論点をすり替えるな

「おーい、論点すり替えないでもらっていいですかー?」    まただ。  こいつは、論点のすり替えという指摘を、口癖のように言うようになった。  正直、自分の中では論点がすり替わってなどいないので、こいつの言葉の意味が分からない。  だから、聞いてみることにした。   「ごめん、自分ではすり替えたつもりがないからわからない。すり替える前の論点と、すり替えた後の論点を言語化してくれない?」 「え?」    そいつは腕を組んで悩み始めた。  あーでもない、こーでもないとうめいた挙句、最後には俺をにらみつけてきた。   「論点をずらすな!」    そして、走って逃げていった。  きっと、自分でも論点がわかっていなくて、ふわっと何かが違うと思ったから、反射的に口癖が出たのだろう。  理由が分かってすっきりした。    俺はすがすがしい気持ちで家に帰り始めた。  せっかくだ、途中でカフェにでも寄って帰ろう。

ワンシーン

くたびれたトレンチコートに黒いハット、火のついていないタバコを咥えたいつもの装いでHはその部屋のインターフォンを鳴らす。 「どーぞー」 可愛らしい少女の声を待って、扉を開けた。 「やあ」 ひらりと片手をあげ、いつもの面々に挨拶をする。 勝手知ったる仕草で帽子とコートを所定の場所に掛け、 「美味しい珈琲が手に入ったからね、お裾分けに」 と紙袋を軽く掲げた。 「お、いいねぇ」 筋トレをしていたAが食いついた。HとAはいずれ劣らぬ珈琲好きである。 「ラテでもいけるらしい」 とブラックが苦手なKとCにも告げる。 「あら嬉しい♪」 Cは弾むように応えて、 「早く早くっ」 とKをせっついた。 「わーったよ」 仕方ない、というふうにKが立ち上がる。 さほど珈琲通でもないのに、どうしたことか彼が淹れる珈琲は絶品なのだ。 「うちも道具にはこだわってるつもりなんだけどねぇ」 Hはふむ…とKの仕事を眺める。 「いいアブラが出てんじゃね?」 「やだーおにぎり握ってんじゃないんだから」 Kの適当な返しにCが突っ込む。 冗談混じりに近況報告などをし合っているとあっという間に準備が整った。 「はいどーぞ。火傷すんなよ」 カップはそれぞれのお気に入り。雑貨屋の物だったりどこだかの土産物だったり友達の結婚式の引き出物だったり。 「そういえばいただきもののビスケットがあったんだわ」 Cがポンと手を叩いて立ち上がり、可愛らしい装飾の缶を持ってきて真ん中に置いた。 「これは…!」 「合うねぇ」 「マリアージュってこういうことを言うんだわ!」 「また持ってこいって言っとけ」 各々絶賛し、飾らないお茶会は続く。

遥の見ていた、あの夏の続き。

 彰人の横を歩くとき、私はいつも少しだけ歩幅を合わせる。  昔からの癖だ。無意識にそうしてしまう。  久しぶりに会った彰人は、やっぱり彰人だった。  背は少し伸びて、声も落ち着いたのに、考え込むときに視線を逸らすところは変わらない。 「変わってないね」  そう言いそうになって、やめた。  変わってないなんて言葉は、今の私たちには軽すぎる気がしたから。  私はずっと、後悔していた。  中学最後の夏、彰人が何か言いたそうにしていたこと。  あの夕焼けの中で、私が一歩踏み出さなかったこと。  もし、あのとき勇気を出していたら。  そう考えては、何度も自分を責めた。  コンビニのアイスケースを覗きながら、私は少しだけ安心していた。  彰人が、ちゃんと私の昔を覚えていてくれたことが、嬉しかった。  ——まだ、終わってなかったんだ。  ベンチに座り、溶けかけたアイスを見つめる。  言葉にするのは怖かった。でも、言わなければ、また同じ後悔を繰り返す。 「私さ、高校のとき……彰人が好きだったんだよ」  声が震えないように、できるだけ淡々と言った。  告白というより、事実を置いていく感覚だった。  彰人の「俺もだよ」が聞こえた瞬間、胸の奥が熱くなった。  ああ、やっぱり。そう思って、少し泣きそうになった。  でも、過去に戻りたいわけじゃない。  私は、今の彰人と話したかった。 「これからは、ちゃんと話そうよ」  自分でも驚くほど、素直な言葉が出た。  逃げないでいたい。今度こそ。  改札の前で別れるとき、振り返りそうになるのをこらえる。  ここで振り返ったら、また昔に戻ってしまいそうだったから。  電車に乗り、窓に映る自分を見る。  少しだけ、強くなった顔をしていた。  青春は、あの夏で終わったんじゃない。  言えなかった気持ちを抱えたまま、大人になっただけ。  次に会うときは、過去じゃなく未来の話をしよう。  私はそう、心の中で決めていた。

君が来るまで

車の中で妻を待つ コンビニに荷物が届いているからと 出かける準備をしていたので 僕も一緒に行くよと伝えて一時間がたつ 僕は気付けば寝てしまっていて 妻が毛布をかけてくれる そのタイミングで目が覚めて まだ妻は出かけてない 息子に微熱があるということで テレビを観ている息子に毛布をかけて厚着をさせて 僕は先に車に行くと言うと 妻は息子がみかんを食べ終わってから行くと言う それはみかんが喉に詰まらないか心配だから あれから一時間がたつがまだ妻はこない 優しく思いやりのある妻は 自分の事を一番最後にする 自分の事を一番最後にした妻に 遅いとは言えないだろう さて何をして君を待とうか

凍える朝

 スマホのアラームで目を覚ます。午前六時。  カーテンの隙間から差し込む光は冬らしく白く冷たい。布団から出ると、ワンルームの空気が刺すように寒い。エアコンをつけたい衝動に駆られるが、電気代が頭をよぎって指が止まる。  社会人一年目の給料は思ったよりも心許ない。月末はいつも、ぎりぎりだ。  洗面所で顔を洗う。鏡の中の自分は、学生の頃より幾分か疲れて見える。昨日も残業だったし、今日も朝から会議がある。  キッチンでコーヒーを淹れ、小さなベランダを見ると、手すりに薄い霜が張り付いていた。  その白さを眺めていたら、あの朝の光景がよみがえった。    ****  実家の冬の朝は、とてつもなく寒い。  布団の外に出た瞬間、肌を刺すような冷気に身震いする。吐く息が白い。大学の寮では冬でも暖房が効いていたから、実家にいるんだとしみじみ思う。  時計を見ると午前六時。スマホでSNSを眺めると、サークル仲間の飲み会写真や、先輩の就活愚痴が流れている。指で画面をスクロールしながら、布団に戻って二度寝しようか迷っていた。  そのとき、庭から微かな音が聞こえた。カーテンを開けると、白く凍った庭に、人影がある。  祖父だ。分厚いジャンパーを着込み、剪定鋏を手に庭木を整えている。白い息が煙のように立ち上り、芝生は霜で真っ白に凍りついている。 「じいちゃん、何してんの。寒いから中入ってよ」  玄関を飛び出し、庭に出ると、冷気が頬に刺さった。祖父はこちらを向き、笑った。 「 こんなん、寒いうちに入らんだに。  この時期に切っとかんと、春に困るだよ」  俺は父の古いジャンパーを引っ張り出し、庭に戻った。祖父が差し出した小さな鋏を受け取り、低い枝を頼まれる。  かじかんだ手はうまく動かないが、作業を続けているうちに、少しずつ体が温まってくる。 「大学はどうだい」 「まあ、普通」 「友達はできたか」「それなりに」  素っ気ない返事をしながら枝を切る。  祖父は余計な口を挟まず、黙々と鋏を動かす。沈黙が気まずくて、俺はつい口を開いた。 「最近、体調どう?」 「ぼちぼちだな。歳は取りとうねえ」  祖父は笑った。だけど、その笑顔は去年より少しだけ細く見えた。 「この庭、お前が生まれる前からだ。もう三十年以上だか」 祖父は目を細めて庭を見回した。 「春には梅が咲くし、お前が好きだった椿ももうすぐつぼみが膨らむずら」  忘れていた。椿が好きだったなんて。  椿は花ごと落ちる。小さな頃、その花をたくさん拾って並べて遊んだような──微かに思い出せる。  空が明るくなり、凍った芝生が溶け始める。  作業を終えると、祖父は「助かったわい」と俺の肩を叩いた。その手は驚くほど軽かった。  母が淹れた熱い緑茶を飲む。祖父はこたつで目を細めている。 「また帰ってきたとき、庭仕事手伝うよ」  そう言うと、祖父は一瞬目を丸くする。その後ふふっと嬉しそうに笑った。 「ああ、待ってるずらよ」    ****  あれから三年が経った。  就活が始まり、帰省の暇もなくなり、内定、卒業、就職。気づけば三年が過ぎていた。  祖父が倒れたと連絡が来たのは、去年の秋。慌てて帰ったが、祖父はもう眠ったまま反応がなく、その一週間後、静かに息を引き取った。  葬儀の日、庭を見た。木々は伸び放題で、雑草が生い茂っていた。  あのときの梅や椿は、今年も咲いたのだろうか。霜の庭に立つ祖父の姿が、鮮明に思い出される。    ****  コーヒーが冷めていく。時計を見ると、もう出発の時間だ。スーツを着てコートを羽織り、ドアを開けると冷たい風が吹きつける。  駅へ向かう道を歩きながら、俺は思う。  あの日、もっと話せばよかった。素っ気ない返事じゃなく、ちゃんと言葉を交わせばよかった。そして約束を守ればよかった。  満員電車に揺られていると、スマホに母からメッセージが届く。 「今度の週末、暇だったら帰ってこない?  お父さんと庭の手入れをしようと思う。手伝ってくれたら嬉しい」  少し考えて、返信する。 「わかった。帰る」  電車が止まり、ホームに降りる。今日も長い一日が始まる。  でも今は、週末が待ち遠しい。  実家の庭で、父と剪定をする。手はかじかむだろう。でも動いているうちに温まる。今度こそ、約束を守る。  凍える朝は、いつか温かい朝に変わる。祖父がそうしてくれたように、今度は俺が温もりを手渡す番だ。  雲の切れ間から青空が覗く。冬は長いけれど、春はきっと来る。  何気ない冬の朝。祖父との、たぶん特別でもない時間を思い出しながら、俺は歩き続けた。

今日からみなさんに、ちょっと「ありがとう」を禁止してもらいます #6

けれど、所詮はよせ集めの反政府勢力、限界があった 政府側は、国の様々な機関に属する人材を総動員した それにより武器の密輸ルートはつぶされた ローラー的に反政府勢力のアジトがあぶり出され、逮捕者がぞくぞくと増えていく 諸外国の理解も取りつけた政府側は その正当性を主張すべく、反転、攻勢に転じていく はたして、反政府勢力を鎮圧したのだった その結果、しぶしぶではあるのだけれど 国民は総じて、この法律を守ることになる そのしぶしぶの国民の総意を受け、総理大臣の記者会見が行われた 「多くの混乱もありましたが感謝禁止法を順守していくとの国民の声には  心から感謝する次第です、国民のみなさん、ほんとうにありがとう」 自ら法を犯した総理大臣は辞任 感謝禁止法は、即時、廃止となった

