若者はわしが育てた

「もしもし? ○○の父親ですが!」    子供が不満を零していたので、学校に電話した。    宿題を忘れることの何が悪い。  人間、忘れることもある。  授業中に騒ぐことの何が悪い。  人間、騒ぎたいときもある。  可愛い我が子を叱るなんて言語道断。  パワハラ、駄目絶対。    教師が家まで着て謝罪をしてきたので、寛大な心で許してやった。   「やーい!」    我が子も、自分の正しさが認められて楽しそうだ。    子供は宝。  大人たちは、多少の我儘を許容して、子供を育てなくてはならない。  それが、社会の義務なのだから。       「もしもし? △△の父親ですが!」    𠮟った部下の父親から、電話がかかってきた。    曰く。    納期を忘れることの何が悪い。  人間、忘れることもある。  業務中に騒ぐことの何が悪い。  人間、騒ぎたいときもある。  可愛い我が子を叱るなんて言語道断。  パワハラ、駄目絶対。    らしい。    わしは頭を抱えた。  そんなことまで上司が教えなくてはならないのかと。  部下は、わしを期待した目で見ていた。    この目を、わしは知っている。  自分が正しいことを確信して、早く謝って来いと訴えている目だ。  我が子も、教師の前でいつも同じ目をしていた。    怒鳴りつけようとも思ったが、口が上手く動かなかった。    最近の若者と言う化け物を作った一端に、わしの振る舞いもあったと気づいたからだ。    組織よりも個人が強いと思い込んでいる世代。  わしは、わしの作ったバケモノたちと定年まで共存しなければならないのかと考え、胃がキリキリと痛んだ。    謝らないわしにしびれを切らした部下が、「ん?」と声をかけてきた。

結局

「さっき講義があったんだけどさ~~、先生が『ニュース映画』って言うべきところを『ニュース動物』っていい間違えちゃったんだよね」  県外の大学に進学した友人から突然の電話。何事かと思いきや、前述のセリフが返ってきた。  なぜ、ニュース映画をニュース動物と言い間違えたのか。映画と動物って頭文字が同じわけじゃないよね。その先生、動物が好きなのかな……。というか、そもそもニュース映画って何?  そのような疑問がパッと頭に浮かんでは、口に出せぬまま消えていった。 「でさ、ニュース動物って何だよ~~って思ったんだけど。よく考えたら、それはテレビかもしれないと」 「テレビ?」  まぁ、確かにテレビってリモコンをポチってしたら、ニュースを観られるけど。テレビは機械なんじゃあ…… 「でもさでもさ、テレビがニュース動物だって考えると、おかしいんだよ~~。そもそもテレビって動物じゃないし」  あ、今、わたしも同じことを考えていた。ということは…… 「つまり動物じゃなくて、ニュース機械ってこと?」  わりかし得意げに自身の思いつきを口にすると、友人は「あへぇ」と形容しがたい笑いを放ってきた。 「でもさ、それってなんか、変じゃない?」 「そう?」 「んーーと、ニュース機械って表現を使うより、最初からテレビって呼んだらいいのに……って思うんだけど」  はぁ……なるほど、そうかも(?)  確かに、ニュース機械という名称は分かりづらい。わたし達の社会では、すでに『テレビ』という名詞が浸透しているのだから、その名で呼んだほうがすぐに伝わるだろう。 「じゃあ、結局、ニュース動物はテレビのことで。でも、テレビは動物じゃなくて機械だから、ニュース機械って呼ぶほうが正しい。けれど、ニュース機械はテレビのことなんだから、最初からテレビって呼んだらいいじゃない……ってこと?」 「そうそう。そんな感じ!」  画面の向こう側で、友人の満足げな笑顔が浮かぶ。それからピッとチャンネルを切り替えるように、友人は通話を切ってしまった。  だから、何なんだよ……というやりきれなさは残るが、まぁこうやって細々としたくだらないことを、グダグタうだうだと考えてみるのもありかもしれない。そう思えることのできた一日だった。  そういえば、結局、ニュース映画って何……?

星飲む夜

夜は世界が瞼を閉じた世界。 あの月や星は世界が見ている夢の一端。 世界が寝ているとき、私は眠れない。 寝息ばかりの世界で、独り息苦しくしている。 世界の全てから置いてけぼり。 夜は私の国になる。 民も何もない私の国。 陸に上がった魚のように呼吸が難しい。身体が激しく脈動する。 独りぼっちの王様は重力で重たい身体を引き摺って、 暗い世界で星を飲む。

だって

私は女に生まれたくなかった。 だって女社会怖いんだもん。 いや違う。 私は人間に生まれたくなかった。 だって人間って言葉があるから人を傷つけるし、他の動物より少しだけ頭がいいから怖いこと考えるんだもん。 私は鳥に生まれたかった。 だって空を飛べて楽しそうなんだもん。 いや違う。 私はカブトムシに生まれたかった。 だって若い男の子にモテモテなんだもん。 いや違う。 私は魚に生まれたかった。 だって広い海の中を息苦しくならずに泳げるんだもん。 いや違う。 私は花になりたかった。 だって咲いているだけで女の子にモテモテなんだもん。 いや違う。 どれも違う。 全部違う。 私は私に生まれたくなかった。 だって私は私が嫌いだもん。 私以外ならなんでもよかった。

白い狐

 高校一年の時の今でも鮮明に覚えている思い出がある。  その日は雨で七月ということもあり、じめじめとした暑さが体にまとわりついていた。  ふと道端に白い物が落ちていた。ビニール袋だと思い、通りすぎようとした時、それは狐だった。ぐったりと寝そべっている狐。  私は獣医でもないし、動物に詳しいわけでもなかったが、当時は直感的にこのまま放置していては死んしまうと思い、家に連れ帰った。  後から知ったことだが、狐にはエキノコックスという寄生虫がいるため触ってはいけなかったらしい。  今日は運がいいことに家族が帰ってこない日だった。濡れた体を拭き、温め、雨が上がったのを確認し、元いたところに返した。  その数日後、私の周りに些細な変化が起きた。今までいじめとまではいかないが、自分のクラスで少し遠巻きにされていたのが、急に声をかけられるようになったり、昔仲良くしていた親友から連絡が来たり、昔手放してしまいずっと探していた本が中古で安く売っていたり、父が気分転換にと買った宝くじが高額当選だったりと、私にとっても、家族にとっても嬉しいことが立て付けに起きた。  当時は『最近運が良いな』と思っていた。そんなある日に玄関に一輪の白いダリアが置かれていた。ダリアが咲くには季節外れの初夏、造花だと思い怪しみながらも持ち上げたが感触で生花だと分かった。悪戯かと思い辺りを見回すと白いふわふわな狐の尾のようなものが見えた。  私はある一つの馬鹿馬鹿しい妄想を思いついてしまった。 本当にありえないことだと思いながらもそのダリアを花瓶に刺した。本当に馬鹿げた妄想。  白いダリアの花言葉は『感謝』  狐は何を伝えたかったんでしょうね。

