でもねでもね

きらきら輝いている、おなじクラスの女の子たち そんな子たちと仲良くお話をして ときには放課後、一緒に街を歩いたりして とてもうれしく感じます でも、ふと思うのです いくら、きらきらの同級生たちと仲良くできても わたしがきらきら輝けるわけではないんだなあ それで落ち込んでいるとクラスの女の子たちが どうしたの、と声をかけてくれます 声をかけてもらいたいがために 落ち込んだように見せてたんじゃないかって 計算? ふふっ そんなのしてませんよ 自己嫌悪、また落ち込んで 冬はこんな感じです 寒いとこんな感じです 季節のせいにだってしちゃうんです 寒さのせいにもしちゃってます あたたかくなったって、変わらないかも でもねでもね、とにかくいまは こんな感じで甘えて言い訳

夕刻

夕刻の山は影に染まり、山の上の雲ははち切れんばかりに輝き、燃える太陽に焼かれている。 山から離れた空にある銀色の雲は、淡く燃えて昼間の終わりを表している。 駅のホームに帰宅者がそろう、いつもの時間。今日も雀の歌が聞こえいる。

鳥の羽を切る

「あなたは鈍いからこれは無理。」 「だから外遊びはだめって言ったでしょう!もうあの子とは、遊ばないで!」受話器に向かって、担任教師にだろうか?変な金切り声で話し出す母の背中を見てきた。 「お前の母ちゃん変だよって、俺の母ちゃん言ってた。」 中学に上がり、まともな学級委員長に言われたことを思い出して、頭が痛くなった。 「早く頭の良い〇〇中学の子と仲良くなってよ。」 中学の私に言ってくるのはいつもこれだった。 私はその〇〇中学の生徒では無い。 仲良くなるのはおろか、その中学の校内には何も用は無いから友達も、できる訳がない。そもそも入れないし。 高校は、自由な校風を受験したかったが、母はいちゃもんをつけた。 受験費は母親が払うから、勝手に志望校が決められた。私が言っても担任が言っても、受験費を払うのは私だから、まだ高校生の私だから、子どもにはまだ分からないから、と。 結局、母は私の羽を切る。 今日の歴史の授業で先生はこんなことを言った。 沖縄では老人は赤ちゃんに戻ると言われていて、祝いの場で風車を贈るらしい。 今度はあなたが自由に動けなくなったとき、思考出来なくなったとき、私があなたの羽を切る。 あなたがそうしてきたように。あなたも未熟になるのだから羽を切る。

配達先シリーズ【仲良し夫婦】

おしゃべり好きな配達先の店員さんがいると夫は、よく私に話してくれる。 それは、夫が配達に行く先のスーパーで働く藤崎さんという人だ。お惣菜売り場のリーダーで、とにかく話し好きらしい。 「藤崎さんに捕まるとさ、昼休みが削られるんだよ」 そう愚痴りながらも、夫は少し笑っていた。 話は面白いから、結局最後まで聞いてしまうのだという。 藤崎さんが働いているのは、地元密着型の小さなスーパー。 夫は配達のついでに、そこで昼食を買うことが多かった。 ある日、夫が惣菜を手に取っていると、背後から声をかけられた。 「それ、美味しいですよね。近所のご夫婦も、いつもそれを買ってたんですよ」 「へえ、そうなんですか」 夫がそう返すと、藤崎さんは間を置かずに話し始めたらしい。 その老夫婦は、とても仲が良かった。 買い物はいつも二人一緒。 寄り添うように店内を歩いていたという。 ところがある日を境に、おばあちゃんが一人で来るようになった。 藤崎さんが理由を尋ねると、 「おじいさんが病気で寝たきりになってしまってね」と答えた。 一か月後。 二か月後。 おばあちゃんは変わらず一人で来店し、藤崎さんは来るたびに同じように声をかけた。 「おじいさん、どうしてるんですか?」 「体調が良くなくて、ずっと寝ているの」 おばあちゃんは、毎回同じ返事だった。 数週間後、県外に住む息子が帰省した。 そのとき、和室に敷かれた布団の中でおじいちゃんは横たわっていた。 既に、おじいちゃんは亡くなっていた。 おばあちゃんは、おじいちゃんの体が冷たいのを「寒がっているから」と思い、布団を何枚も何枚も重ねてかけてあげていたという。 だが息子が見た限り、死後かなりの時間が経っていた状態であったそう。 認知症が進んでいたおばあちゃんは、おじいちゃんが亡くなったことを理解できていなかったのだ。 腐敗は進み、布団と畳には人の形にくっきりと黒い跡が残っていた。さらに、染みついた臭いは、どうしても消えなかった。 おばあちゃんは、買い物の仕方も話し方も、周囲から見れば何ひとつおかしくなかったという。 だからこそ、後日、挨拶に来た息子から詳しい話を聞いた藤崎さんは、心底驚いたと夫に語ったそうだ。 「普通に会話できてたから、認知症だったと気づかなかったよ」 そこまで話して、藤崎さんは次のお客さんに声をかけに行ったという。 おばあちゃんにとって、おじいちゃんは「寝ている人」であり、「世話をする相手」だった。 だから、冷たい体も、動かないことも、すべて「体調が悪い」という理由に置き換えられた。 藤崎さんからその話を聞いて、「あの日は、昼食の味がしなかったよ」と夫は酒の肴をつまみながら話していた。 「その話をした後で、よく食べられるね」 私がそう言うと、夫は少し困ったように笑った。

青春コンプレックス

 いつからだっただろうか。私の人生は、まるで靄がかかったかのように、薄暗く質素なものになってしまっていた。中高と華の学生時代を思い返すと、胸が痛くなるようでとても辛い。もう戻れないことが分かっているからこそ、こんなにも切なくなる。あの時は良かった。常に未来は希望に溢れていて、泣きたくなるほどに愛に守られていた。それなりに不安もあれば大変な思いもしたけれど、それすら今となっては輝いて見える。私はいつまで経っても、あの頃の自分に憑りつかれている。  だからといってもし、中高の学生時代をもう一度やり直すことができたとしても、私は絶対にあの場へ戻りたくない。一度目だからこそ、一度きりだからこそできることもあった。そういうものだ。  私がいま生きているこの瞬間だって一度きりのはずなのに、あの頃とまるで世界の見え方が違うのはなぜだろうか。「どうせ夢を見たところでもう遅い」「無謀な未来に労力を割くくらいなら、用意されたパターンの中にオリジナリティを見出す努力をした方が有意義なのではないか」そんな呟きが、頭の中で漏れる。あの頃と同じだ。私は何よりも私自身のことを、心の底から否定している。  物心ついたときから、私は夢を語るのが苦手だった。夢を持つことすら、自分に許してあげられなかった。どうしてそんなにも頑なだったのか。今思えば、私はもともと極端に心配性で、不安に思うことも多く、自分を疑うこと以外を知らなかったのだ。終わりのない一歩を踏み出すのはこんなにも怖いものなのだと、今となって実感する。  そして時間が経てば、こうしてつらつらと悩み耽っていることも懐かしむことができるのだろう。今この瞬間にはどんな力を持ってしても戻ることはできないから。人生において「もう一度」は存在しないから。そんなある種の安心感が、過去を綺麗に見せたがっているのかもしれない。どうにも無責任ではないか。私が今生きているこの世界は、なにも綺麗なものばかりではないというのに。  私は今日もあの日を思い出してしまう。あの時、あの場所、あの空間……思い耽っては懐かしむ。この感情の名前を、私は知っている。

配達先シリーズ【誰にも言えないこと】

 夫は配達の途中、佐藤商店に立ち寄るのを少しだけ楽しみにしていた。五十代のご夫婦が切り盛りする小さな店は、いつも穏やかな空気に包まれていた。子どもに恵まれなかったという二人は、夫を「息子みたいなものよ」と笑い、温かく迎えてくれる。  仲の良い夫婦。  少なくとも、表向きは。  夫の違和感は、奥さんの話から始まった。  ある有名な選手の熱烈なファンで、その選手が自分を愛していると本気で信じているらしい。SNSには年齢を感じさせない写真を載せ、彼への想いを綴る。 「彼は、私にだけ違うの」  そう言って奥さんはスマートフォンを胸に抱いた。 「誰にも言えないことを、私には話してくれるのよ」  その言い切り方に、根拠はなかった。  画面に映るメッセージは、丁寧で、優しく、どこか感情に寄り添う言葉ばかりだった。夫は微かな違和感を覚えた。  奥さんは過去のことを、ある日ぽつりと話した。  若い頃、夢を追って上京したこと。評価されず、地元に戻ってきたこと。  結婚は恋愛ではなく、お見合いだったこと。 「好きとか、選ばれたとか……そういうの、最初からなかったの」 “仕方なく”決まった結婚。 「悪い人じゃないのよ。でもね……最初から私は“代わりのきく人”だった」  さらに追い打ちをかけるように、望んでも子どもが授からなかった。 「みんな、当たり前に持ってるものを、私は何1つ手にすることができなかった」  そう言って遠い目をしていた。 「私ね、"特別"になりたかったの。」  奥さんのその言葉には、執着に近い確信があった。  誰からも選ばれなかった人生で、たった一人に選ばれているという実感。それだけが奥さんの支えのようだった。  だからこそ、SNSの中の彼は特別だった。  誰もが憧れる存在が、自分だけを見ているという構図。  奥さんには、彼が強く輝いて見えた。  最初は軽い気持ちで「いいね」を押しただけだった。  ——君の言葉は、他の誰とも違う。  ——君は特別だ。  ——君だけが分かってくれる。  奥さんは、送られてくるその言葉を何度も読み返したという。 「ねえ、分かる?“特別”って言われるの」  夫は答えられなかった。  ある日、奥さんは困ったようにでも嬉しそうに夫に言った。 「彼の"特別"になるって大変ね」  その瞬間、夫の背中を冷たいものが走った。  帰宅後、夫は私に佐藤商店の話をした。  私は黙って聞き、静かに言った。 「それ……何かの詐欺じゃない?」  夫の脳裏をよぎっていた言葉を妻も口にした。  奥さんが見せてくれたアカウントには公式認証がなく、フォロー数やプロフィールなどに違和感を受けた。  愛情を示し、特別感を与え、孤独につけ込む。  ロマンス詐欺の典型的な手口。  翌日、佐藤商店へ行ったとき奥さんはいつもと変わらない笑顔で言った。 「最近ね、少し返信が遅いの。でも……忙しいみたいだから仕方ないよね」  夫は何も言えなかった。  真実を突きつけることが、彼女を救うとは思えなかった。  そして、ふと気づいた。  旦那さんは、その話題になると必ず席を外す。  知らないのではない。知っているのだと思った。  帰宅後、夫は妻に再び佐藤商店の話をした。  私はしばらく黙り込んでから言った。 「それ……もし誰かが現実を突きつけたら、どうなると思う?」  夫は答えられなかった。  あの奥さんにとって、妄想は逃避ではない。  唯一の自尊心だったからだ。  その日はたまたま近くを通りかかった夫。せっかっくだからと佐藤商店に顔を出した。  夫は何気なく旦那さんの手元を見た。  ガラケーではなく、見慣れないスマートフォン。  旦那さんは慌ててスマートフォンを隠した。  その瞬間、すべてが繋がった。  旦那さんは、奥さんを誰よりも理解していた。  しかし一度も"特別"だと思えなかった妻。    そして、自分もまた——。 「選ばれていない男」だったことを知った。  お見合いで始まった結婚。  とはいえ旦那さんは奥さんの事を愛していた。  だから旦那さんは、有名人になりすました。  絶対に疑わない存在を演じて、欲しがる言葉を与え続けた。  奥さんは誇らしげに言う。 「私は、あの人にとって特別なの」  奥さんは、何も疑っていない。  信じているのは、画面の向こうの言葉だけだ。  穏やかな店、優しい夫婦、温かい言葉。  その裏で続いているのは、愛するために人格を捨て、妻の幻想を壊さぬために現実を歪め続ける関係。  次に佐藤商店へ配達に行くとき、夫は二人の顔を直視できないだろう。  そこには、救いの形を間違えた末に辿り着いた、取り返しのつかない愛の形があるのだから。

