にはなれないんだよ、とでもメールを送れば、再び雇用される可能性もゼロではないが、あまりにも見苦しい負け惜しみだ。

もし願いが叶うなら

夏の夜。潮の香りが漂う港町。 少女ルミナスは、波止場の先でひとり空を見上げていた。 「……また会えるかな」 その声に応えるように、風が揺れた。 そして白い姿の青年、ロンが現れる。透けるような体は、光に溶けそうに淡い。 「約束しただろう。君がここに来る限り、俺は現れる」 ルミナスは微笑む。 彼は幽霊。かつてこの町で生き、若くして海に命を奪われた存在。 出会いは偶然だった。夜の港で泣いていたルミナスの前に、ロンは現れた。 それから、彼女は夜ごと港へ通い二人は心を通わせていった。 ─だが、心が通うほどに、ルミナスの胸は痛んだ。 「ねぇ、ロン。どうして私は……生きてるのに、あなたに惹かれてしまうんだろう」 ロンは、そっと彼女の頬に手を伸ばす。触れられはしないけれど温もりを伝えたいと願うように。 「命のある君が、俺を選ぶのは間違いかもしれない。けれど……俺は君を愛してしまった」 言葉を重ねるたび、夜は深く、海は静かに広がっていく。 ──夏祭りの夜。 浜辺には無数の燈籠が並び、人々は一つひとつを海へと浮かべていく。 灯火は波に揺れ、海の上に星座のような光を描いた。 ルミナスは一つの燈籠を抱き、ロンの影に微笑む。 「願いを込めて流すんだって。……私の願い、聞きたい?」 ロンは頷いた。 「私はね……幽霊だろうと、生きていようと、ロンと一緒にいたい」 そう言って、燈籠を海へと浮かべる。 灯火は波に揺れながら、まるで二人を祝福するように輝いた。 ロンはその光を見つめ、深く目を閉じる。 次に開いたとき… 彼の姿は、少しずつはっきりとしていた。 「……ルミナス。俺も、願ってしまったんだ。もう一度人として君と歩きたいって」 海に浮かぶ燈籠の光が二人を照らす。 やがてロンの手が、確かにルミナスの頬に触れた。 「あ……あったかい……!」 「奇跡なのか、願いの力なのかは分からない。でも……俺は君と生きたい」 ルミナスは涙をこぼしながら、彼の胸に飛び込む。 灯火が次々と海を流れ、夜空の星と一つに溶け合う。 そして、少女と幽霊だった青年は確かに結ばれた。 海に浮かぶ燈籠は、二人の恋を永遠に照らしていた。

猫が語ること

 そのデリカにはいつもコバエが飛んでいた。  だいたい、その学校の食堂横に設置されたスペースを〝デリカ〟と言いそやすことには無理があった。民間企業出身の校長の肝いりで行われた設備投資だったが、生徒たちは袋入りの焼きそばパンやウィンナーロールが並んでいた購買部時代を懐かしがってばかりいた。  デリカを任されているヨギにしてもそうだった。  購買部がデリカに改変されてから、職場の雰囲気は最悪だった。ヨギの職場である食堂は朝の食材の搬入に始まり、十一時半からのランチタイムを目指してありとあらゆる業務が集中するのだ。購買部だったころは、委託業者がパレットで持ってきた工場生産のパンを並べるだけでよかったが、「毎日美味しい総菜で皆を笑顔で健康に!」をモットーに据えられたデリカでは、かぼちゃのラタトゥイユだとか青パパイヤのソムタムサラダだとか、聞き慣れない(生徒達も食べ慣れない)惣菜を作らされていた。せっかく提供するならもっと売れそうな、メンチカツやらアメリカンドックなんかを置けばいいとヨギなんかは思うわけだが、そういう時代ではないと一蹴された。  昔は職場にも楽しみがあったものだ。ちょっと良い食材が安く仕入れられた日は賄いも豪華になったし、食堂裏のプレハブに灰皿が置いてあったころは、教師も裏に来て煙をふかしていたものだ。公には学校でタバコが吸えなくなった後も、こっそりとやって来てはシャツを叩きながら職員室に帰って行った。そういうときの何気ない会話が、ひどく面白かったように思える。  昔と何一つ変わらないのは生徒の鬱陶しさぐらい、何度あいつらを刻んでスープにしてやろうと思ったことか。ヨギはため息をつく。腕まくりしたシャツから見える腕は、すっかり細くなって骨ばって血管ばかりが目立っている。時の流れは残酷だなんて言い方は生っちょろい。歳をとっていくと、自分の中にある灰色の感情が、そのまま皮膚まで溢れ出てきてしみになっていくのだ。  放課後には余ってしまったデリをパック詰めにする。最近の一番の憂鬱だ。廃棄が出たらその数を事細かに申請して、明日以降の配備計画を提出し直さなきゃいけない。こうなってくると〝健康第一!〟のデリを出している場合ではないと思うのだが、そういう企画運営に関することは下っ端も下っ端のヨギがいくら訴えようと変わるものでもない。自分の晩御飯にしようと、ついでに廃棄も減るというわけで家に持って帰った同僚が解雇されたのも記憶に新しい。あんなに長く勤めていたのに。  パック詰めされたものは、業者が回収に来てどこかに運んでいく。おそらく誰かの何かにはなっているのだろうが、もはや人間が食べているかどうかすら怪しく思えてくる今日この頃だった。  パレットにようやく惣菜を詰め込み終わってふと顔を上げると、猫が一匹、コンクリートの上にうずくまっていた。ヨギではなく壁の一点をじっと見ている。猫のよくある仕草だ、ヨギはあまり気にせず腰をかばいながらパレットを重ねる作業を続けていた。  学校における怪談などというものをヨギは一切信じなかった。酷く陰湿ないじめや人間関係の醜さは存分に見てきたつもりだが、それを死んだ後まで引きずるなんて馬鹿馬鹿しく思えた。ようやくそいつらと離れられるんだ、もっと違う楽しいことを考えればいいのに。  猫の方に向き直ると、今度はヨギのことをじっと見ていた。珍しいことだ。あまりこのあたりでは見かけない猫である。 「食うかい?」  サバの煮つけを見せてみる。 「いらない」  猫が喋ったような気がしたが、それが自分の妄想なのかもはや区別がつかない歳になりつつあることをヨギはよく理解していた。指示を聞いていても上の空だったり、何度も注意されても直せないことが増えてきていた。あるいは、何も言われていないのに話しかけられた気がして振り返っても、誰もこちらを向いていなかったり。  寂しいからだろう、そう思えるぐらいにはヨギは自分に対して達観していた。あるいは、人生も下り坂に差し掛かった人間の、一種の諦めなのかもしれないが。 「ハエがいるね」  猫は前足を伸ばして伸びをしながら口を大きく開けてあくびをした。 「ハエよりも人間の方が不潔さ」 「ハエは昔から死を運んでくるものだから」  いつの間にか、ヨギはカウンターを挟んで猫と真っ直ぐに対峙していた。 「何が言いたいんだい?」 「別に。でも自然が教えてくれることに耳を傾けることを、最近の人間は特に苦手っぽいからさ」  猫は座り直すと、舌を出してペロリと口を舐めた。口角があがり、こちらのことを笑ったように思えた。 「覚えておくよ」 「その方がいいだろうね」  そして猫はさっと茂みの中に消えて行った。  ヨギが接客するデリカでは、今日もコバエが飛んでいた。 (お題:デリカテッセン)

