青春コンプレックス

 いつからだっただろうか。私の人生は、まるで靄がかかったかのように、薄暗く質素なものになってしまっていた。中高と華の学生時代を思い返すと、胸が痛くなるようでとても辛い。もう戻れないことが分かっているからこそ、こんなにも切なくなる。あの時は良かった。常に未来は希望に溢れていて、泣きたくなるほどに愛に守られていた。それなりに不安もあれば大変な思いもしたけれど、それすら今となっては輝いて見える。私はいつまで経っても、あの頃の自分に憑りつかれている。  だからといってもし、中高の学生時代をもう一度やり直すことができたとしても、私は絶対にあの場へ戻りたくない。一度目だからこそ、一度きりだからこそできることもあった。そういうものだ。  私がいま生きているこの瞬間だって一度きりのはずなのに、あの頃とまるで世界の見え方が違うのはなぜだろうか。「どうせ夢を見たところでもう遅い」「無謀な未来に労力を割くくらいなら、用意されたパターンの中にオリジナリティを見出す努力をした方が有意義なのではないか」そんな呟きが、頭の中で漏れる。あの頃と同じだ。私は何よりも私自身のことを、心の底から否定している。  物心ついたときから、私は夢を語るのが苦手だった。夢を持つことすら、自分に許してあげられなかった。どうしてそんなにも頑なだったのか。今思えば、私はもともと極端に心配性で、不安に思うことも多く、自分を疑うこと以外を知らなかったのだ。終わりのない一歩を踏み出すのはこんなにも怖いものなのだと、今となって実感する。  そして時間が経てば、こうしてつらつらと悩み耽っていることも懐かしむことができるのだろう。今この瞬間にはどんな力を持ってしても戻ることはできないから。人生において「もう一度」は存在しないから。そんなある種の安心感が、過去を綺麗に見せたがっているのかもしれない。どうにも無責任ではないか。私が今生きているこの世界は、なにも綺麗なものばかりではないというのに。  私は今日もあの日を思い出してしまう。あの時、あの場所、あの空間……思い耽っては懐かしむ。この感情の名前を、私は知っている。

桔梗の君

 初めて貴女の横顔を垣間見たとき、まるで桔梗のようだと感じた。背中にかかる髪ですらこの世のものとは思えないほどに艶やかで、私の世界に生まれて初めて色が乗った心地がした。貴女は物憂げに庭を眺めながら、紙に筆を走らせていた。  誰に文を書いていたのだろう。帰路につくなり、頭に浮かぶのは貴女のことばかりだった。もしその文を送る相手が貴女の想い人であったなら、私は早急に貴女のことを忘れ去らなければならなかった。しかしいくら貴女に想いを馳せたところで当然、貴女が誰を想っているのか、確かめる術もあるはずがなかった。  それからというもの、私は何を目にするにしても、貴女を想わずにはいられなくなってしまった。陽が落ちると、貴女も同じ景色を見ているだろうかと考える。夜に鳴く鳥の声を聴くと、貴女を忘れられない私のようだと心が苦しくなる。朝日が昇るとき、貴女と同じ世に生きていられることに感謝が溢れる。真昼の明かりが注がれた紫の桔梗を目にすると、どうしても貴女を想ってしまう。  その夜は冷たく霧雨が降り、やがて辺りは霧に包まれた。薄暗い靄の中に貴女の影を見た気がして、どうにも焦燥感に心を苛まれた。もう一度、貴女の姿を見ることはできないだろうか。逸る気持ちを収めることができなくて、私はあの日の記憶のみを頼りに、貴女の影を追っていた。  半刻ほど歩いた。やがて記憶の中と同じ香りがして、私はまたあの場所へ来てしまったのだと気が付いた。貴女の姿を一目この眼で見たいと、私の望みはそれだけだった。辿り着いたそこは間違いなく、私の世界が初めて色付いたあの場所だった。  そろりそろりと塀の隙間から中の様子を覗き見ると、何度も想い返したその景色が静かに佇んでいた。記憶の中と違うのはただ一つ、貴女の姿が見えないことだった。しばらく、そこに居たはずの記憶の中の貴女に想いを馳せていた。  夜も更け切ったころ、なにやら少し遠くに人の気配があるのを感じた。もしや、と、ありもしない想像に胸を高鳴らせ、私はよく目を凝らした。霧はもうすぐ晴れようとしていた。少し欠けた月がゆったりとその影を照らし出した。この眼に映ったそれは紛れもなく、一人の男の姿であった。  静かな風が吹く暗闇の中で、月明りだけが優雅に揺蕩っていた。それはどうしようもないほどに、美しい夜だった。

Re-play

右手の人差し指の爪の両脇に トゲのような皮膚がある 手袋をつけるときに引っ掛かるので 困っている 右手の親指でトゲを擦る いつの間に出来たのやら どういう訳であるのやら 昨日、仕事で後輩に言った言葉が引っ掛かっている 言って、別れた後で、彼女を傷付けてはいないかと さっきのシーンがリプレイされる 再生回数が増えていく

光らない星

「夜だから星が見える訳じゃないんだよ。見えていないだけでそこには確かにいるんだよ。」   そう言った君を思い出す。 あの時、僕は少し救われた気がした。 社宅のワンルーム 聞きたくもないアラーム音で目を覚ます。 天井の白がやけに明るく見える。 憎たらしいくらいに外の光が顔を撫でる。   人や街の喧騒は苦手だ。 本当の自分が分からなくなる。 そこに確かに存在しているのに 見えないこともある。 そんな話をする彼女が好きだった。 「私は死ぬよ」「やりたいことが死ぬことなんだ」 口癖のように呟いていた。 いつも笑って話してくれる君。 否定しない僕を君は好きだと言った。 僕に時間をくれると言った。 初めて誰かに必要とされたと思えた。 「もっと色んなことを知りたい」 「もっと色んな人と触れ合いたい」 そう僕に別れを告げた君。 もう君にとって僕は 見えない星になってしまっていたんだね。 君にとっての光はもう見えない光。 そう、僕にとってももう見えない光。      

薄暗闇から

 この薄暗い部屋に閉じ込められて、一月が経った。部屋の中は質素な造りだが、ベッドは意外にも上質なマットレスで、シャワーとトイレも完備してあり、生活するには申し分ない。食事は野菜などの彩は無いが、三食差し入れられる。  堪えがたいことは、娯楽が少ないことだ。テレビやパソコンが無いのは勿論、所持していたスマートフォンも取り上げられている。何故かカバーを外された本だけは差し入れられるが、異常な状況では読む気力も湧かない。言わば、生きる楽しみを見いだせない空間。  犯人はわかっている。目の前にいる女だ。 「どうしてこんなことをするんだ」  鉄格子の向こうにそう詰問すれば、女はいつも困った様な表情をするばかりだった。   彼女のかつての交際相手に相談を受けたのが、出会いのきっかけだった。曰く、彼女は相手に尽くすタイプの女性で、しかしそれに際限が無い。ノイローゼになった彼が逃げ出し、身近にいた自分が次の寄生先として選ばれた。  意外にも彼女との生活は悪くはなかった。容姿は華美ではなく、常に地味な服装だったが、むしろ奥ゆかしく好感が持てる。流行の話題には疎いが、古文や歴史に造詣が深く、博識深い。聞いていた異常性を置いておけば、所謂大和撫子そのものだったのだ。  うまくいっていたはずだった。この場所に監禁されるまでは。  あの日は雪が降っていた。寒さに身を震わせ、数か月後に来る春を思い、道すがら在原業平や西行が詠んだ句について語った。 「和歌に詠まれる桜は、どうしてこうも魅力的なんだろう」 「昔は、今よりも目に入る色が少なかったですから、桜の初心な色ですら、貴重な彩、だったのでしょう」 「成程。そもそも現代とは環境が異なるか。僕もいつか全身で感激するような桜を見てみたいものだ」 「ええ、そうですね」  そんな些細な夢も語って、彼女も微笑んでいたというのに。  当夜、勧められるまま深酒をしてその後の記憶がない。目が覚めたらこの部屋にいた。初めは激昂して、それから諭すように、ある時は懇願に近い声色で、どんな言葉で尋ねても、彼女の答えは無いか、曖昧なものばかりだった。  彼女は、僕の思いを試しているのか? 監禁という行為が生み出す歪んだ関係性。被害者からの依存性を期待しているのだろうか。彼女の目的は、ただこうして廃れていく僕を、籠の外から眺めて居たいだけなのかもしれない。  薄暗い部屋で、食事と睡眠の数を数え、もう二月も経った。ひたすら薄暗闇の日々が続いたのだ。段々と、自分の中の何かがすり減っていくのを感じる。 「なあ、今日でもう二月だ。あんたはいつまでこんなことをするつもりなんだ?」  辛うじて、まだ忘れていなかった声と言葉で問いかける。どうせ返事は無い。宛てのない言葉は、壁の中に消えていってしまうのだろう。ただの独白だ。  そう自嘲しながらも、久々にあの困った顔つきを拝んでやろうと、俯いていた顔を上げた。彼女の唇が動いた。 「あと、二週間、くらい?」  食い下がるべきだったろうが、驚き、言葉が出ない。明確に期限を口にしたのはこれが初めてだった。彼女に何の変化があったのか。  その日を皮切りに、彼女は、毎日私の言葉に返事をするようになった。 「もうちょっと、今日は、まだ」 「まだ早いの、だめ」 「きょ、今日は、雨が降ったから」  ある日、聞きなれない金属音と共に、いつもとは異なる微妙な風の流れを感じた。ひた、ひた、と足音が近づく。顔を上げると、鉄格子の向こうの彼女が傍にいた。 「あの、これ」  差し出されたものは、黒いアイマスクだった。付けろというのだろうか。視線で問いかけても、困った表情をするだけだから、望まれるままに装着した。手を引かれ、立ち上がる様促される。僕は彼女のするまま、素直に従った。 「どこに向かっているんだ」  答えのないまま、歩いた。あの仄暗闇から解放されるのならば、どこでもいい。僕はあの薄暗い部屋を出たのだ。  途中から、足の裏に感じていたものが、コンクリートよりも柔らかい感触に変わった。風にのって、土と草の匂いがする。 「取ります、ね」  もう随分歩いたと疲労を感じ始めた頃、ふと立ち止まって彼女は言った。  髪が巻き込まれ頭皮が引っ張られたが、些細な問題だった。  流れ込む光の束に、すぐには目を開けなかった。ゆっくりと瞼の裏に馴染ませ、恐る恐る開いていく。  色の洪水だった。失くしていた色、求めていた色、知っていたはずのものが、未知のものに見えた。背丈を優に超える幹は、大地の色を吸い込んでいる。風に舞い散る花びらには、一枚一枚色があった。全て、異なる色なのだ。  言葉にならない僕に、彼女は嬉しそうに笑った。久しぶりに見た笑顔だ。僕は、彼女が僕を閉じ込めた理由を悟った。後はただ、手を握り締めて、桜を眺めた。