3

我が家の近所には、数百メートル続く細長い空き地がある。同じ駅を起点とする二つの鉄道路線を短絡する様に位置しており、上から見るといびつな三角形を作り出している。その昔、起点の駅を経由しない連絡線として計画されたらしい。  起点駅の隣駅には立派な百貨店が併設されているが、客足は少ない。駅前の広々としたバスターミナルは日中も閑散とし、東の新興住宅地にはススキが我が物顔で広がっている。計画線が運用されていたなら、今頃この駅が起点に替わるターミナルになっていたはずだ。  件の計画は起点駅周辺の商工会の猛烈な反対によりたち消えになったそうである。しかし、仮にあの枯れ草の茂みが鉄路だったならーー。そう考えることがある。今更考えても机上の空論にしかならぬというのに。  今、この街は緩やかな人口減少が続いている。先日、テレビのニュースで少子化について声高に報じていた。ふと画面に目をやると見覚えのある公園が映っていた。幼少の頃に遊んだ総天然色の遊具たちがもう色褪せて液晶の中に在り、淋しさを塗装の剥がれかけた目で訴えていた。下地のコンクリートのグレートーンが更に物哀しさを漂わせ、パンダにもシロクマにも見える遊具は最早グリズリーになりつつあった。  映していたテレビのチャンネルは、3であった。

sound55 しくしく

──しくしく、しくり。 飲み干したペットボトルを片付けようとして、はたと気付く。透ける筒の中で、雨が降っている。控えめに泣く様がより憐憫を誘い、気付けば雪までちらつき始めた。鉛白の雪と混じり合い、銀竹の煌めきで遠慮がちに舞う雨粒達。 宛ら簡易なスノードームのような光景に、剥がしたラベルだけを静かに捨てた。

例外

 私の声ははっきり言って好い。一般に周波数として聞き取りやすいために発声に力が要らない。実生活に於いてこれ以上無い才なのだが、やはりどんなものにも例外なく短所はつく。  ある時に電話をした。こちらは十八というのに、相手方はまるで大人の相手をするかのように腰が低い。声色だけで判る程である。ところが、こちらが年頃の子供と知った瞬間受話器越しにすっくと腰を伸ばしたのが分かった。考え得ることではあったが、露骨に態度に出されるとげんなりするものがあった。  またある人にはもう大学を出ているものと思われていた。これは「大人びている」と捉えれば大方悪い気はしないのだが、それとは別に私は見た目が幼いために、あまり自分を見てくれていない様な気がして淋しく思った。  社会一般に十八というのはもっと余白があって、決して成熟したものでは無いらしい。尤も自分が熟したものと自称するわけでないが、普段過ごす中で如何に自らが例外的であるかを知る場面がよくある。その度にその蚊帳の外に置かれたような心情を、特異で自己陶酔的なものとして隅に置く。  しかし稀に、その自己陶酔の中に愛しさを見出してくれる他人が居る。それは大方私の隣に居てくれる人となるが、これは私の中では例外である。その人も又社会一般に趣味趣向が逸脱した例外者であるが、私とその人の中では全体であって、決して例外ではない。

sound56 しらりしらり

──しらり、しらり。 鷹揚と降り注ぐ万糸雨。柔和な笑みを浮かべ木々に触れては、嬉しそうにゆらゆらと揺れる葉葉と戯れている。 ついこの間まで寒雨の装いで常磐色の彼等を濡らしていたのに、いつの間に衣替えをしたのだろう。

圏外

近年は地下鉄でさえ電波が入る様になった。情報を入手することは容易くなったが、対して電子機器を使わない過ごし方は段々と難しくなりつつある様に思う。  私が幼少の頃にはもう「ケータイ」というものはあったが、電車で眺める人は今程居らず、回線も決して高品質でなかった。新聞を眺める人、本を読む人、景色を見る人。皆思い思いに過ごしていた時間は時代によって画一化されてしまった。そこに嘆きを感じるのはきっと私自身が懐古主義だからだろう。  先日、電車の中で音楽を聴こうと思い立った。取り出したスマホはオフライン表示で、全く以て動かなかった。仕方無く私は疎外感の中で前時代的な行動を取らざるを得なかったが、そこで気付いたのは他の乗客が明らかに個々の空間を持っていたことだった。イヤホンを付け、目を閉じるか画面を注視する。それは視界と聴覚を自らで独占することに他ならない。他者の介入するクリアランスを持たず、独立した空間が七人がけのシートに隙間なく並んでいた。  述べた通り私はその空間を持てぬから、窓に映る自分の顔と遠くの送電線を見つめていた。晩春の夕空は乗客の顔と送電線を色濃くしたが、乗客は決して黒一色でなかった。隣の老婦人の帽子の紅と、向かいの学生らのYシャツは少なくともそうだった。ふとスマホが極彩色に光った。オンラインに復帰したそれは、私を混色した末に淀んだ黒にするだろう。

二行 目1(散文詩)

1 ちゅるり、眼球に纏わり付く雨。 追い出そうと目薬を点したら、ぱしゃん、我が物顔の雨粒に弾かれた。 2 きりり、睫毛が目に刺さった。 タイミング良く降り出した雨に向かって、思い切り目を見開いた。 3 白目の中で、たゆりたゆり、見えない波紋が揺れている気がする。 そっと鴇色の花弁を浮かべてみれば静かに揺蕩い、小さな春が生まれた。 4 眼窩でざんざんと降り頻る雨に、差し出せる傘を持ち合わせていない。 勢い良く目縁から溢れる水を、仕方無く空き缶で受け止めた。

ラッキー

 先日、学校から卒業祝いで思いがけずプリペイドカードをもらった。  誇らしげに高校の校舎が印刷されていた為に、人前で使うのは憚られた。最近はキャッシュレス決済をする機会が多い。特に現金の残高が少ない時は口座から下ろさずに支払いが出来る。  しかし件のプリペイドカードは中々使える店が限定されており、見た目も相まって使いづらかった。ふと訪れたコンビニで、現金の持ち合わせが無い時があった。  おずおずとプリペイドカードを使えるか申し出たところ、支払いに使えるという返答だった。取り敢えず安心してカードを出すと、レジスターに吸い込まれたカードの残高が四千円強であった。おや、案外良いものであったでないかと感心したが、その瞬間にそのカードは只の支払い手段と化していた。一種の躊躇いや勿体なさというのは消え失せ、カードに刻まれた若干の恥と内輪的な感情は金券に変わってしまった。そう思い乍らコンビニを出て、穴の一つ空いたカードを見つめた。この穴が増える度に特別感は更に失われてゆくのだろう。普遍的なものになりゆくのは当然の摂理だが、やはり金銭的な側面を自覚するとげんなりした。  学舎で得たラッキーは、穴が開くにつれて段々と零れ落ちていった。

焦燥の悪夢

ひたすら階段を駆けずり回る夢を見る。 目的の場所はあるがそれが何処かが分からず必死に駆ける。 ここではないかと思った扉を開ける。幸運にも顔見知りが居て事情を話す。私の居場所は此処か?と尋ねる。残念な事に其処でなく、私は落胆しながら再び階段を駆ける。 上かもしれない。 いや、下か。 違う、違う。 憶測だけの移動。 ああ、遅れる。 馬鹿にされる。 ノロマだと蔑まれる。 嘲笑される。 なんとか、なんとか、少しでも早く目的地へ着かなければ。 足を動かす。 階段を駆ける。 扉を開ける。違う。 また駆ける。 私の居場所が見つからない。