餓鬼大将を目指せない大人

 地元に戻るとイライラする。   「昇給したんだ!」 「まじ? いくら?」 「千円」 「いいなあ。俺なんか、今年は昇給なしだぞ」 「マジか。きっつー」 「代わりに社長が、お年玉って五千円くれた」 「ケチくさー。そこは、万札であれよ」    あまりにも、会話のレベルが低すぎて。  こっちは毎年、年収を何万何十万上げられるかって話をしてんのに。   「なあ、お前は? 東京の会社って、給料も高そうだよなー」 「まあ、ぼちぼちだよ」    俺の居場所は、やっぱりここじゃなかったんだとはっきりわかる。    だが、東京が俺の居場所なわけでもない。   『昇進したんだ』    次々と昇進していく同期と部下を見ながら、俺は必死に食らいつく。  休日返上で勉強しているつもりなのに、旅行だ合コンだと遊んでいるやつらが、何故か俺より先に行く。  背伸びして分相応な会社に入れた時は、それは喜んだものだ。  背伸びをし続けることがこんなに苦しいとは思わなかった。  最初から背の高いやつらは、背伸びなんてせずに俺の欲しい物に手が届いているのだから。   「くそくそくそっ!」    二次会を断り、タクシーを走らせる。  俺の地元に居酒屋は二つしかないので、出くわさないよう隣の町の居酒屋へ。  一人で酒をかっくらうと、冗談みたいに愚痴が出てくる。   「なんだよ! 楽しそうにしやがって!」    会社のやつらにも、地元の同級生たちにも、吐く言葉は同じだ。   「俺の方が努力してんのに!」    稼ぎ続ける会社のやつら。  稼げてない地元のやつら。  どちらも俺より楽しそうだ。   「親のすね齧ってるくせに!」    地元のやつらに至っては、未だ実家に住んで家賃ゼロ。  俺はと言えば、東京の高い家賃にひいひい苦しんでいる。  俺より低い給料なのに、俺より使える金が多い。   「向上心もねえ雑魚どもがよぉ!」    吐いて、吐いて、吐き捨てる。  意識が、どこかに飛んでいくまで。        目を覚ましたら、ホテルのベッドの上。  久々の同級生との再会も楽しめない自分の心の狭さに絶望し、目から涙と言う涙を流し、体を枯らせた。   『昨日は楽しかったな。また遊ぼうな!』    同級生から届いていたメッセージを見て、あまりにも自分が惨めで、今すぐ首を括りたくなった。  この人生を選択したのは、自分なのだから。

配達先シリーズ【不幸】

これは、夫の配達先の友人から聞いた話だ。 その友人は、夫と中学からの腐れ縁だった。 たまたま配達で訪れた先で働いており、 顔を合わせるようになってからは、昔の話をする仲になった。 ある日、 「そういえばさ」と、 友人は話題を変えるように切り出した。 昔住んでいたアパートの話だという。 古い造りで、壁が薄く、 隣の部屋の物音がよく聞こえる場所だった。 ある日から、 壁を叩く音が聞こえるようになった。 コン。 コン。 最初は、 隣人がちょっとした作業でもしているのだろうと、 特に気にも留めなかったそうだ。 すぐに止むだろう、と。 コン。コン。 コン。コン。 だが、その音は止まらなかった。 昼も、夜も。 一定のリズムで、壁を叩く音が続いた。 あまりに長く続くため、 直接文句を言おうかとも思った。 だが、入居時に大家から 「何かあったら必ず私に連絡してください」と言われていたことを思い出し、結局、大家に相談した。 大家、友人の2人で、 隣の部屋を訪ねた。 扉の前に立ち、「○○さん、大丈夫ですか?」と大きな声で声をかけた。 返事はなかった。 しかし、その直後それまで続いていた壁を叩く音が、ぴたりと止んだ。 「音、止みましたね。」 大家と友人は顔を見合わせた。 「音は止まってますし、今すぐ危険という感じではないでしょう。」 大家は、深刻には思っていないようだ。 友人が言った。 「でも、一度確認した方がよくないですか?」 大家は、わずかに眉をひそめ、 面倒そうに息を吐いた。 「きっと、生活音とかじゃないですかね。  人それぞれ生活リズムも違いますし。」 そして、決まり文句のように言った。 「今回は、問題ないでしょう。」 友人は何か言いかけたが、 大家の口調に押されるように黙った。 「じゃあ、何かあったらまた連絡してください。」 そう言い残し、 大家はすでに廊下の先へ向かっていた。 腑に落ちない思いを抱えながらも、 友人は言った。 「大家がそう言うなら……大丈夫か。  また何かあれば、連絡します。」 数日後。 隣の部屋から異臭がした。 再び大家が呼ばれ、 今度は警察に立ち会ってもらい扉が開けられた。 トイレで、隣人は亡くなっていた。 動けず、声も出せず、ただ壁を叩き続けるしかなかった。 大家と友人が来たあの日、 隣人はきっと思ったはずだ。 ――やっと、助かった。 だから、叩くのをやめた。 友人は、 「もし、あの時……」と言いかけて、 それ以上は口にしなかった。 夫は、黙って聞いていた。 友人は、その出来事のあと、 すぐにアパートを引き払った。 それからしばらくして配達中にそのアパートの前を通ると、夫は無意識に速度を落とし例の部屋の辺りを見てしまうらしい。 空室なのか。 もう別の誰かが、 何事もなく暮らしているのか。 配達が終わり、友人と別れた後、夫は気になって、 あの事故のことを少しだけ調べてみた。 大きく報じられた事件ではなかった。 地方のネットニュースに短い記事が載っていただけだった。 古いアパートで、 女性の遺体が見つかったという内容だった。 異臭騒ぎがきっかけで発見された、とある。 記事によれば、 遺体は死後およそ一か月が経過していた可能性が高いという。 夫は、その一文で手を止めた。 一か月。 友人が聞いていた壁を叩く音は、 その期間、ほぼ毎日のように続いていたはずだった。 記事は続いていた。 遺体は、トイレに頭を突っ込んだ状態で発見されたという。 さらに女性の死亡後、通帳や金目の物が持ち去られていたこと、離婚した旦那が室内に出入りしていたことも書かれていた。 警察は事情を聞いている、と。 それだけだった。 夫はスマートフォンの画面を閉じた。 不幸が重なった。 それ以上、調べる理由もなかった。