戸惑い (掌編詩小説)

自分の作品が人の目に映るようになって、 『知って欲しいと知らないで欲しい』が乱立してきた。 この戸惑いは何処から生まれてきたんだろうか。 理解なんて望んじゃいないと思っても、 こうして人の目に触れる場所に書き溜めている…。 どうやら、私は人の目に触れることを求めているようだ。 そして、たった一人でも良いから私の作品たちを気に入って、 連想ゲームみたく考察を楽しんで欲しいと思っているようだ。 (完)

宿題屋

 うちの学校には、秘密の部活がある。  その名も宿題屋。  一年生から三年生までの生徒が所属していて、お金を払えば宿題を代わりにやってくれるのだ。  もちろん、先生たちは宿題屋を知らない。  ぼくたちも、誰が宿題屋の部員なのかを知らない。    ぼくは、宿題はまじめにやるべきだと思っている。  でも、今回だけは、宿題屋を使うことを許して欲しい。  数学の授業では、授業前に宿題の答えを板書しておくのだが、一番難しい問題があたったのがぼくなのだ。    一番難しい問題をサラッと解く。  そんなかっこいい自分を、見せたいんだ。    放課後の旧校舎。  一年一組の扉を叩く。   「どうした、忘れ物か?」 「はい。筆箱を机の中に忘れました」 「よし、入れ」    合言葉を使って教室の中へ。  教室の中には仮面をつけた生徒が一人と、机の上に置かれたスマートフォンがあった。  仮面をつけた生徒は、バイトの生徒だ。  宿題屋の部員ではない。  その証拠に、ぼくもこの役をやったことがあるからだ。   「依頼は何だ?」    声でわかった。  こいつ田中だ。  しかし、田中と呼ぶことは許されない。  ここでの呼び方は、決まっている。   「フィクサー。数Ⅱの教科書の四十四ページの応用問題二を解いて欲しい」    ぼくは教科書を広げて、田中に渡す。  田中は、小さくうげっと声をあげた後、机の上に置かれたスマートフォンに向けて教科書を開く。  スマートフォンのカメラを通して、宿題屋のメンバーが確認しているのだろう。   『承知した。代金は、小遣い一ヶ月分だ』    スマートフォンから、ボイスチェンジャーを通しただろう機械音が返ってくる。  痛い出費だが、仕方ない。   「わかった」 『代金は後払い。このことは他言無用。このスマホに入っているSNSを友達に追加しておいてくれ』    ぼくが机の上のスマートフォンを手に取ると、画面にはSNSのアプリのアイコンが一つだけあった。  ぼくはフィクサーに見守られながら、アプリを起動し、友達追加を進めていく。  余計なことはしない。  そんなことをすれば、フィクサー経由で宿題屋に伝わってしまう。   「できました」 「ご苦労。では帰宅し、宿題の回答を待ちたまえ。教室を出るところも見られるなよ」 「了解だ」    ありがとう、田中。  ぼくは音を立てずに外へ出て、旧校舎から立ち去った。  家に着く頃には、見事な解答が届いていた。        翌日。  ぼくは自信満々に、宿題の答えを板書した。   「ここ、間違ってるな」    そして、盛大に間違えた。  自信ありますと答えた手前、いつもの百倍恥ずかしかった。   「どういうことだ!」    ぼくは放課後、恥ずかしさの余り旧校舎へと乗り込んだ。  合言葉なんてくそくらえだ。    教室の中には、机の上に置かれたスマートフォン。  そして、先生たちが立っていた。    ぽかんと立ち尽くすぼくの前で、数学の先生が自分の手に持っているスマートフォンに話しかけた。   「これが、宿題屋の正体ってことさ」 『これが、宿題屋の正体ってことさ』    先生の声と機械音の声が、重なり合って響く。   「あ……あ……」    掌で踊らされていたんだ。  そう思うと同時に、ぼくは膝から崩れ落ちた。    数学の先生は、ぼくの近くへ寄って来て、ぼくの肩を軽く叩いた。   「約束通り、他言無用な。後、宿題屋に頼んだら英語の宿題の解答をもらえたって噂も広めといてね。お前、英語の成績よかっただろう?」    これは、甘い罠だったんだ。  気づいたときにはすべてが遅すぎた。  真面目な優等生のぼくのイメージは、先生たちの中で完全に破壊された。   「こ、これには訳が!」 「内申点、楽しみだな?」 「あ……あああ……」        うちの学校には、秘密の部活がある。  その名も宿題屋。  先生たちが所属していて、お金を払えば宿題を代わりにやってくれるのだ。  ただし。

踏切

 あんまり覚えていないんですよね。いつから人の顔が見えなくなったのか。  人の顔にモザイクがかかったようにパーツが認識できないだけなら良かったんですけど、いや、それもよくないんですけどね。僕の場合、渦に見えるんですよ。顔の皮膚が無理やり引っ張られて渦を巻いている。それも人によっていろんな場所にあるんです。真ん中の人もいれば右上とか左下とか。渦の数も一つだけじゃなくて二つや三つの人もいる。六つほどある人もいて、あれは気持ち悪かったなあ。あ、人の顔に向かってこんなことを言うのはよくないですよね。すみません。とにかく、見たくないんですよね。人の顔が、こう、ぐちゃぐちゃになっているのを。だから人の顔、顔がある部分にも目を向けられないんです。  あ、そうそう、いつからこうなったのかって話でしたよね。さっきも言ったように記憶が曖昧なんですよ。何か強烈な事件が起きたとか、トラウマになるようなことを見たとかそういうこともなくて。しいて言うなら親指を隠さなかったことですね。  あれは保育園の帰りか、小学校の帰りだったかな。それくらいの年の時、夕方に祖母と二人で歩いてスーパーに向かっていたんです。途中、踏切があってそこの遮断機が降りて警報音が鳴って、おばあちゃんが「親指を隠しなさい」って言ったんです。でも僕は理解できずに親指を隠さなかった。  多分、その日から人の顔がぐちゃぐちゃに見えるようになったんです。多分、そう、記憶が曖昧で。  いろんな病院やお寺に行ったんですけどね。ダメみたいで。鏡に映る自分の顔だけは渦巻いていないので、それだけが救いです。  御杖と名乗った青年は一度も顔を上げることなく、カウンター越しにこちらの名札を見ながら話していた。 「写真とかもダメなんですか」宇井は真顔で尋ねた。 「ダメですねえ」御杖は間延びした声で苦笑した。  深夜のコンビニに、午前四時を知らせるラジオの声が響く。 「すみません、仕事中なのにこんな長話を聞いてもらって」  申し訳なさそうに笑う御杖に、宇井は胸元で手を振った。 「いえ、僕が訊いたことなので。ほら、前に顔が見えないって言ってたから少し気になって」  二人の頭の中に、先日二人が遭遇した女性の姿と声が浮かんだ。 「宇井さんのことを指名手配犯だって言っていた人ですよね」  御杖は笑い声を立てた。 「あれは参りましたよ。御杖君も違うって言ってくれないし」 「あれは名札をしていなかった宇井さんが悪いですよ」  宇井は帰り道、勤務中の御杖との会話を思い出していた。自分の顔にはいくつの渦がどんな場所にあるのか、流石に訊くことはできなかった。  このまままっすぐ行けば踏切がある。そういえば、彼の言っていた踏切はどこの踏切なのだろうか。少しずつ踏切が近づき、赤いランプの点滅とゆっくりと降りる遮断機が見えてくる。無意識のうちに両手の親指をぎゅっと握った。  早朝の静けさの中で警報音が異常なほどはっきりと聞き取れた。

天然と合成と

「合成ダイヤの普及で、天然ダイヤが大幅値崩れだって」 「マジかよ。給料三か月神話はどこいった?」    写真で見る天然ダイヤと合成ダイヤ。  見た目の違いは判らない。  合成ダイヤは偽物と言う人もいるが、見た目が同じならどちらも本物と言って差し支えないのではなかろうか。   「私は天然がいいな」 「え?」 「だって天然じゃないってことは偽物じゃん」    そう思ったのに、まさか隣に逆の意見のやつがいようとは。   「偽物じゃないと思うよ」 「ええ?」 「魚だって、天然も養殖も同じじゃん。美味しい魚」 「魚の養殖は、人間の手で住む場所を決めてるだけで、天然と同じ方法で産まれてるじゃん。合成ダイヤみたいに、化学のいろいろ混ぜてるわけじゃないんだし」    例えが悪かったかもしれない。  天然ダイヤと合成ダイヤ。  天然の魚と養殖の魚。  共通しているのは天然と言う言葉だけ。    やはり人工的に作って、それっぽく作る物を例に挙げたほうがいいか。  正直、あんまち使いたくない例えだった。   「何?」    ぼくの視線が、下へと落ちる。   「天然以外が嫌なら、なんで豊胸し」 「死ね!」    案の定殴られた。  だから言いたくなかったんだ。  でも、天然じゃないから偽物だって考えを、なんとか否定しようと躍起になってしまったんだ。   「大丈夫。ぼくは差別しな」 「死ね!」 「ヒアルロン酸だろうが、胸はむ」 「死ね!」 「ほとんどの男は、天然かどうかわからな」 「死ねええええええええ!」    しこたまなぐられ、ぼくはその場に倒れた。  ドスドスと足音を立てて、友達は去って行く。    とりあえず、天然だろうがそうでなかろうが、本物だということは納得してくれただろうか。  体が痛くて追いかける元気はなかったので、倒れたまま休憩することにした。

