「おーい、論点すり替えないでもらっていいですかー?」 まただ。 こいつは、論点のすり替えという指摘を、口癖のように言うようになった。 正直、自分の中では論点がすり替わってなどいないので、こいつの言葉の意味が分からない。 だから、聞いてみることにした。 「ごめん、自分ではすり替えたつもりがないからわからない。すり替える前の論点と、すり替えた後の論点を言語化してくれない?」 「え?」 そいつは腕を組んで悩み始めた。 あーでもない、こーでもないとうめいた挙句、最後には俺をにらみつけてきた。 「論点をずらすな!」 そして、走って逃げていった。 きっと、自分でも論点がわかっていなくて、ふわっと何かが違うと思ったから、反射的に口癖が出たのだろう。 理由が分かってすっきりした。 俺はすがすがしい気持ちで家に帰り始めた。 せっかくだ、途中でカフェにでも寄って帰ろう。
よく晴れた冬の朝。 放射冷却から特に今日は大気が良く冷えている。 吐く息は濃い白で、外の地面は霜がうっすら雪のよう。 私は運が良い こんな凍える朝に屋根と壁と布団がある家で寝る事が出来た。 朝から温かくて美味しい朝食を食べる事が出来た。 そんな今日も私を必要とする職場に向かう事が出来ている。 こんな冷えた朝の空気の中、夜明け直ぐの空を見上げると 抜けるような空の青さを見る事が出来ているのだ。 私は多人数で行動することがとても苦手な人。 団体に登録するのも物凄く抵抗感がある。 思ったところへ一人で行き、 コソッと地味に一人で楽しみたい。 私は運が良い 自分が気の許せる友人がとても少ない。 しかもお会いするのが年間でも数回のみ。 友人もそういうのがお好きなようで、 もう数十年間そんな会い方を続けている。 会ってからもお互いにそんなベラベラ話す事はない。 いつも同じような事を話し、お互いの無事や問題無きを確認する。 それがとても心地よく、次も会えたらといつも思う。 中々そんな友人に巡り会える事はないのではないだろうか。 とある人から私は物凄く嫌われているようだ。 明らかに他の人と私との接し方が違っている。 声や表情にも表れており、 最近は表情に異形さを思うようにもなった。 私は運が良い こんな極端な二面性のある人から嫌われているのだから、 これはむしろ大喜びするべきことだ。 もしこの性格を私が知らずに、 今も普通に接していたとしたらそれは恐怖でしかない。 仮に他の人から私が同じような対応を取られているのなら、 こちらに何かの問題があるのだろうが、それは全く無い。 この人の私に対する行動があった事で逆に他には問題がないという 強固な確認と安心が出来たのだから実に有り難く思う。 更には自分の機嫌ぐらい自分で取れないとなると、 人として恥ずかしい事だとこの人から知る事も出来た。 新たな学びまで出来たのだから、今度お礼をしないと…、、 いや、それは流石に無い。 今年の五月で退院して四年となる。 ある日、病と診断され入院し骨髄移植も 一つの選択肢と説明されたが 色んな理由から移植は出来なかった。 移植しない場合の五年生存率について聞かされると、 病の再発を否めないその確率に 正直、怯えながらここ迄生きた感があった。 私は運が良い 先ずここ迄再発はしていない。 数値としてはそれ程飛び抜けた値ではないけども 一応は合格点だと言える。 それに再発が無いばかりか新たな健康を得ようと食生活を一新した。 それが家族や親類まで拡がって全員が健康であるのがとても嬉しい。 驚きなのは生活の為とは言え、こんな状況の私が働けているのだ。 急な病という超マイナス要素から始まり、 新たな健康というプラス要素を生む流れになってしまう。 現時点に過去は関係ない。 出来事だけを見ればしんどいと思う事も 捉え方を少し変えるとまるで違う出来事へと変化してしまう。 しかし出来事全部をプラスに変えるなどと言う、 鋼鉄の感情は持ち合わせていなく 感情だけを見れば、プラスよりマイナスの割合が 明らかに多いのが私の特徴なのは承知している中で、 法則みたいなものに気が付いた。 気持ちが前向きに上がるほんの少し前は、 これでもか!と思えるぐらいの悩み、気分の落ち込み事があるのだ。 つまり気持ちの落ち込みを感じたら プラスに転じる前触れと思えるようになった。 という事は、 私は元々、運が良いのかもしれない。 私の感情が落ち込む割合が多いのであれば、 法則からすればプラスに転じる事が多いということになる。 あった事は関係ない。 私はもっとドンドン行くべきだ。 そしてまた落ち込めば良い。 とことん落ち込んでみても良いだろう。 それは更にプラスとなり自分の糧になるはずだから。
「はい、お前死んだー! 白線の上以外は、全部マグマでーす」 子供が笑いながら言いました。 それを聞いた神様は、老眼鏡をかけました。 「ほうかほうか。ここは地面じゃなくてマグマだったのか。近頃、物忘れが悪くていかん。直しておこう」 神様は、白線の上以外を全てマグマにしました。 ベビーカーが白線の上を通ります。 「すみませーん、通りまーす」 「あ、すいません」 正面から来た歩行者は、スマホから目を話し、逆方向へと歩き始めます。 なにせ、白線は細いです。 すれ違いなんてとてもできません。 「あ」 「あ、落ちた」 高齢者がこけました。 そして、白線の外、マグマの中に落ちました。 ジュジュジュジュジュ。 肉と骨が焦げる音がして、マグマの中に消えました。 それを見ていた周りの人は、急いで写真を撮って、警察署へと送りました。 マグマは何も残しません。 よって、誰が落ちたか記録しないと、死亡したのか行方不明なのかわかりません。 サーファーがマグマの上でサーフィンします。 マンホールからマグマが吹き上がると、いい波が起きるのです。 「いよいしょー!」 「キャー! かっこいいー!」 格好良く波に乗ることのできる人は大人気です。 命がけのエンターテイメントは、若者を中心にムーブメントを起こしました。 神様の孫は、困り果てました。 なにせ、祖父の間違いを直そうと急いで駆けつけてみれば、人間たちが思いのほか順応していたからです。 社会システムも作り替えられ、今マグマでなくせば、逆に混乱する危険性があったからです。 「人間ってすごいなあ」 神様の孫は世界を眺めた後、人間に化けて、最近の流行と言うマグマで焼いたハンバーグを食べに向かいました。
『年収五千万円以上』 『身長百七十五センチメートル以上』 『年齢二十代後半』 『芸能人○○似』 ポストに突っ込まれていた、結婚相談所のチラシ。 今週の土曜日までに入会すれば、チラシに書かれているハイスペ男と確実にお見合いができるらしい。 汚い。 なんて汚い戦略だ。 目の前にニンジンを垂らしたあげく、高い入会金を払う価値があるか否か考える時間も与えてくれないなんて。 私は怒りのままに、結婚相談所に電話した。 「もしもし! 入会します! チラシの人とアポ組んでください!」 でも、こんなハイスペ、私の人生じゃあ二度と出会えない。 それに、期間限定だし。 我に返った私は、部屋のベッドに座って、昼からチューハイを飲んだ。 冬限定の味。 美味しい。
彰人の横を歩くとき、私はいつも少しだけ歩幅を合わせる。 昔からの癖だ。無意識にそうしてしまう。 久しぶりに会った彰人は、やっぱり彰人だった。 背は少し伸びて、声も落ち着いたのに、考え込むときに視線を逸らすところは変わらない。 「変わってないね」 そう言いそうになって、やめた。 変わってないなんて言葉は、今の私たちには軽すぎる気がしたから。 私はずっと、後悔していた。 中学最後の夏、彰人が何か言いたそうにしていたこと。 あの夕焼けの中で、私が一歩踏み出さなかったこと。 もし、あのとき勇気を出していたら。 そう考えては、何度も自分を責めた。 コンビニのアイスケースを覗きながら、私は少しだけ安心していた。 彰人が、ちゃんと私の昔を覚えていてくれたことが、嬉しかった。 ——まだ、終わってなかったんだ。 ベンチに座り、溶けかけたアイスを見つめる。 言葉にするのは怖かった。でも、言わなければ、また同じ後悔を繰り返す。 「私さ、高校のとき……彰人が好きだったんだよ」 声が震えないように、できるだけ淡々と言った。 告白というより、事実を置いていく感覚だった。 彰人の「俺もだよ」が聞こえた瞬間、胸の奥が熱くなった。 ああ、やっぱり。そう思って、少し泣きそうになった。 でも、過去に戻りたいわけじゃない。 私は、今の彰人と話したかった。 「これからは、ちゃんと話そうよ」 自分でも驚くほど、素直な言葉が出た。 逃げないでいたい。今度こそ。 改札の前で別れるとき、振り返りそうになるのをこらえる。 ここで振り返ったら、また昔に戻ってしまいそうだったから。 電車に乗り、窓に映る自分を見る。 少しだけ、強くなった顔をしていた。 青春は、あの夏で終わったんじゃない。 言えなかった気持ちを抱えたまま、大人になっただけ。 次に会うときは、過去じゃなく未来の話をしよう。 私はそう、心の中で決めていた。