小説を書きたいけど書かかない人へ送るデブからのありがたい言葉

「安西先生。小説が、書きたいんです」 「書けばいいじゃん」    至極当たり前のアドバイスをしたはずなのに、目の前の人間は渋い顔をした。   「それは、そうなんですけど」 「うん」 「書けないんです」 「なんで? 腕にマヒがあるとか、激務で起きている間ずっと仕事してるとか?」 「そうじゃないんですけど」 「じゃあ、書けばよくない?」 「……酷い! パワハラだ!」 「えぇ……」    私は真摯にアドバイスをしたはずなのに、目の前の人間は泣きながら走り去っていった。  泣きたいのはこっちだ。   「意味わかんね」    書きたいなら、書けばいい。  もしかして、目をつむっていたら妖精さんが勝手に小説を書いてくれるとでも思っているのだろうか。  もしかして、AI様が頭の中をスキャンして代わりに小説を書いてくれると思っているのだろうか。  小説を書くのは、人間だ。  書きたい小説があるのなら、それを書くのは他でもない自分なのだ。  ならば、書くしかない。  書けないなんて言う暇があったら、書くしかないのだ。   「まあいいか。人のことを気にしている場合じゃない。書こ」    そんな人間もいるんだなあと、私は一つの学びを得て、パソコンに向かった。  パソコンの隣にお菓子に、自然と手が伸びる。  美味い、高カロリー最高。  これは頭が回復する。   「はー、瘦せたいなあ」    さ、書くか。

今日からみなさんに、ちょっと「ありがとう」を禁止してもらいます #5

国中が殺伐とした空気となった それでも守らないといけない、そういう法律なんだから 当然、反発はあるわけで、反政府勢力なるものも結成され 各地でデモやらなんやらが起こった いまの内閣をぶっ倒し、あの法律を廃止に追いやる、と なかには、これを機に革命までをも成し遂げる なんていう物騒な者たちまで出てきてしまう始末 そういった勢力は、当然、個々に戦っていたのでは勝ち目がない なんたって相手は国なんだから そこで話し合いの末、ひとつにまとまることになった 彼らは口々に 「同志よ、手を取ってくれてありがとう、感謝する」 と法律に反する言葉をあっさり口にした その様子はネットを通じ、動画配信された その動画を視聴した多くの者たちは、当たり前に 「ありがとう」 と言えることをうらやましく思い、次々と反政府勢力へと加わった そして、さらに「ありがとう」の輪が広がっていった

初めてじゃない、はじめて。

 待ち合わせ場所に着いたとき、私は思わず深呼吸をした。  高校生の頃みたいに、制服じゃない。  でも、緊張の仕方だけは、あの頃と同じだった。  彰人は、先に来ていた。  スマートフォンを見ながら、時々周囲を気にしている。  その姿を見た瞬間、少しだけ安心する。 「おはよう」 「……おはよう」  ぎこちない挨拶。  でも、それが嫌じゃなかった。  今日は特別な場所に行くわけじゃない。  駅前を歩いて、カフェに入って、映画を観る。  それだけなのに、心臓は落ち着く気配がない。 「その服、似合ってる」  突然、彰人が言った。  目は合わない。 「……ありがとう」  褒められるなんて思っていなかったから、返事が遅れた。  カフェで向かい合って座ると、妙に距離を意識してしまう。  テーブル一枚分の間隔が、こんなに遠かっただろうか。 「緊張してる?」  私が聞くと、彰人は苦笑した。 「ばれてたか」 「うん。昔から」  その一言で、二人とも少し笑った。  笑うと、不思議と肩の力が抜ける。  映画館を出たあと、夕方の風が心地よかった。  何気なく歩いているはずなのに、手と手の距離が気になる。  信号待ち。  彰人が、少しだけ私の方に寄る。 「……手、つなぐ?」  その声は小さくて、でも逃げなかった。 「うん」  答えると同時に、指先が触れた。  ぎこちなく、でも確かにつながる。  懐かしいはずなのに、初めてみたいだった。 「なんかさ」  彰人が言う。 「今のほうが、ちゃんと好きって言える気がする」  私は、少しだけ強く手を握った。 「私も」  夕焼けの中を歩きながら思う。  遠回りした分、今はちゃんと向き合えている。  これは、青春のやり直しじゃない。  あの頃の続きを、大人になった私たちで歩いているだけ。  信号が青に変わる。  つないだ手を離さずに、私たちは一歩踏み出した。

桜の咲く時 彼を思い出す

注意 これは私が経験した事が書いてあるので… 気をつけて読んでください 今日は、彼に会うのが最後の日 彼は、元気いっぱいでギャップがある人だった 私は最後の日だから告白をした、最後の日には、公園に行く道中に、手を繋いだりしたら、彼は、顔を避けていた、でも最後の最後にハグをしてくれた…またどこかで会える時には、また会いたいと思う私だった…… 桜が満開の時期 桜を見ると何故か、彼を思い出した…心は、ボロボロになった、私にとって彼と遊んだ日々が…幸せの時間だったと思う…また会えたら、笑顔にしてくれるか考えてしまう… また会えたら、笑えますように……

太陽が昇っただけ

 初日の出を見るために、山へ登った。  山と言っても、獣道なんてけったいな道がある場所でなく、幼稚園児たちのお散歩にも使える遊歩道のある低山だ。  ぼくと友達は暗い時間から歩き始め、息が上がることなく到着した。  多少体が温まったが、寒空には負けてしまう。    山頂には、同じことを考えている人が集まっていた。  ぼくと友達は、海の見える場所に立って、日の出を待った。  こういうとき、身長が高くてありがたい。   「寒いね」 「ねー」    息を吐いて手を温めること数十分。  黒が暖色を帯びて来て、海から太陽が顔を出した。   「初日の出だ!」    ぼくは光りの出る場所を指差した。   「豊栄登(とよさかのぼり)だ」    友達は、未知の言葉を口にした。   「豊栄登?」 「あ、ごめん。朝日が昇ることを、そう言うんだ」 「へえー。初めて聞いた」 「ぼくも、最近知ったんだ」 「なんて書くの?」 「豊かに、栄える」    周囲では、スマホを取り出して初日の出を写真に収める人ばかり。  実に現代的だ。  でも、ぼくと友達の周りだけは、古い貴族の家にタイムスリップしたような感じがした。    太陽の光。  豊かな光。  栄の光。  初日の出の光を浴びていると、神聖な気分になった。    ぼくは二回手を叩き、太陽に向かって一礼した。  二礼二拍一礼の方が良かったかなと思ったが、手を叩くことから始めてしまった手前、そのままでいく。  友達はぼくを見て笑い、ぼくといっしょに二拍一礼をした。   「なんか、いい年になる気がする」 「ぼくも」    そのまま太陽全部が顔を出すのを見届けた後、家に向かって歩き始めた。    豊栄登。  毎年見ている初日の出が、言葉一つでこんなに変わるとは思わなかった。  家に帰ったら、親の辞書でも引っ張り出してみようかと、なんとなく思った。

秘密の標本

「あら珍しい。父さん、元気?」  電話口から娘の声が聞こえる。 「週末、時間あるか。少し話したいことがあるんだ」 「うん、大丈夫。土曜の午後なら行けるよ。どうしたの?」 「いや、大したことじゃない。顔を見たくなっただけだ」  娘は少し笑って、わかったと言った。電話を切ると、私は書斎の棚を見上げた。  そこには背表紙に年号だけが記された黒いノートが、五十三冊並んでいる。「秘密の標本」とも呼ぶべきコレクションだ。  医師から余命を告げられた日から、私はこのノートたちの処分について考え続けている。     ****  最初の一冊は、大学時代に始まった。親友が酔った勢いで漏らした告白──好きな女性の名前、抱えていた借金、父親への憎しみ。  翌朝、彼はきっと忘れているだろう。でも私は忘れられなかった。だからノートに書き留めた。それが始まりだった。  教師として三十年。隣人として、友人として、私は人々の秘密を「聞いてしまった」。  職員室での同僚の愚痴、保護者面談での家族の事情、喫茶店で偶然耳にした他人の会話。  人は私に秘密を打ち明けたがった。  ノートには日付とイニシャル、そして秘密が几帳面に記録されている。  それは私なりの「人間理解」だった。秘密を知ることで、人の本質が見えると信じていた。     ****  しかし今、これらをどうすべきか。  燃やすべきだろうか。だがこれは私の人生そのものでもある。  誰かに託すべきか。それは秘密の裏切りになる。  迷いながら、私は一冊のノートを手に取った。一九九五年と書かれている。  ページを繰っていくと、妻のイニシャルが目に入った。 「M.T.は言った──  あなたは人の秘密ばかり集めて、自分のことは何も話してくれない。私はあなたの妻なのに、あなたを知らない」  指が震えた。これは秘密ではなかった。妻の訴えだった。  なのに私は、それを一つの「標本」として記録し、理解した気になっていた。そして何も変わらなかった。  あの夜の台所の光景が蘇る。 「ねえ、あなた。人の話ばかり覚えてるけど、私のことは覚えてる?」 「覚えてるよ。そんなことしつこく言うな」 「覚えてるって言うけどね、私には“あなた自身”が見えないの」  妻はそう言って、少し笑った。  私にはその笑顔の意味が分からなかった。いや、分かろうとしなかったのだろう。  妻は五年前に亡くなった。最期まで、私は自分を見せることができなかった。  私は最後の一冊、二〇二五年と記された新しいノートを開いた。白いページに初めて「自分自身の秘密」を書く。 「私は人を愛する方法を知らなかった。  秘密を集めることで人に近づいた気がしていたが、それは一方的な覗き見だった。  私自身は、誰にも触れられない場所で標本を眺めていただけだ」  深く息をついてペンを置き、私はすべてのノートを庭に持ち出した。  焼却炉にノートを一冊一冊投げ込む。ノートは、ゆっくりと炎に包まれていく。  人々の秘密が、煙となって消えていく。  五十二冊まで投げ込んだ後、ただ一冊、最後のノートだけは残した。     **** 「明日行くけど、何か必要なものない? 買い物してから向かうよ」 「ああ、そうだな。牛乳が切れていたかもしれない」 「わかった。他には?」 「いや、それだけで十分だ」  明日、娘が来たときにこのノートを渡そう。私の唯一の、本当の標本として。  秘密のコレクションは終わる。初めて、誰かに自分を見せることができる。  遅すぎたかもしれないが、それでも。

