雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 短い三行を朗読した後、私はカーテンを開けて外を見た。 雨がしとしとと降っている。 風がそよそよと拭いている。 七十五度くらい傾いた雨は、きっと私の頭上に置いた傘を避けて、私の足元をしっとり濡らしてくることだろう。 ブーツを履けば足首までは守れるが、膝から下は無防備だ。 「こんな日は、自宅で読書に限りますねえ」 私はカーテンを閉めて、机の上に置いている本を手に取った。 ページをめくりながら、晴れの日は晴れの日で、日焼けをしたくないとほざいていた自分を思い出す。 雨にも負ける。 風にも負ける。 雪にも夏の暑さにも負ける。 果たして、私は何なのだろうか。 ちょっと弱すぎないか自分、なんて思ったけど、自由自在に本を読める私は、頭の中が昔の人よりも強くなっただけだと言い訳して、本の世界に戻った。
深夜、家に帰った。「ただいま」「おかえり」もう寝ているだろうと思っていた妻の声がした。台所に行くと、妻が何かを食っていた。「夜食?」「うん、何かお腹空いちゃって」「何食べてんの?」「詩人」妻は口元を手で拭って、コップの水を飲み干した。「じゃ、おやすみー」「おやすみ」妻が去った後、三角コーナーを見た。指が入っていた。食べ残したのだ。詩人の指は不味いからな。きっとその指で詩を書いていたのだろうけど。まったく皮肉なものだ。
その男は、数字の『7』を激しく憎んでいた。男の住んでいる小さなアパートの部屋には、あらゆる物から『7』の数字が消されていた。時計、温度計、カレンダー、本、リモコン、食べ物の賞味期限。住所にも部屋番号にも『7』は入っていなかった。街を歩いていて、『7』の数字を目にすると、男は、暴力的な行為が発露する前に、慌ててその場を立ち去るのが常だった。男が『7』を激しく憎んでいる理由は、誰にもわからなかった。人々は理由を知りたがったが、男は口を閉ざしていた。様々な噂が流れた。やがて男は孤立した。そんな男に、唯一の友人が残った。友人は理由を詮索しなかった。「まぁ、そういうのって誰にでも何かあるよな」男はその友人にだけ心を許していた。そんな友人がある日、交通事故で急死した。葬式が開かれることになった。男は友人の両親から連絡を受けた。その葬式に出るためには、男は7時に目覚めなければならなかった。
月が私を見放してから、幾つ経ったのだろう 月の記憶にも無い、私の記憶 今日もハイカラな街灯と共に徘徊するのだろう 月の香りで冷気を遮って、孤独をこの身で受け止めて 私が月を見放してから、幾つ経ったのだろう 私にしか無い、私の記憶 街の何処に置くにも明日には消えてる 私の香りで世界を遮って、誰にも近寄られなくて 月の気配がして、夜がやって来て 創作でしか私を残せないことに気づいて 永遠の命を求めるかのように、生きた証明を求めて 月の独奏を片耳に、言葉を組み合わせて幾つ経ったのだろう (完)
雨上がり。あなたの網膜を焼く、空一面に広がる青は、ポスターカラーで塗りつぶしたかのように鮮明だ。花弁が満ちて、視界を覆わんとする重みに、支える枝が折れてしまうかのようだ。 踏み出した足元、古いが手入れの行き届いた革靴に紅色が混ざる様を眺めたあなたは、不意に顔を上げる。 今年も、いちばん彩り豊かな季節がきた。 我が校の入口に立て掛けた看板の縁を覆う紙製の装飾は使い回しだろうか、僅かに数が足りなかったようで、縁がはみ出している。 飽きるほどあなたが書いた我が校の名前、次はいつになるやら知れない。そこかしこで声がする。いつもより高い声色は、閉園間際の遊園地に響くそれに似ている。別れを惜しむ声、引き留める声。相槌を打つあなたに、悪い気はしない。 あなたの水たまりに反射する、嬉しいような、悲しいような表情が、知ってる終わりと、知らない始まりを想起させる。 強く吹いた風が背中を押す。摺りガラスの未来が期待か落胆かはわからない。わからないが、ひとつわかることがある。 次の桜の庭が呼んでいる。
布団に少し温度を残した君は、白い光の射すベランダで煙草を吸っていた。色褪せた背もたれのない椅子に腰掛け片膝をたて、ぼんやりと横を向いている。外に無関心な君の目には何も映っていない。 寝癖のついた黒髪が風に吹かれて小さく揺れる。窓で隔てられた室内には煙も風も流れない。 目を覚ました私に気付いた君は目を細め、白い月の光のように優しく笑った。 あの部屋はもう私たちのものではない。目覚めと同時に君を感じられる朝はもう来ない。 毎夜、冷たいキッチンの椅子の上で硬い背もたれに寄りかかりながらそんな朝を繰り返している。
風邪をひいた。バイトは休めなかった。 シフト表を見た。今日、出勤するバイトは2人しかいない。私と最近入ったばかりの新人。私が休んだらバイトに迷惑をかける。 私は重い身体をやっとの思いで起き上がらせて、自転車に乗る。私の身体にまとった熱で溶けていくように冷たい風が肌に当たる。 38度はあるだろうか。外は冬でも私の身体の中は猛暑である。この暑さに耐えられなくなった私の身体の奥に住んでいた汗が逃げるように外に出ていく。 私の身体はこんなに熱いのに寒く感じた。 「あぁ……あの新人ね。飛んだよ」 居酒屋のバイトは常に真面目に働いてる人が損する形になっている。 数少ない真面目に働く人達で基本的に居酒屋は成り立っている。全然入らない人やすぐ休む人、無言でいなくなる人。不真面目に働く人の分まで真面目に働く人が辛い思いをして店を運営していくのだ。 フラフラな身体で私は厨房に入る。社員は自分のことで精一杯で私の事は見ていない。 「あぁ……。私も不真面目に生きれたらなぁ……」 周りを気にせず空気を読まず、自分の好きなことだけをして生活出来たらどれほど楽だろうか……。そんな事を考える。
学校の同じクラスのクラスメートに、春の神様の子がいる。友だちはいない。春の神様の子だ。何か付き合いづらい。いつもそのクラスメートは一人でいる。昼休み、いつも教室の隅で弁当を食っている。この間、そっとその弁当を覗いてみた。おにぎりを食っていた。そのおにぎりは、雪だるまの形をしていた。それを、春の神様の子は、つまらなそうな顔で黙々と食っていた。