ただいま

「おかえりなさい。」 玄関の灯りがついた瞬間、妻が笑顔で迎えてくれた。いつものように、エプロン姿で。その後ろから、小さな足音が二つ。 「パパ、おかえりー!」 「おかえりー!」 子どもたちが飛びついてきた。久しぶりの感触に、胸が熱くなった。そうだ、家族ってこういう温もりだったな……。 転勤で半年、単身赴任していた俺は、今日ようやく戻ってきたのだ。 食卓にはカレー。俺の好物だ。 「うまそう!」 「でしょー?」 妻が少し照れたように笑う。子どもたちは学校の話を楽しそうにしてくれる。上の子はピアノを始めたらしい。下の子は鉄棒ができるようになったと誇らしげだ。 俺は何度も頷きながら、涙が出そうになるのをこらえた。 「いい子にしてたか?」 「うん!ママも頑張ってたんだよ!」 夜が更け、子どもたちを寝かしつけ、久しぶりに妻と二人きりになった。少しやつれたようにも見えるが、やっぱり優しい目をしている。 「……帰ってこれてよかった。」 「うん。やっと、みんな一緒ね。」 その言葉が、やけに深く胸に残った。 寝室に入り、布団に潜る。窓の外では、静かに虫の声が響いていた。 ――夜半。 ふと、誰かのすすり泣く声がした。子どもたちかと思い、リビングへ行く。そこには妻が立っていた。背を向けて、冷蔵庫の前で何かを抱えている。 「どうしたんだ?」 声をかけると、彼女がゆっくりと振り返った。 抱えていたのは、俺の遺影だった。 俺は、そこで初めて思い出した。 ――半年前のあの日。 会社への帰り道、あの交差点で、俺は……。妻は泣きながら遺影を拭き続けていた。 「もう……もう帰ってこなくていいの。どうか、休んで……」 リビングの時計が、午前0時を指す。針の音が止まった。そして妻が気づいたように振り返る。 「……あなた、また帰ってきたのね。」

試し書き

 文房具店のボールペン売り場。壁のように並んだ棚から一本取り出し、試し書きをしようと棚下の紙を見ると奇妙な文が目に入った。 「人の顔にモザイクがかかってることってある?」  細めの黒いインクで書かれた文字は、走り書きしたようで、丁寧とは言えないほど傾いていた。その文章を矢印で指し「は?」「ないよ」と筆跡の違う文字が赤色と緑色のペンで書かれている。  ペンを左手に持ったまま、その文字を見ていると、後ろから声をかけられた。 「それ、毎日書かれているんですよ」  振り向くと、赤いエプロンの制服を着た青年が立っていた。学生のアルバイトなのか、顔にはまだあどけなさが残っている。 「ほら、ここレジから見えないじゃないですか。気付いたら書かれていて。毎日来ているお客さんなんていないし、気味悪いんですよ」  青年は口角を上げながら困ったように眉を下げた。 「お客さんじゃなくて、店員が書いているんじゃないですか」  店員は真顔になり、少し考えてから「うわあ」と、なんとも言えない声を出した。 「嫌なこと言わないでくださいよ」  先ほどよりも大きい「うわあ」を言った後、また「うわあ」と余韻のように小さく呟いた。  店員は「思い当たる人、いるんですよねえ」と言いながら、レジの方へと歩いていった。  先ほどの文を見る。その文の下に、左手で握ったペンを走らせる。 「顔、見られていませんよ」  レジにボールペンを持って行くと、先ほどの店員が笑顔でお会計をしてくれた。相変わらず、こちらの顔をまっすぐ見ることは一度もなかった。

平等じゃない

夏の朝は、誰よりも先に世界を独り占めしたような気分にさせてくれる。 人影の少ない道を歩けば、まだ誰も知らない秘密の時間に足を踏み入れたようで、世界が心地よく迎えてくれる。 一方で、冬の朝は夜の亡霊がまだ身体に絡みついている。 窓の外の空は色を忘れ、世界はまだ夢と現実の境目で震えている。 布団の温もりは、昨日の続きにしがみつくような甘い誘惑で、起き上がれば何かを損してしまう気がしてしまう。 静けさは澄んでいるのに、それは祝福ではなく、 「まだ来るべき時ではない」と告げる冷たい拒絶のようだ。 それでも、夏にも冬にも、朝は確かにやってくる。 夏は希望を、冬は覚悟を連れて。 季節ごとに違う顔を持つ “始まり” に、 今日も人は、小さな勇気をまとって立ち上がる。

ボクもおねえさんを花嫁にする!

 「はなよめ」になったおねえさんは、すごくキレイだった。だから、ボクもおねえさんを「はなよめ」にしたいって、おもった!  きょうはパパとママにつれられ、おねえさんのけっこんしきへ。いつもニコニコしてて、おいしいおかしをくれて、いっしょにあそんでくれる、おねえさんのとくべつなひ。  だからボク、パパとママにいわれたとおり、うごきまわらないで、じっとしていたよ。 「エラいね。きょうは、とってもいいコだったね」  いいつけをまもっていたら、「はなよめ」のおねえさんがそういって、ほめてくれた! 「おねえさん、つぎはボクの『はなよめ』になってね!」  ボクがそういったら、おねえさんやパパとママは、なんかへんなかおをしてたっけ? おねえさんは、こまったみたいに、わらってたけど……どうしてかな? 「けっこんは、オトナになってからね」  でも、おねえさんはそういって、ボクとけっこんのやくそくをしてくれたよ!  おうちにかえってから、ボクはパパとママに、どうしたらオトナになって、おねえさんとけっこんできるきいてみた。 「まずは、すき・きらいをなくして、ゴハンをしっかりたべないとな。それから、ちゅうしゃもこわがってちゃ、オトナになれないぞ」 「がっこうにいくようになったら、いっぱいおべんきょうしようね」  オトナはなんでものこさずたべて、ちゅうしゃもへいきで、おべんきょうができないといけないみたい……。  やっぱり、ちゅうしゃはこわいけど……きょうのばんゴハンにはいってたピーマンは、がんばってたべたよ! つぎにちゅうしゃするときは、いやがらない! オトナになるために、ボクはガマンする! がっこうにいくようになったら、いっぱいべんきょうもする!  だからおねえさん、ボクがオトナになったら、ボクと、けっこんしきしようね! ボクの「はなよめ」になってね! やくそくだよ!