おはよう

 私の学友に故人がいる。枕元にはろうそくとりん、それから線香立てを写真の前に置き、毎晩「おやすみ」と言いつつ火を灯している。  聞く所によると、ろうそくの火は黄泉の国の人にとっての目印になるという。つまるところ現世に来るのはろうそくが灯されている間中であって、決して我々が起きている時間ではない。こちらとしては大変なジレンマだが、要するにこちらの「おやすみ」は彼等にとっての「おはよう」に相当する。  ところで、よく故人に対して眠るという語を使いがちだが、これは「おはよう」という言葉の上に在る様に思われる。尤も、直接的な表現をするまいという使い手の心情はろうそくの灯りよりも明らかであるが。  又、先述の「おやすみ」という言葉は「おはよう」と対の存在として扱われるが、あくまでこの二つは両立するものであり、一種の呼応と言えよう。  しかし、その呼応が時間軸でなく、時空的な広がりを見せたらどうであろうか。黄泉の国が年中無休であるかは分からないが、もしそうであるならばきっと応えてくれよう。その時彼等は眠りから目覚め、こちらに「おはよう」と云う。そして彼等が又眠る時、我々は「おはよう」という一声から一日を始めるのだ。  そして、もしこの文字通りの夢物語が実現したなら、彼等と黄泉の国は一つの実体としてこちらに「おはよう」と告げるだろう。

野乃と「のの」

クリーニング屋から冬物を受け取ってきた帰り道 腕に抱えた荷物は、季節をひとつぶん、しまい込むような重みがある 歩くたび、カサカサとビニールが鳴っては、春の淡い光を乱反射させる ふと、歩道の脇の植え込みでちいさな音がして、乾いた葉がカサリ、と 鳥かな それとも たんに風かもしれないけど ねこだったらいいな 陽だまりのなかで、まあるくなっている姿を想像してみる 光を反射するビニールの音と、見えない誰かの足音に耳を澄ませて ゆっくりと、春の時間だけが続いていく わからないまま 正体なんて暴かなくていい ねこだったらいいな 「のの」にしかられてしまうかな でも ねこだったらいいな

秘密

 私の知っている人の中に、同性を愛した男が居る。その男の愛した人は、相当な優等生だった。控えめな性格で一人称は私。誰に対しても、無論男に対しても敬語だった。  ところが、打ち明けられた男の愛を受け入れた彼は、普段の大人しく受動的な性格とは異なるやや洒落た一面を見せ始めたという。聴いている音楽はリズムの速い洋楽、シースルーの入ったファッショナブルな私服。彼の学び舎でのそれとは違う一面は、男にしか見せぬものであったろう。  一度、二人の時に男は彼を抱擁したことがあった。彼はそれに対して如何にも優しく抱き返したという。腕を離さぬ男に、彼は何月も離れる訳でないのだからとたしなめたらしい。骨ばっていながら暖かかった彼の胸の中は、今や男しか知らぬ只一つの桃源郷だったろう。  彼等は、後に別々の生を歩むことを余儀なくされた。彼の男に向けた只一つの秘密は、現世から逃れたい心情だった。桃花は散り、土に還った。詳しいことは男は外に話したがらなかったが、少なくとも男は彼の幻影を懐っていた。毎夜香の前で視界を滲ませる姿は痛々しいものがあったが、彼は男の心境を知るだろうか。  最後に、この男が私であるということは、これを読んでいる貴方、若しくは貴女との間での秘密にして頂きたい。

散歩と桜の思索

玄関の扉を開けたら、そこに桜の花びらが落ちていた。舞ってきた、と言う表現が正しいように、まばらながらにある程度存在するそれは、おそらく近くの公園から飛んできたのだと思う。私は散歩に出た。 例年より暖かい傾向は、これから先普通となるのか、今年が特別おかしいのかは私にはわからないが、勘弁してほしいと思う、肌寒いくらいがちょうど良いのだ。公園では半ズボンの子供がボールを蹴っていた。そこに舞う桜。こんな短い時間でこれだけ花びらを降らせて、すぐになくならないかと心配したが、元来桜はそう言う物であった。 桜、桜。桜といえば、国語の授業で桜守について扱っていたものがあったなと思い出す。桜は五日間しか咲かず、残りの三百六十日の世話の様子を見る人間は少ないと言っていた。日本人特有の侘び寂びであるとか、儚さへの尊さというのは、桜を見て育ってきたからそれが身につくのか、それが身についていたからこそ桜を愛でるようになったのかわからないが、ただ一つ、仮に年中咲く桜が開発されたとして、それが流行ることはないだろうと言うことだ。ともかく、その桜守には頭が上がらない思いで、当時、意味もなく、若しくは意味をもてあましながら呆けて見ていた桜にはもちろん縁の下の力持ちがいるものだよなと気づいた。死体が埋まっているかも、と言う話ではなく。もしそれを見て見ぬふりするのであれば、私も大多数がそうであるように、惚けて儚い桜をも見るか。 春とも春入りともいえぬ陽光と少し乾いた風は、強烈すぎず、雲がかったものほどでもなく、ちょうどよかった。以前、上野に行った時、桜が咲いてすらいないというのに、桜祭りという名目で祭りが開かれているのには目を疑った。私は一般展示を見たかったというのに、その祭りの影響で行くことができなかったというのは苦い思い出ではあるのだが。ブルーシートを引いて座っている人を見た時もまた、もはや桜が道具のように思えて、私は少し嫌だった。人をいい気にさせるだけの道具のように。もっとリスペクトがある場所であればよかったなと思う。団子より花よ。 つまりは、桜は美しいものの象徴として丁重に扱われるべきで、こう言った桜を銘打った場であってもなくても、そのような意識は持っているべきである。そうでない人間を日本人ではないというつもりはほとほと無いが。形骸化した祭事にはもはや元の意義は無く、そのような意識でいるから、その意義を知らない人間ばかりが集まってくるのだ。理由のない物事は陳腐で俗的に利用されるものとなってしまう。 桜は学校の前に植えられることが多い。そのため、このような場所というのは特に桜を街路樹として使うのだが、道路側にはみ出しすぎた枝は切られている。結局は人間本意で、どれだけ桜が日本人に敬われ、親しげに、あるいは厳かに佇んでいられる環境にありながらも、美しいだけではダメらしい。

半分

 水の半分入ったコップを見て、半分もあると言うか、半分しか無いと言うかーー。  思うに、私は後者である。コップというのが時間で、水が記憶としたら、私は注がれ続ける水を見て溢れることを恐れる。溢れた水は忘却されゆくものとして土に還るが、残った水もこのまま残り続けることはない。入れ替わり続けることで、時間という制約の中に在り得るのだ。  各々の記憶は色を持つ。それは水に交じり、薄まることはあれど消えることはない。友と大洗で食べたあんこうは淡い赤であるし、別所の湯は白である。中には別離の黒も、他者を傷つけた紫もあるが、それらは大抵底に沈んで姿を見せず、受動的に交ぜられた時にのみ現れる。  不思議なもので、この記憶の比重は人によって変わる。尤も、楽観主義者はこの重い記憶を、容量を圧迫するものとして自発的に、かつ無自覚のうちに排出しようとするのだろう。結果、コップの水は鮮やかで澄んだものと、下が淀んだものに分かれる。私はその淀んだものを注視するあまりに悲観主義たらしめられるのであろう。私はまだ学生であるから、コップは今のところ溢れそうもない。せめて半分は澄んだ水を入れたいように思う。そうすれば、幾らか生きるのが楽になるのかもしれない。  ただ一つ心配なのは、溢れる程に出した水道代が倍になることだけである。