「大人を代表して、現代の子供たちに謝罪をする!」 よくわからないインフルエンサーが、よくわからない謝罪をしていた。 俺はこいつに代表をやってくれと頼んだ覚えもないのに、何を勝手に代表面しているのだろうか。 仕方ないので、黒魔術をかけた。 大人代表で子供に謝罪をしたのなら、大人代表として子供たちの恨みを受けてもらおう。 一人で。 『なんで叩くの? なんで叩くの?』 『なんで怒るの? なんで怒るの?』 『なんで生んだの? なんで生んだの?』 翌日、よくわからないインフルエンサーは原因不明の病で倒れたらしい。 よわっちい。 代表になる覚悟もない自称代表なんて、こんなものか。
アディクション。 何処かのアーティストみたいなこと言ってる。 実際にはそんなかっこいいもんでもなくただのヤニ中毒。 うええ。 通りかかった女の子に歌って!と叫ばれたり。 声が出ない。 才能の無駄使い。 あの娘はなぜ僕が歌ったことを知っていたのだろう? 変な歌を道で歌う。 脳がユワンユワンする。 ただの歌うま芸人。 何となく過ぎる日常。 音楽の可能性。 才能。 環境。 実際には心は真っ黒。 あそこも真っ黒。 夜はスピーク。 したいが相手がいない。 知能。 格差。 勇気。 勝手。 自由。 たまに何言ってるか分からないと言われる。 高卒なのにあんたインテリ?と言われる。 バー。 酒飲まない。 馬鹿騒ぎ好きじゃない。 でもお囃子の音頭取り。 メールで送った内容が流行っている。 レインメーカーの知り合いは楽しそうだ。 バランスが取れない。 グランジで不幸気取ってたら本当に不幸になった。 周りはそんなこと気にせず動き続ける。 何故求めるのか? 何故求められるのか? かなり自分勝手。 税金。 畑。 ジャズにトラッシュトークがあるらしい。 技巧に依りすぎて楽しむ心を忘れちゃいないかい?(悪口) マイルスも後期はhip hopを取り入れていたらしい。 音楽。 その辺の雑音。 呼吸。 ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド🎵 ベースを弾いた。 ペースを欠いた。 生き急ぐつもりもなかったのに。 人を信用しすぎた。 信頼されていたい。 でも身体がついていかない。 暇が潰せた。 文章と音の羅列。 統合失調症の夜は長い。
「では、選考結果は後日メールにてお送りいたします」 私がオンラインミーティングを終えると、部かが近づいてきた。 余程私に疲れが見えたのだろう、部下は私にお茶を差し出してきた。 「お茶くみは、部下の仕事じゃないんじゃなかったっけ?」 「何年前の話ですか。忘れてください」 入社早々、「多様性の時代だから部下にお茶くみさせるのが当たり前とか思わないでください」なんて頼んでもないのに宣言していたのが懐かしい。 思わず、同僚たちと吹き出したものだ。 部下は私の手元にある履歴書を持って、眉を顰める。 名前なし。 性別なし。 年齢なし。 住所なし。 わかることと言えば、ITの資格をいくつか持っていることくらいだ。 「外国人だったんですか?」 「多分」 「多分って」 「国籍なんて聞いちゃ駄目なんだよ。差別になるから。ま、日本語は上手く喋れてなかったけど」 「ええ……」 「ついでだ。それ、シュレッダーにかけといて」 私は早速メールを作る。 と言っても、事前に用意された文章を送るだけだが。 選考をしたという建前を守るために、メールの発信は数時間後。 自動送信での対応だ。 「日本語が下手だから採用しないってのも、差別に当たるのかねえ」 昔の癖で、左胸に手を伸ばす。 胸ポケットに煙草の箱が入っていないことを思い出し、その場で煙草を一服する振りをした。
夫が死んで、私は初めて冷蔵庫を開けた。 正確には、開けられるようになった。四十一年間、冷蔵庫は夫の領域だった。買い物も、献立も、味付けも、すべて夫がやった。私は食べる人だった。気づけばそういう夫婦になっていて、気づけば私は百キロを超えていた。 夫は細かった。結婚したときから細くて、死ぬまで細かった。入院している最後の三ヶ月、点滴だけで生きていた夫の腕は、私の半分もなかった。その腕で、私の手をよく握った。骨ばった、温かい手だった。 葬儀が終わって、親戚が帰って、家が静かになった夜、私はようやく台所に立った。七十二歳にして、初めてまともに包丁を持った。 冷蔵庫の中には、夫が最後に買ったものが残っていた。人参、大根、こんにゃく、鶏もも肉。私は夫が生前よく作っていた筑前煮を、見よう見まねで作ることにした。レシピは頭に入っていなかった。何十年も食べてきたのに、作り方を一度も聞いたことがなかった。 スマートフォンで調べながら、切って、炒めて、煮た。砂糖と醤油の分量を何度も確かめた。煮ている間、台所に匂いが広がった。夫の匂いがした。いや、正確には違う。夫の作る筑前煮の匂いに似ていたが、どこか薄かった。何かが足りなかった。 食べてみた。 まずくはなかった。でも、夫の味ではなかった。 私は箸を置いて、しばらくテーブルの前に座っていた。四人掛けのテーブルに、一人で座っていた。子どもたちが巣立ってからも、このテーブルで、ずっと二人で食べてきた。夫はいつも私の向かいに座って、私が食べる顔を見るのが好きだと言った。おいしそうに食べるから、作りがいがある、と。 私はそれが少し恥ずかしかった。自分がたくさん食べることを、どこかで引け目に感じていた。でも夫は一度も、食べすぎだとも、太りすぎだとも言わなかった。ただ、おいしそうだね、と言い続けた。四十一年間。 翌日、娘から電話があった。 「お母さん、ちゃんと食べてる?」 「食べてるよ」 「何食べたの」 「筑前煮」 少し間があった。 「お母さんが作ったの?」 「そう」 また間があった。今度は長かった。 「……お父さんの味に似てた?」 私は少し考えた。 「全然違った」 娘が泣いた。電話口で、声を殺して泣いた。私は泣かなかった。泣くには、まだ早い気がした。 電話を切って、私は残った筑前煮を温め直した。昨日より少し味が染みていた。それでもやはり、どこか薄かった。 何が違うのか、ずっと考えていた。そしてふと思った。夫はもしかしたら、私が食べるところを見ながら、味を足していたのではないか。私の顔を見て、首を傾けて、醤油をもう少し、だしをもう少し、と調整していたのではないか。 作る相手がいない料理は、完成しない。 そういうことかもしれなかった。 私は筑前煮を全部食べた。おいしくはなかったけれど、残すことができなかった。食べている間、向かいの椅子をなるべく見ないようにした。見たら、何かが終わる気がした。 夫の骨は、まだ手元にある。四十九日まで、そうすると決めていた。 夜、骨壺の前に座って、私は言った。 「まずかったよ」 返事はなかった。 来週また作ろうと思った。きっとまたまずい。でも作ろうと思った。いつかあの味に近づけるかどうかはわからない。でも近づこうとすることが、今の私にできる、唯一のことだった。