1分前

「あと5分したら終わりなさいね」と言われた。 まぁ。ここまでもう少し、もう少しだけとお願いをして延ばしてきたのだ、そろそろ終えねばならなそうだ。 こっちのキャラクターはこの前この街に引っ越してきた。 あっちにあるパン屋はちょうど明日までオープンセールを開催中。 この街の道をずっと行ったところにある空き地には来年ショッピングモールができるようだ。 海を隔ててこっちの国ではもう間もなく停戦の合意に至る所だろうか。 こちらの山ではとある虫の最後の1匹が息を引き取った。 この海の深くでは昔沈んだ船が引き上げられるのを待っているが、その時はもうこなさそうだ。 あと1分 さぁて、そろそろ終わらねば。 セーブして、どこかの家に入っておこう。 みんなにお別れの挨拶もしないと。 そういうわけで、地球のみんな。 ありがとう、さよ 「ごめん、コンセント抜いちゃった」 「もう!なにしてるの!挨拶もできなかったじゃん!」 「いいじゃない別に。46億年もプレイしてたんでしょ?」 「だからだよ!!!」

隠逸花にわずかな愛を

「明日、この街から出ていく」 そう告げた君の身体は他の生徒が汗を滴らせているこの時期とは裏腹に小さく震えていた。 六月の雨はこの街のすべてを湿らせた。舗道のひび割れ、さびたガードレール、そして花の制服までも。 白瀬 菊花。僕の幼なじみだ。 教室の隅で、彼女は今日も黙ってノートに何かを書いていた。机に貼られた落書きは、昨日より増えている。「きもい」「消えろ」。僕はその字面を見て、手のひらがじっとりと汗ばむのを感じていた。 僕はこの街が嫌いじゃなかった。 だが、花にとってはこの街こそが檻の中だった。彼女は名前に「花」とついているのに、ここでは咲くことなくずっと踏みにじられている。 放課後、人気のないバス停の屋根の下で僕は彼女を見つけた。肩まで濡れ、目は遠くを見ている。 「ねぇ、どこ行くの」 僕が問いかけると、彼女は小さく花のように笑って 「もう、ここにいられない」と呟いた。 手には古びたトートバッグひとつ。 その時、止めることはできた。先生に言うことも、親に言うこともできた。でも、なぜか僕の足は彼女の隣に立ち同じ雨に濡れることを選んでいた。 「僕も行くよ」 口から出た言葉は、自分のものとは思えないほど真っ直ぐだった。 僕らは夜の街を抜ける。 駅前のネオンが雨に滲み、二人の影はひとつに重なる。花は何度も振り返るけど、もう追ってくる足音はない。 「どうしてついてくるの」 花が問う。 「君がいなくなったら、この街に僕の居場所もなくなるから」 そう答えると、彼女は唇をかすかに震わせ、前だけを見た。 終電のないバスに揺られ、遠ざかる街の灯りを背にする。花は窓の外を見つめ、指先でガラスをなぞるようにして言った。 「もし明日、全部がバレて捕まったらどうしよう」 「その時は二人で謝ればいい。逃げたことじゃなくて、君を守れなかったことを」 僕の言葉に、花はまた小さく笑った。 夜明け、知らない町のバスターミナルに降り立つ。 湿った空気が肺にしみる。ここには、あの街の視線も嘲笑もない。 花は深呼吸して、ふっと息を吐いた。 「ここから、私たちの世界かな」 「うん。ここからだよ」 僕らは古い商店街を抜ける途中、小さな花屋を見つけた。ショーウィンドウの片隅に、見慣れない白い花が一輪だけ置かれていた。札には「隠逸花」と書かれている。 「これ、私の名前みたい」 花が指差す。 「じゃあ、最初の記念に買おう」 僕は財布の中の小銭をかき集め、その花を買った。 花屋を出た瞬間、東の空がわずかに明るみはじめていた。 その光の中で、花はその花を胸に抱いて笑った。 今までの彼女とは違う、明るく舞うような笑顔だった。小さい頃からずっと一緒なのに初対面のような不思議な感覚が身体を覆う。 僕はその時初めて、彼女の名前の意味を知った気がした。 ━━━━隠逸花に、わずかな愛を。

月落ちた

 月が落ちた。  まん丸の形が砕けてバラバラになり、地上に破片が広がった。  月の石だなんて穏やかなものじゃあない。  破片。    見上げた夜空に月はなく、ひたすらの漆黒が広がっていた。  星たちも、すっかり輝く気を失っているようだ。    もしかしたら月は、必要とされなくなったと察し、自分から落ちたのかもしれない。  その証拠に、月が落ちたことに、ぼく以外の誰も気づいていない。  夜の灯りは、人間の作った町があれば十分なのだから。  今更、月の光にありがたみを感じる必要もない。   「つまんない最期だったなあ」    ぼくはこっそり月の欠片を手に取って、ポケットにしまった。  せめて玄関に飾っておいてやるために。

神の証明

光があるから影がある。 影があるから光がある。 お互いに助け合い、 お互いに忌み嫌う。 どちらが正しいかなんてどれだけ争おうと、 分からない。 どちらが強いか どちらに富があるか どちらが偉いか そうやって競うのも悪くはないが、 神様はもう飽きて天に帰られたよ。 目がチカチカすると若干お怒りなそうだ。 競う必要はないと神が証明して下さった。 さぁ散るのだ。 自分の持ち場につけ、惑星達よ。

