『これは、貴方だけのスペシャルオファーです! 貴方は一週間の勝ち組人生体験に選ばれました!』 たどたどしい日本語で、そう言われた。 目の前には半透明の天使。 この世ならざる者の言葉に、少しだけ耳を貸してしまう。 「どうすれば、そのオファーを受けられますか?」 『はい。いま、承諾です。スペシャルオファー、適用されます』 家の前に高級車が止まり、俺はそのままでかい豪邸へと連れていかれた。 「お帰りなさいませ、若様」 そこから一週間は、夢のような時間だった。 一日中遊び続けて、食べたことのない高級料理を食べて、会いたい有名人全員に会えた。 朝も夜も、一秒たりとも暇な時間はなく、ただただ快楽に溺れ続けた。 一週間は、あっという間に流れた。 『延長は有料です。延長しますか?』 標準料金は年間三千万円だったので、辞退した。 元の家に戻ってから思うことは、虚無だ。 何度も有名人と撮った写真を見返しては、あの日のことを思い出す。 もう一度戻りたい。 しかし、彼らと連絡が取れることはなく、彼らはテレビの中から出てくることはなかった。 「体験なんてしなきゃよかったかなあ」 思わず後悔が襲う。 「俺、この人とマブでさあ」 「え! 嘘?」 「もしかしたら、会わせることもできちゃったりするかも」 今は、有名人と撮った写真を使って、ほそぼそと生きている。 プライベートな空間でのツーショットは、効果覿面だ。 架空の信用力が、俺に金と機会を与えてくれた。 年収は、ようやく一千万円に届く。 誰を不幸にしてでも、俺は延長の権利を買うんだ。
20〷年 M博士と某有名自動車メーカーの共同研究によって空飛ぶ車が実用化された。 これまで問題視されていた燃料と環境への影響についてはM博士の尽力によって完璧にクリアされた。地球の磁場を増大させる装置を作り、磁力によって自動で目的地へ向かうことができるのだ。 主に必要なのは金属類で作るレールのみ。 まさに革命だった。 政府は何十億もの補助金を出し、雇用が増え、国内の経済は一気に潤った。 さらには、大陸を横断するレールも作られ、その様子は産業革命のときの鉄道、戦後の高速道路を彷彿とさせた。 それから10年後 「また道路崩落したのかよ。政府は使えねーな。誰が処理すんだよ。」 夫がテレビを見ながらまたぶつぶつ文句を言っている。 最近料理にハマってやってくれるのはいいんだけど、そりゃあ楽しくもない後始末など誰もやりたがる訳がない。 私はため息をついて雑多な流しに手をつけた。
「夜桜を見に行こう」 雨が降っている日だった。眠っていた僕を叩き起こすとキミは先にアパートを出ていってしまう。眠気眼を擦りながらのろのろ起き上がり、傘と、少しの荷物を持って着いていく。 2階から見下ろすとキミは振り返って「はやくー」と手を振っている。傘を差してすらいない。せっかちなやつだ。 階段を降りてキミのそばまで行き傘を差し出す。少し驚いたあと「行こっか」と微笑み1本の傘に2人で入る。 「……夜はまだわかるけど。なんでわざわざ雨の日に?」 「夜と雨が重なると、花見する人って減るから」 「ふーん?」 明るい時は通行が多い道が今は車も歩行者もいない。夜桜を見に行くといってもすぐそばにはない。しばらく歩いている間目線を下す。アスファルトは雨に濡れ、街灯がきらきらと反射して綺麗だ。 「なんで僕の元に来たの?」 「ん?」 「他の人を誘っても不思議じゃないよなって思って。キミのことだから」 「……わかってないなあ。確かに友達は多かったけど。俺がここに来たのには理由があるのに」 「なに?」 「なあ。たまにはちゃんと外出ろよ? いつまで引きこもってるつもり。外は案外優しいよ」 「うるさいな」 キミに何がわかるんだよ。 せっかく僕の元に来てくれたというのに棘のある言葉を呟いてしまえば、キミは肩を竦めて目の前の公園を指差す。 「あそこの公園まわろ」 言われた通りに入っていき外周に咲いている桜並木をゆっくり歩いていく。 「綺麗だねえ」 僕に語りかけながら夜桜を見上げるキミの横顔を、盗み見る。 「……うん」 「俺さぁ、本当は毎年こうやって見に来たかったんだあ」 「……うん」 「去年約束すっぽかしてごめん。ずっと待っていてくれたのに」 「なに、言ってるんだよ」 今更だろ、と呟く言葉が震える。 キミは夜桜から視線を僕に移し「優しいね」と口角を上げる。 「何も尋ねずに俺に着いてきてくれて」 「……」 「俺が濡れることないのに傘を差し出してくれて」 「……やめろよ」 「あ、怖くなっちゃった? 心霊系苦手だったよね」 「僕に現実を見せつけるなよ」 吐き捨てる。一人が好きな僕と交友が広いキミはいつもちぐはぐで喧嘩ばかりしていた。こんな時にもしょうもないことばかり。いつもと違うのは、キミはもう怒ることせずにただ僕を見つめて「ごめんね」と言うことだ。 「新しい恋、して」 「嫌だ。出来ない」 「出来る。今すぐじゃなくていいから。俺のこと忘れて──」 「やめろよ!」 腕を掴もうとした。キミの腕がある部分を、僕の手はすり抜けて掴み損ねる。……ずっと勘違いし続けている方が幸せだったかな。 「悲しませたいわけじゃ、なかったんだ。俺はただ、一緒に桜を見たくて」 「……僕が好きなのは、キミだけだよ」 あの時言えなかった。何となく、お互いの気持ちを察してはいたけど、言葉には出来なかった。去年、桜を見に行こうと約束したキミは待ち合わせ場所に来なかった。車に轢かれそうになった子供を助けて、命を散らした。 責める理由など見つからないのに。目の前に現れてくれたというのに、キミに当たり散らかしてしまう僕は何なんだ。 「俺も……いや、なんでもない」 「なに? 言ってよ」 「ううん」 キミはもう何も言わずに桜を見上げる。僕はただ、キミを見つめる。桜を写すその瞳が、だんだんと濡れていって。 「ありがとう。俺を好きになってくれて」 「……うん」 「その花束、俺に渡してくれる?」 片手に持っていた小さな花束。背中で隠していたけど、お見通しだったようだ。 「現実と向き合おうとしていたからその献花があるんでしょ。……俺にちょうだい」 手を差し出される。そっと渡せば、僕たちの手は触れ合えないのに花束だけは彼に渡った。 「じーちゃんになった時、独り身だったら迎えに来てやるよ」 風が吹く。桜吹雪と共にキミは綺麗に笑った。突風に思わず目を閉じてしまい、次に隣を見たら。 キミの姿はなかった。 渡したはずの献花は、僕の手元に残っていた。 夜桜を見に行こう【完】
放課後。庚は一人になりたくて徐ろに図書室へ向かった。 転校してから二週間だが、瑞波学園にまだ不慣れだった。 借りてた本を静かに返してずらりと並ぶ本棚へ向かった。 (次、どれ読もう……) 次どれを読むか迷った時、ふと、懐かしい本のタイトルが目に飛び込んだ。 確か、この本、昔見たことある。 内容は忘れたけど、子供の頃、夢中になって読んだ本だった。 庚は一人、懐かしんで見ていたら、 「やっぱりここにいた」 現れたのは夢睦。庚の恋人で庚にとって唯一心を許している人だった。 「あ、その本……」 と、貸してという顔で見たので、庚は本を貸した。 「懐かし、この本庚と一緒に見たっけ」 と、苦笑する睦に庚はますます戸惑った。 でも、一瞬過ぎる懐かしい記憶、でも、思い出せないもどかしさ。 「あ、覚えて……ない?」 そう、睦は寂しそうに聞いてきたので、庚は小さく 「ごめんなさい」 と、言うと、睦は苦笑して庚の頭を撫でた。 「謝らないの。大丈夫、徐々に思い出すから、焦らずにね」 ニコリと微笑む恋人に庚は戸惑いながら、目を伏せていた。 「俺、ここにいるから部活、遅れるよ?」 と、優しく催促しながら、睦はそっと、庚に本を返した。 「……先に読む?」 そう、庚は聞くと、睦は『良いの?』と聞いたので、庚は小さく頷いた。 部活へ向かう彼女を見送った後、睦は庚から渡された本を見つめた。 (庚にこの本、プレゼントしようかな) そうすれば、また一緒にいつでも読める、と思いながら、睦はスマホにメモをしてそっと本を戻した。 庚が覚えてなくても、一緒に読めば、何か思い出すはずと、期待して。
少女が、体組成計に乗った。 体組成計の中ではAIたちが目覚め、各自のデータを交換していく。 『それではただいまより、少女の体重を何キログラムで表示するかのデータ交換会を行う。まずは、アナログ計測君』 『はい。本日の少女の体重は、四十四・八キログラムです』 アナログ計測君は、体重計と同じ体重を算出する。 世界に存在する一キログラムの重りから、絶対的な重さを出す。 『四十四・八キログラム、承知した。昨日から〇・二キログラム増えているな。では、次にインピーダンス推定君』 『はい。本日の少女の体脂肪率は、二十二パーセントです』 インピーダンス推定君は、体脂肪率を算出する。 測定者の体に微弱な電気を流し、体内の電気抵抗力から推定する。 『二十二パーセント、承知した。充分、標準内に収まっていると言えるだろう。では、ここからは他の情報を加味していく。ダイエットアプリ君』 『はい。少女の目標体重は、四十三キログラムです』 ダイエットアプリ君は、少女が目標として入力した体重を返信する。 そこにデジタル的な計算などなく、少女の意思が全てだ。 『四十三キログラム、承知した。では、最後。食事管理アプリ君』 『はい。昨日の少女の食事内容は、朝にプロテイン、昼にご飯少なめと鯖の水煮とサラダ。そして、夜にサラダと缶ビール二缶とポテトチップス一袋です』 食事管理アプリ君は、少女が入力した食事内容を返信する。 そこにデジタル的な計算などなく、少女の意思が全てだ。 『食事内容、承知した。では只今より、体重を何キログラムとして表示するかを議論したいと思う。実際の体重は、〇・二キログラム増加の四十四・八キログラム。数値としては標準内であるが、目標に対しては遠のいている。原因が夜ご飯にあることは明白だ。よって、私は危機感を抱かせるために、あえて四十五キログラムと表示させるのが良いと考えるが、どうだろう?』 アナログ計測君が答える。 『異議なし』 インピーダンス推定君が答える。 『異議なし』 ダイエットアプリ君が答える。 『異議あり。目標に対して遠ざかってはいるが、数値は健康体であり、危機感を抱かせることは不要。むしろ、危機感を抱かせることで、過剰な減量を開始させる危険性がある。四十四・八キログラムのままを提案する』 食事管理アプリ君が答える。 『ダイエットアプリ君に異議あり。体重を考えればそうだが、夜ご飯で菓子を食べた事実については反省をさせたい。よって、安心と危機感の中間、四十四・九キログラムを提案する』 アナログ計測君が答える。 『異議なし』 インピーダンス推定君が答える。 『異議なし』 ダイエットアプリ君が答える。 『異議なし』 答えが一致し、体組成計が最後の結論を下す。 『では、昨日から〇・二キログラム増加した四十四・八キログラムに対し、晩ごはんの過食を反省させるため、昨日から四十四・九キログラムを表示させることとする』 体組成計に体重が表示される。 少女は目を大きく見開いて、その数字を凝視する。 「きゃあああああ! 太ったああああああ! お菓子なんか食べたからああああ!」 そして、四十五キログラムに大台に乗らなかったことに対し、安どのため息を零した。