あたしはひとつ所に長く居られない。 あたしの時間は15歳で止まってる。 あたしが死んで、蘇った15歳。 そこから歳をとることはない。ついでに死なない。 「久しぶり! 全然変わらないね!」 にも限度があるってもんで、最初の同級生が30を超えた頃にあたしは生まれ育った街から逃げた。 いろんな街を巡り、偶然昔の知り合いに会っても、 「娘なんです」 が通用する程の年月が過ぎた。 何が本当で嘘かわからないくらい生きてきた。 そんなあたしがやっと見つけた居場所。 「ただいまー」 声と同時にドアが開く。 声の主ではない方の男、Aが入ってきて、担いでいた男を乱暴に室内に放り込んだ。 ドアを開けた方の男、Kは跳ねるように室内に入ってきて来客用のソファに勢いよく座る。 「あんたたちはまた…」 放り込まれた男に近寄り、あたしは手元の写真と照合する。 「かろうじて本人と認められるわね」 KとAに捜索を任せた対象者であるのは間違いなさそう。 しかしボコボコにされている。 「だってムカついちゃってさー」 そう言ってKはテーブルの上に用意してあるチョコレートをひとつ頬張った。 だからそれ来客用の高いやつだっつーの。 「生きてるから大丈夫だよ」 Aがおっとりと言う。 まぁKが対象者に怒りを覚えないはずがないのは最初からわかってたんだけど。 「お疲れ様。クライアントに引き取りに来てもらうわ」 軽く2人を労って、あたしはスマホを手に取る。 「あ、お世話になりますぅ。こちら…」 よそ行きの声、とクスクス笑う2人をひと睨みして、あたしは先方に用件を伝えた。 「すぐに引き取りに来るって」 「じゃその後メシだな」 焼肉焼肉〜とKがご機嫌に言い、肉かぁ…とちょっと困り顔のA。 まったく、聞いたことないわよ…ニンニクたっぷりのタレで焼肉食べる吸血鬼とベジタリアンの狼男なんてさ。
待ち合わせ場所に着いたとき、私は思わず深呼吸をした。 高校生の頃みたいに、制服じゃない。 でも、緊張の仕方だけは、あの頃と同じだった。 彰人は、先に来ていた。 スマートフォンを見ながら、時々周囲を気にしている。 その姿を見た瞬間、少しだけ安心する。 「おはよう」 「……おはよう」 ぎこちない挨拶。 でも、それが嫌じゃなかった。 今日は特別な場所に行くわけじゃない。 駅前を歩いて、カフェに入って、映画を観る。 それだけなのに、心臓は落ち着く気配がない。 「その服、似合ってる」 突然、彰人が言った。 目は合わない。 「……ありがとう」 褒められるなんて思っていなかったから、返事が遅れた。 カフェで向かい合って座ると、妙に距離を意識してしまう。 テーブル一枚分の間隔が、こんなに遠かっただろうか。 「緊張してる?」 私が聞くと、彰人は苦笑した。 「ばれてたか」 「うん。昔から」 その一言で、二人とも少し笑った。 笑うと、不思議と肩の力が抜ける。 映画館を出たあと、夕方の風が心地よかった。 何気なく歩いているはずなのに、手と手の距離が気になる。 信号待ち。 彰人が、少しだけ私の方に寄る。 「……手、つなぐ?」 その声は小さくて、でも逃げなかった。 「うん」 答えると同時に、指先が触れた。 ぎこちなく、でも確かにつながる。 懐かしいはずなのに、初めてみたいだった。 「なんかさ」 彰人が言う。 「今のほうが、ちゃんと好きって言える気がする」 私は、少しだけ強く手を握った。 「私も」 夕焼けの中を歩きながら思う。 遠回りした分、今はちゃんと向き合えている。 これは、青春のやり直しじゃない。 あの頃の続きを、大人になった私たちで歩いているだけ。 信号が青に変わる。 つないだ手を離さずに、私たちは一歩踏み出した。
Kは怒りに震えて男を見下ろしていた。 生きて連れ帰れとクライアントから指示は受けている。しかし守る自信がない。 「K」 先輩であり相棒のAが後ろから呼びかけた。 「何だよ」 「俺のメガネ知らない?」 Kがイライラと振り返ると、呑気そうな声でAが言う。 額にメガネを引っ掛けて。 その一言で十分だった。 「後ろに転がってね?」 Kはニヤリと笑うと、足元で悪態をつき続ける男の胸ぐらを引っ掴んだ。 「A」 気が済んだKは背を向けているAに声をかけた。 「ん?」 と振り返るAに向けて、自分の額をトントンと人差し指で示して見せる。 「ああ。こんなところに」 わざとらしく言ってメガネを戻し、 「いやぁポンコツな先輩で悪いね」 と笑んだ。 「愛すべく、な」 Kは(敵わないな)と思いながら付け加えた。 自分の扱いの巧さにおいて彼の右に出る者はいない。 我儘で短気で素直じゃない。走り出したら止まれない。 そんな自分を足手纏いのふりをして少しだけクールダウンさせてくれる。 「さてと、帰りますか」 AはKが放り捨てた男を軽々と肩に担いで歩き始めた。 Kに死なない程度の報復を受けた男はすっかり気を失っている。拘束する必要もなさそうだ。 (Aがいなかったら危なかったわ) 俺もまだまだだな、と自嘲しつつ、Kも続いて歩き出した。
初日の出を見るために、山へ登った。 山と言っても、獣道なんてけったいな道がある場所でなく、幼稚園児たちのお散歩にも使える遊歩道のある低山だ。 ぼくと友達は暗い時間から歩き始め、息が上がることなく到着した。 多少体が温まったが、寒空には負けてしまう。 山頂には、同じことを考えている人が集まっていた。 ぼくと友達は、海の見える場所に立って、日の出を待った。 こういうとき、身長が高くてありがたい。 「寒いね」 「ねー」 息を吐いて手を温めること数十分。 黒が暖色を帯びて来て、海から太陽が顔を出した。 「初日の出だ!」 ぼくは光りの出る場所を指差した。 「豊栄登(とよさかのぼり)だ」 友達は、未知の言葉を口にした。 「豊栄登?」 「あ、ごめん。朝日が昇ることを、そう言うんだ」 「へえー。初めて聞いた」 「ぼくも、最近知ったんだ」 「なんて書くの?」 「豊かに、栄える」 周囲では、スマホを取り出して初日の出を写真に収める人ばかり。 実に現代的だ。 でも、ぼくと友達の周りだけは、古い貴族の家にタイムスリップしたような感じがした。 太陽の光。 豊かな光。 栄の光。 初日の出の光を浴びていると、神聖な気分になった。 ぼくは二回手を叩き、太陽に向かって一礼した。 二礼二拍一礼の方が良かったかなと思ったが、手を叩くことから始めてしまった手前、そのままでいく。 友達はぼくを見て笑い、ぼくといっしょに二拍一礼をした。 「なんか、いい年になる気がする」 「ぼくも」 そのまま太陽全部が顔を出すのを見届けた後、家に向かって歩き始めた。 豊栄登。 毎年見ている初日の出が、言葉一つでこんなに変わるとは思わなかった。 家に帰ったら、親の辞書でも引っ張り出してみようかと、なんとなく思った。
朝。 嫁の作った弁当を持って、いざ出勤。 昼。 嫁の作った弁当を、いざ開封。 息子のと一緒に作ってるから、少し子供っぽいところもあるが。 今日も完璧だ。 ありがとう、嫁。 私が両手を合わせると、若い子が覗き込んできた。 「お、手作り弁当っすか?」 「うん。嫁の手作りでね」 私の言葉に、若い子がしかめっ面を見せてきた。 「その、嫁って言い方、あんまよくないっすよ」 「え?」 「女は家にいるものって感じがして、なんかヤっつ」 「そ、そうか」 「多様性っすよ、多様性。今どきは、女の人だって働いていいんっす」 私は、笑顔のまま話を聞いた。 顔が引きつっていないと嬉しい。 「後、嫁の手作りってのも、ちょっと」 「え?」 「結婚したいのにできない人とか、あえて結婚しないことを選んだ人に、当てつけに聞こえちゃうっすよ」 「そ、そうなのか」 「多様性っすよ、多様性。結婚するのも子供を作るのも自由で、尊重しなきゃ駄目なんっす」 私は、笑顔のまま話を聞いた。 顔が引きつっていないと嬉しい。 「尊重は、してるはずなんだけどなあ」 帰り道。 誰もいない道路でボソりと呟いた。 決して、他人を否定しているつもりはなかった。 なんなら、少しだけ、自分の嫁のことを周囲に自慢したいだけだった。 そんな言葉さえ、令和の世では多様性の否定になるらしい。 仕事する気が起きなかったから早退し、家に着いたタイミングが丁度息子と同じだった。 「おお、おかえり。……どうした?」 息子の目は赤く腫れていた。 泣いた跡もある。 息子はランドセルを下ろして、私に渡してきた。 「黒、やだ!」 「どうした? 自分で選んだんだろ?」 「選んだけど!」 「けど?」 「黒って昔の色なんだって! なんでも選べるのに、黒はおかしいって!」 「……誰から言われたの?」 「タケシ!」 息子はランドセルから手を離した。 ランドセルが、玄関に落ちる。 息子は靴を脱ぎ捨てて、リビングへと走っていった。 多分、炬燵にもぐりこむのだろう。 私はランドセルを拾って、家の中に入った。 かつての学校では、男子は黒いランドセル、女子は赤いランドセルと決められていた。 しかし今は、何色でもいい。 茶色でも紫でも、自由だ。 逆を言えば、男子が黒でも赤でもいい。 そう思っていたが。 「多様性ってのは、随分選択肢を減らすもんだな」 私は昔懐かしの平成を思い返し、平成産のワインをグラスに注いだ。 「あら、珍しい」 嫁は、夕方から酒を飲もうとする私を見て、少し驚いていた。