猫の名前

ある朝、目が覚めると俺は猫になっていた。 目線は明らかに低く、全身を覆う毛の感触がどうにも落ち着かない。 寝起きでただでさえ働かない頭に、この異常事態が追い打ちをかけてくる。 状況が理解できず、混乱するしかなかった。 試しに声を出してみる。 喉から出たのは――「ミャー」。 頭の中では乾いた笑いがこみ上げるのに、耳に届くのは甲高い猫の鳴き声だけだった。 少し落ち着こうと周囲を見渡す。 そこは見知らぬ部屋だった。 雰囲気からして、どうやら若い女性の部屋らしい。 カーテンは中途半端に開き、部屋は決して綺麗に片付いているとは言えない。 生活感の残るその様子から、飼い主の性格までなんとなく想像できてしまう。 この猫の飼い主はすでに起きているのだろう。部屋にはいなかった。 俺はベッドから飛び降りた。 自分の身長の何倍もある高さのはずなのに、着地の衝撃はほとんどない。 躊躇なく跳び降りた自分自身にも驚いた。 部屋から出ようとドアに向かうが、ドアノブに届かない。 こんなにも猫の体は不便なのかと思いながら、何度か跳びついてみる。 そのとき、廊下の方から足音が近づいてきた。 何か話しながらこちらへ向かってくる。 はっきりとは聞き取れないが、おそらくこの猫の名前を呼んでいるのだろう。 ドアが開いた。 そこには、二十歳を少し過ぎたくらいの女性が立っていた。 微笑みながら俺を呼び、自然な仕草で抱き上げる。 ――まずい。 完全に日本語を話しているはずなのに、言葉の意味がまったく理解できない。 焦りと不安が一気に押し寄せる。 そこでようやく気づく。 「ああ……俺は、猫だから人の言葉がわからないのか」 無理だと分かっていても、伝えたくなる。 俺は猫じゃない。人間だ。 そう叫び続ける。 でも、ふと思う。 本当に俺は人間だったのか? 俺の人間の頃の名前は? 思い出そうとしても、何ひとつ浮かばない。 さっきまで動き回って鳴いていた俺が急に静かになったのを見て、彼女は不思議そうな顔をした。 顔を近づけ、何かを優しく語りかけてくる。 今しかないと思った。 俺は全身に力を込め、思い切り叫んだ。 ……けれど、喉から出た音は、少し強めの「ニャー」だった。

ティーカップ

 外は風が強くて、木々がざわざわと鳴いていた。  冬の初めの空気は乾いていて、ひとりでいると、なんだか胸の奥まで冷えてくるようだ。  食器棚の奥から、久しぶりにあの箱を取り出した。紺色のビロードの箱。中には磁器のティーカップとソーサーが二客眠っている。白地に淡い金の縁取り、小さな花々と緑の葉。指でなぞると、ひんやりとした磁器の感触が伝わってくる。  これを最後に使ったのは、いったいいつだったろう。たしか、夫が亡くなる少し前──二人で小さなケーキを分け合って、おしゃべりをした午後だ。  その夫が、このカップを買ってくれたのは初めての結婚記念日だった。新宿の百貨店で、私はお小遣いの範囲で買えるものを見ていたのに、彼が「どうせならいいものを」と言って、ずいぶんと高いティーカップを差し出したのだ。 「他のは少しずつ揃えような」と、彼は言った。  けれど、息子が生まれ仕事に家事に追われるうちに、そんな余裕はなくなってしまった。  あのブランドも、日本から撤退したと聞いたとき、夢がはじけて消えてしまったようで寂しかった。  そんな思い出をたどっていると、玄関の方から声がした。 「ふみさん、ただいまー。英国展、すっごい行列でしたー」  息子の嫁、佐和子さんが息を弾ませて入ってくる。手には百貨店の紙袋。 「さすが人気の店、スコーンが残り二個。危なかったぁ」 「あなたにお任せして正解ね、行列っていうだけで私はパス」 「ふみさんのためなら、並ぶのなんてなんのそのですよ」 「はいはい、口のうまいこと」  思わず笑ってしまう。ほんとにこの人は、いつも調子がいい。 「ご指定のクロテッドクリームもありましたよ。  このレモンケーキも美味しそうで地下で買ってきました」 「まあ、素敵。じゃあ、お茶を入れましょうか」  佐和子さんがスコーンと焼き菓子をトースターで温める。今はリベイクというらしい。  ケトルが小さく唸り始め、湯気が立ちのぼる台所に甘い香りがただよう。  私はそっと、さっきのティーカップをテーブルに置く。 「あら素敵なカップ。初めて見ました」 「とっておきよ。普段使いは絶対ダメ」 「取り扱い注意ですね」  佐和子さんは「ふふ」と笑って、温まった菓子とスコーンを皿に並べ、ジャムとクリームを添える。気づけば、テーブルには可愛いブーケも飾られている。 「さあ、ふみさん。  アフタヌーンティーのお支度ができましたよ」 「素敵……本当に百貨店のティールームみたい」  カップを持ち上げる。軽い。薄い磁器が光を透かす。口をつけると、懐かしい感触が唇に触れた。  温かいスコーンに、佐和子さんが驚くほどクリームを盛り、ジャムをのせて頬張る。  佐和子さんの手作りジャムは、甘味と酸味のバランスが丁度良く、クリームと共にスコーンの小麦の味を引き立てる。  そこでまた紅茶を口に含むと、香りが鼻に抜けていく。 「美味しいわ」 「良かった。ふみさんが喜んでくれて」  手にしたティーカップを、そっと手で包み込む。 「これね、結婚記念日にって夫に買ってもらったの。  若い頃はね、これでアフタヌーンティーをするのが夢だったのよ」  ティーポットからおかわりを注ぐと、紅茶の香りがふわりと広がる。琥珀色の液体の向こうに、昔の私がうっすらと見える。  忙しくて余裕がなくて、それでも楽しかった日々。初めてのアフタヌーンティーは、ティーパックの紅茶に、駅前の和菓子屋さんで売っていたカステラ。  イギリス映画の中に出てくるティースタンドに憧れたけど、夢また夢。せめて雰囲気だけでもと、背伸びして買ったティーカップ。  小さなちゃぶ台にそれらしく並べて、二人で笑いながらお茶を飲んだ── 「ふみさん、夢は叶ったじゃないですか」 「そうねえ、美味しいものばかりで嬉しいわ」  ティーカップの金の縁取りが光を受けて、ほんのり輝いている。湯気の向こうで、佐和子さんが笑っている。その笑顔を見ていると、ほんのりと心が温まる。  夫のいない寂しさは、消えることはない。でも、その隙間をそっと埋めてくれる人がいる。 「おいしかった。……買ってきてもらったの、全部食べちゃったわね」 「大丈夫、レモンケーキ残ってますし。  一雄さんには栗きんとんも買ってきました」  息子が紅茶よりは緑茶が好きなことをわかってる、さすがは佐和子さん。この人がいて、本当に良かった。 「ふみさん、今度ホテルのアフタヌーンティー行きましょうよ」 「嫌よ、混んでいるんでしょう」 「予約すれば大丈夫ですよ、マダム二人でおしゃれして楽しみましょうよ」 「あら、あなたマダムになれるの」 「……努力します」  笑い声と紅茶の香りが、やさしく部屋を満たしていく。  昔の約束の続きを、ようやく果たしているような気がした。

第21話「鰐口」・カンカン、と鳴った時

端をめくると、彼女は今日もらった御朱印の押されたページに驚嘆した。大胆な墨跡が、鶴の群れのように御朱印の中を優雅に飛び立っていた。冬の光で黒さが輝き、書に魅惑的な効果を与えていた。見るたびに、彼女は静けさと内省を感じる。突然、カンカンという金属音が彼女を引き戻す。見慣れない神社の前にいることに気づき、驚いた。 雪に覆われた石の鳥居の先には、小さな神社へ続く階段がある。かつて神社に塗られた真っ赤なペンキは、今では白い雪に色褪せてしまっていた。その欄干では、冷たい風にボロボロのお札が静かに揺れていた。 彼女はかすかなガサガサという音を聞く。それに共鳴するかのようにカンカンという音が再び鳴る。フェイクファーのマフラーを直し、着物の裾を引き上げ、神社の境内に足を踏み入れた。自分が発見するかもしれないものに彼女の好奇心は刺激された。周りを見回すと、雪の中に奇妙な足跡があった。それが彼女をさらに奇妙な生き物へ導いた。 それは鱗で覆われた魚の体をしていたが、4つの爪のある足で動き回っていた。頭は神社の青銅の鰐口のようで、短い歯が並んでいる。お札に激しく噛みつき、引き裂こうとしていた。お札がついに破けると、それはリスのように走って雪の森の中に消えていった。 彼女はそれが戻ってくることを願いながら辛抱強く待っていた。すると、それは叶った。今度は子犬ように彼女へ一直線に向かってくる。しかし、ガチガチと金属音を立てながら口を開閉し、彼女に突進して手から御朱印帳を奪った。肉を引きちぎろうとするワニのように激しく御朱印帳をズタズタにした。 彼女は身の危険を感じて逃げ出した。鳥居を駆け技けたとき、カンカンという金属音が冷たい空気に響き渡った。それから彼女はただ黙って放心状態でそこに立っていた。 再びカンカンという音。夢から覚めたかのようにまわりを見渡すとバス停の前にいた。手には破れた御朱印のページがまだ残っていた。

今日からみなさんに、ちょっと「ありがとう」を禁止してもらいます #4

スーパーや街の商店なんかで買いものをしてみる 店員は 「ありがとうございます」 とは言わない 頭を下げるのも感謝の意味になるのでそれもなし ただ無表情で簡潔に作業をするだけ アンドロイドがやっているみたいでなんだか不気味だ 電車やバスに乗ってもおんなじこと 「ご乗車まことにありがとうございます」 とはならない タクシーに乗ったら、運転手がムスッとして横柄な態度 え、なになに、タクシーはこの法律ができる前も同じだって まあ、それは言わないで 学校で、落としてしまった消しゴムをとなりの生徒が拾ってくれても 「あんがとねー」 「サンキューサンキュー」 「いやいや、すまんな」 とも言えない これじゃあ、気になる女子のとこにわざと消しゴムを落として それをきっかけにお近づきに、なんてことができなくなってしまう