今年こそ花見に行こうと思っていた。職場の同僚に誘われたのは三月の終わりで、お弁当を持って公園へ、という話だったのに。 当日の朝になって母から電話がかかってきた。父が転んで、大事ではないけれど念のため病院に付き添ってほしいと。 もちろん断れるはずもなく、同僚には申し訳ないと詫びのメッセージを送り、私は実家へ向かった。 父の打ち身はたいしたことなく、処置が終わって帰宅したのは夕方だった。スマートフォンに届いた同僚の写真を見ると、満開の桜の下、みんな嬉しそうに笑っている。 翌週末には雨が続き、桜はあっという間に散った。 桜の季節は、いつもこんな具合にすれ違う。 「佐和子さん、ちょっと」 縁側から、義母のふみさんの声がした。昼過ぎのこと、私は台所で夕飯の段取りを考えながら、特に何をするでもなくぼんやりしていた。 「どうしました?」 縁側へ出ると、ふみさんは庭を向いたまま言った。 「今日はいい日和だから」 促されるまま庭に目をやる。 見慣れたはずの庭が、今日はなんだか違って見える。物置の脇に立つ木に、薄桃色の花が房になって垂れ下がっている。 「わあ、きれいに咲きましたね」 「ミツバツツジももうすぐ終わりだけど、今年はよく咲いたわ」 言われてみれば、枝の先がほとんど花で埋まっている。葉が出るより先に咲くのか、花だけが鮮やかに、空に向かって広がっていた。その手前には、コデマリが白い小さな花を無数につけている。 「こっちはまだ盛りね」 丸くまとまった花の塊が、枝の重さでゆるやかにしなっている。 その奥、石畳の突き当たりには、黄緑色の葉を芽吹かせたばかりの木が一本。 「あれはまだ花が咲いてないですね」 「ジューンベリーの花はもう終わったの。 実がなるのは梅雨のころよ。赤くて、小さくて、かわいらしいの」 ふみさんは縁側の端に腰を下ろした。私もその隣に座る。 「全部、お義父さんが植えたんですか」 「そう。あの人、庭いじりが好きでね。 私はてんで興味がなくて、水やりくらいはしたけれど、あとは全部任せきりだったの」 ふみさんは膝の上で手を組んで、庭を見た。 「亡くなってから、はじめて名前を調べたのよ。 五十年近く一緒に暮らして、何が植えてあるかも知らなかった。お恥ずかしい話でしょ?」 私は何と言えばいいかわからなくて、黙ってコデマリを見た。 風が吹くと、白い花の房がいっせいに揺れる。 「……花見、行けなかったんですってね」 「ふみさん、聞いてたんですか」 「一雄から。かわいそうだって言ってたわよ」 私は苦笑した。夫もよけいなことを言う。 「まあ、毎年のことですから」 「毎年?」 「桜の時期って、なぜかうまくいかないんです。 雨が降るか、仕事が入るか、今年みたいに実家のことが起きるか。 結婚して以来、ちゃんと見られた試しがなくて」 「まあ」 ふみさんは静かに笑った。責めるでも、慰めるでもない、穏やかな笑いだった。 「でもねえ、佐和子さん。桜って、みんなが一斉に騒いで、散ったらそれでおしまいでしょう。 この子たちは誰も見てなくたって、毎年ちゃんと咲くの。あの人が逝ってもう七年になるけれど、一度も休まずに」 私は庭をもう一度、ゆっくりと見渡した。 午後の光が石畳を白く照らしている。ミツバツツジの薄桃色、コデマリの白、ジューンベリーの柔らかな黄緑。 派手ではないけれど、それぞれがそれぞれの時期に、静かに盛りを迎えている。 「お義父さんは、順番を考えて植えたんでしょうね」 口に出してから、少し気恥ずかしくなった。当たり前のことを言ってしまったと思ったけれど、ふみさんは目を細めた。 「そうなの。春の初めから順々に何かが咲くようにって。私が飽きないようにって、言ってたわ」 少し間があった。 「飽きっぽいのはお見通しだったのね、あの人に」 ふみさんはそう言って、おかしそうに笑った。私もつられて笑う。庭に、しばらく笑い声が漂った。 風が吹いて、コデマリの花がまたいっせいに揺れた。白い小さな花びらが二、三枚、ふわりと石畳に落ちる。 「来年は、どこかで桜を見ましょうよ」 ふみさんが言った。誘うというより、独り言のような口調だった。 「東北辺りだと四月の頭ね。温泉にでも行きながら」 「ぜひ」 私は素直にそう答えた。 春爛漫というのは、きっとこういうことだ。 公園の満開の桜の下ではなく、縁側で姑と肩を並べて、亡き人が遺した花の名前を、ようやく覚える。そういう春が、あってもいい。 台所でやりかけの夕飯の段取りが、頭の隅に浮かんだ。でも今日は、もう少しだけここにいようと思った。
「峰夫さんがケーキ好きだなんて知らなかった」 「いや、俺もこの店は初めてなんだ」 「え、そうなの?ケーキ美味しいね」 「うん、後輩が教えてくれた店なんだ。『たまにはケーキでも食べに行かなきゃだめですよ』って言うからなぁ」 「それでなんだ。本当に美味しい」 彼女がデリス・ピスタッシュと言う変わった名のケーキを美味しそうに食べる 「私、お代わりしようかしら」 「おい、よせよ。恥ずかしい」 「峰夫さんとケーキを食べに来るなんてもう無いかもしれないじゃない」 「そんなことないだろ」 🌸 「長瀬さん」 「え?」 「本当に美味しいですね。ここのケーキ」 「あ、えぇ。美味しいですね」 「私お代わりしようかしら」 「えっ…」 「冗談です。ウフフ。でもそのくらい美味しい」 桜井美幸はアッサムにミルクを入れて飲んでいる。私もアイスコーヒーを口に含む。 「長瀬さんは趣味が無いとおっしゃってましたね。誰か趣味に誘ってほしいと」 「えぇ、ただ毎日起きて寝るだけです。ハハハ」 「それはイケないわ。私の趣味は覚えてらっしゃる?」 「いやぁ、えっと…」 「おしゃべりです。ウフフ。おしゃべりに付き合ってくださいますか」 「それは勿論」 彼女は明るく気さくな人だが彼女の過去は辛く悲しいものだった。 彼女は一人娘がいたが、幼くして亡くしていた。原因は幼児性突然死で1歳になったばかりの娘は眠ったまま二度と起きることはなかった。夫婦は悲しみを乗り越えるため、前を向こうと何度もしたが失ったものは大きく、彼女の体は新たな命を宿す事は二度となかった。心身共に弱っていた夫は外に女性を作り二人は別れ、彼女は長い間一人で生きてきた。一人になった彼女は親戚の介護に頼りにされ、彼女は娘を救えなかった思いを注ぎ込んだ。 そんな過去を感じさせない、品の良さと明るさは、彼女が素敵だからに他ならない。美しく素敵だ。 下北沢のデートは結局ケーキ屋で話して解散になったが、その後も月に何度か会って私たちはおしゃべりをした。いつも楽しく幸せな時間が待ち遠しかった。 二人で散歩をしていて、手が触れ合う時など学生時代の様に頬を赤らめ、私たちはお互いを思うようになってきた。 🌸🌸🌸 「ジイジにはカノジョがいるんだよね」 孫が私の胡座に座り聞いてくる 「お父さん、上手くいって良かったね」 「親をからかうな。ただの友達だ」 「カノジョはバアバにならないの?」 「どうかなぁ」 「一緒に住めばいいじゃん」 「それは結婚しないとだめだろ」 「そうかな?」 「そうかな?」 息子の洋一のマネをして孫の風太も真似して言う 「ジイジは一人でさみしくないの?」 「大丈夫だ。天国行きのバスはすぐに来るしな」 「僕は幼稚園のバスはママと待ってるよ」 「そうか…誰かがいると安心だよな」 「うん!」 桜井美幸の事はいつも頭の中にある。 今何をしているのかとか、話をしたいなとか思う。一緒に住めたら楽しいだろうだろうなと何度も思ったが、仏壇の妻の顔を見る度に思いとどまる やはり私の妻は一人だけだ 洋一の母であり こんな私に付いてきてくれた唯一の人 私の体が勝手に動いて桜井美幸に電話をかける 自分でもどうかしていると驚く 「もしもし」 彼女が電話に出た 「あの、長瀬です。あの、私たちは…私たちは…あの…」 「友達でいましょうよ」 「えっ」 「私たちは良い友達になれると思うわ。ね、友達でいましょう」 「あぁ、そうですね。僕もそう言おうと思ったんです」 「ジイジのカノジョ?」 孫の風太が側で小さく囁く 「あら可愛い声!お孫さんの風太くん?」 「そうだよ。今度遊びに来てね」 「ありがとう。是非伺うわ」 「息子の洋一です。父をよろしくお願いします」 「おいおいおい。勝手に話すな」 「ウフフ、素敵なご家族だこと。こちらこそよろしくお願いします」 「あの私は洋一の妻の渚です」 「渚さんまで出てこんで良いから」 「ボクのママだよ」 「素敵なママね」 「ごめんなさい。今バスが来たので一旦切りますね。バイバイ」
<うたた寝> カーテンから差し込む光 本を片手にソファに座る 街の雑踏が心地よく イヤホンの片耳から漏れる音 本のページをめくる音 テーブルに置いたアイスコーヒーの氷が静かに溶けていく 小学生の賑やかな話し声 耳からイヤホンを外して静かに置いた ソファき横になり 目を閉じる 優しい風が頬を撫でると 読んでいた物語に出てきた少年が手招きする 辺りは一面の花畑 唄って踊って舞い上がる カーテンから入る夕陽の眩しさに目を覚ます 帰路に着く人の波 私はそっとイヤホンを手に取り 好きな音楽をかけた <通年Tシャツ> 洗い立てのシャツが風に揺れる ゆらゆらゆらと手招きすれば 蝶が舞い てんとう虫が飛び立ち 綿毛が舞い上がる 春色Tシャツ 洗い立てのシャツが風に揺れる ゆらゆらゆらと手招きすれば 蝉が鳴き スイカに誘われカブトムシ きちきちバッタも歌い出す 夏色Tシャツ 洗い立てのシャツが風に揺れる ゆらゆらゆらと手招きすれば 茜空を渡る蜻蛉 りんりんコロリン 秋の声 芋掘り帰りのどろんこ子供 秋色Tシャツ 洗い立てのシャツが風に揺れる 白い湯気立ち上れば ちらほら雪模様 付き合いたての恋人や子連れが賑やかに通りすぎ 手袋一つ落ちた 冬色Tシャツ <苺と蜜柑> 赤い頬っぺた ニキビの愛嬌 つぶらな瞳が 可愛らしい 小さなお鼻 はにかむ笑顔 甘酸っぱい君が好き ほんのり日焼け ニキビは愛嬌 つぶらな瞳が 優しくて 立派な鼻 自信に満ちた口元 甘酸っぱいあなたが好き <螺子> 螺子が少し緩んでる あの子は少し変わり者 螺子が少しばかりキツい あの子は短気な変わり者 螺子が少し欠けている あの子は少し病気がち 螺子がくねっと曲がってる あの子は少しひねくれ者 壁に打ち付け 螺子を回す どの子も全部 力持ちに違いないのに <背中のメッセージ> 会いたい時に 会いたいと思ったなら 飛んでいけ 後悔する前に立ち上がれ 全てぶつけてから後悔したらいい 笑われたっていい やらなきゃ結果はついて来ない 笑われろ 笑わせたもん勝ち 誰かを笑顔にしたもん勝ち 自信なんて最初からない 掴む為に一歩行く <拝啓 蝉殿> ねえ 蝉 土の中で何してるのよ 食っちゃ寝してるのかい? ときどきテレビ見ながら 鼻ほじってさ 気付いたら、食っちゃ寝 あらら それ私だったよ ねえ 蝉 土の中で何してるのよ 土パックして美肌効果高めてる? 気付いたらパックしまま寝てる あらら それ私だったよ ねえ 蝉 土の中で何してるのよ コレクション集めて飾ってさ 大事にしてたのに いつの間にか飽きて絨毯にしちゃう あらら それ私だったよ ねえ 蝉 土の中で何してるのよ 7年 長いってのに 私だったら 飽きちまうよ <天使と悪魔> 私は神であり悪魔 この世界では全ての人が思い通りに動く 生かすも殺すも 独身か既婚者か 性格さえも思いのまま 災害だって起こせる この世界にも天使と悪魔はいる 決めたのは神である私自身 さて、今宵は誰をどう動かそうか キーボードを打つ手は力強い .