背中を追う、隣を歩く【9】

ほどなくして、立ち上る湯気と共にラーメンと餃子が運ばれてきた。美味しそうな豚骨の香りが限界を迎えていた空腹をこれでもかと刺激する。 「「いただきます」」 手を合わせた直後、私は無我夢中で麺を啜り始めた。選んだのは細麺、茹で加減はバリカタ。 (あー、やっぱここ正解だわ。最高すぎる……) 芯の残った歯ごたえがたまらない。バリカタでこれなら一番硬い『粉落とし』なんてどんだけ硬いんだろ。マジで粉落としただけなのかな。 「齋藤さん! 美味しい!?」 「美味しい」 ハイテンションのまま問いかけると、短いが確かな肯定が返ってきた。その答えに自分のことのようにニヤけてしまう。 「でしょ! あと餃子これマジで飛ぶから食べて早く食べて!!」 「分かったから少し落ち着きなよ」 箸で餃子を掴み、一口で頬張る。 次の瞬間、朝の目が驚いたように丸くなった。 「……っ、美味しい」 よっしゃあ。 思わず机の下でガッツポーズ。 「でしょ!? ここに来たら餃子は外せないだよね。私さ、ここに連れてくる人全員に食べさせてるから」 「へぇ、納得だね」 一皿六個。平和に三人ずつ分け合い、朝も最後の一つを愛おしそうに(と、私は解釈した)食べ終えた。だが、育ち盛りである私の胃袋がラーメン一杯と餃子三つ程度で満足するはずがない。 「替え玉しよっかなー、あと餃子も…」 店員を呼び、追加注文を告げようとしたとき。 「高橋さん、私も替え玉2つ頼みたい。あと餃子ももうひと皿」 「あ、そう……って、え!?!?」 二度見、三度見。私より痩せてるくせにそんなに食べるのかこの人は。その細い体のどこにそんなスペースがあるんだよ。 「あー……えっと、じゃあ! 替え玉4つと、餃子3皿で!」 「かしこまりましたー」 店員が厨房へ引っ込んだ後、私は朝に向かってニヤリと笑ってみせる。 「私も食べるからね。食べることでまで負けるのは、御免だもん」 (割引券持ってて良かった。じゃなきゃ財布が死んでたな……) 「そう。無理はしなくていいと思うけど」 朝は私の対抗意識をさらりと受け流しながらコップに水を注ぎ直した。

真顔の国

 さて。今日の授業は、とある国の歴史について、です。  そこは小さな島国でした。けっして裕福ではありませんでしたが、島民たちは手を取り合い、幸せに暮らしていました。  しかし、島民たちには一つだけ悩みがありました。彼らは表情筋、特に口の周りにある筋肉が萎縮していたのです。そのため、島民たちは複雑な表情をつくることができませんでした。悲しみや困り顔は、かろうじて表現できるものの、笑うには口角をつり上げる必要があり、実に困難なものでした。その島は頻繁に海外と交易をしていたこともあってか、外部の者が「島民たちは少しも笑顔を見せない」と不気味がることも多々ありました。  このままでは外部との交流に支障をきたしてしまう。島民たちは、とある外国から優秀な研究者の男を招来し、どうにかならないものかと頼み込みました。彼は、島民たちの願いを二つ返事で了承すると、単身で島に引っ越し調査をすすめました。  丸一年をかけた調査の結果、男は島民たちが共通する特殊なDNAを持っており、この形質が表情筋の発達に影響していることを突き止めました。それから、これまた長い歳月をついやし、彼は特殊な遺伝形質を抑制する特効薬を開発したのです。  錠剤を島民たちに配りながら、男は言いました。 「この薬を毎日一つ、のみなさい。それをニヶ月半、続けなさい。のみすぎはいけませんよ」  島民たちが男から渡された薬を服用すると、たちまち凝り固まっていた頬の、眉の、口の筋肉が動くではありませんか。どういう原理なのかは分かりませんでしたが、島民たちは嬉々とした笑顔で、男に礼を言ったのでした。  男が島を立ち去って、実に半月が経過した頃、島は世界でも有数の観光地となっていました。島民たちが皆、いつも笑顔で和気あいあいと暮らしている様子が人から人へと伝わり、各国から称賛されたのです。島の人口は一気に増加し、経済も豊かになり、立派な島国としての地位を確立しました。しかし、島民たちの間では、少しずつ異変が進行していたのです。  日々の生活の中で、ときに卑屈な顔の者を見かける時、島民たちはもれなく竹取りの姫が月を見上げるようなノスタルジーを感じるものの、ふと以前のむっつりとした真顔になってみようとしてもうまく再現することができません。  今や、島民たちは様々な表情をつくれるようになりました。この恩恵を得ることができたのは、ある一人の男の研究成果であり、医療テクノロジーの結果であり、特別な薬物の効果であり、その全てであって、そのどれでもないのです。  私があの島へ再訪した時、島民の一人が話をしてくれました。 「俺たちは皆、感謝してるんですよ。おかげで、こんなに笑えるようになりました。嬉しさを、楽しさを、皆が当たり前のように表現することができるのですから。けれどね、だからこそ私達は許せないんですよ。もとから自在に表情を操れる者たちが、感情の宿らない顔をしていると。まるで昔の俺たちを見ているようで、苦しくなるんです。これはもう取り戻せないあの頃への嫉妬だし、罰でもあるんでしょう。俺はね、今になって思うんですよ。私たち島の人間の、本当の素顔とは一体なんだろうかと。今さらながらに考えてみたいと思うんです」

小説を書くとはつまりどういうことか

 AIに小説を書かせると、綺麗にまとまりすぎた文章になる。テンプレートに沿った思考の登場人物しかいない小説なんて、何も面白くない。作者ですらどんな結末になるかわからない――そんな物語が読みたい。  自分の心の赴くまま、ただひたすらに言葉を連ねる。その重なりが物語となる。小説とはどこまでも創作物であるがゆえに、言葉には匿名性がある。一人称視点で語られる言葉だからといって、必ずしもそれが作者自身の言葉とは限らない。そういうものである。  だから私は今日も小説を書く。小説であることに意味がある。そこに正誤や優劣はない。自分の中で整合性がとれてさえいれば、他一切の事象を入れ込む必要はない。  つらりつらりと筆を動かしていると、日々どれだけ自己否定を積み重ねているかに気付く。誰かに読ませるための文章となってしまったとき、それは私の言葉ではなくなる。他の誰でもない私自身の言葉だから、この物語には価値がある。

アンバランスな路地 (掌編詩小説)

ふといつもとは違う路地を歩く。 今まで全く通らなかったからか 何もかも目新しく感じる。 私の隣を通り抜けたこの人も 同じようにふと立ち寄ったのかしら。 もしかしてこの路地は どこか違う路地とワープみたく繋がっていて さっきの人はこの路地に本来いなかったりして… なんてね。 (完)

第22話「雪女」・曇った窓の向こうの影

雪に覆われた森を飛び出す。冷気が彼の肺を焼くかのようだった。雪嵐は山肌を轟音と共に駆け下り、まるで獲物を追う狼のように彼に迫ってくる。 前方の空っぽの駐車場には、軽自動車がひっそりと待っていた。それは迫り来る吹雪に対する、彼の唯一の避難場所だった。みぞれに覆われたアスファルトで足を滑らせ、うめき声を上げながら車にぶつかる。震える手でハンドルを探り、なんとかドアを開けた。彼は運転席に崩れ落ち、ドアを勢いよく閉めた。一瞬、風の叫びが鈍い音に変わり、ほんの少し安全だと感じられる。 しかし、その嵐は薄い窓を容赦なく叩き続けた。怒った風が吹くたびに、彼の心臓は早鐘を打つように騒ぎ出す。彼の視線は暗い森の端へ釘付けになり、何か、あるいは誰かが現れるのではないかと身構えていた。視線をそらさずに、彼はエンジンの始動ボタンを急いで押した。ガタガタと音を立て、エンジンは激しく咳き込んだかと思うと、不気味な沈黙を残して止まってしまった。 「くそぅ。だめだ。」歯を食いしばりながら彼は低くうめき、ハンドルを拳で叩きつけた。震える息が車内を曇らせる。見ると霜が幽霊の指のようにフロントガラスに忍び寄っていた。視線を再び森に向けると、彼の心は凍りついた。そこに彼女がいた。 彼女は荒れ狂う風に縛られずに白樺の間を、漂っていた。白い着物に映える長い黒髪は、まるで生きているかのようにともに揺れる。嵐が唸り続ける中、彼女は森の影から妖しい優雅さで姿を現す。どういうわけか、その存在によって彼女の周囲だけ混沌が静められていた。 彼の背筋に冷たいものが走った。彼は必死に始動ボタンを何度も叩き押し、唇を震わせながら無言の願いを込めた。エンジンは弱々しく咳き込み、生ぬるい空気を吐き出して再び沈黙に陥った。 彼女は雪の上を音もなく進み、足跡を一切残さない。近づくにつれて、霜が車内に忍び込み、ギザギザした静脈のように彼の方へ近づいてきた。冷気はもはや自然なものではなく、針のように皮膚を刺す痛みとなってが広がる。 凍えた手をヒーターのダイヤルに伸ばし、最大限に回した。ファンの微かな回転音が、虚しい温もりを掻き立てるように響いてきた。突如、曇った窓に彼女の顔が浮かび上がる。彼女は彼を睨みつけ、その鋭い目は冷たい炎のように輝いていた。雪白な顔と生気のない青白い唇は、恐ろしく非人間的に見えた。 霜はさらに速く広がり、冷たい悪意を帯びながら彼の腕を包み込んでいく。胸は激しく上下し、必死になって空気を求めてもがく。しかし冷気は重くのしかかり、彼を窒息させようとしていた。皮膚は焼け付くように熱を帯び、神経は悲鳴を上げ、感覚を失っていった。 霜に縁取られたドアガラスのすぐ向こうに、彼女は静かに漂っている。黒髪は肩の周りでふわりと浮かび、一本一本がまるで生きているかのように動いていた。彼女の目は瞬きもせず、彼を捉えて離さなかった。「あなた、とうとう喋ってしまったんですね。」 そのささやき声は嵐の音よりも静かだったが、彼の心の中に強く響いてきた。彼の体は勝手に震え、ハンドルを握る手が一瞬こわばった後、凍って張り付いた。霜は彼の顔に這い上がり、唇や目を次々と固めていく。最後の息が震えるように漏れ、彼女の視線が彼の心を氷の闇へと沈める。 嵐が過ぎ去ると、陽の光が山々を照らし、新雪がキラキラと輝いていた。軽自動車はそのままの場所にあり、雪に半ば埋もれていた。凍りついた窓は朝の光を淡く映し、まったく乱されることなく、静かに佇んでいた。 しかし、その内部には隠された真実がある。運転手はその場で凍結し、ギザギザの氷の洞窟に葬られていた。氷の結晶は彼の肌を覆い、頬や唇に細やかな模様が枝分かれしていた。目は恐怖に見開かれ、虚空をじっと見つめている。唇はわずかに開かれ、誰にも届かない最後の言葉を訴えかけているようだった。 ドアガラスには、一つの手跡が残り、陽の光の中でゆっくりと消えていった。