真顔の国

 さて。今日の授業は、とある国の歴史について、です。  そこは小さな島国でした。けっして裕福ではありませんでしたが、島民たちは手を取り合い、幸せに暮らしていました。  しかし、島民たちには一つだけ悩みがありました。彼らは表情筋、特に口の周りにある筋肉が萎縮していたのです。そのため、島民たちは複雑な表情をつくることができませんでした。悲しみや困り顔は、かろうじて表現できるものの、笑うには口角をつり上げる必要があり、実に困難なものでした。その島は頻繁に海外と交易をしていたこともあってか、外部の者が「島民たちは少しも笑顔を見せない」と不気味がることも多々ありました。  このままでは外部との交流に支障をきたしてしまう。島民たちは、とある外国から優秀な研究者の男を招来し、どうにかならないものかと頼み込みました。彼は、島民たちの願いを二つ返事で了承すると、単身で島に引っ越し調査をすすめました。  丸一年をかけた調査の結果、男は島民たちが共通する特殊なDNAを持っており、この形質が表情筋の発達に影響していることを突き止めました。それから、これまた長い歳月をついやし、彼は特殊な遺伝形質を抑制する特効薬を開発したのです。  錠剤を島民たちに配りながら、男は言いました。 「この薬を毎日一つ、のみなさい。それをニヶ月半、続けなさい。のみすぎはいけませんよ」  島民たちが男から渡された薬を服用すると、たちまち凝り固まっていた頬の、眉の、口の筋肉が動くではありませんか。どういう原理なのかは分かりませんでしたが、島民たちは嬉々とした笑顔で、男に礼を言ったのでした。  男が島を立ち去って、実に半月が経過した頃、島は世界でも有数の観光地となっていました。島民たちが皆、いつも笑顔で和気あいあいと暮らしている様子が人から人へと伝わり、各国から称賛されたのです。島の人口は一気に増加し、経済も豊かになり、立派な島国としての地位を確立しました。しかし、島民たちの間では、少しずつ異変が進行していたのです。  日々の生活の中で、ときに卑屈な顔の者を見かける時、島民たちはもれなく竹取りの姫が月を見上げるようなノスタルジーを感じるものの、ふと以前のむっつりとした真顔になってみようとしてもうまく再現することができません。  今や、島民たちは様々な表情をつくれるようになりました。この恩恵を得ることができたのは、ある一人の男の研究成果であり、医療テクノロジーの結果であり、特別な薬物の効果であり、その全てであって、そのどれでもないのです。  私があの島へ再訪した時、島民の一人が話をしてくれました。 「俺たちは皆、感謝してるんですよ。おかげで、こんなに笑えるようになりました。嬉しさを、楽しさを、皆が当たり前のように表現することができるのですから。けれどね、だからこそ私達は許せないんですよ。もとから自在に表情を操れる者たちが、感情の宿らない顔をしていると。まるで昔の俺たちを見ているようで、苦しくなるんです。これはもう取り戻せないあの頃への嫉妬だし、罰でもあるんでしょう。俺はね、今になって思うんですよ。私たち島の人間の、本当の素顔とは一体なんだろうかと。今さらながらに考えてみたいと思うんです」

上司シリーズ【足音】

これは、私の上司が体験した話です。 上司の名前は、J。 Jは中学生の頃、家族と一緒に新築の家に住むことになりました。 二階には自分の部屋があり、階段を上ってすぐの場所でした。 ある夜、Jが部屋で勉強していると、 ――ぺた、ぺた…… 素足で階段を上ってくる音が聞こえてきたそうです。 (母が上がってきたのかな) そう思い、特に気にはしませんでした。 足音はゆっくりと二階に近づき、 Jの部屋の前で止まりました。 次の瞬間、 扉が静かに開きました。 しかし、誰も入ってきません。 不思議に思ったJは勉強の手を止め、 廊下まで出て確かめました。 けれど、そこには誰の姿もありませんでした。 気のせいだと思い、 再び机に向かいました。 視界の端、足元に、 誰かの足元がはっきりと見えました。 その人物は、小さく、ぼそぼそと何かを話しているようだった。 声は聞こえるのに、言葉として理解できなかった。 Jは直感的に、 見てはいけない、 そう強く思ったといいます。 足音は部屋の中を一周しました。 それだけだったそうです。 そして、来た時と同じように、 静かに階段を下りていきました。 それが何だったのか、 Jは今も分かりません。 確かなのは、 あの夜、Jの部屋に「何か」が入ってきたこと。 それだけだそうです。 「ちゃんとしたオチがあるわけじゃないんだけどね。」 話し終わると上司は笑っていました。

思い出

 コンビニの棚に並んでいたおにぎりの中に、具が『思い出』と書かれたおにぎりがあった。一つ買って、公園のベンチで食べた。おにぎりをかじると、かじった所から、赤いものが見えた。シャケかな。だがそれは、赤い風船だった。赤い風船が一つ、出てきた。そして、浮かんで、晴れた空に消えていった。あれが『思い出』か。赤い風船が見えなくなるまで空を見つめた後、米だけになったおにぎりを平らげた。

風邪を移されて26冬

 「ゲホッゴホゴホゴホウウェッホウ!!」 知り合いが風邪を引いた。 「ゲホップエエッホーウゥ!!」 意味の分からん咳をしまくっている。 「ウエッホグエッホオォォウゥ!!」 うるさい。 何日後かに僕も風邪を引いた。 「グエッホウプゲレッポウゥ!!」 僕も意味の分からん咳をする。 飯も吐いてしまうからろくに食べれらない。 「ピュルプエッホウゴホフエッホウゥ!!」 我ながらうるさい。 次の日どこかの誰かが風邪を引いた。 「ヒュルリュッポウ!!ヒュエポリリャアウエッッホウ!!」 風邪の大合唱。 大人は風邪の子。 来年もこんな感じで誰かが風邪を引くのだろう。 暖かくして寝てね。 お大事に。

人生経験

 道を歩いていたら車にはねられた。上品な車だった。高級そうな上品な車だった。「乗っている人も上品だろう」そう思った時には地面に叩き付けられていた。横向きに倒れたので、目のすぐ下に血が溜まっていった。上品な車の運転席のドアが開いた。上品な中年女性が現れた。綺麗な人だった。俺は年上の女性がタイプなので、テンションが上がった。女性は屈みこみ、俺の顔を覗き込んで言った。「笑って」そして微笑んだ。「こういう時こそ笑うのよ」それは何か含蓄のありそうな言葉だった。女性はそれだけ言って立ち去り、車も走り去った。俺は薄れゆく意識の中で笑おうとした。この経験は、猛烈な痛みと死への恐怖の中で笑う経験は、きっと俺の人生に大きな影響を与えるだろうと思った。だが俺は死んでしまった。

空は狭いしゴミ箱は広い

 ゴミ箱の中で見つけた絵本には、こう書かれていた。   『あの広い空を、自由に走り回ってみたい』    ぼくは空を見上げた。  煙の隙間から、うっすらと空が見える。  建物の屋根に切り取られて、五角形とも六角形とも言えない形をしている。    とても広いだなんて思えない。    ゴミ箱には、本もあるしご飯もある。  空には、何もない。  浮かぶ雲が食べられるんならいいけど、多分食べられない。  ぬいぐるみの中みたいな形をしているし。   「ここを走ればいいじゃんか」    ゴミを捨てた人間は、いったいどんな人生を送っているのだろうか。  ぼくはゴミ箱を踏み台に、上へと飛んだ。  ベランダに着地すると、ベランダがひん曲がった。  バレたら怒られるので、隣の家のベランダへと飛び乗った。    地上は恐い。  犬が追いかけて来るし、おっさんが追いかけてくる。  落ちていた果物を拾っただけで泥棒扱いだ。  でも、ベランダは自由だ。  誰も追いかけてこないし、右でも左でも、好きな方向へ行ける。    野菜、干し肉。  家族分を手に入れたので、ベランダを伝って家へと戻る。    路地の奥の、さらに奥。  何十年も掃除をしてないくらいに床も壁も汚くて、ぼくたちが飛び回るおかげで人が住める程度な綺麗さを維持している場所。   「ただいま!」 「お帰り!」    ぺったんこの布団から顔を出した弟たちに、今日のご飯を渡す。  また手が細くなって、いずれイカの脚になりそうだ。   「兄ちゃん、食べないの?」 「兄ちゃん、食べて来たから」    弟が出た布団の上に、仰向けで寝っ転がる。  屋根と屋根との隙間から、曇った空が見える。    あの狭い空の上に、行きたくはない。  でも、野菜や干し肉よりも美味しい物があるのなら、それを食べには行ってみたい。

桜の咲く時 彼を思い出す

注意 これは私が経験した事が書いてあるので… 気をつけて読んでください 今日は、彼に会うのが最後の日 彼は、元気いっぱいでギャップがある人だった 私は最後の日だから告白をした、最後の日には、公園に行く道中に、手を繋いだりしたら、彼は、顔を避けていた、でも最後の最後にハグをしてくれた…またどこかで会える時には、また会いたいと思う私だった…… 桜が満開の時期 桜を見ると何故か、彼を思い出した…心は、ボロボロになった、私にとって彼と遊んだ日々が…幸せの時間だったと思う…また会えたら、笑顔にしてくれるか考えてしまう… また会えたら、笑えますように……