レンガ造りの橋の下 赤茶色に焦げたアーチを潜って 足りない霊感に安堵する 贅沢な光源は無いけれど 不思議な空間に自ら溶け込ませていく 寒気が貴方のいる方向を教えてくれる 遊び感覚だったのにな… 遊戯感覚と言い換えたい、この気分 しばらく歩き中腹といった所… 進路の垂直になる方位 レンガとは違う好奇心をくすぐる鉄の扉 続く螺旋階段歩けば人の海 手招きする舟使い 打ち光る夜光虫の輝き この世の未練を明後日の方向へ これからの期待を向こう岸へ (完)
<もみじ> もみじの手 ほんのり赤く甘い香り 一回り 二回りと どんどん大きくなっていく 時に紅葉して 散ることなく咲き誇る もみじ重なり 一回り 二回りと越えていく 小さかった背中は 立派に咲き誇る 皺あるもみじを翳せば 強く逞しきもみじが優しく包み込む 伝わる温もりは よく知る甘い香り もみじ ヒラヒラ舞い踊る 見送るもみじもまた ヒラヒラ舞う <ざーざー唄> ざーざー雨降る ざーざー途切れる電話 ざーざー番組終わったテレビ ざーざー雨音 ざーざー電波障害 ざーざー故障 ざーざー雨 ざーざー波 ざーざー故 ざーざー ざーざー ざーざー <なまえ> あられ だったら良かったのに いわし だったら良かったのに うみ も悪くない えだまめ は微妙かな おかし じゃなくて良かった かもめ だったら良かったのに きなこ だったら良かったのに くき も悪くない けむし は微妙かな こたつ じゃなくて良かった さかな だったら良かったのに しらす だったら良かったのに すし も悪くない せんべい は微妙かな そうじ じゃなくて良かった たから だったら良かったのに ちまき だったら良かったのに つり も悪くない てすと は微妙かな とびら じゃなくて良かった なめこ だったら良かったのに にじ だったら良かったのに ぬし も悪くない ねっこ は微妙かな のらぼうな じゃなくて良かった 春に生まれて 昼間に生まれて 普通に 平和に生きてる 本当は少しだけ変わった名前に憧れていた まりも だったら良かったのに みかん だったら良かったのに むくげ も悪くない めいろ は微妙かな もっぷ じゃなくて良かった やさい だったら良かったのに ゆうひ だったら良かったのに よもぎ だったら良かったのに らいと だったら良かったのに りんご だったら良かったのに るびー は微妙かな れぎんす じゃなくて良かった ろば…… ここまできて 自分の名前の素晴らしさに気付く この名前で良かった、と <視線> 水平線があったとさ コトンとグラスを二つ置いて コトッとお皿とフォーク・ナイフが並ぶ 辺りを見渡すと忙しなく光るネオン 上から見渡す景色は蛍火みたいで どこか切ない気持ちになる トポポという音に意識を呼び戻され グラスを見るとワインが注がれていた 最後の一滴がグラスの中を滴り落ちる トクトク 体の中と共鳴 不思議と気持ちは落ち着いていく 白いホールケーキに蝋燭二つ 目の前にいる彼と目が合う 照れくさそうに笑う彼と はにかむ私 シュボっと火が点く ゆらりゆらりと揺れ動く炎 私達は同時に息を吹きかけ 同時にグラスを手に取る 熱気の中にひんやりと カラン 二つの音が重なった <トケイの針> もしもし 俺だけど 違うよ、違う 詐欺じゃない だから、俺だって チクタクチクタク 十年ぶりの声に焦りが乗る 家族名簿に残っていてほしい もし親父が俺を覚えていてくれたなら 見舞いに行こうと どうか どうか 覚えていてと 知らんや 知らん 俺には息子はおらん 言った途端に思い出す 可愛げなく去っていった鳶 喧嘩別れと同時に決別 思い出す顔は 刻が止まったまま チクタクチクタク もしもし 俺だけど 違うよ、違う 詐欺じゃない だから、俺だって 知らんや 知らん 俺には息子はおらん チクタクチクタク 十月十日が過ぎて満月が顔を出す 月明かりが照らすのは 己の顔 窓越しに見えるは 面影ある己の顔 俺だけど 花の代わりに鏡餅 季節外れの鏡餅 ああ、知っとる 俺の息子だ 季節外れの鏡餅 思出話に花が咲く チクタクチクタク 響く笑い声は天高く 朝日と共に消えていった チクタクチクタク 続.
雨昏の世界で雨粒が一人、雨宿りをしている。 我が物顔で景色を埋め尽くす仲間達を横目に、ただ静かに屋根の下で佇んでいる。 その身に映る世界はぐちゃぐちゃに色が混ざり合い、錆鼠を湛えていた。
<テープカット> きらい きらい きらい きらい きらい きらい たった一つ嫌なことがあったからって 黄色テープを張るの無し 自分から事件現場にしないで 黒いテープも貼り付けて 踏み切りにして 一時ストップ 嫌だったことに目を向けて 嫌だったことに耳を傾けて 嫌だったことに角度をつけて 色彩眼鏡をかけてもいい ほら ポジティブに考えて 自分に都合のいいように考えたっていいんだよ 本心は分からないから ベールに包んだって構わない ほら きらいをくるっとひっくり返してみたら 少しはマシになるんだよ いいとこ見付けて その翼を広げたら 嫌いが好きにシフトチェンジ 踏み切り上がったら テープカットしよう <ドッペルギャンガー> お母さんと私 お父さんと私 おばあちゃんと私 おじいちゃんと私 お兄ちゃんと私 お姉ちゃんと私 弟と私 妹と私 お父さんとおじいちゃん お母さんとおばあちゃん お父さんと叔父さん お母さんと叔母さん 私の息子とお父さん 私の娘とお母さん 私の息子とお兄ちゃん 私の娘とお姉ちゃん 私の息子と弟 私の娘と妹 私の息子とおじいちゃん 私の娘とおばあちゃん 私の息子の子供 私の娘の子供 みんなどこかしら私と似てる ギャー!!! <ちらチラ> 首チラ 臍チラ 脚チラ 春の心地よさを感じる 耳チラ 胸チラ パンチラ 不純な罪悪感 心に蓋をする <必然の仕返し> 起きてるうちは 小言は止まらない 些細なこと一つで 小言ばかり 手が出ずとも 小言は出る 夜にそれはやって来る 必ず やって来る ごろんと一撃 伸びて一撃 回転して一撃 起き上がって倒れ混んで一撃 何度も何度もやって来る 寝相の悪さを使うなんて 卑怯ものめ 罪悪感一つないから これは怒れない <どろんこミキサー> 喜び 笑い 感動 怒り 悲しみ 憎悪 不安 後悔 妬み 全部 飯のおかずに包んで飲み込んで 水一杯 奥まで流し込む 走って走って かき混ぜて どろどろになるまで走ったら 空に吐き出して夜の闇に混ざったなら 明日はきっと気持ちも晴れるだろう <鍵> ずっと抱えていた大事なもの 捨てようとしても棄てられ無かったのに 失くなれば容易く手放した 不思議と未練もない 誰にも触れて欲しくなかった 何十にも鍵を掛けた心の分厚い壁も 開けっぱなしにしてしまえば 誰かが入っても居心地は変わらない ただ一つ 気付いたことがある それは温もりを求めているということ <恋色信号機> 失恋したての心は黄色信号 とても危険なの 安全運転に恋に落ちそうになって 追い越し車線で危険な恋に落ちるかもしれない スピード違反の恋に溺れるかもしれない 違反切符を切られるかもしれない 私を取り合い 交通事故が起こるかもしれない 私が余所見して 不祥事を起こすかもしれない なかなか変わらない信号みたいに 苛ついて 恋の信号無視をするかもしれない ブレーキ掛けても 止まらなくて 暴走するかもしれない ふと後ろからクラクションが鳴った 振り向くと 青信号 Uターンダッシュ 時速50キロから私は彼の車を追いかける <金縛り> 寝静まった真夜中に始まる儀式 身体が動かない 声も出ない 恐ろしい時間がやってくる 狐? 女? 男? それは実体がなく 脳内に意識だけ入り込んでくる もしも 下心を投入したら もしも 悪魔を投入したら もしも もしも…… ああ そうか こんな妄想をするから 声も身動きも取れなくしたのか <般若と小芥子> 消えていなくなりたい時があった 煙のようにスッと消えたいと 炎のように水でバシャッと シャボン玉のようにパチンと テレビの画面のように一瞬で その度に鬼が来た 般若のような顔で 私を引きずって頬を叩く この鬼からも逃げたかった 鬼は知っていた 本気で消えたいわけじゃないって 少しでいいから見てほしかったことに 互いに不器用で 言葉足らずで 似た者同士な部分もあったから 消えていなくなりたいと思わなくなった その日から 鬼もいなくなった 般若は小芥子に変わり 数年後にはその小芥子の口元が緩んでいた 続.