少子高齢化時代において、人間とは資源である。 故に、犯罪を犯した人間であっても、再利用することが不可欠である。 「判決。被告人を、更生刑に処す」 とはいえ、刑の執行を終えた人間に対し、人権の保障も必要である。 過去に犯罪を犯したという理由で、以降の人生全てを制限することもまた、国ぐるみの犯罪と言えるだろう。 そんな矛盾を解決するために、更生刑は作られた。 更生刑は、金属で作られた床と壁から成る、無機質な部屋の中で行われる。 部屋の中央に設置された機械に人間の体をぶちこんで、スイッチを押せば終わり。 「ああああああああああああああ」 脳に電気を流し込み、人格を変える。 記憶も買える。 全身に熱を流し込み、外見を変える。 人間という資源を、別人として再利用する。 「あのー、すみません。私は誰で、ここはどこなんでしょう?」 「ここは警察署です。貴方は道端で倒れていたのですが、記憶がないのですか?」 「……はい。名前を、私が誰かも、思い出せないのです」 再利用された人間に求められることは一つ。 別人として、かつての才能を世間のために行使し、稼いで納税をすることである。
ひどい湿疹が出るようになってしまった。「日光湿疹ですね」と医者には言われた。「薬を塗っておけば大丈夫です」 そんな大丈夫な湿疹には見えないのだが。首から耳の後ろにかけて、皮膚が赤く、うろこ状になっていた。 昼間、湿疹が出ることはなかった。不思議なもので、朝になるとすっかり消えているのだ。ところが昼を過ぎると、首のあたりがまずは痒くなってくる。そしてそのまま、痒みが頭の方にまで広がってくる。 退社するくらいの時間だともう地獄だ。忙しくないのが救いで、残業などあればこの痒みと仕事とはとても両立などできない。こうも痒いと早く一人になりたくなって、終業後は飲み会にも参加しなくなった。それでも職場で孤立しないのはありがたかったが。 痒みは日増しにひどくなり、本当に日光湿疹と言えるのかさえちょっと怪しく思いはじめた。医者には症状についてかなり細かく伝えたのだが、首をひねり、「症状的には日光湿疹なんですよねえ」と言うだけだった。「まあ、様子を見ましょう」 痒くないからそんなことが言える、と私は医者をにらみつけたが、医者は気づかないようにふるまっていた。それは明らかに後天的に身に着けた職業的な鈍感さだったので、それ以上深入りすることはできなかった。ただでさえ激務に疲れ果てた医者に食い下がるなんて、どうしても人情が許さない。 二か月が経った。首のあたりから皮膚が荒れ続けているので、髪も切ることができない。髪の量は多い方で、いざ放置してみると、伸びる速さもなかなかのものだった。あっというまに、襟足は肩に届くくらいになったし、もみあげはうっとおしいぐらいに長くなっていた。だけどこれは案外都合がいいのかもしれなかった。髪の毛はまるで湿疹を保護するように、うろこ状の周囲に沿うように伸びている。 最近では残業することも少しずつ増えてきて、痒さで仕事がはかどらないことに苛立つことも少なくなかった。しかし「疲れすぎ」ということで、周りには事実がばれずにすんでいた。 そしてある時、私は飲み会に誘われた。ずっと誘いの声掛けすらなかったのだが、疲れている私の顔を見て、リフレッシュが必要と思われたのだろう。私たちは五時きっかりに退社した。そして電車に乗り込んだ。まだ、陽は赤くなってもいなかった。わずかに傾いただけの、さわやかな、夏の日差し―― 人、という字は。支え。あって。できている。人と人が並びあい、人人。隣の人と手を、たたき合うイメージだ。このように人がたくさん集まって、人の、波。ができる。こんな風に。人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人痒人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人という鱗状の湿疹がうずいていた。真っ赤な夕日を浴びて、じわじわとうずいていた。痒くてどうしようもない。痒い。歩くのもままならないぐらいだ。どうにもならないのか。かゆい。ガチでかゆい。痒いという字、羊が病む。病ダレに羊。病んだ羊が苦しんでいる。だけど羊は無表情。一頭ごとに区別もつかない。どれも同じ顔をしている。羊の世界は平等だ。人は羊を神にささげる。平等を神にささげる。宗教の本質。いやいや。あまりに痒くて痛々しい時代が蘇る。哲学。神学。中二病。顔から火が出そうだ。痒みはますます存在感を増す。羊は痒そうな顔をしていない。痒そうな顔は、人にすらない。伝わらない。 人間は互いに同情することができない。 本当に? 私は人の列に遅れ、夕日に向けて、ほとんど一人で立ち尽くしていた。気が付けば。 赤い夕陽に縁どられた、長髪の男のシルエット―― 私は通りの注目を集めていた。髪は異様に長かったし、伸ばしっぱなしだったのでなおさらだ。私は往来に不自然に立ち止まっていた。通行を邪魔してもいた。「おっさんどけよ」と怒鳴られてもおかしくなかった。私は痒みをこらえていた。はた目にも異様な雰囲気だったのだろう。何かの演技で、何かのロケをしていたのだと思われたのかもしれない。その証拠に、おばあちゃんが私を指さす。「懐かしい、あの人、武田鉄矢の若いころみたい」 私は首筋にすっと手をやった。なぜなら痒かったからだ。手はそのまま、髪の毛をかきあげるようにして、湿疹の出た皮膚の上をなぞっていく。髪がそれに持ち上げられ、風を受けて、なびく。なんのてらいも、不自然さもなく。私は武田鉄矢だった。 「三年B組~」という声がどこかから上がる。私は目を閉じた。これでいい。これでいいのだ。 宙に舞いながら夕陽を見て涙する。これでいいのだ。これでいい。 いいのか?