『記憶にございませんが、どちら様でしょう』  —私立女子高に響いた婚約破棄宣言—

「二川原ミカぁ!」  ここは、私立花ケ咲紅蘭女子学園。  私は、その高等部二年でございます。  先ほどから連呼されているお名前と同姓同名ではありますが、さて。 「二川原ミカぁ!」 「ふぅ…」    私は、重い腰をあげ窓辺へと足を運びました。  校庭の真ん中で、タキシード姿の男性がいらっしゃいます。 「二川原ミカぁ!貴様と婚約破棄してやる!」  はて?  黒のタキシードに拡声器を持つお姿は、あまりにもアンバランス過ぎて、笑っていいものか困ってしまいます。  返答するにも大声を出すのははしたないですし、様子を伺いましょう。  ……先生方と、何かお話されてますね。  それにしても、私はいつ婚約をしたのでしょう。  タキシード様は先生方に背中を押され、門扉の向こうに追いやられてしまいました。    授業を知らせるチャイムが鳴り、数学に備えます。  数学の教科書を端からノートに書き写して、自力で解く快感。  教壇の前に席を陣取ってますと、授業とは全く違うページを開いていましても気に止められないようです。  チャイムが鳴り清掃のため、私は当番の中庭へと向かいました。    タキシード様が座り込んで本を読まれてます。  地面に座られるのはどうかと思いますが、私には関係ありませんね。  本から顔を上げたタキシード様と目が合いました。  …………  先ほどの喧騒が嘘のように真っ赤になっておられます。 「……私が二川原ミカですが?」 「……知ってます。呼び捨てしまって申し訳ありません」  随分、礼儀正しいのですね。  拍子抜けしてしまいます。  手にしているのは流行りの少女小説のようです。  一度拝見しましたが、よく分からない世界で、直ぐに『嵐が丘』を原書で読み返しました。 「…………」  一つ確認しなければなりませんね。 「私はいつあなた様と破棄されるような婚約を結んだのでしょうか?」  その瞬間、タキシード様は両目からぼたぼたと音のしそうなほどの涙を落とされました。  殿方を泣かせてしまいました。  些か、罪悪感が募ります。  ポケットからハンカチを取り出し手渡しました。 「殿方が、そのように泣くものではありませんよ?」    タキシード様はハンカチを握りしめて、ずずっと、鼻水を吸い込みました。    と。  ………過呼吸のようです。  あいにく、ここは中庭です。    私は渡したハンカチを取り戻し、タキシード様の口にあてました。 「ゆっくり息をして…そう…ゆっくり吐いて、吸って……」 「…ごめっ…こんな…つもりじゃ…」  えづきながら、言葉を繋げます。 「…無理に、しゃべらないで。今は息をすることに集中して」  清掃終了のチャイムが鳴り響きます。  さて、どうしようか? 「行ってください。僕には構わないで」  そういわれたので、ハンカチをタキシード様の握った手の中に押し込んで、放ってしまった箒を片付けました。  手洗い場で手を洗ってから、ハンカチがないことに気がつきました……お行儀悪いですが、髪の毛を整えましょう。  ホームルームを終え、帰宅します。    校門に向かうと、下校する生徒の群れが不自然に空間が空いていた。  タキシードの上着を手にかけた男と、わたしは目を合わせた。 「呼吸は?戻った?」  短くそう聞くと、 「あ、さっきはありがとう。ハンカチは洗って…いや、新しいのを買って返します」   「洗ってくれたらそれで構わないけど?」  犬の尻尾みたいにブンブンと首を振る様子が面白い。 「そんなわけには行きません!」  …… 「元先生だから?」  はっと顔が上がる。 「気がついて…いたんですか」 「流石に元担任は気づくでしょう。その突飛な格好には騙されましたけど、地場先生」  なんか、また泣きそう…  ここは畳み掛けましょう!あら?口調が戻ってますね。まどろっこしい。 「で、この奇行はなんですの?」  すると、おずおずと中庭で読んでいた本を差し出した。 「以前…君が読んで…こんなのが…好きなのかな…と」    …少女小説。   「まさか、これを真似たと?」  首がもげそうなほど、前後に振っている。 「わざわざ?学校で?拡声器使って?」  わー!もげる、もげる! 「なんでまた……」 「君が…僕に興味がないことは知ってたから…印象つけたくて…」 「大の大人が…学校辞めてまで、なにやってるですか」 「僕は!教科書の先のページより注目されたかったんだ!」  あ、地場先生。  数学でしたね。 「…にしても、なぜ、婚約破棄?」 「………これ、読んでしまっただけです…」  地場先生は、少女小説の冒頭を指差した。 

雨の蓋

「本日は、全国的に大雨の予報です」    扉を開けたら、壁のような雨が降っていた。  無色透明な雨粒が集まって、遠くの景色を隠してくる。  試しに壁を触ってみれば、手はめり込んだが痛かった。   「まーじか」    運行状況を見て見ると、電車は軒並み運転見合わせ。  電車もこんな大雨の中は知りたくないよなあと納得する。  社給スマホを見てみれば、出勤禁止のメールが届いていた、  全社的に特別休暇の扱いとするようで、有給休暇は減らないらしい。  命大事に。  ありがたい。   「しっかし、やることねえなあ」    仕事をする予定だったので、やりたいこともない。  いや、やりたいことがあったとして、どのみち出かけることもできない。  カップラーメンの備蓄があるのだけを確認して、二度寝した。    窓の外も真っ暗なので、カーテンを閉めて電気をつけた。  ざあざあと雨音がうるさいので、イヤホンで耳を塞いだ。  深海の奥にでもいる気分だ。    何もやることがない。  だから、今日は何もしない一日にした。  寝ることは何かやることなので、パジャマから私服に着替えた。  椅子に座って天井を眺め、頭の中で「ぼんやり、ぼんやり」と復唱する。    何もしていないのだと、自分に言い聞かせる。    雨が、人生に空白時間を作る。  人間と関わらない、社会とも関わらない、閉ざされた瞬間。  頭の中にノイズのような何かが流れたので、今自分のやっていたことは正しかったのだと確信する。    普段使われていないだろう脳の一部がやたら活性化し、宇宙の末端はどうなっているのだとか、もしも受験で第一志望に受かっていたら人生はどう違っただろうかとか、変なことばかりを考えた。  筋肉痛のように脳が痛んだが、どうにもハマってしまって抜け出せない。    現実から少し離れたわき道に入った気分で、思う存分雑草を踏みつぶしながら思考を歩かせた。       『ぴーぴー。ぴーぴー』 「うおっ!?」    そして、二度寝防止用アラームの音で、現実に引き戻された。  いつだって、こういう詰めが甘いのが自分だ。    アラームを全て切って、もう一度椅子に座ってみた。  天井は天井のまま佇んで、脳は「天井だよ」としか言ってくれなかった。

母星

 幼稚園の園児たちが、遠足で訪れた昼下がりの公園で、食事を始めた。シートを敷いて、みんなで「いただきます」を唱和し、それぞれがお弁当箱を開けた。ある一人の園児が、お弁当箱の中から、一個のおにぎりを取り出し、それを食べようとした時だった。突然、頭上からレーザー光線が照射され、おにぎりを破壊した。園児たちと引率の先生たちは、驚いて空を見上げた。そこには、小さなUFOの大軍が浮かんでいた。園児たちが泣き出し、先生たちが呆然としていると、UFOから次々とレーザー光線が放たれ始めた。そのレーザー光線は、非常に正確に、素早く、容赦なく、園児たちのお弁当の中のおにぎりを、次々と破壊していった。先生たちは園児たちに覆いかぶさった。しかし、レーザー光線は、おにぎり以外のものには一切当たらなかった。やがて、米が焦げるにおいが辺りに満ち、すべてのおにぎりが破壊された後、UFOの大軍はどこかに飛び去っていった。その場にいた全員が、ぼんやりとそれを見送った。UFOの大軍は、地球を去り、宇宙空間に出ると、ワープ装置を使って、母星へと帰還した。彼らの母星は、巨大なおにぎりだった。一個の巨大な梅干しを核とし、米で出来た大地とお茶で満たされた海があり、空は全天が巨大な一枚の海苔で覆われていた。彼らは、「母星以外のおにぎりを認めない」という危険な思想を持っていた。そのために、おにぎりの破壊活動を行っていた。彼らのその思想の背景には、「母星であるおにぎりをいつか神様に食べてほしい」という願いがあった。だから彼らは、おにぎりの破壊活動に精を出していた。しかし、彼らは知らなかった。彼らの神様は、実はパン派であるということを。

論点をすり替えるな

「おーい、論点すり替えないでもらっていいですかー?」    まただ。  こいつは、論点のすり替えという指摘を、口癖のように言うようになった。  正直、自分の中では論点がすり替わってなどいないので、こいつの言葉の意味が分からない。  だから、聞いてみることにした。   「ごめん、自分ではすり替えたつもりがないからわからない。すり替える前の論点と、すり替えた後の論点を言語化してくれない?」 「え?」    そいつは腕を組んで悩み始めた。  あーでもない、こーでもないとうめいた挙句、最後には俺をにらみつけてきた。   「論点をずらすな!」    そして、走って逃げていった。  きっと、自分でも論点がわかっていなくて、ふわっと何かが違うと思ったから、反射的に口癖が出たのだろう。  理由が分かってすっきりした。    俺はすがすがしい気持ちで家に帰り始めた。  せっかくだ、途中でカフェにでも寄って帰ろう。

sorto

「分かった。死んで異世界に行く」 「はあぁ?…」 日常の、些細な言い争いから出た一言。 ……些細? 些細なんだろうか? 旦那が… 婚姻関係を結んでいる相手が、 私でない女と、ラブホに入っていく姿を見た、と言うことは。 「流行りでしょ?」 「おまえ、頭大丈夫か?」 「天国とか地獄とか、死んだら行くの実は異世界なんじゃないかって」 「…………」 「あたしね、あなたのこと好きなのよ。だから、あたしを好きじゃないあなたは要らないかなって」 「……っ!」 「ここじゃない、どこかに行きたいかなって」  旦那の顔をじっと見る。  我ながら、なに言ってんだろ?だけど、  旦那の顔は、食っちゃいけないもの――――あなたの大嫌いなカキを口にした時みたいな顔してる。 「…ごめ…」 「何に対して?」  また、黙る。  んー…それはそれで困ったな。  言い訳を聞きたい訳じゃない。 「楽しかった?あたし以外を抱くの」 「……!」 「気持ち良かった?あたし以外を抱くの」 「…………」  不思議だな。  あんなに大好きだった人の辛そうな顔見てるのに、ちっとも元気付けようって気が起きない。  何でそんなに、辛そうなんだろう。  ……取りあえず、 「どうしたの?なんか、辛いことあった?」  て、定型文で聞いてみる。  棒読みになっちゃった。  ちっとも心が籠ってないね。    目も、鼻も真っ赤。  怒ってるのかな? 「――――君は……俺が好きだったの?」  途切れ途切れに、ようやっと吐き出された言葉。  この人、あたしの言った事、ちゃんと聞いてたのかな?  それ、言ったよね?  頭がじんじんする。  目頭がぎゅってして、  喉が詰まって、  お腹がもやもやして、  両手がびりびりして、  足が………氷ついたみたいだ。  足元に、魔方陣が出てこないかな。  聖女でも、奴隷でもいいや。  分かってるのは、ここにいたくないってことだけ。  旦那の顔色が変わる。  足元に、魔方陣の代わりに雫が落ちていた。  