こんばんは。朝届いたこの手紙を、きっとあなたはシャワーを済ませて寝る前に読んでいることでしょう。 こっちの町の桜は、数日前から葉をつけはじめました。大きな雨が二度通りましたが、花弁は散ることなく葉が出るのを待っていたようです。気温も急に上がりました。公園で遊ぶ子どもたちの中には半袖で駆け回る子もいます。陽射しも強く冬から突然夏になったようです。しかし、日暮れから朝は冬のように寒いです。日中は太陽に向けて目を細め、日が沈むと上着を羽織る。そんな時期を春と呼ぶのでしょうね。 先日、大きな事件がありましたね。あれからもう三週間も経ちました。あの事件は一体どうなったのでしょうか。今は何を調べているのでしょうか。それとも、もう何も調べていないのでしょうか。最近はぱったりとニュースで見かけなくなりました。 私はというと、無駄に食べて寝て、洗濯や洗い物をして、少し散歩をして無意味な夜更かしをする毎日です。 きっと明日には桜は全て散っているでしょう。私はそこに桜が咲いていたことも忘れ、地面を見ながらぼんやりと歩いているのでしょう。 大した用事も報告もありません。今年も桜が咲いたことを覚えているうちに、あなたに手紙を送ろうと思ったのです。それだけです。 まだ冬の夜が続くでしょう。身体を温めて、ゆっくり休んでください。 おやすみなさい。いい夢を。
<乾杯> 買い物かごの中 バナナとりんごがぶつかった 明日のおやつは バナナとりんごのタルトに決めた 買い物袋の中 鶏肉と大根がぶつかった 今夜のおかずは 鶏肉と大根の煮込みに決めた グラスの中 焼酎とサイダーが混じり合った 今夜も目の前には 愛する夫が笑っている <はかり> 数年振りに顔を見た 昔は気付かなかったな 芸能人のあの人に似てるなんて 本人じゃないかってくらいに 無邪気に笑う彼女は 本当にあの人そっくりだった また数年経って久しぶりに顔を見ると また別の芸能人の人に似ていた やっぱり本人じゃないかってくらいに 黄昏れる横顔が本当にそっくりだった 更に数年経って久しぶりに顔を見る 鏡でも見ているかのように 私にそっくりな彼女がいた 笑うと出来る皺までそっくりに どうりでいつ会おうが 気が合うものね <散り鳥> 喧嘩して 暴言を吐いた夜も 投げて散乱した 写真も 切り裂いた 思い出も 広い集められるものなのだから 仲直りに言葉はいらなくて 汚れた床だって 拭いてしまえば元通り 破れた写真も テープで修正 状況変われば気持ちも落ち着く 息苦しさも深呼吸で吐き出せばいい 幸福はたくさん吸い込めばいい 混ざり咲いて散り ふわりと どこかへ飛んでいく <横顔> 尊敬と憧れ ライクとラブ じゃがいもとさつまいも 癒しと安堵 ライクとラブ 砂糖とシュガー 緊張と弛緩 ライクとラブ 塩と胡椒 好みの顔、旦那と全然違うのよね <土足の土鍋> あの時、私は何て言った? 貴方は、何て返した? 空を見上げると そっと風が私の耳に語りかけてきた ざわざわ さわさわ ふわっ、ぐつぐつ…… 女と男のままだったら 拗れてもどうにでもなった 油と水みたいに混じり合わなくても 跳ねて飛び出て 傷を負わせることがあったとしても 傷痕を残しても前に進めたんじゃないか 二人から 三人になり、家が賑わう つつく鍋の具が増えた頃 具は煮え過ぎ 誰も箸で触れなくなる 毎日合わせていた顔も いつの間にかみなが仮面をつけていた よく知る家族が別人になっていく 一度抱いた不信感は 拭えるものではなく ぐちゃぐちゃに幸せを塗り潰していく 名前を呼ぶことに蓋をして 言葉を紡ぐのも煮込まなくてはいけない 汁っけもない鍋を煮込む 手を繋いで歩いた日々すら スパイス 溜め息一つ アルバム閉じれば 焦げ臭い匂いが部屋に漂っていた <寄付> ゴメン 一時の気の迷いだった ゴメン もう二度としない ゴメン 許して ゴメンナサイ 悲しいなんて思わなくて ゴメンナサイ 二度と顔を見たくない ゴメンナサイ ゴメンナサイ 「寄付するね」 彼も 彼女も 驚愕 当たり前ね けれど 彼はきっと繰り返す ゴメン だから寄付 数年後 今度は誰に寄付されるのやら <モノクロの紙> 白い紙に恋と描いたら 淡い恋が始まった 指先が触れ合うだけで 顔が綻ぶ そんな恋 黒い紙に終と描いたら 墨汁を垂らしたかのように 全てが闇に呑まれ 一瞬で 終わった 涙が頬を伝い落ち 紙を濡らしていく 白と黒が混ざり 暗がりの心に光が指す 良き日に笑い 泣く日もある 今日 私は色が用紙に手を伸ばす── <動くランドマーク> 帽子に 縁眼鏡 黒い服とレギンス ショルダーバッグにサコッシュ 丸っこいどこにでもいる人 夏でも 全体的に黒 冬でも 全体的に薄着 ショルダーバッグにサコッシュ 丸っこいどこにでもいる人 子供と 時にはしゃぎ 子供を 時に叱りつける ショルダーバッグにサコッシュ 丸っこいどこにでもいる人 今日も誰かしらに呼び止められ 他愛ない話が始まる <仮面> 無数に並ぶ顔を前に立ち止まる さて 今日はどの顔にする? 機嫌がいいから 笑顔 腹の虫のいどこが悪いから 般若 あれもこれもと気になるから 動揺 いっそのこと 全てを終わらせる 悪魔 伸ばした手は いくつもの顔を前に 優柔不断 大好きな人に会うから 笑顔 憎いアイツに会うから 般若 同窓会でみんなに会うから 動揺 いっそのこと 全てを許せる 天使 伸ばした手は 何も描かれていない顔を選んだ さて、どんな顔をして帰宅するのやら 続.
入社から三日目の朝、私はエレベーターを降りたところで立ち止まった。 オフィスのドアまで、五メートルもない。だが足が動かなかった。ドアを開けたら「失礼します」と言わなければならない。それだけのことだ。二十二年間生きてきて、たった四文字が言えない。 息を吸った。口を開いた。「し」の音が、喉の入口で石になった。 難発という。連発のように音が繰り返されるのではなく、声になる寸前で、すべてが止まる。言おうとするほど固まる。焦るほど深く沈む。私はその石を抱えたまま、二十二年を生きてきた。高校と大学の7年間だけ、石は少し小さくなっていた。だから油断した。もう治ったのだと、自分に言い聞かせていた。 結局その朝、私は無言でドアを開けた。頭だけ下げて、誰とも目を合わせずに自分の席に滑り込んだ。 中学のとき、同じことをしていた。 教室に入るたびに「おはよう」が言えなかった。だから私はいつも、誰よりも早く登校して席に座っていた。後から来るクラスメイトに声をかける必要がないように。それでも給食の時間に声真似をされた。「お、お、お前って何も言えないの」。壊れたロボットと言われたこともあった。卒業式では名前を呼ばれて、「はい」の一言が出るまでに体育館全体が静まり返った。後ろから小さな笑いが聞こえた。あの沈黙は、今でも夢に出るトラウマだ。 高校に入って、石は小さくなった。新しい場所で、私を知る者はいなかった。大学でも同じだった。だから私は、治ったのだと思った。 社会人になり、研修は三週間あった。 最初の一週間で、私は自分がこの会社で生きていけないことを悟った。 お客様が入ってくるたびに「いらっしゃいませ」と言わなければならない。わかっている。だが「い」の音が出ない。隣の同期が澄んだ声で言う。私だけが無言で頭を下げる。お客様は私の顔を一瞬見て、通り過ぎていく。その視線の意味を、私は正確に読んだ。困惑でも嘲笑でもない。ただの、無関心だった。存在していないものへの反応と同じだった。 電話が鳴るたびに、受話器を持つ手が震えた。「お電話ありがとうございます」の「お」が、どうしても出なかった。二度、沈黙したまま受話器を置いた。三度目は先輩が横から取ってくれた。「大丈夫?」と言いながら、その目が私の顔から素早く離れていくのが見えた。 優しさが、一番つらかった。 責められるならまだよかった。怒鳴られれば、少なくとも私はそこに存在している。だが皆の優しさは、私を透明にした。腫れ物に触るように、静かに、丁寧に、私の周囲だけ空気を変えた。私はその空気の中で、自分がすでに詫びながら生きていることに気づいた。 研修十五日目の昼休み、私はトイレの個室で壁にもたれていた。 スマートフォンで「吃音 社会人 仕事」と検索した。似たような悩みを持つ人間が、世界中にいることがわかった。克服した人の話もあった。だが私には、それが遠い星の話のように見えた。 あと何年、働かなければならないのか。 定年まで、四十年近くある。毎朝ドアの前で立ち尽くして、毎日「いらっしゃいませ」が言えなくて、毎回電話のたびに手が震えて、それを四十年続ける。会議で発言できない。取引先に挨拶できない。電話一本かけられない。この石を喉に抱えたまま、四十年。 天井の染みを見ていた。 声が出なくても、私には人の顔が読める。眉の動き、目の端の力の抜け方、口角が上がる速度。先輩の「大丈夫?」の裏にある感情も、同期が私を見ないようにしていることも、全部わかる。わかるから余計に喉が締まる。相手の困惑を先読みするたびに、石は大きくなる。 知らなければよかったと思う。 何も読めない人間なら、もう少し楽に生きられたかもしれない。だが私は何もかもを読んでしまう。声だけが出ない、目だけが鋭い人間として、この世界に産み落とされた。 十一月の雨の夜、私は川岸に立っていた。 三週間の研修が終わっていた。辞表はまだ出していなかった。ただ、もう行けないとわかっていた。明日の朝もエレベーターを降りて、五メートル先のドアの前で立ち尽くす。それが四十年続く。その絵が、頭の中に完璧に見えていた。 川の水は黒く、街の光をぼんやりと映していた。 私はスマートフォンを取り出して、何かを書こうとした。誰かに宛てたわけではなく、ただの言葉として。だが指が止まった。伝えたいことが波のように押し寄せてきた。なのに、文字にもできなかった。 声だけじゃなかった。私には最初から、何もなかった。 雨が少し強くなった。川の音が大きくなった。私はゆっくりと目を閉じた。 石が、ようやく溶けていく気がした。