灰色の世界

僕には姉がいる というか、僕には姉しかいない 僕の記憶はここに来てからの1年程しか無い 所謂記憶喪失というやつだ それに加えて…盲目だ 僕の世界には光が無い そんな僕を支えてくれたのは姉だけだった 「今日はね、外はとても良い天気で、空が青かったわ」 「今日は庭のバラがとても綺麗だったのよ」 「今日は村の人にたくさんお野菜を貰ったわ」 「今日はね…」 僕の世界は、姉によって形作られていた 姉の語る世界だけが、僕の世界だった 今日までは 僕の目は、今日の朝、霞んだように世界が見えるようになっていた 僕の世界は反転した 僕が寝ていたベッドだけは、とても綺麗だった けれど、視界に映る世界は灰色で、くすんでいた 「おはよう、今日はとても良い天気ね」 姉は言う けど今日の天気は…どう見ても曇りだ このぼやけた世界でもそれくらい分かる 「今日はなんだか元気が無いわね?」 その通りだ 僕はこの世界がこんなにも灰色に満ちていたなんて、知りたくなかった 優しい言葉をかけてくれる姉ですら、ボロボロの衣服で、とても見ていられないほどだった 窓の外を見ても、庭なんて大層な物は無かった 小さな雑草がほうぼうに生えているだけ とてもバラなんて植えられていない、枯れた土地だ 姉は、嘘をついていたんだ ずっと、ずっと 優しい嘘で、僕を生きさせてくれていたんだ 「今日はシチューを作るから、楽しみにしていてね」 姉は僕の部屋を出ていく 僕の目が回復したことを知らずに …きっとこのままで良い そうすればきっと、ずっと幸せだ 目の見えない僕と、優しい姉と、生きていける それでも、僕は… 数か月後 僕の目は完全に見えるようになっていた そんな目が最初に見たのは、姉の死体だった 首筋に、包丁が突き刺さっている とても、綺麗だと思った まるで、一輪の生け花のようで これで僕は解放される 外の世界に行くことが出来る どんな世界が待っているんだろう とても、とても楽しみだ そういえばあの日のシチューの味、まだ覚えているな 何のお肉を使ったんだろう

ヘイトソング

テレビから楽しげな音楽が聞こえてやけにうざったい 明日が今日になり今日が昨日になること繰り返す 希望をちらつかせ笑顔がうるさく未来が眩しくて それでも嫌いなことは好きなことより先に浮かんでる てめえらが押し付けるほどこの毎日がきれいだったなら この痛みは痛みとしてすら認めてやれないじゃないか あの頃はよかったと笑うくらいなら 過ぎた喉元の熱にまた焼かれてやけどして来い ネットには苦しげな言葉が満ちて無性に気が滅入る 明日も明後日も似たようなこと愚痴っているんだろ 未来は楽しくないなんてずっとつぶやいてるから 結局嫌いなことが好きなことより先に浮かんでる てめえらが押し付けるほどこの毎日に意味がないのなら この痛みは痛みとしてすら愛してやれないじゃないか この先すべてがバカらしいなんて嘲笑う前にさ 焼けた喉元の熱に飛び込んでやけどしてこい 青春は奇麗なところだなんて大人の妄想だ 大人はずるくて汚いなんて負け犬の遠吠えだ 眠くて痛くて届かなくてもうどうしようもなくて でもまた楽しげな音楽を背にして朝の支度 電車に揺られて端末を見て嫌いとどうでもいいを繰り返して それでも目的の駅に着く 何年もしてもう泣くことも笑うこともできなくなったら やっぱりあの頃はよかっただなんて思ってしまうんだろうな そんな想像できる未来に向けて泣き叫んだ歌は きっときれいな思い出として優しく響くんだろうな いやだな てめえらが押し付けるほどこの毎日が優しく残ったなら もしかしたら世界にはまだ意味があるのかもしれないけど 痛くて恥ずかしくて間違って取り返しのつかないこの声を どうか受け取って掃除しないでそこにそのまま飾っておいてくれないか それでも目的の駅に着く

配達先シリーズ ~聞く人~

夫は配達の仕事をしている。 その配達先のひとつに、いつも穏やかに笑うとても感じのいい男性がいた。 坂野と名乗るその男は、初対面の頃から妙に話しやすかった。 その配達先を担当して約二年。 世間話から始まった会話は、次第に私的な領域へと踏み込んでいった。 家族構成、育った町、学生時代のこと。 最近では、妻の職場のことや彼女の些細な癖まで尋ねてくるようになっていた。 悪意は感じられない。 だが、距離の詰め方だけがどこかおかしかった。 ある日の食事中、夫は坂野のことを妻に話した。 妻は露骨に顔を曇らせ、言った。 「気持ち悪い。そんなに個人的なこと、話さないほうがいいよ。」 その翌日から、家の周囲で奇妙なことが起こり始めた。 夜中、廊下に人の気配がする。 インターホンが鳴り、モニターを確認してもそこには誰も映っていない。 理由のわからない恐怖に、夫は怯えていた。 妻もまた、同じように眠れなくなっていった。 そんなある日、妻は職場で上司に呼び止められた。 深刻な表情の上司は低い声で言った。 「最近、あなたの周りに“黒い人影”がある。薄っすらと。 ご主人のほうも……あまり良くない気を感じる。」 上司はそれ以上説明しなかった。 ただ、静かに助言するように言った。 「詳しいことは分からないけどね。 ……自分のことは、あまり話さないほうがいいと思う。」 数日後、夫は衝撃的な事実を知る。 いつものように配達先へ向かい、坂野がいるはずの場所を覗いた。 しかし、そこに彼の姿はなかった。 夫は、近くの従業員に声をかけた。 「すみません。坂野さん、今日はお休みですか?」 「坂野……ですか?」 従業員は怪訝そうに眉を寄せ、近くの同僚と何やら小声で話した後言った。 「いえ。うちに、坂野という人はいませんよ。」 配達を終え、駐車場で夫は立ち尽くしていた。 二年間、自分は誰と話していたのか。 その時、トラックのドアをノックする音がした。 「あ、さっきの運転手さんですよね。」 ドアを開けると先ほどの従業員の姿があった。 「坂野が“いない”と言いましたが……正しくは、“今はいない”と言ったほうがいいかもしれません。」 従業員は周囲を気にするように視線を走らせ、声を潜めた。 「坂野は……三年前に亡くなっています。ここの引き取り窓口のすぐ横で、配送トラックに巻き込まれて。 人当たりが良くて、誰とでも話す人だったから皆よく覚えているんです。」 夫がこの配達先を担当するようになったのは、二年前だった。 「じゃあ……俺が話していたのは……。」 「あなたが会っていた“坂野”は、どんな顔をしていましたか?」 従業員にそう言われて夫は思い出そうとする。 穏やかな笑顔。柔らかな口調。 ――だが、顔だけがはっきりと思い出せなかった。 「事故の後に坂野さんを訪ねた方が、家に“何かいる”気配がすると言っていました。」 夜中の廊下の気配。誰も映らないインターホン。 夫には思い当たる現象があった。 「坂野は、生きていた頃から“人の話を聞くのが好き”でした。 自分のことは話さず、相手のことばかり……亡くなってからも、同じなんでしょう。」 その夜、夫はすべてを妻に話そうと帰宅した。 玄関の電気をつけた瞬間、背後から声がした。 「今日はお話ししてくれないんですか?」 振り返ると、そこに坂野が立っていた。 穏やかな笑顔。 足元は廊下の影と溶け合い、輪郭が曖昧だった。 「知ることで、私が存在できるんです。 あなたの家も、奥さんも……とても居心地が良さそうだ。」 表情を変えずに坂野は言った。 震える声で、夫は言った。 「……もう、何も話せない。」 坂野は、ほんの少しだけ寂しそうに微笑んだ。 「それは困りました。もう少しで、あなたになれたのに……」 次の瞬間、廊下の影が一斉に伸び坂野の姿は闇に溶けた。 それからしばらくして、妻は上司に再び声をかけられた。 上司は、以前よりも穏やかな表情で言った。 「黒い人影は、見えなくなったね。」 妻は、胸をなで下ろした。 だが、上司は少し言い淀んでから、続けた。 「正確には……“一つ”減っただけかもしれない」 「……一つ?」 妻は不思議に思って問いかけた。 「人影って増えるのも減るのも理由がある。 近づく場所がなくなれば薄くなるだけ」 上司はそれ以上何も言わなかった。 その夜、妻は何気なく廊下を見た。 電気の消えた壁に、影が落ちている。 そこにあるのは自分の影だけなはずだが、一瞬だけ多く見えた気がした。 しかし、目を凝らすと影はすぐに元に戻っていた。 「自分の事を、あまり話さないほうがいい」 その言葉の意味を、妻は今も考えている。