想像力

 寿司が食いたくなった。せっかくなのである程度の金をおろし、高めの寿司屋に行った。静かで落ち着いた店内にいた客は、みなどこか裕福そうな雰囲気を漂わせていた。俺は案内されるままにカウンターに座り、緊張しながら「おまかせで」と注文した。板前たちはにこりと微笑んで、大将は静かに「あいよ」と返事した。俺の数席隣には、高級そうなスーツを着たお爺さんがいた。そのお爺さんはしばらく刺身をつまんでいたが、ふいに、大将に「思い出を一ついただこうかな」と言った。大将は「今日は良い思い出が入っていますよ」と答え、厨房の奥に引っ込んだ。「楽しみだな」とお爺さんは独り言をつぶやいた。「思い出って何だろう」俺はお茶をすすりながら、横目で様子をうかがっていた。やがて、大将が、お爺さんの目の前に、寿司を置いた。その寿司を見ると、酢飯の上に、日傘をさした喪服の少女が横たわっているというものだった。「ほう」お爺さんは感心したように言った。「見ただけでわかるね、これは良い思い出だ」お爺さんはその寿司をつまんで、一口で食べた。お爺さんが口をもぐもぐ動かすたびに、ボリボリ、という音が響いた。きっと日傘か、少女の骨が折れる音だろう。お爺さんは寿司を飲み込み、お茶をすすると、目から涙を一筋、流した。「ああ、良い思い出だった」「ありがとうございます」俺は我慢できずに、お爺さんに尋ねた。「あ、あの、どんな思い出だったんですか」お爺さんは微笑んで言った。「どんな思い出だったか、想像してごらん」「想像ですか」「その想像よりは、きっと良くないよ」「えっ」「想像力に勝る現実なんてないからね」お爺さんと大将は顔を見合わせて笑った。俺には何が何だかわからなかった。そのすぐ後に、お爺さんは立ち上がり、帰っていった。俺は目の前の寿司を次々と平らげ、急いでお爺さんの後を追って店を出た。しばらく歩くと、遠くにお爺さんの姿があった。お爺さんは、電柱の陰で、吐いていた。

高槻に行きたかった

真夏のピークはわかっても、真冬のピークはわからない ムーミンは眠っていて、ちびのミイも起きてこない おおきなひとり言だと振り返ると スマホを片手にしゃべってる誰か そういったこと、以前はよくあった 最近は、おおきなひとり言だと振り返ったら ねことお話しているといったぐあいで ココロがやんわりあったかくなる わたしは高槻に行きたかった 梅田の地下で迷子になって ああああああああ、茫然自失 あせっちゃう、あせっちゃう、あせっちゃう あせったときはひとまず立ち止まって これでいいんですけど そんな顔をつくって壁にもたれて けだるげにスマホを取り出しゲームゲームげえむGAME わたしは高槻に行きたかった 結局、高槻には行けなくて、どうしてだろうか宝塚 この世はままならないものなのさっと わたしは高槻に行きたかった

不良の黒崎君と委員長の霧島さん1~4

霧島「ちょっと授業中よ!何寝てんの!」 黒崎「ん、いいじゃんちょっとぐらい」 霧島「良くないわよ!!このままだとまた赤点になるじゃない!」 黒崎「まあそん時はそん時じゃね〜」 霧島「ダメに決まってるわよ!!万が一あんたに留年なんかされたら困るのよ!」 黒崎「ああそうか俺がいないと寂しいもんな〜可愛いやつだな委員長は」 霧島「そ、そういう事じゃないわよ!!!委員長としてクラスから留年する人を出させる訳にはいかないだけよ!!」 黒崎「優しいんだな〜霧島は」 霧島「う、うるさい!!!」 不良の黒崎君と委員長の霧島さん2 霧島「あら?今日は放課後残って勉強してるのね」 黒崎「ああ、テスト前だしな」 霧島「どうしたの?急に真面目になっちゃって、そんなに私の言葉が響いたかしら?」 黒崎「ん、赤点取るとウチの可愛い委員長が悲しんじゃうんでな」 霧島「か、可愛い!?じゃなくて!別にか、悲しんだりしないわよ!変なこと言わないで!!」 黒崎「あっそ、じゃあ勉強するからどっか行って」 霧島「あらいいのかしら?せっかく学年1位のこの私が教えてあげようと思ったのに」 黒崎「とか言って一緒に勉強したいんだろ?ほら、椅子持ってこいよ」 霧島「ち、違うわよ!」 不良の黒崎君と委員長の霧島さん3 黒崎「はあ〜もう疲れたわ...何で勉強ってこんなつまんねんだよ」 霧島「早いわよ...まだ1時間しか経ってないじゃない」 黒崎「すげえな〜委員長は、真面目で勉強めっちゃできるし、しっかりしてるし」 霧島「ふん、当たり前よ。まあただこの性格のせいで友達全然いないけど...」 黒崎「みんな見る目ねえなあ〜委員長良い奴なのにな〜」 霧島「そ、そうかしら?てっきり黒崎くんは私の事嫌いなのかと思ってたのだけれど」 黒崎「ん、なんで?別に嫌いじゃないけど」 霧島「だっていつもあなたに色々注意とか文句言ってるし...てっきり嫌われてるかと...」 黒崎「そんなしょうもないこと気にしてたの?笑笑やっぱ委員長はおもろいやつだな!」 霧島「う、うるさいわよ!!!」 不良の黒崎君と委員長の霧島さん4 委員長と捨て猫 猫「にゃ〜」 霧島「にゃ〜、にゃ〜にゃにゃにゃ〜?」 黒崎「委員長こんな所でなにしてんの?」 霧島「うわびっくりした!急に出てこないでよ!!」 黒崎「すまん、ってかなんかにゃんにゃん言ってたけどどうしたん」 霧島「な、何もしてないわよ!!」 黒崎「ああ!猫とじゃれてたのか!!にゃんにゃん言ってたからついに頭おかしくなったのかと思ったけどそれなら良かった!」 霧島「う、うるさい!忘れなさいよ!!」 黒崎「あんまり大きい声出すと猫ちゃん怖がっちゃうよ」 猫「シャーッ!!!」 黒崎「よしよ〜しいい子いい子」 猫「シャーッ」 黒崎「痛っ!!」 霧島「どうやらあんたに怒ってたようね」 黒崎「クソ、そこまで分かち合えるほど仲がいいとは...」 霧島「私もあんたを引っ掻くわよ」

エレクトリック (掌編詩小説)

夜を駆け巡る…『エレクトリック』 夜のお供さ 電子機器を駆け巡る…『エレクトリック』 スマホもラジオも引き連れて 脳に埋め込んだチップが共鳴する…『エレクトリック』 創り物だらけの世界で共鳴する 『エレクトリック』がプラネットを形成する (完)

ボス

間田はボスに金を払い続けて娘の延命処置をしていた。 毎月15日が回収日で、ボスはそこまで無理な取り立てはしなかった。 そんな光景を5年ほどみていた。 あの日はその月の15日だった。 間田はその日、ボスに金を払わなかった。 不思議に思った俺はその日、間田に訪ねた。言葉には出さなかったが、もう延命処置は必要なくなったのかと思った。 間田は『ボスを信じるな』と言い、そのまま俺に背を向けた。 翌朝。間田は自室で首を吊って死んでいた。 間田の死体の足には少女の死体が食らいついて間田を地面に引きずり下ろそうとしていた。 間田をあの世に逃がすまいとしているようにも見えた。 俺はあの少女は誰だったのか考える。 なぜなら今俺の目の前には間田の娘が入った延命装置があるからである。

車窓に映る顔

 駅に着くと車内にいた殆どの人が降り、空席が目立つようになった。無意識のうちに足が動き、立っていた扉から斜め前の席に腰を下ろした。  携帯の画面を見る気にもなれず、ぼんやりと前を見る。正面の席には誰も座っておらず、暗い窓に反射した自分の姿があった。ジャンパーはだらしなく胸元まで開いている。顔の部分がねっとりとした泥で塗りつぶされたように見えなくなっていた。窓に頭をもたれた人の整髪剤が、首から上の部分にべったりとついている。  前髪の形すらわからないほどの跡が顔を覆っている。塗りつぶされた顔からは表情を見つけられない。  降車駅に着いた時、自分の顔を忘れた。