毎年の転校生

「えー、転校生のカボチャ君だ。明日には転向する」    うちの小学校には、ハロウィンの日だけやって来る転校生がいる。  本名は難しくて忘れた。  カボチャみたいな髪型をしているから、皆カボチャ君と呼んでいる。   「皆、今年もよろしく」    カボチャ君は、そう言って微笑んだ。    カボチャ君はズルい。  私たちは、毎日一生懸命勉強している。  なのに、カボチャ君は一日しかしなくていいんだから。   「おい、カボチャ。良く戻ってこれたな?」    最初の休み時間。  カボチャくんは、さっそくクラスのいじめっ子にいじめられていた。   「ハロウィンだからね」 「なめてんの?」    いじめたくなる気もわかる。  だってカボチャ君はずるいから。  私も、力が強かったら殴りに行っていたと思う。   「死ね、カボチャー!」 「あはは。遠慮しておこうかな」    いじめっ子が、カボチャ君に殴り返された。  教室の入り口で仁王立ちしているカボチャ君は、向かいのランドセル置き場までふっとんだいじめっ子を笑って見ていた。   「ふ、ふ、ふ、ふえーん。酷いよー」    ああ、泣いちゃった。  カボチャ君はずるい。  外に出れるし、力も強い。   「ねえ、カボチャ君? そこ、どいてくれない?」    あ、次に行ったのはサキュバスちゃんだ。  サキュバスちゃんは、「男をろーらくするなんて簡単だ」っていつも言っている女の子だ。  ろーらくの意味は分からないけど。    サキュバスちゃんが、カボチャ君に抱き着いた。  いじめっ子なら、これで顔が真っ赤になっている。  でも、カボチャ君は真っ赤にならない。  サキュバスちゃんが、大きな胸を押し付けているのに。  サキュバスちゃんはいつも、男なんて胸を押し付けとけばイチコロだって言ってたのに。   「どうしてぇ?」 「どうしてだろうね?」    しょんぼりとするサキュバスちゃんの肩を、カボチャ君が掴んで横にどけた。    ああ、ズルい。  ああ、外に出たい。  私たちが外に出ることを許されているハロウィンの日を、邪魔するカボチャ君が許せない。    私は、怒りの余りにぱあっと全身を輝かせる。  座敷童の私の力は、周りの人を幸せにする。  カボチャ君以外の皆を幸せにすれば、きっとカボチャ君を倒してくれるはず。   「駄目だよ?」    だけど、私の光は邪魔された。  頭から墨汁をかけられて、全身真っ黒。  光も真っ黒。  こんなんじゃあ、誰も幸せにできない。   「ねえ、どうして邪魔するの?」 「ん?」 「私たちが外に出られるのは、一年に二回しかないんだよ」 「うん。じゃあ、残りの一日を待とうか」    一日の終わりのチャイムが鳴る。  結局、誰もカボチャ君を倒せなかった。  結局、誰も外に出ることができなかった。  ああ、悔しいなあ。  ハロウィンが駄目だったら、お盆の日までお預けなんだよ。    入り口の扉が透明になって消えていく。  カボチャ君は、透明な扉をガラリと開けた。   「妖怪の姿じゃなくて、人間の姿の君たちに会えることを楽しみにしてるよ」    そう言って、現世に続く廊下へと出ていった。    私も行きたいなあ。  お母さんとお父さんに会いたいなあ。    ハロウィンの日に外へ出ちゃうと、ずっと現世にいれるらしい。  妖怪の姿にはなっちゃうけど、ずっとお母さんとお父さんと一緒にいられるんだ。   「カボチャ君のいじわる」    お母さんとお父さんと会いたい私を邪魔をするカボチャ君は、やっぱり嫌いだ。

子どもと大人

しかたないのはもちろんあるけれど 好きじゃない子がおんなじ空間にいたって 子どもはそれをどうにかこうにか受け入れ おんなじクラスでなんとかやっていく 渋々ではあるけれど 不本意ではあるけれど 大人はというと あの手この手で 気にくわない奴を 他の部署に異動させようとしたり あるいは 自分が異動できるように 上役に取り入ってみたり なんやかんやで なんやかんや 子どもだからというわりに 大人だからというわりに 大人大人と口にするのに限って 子ども子どもと大騒ぎするのに限って 自分は大人だとまわりにアピールすることで 自分の子ども性をごまかしたいのかな 自分は子どもじゃないと声高に言うことで 自分の幼稚性をうやむやにしたいのかな 大人って なんだろね まったくね ほんとにね

失恋理由

 男友達が変わった。  髪にはワックスを付けて、少し出ていたお腹も引っ込んだ。  必要だから身に着けていただけだろう服と眼鏡も、ファッション雑誌に載っていてもおかしくないレベルまで引き上がっている。   「いったい何があったの?」    私が聞くと、男友達は気まずさと照れくささの混じった顔で笑った。   「失恋、したんだ」 「ああ」 「だから、変わらないとって思ってね」    失恋を機に、自分を見直す人間は少なくない。  失恋自体は残念なことだが、それを自分の人生に活かすことができている男友達を、素直にすごいと思った。   「失恋って、自分が変わる特効薬にもなるって言うしね。いいじゃん。すごく格好良くなってるよ!」    私はとびっきりの笑顔で、男友達へエールを送った。  男友達はほっとした表情を浮かべた後、私の顔をまじまじと見てきた。   「変わる特効薬、か」 「何?」 「だから女の人って、ずっと変わらないんだね」    ずっと変わらない。  ずっと変わらない。  言葉の意味をスキャンする。  失恋すれば変わると、私は言った。  一般的に、女性は振られる側でなく振る側だ。  つまり、振る側の女性だからこそ、失恋が少ないから変わらないという意図だろう。    計算完了。   「死ね」 「げふぅ!」    私はダメ男に天誅を下した。  誰が変わらない女だよ。  毎日毎日化粧の研究も、筋トレしてスタイル意地もしとるわい。  そんなこと言うから振られたんだ、お前はよぉ!

リズム

家族のなかで わたしだけ リズムがちがう 人生のリズム 生きるリズム もしかしたら 本当は よその家の子だったのかもしれないと 思ったことは 何度もある そう思う一方で 親の血液型を知らないことに ちょっぴり安堵する

たくさんたべるキミが好き

最近はちょっと太りたい 寒くなってしまったけど 食欲の秋だから 最近はちょっと太りたい ウチのねこが あんまりたべてくれなくなったから 最近はちょっと太りたい たべてるとこをウチのねこに見てもらいたい それでたくさんたべている 最近はちょっと太りたい わたしがたべてるのを見て 一緒にたくさんたべてもらいたい 最近はちょっと太りたい そのかいあってか すこしずつたべてくれるようになってきた 最近はちょっと太りたい 安心しても わたしの食欲はおさまらない 最近はちょっと太りたい ごはんをしっかりたべて ダメ押しでお茶漬け 最近はちょっと太りたい 正直なところ 抑える気持ちはあんまりない 最近はちょっと太りたい あとあとしっかり ダイエットするから

第12話「置行堀」・泡の下で何かが鳴いた

本能的に、魚は私が城の堀に近づくと私の方へ泳いできた。高大な池で見る鯉のように美しく輝いてはいなかった。鈍くて地味で、濁った水に紛れてほとんど姿が見えなかった。美しいかどうかにかかわらず、魚はいつも空腹だった。口が開く。口が閉じる。グーグーと私のお腹も鳴る。 私は水辺にしゃがんで、ミックスフルーツサンドを取り出した。一枚のパンを剥いで、小さく引き裂き、魚に与え始めた。バシャバシャと魚が騒ぐ。堀の遠い端に、マガモが一匹大声でガーガー鳴いていた。マガモは猛然と私に向かって泳いでき、濁った水をかき混ぜた。近づいてくると、びっくりした魚が散っていく。 突然、マガモは激しく羽ばたいて、飛び立とうとした。一本の足が引っ張られているようだった。それから、恐怖に怯えたマガモは水の下に引きずり込まれる。マガモの頭が一瞬水面に浮いた後、また消えた。頭は再び現れたがまたすぐに消え、二度と見られなかった。 すべてが静かになった。不気味なほどの静寂。しばらくすると、大きな泡が水面に浮かび上がった。泡ははじけて、下品なゲップが聞こえた。