etc(エトセトラ)…etc(エトセトラ)… 私の隣を歩く人たち。 私の前を、私の後ろを歩く人たち。 コペルくんが私たちはまるで分子の集合体のようだと叔父さんに言ったことを思い出した。 etc(エトセトラ)…etc(エトセトラ)… 抽象的で哲学的な事は考え出したらキリがない。 物事というものは多少の省略は返って心地良いのかもしれない。 etc(エトセトラ)…etc(エトセトラ)… だから今日も曖昧さを残しておくよ…。 でも、たまには思考するのも悪くない。 (完)
昨日の午後から台風の様な強い風達がロックや ヘビメタを奏で窓が揺れた私はその時来客達と 楽しくティータイム中クラシックが好きな泉は ヘビメタの盛り上がる場面はクラシックと同じ 激しい感じが似てると言い私は確かに窓が揺れ ガタガタと鳴る音は宿命の中間点に酷似してる 昔は台風が嫌いだった仕事の時間を切り上げて 電車やバスが運行してる内に家へ帰れと上司は 言う否貴方は役職手当有るし正社員だから早く 帰宅しても給料変わらないから良いだろうけど 私は派遣社員で時給の身の上早く帰ると其れが 給料に響く訳分かりますか社員様と笑顔で嫌味 返しすると決まって皆一瞬フリーズした思い出 そんな日に限り全然台風来ない時給だけ無駄に 引かれ何だろうこの理不尽の極みもう誰に文句 嫌味を言えば良いか分からず同期の娘に話せば 其れ台風の性じゃ無いと言い私は否台風来ても 無いのに帰宅指せた上司の責任でしょうと言い 何故だか憤慨してその後言葉を言う気も失せた 人間って馬鹿だ全部自然災害の仕業にしてもし 私が台風の立場なら警報だけで俺未だ出掛けて 無いし自分のミスを自然界に責任転換する娘も 馬鹿だなと罵倒するだろう風の仲間と居酒屋で
スマホのアラームで目を覚ます。午前六時。 カーテンの隙間から差し込む光は冬らしく白く冷たい。布団から出ると、ワンルームの空気が刺すように寒い。エアコンをつけたい衝動に駆られるが、電気代が頭をよぎって指が止まる。 社会人一年目の給料は思ったよりも心許ない。月末はいつも、ぎりぎりだ。 洗面所で顔を洗う。鏡の中の自分は、学生の頃より幾分か疲れて見える。昨日も残業だったし、今日も朝から会議がある。 キッチンでコーヒーを淹れ、小さなベランダを見ると、手すりに薄い霜が張り付いていた。 その白さを眺めていたら、あの朝の光景がよみがえった。 **** 実家の冬の朝は、とてつもなく寒い。 布団の外に出た瞬間、肌を刺すような冷気に身震いする。吐く息が白い。大学の寮では冬でも暖房が効いていたから、実家にいるんだとしみじみ思う。 時計を見ると午前六時。スマホでSNSを眺めると、サークル仲間の飲み会写真や、先輩の就活愚痴が流れている。指で画面をスクロールしながら、布団に戻って二度寝しようか迷っていた。 そのとき、庭から微かな音が聞こえた。カーテンを開けると、白く凍った庭に、人影がある。 祖父だ。分厚いジャンパーを着込み、剪定鋏を手に庭木を整えている。白い息が煙のように立ち上り、芝生は霜で真っ白に凍りついている。 「じいちゃん、何してんの。寒いから中入ってよ」 玄関を飛び出し、庭に出ると、冷気が頬に刺さった。祖父はこちらを向き、笑った。 「 こんなん、寒いうちに入らんだに。 この時期に切っとかんと、春に困るだよ」 俺は父の古いジャンパーを引っ張り出し、庭に戻った。祖父が差し出した小さな鋏を受け取り、低い枝を頼まれる。 かじかんだ手はうまく動かないが、作業を続けているうちに、少しずつ体が温まってくる。 「大学はどうだい」 「まあ、普通」 「友達はできたか」「それなりに」 素っ気ない返事をしながら枝を切る。 祖父は余計な口を挟まず、黙々と鋏を動かす。沈黙が気まずくて、俺はつい口を開いた。 「最近、体調どう?」 「ぼちぼちだな。歳は取りとうねえ」 祖父は笑った。だけど、その笑顔は去年より少しだけ細く見えた。 「この庭、お前が生まれる前からだ。もう三十年以上だか」 祖父は目を細めて庭を見回した。 「春には梅が咲くし、お前が好きだった椿ももうすぐつぼみが膨らむずら」 忘れていた。椿が好きだったなんて。 椿は花ごと落ちる。小さな頃、その花をたくさん拾って並べて遊んだような──微かに思い出せる。 空が明るくなり、凍った芝生が溶け始める。 作業を終えると、祖父は「助かったわい」と俺の肩を叩いた。その手は驚くほど軽かった。 母が淹れた熱い緑茶を飲む。祖父はこたつで目を細めている。 「また帰ってきたとき、庭仕事手伝うよ」 そう言うと、祖父は一瞬目を丸くする。その後ふふっと嬉しそうに笑った。 「ああ、待ってるずらよ」 **** あれから三年が経った。 就活が始まり、帰省の暇もなくなり、内定、卒業、就職。気づけば三年が過ぎていた。 祖父が倒れたと連絡が来たのは、去年の秋。慌てて帰ったが、祖父はもう眠ったまま反応がなく、その一週間後、静かに息を引き取った。 葬儀の日、庭を見た。木々は伸び放題で、雑草が生い茂っていた。 あのときの梅や椿は、今年も咲いたのだろうか。霜の庭に立つ祖父の姿が、鮮明に思い出される。 **** コーヒーが冷めていく。時計を見ると、もう出発の時間だ。スーツを着てコートを羽織り、ドアを開けると冷たい風が吹きつける。 駅へ向かう道を歩きながら、俺は思う。 あの日、もっと話せばよかった。素っ気ない返事じゃなく、ちゃんと言葉を交わせばよかった。そして約束を守ればよかった。 満員電車に揺られていると、スマホに母からメッセージが届く。 「今度の週末、暇だったら帰ってこない? お父さんと庭の手入れをしようと思う。手伝ってくれたら嬉しい」 少し考えて、返信する。 「わかった。帰る」 電車が止まり、ホームに降りる。今日も長い一日が始まる。 でも今は、週末が待ち遠しい。 実家の庭で、父と剪定をする。手はかじかむだろう。でも動いているうちに温まる。今度こそ、約束を守る。 凍える朝は、いつか温かい朝に変わる。祖父がそうしてくれたように、今度は俺が温もりを手渡す番だ。 雲の切れ間から青空が覗く。冬は長いけれど、春はきっと来る。 何気ない冬の朝。祖父との、たぶん特別でもない時間を思い出しながら、俺は歩き続けた。
私は私の正義を貫くだけ だけど、正義の定義が明確では無く文章化するのが難しい ただ、正義というものに固執しているのは確かな事 そんな私は何者でも無い、ただの入れ物 (完)
私、好きな物は先に食べる派。 だから、ケーキの上に乗ってる苺を最初に食べちゃう。 ぱくぱくもぐもぐ。 ああ、美味しい。 「ぎゃー! あんた、何やってんの!」 いっけなーい。 お母さんにバレちゃった。 「めんごめんごー」 「あんた、どうすんのよコレ! ショートケーキならともかく」 怒らないでお母さん。 苺の乗ってないホールケーキだって、きっと美味しいよ。 パティシエさんたちが、一生懸命作ってくれたんだから。 私は食べないけどね。 もう、一番美味しいところが残ってないし。
学力テストのモヤモヤをさらに加速させたのが、それに続く体育の50メートル走だった。 走る系の競技は嫌いだ。疲れるし苦しいし、何より自分の鈍臭さを大勢に晒すのが耐えられない。 更に追い打ちをかけるように、今回は出席番号ではなく背の順で組まされることになり、私は朝と同じレーンに並ぶ羽目になった。 最悪だ。確信がある。コイツは勉強だけじゃない、足だって絶対に速い。嫌だ、嫌すぎる。 憂鬱過ぎて先生の「後ろからクマが追いかけてきてると思いながら走りなさーい」なんて小ボケ発言につっ込む気すら起きない。 死んだ目でスタートラインへ向かう途中、ぱちりと朝と目が合った。 「あ、あはは……お手柔らかに……」 「……」 無言。 え、無視? 私、今話しかけたよね?フツーに傷つくんだけど。 戸惑いと悲しみで立ち尽くす暇もなく、無情な号砲が鳴り響いた。 結果は――言わずもがな、である。 全力で地面を蹴ったのに視界の端で彼女の背中がどんどん遠ざかっていく。完全な敗北だった。 膝に手を置いて肩で息をしながら地面を見つめる。どれくらい時間が経っただろうか。ようやく顔を上げた時、彼女はゴールラインの数メートル先に立っていた。息の乱れ一つない身のこなしで、ゆっくりとこちらを振り返る。 朝は、どこまでも静かだった。 あらゆる感情を塗りつぶしたような深い黒い瞳で、ただ、じっと私を見つめている。 心臓が嫌な音を立てた。 なんでそんな目で見るの。 なんで何も言わないの。 ねぇ何を考えてるの。 分からない。 理解できないことは、怖い。 怖くて、辛くて、イライラする。 恐怖、焦燥、そしてあの仄暗いモヤモヤ。それらは胸の中で黒く渦を巻き、私を惨めな敗者へ叩き落とした「勝者」への、昏い執着へと姿を変えつつあった。
メリーさん。 都市伝説の一つ。 突然電話がかかって来て、こう言われる。 「あたしメリーさん。今、○○駅にいるの」 電話は切られ、またかかって来る。 「あたしメリーさん。今、○○スーパーの前にいるの」 「あたしメリーさん。今、△△ってアパートの前にいるの」 「あたしメリーさん。今、×××号室の扉の前にいるの」 電話がかかってくるたびに、メリーさんは近づいてくる。 どこへ逃げようと。 どこへ隠れようと。 そして最後の電話で、こう言われる。 「あたしメリーさん。今、あなたの後ろにいるの」 「誰よ、その女!!」 「ギャー!」 「人がお風呂に入ってる間に、他の女を部屋に連れ込むとか信じられない! クズ! 死ね!」 「待て、誤解だ!」 背中を刺されたメリーさんは、そのまま倒れて動けなくなりました。 「あ、あたしメリーさん。至急、救急車を一台お願いするの。場所は」