化け猫兄妹

 夜風も暑苦しくなってきた、金曜日の夜。山吹色の浴衣を着たアイは、エレベーターでマンションの駐車場に下りた。すると、車の陰から茶トラの雄猫が姿を現した。 「やっと来た! アイもそろそろ夏休みでしょ? 森に帰ってきなよ」 「お盆休みはまだ半月後! ウチはマサ兄と違って仕事があるの」 「マジ? 人間忙しすぎだろ」  トラ猫は呆れたようにそういうと、次の瞬間には黒い浴衣を着た青年の姿に化けていた。髪は明るい赤毛で、吊り目の瞳は緑がかっている。けれど顔立ちが素朴なせいか、あまり目立つ風貌ではなかった。  そんなマサを兄にもつアイも、人間に化けている猫だ。働いているので三毛柄だった髪は黒く染めたが、目はどうやっても隠せない。好奇心いっぱいにキョロキョロ動く緑がかった目は、兄と違ってパッチリしていてよく目立つ。なので毎日嫌々黒いカラコンをつけて出社しているのだった。 「いやー、でもマジで久しぶりだよね。アイが森を出てから……4ヶ月?」 「あれ、まだそんくらいだっけ? 長く感じたなぁ」 「せっかく会えたしさ、森でなんか遊ばない? 鬼ごっことか」  マサは若い雄猫らしく、動きたくてたまらないようだった。そんな精力に満ちた目を、アイは一瞥してため息をつく。 「いや、それはないよ。ウチ、金曜でクタクタなんだけど。マサ兄が呼んできたから来ただけだし」 「冷た〜。俺、せっかく新しい術見せようと思ってたんだけどな〜」 「え、なんかできるようになったの⁉︎」 「見せてやろっかな〜、どーしよっかな〜」 「見せて見せて! お願い!」  アイはさっきの気だるさは何処へやら、元気いっぱいにそう言った。マサはニヤッと笑って落ち葉を一枚拾った。 「しゃあねぇな〜」  ぽん、と煙が出たかと思うと、葉っぱは紙人形に変わっていた。マサはブツブツと呪文を呟く。猫は狐狸ほどではないが妖力を持っているので、実は人間のように唱える必要はないのだが……アイはそんなこと知らないし、マサはかっこよくて気に入っているので、いつもこうなのだった。  紙人形はするりとマサの手を抜け、ひらひらと落ちていった。すると、人形の足が地面についた途端、紙がぴたりと動きを止めた。そして、子供のようによたよたと歩き出したのだ。 「え、すごい! 歩いてる! やだ、どうやってんの? ねぇマサ兄……」  アイは感激して大騒ぎした。が、その途端に紙人形はふらつき、ぺたりと倒れてしまった。マサは舌打ちした。 「あーもう、うるせぇな! 集中力切れるだろ!」 「は? ウチせっかく褒めたんだけど!」 「もっと静かに褒めらんないの?」 「マサ兄ウザい!」  わぁわぁ騒ぐ二匹の兄妹を、細い街路樹が静かに見下ろしている。その葉をそよがせる夏の風は、かすかに故郷の森の匂いがした。

今日からみなさんに、ちょっと「ありがとう」を禁止してもらいます #3

各メディアは、その法律について 成立してしまったあとになってやっと取り上げはじめるといった具合 そういった意味では、メディアにだって責任の一端はあるはずだ 割を食うのはいつでも国民 寝耳に水の状態となり、一時、混乱を極めた しかし、国民も国民だ なってしまったものはしかたがないと、受け入れる者が後を絶たない なんたること 政府の側も、あきらめがいい国民のことをちゃあんと理解している 感謝禁止法に関して、メディアが取り上げる機会も、人々が会話のネタにすることも だんだんとすくなくなっていった 感謝というのは日常生活に深く根づいたもの 果たして国民の生活はどう変化していくのだろうか

配達先シリーズ ~誰にも言えないこと~

夫は配達の仕事をしている。 夫は配達の途中、佐藤商店に立ち寄るのを少しだけ楽しみにしていた。五十代のご夫婦が切り盛りする小さな店は、いつも穏やかな空気に包まれていた。子どもに恵まれなかったという二人は、夫を「息子みたいなものよ」と笑い、温かく迎えてくれる。 仲の良い夫婦。 少なくとも、表向きは。 夫の違和感は、奥さんの話から始まった。 ある有名な選手の熱烈なファンで、その選手が自分を愛していると本気で信じているらしい。SNSには年齢を感じさせない写真を載せ、彼への想いを綴る。 「彼は、私にだけ違うの」 そう言って奥さんはスマートフォンを胸に抱いた。 「誰にも言えないことを、私には話してくれるのよ」 その言い切り方に、根拠はなかった。 画面に映るメッセージは、丁寧で、優しく、どこか感情に寄り添う言葉ばかりだった。夫は微かな違和感を覚えた。 奥さんは過去のことを、ある日ぽつりと話した。 若い頃、夢を追って上京したこと。評価されず、地元に戻ってきたこと。 結婚は恋愛ではなく、お見合いだったこと。 「好きとか、選ばれたとか……そういうの、最初からなかったの」 “仕方なく”決まった結婚。 「悪い人じゃないのよ。でもね……最初から私は“代わりのきく人”だった」 さらに追い打ちをかけるように、望んでも子どもが授からなかった。 「みんな、当たり前に持ってるものを、私は何一つ手にすることができなかった」 そう言って遠い目をしていた。 「私ね、"特別"になりたかったの。」 奥さんのその言葉には、執着に近い確信があった。 誰からも選ばれなかった人生で、たった一人に選ばれているという実感。それだけが奥さんの支えのようだった。 だからこそ、SNSの中の彼は特別だった。 誰もが憧れる存在が、自分だけを見ているという構図 奥さんには、彼が強く輝いて見えた。 最初は軽い気持ちで「いいね」を押しただけだった。 ——君の言葉は、他の誰とも違う ——君は特別だ ——君だけが分かってくれる 奥さんは、送られてくるその言葉を何度も読み返したという。 「ねえ、分かる?“特別”って言われるの」 夫は答えられなかった。 ある日、奥さんは困ったようにでも嬉しそうに夫に言った。 「彼の"特別"になるって大変ね」 その瞬間、夫の背中を冷たいものが走った。 帰宅後、夫は妻に佐藤商店の話をした。 妻は黙って聞き、静かに言った。 「それ……何かの詐欺じゃない?」 夫の脳裏をよぎっていた言葉を妻も口にした。 妻と夫は調べてみた。 奥さんが見せてくれたアカウントには公式認証がなく、フォロー数やプロフィールなどに違和感を受けた。 愛情を示し、特別感を与え、孤独につけ込む。 ロマンス詐欺の典型的な手口。 翌日、佐藤商店へ行ったとき奥さんはいつもと変わらない笑顔で言った。 「最近ね、少し返信が遅いの。 でも……忙しいみたいだから仕方ないよね」 夫は何も言えなかった。 真実を突きつけることが、彼女を救うとは思えなかった。 そして、ふと気づいた。 旦那さんは、その話題になると必ず席を外す。 知らないのではない。知っているのだと思った。 帰宅後、夫は妻に再び佐藤商店の話をした。 妻はしばらく黙り込んでから言った。 「それ……もし誰かが現実を突きつけたら、どうなると思う?」 夫は答えられなかった。 あの奥さんにとって、妄想は逃避ではない。 唯一の自尊心だったからだ。 その日はたまたま近くを通りかかった夫。せっかっくだからと佐藤商店に顔を出した。 夫は何気なく旦那さんの手元を見た。 ガラケーではなく、見慣れないスマートフォン。 旦那さんは慌ててスマートフォンを隠した。 その瞬間、すべてが繋がった。 旦那さんは、奥さんを誰よりも理解していた。 しかし一度も"特別"だと思えなかった妻。 そして、自分もまた—— 「選ばれていない男」だったことを知った。 お見合いで始まった結婚。 とはいえ旦那さんは奥さんの事を愛していた。 だから旦那さんは、有名人になりすました。 妻が絶対に疑わない存在を演じた。 妻が欲しがる言葉を、正確に与え続けた。 奥さんは誇らしげに言う。 「私は、あの人にとって特別なの」 奥さんは、何も疑っていない。 信じているのは、画面の向こうの言葉だけだ。 穏やかな店、優しい夫婦、温かい言葉。 その裏で続いているのは、 愛するために人格を捨て、 妻の幻想を壊さぬために現実を歪め続ける関係。 次に佐藤商店へ配達に行くとき、夫は二人の顔を直視できないだろう。 そこには、救いの形を間違えた末に辿り着いた、 取り返しのつかない愛の形があるのだから。

プロポーズ

 千鶴子と初めて会ったのは初夏の河川敷だった。  直樹が二十一のときで、工場の先輩に無理やり誘われて参加したバーベキューの場だった。肉の焼ける匂いといくつもの煙草の煙が交錯するなか、千鶴子は瓶ビールをラッパ飲みしていた。その所作は遠慮のかけらもなく、だが下品でもなかった。目が合うと「おいしいよ」とだけ言って、また瓶に口をつける彼女だった。  あれから十年が経とうとしている。  年に数度は二人で飲みに出掛けたり、遠出をしてドライブに行くこともあった。会うたび束縛気質の彼氏に辟易していると愚痴を聞くのも、いつだって二人きりだった。 「彼氏にバレたら大目玉だよな」 「刺されるかもね」  いつだって誘いの連絡をいれるのは直樹からで、逆に彼女が誘った回数なんて片手で数えられる程度だった。  互いに踏み込まない距離が、空気のように続いてきた。  直樹は不思議だった。なぜ彼女は自分と距離を取ろうとしたこなかったのか。人付き合いが多く、誘いの連絡がひっきりなしにくる彼女だから。そう思い続けてきた。 「……だからね、言ってやったのよ。結婚してくれるなら考え直すって」 「え?ああ」  その日もドライブだった。ハンドルを握る手が汗ばんで、動悸が強く打った。彼はなんとか笑って誤魔化した。  半年後、千鶴子から彼氏と別れた話を聞いて、直樹は決断した。  ――居酒屋で飲むのでも、旅行に誘うのでもない。ただ公園のベンチに呼び出した。  木々の葉は色づきはじめ、足元にはいくつかの栗の殻が転がっていた。 「急にどうしたのよ」  千鶴子はベージュのロングコートに腕を通しながら、白い息を漏らした。 「寒いね。こんな日によく外に呼び出したもんだわ」  ベンチの隣りに座った彼女へ直樹は缶コーヒーを差し出した。自販機で温められたそれは、人肌ほどの温もりしかなくて千鶴子は受け取るとすぐにプルタブを捻った。 「十年。長いよな」 「なによ、急にしみじみしちゃって」 「うん、いや。お前と会うようになって、十年だって気づいたんだよ」  会話はぎこちなく、だが他人行儀ではなかった。そうした話し方が二人の関係の輪郭を象ってきた。  陽が傾きはじめる。風のなかに金木犀の匂いがうっすらと混じった。 「俺さ、誰かと生きていくの、向いてないと思ってた」 「うん。知ってる」 「お前にも何度か、そんなこと言ったと思うけど……」  そこで一拍、言葉が止まった。  千鶴子はコーヒーを置いた。空になっていた。 「やっぱりな、そうでもないかもなって思うようになって」 「ほう」 「お前となら、暮らしてみてもいいかもって、思うようになった」 「……ほう」  直樹の言葉は、どこか手順を間違えた告白のようだった。  沈黙を破ったのは千鶴子の笑い声だった。小さな皺が寄る頬に、彼女の年齢、ひいては二人が過ごしてきた時間が表れてると思った。 「で、どうしたいの?一緒に住む?それとも……」 「籍を、入れようかと思ってる」  風がまたひとつ、木の葉を舞い上げた。  千鶴子はコートの襟を引き上げた。目を伏せ、足元の小石をつま先で蹴った。 「なんで今なの?」 「なんでって……。いちいち言葉にしてたら、間に合わないことばっかりになる」 「ふうん……」  千鶴子は長く息を吐いた。空には秋色に染まったうろこ雲がのびていた。 「あなたさあ、これが一世一代って顔してるけど、そうでもないわよ」 「……」 「まあ、正直驚いてるし、なんて言ったもんか分かんないけどさ」 「俺はたぶん、お前を逃したら次はないと思ってるんだ」 「そんなことないと思うんだけどねぇ。女なんて星の数ほどいるのよ」  直樹は功を焦り「応えは?」と迫った。 「即答しろって?」 「いや、いま答えなきゃ。この流れ、二度と戻らないかもしれないぞ」 「それはズルいな」  千鶴子は立ち上がり、二人分の空き缶を持って何も言わずに歩き出した。  直樹もそれに続く。彼女の後ろ姿を見つめながら内心泣きそうだったし、僅かばかり目頭が熱くなってるのを、女の勘は知っていたかもしれない。  彼女の住むマンションの前まで辿り着いて千鶴子が振り返った。 「ま、考えとく。またね」  直樹は笑って、「おう」とだけ返した。  千鶴子の姿がエントランスに消えた途端、直樹はその場に座り込まずにはいられなかった。  どうにでもなれ。  コンビニでウイスキーを買った直樹は、ラッパ飲みをしながら歩き続けた。それはいつか、初めて千鶴子を見た時、瓶ビールをラッパ飲みしていた彼女に似ている。  他人と一緒に生きる彼女は想像に難くない。出会ってすぐの頃も、千鶴子はまた別の男と同棲していたし、その男とも彼女を介して顔なじみだ。  千鶴子が自分から離れてしまう現実感ばかりに苛まれながら、直樹はただ応えを待つ他ないのだった。