小さな悪意

「私の中に湧き出る小さな悪意に耐えられなくなりました。自分に対する嫌悪感がいつまでも続くのです。また、その悪意が自分に返ってくることに怯える臆病者です。」  紙から指を離すと、くるりと丸まり、瓶の中にいた頃の形を作り出す。  バランスの取れていない乱雑な手書の文字からは、書き手の形を感じ取ることができない。男性かもしれないし女性かもしれない。老人かもしれないし子供かもしれない。  足元に転がる瓶に波が近付く。瓶を取り返そうと、海に隠そうとするように。  紙を瓶に詰め、栓をする。波から少し離れた場所に瓶を置く。  明日の朝、いつも砂浜でゴミ拾いをしているお爺さんが捨ててくれるだろう。あの人は目が悪いから、きっと中を見る事もなくゴミ袋の中にいれるだろう。  波の音が騒がしく耳に響く。

悪女に恋して

 最初の印象は、美人で仕事ができて、性格キツそうな異性の先輩。仕事を教わるうちに見えてきたのは、実は気さくで面倒見が良いところ。小洒落たカフェだのバーだのよりも、駅前の立ち飲みやら大衆食堂やらを好むこと。  そして俺は彼女に好意を持ち、想いを伝えたのだが……答えはノー。曰く、職場の人間とマジメな恋愛をするのはリスクがあるからしない主義だと。もしも、関係が悪化したとき、互いに仕事がやりにくくなると。仮にうまくいったとしても、結婚するとなれば会社方針でどちらかが部署移動を余儀なくされるから、それも不本意だと。  だけど、俺は知っている。先輩は直属の上司であり、既婚者の部長と交際――いわば不倫をしているのだ。これは、一部の人間たちには周知の事実。  不真面目な恋なら職場内でしてもいいのかという俺の反論に、先輩は美しく嗤った。それはそれは、ゾクリとするような妖艶さで。 「なにそれ? 私を脅してるつもり?」  先輩の声にも表情にも、後ろ暗さは一切見えない。 「そうやって、私と関係を持ちたいわけワケ? キミって、そんなやり方で思いを遂げて満足なんだ?」  違う。そんなことを考えていた訳じゃない。言い返したいことは色々あるのに、先輩の冷笑から目が離せず、言葉が出てこなかった。 「それとも、部長の奥さんにでもバラす? そうやって、私が不利な状態に追い込まれる姿を見て、溜飲下げたい?」  事情を知る同僚たちからは、再三「あの女はやめておけ」「おまえにはもっと、相応しい相手がいるはずた」と言われてきた。だけど、先輩以上に心惹かれる存在を見つけられる気がしない。  いつか俺が部長を超えるほど出世したなら、いや、若い頃の部長以上の業績を出したなら……先輩も俺を見てくれるだろうか? 先輩にとって、目が離せないほどの存在にならなければ、恋の土俵には上がれない。

陽だまりに恋して(完結)

夜の帰り道。 街灯のオレンジが舗道を照らしている。 放課後のカフェを出たあと、恋音と蓮見はほとんど言葉を交わさなかった。 沈黙の中、秋の風が通り抜ける。 恋音の髪がふわりと揺れ、その香りが蓮見の嗅覚を刺激する。 「……ごめんな。変な空気にして」 「ううん」 恋音は首を振った。 その声は少し震えていたけれど、怖がっているというより確かめようとしているようだった。 「さっきの、あの目……なんだったの?」 「……」 「怖くないよ。ちゃんと教えて。私、逃げないから」 蓮見は立ち止まった。 街灯の光が影を落とす。 彼の表情は、どこか苦しげだった。 「俺は……人間じゃない」 「知ってた。そんな気がしてた」 「……は?」 恋音は小さく笑った。 「だって、いつも太陽避けてるし、体育のときもすぐ倒れちゃうし。でもそれでも、ちゃんと頑張ってるの見てたから」 蓮見は言葉を失う。 思っていた反応と、まるで違った。 「俺は吸血鬼だ。血を吸わなきゃ、生きられない」 「じゃあ……今まで、我慢してたの?」 「……あぁ。俺は、人間を傷つけるのが嫌だった。 恋なんて、ただ血を甘くするだけの錯覚だと思ってた。でも……お前を見てたら、わからなくなったんだ」 恋音の心臓がどくん、と跳ねた。 「恋を、嫌ってたはずなのに」 「お前のことだけは、嫌いになれなかった」 その瞬間、空が小さく唸った。 雨がぽつり、ぽつりと落ちてくる。 蓮見はフードを深くかぶり、顔を隠す。 肌に触れる雨が、まるで刃のように痛い。 「蓮見くん……っ」 恋音が手を伸ばした。 でもその手を、蓮見はそっと押し返した。 「近づくな。俺、今……抑えられる自信がない」 「いいよ。噛んでも」 「は?」 「だって、苦しそうだもん」 蓮見は目を見開いた。 恋音の瞳は、真剣で、まっすぐで、まるで光そのものみたいだった。 「……バカだな、お前」 「うん。よく言われる」 苦笑する恋音の頬を、雨が伝う。 それが涙みたいに見えて、蓮見の胸が締めつけられた。 (こんなに優しい人間、どうしてこの世界にいるんだ) 「俺のこと、知っても……怖くないのか?」 「怖いよ」 「なら、どうして」 「それでも……好きだもん」 時間が止まった。 蓮見は静かに彼女を見つめ、そして雨の中、そっと彼女を抱きしめた。 冷たい腕の中で、恋音の心臓の音がはっきりと聞こえる。その音が、蓮見の理性をかき乱す。 「……ほんとに、後悔しないな?」 「うん」 蓮見は、彼女の首筋に顔を寄せた。 ほんの一瞬だけ、牙が光る。 けれど、噛まなかった。 「……やっぱり、無理だ」 「なんで?」 「お前の血なんか吸ったら、もう俺…離れられなくなる」 恋音は小さく笑って、囁いた。 「それでいいじゃん」 雨の音が二人を包む。 蓮見は彼女の肩に顔を埋め、かすかに震えながら呟いた。 「……恋って、こんなに痛いんだな」 「うん。でもね、痛いだけじゃないよ」 恋音はそっと蓮見の手を握る。 その温もりは、確かにそこにあった。 そして、月の光が雲の切れ間から差し込んだ。 夜に咲いた二人の嘘……いや、真実の恋が静かに始まっていた。

ちょっとそこまで

なんだってああいうときというのは ひゃあひゃあ言ってしまうのかな 誰もいないのにさ ちょっとそこまでの買いもの 傘いらないよねと 服も部屋で着ているよれよれの 髪もぜんぜんまったくで 寝起きだから目は きちんと開いていない そもそも顔だって ちょっとそこまでの そのちょっとのあいだに 雨に降られる 買いものをして 帰るときだったから まだよかったなあ そう思うも タオルで頭やらなんやら 拭いていたら もうやんでいる タイミングなんだよなあ 後悔と公平性について 人生に 公平性を 求めるな 人生とは 不公平の 連続さ 雨は さまざまな 人生模様だと わかったようなことを 何もわかっていない頭に並べていく ちょっとそこまでの そのちょっとのあいだに 雨に降られたってだけのこと ふっ みいんな吹き飛ばし とりあえず お湯を沸かす