「あ、買い忘れた」 困ったときは、コンビニに向かう。 二度もスーパーまで車を出すのは面倒なので、ありがたい存在だ。 歯磨き粉もある。 下着もある。 パンもある。 スーパーより割高だが、時間を節約できると考えればトントンだ。 コンビニには、小学生たちが溜まって、雑誌を一冊買っていた。 一人が勝って、皆で回し読みをするのだろう。 ……その役目は、うちのものだった。 昔の子供たちは私の本屋で買ってたし、私の本屋で溜まっていたのに。 便利な便利なコンビニは、私から大切な客を吸い上げていった。 「六百四十八円になります」 とはいえ、バイトの子に怒るのも違う。 昔なじみのオーナーに怒るのも違う。 誰が悪いって言えば、時代が悪いとしか言いようがない。 「はい、ありがとうね」 商品の詰め込まれたレジ袋を受け取って、私はコンビニを出た。 そろそろ私の本屋も、閉店を考える頃だろう。 コンビニやインターネットと戦うには、私は年を取りすぎた。
夏の明け方の公園を散歩していた。今夜も眠れなかったのだ。虫が飛んでいた。見たことのない虫だった。それはよく見ると、睡眠導入剤だった。睡眠導入剤に、虫の翅のようなものが生えていて、飛んでいるのだった。それを歩きながら追いかけた。翅の生えた睡眠導入剤はやがて、木の枝の間に張られていたクモの巣に引っかかった。というよりもそれは、自ら突っ込んだように見えた。すると、のろのろと一匹のクモが現れ、睡眠導入剤にかじりついた。そして再びのろのろと巣の奥に引っ込んでいった。あのクモは眠るのだろう。俺はそれをしばらく見つめた後、クモの巣を壊して、家に帰った。
路上に看板が立っている。『ワンちゃんのフンの始末は飼い主が責任を持って行ってください。』そこへ、一匹のイヌを連れたご婦人が現れる。イヌは看板の前で立ち止まり、踏ん張り始める。ご婦人は何もせず、ぼんやりと看板を見つめている。やがて、イヌのお尻から、一人の小さなおじさんが出てくる。おじさんはフンで出来ている。おじさんはイヌとご婦人に頭を下げ、どこかへ走り去っていく。ご婦人とイヌはそれを見送り、散歩を再開する。ご婦人はイヌを動物病院に連れていくべきかどうか迷っている。現在の状況は、異常だが、面倒くさくないからだ。
自動ドアが開く。 客が結婚相談所に入る。 「イラッシャーシャセー」 「ちょwww婚活診断よろぴくwww」 「カシコマリー」 出力されるのは、相性九十七パーセント以上。 周囲と比較する手段の少なかった千年前なら六十パーセント以上で夫婦関係を続けられていたが、超情報公開社会においては不可能だ。 相性一致率九十九パーセント以上で確実に生涯添い遂げられる。 相性一致率九十五パーセント以上で七割添い遂げられる。 よって、九十七パーセント以上の相手を探して結婚するのが、現代の主流だ。 全てはAIが全世界の人口が登録されたデータベースにアクセスして算出する。 発見は容易なものだ。 「コレッス。ウィッシュ」 「あざまーすwww」 客は出力された名簿を見た後、握り潰してごみ箱に捨てた。 「かすしかいねえwww」 「オマエモナー」 「独身貴族楽しむ出ゴザルwwwコポォwww」 「タノシメナー」 人口の九十九パーセントが機械人間である、超高機械社会。 客は家に待つ機会の恋人に会うために、速足で結婚相談所を後にした。
創作家は、なんでもできる。 空想の世界でファンタジーの街を歩ける。 魔法を使って奇跡も起こせる。 人間だけでなく、エルフやゴブリンとも友達になれる。 最も世界を旅している職業と言っていいだろう。 「あ、もう昼か」 執筆に疲れたので、腰を上げる。 しゃっとカーテンを開くと、外は快晴。 知らなかった。 「腹減った。カップラーメンあったかな」 棚を開くも、備蓄なし。 ぼくは渋々、外に行く準備を始めた。 創作家は世界を旅している。 しかし、歩き回るのは空想の世界。 現実の世界を歩くには、体というものが重すぎる。
気を抜いている姿を見るのは何度目だろう。 ただそこに気だるそうに寄っかかりもたれかかっている。 彼が気を抜いている時ほど香りのように色気が立ち込めてきて、私を保てなくなる。 ただ同じ映画を彼と見てる時だって私の右側は落ち着かない。 彼が手を伸ばし、私の肩を引き寄せる。 気づけば彼の腕の中にいて、足を絡められている。 私が向き直るとその気だるそうな顔が私の唇に近づき重なった。 彼はまた映画に視線を戻す。 私は彼の上に座ったまま、その頭を、ただ静かに撫でる。
どこかでエンジンのかかる音を雷と勘違いした 軒先から手を伸ばして、やはり今日はやめようかと思った 走り出す音で、今のうちにと思う 雨が強くなってきてしまった
「春って意外と寒いわね」 いま発見したみたいな口ぶりで、隣の家のあの子が言って、 (それ、去年も言ってたよ) それくらいの気持ちすらも、僕は伝えられない。 冬と春との境になった昨日の強い雨。 「あたたかくなったら藪にでも行って蛇でもつついてこようかと思ってるの」 (ああ、また、おかしなこと言いはじめた) さすがに、ちょっとどうかと思ったから、 「やめたほうがいいと思うよ」 言ったのだけど、 「行きたいんでしょ?ついてらっしゃいよ」 冒険心旺盛な赤毛のアンにでもなったような気でいるみたい。 でもアンって、そんなふうじゃなかったと思うけど。 「学校の裏あたりなら、いいんじゃないかしら」 あたたかくなってきたことで、何かしなきゃ、って 無意識に気持ちが働いてしまってるんだろう。 きっとそうだ。 「申し訳ないんだけど、ご期待にはそえないと思うよ」 「あら、そう。残念ね」 ちっとも残念そうじゃない顔で僕に言ってくる。 わかってるんだ、この子は。 僕がのこのこついてくるって、わかってるんだ。 「でも、もう少しあたたかくなってからがいいかしら?どう思う?」 「わかんないよ」 顔にかかる長い髪をおさえながら、隣の子が続ける。 「せめて、この強い風がおさまってからがいいかしらね」 「だから、わかんないってば」 青空を見上げることくらいしかできなくなってしまう。 でも、僕だってわかってる。 きっと、ついていっちゃうんだ。 そんなことくらい、僕にだって、わかってる。