ホワイトレンジャー〜怪人!風呂キャンセル界隈の向こう側の乱!!〜後半

…………………… 「あれ?女子たちは?」 「まだかな?」 「いやいや、絶対帰ったろうに。待ち合わせの時間を二時間も過ぎとる」 「まさか脱衣所でナルトダンス大会が行われているとは知らなかったからなぁ。思わず参加しちゃったな!ハハハ」 「ホワイトは踊れてなかったじゃないですか」 「ナルトダンス。しらないってばよ!」 「あの時間はなんじゃったんだ」 女性の悲鳴が聞こえる 三人が急いで声のした方に走っていく パールとアイボリーが倒れていた 「おい!大丈夫か!?」 「だ、大丈夫よ。だけど怪人を逃がしてしまったわ」 「怪人!?怪人が現れたのか?」 「うん、とても汗臭かったわ」 「汗臭いだって?」 「でもそれなら匂いを伝って探し出せるかもしれませんね!」 「よし!博士に言って探してもらおう!」 ホワイトは腕時計型トランシーバーで話しかける 「博士!聞こえますか?今、怪人が出て…」 「大丈夫。話は聞かせてもらったよ。今、レーダーで確認しているとこ」 「怪人の場所が分かったよ。マップのデータを送るね」 ホワイトレンジャー達は怪人のいる場所に駆けつけると そこは繁華街にある地下のライブハウスだった ステージには地下アイドルが歌って踊っている 客席は超満員でアイドル達を応援している でも様子がおかしい 異常に汗臭い匂いをしている きっと怪人に乗っ取られている 客席の男達を黒い影が覆っていく アイドルの悲鳴が聞こえる 怪人!風呂キャンセル界隈があらわれた アイボリーがアイドルを避難させる アイドルが手を振ってステージからはける ホワイトがホワイトガンを構える スノーが物販で買い物をしている 怪人がホワイトに突進する 「風呂上がりの匂いは嫌いだ!」 ホワイトはライブハウスの外までふっとばされる 凶暴化した怪人は逃げ惑う市民を次々に飲み込んでいく このままだと街全体が汗臭くなってしまう 巨大化した怪人が外まで出てきた 「俺は怪人風呂キャンセル界隈だ。風呂上がりのいい匂いのするお前らを汗臭くしてやる!」 「う、すごい匂いだ!」 「ホワイトさん大丈夫ですか!?」 アイドルを避難させてきたアイボリーが戻って来た 「アイボリーその姿はどういう事だ」 アイボリーはアイドルの衣装を来ている 化粧品もしている 「アイドルの控室にあったので着替えてきました」 物販の買い物を終えたスノーが戻って来た 「アイボリーさん。似合いますね」 「そんな。照れちゃいますよ。あまり見ないでください」 「アイボリーさん。僕が『アイボリーちゃーん!』っ言うので『はーい♥』って答えてくれますか?」 「え、そんなこと出来ないです」 「大丈夫!アイボリーさんなら出来るよ!いくよ!アイボリーちゃーん」 「はーい♥」 「何がスキー?」 「あんたら、ずっとなにしてんのー!」 月白がお怒りである 「アイボリーちゃん私のもあるんでしょうね!」 パールと月白が参上 パールと月白が巨大なシャワーの付いた 特大ショベルカーに乗ってきた 「皆乗るのじゃ!」 ホワイトレンジャーがマシンに乗り込む 「怪人風呂キャンセル界隈!シャワーを浴びて出直してこい!これでもくらえ!」 特大ショベルカーの先端に付いたシャワーヘッドから温かいお湯が噴き出る 「や、やめろ!綺麗になってしまう!やめろぉぉ!」 「シャンプーボム発射!」 「うぁぁぁぁ」 …………………… その後は なんだかんだあったが どうにか怪人をやっつけることができた 俺たち五人は戦いを終え打ち上げもそこそこに、それぞれの【仮の生活】に戻っていった ここはショッピングモールの特設ステージ アイドルグループがライブを行っている 客席は買い物ついでに立寄って観ているくらいな様子だが、アイドル達は精一杯頑張っている 「アイボリーちゃーん!」 「はーい♥」 「何がスキー?」 「チョコモナカよりもア・ナ・タ♥」 「パールちゃーん!」 「ふぁ〜い♥♥♥」 「何がスキー?」 「お金とお酒とア・ナ・タ♥」 「月白さーん!」 「ほーい!」 「何がスキー?」 「くず餅よりもお・ぬ・し!」 「怪人!風呂キャンセル界隈の向こう側の乱!!終わり!!!」

ホワイトレンジャー〜怪人!風呂キャンセル界隈の向こう側の乱!!〜

||いつの時代も人々の集まる所には 黒く悲しい思いが生まれるのも… 社会の底に溜まった 人々の黒い思いは 自我の芽を出し 日の目を求めて地上を埋め尽くしていく 怪人となった黒く悲しい思いは 力を増し、数を増やし 悪の組織 ブラックホール団となっていった! このまま日本は黒く染まってしまうのか!|| ……… 【怪人!風呂キャンセル界隈の向こう側の乱!!】 チャポンと音がこだまする ここは銭湯、湯気の中 ホワイトレンジャー達は下町に生き残る庶民の味方、銭湯に来ていた 「やっぱり銭湯はいいもんじゃのう」 「ほんとですね。毎日色々あるけど、銭湯のでっかい湯船に入っていると、何もかも身も心も綺麗さっぱりするんだよなー」 「本当ですね。でも僕はそろそろ出ますよ。熱いのは苦手なんです」 ホワイトレンジャー達は普段は一般市民として生活している 今日は、ブラックホール団との戦いで傷ついた体と心を癒しに銭湯に来ていた スノーが一足先に風呂からあがり扇風機に当たって涼んでいる 少し長めの髪は艶があり美しい 肌は白く筋肉質で生き生きとしている その隣に上がってきたホワイトが腰を下ろす スノーより筋肉質で日に焼けた肌は見るものに逞しさと頼もしさを感じさせる 「ふー!扇風機、涼しいー!」 スノーが買っておいてくれた牛肉瓶を受け取る 「サンキュ!」 ゴクゴクと喉を鳴らせて一気に飲み切る 「っあー!!うめー!」 爽やかな笑顔で笑う彼は日々、怪人と戦っているのに、鬱積した気持ちなど微塵もない眩しく心が輝いている 「よいしょっと」 ホワイトとスノーの前に月白が座る 喜壽(77歳)を迎えた老兵は 枯れ枝のようにしなびている 風呂に入っただけで息が切れ 今もはぁはぁと顔を古いタオルで拭っている シワだらけの顔にある目は光を失ってはいない 誰も彼の若い頃を知らないし、知りたくもないだろうが彼もホワイトやスノーのようだったのだ 誰もが月白のように年を取る だからどのように年を取るのかが大切になってくる 「月白さんこれどうぞ」 「あぁスノーくんありがとう」 「大納言しるこです」 「あっついの来たね!うまいよ!」 「冗談ですよ。こちらどうぞ」 「あっ冗談ね。ごめんごめん。ではいただきます」 「どうですか?新発売らしいですよ。スンドゥブ」 「うん、あっちーし、ピリ辛でうまいよ。もう良いよこれで」 |||その頃銭湯の外では 「男子たちめっちゃ遅くない!?」 「体が冷えちゃいますね」 「だよね!かえろ!」 パールがスタスタ歩きだす 「ま、待ってくださいぃ」 アイボリーが後を追う 夜中に湯上がりの女性が二人で歩いているのは人通りの少ない住宅街の奥の道 二人の後を少し離れたところから追う人影がある 「誰かに後をつけられてますね」 「うん、なんだろう。変態かな?」 二人は駆け足で細い脇道へ入る 家と家の間の空が細い通り 二人を追う人影も走って後を追って角を曲がる 「ストップ!!あんた何なの!?」 パールが仁王立ちで待ち構えていた その脇でアイボリーがホワイトガンを構えている 夜風が二人の髪からはシャンプーのいい香りを漂わせる 人影は霧のように広がり汗臭匂いで二人に襲いかかる 「キャー!!!」 ……………………

今しばらくは同期のままで

 社員食堂の片隅で手作り弁当をつつく同期を見つけた俺は、向かい側の席に座る。 「なんだ、なんだー、溜息ついて! 仕事でやらかしたか?」  彼女は少しムッとしつつも、すぐに軽口として受け流した。きっとそうなると確信しているから、俺も気さくに話しかけられる。 「……だよな。おまえはいつも、全体を見てそつなく進めてたもんな」  彼女と俺は同じ新卒入社で、新人研修では一緒にチームのまとめ役を務めていた。自分から進んでチームの足並みを揃える役をしてくれて好感が持てた。俺としては好感の持てる同期以上の想いを彼女に抱いている。そんな彼女が溜息交じりに昼メシを食べているものだから、軽い感じで声をかけてみたのだ。 「何なら、近いうち飲みに行くか?」  心配半分、下心半分で提案したものの、彼女の返事はノー。交際相手がいるから、異性とのサシ飲みは御法度という答えだった。  そっか……恋人がいるんじゃ、しかたねぇよな。恋人がいると気付かず、アプローチを仕掛けようとした俺の何とマヌケなことよ。  でも、もし……。恋人との関係が上手くいっていないなら――。 「もし……彼氏とのことで悩んでるんだったら、俺じゃダメか?」  後日、彼女が恋人との関係に悩んでいると判明し、俺は気持ちを打ち明けてしまった。彼女の心を自分に向けるには、気持ちをハッキリ伝えるしかないように思えたから。  でも正直なところ、彼女の心がすぐに俺のほうへ向くとは思えなかったし、それは予想通りになった。俺の気持ちには応えられないと。今は新しい恋を始めるつもりはないと。俺の気持ちを真っ直ぐ受け止めたうえで、彼女はそう答えた。  そうだよな。それでいい。そんな彼女だからこそ、好きなんだ。今しばらくは、気の合う同期でいよう。気さくに話せる相手であり続けよう。いつか彼女の心に区切りが付いて、新しい恋を始めようと思うその日まで。