白線以外全部マグマ

「はい、お前死んだー! 白線の上以外は、全部マグマでーす」    子供が笑いながら言いました。  それを聞いた神様は、老眼鏡をかけました。   「ほうかほうか。ここは地面じゃなくてマグマだったのか。近頃、物忘れが悪くていかん。直しておこう」    神様は、白線の上以外を全てマグマにしました。        ベビーカーが白線の上を通ります。   「すみませーん、通りまーす」 「あ、すいません」    正面から来た歩行者は、スマホから目を話し、逆方向へと歩き始めます。  なにせ、白線は細いです。  すれ違いなんてとてもできません。   「あ」 「あ、落ちた」    高齢者がこけました。  そして、白線の外、マグマの中に落ちました。    ジュジュジュジュジュ。  肉と骨が焦げる音がして、マグマの中に消えました。    それを見ていた周りの人は、急いで写真を撮って、警察署へと送りました。  マグマは何も残しません。  よって、誰が落ちたか記録しないと、死亡したのか行方不明なのかわかりません。    サーファーがマグマの上でサーフィンします。  マンホールからマグマが吹き上がると、いい波が起きるのです。   「いよいしょー!」 「キャー! かっこいいー!」    格好良く波に乗ることのできる人は大人気です。  命がけのエンターテイメントは、若者を中心にムーブメントを起こしました。    神様の孫は、困り果てました。  なにせ、祖父の間違いを直そうと急いで駆けつけてみれば、人間たちが思いのほか順応していたからです。  社会システムも作り替えられ、今マグマでなくせば、逆に混乱する危険性があったからです。   「人間ってすごいなあ」    神様の孫は世界を眺めた後、人間に化けて、最近の流行と言うマグマで焼いたハンバーグを食べに向かいました。

溶けた消しゴム

 ぐっすり眠るためにアラームを切ったのに、起きたのはいつもと同じ時間だった。足元の窓から覗く空は灰色だ。  体には眠気が残っているのにどうしてだか意識だけが冴える。心臓の拍動ばかりが内に響き、警告を発しているかのようだ。  いくら夜更かしをしても、いくら寝不足でも、平日と同じ時刻に起きてしまう身体の癖は、習慣の一言で片付けるわけにもいかず、なんとなく異様な気がしてならない。  昨日は朝早くからサウナと岩盤浴に行って整えたはずだった。調子に乗って夜遅くまで起きていたのがいけなかったのだろうか。  しばらくベッドの上でショート動画を見る。1時間ほどしたところで這い出したが、重力とは別に、胃のあたりに鉄球のような重さを感じた。  コーヒーを無理やり流し込む。読みたくて堪らなかった『汝、星のごとく』を開いた。昨日は意識がこびりつくほど読めたのに、今日はページだけが進んで行く。なのに不思議と内容がわかるのは凪良先生の手腕によるものだろうか。  けれどそれも長く続かない。急にそっぽを向く幼稚園生のように、物語が私と距離を取る。触れようと手を伸ばしても払い除けられるばかりで、私は諦めた。気分を変えようと、『消滅世界』を本棚から取り出す。村田先生が書く小説は異様な世界設定のものが多い。だが、そんな狂気も今日は私を上書きしない。同様にしばらく読んだところで急に突き放されてしまった。  気散じに日記をとりまとめようとしたが、点で駄目である。自分の文章すら読みたくない。  煩悶していると、数ミリ大の蟻が机の上を這っている。私は舌打ちをして掌で叩きつぶした。衝動でコーヒーが少しこぼれた。ゴミのように丸まったそれを指の腹にくっつける。ゴミ箱に捨てようとするがなかなか落ちない。親指で擦るように払おうとするうちに潰れて蟻酸の匂いが付着した。  他に何匹もいるみたいだ。  どこから湧いているのだろう。読みかけの本や書き途中の原稿用紙をどかす。まるで庭先の石をどかしている心地だ。その下には大抵、ダンゴムシやらムカデやら、およそこちらを不快にする虫々がいた。  本の下に蟻はいなかった。  力なく椅子に腰掛ける。溶けた消しゴムを思い出す。あれは小学4年生の頃だったか。そこは日の光が入らない教室だった。空白ばかりが目立つところで、窓際にはストーブが置いてあった。その周りは鉄柵が敷かれていて容易には触れない。なのに、ストーブの頭にはチーズのように溶けた液体があった。よく見るとそれは消しゴムだった。  体に力は入らないのに、性欲だけは湧いてくる。後処理が面倒なので風呂場で抜いた。こんな気分なのに連続で二回達した。続け様に冷水を頭から浴びる。足先に厚底で踏まれたような痛みが走ったが、すぐにお湯をかけてやるとやわらいだ。  何も食べる気が起きず、でも何か食べた方がいいだろうと思って、食べずに残っていたブルーベリーを冷凍庫から引き出した。レンジで解凍し砂糖をまぶす。なんだか物足りない気がするのでキウイを輪切りにして乗せる。  別に美味くはなかった。  そのまま自室へ戻ってベッドへ潜りこむ。目的もなく動画を見ていると、だんだん意識がぼんやりしてきた。涎が手に垂れ腕を伝う。慌ててずずっと吸うが枕に染み込んでしまった。ひどく臭かった。  少し眠ればスッキリするだろうと考えて、仮眠をとった。このまま夕方まで寝てしまうのもたまにはいいだろう。だが、体は正直で20分ほどで目が覚めてしまった。  眠りが浅くなってくると胸のドクンドクンという感触が大きくなって不快になり起きてしまう。また眠れるだろうかとしばらくぼんやりしていたが、腰が痛くなって起き上がった。  日が沈み出した頃、ベッドに寝そべると、窓から青空の光が部屋に注いで視界がわずかに青くなった。冷たい川の底にいる気分になった。  そのおかげか、HIITだけはできた。今日唯一できたことだった。疲れた体に鞭を打ってやった甲斐もあり、少し晴れ晴れとした。額から出る汗が頬を伝い顎から落ちる。フローリングに点々となる汗は黒ずんで見えた。  拭き取るのも面倒くさく、そのまま蒸発してしまえと願った。  夜になるにつれ膝が成長痛のように痛む。何度も足を組み替えたり、立ったり座ったりと落ち着かない。すがるような気持ちで頭痛薬を飲んだ。  どうしても読みたかった小説を今日は読み進められていない。  乾いて固まった背中をググッと丸める。肩甲骨のあたりからひび割れが入ったように感じる。そのまま蝉の羽化のように別の何かに成れるのではないかと期待する。  今朝の潰れた小さな蟻のように、私は机に突っ伏したままでいる。

台風が教えた憩い

昨日の午後から台風の様な強い風達がロックや ヘビメタを奏で窓が揺れた私はその時来客達と 楽しくティータイム中クラシックが好きな泉は ヘビメタの盛り上がる場面はクラシックと同じ 激しい感じが似てると言い私は確かに窓が揺れ ガタガタと鳴る音は宿命の中間点に酷似してる 昔は台風が嫌いだった仕事の時間を切り上げて 電車やバスが運行してる内に家へ帰れと上司は 言う否貴方は役職手当有るし正社員だから早く 帰宅しても給料変わらないから良いだろうけど 私は派遣社員で時給の身の上早く帰ると其れが 給料に響く訳分かりますか社員様と笑顔で嫌味 返しすると決まって皆一瞬フリーズした思い出 そんな日に限り全然台風来ない時給だけ無駄に 引かれ何だろうこの理不尽の極みもう誰に文句 嫌味を言えば良いか分からず同期の娘に話せば 其れ台風の性じゃ無いと言い私は否台風来ても 無いのに帰宅指せた上司の責任でしょうと言い 何故だか憤慨してその後言葉を言う気も失せた 人間って馬鹿だ全部自然災害の仕業にしてもし 私が台風の立場なら警報だけで俺未だ出掛けて 無いし自分のミスを自然界に責任転換する娘も 馬鹿だなと罵倒するだろう風の仲間と居酒屋で

今日からみなさんに、ちょっと「ありがとう」を禁止してもらいます #2

「感謝の時間はムダです、そんなのに時間をかけてはいけない  時間のムダは、めぐりめぐって経済的損失につながる  感謝の言葉を口にする時間があったら、そのぶんを仕事にまわす  一回一回の感謝の時間はわずかだが、一日で考えたらケッコーなものだ  一ヶ月ではどうだ、一年ではどうだ。感謝なんぞにあてている多くのムダな時間を  仕事に、生産に、経済の発展にあてていく  そうやって積み重ねていくことで、この国は大きく発展していくのです」 とかなんとか、どこそこ選出の浅慮な国会議員のそんな言葉がきっかけだったのだが まったくもって不運なことに、そのどこそこのアレがいまの総理大臣だ 国民としては、たまったもんじゃあない いま大きく話題になっている汚職事件にも当然のように名前が見え隠れしている人物 感謝禁止法を成立させるのにも大金をばらまいたんだろう