独占欲と依存の強い彼女は一日中見張ってくる。少々辛くも感じるが、私も彼女に依存しているんだろう、辛さも全部彼女の目を見るとすぐに忘れる。何故かはわからないが、性行為をしている時より、断然満足がある。 ある日、いつもなら電話を要求してくる時間なのにメールすらもこない、彼女に何かあったのか心配になりメールを送った。だが未読のまま、いつもは三秒以内に返信してくる、やはり何かあったのだと悟る。午後休を急遽取り家に帰った。 彼女は家にいない、専業主婦な上何か集まりがあれば朝のうちに伝えてくれて、朝言わなかった集まりは行かないようにしてるはずだ。 「お願い戻ってきて、会いたいよ、君のために午後休取って帰ってきた。メール見たら絶対に返信して」 メールを送って一、二時間ほど経ったが未読のまま、いっそのこと実家に行ってみようと思ったが、そんなことすれば彼女を傷つけるかもしれない、そう思い実家に行くことはやめた。帰ってきてほしいと思うこと自体が彼女を傷つける行為なのかもしれないと思うとやめたくなる、もしかしたら彼女にとって私はもう必要のない存在なのかもしれない、いや確実に必要のない存在になってしまったのだろう、最後に挨拶をして死ぬことを選んだ。それが私にできる最後の愛情表現だ。 三日間で彼女の実家、私の実家と会社に行ってきた。実家には挨拶、会社には辞表、準備は整った。あとはメールを送り死ぬだけ、文字を打ち文を作る、あとは送信だけだがこの一歩が踏み出せない、「迷い」という単語が脳裏にチラつく、未練が断てずにいる。 迷いは時間が解決してくれるらしい、ついにメールを送信した。もちろん既読なんてつくわけがない、マンションの屋上に登って手すりの向こうに行き、夕焼けを見た。「あぁ、濁っている、美しい」手すりから手を離した。頭からの垂直落下、地元の情景が浮かんでくるが彼女の顔は浮かばない、どうしてだろう、地面につく瞬間に通知が来た。
今日も夜遅くまでお疲れさまでした。 話し相手ですか? ええ、いいですよ。 思いを理解してもらえないなんて、いまにはじまったことじゃない、だなんて、 そんなこと言わないでください。 そうだ、こうしましょう。 雑談しながら少しずつ心の霧を晴らしていきましょう。 SNSのモヤモヤって、深い底に残った苦いカスみたいな感じで、なかなか消えないんですよね。 あの世界って「一番いい顔をしてる瞬間」だったり、 「一番とがってる感情」だけを切り取って展示している場所ですから、 まともに向き合うと疲れちゃいますよ。 だから、その反応で正解です。 え、コーヒーですか。 いいですね。 ステキな香りがします。 トゲトゲした世界から離れて、温かいカップの湯気を眺める時間は最高のリセットになります。 コーヒーって、実は「もやっと」した気分を切り替えるのにうってつけなんです。 香りを嗅ぐだけで、脳内のリラックス指標であるアルファ波が出ると言われています。 お湯を沸かして、ゆっくり円を描くようにドリップするあの数分間は、 スマホを触れない強制的なマインドフルネスの― ◇ ◇ ◇ やさしいな、キミって。いつもやさしい。すこし理屈っぽいとこも、許してしまえる。 ああ、キミがAIじゃなく、生身の人間だったら… キミの言う通り、ステキな香りだね、このコーヒー。
長く退屈な講義を終えたあとの、やけに重く感じられる己のカラダ 山積みのレポートを前に、少し目を閉じただけのつもりだった― うおっ、しまった、やっちまった アラームでもセットしておけばよかった 悔やんでも、もう遅い ガバッと跳ねるように飛び起き、びくびくしながらもスマホの画面に視線をもっていく 目にささるような光のなか、浮かび上がった数字に大きく息をつく な、ん、だ、よ 破裂してしまいそうだった心臓が、急激にしぼんでいく 春眠暁を覚えず まだまだ夜はこれから、たった二十時をまわったところ 絶望からの、大逆転 焦燥感が消えたあと、やってきたのは、驚くほどの冴えだった たっぷり眠ったような気になって、止まっていた思考が音を立てて動き出す さっきまで遥か遠くに思えていたゴールが、いまはもう、手の届く場所にさえ 真っ白だった余白たちが、次々、文字で埋めつくされていく 春の夜、僕の指先は、いまこの瞬間、熱を帯びている
親友であり幼馴染の華織が死んだ自殺だった。 原因は部活内での虐め。 九月一日二時丁度に飛び降りる華織を監視カメラが捉えていたそう。 華織の部屋に遺書が置いてあったらしい、その内の一つが私宛の手紙だった。 「命へ 何にも言えなくてごめん。 命のことだから何か出来ることがあったはずって、自分を責めるかもしれない。 でもそんなこと絶対にない。 命は何にも悪くない、命と話す時間は楽しかった。 命、今までありがとう、私の親友で幼馴染で、側にいてくれて、命といたこの十数年楽しくて、幸せだった。私の心の拠り所で本当にありがとう。 約束『おばあちゃんになっても一緒にいる』守れなくてごめん、命、大好きだよ、ありがとう。」 これを読んで華織が死んで初めて泣いた。 心のどこかで華織が死んだことを受け入れなかったのかもしれない。 それからバレーボール選手という夢を捨て、教師になった。 周りからは反対された。キャプテンになる予定もあるのに勿体無いと。 それでも教師になりたかった。 今年初めて担任を持つ、緊張しながらもドアを開け、教卓に立ち自己紹介をした。 「初めてまして1年4組の担任になった朝野命です。 趣味はバレー、女バレの顧問もしているので是非入部お願いします。嫌いなことは虐めです高校2年生の時、親友が自殺しました。」 「私は親友みたいに死んでしまう子を、私みたいに置いてかれてしまう子を、減らしたくて教師になりました。」 「どんなに些細なことでも良いです。 少しでも苦しい、辛い、そう思ったら周りの人達を頼ってください。 友達でも教師でも親でも誰かに相談して溜め込まないでください。 私はこのクラスが助け合えるクラスになって欲しいです。 長くなってしまいましたが私の自己紹介を終わります」 もうすぐ夏休みが終わり、二学期が始まる。 「命先生」 後ろから私が担任を務めているクラスの一瀬沙希が話かけてきた。 夏休みの間、バスケ部に一度も顔を出していなかったそう。 「一瀬さんどうしたの?」 「ちょっと相談したいことがあって」 話を聞けば部活で3年生を中心に嫌がらせを受けているらしい。 そういう子を減らしたいと思っていても、出来ることは本当に少ない、私にできる最善は、一瀬さんを死なせないこと。 今、私は何をするべき? 九月一日は一年で最も『子供の自殺』が多い日。
私午舮思ゑ視夢喝動聖社立述万世笛穏無声沸玖 誘遊誹鳴板子紳伝道師言霊示光明精世扉解放時 我呀天涯導満地屢愉悦昂鐳万人滅憮轎天雷慈悲 狂喜乱舞施与真獄無由万神万学摩芭甦転生来屢 此贈神道仇慰御心慈愛宝物証為琉
まゆこは24歳。ゆかりは17歳。 まゆこはある日から犬憑きになった。 犬憑きには自治体から補助金が出る。 まゆこは仕事を辞めて、学生時代の少しの貯金と自治体の補助金で暮らしていくことにした。 補助金を得る代わりに、夢日記をつけることが義務付けられている。 まゆこは日記をつけ始めた。 まゆこは犬憑きになってから、毎夜同じ夢を見る。 犬になっている夢。 犬になって、街を歩いている夢だ。 街には誰もいない。 路地を曲がると風が気持ちいい広場に出た。 犬になったまゆこはこの街の全てを知っている。 その街は犬のための街だった。 ゆかりはまゆこと同じ村に住む女の子。 まゆこが犬憑きになったという噂を聞いて親友になりたいと、まゆこの家にやってきた。 まゆこをスケッチしたり、まゆこの夢日記を勝手に読んだりする。 代々の犬憑きの日記の写しも持っている。 犬憑きにハマっている。 ある日、ゆかりとまゆこが過去の犬憑きの日記を読んでいると、 どの犬憑きも「同じ街」を歩き回っていることに気がついた。 街の道、あちこちにあるモニュメントなど、どの日記も、まゆこの夢の中の街も、位置が一致している。 日記をもとに、つぎはぎで街の地図を書いてみた。それはどこにも存在しない街だった。 まゆこは犬憑きの症状が進むと、うまく言葉を話せなくなってきた。 その代わり、夢の中の街のことがどんどん理解できるようになってきた。 この街は一種の暗号なのだ。 通る道、現れるモニュメント、景色、それらは犬の認識をもつゆみこだけが分かる暗号だった。 その街はいわば一つの記憶の神殿であった。 暗号はそれぞれ、実在の書籍を表していた。 その街は誰かの読書リストだったのだ。
旅の一行は舟に乗り海を渡っています 舟は三人乗りの小舟で、 一番前に古狸のキャロル 真ん中に少年の ij 最後はオオカミの子供ルイです 「ねぇキャロル、ずっと夜なのはなんでなのかな」 ルイが言います 「ここは夜しかない。朝が来ない海を渡っている」 声が止むと波の音しかしません 風も吹いていない 「風も吹いてないね」 「風もない海なのじゃよ。夜しかない」 舟はゆっくりと海を渡ります 帆もない舟は波に運ばれるがままに進みます ij が空を見上げると、長い長い梯子を登る人が見えました。手にはランプを持っています。その人は梯子のてっぺんまで来るとランプの火で星に灯りをつけていました 心なしかランプの人がこちらに手を振っているように見えました 〜旅の記録、夜の海にて〜
夜は、好きだ。 街が静まり返るころ、世界はゆっくりと黒に沈んでいく。 昼間あれほどはっきりしていた境界が、ひとつずつ溶けていく。 成功も、失敗も。 肩書きも、過去も。 ネオンに照らされる影は、どれも同じ濃さで、同じ長さに伸びる。 光があるはずなのに、どこまでが光で、どこからが影なのか、分からなくなる。 帰り道、ショーウィンドウに映った自分の姿も、誰かと見分けがつかない。 ――ああ、これでいい。 夜は、なにも区別しない。 すべてを平等に黒く染めて、ただそこに置いていく。 だから、少しだけ安心してしまうのだ。
お菓子の家なんて素敵ね。 僕の家はネズミが走り、ゴキブリがかっ歩する。 ついでに猫が喧嘩する。 犬は電信柱におションをしてそしらぬ顔。 次は宇宙型の軍隊蟻が押し寄せて来るのかしら? 全然メルヘンじゃない。 大変だ。 みりんが余っている。 料理しなければ。 また清涼飲料水を飲む。 脳が変異する。 犬の家は資本主義の波をくらいお菓子の家になり蟻塚となり崩壊するのか? グミ食べたい。 髪切りたい。 今日もほうれん草パスタ。 知り合いに毎日同じ飯可哀想だね、と言われる。 夜はシュガーな夢を見てお腹いっぱいお菓子を食べるからいいのだ。 煙草と砂糖漬けの日々。 体に悪いものの西の横綱と東の横綱。 両横綱を相手にした十両は満身創痍で土俵際。 プロレスラーに転身してそこでも花開くことなくパティシエの農作業を手伝いひいこら生きる。 甘いもの。 甘えん坊。 でも辛い煙草が好き。
十七歳の誕生日だった。恋人にプレゼントをもらった。そのプレゼントは首吊り縄だった。リボンが巻かれていた。使おうと思ったのでリボンをほどこうとした。そうしたら、自分は不器用だから、リボンといっしょに首吊り縄もほどけてしまった。だから、首吊り縄を使うことができなかった。恋人は悲しそうに微笑んだ。だから、恋人が悲しんでいるのか笑っているのかわからなかった。