陽だまりに恋して(2)

翌日、学校の廊下。 窓から射す光を避けるように、蓮見はフードを深くかぶって歩いていた。 昨日の太陽の熱がまだ体の奥に残っているようで、肌がじりじり痛む。 「はすみくーん!」 明るい声が背中を打った。 振り返ると、恋音が両手でお弁当箱を抱えて立っている。 「お弁当一緒に食べよ!!、はい。これ!」 「……これ?」 「おにぎり。私の得意分野!はすみくんの分!!」 笑顔で差し出すその手。 白い指。ほんのり赤くて、血が透けて見える。 蓮見は一瞬、息をのんだ。 (……だめだ。見るな) 目をそらそうとしたけど、恋音の瞳が真っすぐすぎて、逃げられなかった。 「ありがとな。でも……俺、ちょっと食欲なくて」 「え、そうなの? 昨日の熱、まだ残ってるの?」 「まぁ、そんなとこ」 恋音は心配そうに眉を寄せる。 その仕草すら愛おしくて、蓮見は思わず小さく笑ってしまった。 「じゃあ……元気になるまで、毎日作ってきてあげる」 「いや、それは——」 「決まりっ!」 返事も聞かずに嬉しそうに走り去っていく恋音。 残された蓮見は、呆気にとられながらも心のどこかが温かくなるのを感じていた。 ——人間の温もりって、こんなに優しいのか。 けれどその夜。 蓮見の部屋は真っ暗だった。 月明かりだけがカーテンの隙間から差し込んでいる。 机の上には、昼にもらったおにぎり。 開けられずにそのままだ。 (……食べられない。だって俺は……) 指先を噛むと、わずかに血の味がした。 喉の奥が熱を持ち、息が荒くなる。 吸血鬼としての本能が、抑えられなくなっていた。 恋音の笑顔が、脳裏に浮かぶ。 あの手の温度。あの香り。あの近さ。 「……くそ……俺は何してんだよ」 自分を殴るようにしてベッドに倒れ込む。 けれど、どんなに目を閉じても、恋音の顔が焼き付いて離れなかった。 ━━翌朝━━ 校舎裏の桜の木の下。 恋音がいつものように、笑顔で蓮見を見つけた。 「おはよう!今日もおにぎり持ってきたよ」 「……昨日のも、食べたよ」 「ほんと? よかった〜」 (嘘だ。食べてない) (でも、そんな顔されたら言えない……) 恋音は嬉しそうにベンチに腰を下ろし、隣をぽんぽんと叩いた。 「ね、今日の放課後さ。ちょっと寄り道しない?」 「寄り道?」 「うん! 商店街のところに、新しいカフェできたんだって」 (カフェ……日が沈む前……) 蓮見は一瞬迷った。 だが、恋音のきらきらした目を見た瞬間、何も言えなくなった。 「……わかった。行こう」 恋音は嬉しそうに笑う。 その笑顔だけで、太陽より眩しかった。 ━━放課後━━ 夕暮れが街を染めるころ、二人はカフェの窓際に座っていた。 恋音はストロベリーパフェを、蓮見はアイスコーヒーを前にしている。 カフェの空気は甘く、静かで、どこか夢のようだった。 「ねぇ、蓮見くんってさ」 「ん?」 「なんか……いつも遠く見てるよね」 「そう見えるか?」 「うん。どこか行っちゃいそうで、少し寂しい」 蓮見は目を伏せる。 まるで図星を刺されたように、喉の奥が苦くなる。 「……俺、みんなみたいに普通じゃないんだ」 「え?」 「だから、あんまり近づかない方がいい」 恋音はしばらく黙っていた。 けれど、その沈黙のあとで、まっすぐ彼を見て言った。 「普通とか関係ないよ。私は——」 その瞬間、窓の外の太陽が沈みきり、夜の闇が街を包んだ。 そして、ほんの一瞬—— 蓮見の瞳が赤く鋭く光った。 恋音は息をのむ。 (今……なに……?) けれど、怖いとは思わなかった。 ただ、彼の中にある“何か”を見つめ返していた。 「……ねぇ、蓮見くん」 「……」 「あなた、本当は……何者なの?」 沈黙のあと、蓮見はゆっくりと微笑んだ。 どこか切なく、どこか救いを求めるように。 「……言っただろ。俺は、太陽よりお前が危ない」

ドS大佐はVチューバー⑫

「あれ、桃果は?」 「帰りの電車の時間があるとかで、さっき帰られました…」 桃果さんのテンションにあてられて、精根尽きた私の姿を見ると 藤堂さんは「なんか、ごめんね」と視線を外した。 夕暮れ時、藤堂さんは私を駅まで送ってくれた。心なしかいつもよりゆっくりと歩いている気がする。 駅に向かう途中で、藤堂さんは自身の身の上話を始めた。 「桃果は今の母さんの連れ子なんです。実の母さんは、俺を産んですぐ亡くなったらしくて、全然覚えて  ないですね。六歳くらいの時に、父さんが再婚して母さんと桃果が家族になった。桃果とは打ち解けら  れたけど、母さんは…ちょっと難しかったみたいっすねぇ」 藤堂さんは、私の方を見るとにこっと笑った。まるで、こんなのよくある話だよと気遣うみたいに。 「まぁ今思えば当然ですよね、子供一人育てるだけでも大変なのに、血の繋がらない子供の面倒までみれ  ませんよ。それで子供の頃、俺の事は愛せないって言われたんですよ。あっ誤解しないで下さいよ?  飯も身の回りの事もちゃんとやってくれてましたから」 藤堂さんは、緩急をつけず話し続ける。 「でも中学くらいになったら、思春期もあってかもっと話さなくなって、もともと用がないと話さない関  係だったから段々、居心地が悪くなっちゃって、高校はずっとバイトして、金貯めて、卒業と同時に家  を出ました。俺がいない方があの家はもっと明るくなるなぁと思って」 そう言って笑う藤堂さんの腕を私は掴んだ。 「そんな事ないっっ‼️藤堂さんがいない方がいいなんて絶対ないっ」 口を開くと泣きそうになった。 藤堂さんが笑ってるのに、私が泣くわけにはいかないと奥歯に力を込める。 「…そんな泣きそうな顔しないでよ、悲しい話じゃないから」 藤堂さんは、私の両腕を『大丈夫だから』と優しく擦りながら話を続けた。 「でね、俺こんな性格だから就職した頃よく周りと衝突してたんです。そのうち孤立しちゃって  ここにも居場所ないなぁって思ってた時に薫さんがゲーム配信しないかって誘ってくれたんすよ」 「兄さんが?なんか意外です」 「まぁぶきっちょな人ってだけで、もともとお兄ちゃんスキル高いっすからね」 藤堂さんは立ち止まり、私に向き直ると 「おかげで自分の居場所が見つかりました。薫さんには本当に感謝してます…真琴さんにも出逢えたし」 と少し照れくさそうに笑ってみせる。 「だから、真琴さんが気に病む事は何ひとつありませんよ」 ねっと私の顔を覗き込み、どこまでも私を気遣ってくれる。優しい人。 そうやって笑って話せる様になったのはいつ頃なんだろう。 それまではどんな気持ちで毎日を過ごしていたの? 「…私も、藤堂さんに出逢えて良かったです。私ね…いつ死んでもいいくらい、人生どうでもよかったん  です。けど、今は…明日死んじゃうのは、ちょっと困りますね」 そう言って苦笑する私に藤堂さんは軽く微笑むと「ならよかった」とひとこと言った。 「真琴さんが死んじゃう前に、真琴さんに出逢えて良かった」 ああ…まただ。あなたは、私の考えを否定しないんだね。 私は藤堂さんの頭に手を伸ばし、ぽんぽんと軽く叩いた。 その行動に藤堂さんは、数秒きょとんとした後、私の手を軽く振り払いながら 「なんすか、俺そんなイタいっすか?」 「そうじゃなくて、私が撫でたいだけ」 再度伸びてくる私の手から逃れようと、藤堂さんは身をかわし続ける。 「ちょっと、やめてよ真琴さん。ガキじゃないんだから」 しばらくその場で、ぐるぐると追いかけっこをした後、私は膝に手をつき乱れた呼吸を整えながら… 「まったく、あなたは私の攻略本でも持ってるんですかーっ?」 と少し離れた所で身構えている藤堂さんに声を掛けた。 「どーゆー意味っすかーっ?」 と真っ赤な夕焼けを背に、藤堂さんは首をかしげながら、顔をほころばせた。