『折り紙で、鶴を作ってみましょう。画面をタップしてね』 「はーい!」 息子がにこにこしながら、タブレットをタップしている。 タップする度、画面に映る紙が折られていき、鶴の形に近づいていく。 「それ、面白い?」 「うん!」 あまりに不気味だったので思わず声をかけたが、息子は何の違和感も感じてないのか元気な返事を返してきた。 「そう、なら、いいんだけど」 「うん!」 私は息子を見ながらソファに座り、サイドテーブルに置いてあった折り紙を手に取り、鶴を折った。 「時代だなあ」 折り紙は、ちゃんと折ったつもりがぐしゃぐしゃになって、角と角がぴったり一致するようになる過程が面白いというのに。 果たしてタップするだけのデジタル折り紙で、何が手に入るというのだろう。 私が折り鶴を完成させて掴んだ時、息子もデジタル折り紙を完成させたらしく、嬉々としてタブレットを見せに来た。
ただ寒々と、つらいばかりの冬にも 家に帰れば、あたたかい と思うことができる慎ましさはある 寒くなると苦労する部屋のドアの開閉も いくらかましになってきた 無事にとは言い難いけれど なんとか冬を越せそうな草たちと 寒さの前に消え失せた草たち しかしまだ風は、春の香りをとどけてはくれない わずかばかり景色に色がついてきたけれど 遠くの山々は雪をかぶったまま その白く雪に染められた山々に 夏ほどの勢いがない太陽の視線が飛ぶ つい先ほど、遠くで汽笛が鳴った 汽車が多くの若者たちを乗せ、旅立って いま一度、汽笛が鳴る 春は、もう近い
晩冬の夜である。公園に設置されている電話ボックスの中に、一体の雪だるまがいた。雪だるまはどこかに電話をかけていた。雪だるまの手には一枚のメモが握られていた。木の実でできた目の周りがうっすら濡れていた。翌朝、公園の管理人が、電話ボックスの床に、木の実とマフラーが落ちているのを見つけた。床には水たまりが出来ていた。電話機の横には一枚のメモが落ちていた。管理人はメモを見た。メモには『春ガ来ル』とだけ書かれていた。
ありがとう。が、うれしくて ありがとう。が、さみしくて ありがとう。を、心でさけんで さよなら。じゃなくて、 ありがとう。だった。 昨日まで着た制服も アタシの抜け殻みたい。 だけど、 なんか、ほこらしそうな、こいつ。 ありがとう。
バリッと海苔が裂けるいい音が、静かな職場に響く。その一瞬、私は何故か気まずくなる。 お昼休みだからおにぎりを食べるのは全然変なことじゃない。普通に昼食を食べているだけなのだから。 ただ、ものすごく「バリッ」といい音がするのだ。最近のコンビニのおにぎりは、こんなにも海苔の質が良くなっていたのだろうかと思うくらいに。 もし、私が隣に座ってる同僚で、その音を聞いたら。 「あ、こいつ。おにぎり食べてる」 ただそれだけ。でも確かに、おにぎりを食べていることは匂いではなく音で分かってしまう。 明日のお昼休み、私がティッシュを手に取ってデスクに広げだしたら。 「こいつ、おにぎり食べるんだろうな」 まだ鞄から取り出していないのに、そう思われそう。 自宅で食べるおにぎりは音なんて全く気にならない。テーブルにタブレットを置いて、YouTubeを垂れ流しているから。 でも、私の職場のお昼休みはとても静か。遠くで誰かが電気ポットからお湯を注いでいる音、向かいのデスクに座っている人がスープをかき混ぜている時のステンレスと箸が擦れる音。 それくらい静かな空間で、バリッとおにぎりの海苔が裂ける音。 それは私にとって、今からおにぎり食べます!と宣言しているような気持ちだ。まぁ、だから何なんだという話ではあるのだけれど。ただ私が気にしすぎているだけ。 昨日と今日、きっと明日も。職場のとあるデスクから、バリッといい音がする。 そうだ。今度の休みの日、同居人とコンビニのおにぎりを食べてみよう。きっと彼女は笑うだろう。
少年の家の近所に、不思議な老人が住んでいた。老人は何でも造ることができた。ある日、少年のペットの小鳥が死んだ。少年は悲しんだ。少年は空の鳥籠を持って、老人のもとを訪れた。「鳥を造って」少年は老人にそうお願いした。老人は鳥を造った。少年は喜んだ。その出来事から三十年が経った。少年は大人になった。老人はまだ生きていた。「鳥を造って」元少年は老人に毎日そうお願いしている。元少年は現在、焼き鳥屋を営んでいる。
「カット!」 「お疲れ様でした。ここで月白さんオールアップです!お疲れ様でした!」 スタッフの皆から拍手を頂く 綺麗なブーケを受け取った後、私は話し始める 「この素晴らしい作品に参加できたことは、私の俳優人生の…残り僅かですが…確かな道標になりました。全てはスタッフの皆様のおかげです。どうもありがとうございました」 スタッフ一人一人に挨拶をしてからタクシーに乗る 家に着くまでの間、通り過ぎる夜の街並みに自分の中の役を捨てていく。 時間は夜の九時、道は空いている 「お客さん。仕事帰りですか?」 「ええ、まぁそうです」 五十歳半ばの運転手は、体が大きく運転席が窮屈そうだ。二月であるのに半袖を着ている。白い布のマスクが異様に小さい 「そのご年齢でこんな時間までお仕事なんてお元気ですね。俺も頑張らないとなぁ」 「いやいや、あちこちガタが来て大変だよ」 「そんなふうには見えないですよ」 無意識にドライバーの名札を見る 【黒穴 旦】くろあなだん…変わった名前だ 顔は丸く大きく髪が長いので、どんな目をしているのかがよく見えない タクシーのスピードが遅くなる 「お客さん。この先事故みたいで渋滞ですねぇ。参ったなぁ…他の道から行っても大丈夫ですか?ちょっとだけ遠回りなんですけど」 前方には赤色灯が点滅していて、事故対応でパトカーが来ているのがわかる 「いや、ここで良いです。ありがとう」 「すみませんです」 「お釣りはいらないから」 月白は一万円を払いタクシーを降りた タクシーの窓が空いて運転手がお礼を言う 「ありがとうございます。月白さん。いつも見てます。では」 月白は夜の街を歩きながらアスファルトを見ていた 昔は私も若かった こんなふうに街を歩くこともままならないくらい人気があった 通行人が顔を指し、サインを求められ握手を交わして十メートル歩くのに何分もかかった あの頃は良かった…とは思わない こんなしょぼくれた爺さんになってしまったが私は今やっと俳優という仕事を心から楽しめている 作品づくりとはチームで行う。 「俳優というのは一つのポジションでしかない。脚本、監督、カメラマン、音響、設備と沢山のポジションの中の一つだ。