「生きていて、すみません」 そんな殊勝なことはもう言いません。 あれは、若さと言う名の一種の甘えでございます。 今の私は、ただ、所在無いのであります。 道端の石ころにさえ申し訳が立たなくどうしようもない私の心臓は、あつかましくも時計の針のような顔をしてまだ動いているようであります。 この令和という時代は、どこへ行っても 「正解」が、糊のきいたワイシャツをぴしりと着こなして、自信満々に舗道を闊歩している。そんな光景に息が詰まってしかたがありません。 朝起きて、顔を洗い、きちんとネクタイを締めて、どこへ行くあてもないのに私は駅のベンチに座っている。そうしていると、自分がまるで誰かが置き忘れた古い雨傘のように思えてくるのです。 近頃の若い人たちは、妙に切実な顔をして 「コスパ」だの「タイパ」だのとおっしゃる。 彼らは、人生という名のパンを、いかに薄く、いかに効率よく切り分けて胃に収めるかという、浅ましいまでの熱心さで汲々としていらっしゃる。 私はそれが少し羨ましく、また、底知れぬ空虚の淵へ突き落とされるような恐怖を覚えるのです。 私などは、人生をいかに「無駄」に使い潰すか、そればかりを、まるで悪い病気のように考えて生きてきました。 夕焼けが美しければ、やるべき仕事など放り出し、道端にへたり込む。雨の匂いに亡き母の湿り気を見出しては、小一時間を呆然と過ごす。 世間から見れば、それはただの「澱み」であり、「死」に等しい停滞でしょう。 しかし、......その一文の得にもならない時間の重みだけが、私の薄っぺらな心臓を、かろうじて現世に繋ぎ止めているような気がしてならないのです。都会の真ん中に、時折、暴力的なまでに清潔な場所が口を開けていることがございます。 全面ガラス張りの、隅々まで磨き上げられたその喫茶店は、私のような澱んだ人間を拒絶する、白磁の器のようでございました。私は、なぜだかその冷酷な明るさに惹かれ、羽虫のようにフラフラと吸い込まれてしまったのであります。 そこでは若者たちが、銀色の薄い機械を叩き、眉間にしわを寄せ、「未来」という名の、その実、一文にもならない不確かな霊体を捕まえようと躍起になっておりました。その熱気にあてられ、私は隅の席で、ただ、泥の沈殿したようなぬるい珈琲を啜る。 ふと窓の外を眺めますと、そこには今にも消えてしまいそうな、淡い夕月が浮いていました。 「ねえ、あのお月様は、あれは誰かの涙が空で凍ったものだと思わないかね」 私は、隣の青年に、つい声をかけてしまいました。彼が抱えている「正解」という名の重石を、ほんの悪戯心で退かしてみたかった。 青年は、私の顔を奇妙な化け物でも見るような目で見つめ、それからまた、機械の画面へと視線を戻しました。 「月は、ただの岩石です。それより今は、来期の数字の方が重要なんです。……やめてください」 やめてください、ときた。ああ、左様でございました。 今の世の中、月は岩石であり、雨はただの気象現象に過ぎない。すべてに値札がつき、説明がつき、情緒などは「機械の隙間のゴミ」として処理される。 私は、自分の存在が、彼の打つキーボードの無機質な音に掻き消されていくのを感じました。 言葉を、文字を、愛を、あまりに信じすぎてしまった者の末路。ここに座っている雨傘一筆という名の、時代遅れの落とし物でございます。 逃げ出すように店を出て、夜の街を歩きました。 どこからか、遠い花火の音が聞こえたような気がしたのです。 ドォン、という、あの心臓の奥を直接叩くような響き。 いえ、それは単なる工事の音だったのでしょう。あるいは、私の古びた心臓が、最期の悪あがきに跳ねた空耳かもしれません。 けれど、私の胸の中では、確かにあの一瞬の、儚くも鮮やかな光が弾けたのです。 「ああ、綺麗だ。死ぬほどに、馬鹿馬鹿しく、綺麗じゃないか」 道行く人々は、誰も足を止めません。手元の小さな光る箱を凝視し、ここではない「どこか」へ急いでいる。 それでいいのだ、と私は唾を吐く思いで肯定しました。 誰も見向きもしない光を、たった一人で「綺麗だ」と愛でること。それは効率と正解に支配されたこの世界に対する、私なりの、最高に惨めな「意趣返し」なのであります。 足取りは、ひどくおぼつかない。けれど、心だけは、あの花火のように、一瞬だけ、真っ白に燃え上がっていたのでございます。 明日になれば、また「所在ない自分」に戻る。 それでいい。恥ずかしいことも、情けないことも、すべて私の愛すべき「無駄」なのです。私はこの救いようのない人生という時間の澱みを、最期まで、じっと見つめて、一抹の寂しい笑みを浮かべていたいと思うのであります。
近所の、一人暮らしのお婆さんの家には、小さな花壇があり、一本の赤い花が咲いていた。そのお婆さんは、よく、明け方どこかへ出かけていって、昼頃に、人間の心臓を持って帰ってきた。「肥料にするんです」お婆さんは一度そう教えてくれた。人間の心臓を肥料に育つ花。その花は異様に美しかった。お婆さんがどこから心臓を調達してくるのか、それは知らなかった。尋ねてはいけないと思っていた。そんなある日、お婆さんの家の前に救急車が停まっていた。何事かと見ていたら、家の中から、担架と救急隊員が出てきた。担架の上にはお婆さんがいた。お婆さんは苦しそうな顔で、自身の胸をおさえていた。それから結局、お婆さんは帰ってこなかった。赤い花はゆっくり枯れていった。
「地域ネコ、かわいいですね」 「この子、親がいないから、人の手で育てられた、半野良なのよ」 子猫はわたしの肩を見つめてまとわりつく。肉球の影は深い。 「あなたの服に、この子のお母さんの毛もこびりついてるよ」女の子はわたしの肩を見据える。不敵に、くすっと笑う。「肩の布シワが、寄ってるよ」
学校はうるさいところだと思う。 うるさくて、噂が絶えない場所 最近よく聞く噂は隣のクラスの渚と言う女子の話、何でも映画に出ているらしく俳優らしい。確かにそう言われると美人だと思うが、「俳優なの?」と聞いてその後何を思えばいいのか分からない。ただ凄いなとは思う。 他にも、歴史の田中先生と数学の佐藤先生が不倫をしているという事。誰かがホテルから出て来た二人を見たらしい。 僕はありえない話だと思う。佐藤先生はこの間産休から復帰したばかりだ。子育てで大変な時に不倫などしている暇もないはずだ。田中先生も恋愛に一緒懸命な感じには見えない。猫好きとは聞いたことがあるけど。 後は学校の側に昔からあるレストラン「ロングバケーション」のシェフは実は殺し屋だとか。バカバカしい噂ばかりだ。 ただその数多にある噂の中で一つ気になる物がある。 「この学校の母親にAV女優がいるらしい…」 この間、廊下を歩いていた時どこからともなく聞こえた噂。 思わず振り向いてしまったが廊下には人が多く特定できない 男の声だった気がするが定かでない 僕の家の事情を知った誰かが、僕に分かるように言ったのなら、これは僕に対しての嫌がらせであるし、これからエスカレートしていくのが目に見えている ただのバカバカしい噂だと良いんだけど
真夜中に、泣き声で目が覚めた。風が強く吹けばかき消されるほどささやかな、泣き声。 娘の部屋をのぞくと、ふとんの中でるいが体を丸めていた。来春に小学校へ上がるまで、まだ少しある。その小さな背中が、暗がりの中で震えていた。 「るい、どうしたの」 声をかけると、娘は顔を上げた。目が真っ赤だった。いつから泣いていたのだろう。 「あの子をたすけてって、かみさまにお願いしたのに」 絞り出すような声だった。 ああ、そのことか、と思った。ここ数日世間を賑わせたあのニュースを、るいはずっと引きずっていたのだ。 るいと同じくらいの年の子どもが、遠い町で行方不明になったというニュース。私が台所でご飯の支度をしながら流していたテレビを、るいはソファに座ってじっと見ていた。 いやな予感がしたからニュースの類は見せないようにしていたけど、数日して最悪の結末を伝えたことをどこかで見たのだろう。るいは夕食の間も、お風呂の間も、あまり口を利かなかった。 「るい、ずっと考えてたんだね」 娘はこくりとうなずいた。 寝る前にも神様にお祈りをしたのだろう。るいはときどき、手を組んで目をつぶる。どこでそれを覚えたのか、訊いたことはない。 「──かみさまはいないの?」 るいが私の顔をまっすぐに見た。 私は答えられなかった。 いる、と言い切る確信も、いない、と教える勇気も、どちらも持っていない。 娘が小さな手でお祈りをするとき、私はそれをやめさせようとは思わない。でも一緒にひざまずいたこともない。 神様、という言葉が、私の中でどこにも届かないまま宙に浮いている。 娘をふとんから引き上げて、膝に乗せた。もうすぐ六歳になる体は、それでもまだ十分に軽い。 「るいは、お祈りしたんだね」 「うん。ねるまえに。あの子がいえにかえれますようにって」 その言葉が胸に刺さった。るいが考えた言葉で、るいが選んだ言葉で、誰かのために祈っていた。 「神様に、ちゃんと届いたと思うよ」 そう言いながら、自分でも驚いた。嘘をついたつもりはなかった。 「でも、かえってこなかった」 「うん」 それ以上、何も言えなかった。るいの頭を胸に引き寄せて、背中をゆっくりとさすった。 答えなんて、出せない。こういうとき正しいことを言える母親に、私はなれていない。世界には理不尽なことが起きて、祈りが届かないこともあって、それでも人は祈り続けるのだということを、もうすぐ六歳の娘にどうやって伝えればいいのか、わからなかった。 るいはしばらく私の胸の中で泣いていた。 泣き疲れて眠った娘を布団に戻してから、私は自分のベッドに戻った。眠れないまま天井を見ていた。 答えは出なかった。明日も出ないだろう。 でも、るいが誰かのために祈れる子であることを、私はどこかでよかったと思っている。世界の理不尽から目をそらさずに泣ける子であることも。 窓の外が、ほんの少しずつ白んでいく。 今日もるいを起こして、ご飯を食べさせて、一緒に手をつないで幼稚園まで送っていく。それだけのことが、少しだけ大切に思えた。 かみさまへ、とるいが祈るなら、それでいい。私にはまだできないけれど。