怪獣があらわれる街✕痛風のウルトラマン

雨太郎というオジサンがいる 彼は昼間っから酒を飲み、昨日と同じ服を着て、首にタオルをかけている。それで口を拭くのだ。 彼は今は痛風である。足の中にイガ栗が入っているようで、押すと凄まじく痛い 困った事に彼はこの地球を守るウルトラマンでもある 「ゔぅ…いてぇ…」 彼は布団の上で痛みに耐えながらお酒を飲んでいる 幸い、この星にはもう一人ウルトラマンがいる 彼の名はカモメ 鳥ではなく、27歳の男性で、妻と小学生の一人息子がいる。若い父親だ。 カモメのスマホにラインが入る 「すまん。風邪を引いたようだ」 雨太郎からの連絡だ 「痛風ですね。お大事にして下さい。今飲んでるお酒で今日はやめましょう」 「今日は飲んでいないぞ」 「お水も沢山飲んでくださいね。後でアパートに食べるものを持っていきます。ほどほどに」 「👍️」 カモメは妻に相談し、カレーを作りジップロックに小分けにして持っていこうと言うことになった。二人の会話を聞いていた息子は 雨太郎のおじちゃんにアイスを買ってあげたいと言う 雨太郎は素敵な大人ではないが、なぜか子供から人気がある カモメは雨太郎の良さを理解している数少ない大人の一人だ。 カモメが雨太郎のアパートに着いた 築年数が計り知れないアパート「アメリカ」の201号室が雨太郎の部屋である 息子も行きたいと言っていたが、遊びに行くのではないのだよとなだめた。 ノックをしたが返事がなく、ノブを回すと簡単に開いた 雨太郎は畳の上で布団を敷いて寝ていた 枕元にはビールの空き缶が二つ転がっている。 カモメが空き缶を流しに置き、カレーを冷蔵庫にしまう。息子オススメのアイスを冷凍庫にしまい、一度出してからマジックで「息子からの差し入れです」と書いて、しまった。 カモメは寝ている雨太郎を見る 顔にはシワがあり、耳の周りの毛は白髪交じりだ 手はゴツゴツとして硬い木のよう。腕は所々でシミが目立ち始めている 枯れ木のような雨太郎を、カモメは心配していた。地球を守るウルトラマンとしてではなく、友として。 「うっ…おっ来てたのか」 「まだ寝てないとだめですよ」 「いや、腹が減った」 「カレー食べます?うちの奥さんの」 「美雨ちゃんのカレーなら食おうかな」 カモメはカレーとお米をレンジで温め始める 熱々のカレーを雨太郎は美味いと食べる 「なぁカモメ」 カモメが振り向く 「酒を買ってきてくれ」 雨太郎の目に雨が降っている

職場王国

 久しぶりに出社した。  ずっと自宅からテレワークをしていたので、他の社員と肩を並べて仕事するのはいっそ新鮮だ。    しかし、仕事を始めて数十分。  すぐに違和感へとぶち当たった。   「ティッシュがない!」 「ゴミ箱がない!」 「冷蔵庫の中にコーヒーがない!」 「水道に浄水器がついてない!」 「メモできる紙がない!」    備品としてデジタルな機器はやまのようにあるが、アナログな道具が少なすぎた。    退勤後、私はすぐに行動を開始した。    職場の机の隣に、サイドテーブル設置。  サイドテーブルの一番上に、コーヒー二リットルとミネラルウォーター二リットルのペットボトルを設置。  隣にティッシュボックスを設置。  棚の中にペンとメモ帳を設置。  サイドテーブルの隣にゴミ箱を設置。    僅か一夜にして、自宅に近い環境を完成させた。  一夜城ならぬ、一夜机だ。    出社する社員たちは、私の机を見てぎょっとした。  きっと、「その手があったか」と驚いているのだろう。  真似していいよ。    業務時間が始まってしばらくすると、課長が私の机までやって来て、私の机を見て首を横に振った。   「これは、駄目だよ」 「え?」    かくして、私の一夜机は十分で崩壊した。  私の仕事の能率は半分にまで落ちた。

悪人よいなくなれ

「私は神だ。お前の願いを一つ叶えてやろう」    奇跡が起きた。  私は躊躇うことなく、願いを口にした。   「悪人を全員消してください!」 「悪人とは、どんなやつのことかね?」 「私より悪いやつ、全員です!」 「その願い、かなえてしんぜよう」    その日、人類の三分の一が消えた。  私をいじめていた人間も、公共の場でマナーを守らないやつも、全員消えた。  いい気味だ。    私は、正しい人間しかいない世界を、大手を振って歩いた。        気が付けば、私は逮捕されていた。  私より悪いやつが全員いなくなったから、この世で一番悪いのは私と言うことだ。  ルールも、当然変わって来る。   「私は悪くない……」    悪は絶対的でなく相対的。  それに気づいたのは、私の身柄が拘束された後だった。   「囚人第一号、おめでとう」    厭味ったらしく言ってくる看守を見ながら、私はこんな奴よりも悪者だったのかと頭を抱えた。

それは恋というものでござんす

寒い時期は年中、靴下を履いていた。そのため窮屈な思いをさせてしまっていた。このところのあたたかさで昼間であれば靴下がなくても心地いい。いくらか足の先もよろこんでいるように見え、こちらとしてもうれしくなる。 その草の名前は知らない。けれど庭ではそろそろ種をつけるように感じられ、そうなる前に取り除いておかないと、と軽く心配している。さっそく、と中途半端に屈んだ腰に鈍く痛みを覚える。それをおして続けていたら辛抱できないくらいにしびれてきた。たまらず上体を起こして空を仰ぐ。あと何回くらいこれをくり返したら終わるだろうか。先を見て、見たことを後悔して。 ―へへ、おじょうさん、おめでとうございやす。それは恋というものでござんす アリが腕にはってきてそう言ったのは去年、夏になる前のあの日のこと。アジサイの葉っぱの上ではカタツムリが「よかったですねえ」というように、しきりにうなずいていたっけ。 ―へへ、おじょうさん、おめでとうございやす でも私は、何をしたということはない。するつもりも特になかった。ふうん、恋なんだねえ。そう思って、思い続けただけだった。 ―それは恋というものでござんす あのとき挿し芽したシバザクラはもりもり成長して、こぼれた種からは朝顔が芽をつけた。 夕のごはんは豚汁。人参、玉ねぎ、白菜、じゃがいも、そして豚肉。最後にきざんだ長ねぎ。ほうれん草のごま和えとひじきの煮物も並べ、白いごはんも。献立は昨日とまったく同じ。それなのに、なぜか美味しい。そりゃあ美味しく感じないわけがない。思ってもないこと。あの人からデートのお誘い。何をしたということはないのに。するつもりも特になかったのに。 ―へへ、おじょうさん、おめでとうございやす。それは恋というものでござんす 足の先が、やけによろこんでいるように見えた。ふうん、恋なんだねえ。