酒は万病に効く

「風邪をひきましたな!」 「ひいたでゴザルな!」 「そんなときは!」 「酒でゴザル!」    二人の男がジョッキにビールを注いでいく。  そしてジョッキをぶつけて乾杯をし、美味しそうにゴクゴクと飲んでいく。   「キタキタキタ!」 「熱っぽかったのが嘘の様でゴザル!」 「もっと度数の高い酒なら、もっと治るのでは?」 「名案でゴザル!」    男はビールを飲み干した後、コンビニへと駆ける。  そして、ワインに、焼酎に、マッコリに。  飲みたいお酒を片っ端から買って、再び家に戻って来る。   「ママー。パパとおじさん、まだ飲むみたいだよ?」 「はあ……。風邪なんだから、安静にしておきなさいよ」    男の妻と娘は、二人の様子に冷ややかだ。   「何を言っている! 百薬の長だぞ!」 「その通り! 酒は万病に効くのでゴザルよ!」    二人の言い分に、妻と娘は諦めたように溜息をつき、寝室へと消えていった。   「さあ、乾杯!」 「どちらが遅くまで起きていられるか、競争でゴザルな!」    深夜の部屋の中。  男たちの熱い戦いが始まった。        そして翌日。   「ママー! パパとおじさん、起きないよー」 「あらホント。心臓止まってるじゃない」    熱い戦いを終えた二人の男は冷たくなっていた。  死因に病気あり。  死人に病気なし。  酒は、確かに二人から病気を取り除いた。   「ホントに万病に効くのね。これで我が家の赤字も、黒字に戻るわ。お葬式は……いらないよね?」

0321

朝焼けくゆるあなたの火 一人散らすそれを それでも、幸せを願っています。 敬具

サル嫌い

 学校が終わって、家に帰ったら、誰もいなかった。台所に行き、冷たいジュースでも飲もうと思った。冷蔵庫の扉を開けようとした時、冷蔵庫の中から、キィーキィー、と嫌な声が聞こえてきた。冷蔵庫の扉を見ると、お母さんの字で書かれたメモが貼られていた。『冷蔵庫にサルが入っています』僕はサルが嫌いだ。お父さんとお母さんは、それを良く思っていない。だから、時々、こうして冷蔵庫の中に、サルが入っていることがある。僕は扉を開きかけた手を止めて、じっと立ち尽くした。キィーキィー。サルが鳴いている。冷蔵庫がかすかに揺れている。きっと中でサルが暴れているのだ。僕はサルが暴れているところを想像して、嫌な気持ちになった。僕は流し台でコップにぬるい水を汲んで、それを飲み干した。そして、自分の部屋に戻った。サルが冷蔵庫に入れられてどのくらい経っているかはわからないけど、きっとそのうち、寒さで死ぬだろう。そう思いながら、ゲームをしていた。しばらく経ってから、お母さんが家に帰ってきた。「ただいまー」お母さんが台所に入っていった。そして、冷蔵庫を開ける音がして、それから、お母さんがため息をついた。僕はゲームを続けていた。すると、僕の部屋のドアがノックされた。「何?」僕がそう言うと、ドアが開いて、お母さんが入ってきた。お母さんは、手にバナナを握りしめていた。

quiet memory

落としたカップ焼きそばは、その月の残り少ない大事な食事だった。 たしか塩味の、昔から好きな味だった。 好きなのだと、私に言っていた。 電話越しに泣いている。 昔からこうなのだと。 あなたは何も悪くない。 ただ泣いている声が苦しい。 一人遊びが好きで、ぬいぐるみが好きで、弱いのに無理にでも意地を張らなければ生きて来れなかった。 あなたは言った。 「心の寿命が来たんやと思うねんな。」 苦しい。 こんな言葉が口から出て良いわけがなかった。 あなたが私の家に来た時、 私の言葉を覚えていたあなたが、持ってきたカップ焼きそばを取り出して、作って欲しいと言った時。 泣きそうだったのはバレていないだろうか。 お湯を入れて、流して、箸を入れて渡した。 それを一緒に食べて 横にはぬいぐるみを置いて ただそれだけで良かったのに。 ただ、私の頭を撫でてくれた貴方の手を覚えている。

忘れないために書いた。 思い出も痛みも、私の物で、あなたの物だ。 ただ事実であればいい。 飾れば嘘だ。 背負いもしない。 並べた文字の外側から最後に杭を打ち込む。 歪めないため、嘘をつかないために。 祈りは一度。 過去にそっと置いたきりでいい。

噂のクラス

「二人の学校、有名だね」  ラジオの止まった喫茶店。カウンターに並ぶ二人の青年に、赤い髪の店主がカップを拭きながら訊いた。黒いカーディガンを羽織った青年は小さく首を傾け、白いセーターを着た男は「ああ」と呟いて店主を見た。 「俺にも取材させてくれって電話があったよ。断ったけど」  白いセーターの青年はため息交じりに言った。 「なになに、僕は知らないんだけど。ホズミに電話がきたってことは僕も知ってること?」  カーディガンの青年はホズミに体を向けた。 「ナキには電話こなかったんだ」と店主が言うと「高校に友達いなかったから。僕の連絡先知っている人なんていないよ」と拗ねたようにカウンターに腕をついた。 「それで、何が有名なの」 「ただの噂だけどさ、俺らのクラスが呪われていたって話だよ。誰かがネットに書き込んで、それが拡散されたみたい。内容は詳しく知らないけど、「イマキ」っていうクラスメイトに、俺らのクラスの人間が呪われているらしい」  ナキはわざとらしく眉をひそめて「イマキ」と呟き、「そんなクラスメイトいたっけ」とホズミをみた。ホズミは「俺も記憶にないんだよ」と首を振る。 「伊東君は何でその話を知ったの?」  ナキが店主に丸い目を向ける。店主も首を振り「俺もお客さんから聞いただけで詳しくは知らない」と苦笑した。 「誰だよイマキって。そもそも呪われているようなことあったかな。高校時代の記憶がないんだよね」  ナキは後ろに伸びながら、投げやりに言う。 「俺もすべてが曖昧だよ。不可解なことがあったかもしれないけれど、思い出せない」 「卒業アルバムを見れば思い出すんじゃない?」  店主の言葉に二人は目を合わせ、首を振った。 「俺はすぐに捨てたよ。大きくて場所とるし」 「僕は卒業式に出てないからね。家に届いたのかもしれないけど見ていない」  店主が「二人らしいね」と笑った。 「でもなんで呪われてるんだろう。うちのクラス、誰か死んだの」  ナキが頬杖をつき横目でホズミを見る。 「さあ。でも、在学中に誰かが死んだ気がするんだよ。誰なのかは全く思い出せないけれど。もしかしたら、転校しただけかもしれない。なんでだろう、なんでこんなに覚えてないんだろう」 「クラスメイトが一人いなくなったら、普通記憶に残るもんじゃない?」  ナキの問いに「でもナキは何も覚えてないんでしょ」と店主が呆れたように言う。ホズミは二人の会話が耳に入っていないようで、考え込んだ表情のまま珈琲の入ったグラスを睨んでいる。 「そういえば、前にもこんなことなかった?ホズミの修学旅行の記憶に僕がいたこと。僕は修学旅行にいってないのに」  ナキは考えることに飽き、ふざけた様子で口を尖らせた。 「そうなんだよ。高校の記憶はほとんど曖昧なんだ」  ホズミは沈んだ声で言う。その時、店主が「もしかして」と呟いた。二人の視線が同時に店主に向く。 「俺の想像だけどさ、イマキってナキのことじゃない?」  店主は申し訳なさそうにナキを見た。 「ナキの漢字って「今」と「帰る」でしょ。今帰って、初めて見るとみんな「イマキ」って読むんじゃないかな。しかもナキは修学旅行も卒業式も参加していないんでしょ。だから記憶に残りにくかったのかも」  ナキは目を丸くしたまま「だからって死んだことにしないでよ。しかも呪いだなんて」と大げさに声に抑揚をつけ「確かにクラス写真を撮る日も休んだけどさ」と笑いながら付け足した。 「確かに、イマキはナキかもしれない」  ナキと対照的にホズミの声は沈んだままだった。 「でも、確かに誰かがいたんだ。何かがあった。どうして思い出せないんだろう」  ナキは宙を見上げながらどうでもよさそうに言った。 「その誰かさんが、自分のことを思い出してほしくて僕の名前を使ったんじゃない?」

逃避場

 時計のない喫茶店。海の見える窓際の席で二人の青年が向かい合って座っている。一人は黙々とカレーライスを食べ、もう一人はクリームソーダを前に、光を反射しながら揺れる海を眺めている。店内の照明が暗いせいか外がやけに眩しく感じ、無意識に目を細める。 「ここに来るまで、バイトに行きたくないなあって考えていたんだけどさ」  溶けかけたアイスをスプーンで掬いながら鹿江が話し出した。左柄は一瞬視線を上げたが、すぐにカレーライスに視線を向けた。 「左柄と話していたら、そんなこと忘れていたよ」  アイスを一口食べると再び窓をみた。左柄は何も言わずに水を飲み「今、思い出してるみたいだけど」と涼しい顔で言った。 「バイトに行きたくないって思っていたことを思い出したんだよ。今は思っていない」  言い訳をするように早口で話す鹿江を見て左柄は首を傾げて、カレーを掬った。 「僕の現実がずっとここなら良いのに」  鹿江の声には幼さが残っていた。 「バイトに行って、家に帰ると一人で売れもしない原稿用紙に向かうだけの生活。原稿用紙に向かえる日は良いよ。たまに凄く疲れて何もできない日もある。誰かと話したくても話せる相手もいない。それでも人と話した日なんかは、別れてから会話を思い出し自己嫌悪で思考が埋め尽くされる。それで、なにもできない」 「大変そうだね」  左柄はどうでも良さそうに言い、空になった皿にスプーンを置いた。 「本当、大変だよ。何もしていないのに大変」  鹿江は自嘲を浮かべて笑うと溶けたアイスを掬い、左柄は教科書サイズのスケッチブックと青い鉛筆を取り出した。 「どうしようもない現実だよ。どこにいても惨めな現実。どこまで逃げても、自分からは逃げられないって気付いたんだよ」  左柄はスケッチブックを開き、迷うことなく手を動かしている。その世界には鹿江の声は存在しない。 「でも、君と一緒にいる時の自分は好きなんだよ。ここが逃避場じゃなくて、現実ならいいのに」  鹿江の声はすぐに消え、二人の間には鉛筆が紙を滑る音だけが響いていた。  クリームソーダのグラスが空になると、左柄はスケッチブックを閉じて顔を上げた。 「アトリエに行く前に画材屋に寄ってもいい?」  鹿江は笑って頷き「せっかく良い天気だから、外で描こうよ」と提案した。左柄は窓の外を眺め、眩しそうに目を細めてから「それが良いね」と少し口角を上げた。