翼を私たちから取ったのは、見えない優しさね。 本当かしら。 翼がなかったら空へ飛んでいけないじゃ無い。 偶然かしら、鳥がもう居たわ。 永遠の寿命を私たちから取ったのは、見えない優しさね。 本当かしら。 寿命が有限なら『老い』に苦しむじゃ無い。 偶然かしら、こうして内向的になれたわ。 (完)
相川さんのことが好きで好きでたまらないッ。 もう朝から晩まで考えてる。 俺のそんな気持ちを知っているのは親友の高木だけ。 「そんな好きならコクっちゃえよ」 高木が煽る。 それができるなら、こんな風に悩んでない! 「やー、だから勢いだって。あれ、壁ドンっての? 最近流行ってるらしいし、やってみたら? お前結構かっこいいんだしよ?」 自分でいうのもなんだけど、自分の見た目はちょっと自信がある。 「こー、萌えるシーンっての? 夕方とかに呼び出して?」 俺はとうとう高木の悪魔のささやきに耳を傾けてしまった。 というか、高木が勝手に呼び出しのラブレターを相川さんの靴箱に忍ばせたのを後から知った。 そんなことされたら、後に引けないじゃないか! 糞っ高木め! バクバクと高鳴るを気持ちをおさえながら、オレンジ色の夕日が差し込む校舎の裏に足を向けた。 そしてそこには……相川さんがもじもじしながら待っていた。 足が震える、肩があがる、俺がもし汗っかきなら多分汗だくだ。 俺は相川さんの前に立つ。 顔を上げた相川さんと目が合う。 心なしか、照れているように、みえなくもない。 夕日で赤く染まった顔がとてもきれいだ。 よ、よし、壁ドンだな! 勢いだな!? ドンッ! その勢いで、俺の目玉が零れ落ちた。 相川さんは気絶して倒れた。 あ……。 俺はその日、教訓を得た。 『ゾンビは壁ドンをしてはならない』
夢を見ていた。 幸せな夢だった。 皆何かしら問題を抱えていた。 しかし、今を楽しむのに必死で、 ただ過ぎる時間も忘れて、 皆で遊ぶ日々を過ごした。 学校が終わると、街を一望できる高台の公園に集まった。 空を茜色に染める夕日。 人一人いないかのように見えるほど小さな街。 それが僕の目には嫌なほどに美しく見えた。 どうしようもなく泣きたくなった。 後も先も何も考えず、全てを忘れてただひたすらに楽しかった。 幸せだった。 ある日の下校中、なんでも一つ願いを叶えるという青い花の噂を耳にした。 僕はそれが気になって仕方がなかった。 みんなと遊んでいる間も脳裏にその花が浮かぶ。 僕は気がつくと友達の一人の腹を裂いていた。 出来るだけ長く生きていられるよう丁寧に。 もうすでに死んでいるかもわからぬまま、僕は力の抜けた手で、無我夢中に内臓を取り出していく。 この目で確かめていく。 青い花とは人の臓物であるらしい。 憎いあの人にこの一輪の青い花を贈りたかった。 僕は問題を抱えていた。 そんな夢を見ていた。
「お、今年節約できてるじゃーん。頑張ったなー、俺」 家計簿に並ぶ収支プラス。 新年の抱負を早くも達成できていると、夫はご満悦だ。 しかし、私は知っている。 酔った夫の居酒屋梯子癖を。 二次会三次会に行った記憶など残ってなく、レシートももらっていないことを。 要するに、家計簿に書かれていない支出が多いのだ。 そして月末。 「ぎゃー! 財布の中にお金がない! 盗まれたか!」 案の定、夫は発狂した。 何回もお札を数えて、何回も家計簿を見直している。 「アホたれ」 時計を見るとまだ朝五時だったので、私は二度寝を決め込んだ。 夫がこの黒字トリックに気づけるのは、いったい何年後の話だろうか。
心は、目には見えない。けれど、そこにある。 忘れないで、君はひとりぼっちじゃない。 君を必要とする人が、必ず、そばに居るよ。 大切なものは、お金でも、お宝でもない。 君を必要としてくれる誰か、君のそばにいる人達、君に何気ない日常会話をしてくれる誰か… 失ってから、気がつくんじゃ、遅いんだ。 その人達と過ごす、日常が、何よりも、心の拠り所なんだから。
この薄暗い部屋に閉じ込められて、一月が経った。部屋の中は質素な造りだが、ベッドは意外にも上質なマットレスで、シャワーとトイレも完備してあり、生活するには申し分ない。食事は野菜などの彩は無いが、三食差し入れられる。 堪えがたいことは、娯楽が少ないことだ。テレビやパソコンが無いのは勿論、所持していたスマートフォンも取り上げられている。何故かカバーを外された本だけは差し入れられるが、異常な状況では読む気力も湧かない。言わば、生きる楽しみを見いだせない空間。 犯人はわかっている。目の前にいる女だ。 「どうしてこんなことをするんだ」 鉄格子の向こうにそう詰問すれば、女はいつも困った様な表情をするばかりだった。 彼女のかつての交際相手に相談を受けたのが、出会いのきっかけだった。曰く、彼女は相手に尽くすタイプの女性で、しかしそれに際限が無い。ノイローゼになった彼が逃げ出し、身近にいた自分が次の寄生先として選ばれた。 意外にも彼女との生活は悪くはなかった。容姿は華美ではなく、常に地味な服装だったが、むしろ奥ゆかしく好感が持てる。流行の話題には疎いが、古文や歴史に造詣が深く、博識深い。聞いていた異常性を置いておけば、所謂大和撫子そのものだったのだ。 うまくいっていたはずだった。この場所に監禁されるまでは。 あの日は雪が降っていた。寒さに身を震わせ、数か月後に来る春を思い、道すがら在原業平や西行が詠んだ句について語った。 「和歌に詠まれる桜は、どうしてこうも魅力的なんだろう」 「昔は、今よりも目に入る色が少なかったですから、桜の初心な色ですら、貴重な彩、だったのでしょう」 「成程。そもそも現代とは環境が異なるか。僕もいつか全身で感激するような桜を見てみたいものだ」 「ええ、そうですね」 そんな些細な夢も語って、彼女も微笑んでいたというのに。 当夜、勧められるまま深酒をしてその後の記憶がない。目が覚めたらこの部屋にいた。初めは激昂して、それから諭すように、ある時は懇願に近い声色で、どんな言葉で尋ねても、彼女の答えは無いか、曖昧なものばかりだった。 彼女は、僕の思いを試しているのか? 監禁という行為が生み出す歪んだ関係性。被害者からの依存性を期待しているのだろうか。彼女の目的は、ただこうして廃れていく僕を、籠の外から眺めて居たいだけなのかもしれない。 薄暗い部屋で、食事と睡眠の数を数え、もう二月も経った。ひたすら薄暗闇の日々が続いたのだ。段々と、自分の中の何かがすり減っていくのを感じる。 「なあ、今日でもう二月だ。あんたはいつまでこんなことをするつもりなんだ?」 辛うじて、まだ忘れていなかった声と言葉で問いかける。どうせ返事は無い。宛てのない言葉は、壁の中に消えていってしまうのだろう。ただの独白だ。 そう自嘲しながらも、久々にあの困った顔つきを拝んでやろうと、俯いていた顔を上げた。彼女の唇が動いた。 「あと、二週間、くらい?」 食い下がるべきだったろうが、驚き、言葉が出ない。明確に期限を口にしたのはこれが初めてだった。彼女に何の変化があったのか。 その日を皮切りに、彼女は、毎日私の言葉に返事をするようになった。 「もうちょっと、今日は、まだ」 「まだ早いの、だめ」 「きょ、今日は、雨が降ったから」 ある日、聞きなれない金属音と共に、いつもとは異なる微妙な風の流れを感じた。ひた、ひた、と足音が近づく。顔を上げると、鉄格子の向こうの彼女が傍にいた。 「あの、これ」 差し出されたものは、黒いアイマスクだった。付けろというのだろうか。視線で問いかけても、困った表情をするだけだから、望まれるままに装着した。手を引かれ、立ち上がる様促される。僕は彼女のするまま、素直に従った。 「どこに向かっているんだ」 答えのないまま、歩いた。あの仄暗闇から解放されるのならば、どこでもいい。僕はあの薄暗い部屋を出たのだ。 途中から、足の裏に感じていたものが、コンクリートよりも柔らかい感触に変わった。風にのって、土と草の匂いがする。 「取ります、ね」 もう随分歩いたと疲労を感じ始めた頃、ふと立ち止まって彼女は言った。 髪が巻き込まれ頭皮が引っ張られたが、些細な問題だった。 流れ込む光の束に、すぐには目を開けなかった。ゆっくりと瞼の裏に馴染ませ、恐る恐る開いていく。 色の洪水だった。失くしていた色、求めていた色、知っていたはずのものが、未知のものに見えた。背丈を優に超える幹は、大地の色を吸い込んでいる。風に舞い散る花びらには、一枚一枚色があった。全て、異なる色なのだ。 言葉にならない僕に、彼女は嬉しそうに笑った。久しぶりに見た笑顔だ。僕は、彼女が僕を閉じ込めた理由を悟った。後はただ、手を握り締めて、桜を眺めた。