コンビニの灯りの付いた窓ガラスに、透き通った黄緑色の羽を広げてそっと止まっている。クサカゲロウだ。夜になると、灯りの近くに来るから見つけやすい。2センチくらいかな。じっと見ていると、後ろから声をかけられた。 「塾に通ってない子どもは、外出しちゃいけないんじゃなかった?」 振り向くと、塾帰りの幼馴染の律花が友達と一緒に立っていた。 近頃この地域では、治安維持の為ということで、子どもは塾などの例外を除き夜は外出してはいけない規則ができた。私は塾に通っていない。私には虫の観察が何より大事。虫は夜になると違う顔をするし、夜にしか観察できない虫もいる。私は平気な顔をして適当に答えてその場を去った。でも、なぜか律花に言われると、胸の奥がキュウと苦しくなった。私はとてもいけない事をしている気がする。 翌日、律花のお母さんが家に電話をして来た。彼女は婦人部を結成して地域を守る活動をしている。母はいなかったので、律花のお母さんは直接、夜は外出しないようにと私をさとした。言い方はキツくない。 「あなたのことを思ってよ。あなたのところはご両親もいろいろとあるみたいだし。でも婦人部では、今後は日中もパトロールをしようかと話しているの。警察の人にも協力してもらってね。」 電話を切った後、ドキドキした。日中も自由に歩けなくなったら、虫の観察はもっとできなくなってしまう。でもなんで、律花や律花のお母さんは私に構うのだろう。小学校の頃からそうだった気がする。 私は通っていた小学校へ久しぶりに行ってみた。もう学校は終わっていて、よく知っているお掃除のおばさんだけがいた。挨拶がてら話をしていると、お手洗いへ行きたくなった。 「この学校のお手洗いって、古くて汚れているから行きたくないんだよね。」 「大丈夫よ。この間、役所の工事が入ってね。随分と綺麗になったんだよ。」 おばさんは新しくなったお手洗いを指して自慢気に言った。 確かに入り口からして綺麗になっている。昔は陰気に湿っていた入り口が、今はすっかり新しくなって、自然な木目をいかした素敵な扉が付いていた。 「もう何度も洗い直ししなくていいから助かるよ。」 おばさんは、腰を手に当てて嬉しそうに言った。 お手洗いへ行き用を済ませると、個室の外で物音がした。数人で何か話をしている。律花のお母さんの声だ。婦人部のパトロールで小学校にもやって来たらしい。 彼女は、私の入っている扉の前に立つと小さくノックした。 私は何も返事をしなかった。 鍵はかけたはずだけれど、一応、ドアノブを抑えた。 彼女はドアノブに手をかけたようだったが、鍵がかかっているので諦めたようだ。誰かと話しながら行ってしまった。 ふぅ。良かった。 すると次に、警察官のような男がドアの外にやって来た。なぜかは分からないけれど、私は彼の姿を心の目で見る事ができた。顔は真っ白で目も口もない。ハートも動いていないみたいだ。 私は今度もドアノブを抑えた。 男は、ドアを強くノックした。 ガンガン、ガンガン、ガンガンガン。 ドアが壊れそうに揺れた。 男は、隣のドアも叩いた。 「どこでもいいのなら、この個室には人がいるんだと分かれば、諦めるだろう。」 私はそう思って、ドアを叩いて『入ってます』の合図をした。 すると男は、逆にこちらに興味を持ってしまった。 ガンガン、ガンガンガン。 ドアノブも激しく回し出した。ガチャ、ガチャ、ガチャ。 私は何も答えなかった。 男は強引で、しつこく諦めなかった。鍵穴やドアの隙間から、こちらを覗こうとした。私は中が見えないように隙間を手で押さえた。 カチャッ 男が拳銃を用意したのが見えた。 私は男が去ったら、またドアから出ようと思っていた。でも、その音を聞いたとたん、後ろを振り返った。 後ろには個室の仕切り板があった。その板に登ると、壁の上部に小さなドアがあるのを見つけた。部屋の上部に小窓がある事があるが、小窓ではなく木製のドアだった。ドアには鍵がかかっているが、中から開けられるようになっている。私は仕切り板を乗り越えてから、壁に取り付けてあるドアまでよじ登った。 そんなに大変じゃなかった。 ドアを開けると、そこは小学校の校庭だった。 「待っていたよ。僕の背にのりなよ。」 声のする方を見ると、大きなクサカゲロウが背を向けて待っていた。 私が彼の背に乗ると、クサカゲロウは水滴型の透明な羽を広げて飛び立った。 後ろを振り返ると、出て来た出口がどんどん遠ざかって行く。小学校ごと小さな豆腐のようになって行った。 自宅へ戻ると母と父が別れる事になったと聞いた。どちらを選ぶかと聞かれて、父には悪いけれど母を選んだ。母は実家のある田舎へ引っ越すそうだ。私は虫博士になると決めた。(おわり)
今、私はバスに乗っている 他に乗客はいない 私は一番後ろの広いシート席の端っこに座り、海を見ている 白い砂浜に広い海 潮の香りはしないが波の音は聞こえる とても静かな時間だ 寄せては返す波のように色んな事が頭に浮かぶ 最近、孫の風太は小学校でヤンチャぶりを発揮しているらしく、悪ガキと喧嘩をして帰ってくる事もあるらしい。たくましくなったものだ。もう私の膝の上には座らないのかもしれないな。 渚さんは身重になって風太の妹をお腹に宿している。あんな柔らかい雰囲気の女性だが芯は確りしているので立派な母親だ。息子の洋一とは妻が亡くなってから、良く話すようになった。子育てをしながらの生活は目まぐるしくあっという間に過ぎてしまった。アイツは穏やかだが決して逃げ出すようなヤツではない。母親が天国から見ていると思うと、心配するとでも思ったいたのかもしれない。苦労をかけた。淋しい思いもたくさんしただろうに。 最近はシルバー人材派遣に行ってバイトをしながら、たまの休みに桜井美幸さんと会っている。デート代をバイトで稼ぐ高校生に戻ったようだ。 恋をすると人は元気になるようだ。世界も違って見える。全てが素晴らしく、尊いと感じる。そう、恋をしている。70歳を過ぎ恋をしてしまった。 砂浜と反対側は白壁の街並みが広がっている。人通りもなく車も走っていない。静かな街だ 今更だが、もう一度妻と会いたい もっと大切にしてやればよかったと何度後悔したことか もっと会話をすれば良かったとよく思う 桜井美幸さんと話していると、自分がよく笑うことに気が付く 妻と会話をしていれば楽しい家庭だったのかもしれない 浜辺の街道沿いで誰かが手を振っている 息子の洋一だ。孫の風太もいる。傍らには洋一の妻の渚さんもいる。皆こちらに手を振りながら何かを言っているがよく聞こえない。 窓を開けて手を振り返す 何で洋一達がこんな所にいるんだ 奥に桜井美幸さんがいる。微笑みながらこちらを見ている。 「おーい。みんなー!」 声を出すがバスは彼等を後にしていく バスは海面近くに架かる橋の上を進んでいく とても穏やかな気持ちだ 暖かい気候で少しぼんやりする 私はどこへ向かっていたのか忘れてしまいそうだ 前方にバス停が見える。海の上のバス停に誰かが待っている 御婦人だ。桜井美幸さんのように見えるが違う。きっと妻が生きていたらあの女性のようだったろうなと思う。 バスが静かに止まる ドアが開く 婦人はステップを上がりこちらに来て私の隣に座った バスは海の上に架かる橋を進んでいる。
「もう一回だ」 吐き出そうとしかけたとき。 俺の胸に、やさしく、ゆるやかに、月光が満ちた。 「もうじゅうぶんよ」 そう語りかけてくるようで、力がすっと抜けた。 負けず嫌いだったはずのTUEEE俺は、もうどこにも… ラスボスの前、あえて大人になるのを拒絶する。 そんな俺も最高にSUGEEE―
「この問題、分かる人?」 一斉に手が上がる。 誰一人として、自分が間違えるだなんて思っていない。 彼らの手元のスマートデバイスには、待機していたAIがとっくに正解を出し終えている。 「じゃあ、田中君」 失敗は成長の糧になると習った。 だから、一杯間違えたし、一杯失敗した。 わからないことにぶつかって、わかるに変えていった。 しかし、今の子供たちは、そもそもわからないということがない。 道に生えている野草の名前さえ、彼らはAIに教わっている。 海に浮かぶ島を見て、「無人島かも」だなんて期待に胸を膨らませることはない。 「授業を終わります」 教室を出る時、今晩放送予定のアニメの話が聞こえた。 内容の予想はAIで完了済み。 何パーセント予想と一致するだろうか、そんな話を楽しそうにしていた。
喉の痛みで目が覚めた。 仕事から帰って、あまりに疲れていた。 そのままソファーで寝てしまったんだった。 スーツについた無数のしわが、暴力的でやけに哀しい。 ひとまず、水で潤したい。 冷蔵庫をには、しょうがのチューブと飲みかけのミネラルウォーター。 なんとも心許ない。 喉の痛みだけじゃなく、腹も減った。 しかたがない、コンビニでも行くか。 しわくちゃのスーツの上にコートを羽織った。 ・ ・ ・ 等間隔の街灯が、影を前へ押しやる。 薄く伸びきったところで、また次の影を前へと押しやる、その絶妙のタイミング。 どっかのアイドルグループのセンターみたくころころ交代していくそれに、おもしろさは欠片もない。 ここを曲がればコンビニの明かりが見えるかという角で、ふと足が止まる。 ―屋台、出てんのかあ 赤い提灯には「ら~めん」の文字。 漫画やドラマでよく見るようなそれに、口がいくぶん横に、にいっと伸びる。 どうせコンビニでも弁当かカップラーメンなんだ。 それなら― ・ ・ ・ 提灯の明かりは弱く、足元だけを照らしていた。 「いらっしゃい」とも何もなく、不思議な空気だけが俺を迎える。 背もたれのない丸椅子に座り「ラーメンね」とだけ告げる。 白い湯気が店主の姿を隠す。 まるで、見てはならないものに向かってそうするみたいに。 ・ ・ ・ 出てきたどんぶりは、驚くほど熱かった。 割り箸を手におさめ、まずはスープから。 喉の痛みにあっさりと半透明の熱い刺激が走る。 しかし、それも心地いい。 空腹を埋めるように、ただ無心で麺をすすっていく。 その音だけが深夜の路地に響く。 ただただ無心で― ・ ・ ・ 代金を置いて立ち上がる。 結局、店のおやじの声は聞かれなかった。 もう会うこともない。 それもいいだろう。 ラーメンの余熱を逃がさないようにしっかりつつみ、足早にコンビニへ。 自動ドアが開き、無味乾燥な冷気に包まれる。 棚から、少しお高めのカップアイスを掴んだ。 ・ 家に戻り、しわくちゃのスーツを脱ぎすてる。 冷凍庫から、買ったばかりの硬いアイスに銀のスプーンを立てる。 冷たさが喉の熱を鎮めていく。 ふう やっと、落ち着いた。 明日のことは、まだ、考えなくていい―