あなたしかいない

「オールバックなんて、おじさんくさいよ」  君の言葉を僕は忘れていない。僕はオールバックをカッコいいと思っているのに。 「中折れ帽? ちょっと渋すぎない?」  君は僕の『カッコいい』をことごとく否定した。忘れていないからな。 「そうね。ロマンスグレーになるくらい歳いったら、解禁してあげる」  その言葉を信じて、白髪染めもせずにここまできた。  そろそろか? まだ早いか? 毎日鏡の前でチェックした。 「もういい感じじゃないの?」  娘の、笑いながらのお墨付きで踏ん切りがついた。  スーツを買った。三つ揃えの、細身で、グレーの渋いやつ。  靴を買った。革の、ちょっと尖った、深い飴色の渋いやつ。  中折れ帽を買った。スーツに合わせたグレーで、群青色のリボンが巻かれた、渋いやつ。  一通り揃ったそれらを、ついニタニタと笑って眺めているのを娘に見られた。恥ずかしい。  お披露目の時が来た。  シャツを着る前に香水を手首の内側へ、半プッシュ。つけすぎると、また「くさっ」と言われちゃうからね。  両手首をこすり合わせてから、脇腹へ塗りつける。  念入りにアイロンをかけた真白いワイシャツを着る。一つ一つボタンを留めた。  スーツのボトムをするりと履き、ワイシャツの裾を入れつつ、ベルトで締める。  ここでようやく髪のセットだ。待ち焦がれたオールバック。ジェルをたっぷり手に取り、髪をかき上げながら塗る。  コームで、さくりさくりと整えていく。 「……やっぱりカッコいいじゃないか」  軽く唇を尖らせる。これを見て、君が認識を新たにするのを期待する。  手に残ったジェルを洗い落とし、ちょっと苦手なカフスボタンを留めた。  次にベストだ。腕を通すと、なんだか背筋が伸びる。よしよし、と内心ほくそ笑んで、ボタンを留める。  次いでネクタイだ。ワインレッドの、やっぱり渋いやつ。ウインザーノットで結ぶ。  先端をきっちりベストに押し込んで、いよいよジャケットだ。  少し気取って、大きな動作で羽織る。  裾がさっき使ったジェルのボトルを倒してしまった。やるんじゃなかった。しまらない。  だが出来上がったこの姿を見よ。  どこからどう見てもカッコいいだろう?  二度、三度角度を変えて鏡に映す。  すると、 「デートの日の準備は順調?」 娘がひょっこり顔を出す。 「ああ、完璧だ」  からかうように笑う娘に、真顔で頷いて見せる。あとは……。  中折れ帽を手に取る。  オールバックを崩さないよう、前から被る。 「カッコいいじゃん」  娘が小さく拍手をする。 「そうだろう?」  ほら、娘には解るようだよ。 「じゃあ、行ってくる」  腕時計を手に取り、左手に巻きつつ、娘に告げる。 「……うん、デート、楽しんできて」  柔らかく笑うその表情、妻、母さんによく似てる。  足を靴べらで滑り込ませた革靴は、ちょうどいい硬さ。何度も履いて歩いて、なじませた甲斐があったというもの。  玄関を出る。  妻との待ち合わせ場所までは三十分ほど電車に乗り、歩いて十五分といったところか。  肩で風を切る感覚が気持ちいい。  電車の中で注目を浴びたような気がした。若者にも通用するカッコよさだと思うぞ。  歩きながら辺りを見渡す。相変わらず静かで、良い所だ。良い、待ち合わせ場所だ。  途中、花屋に寄った。深紅の薔薇を、一本。  キザだとか言うまいな。君に贈るのはこれしか思いつかないんだ。  やがて、着く。 「お待たせ」  中折れ帽を取って、オールバックを見せつけて笑ってみせる。 「今日は特別カッコいいだろう?」  そして一本の薔薇を差し出す。 「今日のデートのために張り込んだんだぞ」  ……花立に差し込む。  こんな日をデートの日と呼ぶのだ。  命日ではなく。

20-20-20の悲劇

 自分最大の資本は、体だ。  特に、目は重要だ。  裸眼で遠くまで見ることができれば、近づいてくる危機に対応できる。  眼鏡をかけなければ生活できない人間なんて、最低の弱者。  睡眠中に異世界転生してしまえば、「目がー目がー」と騒ぎながら逃げ遅れ、マンモスに踏まれてぺしゃんこだ。   「ニ十分に一階、二十秒間、二十フィート先を見る。これだけで、人生勝ち組だ」    ニ十分に一度鳴るアラームが、スマホから響く。  俺はパソコンから目を離し、窓の外を見る。    隣のアパートで、洗濯物を干す女子大生と目が合った。   「きゃー! 変態!」    俺は警察に捕まった。  ニ十分に一回、女子大生の洗濯物を凝視する変態として。  そんなつもりなどなかったが、世間の目は厳しい物だった。    資本を守ることは、なんて難しいんだ。

   reborn

 新しい職場への通勤で久しく通らなかった道を歩く。右手に広がる筈の原っぱは工事現場へと変貌していた。  幼き日々に走り回った青く薫る草地は更地となり、新たに草花を植え付けて園芸博覧会場になるようだ。  消えゆく自然に思いを馳せて歩き進める。現れたインプラント歯科の大看板越しに職場を臨んだ。                         二〇二五年五月一日 Xに投稿

昨日から影が反抗期で困っています

「うわっ、キモっ!」 「え最低」 目覚めも良くて、ヘアセットも上手くいって、肌の調子もいい。気分上々。 なのに、出会い頭に罵倒されて、晴れやかな気分は急降下。 「いやお前じゃなくて。影。なんかキモいぞ」 振り返って影を見れば、たしかに変なポーズをしている。言うなれば、手足をいい感じに曲げて卍みたいになってる。 えキモ。 「なんか、昨日から反抗期なんだよな」 「あー、まあ、あるか。そんな日も」 ないよ。 いやあるけど。ないはずなんだよ。 「レポート終わった?」 「優等生なんでね。一昨日には終わりましたよええ」 「うわ偉すぎ。俺徹夜だべ」 いとも容易く行われる日常会話に乗りはするものの、そんな軽く流せることかね、なんて頭の隅に浮かぶ。 「空きコマ寝るから。起こしてな」 「だる」 「昼飯奢るからさ」 「いいだろう。五分毎に起こしてやる」 「頼む奴ミスった」 信号を待つ間、暇になった目を影に移せば、少し前に流行った、しゃがんで両肘を上に向け腕をクロスさせ、三本指を立てることで、猫の影絵になるあれをしていた。 それ俺がするやつだから。 俺があんまりそういうことしないからって、影が勝手にやるものじゃないから。 なりたかったのか?ネコちゃんに。 「……なんか可愛いことしてんね」 「……」 「あ痛っ」 「おら、青だぞ」 「横暴野郎め」 反抗期ではあるものの、律儀に俺に着いてくるせいで、スライド式にネコちゃんとなった俺の影が追いかけてくる。 純粋に嫌。 「あれって猫以外も作れんのかな」 「さあ。うさぎとかならワンチャン」 なんて言えば、足元の影がゆっくりと形を変え、リアルなうさぎの影を写す。 「うさぎだ」 「うさぎだな」 こいつ、人の形を保たなくてもいいんだ。 「あれは?東京タワー」 もう生き物じゃないじゃん。 「……お、すご」 ゆらゆらと蠢きながら、東京タワーの影が形成されていく。俺の身長くらいに縮められてたけど。 ──────── 「まじ起こせよ」 「起こす起こす」 「マジだからな」 「ハイハイ」 念には念を押されて、それを毎回肯定していればやっと「おやすみ」と言って眠りについた。 毎回起こしてやってるんだから、そろそろ信じて寝ればいいのにと思う。 それにしても。 「どうするかね、お前」 影の反抗期は未だ続いている。 今は逆立ちをしてる。 いつ治るかもわからないし、そもそも治るものなのかもわからない。 わかったのはある程度の意思疎通は取れることと、人の形を保ってなくても影として存在していればいいこと。 本当にそれくらいしかない。 まあわからないことを考えていても仕方ないので、スマホを開いて、適当なリズムゲームを開く。 次の講義まではそこそこ暇がある。 こいつを起こす時間にはアラームを設定しているし、それまではゲームをしながらまったりしようかと思う。 ポチポチと流れてくるノーツに合わせて液晶を叩く。 だんだん興が乗ってきて、鼻歌なんかも歌いながら。 ぬるり、と、冷たいものが足首を這うような感覚がした。 「ヒッ、」 反射的に足を引いて、そちらを見る。 影がいる。 それだけ。 スマホからは上限までmissが続いたせいでゲームオーバーの音が鳴っている。 ──────── 意識の遠くからアラームの音が聞こえて徐々に目が覚める。 ガチ寝をしてしまった。 「すまん、ガチ寝したわ」 アラームが止まる気配がないなぁ、なんて考えながら顔を上げれば、そもそも瑛斗の姿がなかった。 瑛斗のスマホから鳴るアラームを止めて、周囲を見回す。 居ない。 「あれ」 足元を見れば、影だけがそこにいた。 「……お前、なんでそこにいんの」 良くない想像が頭を過ぎる。 多分ホラー色の強いコンテンツの見すぎ。 「なにしてんの」 「ゔわーーーーーーっ!!!!!」 「うるさっ」 普通に瑛斗が背後から話しかけてきた。 「なに、なになになに。さっきいなかったじゃんお前」 「えトイレだけど」 バックバクと暴れ狂う心臓に気付いたのか、影が俺を指さして笑うようなジェスチャーをする。 踏みつけるぞ本当に。 「ビビったァーーー……」 「何にだよ」 「え、本物の瑛斗だよな??」 「本物も何も」 ぺたぺたと触れば、心底嫌そうに顔を顰められた。 聞けば、トイレとおやつを買いに空き教室から出ていたらしい。 俺がアラームで起きそうになかったら、瑛斗の代わりに俺を起こせと影に言っていたとの事。 「影、なんか手出せるんだよ。ほら」 にゅにゅにゅと、黒い手が伸びてくる。 えキモイ。 「……あ痛っ」 「今キモイって思っただろ」 「手が早いのは瑛斗と一緒なんだな」 叩かれた。

拘束 (掌編詩小説)

『私』という人生に拘束されている。 1日は24時間だ その中で自由に使える時間はいくつあるのだろうか 自由なようで、日々のしたくない事に雁字搦めにされる 生きるためにはお金が必要で仕事や家事をしなくちゃいけない だから、したくない事の雁字搦めに感じる したいことが、思うようにできない日々に呪縛を感じる (完)