PV0小説の使い方

 小説投稿を始めて一ヶ月。  いまだにPVはゼロである。  もはや笑っちゃう。  どれくらい笑っちゃうかというと、草津温泉に行こうとして滋賀県草津市に着いちゃった人を見た時くらい笑っちゃう。    だが、物は考えようだ。  PVがゼロということは、誰も見ないプライベート空間が誕生したと言っていい。  つまり、登場人物の会話で、こんなこともできちゃう。   『ハルカのどこが好きなの?』 『うーんと、可愛くて優しくて話をよく聞いてくれて歴史好きな趣味も合うところかな』 『えーいいじゃん』 『そんな会話が聞こえてきた』    どうだ。  道ですれ違ったモブキャラに、唐突にリアルの好きな人ハルカさんを褒め殺しさせる。  名付けて、パブリックプライベート告白。    世界広しといえど、こんな安全なスリリングを楽しんでいるのは自分だけだろう。    テンションが上がってきた。  なんだか楽しくなってきた。    先輩への愚痴。  家族への感謝。  政治家への不満。  スーパーの可愛い店員さんへのラブコール。  何でもかんでも書き放題。  人に聞いてもらいたいけどプライドが邪魔して話せなかった言葉が、するする書き起こせていく。    すごい、これはすごいぞ。  ぼくは一晩中書き続け、気づいた時には寝落ちしていた。        翌日。  目を覚ますと、ぼくは人生初のバズを経験していた。  なんと一日で十万PV超えの大バズり。  感想の数も、ひい、ふう、みい、……数えたくもない。    スマホを見れば、通知がたくさん。  そのうちの一つに『ハルカさん』。    終わった。    ぼくはパソコンの電源を落とし、スマホの電源を落とし、全人類の癒し空間であるお布団へと逃げ込んだ。  そう、これは夢だ。  悪い夢なんだ。  悪ふざけなんてなかったんや。

ごくつぶし

 真冬であった。ある小さなアパートの一室に、テレビの音と、夕飯を作る音が重なって響いている。キッチンでは女がカレーを作っている。良い匂いが立ち込める中、テレビの前に置かれたコタツで、入道雲が温まっていた。テレビでは年末の街の風景が流れていた。入道雲はそれをぼんやり見ていた。「来年の夏はまた空に出るの?」キッチンから女が入道雲に話しかける。「うん、そのつもり」入道雲はミカンの皮を剥きながら答えた。真っ白な体にミカンの汁が跳んだ。「夏まではどうするの?」「バイトするよ」「どこで?」「どっかで」入道雲はごろんと寝転んだ。窓の外には夕空が見える。「冬の空も好きだな」と入道雲は思った。「どっかで、ってどこでよ」「だから……どっかで」女は眠そうに答える入道雲のだらしない姿を見て、「今年の夏はあんなにかっこよかったのに」と思った。「働かないやつに食わせる飯はないよ」「まぁ……頑張るよ」そして女と入道雲はカレーを食べ始めた。「ご飯って雲に似てるな」入道雲が話しかけたが、女は何も答えなかった。夏が来るまで、まだまだある。

通行本

 通行人の顔を見ることはあるだろうか。  私は見ない。    とんでもなく高身長の人や、どんてもなく体が大きい人なら、目に入ってしまうかもしれない。  でも、基本は見ない。  すれ違う他人なんて、ぶつからないように避けるべき障害物Aでしかない。    どうしてこんな話をしているかと言うと、最近本屋に行ったのだ。  SNSで新刊の発売情報をチェックして、新刊を買いにいったのだ。  無事に新刊は変えたのだけど、あれっと思ったことがあった。  私は、新刊以外の本を見た記憶がないのだ。    新刊を探すために、いくつかの陳列棚を見た。  いくつかの本の表紙やタイトルを見たはずだ。  なのに、記憶に残っていない。  そこで気づいた。  私は、本屋に並ぶ本を、通行人としか見ていないのだと。  新刊を探す際にノイズになる、ただの通行人。    子供の頃を思い返した。  とりあえず、漫画や小説が置かれているコーナーに立ち寄って、一冊一冊眺めていた。  その中に、買ってるシリーズ物があれば手に取り、興味のある表紙やタイトルを見つけても手に取った。  いうなれば、全ての本が買う可能性のある候補だった。  通行人なんかじゃなかった。    スマホのアプリに通知をいれれば、欲しい本の発売日を知らせてくれる。  本を探す必要もない。  お会計はキャッシュレスで。  現金を探す必要もない。    合理化を進めた世界では、こんなにも本と出会うのが難しいのだと感じた。    家に帰る途中にすれ違った通行人の顔も、私はまったく覚えていない。

うどん

 夏の食堂であった。俺の目の前の席に、おっさんが座っていた。テレビがついていた。おっさんはテレビを観ながらうどんを食っていた。おっさんはうどんを箸で持ち上げたまま、テレビに見入っていた。するとそこに一匹のカが現れた。カは、おっさんのうどんにとまった。おっさんは気づいていなかった。うどんにとまったカは、うどんから何かを吸い始めた。その腹がどんどん膨らんでいった。そして、その腹がパンパンになると、カは満足そうに飛び去った。テレビがCMに入った。おっさんはやっとうどんをすすった。そして、「何だこれ美味くねえな」とつぶやいた。

地獄の道はお菓子で舗装されている

 また一人、友達が道を誤った。   「彼って、すごいんだよ? 若いけど社長やってるらしくて。車は外車だし、年末年始は毎年ハワイで過ごすんだってー」 「へー」 「来週、付き合って一か月記念なんだけどね。あの高級ホテルのレストラン予約してくれたんだってー」    何人も見てきた。  嬉しそうな顔をして、地獄への道を歩く人間を。  私は彼女たちを止めはしない。  だって、天国への道を歩いているつもりの彼女たちにとって、ここで引き止めてくる人間は自分に嫉妬している悪魔にしか見えないから。   「見て見てー! これ、欲しいって言ったら買ってくれてー」 「えー、羨ましいー」    だから、私は貴方を肯定してあげる。  貴方の欲しい言葉を上げる。  私が嫌われないように。   「彼の友達も、彼女欲しいらしくてさ。紹介しようか? 彼と同じ、超超ハイスペックらしいよー」 「うーん、ありがとう。でも、今は恋人いいかなって」    貴方がぼろ雑巾みたいになって帰ってきた時、私が抱きしめてあげるから。    いってらっしゃい。  私の友達。  地獄だとわかったら、戻って来てね。

ぐずる

 タバコを吸いながら、ベッドに腰かけて、ぼんやりと窓の外を見る。火葬場が見える。ぐずっている。火葬場がぐずっている。なぜならまだ赤ちゃん火葬場だからだ。泣き出しそうだ。煙突が震えている。あ、ああ、もうだめそうだ。と、そこへ、空から、巨大な手、細い指をした巨大な手が、巨大な哺乳瓶とともに現れる。そして、哺乳瓶を逆さにし、先端を、赤ちゃん火葬場の、煙突の先に突っ込む。火葬場がぴたりと動きを止め、ごくごくと、哺乳瓶の中の、真っ白な液体を、飲んでいく。やがて哺乳瓶が空になる。煙突の先から、小さなげっぷが出る。哺乳瓶が空に引っ込み、巨大な手が、火葬場を優しく撫でる。赤ちゃん火葬場は、きゃっきゃと嬉しそうに笑う。俺はほっと一安心する。何者かが何者かを慈しんでいる姿は、いつ見ても良いものだ。俺は二本目のタバコに火をつける。火葬場の煙突から、寝息が漏れ始めた。巨大な手が空に引っ込んで、見えなくなった。穏やかな寝息、白い液体。そんなもので満たされていた煙突も、そのうち大人になったら、黒い煙をひたすら吐き出すようになるのだ。俺はふーっと煙を吐き出し、少し寂しい気持ちになった。俺が死んだら、あの火葬場では焼かれたくないな。

論点をすり替えるな

「おーい、論点すり替えないでもらっていいですかー?」    まただ。  こいつは、論点のすり替えという指摘を、口癖のように言うようになった。  正直、自分の中では論点がすり替わってなどいないので、こいつの言葉の意味が分からない。  だから、聞いてみることにした。   「ごめん、自分ではすり替えたつもりがないからわからない。すり替える前の論点と、すり替えた後の論点を言語化してくれない?」 「え?」    そいつは腕を組んで悩み始めた。  あーでもない、こーでもないとうめいた挙句、最後には俺をにらみつけてきた。   「論点をずらすな!」    そして、走って逃げていった。  きっと、自分でも論点がわかっていなくて、ふわっと何かが違うと思ったから、反射的に口癖が出たのだろう。  理由が分かってすっきりした。    俺はすがすがしい気持ちで家に帰り始めた。  せっかくだ、途中でカフェにでも寄って帰ろう。

店主の秘密

 そのタコ焼き屋の店主の親爺には、カミさんの他に、愛人がいた。正確には、それは愛人ではなく、愛タコだった。何匹も愛タコがいた。この親爺はタコたらしだった。とにかくタコにモテた。水族館に、海鮮料理屋の生け簀に、そしてもちろんあらゆる海に、愛タコがいた。そしてこの親爺の恐ろしいのは、そうして囲った愛タコたちを、次々と殺して、店のタコ焼きの具にしてしまうことだ。殺タコはあらゆる場所で行われた。ある愛タコは、親爺に三本目の脚を愛撫されながら、包丁で刺し殺された。ある愛タコは、ドライブで訪れた明け方の海で、絞め殺された。ある愛タコは、耳元で愛の言葉をささやかれながら、沸騰している熱湯にぶち込まれた。そうして死んだ親爺の愛タコたちは、切り刻まれ、タコ焼きの具に姿を変えていった。親爺はそのことに快感を感じていた。異常者だったのだ。親爺のカミさんは、愛タコの存在を知らなかった。ただの平凡な、多少仕事熱心なタコ焼き屋の店主だと思っていた。しかし、そんなカミさんも、夫に関して、一点だけ、不審な点があることに気づいていた。この親爺は、いつもポケットに一枚の写真を忍ばせていた。そして時々それを取り出して眺め、ため息をついているのだった。カミさんが以前、そっと写真を覗き見ると、そこには、一匹のイカが写っていた。