苺のケーキの苺を最初に食べた

 私、好きな物は先に食べる派。  だから、ケーキの上に乗ってる苺を最初に食べちゃう。  ぱくぱくもぐもぐ。  ああ、美味しい。   「ぎゃー! あんた、何やってんの!」    いっけなーい。  お母さんにバレちゃった。   「めんごめんごー」 「あんた、どうすんのよコレ! ショートケーキならともかく」    怒らないでお母さん。  苺の乗ってないホールケーキだって、きっと美味しいよ。  パティシエさんたちが、一生懸命作ってくれたんだから。    私は食べないけどね。  もう、一番美味しいところが残ってないし。

今日からみなさんに、ちょっと「ありがとう」を禁止してもらいます #1

もはや恒例イベントとも言える与党議員による汚職事件 国会でその問題を厳しく追及していかなければならない側にありながら けれど、ちぐはぐでつめがあまく高校の生徒会かと思わせる風情の野党ども その追及のありかたが国民の意に沿って真に厳しいものなのか それとも同じ国会議員であることからくる同属意識的な奇妙でゆるゆるの甘々な 言わばねこパンチ的なものであるのか しかし、ここでの主たるテーマではない 連日、テレビや新聞など多くのメディアで取り上げられているそれらの話題の陰で いまの国会でひっそり成立した法律があった その名も「個人の感謝の表現に係る制限及びその表現者の処罰に関する法律」 通称「感謝禁止法」

メリーさんの最期

 メリーさん。  都市伝説の一つ。  突然電話がかかって来て、こう言われる。   「あたしメリーさん。今、○○駅にいるの」    電話は切られ、またかかって来る。   「あたしメリーさん。今、○○スーパーの前にいるの」 「あたしメリーさん。今、△△ってアパートの前にいるの」 「あたしメリーさん。今、×××号室の扉の前にいるの」    電話がかかってくるたびに、メリーさんは近づいてくる。  どこへ逃げようと。  どこへ隠れようと。    そして最後の電話で、こう言われる。   「あたしメリーさん。今、あなたの後ろにいるの」       「誰よ、その女!!」 「ギャー!」 「人がお風呂に入ってる間に、他の女を部屋に連れ込むとか信じられない! クズ! 死ね!」 「待て、誤解だ!」    背中を刺されたメリーさんは、そのまま倒れて動けなくなりました。   「あ、あたしメリーさん。至急、救急車を一台お願いするの。場所は」

ぐるぐる

 息子の描いた絵を部屋に飾る。  絵の具の着いた筆を、ぐるぐると動かし、別の色を筆につけてまたぐるぐる動かして。  出来た絵には幾つかの色が滲みあって、夢の中のよう。  どんな顔して描いたのやら。  どんな気持ちで描いたのやら。  

冬休み明け

冬休み明け、学校に行く。 ずっと暖かい家の中いたからか外がすごく寒く感じた。 待ち合わせてた友達と合流し、学校へ向かう。  その途中、理科の宿題を忘れたことを思い出した。まあいいや。 友達とおみくじの話で盛り上がっていると学校に着いた。 教室に入ってみんなに挨拶をする。 「ゆう、恋愛運どうだった?」 友達が聞いてきた 「“好きな人と話せるでしょう”だった!」 「おー、いいじゃん」 そこでもまたおみくじの話で盛り上がった。 君はまだ来ていなかった。 朝のホームルームの五分前に君は登校してきた。 はねている寝癖がかわいかった。 セーラー服のリボンも髪も結んでなかった。 ホームルームも始業式も終わり、休み時間になった。 本当は君とおみくじの話で盛り上がりたかった。 けれど君に抱いている感情が邪魔をして話しかけられなかった。 休み時間が終わり、係決めの時間がきた。 私は学習係になった。君は理科係になっていた。 短い学校が終わり、明日から授業が始まる。 今日も大好きな君も話せなかったな、と悲しくなっていたそのとき。 「ゆうちゃん、理科のワーク出した?」 セーラー服のリボンと髪を結んだ君が話しかけてくれた。嬉しかった。 「忘れちゃったんだよね。」 君にそういった。 「おっけ、私も忘れっちゃった」 君はそう言ってはにかんだ。 その笑顔は幼いときに見たピンクのビオラに似ていた。 「ゆうちゃん、ばいばい」 君はそう言った。名前とバイバイを言われたことが嬉しかった。 「すみれちゃん、ばいばい」 君に言い返した。 久しぶりに君の名前を呼んだ気がする。

全人類善人で悪人

 殴られた。  どつかれた。  いっぺーは、悪いやつだ。    ぼくのお母さんといっぺーのお母さんが学校に呼ばれて、教室の中で話し合い。  先生もいるから五人。  いっぺーのお母さんは、先生を睨んで大声を出した。   「うちの子は悪くありません!」    いっぺーを、悪いやつを庇った。   「いや、しかしですね」 「うちの子は被害者なんです!」 「たくさんの生徒が、いっぺー君がえいじ君を叩いたところを見ていまして」 「その子がいっぺーにちょっかいでもかけて、いっぺーを怒らせたんでしょ!」    いっぺーのお母さんは、今度はぼくを睨みつける。  ぼくのお母さんがぼくの前に立ったから、すぐにいっぺーのお母さんが見えなくなった。    ぎゃんぎゃんぎゃん。  ぼくのお母さんといっぺーのお母さんが、大声を出し合う。  余りにも五月蠅いので、耳を塞いだ。    耳を塞いだら、すごく変な感じだなって思えてきた。  いっぺーは、悪いやつだ。  だって、突然ぼくを殴って来たから。  でも、いっぺーのお母さんは、ぼくがいっぺーを怒らせたんだと言っていた。  ぼくを悪いやつだと言っていた。  悪いやつをかばっていた。    何でこんなことが起こるんだろう。  ぼくはぼーっと考えた。  いっぺーが本当はいいやつだからだろうか。  いっぺーのお母さんには、いっぺーはいいやつに見えるからだろうか。  それはどうして。   「わかった。いっぺーのお母さんも、悪いやつなんだ」    答えがわかったのがうれしくて、口に出した。  いっぺーといっぺーのお母さんが、ぼくの方を見た。  いっぺーのお母さんが、鬼のように恐い顔になった。    ほら、悪いやつだ。  結局、いっぺーから謝ってもらうこともなく、ぼくたちは家に帰ることになった。   「えいじ、ああいうこと言ったらあかんで」    帰り道。  ぼくのお母さんから叱られた。    悪いやつを悪いやつと言うことは駄目なことらしい。  誰がそんなこと決めたんだろう。  別の悪いやつが決めたのだろうか。    頭の中がぐるぐるして、いいやつも悪いやつも同じ場所にいるなんて、変な場所だなあと思った。

壁ドン。【コメディ】

相川さんのことが好きで好きでたまらないッ。 もう朝から晩まで考えてる。 俺のそんな気持ちを知っているのは親友の高木だけ。 「そんな好きならコクっちゃえよ」 高木が煽る。 それができるなら、こんな風に悩んでない! 「やー、だから勢いだって。あれ、壁ドンっての? 最近流行ってるらしいし、やってみたら? お前結構かっこいいんだしよ?」 自分でいうのもなんだけど、自分の見た目はちょっと自信がある。 「こー、萌えるシーンっての? 夕方とかに呼び出して?」 俺はとうとう高木の悪魔のささやきに耳を傾けてしまった。 というか、高木が勝手に呼び出しのラブレターを相川さんの靴箱に忍ばせたのを後から知った。 そんなことされたら、後に引けないじゃないか! 糞っ高木め! バクバクと高鳴るを気持ちをおさえながら、オレンジ色の夕日が差し込む校舎の裏に足を向けた。 そしてそこには……相川さんがもじもじしながら待っていた。 足が震える、肩があがる、俺がもし汗っかきなら多分汗だくだ。 俺は相川さんの前に立つ。 顔を上げた相川さんと目が合う。 心なしか、照れているように、みえなくもない。 夕日で赤く染まった顔がとてもきれいだ。 よ、よし、壁ドンだな! 勢いだな!? ドンッ! その勢いで、俺の目玉が零れ落ちた。 相川さんは気絶して倒れた。 あ……。 俺はその日、教訓を得た。 『ゾンビは壁ドンをしてはならない』

ステータス (掌編詩小説)

ゲームのステータスは上げるのに、自分のステータスを上げないのは、なぜでしょうね。 (完)

薄暗闇から

 この薄暗い部屋に閉じ込められて、一月が経った。部屋の中は質素な造りだが、ベッドは意外にも上質なマットレスで、シャワーとトイレも完備してあり、生活するには申し分ない。食事は野菜などの彩は無いが、三食差し入れられる。  堪えがたいことは、娯楽が少ないことだ。テレビやパソコンが無いのは勿論、所持していたスマートフォンも取り上げられている。何故かカバーを外された本だけは差し入れられるが、異常な状況では読む気力も湧かない。言わば、生きる楽しみを見いだせない空間。  犯人はわかっている。目の前にいる女だ。 「どうしてこんなことをするんだ」  鉄格子の向こうにそう詰問すれば、女はいつも困った様な表情をするばかりだった。   彼女のかつての交際相手に相談を受けたのが、出会いのきっかけだった。曰く、彼女は相手に尽くすタイプの女性で、しかしそれに際限が無い。ノイローゼになった彼が逃げ出し、身近にいた自分が次の寄生先として選ばれた。  意外にも彼女との生活は悪くはなかった。容姿は華美ではなく、常に地味な服装だったが、むしろ奥ゆかしく好感が持てる。流行の話題には疎いが、古文や歴史に造詣が深く、博識深い。聞いていた異常性を置いておけば、所謂大和撫子そのものだったのだ。  うまくいっていたはずだった。この場所に監禁されるまでは。  あの日は雪が降っていた。寒さに身を震わせ、数か月後に来る春を思い、道すがら在原業平や西行が詠んだ句について語った。 「和歌に詠まれる桜は、どうしてこうも魅力的なんだろう」 「昔は、今よりも目に入る色が少なかったですから、桜の初心な色ですら、貴重な彩、だったのでしょう」 「成程。そもそも現代とは環境が異なるか。僕もいつか全身で感激するような桜を見てみたいものだ」 「ええ、そうですね」  そんな些細な夢も語って、彼女も微笑んでいたというのに。  当夜、勧められるまま深酒をしてその後の記憶がない。目が覚めたらこの部屋にいた。初めは激昂して、それから諭すように、ある時は懇願に近い声色で、どんな言葉で尋ねても、彼女の答えは無いか、曖昧なものばかりだった。  彼女は、僕の思いを試しているのか? 監禁という行為が生み出す歪んだ関係性。被害者からの依存性を期待しているのだろうか。彼女の目的は、ただこうして廃れていく僕を、籠の外から眺めて居たいだけなのかもしれない。  薄暗い部屋で、食事と睡眠の数を数え、もう二月も経った。ひたすら薄暗闇の日々が続いたのだ。段々と、自分の中の何かがすり減っていくのを感じる。 「なあ、今日でもう二月だ。あんたはいつまでこんなことをするつもりなんだ?」  辛うじて、まだ忘れていなかった声と言葉で問いかける。どうせ返事は無い。宛てのない言葉は、壁の中に消えていってしまうのだろう。ただの独白だ。  そう自嘲しながらも、久々にあの困った顔つきを拝んでやろうと、俯いていた顔を上げた。彼女の唇が動いた。 「あと、二週間、くらい?」  食い下がるべきだったろうが、驚き、言葉が出ない。明確に期限を口にしたのはこれが初めてだった。彼女に何の変化があったのか。  その日を皮切りに、彼女は、毎日私の言葉に返事をするようになった。 「もうちょっと、今日は、まだ」 「まだ早いの、だめ」 「きょ、今日は、雨が降ったから」  ある日、聞きなれない金属音と共に、いつもとは異なる微妙な風の流れを感じた。ひた、ひた、と足音が近づく。顔を上げると、鉄格子の向こうの彼女が傍にいた。 「あの、これ」  差し出されたものは、黒いアイマスクだった。付けろというのだろうか。視線で問いかけても、困った表情をするだけだから、望まれるままに装着した。手を引かれ、立ち上がる様促される。僕は彼女のするまま、素直に従った。 「どこに向かっているんだ」  答えのないまま、歩いた。あの仄暗闇から解放されるのならば、どこでもいい。僕はあの薄暗い部屋を出たのだ。  途中から、足の裏に感じていたものが、コンクリートよりも柔らかい感触に変わった。風にのって、土と草の匂いがする。 「取ります、ね」  もう随分歩いたと疲労を感じ始めた頃、ふと立ち止まって彼女は言った。  髪が巻き込まれ頭皮が引っ張られたが、些細な問題だった。  流れ込む光の束に、すぐには目を開けなかった。ゆっくりと瞼の裏に馴染ませ、恐る恐る開いていく。  色の洪水だった。失くしていた色、求めていた色、知っていたはずのものが、未知のものに見えた。背丈を優に超える幹は、大地の色を吸い込んでいる。風に舞い散る花びらには、一枚一枚色があった。全て、異なる色なのだ。  言葉にならない僕に、彼女は嬉しそうに笑った。久しぶりに見た笑顔だ。僕は、彼女が僕を閉じ込めた理由を悟った。後はただ、手を握り締めて、桜を眺めた。