その事を忘れてはいけない」と、昔、世話になった先輩によく教わったものだ。今はあの先輩の言っている言葉が分かる 塾帰りの高校生達がスマホでゲームをしながら前を通り過ぎてゆく 年を取れば取るほど若者と仕事をすることが刺激になる 彼等は経験こそないが今の社会の申し子だ。現代を生きて証明している。彼らこそが「今」なのだ 縁あって若い子らと世界を救う事になったが、彼等は素直で、優しく、熱く、そして眩しい。彼らと共にホワイトレンジャーでいられるのは後、僅かかもしれないが精一杯役目を果たしたい。そう思う。 家に着いた ここはホワイトレンジャーの寮 緊急時に備えて、五人で寮生活をしている 玄関を開けてリビングへ進むと 「月白さんおかえり。お仕事お疲れ様でした」 メンバーが出迎えてくれる 部屋はパーティーの飾り付けがしてあり、一番大きな白い壁には金色のペンキで「月白さんオールアップお疲れ様でした!」と書いてあった 「みんな…」 「お疲れ様!月白さん」 「ありがとう。みんな。こんな飾りまでしてくれて」 「これ皆で飾り付けしたんだ。月白さん喜ぶかなって」 「いやーでも凄いっすね。月白さんまでになると、伝説級の役が来るんですね」 「いやいや、たまたまだよ」 「俺は月白さんじゃなきゃ出来ない役だと思いますよ。なんてったって、伝説の痴漢役ですもんね。ただの痴漢じゃないんですもんね」 「いや…まぁ…たまたまね…」 「私も本当にそう思います。役の稽古している月白さんは本当に本当に気持ち悪かったですから」 「あぁ…見てたの…なんか…ごめんね…」 「今後も伝説の痴漢役来るんじゃないですかね」 「もう、やらないと決めているんだ。うん。絶対。…絶対………何だこの話…ワシの扱い酷すぎじゃろ」 【次回、月白さんホワイトレンジャー脱退!!】 「ウソです。ウソ、ウソ。最高に面白い話でした!ワシにバッチリハマってました!さすがです!よっ!アデュー!良いぞ!アデュー!」 【次回、月白さんホワイトレンジャー脱退を回避!】 「ふぅ…伝説の月白の乱!終わり!!」
ウェブ漫画の作り出した功績は、休載イラストの概念だろう。 毎週毎週、機械のように原稿を出し続ける。 そんな過労の負担を減らし、連載の休暇期間を設けることができるようになった。 ぼくは、好きな漫画の休載イラストが掲載されていることを確認し、アプリを閉じた。 「はー、仕事」 そして、鞄を手に取った。 漫画に休載イラストがあっても、ぼくの人生に休載イラストはない。 月曜日から金曜日は、ひたすら労働労働。 土曜日と日曜日の休日ですら、家事だの付き合いだので連載継続だ。 「週末、温泉でも行くかなあ」 せめて、ほのぼの日常パートを挟まなければ体が持たない。 満員電車に伸びる長い列に立ちながら、手早く近くの日帰り温泉宿を検索した。
少年の頃、私は挑戦しませんでした。学校が終わったらすぐ帰りいつも部屋にいて何かゲームだとかアニメだとか現実の世界から逃げ続けました。 部活も万年補欠。レギュラーを目指そうなんて思いませんでした。受験も迷わず推薦を選び楽な方向を目指し続けました。 大学を中退しました。 理由はコロナで……だとか、精神病で……だとか適当にいえば何とかなるんですけど本音を漏らすと、単位を取る行為から逃げたからです。 バイトには中退した事を言いませんでした。 カラオケバイト。 「最近よく働くね。大学大丈夫?」 もう大学生ではないので……。4年続けました。 将来なんて考えず、ただ覚えた仕事をこなせば良いこの環境は、私にとってどれほど幸せだったでしょうか。 周りが年下になり、バイトを辞めましたが働く気が起きず、芸人を目指しました。 小さい頃からテレビに出てる芸人さんは、キラキラ光って見えたのでこんな楽しそうな世界は、今よりマシかなと軽い気持ちで修羅な道の入り口の扉の門を叩きました。 本音を言うと夢を追ってるという理由で私は現実から逃げました。 しかし、芸人というのは勝負の世界。面白いで勝たない限り上にはあがれない。キラキラしてたあの世界には、面白いという切符を手に入れなきゃいけないのです。 私は二年ほどもがきましたが、最近は毎月のバトルライブもサボっています。 私は子どもとは呼ばれない年齢になった。 子どもだからしょうがないね……と過ちを簡単に許される年齢ではなくなった。 25歳。逃げるしか覚えれなかった私はもう生きるのダメかもしれません。 私は今日も逃げて、怒られたら嘘をつき、何かに怯えながら生きていくしかないのです。
大通りから一本外れた昼でも日の当たらない細道で、男は面倒そうに自販機に小銭を入れていた。白く濁ったプラスチックの中に並ぶ商品はどれも見慣れないパッケージ。男は他の自販機より安いという理由だけでそれを選んだ。 赤色の缶ジュースのボタンを強く押すと、ガコガコと騒々しい音を立てた。取り出し口に手を伸ばし頭を屈めた時、それは目に入った。取り出し口の上にあるプラスチックで囲われた広告スペースの中に見慣れない紙があるのだ。チラシの裏にマジックで書かれた文字が縦に並んでいる。 「探しています」 大きく書かれた文字に続き、女性らしき名前や年齢、背格好など詳細に書かれている。行間や段落はバラバラで、文字も読めるがお世辞にも綺麗とは言えない。 男はたまたま目に入った「探しています」の文字だけを認め、冷たくない缶ジュースを手にとり、顔を歪めて隣のゴミ箱に投げ捨てた。 歩き出した男には缶ジュースの立てた鈍い音も、女性が絞り出した「はざまにいます」という低くしゃがれた声も耳に入っていなかった。
田舎にある大きな家に空き巣に入った。誰もいないと思って部屋を物色していたら、隅の部屋で老人が寝ていた。しかし、息をしていない。死んでいるのかと思い近づく。すると、老人の枕元に電池が置かれていることに気づいた。布団をめくる。老人の胸に電池ボックスがついている。俺は電池ボックスの蓋を開けて、電池を入れた。そして、何も盗まずに部屋を後にした。部屋を出る時、かすかな「ありがとう……」という声が聞こえた。その日の夕方、その家の近くに行くと、パトカーが何台も停まっていた。俺は清々しい苦笑いを浮かべた。
原神は信仰神に飲み込まれ悪魔へ 精霊は論理に飲み込まれ悪魔へ 豊穣神も蠅の王へ 信仰神は科学に飲み込まれ悪魔へ UMAは真相に飲み込まれ悪魔へ 精神世界を産めば、物質世界がこちらを覗く 勝者の歴史、勝者の宗教 宗教戦争の余波、神への愚弄へ 実態の曖昧な者、語らぬ者 (完)