床下の幽霊

 僕の実家の床下には死体が埋まっているんです。結婚して家を出た叔父さんが住んでいた離れの床下で、今では僕専用の物置部屋になっているので誰も入らないんです。ほとんど漫画や小説、図鑑などを積み上げて自分だけの図書館のようになっていて、帰省するたびにその部屋から好きな本をとって母屋で読んでいました。  先週、帰省した時もいつもと同じように本をとりに行きました。いつもはドアを開けると、夏でもひんやりとした空気が流れてくるのですが、その時は違いました。  生温かい、湿気を帯びた空気でした。  一月の昼過ぎ、カーテンは閉じていました。エアコンのコンセントは味が引っ越した時に抜いています。念のため、電気をつけて確認しましたが色褪せて黄色くなったエアコンは一切呼吸をしていません。  しかしその熱はすぐに消えて、室内はよく知っているひんやりとした温度になっていました。あんな空気はなかったかのように。  僕は嫌な予感がして本も持たずに早く部屋を出ようとしました。しかし、視界の端に見えたんです。あいつの影が。少し背が低く細いあいつの身体が、開いたクローゼットの中で立っているんです。クローゼットの中には、床下に繋がる扉があります。そう、そこからあいつの死体を隠したんです。  あれから、もう六年以上が経ちました。今まで出てこなかったのに、何故今になって出てきたのか、理解ができませんでした。  視界にクローゼットを入れないよう、俯きながら扉に向かおうとしても足が震えて動かず、目を閉じることもできずに、体を硬直させたまま立ち続けました。クローゼットにいるあいつを視界の端に見ながら。  その日の夜、僕は友人と会いました。  僕が学生の時、頭の中で殺して床下に死体を隠した友人です。何度も何度も想像したんです。怪しまれずに二人きりになる方法、殺し方、警察からの事情聴取での発言。殺す準備から友人の捜索が始まるまで、様々な状況を想像したんです。死体の隠し場所は、いつも離れの床下になりました。  僕は何度も何度も想像しました。妄想と現実の区別がつかなくなるほどに。  友人とは、今でも帰省する時には連絡するような気の知れた関係を続けています。

背中を追う、隣を歩く【12】

「――乗る」 ハッとして顔を上げる。 「勝負、したい。……高橋さんと」 朝は笑っていた。 口を閉じて、口角を上げた、お手本のような微笑み。 初めてハッキリと見た笑顔に私は妙に感動していた。 「え、あ、本当に……するの?」 「するよ。今決めた。今更キャンセルなんて出来ないよ」 「し、ししない! するとかありえない!」 「よかった」 気づけば、周囲はすっかり暗くなっていた。 「じゃあ、勝つたびに負けた方が一つお願いを聞くシステムにしよう」 「えっ勝つたびに!? 毎回!?」 「そう。勝負ってそういうものでしょ」 朝はニコニコとしたまま有無を言わせない圧を漂わせている。こいつ意外と性格悪いな。 「わー……かったよ」 「あれ? 弱気になってる」 「なーってない!」 やがて道が二つに分かれるY字路に辿り着く。私は左、朝は右だ。 「じゃあ、また学校で」 「う、うん」 手を振ってそれぞれの帰路へ歩き出す。 とんでもない約束をしてしまった……と苦笑いしながら数歩進んだところで、私は大切なことを思い出した。ラーメン屋にいる時からずっと言おうと思っていたこと。 「ねえ! 齋藤さん!」 夜道に消えかけていた背中に声を張り上げる。 「なに?」 彼女が振り返る。 「私のこと、紬でいいよ! 」 静寂が数秒流れた。やがて返事が届く。 「じゃあ、私のことも朝でいいよ」 「――わかった! 朝、また明日ね!」 「またね、紬ちゃん」 今度こそ、二人の影は別々の方向へと伸びていった。 前置きは少し長くなったけれど、この日から私の、それまでの人生で使い切らなかったすべての感情を燃やし尽くすことになる三年間は幕を開けた。 長い不定期連載になります。 気長に読んでください。  

嘘を売る旅人

その男はコンビニに行くかのような軽装だった。 「面白い話を聞きたくないか?お礼は今晩の宿一泊分でいい」 「すみませんけど当旅館ではご遠慮ください」 僕の家族で経営する小さな旅館は、さびれた山奥で細々と続いていた。 「どうしてこんな山にわざわざ?」 「観光だよ。俺は旅行が好きなんだ」 今時旅行を趣味にする人は珍しい。 「君は自分の足で旅行したことはあるか?君が家にいる間に、君の街を一つ残して、世界中が砂漠になってしまっているかもしれないぞ」 「砂が飛んでこないので嘘ですね」 実は僕は生まれてから今までこの町を出たことがない。しかし、現代においてはVRによって世界中を疑似的に、しかも安価に旅行できる。ここ数十年で急速に廃れた旅行やホテル産業の代わりに、リアルなVR旅行ができるデバイスが充実した。環境のためにも人の移動は推奨されておらず、最近では一度も生まれた街を出ずに一生を終える人も多い。 「この町から二つ山を越えた場所に湖がある」 「ワカサギが釣れるところですよね。VRで行ったことあります」 僕の趣味はVR旅行だ。家の中で多くの経験ができるスマートな趣味だ。 「その湖に実はワカサギはいないんだ。湖は一面が緑色の藻で覆われていて、ヘドロの匂いがする」 「そんなバカな。僕はバーチャル釣りもして、獲得したワカサギを食べたこともあります。隣町の一大産業ですよ」 「あくまでバーチャルの体験と、郵送だろ。実際に俺は湖を見てきたんだ。話を聞いたら、川が流れを変えたせいで湖の水質が変わって魚がいなくなり、湖の臭いに我慢できなくなった住人は引っ越した。住人は綺麗な湖をダシにした地域産業を失ったが、今まで通り綺麗な湖があるフリをすることは簡単だったから別に困らなかった。ワカサギは業者から仕入れて横流しだ。以前のような天然ものじゃないけど、養殖は脂が乗ってて、これはこれで美味い」 「VR旅行は現地の様子を誠実に表している保証がついているんですよ」 「本物の昔の風景だから別に嘘ではないよな。第一、視聴者はだれも確かめないんだから保証する側はよく考えてないと思うぜ。そんなことより、俺はヘドロ湖の魅力的なところに気づいたんだ。山のある洞窟から見下ろすと、湖はまるでエメラルドみたいに綺麗だ。まるで巨人の落としたブローチみたいだ」 物語を語るかのような見事な語り口だった。 「写真とかありますか?」 珍しい美しい風景を見たい。これは時代が移ろっても変わらない人間の性で、旅行が廃れてもバーチャル旅行が流行し続ける理由かもしれない。 「あるよ」 男は写真を僕に手渡した。洞窟をバックにハンカチが結ばれた木の枝が立っている。男はポケットからハンカチを取り出して振る。 「本当なんだ」 「信じなかったのか?バーチャル旅行だけを信じるようじゃだめだ」 僕はスマホでその湖や洞窟のことを調べたが、情報は無かった。 「そりゃ出てこないよ。秘境だからな」 「写真をくれるなら今晩泊めてあげてもいいですよ」 「よかった。もちろん」 僕はその晩、その写真を眺めていた。僕が見るバーチャル空間と現実は実はまるで違うのかもしれない。 「ふわぁ、よく眠れた。ありがとう」 男は翌朝、フロントにやって来た。 「こちらこそ、素敵な写真をありがとうございました。秘境を知れて嬉しいです。あ、そういえば、この写真には湖が映っていませんよね。エメラルドみたいな湖の写真も見せてもらえませんか」 男はしばらく僕の顔を見つめ、言った。 「無いよ。だって湖は枯れてしまっていて、ちっとも美しくないからな」 「えっ」 僕は混乱する。 「いやだって、昨日話してたじゃないですか」 「信じたのか?人から差し出されるものだけを信じるようじゃだめだ。俺が旅を続けられる理由がわかったかい」 男はひらひらと手を振って踵を返す。 「まさか、この写真はAI生成の写真とかですか」 「そうかもな」 「じゃあ詐欺じゃないですか。湖にワカサギはいるんですか?藻に覆われてるんですか?枯れているんですか?嘘なんて最低だ。やっぱり宿泊費を置いて行ってくださいよ」 男は振り返る。 「嘘が最低?何が嘘かも自分でわからないのに?情報と現実は常にどこかズレている。旅人はそのズレを楽しむ。VR旅行で満足している君はただ、美しさや珍しさを見たいだけの偽の旅人さ。君は昨日、美しい湖を信じたんだろ?それで結構じゃないか。美しいものだけを信じるのも幸せだと思うぜ」 僕は理解する。きっと、宿も、服も、食べ物もその良く回る口と小細工じみた写真で煙に巻いてきたのだろう。 「俺は話で人を楽しませているのさ。今はもう過去の娯楽と称される、小説家とでも呼んでもらおうか。昨晩は君と話せて楽しかったよ」 男は旅館を出ていった。僕は追いかけようとして、やはりやめた。男は嘘を売る旅人だった。

息吹

 庭に椿の花が咲いたのを見て、ようやく冬も佳境に入ったのを感じる。私がこの地に移住してきて、もうすぐ三年になるのか。短いというには少し長いけど、長いというにも短すぎた。  あの日は珍しく雪が降っていた。思い出すだけでも凍えてしまいそうになるくらい、寒い朝だった。私はあの日、肩書きも名前も全て捨て、逃げ場所を求めてここへ来たのだった。  私は冬に咲くために生まれてきたのだと、そう言わんとするかのような椿の花の鮮やかさに、これまで幾度も生かされてきた。実際、ここの椿は本当に美しい。これほどに冬が似合う景色を、私は他に知らない。  仄暗く静かな山荘で、私は一人だった。幸い、井戸から新鮮な水は確保できるし、少し歩けば天然の食料だって十分に取れる。建物の中には必要なものがあらかた揃っており、女が一人生き延びるのには十分だった。しばらく人とあっておらず、最後に会話したのはいつだったかあまり思い出せないが、この孤独感すら私にとっては心地よく、優しい時が流れていた。  それでも時々、耐え難い寂しみに胸を焼かれそうになることもある。そんな時は、ただひたすらに窓の外を眺めるのだった。じっくりと解けるように陽が傾いていく様子や、動物たちの鳴き声、風が運ぶ木々の匂い。当然のように隣にあるそんな息遣いが、私を独りでないと教えてくれた。この場所では私が私であることに意味などなく、どこまでも私は自然の一部でしかなかった。  世界が目覚める音がする。透き通った冬の空気を肺に入れ込んで、体の隅々まで行き渡らせる。指の先まで冷たい空気が流れたら、私は今日を生き抜くための準備をする。ただここに存在するためだけに、私は生きている。