とじてひらいて

電話をしている彼女の顔が美しかった 楽しそうに恥ずかしそうに話している 彼女が頷くと髪が揺れてふわりと揺れて 頬がほわっとして笑うと僕の顔も笑っている 彼女の左手が空いている ひらひらと動いてはぎゅっとしてみたり ダランと下がっていたり 僕は右手を閉じたり開いたりしているのだけれども

肩の痛い僕の大切な彼女

肩の痛い僕の大切な彼女 僕の彼女はいつもどこかが痛いと言っています 付き合い始めの頃は言ってなかったはずだけど でも昔から肩が痛いとか腰が痛いと言っています 僕の彼女は可愛いです とても優しく美しい人です 髪はいい香りがするし 着ている服はとても似合っていて 素敵な物ばかり持っています 彼女は三日前から肩が痛いと言っています 僕は朝起きると彼女の肩を揉んでマッサージをします 彼女はとても効くと褒めてくれます 彼女は元気でよく話をする人だけど 少しだけ体のどこかが痛くなる人です だから僕は彼女を大切にしないといけないと思っています それなのに大切に出来ない日も沢山あります それでも彼女を大切にしていこうとまだ思っています

悪食

「白瀬先輩。どうして人間は、アダムと蛇のカップリングから生まれなかったのでしょうか」 初めて会ったとき、美織ちゃんは心から不思議そうな目をしてそういっていた。 彼女はいつも、定期的に良くわからないものに興奮して報告してくる。この間は、擬人化したバターとマーガリンの確執について一通り妄想を語られた。 雑音を嫌う私にとっては、非常にレアな友達。 最近のマイブームは、同級生同士の絡みらしい。 「今日なんて、事件ですよ事件。あの遠にゃんが起きてたんですよ。しかも、遠にゃんがたーくんに初絡み。映えますねえ」 ペラペラと口を回しながら、同じくらいに鉛筆を動かす。 万人受けはしないが、彼女の才能は大切にされるべきものだ。 好きを形にするスピードと精度は、簡単に身に付けられるものではない。 美織ちゃんのクロッキー帳には、すでに同級生二人の姿が写し出されている。 『遠にゃん』は知らなかったけど、『たーくん』はちょっと気になっている後輩だった。 「ねえ、美織ちゃん。せっかくだから、その絵を完成させてプレゼントしてみたら?今の推しなんでしょ、この子達」 「ないないない。私は壁のシミなんです。喋ったこともないし、キモがられたら死んじゃいます」 「だからいいのに」 「……悪いとこ、出てますよ」 「ごめん」 ちょっと調子に乗りすぎた。 「白瀬先輩って、変な人ですよね。みんなの憧れなのに、私みたいなのしか近くに置かないんですもん」 変な人。この子に言われるのか。 思わず、笑いがこぼれる。 「それこそ、壁のシミみたいなものだから」 「壁のシミと壁の花を履き違えないでください。たまに嫉妬されて大変なんですよー」 私は、友達を選ぶタイプだ。仲良くなれそうな子しか、側に置きたくない。 お高く止まっているなんて、自分が一部で陰口を叩かれているのも知っている。 それを負け犬の遠吠えと思えるように、最低限の見てくれは整えておこうと心掛けている。そういうところも、敵方は気に入らないのだろう。 「白瀬先輩って、好きな人とかいないんですか?」 「前に紹介したでしょ、私のカレシのゼタくん。静かで、聞き上手で、面倒見が良い男の子」 「……前に見せてもらった、熊のぬいぐるみですよね?」 「カレシだよ。生まれたときから、私の性格の悪さも浮気も全部許してくれる、素敵な存在」 私ののろけに対して、美織ちゃんは自分のことを棚にあげて複雑そうな顔をした。 「知ってますよ。たーくんも他のみんなも、ひそかに先輩を狙ってる。それを先輩も気づいてて、良い感じにもてあそんでる」 「かわいいよね。そういう火遊びを許してくれる、ゼタくんも素敵」 「先輩は、私みたいな変態と違うのに……。私と違って、選ぶ権利があるのに」 「美織ちゃんの好きは、妥協なの?選ぶ権利があったら、やめちゃうの?」 「…わかんないです。先輩みたいにモテたら、リアルに走ってたかも」 「そうしてたら、私達は友達になれなかったね」 私は、負け犬をみるのが好き。 ひとりぼっちで浮いてる子や、落ち込んですがってくる人が好き。 美織ちゃんが自分の才能に気づいたら、世界に受け入れられ始めたら。 きっと、もうこんな風に話したくはなくなる。 「あんまり私をいじめたら、今度のネタにしますからね。絵の具とカップリングさせて、そのカンバスに閉じ込めてやります」 口を尖らせる美織ちゃんは、いつもかわいそうでかわいい。

運が良い

よく晴れた冬の朝。 放射冷却から特に今日は大気が良く冷えている。 吐く息は濃い白で、外の地面は霜がうっすら雪のよう。 私は運が良い こんな凍える朝に屋根と壁と布団がある家で寝る事が出来た。 朝から温かくて美味しい朝食を食べる事が出来た。 そんな今日も私を必要とする職場に向かう事が出来ている。 こんな冷えた朝の空気の中、夜明け直ぐの空を見上げると 抜けるような空の青さを見る事が出来ているのだ。 私は多人数で行動することがとても苦手な人。 団体に登録するのも物凄く抵抗感がある。 思ったところへ一人で行き、 コソッと地味に一人で楽しみたい。 私は運が良い 自分が気の許せる友人がとても少ない。 しかもお会いするのが年間でも数回のみ。 友人もそういうのがお好きなようで、 もう数十年間そんな会い方を続けている。 会ってからもお互いにそんなベラベラ話す事はない。 いつも同じような事を話し、お互いの無事や問題無きを確認する。 それがとても心地よく、次も会えたらといつも思う。 中々そんな友人に巡り会える事はないのではないだろうか。 とある人から私は物凄く嫌われているようだ。 明らかに他の人と私との接し方が違っている。 声や表情にも表れており、 最近は表情に異形さを思うようにもなった。 私は運が良い こんな極端な二面性のある人から嫌われているのだから、 これはむしろ大喜びするべきことだ。 もしこの性格を私が知らずに、 今も普通に接していたとしたらそれは恐怖でしかない。 仮に他の人から私が同じような対応を取られているのなら、 こちらに何かの問題があるのだろうが、それは全く無い。 この人の私に対する行動があった事で逆に他には問題がないという 強固な確認と安心が出来たのだから実に有り難く思う。 更には自分の機嫌ぐらい自分で取れないとなると、 人として恥ずかしい事だとこの人から知る事も出来た。 新たな学びまで出来たのだから、今度お礼をしないと…、、 いや、それは流石に無い。 今年の五月で退院して四年となる。 ある日、病と診断され入院し骨髄移植も 一つの選択肢と説明されたが 色んな理由から移植は出来なかった。 移植しない場合の五年生存率について聞かされると、 病の再発を否めないその確率に 正直、怯えながらここ迄生きた感があった。 私は運が良い 先ずここ迄再発はしていない。 数値としてはそれ程飛び抜けた値ではないけども 一応は合格点だと言える。 それに再発が無いばかりか新たな健康を得ようと食生活を一新した。 それが家族や親類まで拡がって全員が健康であるのがとても嬉しい。 驚きなのは生活の為とは言え、こんな状況の私が働けているのだ。 急な病という超マイナス要素から始まり、 新たな健康というプラス要素を生む流れになってしまう。 現時点に過去は関係ない。 出来事だけを見ればしんどいと思う事も 捉え方を少し変えるとまるで違う出来事へと変化してしまう。 しかし出来事全部をプラスに変えるなどと言う、 鋼鉄の感情は持ち合わせていなく 感情だけを見れば、プラスよりマイナスの割合が 明らかに多いのが私の特徴なのは承知している中で、 法則みたいなものに気が付いた。 気持ちが前向きに上がるほんの少し前は、 これでもか!と思えるぐらいの悩み、気分の落ち込み事があるのだ。 つまり気持ちの落ち込みを感じたら プラスに転じる前触れと思えるようになった。 という事は、 私は元々、運が良いのかもしれない。 私の感情が落ち込む割合が多いのであれば、 法則からすればプラスに転じる事が多いということになる。 あった事は関係ない。 私はもっとドンドン行くべきだ。 そしてまた落ち込めば良い。 とことん落ち込んでみても良いだろう。 それは更にプラスとなり自分の糧になるはずだから。