夫は配達の仕事をしている。 夫は配達の途中、佐藤商店に立ち寄るのを少しだけ楽しみにしていた。五十代のご夫婦が切り盛りする小さな店は、いつも穏やかな空気に包まれていた。子どもに恵まれなかったという二人は、夫を「息子みたいなものよ」と笑い、温かく迎えてくれる。 仲の良い夫婦。 少なくとも、表向きは。 夫の違和感は、奥さんの話から始まった。 ある有名な選手の熱烈なファンで、その選手が自分を愛していると本気で信じているらしい。SNSには年齢を感じさせない写真を載せ、彼への想いを綴る。 「彼は、私にだけ違うの」 そう言って奥さんはスマートフォンを胸に抱いた。 「誰にも言えないことを、私には話してくれるのよ」 その言い切り方に、根拠はなかった。 画面に映るメッセージは、丁寧で、優しく、どこか感情に寄り添う言葉ばかりだった。夫は微かな違和感を覚えた。 奥さんは過去のことを、ある日ぽつりと話した。 若い頃、夢を追って上京したこと。評価されず、地元に戻ってきたこと。 結婚は恋愛ではなく、お見合いだったこと。 「好きとか、選ばれたとか……そういうの、最初からなかったの」 “仕方なく”決まった結婚。 「悪い人じゃないのよ。でもね……最初から私は“代わりのきく人”だった」 さらに追い打ちをかけるように、望んでも子どもが授からなかった。 「みんな、当たり前に持ってるものを、私は何一つ手にすることができなかった」 そう言って遠い目をしていた。 「私ね、"特別"になりたかったの。」 奥さんのその言葉には、執着に近い確信があった。 誰からも選ばれなかった人生で、たった一人に選ばれているという実感。それだけが奥さんの支えのようだった。 だからこそ、SNSの中の彼は特別だった。 誰もが憧れる存在が、自分だけを見ているという構図 奥さんには、彼が強く輝いて見えた。 最初は軽い気持ちで「いいね」を押しただけだった。 ——君の言葉は、他の誰とも違う ——君は特別だ ——君だけが分かってくれる 奥さんは、送られてくるその言葉を何度も読み返したという。 「ねえ、分かる?“特別”って言われるの」 夫は答えられなかった。 ある日、奥さんは困ったようにでも嬉しそうに夫に言った。 「彼の"特別"になるって大変ね」 その瞬間、夫の背中を冷たいものが走った。 帰宅後、夫は妻に佐藤商店の話をした。 妻は黙って聞き、静かに言った。 「それ……何かの詐欺じゃない?」 夫の脳裏をよぎっていた言葉を妻も口にした。 妻と夫は調べてみた。 奥さんが見せてくれたアカウントには公式認証がなく、フォロー数やプロフィールなどに違和感を受けた。 愛情を示し、特別感を与え、孤独につけ込む。 ロマンス詐欺の典型的な手口。 翌日、佐藤商店へ行ったとき奥さんはいつもと変わらない笑顔で言った。 「最近ね、少し返信が遅いの。 でも……忙しいみたいだから仕方ないよね」 夫は何も言えなかった。 真実を突きつけることが、彼女を救うとは思えなかった。 そして、ふと気づいた。 旦那さんは、その話題になると必ず席を外す。 知らないのではない。知っているのだと思った。 帰宅後、夫は妻に再び佐藤商店の話をした。 妻はしばらく黙り込んでから言った。 「それ……もし誰かが現実を突きつけたら、どうなると思う?」 夫は答えられなかった。 あの奥さんにとって、妄想は逃避ではない。 唯一の自尊心だったからだ。 その日はたまたま近くを通りかかった夫。せっかっくだからと佐藤商店に顔を出した。 夫は何気なく旦那さんの手元を見た。 ガラケーではなく、見慣れないスマートフォン。 旦那さんは慌ててスマートフォンを隠した。 その瞬間、すべてが繋がった。 旦那さんは、奥さんを誰よりも理解していた。 しかし一度も"特別"だと思えなかった妻。 そして、自分もまた—— 「選ばれていない男」だったことを知った。 お見合いで始まった結婚。 とはいえ旦那さんは奥さんの事を愛していた。 だから旦那さんは、有名人になりすました。 妻が絶対に疑わない存在を演じた。 妻が欲しがる言葉を、正確に与え続けた。 奥さんは誇らしげに言う。 「私は、あの人にとって特別なの」 奥さんは、何も疑っていない。 信じているのは、画面の向こうの言葉だけだ。 穏やかな店、優しい夫婦、温かい言葉。 その裏で続いているのは、 愛するために人格を捨て、 妻の幻想を壊さぬために現実を歪め続ける関係。 次に佐藤商店へ配達に行くとき、夫は二人の顔を直視できないだろう。 そこには、救いの形を間違えた末に辿り着いた、 取り返しのつかない愛の形があるのだから。
「ただいまー」 お父さんが帰ってきた。 今日は、お父さんの誕生日だ。 「お帰りー! ケーキ!」 ぼくは玄関で、お父さんからケーキの入った箱を受け取って、すぐに冷蔵庫へいれた。 冷たくないケーキは美味しくないから。 晩ごはんの間も、わくわくそわそわ。 テレビを見るのも忘れ、わくわくそわそわ。 「ご馳走様! ケーキ!」 誰よりも早くご飯を食べて、お母さんの服を引っ張った。 お母さんはケーキを冷蔵庫から出して、包丁で家族分切り分けてくれた。 ぼくはすかさず、一番大きいケーキをとる。 「いただきます!」 ケーキ、ケーキ。 美味しいケーキ。 誕生日は、ケーキが食べられるとってもいい日だ。 なんだかお父さんは悲しそうな表情をしているけど、ケーキが好きじゃないんだろうか?
冬休み明け、学校に行く。 ずっと暖かい家の中いたからか外がすごく寒く感じた。 待ち合わせてた友達と合流し、学校へ向かう。 その途中、理科の宿題を忘れたことを思い出した。まあいいや。 友達とおみくじの話で盛り上がっていると学校に着いた。 教室に入ってみんなに挨拶をする。 「ゆう、恋愛運どうだった?」 友達が聞いてきた 「“好きな人と話せるでしょう”だった!」 「おー、いいじゃん」 そこでもまたおみくじの話で盛り上がった。 君はまだ来ていなかった。 朝のホームルームの五分前に君は登校してきた。 はねている寝癖がかわいかった。 セーラー服のリボンも髪も結んでなかった。 ホームルームも始業式も終わり、休み時間になった。 本当は君とおみくじの話で盛り上がりたかった。 けれど君に抱いている感情が邪魔をして話しかけられなかった。 休み時間が終わり、係決めの時間がきた。 私は学習係になった。君は理科係になっていた。 短い学校が終わり、明日から授業が始まる。 今日も大好きな君も話せなかったな、と悲しくなっていたそのとき。 「ゆうちゃん、理科のワーク出した?」 セーラー服のリボンと髪を結んだ君が話しかけてくれた。嬉しかった。 「忘れちゃったんだよね。」 君にそういった。 「おっけ、私も忘れっちゃった」 君はそう言ってはにかんだ。 その笑顔は幼いときに見たピンクのビオラに似ていた。 「ゆうちゃん、ばいばい」 君はそう言った。名前とバイバイを言われたことが嬉しかった。 「すみれちゃん、ばいばい」 君に言い返した。 久しぶりに君の名前を呼んだ気がする。
暗闇の中、墓場の中でうごめく黒い影。 ――何してるんですか? 声をかけると、あわてふためいたように人影はしゃべった。 「あの、違うんです! これは……」 その声は男のものだった。男の足元には穴があって、穴の中には棺があって、棺の中はカラッポだった。隣には、墓の主であろう人の遺体が横たわっている。……これは、まずいな。 そそくさと立ち去ろうかと思いきや、「本当に違うんです!」と男の悲鳴。 曰く、男は亡くなった人の霊を見ることができる。 曰く、死者の霊は当人の死んだ身体に留まっており、その場から動くことができない。 そのため、男が遺体を持ち運ぶことで、死者の霊を行きたい場所に行かせ、見たい風景を見せてあげる。すると、生前の未練が果たされ、死者の霊は本当の意味で安寧の眠り、いわば『成仏』できるのだと。 「だから、その、これは、いわゆる人助けであって! 墓荒らしとかではなくて! いや、でも、誰かのお墓を掘っちゃってる時点で、だいぶヤバい奴かもしれないんですけど……それはそうと、ぼくは、けっして犯罪するつもりとかじゃn」 ここから先は、よく覚えていない。というか、正しくは、まともに聞いていなかった。 あまりにも必死に弁明されるものだから、まるでこっちが悪者のような気がしてきて、そうこうしていたら本当にもうどうでもよくなってきて……。とりあえず、仕方がないから男を見逃してあげることにした。そんなわけだけど。 気づいた時には既に、俺は男と行動を共にするようになっていた。俺は、男のように死者の霊が見えるわけでもないから、ただ男がせっせと他人の墓を荒らして、他人の遺体を持ち出して、それから遺体をもとの墓へ戻しに行くところを見守るだけだった。 男と一緒にいるようになって気づいたのは、彼がとんでもない“おひとよし”だ、ってこと。 ただでさえ、大きな手術をしたばかりだってのに。いつ自分が捕まるかも分からないリスクをしょってまで、わざわざ死んだ人間の未練タラタラを晴らしてあげようだなんて。俺には到底、そんなことは思えない。 あれから、もう何日が経ったのかさえ、俺はよく覚えていない。ただ隣にいる男は、あの頃よりも少しだけ老けているようで、俺たちが今いる場所は青い青い海だってこと。 ――おまえ、すっかりじいさんだな。 「そういう君は、出会った頃からなんにも変わってないね」 そりゃそうだろ。って、鼻で笑ってみせる。 男は笑ってくれた。いつものように。 「もうこんなだから。そろそろ、遺体を持ち運んだりするのはやめにしようかと思う。こうも死者の霊にばかり付き合ってもいられないさ」 ――やっと、その気になったか。 俺は深く深く安堵したつもりだったけど。そんな自分の声が、わずかにふるえていることにも気づいていた。