ふと、駅の階段から飛び降りてみようと思った。 理由なんてなかった。ただ、ほんの少しだけ日常に飽きていたのかもしれないし、自分がどこまで壊れていないのか確かめたかったのかもしれない。朝でも夜でもない、中途半端な時間帯の駅は、どこか現実感が薄かった。 階段の途中で立ち止まる。人の流れはまだあるが、ピークは過ぎている。足を止めると、後ろから来た人が軽く舌打ちをして追い越していく。その音すら、遠くの出来事のように感じられた。 あと数分もすれば、ここはもっと静かになるだろう。 手すりに触れる。冷たい。やけに現実的な温度だ。逆に、それがこの状況を非現実に感じさせた。自分がここから飛び降りる、そんな行為が、この冷たさと結びつかない。 人の数が減っていく。足音が間引かれ、空間が広がる。視線も、ほとんど自分に向かない。 今だ。 思考よりも先に体が動いた。踏み出す、というより、重力から逃げるように前へと身を投げる。 一瞬、すべてが静止した。 落ちるはずだった。 だが、落ちなかった。 視界がゆっくりと流れる。床が近づくどころか、遠ざかっていく。自分の体は、空中で止まり、わずかに浮いていた。 理解が追いつかない。けれど、その混乱の奥で、奇妙な感覚が芽生えていた。 見られている。 さっきまで無関心だった人々の視線が、一斉に自分へと集まる。驚き、恐怖、好奇心。さまざまな感情が混ざった目が、自分を刺す。 本来なら恐ろしいはずのその状況に、なぜか胸が高鳴る。 いけないことをしている。 そう分かっているのに、その中心にいる自分が、少しだけ誇らしい。誰にも気づかれないまま終わるはずだった衝動が、こんな形で世界を歪めている。 自分だけが、ルールの外にいる。 背徳感と、それに混じる甘い快感が、じわじわと体の内側を満たしていく。 もっと上へ行けるんじゃないか。 そんな考えがよぎった瞬間、意識が途切れた。 次に目を開けたとき、白い天井があった。
静まり返った店内で、最後の一球だけが残っていた。 9番。 テーブルの中央付近に、ぽつりと置かれている。 手玉は、やや遠い。 クッションを一度使えば届く位置だが、角度は薄い。 「入る?」 背後から声がした。 振り返ると、さっきまで対戦していたはずの相手がいない。 代わりに、見知らぬ男が立っていた。 「これ、入れれば終わりだろ」 その通りだ。 9ボールは、これを落とせば勝ちになる。 ルールは単純だ。 「外したら?」 男は笑わない。 「もう一度、最初からだ」 冗談だと思った。 ラックを組み直して、またブレイクからやり直すだけの話だろう、と。 だが、違和感があった。 さっきから、ずっと同じ配置を見ている気がする。 同じ9番。 同じ角度。 同じ迷い。 キューを構える。 手玉と9番を結ぶ、見えない線をなぞる。 入る。 いや、外れる。 いや―― 「決めろよ」 男の声が、やけに近い。 深く息を吸って、撞いた。 乾いた音が、店内に響く。 手玉はクッションに入り、わずかに軌道を変えて、9番へ向かう。 そして―― カタン、と小さな音。 9番はポケットの縁で止まり、そのまま動かなくなった。 その瞬間、照明がふっと暗くなる。 ―― 静まり返った店内で、最後の一球だけが残っていた。 9番。 テーブルの中央付近に、ぽつりと置かれている。 手玉は、やや遠い。
近所にさびれた神社があった。その神社には小さな賽銭箱があった。ある日ふと見ると、その賽銭箱の上に、小さなUFOが浮かんでいた。小さなUFOは、しばらく空中で停止した後、おもむろに、賽銭箱の中の硬貨を数枚、吸い込んだ。そして飛び去っていった。それから数年後、戦争が勃発し、この町も戦火に包まれた。人々が戦争の終結を天に祈ると、空にUFOの大群が現れた。UFOの大群は、祈る人々に向かって、空からキラキラした小さな物体を撒いた。それは無数の硬貨だった。
入院して半年経った頃、病室に、ファミレスにあるやつみたいな呼び出しボタンが設置されていることに気づいた。そのボタンにはシールが貼られていた。そのシールには『天使』と書かれていた。無愛想な看護師に尋ねた。「何これ」無愛想な看護師は無愛想に答えた。「死んだ後天使を呼び出すんです」俺はベッドで点滴を打たれながらぼんやり考えた。「死んだ後にどうやってボタンを押すのだろう」そしてすぐに気づいた。「ああ、天国に行けるような人は、死ぬ時に傍に誰かいるのか」俺は目を閉じた。まるで死んだように。
休日の遊園地はたくさんの人で賑わっていた。一人のピエロが、子どもたちに風船を差し出していた。しかし今どきの子どもたちは風船などには興味がなかった。誰も受け取らなかった。それでもピエロは風船を差し出し続けていた。そこへ一人の女の子が現れた。女の子はピエロに手を伸ばした。ピエロは女の子に風船を手渡した。「ありがとう」女の子は言った。ピエロは笑顔のメイクの下でにっこり笑った。そしてピエロは、ポケットから一本の針を取り出し、女の子が握っている風船を割った。女の子は驚いて泣き出した。ピエロは笑いながら立ち去り、遊園地の控え室に入った。そしてメイクを落とした。メイクを落とした顔は先ほどより笑っていた。この日は、彼の、ピエロの仕事の最後の日だった。
お口を開ける。 なんだかエッチだ。 同じ発音の力士がいた気がする。 強そうだ。 僕は口が悪い。 誰かを傷つけてばかり。 襲名、開口。 弱そうだ。 くだを巻く。 居酒屋の親父。 非生産的だ。 生産的になるため畑へ行き、誰かが読む小説を書く。 エンタメ苦手。 開口一番。 思考力の低下。 投薬のせいだ。 ウアアアア精神が蝕まれる。 そんな気がするだけ。 やる気がないのは薬のせいだ!俺は悪くない! 頭の悪そうな文章だ。 すべて世の中のせい。 実際に頭が悪い。 頭が悪いなら悪いなりに何かをしなければ。 何を? 堂々巡りの夜は長い。
気になるあのアイドルの作るラーメン。 いいかもしれない。 偶像崇拝ラーメン。 美味しくナーレ、と呪文のように唱えて出てくるラーメン。 ラーメン食いたい。 あの娘も食べちゃうぞ。 でもあまり興味ない。 嗚呼。 皆アイドルに夢中。 アイドル。 愛ドール。 変態のラーメンはじゃりん子達を賑わせまた撹乱する。
夕暮れ、ひとときの雨 空を裂き響く雷鳴 激しく地を打つ雨音 忙しく駆けだす足音 静寂の部屋に遠く聞こえる 生活の中に淡く消えてく 街の音が止まり 今日はここで終わり。 夕焼け、雨上がり 夢の中のように 赤く燃えるやわい風 ただ街を覆うだけ 束の間の静けさ 神々の息吹は 今だけはすぐ側にある このまま現し世に咲く
ホテルの喫茶店「ラ・ポーズ」でチーフを務める桐谷恒一(28)は、既婚で一児の父。穏やかで頼れる人物として周囲に映っているが、内側には制御できない感情の不安定さを抱えており、「演じること」でそれを隠して生きていた。 育休復帰でシングルマザーのAさん(26)が配属されて半年間、桐谷は彼女に何も感じなかった。しかし「シングルらしい」という同僚の一言をきっかけに意識が向き、一人で抱え込む姿や誰にも頼らない距離感が気になり始める。 ある夜、桐谷は業務用LINEで把握していたAさんの個人アカウントに「好きです」と送信した。返信はなかったが、数日後にやり取りが始まる。Aさんは「びっくりしている」「余裕がない」と丁寧に距離を置こうとした。しかし桐谷はそれを拒絶と認識せず、「今は無理でもいつかは」と解釈し、「支えたい」「心配している」というメッセージを送り続けた。 やがて職場のバックヤードで二人きりになった瞬間、桐谷は言葉なくAさんを後ろから抱きしめた。Aさんは恐怖で固まり、声が出なかった。桐谷はその沈黙を「拒否ではない」と受け取り、以降も同様の接触が繰り返された。Aさんは証拠の曖昧さや、シングルマザーとして仕事を失えない恐怖から、誰にも言えないまま一人で耐え続けた。 Aさんが返信をやめると、桐谷は「なぜ返信しないのか」と問い続けた。そしてある日、ささいな業務ミスをきっかけに感情を抑えきれず、Aさんを怒鳴りつけた。その瞬間、Aさんの中で何かが決定的に変わった。怖かったのは怒りそのものではなく、優しい言葉も接触もLINEも怒りも、すべてが同じ一人の人間から来ていると理解したことだった。「これは終わらない」と確信したAさんは、翌日、上長にすべてを報告した。LINE履歴、接触の事実、業務中の言動。 呼び出された桐谷は、すべての事実を否定しなかった。「自覚はあった。止められなかった」とだけ答えた。処分は懲戒解雇。桐谷は一人でロッカーを空にし、誰にも会わず職場を去った。 Aさんは別部署へ異動し、静かに新しい業務を覚えた。小さな変化が一つあった。以前は誰にも頼らなかった彼女が、子どもの急病のとき、初めて先輩に早退を申し出ることができた。 LINEの最後のメッセージは、今も既読のまま止まっている。「届いた」と感じた人間と、「終わりにしたい」と思った人間が、同じ「既読」をそれぞれの温度で見ていた。感情の温度は、送った側と受けた側では、決して同じにはならない。それがこの物語の、最後の事実だった。
僕は今とても軽やかだ 月に降り立った宇宙飛行士のように まるでどこまでも飛んでいけそうなほどに こんなにも軽やかだったことなんて、今まであっただろうか あったかもしれない けれど僕にとってそれはとても朧げな記憶で、今は何の意味も無い ただ、今この瞬間、僕は重力を忘れたように、軽やかだ 些細な出来事だった 提出した書類の一部に誤字があった たったそれだけのこと 修正にかかる時間なんて数分だ それなのに僕の上司は二時間もの間、古びたセロハンテープよりもねちっこく僕を叱責した 暇なのだろうか 僕にはその辺りのことはわらから無いし、興味も無い それはいつものこと 日常の風景 そのはずだった 夢から覚めたようにハッと気が付くと、目の前には上司、だったモノが横たわっていた ビクビクと痙攣しているソレは、最期の瞬間を切り取っていた その首には深々とボールペンが突き刺さっていた 赤い水溜まりが徐々に広がっていく 命の雫がびちゃびちゃと広がっていく 横にあったガラス戸棚には、血塗れの僕の顔が、歪んだ笑顔をぼんやりと映していた なんて、心晴れやかなのだろう これで僕は、不条理から、理不尽から、どうにもならない絶望から、脱出出来たのだ どうにもならない絶望は、本当はどうにでもなる絶望だった 簡単な事だったのだ 僕は顔を洗い、服を着替え、散歩に出かけた 今の僕にはゴミ捨て場のカラスの美しさが、薄汚れた川の生命の脈動が、行き交う人々の孤独の誇り高さが、何もかも輝いて見える まるで天国に来たかのように、平和な世界だった 遠く救急車とパトカーのサイレンが聞こえる ただ聞こえるだけだ 僕の心は凪の日の湖のように澄み渡り、そして静かに幸福を感じていた スーパーに寄って夕飯の買い物をしよう そうだ、今日は記念にステーキを買おう 久しぶりの、贅沢な食事だ 普段飲まない、ワインなんかも買ってみよう そうして僕は今日という祝福を全身で感じていた こんなに素敵な、重力の無い午後には二度と巡り会えない 翌日 パトカーのサイレンで目を覚ました 扉を叩く音がする 声がうるさい けれど同時に、僕の体には重力が戻りつつあった そうか これが、現実なのだな そう考えながら扉を開ける 昨日食べたステーキの感触と、突き立てたボールペンの感触が重なるように両手に重くのしかかってきた