影友達

 何故だか、友達ができなかった。  変な顔、変な顔、と言われてからかわれた。    でも、ぼくは一人ぼっちじゃない。   「変な顔だなんて、酷いよね」    ぼくには、ぼくの影がついている。  顔がないからぼくの顔を気にしないし、ぼくが右手を上げたら左手を上げて来る、お茶目な奴だ。  唯一不満があるとしたら、じゃんけんの勝負がつかないこと。  どちらがケーキを食べるかのじゃんけんをしたとき、結局どっちが食べるか決着がつかなかった。   「君はいつ見てもペラペラだね。本当は、一緒にゲームとかしたいのに」    壁に映る影に向かって言うと、突然影の口が開いた。   「やる?」    驚いて腰を抜かしたけれど、それ以上に嬉しかった。  唯一の友達と、お話しできたことが。   「やる!」    ぼくが答えると、影はぺりぺりと壁から剥がれて、ぼくの前に立った。  そして、ゲームのコントローラーを持つと、急かすように言った。   「早くやろうよ」 「うん!」    影は、その人から毎日、ぼくとゲームをしてくれた。  影だからぼくと同じ動きをするので、相変わらず決着がつかなかったけど、楽しかった。    一週間たったある日、影がぼくに聞いてきた。   「他に友達は作らないの?」    ぼくはゲームの手を止めた。   「変な顔って言ってくるんだもん」 「それは、ぼくより変な顔なの?」 「さすがに、影みたいに真っ黒じゃないけど」    ぼくは思わず吹き出した。  影も吹き出していた。  二人でひとしきり笑った後、影が言った。   「じゃあ、大丈夫だよ」 「そうかなあ?」 「君に変な顔って言ってくる奴も、変な顔じゃない?」 「確かに! 鼻が団子みたいに丸いんだよね」 「変な顔仲間じゃん。きっと友達になれるよ」 「嫌だよ、そんな仲間」    次の日。  変な顔だって言われたので、変な顔って言い返した。  そいつはぽかんと口を開けた後、ぼくを殴ってきた。  ぼくは殴り返した。  足元にいる影の分と合わせて、二倍のパンチだ。    結局、先生を呼ばれて喧嘩は終わり。  そいつとは互いに謝って終わり。  クラスでたまに話す仲くらいにはなった。  喧嘩を見ていた何人かは、「お前すごいな」って話しかけてきてくれて、友達になった。   「ぼく、友達増えたよ」    ぼくは影に報告をした。  でも、影はもう、ぼくの前に立ってくれることはなかった。  代わりに、ぼくとまったく同じポーズで祝福してくれた。    最近のぼくは友達と遊んでいる。  たまに、影ともじゃんけんをしている。  決着は、一度もついたことはない。

発表会

ある、女の子が、Boy friendに電話していた。 「どうしたの?!」その男の子がいった。 「えっとー今日、violinの発表会があって〜。。」 今日は、私の発表会。昨日緊張して眠れなかったー^^ すっごいいろんなこと考えちゃうなー 明日も、CDとか、CM、テレビや、シンガポールでの撮影とか、色々あるな〜、、。 あっというまに、会場までついちゃったーはぁ〜 ファンが大勢いる、、。!!!おかしだ!もらいたい!お菓子はもらっとこ! お菓子だけをもらって、食べながら会場に行った。すっごい緊張する〜あと、5曲聞いたら、次は私の番!みんなクラシック引いてるけど、私、マリオを、、しかもviolinでひくんだけど、これで大丈夫?すっごく心配になってきた!コンサート中に、電話がかかってきた!どうしよう〜電源切るの忘れた!みんなに迷惑だ〜やばいどうしよう! バリっ 落としちゃった〜あああああああどうしよ!割れてる!使えない!ちょっと、抜け出そう、、。外でゆっくりみよう。曲が終わったところで、女の子は抜け出した。よく考えたら、そろそろ時間なのを忘れてた! 急いで抜け出した。とても、急いで。舞台袖に行こうとした瞬間、左手の人差し指が、バキッと。舞台袖に、すごい音が鳴り響いた。「いっっタァー」スタッフさんたちが駆けつけた。大丈夫か聞いてくれた。大丈夫ではなかった。でも、泣かなかった、偉かったって自分にいいかせてた。いよいよ私の番! 指も、突き指してやばいけど、なんとかやり遂げよう!ステージに、足を踏み入れた。 曲を引いた。 3分48秒 地震発生 王勢の人が慌てた。震度7ほどだった。 帰らぬ人がいる。

不可讀文字抄_2

 沖縄でよく食されるものの中には『苦味』が特徴になるものもある。代表的なのは『蔓茘枝(つるれいし/ゴーヤ)』と『荼(にがな)』だろう。「良薬口に苦し」という言葉があるように、苦いものは身体にいいと聞く。蔓茘枝も荼も確かに栄養価が高く、積極的に摂ることを推奨されているほどだ。しかし、どうにもこれが受け付けない。舌に残る鋭い痺れが、長く私を荼(くる)しめるのだ。

二行 6

1 視界を覆う篠突く雨 眼鏡を外せば、からり、碧天が大きく寝そべっていた 2 推しを象った、雫型アクリルスタンド 狐雨の日に拾った雨粒のシルエット 3 レジンの中に閉じ込めた一粒の雨 彼の透明度の高さに、嫉妬したレジンが泣いた

瞬き

もうすぐ退去命令が出る貸家が建ち並ぶ場所へ夜な夜な息子と歩いてる 砂利の駐車場から貸家の中が見える 彼等はどこへ移住するのだろうか 明かりも少ない駐車場から息子が歩いて一つの貸家の中へ入っていく 少し年上の女の子が勉強している 息子が入っていくと女の子とそのお母さんが息子と話している。ここからは、よく見えない すぐに息子が出て来た お母さんが中へ入りなと勧めるが「いいよ、いいよ」と出てくる こんな夜中に歩いてこんな暗い場所に来て女の子とほんの少しだけ会って来た 息子に「あの子と会いたかったの?」と聞くとうんと頷く あんな一瞬だけ もう会えないと知ってか 夜中に外を歩いてあんな一瞬だけ 帰り道は手をつないで空を見て帰る チカチカと星が瞬いている

Darkness

 胃カメラを飲んだ。ベッド横のモニターに映像が映っている。「おっ」医者が嬉しそうにつぶやいた。胃カメラは、列をなして歩く観光客たちの姿を映していた。観光客たちは胃壁に向かってカメラを構えていた。「きっと胃がすごく荒れてるんだな」と思った。少し嬉しかった。

タイムトラベル

「博士、本当に行くのですね。」 「ああ、先に行ってくるよ。」 「では、また100年後の未来で会うのを楽しみにしていますよ。」 そう言うと助手のワトソンはボタンを力強く押した。 宇宙船は大気圏を抜け、予想よりわずかに出力を高く保ったままついに宇宙へ飛び出す。 たった3年の旅だ、それを地球時間に換算すると100年が経過していることになる。 人間の寿命では通常体験できない未来を私は見ることができるのだ。 いずれ帰る未来の地球を想像し、ともに宇宙旅行をしているワトソンと酌み交わす酒を楽しみに私はつらく長い旅をひとり耐え抜いた。 懐かしの青い星をとらえると宇宙船はプログラムに従って3年、否100年前の約束の場所へ向かった。 無事に着地すると何やらスーツを着た男が宇宙船のもとにやってくる。 「お帰りなさいませ、こちらW株式会社のものです。データ照合をいたしますので少々お待ちを。」 「はあ、これはどういうことだ。おい君、ワトソンという男を見なかったかね。私の助手なんだが。」 「何冗談をおしゃいますか。ワトソン氏はわが社の創設者ですよ。」 そう言って笑った男の顔が突如として冷酷なものに豹変した。 「不法滞在者だ、連れていけ。」 スーツの男が虚構に向かってそうつぶやくとどこからともなく屈強な男たちが現れ、私の体を乱暴に宇宙船からひっぺがした。 「おい!いったい何をするつもりだ。」 「滞在費は宇宙での労働でもって支払ってもらいます。それでは、よい旅を。」 スーツ男の感情のこもらない笑顔はちょうど3年前、宇宙船の窓越しに見たワトソンのそれとよく似ていた。