どこから来たのか分からない、戸惑いと恐れ。 「ぼくはね、ずっと友達が欲しかったんだよ。まるで家族みたいな、いつでもどこでも一緒にいてくれる。そんな存在がほしかったんだ」 ひっくひっく。と、カモメの鳴く声が聞こえた。いや、これは誰のなき声か。 「医者から臓器移植を提案された時、ぼくは思ったんだ。もしかしたら……って。これが死ぬ前の、一度きりのチャンスだった」 ひっくひっくひっ、ひっく。 自分から鳴るしゃっくりがうるさい。でも、どうしようもなく本能が叫ぶから。 あるはずのないノドを必死にかきむしった。痛くていたくて。でも、止められない。 でも、それでも良いのかもしれなかった。それでとめどなく涙があふれてくれるのなら、忘れかけた温度だって、たぁんと感じられるはずだから。 男は笑っている。今にも死にそうな顔で笑っている。 あぁ、俺、ほんとは安心したくなかったんだ。きっと、どこかで恐れていた。彼の、今、あの笑顔を見ることに。 「君が望むところは?」 たずねる彼の声は、ひどく優しい。こんな時まで誰かのためであろうとする彼に、俺は何もしてあげられない。 ――困ったことに、昔のことはとっくに覚えてないんでね。 それでも、おまえは海に行った。花畑に行って、町の外れにも行って、深いやぶの中だって平気そうに行ってくれた。そのおかげで、俺はいろんな景色を、この目で見ることができたよ。 じょじょに精神の落ち着いていく自分がいる。本当の意味で安堵していく自分が。 俺は、これから再び眠るのだろうか。次に俺が目を覚ますところは極楽だろうか。その時、俺の隣には誰か。 ――そうだなぁ…… じゃあさ、あともう少しだけ、ここにいよう。二人で一緒に、カモメの鳴く声でも聞いていよう。 あっ、ほら! カモメがもう一匹、増えたぞ! これじゃカモメの合唱だな。
夜風も暑苦しくなってきた、金曜日の夜。山吹色の浴衣を着たアイは、エレベーターでマンションの駐車場に下りた。すると、車の陰から茶トラの雄猫が姿を現した。 「やっと来た! アイもそろそろ夏休みでしょ? 森に帰ってきなよ」 「お盆休みはまだ半月後! ウチはマサ兄と違って仕事があるの」 「マジ? 人間忙しすぎだろ」 トラ猫は呆れたようにそういうと、次の瞬間には黒い浴衣を着た青年の姿に化けていた。髪は明るい赤毛で、吊り目の瞳は緑がかっている。けれど顔立ちが素朴なせいか、あまり目立つ風貌ではなかった。 そんなマサを兄にもつアイも、人間に化けている猫だ。働いているので三毛柄だった髪は黒く染めたが、目はどうやっても隠せない。好奇心いっぱいにキョロキョロ動く緑がかった目は、兄と違ってパッチリしていてよく目立つ。なので毎日嫌々黒いカラコンをつけて出社しているのだった。 「いやー、でもマジで久しぶりだよね。アイが森を出てから……4ヶ月?」 「あれ、まだそんくらいだっけ? 長く感じたなぁ」 「せっかく会えたしさ、森でなんか遊ばない? 鬼ごっことか」 マサは若い雄猫らしく、動きたくてたまらないようだった。そんな精力に満ちた目を、アイは一瞥してため息をつく。 「いや、それはないよ。ウチ、金曜でクタクタなんだけど。マサ兄が呼んできたから来ただけだし」 「冷た〜。俺、せっかく新しい術見せようと思ってたんだけどな〜」 「え、なんかできるようになったの⁉︎」 「見せてやろっかな〜、どーしよっかな〜」 「見せて見せて! お願い!」 アイはさっきの気だるさは何処へやら、元気いっぱいにそう言った。マサはニヤッと笑って落ち葉を一枚拾った。 「しゃあねぇな〜」 ぽん、と煙が出たかと思うと、葉っぱは紙人形に変わっていた。マサはブツブツと呪文を呟く。猫は狐狸ほどではないが妖力を持っているので、実は人間のように唱える必要はないのだが……アイはそんなこと知らないし、マサはかっこよくて気に入っているので、いつもこうなのだった。 紙人形はするりとマサの手を抜け、ひらひらと落ちていった。すると、人形の足が地面についた途端、紙がぴたりと動きを止めた。そして、子供のようによたよたと歩き出したのだ。 「え、すごい! 歩いてる! やだ、どうやってんの? ねぇマサ兄……」 アイは感激して大騒ぎした。が、その途端に紙人形はふらつき、ぺたりと倒れてしまった。マサは舌打ちした。 「あーもう、うるせぇな! 集中力切れるだろ!」 「は? ウチせっかく褒めたんだけど!」 「もっと静かに褒めらんないの?」 「マサ兄ウザい!」 わぁわぁ騒ぐ二匹の兄妹を、細い街路樹が静かに見下ろしている。その葉をそよがせる夏の風は、かすかに故郷の森の匂いがした。
端をめくると、彼女は今日もらった御朱印の押されたページに驚嘆した。大胆な墨跡が、鶴の群れのように御朱印の中を優雅に飛び立っていた。冬の光で黒さが輝き、書に魅惑的な効果を与えていた。見るたびに、彼女は静けさと内省を感じる。突然、カンカンという金属音が彼女を引き戻す。見慣れない神社の前にいることに気づき、驚いた。 雪に覆われた石の鳥居の先には、小さな神社へ続く階段がある。かつて神社に塗られた真っ赤なペンキは、今では白い雪に色褪せてしまっていた。その欄干では、冷たい風にボロボロのお札が静かに揺れていた。 彼女はかすかなガサガサという音を聞く。それに共鳴するかのようにカンカンという音が再び鳴る。フェイクファーのマフラーを直し、着物の裾を引き上げ、神社の境内に足を踏み入れた。自分が発見するかもしれないものに彼女の好奇心は刺激された。周りを見回すと、雪の中に奇妙な足跡があった。それが彼女をさらに奇妙な生き物へ導いた。 それは鱗で覆われた魚の体をしていたが、4つの爪のある足で動き回っていた。頭は神社の青銅の鰐口のようで、短い歯が並んでいる。お札に激しく噛みつき、引き裂こうとしていた。お札がついに破けると、それはリスのように走って雪の森の中に消えていった。 彼女はそれが戻ってくることを願いながら辛抱強く待っていた。すると、それは叶った。今度は子犬ように彼女へ一直線に向かってくる。しかし、ガチガチと金属音を立てながら口を開閉し、彼女に突進して手から御朱印帳を奪った。肉を引きちぎろうとするワニのように激しく御朱印帳をズタズタにした。 彼女は身の危険を感じて逃げ出した。鳥居を駆け技けたとき、カンカンという金属音が冷たい空気に響き渡った。それから彼女はただ黙って放心状態でそこに立っていた。 再びカンカンという音。夢から覚めたかのようにまわりを見渡すとバス停の前にいた。手には破れた御朱印のページがまだ残っていた。
発狂したくなる夜がある。心に足が生えて私の胸を突き破り遠くまで走って行ってしまいそうになる。そんな夜だ。 そういう夜は、いくら小説を読んだって上の空だ。目だけが文字の上を滑っていく。気がつけば物語が進んでいて、数ページ前に戻る。これを何回も繰り返す。 人生も一枚二枚めくったら戻れるといいのに。 朝家を出るときにイヤホンを忘れた。初めてのことだった。神様のお告げだろう。そんなことを考えて取りには戻らなかった。 別に聞きたい音楽もなかった。 会社に向かう電車の中では、朝だからか、読書にとても集中できる。あっという間に最寄駅に着いてしまうから、別にイヤホンがなくても苦痛ではない。 問題は帰りだ。 仕事終わりの読書は、文字が崩れて形を成さない。文章を追っていくのがやっとで、意味がついてこない。 そういうとき、いつだって本を投げつけたくなる。なんだか自分だけこの世界に取り残されてしまった感覚になる。 音楽を聴くと和らぐ。そのときに聞きたい曲ならなんでもいい。とにかく音を流す。 今日はそれができない。読書していても、意味を告げない文章たちが私に襲いかかる。私を除け者にする。 目の前にカップルが3組いる。何を喋っているのかはわからない。楽しそうでもあるし、それが当たり前という顔でもある。 つがいでいる人を見ると、私の周りだけストンと地面が落ちた錯覚に陥る。別にそんなことはないのに、この人たちはみんな私のことを囁いているのではないか。 小説までも私を受け入れてくれない。 こうなると電車の外を見るしかない。見るしかないのに、外は真っ暗で何も見えない。 慣れない場所で眠るときのような不快感がある。 でも、なんとなく、本を閉じるのは躊躇われるから、仕方なく読み続ける。読んで逸れて戻ってを延々と繰り返す。 スマホの画面を見るが通知は何もない。それが心を落としてしまった感覚にする。 叫びたい。月も星も見えない空に向かって叫びたい。でも私の口から漏れたのは、水気を帯びた白い吐息だけだった。
最初の綻びは、入学直後に行われた学力テストだった。 この学校ではテスト結果のうち上位10名の名前を廊下に貼り出すシステムがある。理由は学年主任の先生の意向だかなんだか…といっても私は廊下に数十人が溜まっているのを見て野次馬根性で近づいた時に気づいたのだが。 ぐぐと背伸びをしながら表に目を走らせる。 (お!あった) 私の取った点数は82点。第2位の欄に名前があった。まさかここまで高得点とは思っておらず笑みがこぼれる。しかしすぐ上の1位の欄を見て、驚きで口がアガッと開きっぱなしになった。 『1位 齋藤 朝 98点』 朝の名前がそこにあった。 しかも2位の私より16点以上の差をつけて。 頭がいいんだろうなとは思っていたが、まさかここまでとは。 呆然としながら辺りをキョロキョロ見渡すと、人混みの中に彼女の姿を見つけた。 表を見つめるその横顔には何の感情も浮かんでいない。1位を獲った喜びも、満点を逃したという悔しさも何ひとつ。朝は数秒見た後に私の後ろを通って廊下を歩いていった。 顔がピクっと歪んだ。 なんだあのポーカーフェイス。あんなに良い点取ったのになんであんなにつまんなそうな顔なのさ。こっちはアンタより16点も下でガッツポーズ取ったんだぞ。 身勝手だとは分かっている。 分かっていても、どうしても心に宿った仄暗いモヤモヤはしばらく消えてくれなかった。