今学校

みんな学校行ってる?私は行ってる

陽だまりに恋して

昼下がりのグラウンド。 白いラインが陽に照らされて揺らめいている。 秋のはずなのに、やけに眩しい。 恋音は眩しそうに目を細めながら、友達と笑っていた。いつだって彼女の周りには誰かがいる。 まるで子猫のように愛される存在。 その小さな手がひらひらと風を掴むたび、クラスの空気がやわらかくなる。 そんな彼女を、蓮見は少し離れた場所から見ていた。 無意識のうちに。視線が勝手に追ってしまう。 だがその日の太陽は彼にとってあまりにも残酷だった。 「……っ、くそ……」 蓮見は手を額に当て、ふらりと膝をついた。 体育の持久走。日光を避けることもできず、体の奥が焼けるように熱い。 心臓が痛い。血が沸騰するような感覚。 「蓮見くん?! 大丈夫!?」 薄れる意識の中、こちらへ駆け寄る声がした。 影が彼の上に落ちる。 その影の中心で、恋音が心配そうに覗き込んでいた。 「ちょ、ちょっと顔真っ白だよ!?保健室行こ?」 「……いい、平気……」 「平気な顔じゃない!」 恋音はためらいもなく彼の腕を取った。 驚くほど温かい手だった。 彼女の手の温度が、焼ける皮膚の痛みを少しだけ和らげる。 (……あぁ、太陽の下にいるのに。なんで……) (この子の隣は、こんなに心地いいんだ) 保健室に着くころには、蓮見の頭の中はもう恋音のことでいっぱいだった。 ベッドに横たわりながら、彼女が額にタオルを乗せる。すぐ近くで感じる彼女の息。 「……ありがとう。ほんとに助かった」 「ううん、誰かが倒れたら助けるの、あたりまえだよ」 恋音は笑った。 その笑顔が、まるで陽だまりみたいで。 光が怖かったはずの蓮見は、気づけばその光をもっと見たくなっていた。 ——恋なんて、くだらないと思っていた。 ——血よりも厄介で、意味のない感情だと思っていた。 けれど今、胸の奥で何かが静かに疼いている。 恋音がタオルを取り替えようとしたとき、指先が少しだけ蓮見の唇に触れた。びくっと身体が反応する。 その瞬間、吸血鬼としての本能がざわめく。 (やばい……このままだと、抑えられない) 恋音の香りはあまりにも甘くて、血よりも誘惑的だった。 「蓮見くん……?どうしたの?顔、また赤くなってるよ?」 「……なんでもない」 「ほんとに?」 恋音はのぞきこむように顔を近づけた。 その距離、あと数センチ。 蓮見の喉がひくりと動く。 「……あんまり、近づくな」 「え、どうして?」 「俺……には…太陽より、お前のほうが……危ないかもしれない」 恋音はぽかんとしたあと、ふっと笑った。 「なにそれ、変なの」 蓮見は視線をそらす。 胸の鼓動が、血の音をかき消すほど激しい。 (俺は吸血鬼。 人間に恋しちゃいけないのに——) 窓の外では夕陽が沈みかけていた。 赤く染まる光の中、恋音が微笑む。 それは、蓮見にとって初めて“美しい”と思えた夕暮れだった。