Don't Let Me Down

 少女と赤い風船は、遊園地で出会った。少女はしっかりと赤い風船の紐を握りしめていた。だが、少女は、久々にお父さんに会った瞬間、お父さんに抱きついて、その拍子に赤い風船を手放してしまった。赤い風船と少女はどんどん離れていった。少女はもう赤い風船のことなど覚えていないようだった。赤い風船はあてどもなく漂いながら、悲しくなった。「死にたい」と思った。その瞬間、優しい風が吹き始めた。その優しい風に運ばれて、赤い風船は、薔薇園にたどり着いた。薔薇には棘がある。赤い風船は笑った。

Lucifer

 夕方、近所の、遺書工場から、作業服のおじさんたちが出てくる。彼らの指にはペンだこがある。あの遺書工場で、遺書を生産しているおじさんたちだ。一日にものすごい数の遺書を書くらしい。彼らにとって『死』とはどんな概念なのだろうか。一仕事終えて、酒場へと向かうおじさんたちの表情は清々しい。その顔は『生』に満ちているように見える。

飴玉を嚥下する_02

* 私は『大丈夫、私だって無くしてるし、そこまで言われる必要も無い、ボタンじゃなくてもものは壊れたり無くなったりするよ』私はそう慰めた、それから別件をポツリポツリと口からだす、それは彼女からのSOSであり、彼女なりの成長であったことは確かだ。私はどうぞと話を聞き続ける 「うちの家、まぁ前も言ったようにあんまりいい家じゃないんだよね、家でのストレスが最近本当やばくて、進路だって事業所に通ってある程度お金が溜まったり仕事に慣れてきたらグループホームだって考えてる。でもね、それまでうち持ちそうにない。だって今ここで発散出来たとしても、どうせまたおばあちゃんとかおじいちゃんとかは変わらないし。前話した従兄弟の話から、言葉に過敏になっちゃって」彼女は泣き続ける、私が手渡したレモンティを握りながら、制服で飛び出してきた彼女。暖をとっているのか、それともやるせない思いを何かにぶつけているのか、私であれ本音を話すのに怖くて震えていたのか私には分からなかった。 従兄弟の話と言うのは、彼女の祖父がムカデだかに刺され、彼女は心配したのだが祖父はなんて事ないと言う顔でぼんやりしてたそうだ。だけども、その傷を従兄弟に見られた時従兄弟は彼女に「何故救急車を呼ばなかった?人殺し!!」と言い放ったそうで、それにもまた深く傷ついていた。 当たり前だ、自分にはどうしようもないような年齢で、祖父自信大丈夫だと言っていて、挙句刺激してもと気を使った彼女が、あらぬ事を言われたら誰だって傷つく、祖父も祖父でろくでなしとは聞いているが、彼女にとってはきっと長い仲で嫌いになりきれない家族なのだから、とてもショックを受けたのだと思う。 それがトラウマになり、ということだ 『お母さんは?連絡入れた?』私が口を挟むとケータイを確認する、折り返しが6回ほどかかっていた、かけ直しなよと言えば躊躇うことなくかけ直す。 コールがなる、音が私のとは少し違った。6度目で出る。 「もしもし?みーちゃん?」 彼女は口を噤んでいた 『あ、ご無沙汰しております』私が始める「あ!貴桜ちゃん?久しぶり」 『美咲と今中学の近くの公園にいます、なんでもまた家族仲が悪いらしくって』 「うんうん、そうだと思った、今そっち向かうね、ありがとうね」 『いえいえ、お気になさらず私が勝手に来たようなものですから』 「みーちゃん?聞こえる?」 「あー、何お母さん」 「今から行くからね、貴桜ちゃんが居て良かったね」 「うん…待ってるね」 そこで会話は終わる。

飴玉を嚥下する_01

甘ったるいビードロを小さな小袋から開けて、宝石みたいに丸くて内側の方頬に偏らせて頬肉にめり込ませるように吸うと、唾液が甘くなり、それを嚥下する。それが飴玉の醍醐味というものでころころ頬を往復させるのも良いが私はこの食べ方が好きだ。 そして、いつしかころころ溶けてって、もしくは奥歯や八重歯で圧力をかけて、噛み砕き口の中で散らばった宝石たちを嚥下する。 ざらつく、喉に違和感を覚える、軽くつっかえる喉、その宝石たちを無理に流し込んだり吐き出さないのは、言いたいことを言えない私たちの言葉に似ている、すなわち、これは愛と似ている。 珍しく秋のこと、その夕方私の友人美咲は顔を今まで見たことないくらいのくしゃくしゃとした顔で泣いていた。美咲は祖母に叱られたことに酷く傷ついていた、繊細なんだと感じた。なんでも、ここに至るまでの経緯は単純で私が歯を痛めて医者に言っていた所、彼女から電話が1本何もメールの一通もないままアポなしでかかってきた、それに気づいた私は何か嫌な予感がすると思いながら、歯医者に少し電話に出ますと断りを入れ、すぐ側で電話をかけ直した。 1回、2回、とコールが続く。不安になる、3コール目で出る。 最初、寝ぼけたような声で「あー……もしもし?」と声が聞こえる。私は間違え電話だろうかと、気が緩み「もしもし、何かあった?」と聞き返す、その言葉が彼女には染みたのか、それからグズグズと鼻のすする音を立てながらゆっくり話をしてくれた、家にいたくないと言うので、私は通っていた中学のそばの公園で待ち合わせを取り付け、後にした。歯医者に戻り、会計をし、走り出す。事故に合わないように周りを見ながら走り出す、途中息が切れて、自動販売機で暖かいレモンティーとメロンソーダを買う。彼女は炭酸が飲めないので、暖かいレモンティー、私は炭酸が好きで、味の濃いものが好きなのでメロンソーダ。そんな具合でまた走る。走りながら思う、美咲が炭酸を飲めなくて良かった、と同じものを買っていて、会ってすぐに乾杯なんてしてしまったら、シュワシュワと炭酸は弾けてしまってベタベタで、嫌な甘さとねちっこさがまとわりついただろうから、 でもそうなっても青春だと思う、 彼女と合流して、顔を見た時、涙目ではあったが、その小さな輪郭に涙は伝って居なかった。彼女はただ、久しぶりと最初私に軽く会釈し、私も元気よく久しぶりと返した、空元気に見えるくらいに振舞った。実際彼女に会うのは半年、いや1年ぶりくらいの事だったので再開に私は抱きしめたいくらいだった。 彼女は公園の椅子に座りながら話だす。 「制服のボタンが取れちゃったの」 『うん、ちょうど私も同じところが取れたのよ、奇遇ね』(嘘ではなく本当に取れていた所、クラスメイトにこの間丁寧に縫ってもらった、不良のようなその彼の手先には優しさがあり、私のボタンはしっかり留まった。) 「それでね、縫い直そうと思ったの」 私は彼女の背中を優しく摩って頷きながらひとまず話を聞くことにした 「そしたらおばぁちゃんがアンタが悪い、無くしたアンタが悪いって攻めたの。無くしたくて無くした訳じゃないから……」ここでくしゃっと彼女の顔は中心により、嗚咽をしない程度に泣きじゃくる、 「そんな攻めたような言い方しなくてもいいじゃん、これうちが悪いの?うち不安になりやすいから、そういった先のことを責められると次そんなことがあったらどうしようって不安になるの。」 彼女は真面目なんだと思った、たかがボタンひとつでここまで泣いてしまう、か弱く可愛らしい少女なのだ。彼女は茶色のメガネに、黒髪のロング、引っ詰め髪で、だけれどストレスのせいなのか偶然なのか、結い上げた髪から数本の白髪があったりもする。だがしかし、彼女の紙は艶やかで、手ぐしを通してみたくなるくらいだ。彼女は私くらいの背丈しかなく、同じく文学趣味がある中学の学友だ。