海鮮料理屋に行った。生け簀があった。タコがいた。そのタコはたすきをかけていた。そのたすきには『私はイカの味がします!』と書かれていた。私はそのタコを注文した。食べた。タコの味がした。満腹になって店を出た時、わが国ではそろそろ選挙が始まることに気づいた。
雨上がりの煙った匂いがアスファルトから立ちのぼり、外灯の白い光がそこに虹色の輪を投げている。 サーキットの勾配の頂上に二台分のヘッドライトが現れ、カーブに合わせて同じタイミングで空を切った。それらはそのまま緩やかな下りを、ぴったりと並んで滑っていく。 強化カーボン製のボンネットは、等間隔で置かれた外灯の下に潜り込むたびに鈍い光を放ち、一台のエンジンはヴォンッとエレキベースのように唸り、もう一台はシュアッと気を吐いた。 カーブに差し掛かると一台がわずかに先行して壁を上り、もう一台は半拍遅れるかどうかといった速さでそれを追う。ストレートに入るとまた二台は並んだ。 そんなふうに追いかけっこをしながら、五、六周すると、どちらともなくスピードを落とし、コントロールラインに並ぶ。 「きょうはわたしの負けね。」 「きょうも、の間違いじゃない。」 譲二がからかうと、 「言うわね。」 真実は笑いながら片方の眉を上げてみせる。バタフライを泳ぐときの腕よろしくドアが持ち上がり、二人はコックピットから出る。彼女は屈んでグローブボックスからスヌースの缶を取り出し唇の裏に挟むと、缶の蓋を閉めて彼に放り投げた。二人は夜気を楽しむ。 少しの休憩のあと、彼らはもう一度走り出す。今度は地面から車を浮かせて走るのだ。 二台はそれぞれにスイッチを入れ、いずれの車体も地面から一メートルほど浮く。 片方がパッシングして合図を出すと、両者は車のお尻を僅かに持ち上げて後退し、反動をつかって前進しながら上昇する。 「自由」を感じられる瞬間のひとつだ。空飛ぶクルマはかつて、垂直に上昇してから水平移動をするものだったというけれど、今は斜めに飛ぶことができる。もし斜めに飛べなかったら、これほどのびのびした気持ちにはなれなかっただろう。 十分な高さを保てるようになると、譲二は車の天井に設えられた三〇センチ四方ほどの窓を開ける。冷たい外気が吸い込まれ、また出ていった。真実も同じように小さな窓を開けて外気を浴びる。二人は束の間、大空を舞う鳥の気分を味わおうとしてみる。だが、鳥はもっと軽々と、同時に息を切らして飛ぶのだろう。クルマは鳥のように軽くはなれないし、鳥も車ほど滑らかに走ることはできない。二人はクルマが風を切って進む重厚感を思いきり味わっていた。 二台はそのまま、サーキットの隣にある大きな公園の上空をゆっくりと旋回する。そこは広大な敷地を誇り、芝生と森と人工のアスレチックとで構成されている。その緑は今がいちばん美しい季節だが、真夜中のいま、森は黒々と息づき、なまめかしく揺れている。 彼らは上昇したり下降したりしながら、その景色を存分に楽しみ、シフトレバーを操作して重力を感じながら公園の駐車場に降りる。 「また、明日ね。」 「おう。」 それ以上の言葉を交わさず、二人はそれぞれのシングルシートに身を沈めて帰路に就く。 ※「嗅ぎたばこ」を「スヌース」と、「一人乗りのクルマ」を「シングルシート」と表現したのは Google Gemini の提案に拠ります。
佐々木くんは、職場でいちばんやさしい人だった。 総務部に異動してきた三年前から、私はそう思っていた。エレベーターでは必ずドアを押さえる。会議室の椅子を引いて待っている。誰かが重い荷物を持っていれば、黙って半分持つ。そういう人だった。 体型のことを言う人もいた。社内でいちばん太っている、と。確かに、スーツのボタンはいつも窮屈そうで、夏場は額に汗が光っていた。でも私には関係なかった。佐々木くんは佐々木くんだった。 ある金曜の夕方、私は残業で一人になった。書類を整理していると、給湯室から物音がした。 「あ、三浦さん、まだいたんですか」 佐々木くんだった。マグカップを二つ持っていた。 「コーヒー、飲みますか。どうせ残業でしょう」 私は断れなかった。断る理由もなかった。 二人でカウンターに並んで、コーヒーを飲んだ。外はもう暗くて、オフィスの窓に私たちの姿が映っていた。佐々木くんはぽつぽつと話した。地元の話、学生時代の話、昔は料理が好きだったという話。私もぽつぽつと返した。気づけば一時間が経っていた。 帰り際、佐々木くんが言った。 「三浦さんって、話しやすいですね」 それだけだった。でも電車の中で、その言葉を三回繰り返した。 それから少しずつ、距離が縮まった。週に一度、帰り道が同じ方向だとわかってからは、一緒に駅まで歩くようになった。佐々木くんはいつも私の歩幅に合わせた。急かさなかった。それが、じわじわと効いた。 好きになっていた。自分でも気づかないふりをしていたけれど、四月の終わりに桜の散る道を並んで歩いたとき、もう隠せないと思った。 五月の連休明け、職場の雰囲気が少し変わった。 営業部の中村さんが、やたら給湯室に来るようになった。中村さんは背が高くて、愛嬌があって、場を明るくする人だった。佐々木くんと話すとき、よく腕に触れた。佐々木くんは困った顔をしなかった。 私は気にしないようにした。気にしても仕方がないと思った。 六月のある朝、私より早く出社した佐々木くんが、私の机に付箋を貼っていた。 おはようございます。昨日のプレゼン、よかったです。 笑ってしまった。自分ではあまり上手くプレゼンできた気がしていなかったのに、佐々木くんは褒めてくれた。 その日の昼休み、私は給湯室の前で足が止まった。ドアが少し開いていた。中から、声がした。 「ねえ、佐々木くんってさ、三浦さんのこと好きなの?」 中村さんの声だった。 少し間があった。 「……どうして」 「だってすごいじゃん、毎朝付箋とか、一緒に帰るとか」 また間があった。私は動けなかった。廊下に立ったまま、息を殺した。 「好きとか、そういうんじゃないですよ」 佐々木くんの声は、穏やかだった。いつもと同じ、あの穏やかな声だった。 「ただ、なんか、放っておけなくて」 中村さんが笑った。「やさしいね」と言った。 私はそっと、来た道を戻った。自席に座って、パソコンを開いた。画面には何も映っていなかった。 放っておけない。 その言葉が、頭の中で何度も反響した。やさしさと、憐れみの、どこに線があるのか。私にはわからなかった。佐々木くんが私に向ける笑顔が、今日から少し違って見えそうで、それが怖かった。 昼休みが終わって、佐々木くんが戻ってきた。 「三浦さん、お昼食べました?」 「食べました」と私は言った。 佐々木くんは微笑んで、自分の席に座った。 私はその背中を見ながら、この胸のざわつきに名前をつけることを、しばらくやめようと思った。やさしくされることと、愛されることは、たぶん違う。でも今日だけは、まだ、知らないふりをしていたかった。