ブリキの晩餐

最後の食事を、私は見届けた。 病床に伏せっていた彼女の最後の願い。 「いつものように食事がしたいの」 その為だけにハウスキーパーだけを残していたお屋敷の使用人が勢揃いし、 ひと月を掛けて彼女の生活していた”いつもの姿”が整えられた。 眩しかったあの頃に戻ったようだ。 いや、彼女の心が未だ眩しく、温かだからこそ実現したまさに奇跡だったのだろう。 当日、彼女の専属執事に私は磨かれる。 お給仕用ロボットとして買い入れられただけだった私が彼女の病室に付きそう大役を任されるまでになるとは、誰が予想できただろう。 積み木のように正方形のパーツを乗せただけのような姿はブリキのオモチャのようだが、 彼女が言うにはそれくらいの方が気を使わなくて助かるのだという。 屋敷の人間に付き添われた彼女を出迎える。 一足先に私だけ戻ってきていた。”いつも”は留守番をしているからだ。 「オカエリナサイ!オジョウサマ!」 私がノイズ混じりの声で挨拶をすると、彼女は一瞬時が止まったように茫然とした後、破顔した。 「ただいま。今日もクタクタよ」 お決まりの言葉。少しだけ目じりに涙が見えたような気がしたが、 私を含め使用人は誰一人として知らぬ顔をした。彼女もそうした。 まもなく食事が始まる。 絵に描いたような長テーブルではなく、 四人くらいが囲める程度の少し大きめの円形テーブルに彼女は座った。 給仕機能など破損してしまって久しい私は、彼女の隣に陣取るのが通例だ。 彼女の父が存命の時は、前菜やらメインやら色々と決められた順番に運んでいたものだったが、 彼女が当主となってからはそんな決まり事は全て止めてしまって食卓は一気に賑やかになった。 「だって、お料理は冷めたらおいしくないもの!」 何かを言われる度に、そう屈託なく笑うのだ。 本来であれば動くのすら難しい彼女の為に用意された料理は薄味で、とても美味しいとは言えない品だったが、それでもシェフ達の心使いで見た目と香りだけは当時を損なわないよう工夫が凝らされている。 彼女は一口ずつしか味わえないそれらを、美味しい。おいしい。 と、永遠といえるくらいの時間を掛けて味わった。 その頬には幾筋もの涙が伝う。 最初に彼女自身が決めた決まり事。 『絶対に泣いてはなりません』は、結局当人が真っ先に破っていた。 使用人達のすすり泣く声が聞こえてくる。 決まり事があったから、誰も泣いていない事になった。 「今日も美味しいわね~。一日頑張った甲斐があったわ。さっ、貴方もどうぞ?」 そう言って彼女が私のロボットとしての口にお肉を一切れ入れてくれた。味はしなかった。 元々毒見としての用途しかなかったのだから当然だ。 「アジ、シナイ……」 だが、そんな機能が無くとも彼女の表情を見ているだけで味が伝わってくる気がしたし、 何より幸せだった。 夢のような”いつも”の時間がキラキラとした靄の中に溶けて、夜の静けさだけが残る。 「ふわ~、それじゃぁ私はもう休もうかしら」 「……はい、ご当主様」 応える専属執事に、彼女は少し不満げだ。 「いやね、昔みたいに名前で呼んでくれても良いのに……それじゃ、後はよろしくね?」 「おやすみ……なさいませ」 最後まで屋敷に残っていた専属執事は、彼女の幼馴染だった。 彼は一生を通して、彼女の我儘を叶え続けたのだ。 この後、彼女は永遠の眠りにつく。 その身体は限界量の鎮痛剤と麻酔、そして精神力によって持ちこたえているというだけで、 一切の治療を絶った今もう助からない。 それでも、私の助けを借りながらベッドに倒れ込んだ彼女は、幸せそうだった。 「ふわぁ~、今日も楽しかったわね~。貴方もありがとう」 「ドウイタシマシテ!オジョウサマ!」 そういって私はブリキのボディーを優しくコツンと彼女に当てる。おやすみなさいのキスの代わりだ。 「…………おやすみ、なさい」 いつものように彼女は挨拶をするが、とうとう”また明日”とは言ってくれなかった。 彼女に内緒で取っておいたお肉の一切れを、 今一度味わう。 「オジョウ……サマ。おやすみなさい」 何も味がしない事が、 今はどうしようもなく寂しく感じた。

境界線の黒猫

「空を飛べたら、よかったのに」 そう振り返って笑う君は、とても美しかった。 昼下がりの屋上、僕たちの唯一の隠れ家。 孤独を分け合うように、僕と君は今日も残酷なほど青い空を見上げる。 風で揺れる髪から、赤紫に滲んだ跡が見え隠れすると、君はそれを隠すように、そっと首元を触る。見るたびに増える、その痛々しい跡。 「そしたら、ここから逃げて、どこへでも行けたのにね」 痛みが増える程、君は孤独になっていく。 このまま君のそばにいるのが、僕だけになってしまえばいいのに。 そうすれば、君は僕だけを見てくれるのに。 「それでも君は、立ち上がっていくんだろう?」 汚い欲望を飲み込んで、君の前に立つ。 金色の瞳が、君を静かに捉えた。 「なら、僕の元へは来ちゃいけないよ」 黒い影を精一杯伸ばす。君には決して届かない声。 今日も君を、その境界線から追い払う。

空が死んだ場所

「例えば、そんな世界もあったかもしれない」  そう言って君は水溜まりの中を覗き込んだ。 「……例えば、それはどんな世界?」 「逆さまの世界。全部が、何もかもが違う世界」  そう答える君に、傘を閉じた私は何も言えない。 「確かに、そんな世界もあるかもね」  あったなら、いいのだけれど。そうすれば、何か変われるかもしれないと思ってしまっているから。そんなんじゃどうにもならない  なんて、解ってはいる。  雨上がりの空、いまひとつ晴れ切らない雲の隙間から、日の視線が伸びた。でもそれは地に届くことなく、また雲に遮られていく。  もし、逆さまになれたら。私たちは、あの空に落ちていくのだろうか。  もし、空に落ちたら。そのとき私は、私でいられるのだろうか。 「そろそろ、行こうか」  傘のない手を伸ばす。ふと遠くに見えた飛行機雲が、私を呼んでいるようだった。 「うん」  君は何も言わずに答える。  落ちていったとしても、私は君を失いたくはないな。  そうしてまた歩き出す。一歩一歩、地面の感触を確かめながら。  またいつか、きっと思い出す。空が、空でなくなった場所を、  振り返ればすぐそこにある、空が死んだ場所を。

生き続けるのだなあ

読みたい本がたくさん積んである。いま読んでいる本を読み終わっても、次に読むべき本がそこにある。そのことにしあわせを感じる。 積まれていないと不安になる。さびしくなる。怖いとは思わない。けれど、ひもじくなる。不幸、とは言いすぎだろうか。それに近いものは、あるだろう。 まだ読みかけだというのに道をはずれて積んであるそれらのなかから何冊か取りだし、ページをめくってみる。手ざわりを確かめてるだけ。どんなお話かちょっと予告編よ。折れてるページがないか見てあげてるの。言い訳を頭のなかでくりかえし、けれど、いつのまにか、それらの本にしおりをはさみ、いま読んでいる本たちと同じところに置いてしまう。いま読んでいる本たちには申し訳ないことと理解して。 買うのもいいけれど、読まないことには。わかってはいる。とにかく、買った本をすべて読んでしまうまで、生き続けるのだなあ。大げさなことを思う。

最後の日に食べるもの

 今日が世界最後の日なら、何を食べたいか。  時々話題に上がるありふれた質問。   「母親の手料理かな」 「子供の頃に食べた駄菓子を腹いっぱい」 「人生で食べたことない超超高級料理」    悲しい状況の想定ではあるが、皆の回答には少ないながらも夢があった。  やりたいことを口にできるのは、未来に夢を見ることができる人間の特権だ。   「ま、現実はこんなもんか」    そう、夢だった。    世界最後の日の今日。  母親の手料理は、母親はと父親が最期は二人でとさっさと自殺したから、達成不可。  駄菓子は、考えることは皆同じだったようで空のコンビニからの奪い取りに負け、達成不可。  超超高級料理は、料理を作れるシェフが最後の日に仕事なんてするわけもなく、達成不可。    平和なときに考えた有事の希望なんて、あっけなく壊れるものだ。  手元にあると言えば、災害対策として備蓄していた水にカンパン。  後、鯖缶。  あまりにも侘しくて、乾いた笑いが出てしまう。   「いやー。うまくいかないなあ。本当、人生って感じがする」    外はどんどんと明るくなっていく。  空を見上げれば、きっと近づいてくる隕石が見えることだろう。    カシュッと鯖缶を開けて、最後の晩餐の準備は完了。   「いただきます」    味の付いていない鯖の水煮を、口の中へと放り込んだ。  嗚呼、味気ない。