白い箱

 祭りの夜、私たちは遠い親戚の家に宿泊させてもらった。聞いた事も会った事もない親戚が沢山いて、方言も分からない。自分の中にある新しい自分に会ったようで不思議だった。私は大人たちとはそっと離れて、小さな男の子とずっと遊んでいた。外国人風の男の子。遠い親戚に外国人と結婚した人もいるんだなと思った。  男の子は可愛い物が好きらしく手元に集めていた。お祭りで配られたお菓子に付いていた光沢のある水色のリボン、テーブルの上にのっていたバナナに貼ってあったバナナの絵のシール、いちごのイラストが描かれた飴の包み紙。それらを触ってじっと見ては、嬉しそうにしている。私は、読んでいた本に挟んであった、しおりを出した。 「蛍が夜空に舞い上がって、星と一緒にお空に浮いているんだよ。」  外国人だしまだ小さいから、言葉が通じるか分からない。だけど絵を指してそう言うと、男の子は頬を上げて顔を赤らめた。  私は自分のバックパックに下げていたコサージュを外した。布で出来ていてふわふわしている桃色のピオニー。紐を外して腕に付けたり、洋服にしばったりしてみせると、男の子の目はキラキラと輝いた。  すると色白の女の子がやってきた。男の子よりは少しお姉さん。私たちはお互いに誰なのか分からないけれど子ども同士だから全然気にしない。子どもはなんとなく参加してくる、それでいいのだ。女の子はどこかで拾って来たのか赤いツツジの花を見せてくれた。親指と人差し指で、花と茎の繋ぎ目をつまんで耳にかけてみせてくれた。 「素敵ね。お人形さんみたい。」  私が感心していると、女の子はそれを私の耳にかけてくれた。鏡を覗くと、私もどこか異国のお姫様のようになった。私はそれを男の子に渡すと、男の子は自分に付けるわけでもなく、壊れやすい蝶々を手に乗せるようにそっと両手に乗せて愛でた。  私たちが集めた可愛いものが増えたので、私は袋でもないかなと周りを見回してみた。人が大勢出入しているから色んなお菓子が出ていて、空き箱がたくさんころがっている。私は何のお菓子が入っていたのか、ラベルもない真っ白な箱を見つけた。つるつるとしていて陶器みたいにも見えるけれどフタがある。それを男の子に差し出して中身を少し入れてあげると、男の子はそこに素敵な物たちを入れた。でも、まだ小さいから上手には入れられない。私は優しくお手伝いをして、固いものは下に、コサージュやツツジの花はふわっと上にのせた。 「こうすると、お花がつぶれなくていいよね。」  男の子はこっくりとした。  親戚の集まりが終わりになると、いつの間にか、男の子も女の子もいなくなっていた。中身の入った白い箱だけが残っている。 「お母さん、男の子はどこ? 外国人風の小さな子。それと小学生くらいの女の子。」 「子どもはいないよ。中学生のあなたが一番小さいのよ。」  親戚の人たちに話すと、おじいさんのお姉さんが、外国へお嫁に行ったと聞いた。その人の子どもだったのだろうか。色白の女の子も誰なのか分からなかった。  後でそっと箱の中をのぞくと、私たちのわくわくとした気配がまだそこに残っていた。(おわり)

メデューサの願い(CM後)

はい、ということですけど、大変ですね。桜井さん。 「まさに修羅場wこれから修羅場が始まる前夜ですね。この苺王子さんは、彼女に対してどう思っているのかってのが知りたいかな」 そうですね。でもなんか、素敵な出会いでしたよね。それこそ歌詞のような出会い方でしたね。 「うん、本当に素敵な出会いですね。なんか…運命の人。みたいな感じでしたよね」 はい、ただ不倫をしていると。苺王子さんは不倫をやめようとしているけど、運命で結ばれた彼女にバラしていますと言われている。 「うん。もし、本当に運命の二人だとしたら、真実を彼女にを話して、本気で謝るしかないのかもしれないですね。それでも気持ちが離れず、お互いの気持ちが変わらないのなら、運命の人なのかもしれない」 私も、そう思います。私も禁断の恋を経験した身。許されない悪戯は大切な人たちを傷つけるだけ。今、いけない事をしていると気付いているのなら、そこから引き返す事が苺王子さんに春を呼ぶ声になるのかもしれません。私の様な思いはして欲しくないから。 では参ります。 【お前の恋の炎を、石にしてやろうか!】 それではここで一曲お送りいたします はなのなまえで「wish」 ♪ On this endless road, there’s a dream I simply must make come true! 分かっていることなど何一つない 本当のことなどどうでもいいんだ ビリビリと俺の心がしびれている それ以外に確かなことなんてあるわけないだろ Wish! Wish! Wish for it! With all your might Stronger than anyone else Faster than anyone else Flying higher than anyone else よそ見をしていたら溺れていく 弾丸を撃ち込まれても前を見続けるのさ 夢を見失ってまで 生きていたってしょうがないだろ Wish! Wish! Wish for it! With all your might ♪ 桜井さん、今日は本当にありがとうございました 「どうも、ありがとうございました」 最後までお聴きくださりありがとうございました。またお会いしましょう。皆様にも恋の悪魔が囁く時、今日の事を思い出してくれたらと思います。では。シャー

メデューサの願い(CM前)