初夢

 物心ついた時から、私は変な夢を見る子どもだった。それは桃色の遊園地だったり、延々と続く海だったり、しゃべる鳥の群衆だったり、ポツンと置かれたコタツの中だったりした。  覚えている夢の記憶でいちばん古いのは、小学一年生の頃。まだ入学してまもない私は、気づくと公園のベンチに座っていた。隣には、若い女がいた。とても人の良さそうな女で、耳に響く柔らかい声で私の名前を呼び、「一緒に遊ぼう」と誘ってきた。  当時の私は、なんとなくうなずいて、女と飽きるまで公園で遊び尽くしたものだった。夢の中では、何十回も日が暮れては昇るを繰り返していた。けれど、私も、あの女も、そのことをみじんも気に留めてはいなかった。今に思えば、不思議である。  女と遊んでいたら、いつのまにか、病院のベッドの上にいた。看護師があわてて医者を呼びに病室を出て、その後から涙目の父親が抱きしめてくれたことを、よく覚えている。どうやら私は一ヶ月以上も眠っていたらしい。そう聞いた時、私はこれまたなんとなく、「夢の中で過ごした時間の分のだけ、現実世界の時間も経過するのだ」と気づいていた。  この出来事が起きた後も、私は定期的に変な夢を見ていた。そのたびに、私は現実の世界で眠り姫となった。ありがたいことに父親も友達も、私の奇妙な習慣に理解を示してくれてはいた。変な夢を見るからといって、私自身のことを拒絶されなかったのは、本当に不幸中のさいわいだった。私は皆の支えもあって、無事に小学生、さらに中学生を卒業することができた。  ただ、いつまでも変な夢を見ているわけにはいかなかったらしい。私の奇妙な習慣は、高校入学と共に終わりを迎えた。なんの前触れもなく。あまりにも唐突だったから、その事実を理解するまでに半年を要した。  ある日、友人の一人から唐突に言われた。 「将来の夢ってある?」  ――思いっきり、金づちで頭をなぐられた。そんな感覚。とっさのことに、私は何も答えられなかった。  夢なんて、ない。そんなもの思いつかない。てか、そもそも将来の夢って、なんだっけか。  昔は夢の中に閉じこめられて、いつ現実に戻ってこれるかも分からない日々を過ごしていた。それが私にとっての当たり前だった。今の眠りに閉じこめられて、未来など見る余裕はない。  そんなだから、進路のことを考えるのは苦手なのか。なんて、自分に対し、ちょっと自覚的になったりした。  夢が見たい。あの奇妙な日々を、また送りたい。  いつしか私は、そう願うようになっていた。  めぐりめぐって、20回目の新年を迎えた夜。私は夢を見た。  天高くそびえたつ富士山と、空を翔ぶ二羽のタカのみに焦点を当てるなら、ただ縁起の良い初夢にすぎない。けれど、私の本能は、またしても明晰な事実をたたき出していた。  ひさしぶり、元気にしてた? 私は遠く離れた故郷へと戻ってきた気持ちになって、目前の富士山に「やっほー」と叫んでみたり。  ぽんぽん。後ろから肩をたたかれて。ふり返れば、麦わら帽子をかぶったオバサンと目があった。彼女の手には、三本のなすび。  ああ、本当に素敵な年を迎えられそうだ。なんて、のんきに思ったりして……。ふと、どこか童心をくすぐられるような感じがして、思わず口を開いていた。 「私のこと、覚えてますか」  どうして、そんなこと、口にできたのだろう。べつに私は、なすびオバサンに対して見覚えの一つも抱きはしなかったのに。  でも、オバサンは屈託なく、にこっと笑って、「そうですね」と言うものだから。私は少々、オーバーに驚いてしまった。 「もう遊びつくしたでしょ。いいから、これ持って帰んなさい」  そう言って、なすびを押しつけるオバサン。私の胸にぎゅっと押しあてる、その重みがやけにリアルで。私は思わず、オバサンの腕ごと握りしめていた。しっかり、しっかりと。  次に目を覚ましたのは、夜明け前。  私は私の家で、私のベッドの上で、はっと両の目を開いた。そっとスマホをつけると、ホーム画面に「1月1日」の文字が浮かびあがる。  ほっと安心して、つかの間。脳裏にオバサンの笑顔がよぎった。  あれは、きっと母だ。若くして亡くなった。生来からの持病だったらしい。もしも生きていたら、ちょうど今年で50歳になるだろうか。  自分の胸元を抱いていた私の腕から、ほのかに香るなすび。窓から見えるは、ぼんやりと輪郭を描いていく朝日。  夢、見つけたいな。  私はなんとなく、けれどもしっかりと、そう思った。

思い出

 コンビニの棚に並んでいたおにぎりの中に、具が『思い出』と書かれたおにぎりがあった。一つ買って、公園のベンチで食べた。おにぎりをかじると、かじった所から、赤いものが見えた。シャケかな。だがそれは、赤い風船だった。赤い風船が一つ、出てきた。そして、浮かんで、晴れた空に消えていった。あれが『思い出』か。赤い風船が見えなくなるまで空を見つめた後、米だけになったおにぎりを平らげた。

よく考えれば

 そのコンビニのレジには、コンビニの制服を着たネコだけがいた。二本足で立って、ぼーっとしている。いつもそのネコだけだった。いつも客のいないコンビニだった。ある日、そのコンビニに強盗が入った。ネコが店番なら、最悪引っかかれるだけで済むだろうと、強盗は思ったのだ。ネコはナイフを突き付けられた。そして、レジの機械を開けるよう命令された。ネコは抵抗することなく、レジの機械を開けた。強盗はナイフを突き付けたまま、持ってきた鞄に金を詰めようとした。しかし、そのレジの機械に入っていたのは、金ではなく、全て、キンギョだった。小さな水槽がはめこまれていて、そこでキンギョが泳いでいた。ネコの店員は上目遣いで強盗を見つめていた。「くそっ」と叫んで強盗は何もとらず走り去った。アジトに戻った後、強盗は「よく考えればわかることだった」と思った。しかしすぐに、「やっぱりよく考えてもわからないぞ」と思い直した。

絵はがき

「向こうから絵はがき送るね」天国へ旅行へ行く前、友人はそう言った。「楽しみにしてる」と私は答えた。友人は旅行鞄に荷物を詰め込み、首を吊った。天国へ旅立った。数か月後、友人の名前が書かれた絵はがきが、届いた。裏面を見ると、地獄の風景が印刷されていた。『こっちに落とされちゃった』隅っこに、震える字でそう書かれていた。

洗う

 休日、長雨が止んで、久しぶりの快晴になった。絶好の洗濯日和だった。ぐうぐう寝ていた家族を叩き起こし、頭部の蓋を開かせ、脳みそを取り出した。そして、お隣さんに頼み、洗濯機で洗ってもらった。もちろん、自分の脳みそを取り出すことも忘れない。そしてそれをお隣さんがベランダに置いておいてくれて、乾いた後は、霧吹きで湿らせて、私たちの頭部に戻してくれる。脳みそがない間は動けないから、お隣さんにそんなことを頼むしかないのだ。幸いお隣の奥さんはとても親切な方なので、脳みそを洗う時はいつも快くそれを引き受けてくれる。今回もそうだった。後でクッキーでもお礼に持っていこう。まんじりともしない休日が終わり、脳みそが、私たちのそれぞれの頭部に戻された。意識が戻ったその瞬間、脳裏に浮かんできたのは、お隣の奥さんのあられもない姿だった。「何だこれは」そう思った瞬間、夫が言った。「何かおかしいな」すぐにわかった。お隣の奥さんが、私と夫の脳みそを反対に入れたのだ。そしてさっきのお隣の奥さんの裸姿で、夫とお隣の奥さんが浮気していることもわかった。私は何も言わず、子どもたちに手伝ってもらって、脳みそを元の居場所に入れてもらった。「ああ、びっくりした」夫が笑った。私も微笑みを返しながら、「お隣の奥さんは、わざと反対に脳みそを入れたのかもしれない」とふと思い、背筋を凍らせていた。

爽やかな香り

 夏の昼下がり、カーテンを開ける。青空に入道雲がそびえ立っている。窓を開ける。風が吹く。雲用接着剤の爽やかな香りが、部屋の中に、風とともに吹き込んでくる。入道雲はすっかり修復されている。職人の技に感心する。昨日戦闘機の翼によってつけられた傷は、どこにも見当たらない。

濡らす

 母の葬儀に出席した人間は、やはり私だけだった。広い会場の椅子にずらりと座っていたのは、みな喪服を着せられたマネキン人形だった。葬儀は粛々と進み、私が弔辞を読む時間がやってきた。私はマネキン人形たちの前に立ち、弔辞を読み始めた。すると葬儀場のスタッフたちが現れて、霧吹きで、マネキン人形たちの目を濡らし始めた。父の葬儀の時は、スポイトを使っていたので、涙に見えたが、霧吹きでは涙に見えない。ここの葬儀場のスタッフは雑だな。私は思った。もしかしたら、私の葬儀の時は、濡らすことすらしないかもしれないな。私はむしょうに寂しくなった。だから、その時の弔辞は、感情がこもっているように聞こえただろう。人間が聞けば。

本を捨てる

 真夜中の図書館に、痩せた女が現れて、きょろきょろと辺りを見回し、誰もいないことを確認すると、図書館の入り口に、段ボール箱を置いて、足早に去っていった。段ボール箱の中には、一冊の本が入っていた。ボロボロの本だ。表紙の文字はかすれて見えない。あちこち破れていて、カビが生えている。段ボール箱の中で、その本は、かすかに息をしていた。先ほどの女は、死にかけの本を、ここに捨てていったのだ。そして本は静かに息絶える。ゆっくりと、腐臭が辺りに漂い始める。それは生き物の死体とは全然違った臭いだ。やがて、黒い、小さなものが集まってきて、本の死体に、たかり始める。それは、びっしりとたかっているそれは、小さな疑問符だ。すぐに本の死体は、この小さな疑問符に覆われる。疑問符たちは本の死体を、少しずつ食っていく。街灯に集まった昆虫たちが、呆れたように、その光景を眺めている。やがて本の死体は疑問符に食い尽くされる。もっともその頃には、疑問符たちは栄養を得て、すべて感嘆符に変わっている。先ほどの女が捨てていったこの本は、良い本であったことが、それでわかる。感嘆符たちは、満足したように、どこかにある住処に帰っていく。段ボール箱の中に残されたのは、一枚の栞だけだ。