「私って生きるの下手だなー」 椅子に猫背に腰掛けた先輩が言った。 「どうしてですか?」 先輩はいつも笑顔だったので、どうしてそんなことを言うのかわからなかった。 「だって、みてこの顔」 「顔ですか?」 先輩は自分の顔を指さし、言ってきた。 「一重で目が小さくて、おまけに団子鼻」 先輩はそう言いながら、窓から見える桜を眺めていた。 長いまつ毛が光に照らされ、美しかった。 もう三月で、三年生の先輩は卒業してしまう。 こんな会話ももうできなくなる。少しだけ悲しい。 「世の中はルッキズム、この世は顔が全てなんだよ。こんな顔じゃ、損して生きるに決まってる」 「そうですか?先輩の顔、好きですよ」 つい、本音が漏れてしまった。でも本当に先輩の顔は綺麗だ。 「ふーん、そう?じゃあ私とキスできる?」 先輩は綺麗な目元を細めて言った。悪戯な目だ。 「はい」 先輩を困らせてやろうと思って言った。 「え」 先輩はうつむき、顔を赤くした。その顔はなんとも美しかった。 先輩のその反応を見て、自分の発言を重さを自覚した。 「ま、まじ?」 真っ赤な顔で少しはにかみながら先輩がたずねてくる。 「冗談です」 目を見て言えなかったのは、それが嘘だったからかな。 「あっそ」 先輩は少しだけ悲しそうな目をして、再び笑う。本当に綺麗な人だ。 先輩は明日卒業する。全てが今日までだ。 「てか先輩、なんでここにいるんですか?」 「なんでって、私はここの部長だよ」 「二人しかいない部活に部長って。てか三年は引退ですよ」 この部活の部員は先輩と自分の二人だけ。 ほぼ廃部で、先輩が卒業する今となっても正式に部活として認められていない。 「まあ、いいじゃん。てか私が卒業したら君、一人だよ?」 「そうですね」 「私が卒業したらどうするの?」 「帰宅部ですかね」 「まじか。君がこの部活に入部した時、私めっちゃうれしかったんだ」 「なんですか、急に」 「別に〜」 先輩がそう言うと同時にチャイムがなってしまった。 「また明日」 手を振りながら、先輩が言う。 次の日。卒業式の最中、私はずっと先輩を見つめていた。 先輩は泣きもせず、笑いもせず、いつも通りの落ち着いた表情だった。 「卒業おめでとうございます」 卒業式が終わった時、先輩に勇気を出して言った。 「ありがとう」 先輩の顔はいつもよりずっと美しかった。 先輩が卒業してしまった。まあ、卒業しちゃうものか。 思い返すと先輩の連絡先も、住んでいるところも、行く大学すら知らないな。 もう二度と会えないのかな。 いつも先輩が座っていた席に座り、桜を眺めた。 先輩は散ったらどこかへ行ってしまう桜の花びらみたい。 校庭に咲く桜を眺めながら思った。その間にも花びらは一枚、また一枚と散っていた。 部活、新一年生がくるまで続けよ。
駅にゴミ箱が設置されている。『燃えるゴミ』『ビン・缶』『ペットボトル』『夢』ある冬の日、終電が去った後のその駅で、一人のおじさんが、『夢』のゴミ箱に、ロケットの模型を捨てた。そのことに誰も気付かなかった。神様さえも。
その村の片隅に、いつからあるのか誰も知らない古びた喫茶店がありました。そのお店の店主さんは、珈琲豆と一緒に「懐かしい記憶の香り」を抽出するとも、珈琲には「もう二度と会えないはずの誰かの気配」が香っているとも噂されています。 ある雨の日のことです。時計職人の少女が、さびしそうにそのお店へ入っていきました。店主が差し出したのは、夜空のような色の珈琲です。 「これを飲みますと、二度と会えないはずの誰かと、たった一度だけですが…」 少女は、遠く離れた星の観測所へ行ってしまった親友を思い浮かべながら、その珈琲を飲みました。 気がつくとその少女は、村はずれの古い展望台のベンチに腰をかけていました。隣には、懐かしい微笑みを浮かべた親友の姿がありました。ふたりは、久しぶりの会話を楽しみました。 やがて親友の姿が、遠くの星の光のように薄くなってきたころです。その親友は、少女の手のひらに、見たこともないほど輝く「小さな星の欠片」をそっと乗せました。 ふっと意識が戻ると、少女はお店のイスに座っていました。少女の手のひらには、温かい感覚といっしょに、あの星の欠片が残っていました。ほんのりとした珈琲の香りが、少女をつつんでいました。
「何でもしていいと言われたら何をする?」 「何もしなくても怒られないようになりたい」 「何故かこの世のルールは世の中にお返しをしなくてはいけないようになってるから」 本当はそんなのを取っ払って何もしなくてもいいようになりたい 「何かしなきゃ駄目だよ」 「そうなんだけどね」 諸行無常。
ホームレスのお爺さんが道を歩いている。彼は木の枝を拾う。そして、しばらくそれをもてあそびながら歩く。ふいに彼の目の前にコンビニが現れる。彼は木の枝を持ったままコンビニに入る。そして、木の枝をレジにいた店員に突きつけ、「金を出せ!」と叫ぶ。店員は黙って手を伸ばし、木の枝を真っ二つに折る。ホームレスのお爺さんはそれを見て、ゲラゲラ笑いながら、コンビニを出ていく。彼は歩き続ける。少し泣いている。
昨日までの自分の体温が懐かしい。 その懐かしいの欠片をおふとんでくるみ、 冷たくならないようにしてやる。 夜は一緒に寝て。 朝だって、ともに目覚める。 約束した間柄のふたり、みたいに。 いつも、いつも― 風が小さな蕾をなで、その蕾をスズメがもてあそぶ スズメは、カラスに狙われていることには気がつかなくて― いつの間にか、青かった視界に色がつき、 人々や動物たちがうごめきはじめる、そして植物も。 ああ、そろそろ春かな。 おふとんのなかに声をかける。 懐かしいあの体温は、消えていた。 あたたかな日差しが、かわりに部屋のなかを走る。