有る箱の中は透明で中を覗けば沢山の絵文字の 様なキラキラ笑顔が溢れて皆楽しげな雰囲気を 纏いながら幸せそうに踊る様子を眺める内私も 仲間に入れるか否か手鏡を覗けば顔文字の様な 私が鏡の中で幸せそうに微笑んだ未だ何も変化 無い毎日だけど何故か微かな現実と希望が鏡の 向こうで微笑んだのは気の性じゃ無いと思えた
息子の大地が「今度、彼女を家に連れてくる」と言ったのは、夕食後の何気ない一言だった。 味噌汁をすする手が止まり、私は思わず聞き返した。 「えっ、いつ?」 「来週の日曜」 さらっと言って、彼は冷蔵庫から麦茶を取り出す。まるで天気の話でもするような調子に、拍子抜けする。 来週の日曜まで、たった一週間。私だけが浮き足立っていた。 家の中は散らかっていないかしら。玄関の花は枯れてなかった? 客用の茶碗はどこに仕舞ったっけ。お菓子は? お昼はどうしましょう。 頭の中で次々とリストが浮かぶ。まるで学生時代の試験前に戻ったようだ。 「佐和子さん、そんな顔しないの」 義母のふみさんが、湯呑を片手に笑っている。 「あなたも昔、初めてうちに来たとき、緊張でガチガチだったじゃない。 必死に笑顔作って」 確かに。 三十年前、初めてこの家を訪れたとき、私は完璧な「良い娘」を演じていた。料理上手、礼儀正しく、控えめで。 本当の私は、そんなに器用な人間じゃないのに。 「お義母さんだって、最初は優しい姑を演じてたでしょう」 私は負けじと返す。 「あら、バレてた?」 ふみさんはケラケラと笑った。 初めて会った時のふみさんは、今よりもずっと上品だった気がする。出てきた料理はまるで高級割烹のようで、畏れおののいたものだ。 今ではすっかり本性を現して、私と漫才のようなやりとりをする仲になってしまったけれど。 「まーたふたりでじゃれてる……」 読んでいた新聞をたたんで、夫の一雄がため息をつく。こんな調子で三十年、嫁姑漫才も見飽きたという顔だ。 「お父さんだって、初めてうちに来たとき、猫かぶってたくせに」 「やめてくれよ、もう三十年も前の話だ」 ふみさんは、ふふんと鼻を鳴らして湯呑を置く。 「私が三十年前に味わった気持ち、あなたも味わいなさい」 「……それ、脅しに聞こえます」 「母親ってそういうものよ。 息子の『彼女』が来るとなったら、誰だってそわそわするでしょう」 「楽しみでもあり、怖くもあり、ですね」 私は笑いながらも、心の中でふみさんの言葉を反芻した。 実のところ、非常に複雑な気持ちだ。嬉しいような、寂しいような。息子が大人になって、自分の人生を歩み始めている。 ふみさんも同じだったんだろう。愛する息子を他人に盗られるんだ。 でも、ふみさんは私を実の子のように扱ってくれた。叱るときは本気で叱る。私が言い返して夫がおろおろしていても、なぜ叱るのか、理由を述べる。 『嫁』ではなく、一人の大人として扱ってくれたのだ。 よその人と話していても、「うちの嫁」なんて言わない。必ず「佐和子さん」と言ってくれる。いわゆる嫁姑バトルとは縁遠いのかもしれない。 だから、私も「ふみさん」と呼ぶ。 「……おもてなしって、他人だからできるのよ」 「ですよねぇ」 『おもてなし』って、ただ掃除してご馳走を用意することじゃない。 息子が選んだ人を、息子の未来ごと受け入れること。 そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなる。 それでも不安は消えない。 どんな娘さんなんだろう。明るい子か、静かな子か。料理が得意? それともキャリア志向? ふみさんは、もう結婚が決まったかのように目を輝かせた。 「どんな娘さんが来るのかしらねぇ。楽しみだわ」 私は苦笑いするしかなかった。 来週の日曜日。どんな「おもてなし」になることやら。 でも、ありのままの私たちを見てもらうのも、悪くないかもしれない。そう思えるようになったのは、三十年間、この家族で過ごしてきたからだろう。 窓の外では夕焼けがゆっくりと色を変えていた。
起きたら、全てが変わっていた。 母も父も別人で、家も身の回りのものまで全部が私の知らないものになっていた。 けれど、昨日まで生活をしていた痕跡があって、カレンダーには今日や明日の予定が書いてある。私ではない筆跡で。 もしかして、知らない人の家で寝ていた? そんな訳はない、父も母も私の名を呼ぶ。まるで元から私の母と父であるように、下の名前を軽々と呼ぶ。 ならば何故、私には昨日までの記憶がごっそりないんだ? 四年前の七月までの記憶はハッキリとあるのに。 ……ねぇ夜入(よいり)。 え? 誰? ……詩人(しじん)よ。覚えてる? というか、あなた自分の病気を忘れたの? え? 遡ること、四年前。私は酷い虐待を受けていた。ご飯はなくて、風呂は春も夏も秋も冬も全て冷水で入らなければならなかった。父からは性的暴行を受けたし、母からは純粋な暴力を受けていた。 心も体もボロボロで、何もかもが嫌になって、死ぬつもりだった。けど、包丁を手にした途端意識が消えた。 ……そう、アタシが阻止してあげたのよ。まだ幼い子が自分自身に刃物を突き立てるなんて、見てられなかったの。 …僕も怖かった。死ぬのが。 詩人の声が聞こえ始めてから、多くの声が聞こえるようになった。まるで、教室みたいに騒がしくて、昔に戻ったみたいで、嬉しかった。 ……そうだ、今まであなたの体をずいぶん好き勝手しちゃったわ。ごめんなさいね。 アタシ、このままあなたが目を覚さないと思っちゃってね、前のお父さんとお母さん捨ててきちゃったの。全部を新しくしてしまった事、本当に申し訳なく思うわ。 いいんだよ詩人。 そう、今思い出した。 解離性同一性障害。俗に多重人格症とも言われる病気を私が患っているということ。 詩人、詩葉(うたは)、陸、海、空、陽入(ひいり)、冫(ひょう)。 もっともっと私の中には沢山の人格がいる。 基本人格の私を含めて、主人格の陽入、未就学人格の冫(ひょう)丶(てん)もいる。 私はまだ十四歳。まだまだ生きなきゃいけない。詩人やみんなが繋いでくれた命。皆んなが共有しているこの命を消すわけにはいかない。
夫は配達の仕事をしている。 その配達先のひとつに、毎回やけに多くの商品を注文する男性がいるらしい。 吉田という名のその男は、 「在庫を切らすのが嫌でね。」 と笑いながら、必要以上の数を注文することで業界内ではちょっとした有名人だった。 夫の会社にとっては、ありがたい得意先だ。 だが、実際に配達に行く夫の感想は少し違っていた。 「この棚に補充してください。」 そう言ってから、吉田は一度棚を眺め、 付け足すようにこう言った。 「前回と、同じで大丈夫です。」 吉田に案内された棚は、いつもぎゅうぎゅうに詰め込まれている。 商品同士が押し合い、今にも崩れそうな状態で並んでいる。空きはほとんどない。 それでも夫は言われた通りに箱を開け、 入るだけ商品を棚に押し込む。 もちろん、毎回必ず余る。 「入らなかった分は、どうしたらいいですか。」 夫がそう尋ねると、吉田は棚を見つめたまま、 ぽつりと答えた。 「減ってないと、安心するんですよね。」 それから、はっとしたように夫の方を見て、 「……とりあえず、そこに置いておいてください。」 と、棚の下あたりを曖昧に指さした。 床に積まれていく段ボールは、次の配達の日にもほとんど手つかずのままだった。 その日の夜、夫は食事をしながら妻にその話をした。 「別に嫌な人じゃないんだけどさ。 なんていうか……無駄が多いんだよ。 商品を頼むときに在庫確認とか普通するでしょ。 なのに、毎回同じ量を同じペースで頼むんだよ。棚に入りきらないのに。」 妻は相槌を打ちながら聞いていたが、どこか引っかかるものがあった。 翌日、職場でその話を上司にすると、 上司は少し考え込むようにしてからこう言った。 「物に執着する人ってね、 物そのものを愛してるわけじゃないんだよ」 「じゃあ、何を……?」 妻は上司の言葉の意味が理解できなかった。 「“減る”のが怖い。 足りなくなることより、失うことの方がずっと怖いんだよ。きっと。」 そう言って、上司は湯呑みを持ち上げた。 「注文数を変えるということは、棚を商品で埋め尽くすことができないでしょ。 だから注文数を変えない。 毎回同じ数の商品が届けば、棚は常に商品で満たされたまま。」 妻は、夫の話していた吉田の話しを思い出していた。 棚から溢れそうな商品。 床に積まれたままの段ボール。 そして、夫が最後に言っていた、"いつもどこか不安そうに揺れる目"。 上司は、机の上に置かれた書類をきちんと揃えながら言った。 「“そこに在り続ける状態”。 数も、位置も、順番も、変わらないこと。 