どうも皆さんこんばんは メデューサ・メデュ子のお悩み相談室 どうぞ今夜も楽しんでお聴きください この番組は短編作品限定の小説投稿サイト『Prologue -プロローグ-』の提供でお送り致します この番組のナビゲーターを務めるのは私メドューサ・メドュ子です。皆さん、どうぞよろしくね 前回の放送で私がインフルエンザになってしまって、急遽、息子のペガサスに頼んでしまったのですが、皆さんどうだったでしょうか。楽しんでいただけていたら幸いです。私はもうすっかり元気なので今晩から、またよろしくお願いします。 季節の変わり目。体調管理大事ですよね。本当に痛感いたしました。 皆さんはどんな体調管理、健康管理しているでしょうか。 私は三年前からウォーキングをしていて、歩ける時は30キロ近く歩きます。車があまり来ない線路沿いを歩くのが好きで、線路の柵沿いに小さな花が少しずつ咲いているのを見ると、可愛いなぁ。あぁ春なんだな。と感じたりします。 はい、今日は春にぴったりなゲストの方に来ていただいております。 Mr.Childrenの桜井和寿さんです 「どうも、皆さんこんばんは。Mr.Childrenの桜井和寿です。よろしくお願いします」 よろしくお願いします 桜井さんにとって春とはどんなイメージですか 「なんだろうな…春…なにかが始まる季節又は、終わりを迎える季節。なぜか分からないけどワクワクソワソワする季節。一方で、例えば、僕達Mr.Childrenの曲で【ハル】という楽曲があるんですけど、あの世界観は、今、僕が感じている春のイメージに近いと思いますね。あの…日々暮らしていくで、ずっと明るく、ずっと幸せ、なんて思っている人なんかいないじゃないですか。なんかもっと、こつこつと、忙しなく、または、悶々とした、みたいな感じなんだと思うんですよね。日々って。ただ、そんな悶々とした日常に、何気ないことに心が楽になる瞬間があると思うんです。例えばそれは優しい風だったり、暖かい日差しだったり、夜明け前の空を見た時だったり。こう…ふと幸せを感じる、幸せの中にいたんだなと感じさせてくれる、その事が春の持っているイメージですね」 とても分かります。 桜井さんが話していると、まるで曲の中にいるような感じがしますね。私、聞き入ってしまいました。 では、今晩もお悩み相談に参ります。 ペンネーム苺王子さんからのお便りです メデュ子姉さんこんばんは 僕は26歳の男性です 僕には7年間付き合っている彼女がいます 彼女と出会ったのは本当に偶然で、学生の頃、陸上部だった僕は、毎日朝ジョギングをします。その日は日曜日で朝は駅前も人通りが少ないので、駅前にコースを変えました。すると駅前の放射線通りにスマホが落ちていて、拾ったら直ぐに電話がかかって来ました。その時の彼女の声がとても可愛くて、会ってみたらとても素敵な感じで気付いたら「友達になってください」と言っていました 言ってから、うわっ、これはヤバイ奴だと思われてしまうな。と後悔したのですが、意外にも友達になることになりました。 何度かデートをして、彼女の方から告白してくれて、それで付き合いました。 自分で言うのもなんですが、とても仲の良いカップルだと思います。 ですが、最近の僕は彼女と違う女性と会っています。 その人は職場の人で、10歳年上の既婚者です。月に一度、家に呼ばれて、手作りのご飯を一緒に食べて、その後にベッドに入ります。 その日は泊まって、次の日の朝に帰ります。そんな関係が始まったのが1年前です。 きっかけは会社の飲み会の帰りに、その女性が飲み過ぎてしまって、僕が家まで送っていたのが始まりでした。 僕は月に一度呼ばれる関係を終えようと思っていますが、その人は僕との関係を終わらす気はなく、彼女にバラすと脅されます。僕らの行為の画像を持っていると言っていました。 旦那さんのことも聞きましたが、月のほとんどが出張しているようで、夫婦仲は冷めきっていると言っていました。 メデュ子姉さんどうか助けてください はい、と言うことで、一旦ここでCMです。

時速1kmの光

足の裏で畳がスルスルする感じ ドライヤーの音に隠れる曲 子供の時だけの高い声 無邪気な笑い声 夜に溶けて明日には夜と共に明けたい 彗星の公転の様な死の時間 土星の輪っかを指にはめてみたい 太陽はドラムの位置にある 月を重ねて月まで登る スマホの親友 パジャマのお尻 靴下の片方の行方 耳鳴りの輪唱 銀河の渚にある今 ポケットに入れたままの時間 声を思い出す 思い声を出す 出す声を思い 声を出す思い 思い出す声を 出す思い声を 竪琴なら聴いていられる

DIRTY OLD MAN

 スーパーマーケットに行ったら、野菜売り場に、トマトが並べられていた。そのトマトの中に、一個だけ、半額シールが貼られているトマトがあった。他のトマトに比べてやけに赤かったが、特に傷があるわけでもなかった。俺はそれを買って帰った。家でそれを洗ってかじった。酒の味が口の中に広がった。どうやらこのトマトが赤いのは、酒を飲んだことによるものらしい。俺は悲しくなった。そしてこの酒を口にしたことで、俺のアルコール依存症の治療は失敗した。

愛のしくみ

 近所にお洒落な家がある。お洒落な夫婦が住んでいる。奥さんは美人だし、旦那さんは外国人だ。その家の前を通りかかるたび、気になることがあった。家の中から頻繁に、銃声が聞こえてくるのだ。マシンガンみたいなやつとか大砲みたいなやつとか。何なんだろう。そんなある日、私がパートで働くベビー用品店に、その家の奥さんが現れた。そして、赤ちゃん用の防弾チョッキを買っていった。赤ちゃん生まれたんだ。色々大変そうな家庭だが、とりあえずめでたい。

春が来る

最初は中学二年の春だった。 転入してきた加藤春菜は、窓際の席に座り、授業中もずっと外を見ていた。僕——佐藤春斗は、その横顔に何かを感じた。うまく言えないけれど、この人はここに長くいないのだという予感だった。 三ヶ月かけて仲良くなり、夏祭りの夜、僕は告白した。「好きです」と言った瞬間、春菜は目を見開いて、それからひどく困ったような顔をした。 「ごめん……実は、来月転校することになって」 偶然だと思った。 *  *  * 高校に入って、また出会った。 大庭花奈。図書委員で、いつも難しい本を読んでいた。一年かけて距離を縮め、文化祭の準備中に「ずっと気になってた」と打ち明けた。 このはは少し黙って、それから言った。 「嬉しい。でも……お父さんの仕事の都合で、来週から大阪に行かなきゃいけないんだ」 その夜、僕は自分の部屋で天井を見つめた。二回、同じことが起きた。 *  *  * 高校三年の秋、原田春香に会った。 美術部の子で、いつもスケッチブックを抱えていた。僕のことを「佐藤くんって、なんか遠くを見てる目してるね」と言った。図星だった。 今度は慎重にやろうと思った。告白しなければ、彼女は転校しない。それだけは確かめられていた。だから僕はただ隣にいることにした。放課後の美術室で、彼女が絵を描くのを眺めながら、好きな音楽の話をした。それだけで充分だと言い聞かせた。 三月の終わり、卒業式の帰り道、春香が口を開いた。 「ねえ、佐藤くん。一個だけ聞いていい?」 「……うん」 「私のこと、好きだったりする?」 僕は黙った。桜が一枚、肩に落ちた。 「……ごめん、変なこと聞いて。でもね、私、来月から親の仕事でカナダに行くことになったんだ。だから、もしそういう気持ちがあるなら、言ってほしかった。後悔したくなくて」 もうすでに、決まっていた。 僕は笑った。笑うしかなかった。 「好きだよ」 言ったところで、何も変わらないとわかっていた。それでも言わずにいることは、もっと悲しいことのように思えた。 春香は少し泣いて、それから笑って、「私も」と言った。 *  *  * 彼女たちが転校するのは、僕のせいじゃない。きっとそうだ。世界はそういう仕組みで動いていて、僕はただその縁に立っているだけだ。 でも春になるたびに、僕は思う。 好きになることが、別れの始まりなのか。それとも——別れるとわかっているから、あんなにも好きになってしまうのか。 今年も桜が咲いた。 また誰かに、出会いそうな気がしている。 ——それが怖いのか、待ち遠しいのか、 自分でも、もうわからなかった。 END / 了

愛のために

 私の夫は、自分のへそに、自分のへその緒を、セロハンテープで、時々貼り付けていた。「時々戻りたくなるんだ」そんな夫が、ある日、へその緒を、へそに、接着剤で貼り付けていた。「ずっと戻ることにしたよ」私は接着剤の注意書きを読み、肌に触れても大丈夫かどうかを確かめた。大丈夫だった。ほっとした。