期間限定商品結婚相談所篇

『年収五千万円以上』 『身長百七十五センチメートル以上』 『年齢二十代後半』 『芸能人○○似』    ポストに突っ込まれていた、結婚相談所のチラシ。  今週の土曜日までに入会すれば、チラシに書かれているハイスペ男と確実にお見合いができるらしい。    汚い。  なんて汚い戦略だ。  目の前にニンジンを垂らしたあげく、高い入会金を払う価値があるか否か考える時間も与えてくれないなんて。    私は怒りのままに、結婚相談所に電話した。   「もしもし! 入会します! チラシの人とアポ組んでください!」    でも、こんなハイスペ、私の人生じゃあ二度と出会えない。  それに、期間限定だし。    我に返った私は、部屋のベッドに座って、昼からチューハイを飲んだ。  冬限定の味。  美味しい。

ワンシーン

あたしはひとつ所に長く居られない。 あたしの時間は15歳で止まってる。 あたしが死んで、蘇った15歳。 そこから歳をとることはない。ついでに死なない。 「久しぶり! 全然変わらないね!」 にも限度があるってもんで、最初の同級生が30を超えた頃にあたしは生まれ育った街から逃げた。 いろんな街を巡り、偶然昔の知り合いに会っても、 「娘なんです」 が通用する程の年月が過ぎた。 何が本当で嘘かわからないくらい生きてきた。 そんなあたしがやっと見つけた居場所。 「ただいまー」 声と同時にドアが開く。 声の主ではない方の男、Aが入ってきて、担いでいた男を乱暴に室内に放り込んだ。 ドアを開けた方の男、Kは跳ねるように室内に入ってきて来客用のソファに勢いよく座る。 「あんたたちはまた…」 放り込まれた男に近寄り、あたしは手元の写真と照合する。 「かろうじて本人と認められるわね」 KとAに捜索を任せた対象者であるのは間違いなさそう。 しかしボコボコにされている。 「だってムカついちゃってさー」 そう言ってKはテーブルの上に用意してあるチョコレートをひとつ頬張った。 だからそれ来客用の高いやつだっつーの。 「生きてるから大丈夫だよ」 Aがおっとりと言う。 まぁKが対象者に怒りを覚えないはずがないのは最初からわかってたんだけど。 「お疲れ様。クライアントに引き取りに来てもらうわ」 軽く2人を労って、あたしはスマホを手に取る。 「あ、お世話になりますぅ。こちら…」 よそ行きの声、とクスクス笑う2人をひと睨みして、あたしは先方に用件を伝えた。 「すぐに引き取りに来るって」 「じゃその後メシだな」 焼肉焼肉〜とKがご機嫌に言い、肉かぁ…とちょっと困り顔のA。 まったく、聞いたことないわよ…ニンニクたっぷりのタレで焼肉食べる吸血鬼とベジタリアンの狼男なんてさ。

ワンシーン

Kは怒りに震えて男を見下ろしていた。 生きて連れ帰れとクライアントから指示は受けている。しかし守る自信がない。 「K」 先輩であり相棒のAが後ろから呼びかけた。 「何だよ」 「俺のメガネ知らない?」 Kがイライラと振り返ると、呑気そうな声でAが言う。 額にメガネを引っ掛けて。 その一言で十分だった。 「後ろに転がってね?」 Kはニヤリと笑うと、足元で悪態をつき続ける男の胸ぐらを引っ掴んだ。 「A」 気が済んだKは背を向けているAに声をかけた。 「ん?」 と振り返るAに向けて、自分の額をトントンと人差し指で示して見せる。 「ああ。こんなところに」 わざとらしく言ってメガネを戻し、 「いやぁポンコツな先輩で悪いね」 と笑んだ。 「愛すべく、な」 Kは(敵わないな)と思いながら付け加えた。 自分の扱いの巧さにおいて彼の右に出る者はいない。 我儘で短気で素直じゃない。走り出したら止まれない。 そんな自分を足手纏いのふりをして少しだけクールダウンさせてくれる。 「さてと、帰りますか」 AはKが放り捨てた男を軽々と肩に担いで歩き始めた。 Kに死なない程度の報復を受けた男はすっかり気を失っている。拘束する必要もなさそうだ。 (Aがいなかったら危なかったわ) 俺もまだまだだな、と自嘲しつつ、Kも続いて歩き出した。

令和の多様性

 朝。  嫁の作った弁当を持って、いざ出勤。    昼。  嫁の作った弁当を、いざ開封。  息子のと一緒に作ってるから、少し子供っぽいところもあるが。  今日も完璧だ。  ありがとう、嫁。    私が両手を合わせると、若い子が覗き込んできた。   「お、手作り弁当っすか?」 「うん。嫁の手作りでね」    私の言葉に、若い子がしかめっ面を見せてきた。   「その、嫁って言い方、あんまよくないっすよ」 「え?」 「女は家にいるものって感じがして、なんかヤっつ」 「そ、そうか」 「多様性っすよ、多様性。今どきは、女の人だって働いていいんっす」    私は、笑顔のまま話を聞いた。  顔が引きつっていないと嬉しい。   「後、嫁の手作りってのも、ちょっと」 「え?」 「結婚したいのにできない人とか、あえて結婚しないことを選んだ人に、当てつけに聞こえちゃうっすよ」 「そ、そうなのか」 「多様性っすよ、多様性。結婚するのも子供を作るのも自由で、尊重しなきゃ駄目なんっす」    私は、笑顔のまま話を聞いた。  顔が引きつっていないと嬉しい。       「尊重は、してるはずなんだけどなあ」    帰り道。  誰もいない道路でボソりと呟いた。  決して、他人を否定しているつもりはなかった。  なんなら、少しだけ、自分の嫁のことを周囲に自慢したいだけだった。  そんな言葉さえ、令和の世では多様性の否定になるらしい。    仕事する気が起きなかったから早退し、家に着いたタイミングが丁度息子と同じだった。   「おお、おかえり。……どうした?」    息子の目は赤く腫れていた。  泣いた跡もある。    息子はランドセルを下ろして、私に渡してきた。   「黒、やだ!」 「どうした? 自分で選んだんだろ?」 「選んだけど!」 「けど?」 「黒って昔の色なんだって! なんでも選べるのに、黒はおかしいって!」 「……誰から言われたの?」 「タケシ!」    息子はランドセルから手を離した。  ランドセルが、玄関に落ちる。  息子は靴を脱ぎ捨てて、リビングへと走っていった。  多分、炬燵にもぐりこむのだろう。    私はランドセルを拾って、家の中に入った。    かつての学校では、男子は黒いランドセル、女子は赤いランドセルと決められていた。  しかし今は、何色でもいい。  茶色でも紫でも、自由だ。  逆を言えば、男子が黒でも赤でもいい。  そう思っていたが。   「多様性ってのは、随分選択肢を減らすもんだな」    私は昔懐かしの平成を思い返し、平成産のワインをグラスに注いだ。   「あら、珍しい」    嫁は、夕方から酒を飲もうとする私を見て、少し驚いていた。

正義感 (掌編詩小説)

私は私の正義を貫くだけ だけど、正義の定義が明確では無く文章化するのが難しい ただ、正義というものに固執しているのは確かな事 そんな私は何者でも無い、ただの入れ物 (完)

背中を追う、隣を歩く【4】

学力テストのモヤモヤをさらに加速させたのが、それに続く体育の50メートル走だった。 走る系の競技は嫌いだ。疲れるし苦しいし、何より自分の鈍臭さを大勢に晒すのが耐えられない。 更に追い打ちをかけるように、今回は出席番号ではなく背の順で組まされることになり、私は朝と同じレーンに並ぶ羽目になった。 最悪だ。確信がある。コイツは勉強だけじゃない、足だって絶対に速い。嫌だ、嫌すぎる。 憂鬱過ぎて先生の「後ろからクマが追いかけてきてると思いながら走りなさーい」なんて小ボケ発言につっ込む気すら起きない。 死んだ目でスタートラインへ向かう途中、ぱちりと朝と目が合った。 「あ、あはは……お手柔らかに……」 「……」 無言。 え、無視? 私、今話しかけたよね?フツーに傷つくんだけど。 戸惑いと悲しみで立ち尽くす暇もなく、無情な号砲が鳴り響いた。 結果は――言わずもがな、である。 全力で地面を蹴ったのに視界の端で彼女の背中がどんどん遠ざかっていく。完全な敗北だった。 膝に手を置いて肩で息をしながら地面を見つめる。どれくらい時間が経っただろうか。ようやく顔を上げた時、彼女はゴールラインの数メートル先に立っていた。息の乱れ一つない身のこなしで、ゆっくりとこちらを振り返る。 朝は、どこまでも静かだった。 あらゆる感情を塗りつぶしたような深い黒い瞳で、ただ、じっと私を見つめている。 心臓が嫌な音を立てた。 なんでそんな目で見るの。 なんで何も言わないの。 ねぇ何を考えてるの。 分からない。 理解できないことは、怖い。 怖くて、辛くて、イライラする。 恐怖、焦燥、そしてあの仄暗いモヤモヤ。それらは胸の中で黒く渦を巻き、私を惨めな敗者へ叩き落とした「勝者」への、昏い執着へと姿を変えつつあった。

Q&A (掌編詩小説)

翼を私たちから取ったのは、見えない優しさね。 本当かしら。 翼がなかったら空へ飛んでいけないじゃ無い。 偶然かしら、鳥がもう居たわ。 永遠の寿命を私たちから取ったのは、見えない優しさね。 本当かしら。 寿命が有限なら『老い』に苦しむじゃ無い。 偶然かしら、こうして内向的になれたわ。 (完)

銷夏、追悼

 夢を見ていた。  幸せな夢だった。  皆何かしら問題を抱えていた。  しかし、今を楽しむのに必死で、 ただ過ぎる時間も忘れて、 皆で遊ぶ日々を過ごした。  学校が終わると、街を一望できる高台の公園に集まった。  空を茜色に染める夕日。  人一人いないかのように見えるほど小さな街。  それが僕の目には嫌なほどに美しく見えた。  どうしようもなく泣きたくなった。  後も先も何も考えず、全てを忘れてただひたすらに楽しかった。  幸せだった。  ある日の下校中、なんでも一つ願いを叶えるという青い花の噂を耳にした。  僕はそれが気になって仕方がなかった。  みんなと遊んでいる間も脳裏にその花が浮かぶ。  僕は気がつくと友達の一人の腹を裂いていた。  出来るだけ長く生きていられるよう丁寧に。  もうすでに死んでいるかもわからぬまま、僕は力の抜けた手で、無我夢中に内臓を取り出していく。  この目で確かめていく。  青い花とは人の臓物であるらしい。  憎いあの人にこの一輪の青い花を贈りたかった。  僕は問題を抱えていた。    そんな夢を見ていた。

心の在処

心は、目には見えない。けれど、そこにある。 忘れないで、君はひとりぼっちじゃない。 君を必要とする人が、必ず、そばに居るよ。 大切なものは、お金でも、お宝でもない。 君を必要としてくれる誰か、君のそばにいる人達、君に何気ない日常会話をしてくれる誰か… 失ってから、気がつくんじゃ、遅いんだ。 その人達と過ごす、日常が、何よりも、心の拠り所なんだから。