減らないこと。 動かないこと。」 その時は、妻はまだよく分からなかった。 数日後、夫の配達ルートが変更になった。 吉田の元へ行くのは、しばらく別の配達員になるという。 「別に問題ないだろ。商品は同じなんだから」 夫はそう言ったが、どこか落ち着きがない様子。 その日の夕方、夫の会社に一本の電話が入った。 吉田からだった。 「今日、商品が届いていません。」 事務員が説明すると、吉田は静かにこう言ったという。 「商品じゃなくて、 “置かれ方”が違うんです。」 後日、夫が聞いた話だ。 別の配達員が行ったところ、 吉田は受け取りの際、何度も棚を確認していたらしい。 「前は、この箱がここでしたよね。」 「順番、違いませんか。」 「床に置く向き、逆じゃないですか。」 そして、ぽつりとこう言った。 「前の人は、ちゃんと分かってた。」 その夜、妻は上司の言葉を思い出していた。 在り続ける状態。 変わらないこと。 吉田にとって、 商品は「使うもの」ではなかったのだ。 棚が常に満たされていること。 同じ人が、同じ手順で、同じ時間に置くこと。 それが崩れることが、 “失われる”ということだった。 それから数日後、夫が言った。 「……吉田さん、 “元に戻るなら、問題ないんです”って。」 「何が、元に?」 妻がそう聞くと、夫は少し黙ってから答えた。 「物の場所が、って。」 妻は、その言葉で全てを理解してしまった。 吉田が溜め込んでいたのは、 商品ではない。 “同じ状態が、永遠に続くという感覚”だった。 そしてそれを守るためなら、 物と同じように、 人もまた―― 元の場所に、 戻されるだけなのだ。
ある朝、目が覚めると俺は猫になっていた。 目線は明らかに低く、全身を覆う毛の感触がどうにも落ち着かない。 寝起きでただでさえ働かない頭に、この異常事態が追い打ちをかけてくる。 状況が理解できず、混乱するしかなかった。 試しに声を出してみる。 喉から出たのは――「ミャー」。 頭の中では乾いた笑いがこみ上げるのに、耳に届くのは甲高い猫の鳴き声だけだった。 少し落ち着こうと周囲を見渡す。 そこは見知らぬ部屋だった。 雰囲気からして、どうやら若い女性の部屋らしい。 カーテンは中途半端に開き、部屋は決して綺麗に片付いているとは言えない。 生活感の残るその様子から、飼い主の性格までなんとなく想像できてしまう。 この猫の飼い主はすでに起きているのだろう。部屋にはいなかった。 俺はベッドから飛び降りた。 自分の身長の何倍もある高さのはずなのに、着地の衝撃はほとんどない。 躊躇なく跳び降りた自分自身にも驚いた。 部屋から出ようとドアに向かうが、ドアノブに届かない。 こんなにも猫の体は不便なのかと思いながら、何度か跳びついてみる。 そのとき、廊下の方から足音が近づいてきた。 何か話しながらこちらへ向かってくる。 はっきりとは聞き取れないが、おそらくこの猫の名前を呼んでいるのだろう。 ドアが開いた。 そこには、二十歳を少し過ぎたくらいの女性が立っていた。 微笑みながら俺を呼び、自然な仕草で抱き上げる。 ――まずい。 完全に日本語を話しているはずなのに、言葉の意味がまったく理解できない。 焦りと不安が一気に押し寄せる。 そこでようやく気づく。 「ああ……俺は、猫だから人の言葉がわからないのか」 無理だと分かっていても、伝えたくなる。 俺は猫じゃない。人間だ。 そう叫び続ける。 でも、ふと思う。 本当に俺は人間だったのか? 俺の人間の頃の名前は? 思い出そうとしても、何ひとつ浮かばない。 さっきまで動き回って鳴いていた俺が急に静かになったのを見て、彼女は不思議そうな顔をした。 顔を近づけ、何かを優しく語りかけてくる。 今しかないと思った。 俺は全身に力を込め、思い切り叫んだ。 ……けれど、喉から出た音は、少し強めの「ニャー」だった。
5時間目の授業をまともに聞ける人間は、特別な体をしているとしか思えない。 お昼ご飯を食べた後の時間は、眠くてまともに過ごせない。 そうじゃなくても、僕はたいていの時間で眠い。 友達から、前に聞いたのと同じ話をされたとき。 姉の買い物に付き合わされて、無限に待っているとき。 太陽がポカポカしている間、自分の体がうまく操縦できなくなる。 早く帰って寝たいと、いつも思っている。 だけど、腹立たしいことに。 僕の「眠い」はいつも、完全に落ちるところまではいかなかった。 そして夜に限って、なぜか目が冴えて眠れない。 結局寝不足になって、次の日もまた眠かった。 うちのクラスには、高槻くんという秀才がいた。 目立たない顔をしていたし、隣にいるにぎやかな友達の添え物みたいな扱いをされていた。 でも、いつも後ろの席にいる僕は、彼がいつも姿勢よく授業を受けている姿を尊敬している。 その背中に隠れて、思う存分うとうとすることができるから。 ああいう人間は、きっと夜によく眠れるのだと思う。 いいなあ。 国語の教科書は好きだった。 自分で読むものを選ぶのは面倒くさいけど、押し付けられるものとしては悪くない。 でも、授業は眠かった。 10分で読み終わる話をテーマに50分も長々と引き延ばされたら、 題材がどんなに良くても5時間目の睡魔にはかなわない。 今日の授業の題材は、アリとキリギリスを意味もなく難しくしたような話だった。 アリは本当に、忙しく働いたぶんの元を取れているのだろうか。 美味しいところだけ、賢いキリギリスに奪われて終わるのではないか。 そんな感じ。 高槻くんはまさに、真面目な働き者のアリだ。 僕はその後ろで、日向ぼっこをするキリギリス。 あのにぎやかな友達は、もしかしたら賢いキリギリスかもしれない。 そんな姿を想像した後、その例えなら僕は冬に飢えて死んでしまうことに気づいた。 寒いのはいやだな。日向ぼっこのまま、目覚めないのがいいな。 「おーい? 遠山くん? おーい?」 彼の声を、初めて聞いたかもしれない。 「……あ、高槻くん。どーしたの?」 「授業終わったぞ。さすがに、いびきはまずいって」 「ああ、うん。怒られてた?」 「いや、呆れられてた。遠山くんはいつも眠そうだけど、ここまでがっつり寝るのは初めてだって。そういうキャラだからってみんな笑って流してたけど、さすがに6時間目もそれはまずいだろ」 病気なんじゃないかって、心配してくれたらしい。 6時間目の授業は、今までで一番頭に入ってきた。 高槻くんの景色は、きっとこんな感じなのだろう。 こんな風に、毎日過ごしてみたい。 帰りのホームルームのあと、僕は部活へ行く準備をする高槻くんに声をかけた。 「ねえ。5時間目を起きて生き残るには、どうしたらいいかな」 彼は目をぱちくりさせたあと、優等生らしく当たり前の返しをくれた。 「よくわかんないけど、夜にちゃんと寝ればいいんじゃないか」 「夜はあんまり寝れないんだ」 「昼に寝てたらそうなるだろ」 どうしようもなく、堂々巡りだ。 「休みに寝だめするしかないのかなあ」 「逆効果だって。そうだ、逆に昼間のうちに思いっきり疲れるとかはどうだ」 「えー?」 「思いっきり走るとか、友達と遊ぶとか。 俺なんか、ワタルのやつに振り回されっぱなしだから、夜一度寝たら朝まで全然起きない」 高槻くんの言っていることは正しくて、しかもきっとその裏側に気づいていない。 眠れない夜はとても長いんだ。 昼間できなかったことを、なぞり返す羽目になるから。 その日をなぞり返す隙間もないくらい起きているから、彼はちゃんと夜に眠ることができる。 やっぱりその日の夜も、僕は眠ることができなかった。 土曜日に、電車で少し遠くまで行った。 教科書に載っていたあの話の作者の本を、買いに行ってみた。 用事はきっと何でもよかったのだけど、それがちょうどいい感じがした。 街の本屋にはたくさんの本が並んでいて、選ぼうとする人を試しているみたいだ。 なんだか面倒くさくなって、適当に別の本を買ってしまった。 そのまま帰ったら開かずに終わる気がして、駅前の喫茶店で頑張って眠らずに読んだ。 内容は、眠れない少女の冒険。 まるで僕みたいな主人公だと思ったのに、最後のオチはすべて夢の世界だった。 ひどいや。 帰り道の電車で、うとうとと物語の夢を見た。 びっくりするくらい壮大な夢だったはずなのに、起きた時3駅しか進んでいなかった。 6時間目みたいに体が軽い。 もしかしたら僕は、いい夢を見るために起きているのかもしれないと思った。 ……ていうか、寝ちゃったよ。 きっと今日の夜も、眠れないな。
惑星は泡となる。 それは破壊ではなく、段階の移行だった。 球体は水に触れた瞬間から、その完全さを失いはじめる。表面を走る微細な振動。内部に閉じ込められていた気体が、逃げ場を探すように浮かび上がる。変化は急激だが、音は小さい。注意深く見ていなければ、始まりを見落とすほどだった。 観測者はそれを終焉とは呼ばなかった。 この宇宙では、形を保ち続けることのほうが、むしろ不自然なのだから。 惑星は崩れ、泡となり、境界を失う。内と外の区別は溶け、質量は意味を持たなくなる。残るのは、かつてそこに球体が存在したという、曖昧な記憶だけだ。 観測は数分で終了した。 結果は記録され、現象は再現可能と判断される。 そんなことを考えながら、私は色味かがった水面を眺めていた。 また、惑星は泡となった。