栄養価

 田舎道に、野菜の無人販売所がある。近所の農家の人たちが作った新鮮な野菜が、並べられている。そんな野菜の棚の横に、天井から縄で、裸のおじさんが吊るされている。おじさんの足元には小さな看板がある。『たまご無料』そう書かれている。一日に三回、この無人販売所の管理人が来て、おじさんに食べ物と水を与える。おじさんはそれを食べると、卵を一個、産み落とす。管理人はそれを籠に入れ、看板の前に置く。この無人販売所に来てくれた人に対する、ちょっとしたサーヴィスだ。おじさんの卵は、味は良くないが、栄養価は高い。それは、おじさんのこれまでの人生経験が詰まっているからだ。今吊るされているおじさんは、国立大学を卒業した後、大手商社に就職したが、そこでの激務で精神を病んでしまい、辞職した。それからは様々な職場で、アルバイトや契約社員として働きながら病気の治療を続け、いつしか卵を産むようになり、そして、今現在は無人販売所に吊るされている。人生いろいろなのだ。今のおじさんの目は、これまでの人生の中で、一番輝いている。

おままごと

 外回りの最中、小さな児童公園に立ち寄り、ベンチに座り缶コーヒーを飲んで休憩していた。砂場に、二人の少女がいた。片方は活発で、片方は大人しかった。活発な方の子が色々と遊びを提案し、大人しい方の子がそれに従っていた。俺はぼんやりそれを眺めていた。すると、活発な方の子が言った。「おままごとしよう!」大人しい方の子がうなずいた。「どっちがママやる?」活発な方の子がそう尋ねると、大人しい方の子が手をあげた。「オッケー!ちょっと待ってて!」活発な方の子がそう言って立ち上がり、辺りをきょろきょろと見回した。そして、俺と目が合った。「そこのおじさん!」活発な方の子が俺に駆け寄ってきた。「何だい?」「おままごとに付き合って!」俺は戸惑ったが、とにかく仕事をしたくなかったので、「いいよ」と答えた。活発な方の子は砂場に戻り、俺に手招きした。「パパの役でもやらされるのかな」そう思いながら砂場に行くと、活発な方の子に「そこに寝て!」と言われた。俺は面食らったが、とりあえず、砂の上に横になった。すると大人しい方の子が言った。「ご飯よ」「はーい、ママ!」そして、木の枝で俺の体や腕をつついては、それを自分たちの口元に持っていき始めた。「おじさんがご飯なのかい?」俺は尋ねた。活発な方の子が答えた。「この子の家は、人間の死体を食べるの!」俺は「ふうん」と言った。「美味しい?」「うん、ママ!」しばらくして、俺は再び尋ねた。「人間の死体はどんな味がするんだい?」大人しい方の子が答えた。「死体は喋りません」俺は「ごめん」とつぶやいた。顔が真っ赤になっているのが、自分でわかった。二人の少女は、くすくす笑っていた。

自信

 中年男が、砂浜に座って、ぼんやりと海を眺めている。この男は、床屋を営んでいる。長く生きていれば、そういうことがあるものだが、この男は最近ついていない。そして、そのせいで床屋の仕事にひどく自信を失っている。この日は定休日ではなかったが、男は店を休みにした。床屋の仕事しか知らなかった男は、深い不安の中に沈んでいた。これからどうしよう。いつもハサミを握っている右手を見つめた。その時、男の目の前を、一匹のカニが通りかかった。男は海からカニに視線を移した。カニには立派なハサミが生えていた。男はとっさに、カニを捕まえ、その立派なハサミをちぎりとった。そして、死んだカニを海へ放り投げ、ハサミをポケットに突っ込んだ。それで、男は少し自信を回復したので、海を去ることにした。

首を傾げる

 深夜の高級マンションのエントランスに、男が入っていく。男は高級なスーツを着ている。男は高級な鞄を持っている。男には頭部が無い。男は顔認証システムのカメラの前に立つ。もう一度言うが、この男には頭部が無い。男は鞄を開ける。鞄の中にはいくつもの生首が入っている。男は威厳のある老人の生首を取り出し、カメラの前に掲げる。反応がないので、今度は品のある若い女性の生首を取り出し、カメラの前に掲げる。反応がないので、今度は色気のある中年男性の生首を取り出し、カメラの前に掲げる。どれも反応はない。男は立ち尽くす。そして、無い首を傾げる。

そんな彼女を

 駅前の広場でギターの弾き語りをしていた。ギターケースを目の前に置いていた。小銭を入れてくれる人がいた。俺は感謝しながら弾き語りを続けた。すると目の前に、骨壷を抱えた老人が立った。老人は俺の演奏を聴いた後、骨壷から骨片を一つ取り出して、ギターケースに入れた。そして去っていった。そんな日が何日も何日も続いて、俺の家には骨片が溜まっていった。そして老人はある日、頭蓋骨をギターケースに入れて去っていった。それ以来、老人は姿を現さなかった。俺は持ち帰った頭蓋骨と今までの骨片を組み合わせ、一人の人間の骨格を完成させた。それは可憐な一人の女性だった。俺はたちまちその女性に恋をした。次の歌はそんな彼女を想って作った曲です。

偽りのたこ焼き

「たこ焼き下さい」 「はいよ。どれにする?」    メニューを見ると、並んでいるのはたこ以外の具材。  いか。  わかめ。  マグロ。  イワシ。  マシュマロ。  チョコ。  グミ。  アメ。    たこ焼き器は熱を帯びている。  たこ焼きだけど、たこ以外を小麦粉で包んで焼くらしい。   「え? これ、たこ焼きなんですか?」 「おうよ。立派なたこ焼きよ。牛丼屋だって、豚肉を丼に乗せてるだろ」    納得はできなかったが、一度注文した以上、断る勇気もなかった。  一番たこに近そうな以下を頼んだ。   「はふはふ。うまっ」    たこ焼きではなかった。  味が違う。  弾力が違う。  それでも、不景気ってこんなものかと、意外と美味しく食べられた。

明日に越える

「あなた、誰?」  退廃的で錆びた鉄骨の街で、名も知らない目の前の少女はそう私に訊いた。  自分が誰なのか。考えたこともなかった。けど考えたとて、答えには辿り着けない。 「さあ。貴方こそ、どうしてこんなところにいるの?」  人の気のひとつもない、木々と蔦に埋もれた山奥の廃駅。軋む金属の音に混じる、不可思議なその声を一粒ずつ嚙み砕く。 「どうして、ね。わからない」  結局お互い、何もわからないままで。今私がすべきと残っている事は、この錆びた道に沿って奥へと進んでいくことだけだった。 「どこ行くの?」 「もっと深くへ。貴方も来られないほど、誰にも見つからない場所に」  そう言って、突き放したつもりだった。どこの誰かも知らない誰かを。 「どうして、着いてくるの?」 「だって、あなた以外に誰もいないから」  真っ当な、しかし厄介な理由。人から離れてここに辿り着いた私にとっては、まさに天敵のような存在だ。  ギシャリ、と砕けたガラスを踏む。いつのものかも分からないほどに褪せて破れた新聞紙を横目に、私はなんとなしにそこに停まっていた列車を見上げた。 「あなたもおいでよ」  それと同時に、列車の上から少女の声がする。 「危ないよ」  裏側にあるらしい梯子から上へと登ったらしい。  声を掛けても降りる様子のない少女の様子を見るため、私もまた梯子へと向かった。  上に足を乗せたその瞬間、妙な振動を感じる。列車が、どういうわけか動き出したのだ。  徐々に上昇していく車体。離れていく地面を見下ろしながら、もう戻れない、なんて考えていた。  ……考えてみれば、ここに来る前にはもう全てが終わっていた。既に戻れなくなっていたのだから、これ以上どこへ行っても進むしかない。  やがて列車は雲を突き抜ける。蒼が広がる空を、私と少女は進んでいた。 「ねえこれ、どこに行くのかな」 「わからない」  そう、わからない。まるで人生みたいに、この列車のダイヤは誰にもわからない。 「……私ね」  そう、先に口を開いたのは私の方だった。 「叶えたい、夢があって。それなのに、叶うわけないって。自分の人生を、決めつけちゃって」 「それじゃあ疲れちゃうね。もっと、理想を描かないと」  諭すようにそう放った少女は、優しく笑っていた。誰かも知らないのに、私はその顔に微笑み返す。 「願ったなら――」  少女が何かを言いかけた、そのとき。 「あっ」  突然、私の身体が滑り落ちる。ぶつかってくる空気に押され、傾いた車体の端へと落ちていく。 「待って!」  少女が手を伸ばす。それでも、私は手を伸ばさなかった。  ――  そのまま私は、いつの間にか暗くなっていた空を真っ逆さまに落ちていく。夜空で輝く星と終わりのない地平が、逆さまの世界に映った。  世界が変わった、なんて少し大げさだけど。そんなことを本気で思っていた。  気付けば私は、広い草原の真ん中で目を覚ましていた。遠くには、淡い朝焼けの光が広がっている。 「あ、起きた。そこで倒れてたから、心配したんですよ」  知らない男性が、少し離れたところからそう声を掛けてきた。私はずっとここにいたのか、あるいは列車から落ちたのか。それはどちらかわからない。それでも、あの夢のような景色は、きっと本当のことだったんだと思う。 「遠くから来たんですか?」 「まあ、はい」  立ち上がった私と彼は、お互い視線を合わせずに会話をする。 「遠いでしょうし、乗っていきますか?」  彼は、そう言って軽トラを指差した。きっと、そうするしかないことを私もわかっていた。  何より私は、あの今日の日の最前線を目指したくて堪らなかった。  それは、いつか願った明日に届くため。  十三秒先が分からなくたって。今は幸せが分からなくたって。  精一杯私を生きるために。